明治維新の敗者たち  Michael Wert  2025.9.25.

 2025.9.25. 明治維新の敗者たち 小栗上野介を巡る記憶と歴史

MEIJI RESTORATION LOSERS

Memory and Tokugawa Supporters in Modern Japan          2013

 

著者 Michael Wert マルケット大学(米ウィスコンシン州)歴史学准教授。専門は日本近世史。1997年ジョージ・ワシントン大学卒業(東アジア研究)。2007年カリフォルニア大学で博士号取得(東アジア史)。小栗上野介最期の地、群馬県の倉渕村(現在は群馬県高崎市の一部)の中学校で英語教員を務めたことをきっかけに小栗研究を開始。古武術の馬庭念流と弓道を嗜む

 

訳者 野口良平 1967年生まれ。京都大学文学部卒業。立命館大学大学院文学研究科博士課程修了。京都造形芸術大学非常勤講師。哲学、精神史、言語表現論。著書 『「大菩薩峠」の世界像』(平凡社、2009、第18回橋本峰雄賞)、『幕末的思考』(みすず書房、2017)。訳書 ルイ・メナンド『メタフィジカル・クラブ』(共訳、みすず書房、2011)ほか

 

 

発行日           2019.6.17. 第1刷発行

発行所           みすず書房

 

 

序論——―敗者たちを想起する
これは、敗者たち――主に明治維新で敗れた側に連なる人々について書かれた本

最後の年月に仕えた幕臣たちの大部分は、戦いを生き残ったが、旧徳川の人々と新政府の間の緊張が緩和された時期でさえ、維新に関する支配的な語りが敗者側への共感に支えられることはなかった。明治期の格言「勝てば官軍、負ければ賊軍」は、この2項対立をよく表現している。「力は正義を生む」「勝者の正義」の等価物ともいえるが、旧幕臣とその支援者たちは、この物差しをたやすくは受け入れず、自分たちの「遺産(レガシー)」への矜持を、日記、伝記、弁護論的歴史叙述、そして記念=顕彰活動を通じて表現した

とりわけ関心を抱いたのは、小栗上野介忠順(ただまさ)、井伊直弼、新選組、会津武士

特に、薩長勢との戦いを主唱した小栗が、その死後に被った曲解の歴史は、私の叙述に脈絡(スレッド)を提供する。小栗の悪評を簡潔に要約したのが、「維新後に処刑されたただ1人の幕府吏僚」。小栗の刑死は、同時代人に衝撃を与え、その後の「小栗語り」(小栗にまつわる歴史や逸話の恣意的な利用を含む語り)を特徴づけた

明治維新の敗者たちの擁護者を自称する「メモリー・アクティヴィスト」の大半は、地元の、そして国全体のアイデンティティーにとって重要だと信じられている歴史上の人物の支援に踏み切った地方の人士である

維新の諸事件についての一般的通念の形成に際して、司馬が果たした役割は甚大で、それに相当する現象を西洋に見出すことはできない。司馬の見解は時とともに変化するが、歴史の流れの中に自らの生きる道を見出そうとする周縁的人物、劣位の人々、そして庶民を称賛する点では一貫している。彼は、歴史と文学の境界線を曖昧にした知識人の最たる例

本書における中心的主張は、メモリー・アクティヴィストによる地域の記念=顕彰活動が、明治維新に関するその土地での、さらには国レヴェルでの解釈を時とともに変化させてきたということ。維新に対する国レヴェルでの解釈と地域での解釈とが出会い、互いに変容をもたらす中間地帯を考察する

記憶研究では、アクティヴィストたちが、メモリー・ランドスケープ(記憶の風景)の中で彼等のヒーローをより大きな「風景」の中に位置づけることにより、歴史的人物についての評判が価値観と信念を共有する聴衆を見出し、集合的記憶を維持することになる

1章では、どのような理由で小栗が広範な人々に記念=顕彰されるようなユニークな人物になったかを告げる諸事例を提示

2章は、明治期における歴史の産出というより大きな文脈の中で、小栗、井伊、そして徳川の家臣に関する最初期の歴史的記憶の概要を辿る

3章では、メモリー・アクティヴィストたちが過去を現在に繋留する物の創造によって、維新についてのオルタナティヴな語りをどのように思い描いたのかを理解すべく努める

4章は、維新の敗者たちを中心に据えた戦後大衆文化のレンズを通して、また戦後における地方のメモリー・アクティヴィズムの盛行を通じて、如何にして日本人が第2次大戦の経験に立ち向かったかを扱う

最終章では、如何にして小栗のメモリー・アクティヴィストたちが、徳川家の子孫、職業的歴史研究者、さらに別の殉職者の復権を目論んでいたよその土地のメモリー・アクティヴィストたちとネットワークを固めていったかを示す

 

第一章     最後の旗本

この章の目標は、小栗についての歴史的理解を共有するための基礎的データを提示するとともに、なぜメモリー・アクティヴィストたちが、語るに値する魅力的な人物像を小栗のうちに見出したのかを明らかにすること

小栗の日記と家計簿が偶然発見されたのは1956年。東山道軍に没収され、岩鼻県知事に受け渡され、80年後に県職員の孫によって発見され、大半は18681月から彼の処刑の4日前までの、日々の事柄を書き留めたもの

小栗家は徳川家と密接な関係にある。3,4代の当主は家康に仕え、姉川の合戦では家康の命を救っている。嫡子に代々受け継がれている「又一」の名は、各戦場で「また一番槍か」との評判が立ったところから、家康が小栗にその名を与えたという

江戸末期の小栗家の知行は旗本の筆頭格にあり、11ヵ村2700石。最大だったのが高橋村、次いで権田村(いずれも上総国)

忠順は、昌平黌の教授となる安積艮斎の影響を受けて育ち、安積の異国嫌いを良しとはしなかったが、海軍の存在が不可欠との認識を共有

最初の重要な任務は、1859年井伊直弼によって監察(目付)に任命されたこと

その後は、外国奉行に同行して外交交渉に関与することが多い

1860年の遣米使節団での彼の最大の貢献は、フィラデルフィア造幣局で、不当な通貨交換レートの再査定を要求したこと

翌年帰国後、外国奉行となり、最初の仕事がロシアによる対馬租借要求に対し、イギリスの側面支援を得て却下

1862年には勘定奉行として、強硬派による幕政改革に乗り出す。歩兵奉行を兼ね、西洋式に歩兵を再編して陸軍を改革。公武合体に反対、京都より種々の干渉があるのみならず、大名の発言にも遠慮がなくなってきたことに憤慨したため、名指しで暗殺の企ても出て免職となり、後の将軍慶喜との不和のもととなる

独自の造船技術を身につけようと建設した乾ドックを備えた横須賀製鉄所は、鉄の国に転換した時代の印として称賛の対象となっているが、同時に財政的・技術的援助をフランスに過度に依存したことで日本の主権を小栗が脅かした好例でもあった。造船所は8隻建造、11隻が建造中だったが、小栗の刑死までには完成していなかった

かつての家僕で油・砂糖商に転じた三井グループを切り盛りすることになる美野川利八(後に三野村利左衛門)を利用して互恵的なビジネス関係を築き、彼らを儲けさせる一方で幕府への資金援助を強制したが、それがインフレの深刻化で苦しむ江戸市民の怒りを買い、暗殺の脅威が高まる

軍事組織の改革も断行。海軍奉行も兼ね、フランスの軍事顧問を利用しつつ江戸の薩摩屋敷襲撃を計画。鳥羽伏見の後は、江戸の軍事的防衛に賛成する幕臣一派の先頭に立ち、無血開城を主導する勝と対立。慶喜が軍事衝突を拒絶し、小栗は歩兵奉行職を解かれる。徳川家の将軍が直接臣下を解職するというのは前代未聞

江戸退去後の小栗は、国内政治の混乱は外国勢力に乗じられるだけだとし、権田村に隠棲を決意。家族は会津に脱出。会津藩士秋月悌次郎が面倒を見た。三野村は小栗に米国への避難を勧め、金銭的な援助を申し出たが、小栗は拒否。その代わり妻子の事を頼むと言い、三野村は小栗の処刑後数十年にわたって小栗家の女性たちを支援

小栗は、江戸退去の嘆願書を提出し受理され、権田村の若い者の教育に

関東平野全域は、1783年の浅間山の大噴火に続く4年間の飢饉に見舞われ、一旦持ち直すが、1830年代には更なる飢饉がもたらされ、離村や無法者の乱入などで混乱。ようやく地域の再編、住民の定着が始まっていた

東山道を進軍する新政府軍に対し、碓氷峠に迎撃のカノン砲が据えられたが、一部旗本や大部分の村人たちの抵抗に遭って、計画は挫折。100人ほどが小栗と共に戦ったが、暴徒の鎮圧には成功したものの、正規軍が到達して軍事権と行政権を確立すると、高崎藩主も恭順。新政府軍は反逆者として小栗の逮捕を命じ、即刻処刑

1970年代に小栗を学位論文の主題に取り上げようとした米国人の日本史研究者がいたが、正当に扱うには情報量が少なすぎるとの理由で実現せず。最大の功績とされる横須賀の事業についても、日本に利害関係を強制しようとしたフランス公使ロシュの考えと見る歴史学者もいて、評価が定まらない

小栗の生涯と経歴のいくつかの局面は、単に逸話を通してのみ知られている

小栗についての伝記的回想は、小栗の偉大さを人々に思い起こさせるだけではなく、彼を嫌う人々に抱かれていた怒りの感覚を伝えてもいる。歴史の偶然と、幕末史の決定的局面における小栗自身の政策努力との組み合わせにより、後に小栗は、幕末期の数年間を論評し、研究する人々から重んじられるようになった。小栗の役割がプラスマイナスいずれに解釈されるかは、ひとえに語り手とその意図、さらに歴史的文脈の変異とに依拠している

 

第二章 明治期につくられた徳川ヒーロー

徳川の家臣たちは、維新の転換期を通じて苦難を経験したが、中には文筆の世界での成功を追求して、明治政府を批判し続けたジャーナリストもいたが、それは最早徳川への忠義からではなかった。明治政府が促進した新手の歴史語りは、旧徳川政権とその支持者に対して、よくて時代遅れ、悪ければ朝敵の刻印を与えた。それを受けて旧幕府人は彼ら自身の物語を創造。近代日本の成立における徳川幕府の役割を例証すべく、小栗の「遺産」を、明治寡頭制、及び新政府で働く元同僚の両方を批判する武器として用い、小栗を殉教者に変貌させる。小栗の存在は、同時に幕府創設者の家康との縁故に結ばれた三河武士としても好都合であり、徳川ゆかりの人々を1つに結び付ける上で理想的なヒーローの役割を演じさせ、小栗の名誉回復を通じて、徳川の「敗者たち」は、社会に対する自分たちの価値の回復と、歴史における自分たちの役割の明確化を要求した

最も影響力を振るった小栗伝は、小栗の殺された地域の有力者で、民友社に合流した塚越芳太郎によって書かれたもので、国民的ヒーローとしての小栗の名を高からしめた。その基礎になったのが地元での口承記憶。文字に媒介された記憶は当初、ほぼ全国レヴェルのもので、1890年代を通して地方各地でも現れたが、その後でもなお口承記憶は長く持続

第1節     ナショナルな歴史叙述における維新の想起

1869年勅令は、官製の正史の必要を強調したが、周縁からは、漢文での記述は勿論、存在してもいなかった古代のヒーローたちを歴史の対象として扱う事にも懐疑的。20年後に『復古記』として完成したが、公刊は1931

新聞報道の世界では、草創期20もあった新聞は圧倒的に政治的であり、親=幕府的で新政府を批判。殺された人の報道は常に行われたが、数字は曖昧で、名前が記されることは稀、小栗と近藤勇は例外。小栗は彼に向けられた土民の一揆の犠牲者の扱いだった

新聞が取り上げたのは小栗の死後。小栗家が提供した資料では、取り調べも受けることなく処刑されたことが強調され、当代きってのジャーナリスト福地源一郎も武力解決策を共有した元上司小栗の死を、「帝国はかけがえのない人物を失った」と論評し、後年小栗の最も強力な名誉回復者の1人となる

小栗について最も多く論評を行った福地、福沢、勝海舟、栗本鋤雲などに共通するのは、藩閥政府への批判であり、大衆的な文芸ジャーナリズムの急速な発展に乗った伝記的著作ブームの中で幕府最後の数年間の名誉回復を行う書物を刊行

小栗を知り、尊敬するが故に小栗を称えた人々もいた。その代表が元部下の木村芥舟(喜毅)で、重要な幕府役人88人の中に小栗の名を挙げ、歴史における個人の役割を重視

戸川残花編集の『旧幕府』でも、歴史の真実を窺う長大な視野のもとに小栗を位置付け、歴史の恣意性を引き合いに出して、同時代の歴史叙述に於て小栗が無視されていると主張

幕末期の最も進歩的な政治家は井伊直弼と水野忠邦。小栗はそれに匹敵、特に財政家としての傑出した才能をその根拠に挙げている

1901年刊行の『少年読本』でも諸価値の見本として小栗が取り上げられ、不屈さ、意志の固さ、有能さを謳い、幕府の財政問題に対する万能薬として紹介、徳川日本が進歩的な要素を持っていた可能性に目を開かせようとした

地方独自の視点から小栗を見るという塚越の方法(伝記)は、1890年代を通じて地域史の中に明確に取り込まれたが、村の知識層が小栗との関わりから恩恵を受けて余りあると信じていたことを示唆。さらには、地元で出版された『近世上毛偉人伝』(1893)に加え、教育的文脈においても姿を現し、郷土の歴史地理に関する補助教材に採り上げられた

 

第2節     小栗と、維新後の上野国における伝説

維新後、地方で活用し得る小栗の「遺産」は、噂、迷信、伝説の領域に制限されていた

関東地方の複雑な行政区分の整理に苦しんだ新政府は、小栗らの旧幕臣を標的に弾圧を持って臨み、上野の人々と小栗を不当に扱うが、鎮圧は完全に失敗

小栗の「遺産」が永久的に結び付けられたのがお宝伝説。1868年から始まり、小栗が勘定奉行だったところから、莫大な金を持って権田村に隠棲してきたという埋蔵金伝説

 

結論

全国レヴェルで見れば、小栗について語ること、もしくはその評価を定めることに私的な関心を抱いたのは、旧徳川の人々のコミュニティのみ。1890年代~90年代初頭に、栗本、福地、福沢、勝のような人々が相次いで世を去ると、小栗への関心は衰えていった

代わって、小栗をよく知る人々によって、個人的かつ地縁的に書き記され、地方のヒーローとして名を広めていく役割を地元の人々が担うようになる。大正時代になって、横須賀海軍基地50周年祭が、小栗に関する潜在的な「記憶の場」として顕在化し復権を果たす

地方起源の口承記憶、及び文字を介した記憶の両方が、東京と関東平野を超えていく「小栗遺産」の広がりを後に条件づけることになる

 

第三章 悪者の救済

186890年にかけて確立された、文字を介した記憶は、小栗にどのような利用のされ方がありえたかを決定づけた。旧徳川的価値の模範として、国際主義者として、進歩主義者として、惜しむべき悲運の人物として利用されたが、メモリー・アクティヴィストたちが、そうした集合的記憶の風景をどのようにして創り出していったのかを探る

文字以上に集合的記憶を強化するのが記念=顕彰活動であり、一例として1889年の江戸開府300年祭式典は、新政府による歴史と記憶の専有に対し、徳川の「遺産」の支援者たちが有形の記念事業を活用して挑戦したものであり、横浜開港50年祭(1909)での井伊の記念や横須賀50年祭(1915)での小栗の記念は、この2人に全国的な注目を集めさせ、支配的だった薩長的な維新史観への論争を巻き起こさせた

記念=顕彰活動の典型である銅像建造は、近代的国民国家を建設した人々の価値を定める「記憶の場」との創設として開始され、横浜掃部山公園の井伊の銅像は地元に脅威をもたらしたが、祝賀行事が終わると、横浜はもとの1地方都市に戻り、井伊の銅像は最早国家の諸目標と齟齬を来すものではなくなった。西郷の銅像も、東京では維新政府の権力を牽引していた同僚として、牙を抜かれた側面のみを支持した浴衣を身にまとったものとなる一方、故郷鹿児島では洋式軍服で正装した西郷像が建てられ、維新史における彼の遺産についての地元の見方を披歴している

海軍と地方自治体による横須賀50年祭は、海軍への小栗の貢献を顕彰するものとなり、時の首相大隈重信により小栗の名誉が回復された。大隈と小栗家の関係は、2番目の妻が小栗の従妹で、小栗の妻女を三野村の許から引き取っている。海軍への貢献という一事をもって小栗を称賛するのみだった海軍の刊行物と異なり、横須賀の歴史家たちによる著作は、記念祭をきっかけにして、論議の的とされる小栗の過去そのものを復元してみせる

横須賀記念祭は群馬県の歴史家に、地元での小栗振興の動機付けを与える

地元出身の海軍将官の呼び掛けで、ヴェルニーと共に小栗の胸像が横須賀諏訪公園に建造され、大正皇后からの御手許金の下賜が、赦免が済んだことを証立てた

埼玉も加わって、それぞれ独自の仕方で郷土のヒーローの役に当て、それぞれのアクティヴィストの間に競争を引き起こし、日本全国のお宝ハンターから不本意な注目を集める

アクティヴィストたちは、死後の位階の追求によって小栗の名誉回復の完成を願う

海軍からの申請は盡く却下されたが、維新60周年の1928年には多くの徳川寄りの著作が書かれる中、群馬県知事からの贈位への請願も退けられ、1944年群馬県議会議長が最後の運動の先頭に立つが結実せず

井伊直弼も松平容保も死後の贈位が実現しており、小栗への扱いの不均衡が際立つ

維新60年債は、幕末ブームを引き起こし、小栗の人気は史上最高に達する。多作な法学者で小栗の遠戚にあたる蜷川新が小栗の記念に関わり始めて注目度がアップ。彼による小栗伝は、「敗者の歴史」の復興であり、小栗の国家への尽力を強調することによって小栗物語に最新式の歴史叙述を与える

1931年、地元倉田・烏淵(うぶち)両村が小栗記念碑建立に動き、「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」の碑銘で、処刑地の近くに建立。村人たちが、人民のための神として地域を守護したことに向けられた小栗への感謝が込められていた

小栗を正当に表象=代理し得るのは誰かを巡り、いくつかの都道府県の住民の間で競争が起こったのは192030年代。特に、小栗家初代によって寺が再建され4代目まで埋葬された埼玉の普門院は、1935年岡田啓介首相まで巻き込んで記念碑を建立し、正統性を主張するが、群馬は亡骸を葬ってあることを理由に自らの正統性を主張

歴史的記録の欠落が物語の捏造を促し、お宝ハンターが暗躍する結果を招く

小栗本家は第2次大戦後、小栗遺産に関する普門院の目論見への懸念を募らせ、両者の関係が悪化、普門院も戦前ほど熱心に小栗を宣伝することはなくなる。小栗祭も1940年代で終わる

 

結論

小栗遺産がブームとなったのは、192040年代、地方と国の集合的記憶の構造が相互作用を起こしたことによってだった

群馬の支援者たちの小栗への贈位運動は無駄骨に終わったが、この活動を通じて生み出された言説は地元の記憶における小栗の重要性を強めた。柳田國男以来、日本人のアイデンティティーを定義する歴史の宝庫として地方の民間の説話や地元のヒーローを掘り起こしたが、井伊と小栗の場合が例証するのは、国家的祝典に於いても地方で作られた言説が存在していたこと。地方の人々も、歴史的記憶についての支配的な物語を利用しつつ、それと衝突することもない、彼ら独自の地域的なアイデンティティーを組み立てていった

 

第四章 戦後つくり直された維新の敗者たち

戦時期は、歴史的記憶及び記念=顕彰の関心を2つの点で劇的に移動させた

1つは、日本の敗戦が、明治帝国の夢の敗北を意味したこと。ヒーローを定義する価値基準が変わっていた

もう1つは、地方を活性化する政府の努力は、メモリー・アクティヴィストたちに、維新の出来事に対する彼らの解釈を国の場面に投影する新たな機会を与えた。市町村の合併を通じて、新たな地域アイデンティティーを支える新たな集合的記憶の存在を要請

権田村は倉田村になり、倉渕村へと変貌

戦後のほとんどの歴史学派において、明治維新はファシズム、暴力、戦争状態への日本の推移を説明する上で根本的な主題になった

井伊直弼は、大衆文学、歌舞妓、映画、テレビにおいて、戦後初めて再評価を受けた明治維新の敗者で、小栗と同様、井伊の復権は、全国的な大衆文化と地方主義の隔たりを埋めようとする形で行われた。死と戦争は、井伊に関する戦後のフィクションの2大テーマ

舟橋聖一の『花の生涯』は、歌舞妓やNHKの大河ドラマとなって大衆に受け入れられた

小栗の場合、初めてフィクションの形で大衆文学に登場したのが井伏鱒二の『普門院さん』。普門院の院主が小栗の処刑者に行ったインタビューを語り直した作品(1949年発表)で、小栗の人格への井伏の深い敬意と、「勝てば官軍」式の態度への不満とを物語っているが、地域のメモリー・アクティヴィズムが全国に向けた小栗の見せ方に影響され、版を重ねるごとに井伏の短篇に変化が生じ、普門院から群馬の東善寺へと中心が移動している

戦後の時代劇映画も、敗戦の記憶を保ちながら維新を語り直している。GHQが検閲を通して、以前の主題群を排除したため、制作には厳しい制限がかかった。時代劇映画が、歴史小説の如く、その制作者たちや作家たちが歴史的な諸事件のレンズを通して現代の諸問題を注釈する場としての性格を取り戻したのは、占領期が終わってから

1960年代以降、司馬遼太郎ほどに明治維新に対する人々の想像力に影響を及ぼした小説家は皆無。彼の文章は、特に坂本龍馬や新選組隊士に関する人々の見解に甚大な影響をもたらした。小栗に関する司馬の見解が、メモリー・アクティヴィストたちの活動の活発化に伴い、1980年代を境に、否定的から肯定的へと変化しているのは興味深い

司馬は『竜馬がゆく』の中で、小栗を日本の半植民地化への道を開いたとして、幕臣の中でもとりわけ罪深いという議論を展開していたが、数十年に及ぶ群馬のメモリー・アクティヴィストたちの集中的活動を通じて、国際主義社および近代的経済人としての小栗像が復活したのちに漸く、司馬の文章にもより肯定的な観点の小栗が登場するようになった

1955年、町村合併で倉淵村が誕生した際、小栗は村のアイデンティティーの統合にとって重要な機能を果たす。池波正太郎も食わず嫌いで小栗見ていたが、アクティヴィストたちの影響もあって『戦国と幕末―乱世の男たち』では転向を遂げている。1937年の火災で東善寺の大半が焼失、小栗のわずかに残された遺品も損傷、小栗家そのものも存亡の危機にあったが、アクティヴィストたちの支援により東京から疎開してきた遺族を助けた

戦後は、「上毛かるた」で地元の地理や産物、偉人を紹介するが、小栗はGHQの検閲に引っ掛かる恐れがあったため、別に「雷(らい)と空風(からっかぜ) 義理人情」の読み札で、やくざの国定忠治や尊皇家の武士高山彦九郎とともに採り上げた。「ら」と「い」(伊香保温泉 日本の名湯)はともに箱の中で絵札・読み札とも常つねにいちばん上に置おくことになっていて、そのために「い」と「ら」だけ赤あかくしてある。同時に、小栗を一番上の札に持ってきたのは、いずれ小栗を復活させるという気持ちを札に込めている

1960年の日米修好条約調印100周年と、1965年の横須賀造船所建設100周年、さらには小栗没後100年祭や維新100年記念祭に向け顕彰事業をエスカレート

1981年、横須賀と倉淵が姉妹都市となったのも小栗が取り持った縁で、両都市が協力して小栗遺産を通じた文化的交流を深めることが期待された。はまゆう山荘は倉淵が提供した土地に横須賀市が総工費17億円で建てた山岳リゾート

東善寺境内の小栗公遺品館には地元権田以外からも多くの遺品が集まる

 

結論

国レヴェルで見れば、小栗の相対的人気は戦時期を生き残ることが出来なかった

戦時期を通じて小栗は、幕府の保守的な諸側面をよりはっきりと代表する存在になった

井伏の短篇小説は群馬に拠点を移していた地元のアクティヴィストたちを語り直したもの

統一された倉淵村が統一的なアイデンティティーを必要としていたことを奇貨として、村ぐるみの小栗顕彰会を創設。県からの援助と日本中に広がる「ふるさと」への関心の高まりに乗って小栗の記念活動は村から外へも拡散、銘板や記念碑、銅像などを群馬、新潟、福島にも設置。平成期の日本で小栗が全国的なヒーローになるための土台となった

 

第五章 「失われた一〇年」の小栗と新しいヒーローたち

毎年5月の小栗処刑の日には、東善寺境内でお祭り

横須賀開港150年祭のマスコットキャラクター「オグリン」も参加

明治維新の敗者たちは、日本の現在の諸問題の淵源としばしば見做されているような、明治政府によって敷かれたコースに対するオルタナティヴを表象するがゆえに、第一線の場所に浮上してきている。小栗、井伊、新選組、会津藩士といった新たなヒーローの誕生は、平成期における記憶の2大潮流の要素をなす。1つは第2次大戦の記憶と記念に対するグローバルな関心の高まりであり、もう1つは初期近代に対するノスタルジー

戦争の記憶に関する懸念は、1868年の戊辰戦争に淵源があり、小栗のメモリー・アクティヴィストたちが謝罪を要求することは困難だが、戊辰戦争の記念=顕彰を通して、歴史と謝罪に関する同様の議論を、国レヴェルに効力を持つ形で再創造し得る。過去の侵略行為に対して謝罪すべきかどうか、過去を用いて現在の諸問題への対処策を考える

戊辰戦争に最も関与している当事者は会津と長州。萩市の人々は、維新100年祭以降、数々の記念祭の機会を捉えて、会津若松市との間に姉妹都市関係を築こうとしたが会津は総て拒絶。’07年、安倍首相が会津での候補者の応援演説を「ご迷惑をおかけした」先輩を謝罪するところから始めた。市民ベースでは1996年から両地のメモリー・アクティヴィストたちの交流が始まる。秋田・角館で行われた戊辰戦争130年記念討論会は、戊辰戦争の記念日に敗者側による初の大規模なイベント

会津と長州の接近が進んだとしても簡単には仲直りしないという和解の難しさは、第2次大戦に関するアジア人の記憶に残る、勝者と敗者の2分法を理解する助けになる。中国や韓国が日本への接近を強めたとしても、日本の暴力的な過去を忘れはしないだろう

1990年代に小栗埋蔵金への関心が再浮上。山梨や赤城山での発掘が再開され、TBS20%の驚異的視聴率を誇る番組「ギミア・ぶれいく」で199096年の赤城山での採掘を特集、小栗が脚光を浴びることに

小栗に関するもっとも影響力のある語り直しは、1980年代後半の坂本藤良著『小栗上野介の生涯』(1987)と、司馬遼太郎著『明治という国家』(1989)。坂本は、小栗を近代経営、近代的会計導入の功績者と認め、司馬は明治日本の父たちの1人としている

歴史小説家の童門冬二も、小栗物語の最初の連載を群馬と神奈川の新聞。改訂版を出すたびに群馬に関する紹介を入れ読者層を広げているし、小栗関係のテレビ番組でも活躍

1999年、群馬県知事がNHK会長に小栗を大河ドラマに取り上げるよう陳情。NHK’02年の《その時歴史は動いた》で小栗を取り上げ、「1本のねじから日本の近代化は始まった」とサブタイトルをつけ、日本を木の国から鉄の国へと変貌させた物語を想起。続いて翌年正月には《またも辞めたか亭主殿》で陳情が実る。NHKのプロデューサーが取り上げた裏には、明治維新についての支配的な物語への対抗軸を体現するという意図もあったようだ

木村直巳の漫画『天涯の武士』(2005年連載開始)は、坂本の小栗伝を読んで、自分の知っている維新との違いに衝撃を受けて書かれたもの

小栗の歴史的記憶、和解、ファンシップが最高潮に達したのは、2008年、現在はYMCAになっている小栗の旧屋敷址に近い明治大学でのこと。小栗ファンが徳川18代当主の恒孝に小栗との和解を持ち掛け、駿河台の小栗の生地近くの明治大学博物館で〈小栗上野介企画展〉を開催。恒孝によれば、「維新は平和裡の政権移譲であり、小栗は徳川幕府が倒れなかったという事実にもかかわらず殺された」との新しい解釈を提示

 

結論

小栗及び戊辰戦争の記念=顕彰は、正当化の過程

童門や村上、星ら名士の参加で、全国的な注目度が上がるだけでなく、メディアも小栗を取り上げる時は、彼らを探し出す

1990年代、『NOと言える日本』の刊行を受け村上は、フィラデルフィア造幣局での小栗を、アメリカに対してノーと言った事実上最初の日本人だと論じ、一般に流布

小栗の復権は、マスメディアに加え、小さいながらも重要な記憶の場所で行われている。'03年、高校日本史の教科書で初めて普通教育の教材に登場(清水書院刊)。横須賀の建設は、彼が日本(幕府だけでなく)には海軍基地が必要だと信じたからと説明され、教師用の手引きには、小栗の伝記が収められ、「近年小栗はその合理的な経営方式、政治、その政策に具現された長期的な展望、それにそのライフスタイルによって称賛されている」、とある

村上 泰賢(むらかみ たいけん、1941 - )は、日本の曹洞宗東善寺住職。小栗上野介顕彰会理事、「小栗上野介忠順」研究の第一人者

亮一(ほし りょういち、1935昭和10年〉516 - 2021令和3年〉1231)は、日本の小説家東北史学会会員。専攻は日本近現代史。福島民報社に入社。「会津若松史」の編纂事業に参加。、戊辰戦争研究会を発足させ主宰

 

結論——―意味のある風景へ

2005年、倉淵村の体育館で、小栗物語を朗誦していたのは、横須賀から来た武士風の裃をまとった一団。改革者としての小栗を称えるとともに、新政府軍による処刑を悼む内容

そのわずか数年前には、徳川埋蔵金発見への効験を期待した一団が読経に頭を下げていたが、数年に及ぶ計画と数週間にわたる発掘の後、ゴルフコースの地下には金など存在しないとの結論に達していた。この2つの場面はいずれも、1人の維新の敗者の歩みを記念=顕彰し、呼び起こそうとする1世紀にわたる努力の最新の形態を物語る。前者は公の機関が主催する毎年恒例のイベントで、郷土の歴史とアイデンティティーを称え、観光客を惹きつける。公社は民間のもので、ドキュメンタリー制作者によって映像化もされ、失墜した祖先の武士の声望を取り戻す試みは、それなりに同好の冒険家たちからの尊敬を集めた

長い年月の間に、核心に関わるいくつもの沈黙が小栗の顕彰を特徴づけてきた。その1つは、小栗の政治的な脆さを認めることはなく、全て小栗の進言に耳を貸さなかった幕吏たちの失敗に転化したこと、もう1つは、小栗が権田などの周辺地域に持ち込んだ緊張に関してはほとんど言及していない。1868年の騒擾を通じて村人は多大の迷惑を蒙ったが、それらの死者の記念碑を建立しようという提案は実現せず。また小栗の「支援者たち」も常に私心なく従ったわけではなく、三野村のように小栗を裏切って雇い主の三井グループを救ったり、権田村の名主佐藤藤七も自己利益に基づいて行動し、小栗からの借金を用いて小栗に賭ける危険を分散し、最終的には他の小栗家臣たちの標的となったし、メモリー・アクティヴィストたちの中でも、東善寺の村上は近年編集したアンソロジーでも小栗との関連性が低い他の史跡を記載しながら、普門院には言及していていない

マスメディは、ある人物の国民的ヒーローとしての人気を強固にするが、その到達範囲は地元の人々の働きにかかっている。20世紀初頭に確立され文字化された小栗の記憶は、小栗振興の中心的主題を表象し続けているが、その利用法は時とともに変化

1920年代末~30年代にかけての維新ブームは、愛国心の象徴として、また軍事的先見の明の持ち主として小栗を描き出したが、このブームは小栗を国民的ヒーローとして立ち上げるための便利な触媒だった。'80年代までのアクティヴィストたちの地道な努力は、小栗の記憶のネットワークの拡散、中央政府からの資金、ふるさとブームからの恩恵によって、90年代の「失われた10年」を通じて傷つき衝撃を受けた国民層に受け入れられた

'05年の郵政民営化の会合では、前島密よりも前に郵便制度の基礎を築いたのは小栗だったとの議論が上がり、’09年には、元経企庁長官の堺屋太一が、政府は小栗の行なった税、金融、通貨の改革に倣うべきと提言

もろもろのメモリー・ランドスケープは、単に顕彰のネットワークとしてのみ機能するわけではなく、他のもっと意味のある諸関係の土台を築く。小栗の孫娘たちが東京の空襲から逃れて疎開したのは権田であり、横須賀の軍関係者たちも権田に疎開したが、彼等の権田との繋がりは顕彰を介したものであって、個人的なつながりは皆無だった

このような仕方で近年現れてきたもっと強力なメモリー・ランドスケープは、3.11の被害に苦しむ東北への援助の手助けをしたもの。萩市は会津若松に義捐金と生活支援物資を送り、観光客が東北を避けていた時点で市長は55人の市民とともに会津を訪問、白虎隊関連の史跡を巡り、萩が過去の過ちの調停者として振舞うことで、両都市間の情緒的紐帯の創造に向けて歴史的記憶が呼び起こされた

会津のメモリー・ランドスケープが全国レヴェルの記憶に結び付けられるようになったのは、NHKの大河ドラマ《八重の桜》(2013)においてだが、視聴率は福島の27%に比し九州北部では10.3%に過ぎず、遺産にとぼしい地域での拡散は難しい、一方で八重の夫の生地安中市のような場所にあってさえ、地方の人々はメモリー・ランドスケープの中で自分たちの地域を活用し、八重グッズや福島の産品を販売し、そのような仕方で彼等自身と維新の記憶とを結び付けている。彼らがそうするのは、もっと大きな何かのためであるように思われる

 

日本語版へのあとがき

このプロジェクトは、私が倉渕村で英語の代用教員をしていた時に偶然動き出した。地元のアイデンティティーにとっての重要人物として小栗が話題にされているのを耳にし、東善寺の村上から、彼の著作の翻訳を持ち掛けられ、予備知識もないまま幕末日本研究探究の緒に就く。大学院時代から歴史家としてのキャリアを踏み出す過程で、歴史的記憶の理論が飛躍的な発展を遂げていたのに巡り合い、日本語圏での活用を思いつく。維新から今日までの時の経過を辿って、様々な人々が人や出来事をそれぞれの仕方でどう記憶してきたか、その諸相を跡付けるとともに、多くの歴史叙述がそれに対して答える用意を持たないような歴史に関わる重要問題に、記憶の理論ならどう答えることが出来るのか、そのことこそ私がやりたかったこと。この本は「記憶に関する本」

 

150年の孤独——―訳者あとがきにかえて

明治維新の「敗者たち」と、その記憶を保ち、支持した人々とを一対の連続的な存在と見て、その連続性がこの列島の近現代にとって持つ意味に光を当てる試み。欧米列強によって開国を迫られた列島が、植民地化の回避と万国対峙を目指し、近代化を遂行する過程が明治維新だったが、そこでの急速かつ鮮やかな変革は同時に、勝者と敗者の分断を生み、列島に傷痕を残すこととなった。その変革の犠牲者が「敗者たち」の代表として選ばれた小栗

小栗を巡って算出されたあらゆるテクスト群の生成過程を丹念に掘り起こし、それらを「記憶研究」の方法論と結びつけて解釈することを通して、「歴史と記憶の誤った二分法」への疑いの提示を試みる

その疑いとは。維新は平和革命であり、江戸時代の経済的・知的発展こそが明治を生み出した原動力で、その意味で明治以前と以後は連続しているという説があるが、日本近代の駆動には暴力が不可避的に伴われていたというのは事実で、その暴力が列強の圧力と新国家の制度化に伴い、混沌が孕む多様な可能性を抑圧した事実は重意。こうした事実は、異質な力同士のせめぎあいの中で、はじめの1歩から合意を育て合う発想の弱さという形で、現在の日本社会に色濃く影を落としている

江戸と明治の分断線の忘却や隠蔽を「幕末忘れ」と呼べるとすれば、この本で掘り起こそうとしているのは、「幕末忘れ」に対する執拗な意識的もしくは無意識的抵抗の持続としての記憶活動と言えよう。小栗の人生が私たちに訴えを持つのは、彼が日本近代の起点に存在した暴力の目撃者であり敗者である点に連関するし、小栗語りが持つ訴えは、それが小栗の経験した暴力の意味を探る努力の一環である点に関わっている

小栗は、一体何に負けたのか。それを解く手掛かりは、福沢の『痩我慢の説』にある。幕末の福澤は、小栗と同様幕権強化に基づく一直線的な文明開化の推進だった。攘夷論とは無関係に開国の理を悟り得た小栗の明察は、福沢同様、攘夷戦の敗北を糧に開国へ転換する道筋を示した薩長両藩に体現されていたような、無知と誤りの徹底と自覚を通して知に到達しようとするダイナミックな思考法にこそ敗れた

維新後の4年間沈黙した福沢は、明らかに幕末の自分が抱えていた盲点の存在に気づき、その欠落から学んでいた節があるが、小栗にはそれが許されなかった

新国家が憲法発布で基礎を確立したのを見届けた福沢が、作られた制度を事後的に補強するイデオロギーの浸透を警戒し、制度を作る起動力自体の照射を試みた『痩我慢の説』は、敗北経験から福沢が学んだ精華を集約した試論。ここでは、劣勢に立たされた人間が私的な価値を守り、支えようとする努力(痩我慢)の中に、公的なもの一切の成立を可能にする源泉を見て取っている。「立国は私なり、公に非ざるなり」と述べ、幕末の経験は明治よりも広く、深いと語っている

小栗が横須賀造船所を「土蔵付き空家」に準えた逸話を長く語り伝えた栗本鋤雲は、負け戦を最後まで残って戦う者としての落ち付いた風情を、記憶の中の小栗に見て取っていた

新聞を起こしたのは敗者の仕事だったと、大佛次郎は『天皇の世紀』に記した。栗本が彼の流儀で小栗を記憶し、語り寄せたのは、「前朝の遺臣」として新政府に仕えず、新聞を通して権力批判を続けた明治以後の自らを鼓舞していたのかもしれない

未完の歴史叙述『天皇の世紀』は大佛のライフワーク。共感の対象を松陰や高杉ら変革の突破者から、河井継之助のような内戦の敗者たちへと推移させる。『鞍馬天狗』でも当初は討幕派の支援者だったが、維新後は旧幕臣を支援し、新政府批判に廻っているが、「幕末忘れ」への抵抗という一点において、フィクションと歴史叙述が創造的刺激を与え合う可能性を一身に示そうとし、中途で倒れた大佛は、「歴史と記憶の二分法」に疑いを向けた先行者

社会草創の起動力としての異質な力のせめぎ合いを維新に経験しながら、体制の確立に連れてその経験を見失い、曲折を経つつ現在に至っている。本書は、小栗没後のその「150年の孤独」を私たちに思い当たらせてくれる本でもあるように感じる

 

 

 

みすず書房 ホームページ

小栗上野介忠順(1827-68)は万延元年の使節団員として渡米し、勘定奉行や外国奉行を歴任、崩壊しつつある幕政を中枢で支えた人物だが、後世の評価は二分した。一方に、横須賀造船所を建設し、最初の株式会社「兵庫商社」を構想した合理主義者で、近代化の立役者という評価があり、もう一方に、薩長との主戦論を唱え無用な戦争に固執したという見方がある。その主戦論が原因で罷免され現在の群馬県に隠棲したが、謀反の容疑をかけられ新政府軍により斬首。以来、逆賊の謗りを受けてきた。
歴史は勝者によって書かれる。幕末維新史も例外ではない。本書は小栗上野介という類稀な人物を敗者の代表として選び、敗者への公正さを要求した人びとが「勝てば官軍、負ければ賊軍」式の明治政府史観に、いかに抗ってきたかを跡づける。それは草の根的に地方で始まり、全国的な歴史観に影響を与えるに至った。本書はこの過程を豊富な一次史料、文学作品、映画、テレビドラマ、記念事業により実証的にたどった。さらに、明治以来何度となく起こった維新ブーム、「エキゾチック・ジャパン」「歴史街道」「ふるさとブーム」など昭和の地方振興との関係や、「失われた10年」打開の鍵を明治維新に求める時流の影響までを丹念に掘り起こした。
小栗終焉の地に暮らしたアメリカ人研究者が幕末維新史にメモリー・スタディーズの手法を導入した意欲作。

 

 

「明治維新の敗者たち」書評 時代で変わる幕臣の評価たどる

評者: 保阪正康 新聞掲載:20190803

明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史著者:野口良平出版社:みすず書房

明治維新の敗者たち 小栗上野介をめぐる記憶と歴史 [著]マイケル・ワート

 江戸末期の幕臣・小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)の評価は、時代により、人により異なる。
 徳川慶喜に諫言をくり返した官僚という見方から、新政府に抗する幕臣の指導者、逆に明治国家の父といった見方もある。新政府との徹底抗戦を企図した主張が実際に行われていたら、我々の命はなかっただろうと、大村益次郎を感嘆せしめた戦略家でもある。司馬遼太郎は『竜馬がゆく』では否定的に捉えていたが、その二十数年後に書いた『「明治」という国家』では評価を一変させている。
 著者は、アメリカの大学の歴史学准教授。本書を書くきっかけは、群馬県倉渕村(現在は高崎市の一部)の中学で英語教員を務めた体験があり、その地が小栗の領地で、維新時ここで政府軍兵士に処刑されたことを知ったからという。この地は小栗を顕彰する動きが活発で、明治維新の敗北者は近代日本史上でどう評価が揺れるのか、研究者意識を刺激したようである。
 著者は冒頭で「メモリー・ランドスケープ(記憶の風景)」という語を紹介する。単に小栗の往時の姿を語るだけでなく、小栗が群馬県を中心にどのような場でどう語られているかを、年代ごとに記述している。明治期には、新政府のみが近代日本の発展を促したわけではなく、徳川の「遺産」が大きい、という物語を旧幕府の要人が作る。その時、小栗こそがそれを裏づける存在だとする。
 戦時期から敗戦期、1960年代の大衆文化の時代には「徳川の敗者たちの再定義」が歴史叙述の中で行われた。全体的な傾向として、多くの歴史家は薩長の人士と徳川の忠臣を否定的に描き出す傾向にある。半面、法学者で小栗の遠戚にあたる蜷川新の著作のように、民主主義の源泉として幕末の動きを評価する論もあるという。
 小栗は今、高校の日本史教科書にもとりあげられている。その「復権」は小栗の先見性が評価されているからだと、と著者は指摘する。
    
Michael Wert
 米マルケット大歴史学准教授(日本近世史)。カリフォルニア大で博士号取得(東アジア史)。

 

 

 

(れきしあるき)27年大河の主人公・小栗上野介@群馬・神奈川 幕末に製鉄・造船所、埋もれた功績

2025924日 朝日新聞

 「偉人小栗上野介 罪なくして此所(ここ)に斬らる」

 田んぼが広がる山あい。そこに静かに立つ碑は、何かやむにやまれぬ思いを訴えかけてくるように見えた。

 群馬県高崎市倉渕町(旧倉渕村)。2027年のNHK大河ドラマの主人公で、司馬遼太郎からも先見性が高く評価された幕臣・小栗上野介忠順(ただまさ)(1827~68)は、この地で新政府軍に斬首された。

 小栗は幕末期、勘定奉行や軍艦奉行を歴任して幕政を支えた。慶応41868)年1月、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に戻ると、新政府軍を迎撃する策を献じるが、聞き入れられず隠棲(いんせい)を決意。3月に所領の一部だった現在の倉渕町権田地区に移住した。しかし、そこに進軍してきた新政府側の部隊に捕らえられ、取り調べられることなく非業の死を遂げた。

 小栗がこの地で暮らしたのは約2カ月間にすぎないが、「終焉(しゅうえん)の地」の碑をはじめ、地区のあちこちに小栗が顔を出す。国道の東側にある観音山という小高い山を登ると、小栗が構えた邸宅の跡があった。見通しのよい開けた空き地で、近くの集落に小栗が測量して引いたと伝わる「小高用水」は現在も使われている。当時の小栗の手早い仕事ぶりをうかがわせる。

     *

 小栗が仮住まいとして身を寄せていたのが、権田にある東善寺だ。寺を訪れると、住職の村上泰賢さん(84)が出迎えてくれた。

 「薩長中心史観によって、小栗の功績は長い間覆い隠されてきた」と村上さん。長年小栗の顕彰に取り組み、数少ない評伝「小栗上野介」(平凡社新書)も執筆している。

 小栗とは、いったいどんな人物だったのだろう。黒船来航から開国に至る激動の時代に頭角を現すと、万延元(1860)年、日本初の公式遣米使節の目付(監察官)として海を渡っている。

 米軍艦ポーハタン号に乗り込み日本を発った小栗ら使節団は、ハワイを経由して2カ月近くかけてサンフランシスコに到着。鉄道や造船所といった近代産業や米国の政治制度について、見聞を深めて帰国した。遣米使節といえば、勝海舟が乗り込んだ咸臨丸が有名だが、当時咸臨丸はあくまでポーハタン号の護衛船という扱いだった。

 「咸臨丸だけが後世に大きく伝わっているが、勝と咸臨丸は太平洋を往復しただけだ。東海岸や大西洋を経て地球を一周して帰国した小栗らの業績が埋もれてしまっている」。村上さんは力を込める。

 本堂の裏山の石段を5分ほど上ると、小栗の墓に行き着く。手入れが行き届いた墓石に、はっきりと「小栗上野介源忠順」と彫られていた。本堂の隣には、小栗の像のほか、明治期に小栗の功績を伝えた盟友の幕臣・栗本鋤雲(じょうん)の像もある。権田の地区と寺全体が、小栗をめぐる記憶そのものだ。

     *

 この地での経験から、小栗の研究に足を踏み入れた歴史学者もいる。米国中西部ウィスコンシン州にあるマルケット大准教授のマイケル・ワートさん(50)だ。

 ワートさんは1990年代後半、旧倉渕村の中学校で英語教員を務めていた。そのとき、村上さんから小栗についてのパンフレットの英訳を頼まれた。「なぜ敗者である小栗が、これだけこの地域のアイデンティティーになっているのか」と関心がわいたという。その後、欧米で進んでいる「メモリー・スタディーズ」の手法をもとに、明治以降、小栗がどう記憶され顕彰されてきたかを研究。2013年に「明治維新の敗者たち」(みすず書房から邦訳出版)として刊行した。

 小栗の業績が長年評価されなかった理由についてワートさんは、「自ら残した史料が少なく、人となりや思い入れがわかりにくいことから、政治史上の評価が難しい人物だった。また、幕府のエリート官僚であり、民衆史の視点からも重視されなかった」と話す。また、学界や政界などで多数の旧藩士が活躍した会津藩や彦根藩などと比べ、一旗本の小栗には大規模な名誉回復運動はなかなか起こらなかったという。「草の根からの顕彰運動が長年続いてきたのが、小栗をめぐる記憶の特徴だ」

 小栗がとりわけ力を注いだのが、製鉄だけでなく造船から機械製造までも行う総合工場、横須賀製鉄所(現在の神奈川県横須賀市)の建設だった。まだ幕府が政権を握っていた慶応元(1865)年に建設が始まった製鉄所は、その後も海軍の施設として稼働した。跡地は米海軍横須賀基地として使用されており、慶応年間に起工した第1号ドックは今も現役だという。

 JR横須賀駅を出ると、目の前に広がる横須賀港に、海上自衛隊や米海軍の艦艇が居並ぶ。水辺にある広場には、港を見渡すように小栗の像があった。

 製鉄所を紹介する「ヴェルニー記念館」の中には、開所当時使用されていた欧州製「スチームハンマー」が展示されている。05トンと3トンの二つがあり、どちらも天井まで届く高さと、黒光りする威容に圧倒された。当時の製鉄所が持っていた高い技術力をしのばせる。

 「幕末」というと、無数の時代劇や小説で描かれる、京都での激しい果たし合いやめまぐるしい政変が思い浮かぶ。しかし、小栗たちに見えていたものは、その騒乱とは別の光景だったのだ。

 「歴史には無数の分岐点があり、あり得たかもしれない可能性一つひとつに『行き止まり』がある。そのそれぞれを考えることは、未来の可能性を考えることにつながる」。取材で聞いた、ワートさんの言葉を思い出した。小栗の運命は「行き止まり」だったかもしれないが、確かに時代の先を行っていた。

 小栗の死から157年。その記憶は、関東平野の南端と西端、さらに米国にも引き継がれ、なお広がろうとしている。(平賀拓史)

ヴェルニー公園に立つ小栗上野介忠順の像=神奈川県横須賀市

斬首された場所に立つ「小栗上野介忠順終焉の地」の碑=群馬県高崎市

東善寺の本堂にあるポーハタン号など遣米使節の船の模型。住職の村上泰賢さんが依頼して作製した=群馬県高崎市

ヴェルニー記念館にある横須賀製鉄所で用いられたスチームハンマー。20世紀末まで稼働していたという=神奈川県横須賀市

 

 

Wikipedia

小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政106231827716慶応4461868527〉)は、幕末期日本武士幕臣)。

通称は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗っていた。安政6年(1859)、従五位下・豊後守に叙任[4]文久3年(1863)、上野介に遷任した。三河小栗氏12代当主。 勘定奉行江戸町奉行外国奉行を歴任した。

主な業績・人物

安政7年(1860)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。

徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首。逮捕の理由としては、大砲2門・小銃20挺の所持[7]と農兵の訓練が理由であるとする説や、勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説(徳川埋蔵金説)[8]などが挙げられるが、これらの説を裏付ける根拠は現在まで出てきていない。

のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信東郷平八郎からは幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治国家の父の一人」と記した[9]

生涯

家督相続前

文政10年(1827年)、禄高2,500[注釈 1]旗本小栗忠高と邦子(日下対馬守の妹)の子として江戸駿河台の屋敷[注釈 2]に生まれる。幼名は剛太郎。当初、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていたが[10]、成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し、14歳のころには自身の意志を誰にはばかることなく主張するようになった。

8歳から、小栗家の屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合うこととなる[11]。武術については、剣術島田虎之助に師事した。後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝を許される。また砲術田付主計に、柔術山鹿流兵学19歳から4年間)を窪田助太郎清音(のちの講武所頭取)に師事している[12][13]天保11年(1840)ごろ、田付主計の同門であった年長者の結城啓之助から開国論を聞かされ、以後影響を受ける[1]

天保14年(1843)、17歳になり登城する。文武の才を注目され、若くして両御番となる。率直な物言いを疎まれて幾度か役職を変えられたが、そのたびに才腕を惜しまれて役職を戻されている。嘉永2年(1849)、林田藩の前藩主建部政醇の娘・道子と結婚する。

嘉永6年(1853)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー浦賀に来航する。その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。このころから外国との積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ったと言われる[14]

安政2年(1855)、父が医師の誤診により死去し[15]、家督を相続する[16]。安政6年、小栗豊後守を名乗る。

アメリカ渡航

左から村垣範正新見正興、小栗忠順 1860 ワシントン海軍工廠での使節団[17]:正使 新見正興(前列中央)、副使 村垣範正(前列左から3人目)、監察 小栗忠順(前列右から2人目)、勘定方組頭、森田清行(前列右端)、外国奉行頭支配組頭、成瀬正典(前列左から2人目)、外国奉行支配両番格調役、塚原昌義(前列左端)

安政7年(1860)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するポーハタン号で渡米する[注釈 3]2か月の船旅の後、サンフランシスコに到着する。代表は新見であったが、目付の小栗が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けた。勘違いの理由として、新見をはじめとして同乗者の多くは外国人と接したことがなく困惑していたが、小栗は詰警備役として外国人と交渉経験があるため落ち着いており、そのため代表に見えたとされる。また「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府)はスパイを使節として同行させているのか。」という嫌疑を受けた。その際に「目付とはcensor(ケンソル)である」と主張して切り抜けたという。監察官(censor)という役の重さが代表扱いされる一因かと推察される。

小栗はワシントン海軍工廠を見学した際、日本との製鉄及び金属加工技術などの差に驚愕し、記念にネジを日本へ持ち帰った[18]。また、訪米中にはブキャナン大統領に謁見している[19]

その後、ナイアガラ号に乗り換え、大西洋を越えて品川に帰着する。帰国後、遣米使節の功により200石を加増されて2,700石となり、外国奉行に就任する。

アメリカ政府との通貨交渉

この使節団の隠れた目的の一つが、通貨交換比率の交渉であり、その特命担当が小栗忠順であった。ワシントンでの条約批准書交換前日に小栗から通貨交渉について考えている旨を打ち明けられ、条約批准書交換後に小栗中心にカス国務長官に申し出て約半月にわたってアメリカ政府と通貨交渉を行っていた詳細な記録と、アメリカ政府からの回答が勘定組頭森田清行の手控としての記録に残っている[20][21][22]。また、使節の帰国後幕府への報告として提出された「米行使節金貨比較商議一件」にも日本側の申入れ、アメリカ政府からの回答や通貨分析の記録が記載されている。

日本においては、銀はもともと丁銀豆板銀などの、重量を以て貨幣価値の決まる秤量貨幣として流通していたが、江戸後期に発行された一分銀は通貨発行益による歳入を目的とした額面が記載された計数貨幣であり、本位貨幣である小判の補助貨幣であった。 その貨幣価値は、金貨である一分金と等価とされ、1/4に相当する。しかし、天保一分銀は幕府の極印を打つことにより実際の重さの3倍の価値を持たせた、幕府の信用を背景とした名目貨幣であった。幕末には一分銀の通貨発行益が幕府歳入の4割を占めており、発行高は丁銀をはるかに上回るものとなっていたため、天保以降では計数貨幣である一分銀が銀貨流通の主流となっていた[23]

ペリーによる日米和親条約の締結時には、1ドル=一分銀1枚による交換比率に決まったが、その後ハリスによる日米修好通商条約では、ハリスの主張により同じ種類の貨幣を同じ重さで交換する「同種同量交換の原則」が盛り込まれ、幕府は米国側に押し切られ、その重量を基に1ドル=一分銀3枚の交換比率を承諾することになる。その後、外国奉行水野忠徳が同種同量交換できる貿易用の貨幣として二朱銀を発行するも、ハリス・オールコックら外国公使団に認められず、わずか22日で通用停止となる[24]

結果として日本の貨幣価値が1/3になったため、貿易において日本が3倍損をする状態となっていた。また、金の含有量で比較すると、天保小判5両が米国20ドル金貨(Double Eagle)に等しい。このため、1ドル(メキシコ銀貨)3分(一分銀)0.75両(天保小判)3ドル(20ドル金貨)と、両替を行うだけで、莫大な利益を上げることができた。結果、大量の小判が海外へ流出することになった。

これを防止するため、一分銀が計数貨幣であり外国貨幣と重さで交換できないことを認めてもらう必要があった。小栗はワシントン滞在中、条約批准書交換後カス国務長官に申し出、約半月にわたってアメリカ政府と通貨交渉を行った。小栗は天保小判、一分銀およびそれと同じ額面を持つ一分金、二朱銀をフィラデルフィアの造幣局に送って分析させ、一分銀の35.6セントに対し、一分金は89セントに相当することを確認させた。この交渉の過程で「一分銀は楮幣(紙幣のような通貨)」であり重さで交換できないこと、同種同量交換できるよう発行した二朱銀をハリスが認めないこと、結果として日本が3倍損をする状況になっていることを説明し、フィラデルフィア造幣局での分析結果を基に、「洋銀と一分銀の交換は禁止し、90セント=1分として一分金との交換を行う」ことを主張した。米国側は小栗の主張の正当性は理解したものの、合意には至らなかった。

ワシントンの後に往訪したフィラデルフィア造幣局での分析実検の結果、1両=3ドル60セントの為替レートが決定する。この時のアメリカでの新聞記事には、日本人が10進法の天秤ばかりや算盤で素早く計算したことに加えて、小栗はタフ・ネゴシエイターとして日本人の評価を上げたと言われているが、通貨問題における真の決着はワシントンで既についていた[21]

結局、金銀交換比率を諸外国並とするため、幕府は小栗の帰国を待つことなく、天保小判の1/3弱の金含有量の万延小判を新たに発行することになるが、結果として大幅なインフレを招くこととなった。

幕末の通貨問題」「万延元年遣米使節 § 通貨の交換比率の交渉」も参照

内政・外交に携わる

文久元年(1861)、ロシア軍艦対馬占領事件が発生。事件の処理に当たるが、同時に幕府の対処に限界を感じ、江戸に戻って老中に

  • 対馬を直轄領とすること。
  • 今回の事件の折衝は正式の外交形式で行うこと。
  • 国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得ること。

などを提言したが、容れられず外国奉行を辞任した[注釈 4][25]

文久2年(1862)、勘定奉行に就任し、名乗りを小栗豊後守から上野介に変更する。幕府の財政立て直しを指揮する。当時、幕府は海軍力強化のため44隻の艦船を諸外国から購入しており、その総額は実に3336ドル[注釈 5]に上った。小栗は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた。当初は縁のあるアメリカ人を招聘しようとも考えたが、当時アメリカは南北戦争で国が疲弊し外国を助ける余裕がなかったため、結果的にロッシュとの繋がりができてフランス中心の招聘となった。

文久3年(1863)、製鉄所建設案を幕府に提出、幕閣などから反発を受けたが、14将軍徳川家茂はこれを承認し、1126日に実地検分が始まり、建設予定地は横須賀に決定された。なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し、武田斐三郎などを現地の見分に派遣した。見分の結果、鉄鉱石埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明した[26]。ただし、近隣での石炭供給が不十分であるので、しばらくの間木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受けている。また慶応元年(1865)には高炉で使用する木炭を確保するため、御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をしている。

慶応元年(18651115日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設開始[注釈 6]。費用は4年継続で総額240ドル[28]で、これが後の小栗逮捕における徳川埋蔵金説に繋がったとも言われるが、実際には万延二分金(通称小栗二分金)などの貨幣の増鋳による貨幣発行益により建設費用を賄っていた[29][30]。横須賀製鉄所の建設を巡っては、相当な費用の負担を強いることから幕府内部の反対論は強く[31]、建設地を横須賀にすることへの反対論もあった[32]が、工作機械類がフランスに発注済であり、最終的に製鉄所は建設された。多くの反対を押しきれたのは、計画の進捗が迅速であり、外部がこれを知った時には取りやめることが不可能であったからである[33]

小栗は横須賀製鉄所の首長としてフランスのレオンス・ヴェルニーを任命した。これは幕府公認の事業では初の事例だったが、この人事により職務分掌雇用規則残業手当社内教育洋式簿記月給制など、経営学人事労務管理の基礎が日本に導入された[34]。また、製鉄所の建設をきっかけに日本初のフランス語学校・横浜仏蘭西語伝習所を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を招いて本格的な授業を行った[35]。この学校の卒業生には明治政府に貢献した人物が多い[36]

加えて、小栗は陸軍の力も増強するため、小銃大砲弾薬等の兵器・装備品の国産化を推進した[注釈 7][37][38]

文久2年(1862年)12月、銃砲製造の責任者に任ぜられると、それまで韮山代官江川英武に任されていた湯島大小砲鋳立場を幕府直轄として関口製造所に統合し、組織の合理化や当時多発していた製造不良の低減に着手した。これに伴い、それまで実務を取り仕切ってきた江川の手代の代わりに武田斐三郎、友平栄などの気鋭の技術者を関口製造所の責任者として新たに登用した[39]。また、ベルギーから弾薬火薬製造機械を購入し、滝野川反射炉の一角に設置、日本初の西洋式火薬工場を建設した[40]

小栗はさらなる軍事力強化のため、幕府陸軍フランス軍人に指導させることを計画する。慶応2128日(1867112日)、フランス軍事顧問団が到着、翌日から訓練が開始された。また軍事顧問団と時を同じくしてフランスに、大砲90門、シャスポー銃10,000丁を含む後装小銃25,000丁、陸軍将兵用の軍服27,000人分等の大量の兵器・装備品を発注、購入金額は総計72万ドルにも上った[41]

経済面では、慶応2年(1866)には関税率改訂交渉に尽力し、特にフランスとの経済関係を緊密にし、三都商人と結んで日本全国の商品流通を掌握しようとした[42]。これが後の商社設立に繋がることとなる。翌慶応3年(1867)、株式会社「兵庫商社」の設立案を提出、大阪の有力商人から100万両という資金出資を受け設立した。これは資本の少なさから日本商人が海外貿易で不利益を被っていることを受け、解決には大資本の商社が必要との認識によるものであった。100万両という設立資金は、当時設立されていた株式会社の中でも大きく抜きん出たものであった[43]

89日、日本初の本格的ホテル、築地ホテル館の建設が始まる。これは小栗の発案・主導のもとに清水喜助らが建設したもので[44]、翌年810日に完成する。このように、小栗の財政、経済及び軍事上の施策は大いに見るべきものがあり、その手腕については倒幕派もこれを認めざるを得なかった[45]

大政奉還

慶応31014日(1867119日)、15代将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還。翌慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。

慶喜の江戸帰還後、112日から江戸城で開かれた評定において、小栗は榎本武揚大鳥圭介水野忠徳らと徹底抗戦を主張する。この時、小栗は「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という挟撃策を提案した。後に、この作戦を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」として恐れたという逸話がある[46][47]。実際、この時点において旧幕府側は、鳥羽・伏見の戦いに参加していなかった多数の予備兵力を保有していたが[48]、慶喜はこの作戦を退けて勝海舟の恭順論を採った。

ただし、一方で慶喜は和戦両論の構えを取っており、横浜の警備体制を増強して、箱根関碓氷関に目付を派遣し、官軍を迎え撃つ体制を強化している。小栗の作戦を却下した理由としては、その時点での慶喜はあくまで武備恭順の姿勢であり、家臣団が小栗の意見に引きずられて武備恭順の域から逸脱するのを防ぐためだったと推測されている。慶喜としては抗戦の意思を捨てる気はないものの、薩長の官軍化に困惑する味方を安心させる為、朝廷に対して恭順の意思を見せる必要があり、明確に敵対の意思を示す小栗の作戦は受け入れることが出来なかったとされる[注釈 8]。なお、幕臣のほとんどは主戦論を唱えていたが、小栗の作戦以外にも「軍艦で大坂城を攻撃する」「富士川で官軍を食い止める」「碓氷峠を防衛線にする」など様々な作戦が提案される議論百出の状態で、一つの意見に集約できる状態ではなかったという[49]

小栗の墓所・東善寺(群馬県高崎市

慶応4年(1868年)115日、江戸城にて勝手掛老中松平康英から呼出の切紙を渡され、芙蓉の間にて老中酒井忠惇、若年寄稲葉重正から御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡されると[50][51]、同月28日に「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した。旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたものの、これを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮することがあれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝えた[52]。また、2月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されたが、「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した[53]

228日(321日)5時(8時)江戸を一行は出る。途中、大宮の普門院に参拝。夕七半(17時)桶川宿に泊まる。229日(322日)桶川宿を六半時(7時)出発、吹上で昼飯、夕八半時(15時)深谷宿に泊まる。230日(323日)朝六半時(7時)出発、新町で昼飯、夕七時(16時)高崎宿に泊まる。

31日(324)朝五時(8時)高崎を出発、室田(高崎市)で昼飯、夕七時(16時)権田村(群馬県高崎市倉渕町権田))東善寺に到着。34日(327日)2千人とも言われる世直し勢が寺を包囲した。たが戦術に優る小栗は、鉄砲などで退治した。しかし、これが大きな反響を呼び、小栗は多数の武器を所有しているという噂となって世間に広まった。38日(331)総督府を出迎えるため高崎藩主と小幡藩主は常磐町(高崎市)まで出迎えたが、小栗は石上寺の本営に出頭して勤王の意を表面しなかったことが反逆の嫌疑を受けることになった。

当時の村人の記録によると、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており[54]、農兵の訓練をしていた様子は見られない。

最期

慶応4年(1868年)閏44日、小栗は東山道軍の命を受けた軍監豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩安中藩吉井藩兵により東善寺にいるところを捕縛され、閏46日朝4ツ半(午前11時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された[注釈 9][注釈 10]。享年42

死の直前、大勢の村人が固唾を飲んで見守る中、東山道軍の軍監に対して、小栗の家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放ち、「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」と諭した。そして原が、「何か言い残すことはないか」と聞くと小栗はにっこり笑い、「私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい」と頼んだという。処刑の順序は荒川・大井・渡辺・小栗の順だったという[58]。原は後に、「小栗は自分が斬った」といっていたが、地元の研究者によれば、安中藩の徒目付浅田五郎作が斬ったという説もある。

残された家族

小栗は遣米使節目付として渡米する直前、従妹の鉞子(よきこ、父・忠高の義弟日下馬の娘)を養女にし、その許婚として駒井朝温の次男の忠道を養子に迎えていたが、忠道も翌日に高崎で斬首された。死の直前に母のくに子、妻の道子、養女の鉞子を家臣および村民からなる従者と共に、かねてから面識があった会津藩横山常守を頼り、会津に向かって脱出させた。道子は身重の体であり、善光寺参りに身を扮し、急峻な山道である悪路越えの逃避行であった[59]。その後、一行は小栗忠高がかつて懇意にしていた新潟の紙問屋・藤井忠太郎(市島謙吉の親戚)を頼ったのち[60]、閏429日には会津に到着し、松平容保の計らいにより道子らは会津藩の野戦病院に収容され、610日に道子は女児を出産、国子と命名された[61]

一行は翌明治2年(1869)春まで会津に留まり、東京へと戻った。帰るべき場所がない小栗の家族の世話をしたのは、かつての小栗家の奉公人であり、小栗に恩義を感じている三野村利左衛門であった。三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い、明治10年(1877)に没するまで終生、小栗の家族の面倒を見続けた[62][63]。その間、小栗家は忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ。三野村利左衛門の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治18年(1885)に道子が没すると、国子は親族である大隈重信に引き取られた。大隈の勧めにより矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した[64]

人物

·        小栗は1867年のパリ万博に際して「日本の工業製品をアピールし、フランス政府の後ろ盾で日本国債を発行、六百万両を工面する」計画を立てた。しかし薩摩藩も琉球と連名で万博に出展し、「幕府も薩摩と同格の地方組織であり、国債発行の資格は無い」と主張したため、計画は頓挫してしまう。その際の小栗についてロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」と語っている[65]

·        小栗は独特な言語センスの持ち主であった。頑迷固陋な役人のことを、「器械」という単語を捩って「製糞器」と呼び、彼らを嘲るなど皮肉屋な一面も持っていた[66]。一説には、英語の「company」を「商社」と訳したのは小栗とされる[67]

·        小栗は鉄砲やの名手でもあり、砲術及び弓術上覧にて、それぞれ皆中し、徳川家慶から褒美を賜っている[68]。また、小栗所用と伝わる文久2年(1861年)8月制作の《本小札五枚胴紺絲威具足》が、東京富士美術館に所蔵されている[69]

·        小栗が窪田助太郎清音から山鹿流兵学を学んでいた同じ時期に、名刀工・源清麿が窪田家の屋敷に住み込みで修業していた。小栗の製鉄所建設の原点は、清麿の作刀を10代から20代の多感な時期に生で見て、鉄の基礎知識を得たことだったのではとの新説が、小栗上野介顕彰会の機関誌に発表された。小栗の「幕府の命運に限りがあるとも、日本の命運に限りはない。」との発言は、皇統を尊重する思想と武士道精神を土台とする山鹿流兵学の思想そのもので小栗に与えた影響は大きいと分析している[12][13]

·        2005年に『よこすか開国祭』にて、自身の玄孫である漫画家小栗かずまたによってデザインされたキャラクター「オグリン」のモチーフとなった[70]

·        道の駅くらぶち小栗の里」に名を残す[71]

家族・親族

·        先祖:小栗忠政

·        祖父:中川忠英(勘定奉行)

·        外祖父:小栗忠清

·        父:小栗忠高

·        母:くに子(小栗忠清女)[72]

·        妻:道子(建部政醇女)

·        養女:小栗鉞子(よきこ、忠清の実子日下数馬の娘で従妹にあたる)

·        養子:小栗忠道(鉞子の許嫁)

·        娘:国子(小栗貞雄妻)

·        従姉妹:大隈綾子大隈重信妻)

·        玄孫:小栗かずまた(本名又一郎)漫画家。

·        遠戚:武蔵格闘家。小栗の妻、道子と蜷川新(武蔵の曽祖父)の母、はつ子が姉妹。武蔵の父は今でも、小栗を無実の罪で処刑に追いやったとして勝海舟を憎んでいるという。

評価

·        大鳥圭介 「小栗は、剽悍な人物で、議論の盛んにした。武芸には達したが、洋書を読みこなすまではいたらず、洋学者から話を聞いては、世界情勢に留意していた。私どもが、(小栗の屋敷へ)行くといつも世界情勢の事を聞くから、知っている事を話したが、記憶力は非常に強い人であった」[73]

·        勝海舟

·        「眼中ただ徳川氏あるのみにして、大局達観の明なし」[74]

·        「小栗上野介は幕末の一人物だよ。あの人は精力が人にすぐれて、計略に富み、世界の情勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無比の徳川武士で、先祖の小栗又一によく似ていたよ。あれは三河武士の長所と短所とを両方具えておったのよ。しかし度量の狭かったのは、あの人のためには惜しかった」[75]

·        西郷隆盛 「偉大なる権謀家」[74]

·        大村益次郎 「幕府でもし小栗豊後守の献策を用いて、実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかったであろう」[74]

·        福沢諭吉 「鞠躬尽瘁の人」[76]

·        大隈重信は小栗について「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語った[77][78]。大隈の妻である綾子は小栗の親族であり、幼少時には兄の三枝守富とともに小栗家に同居していた時期があった[79]。大隈は時流を先読みして行動する小栗の姿勢について感化を受けていたといえる。

·        明治45年(19127[80]東郷平八郎は自宅に小栗貞雄と息子の又一を招き、「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と礼を述べた後、仁義禮智信としたためた書を又一に贈っている。

·        三野村利左衛門

·        「もし先主小栗をして今日にあらしめ、財政の要路に立たしめたならば、国家の財政を利益したること測り知る可からざるものがあったであろう。余の為す所の如きは、先主よりこれを見れば、児戯に過ぎざるのみ」[74]

·        三野村利左衛門は、かつて小栗家で中間を務めた[81]。三井組に入ったのは小栗との交流があったからこそである[82]。慶応4年(1868年)以降に三井組が新政府へ資金援助を始めたのは、小栗の助言によるとする説もある。

·        斉藤正雄 「容貌柔和、沈黙にしてしかも大胆であり、米国よりは、経済財政の原書を買い来れる程の賢明なる人物であった」[74]

·        林田藩士 「小栗上野介は、年僅かに十四歳のころであったが、初めて建部家の客となりて来邸せられし折、あたかもその挙動、全然大人の如く、言語明晰、音吐朗々、応待つ堂々としてすでに巨人の風あり。未だ十四の少年にてありながら、煙草を燻らし、煙草盆を強く叩き立てつつ、一問一答建部政醇藩主と応答し、人皆その高慢に驚きながら、後世には如何なる人物となられるであろうかと噂しあった」[74]

·        森山休平 「小栗上野介の登城は、普通人の如くに輿に依らずして、常に乗馬であった。しかして小栗上野介の登城せらるる折には、縦令家の中に潜みつつあっても『これは小栗殿の登城也』という事が、その馬の足音にてよく判断し得られた。蓋し小栗上野介は、必ず駿馬に跨り行くを例とし、その馬蹄の響きが、他の馬のそれとは全く違っていたからである」[74]

·        『白石喜太郎憶記』によると、渋沢栄一が渡欧に際して「其間の事に付いて彼是心配致して居りますが、最も心にかかるのは会計の事で御座います」と相談すると、小栗は「足下は五年も後のことを心配する柄でもあるまい。第一足下は討幕を企てた程の男ではないか」などと戯談を言いだし、渋沢をしどろもどろにさせた[83]

江戸幕府役職履歴

·        天保14年(1843322江戸城に初登城。徳川家慶に御目見え。

·        弘化4年(1847416小栗忠高嫡子の身分のまま、西の丸書院番に登用され、役料300石を支給される。

·        嘉永6年(1853進物番出役に登用される。徳川家定に近侍する。

·        嘉永7年(1854 - 外国船に対する警戒のため、浜御殿の警備を担当する。

·        安政2年(1855

·        728 - 父、忠高が急死。

·        1022 - 家督を相続し、又一を称する。

·        安政4年(1857

·        111 - 書院番(九番組)大岡豊後守清謙組進物番出役から使番に異動[85]

·        1216布衣を許される。

·        安政6年(1859

·        912 - 使番から目付に異動。翌日、日米修好通商条約批准のため使節として渡米を命じられる。

·        1121 - 従五位下・豊後守に叙任。

·        万延元年(1860118 - 目付から外国奉行に異動。

·        文久元年(1861

·        4ロシア軍艦対馬占領事件の報を受け、対馬に出張。

·        510 - 対馬着。軍艦艦長ビリレフと3度に渡り交渉。

·        726 - 外国奉行を辞し、寄合席

·        文久2年(1862

·        39 - 小姓組番頭(二番組)となる[86]

·        65 - 小姓組番頭から勘定奉行・勝手方に異動。

·        84 - 松平出雲守の代理として、朝鮮人来聘御用を拝命。

·        825 - 勘定奉行から江戸南町奉行に異動。

·        827 - 勘定奉行を兼帯。

·        121 - 南町奉行から歩兵奉行に異動し、勘定奉行・勝手方を兼帯。

·        1210 - 講武所御用取扱兼帯。

·        文久3年(1863

·        423 - 勘定奉行・勝手方・歩兵奉行・講武所御用取扱を辞し、寄合席。

·        710 - 陸軍奉行並となる。

·        729 - 陸軍奉行並を辞し、勤仕並寄合となる。勤仕並寄合の期間中、豊後守から上野介に遷任。

·        元治元年(1864

·        813 - 勘定奉行・勝手方となる。

·        1218 - 軍艦奉行に異動。

·        元治2年(1865

·        1横須賀製鉄所御用掛に栗本瀬兵衛らと共に任ぜられる。29日には、フランスと製鉄所建設の約定を交わす。

·        221 - 軍艦奉行を辞し、寄合席。

·        改元して慶応元年54 - 勘定奉行・勝手方となる。

·        慶応2年(18664月、兵庫商社設立の建議書を幕府に提出。関税税率改定交渉に主要人物として参加。

·        65日、兵庫商社を設立し、役員を任命する。

·        811 - 海軍奉行並を兼帯。

·        慶応3年(18675武蔵国豊島郡滝野川村に火薬製造所を設立。

·        926日、小栗が主張していた、兵賦制度が布告され、組合銃隊が廃止される。

·        1228 - 陸軍奉行並を兼帯[87]

·        慶応4年(1868115 - 陸軍奉行並、勘定奉行を御役御免、勤仕並寄合と就る。

·        128日、知行地がある上野国群馬郡権田村への土着願を、寄合肝煎、平岡道弘へと提出。翌29日、許可される[88]

評伝

書籍

·        神長倉真民『仏蘭西公使ロセスと小栗上野介』ダイヤモンド社 1935 (復刻・マツノ書店2015)

·        坂本藤良 『小栗上野介の生涯「兵庫商社」を創った最後の幕臣  講談社 1987 ISBN 4-06-203234-1

·        司馬遼太郎『明治という国家』日本放送出版協会1989年。ISBN 4-14-008668-8 / 新版・NHKブックス(新装版2018年)ISBN 978-4-14-091249-2

·        柴田錬三郎『生きざま』集英社文庫 1983 ISBN 4-08-750698-3

·        高橋敏 『小栗上野介忠順と幕末維新 「小栗日記」を読む』 岩波書店 2013 ISBN 978-4-00-025888-3

·        福地源一郎『幕末政治家』 岩波文庫 2003 ISBN 4-00-331861-7

·        松平定知 『幕末維新を「本当に」動かした10人』小学館101新書 2010 ISBN 978-4-09-825070-7

·        村上泰賢 『小栗上野介』平凡社新書 2010 ISBN 978-4-582-85561-6

·        木立順一 『日本偉人伝』メディアポート 2014 ISBN 978-4865580150

·        マイケル・ワート『明治維新の敗者たちー小栗上野介をめぐる記憶と歴史』野口良平訳 みすず書房 2019 ISBN 978-4-622-08811-0

小栗忠順が登場する作品

小説

小栗忠順が主人公の小説

·        海音寺潮五郎『幕末動乱の男たち』(上)

·        池波正太郎『明治元年の逆賊』

·        星新一はんぱもの維新

·        徳永真一郎『最後の徳川武士』

·        南條範夫『斬首ただ一人』(旺文社文庫 1986年)

·        大島昌宏『罪なくして斬らる 小栗上野介』(新潮社 1994年、学陽書房 1998年)

·        中津文彦『斬刑』(徳間書店 1995年)

·        高橋義夫『日本大変小栗上野介と三野村利左衛門』(集英社文庫 1999年)

·        佐藤雅美『覚悟の人小栗上野介忠順伝』(岩波書店 2007年)

小栗忠順が登場する小説

·        中里介山大菩薩峠

·        井伏鱒二『普門院さん』(後に『普門院の和尚さん』と改題)

·        司馬遼太郎十一番目の志士

·        山田風太郎軍艦忍法帖

·        風野真知雄若さま同心徳川竜之助シリーズ

·        高木彬光『小栗上野介の秘密』(『増刊 推理ストーリー1965515日号)(短編)

·        高木彬光『風戸峠の秘宝』(『歴史読本196612月号)(短編)

·        高木彬光『黄金の鍵』(カッパブックス197011月)

·        典厩五郎『小栗上野介の秘宝』(新人物往来社199111月)

·        北方謙三『黒龍の柩』(毎日新聞社 2002年)

·        小栗さくら『恭順』(小説現代 202011月号、講談社『余烈』所収 2022年)

映画

·        愛染地獄 一、二、三編(千恵蔵プロダクション、日活1929年・1930年、演:片岡千恵蔵

·        江戸城総攻め(帝国キネマ1930年、演:林誠太郎

·        弥次喜多・美人騒動(松竹1932年、関操

·        小笠原壱岐守嵐寛寿郎プロダクション、新興キネマ1932年、演:市川寿三郎

·        フランスお政(日活、1933年、演:市川小文治

·        快傑黒頭巾 前後編(新興キネマ1936、演:荒木忍

·        快傑黒頭巾(東映1953年、演:香川良介

·        新選組鬼隊長(東映、1954年、演:薄田研二

·        鍔鳴浪人(東映、1956年、演:原健策

·        大東京誕生 大江戸の鐘(松竹、1958年、演:松本幸四郎

·        EAST MEETS WEST(松竹、1995年、演:天本英世

テレビドラマ

小栗忠順が主人公のテレビドラマ

·        悲運の幕臣 小栗上野介(1991818日、群馬テレビ、演:石橋正次

·        またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜200313日、NHK、演:岸谷五朗

·        逆賊の幕臣2027年、NHK大河ドラマ、演:松坂桃李

小栗忠順が登場するテレビドラマ

·        テレビ劇場 ワシントンの日本人(1960年、NHK、演:川辺久造

·        竜馬がゆく1968年、NHK大河ドラマ、演:安井昌二

·        大奥1968年、フジテレビ、演:芦田鉄雄)

·        上方武士道1969年、日本テレビ、演:渥美国泰

·        勝海舟1974年、NHK大河ドラマ、演:原保美

·        新選組始末記1977年、TBS、演:幸田宗丸

·        夫婦ようそろ(1978年、TBS、演:中野誠也

·        影の軍団・幕末編1985年、関西テレビ東映、演:夏八木勲

·        勝海舟1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:風間杜夫

·        竜馬におまかせ!1996年、日本テレビ、演:石丸謙二郎

·        龍馬伝2010年、NHK大河ドラマ、演:斎藤洋介

·        謎解きはディナーのあとで スペシャル〜風祭警部の事件簿〜201382日、フジテレビ、演:小林タカ鹿)

·        青天を衝け2021年、NHK大河ドラマ、演:武田真治

落語

·        霧陰伊香保湯煙(作:三遊亭圓朝

楽曲

·        さくらゆき『礎(いしずえ)』(2018年、作詞:小栗さくら、作曲:法西隆宏)

漫画

·        天涯の武士(木村直巳リイド社 コミック乱ツインズ』連載)

·        猛き黄金の国本宮ひろ志集英社、『ビジネスジャンプ』連載)

·        ハロー張りネズミ「眠る埋蔵金編」(弘兼憲史、講談社、『週刊ヤングマガジン』連載)

·        風雲児たち 幕末編(みなもと太郎、リイド社、『コミック乱』、連載)

·        ちるらん 新撰組鎮魂歌(原作:梅村真也、作画:橋本エイジ、コアミックス『月刊コミックゼノン』連載)

テレビ番組

·        ライバル日本史19951221日、NHK総合

·        あの勝海舟が最も恐れた男、サムライ小栗上野介!〜世紀末を救うもうひとつの幕末ヒーロー伝説(19981229日、テレビ朝日、演:和泉元彌

·        その時歴史が動いた20021120日、NHK総合)

·        ライバルたちの光芒 勝海舟vs小栗上野介(20121212日、BS-TBS

·        片岡愛之助の歴史捜査「幕末史から消された男 日本近代化の立役者 小栗上野介の死の謎を追え!」(2016616日、BS日テレ

·        英雄たちの選択2019925日、NHK BS1

·        NHKスペシャル 新・幕末史 グローバル・ヒストリー NHK BSP、演:武田真治

·        「第1 幕府vs列強 全面戦争の危機」(20221016日)

·        「第2 戊辰戦争 狙われた日本」(20221023日)

·        新・幕末史 完全版(202313日、NHK BSP、演:武田真治)

注釈

1.   ^ 旧高旧領取調帳データベースによると、小栗上野介名義の旧領は約3,334石。

2.   ^ 現在の東京YWCA会館。

3.   ^ この時、ポーハタン号の随行艦である咸臨丸には、軍艦奉行木村芥舟が司令官、勝海舟が艦長として乗っており、木村の従者には福澤諭吉がいた。

4.   ^ しかし、結局ロシア艦を退去させるために英国海軍の圧力が必要となった。

5.   ^ 1メキシコドル=0.75両。一両の価値は一文と一両の価値参照。

6.   ^ 全施設が完成したのは1871年だが、江戸開城直前には第一船渠は完成し、第一、第二船台の工事進捗率はそれぞれ8割、6割であり、一部完成した施設では40馬力の小汽船が製造されていた[27]

7.   ^ 特に四斤山砲スプリングフィールド銃が主たる対象であった。

8.   ^ 慶喜が抗戦の意思を捨てて、絶対恭順の姿勢を見せるのは2月以降である。

9.   ^ なお、この件に関しては上野国狩宿関所役人・片山保左衛門が慶応4年(1868年)閏4月の日記に「小栗上野介如何様之儀有候哉」と記している[55]

10.        ^ 小栗の斬首の前に鎮撫総督本営から助命の沙汰があったが、現地に沙汰書が届いたのは斬首の翌日であった、という説もある[56][57]

11.        ^ ただし、本文中には必ずしも信ずるには足らずと註がある。

 

 

 

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