子規全集第9巻 書簡 正岡子規 2025.8.
2020. 子規全集第9巻 書簡 (非売品)
著作者 故・正岡子規
発行日 大正14年3月10日 印刷 3月15日 発行
発行所 (資)アルス 発行者 合資会社代表者 北原鐵雄
目次
Ø 明治13年 1
Ø 明治15年 2~6
Ø 明治16年 7
Ø 明治19年 8~9
Ø 明治20年 10
Ø 明治21年 11~14
Ø 明治22年 15~19
Ø 明治23年 20~47
Ø 明治24年 48~71
Ø 明治25年 72~147
Ø 明治26年 148~175
Ø 明治27年 176~213
Ø 明治28年 214~275
Ø 明治29年 276~313
Ø 明治30年 314~385
Ø 明治13年 1
日月匆々年已に暮れ明治13年の春を迎え余偶感する所あり謹んで愚簡を草して安部國手に呈す熟た客夏を顧みれば某月某日病に罹る乎(や?)実に困苦無彊其病たる之に罹れば生る者なく之に当れば死せざる者なし旦に歩行する者昏に黄泉の客となり夕に健壮なる者朝に蓮台の族となる然るに余九死一生を免れ唯独り世に存するを得るは実に國手の治術宜しきを得妙薬の法に適するによるべし。其伝染するも之を懼れず暑烈しきも之を避けず國手の厚情之を謝せんと欲すれども辞なく之を報ぜんと欲すれども能わず余今13年の元旦に逢うも実に國手の賜なり聊か濁酒1樽を呈し謝辞に易うるのみ時厳寒に逢う國手請う自愛せよ
明治13年1月5日 常規拝
安倍國手 机下 (松山市医師)
Ø 明治15年 2
東京から帰京した三並氏から供応を受けたことへの謝礼
東都は虎氏(コレラ?)横行して人命を一朝に奪攘する者多しと因って注意すべし
7月31日午後0時過より書き始め同日5時認め終る(松山の自宅より) 盟弟升啓
良豈 (東京、三並氏)
Ø 明治15年 3
先日即君の何校に入らるるや聞きわすれたので詳細を聞きたい
8月28日 常規 白 (松山自宅より) 良兄 (三並良氏宛)
Ø 明治15年 4
8月29日認 伊予松山の自宅より、東京の三並良氏宛
Ø 明治15年 5
当地も亦朝夕大に冷気を覚ゆ虎病も亦消滅せり貴処も亦同断の由復安心
10月16日夜認 愚弟升敬 (松山自宅より) 清貧兄 (東京、三並良氏宛)
Ø 明治15年 6
英語の何ぞ其れ此の如く広きや是れ英書の読まざるべからざる所以且つ英米の書我国に来りしより文化頓に開け已に開明の域に入らんとす
君が両3人より、余を目して漢学に熱心する者となすと聞きしあり。願わくは君よりして余の漢書に熱心するは何れの点よりして之を知るやを問い以て再びその所以を以て余に報ぜられんとを是れ亦知己の知己たる所以なり若し君にして此言を馬耳東風に帰し敢て亦言を発せざれば是れ余の知己に非ざるなり君請う其煩労を厭う勿れ且つ余に告ぐるに両3人の姓名を以てせよ是れ余の切に君に望む所なり頓首再拝
10月22日 常規 白 (松山自宅より) 良兄 足下 (東京、三並良氏宛)
別陳
抑も訳書なる者は果して何の為に設くるや我松山中学の如き多く洋書を廃して訳書を用ゆること多し是れ余の慨嘆に堪えざる所なり欝気心中に充満して黙する能わず
Ø 明治16年 7
付て曰く数カ月間音信疎なりしは実に恐入れり然し其文を兄弟にし其情を胡越にする者の比に非ず何となれば僕の心中は矢張君を懐うの念絶えざる故に後来必ず音信をくせん
4月30日認 升再 拝 (松山自宅より) 良様 (東京、三並良氏宛)
Ø 明治19年 8
10月25日 常規 (松山市にて) 伯父上様 (大原恆徳氏宛)
Ø 明治16年 9
11月13日 常規 (松山市にて) 叔父上様 (大原恆徳氏宛)
Ø 明治20年 10
7月21日 松山自宅より 美作国大谷藤治郎氏宛
Ø 明治21年 11
7月12日 正岡莞爾拝 (東京向嶋長命寺境内 櫻餅屋仮寓より) 美作国大谷藤治郎氏宛
Ø 明治21年 12
先日の試験には如何なる間違いにや意外に良結果を得られず御愁歎の至りに存候併し古歌にも うきことの猶此上に積れかし限りある世のこころためさむ ということあり些少の失敗に心挫け為に方向を変するは大和魂とは両立せざる者なり うかれだるま
藤の舎のあるじの御許へ (東京向嶋長命寺境内 櫻餅屋仮寓より) 美作国大谷藤治郎氏宛
Ø 明治21年 13
次韻(近狂体) (次韻:他人の詩と同じ韻字を同じ順序で用いて詩作すること) 一読付回録
8月27日 (東京向嶋長命寺境内 櫻餅屋仮寓より) 美作国大谷藤治郎氏宛
Ø 明治21年 14
Ø 明治22年 15
律の縁談の義は如何相成候
私一昨夜以来喀血数日にして全快するとの診断故御心配被下間敷候母上はじめ他の方々へは可成御話無之様祈上候 都合つき候はば金少々御送被下度奉願候
5月11日 常規 叔父上様 (松山、大原恆徳氏宛)
Ø 明治22年 16~19
Ø 明治23年 20~47
Ø 明治23年 32
平句(ひらく)について解説
貴兄も最早丁年に近き身の上とならせられ候えばいつまでも郷里に修学せらるるは御得策には無之と考候故鍛銓両兄様にも御話申候処別に御異存も無之候よりそれ故尊大人へも一寸御手紙を差上置候間貴兄御自身もよくよく御考被遊候上成るべくは今年夏頃には御上京可被成候御目的の処もしかとは承らず且つ何学校へ御入学の積りなるや御意見なければそれでよし若し御意見も有之候わば御報奉願候先は下手の長談義失礼御宥恕被下度候匆々不宜
5,6月頃 常規拝 (常盤会寄宿舎より) 秉五様 (松山市、河東秉五郎(碧梧桐は号)宛)
Ø 明治24年 48
君が迎ふる新玉の年を幸なれかしとことほぎて風呂敷の松竹梅に笑ひかほをかり君が契るをしの交り久しかれ」といのりてみそをするがのふじ山をすり鉢の尻に現はす擂木て腹切るのさわぎもあらば杓子にてとめるべしやき餅のふくるるためしを見て殷鑑遠からず(身近な失敗例を手本にせよとの意)と悋気をつつしみ給へきみは百までわしや九十九のともしらがを昆布にいはひ芋の子もちのにぎやかに末ひろがりの繁昌をひたすらここに願ふものは
世に「つきぬ眞砂のまちの道楽もの 都子規其中 (常盤会寄宿舎より)
明治20年あまり4年の正月元日といふ日
百年の寿命をいきどの坂、共に腰は弓町のかたほとり
三並はじめさま・同御夫人さま (小石川区 三並良氏宛)
追而牛蒡の長き葱の短き其効能はいはずともなるべし
Ø 明治24年 49~71
Ø 明治24年 55
小生未だ拝顔を得ず候えども賢兄池内氏の第4郎(5男)にしてしかも河東氏の親友(1年下)という已に相識の感有之候河東氏の談によると賢兄近来文学上の嗜好をまされたるものの如し聞く賢兄郷校に在て常に首位を占むと請う国家の為に有用の人となり給えかまえて無用の人となり給うな賢兄僕を千里の外に友とせんという僕豈好友を得るを喜ばざらんや併し天下有用の学に至ては僕の知らざる処賢兄の望みをみたすに足らざるは勿論なり併し文学上の交際を以て僕を教えんとならば謹んで誨(教え)を受けん 右御返事まで早々不具
5月28日 正岡常規 (常盤会寄宿舎より) 高濱賢兄 (高濱清宛)
玉詠拝見致し度候僕和歌を知らずと雖も時として君の一粲(さん)を博する事あるべし
Ø 明治24年 56
虚子との俳句のやりとりをしながら、俳論を展開
5,6月頃 正規拝 高浜雅兄
Ø 明治24年 57
河東秉五郎とも俳句のやりとりをしながら、碧梧桐の句を高評価している
1日 ほとゝきす 拝 (松山市自宅より) 青きりさま 御もと (河東秉五郎宛)
Ø 明治24年 60
河東秉君、高濱清君 両梧下
愚生在郷中は種々御厚志を蒙り難有奉存候
明治24年9月16日 西子拝啓 (大宮公園客舎より) 河東・高濱両名宛 (松山市)
Ø 明治24年 62
私試験成蹟は未だ相分り不申候併し課業は矢張2年生の方へ毎日出席致居候
先日御面倒相願候為替は悉皆借銭と利子とに払い込申候(理氏はなけれども45円も1人に借りていると洋食の1度もおごらねばならず高い利子に御座候呵々)尤2円許りは書籍費に費し候それでもまだ借銭は尽き不申今月分の月給を入れても足らぬ有様
10月15日 常規拝啓 (常盤会寄宿舎より) 叔父上様 (松山市、大原恆徳氏宛)
Ø 明治24年 63
放子の御雅名面白し実は小生先日一寸考えつきて「虚子」というのにては如何やと御尋可申これは君の名「清」の字にちなみたるものにて「きよし(虚子)」という滑稽清と虚とは殆どシノニムとも云うべきもの余曾て虚無子放浪子の2号あり皆今用いず而して君の名却て虚子放子となる亦奇というべきのみ穴賢
10月20日 京洛の大俗 常規凡夫拝 俗衣の今道心 若放子様 如意下
Ø 明治24年 71
「西鶴の如く読みにくきをまねるにも及ぶまじ」との御一言尤だが西鶴の文とて全く句調なきにあらず只馬琴・近松の如く同一句調(七五)にあらざるのみ新体詩が面白きとかつまらぬとか申事は詩体(フホーム)の上にあらずして観念(idea)の上に属し観念さえ面白き者なれば如何なる詩体にても面白きこと間違いなし僕の持論は七五でも五七でも一定したるものは今日の学者(学問教育のある人の意なり)間に行わるべきものならずとの考えなり
旧稿御焼すての由誠にけなげの御振舞感服に不堪候えども乍失敬少々早すぎるかと思う恐らくは焼捨の御決心は誠に斯道振興の一端他日の蘇老泉(中国北宋の文人で、唐宋八大家の一人。蘇軾・蘇轍の父。二子と共に三蘇)となり給わん事必然と期して相待申候
優美宏壮(高尚と同意)の2語は英語のBeauty and
Sublimityの翻訳だろうが源氏物語には優美余りありて宏壮足らず北条足利時代の小説にも先づ両方とも無之徳川時代にても馬琴其外僅かを除きては両方とも無之馬琴には両方とも有之も不完全謡曲には両方とも具足致し居候(尤1曲に必ず両方ともありとはいわず)近松の院本にも両方有之もつまる処宏壮なるものは大変の不足にて近松英の沙翁(沙比阿、シェークスピア)に劣れりと人の云う所以なり僕近来の小説を知らず公平に云わば優美はあっても宏壮は皆無幸い独り露伴なる1詩人(小説家でも宜し)あり破天荒の筆法を以て優美と宏壮とを兼ねたる大著述をなせり(風流仏を最とす)彼の著述に右2分子を含むことに於ては世界第一の称敢て諂諛(てんゆ)に非ず近者(此頃)伽羅枕(尾崎紅葉著)を見る両者含有すれど大不足(修辞学上露伴に遠く及ばず)
小生已むを得ざる儀に立ち至り現に1小説を書きつつあるなり其拙なること自分ながらうるさく此に至て小生自分の目的の無きに驚き申候
12月31日 西子拝(駒込追分町自宅より) 虚子大兄 (松山市、高濱清宛)
Ø 明治25年 72~147
Ø 明治25年 76
青桐君の手紙によれば大兄御病気の由如何の事やと御案じ申上候
草稿炎上に付て青桐君より攻撃の箇条有之も小生敢て左袒(さたん、味方する)に非ず只大兄が焼捨の早きを恨むのみ古人の草稿を焼きしはさとりを開きし時にあり併し大兄未だ恐らくは俳道の蘊奥を解し玉わじと思うが可なり焼捨々々又焼捨焼きてもやけぬもの相待申候
大兄小説家になっては飯が食えぬとて御歎きの由若し眞ならば小生は大息せざるを得ず。小生は家族を率いる故束縛あるがそれでさえ稍決心する所あり。貴兄家族も厄介もなくして何を苦んでか呻吟し給うや小説家で飯が食えねば百姓でもよし教師でもよし。乞食したとて何か苦しかるべき。貴兄は飯食うために世に生れ給いたるか、はた他に目的あるか。小説家になりたいが食えぬに困ると仰せあらば小生衰えたりと雖も貴兄に半椀の飯を分たん。其代り立派な小説家になり給わば小生の喜何ぞ之にしかん。小生友なし、ただ貴兄及び青桐君を以て忘年の友となす。大兄請う努力せよ。家事でも学問でも兄の目的に故障を与える者あらば小生乍不及痩腕をふるわん。小生敢て大兄に小説家になれと勧むるに非ず。只其意志を貫けと云うのみ齷齪(あくせく)たる勿れというのみ目的物を手に入れる為に費すべき最後の租税は生命なりということを記臆せよと云うのみ
1月13日夜1時50分認畢 子規拝 (駒込追分町自宅より) 虚子詞伯 (松山市)
Ø 明治25年 77
虚子五色の筆を練て天柱地維を補わんとの由眞に刮目して可待候筆とは何か詩か小説か
新葉末集(露伴)、伽羅枕(紅葉)、春の舎漫筆(逍遥)御閲覧の由小生も一読御評同説なり春の舎漫筆を見て同氏の修辞に拙なるに今更驚く余は同氏を泰斗と思い居りしに
1月21日 規 拝 (駒込追分町自宅より) 秉兄梧下 (松山市、河東秉五郎宛)
前便の通り当月は無一文にて小説書き直すにも只1本の唐筆全く禿し尽くして懐中余す所1銭6厘今日不得已南塘先生方へ行って25日までの処少々と御願候処早速御承引幾何程やとの御尋に1円といえば先生大笑して曰く英雄も水に及ざれば亦一挙手一投足の労を要するかと余も亦大笑す。而して実は1円の内半分は人のために借りたもの英雄末路如斯(かくのごときか)呵々 冬籠小ぜにをかりて笑はるゝ
Ø 明治25年 78
貴兄御書面の字を見るに筆法のくづれたる処多し。これ貴兄字に拙なるの故に非ずして注意し給わざるに座するなり。併し字は末枝なり今日詩文に孜々(しし)とし給う処へ又字を習い給えると勧めるに非ず。只手紙の5,6通か写本の10枚位も少し念入れて書き給えば其後は念入れて書かずとも自ら筆法をはづれぬ様に至るべし小生平生の手紙は棚に上げての論なり
1月25日夜2時過 卯花舎子規拝 (駒込追分町自宅より) 虚子詞伯 (松山市)
読み直せば消さんならん処多き故読み直さずに進呈無礼は許してよ
Ø 明治25年 81
当地3日ほどは非常の寒気にて嘸々(さぞさぞ)梅も肝を潰せしことと存居候処今朝起て見れば又々意外の大雪弊家庭前の願望だに中々大したことに御座候
小生先日中より12カ月ということを発明し(種々の題について、それぞれ12カ月に相応しい発句をすること)それ故毎日12句宛吐出し申候御高覧の上御斧正被下度候
拙著ようよう完成したりこれからの運命は未定に候。拙著小説は「月の都」と題して紙数(写本)60枚12回の短篇なり而して末2回は大方謡曲にてつゞまり居候
小生これから後は試験が続々と来り候故存外忙敷もならんかと心配致居候
2月19日 子規 (追分町自宅より) 碧梧桐伯几下 (松山市)
Ø 明治25年 82
拙著に付さう度々御すすめ被下候ては小生実に辟易天下万人の毀誉は一向に頓着無し只貴兄と高濱兄とをのみひたすらに恐れ候小生の意少し御憫察被下候上拙著を決して善きものとの御想像無之様奉願候拙著の貴兄の御気に入らぬと知り申候やそれは近来の発句にて相判じ申候小生近頃の傑作と自ら考へ候者をさし上候てもまるでいかんいかんといつも御叱責を蒙り候故小説とても其如くならんと存候況んや小生とても自ら面白しと思はざるに於てをや
今度の短冊は猶更御叱りを蒙んと存居候どうか思ひきり御叱り被下度候
2月19日夕 麻布にて煩雑中認 子規 青きりさま まいる宛 (松山市、碧梧桐)
Ø 明治25年 88
小生表記の番地へ転寓、処は名高き鶯横町 鶯のとなりに細きいほり哉
実の処汽車の往復喧敷(レールより1町許)ために脳痛をまし候 鶯の遠のいてなく汽車の音
剰へ家婦の待遇余りよからず罪なくして配所の月の感あり(高濱氏へも御報奉願候)
3月1日 (上根岸88番地自宅より) 河東銓・秉五郎両名宛
Ø 明治25年 89
午後幸田露伴を谷中に訪ふ。閑談3時間余胸襟洒落光風霽月(こうふうせいげつ、さっぱりとした心境)の天を現わし脳痛全く癒湯、露伴を訪ふ事已に2度数日前拙著月の都を袖にして同氏を訪い拙著中の趣向君の著述中より偸(ぬす)み来る者多し故に一応君の承諾を経且批評を乞うとしたが十分話が出来なかったので再度会いに行ったもの。相逢ふて談じ去り談じ来り快窮って躍らんと欲す。談ずるのは終始彼なり黙々又唯々(ゆいゆい)たる者は終始我なり。生は多少小説家の骨を得たり(肉は未だし)きと思ふなり
近者露伴子と俳諧を闘はすの約あり俳况は後便に報ずべし。尤同子も俳諧は左程の黒人に非ず 露伴閑栖 鶯の奥に家あり梅の花
3月1日根岸僑居にて 西子認 虚子兄・青桐兄 (松山市)
Ø 明治25年 91
露伴僕の小説を評して曰く覇気強しと又曰く覇気は強気を嫌はず僕の風流仏も当時は後篇を書かんと楽しみ居りしに今はいやになりたりと。僕いふ、覇気強からざるべからず、覇気強き時は目的も亦大なり。目的は如何に大なりとも段々に小になるの傾きあり故に目的は大ならざるべからず又覇気は強からざるべからず
3月10日 にしの子拝 (上根岸町自宅より) 青桐君足下 (松山市、河東秉五郎宛)
Ø 明治25年 93
拙著に付て毎々の御賞賛傷み入るの外は無之候同書先達て陸実(羯南)氏に相見せ候処それより高橋健三氏の手へ転じ今は二葉亭の手にあり候(二葉亭は小生一面識も無之)諸名家の手に相渡り候丈がせめては拙著の光栄と存居候
先日露伴の内を訪ふて小生約束の俳句を出せしかども同人は未成なりされど少し許り付合の興行をしたり
小生に謡の稽古を勧めらるるはどもりの長唄とやらんいふことに似てをかしく存候淵明は夢絃の琴を弾じ誰やらは無孔の笛を吹く小生豈無声の謡を歌はざらんや
今年程気候の不順にして雨勝なることは小生生まれて以来始めてなり本月10日も夜露伴を訪ふて春雨に閑談を盡し辞して戸を出づれば春雪霏々たり。思ひの外のけしきに天王寺の雪見をなしたる等雪はよけれども寒気には閉口なり
3月中旬 ほとゝきす (上根岸自宅より) 毀誉子君梧右 (松山市 高濱清宛)
Ø 明治25年 97
〇一昨日は文科の運動会にて狭山所澤などいふ処へ漫遊いたし候〇気候今に不順〇上野の櫻は満開に近し向島は半開とも行かず小金井はまだ枯木なり〇当地先日大火やけ跡もまだしみじみとは見ぬ位なり去年以来各地災多し
4月12日 子規拝 (上根岸自宅より) 秉五さま机下 (松山市)
こつじきの身ふるひするや初櫻 (こつじき:乞食)
Ø 明治25年 98
今度郷里へ行き候菊池謙次郎といふ男は兄(獣医学校の教師」の処へ行きしものなるが小生が東京にて得た友達の中で一番交際のふるき者なり此者は今小生等と共に在学し居るが国史科専門故文学界の事は能く知るまじけれど去りとて全く文学上の嗜好なきには非ず貴兄御閑あらば同人に就て何か御聞可被成候又御閑ならば同人を案内して御やり被下度候
露伴の内へは折々参り候が此頃ではまづ親友に相なり俳諧等闘し候先日の国会新聞に小生のと同人との発句連載致候故右御らん被成しならば同人の手並もほぼ相分申せしことと存候
4月 規 (上根岸自宅より) 虚子君 (松山市)
Ø 明治25年 101
虚子詞伯
〇男女12カ月の句には小生自らも気にくはぬ者過半なり。春の舎氏未だ俳句を解せざるが如し〇爾後露伴に関することは余り御記載被成ぬ様願ひ候。これらに付て小生の心事申上度は山々なれども書面にては却て誤解を来すの恐れもあれば御面会の時に譲るべし。御面会の期何れの時ぞ山渺々海茫々〇露伴の著に付ての御評は少々愚見を異にす。趣向は対(たい髑髏を第一とすれども文章尤拙なり。文章趣向共に佳なるものは風流仏なり。奇男子の文章は遥かに対髑髏の上にあり〇小生は棚草紙(鷗外の『しがらみ草紙』?)も早稲田文学(逍遥)も読まず当時有名なる両大家の論戦(逍遥と鷗外の「没理論論争」のこと?)さへ知らぬ位なれば文学上の理論は一向に存不申候併し世の中には言葉の争(定義の異同)多し。これ余の好まぬ所なり。貴兄僕の世界外なる語を評して矢張世界内なるを疑ふ。余曰くそれにてもよし若しそれならば世界内にも道徳よりさらに高尚なる者あるなり併し高尚なりといふは僕の感情に就てのみ。若し結局を論じつめなば如何なることも哲学上の懐疑(スケプチック)に陥るべし
5月4日夜 子規拝 (上根岸自宅より) 虚子様 (松山市)
Ø 明治25年 104
貴著渡守をよんで黙々に付し能はざるもの有り一書を呈し候貴兄自身の御推挙も有之小生も待ち設くる所ありかつ鞠唄の御手並もあればと竊(ひそか)に覚悟したが大に失望せし小生の心の中御察し被下度候。まず全体の趣向に就ていふに鬼の如く幽霊の如く又人の如く読者之を讀んで不思議といふ事より外に何等の感じをも起さず。全体の文章は如何というに葉末集と井筒女之助とを一処にして其短所ばかりを取りしというふが如きものなり。又一段一文一句に就ていふに趣向といひ文章といひ玼瑕(しか、瑕)百出ほとんど指摘するに堪へざるなり。余覚えず長大息するもの3度。貴翰に曰くことによれば清書して露伴にも見せよと僕今貴稿を讀んで而して後貴兄の未だ露伴に見せざりしを喜ぶなり。何ぞや。僕よりいえば露伴は他人なり貴兄は骨肉の如き感あり。我骨肉が他人の前に愧(はじ)をさらすは誰も喜ぶものあるまじ。吁(ああ)危哉
僕曾て貴著一葉桐を讀むこれ貴兄が23年前の作なり故に其拙劣なるを怪まず。今や貴兄又昔日の阿蒙に非るなり僕の刮目して待つ事亦尋常少年を待つよりも甚だし。而して今貴著渡守を讀む、讀み畢って其価値を考ふるに一葉桐に勝る事ただに一歩なるのみ。貴兄は之を以て天下に誇るに足るとなすか、後世に伝ふべきものと思惟するか。吁危哉
僕は保證すべしこれ学科の閑を偸みて作りし咄嗟の産物ナル事ヲ
僕は一時の感情に堪へず放言罵詈到らざるなし。貴兄山海の量を以て請ふ恕する所あれ。僕は生意気にも先生顔して貴兄を叱りたるに非ず。僕は兄が弟を責むるの情を以て貴兄を励ましたるのみ。貴兄腹を立て賜いそ
併し最後に一言することあり貴著は乱雑粗暴支離滅裂なり然れども其支離滅裂の中に一点の光彩燦然として掩ふべからざるものあり。この支離滅裂を来せしこそ貴兄の感情観念を見るに足る者なれ。貴兄已に此極度に達す。たのもしたのもし。刮目して次回の著作を待たん(此次の課題は「手習草紙」なり合作の方は「富士詣」なり)
5月9日 子規拝 (上根岸自宅より) 青桐賢兄 (秉五郎宛) 御一読の上火上
Ø 明治25年 105
古書を売り切手にかへて恵み給ひし御厚志今に始めぬことながら感謝に不堪候
前便貴著渡し守に付て暴言を呈し候処早速御状被下しかも御懇篤の言語にて謝し給ふより外御𠮟も無之甚だ恐れ入候小生の一言位にて失望し給うふことなかれ逡巡し給ふ事なかれ。貴兄には左様の事は無御座と存居候得共猶御勉強の程奉願候
5月16日 子規生拝 青桐大兄虎皮下 (其他前同断)
Ø 明治25年 106
虚子足下
拙詩に和し玉ひたる貴作拝誦僕今まで貴兄の詩を作らるることを知らざりき乍失敬望みありと存候猶勉励奉祈候。目出度御卒業の上本科へ御入学の趣大賀々々
習字御勉強に付小生へ手本を書けとの難題貴君の事故小生別に謙遜は不致候へども実の処小生の如き手習もせぬ我流の拙筆を御習ひ候はばどのような字が出来候やも難計願はくは好手本を見つけて手習ひし玉へ仮名ならずとも漢字にてよろし名手の筆ならどんな流儀でも御習ひ被成候て」わろくはあるまじく候只頼山陽の書の如きは如何やと存候
5月16日 子規生 (上根岸自宅より) 虚子詞兄梧下 (松山市、高濱清宛)
Ø 明治25年 113
両兄の御句は近頃めっきり御上達被成候其上近来拙句及び愚生が送りし俳友が句の御評など承り候に大かたは愚見と少しも違ひ不申此趣にてはしんしんとして御進歩可被成と奉存候
俳句に限らず少し道がついてくると自分の句ばかりよく自分の意見ばかりよく人の句人の意見などはからッだめと外は相見え不申候これは愚生が経験せしところにて愚生2年程前よりふとおのれに得る所ありと思ひしより後は自分ほど名句を吐くものはなく存じ終に明栄社へも句を送らぬという様に相成候然るに23ヶ月を経て見れば又自分の句作見識が進歩したる感ありて其時のもののみよく相覚え申候故試みに前によろしと思ひし自分の句を取り出して見れば全く論ずるに足らぬ拙劣至極のもの許りなり・・・・此の如くして行く間に段々に進歩するものなればわるくは無之候へども只はづかしきことは前方己が悟りしつもりにて自慢らしく人に語りし事などを思ひ出しては汗背をひたすことのみに御座候只願はくは貴兄等ももし左様の御感じ有之候共他人に対し(小生又は両兄の間などは特別也)て得意がましきこと可成り御咄被成ぬ方よろしからんと乍失敬奉存候小生昨日曾てより馬鹿にしきったる眞砂のしらべ(明栄社発行)の中の連甫翁(愛媛の俳人)の句を見て実にはぢ入申候余は今迄我眼低くして眞砂のしらべの中にかほどの名句あるを知る能はざりし訳に御座候
6月27日 子規子拝 (上根岸自宅より) 青桐兄/虚子兄 (松山市)
Ø 明治25年 116
御聞及びにも候はん小生終に落第の栄典に預り候故 「水無月の虚空に凉し時鳥」
辞世めきたりとて大笑ひ致候
7月20日 常規 (松山市自宅より) 良兄 (五百木良三氏宛)
Ø 明治25年 118
小生の落第を喜ぶもの広き天下に只貴兄1人矣
8月2日 子規拝 (松山市自宅より) 良三詞伯 (五百木良三氏宛)
Ø 明治25年 120
拙著俳諧系統一面も御手許に残り居候や若し有之候はば一家20句と共に御序に御送り被下度候又切抜の俳話も御用済みに相成候はば可成早く御送り被下間敷や乍失敬右奉願上候
一昨日は南塘先生来庵競吟4,50句昨日は非風(新海)瓢亭2子来庵午後競吟17,80句瓢亭帰営後非風と2人にて1題100句のせり吟興行仕候(時間2時間許り尤中にて飯などくひ申候)其題は鹿也
9月5日 規拝 (上根岸自宅より) 青桐兄几下 (松山市)
Ø 明治25年 120
乍御面倒金子(きんす)幾何(いくばく)にてもよろしく御送り被下間敷や出立の節給費がたまり居るべしとの御咄御座候ひしが右は前取にして帰郷之節の旅費にあて候故何もたまり居らず候尤本月分のは御話申上候次第も有之候故貰ひ不申候旅費も不足して新海にかりるし帰って見れば留守中の家賃(初めはいらぬといひし)も取られるし予期したる収入は存外に少し奔走には多少の車賃等も要し候(呵々)次第故幾何にても御送り被下候様奉願上候尤多少余所にて借りし故5日や10日位はどうかこうか待てぬことは無之候御都合によりて如何様とも御取計被下度奉願上候 先は用事迄恐惶謹言
9月8日 常規 (上根岸自宅より) 叔父上様 (松山市、大原恆徳氏宛)
Ø 明治25年 123
小生帰京後例の始末に付大奔走中之処不図肺患にかかり始めは押して歩行も仕りしが昨今はまづまづ臥褥罷在候肺患といひたるは誇張のみ只痰に多少の血痕を印する位なれば咽喉だか何だか分り不申候尤医者にさへ見せぬ位也
当地此頃は1題100句という事はやり、鹿、露、蕃椒(とうがらし)等にて既に200句づつ試み候只今は笠(秋季)100句の宿題試み中に候仲間は内藤先生新海と小生3人なり
9月11日 褥中仰き書す 子規(上根岸自宅より) 虚子詞伯几下 (京都市、高濱清宛)
Ø 明治25年 125
訪逍遥子 夕月夜萩ある門を叩きけり
10月1日 (上根岸自宅より) 五百木良三氏宛
Ø 明治25年 127
大蔵事務に付ては種々御面倒相かけ候段恐入候折角御送被下候故思召にあまへて当大磯へ出掛申候此地は先年来度々首出し仕候ひし處故何か目さきの変った處と存候得共病気の為には松林が宜しと申又餘り不自由な處も保養に成間敷くと存又々ここに相定申候
金員も保養費と前々よりの借金に対して身動きならず處常盤会は特別の御憐愍を以て本月まで給費被下候故萬事略々埒明き当地へ罷越様に相成申候
今後方向の事は今朝も出掛に一寸陸氏へ依頼仕置候又早稲田文学よりも多少依頼を相受あれやこれやにて何分内に居ては出来兼候故暫時当地へ来り候訳にて保養兼仕事片付位之處に御坐候先は不取敢要事まて恐惶謹言
10月3日 常規拝白 (大磯、松林館より) 叔父上様 (松山市、大原恆徳氏宛)
Ø 明治25年 128
暫く御無沙汰故何を申上ぐべきやら忘れ申候当地へ来り贅沢に愉快なる日を送り申候人よりの依頼は内に居てはどうしても出来申さず候何となれば内に居ては自分の仕事許り従事致候故也。今1週間は滞在の積。高濱も丸で手紙よこさず。小生もどうやら俗界へ出掛申候
10月3日 規 (大磯、松林館より) 秉君 (松山市 河東秉五郎宛)
近頃思ふ事ありてふじ雑詠12,30首相連ね候尤客舎半日の即興に候へば1句として取るべきなきは先日中の1題100句にも遥に劣り候へども御笑種にまで御覧に入れ候御叱正
元日やふじ見る國はとことこぞ 初夢の富士を坐頭に見られけり
Ø 明治25年 129
玉書拝誦益御健勝拝賀々々御上京後眸頭耳辺(ぼうとうじへん)の事物皆新奇なれば定めて無量の御感情相起候事と存候如何なる事物にても餘り新奇にして驚駭(がい)する程に候へば兎角雅致には至り難きもの故京都旧風光に対する大兄の新観念は未だ俳句にも文章にも現はれぬも御尤に御座候其内御名吟もあらば御漏し被下度奉願候
小生辞表の1件は大方御存と存候が今般いよいよ落着致しさうにて小生の願ひ通りに相成候左すれば今後は如何なる職業にありつくやも難計候故其前に旅行と出掛申候
東都にても其後は雅会少く候尤蕃椒(とうがらし)100首の後笠100句(秋季)乞食100句等興行致候乞食の時に作者7,8人の多数にて中々盛大にて候ひき当月末までの課題
荻水字結5句以上 鶺鴒10句以上 白12か月
等に御座候御閑も御座候はば御送致被下度候
新海は入院五百木は演習、古白は旧草廬(そうろ)にあり破蕉(鳴雪の号)先生益以て熱心なり
御寓居景致宜敷由健羨それらは東京にては迚できぬことなり食物はわるしとそれは東京の方よかるべし。送別の御句難有候面白き様奉存候
東京を発する時留別の句 その日までどこをかけらん月の旅
又名月の句前びろから得たり 名月のうしろに高し箱根山
10月4日 子規拝白 (大磯、松林館より) 虚子兄 (京都市 高濱清宛)
Ø 明治25年 130
先日来度々御枉駕被下草扉の栄誉と存候尊稿拝誦仕候例にまかせ宗匠らしく悪口書き入れ申候無礼之段は御海容被下度奉願候。先は右要事迄恐々謹言
10月4日待宵のひる中明日の天気を気遣ひながら
10月4日 松林館楼上 子規認 秋虎老伯 几下 (得能文氏宛)
得能文(とくのう
ぶん、1866~1945)は、日本の哲学者。越中国(現富山県)生まれ。1892年東京大学文科大学哲学科選科修了。第四高等学校、東洋大学、日本大学、東京帝国大学講師、東京高等師範学校教授
Ø 明治25年 131
拝啓小生つづまりけり当地へ滞留帰京は早くとも猶4,5日を要すべしと存候明月は如何十六夜は如何 十六夜は待宵程にはれにけり
10月7日(端書) 相模大磯松林館 子規拝 牛込区 夏目金之助氏宛
Ø 明治25年 133
尊稿富士100首拝見仕候是非妄評を加へよとの御懇命により僭越を憚らず蛇足をそへ申候
10月9日 大磯客舎に於て 正岡子規識
元日や凡そ動かぬふしの山
元日にふじの取り合わせは今更珍しからねど能く陳套を襲はず凡そ動かぬと7文字に句の体を定めたる筆意、句法奇抜にして然も法度にはづれざる処小生等初学者の夢想にも知らざる所感服之外無之候
松宇宗匠玉几下 (伊藤半次郎氏宛/俳人、古俳書収集家)
甚だ恐入候へとも序に思ふ事申上候多くは平穏、蕪村等の奇抜勁健なる分子を御加味被成候はば一段の光輝を相添へ可申又皆当世風の句調にて稍卑俗に傾き易く小生は何となく嫌厭を来し居候小生は躊躇なく元禄を取る元禄時代の句は十中九分九厘までは句法蒼老にして一点の虚なきは勿論其意匠も亦幽遠にして風韻多き様存候 規妄言死罪
Ø 明治26年 148~175
Ø 明治26年 148
初空や初日初鶏初がらす
明治癸巳正月 京根岸の里 鶯街隠士 (上根岸自宅より) 河東秉五郎宛
Ø 明治26年 158
御句沢山拝見観仕候へども乍失敬これと申すべきもの1句も無御座候様存候大兄恐らくは実地吟咏になれ給はざる故ならん先日弊屋運座の時の御手際等とは大変な相違に御座候
5月10日 子規拝 (上根岸自宅より) 虚子詞伯几右 (京都市、高濱清宛)
Ø 明治26年 160
玉什(ぎょくじゅう、立派な詩歌)十数首拝誦これも余り振ひ不申様見うけ申候
大兄御身の上折々一寸高濱より聞く位の事にて毫も不相分聞く所によれば同郷会も退会せられ給ひし由近来何か変わったる御事も有之候哉芝居に耽りて同郷会の機嫌をそこねたる位なれば何の事もなく候が何か外に珍事にても出来致そうろう訳にや如何
5月26日 規拝 (上根岸自宅より) 碧梧桐詞宗几下 (松山市)
Ø 明治26年 167
瘧(おこり)は落ちて身体衰へそこへ少々の気管支炎に悩まされ候最早医師に許され東京出立奥羽に向かう地方俳諧師の内を尋ねて旅路のうさをはらす覚悟にて東京宗匠之紹介を受け既に2人おとづれ候へとも恐入ったる次第俳諧の話しても到底聞き分ける事も出来ぬ故ありふれた新聞咄どこにても同じ事らしく其癖小生の年若きを見て大に軽蔑しある人は是非幹雄門(白河の俳人三森幹雄)へはいれと申候故少々不平に存候此熱いのに御行儀に坐りて頭ばかり下げていなければならぬといふも面白からぬ事に候せめてはこれらの人々に内藤翁の熱心の百分の一をわけてやり度候面白き事はなく第一名句は1句とても出来ぬに困り候
7月21日 子規子拝 (郡山旅舎より) 梧桐伯/梧楼子足下 (松山市、秉五郎宛)
Ø 明治26年 170
寄宿舎の夏季休暇果たして如何愚生財政困難のため真成の行脚と出掛候処炎天熱地の間にむし殺されんづ勢いにて大に辟易し此頃は別仕立ての人車追ひ通しに御座候風流は足のいたきもの紳士は尻のいたきものに御座候
秋高う象潟晴れて鶴一羽
4,5日の内に帰京可致候
8月(端書) (羽後国大曲駅旅館より) 夏目金之助氏宛 (本郷帝国大学寄宿舎)
Ø 明治27年 176~213
Ø 明治27年 177
御恩賜之緋蕪一包本日到着仕候ありかたく翫味可仕候
日本新聞社にて絵入小新聞を起こす事となり就而(ついて)ハ私が先づ一切編輯担当之事内定さすれバ毎日繁忙之身と相成候第一に感ずるハ衣服新聞屋としては多少必要の廉(かど)有之昨年末御送被下候ものにて羽織袴だけ出来候着物に困り候尤岸叔御周旋にて1枚拵へ候へども安物買の銭はたしとやら2,3度着た許りにて最早役に立たぬように相成申候準備の為毎日奔走致さねばならぬ次第に被成候へどもそれも着物なくては閉口致候次第に候へば甚だ御無理とは存候へども着物代若干至急御送金被下間敷や毎度恐入候へども願上候
正月8日 常規(上根岸自宅より) 叔父上様 (松山市、大原恆徳氏宛)
Ø 明治27年 178
(瓢亭訪問以後貴兄の俳句頓(とみ)に御上達被成候又昔日の阿蒙に非ず候)
鳴雪翁帰京後大兄等の御近況委細承りうれしく存居候先日は瓢亭(五百木良三)も貴寓を驚かし御同遊被成候由健羨(けんせん)の外無之候瓢亭に付ての御評論貴書 並びに鳴雪翁直話にて承知致候碧梧桐子は同人の小説落花紛々につき感じ入候由これはけしからぬ事と存候碧子へ御面会の節御申伝被下度候
扨今日の御書面の趣一驚致候撰科御入学のよしは前々より承り候へども今日只今高等中学をやめて撰科へ御入学の御志とは驚き入候本科と撰科との比較に就ての論ならば又格別なり高等中学を修業し給はざるに至りては小生断然異説に御座候理論はとも角も小生実験より得来りし智識によるも中途にして大学をやめたるは今日より考ふるも何の遺憾も無之候併し高等中学校を卒業したるは誠に小生一生の大快事にて今日といへども一たび思ふて此事に及ぶ毎に(以下散逸)
1月10日 (上根岸自宅より) 松山市、高濱清宛
Ø 明治27年 188
小生此頃頑健に相成り日々俗事に従事罷在候近来御俳境頓(とみ)に御上達大賀の至に御座候先月転居(上根岸88番地より82番地へ)致候矢張前の家の2,3軒隣に御座候これは兎角お婆さんと喧嘩致候結果に御座候〇俗事閑暇を得ず俳句の研究は中絶の姿に相成り残念に御座候段々家事等の苦辛相覚候故世の人の殊に学士連の閑々として居て大金を攫取するは羨敷御座候小生も養老金でももらいひ隠居して学問に従事さしてくれなば一ぱしの学者に成るつもりに候へども此利口な世の中にそんな間抜けは無き様に候呵々
3月31日 規 (上根岸自宅より) 藤兄玉机下 (美作国、大谷藤治郎氏宛)
Ø 明治27年 196
「小日本」は経済上の一点より本月15日を以てあへなく最期を遂ぐる事と相成申候幡随院長兵衛も今1冊で終り媛鏡も其日を以て無残の最期歌川氏募集発句も皆結了の都合而して臨終の日は即ち7月15日玉祭の日(靖国神社のみたままつり/芭蕉が元禄7年7月15日の松尾家盂蘭盆会(魂祭=玉祭)で亡くなった寿貞尼を詠んだ歌がある)に相当り候奇なり妙なり天命の定まる処と存候
7月10日 (上根岸自宅より) (五百木良三氏宛)
Ø 明治27年 197
朝鮮事件もいよいよものに相成候様にていさましく候日本6頁は小生少も手をつけず石井許りに相任せ5頁だけこしらへれば善き事故毎日2時頃出社4時過退社致し候次第にて小日本よりは大分楽に相成候併し時々3段も4段も埋めにやならぬには閉口いたし候御多忙と御不平とは思ひやられ候へども時々は5頁種御製造御送り被下度候朋友盡さり盡くして知人寥々(りょうりょう、少ない)時として東京が田舎になりたる如き感有之候碧梧虚子ともに仙台と相定まり申候故9月頃ぞろぞろと上京可致候今日の風雲にては結局難分候先々持久の計画肝要に候
7月 規 (上根岸自宅より) 瓢兄几下 (五百木良三氏宛)
朝鮮事件と俳書の関係 鳴雪翁は朝鮮事件の為に行末覚束なしとて俳書などの買入を見合されたるよし
Ø 明治27年 204
御身の上承り御心中察入候小生亦貧家に生れ殊に身体虚弱なるため常に不自由勝に相くらし候はども天運廻り合せよく左迄難儀も致さず人の金で学問して漸く今日までこぎつけ申候病体に付ても一時は自ら神経をいため候へども大患後は全く相あきらめ候様に相成候世界を大観し心胸を濶(ひろ)くし不撓不屈の精神を以てどこまでも押着に世渡りすること肝要と存候不遇の為に厭世的思想を起し轗軻(かんか、困窮・不運)の間に不幸を歎するは悟らんとして未だ悟らざる者と存候世道日に危く人事月に非也我に於て何かあらん彼は彼也我は我也不遇歎ずるを用いず不幸愁ふるを要せず磊々落々として一世を竟ふ是れ僅かに悟る者なり不遇を不遇とせず不幸を不幸とせず是非を一にして吉凶を等くし自ら此俗界に立ちて己の
素志を貫く者即ち是れ大悟徹底的の人物以て與に談ずべきものと存候小生頃者(けいしゃ、此頃)ますます感する処あり故に御一笑に供へ候書余可在拝眉の節候以上
9月10日 規 (日本新聞社より) 露月兄 (安房千倉温泉旅館、石井祐治氏宛)
何とせん母痩せたまふ秋の風
Ø 明治27年 205
碧梧桐兄に白す 高黍(たかきび、もろこし)の古河の夕くれ馬もなし
という御句を第一として其他面白き句ども有之候へども全体としては駄句多き様見うけ候
虚子兄に白す 政治学云々の事御申越の処小生一向其意を得ず候一々順序だてて申さんもうるさければ1つ書に致候大略御推察あるべく候
一 貴兄政治家に適せざる事
一 政治家は競争多き為に下手なデモ政治家にては金のとれぬ事
一 政治学は先づ経済学を心得て然るべく決して一国の政治を為す者に非る事
一 曩時(のうじ、先頃)には万障を排し去りて中学を退きし其人が今は復校と同時に学科の1小事件に拘泥するは同一の人の所為とは思はれざる事
一 前後矛盾の所行言語多きは精神の平和ならざるを証する事
前日途上の談話と此書とにて愚意は盡きたりと存候此上は大兄の御判断一つに候つまる処大兄が安心立命の地を得らるると信ずる方へ赴き賜ふべし政治科にて安心が得らるれば政治科よろしかるべく候自ら不安心なることを自ら誤認して安心となす程愚なる事は余り例の
無き奇談と存候理屈に訴へて判断せらるる迄もなく感情を静めて而して後感情に訴へ其指示する方に赴く事勿論なるべく候小生実験によれば22,3の時は大略分別のつく時と存候両兄とも最早海月の如く如くにやにやとして浮世の風浪に漂ひ居るべき時機にあらず毅然として立つ所を御求め可被成候書余譲 後鴻 不乙(こうこうふいつ、十分意を尽くしていないこと)
9月17日 平壌捷報の達する日 子規(上根岸自宅より) 碧梧桐大兄/虚子大兄 (仙台市)
Ø 明治27年 209
学校御退学を御決定被成候由誠にめでたく存候それ位之御決心なくては小説家には迚(とて)もなれ申まじく天ッ張れ見上げたる御事と祝ひ申候虚子君の復校せられてよりまだ半年も立たぬ内に又々貴兄の退校とはよくよく入組んだ仕掛けにて天公の戯謔も亦おもしろく候(以上世界観) 退校はとめるべきだった殷鑒遠からず(いんかん、戒めとすべき例はごく身近なところにあるものだというたとえ)虚子兄にあり学校をやめることがなぜ小説家になれるか一向分らないように思われ学校をやめて何となさるつもりか独学の難きは虚子兄の熟知せらるるところで同兄から御聞取り成さるべし況や家郷と縁を断ちても遣りつけんとの御決定の由「ただ1人の糊口なればそれでよろしき事と思ひ居候」との御詞は已に世の中を御存知なき証拠なりつまり貴兄の退校は先日の虚子兄と同じく学校がいやといふ一点より湧き出した考にて学校を出て後始めて学校の極楽場たるを知るの愚を学び賜はぬかと推察致候。それよりも茲に尤もをかしきは御書中「これ実に小子の身に於て最大激変なり」などと書き立て給ひし事なり貴兄自身に於て最大激変と思ひ給ふ程ならば先づ学校はやめぬ方が善きかと存候人間世界で最大激変といふ事は総て善からぬ事に候自分の事いふではなけれど小生の退学せし時等は小生自身に取りては毫も変動なかりし事にて1週間に1度位登校せしものが其義務を免れし位之者にて候ひき鷺は立つてども後を濁さずとか退学するにしても先づ此学期だけは試験をすまし冬期休業には一旦御上京なさるべく御面会致候上縷々可申上候(以上個人観)
10月29日夜獺祭書屋燈下に認む (上根岸自宅より) 仙台市、河東秉五郎宛
Ø 明治27年 210
虚子兄足下
貴著小説1篇拝読文章は思ひの外に御上達面白き事限りなく候御趣向の方は小説でも何でもなく候貴兄はどこに美といふ事があると御思ひ被成候哉楽屋落は美にあらず剽窃は美にあらず陳腐は美にあらず平凡は美にあらず空想と実際との相の子は美にあらず扨美の在所を見出すに苦み申候是非直せと被仰候へば試みに雌黄(しおう、誤りを直す)を施すがそれは只文章上の事のみにて何の役にも立たず何として善きものやら一応御伺申上候
碧梧桐兄足下
御教示の小説拝見仕候読みかけてどうやらこれも楽屋臭くは思ったが楽屋落も随分仲間には面白きものと読み進めるも第4回の終りに至りて本を投げ出し二度と手にとる気はなく候第一文章の拙さ加減はこれでもあの碧梧桐君の作かと思ふ許りなれどそれもそれとして置て扨趣向はといふと全体は知らず第4回までの所は虚子兄のと一般小説の小の字も見え申さず候議論は美でなく独合点は美でなしいやにくどくどしつこくうるさく油こき装飾(文章)を被りたる感情は少しも面白きものには無之候俳句の上で考えても天然物を下手な擬人法にした程いやな物のない事は萬々御承知と存候此度の御著作は頭から厭味といふ事許りにてかたまりたるものと被思候今度御目にかかり候事あらば其節御話聞きながら一読可致候
畢竟するに小生が今度の両兄の作を見て非常に其拙に驚きしものは所謂三日不見刮目して俟つべし(先入観などを捨てて新しい目で相手の変化や進歩などを見直さなければならないということの譬え)との金言を守ったもので両兄近来小説御熱心との報は度々耳に致し居候ひし故定めて驚天動地の大作ならんと存じ居候ひき然るに虚子兄の作は趣向浅く碧梧兄のは文章最も拙し豈失望せざらんとするも得んや
小生これまで両兄の文章に於て趣向に於て度々褒詞を呈したがそれは両兄を以て一人前の文学者と見て褒めたのではなく普通学に束縛せらるる書生が課余にものする文章小説俳句としていたく賞賛したもの今や両兄とも志す所ありて高等中学を退学し一個の19世紀文学者たらんと欲す小生は両兄に対して更に注文すべきもの多し両兄の過去のものを文学者として見んか平凡ならざれば陳腐幼稚ならざれば佶屈(きっくつ、文章が難しく意味のとりにくいこと)殆んど見るに足るべきものなかりき両兄自ら以て足れりとなすかは知らずこれより何として修業せらるるか貴書によれば最早独学といふが如き迂策はとらないというされば両兄は最早学識に於て文章に於て古人の智識を借るに及ばずとせらるるものの如し小生は両兄に向って実に危険に堪へざるものあり両兄は今までに収め得し文字と智識とを以て今世の斗筲(とそう、度量の狭いこと)輩はいふに足らず古来の大豪傑迄を圧倒せんとし給ふか其大胆には敬服すれども其の自ら力を揣(はか、推し量る)らざるに驚かざるを得ず只恐る群盲を圧殺せんとて両兄が目より高くさし上げ給へる大石は存外に重くして他を圧するよりも先に己を圧するの不幸を見ん事を
これは直接に学問より得べきものならねども両兄が美という観念に乏しきは今度始めて之を知り申候今日の小説家と雖も美の観念に至りては或は両兄の上数等にあるやを疑ひ申候小生の経歴は総てに於て遅々たる進歩をなしたり殊に両兄等に比すれば万事3,4年の差あり小生か両兄年代に於ては俳句でも文章でも実に幼稚にして愧死(きし、死ぬほど恥ずかしく思うこと)に堪へず両兄の想像も及ばずと存候然れども美(極めて幼稚なれど)の観念に至りては或は両兄より一等を進め居候様に覚え候
之を要するに高等中学生たりし両兄に向っては感服せしもの多し然れども文学者たる両兄に対してはあきたらぬ者多し擱筆(書き終えること)
時は夜闌(たけなわ)時辰儀(じしんぎ、時計の古い言い方、クロノメーター)1時を指す
11月2日 褥中にて 子規 (上根岸自宅より) 碧梧兄/虚子兄 (仙台市)
Ø 明治27年 213
小生は全く俗了し発句會も月に1度あるかなきかの有様桂山(石山)得中(石井)両先生など余り拝顔を得ず桃雨先生も承れば俳事抛却俗事御勉強の由併し当地仲間皆々上達多少の新顔も出来申候鳴雪先生は不相変健在熱心に風詠に耽り被居候
碧梧桐虚子両人とも学校をやめ碧梧は只今小生同居虚子は小石川に非風と同居瓢亭は只今鳳凰城(遼寧省の清国軍の城)に罷在候洒竹先生も此頃昔程書物集まらぬにやに見受け候古白は先日上京致し兎角病気よろしからず月並の句を作りて独りよがり候は何分済度難致候
右取りあつめ遅時の御返り花に如斯御座候九拝
12月31日 規 (上根岸自宅より) 松宇老臺几下 (深川区、伊藤半次郎氏宛)
Ø 明治28年 214~275
Ø 明治28年 214
古よりためしなき年のはじめの御よろこびめでたく申しをさめ候皇軍しきりに勝ち神国の名は外国人にあがめられ候事御同様体系の至りに候右御祝詞まであなかしこ
1月1日 (上根岸自宅より) (香取郡常盤村、林僊吉氏宛)
鼠どもの蓬莱(新年の蓬莱飾りのこと?)をくふてしまひけり
(林僊吉:林泰輔(高師教授)の弟。後平山僊吉。農村文化の向上に努める)
Ø 明治28年 215
扨私今度或は新聞記者として従軍いたし候様に相成可申と楽み居候方面は未だ何れとも決定致さずも大概大阪師団に付随致すべし存居候右に付き事誼によりては多少〇(カネ)の御無心申度候に付甚だ恐入候へども其御積りにて御計画願上置候
1月9日 常規 (上根岸自宅より) 叔父上様 (松山市、大原恆徳氏宛)
再伸 近来は議会掛にてつまらぬ事に多忙甚だ困入候私等後備兵がなる事人物の払底なり
Ø 明治28年 218
拝復爾後碧海青天御目にかからざること数年北海あたりと許りはほのかに聞き居りし処計らず音信に接し坐(そぞろ)に懐旧之情に堪へず候7変人の起居に就ては折々伝聞候66へとも今は小生も面会する者少く大概は2,3年来膝を接せざるもののみに候先づ關甲子郎は消息十分ならず東京に在て日本中学校(もとの英語学校)の教員などつとめ居る事に聞及び申候菊池謙次郎は文学士となりて山口の高等中学校に教授たり神谷豊太は理学士となりて大学院に修学致居候秋山真之は筑紫艦に乗込とは聞たれども消息無し清水則遠は依然谷中の旧墓地に眠りて香華を供する者も無之候小生は身体孱弱(せんじゃく)殊に軽小の肺患にかかり候以来高等中学校だけは卒業致せしが大学は中途にてやめ其後は何の為す事もなく碌々として当社に這入りこみ其日其日の口を糊し居候
10年は一昔とやら焼芋をかぢりて端唄の稽古を試み衣物を質に典して白梅亭に遊びしも思へばきのふにて今日は早やお互に一人前の叔父さんなり
僕若し北海に遊ぶの期を得ば必ず御尋可申貴兄若し上京あらば柴門を叩き給へとしかいふ
1月29日 獺祭書屋主人 (上根岸自宅より) 井林雅契几下 (札幌、井林博政氏宛)
日清戦争愉快に堪へず小生も亦従軍之志勃々として已まず候へども何分体力不十分之為め先づ先づ見合せ居申候
Ø 明治28年 219
昨夜は燈火に哲学論を起草致候小生の哲学は僅かに半紙3枚なり併し是にて数千年来の前賢碩儒の説は皆倒れたりと存候(法螺に非ず)小生此の如き大言致し候事今回が始めてに候其論の第1條を示せば
(1)
我あり (命名) 我を主観と名く
(命名) 主観ありとするものを自覚と名く
の如し其他皆之より演繹せしものなり此我と云ふは言ふに言はれぬものなり世間の我といふ意味と思ふ可らず其余は略し候云々
(1月、上根岸自宅より) (在清国鳳凰城従軍中 五百木良三氏宛、『子規言行録』より抜粋)
Ø 明治28年 220
小生昨日安着致し候古島は台湾ときまり小生は近衛と相定まり申候
貴兄従軍に就ては古島氏など周旋の結果或は出来可申かと存候
名義は「東京画師」付属軍隊は大阪師団なるべきか就ては貴兄拵えの願書及び履歴書等を要し候に付至急御回送相願度候委細は仙田氏に御聴可被成願書はこちにて相認め可申に付貴兄と陸氏と連印にて白紙御送被下度候履歴書等も可成俗に奇麗に書きたる方よろしく候当用迄匆々
2月7日 子規 (上根岸自宅より) 不折詞伯 (中村鈼太郎氏宛)
Ø 明治28年 221
河東秉五郎君足下
高濱清君足下
僕足下と交遊僅かに数歳而して友愛の情談心の交恰も前世の契約に出づるが如く然り僕の志すところ常に之を開陳して利害を足下に問ふ其足下に望むところ亦之を披発して以て省慮を請ふ事の得失行の可否胸臆を盡くし肺肝を灑(そそ)ぎて而して後に已む足下また僕の躁狂を咎めずつとめて卑言を容れらるるを辱(はずかし)うす歓喜禁ぜず手舞ひ足躍らんと欲す
今や日清事有り僕亦意を決し一枝の筆を挟み軍に従はんと欲す訣別の情に堪へず而して竊(ひそか)に思ふ足下僕の意の在る所を知らず尫弱(おうじゃく)事に堪へず中道にして斃れんことを畏るるものの如し平生の交情既に篤し今足下に対して一言の之を弁ずるなくして可ならんや
僕の志す所文学に在り文学2種有り詩文小説を作為する雅事と文学書を編纂し文学者を教育する俗事なり前者は遍く天下の景勝を探り博く世間の人情を究むるを要すその為には身に
世務あるべからず家に煩累あるべからず而して僕共に之れ有り後者は材料を蒐め英才を集めんとすれば巨万の黄金なかるべからず若しくは顕彰の地位なかるべからず而して僕倶に之を欠く孰(いず)れの道に従ってか以て素志の万一を為すことを得ん僕独り惑ふ
然りと雖も自ら務めずして而して天吾に閒を借さずと謂ふ者は懶(らい、怠る)なり自ら薦めずして而して人吾を用いずと謂う者は傲なり懶なる者は事を遂ぐる能はず傲なる者は身を立つる能はず是れ天の罪人にして世の贅物なり僕才能学問無し又財資地位無し而して志を立つること徒に遠大なり乃ち草莽(そうもう)に伏し肝胆を嘗め機を覗ひ勢を待つや久し苟も機の以て利すべきあれば之を利し勢の以て乗すべきあれば之に乗ぜんと欲する者なり
征清の軍起りて天下震駭し神州をして世界の最強国たらしめたり而して若し此機を徒過するあらんか懶に非れば即ち愚のみ傲に非れば即ち怯のみ是に於て意を決し軍に従ふ
軍に従ふの一事以て雅事に助くるあるか僕之を知らず俗事に助くるあるか僕之を知らずと雖も孰れか其一を得んことは僕之を期す縷々の理些々の事解説を要せず之を志す所に照し計画する所に考へば則ち明なるべし足下之を察せよ
是僕の心事暴露表白して以て貴覧に供す然れども是れ僅かに足下と與に語るべきもの以て世人に示すべからず足下の僕を視る自ら定評あり其志望を見る其成敗に関せざるを信ず僕若し中道にして廃せんか世人は将た其志の徒大にして事の成るなきを笑んとす故に僕世人に対して表示を愧(は)づる所あり必ずこの意を喩(さと)れ
足下の学芸に於ける昨歳秋以来僕の言を為す呶々喃々(どどなんなん、喧々諤々)啻(ただ)に数百言のみならず足下亦応応(こたえる)に僕の望む所に副うべきを知る相別るる数月再会燭を剪(きっ)て鶯巷(おうこう?)の草廬に談ずるの日は足下の学問文章必ず人を驚かすべき者あるを期す僕若し志を果たさずして斃れんか僕の志を遂げ僕の業を成す者は足下を舍(すて)て他に之を求むべからず足下之を肯諾せば幸甚
2月25日 正岡子規拝 (虚子云、神田あたりで別るる時「帰ってゆっくりお読みや」と此書を手に渡されたる事を記憶す)
Ø 明治28年 223
いよいよ従軍に決し近衛府と略相定まり出発は何日とも知られず方面は未詳なれど山海関あたりと思われそれやこれやにて近来忙しく相成候
久松伯も近衛副官可全(碧梧桐の兄)は読売新聞の名義にて随行にて小生と同行何彼につけ都合よろしく候皆にとめられたが雄飛の心難抑終に出発と定まる生来希有の快事に候
小生今までにて最も嬉しきもの 初めて東京へ出発決定の時と初めて従軍と定まりし時
尚望むべき二事あり 洋行と定まりし時と意中の人を得し時 この喜びいかならむ前者或は望むべし後者は全く望みなし遺憾遺憾非風をして聞かしなば之を何とか云はん呵々
2月28日 (上根岸自宅より) (在海城出征中、五百木良三氏宛、『子規言行録』より抜粋)
Ø 明治28年 233
小生還付地より帰航の途次宿痾再発目神戸県立病院に入院罷在候逐日快方に向ひ候間決して御焦慮あるまじく候全快の上は保養旁須磨辺へ居住のつもりに有之候間其せつ御来遊ありてはいかがや先は早々
6月19日 神戸病院 正岡子規 看病人某代筆 (美作国、大谷藤治郎氏宛)
Ø 明治28年 236
御手紙拝見仕候御安着の由目出度存候その後病気追々よろしく時々は窓につかまりて庭をながめなどいたし居候食物は何でもくへるやうに相成候乍憚御放慮被下度候
律の手紙によれば婆1人置きて根岸に居り候由かた方安心につきゆっくり松山にて御遊び遊ばさるべく候1日づつは親類へも御出あるべし1日は道後へも御出かけ被遊落ちつきて御逗留奉願上候
清(キヨ)さんのかへりが遅いとて秉(ヘイ)さん大困りに御座候1日も早く帰らるるやう御言づて被下度候どぜう鍋は飽きが来て此頃はどぜう汁に致し候先は御返事迄如此御座候謹言
7月3日 つねのり (神戸病院より) 母上様 (松山市、母堂宛)
Ø 明治28年 237
新聞紙上御健全の由は承知いたし欣喜小生近衛に従い金州迄罷越候へども一の砲声を聞かず5月10日同所出発帰途につき大連湾より乗船17日船中にて喀血何の手当も出来ず且つ消毒とかコレラ患者とかの騒ぎにて漸く和田岬検疫所を放免せられたるは5月23日それより釣台(タンカ)にて直ちに神戸病院に入り今日迄40余日前年に比すれば更に甚だしく喀血前後20日間にわたり自分はそれ程にもなかりしが傍人いたく心配して鳴雪翁などは最早小生を以て地下の人とせられ候ひしとかあとにて聞き及び無之候此頃は快方に向ひやうやう足を出して坐ることと腰かける位の事は出来るが一歩も歩けず談話が出来だして一番うれしく只今は母も来り居り碧梧虚子も看護のため来神致居候
貴兄には早く御目にかかり度病中も常にいつ頃ご帰京なるやなど気にかけ貴兄の御帰郷頃には退院して松山に配所の月をながむるか須磨辺りにふるしぐれをやめづらんそこらは未定
若し目出度広島へ御凱旋の節は日本新聞社迄来着の由御発電下され度候
右子規大人病気も一時随分はげしく候しかども今日にては物にすがりて歩行も出来気分よきときなど快談快論をこころみられもちろん喀血も10日許りにて絶へ虚子は一時帰郷して本日再び上神碧生は其故2,3日中に帰東致すつもり 虚子/碧桐拝
7月6日 (神戸病院より) 瓢亭尊 (五百木良三氏宛)
「子規子の手紙の末分「貴兄には」より以下は皆碧生の代筆に有之候
Ø 明治28年 240
小生病患に付ては種々御配慮に預り候処漸く退院の許可を得て当地に来り自分は死ぬると迄も思はざりしが医者さへ気気ひしと聞ては今更夢のやうに覚えて半はうれしく半は恐ろしくはては老耄(おいぼれ)人の如くつまらぬ事に心配するように相成候
此間の消息は碧梧虚子くはしく承知なれども其実は両人の思ひ居候よりは更に甚だしきもの御座候碧虚等看護致呉候後は1時間でも人が側に居らねば心細く覚え両人の顔を見る時は我子にでも逢ひし時の感なるべしそれにくらぶれば入院当時の勇気は我ながら
えらきものにて看護1人さへあれば畳の上に死ぬるには十分なりと定めおまけに4畳敷の天地に押しこめられてしかも寐床の上を離れ得ず天井をながめて呻吟するそれをさえ船より上がりし身は極楽かと許り思ひ候それを思へば今の老耄は実に恥かしく存候今日の如き無気力にては此後たとひ何年生きたりとも何事も出来申間敷此点よりいふも長く田舎に閑居して遊び居るは却て悪く矢張矢張都門に住みて激しき競争の風に吹きまはさるる方が元気づくべきやと存候当地景色はよろしけれど何処へ行ても変化なき処なれば発句にも成不申候
虚子と共に散歩してあつもり塚の近所にて抜取候須磨の松苗御贈申上候いつぞやの江戸紫の御返礼とまで御受取被下度候 水無月の須磨の緑を御らんぜよ
7月27日 常規 (須磨保養院より) 半月庵宗匠 座右 (本郷区真砂町、内藤素行氏宛)
Ø 明治28年 241
啓永々の御看護にあづかり候御厚意の程肝銘罷在候御帰京後定めて俳談其他多からんと奉羨仰候其後小生別に変りなく追々よろしき方に向ふも天気の不順には誠に閉口致候
食物は昼飯の外相変らず困却致候朝は漬物に粥と略々相定め候へども晩飯は未だ名案無之候奈良漬も到着前日程の味は無之段々からく相成候
7月27日 常規 (須磨保養院より) 清様 (本郷仮寓、高濱清宛)
Ø 明治28年 248
御病気ますますよろしく候由欣抃(へんしん、喜ぶ)の至りに存候野生(やせい、小生)もやうやうに元気づき15日頃には当地一旦引揚帰郷する積に有之候
御丁寧御認のもの誠に心よくおもしろく拝見乍併まだそれ程御丁寧とも存せず最う一層奮発いたしたまひては如何に候哉じゃと申して楷書で認め給へと申にはあらず草書にも丁寧と粗雑との区別はあるなり丁寧とてあなかち時間を長くかけるの意味にもあらずされどもまづ時間の長きものは品のよきやうに覚え申候
春木座に男児の涙ををしげもなく落して今更阿波十に感心し給ひし由阿波十程のものは芝居でなくとも義太夫でも書物で見ても涙は落ち可申候貴兄等は此浄瑠璃本御覧被成候事無之候哉又御覧被成候とも御感じなかりしにやそれで沙克斯比亜(シェークスピア)の近松のとは少々片腹いたく覚え申候試みに春水(為永)の梅暦をひろげて見給へ恐らくは春陽堂の小説が存外幼稚なものに見えるやもはかられず(失言御容赦)
人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」は、1698年に罪状も明らかにされないまま藩の政策上の犠牲となって処刑された庄屋、板東十郎兵衛の名を借りてつくられたお家騒動の物語。阿波十郎兵衛屋敷は、板東十郎兵衛の屋敷跡。屋敷では、国指定重要無形民俗文化財「阿波人形浄瑠璃」を毎日上演
御文章もとより書きはなしとは見ゆるものからいと面白くこれまでの御作の小説などに箇程優美なる御句を見出しかね候と存候只多少の修正を要するはぶっつけ書なればなり朱書は一寸の思ひつきに候猶一層御練磨あらば名文とも成り可申候
文字の御認め方熟練相成候はば文章にも御注意有之度候小生も漸次文章に及ぶつもりなれども中々手がまはりかねて千手観音にでもなりたく候呵々
8月9日 規拝 (須磨保養院より) 碧梧桐詞伯 研北 (本郷区)
(研北:手紙のあて名のわきに添え書きする敬語、硯北とも、机/硯を南に向けると人は北側にいる)
Ø 明治28年 249
貴説によれば美を感ずる瞬間の快楽は同様なりとか小生一向に解せず能楽を見ても芝居を見ても舞踏を見てもカッポレを見ても貴兄は同様に感ぜらるるにや琴を聞きてもピアノを聞きても越路の義太夫を聴きても敦盛の笛を聞きても同様に感ぜらるるや若し一括して美の感といへば同様なり然れども开(かい?)は便宜の為に類似物を集めて其一団に名づけたる一の名詞に過ぎざるなり若し此美の感を分析したる暁には其種類と其程度とに従って幾種類にも無限に分ち得べき事然れども無智無識の者はここの所よく分からず都々一を歌ふの美感とうであづきを食う美観とを殆ど同様に感じ候やうの事有之候貴兄のはこれと同一なるにはあらねど一の学問的妄想に迷ひ給ふにはあらざるか即ち貴兄は(碧梧桐も其他の若手も)平等の感深くして差別の智少きものと存候こは従来の俳句の進歩に徴しても明らか乍去此見強(あなが)ち邪見とは申さず寧ろ進歩発達の上には是非とも欠ぐべからざるの順序なりと信じる人智の未だ発達せざる時は単に不完全なる差別の見ありて一向にまとまりのつかぬ者なり其稍発達するにつれ平等の眼を開くのは進歩の第1歩にて即ち小乗の悟りなり但し下愚の者は一生不完全的差別の境を離れず此域に進む者は中根上智の人のみ平等なる宇宙をつくづくと見つむる時は混沌の中に一物あるを認む此時の感情は恰も明所より急に暗所に入りて一物をも見ざりしものが少時ありて何やらぼんやり黒きものを認めたるが如し而して猶見つむる程に一物は二物となり、三物となり方円の形紅白の色一々之を弁別し得るに至るべし是れ完全なる差別の見にして進歩の極度即ち大乗の悟りなり
之を概括すれば 不完全的差別:下智 此見を打破する者は無差別的平等:中智 更に濶眼(かつがん、慧眼)を開く者は完全的差別(一名平等的差別):上智
而して其美感は上中下とも有之各人相異なり同一人にても異時には異感ある事勿論なり
貴兄の状況今日にありて俳句は稍平等的差別の域に達し居られ候へども他の文学に在りては猶無差別的平等の域に止まり給ふにやと存候更に一歩を進めて文学以外の美術につきては貴兄此頃漸く無差別平等の域まで進まれたるものには無之候哉それ故美観の平等を説き給ふにはあらずや
己の無聊を慰むるために興に乗じて覚えず管まきたる次第なれば貴兄の万々承知なる事もとより多く其外無礼の言語もあるべし例の饒舌と御見ゆるし給はるべく候
「机に向へば何より手を出すべきか今更に我学の浅うして書の澤なるに驚かれ申候」との仰御尤だがそれは前々より御経験ありて分かりきったこと貴兄は其原因を「学浅」と「書多」に帰し給へどもそれはいつまでも同じ事今日より一生懸命勉強して10年にはもっと「学浅」「書多」を感じるだろう茫然として手のつけられぬ原因は只貴兄の目的が確定していないから
文学といふ目的は立ち居らないがそれは大目的なり眼前の小目的なくば大目的許りありとも何にもなり不申譬えば楫取りありて漕手なからんが如し俳句を作らんと思ふが故に俳句出来るなり俳句とも小説とも決めずに只作らんと思はば俳句も小説も出来ざる事必定更に細かく云はば萩という題にて俳句をつくらんと思ふが故に出来るなり貴兄は只今何をせんとの御目的なりや(小目的なり)恐らくは御即答出来申すまじきかと被思候学浅書多は其原因ならず
8月9日 子規 (須磨保養院より) 虚子 盟臺 (南豊嶋郡下戸塚村、古白旧廬)
Ø 明治28年 250
封皮上に住所姓名の外記すべからずとの御注意難有候小生の考へにてはそれは端書の事には御座候や手紙の封筒の上に用事など相認め候事小生のみならず仲間中にも折々見受け申候故障あるを未だ聞き及ばず候猶聞き合せ可申候
古句又は友人の句をおろ覚えに覚えて自分の句として再び世上に現はれ候事殊に小生に在りては度々有之候殊に善き見付処なりとて自ら誇るやうな句は屹度古人に類句有之候
拙句に就て一々の御評殊に御叱りの條々悉く急処をつかれ候謹んで誨を受け申候
8月10日 常規 拝啓 (須磨保養院より) 鳴雪老先生 (本郷区真砂町)
Ø 明治28年 256
夏目も近来運座連中の1人に相成候訪問者多きと多少の体温の昇降あるとの2原因にてまだ道後へも三津へも高濱へも参らず
御申越しの趣によれば新聞御仲間入の由奉恭賀候兎に角御出世の好機会と存候間見習いのつもりにて御勉強可被成候御手紙の趣にては校正にても無之由これは社の都合にてしか極め候ものと存候併し愚考にては校正より御始め被成候事希望に御座候貴兄も其つもりにて御励精奉願候此外別に可申上事はなけれど日本新聞社の面目を汚さぬ様奉願候これはいふ迄もなけれど朋輩同僚等のする事は馴れるに従ひてまねする様に相成ものなれども悪い事はいつ迄もまねせぬ方よろしく候朱に交りて赤くなるは凡者の常なれば一言御注意申上候猶謙譲の徳を守りて人ににくまれぬ様なされ度これ許り特に書添候餘譲後鴻(その他はこうこうに譲る?) 不宣(ふせん、十分意を尽くさない)
9月7日 常規 (松山より) 秉五郎君 (本郷区)
俳句欄の申訳(もうしわけ、形だけ整えること)ありしは無用の事と存候何か事情がありしならば簡単に御断あるべし新聞紙上は斯る無味の事を半段ものせる事不体裁に候
俳句雑誌の評は猶更無用此の如きものは一言も評するに及ばず況して半段已上を費すは何たる無遠慮ぞ不覚冷汗を流し申候御入社の上は是等尤御斟酌あるべく何事に限らず瑣事は瑣事なりに一寸簡単に書てのけるべし無暗に文章を飾りてつまらぬことを面白く見せるは初心の心得違ひに御座候今後文学欄等は余り御広げなされぬ様奉願候
Ø 明治28年 257
肋骨は終に足を裁断致由気の毒に存候返す返すも戦争の勝利に対する租税は高きもの
拙寓は夏目金之助の寓居の一室に御座候毎晩3,4人俳士来集運座を催す初心ながら熱心の程感入貴兄帰省は叶はずや共に一會やり度ものなり
9月8日 規 (松山より) 瓢亭詞伯 (在広島、五百木良三氏宛)
Ø 明治28年 261
句罪人句老人とは貴兄の事にや発句許り外しらぬ者がよりあふて一も二も発句と出かけ候は誠に見苦しくそれも今さら無詮候先日はいくつか誤り有之猶御学問なされずては此誤りいつ迄も我目には見え申間敷それでもまだ学問はいやだと御いひ被成候や小生も大分よろしくなり候故あつまの秋もこひしく須磨迄出稼候処僂麻質斯(リウマチ)にや左の腰骨いたんで歩行困難今度は是非奈良見物と心掛候故あるけねば汽車にて外形だけでも見るつもりなり
10月25日 臥しながら記す 升 (大阪旅宿より) 秉五郎殿 (神田区、日本新聞社内)
Ø 明治28年 262
其後私大阪出発通し汽車にて帰京鳴雪翁河高2子(碧梧桐と虚子)新橋迄来られ万事好都合に行き申候帰宅仕候へば母上様も御変りも無之 先は帰京御報迄如此
11月2日 常規 (上根岸自宅より) 叔父上様/政直様 (松山市、大原恆徳氏宛)
能久親王殿下御薨去被遊何とも申様なき次第に御座候尤も御発表は4日と相定まり申候私も従軍中は常に御側に居候事多く御笑顔等今に眼底に残り居候之を思へば万感胸に塞がりて欷歔(ききょ、むせび泣く)に堪へずなみなみの賤しききはにても全軍将に凱旋せんとする時病に殪れ候はば如何許りか家族共の歎き申さん況してこれは竹の園(皇族の異称)生の御末最とやんごとなく渡らせ給ふ御身の万里の空に椰子の露と消えたまふこと誠に
御身寄りの御方々の御心の中等は察するに余りありて涙の泉盡くべくもあらず候
右に付き 定謨(さだこと、旧松山藩主久松家当主)公も或は御帰国にも成るべきかと御邸には御待受の御様子に見え候
Ø 明治28年 263
4月10日付の御手紙今11月2日夜やうやう拝見致候思へば4月10日は小生意気揚々として広島を出発し従軍と出掛候其日に御座候5月下旬戦を見ずにすごすごと帰る途中船にて発病神戸病院に在ること2カ月あまり命をひろひ候のち須磨郷里と療養にくらし一昨日僅に帰京致候まだほんとうによくはならねど旅行が出来る位に相成申候のみ帰京後手紙等堆積致居候ため不盡萬縷いづれ其内詳細御報可申上候先は玉稿御返まで如此 不宣
11月2日夜 規 (上根岸自宅より) 秋虎詞兄 几下 (本郷区、得能文氏宛)
(得能文:哲学者、子規門下、北国新聞編集顧問、金沢の俳壇で名を成す)
Ø 明治28年 263
今夏来御無沙汰致候小生持病は少し快く先月31日やうやう帰京の処その後神経痛とかで足腰たたず今に臥褥致居候此夏は神戸か須磨にて御出会可出来やと小生も心待にしたが行違ひて残念に存候田舎稼ぎは御つらかるべくと察上候へども貧乏人の病気したのも随分つらきものに御座候忽ちにして宿痾療治し盡すべき療法ありとも〇(コレ)がなければ何にもなり不申候小生はいよいよやけなり文学と討死の覚悟に御座候 頓首
11月24日 褥中に筆をとりて 子規 (上根岸自宅より) 紫影様 (藤井乙男氏宛)
(藤井乙男:子規学友、国文学者、子規門下、金沢に北声会主宰、北国新聞俳壇選者)
Ø 明治28年 271
俳道御修行の趣斯道の為大慶に奉存候小生も下手の横好にて毎日毎日こればかりに精神を費し候へども名句佳什も無之恥入申候御添削等思ひもよらず候へども時々玉稿御教示相成度奉願候露伴の菅笠は妄評御返却申上候多忙中乱筆如此候 匆々不一
12月5日 子規 (上根岸自宅より) 無事庵宗匠 (越後国、今成文平氏宛)
(今成文平:鴻池屋(今成漬物店)20代当主、子規門下、先代は蕪村と交遊、蕉風俳諧の中興に尽力)
Ø 明治28年 271
小生が心中は狂乱せり筆頭は混雑せり貴兄は気を落ちつけて読んでくれ給へ
拝復致候いよいよ解隊と定まりよしめで度御申越の金子の事陸翁承知致し候明日中には御送金可致候小生病気大分よろしく本月初より出社致し病後といひ多忙の為め逆上甚だしく一昨日来半狂の心持にて奔走致候それらのため御返事おくれ申候
ここに1つ御報道可致事出来申候単刀直入にては分りかね候に付はじめより叙を逐て可申上候小生が貴兄及び非風と交際せし際貴兄より非風の方文学上の才能ありと思ひ居候事は僅かの間にて、非風は稍其正体を現はしかけ候故、貴兄に遠く劣り候は勿論迚(とて)もものにはなれずとて一朝見すて申候
それと同じく碧梧虚子の中にても碧梧才能ありと覚えしは真のはじめの事にて小生は以前よりすでに碧梧を捨て申候併し虚子は何処(原文の儘)やりとげ得べきものと鑑定致し又随てやりとげさせんと存居種々に手を盡し申候小生の相続者を虚子と定め小生自ら人を鑑定することの明を有せりと自ら恃(たの)み居り併し人間の智慧程はかなきものは無之小生2人となき1子を失ひ申候小生をして人を観るの明なからしめたる者は実に此一窮措大(きゅうそだい、貧乏書生)高濱虚子に有之候最早小生の事業は小生一代の者に相成候小生は纔繹(わず)かに創業の功を奏したる俳句類題全集とともに其運命の短きを歎じ申候小生頭脳中に葬られ卒りし幾多の文学思想は水子ともならで闇から闇へ行き可申候今さらの繰り言は誠に笑種に過ぎざれども欝はらしに可申上候
小生須磨にありし時もしみじみと忠告する処あり且つ我が相続者は君なりと迄虚子に明言虚子もやゝ決心せしが如く相見え小生潜かに喜んで心に文学万歳をとなへぬ先月帰京してつくづく虚子の挙動を見る又是旧時の阿蒙のみ小生が彼に忠告せし処は学問の2字に外ならず学問という語が小生の口を出て虚子の耳に入りしこと数百度以上なるべし須磨にての忠告は実に最後の忠告なりし覚悟也而して虚子依然たり小生呆然として詠(なが)め居候
頃日多忙なり碧梧は入社早々醜聞を流しおまけに無学の評あり新聞の益にはたたず小生は独り悶々たる折柄稍気違ひじみたり最早堪へがたく相成昨夜寒風凛々たるをものともせず虚子を訪ひしに虚子不在小生の気はいよいよいらちたり直に手紙を発して今朝来れと命ず今朝起きて待てども待てども虚子来らず11時頃来て共に午餐をたうべ社へは不参の趣届置虚子を携へて道灌山に到り茶屋に腰掛けて手詰の談判をはじめたり
君は学問する気あり否や
千問万答終に虚子は左の如く言ひきり候
文学者になりたき志望あり併し身後の名誉は勿論一生の名誉だに望まず学問せんとは思へり併しどうしても学問する気にならず学問までして文学者にならうとまでは思はず厚意は謝する所なり併し忠告を納れて之を実行するだけの勇気なきを如何せん
呵命脉(みゃく)は全くここに絶えたり虚子は小生の相続者にもあらず小生の文学は気息奄々として命旦夕に迫れり今より回顧すれば虚子は小生を捨てんとしたること度々ありしならんも小生の方にては今日迄虚子を捨つる能はざりき親は子を愛せり子を忠告せり然れども神の種を受けたる子は世間普通の親の忠告など受くべくもあらず子は怜悧也親は愚痴也小生は箇程にまで愚痴ならんとは自ら知らざりき小生蕭然としていふ
忠告を納れずとも子は文学者とならぬとは限らず我も絶交するといふには非ず只普通の朋友として交際し今迄自ら許したる忠告の権利及び義務を放棄すべし
子は何処迄も高尚なり我等の及ぶ所に非ず我は飽く迄人物の上に於て子を崇拝す仮令我をして無上の栄誉を得せしめ子をして物のあはれに零落せしむも我は猶人物の上に於て君を崇拝せん併し我は文学者たらんと欲するなり他日我が栄誉を得たる時は是れ文学者たるを得し時ならん其時に子をして若し零落し盡さしめば胸中に如何の文学思想あるも最早世上の所謂文学者に非るなり此刹那子は人物の上に於て我を笑はん我は文学の上に於て子を冷笑せん
咄談話は途絶えたり夕陽うしろの木の間に落ちて遠村模糊の裡に没し去り只晩鴉の雁群と前後して上野に帰るあるのみ一語なくして家に帰る小生が眼中には一点の涙を浮べぬ今後虚子は栄ゆるとも衰ふるとも我とは何らの関係もあらず去れども涙は何を悲んでか浮び出たる嗚呼正直なる者は涙也義理づくにて久離きりたりとも縄かけられる子が可愛うなうて何とせう虚子はどこ迄も神聖也此後どこ迄も神聖なるべし彼は文学者となるには余り神聖過ぎたり彼は終に文学者の材料となり卒んぬ
小生の文学は実を結ばずして草頭の露と消え去らん虚子は終に小生をして人物の上に崇拝せしむべし虚子は零落すればする程益神聖に益高尚なるべし小生は虚子が益高尚に益神聖になるを望むと同時に一点の愁涙は相浮び申候若し零落して後神聖にも高尚にも無くば虚子は小生をして再び人を見るの明なきを証せしめたるものに可有之候非風去り碧梧去り虚子亦去る小生の共に心を談ずべき者唯貴兄あるのみ前途は多望なり文学界は混乱せり源語は読了せしや如何俳句は出来しや如何小説は如何過去は如何現在は如何未来は如何一滴の酒も咽を下らず一点の靨(えくぼ)も之を惜む今迄でも必死なりされども小生は孤立すると同時にいよいよ自立の心つよくなれり死はますます近きぬ文学はやうやく佳境に入りぬ書かんと欲すれば紙盡く喝ッ
明治28年12月 升 (上根岸自宅より) 瓢亭兄 几右 (在広島、五百木良三氏宛)
Ø 明治28年 275
復小生客月31日帰京其後引続き種々なる病に侵され今に臥病罷在候今迄の玉稿は只今の御寓所宛にて御送付可致や一応御伺い迄
12月30日(端書) (折井太一郎氏宛)
(折井太一郎:俳人、別号無筆堂等、洋画・日本画を学び、俳句は子規に学ぶ)
Ø 明治29年 276~313
Ø 明治29年 276
谷底の往来困難につきとりあへず代理として此はがき差上申候
新年めでたく申しをさめ候皆々様御変りあらせられずめでたく存候富士の山めでたく候日本八十州の山ことごとくめでたく候台湾の山さらにめでたく候
明治29年1月(端書) (中村鈼太郎氏宛)
Ø 明治29年 279
当地も大分あたたかに相成私病気もいくらかよろしく候併し不相変歩行不叶候はじめより医師病名を判然と不申候リウマチ専門の医師来たりて普通リウマチに非ざることは略々承知致候大概あきらめをつけてゆっくりと横に休み居可申と存候不起の人ともしやれ候はんか呵々
近来身体疲労体温低下致居候
われ老いぬ春の湯婆(ゆたんぽ)維摩経
『維摩経』 (ゆいまきょう)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。
3月17日 常規 叔父上様(大原恆徳氏)
Ø 明治29年 280
啓伯兄又々ご病気の由御摂養専一に存候。別紙御一笑に供へ候匇々不一
(別紙) 清様
医師は僂麻質斯(リウマチ)にあらずという体温高くも不愉快を感じたることなし詩を作り俳句を作るには誠人に誂え向きの病気なりとて自ら喜びぬ
世間野心多き者多し然れども余れ程(よほど)野心多きはあらじ世間大望を抱きたるままにて地下に葬らるる者多しされども余れ程の大望を抱きて地下に逝く者はあらじ余は俳句の上に於てのみ多少野心を漏らしたりされどそれさへも未だ十分ならず縦(よ)し俳句に於て思ふままに望を遂げたりともそは余の大望の殆ど無窮大なるに比して僅かに零を値するのみ
何か面白くてたまらん一切の事物を忘れてしまふようなもの欲しと思へり忽ち思ひ出でしことあり。枕頭を探りて反古堆中より菜花集(与謝野鉄幹?)を探り出して糊細工を読み初めぬ面白し覚えず一声を出してホホと笑ひたる所さへあり此笑ひ程樸を慰めたる笑ひはなかりしなり忽ちにして読み畢りぬ餘音嫋々として絶えざるの感あり天ッ晴れ傑作なりこの平凡なる趣向卑猥なる人物、浅薄なる恋が何故に面白きか殆ど解すべからずされども僕はたしかにかく感じたり
蓋し僕が批評眼以外の眼を以て小説を見しこと八犬伝小三金五郎以後今度がはじめてなり小説が人間に必要なりとは常に理論の上よりしか言ヘリ其利益を直ちに感受したるは今度がはじめてなり小説を読み畢りて今朝の僕は再び現はれ来れり此書面を認めて全く昨日の僕にかへりぬあら笑止
明治29年3月17日 病子規 虚子兄几下
Ø 明治29年 283
啓卓一個御恵投に預り感謝の至りに候貧家の重宝として保存可致短冊ことごとく書きそこなひ申候蛙の句小生元来下手にて困却致候瓢亭など来り候はば書かせ可申候御句追々御上達と拝見いたし候猶時々御もらし可被下候 已上
副伸 句集の名は圭虫句集の方よろしかるべく候
4月6日 規 露石詞兄 (水落義弌氏)
Ø 明治29年 284
近来俳壇にぎにぎしく相成大入叶なれどもそれ程名人の輩出したのでもなく屁鉾連中の増殖したる迄に候箇様なやつは一雨毎に湧き出し候ため愚生等より下のもの多くために我々はえらきものに相成候併し一般俳壇の上よりいへば前日に比し一段だけ進歩したるやに見受申候愚生等も三四年前の草稿を見て冷汗を流すことも不少候
明治29年4月12日 病子規 松宇老兄 研北 (伊藤半次郎氏宛)
病中 寐て聞けは上野の花のさわぎ哉
病起庭をありきて 萩薄(すすき)撫子なんど萌えにけり
御笑いまでに実景2句書添申候
Ø 明治29年 287
尻の病気は背中の穴とは関係なく痔ローとかに候直接の関係なけれど性質は同じやうなものと申す事に候此儘で一生坐ることの出来ぬものならば実に閉口の外無御座候からだ中寸地も餘さず病気になることと覚悟致候右御報告大略如此候 謹言
4月28日 褥中仰書 常規 叔父上様 (大原恆徳氏)
Ø 明治29年 291
誰やらの美学が浩瀚にして一寸読めぬ故小生に手軽の解釈せよとの御注文御無理の注文と申外無之候誰の美学とてもさう短きものには無之其長々しきものはいらぬこと許をならべたてたるにては無之それ程長くいはねば分らぬ故長くいひたるなめり
乍失敬内容といふ字義御承知なるにや俳諧の内容如何といふ事は俳諧は何ぞといふ事と略同一の事にして其答は至難のものに属す
兎に角に師範学校の学科と美学研究とは両立いたすまじく候へば美学研究などは見合せて学科御勉強可然候美学をいかに研究したからと申して俳句を作ることは上手にもなり不申且又学理を是非究めたしとならば帝国大学哲学科へ御入学被成候ことよろしくと存候怱々不備
5月14日 規 飄雨詞兄 (関正義氏)
関萍雨。俳人。名は正義。明治12年静岡県生。小学校校長をつとめた。28年より子規、鳴雪、虚子等に師事。加藤雪腸と俳誌「芙蓉」を刊行。昭和32年(1957)歿、78才
Ø 明治29年 292
先日鷗外魚史を尋ねたる時魚史曰く虚子七部集の内 〈青雲や舟渡しやる時鳥 素堂〉
「此人には自ら特調ありてをかし」とあるは素龍の誤りならずや虚子は素堂と思ひこみたるものの如し云々
小生考へてここに至る毎に冷汗を流し候此句勿論素龍なり兄の見違ひか活字の誤りか知らねど難にしても麁漏(そろう)の罪はまぬかれ難し素堂の句集等見たる人ならば恐らくは此誤りはあらじ(鷗外は見たり)このあやまりを見ればまるで七部集で素堂を研究した人のやうに見えていと可笑し
近来紅緑はしきりに小生の俳家全集を謄写し居れり其丹精此人には不似合のやうに覚えて感心致候。紅緑一日来りて曰く碧梧桐も亦僕の写したる物を写し始めたり碧梧桐も虚子もまだ写さないのです其後小生ひそかに此事を思ふて覚えず涙をこぼし申候何故に泪をこぼしたるか自らも原因は知らず然れども涙はひとりでに瞼にあふれ来り胸中には無量の感慨起り候
われある点に於て洒竹に劣れり諸君紅緑に負けんと欲するか 病子規
5月20日 麹町 虚子兄
大野 洒竹(おおの しゃちく、1872~1913) 俳人、医師。
熊本県出身、本名は豊太。東京帝国大学医学部で土肥慶蔵に師事、卒業後に大野病院を開業。
明治27年(1894年)、佐々醒雪、笹川臨風らと筑波会を結成。明治28年(1895年)には、尾崎紅葉、巖谷小波、森無黄、角田竹冷らとともに正岡子規と並ぶ新派の秋声会の創設に関わった。明治30年(1897年)、森鷗外に先駆けて『ファウスト』の部分訳を公表している。
古俳諧を研究し、古俳書の収集にも熱心であり、「天下の俳書の七分は我が手に帰せり」と誇ったという。約4000冊の蔵書は東京大学総合図書館の所蔵となっている。洒竹のコレクションは同図書館の竹冷の蔵書とあわせ「洒竹・竹冷文庫」として、「柿衞文庫」、天理大学附属天理図書館「綿屋文庫」とともに三大俳諧コレクションと評価されている。
妻は岸田吟香の娘(劉生の姉)。叔母に横井玉子、従兄に戸川秋骨がいる。長姉は寺尾寿の妻、次姉は中島力造の妻。
なお、号は洒竹(瀟洒の洒)であるが酒竹と誤記されやすく、戦前の俳諧関連書籍からそうであった。
Ø 明治29年 293
御手紙拝見だまってゐられぬ次第故一言申上候要するに入学を1年見合はすとかそれは何の理屈もなく候小生先日夏目に手紙を発し委細申やり候處同人より返事来り快く承諾今月分より送金可致様申あり候縦(よ)し貴兄と夏目との相談にて1年延期出来候とも小生の顔は何と御立被下候や又何の理由ありて夏目に向ひ其様な延期願を御出し被成候哉試験も受けぬ内に教授も受けぬうちにむづかしいかむづかしくないかわかりもせぬになぜむづかしいといはるるか要するに貴兄はいたづらに大学を恐れらるるものに有之べく候さやうに恐ろしくば固より1年延期したとてあてにはなり不申候故此事御断念を御すすめ申上候其方ならば夏目へも申わけ立つべく候小生も一時の夢と思ひてあきらめ可申候貴兄が世の中に向って大胆なるは小生常に驚居候然るに一大学に向って斯く小胆なるは何とも解しがたく候大学がどういふものか御経験がないゆへ御恐れなされ候ことと存候へども試に文学士がどういふ人間であるかを見たまへ大学の先生がどんな人なるかを見給え語学がいやなら語学はやらずともよし何を恐れて大学を鬼神視し給ふにやそれはいはれもなき事に候
死は近づきぬ文学は漸く佳境に入らんとす
右は小生が前日貴兄に道灌山に分れて後に飄亭へ書きおくりたるもの当時は情に激せられて何を書きしやら知らざりしも飄亭の返書によりて右の一語を見実によく小生の身の上を穿ちたりと自ら感じ申候それより後一刻も此語心頭をはなれずつきまとひ居申候貴兄は何と御感じも無之候へども小生は息のあるうちに貴兄の御出世も見たくと此方よりいそぎ居り申候次第これらも小生の末なき世に於ける望の1つに有之候
貴兄はいつまでも大学の書生となって居って善いとの気長い御考えなるべけれどもそれも少しは間違って居可候貴兄の身分はいつまでも書生たることを許さず貴兄の情欲(即ち野心)はいつまでも貧生で居ることを許さぬは知れ切ったことなり貴兄は卒業後でも猶学問せんとの御気込と拝見誠に結構なれども学問と金まうけとはどこまで両立するかといふ事も御考可被成候金まうけのためいそがしくなりては図書館に行くひまもなくなり勉強も出来ず技術も進み不申候貴兄はどのやうにして学問せんとの御考にや
若し学校にはいらぬならばよしはいる心ならば今年の試験是非御うけ被成候学校に入って後に苦まずに修業する位の力を養ひたる上は最早学校にはいる必要は無之ものとは御考被成候はずや何だか得手勝手の理屈などつけずに大本を失はぬやうに御考慮御取計あるべく候
5月26日夜 子規 麹町 高濱詞兄
いろいろ御話も有之候明日にても御いで下されまじくや朝の方よろしき
Ø 明治29年 295
暮春とは俳句にては蕪村已来もっとも艶なるものと相成候春風等といふ題に比すれば多少暮春の恨をまじへて却てつやつぼき傾向有之候それ故白拍子が烏帽子買ふ風情など適すべくやと考へつきたれとも餘りことさらめきて暮春にはいかがと思ふばかりなり烏帽子は何にてもよけれど普通に昔の白拍子が男舞のために要するものとみて差支なかるべきか
爐(ろ)塞の句遠公は高僧の名にして蓮社の1人即ち虎渓三笑の1人なりされば爐塞ぎたる頃そろそろ杖を牽きて山中の高僧を尋ねよりたる趣をものべたるつもりなり
上記両句とも現世の事にあらず皆昔の事なりされど遠公といふは支那の詩にては殆んど山寺の高僧といふ位の意味に用ゐ来り候故これらは必ず古事となさずとも山僧といふと同意味にし現在の事として差支なかるべく候 怱々不一
明治29年5月 病子規 高松市 大崎先生 机下 (大崎繁次郎氏宛)
遠公(えんこう)」は、東晋(4~5世紀)の高僧「慧遠(えおん)」の尊称であり、彼が廬山の東林寺に住し、白蓮社を結んで念仏修行に励んだことに由来
蓮社とは、慧遠が廬山東林寺において僧俗123人とともに結成した白蓮社にちなんで浄土念仏実践の団体を蓮社と呼ぶ。結社創設時に東林寺に白蓮が植えられたという伝説に由来する。宋代には天台宗の本如が創立した白蓮社をはじめ、何々社と称する多くの蓮社が成立した。日本では聖光の弟子宗円が入宋して廬山に参詣し帰朝して自ら白蓮社と号した。そして中世以降の浄土宗では能化者は○蓮社という法号を用いるようになった。
虎渓三笑(こけいさんしょう)」とは、中国の東林寺にいた慧遠法師(えおんほうし)が、訪ねてきた陶淵明(とうえんめい)、陸修静(りくしゅうせい)の両人を送る際に、話に夢中になってしまい、それまで越えないと誓っていた渓流「虎渓」を通り過ぎてしまい、三人が大笑いしたという故事に由来する言葉。この故事は、物事に熱中しすぎて他のことを忘れてしまう譬えとして使われ、日本では室町時代以降、水墨画の画題としても好まれた
Ø 明治29年 296
圭虫句集序(#283参照)
雀勧学院に在りて蒙求を習ひしかば其声かしましとて糊付婆に舌をつみきられけん井手の蛙いつの頃よりか三十一文字の歌よみいでける浮名世に立ちて名物のひぼしとなりさるものずきの人の袂にをさめられしもいかなる業因ぞや其後風雅あとを絶ちて子孫やせ田の水におちぶれいたづらに田螺と肩を並べしを数百年経て某に見出され手をついて歌申上ぐると十七字のおもかげとはかはりながらなほたしかなすぢもなかりしに古池に水の音たてしよりまたなき俳諧の本尊とは仰がれぬここに露石子といふものあり跡を市井の間に混じ心を風雅の境に聘す馬車の響きに右の耳を塞ぎ糸竹の音に左の耳をおほい自ら数十の蛙を庭前に放って其清音を楽しむ蛙を養ふこと此人をもってはじめとすべし今又ひろく相知れる人の句を集めて1巻となし名づけて圭句集といふけだし蛙の知己なりわれ試みに汝蛙に告げん汝妄りに主人に諂ひ鳴くなかれ俳句をなく莫れ俗調をなくなかれ両部の鼓吹を鳴く莫れ只汝のこゑを鳴け天真は風雅の本意なり
明治29年 獺祭書屋主人識
ほとんど原稿のまま推敲行きとどかず不文此上なし御取捨御随意の事に候
6月26日 子規 大阪市南久宝寺町 露石詞兄 (水落義弌氏宛)
Ø 明治29年 297
蕪一桶恵投にあづかり17日に落掌仕候殊の外の風味なりとて家族の者ども賞翫いたし候へども折柄胃を病む小生くふ事もならず空しく指をくはえ居候前便不足税を取り候由失礼御詫申上候併し封筒に字を書きし故とは合点行かず候或は過重の為にはあらざりしか又不足税は幾何なりしか御序に御申越被下度候封筒に文字を書きしが犯則ならば没書などこそ致すべけれ不足税を取る筈のものには無之と存候又不足税を取るべき目安も相立不申義と存候それとも郵便の規則にでも有之候にや伺度候右御礼旁 早々不一
6月 病中子規 大阪市南久宝寺町 露石詞兄 (水落義弌氏宛)
Ø 明治29年 298
啓先日は御光来難有候猶御話申上度存候處来客あり其意に任せず遺憾無此上候
もはや此後『日本人』へは御投稿されぬ見込にや小生出て行て三宅(雪嶺)氏に通ずるわけにも行かず乍併きけいは兎角御用多にや御枉駕(来訪)被下候事も少く御帰京已来しみしみ御話申たること一度も無之やと存居候我身ふつつかなる故と存ずれば致方も無之候
近来に至り貴兄の御心底はわれらには全く相分り不申或は御立腹なされしやら或は小生をうるさしとて近よりたまはぬにや或は話にならぬとて見はなしたまひしにやここの處当惑致候兎に角に兄御帰京已来少しも尻が落ちつかぬやうに見受申候これは自分のくり言にては無く貴兄に取て大の御損と被存候尻が落ちつかねば一篇の論文すら思ふやうに書けるものにあらず況して勉強すること学校にはいることなどはおもひもよらず候
近来碧生の尻の落付は貴兄よりもよろし、さは思ひたまはずや
6月3日 われる如き頭をおさえて 子規 麹町 虚子兄 几下
Ø 明治29年 299
厭世などと申は手足が利く内の事にて手足が利かずなりては厭世も楽世も無之候
俳友ことごとく避暑などと出かけて小生は置きざりにあひ二三度の小便が苦になるやうになっては入棺も遠からずとぞんじ居り候
仙田桐一郎(農学士号木同)なる瓢亭の友人にして小生も存居候林務官にて先日秋田の大林区署に転任致候朋友なくて困る由貴兄の事申候へば是非處をしらせてくれと瓢亭迄申来候貴兄御ひまの節同人方へ御遊びに御出かけ被成ては如何尤発句の他文学などは知らねども普通の俗吏の類にては無之候役人くさい處は持たぬ男に候 右御無沙汰尋迄 匆々
8月8日 規 露月詞兄 (羽後国 石井祐治氏宛)
日蝕のうつりてすごし秋の水
Ø 明治29年 300
本日日蝕に候處当地は生憎薄雲起り候模様に御座候斯く記しおきて日蝕を観候處よく見え候今日左のこむらの最大なる處を量り候鯨尺7寸有之候律の上腕の大さ(7寸5分)にも及ばず 呵々
8月9日 常規 松山市 叔父上様 (大原恆徳氏宛)
Ø 明治29年 301
秋ややひややかに感じ候處御地は如何や御母堂様御容体よろしとの御事めでたく存候
当地俳友一時離散の姿にて本月例会は6人従て俳句一向に振はず小生も全く咽塞がり候やうにて1句吐くにも非常の苦辛いたしさて出来た處でごくごくてこへんなもの許り多く自らおかしく候御笑ひ迄に一例を示す 〈きのふけふはや初秋となりにけり〉 の如き水を吞むやうなものに有之候紅緑は近来細心の句多し今少し練磨を経ば覇を一方に称するに足らん
松風會に名句といふものも少なきやうなれどされど一体になれて来たところは幾分の進歩なるべしと存候 地震(春) 洪水(夏) 日蝕(秋) 火事(冬) の題本月中に小生手元へ届くやうに御まはし被下度候
めさまし草次の題は動物のまはりなるかそれならば鹿、蟷螂(カマキリ)、螽(イナゴ)、位の中かと存候御考へにて何とても御定め御申聞被下度候
秋の句やや欠乏せり出来合もあらば少し御送り被下度候不折遠からず結婚の由聞え候
牛伴近来ますます書に巧みなるやうに相見え候それらを思へば一昨年頃より露石等へ贈りし短冊などまことに恥かしくそうろういつか同人方へ御立寄ありて小生の短冊御調べ被下皆とは許すまじければ古き分だけもらふて来て下されまじくや
日本人の新体詩誠に骨折れ申候自分まだ素人の事故成蹟分らず何だか素人臭くのみ覚え申候御批評被下度候小生の新体詩を読で一体どんな感じ起り候や聞き度候 早々不盡
明治29年8月18日 正岡子規 高濱虚子君 (在松山)
Ø 明治29年 302
全く病魔の捕虜となり了り候肺患は10年已来已に持病となり居候へどこれは世人の考へる如くたいした病気には無之ここに小生をして恐れ入らしめたる者ハ昨年末已来俄に襲来したる関節炎的の病にてこれがために今年2月已来全く腰の立たぬ人間となり申候苦痛は全く取れたとしても猶9尺2間の裏に閉居してゐてはどれだけの仕事が出来可申やここ切歯に堪へず候小生が野心の大なることは敢て日蓮に譲らずと存候へども其野心が芽も出さずして枯れてしまふては餘りなさけなく候はずや小生の心底御憫察被下度候
友人皆書を寄せて曰く御保養専一云々脚の病位直らぬ事ハあるまじ云々と何ぞ知らん不治の病なるを小生若し筆を取ること業とせざりしならば今頃は病気よりは飢渇に死し居るなるべし偶然の仕合せに候 已上
明治29年8月28日 常規 石狩国 井林老兄 几下 (井林博政氏宛)
Ø 明治29年 303
御手紙落手御菓子料とやら頂戴いたし置候此後は箇様な御心配御無用に有之候ことに金子封入は郵便反則なり極めて危険の事なれば御注意可被成候
9月2日 規 山口君 (越中国 山口林造氏宛)
Ø 明治29年 308
最早御婚儀御ととのひなされ候事と千秋万歳めでたく申をさめ候およろこびのしるしまでに駄句一首進呈致候
先日行秋の画を没書致候不敬事件につき御逆鱗の模様は諸人より伝聞承知致候何とも申様無之只御わび申上候しかし大兄が左迄御骨折の画とは露不存申今にして思へば餘りに骨折過ぎ候故邪路に陥りたるにはあらざるか俗諺にも凝っては思案にあたはずと申候千慮の一失にもやと存候併し小生をしてかやうな生意気なことをするやうにしたてあげたるは大兄故大方大兄の教育上に不行届有之候事と奉存候呵々
御画についての愚見は、第一、行秋という題を凩と改めてもよきやうに思はれ候(俳句にては行秋と凩と非常の相違有之候)、第二、琵琶法師は筆疎にして木葉は筆密なる處調和せざるかと存候(小生の尤も俗に感じ候はここにあり)、第三、琵琶法師が小さ過ぎて落葉が大き過ぎると存候(実物の大小にあらず配合の上についていふなり) 頓首
10月25日夜 子規 不折画伯 (中村鈼太郎氏宛)
Ø 明治29年 308
小生昨年末帰京後に試作に耽りそれがため詩本数部ととのへ申候これがために小生の詩眼ハ稍大悟徹底ニ近つきたるが如き心地致候作の方は依然たる呉下の阿蒙に御座候本田種竹と申詩人阿波のものにて近所に寓居致居此人ヨリ益を得候こと不少近来は五言はかり気に入り七言といへば全く作れぬのみならず古人のを見ても面白くなき心地いたし候たまに唐詩選を見ても七律許りであったのか今は五律をおもに見るやうになった五律ハ実に面白けれとも七律ハ唐人でも存外つまらぬ感じが致候これハ小生が一歩だけは詩人ニ近づいた印ならんと存候不平を詩に漏した處で始まらぬ話なれとも三十というふ年にもなりて人生の目的か何處にあるであろうかと今更探すやうな仕儀に相成顧れバ十三年前ひとり東京へ出て来た時ハ太政大臣になるといふて笑ハれしことなども有之候不堪今昔感候
月日不明 佐伯政直氏宛
呉下の阿蒙(ごかのあもう)は、中国の三国時代の呉の武将の呂蒙の故事によってできた故事成語である。「呉下の旧阿蒙」ともいう。いつまで経っても進歩しない人のことを指す言葉であり、同義語に旧態依然等があげられる。基本的には悪い意味合いで使われているが、あとに「~にあらず」を付け加え、よく進歩する人という意味に変えて、褒め言葉として利用することもできる。また、「阿」は「~ちゃん」といった感じの意味合い(阿Q正伝を参照)で、「蒙」は道理に暗いの意味合いも存在する。したがって「阿蒙」の部分は「おバカちゃん」という意味も同時に含んでいて、この一語だけで「おバカな蒙ちゃん」という意味を表している。この言葉の由来となった呂蒙という武将は武勇一点張りだったので、呉主孫権は彼に「武勇ばかりではなく学問も修めたほうがよい」と助言した。すると彼は、孫権の意に応えるために猛勉強を始め、高い教養を身につけていった。それからしばらくしたある日、彼は参謀の魯粛と対談したのだが、魯粛は彼の高い見識と知識に大いに驚いて「すでに武略のみの呉の蒙君ではなくなったな」といったという。
またこのとき彼は魯粛に「士別れて三日ならば、即ち更に刮目して相待つべし」といった。この言葉も有名でありその意味は、日々努力しているものは三日も会わなければ目を見張るほど進歩しているということである。この後彼は三国志の表舞台に登場することができた。
本田種竹(名は秀。字は實卿。通称は幸之助。阿波の人。1862-1907)。少壮京都に出で、詩を江馬天江。頼支峰などに問う。1884年東京に出て官途についた明治32年中国に漫游。37年、意を官途に絶ち専ら詩道を友とした。詩人としての種竹は、大沼枕山、森春涛、森槐南、向山黄村らと交わり、国分青崖の日清役従軍の後を請けて新聞「日本」の漢詩欄の選者となる。(この頃、正岡子規とも親交を結ぶ)誌名一世に高く、最も懐古の詩に長じ、詩風は清初の王漁洋を正宗とし彫心鏤琢。清新雋麗な香奩体と言われている。槐南、青崖と並び明治末期詩壇の重鎮とされた。 詩集には「懐古田舎詩存」六巻。「戊戌游草」「梅花百種」
Ø 明治30年 314~385
Ø 明治30年 315
新年の御祝儀めでたく申収候先以御全家御恙もあらせられず御重歳被成候段恐悦の至りに奉存候猶今年も御変りなく御榮え被成候様奉祈候右履端(正月)の御祝詞迄如斯御坐候恐惶謹言 明治30年1月1日 常規 叔父上様 (大原恆徳氏宛)
追って昨年中は御厄介のみ相掛け候段謹んで御礼申上候
Ø 明治30年 316
此次ノ題ハ 字餘リ十句 期限ハ2月8日迄
トシテ幹事ハ 四方太君 ニ御依頼被下間敷や
1月5日 子規 繞石兄 (本郷区 大谷正信氏宛)
Ø 明治30年 317
拝啓仕候承リ候へば御愛孫御遠逝の趣嘸(さぞ)かし御愁傷の御事と奉存候不取敢御悔み迄如此御座候謹言
明治30年1月5日 常規 鳴雪先生 侍史 (真砂町 内藤素行氏宛)
新年の霜と消えたるはかなさよ
右いささか追悼の愚意を表する迄に御座候
拙庵発会式首尾よく相すみ候会する者11人、宿題は御句の得点3番なりしやう覚え候懇親会も予期通り長蛇亭にて相催し墨水其村の落語にぎやかに10時過散会仕候
Ø 明治30年 322
秉公(へいこう、碧梧桐)疱瘡のよし驚入貴兄も種痘せぬとならば危険なきにあらず依て母をさし上候先日の会の時小生秉公に向ひ種痘如何を問ふ秉公曰くいまだなり小生曰くあぶないあぶないと相共に一笑す何ぞ図らん此言識を為さんとは咄々(とつとつ)
1月18日 規 虚兄 (神田区 高濱清宛)
世帯向のことは追々にわかりてくるものなり併しわかりやうが遅いと最早とりかへしのつかぬことがあるそれ故今より貴兄の世帯心を鼓動するつもりに有之候インスピレーションと世帯心とは両立せず故にインスピレーションと世帯心の働かねばならぬ必要と一所にくる時が狂気の如くなりて文人の苦む時なり誠にこまった事なれども小生の手にて療治するわけにも行かねば致方も無之候兎に角今日より種痘してかかれば、後日病気にとりつかれてもいくらか軽くて顔に痘痕を残さぬ位の徳は可有之候 天然痘は流行致候御用心御用心
Ø 明治30年 323
一眞一偽一驚一喜とうとうほんものときまりて御入院まで相すめばとにかく安心いたし候ただ此上は気長く御養生可被成候不自由なことがあれば御申越可被下候 已上
1月25日夜 子規 碧梧桐詞伯 床下 (神保病院 河東秉五郎宛)
Ø 明治30年 324
私此月より月給正味8円だけ相増候これハ物価騰貴の結果にして新聞社のもの上ヨリ下迄盡く増額に相成候わけに御坐候就いてハ多少の考も有之今月分勘定を律に命じ候結果別紙の如きものを得候(自分ノタメニ拵ヘタ者ナレド序ニ御一笑ニ供ヘ候)
或る者は少し倹約する方針を取るべくと存候(但し外は兎も角食物だけは倹約せぬつもりに御坐候縦し病気のためわるしとしても食物だけは少し贅沢せねば何分物書くことが出来不申候これは私の一種の病気のやうなものに御坐候 謹言
1月31日 常規 叔父上様 (松山市 大原恆徳氏宛)
出之部
米屋 4.09 肴屋 5.33
月払の分 酒屋 0.96 炭屋 1.128 車屋 1.98 八百屋 1.782 他
現金払の分 菓子 1.64 文房具 1.168 切手端書 1.20 他
〆 36.223
入之部
月給 29.00 隣から 5.00(御歳暮の名義ナレド其實裁縫代なり)
〆 35.77
Ø 明治30年 325
ほとゝぎす落掌先づ体裁の以外によろしく満足致し候。実は小生は今少しケチな雑誌ならんと存じ「反古籠」等も少き方宜しからんとわざと少く致し候甚だ不体裁にて御気毒に存候。扨て編輯の体裁に就きて議すべきこと少からず乍失敬アヽ無秩序にては到底田舎雑誌たるを免かれず候
第一俳諧随筆類と祝詞と前後したることは不体裁の極なり。最初に発刊の趣旨を置き次に祝詞祝句を載せ其次に随筆類其次に俳句などにて宜しかるべくと存候発刊の趣旨は色紙を用ゐざる方よろし。色紙を用ゐるならば祝詞祝句と随筆類との中間に挿むか又は他の文と募集句との中間に挿むかして其上は募集句広告許りにてものせたし
第二募集句の第5等を四分詰にしたるも苦しさうなりこれは小生兼て申上置候通り多ければ下より御削り可相成候。御忘れありしか如何。若し出来得べくんば4等以上にも出たる人の句を削り其外のかつかつ5等及第の句のみを残せば猶宜し
第三蕪村の句を入れるもよろしけれど1句毎に蕪村の名あるはうるさし。蕪村とはじめにあればそれにて十分也
第四飄亭曰く募集句は鳴雪子規代わる代わる(1月おき)見ることにしては如何と。たまたまには一處に同じものを評するも面白しと存候草稿を三分四分して碧虚等も一部分見るも宜し
第五募集題鶯、春風とはわるし。春風とは昨年も海南新聞にて募集したるもの故よろしからず同じ題ばかりでは投書家の詩想広くならぬ憂いあり。又壱号の題に千鳥、時雨という動物天文ありて今度も亦鳥類と天文とは余程素人臭き題の出し方也。貴兄にも似合ぬと存候
此度は題も2つにして余程材料を少くする御覚悟と見つれどもそれならば祝詞の代りになるべき文章か俳句かをしっかり集める用意なかるべからず碧虚飄亭はじめそれぞれ貴兄よりきびしく御請求あるべく候。鳴雪翁と僕とは黙ってゐても送る
鳴雪翁曰く校正行届きたること感心なり
各處へ1部送るとは貴兄もぬかり給へり兎に角初号なり残りあらば何部にてもよこしたまへ兎に角ほとゝぎす発行に就きては鳴雪翁一番大得意なり正直に申せば小生鳴雪翁程には得意ならず。1号を見た時はじめはうれしく後には多少不平なりき。併し出来るだけは完美にしたいとは思ふなり。御勉強可被下候。1円くらいの損耗ならば小生より差出してもよろしく候
鳴雪翁の嬉しさは恰も情郎の情婦におけるが如く親の子におけるが如くにて体裁も不体裁もなく只むやみやたらに嬉しきなり。ほとゝぎすは翁の好意に向って感謝する處なかるべからず
鳴雪翁は2号に「粛山公の句」を送らるる由小生は「反古籠」を永く書くべし。
1月21日 子規 正之君 (柳原正之氏宛)
「反古籠(ほごろう)」とは、正岡子規の俳句の世界観を示す表現。子規は、自らの不調な健康状態から、創作活動で書きためた不要な原稿を反古籠に投げ込むように、多くの俳句を詠み続けました。この言葉には、病床にありながらも「写生」の精神で俳句を詠み続けた子規の、創作への情熱と、現実への絶望が入り混じった心情が込められています。
柳原正之(極堂)は、旧制松山中学校時代に正岡子規と交流を結び、以降「文友」として交際した俳人、新聞記者である。「松山子規会」を結成し、『友人子規』などを著すなど子規の研究・顕彰に半生を捧げた。
Ø 明治30年 327
本年初よりはほとんど筆を置くひまがないほどいそかしくいはば筆硯御繁昌先づ先づおめでたうと自ら祝し奉る義に有之候左様な仕合せなれば大兄の事を思ひだす間がないくらいにいそかしく御座候大兄の事を思ひ出すのは西洋の詩集を読む時に有之詩集かむつかしいのと字書か備はらずに居るとでどうしても分らんこととか多い其時ハいつでも大兄が東京なら善かろうと思ふ詩集を読むことか近来の第一の楽で少し間があれは詩集を見る、嬉しくってたまらん新体詩に押韻を初めたところが実にむつかしい更に句切の一致をやって見た處が更にむつかしく面倒くさいが面白い
腰の痛みが増し医者はルチュー毒類似といい明後日佐藤三吉に来て見てもらう
佐藤 三吉(1857~1943)は、大垣藩士佐藤只五郎の三男。明治〜昭和期の外科医、医学博士、貴族院議員。美濃国大垣藩(現岐阜県大垣市)出身。東京帝国大学教授、東京帝国大学医科大付属医院長、東京帝国大学医科大学長として、同じ岐阜県出身の青山胤通とともに、日本近代医学の創生期に活躍した。
死ぬるの生きるのといふはひまな時の事也此韵(ひびき?)はむつかしいが何かいい韵はあるまいかと手製の韵礎(漢詩、特に七言絶句の「転句」において、押韻が不要な部分を指す)を探ってゐる間に生死も浮世も人間も我もない天下ハ韵ばかりになってしまっていゐるアヽ有難い此韵字(いんじ)ハ妙だと探りあてた時のうれしさ
此頃僕が小説を書くといふことが新聞に出たさうだ、すると本屋が来てどうか1つ御願ひといふ、そこは僕ノコトナレバ小説は出来ません等とことわるのもいやで、受あふと又次とくる受合ったが自ら驚いた子小説とハとんなに書いたらいいのであらう
併しこれで僕ノ小説が出たら嘘から出た誠たね君の草稿を返すが返すが?今少し待てくれ玉へ此23日少し頭かもやもやしてたまらぬ此手紙書くのもいやいや書いたから乱暴だ逢ふて話したくても手紙ハ書けぬ時があるそれは頭の乱れてゐる時だ
餘り御無沙汰するから一書進呈するけれと乱筆乱語無礼失敬万事御海容御海容
明治30年2月17日 規 漱石兄 (熊本市 夏目金之助氏宛)
Ø 明治30年 329
本日佐藤三吉国手来診委細ハ私ニハ分ラズ候「矢張脊髄ダナ」今後同国手ノ取ルベキ方針ハ右ノ腫レノ處ヘ針ヲ入レテ膿ヲ取リ薬ヲ入レルコトト存候兎に角肺ノ養生ハ第一ナリ腰部ハ弱体ナレバ針ニトドメルカノ如く聞取申候右御報告迄 匆々頓首
明治30年2月19日夜雪つもる事1尺 常規 叔父上様 (松山市 大原恆徳氏宛)
Ø 明治30年 330
めさまし草の俳句承知致候小説は須磨を書きかけ候處迚も間にあはず中途でやめて花枕といふ極短篇(原稿20枚)を1日にものし候中々の勇気に有之候
2月26日 子規 虚子兄 (松山市 高濱清宛)
Ø 明治30年 331
御病人(御母堂)如何御座候や
ここに1つ御報道申度儀ありそは古白遺稿畧々編集終りたりといふことなり昨年来小生の心頭にかかりて雲の如くくもりしものは今や全く晴れぬ
数日前より俳句の選択にかかり1日半にてすみ傳をものせんと存じて取りかかりたる處意外の苦辛にてこれにも1日半餘を費したり(原稿28枚)やりかけたらほうっておけぬ小生の性質故今夜傳を書きあげて快に堪へず責任をはたさんとする心熱は体熱に打勝ちて重荷の下りたるやうに覚え候原稿は一旦島村にまはして其後国許へ送る積なり其節は御頼み申度事沢山有之候右御報告迄 匆々
3月1日 子規 虚子兄 (同前)
Ø 明治30年 332
古白遺稿畧成れり出版費用聞合のことを飄亭迄頼み置けり貴兄もよろしく御周旋奉祈候又寄付金をも募集す2週忌迄に出来上がらせたく其旨御承知被下度候御逢になる人には御吹聴奉願候 森々俳句御廻申上候
3月3日認 子規 碧兄 (神田区 河東秉五郎宛)
Ø 明治30年 333
御病人御介抱中難題を申上げて不相済候へども貴兄をおいて外に頼む人なければ御依頼申上候古白遺稿には築島由来を入れ度藤野にあるものを送りくれる様申置候写真と短冊も送る様申やり候併し家族のものには分り兼候やも知れがたく貴兄一寸御出掛被下右送付のものを御まとめ被下まじくや又古白を評せるものに面白きものあらばこれも御送付被下度 已上
3月 子規 虚子兄 (松山市 高濱清宛)
Ø 明治30年 334
御手紙拝見御北堂(母堂)格外の御事にも無之哉肩をもみ足をもみ等被成候様ならば先づ御よろしき方にやと奉察候御来書によれば御介抱少しも御閑なき趣なるに前日の御頼みなど餘り横着と存候併し右の続きなれば兎に角又申上候原稿は今日藤野宛にて郵便致候其はじめに履歴年表ありこれは誤謬不明の廉多き故藤野へ正誤頼み置候へどもいと無覚束存候若し御ひまあらば藤野にて御聞取被下候上御書又は別紙へ認め御張付被下度原稿はいづれ書直し可申小生の傳のやうなものは御一覧被下度候俳句は少けれど捨てやるもをしく貴兄御覧の上御取捨被下度候悪句には句の上に何か印を御付け被下度候
又本日早稲田より売品にせぬかと申来候売品にすることが出来れば結構だが売品になると寄付を募るわけには参らず其他手筈違ふ事多く多分出来ざるべしと存候
小生不相変熱引かず9度1分まで達し低き日も8度67分毎日の事故何だか弱り候様覚え候安眠出来ず仕事も出来ず苦しく候朝の内は熱なき故仕事はいそいで朝の内に片づけ候いそかしき世の中に候
一昨日拙宅俳會鳴雪翁は「娘婚期近づきたり」とて来られず(上原)三川来り三川発起にて(日本)の俳句等を出版せんとの事小生も賛成致冬の部だけ先づ版にせんとて小生只今校閲中なり此中へ冬帽、手袋、やきいも、毛布、襟巻、冬服、ストーヴ等の新題を季の物と定めて入れんとす貴兄も此題にて御つくり被下度御送付願上候尤も最初の事故之を季に入れたりと見するには他の季を結ばぬ方よろしと存候
明治30年3月8日 子規 虚子兄 (同前)
Ø 明治30年 338
藤野より為替券1枚(40円)到着
佐藤国手来たり手術を受け碧梧桐をたのみて来てもらふ昨夜は已に再び腫れ上り手術も何の役に立たぬやうな感じ致候小生のこそ誠に病膏肓に入りしものどんな事したとて直るはずはなけれどそこは凡夫のこと故若しやよくはなりはしまいかと思ふことまことに浅ましき限りに候手術の為只労れてきのふもけふも筆取ることなど甚だものうく候話さへものうく候
蒼苔帰り来る別に理屈なし学校がいやなりと 已上
明治30年3月28日 子規 虚子兄
古白遺稿寄付として漱石より2円来る其外洒竹30銭三川碧玲瓏各々25銭鳴雪翁はいくらでも出すと
小生前日来ある人より芭蕉傳を草してくれよとたのまれ居尤頻りに辞退して洒竹等をすすめたれど聴かれず已むなく紀行をちぢめたる伝記(評論はなし)を草し候其節花屋日記(芭蕉死時の日記)を取り出し見たるところ読むに従ひて涙とどまらず殊に去来が状を見たる其場より立ちて急ぎ来り芭蕉と対面の場に至り嗚咽不能読少し咽喉をいため申候涙もろきも衰弱の結果にして死期の近づきたるものと断定致候但いくら道理で断定しても自分は明日や明後日にはとても死ぬ事などは思ひもよらずと存候道理より感情正しきやうに思ふは即ち凡夫の凡夫たる所以に候人間が凡夫でなかったら楽もへちまもあったものには無く候
4月1日 病子規 高濱清宛
Ø 明治30年 339
いもうとのやつにたにさく(短冊?)買ひにやり候處不風流極るものを買ひ来りそれもよけれと品のわるきこと夥しくこれならば御地にもあるべけれど御手習の料にもと御送り申上候御さげすみ被成ぬ様奉願候畢竟下谷に短冊なきものと存候下谷にたにさく買ふの愚なることを只今知り申候呵々
4月2日 規 金様 (夏目金之助氏宛)
Ø 明治30年 345
掛物2幅恵贈多謝淡々(川端康成?)は真ならん士郎は偽か一葉集1円餘高しと云うべからず
再度の手術再度の疲労一寸先は黒闇々
某商業学校を出でて翻訳課に入る君を聘せんとしたるは其後釜(あとがま)なりしならん僕の君を招きしは其先釜なりしなり奇々妙々誰か翻訳官を難しといふ其人を見れば一笑
硯海旱あり毛頴子夜哭す天下の事乃公を待つ多し乃公終に天下に負かんか抱負の大此の如し君笑ふ莫れ英字読むに懶し病牀無聊水滸伝を読む快春将に暮れんとす独り浣腸に忙し醜々
明治30年5月3日 根岸 病子規 健愚陀和上 (夏目金之助氏宛)
夏目漱石が下宿していた離れを「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」と名付けたことに由来する。この庵は 正岡子規と漱石が共に過ごした場所としても知られています。夏目漱石が松山赴任中に下宿した建物で、自らの号をとって名付けました。漱石は一時的に正岡子規を居候させ、52日間を共に過ごしました
Ø 明治30年 348
先日佐藤氏の手術を受候處右は姑息之方にて今日多分同氏来診切開を施すこと存候岩井氏先日来て切に勧告致され候固よりいなむわけなけれど何分疲労の様子故医師の方より遠慮の模様有之と相見え候叔父様御世話にて岩井氏にたのみ本日より赤十字社の看護婦を得万事整頓致候大略 謹言
明治30年6月 常規 叔父上様 (松山市 大原恆徳氏宛)
Ø 明治30年 349
貴兄此夏帰省するや否や
拝復 本月初より熱は低くなり今では飯がうまくてたまらぬやうに相成候又暫時は娑婆の厄介物となからへ申候併し形勢は次第によろしからず今は衰弱の極に有之候談話などは出来ず僅に片言隻語を放ちてさへ苦しきこと多し叔父在京のため色々世話致しくれ今では看護婦さへ傍に置きて残りなき養生、生に取てはチト栄耀過る事と候へとも生きて居る間は1日でも楽はしたく贅沢を盡し申候固よりこれもいにがけの駄賃にて到底回復の見込みもなければ叔父に対しても何やら気の毒にも存候生きて居る間に死にたいとは思ふ筈はないやうなれど回復の望みなくして苦痛をうくる程世に苦しきものは無之候他より見れば心弱きやうに見ゆべけれど今日苦痛減じて多少の愉快を感する時でさへ未来を考へ見れば再びどんな苦が来るや分らずと思へば今が今にても死といふことは辞せず候
昨日足痛んで堪へられずひとり蚊帳の中に呻吟する時杜鵑(とけん、ほととぎす)一声屋根の上かと思ふ程低く鳴て過ぐ
そぞろに詩情を鼓せられて 〈時鳥しはらくあつて雨到る〉 只実景のみ御一笑
病来殆ど手紙を認めたることなし今朝無聊軽快に任せくり事申上候蓋し病牀に在ては親など近くして心弱きことも申されねば却て千里外の貴兄に向って思ふ事もらし候乱筆の程衰弱の度を御察被下度候 已上
明治30年6月16日 子規 漱石 盟臺 (熊本市 夏目金之助氏宛)
Ø 明治30年 351
拝復先月末より少しひどくからだをやられ申候勿論小生の病気には快復といふことなくやられる度に歩を進めるばかり故此度も一層衰弱致し復前日の小生にあらず
俳句原稿8巻落掌致候併し小生は今の處先づ筆硯を抛つ積りだし迚も今迄の如く添削校正など出来るやうな身にはならぬことと覚期致候へば右の原稿も如何可致や碧虚の中にて引受るなればよろしけれど小生廃棄すれば両人とも自然多忙なるべくと存候猶貴兄より両人へ御依頼ありては如何これは可成早き方宜敷と存候右当用迄乱筆 匆々不一
6月21日 規 三川 詞兄 (信濃国 上原良三郎氏宛)
Ø 明治30年 352
謹啓ふりみふらずみの時節(時雨の様子、初冬の季語)御脳痛如何や前日は度々御枉駕を辱うし難有奉存候本日日本人(雑誌)の一話一言を拝見今更のやうに面白く覚候まま少し申上候
一 一話一言は蜀山の著書名なりしとおぼゆ御承知の上御つけなされしか
一 御文中「しに」の字多くために文章たるみたるやうに覚ゆ例「鬼子母神堂に詣でしに」
一 菩薩、芝居の2章は文章完全に和漢好く調和したるやうに存候
病中無聊なるままに例の妄語を列ね乱文乱筆失礼の段御海容奉祈上候 已上
6月22日 常規 鳴雪先生 梧右 (本郷区 内藤素行氏宛)
Ø 明治30年 353
御病気如何昨日碧子より聞く處にては瘧(おこり)かと覚え候それなら小生も経験有之たいした事はなかるべく大阪毎日の分は碧子已に半分を閲し候由あとも出来るだけ見てくれとたのみおき候瘧は何でもなけれどあとは多少弱りが出可申いっそ碧子にたのんだもよきかと存候小生不相変俳句不出来自ら俳壇の大戸平(大関)に比し居候(言ひぐさ鳴雪翁に似たり呵々)
6月28日 子規 虚子兄 (神田区 高濱清宛)
秋山米国へ行く由聞きし處昨夜小生も亦渡行に決したることを夢に見たり元気未だ消磨せず身体老いたり 一噱(きゃく、わらう)
Ø 明治30年 355
昨日愚哉(ぐさい、洋画家・俳人)来り貴兄より俳句会有之様聞きて参りしとの事何かの間違と存候来る18日午後より拙宅に於て臨時小集相催度御光来願上候漱石がやりたさう故催し申候愚哉は16日已後は出られぬと申候故別に通知不致候
虚子には未だ逢はず下宿屋をやるとの事故小生は忠告致しやり候
7月16日 規 碧兄 (横浜根岸 河東秉五郎宛)
Ø 明治30年 357
来る18日午後拙宅に於て臨時小会を催す御光来奉祈候
ほのかに承れば下宿屋御営業に相成由固より小生の容喙すべき限にあらねど前年柳原の覆轍を考へると杞憂に堪へず候まま一言申上候
一 下宿屋は主婦が第一の要素にて少しは東京的に気の利く人でなければむづかしと存候
一 東京語に通じて居る人でなければ客との応接買物の掛引等不都合多きことと存候
一 東京の事情に通じて居る人でなければ買物の相場やら何やら盡く不都合と存候
或は貴兄専ら手を出して御世話なされ候かとも存候へども内々は兎も角表立て貴兄が出られ候は商売の妨かと存候今日の處では貴兄は多少知名の士になり居られ候に付書生等があれは虚子いふ人のやっている下宿屋ぢゃさうだなどというやうでは人皆憚って下宿する者なかるべく候営業の名前さへ女が必要なるに名のある人が居っては皆避け可申候
高田屋の景況を見ての御考なるべけれどあれも主婦の力多きに居ることと存候
小生は柳原の事など思ひ合せて何だか下宿屋業は無覚束やうな感頻りに起り候可成は御やめになされて乍失敬令兄は東京の土地に御慣れ被成候迄どこかへ奉公なされ候方得策也
老婆心如此御存とは存候へど気がすまぬ故申上候 以上
7月16日 子規 虚子兄 几下 (神田区 高田屋方 高濱清宛)
Ø 明治30年 360
拝啓 近日御壮健の趣羯南先生より承り候湖村(桂、中国文学者)兄とともに毎日御推敲の事と存候友人佐藤安之助氏(俳号肋骨)を紹介申上候此人は陸軍少尉にて台湾征伐に赴き右の足を斬られて金鵄勲章を得たる剛の者に候俳句も我々仲間屈指の名人文武両道の達人に之有候其上好人物に候よろしく願上候 不宣
8月6日夜 常規 愚庵様 (山城国 天田鉄眼氏宛)
霊山やひるねのいひき雲おこる 一句御笑覧被下度候
天田愚庵 1854~1904。禅僧で歌人。平藩藩士の生まれ。本名天田五郎。子規と交流あり。山岡鉄舟門下。軽挙妄動を戒められ清水次郎長の養子に。次郎長の伝記『東海遊侠伝』を著す。
Ø 明治30年 361
近来とかく気欝し神衰へて筆をとるにものうく硯蓋の事など打ちわすれてありしに催促の人見えければせん方もなく如何はせんとためらひながらあすは期日なり又の御使参るべしと内の者に促されてさて何と書くべしや幸に天晴れ心地も少しすがすがしく覚え侍るに此いきほひに乗じてと一気呵成にしかも御土地柄なれば淡々の調をまねて此の如しわからぬも御なぐさみそこが妙と御ほめ被下度候 呵々
明治30年8月10日 子規 露石詞兄 (大阪市 水落義弌氏宛)
「運座用硯蓋銘」 涼みにも袖へかくして運坐舟
運坐とは、運衆一同が一定の題で句を作り、優れた句を互選する会で、子規が明治25年頃から始めた
Ø 明治30年 364
秋雨蕭々汽車君をのせて又西に去る鳥故林を恋はす遊子客地に病む萬縷盡さす只再会を期す敬具
9月6日 子規 漱石詞兄 (夏目金之助氏宛)
「鳥故林」は、旅人がかつて住んでいた土地を懐かしく思う気持ちをさす詞。羈鳥旧林(きちょうきゅうりん)。「羈鳥」は籠の中で飼われている鳥。「旧林」は以前にいたことのある林。「羈鳥は旧林を恋い、池魚(ちぎょ)は故淵(こえん)を思う」という陶潜の詩「園田の居に帰る」から
「萬縷(ばんる)」は、多くの細かな事柄や、多くの糸すじを意味する言葉
Ø 明治30年 366
拝復 御安着奉抃賀(べんが、手を打って喜ぶ)候小生爾後無異状候近来たのまれて小説とやらをものし居候昨夜もそれかために夜をふかし候處今日はほんやりして具合悪く困居候此等の仕事は余程身にさはる様思はれ候へとも昨年の小生と今年の小生とを比較致候へは来年の小生は大方推し測られ申候1日をのはせば1日の衰弱をます者ならば少しにても元気ある内に5枚にても10枚にても試み度存居候今日のやうな秋雨蕭々たる日熱すこしありて背寒き夕などは不相変はかなき事ばかり考へてひとりなやみ居候 不二
9月15日 規 金兄 (肥後国 夏目金之助氏宛)
Ø 明治30年 370
いつか御申越の会稿は乍失敬不出来に付会の俳句としては出し申さぬ積に候此頃は各地に俳句会勃興致候處中に往々不出来のもの有之多くは載せ不申候或は削減の上掲ぐるものも有之候然るに満月会又はある他の会の如きは新聞社へ直接に郵送する者を直ちに新聞へ出し候故不権衡の沙汰となり困り候に付今後は盡く小生一応検閲致様取計申候其故会稿は可成小生へ直接に御郵送被下候様満月会の諸君へも御合の節御伝被下度候又5人已下の会合は会と認めず小生選抜句8句已下のは会と認めず1人2句以上を出さず又可成週報にのみ掲載致度存候故諸方の会稿一時にあつまる時は優勝劣敗にて乗らぬ者も沢山出来可申候小生の見る處にては会稿でさへあれば新聞にのると思ひ麁末(そまつ)に作る人もあるやに思ひ候今後悪句はどんどん削去申候に付可成句を沢山書て御送被下度候 已上
9月28日 子規 露石兄 梧下 (大阪市 水落義弌氏宛)
Ø 明治30年 373
昨夜碧玲瓏(直野)の分御送付申候これにて御預りの分は悉皆返璧と存候如何貴句はいつでも拝見可仕候冬の部等再閲したくもあれどそれがために手数を費すもむだかと存候其儘御まわし被下て差支なく候尤も民友社にて餘り大部過るとの事ならば如何程にも削り可申候前にに申上候拙句は御削り被下候や昨夜差上候碧玲瓏子の分は2点にものに限り御登録可
松声会会稿落手致候会稿掲載の事につき内規相定め候ゆゑ一言申上置候
一 会稿は総て小生検閲致候事今月満月会等の会稿は直接新聞社にまはり悪句多し
一 5人以下の会は会と見なさざる事5人已下の会はみすぼらしく存候普通文苑に採録
一 1人2句以上を載せぬこと総体に於て選句10句以下ならば会稿として採録せず会稿は大略1週間3度(週報等)位の割合にて出し度候従て諸方より輻湊致候節は善きものより可出と存候 右諸君へ御伝言奉願候
10月26日 子規 三川詞兄 研北 (信濃国 上原良三郎氏宛)
Ø 明治30年 352
拝啓御起居如何に御座候哉先日は湖村(桂)氏帰京の節佳菓御恵投にあづかり奉萬謝候多年の思ひ今日に果し申候 右御礼旁 敬白
10月28日 常規 愚庵禅師 御もと (京都五条産寧坂 天田鉄眼氏宛)
釣鐘といふ柹の名もをかしく聞捨がたくて つりかねの蔕(ヘタ)のところが澁かりき
Ø 明治30年 374
昨夜手紙認めをはり候處今朝湖村氏来訪御端書拝誦御歌いづれもおもしろく拝誦仕候失礼ながら此頃の御和歌春頃のにくらべて一きは目たちて覚え申候おのれもうらやましくて何をかなと思ひ候へども言葉知らねばすべもなしさればとて此まま黙止て過んも中々に心なきわざなめり俳諧歌とでも狂歌とでもいふべきもの2つ3つ出放題にうなり出し候御笑ひ草ともなりなんにはうれしかるべく あなかしこ
10月29日 つねのり 愚庵禅師 御もと (京都五条産寧坂 天田鉄眼氏宛)
みほとけにそなへし柹のあまりつらん我にぞたびし十あまり五つ
あまりうまさに文書くことぞわすれつる心あるごとな思ひ吾師
発句よみの狂歌いかが見給ふらむ
Ø 明治30年 379
啓 こころみに貧富の課題をものせんとの野心やって是程の難題未だ存不申候同じやうな句ばかりなれど
貧 貧村に寺一つあり破芭蕉/貧しさに菊枯れし瓶の梅もとき/鉢栽の唐辛子食ふ世帯哉
富 富める人の虫買ふて放つ植木鉢/金持の隠居なりけり菊作り/二所長者の内の砧哉
10月 子規 (大阪市 水落義弌氏宛)
Ø 明治30年 380
拝啓 いつぞやより申上げんと存候事、天長節の今日に思ひつきて一書認め候も何等のまはり合せにや我ながらおぞましくも覚え候へども病牀にのみある身の今迄言ひ出づべき機会もなくて今日に至り候次第に有之候
御忠告申上度事申出づる前に御尋申度兄と非風と僕と3人共に常盤会寄宿舎にありつる頃の兄の心事境遇と今日を比較して如何の感を起され候や兄は左様なる比較を試みられたる事あらざるべし僕は兄の昔日を思ふ毎に其心事の変遷の甚だしきに驚かずんばあらず又悲しまずんばあらず。昔悟りたりし兄は今迷へるなり。しかも兄自ら迷へりとは思はざるべし。是れ深く迷へるなり。兄或は僕が此言を以て直ちに置酒遨遊(ごうゆう)の一事を誡むる者と断ぜん。兄誤れり。置酒遨遊固より可なり折柳攀花固より可なり。只僕の不可とするは兄の心事に在り。人、兄を評して堕落せりと言う者あり。寄宿舎にある頃の兄は高かりき。昨年以来の兄は之に比して一等を下りたるを覚ゆ。智識は進み経験は増し名誉は高まりたらん而して人物に於ては之に反す。昔日の兄は無垢清浄にして一点の暗黒点を有せざる水晶の如く透明なりしなり。黄褐を著て破窓に倚り粗食厭はず餅菓子を喰ふて興に入れば即ち世間を罵倒す、曰く彼俗骨と。何ぞ心事の高潔にして生活の晏如(あんじょ、落ち着いて安らか)たるや
生存競争の中に立つ者は濁世と共に推移せざるを得ず。時に権門勢家に出入りして命を聴く事もあるべし。しかも是れ外形の上のみ。心事の高潔と腐敗とは外形に関せず。其人に属す。而して人物の高下は外形を以て論ぜず心事を以て論ず
兄が置酒遨遊するは果たして如何の心事を以てするか。僕の邪推を以てすれば、兄は、置酒遨遊を以て尋常一般の事となしたるかを疑う、否、人生に必要なる者なりとの考を持たるるにはあらざるかを疑う。兄は夢中になりて得意になりて置酒遨遊するには非るか。置酒遨遊が尋常一般の事に非ざるは尋常一般の人が置酒遨遊せざるを見ても知るべし
兄を評するに、諷戒の意を以てする者は堕落といふ、冷笑の意を以てする者は得意といふ。僕も爾く(しかく、そのように)感じ人も爾く言う、是れ置酒遨遊以前の事に属す。試みに昔日の俗骨非俗骨的の観念を以て之を判断せよ。遨遊置酒一時の快を貪る者寧ろ笑ふべく憐むべ気にあらずや。況んや之を以て得意人に誇るが如き其愚其迷到底済度術からずなどとて一笑に付し去りしに非ずや然るに10年の智識経験を積みたる今日、自ら俗塵の中に齷齪(あくせく)して贅沢を得意がるに至りしとすれば如何。感慨措く能はず。遨遊は非風を誤れり。殷鑑遠きにあらず。曾て非風の迷執を憐みたる兄は終に復非風に憐まれんとするか
俗界に立つ者の野心あるを妨げず。昔日の無垢清浄なる兄に野心を生じたるを咎めずして寧ろ之を喜ぶ。然るに野心も得意も同じく是れ俗事なりとて之を混同するは非なり。得意は野心の敵なり。人苟も得意を感ぜんか野心は最早成らざるなり。僕は兄が野心の多からずして得意に圧倒せられたるを歎ぜざるを得ず
遨遊も亦野心の敵なり。度を過ぐれば精神を消耗し勢力を竭盡(けつじん)するをや
兄にして其良心に訴へて一点恥づるの心なく少しの卑劣なる所行も無くんが幸なり。十年以来心事を談じ来りたる兄と僕との間に濛々たる雲霧を掩はしむる莫れ。言意を盡さず情筆に現し難し。暴言を咎むるなくんば本懐の至りなり
11月4日 子規 飄亭兄 (神田区長谷方 五百木良三氏宛)
附言
新聞の文章兄のを評して冗長なりと言う者多し陸氏亦之を憂ふ
兄の書ける雑報には自己を現出したる者多し雑報は成るべく無関係の地に立って書するを要す自己を現すは気障なり右二事反省を願ふ
兄の日常の挙動談話に得意自ら現る。自ら気の付かぬ事多かるべし。一例を挙ぐれば百円二百円の金額を鼻のさきで軽々に談ずることあり。百円千円の金も人と場合によりては目くさり金なり。併し吾人一個人の上よりは容易ならぬ金額なり。僕の覚期は人に異なり。贅沢は大好きなれども贅沢をして居る時も常態なりとは思はず。寧ろ困窮を以て人の常態となすは僕の心得なり。此心なくんば野心を成就すること能はずと自ら信ず
耐忍の力なきは松山人の傑出する能はざる所以なり。僕常に嘆息して人に語る、松山人には耐忍力なしと。此松山人に兄を包含するの時あらしむる莫れ。他日に望あらば今日に堪へよ。大丈夫、金銭の奴隷となる莫れ。置酒遨遊の快楽に更ふるために兄に勧むべき者二種あり。一に妻帯なり。一は読書調べ物の類なり。置酒遨遊は妻無きが為ならず書を読まざるが為ならず。然れども妻ある者読書する者が置酒遨遊に遠がるは自然の結果なり
「置酒」(ちしゅ)とは、酒宴を開くこと、あるいはその酒宴自体を意味する言葉です。主に中国の古典文学に由来し、『史記』には高祖が群臣を招いて「未央殿に置酒す」と記されています。また、「置酒高会(ちしゅこうかい)」という熟語では「盛大に酒宴を催すこと」を意味
折花攀柳(せっかはんりゅう)とは、花を折り柳の木によじのぼるという意味から、転じて、花柳界や色里で芸者や遊女と遊ぶこと
「褐(かつ)」とは、粗末な衣服
「俗骨」(ぞっこつ)とは、 卑俗な気質。いやしい生まれ付き。また、その人。凡骨
Ø 明治30年 383
ほとゝぎすの事委細御申越承知致候編輯を他人に任すのことは固より小生の容喙すべきことにても無く誰がやっても出来さえすればよろしく候只恐る三鼠は粗漏にして任に堪へざるを盲天寧ろ可ならんも盲目よく為し得べきや否や
売先は豫州(伊予国)にあらずして他国にある由是れ最も可賀の事とうれしく存候即ち豫州は極めて健在の地ながら俳句会の牛耳を取る証拠にして此事を聞く已来猶更小生はほとゝぎすを永続為致度念熾(さかん)に起り申候
編輯上尤も面倒なるは募集句清書ならんと存候せめてはこれだけにても御手を助けんと存此度は小生清書致し俳巻に添置候今後も出来さへすれば清書可致候
財政の事につきては一向様子分らずも収支償はずとありては固より分別せざるべからず既往の決算将来の見込みにつきて大略の處御報奉願候小生金はなけれども場合によりては救済の手段も可有之と存居候定価の事は可成しばしば変更せぬこそよけれと存候
昨年の今頃にありては貴兄と鳴雪翁との気炎あたるべからざるものありしやに覚え候今は小生1人意気込居候然れども東京にて出すには可なり骨が折れて結果少くと存候畢竟松山の雑誌なればこそ小生等も思ふ存分の事出来申候何にもせよ小生は只貴兄を頼むより外に術無く貴兄若し出来ぬとあれば勿論雑誌は出来ぬことと存候
何分にも松山には人物なきか熱心家なきか貴兄を扶助する人一人もなきは御気の毒と申外無之なげかはしき事に存候貴兄御困難のことも大方推量致し居候へども何卒出来るだけの御奮発願上候紙数増加は固より喜ぶべきも材料あるや如何
小生俳句分類集日夜怠らず今は背丈にあまり申候其中を抜粋して毎号末に凡4頁だけ付録と致度蕪村の新花摘集を出したやうに願ひ度候此原稿は両3日中に御送可申候 敬白
12月18日 子規 極堂詞伯 (松山市海南新聞社 柳原正之氏宛)
Ø 明治30年 384
来年はよき句つくらんとぞ思ふ 呵々
運座は毎月催居候例の少人数なれども中々負けてはしまはぬつもりにて励み居候鳴雪氏俳壇を退かれ候後小子は常に年長者にて自ら老人のやうな心持致候こころ細き事に候
桃雨(阪田)氏前日一寸相見え大阪日本銀行支店の建築係を命ぜられ是より同地へ出発
定めて猿男(森)氏と出会多かるべくと存候虚子妻を迎へ根岸近辺にわび住居致居候
12月23日 子規 松宇詞兄 研北 (伊藤半次郎氏宛)
Ø 明治30年 385
新花摘の事心がけ居候へども中に解の十分に出来兼るものありて延引致居候御入用ならば早速御返却可申候さなくば今少し
12月(端書) (大阪市 水落義弌氏宛)
編輯後記
この巻に収め得たのは明治13年から30年まで18年間の子規居士の書簡。31~35年の分は紙幅の関係上、どうしても収録し得なかった
今までに居士の書簡を集めたものとしては、俳書堂発行の『子規書簡集』(『子規遺稿』中の一部)がある。この巻の編纂は大体同書に拠り、新材料を得るに従って年代順に取入れて行った。『子規書簡集』総計583通のうち、明治30年中までのもの338通である。これに今度得た同年までの新材料57通を加えれば388通になって、この巻の385通とは3通の相違を生ずる。これは在来の書簡集が編次を誤っていたものを改めて行なった為である。内容を見ながら、明らかに年次の間違いあれば正して編纂し直したほか、宛名も書中の事実から訂正するなど、『子規書簡集』既収のものも、今再びその書簡を借覧し得たものは、それによって多少の訂正を施すことができた
書簡以外の資料としては『筆まかせ』がある。これは必ずしも全文ではないが、当時に於ける居士自身のうつしであるのを珍とする。ただ夏目漱石氏との間に、往復された数通だけは、已に全集第8巻『筆まかせ』中に収めておいたから、ここには重複を避けて省略
『子規書簡集』編纂の際、材料を貸与されている人名を同集より転載(68名)
今回の増補に当って材料を貸与され、或は種々の便宜を与えられたこと(13名)に対し謝意
尚今後新材料の発見されるものがあれば、年代不明のものと共に最後に付加える事とした
巻頭に掲げた書簡は30年2月19日大原恆徳氏宛のもの、居士の晩年を悩まし通した疾病診断が、決定した際のもの。福寿草の写生画は晩年の作で、今は蕨橿堂氏の所蔵する所
Wikipedia
合略仮名[1](ごうりゃくがな)は、仮名の合字である。省略仮字[2]、略用仮名[3]、合略文字[4]または合略字[5]とも呼ばれる。
漢字の略字が字源とされるもの(「ヿ」「𬼀」など)は厳密には合字ではないが、合字とともに扱われる事が多い[6]。
歴史
1900年(明治33年)には仮名調査委員が変体仮名の廃止とともに『「
電子機器上での扱い
2000年まで、コンピュータ上では外字の利用などでしか合略仮名を扱えなかった。
2000年、JIS X 0213が定められた。これによって「ヿ」と「ゟ」が使えるようになった。
2002年、Unicode 3.2に「ヿ」と「ゟ」が採用された。
2009年、Unicode 5.2に「𪜈」が採用されて、使えるようになった。しかし、CJK統合漢字拡張Cとして登録されてしまった。
2017年、Unicode 10.0に「𬼀」「𬼂」「𬻿」が採用されて、使えるようになった。しかし、CJK統合漢字拡張Fとして登録されてしまった。
表示可能なフォント
2025年8月現在、合略仮名が表示可能なフォントには以下のようなものがある。
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IPAmj明朝(
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Oradano明朝GSRRフォント(
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字躰帳変体仮名(
一覧
平仮名
以下は、合字である。
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読み |
画像 |
文字 |
Unicode |
字源・用例 |
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こと[1] |
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ごと[10] |
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ゟ |
U+309F |
より[1] |
以下は、合字ではない。
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読み |
画像 |
文字 |
Unicode |
字源・用例 |
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𬼂 |
U+2CF02 |
也[1] |
片仮名
以下は、合字である。
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読み |
画像 |
文字 |
Unicode |
字源・用例 |
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- |
ト云[1] |
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- |
- |
トキ[1] |
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トテ |
- |
- |
トテ[1] |
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𪜈 |
U+2A708 |
トモ[1] |
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𪜈゙ |
U+2A708 + U+3099 |
ドモ[13] |
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- |
- |
ヨリ[14] |
以下は、合字ではない。
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読み |
画像 |
文字 |
Unicode |
字源・用例 |
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- |
- |
云[13] |
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ヿ |
U+30FF |
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ヿ゙ |
U+30FF + U+3099 |
ゴト、事[16] |
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𬼀 |
U+2CF00 |
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- |
- |
時[14] |
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𬻿 |
U+2CEFF |
類似の文字
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「ます」と読む文字「〼」は、計量に使用する枡を記号化したものであり、合略仮名ではない。
·
漢字の一部を仮名に置き換えた字(略字)があるが、これらも合略仮名ではない。
·
例:「機」
·
インターネットスラングで、既存の文字の偏と旁が他の文字として解読できる場合、当該文字1字を他の文字2字の代わりとして用いる場合がある。
·
例:「托い」(キモい)「モルール」(モノレール)など。
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