南国太平記 直木三十五 2025.12.28.
2025.12.28. 南国太平記
著者 直木三十五(なおきさんじゅうご) 1891~1934。小説家、また脚本家、映画監督。早稲田大学英語科中退。1923年『文藝春秋』の創刊に参加する。『由比根元大殺記』(1929)、『南国太平記』(30~31)が評判となり、流行作家となる
発行日 1930.6.12.~1931.10.17.
発行所 『東京日日』『大阪毎日』
折田夫人のメール
篤姫の江戸行きに付き添ったのは仙波小太郎(16歳で切腹)の父親の仙波ナントカですが名前を忘れました。小太郎は薩摩藩のお家騒動「お由良騒動」に関連して切腹させられ、我が家では「仙波小太郎の濡れ衣切腹」として伝わっていますが、お由良に反対する藩士の謀議に加わってその場で捕まって即切腹となったのですから「濡れ衣」というのは当たらないと思います。ただ、小太郎の妹が岡見に嫁ぎ(孫の1人が仙波を継いで仙波均平・故人)、悔しい思いのまま「濡れ衣」として子孫に語り継がせたのでしょう。子孫といっても私は3代目(曾孫)に過ぎず、この話もそのうち消えるでしょう。尚、直木三十五は「南国太平記」でお由良騒動を題材にして仙波小太郎を主人公にしていますが、これは全く名前を使っただけで、全く違う人物像になっています。
² 呪殺変
「軍勝の秘呪」とは、医術と祈祷とを基礎とした呪詛、調伏術の一種で、口伝玄秘の術を島津家が秘伝。治国平天下への一秘法であって、大悲、大慈の仏心によるものであり、小の虫を殺して、大の虫を助けるというのが調伏の根本精神。残虐な生犠(いけにえ)を神仏に供するのは、その調伏を成就して、多数の人々が幸福になれば、生犠は仏に化すという決心と信念から成り立つ
島津家の兵道家加治木玄白斎は秘法を会得した後隠居して牧仲太郎に譲る
当主斉興の祖父重豪(しげひで)は英傑で洋学者を招聘し、鹿児島の文化に新彩をもたらしたが、そのために多大な金を費消し、窮乏の上隠居。次代の斉宣(なりのぶ)は緊縮財政を取り立て直しを図ろうとしたが、重豪が激怒して、斉興を当主に立てる。斉興は調所笑左衛門を使って黒砂糖の専売、琉球を介しての密貿易で藩財政を急回復させるが、攘夷派で極端な洋学嫌い。その子斉彬は重豪に育てられ、洋学好みで開国論者。幕府は斉彬を登用して対外問題にあたらせようとしたため、斉興は斉彬をよく思わないし、木曾川治水の幕府への恨みもあって、藩論も藩財政の再度の悪化には拒否反応を示す
斉彬の母が死に、斉興の愛妾お由羅の子久光は斉興の下で育てられており、斉彬を調伏して久光に跡を継がせるというのが薩摩大半の輿論(よろん)
七瀬は裁許掛見習・仙波八太郎の妻。斉彬の正室、英姫の侍女。斉彬の次男寛之助(4歳)がに罹患、その看護を仰せつかる。上3人とも同病で夭折
お由羅は護摩壇を設けて、炉の中に様々なものを投げては火焔の頂の破散や音、色、匂いから調伏の成否を判じる
八太郎・七瀬の間には小太郎、綱手、深雪の1男2女がいる
寛之助は、上の子たちと同じように怯えうなされ、七瀬は部屋に妖気を感じ、牧に似た妖怪の面影を見る。寛之助は亡くなり、八太郎は責任を取って七瀬を離別しようとするが、隣長屋の益満の入れ知恵で七瀬と綱手に調所の陰謀を探らせようとする
益満と小太郎は、寛之助の寝所の床下に潜り込んで、牧一派が調伏のために埋めた泥人形を見つけ出す
玄白斎は、牧が臣として幼君を呪うために秘法を用いることを兵道家として許しておけず、牧を追って、直接兵道の極秘は、義の大小によって行うのではなく、不義に与せぬを以てわれらの道と心得よと諫める。それに対し、牧は、「250年前豊公攻め入りの節、火焔の破頂にて和と判じて大功を立てて以来、その偉効を顕現したことはない。徒に秘呪と称せられるのみにて、16代々功を立てたことはない。当兵道は島津家独特の秘法として、御当家二分して相争う折は、正について不正を懲らし、その機に呪法の威力を示して、人々の悪口雑言を醒ますのも、兵道のためにもなる」と反論
両者は平行線、玄白斎も牧が可愛い弟子だけに厳しい対応が出来ないことを悔やむ
仙波八郎太は、泥人形を持って月番家老に直訴するが、斉興の目に触れて閉門、追放に
七瀬と綱手は大坂の調所に潜り込み、悪だくみを暴く。深雪は益満に預けられ、八太郎と小太郎は牧を討とうとする。斉彬派の益満らもお由羅派に対抗して機を窺う
七瀬と綱手は首尾よく大阪の調所の邸に到着するが、調所からいきなり町人の嫁になれと勧められる
牧は、生まれたばかりの斉彬の第4子盛之進を呪殺せんと、比叡山に籠る。そこへ八郎太と小太郎父子が襲い掛かるが、八郎太は返り討ちに会い、小太郎は辛うじて逃げる
妹深雪はお由羅の邸に奉公に上がる
小太郎は、叡山の老僧に助けられ、牧の息子が仙波父子の状況を確認に出掛けるのに一緒について探しに来た綱手に会う。綱手は牧の息子とも知らずに好意を抱き、身を許したばかりか、父の敵を取ってやると言われて仲間だと信じ、国許の同志の名前を伝えてしまう
斉興と調所は10年かけて重豪が費消し尽くした藩財政を密貿易で立て直し、今や幕府相手にも2,3年は戦えるだけの蓄財に成功したが、調所が江戸へ出た際、深雪に惚れたスリに密貿易の秘密書類を盗まれ、益満の手にわたって老中への密告となる
斉彬は、その知らせを聞いて、日本を救うことこそ自らの役目で、そのためにはお家騒動にかかずらわっている暇はないといい、益満を咎めだてせずに宿元下げ渡しに
調所がお由羅に暇乞いに訪れた際、調所から仙波の娘だと見破られ、お由羅に名を偽って奉公に来た理由を問い質されて、発作的に懐剣でお由羅を突こうとするが果たせず、深雪は自らの胸に刺そうとして止められ、調所の配慮で放免される
調所は、茶坊主から大名まで出世し島津家の再興を果たしたことに満足し、自ら密貿易の責任を取って、重豪の仏前で毒を飲む
牧は唯一の庇護者調所を失って秘呪の伝承もこれまでと自暴自棄になって玄白斎との対決に挑む。玄白斎も気配を察して、お互い死力を尽くして闘う
小太郎が元気を回復したのを知って、牧の息子は小太郎に果し合いを申し込む。綱手はお家の敵との契りに悶えながら、2人の決闘を止めに入るが、息子の刃にかかって絶命
牧の息子の通報もあって、斉彬派一派の処分が行われ、主要人物はことごとく切腹
仲の息子から、綱手を手にかけて殺したことを告白された七瀬は、復讐のため果し合いを申し入れる、懐剣を抜くが、返り討ちに合い果てる
久光が鷹狩りに出るとの情報を得た小太郎は、その命を狙うが失敗。久光は処分せず
叡山の八郎太の墓の隣に葬られた綱手の墓に参る牧の息子と、牧を探して山に入った小太郎、父の墓に詣でる深雪が再開、深雪は姉の仇敵を討つ
幕府の再々の譲位要請にも屈しなかった斉興に、久光が鈴をつけて、漸く斉彬の家督相続が実現するが、牧の呪詛によって斉彬もその息子も臨終を迎え、久光が跡を継ぐ
小太郎が牧の修場についた時には牧はほぼ衰亡。骸(むくろ)同様の牧を見て小太郎には、こんな男のために一家を悉く失った敵を討つための2年の間の労苦に対しただ虚しさが沸き上がるのみで、合掌して称名(しょうみょう)する。頭を切り落として薩摩に戻るが、斉彬の死を聞いて愕然とする
西郷、大久保等、斉彬一派は、討幕を成し遂げ、斉彬の遺志を継いで富国の策・回天の業をやり遂げることを誓う
お由羅は、斉彬の死を聞いても、その7人の子を悉く殺してもなお、自分本位に、老衰してくる斉興や斉彬を崇拝している久光にも不安を覚える
斉興は、良心の呵責から焦燥は隠せず、お由羅はもどかしさと憤りを感じる
斉彬の死後は、又斉彬の遺志で斉興が後見となる。久光は斉彬の遺志をつごうとしながら、しばし斉興の周辺のやるがままにさせているが、斉彬一派の軽輩の力がついてくるのを止めようもない
直木三十五作品集(1989.2.15.第1刷発行、文藝春秋) 解説 尾崎秀樹
直木が亡くなったのは1934年2月24日。脊椎カリエスのため入院中に脳膜炎併発、結核性脳膜炎で死去。マスコミは、同時期に亡くなった「憲法の番人」伊東巳代治より何倍もの紙面を費やして病状を伝え、その死を哀悼。「優れた剣豪の悲壮な斬死にも似た」と持ち上げ、直木の人気を象徴するものとして後々まで話題に
病苦に鞭打ち、数多くの作品を書き、忽然として逝った直木に対して、空前絶後ともいえる多くの追悼が寄せられた
菊地寛は、『直木三十五全集』推薦の言葉として、「大衆文学者と言われたが、彼の本領は大歴史小説家で、彼が出でて初めて、日本に歴史小説が存在したと言ってもよい。歴史的事実に立脚して、その事件と人物とを、彼の豊富なる想像と精鋭な描写とによって活かしている」と述べ、横光利一は、「1人、他人の廻る事の出来ぬ遠方の路を迂回し、思いがけない獲物を常にぶら下げて帰ってきた猟師、人の語るよりもなお多くの優れたところを持っていたに違いない。氏は苦しみを現さず、諧謔の裏に生活と人道とを現したが、諧謔そのものの淋しさや寛大さは、氏の言葉の外の人物の深さから出てきていた」と評した
文壇ゴシップの毒舌家として『文藝春秋』誌上で筆を振るった後、『苦楽』の編集に携わり、敵(かたき)討ちものを発表。幸田露伴も日本の小説戯曲の世界文学に対する特色として、復讐を賛美している点を挙げるが、直木は江戸期の物語を10種に分類し、そのいずれにも敵討ち物語が含まれていると指摘
故マキノ省三との聯合映画を解散した後、再上京して筆1本の生活に入り、'29年頃から歴史物に新風をもたらし売れ始め、お由良騒動を素材にした『南国太平記』で成功
『南国太平記』は、仙波一族の苦闘を軸に、背景となる幕末の薩摩藩のお家騒動、上士層と下士層の対立、それに市井の人々の動きまでを絡ませており、社会的な階層矛盾にもまれる登場人物の造形に、それぞれ納得ゆく解釈を加えているあたり、質的な高さを感じさせる。呪詛(じゅそ)の記述を正宗白鳥らが作品の真実性を損なうとして批判したのに対し、島津家に伝わる「軍勝之秘呪」によって呪殺されたと信じられていたものであり、それを近代的に解釈し排除したのでは事実を曲げることになると応酬している
以後亡くなるまでの数年間に、人の何倍かの仕事をこなし、精力的に発言し、行動。'32年には「ファショ」宣言。自ら「戯談(じょうだん)」とすべきものと弁明したが、時局柄政治的色彩を帯び、作家と軍人の親睦団体五日会のメンバーとして動き、国家社会主義を後援
直木の内部には様々な人間がいて、時によって違った顔を見せるが、作家以外の何物でもなかった。歴史のそれぞれの時期を題材とし、広く日本史の諸側面に光を当てようと試みる。大衆文学の可能性を追究し、歴史文学の広がりを開拓した直木の壮絶な生き方をマスコミも「剣豪の悲壮な斬死」に比したのだろう
死後の『文藝春秋』追悼号で菊池寛は、「直木を記念するために、社で直木賞金のようなものを制定し、大衆文芸の新進作家に贈ろうと思っている」といい、翌年直木三十五賞として実現したのは、菊池の友情の証でもある
紀伊国屋書店
出版社内容情報
明治の夜明けも近い幕末、薩摩藩主島津斉興の世子斉彬と、わが子久光を藩主の座につけたいと願う斉興の愛妾お由羅の方との間に激しい抗争が巻き起こる。薩摩の御家騒動を描く、著者の代表作。
内容説明
明治の夜明けも近い幕末、薩摩藩は激動に揺れていた。藩主・島津斉興の世子斉彬と、わが子久光を藩主の座につけたいと願う斉興の愛妾お由羅の方との間に激しい抗争が繰り広げられたのだ。折しも斉彬の江戸屋敷では、子の寛之助が原因不明の熱にうかされていた。これはお由羅の意を受けた兵道家・牧仲太郎が仕掛けた呪いか?権謀術数渦巻く薩摩の「お由羅騒動」。その顛末を描いた、直木三十五の代表作がいま甦る!
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『南国太平記』(なんごくたいへいき)は、1930年(昭和5年)6月12日から1931年(昭和6年)10月17日まで「東京日日」「大阪毎日」に発表された直木三十五の小説(挿絵は石井鶴三)、および本作を原作とした映画作品である。幕末の薩摩藩における内紛(お由羅騒動)を題材としている[1]。小説は大ヒットし、直木の月収は1000円を超えたとされている[2]。
本作を原作に生前、没後を含めて10本の映画がつくられた。直木原作の映画全体の20%を占める。最初の映画化は1931年で、松竹下加茂撮影所作品と東亜キネマ京都撮影所作品が1月10日に同日封切りされるという異常な人気を示した。同年内に5本の『南国太平記』シリーズが競作された。没後の5本を含め、全10作がすべて京都の撮影所で製作されている。
直木 三十五(なおき さんじゅうご、1891年2月12日 - 1934年2月24日)は、日本の小説家、脚本家、映画監督。本名は植村 宗一(うえむら そういち)。弟は東洋史学者の植村清二。エンターテインメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称:直木賞)は、彼に由来する。
来歴
1891年2月12日、現在の大阪市中央区安堂寺町2丁目に生まれる。
父の反対を押して早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。しかし早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念写真の撮影にも参加している。
1920年、久米正雄、吉井勇、田中純、里見弴らによって創刊された『人間』の編集を担当。この当時は本名「植村宗一」を使った。
1923年の関東大震災以後は大阪のプラトン社に勤務し、川口松太郎とともに娯楽雑誌『苦楽』の編集に当たった。以後、次第に時代小説を書くようになる。
1925年、マキノ・プロダクション主催のマキノ省三家に居候する。マキノ省三に取り入って、映画制作集団「聯合映畫藝術家協會」を結成。映画製作にのめりこむ。
1927年、マキノに出資させて製作した映画群が尽く赤字に終わり、「キネマ界児戯に類す。」(映画など子供の遊びだ)と捨て台詞を吐いて映画界から撤退。同年、マキノプロの大作『忠魂義烈 ・實録忠臣蔵』の編集中に失火しマキノ邸が全焼すると、火事場見舞いに訪れた直木はマキノから小遣いを貰ったうえ、「マキノはこれで潰れる。」と喧伝。これがマキノのスタア大量脱退の一因となる[1]。
1929年、『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。『黄門廻国記』は月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。
代表作となったのは、お由羅騒動を描いた『南国太平記』である。これは三田村鳶魚が調べて発表したのを元ネタにしたため三田村が怒り、『大衆文藝評判記』を書いて歴史小説・時代小説家らの無知を批判した。そのため海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子など(いずれも直木賞受賞)の本格的歴史作家が育った。[要出典]
1934年2月24日、結核性脳膜炎により東京帝国大学附属病院で永眠[2][3]。43歳没。
1934年2月26日、東京・内幸町にあった大阪ビルで神式による葬儀が行われた。喪主は長男の昴生が務める予定であったが病気のため出席できなかった。親族のほかには前夫人の香西おりえ、愛人の真館はな子が出席した。式場には出版関係者をはじめ横光利一、三上於菟吉、菊池寛、久米正雄、吉川英治、大仏次郎などの文士ら約600人が出席して別れを惜しんだ[4]。
没後、菊池寛の発意により大衆文学を対象とする文学賞「直木三十五賞」が創設された。
人物像など
名前について
「直木」は「植」の字を分解したもので、「三十五」は年齢を元にしたものである。31歳のときに直木三十一の筆名で『時事新報』に月評を書いたのが文筆活動の始まりで、以降誕生日を迎えるごとに「三十二」、「三十三」と名前を変えていた。
34歳の誕生日を迎えた時、本人は「直木三十四」と書いた。しかし、編集者が勘違いから「直木三十三」と書き直してしまい、当の「直木三十四」はそれを訂正することはせず「直木三十三」を使っていた。しかし「三十三」は字面が良くない、あるいは「さんざん」と読むことができたり「みそそさん」と呼ばれることを本人が嫌ったようで、直木三十五と名を改めた。
それ以降は歳を重ねても改名することはなかった。止めた理由は以下の2説がある。
- 「三十六計逃げるに如かず」と茶化されるのが嫌だった
- 菊池寛から「もういい加減(年齢とともにペンネームを変えることは)やめろ」と忠告された
他に竹林の七賢にちなんだ「竹林賢七」などの筆名もある。
直木の「タニマチ」医師、薄恕一
直木の母方の叔父の親友が、相撲界でパトロンを指す「タニマチ」の語源となった医師薄恕一である。 薄の経営する大阪谷町六丁目「薄病院」に、病弱な直木は幼稚園児のころから通院。19歳のころにはアルバイトで学費も稼ぐなど、物心両面で世話になっている。 このため、直木は作家となった後も薄への感謝を忘れず、自叙伝「死までを語る」で、「薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。」「ほとんど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたからである。」と綴っている[5]。 また、薄は、直木の弟「清二」の名づけ親にもなっている。
直木とマキノ省三
直木は三十三と名乗っていたころ、マキノ省三の家に居候していた。当時中学生だったマキノ雅弘は、なぜ直木が家にいるのか分からなかった。マキノ雅弘は、「小学校三年までしか学校に行っていない父が、直木が早稲田中退というだけで、しかも在学中には自分がファンだった澤田正二郎と同級だったということもあり、直木のことをよく聞いて居候させていたのだろう」と語っている。
このころ直木は朝から晩まで着物をぞろりとひっかけるように着て、雅弘をつかまえると「おい、マサ公。」と決まって用をいいつけた。金もないのに「スリーキャッスル(煙草)を買ってこい。」といい、「おっさん、金がない。」と答えると「盗んで来いッ!」と怒鳴るような人物だった。雅弘は「生意気ながら、早稲田大学中退程度で大した人だとは思わなかった」と語っている。
直木は1925年に菊池寛を頭に連合映画芸術家協会を設立して映画製作に乗り出した。資金は全てマキノ省三に出させていた。映画人からは「作家ゴロ」「映画ゴロ」と陰口をたたかれ、雅弘は「直木三十五って男は活動屋(映画制作関係者の蔑称)のブローカーになり下がった奴で、金が欲しいだけで何も書かない作家だ」と人から教えてもらったという。1926年の『山賊』はマキノプロの施設と資金で撮り、直木はただタイトルを出すだけで金を取っていた。雅弘は「文芸作家協会員と言う人達は、恥ずかしいということを知らない人たちばかりだと真面目に思ったものである」とも述べている。
直木はのちに「大衆文芸同人」と名を改め、連合映画芸術家協会と同じ陣容で『野火』を製作。マキノ雅弘は「大衆文芸同人も聯合映画芸術家協会も、相手は活動屋だとタカをくくって食い物にしていたようだ。連中に振り回されて、マキノは、せいぜいどっかの雑誌屋の宣伝のための映画を客に見せていたのではなかったろうか」としている。
片岡千恵蔵は直木の紹介でマキノに入社するが、直木が初めて脚本を書いたのが千恵蔵主演の『烏組就縛始末記』であり、以来直木と千恵蔵はくっつきすぎていて、マキノ省三は千恵蔵をやや敬遠していた。千恵蔵は翌年マキノを脱退するが、雅弘は「今こそ云えることだが、直木という男は三十五になるまでマキノから銭だけ取って何もしなかった人であり、そんなタカリ専門の男からの個人的な紹介であったことが---当然ながら最初からマキノの不信感を買うことになり---千恵蔵の不幸であった。」とこのスタアの脱退について語っている。
マキノプロの大作『忠魂義烈 ・實録忠臣蔵』は当初直木がどうしても原作を書かせろと云って聞かず、結局は一行も書けなかった。そこでマキノ省三は直木と連合映画芸術家協会からこの作品を切り離すため「實録」と銘打った。直木に反感を持っていたマキノ夫人の知世子もこの「實録」には喜んで協力している。マキノ省三が失火の後病臥しても直木は見舞いもなく、撮影所からぱったり姿を消した。
雅弘は「当時の私たち若いマキノの連中は、とにかく衣笠貞之助、伊藤大輔、二川文太郎、井上金太郎らの先輩に追いつけ、追いつけで、現場で走り回り、がんばったものだった。机の前で字を書いてホンを作り、映画や芝居の河原乞食---つまり私たち---をおだてて金儲けをし、偉くなられた『芸術家』の先生とは同じ志を持たなかった。少なくとも、『芸術』とは読むもんで、見るもんじゃないと私たちは思った」とし、「直木賞ができたときには何やこれと首をかしげた、直木三十三から三十五になってもついに彼の名作らしいものを全く知らなかった愚かな私は現在も続いている直木賞に、いったいどんな値打ちがあるのかと首をかしげずにはいられないのである。」としている[1]。
直木と将棋・囲碁・麻雀
囲碁・将棋好きで知られた。1932年には日本棋院から初段の免状を受けている[6]。ある日、菊池寛のところへタクシーに乗って借財に行き5円を借りたが、タクシーを待たせたまま菊池との将棋に没頭。料金が借財を上回ったため、そのタクシーに乗って別な場所に再び借財に回る逸話を残した[7]。直木のお通夜の席でも式が終わると会場で菊池寛と山本有三が将棋を、豊島与志雄と平凡社員が囲碁を打ち、別れを惜しんだ[6]。また、これとは別に菊池は芝区の旅館で直木が好きだった麻雀にかこつけて追善麻雀大会を開催。後日、警視庁に賭博容疑で検挙されている[8]。
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