潮音  宮本輝  2025.9.8.

 2025.9.8. 潮音 全4

 

著者 宮本輝 1947年神戸市生れ。追手門学院大学文学部卒業。広告代理店勤務等を経て、77年「泥の河」で太宰治賞を、翌年「螢川」で芥川賞を受賞。その後、結核のため3年ほどの療養生活を送るが、回復後、旺盛な執筆活動をすすめる。『道頓堀川』『錦繍』『青が散る』『流転の海』(全九部。毎日芸術賞)『春の夢』『優駿』(吉川英治文学賞)『約束の冬』(芸術選奨文部科学大臣賞)『骸骨ビルの庭』(司馬遼太郎賞)等著書多数

 

発行日           2025.1.30. 第1刷発行

発行所           文藝春秋

 

初出 『文學界』

第1巻     201548月号、10月~20162月号、48月号、10月~20172月号、47月号

第2巻     20178月号~20185月号、2018712月号、201926月号、89月号

第3巻     20191011月号、20201月号~20211月号、35月号、78月号、1012月号、202256月号

第4巻     20227月号~20232月号、5月号~20244月号

 

江戸時代の単位換算表

l  距離・長さ

1里=4㎞、1町≒109m1間≒1.8m1尺=10寸≒30.3㎝、1寸≒3.03

l  重さ

1貫=1000匁=3.75㎏、1斤=600g1匁=3.75g

l  時間

小半時、四半時=30分、半刻=1時間、1刻=2時間(季節により変動)

l  お金

1両=4000文、1両=4分=16朱、1朱=250

 

富山の薬売りの専門用語

l  先用後利――使った薬の代金を後で支払ってもらう商法

l  仲間組――各職域における秩序と商圏を守るための「株」を持つ者の組織。互助組合

l  向寄(むかいより)――仲間組の地域内における異なる商圏

l  上縮(うわしまり)――1つの仲間組の統率者、仲間組内での責任者として選ばれる。1つの向寄でも上縮がいて行商人に指示・助言する。現場の何人かの上縮の中に代表の上縮がいる

l  (きゃく)――越中富山の売薬業者における株の名称。名義人が1人で廻れる商売範囲を示す。名義人の意思によって売買が可能

l  ル直し――行商人が古くなって各家庭から回収した薬を直すこと。薬の修繕をして薬袋も新しいものに入れ替えて、再び置き薬として使えるようにする

 

 

あらすじ

越中富山藩に生れた川上弥一は、薬種問屋「高麗屋」に奉公に出て、薬売りの道を歩み始める。やがて弥一は「薩摩組」の一員として薩摩へと赴くことになる。藩を超えた自由な往来が制限されていた江戸時代において、富山の薬売りが例外だったのは、薩摩藩と薬売りが共有する清国との密貿易を巡る「密約」故だった。滞在先で、弥一はその後も長く付き合いになる薩摩藩御製薬掛の武士・園田弥之助と知り合う。いっぽう日本全体に目を転じれば、ペリーの黒船が来航し、開国派と攘夷派が激しく対立、不穏な動きが強まっていた

 

第一章 密貿易

薩摩組の1人として名を成した弥一のところに、江戸から訪ねてきた筆者(清水順一郎)?に昔話をする形式で小説が進む

維新から13年、長く売薬人を務めていたが体を壊し、生まれ故郷の越中八尾で養生すること3年。川上家の長男として生まれたが、家業である売薬専用の紙問屋は継がず、16歳で城下の薬種問屋「高麗屋」に奉公に上がり、1851年、20歳で初めて薩摩組に加わる

八尾は養蚕と製紙で栄え、製紙屋、養蚕屋、生糸屋、蚕種屋、紙屋が密接に繋がり合う

「越中富山の反魂丹(はんごんたん)」は富山の薬業者の考案ではない。唐人によって伝えられた漢方薬。立山大権現を信奉する立山信仰の修験者たちが布教の先々で反魂丹に似た薬を与えることで人々を集めたのが始まりとの説もある

富山藩は加賀藩の支藩で10万石、神通寺川西側と常願寺川との間の一部

前田家2代目藩主正甫(まさとし)が胃弱で反魂丹を愛用、将軍の胃痛も治し、一気に広がると同時に、富山の薬種商たちに依頼された藩への売薬廻商を命じたのが越中富山の売薬業成立の契機とされる

正甫公の命を受け、薬種商の松井屋源右衛門などが備前岡山の薬医万代常閑に薬の作り方を学ぶ。食当たりや飲み過ぎに効く「熊胆圓」や腹痛や癇の虫を抑える「奇応丸」など6種の薬を依頼された藩に売り歩くようになり、1691年には藩主の命による初期の売薬廻商組合を結成

1745年、5代藩主前田利幸の時、豪雪害と神通川の氾濫、富山町の大火で藩民が窮乏した際、紙と売薬による産業復興を目指し、特に売薬は全国に販路を拡大。紙は蚕の蛾が卵を産みつける場所になるだけでなく、薬の入れ物であり、行商で持ち歩く紙風船や挿画にも用いられ、養蚕と紙、薬は切っても切れない関係にある。さらには富山井田川の清流が生糸にも製紙にも重要な役割を果たしている

薬販売網を整備するとともに人材育成にも注力、維新後西洋薬が氾濫しても動じない

全国を22組に分割、幕末時点で合計2221脚の商圏を持つ。地域ごとにまとめられているが、薩摩だけは1つの藩に26もの脚があるのは不思議

越中富山人は、前方の途方もなく広大な海と後方の峩々たる峰々の向こう側を、いつともなく、自覚することなく、強く夢想して、憧憬の念を抱き続けてきた。それが胸中隠し持っている気概の根元にある

薬は、売薬人が薬種問屋から仕入れた薬材料を使って自分の家で作り、藩の役所(反魂丹役所)が品質を検査

薩摩は、山と谷ばかりで農業に適した土地がなく、米の大半は大坂の米問屋から買うしかなかったため、慢性的な財政難に苦しんでいた。その上、代々の殿様が外国の珍品に興味を持って蒐集に努め、特に8代目の重豪(しげひで)公の時には莫大な借財を作る。そのために交易に活路を見出そうとして、幕府に隠密な抜け荷で、琉球を通じて交易を始める。交易は物々交換。清国が一番求めたのは風土病の特効薬となる干し昆布。交易はすでに明時代に始まる。新潟が中継地。干し昆布の産地は蝦夷

薩摩は浄土真宗を禁じていて、越中富山は特に浄土真宗の宗徒が多かったが、越中八尾の薬売りだけは例外として受け入れ

 

第二章 越中八尾

越中富山にとって薩摩藩は、清国から売薬の材料を得るための貴重なルートであり、売薬のための商圏というより、清国からの唐薬種を得るために不可欠の存在、そのために薩摩組の多くの脚が割り当てられていた

1847年、薩摩藩と越中富山の売薬業者が密約   

同年、川上屋の惣領の弥一は16歳で突然藩命により薬種問屋の高麗屋に奉公に出される。学問所での成績が良かったので目を付けられ、薩摩組に組み入れられる

 

第三章 深山(しんざん)の民

紙問屋屋に楮(こうぞ)を卸す山の民を「またぎ」というが、祖父は彼らを「深山の民」と呼ぶ

またぎのお陰で越中八尾の上質な紙が漉かれる

そこで同じ年頃の娘に出会う

 

第四章 高麗屋

高麗屋に奉公に出るが5か月間仕事はなく放っておかれる。弥一に求められるのは才ではなく大きな心だという。人間としての信用を築くことだと言われる

 

第五章 薩摩仲間組

残薬調査、金銭記録係、出納係など帳場の仕事を始めると、すぐに仕入れた薬種と売薬量の間に大きな差があることに気づく

 

第六章 秘密

1847年の薩摩藩と富山の売薬問屋との密約は、密貿易と抜け荷に関する取り決め

 

第七章 地球絵図

高麗屋の仲間から世界地図の写しを見せられる

 

第八章 京への旅

初めて京へ旅に出る

 

第九章 新しい仲間

薩摩は自分で製薬して販売しようと、富山の商法を真似るため、高麗屋から人を派遣させる。その1人として弥一に白羽の矢が立つ

 

第十章 薩摩へ

薩摩に富山の売薬の調合や販売の仕組みを教える代わりに、今まで以上の投薬種を売ってもらおうとする

北前舩の船乗りたちは、日本の海を行き来することで物の動きもよく知り、それによって世の中の動きも知っている。富山の売薬人も全国津々浦々を歩くことで日本全体の事情に常に接している。この2つが越中得富山では否応なく交ざり合って、世情についての知識や予測や判断力を鋭敏にさせていた。それによって物を動かし、莫大な利もえていた

 

第十一章 山あいの宿場

富山から薩摩までは35日。海路は天候に左右されるため予定が立たないうえ、一旦海難事故に遭うと人も失うことになるため、荷は運んでも人は陸路を行くのが普通

日向街道の宿場で、土佐の中の浜の万次郎が10年ハワイに漂流したあと薩摩に流れ着き、島津斉彬が熱心にその話を聞いたとの情報を得て、鎖国はいつまでも続かないとの思いを強くする

 

第十二章 荒治療

道中で出会った樵の娘の腫れものを、薩摩仲間組が治療する

 

第十三章 大洋

いよいよ錦江湾北側の加治木の宿に入り、大隅国の向こうに大海を見る

 

第十四章 異国

薩摩滞留は3度に及び、薩摩での富山の売薬行商差し止め解除が近づく

その直後にペリーのアメリカ艦隊来航

 

第十五章 黒船

1855年、薩摩藩により富山の行商差し止め解除

ペリーの来航とその翌日の第12代将軍家慶(いえよし)の薨去とが同時に伝えられた

江戸の混乱ぶりに加えて、将軍後継ぎは病弱の家定で、斉彬の従妹の篤姫が御輿入り

オロシアの船も長崎に出現

 

第十六章 せいさん

古着屋のせいさんこと尾田静櫓に世の中の動きを教えてもらい、学問の手ほどきを受ける

尾田は、旗本の3男坊だったが、勘定方の家業を嫌って刀を捨て、古着屋に収まっていた

 

第十七章 天璋院篤姫

1854年、日米/日英和親条約締結

1855年、安政の江戸大地震

 

第十八章 安心していなさい

1856年、差留め解除後初の行商で薩摩に入る

担当の脚「に入ると蒲生神社の楠の大木が、「一生涯見ていてあげる。安心しなさい」と言ってくれたような気がした

 

第十九章 初めての行商

和親条約が通商条約に繋がることは自明で、開口開国と進めば、唐薬種は薩摩経由でなくとも手に入るし、蝦夷の干し昆布と唐薬種を琉球経由で隠密裏に交換する必要もなくなり、越中富山の廻船問屋や薬種問屋と薩摩藩が苦労して作り上げた交易網は過去のものとなる

 

第二十章 郷土

薬は各戸に置くのではなく、門割制度における各郷頭に薬を預け、必要とする人はそれぞれが属する門割における長である郷頭の家に貰いに行き、後で代金を届ける

 

第二十一章 京での新生活

加賀の扇子屋ひいらぎ屋の娘と祝言を挙げた後京都で新生活を始める

騒がしくなった世の中の動きを京を足場に長崎や四国、防長2州や芸州に行き、越中富山の薬の今後について知恵を磨けと言われる

 

第二十二章 洛中洛外

1591年、秀吉は入京して荒廃した京を御土居(おどい)と呼ぶ土塁の壁で囲む。囲んだのは都として活気のあった碁盤の目状の範囲で、北は鷹ヶ峰まで、南は9条通、東は鴨川、西は紙屋川。それが洛中で、そこから外は洛外。洛中以外は「いなか」であり、「夷」であり「戎」

 

第二十三章 攘夷論

攘夷というのは朱子学が伝えて、水戸の学問で使われた言葉

 

第二十四章 大獄前

1858(安政5)、飛越大地震

 

2巻 あらすじ

時代は江戸幕府最末期の安政から元治年間。お登勢を妻に迎え薬売りとして1本立ちした弥一は、「高麗屋」の主・金兵衛から、京で2,3年暮らし、経験をされに積むよう言われる。その頃京には、島津久光が兵を率いて上洛し、天皇を奉じて幕府と対決する――との噂が流れていた。弥一は、薩摩藩邸に向い旧知の園田弥之助と面会する。勤王攘夷の嵐は益々吹き荒れ、寺田屋事件、池田屋事件と血なまぐさい騒動が続く。さらに攘夷派のもう1つの雄・長州藩と諸外国の間で紛争が起き、いよいよ幕府の権力は崩れつつあった

 

第二十五章 大獄の始まり

井伊直弼による大獄が始まり、京の街中も公家、武家、町人皆見境なく捕縛される

 

第二十六章 お雪

第二十七章 桜田門外の変

第二十八章 目明しの町

第二十九章 飛脚屋の女房

和宮降嫁が決まり、長州は長井雅楽(うた)の建白した「公武合体・開国」が藩論として採用され、それが「航海遠略策」と呼ばれて、朝廷にも幕府にも支持され始めたのが1861

諸外国との交易が始まり、物価の騰貴が続き、庶民の暮らしは生半可ではなくなる

通貨の正しい交換比率を知らずに開国を急いで、各国公私に騙されて、幕府の交渉力は子ども同然、金貨の大量流出で財政的にもピンチ

 

第三十章 隠密御用

公武合体は、朝廷崇拝からすぐに討幕へと進み、陸続と討幕を目指した志士が京に集まり始め、さらに島津久光が倒幕に向け兵を挙げて上京するという噂に混乱が拍車をかける

薩摩が負ければ、富山の薬は仕入れ元を失って壊滅するので、何としてでも久光の決起を止めなければならない

 

第三十一章 薩摩屋敷

第三十二章 騒乱前夜

第三十三章 せご屋

第三十四章 伏見寺田屋

薩摩藩内の御家騒動の名残が過激派の決起となって寺田屋騒動が勃発、その後始末もそこそこに、久光は公武和一のための勅使警護の役目を朝廷から申し付けられ江戸に下向

 

第三十五章 血気

弥一たちは両者の間に入って情報伝達に奔走、騒動鎮静化に一役買う

 

第三十六章 幕府の綻び

第三十七章 ふたたび京へ
第三十八章 偽者
第三十九章 雪の京
第四十章 刺客
第四十一章 馬関砲撃

薩摩藩と越中富山の廻船問屋、薬種問屋との繋がりは、単なる商売仲間以上の関係。幕府を相手に荒海とも格闘し、ともどもに助け合ってきた同志といっても大げさではなく、唐薬種を大量に入手するための同志としての薩摩藩に代わる藩はない

 

第四十二章 薩英戦争
第四十三章 八月十八日の政変
第四十四章 池田屋事件

日本の3大豪商は、紀州の紀伊国屋文左衛門、加賀の銭谷五兵衛、薩摩指宿の浜崎太平次(屋号は「ヤマキ(山木)」で、黒砂糖を大坂に運ぶ。薩英戦争後の綿の買い占めでも巨利)

 

第四十五章 禁裏への道
第四十六章 大火
第四十七章 禁門の変

3巻 あらすじ

幕府の崩壊が遠くないことを悟った弥一は、薩摩藩御用の豪商満井屋雅右衛門と面会し、富山の薬売りによる清国との直接交易を画策する。やがて、水戸の天狗党の乱で、三百五十数人の尊王攘夷派の浪士が斬首されたとの知らせが聞こえてくる。将軍家茂が薨去、代わって慶喜が将軍の座に就く。慶喜は朝廷への大政奉還を上表、さらに将軍職を辞した。薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍は旧幕府軍との戊辰戦争に勝利し国内統一、本格的な近代化が始まろうとしていた

 

第四十八章 ふたたび薩摩へ

元治元年(1864)、薩摩組の一員として薩摩への行商に戻る

 

第四十九章 行商
第五十章 少年
第五十一章 本枯れ節
第五十二章 羊毛玉
第五十三章 水戸天狗党
第五十四章 将軍上洛
第五十五章 朝廷の闇
第五十六章 日去りて月来る
第五十七章 異国人居留地への旅
第五十八章 幕府弱体
第五十九章 帝の影
第六十章 孝明天皇の死
第六十一章 大政奉還
第六十二章 奸計
第六十三章 動乱開始
第六十四章 こぜりあい
第六十五章 牛小屋の夜
第六十六章 鳥羽伏見の戦い

征夷大将軍に任命された仁和寺宮が掲げたのが錦の御旗で、小競り合い開始からわずか5日で「官軍」と「賊軍」の旗幟が鮮明に。錦旗を考えたのは岩倉卿。入れ知恵をしたのが西郷と大久保。山崎の関門守備にあたっていた津藩藤堂家が裏切りの最初。藤堂家は外様だが、譜代扱いの有力大名で重要な山崎の関の守備にあたっていたのが、新政府軍からの薩長に手を貸すよう勅命が下ると幕府に向けて発砲。徳川軍の本営となっていた淀藩も徳川軍の入営を拒否。一気に大勢が決まる

 

第六十七章 恭順
第六十八章 江戸を焼く
第六十九章 洋薬襲来

1870年、新政府に民政局が創設され、諸株仲間の廃止令公布。酒造株と売薬人は例外とされたが、すぐに売薬は医学所の後身である大学東校に管轄が変わり、洋薬を普及させるための短兵急な売薬政策を進め始める。日本伝統の漢方薬排除を目的に太政官布告「売薬取締規則」発令、全ての薬を大学東校が検分して許可を出すことに

翌年の行商出発までに、全ての薬の製法書を提出して大学東校の許可を取る

亀山社中にいた岩崎弥太郎が九十九商会を設立して商売を始めたように、富山の薬も御一新で会社を設立する西洋のやり方を取り入れることを考える

 

第七十章 古着屋せいさん

越中富山の売薬業を守るためには、富山藩の反魂丹役所を薬種問屋が引き継がなければならない

 

第七十一章 武士たちの行方
第七十二章 新しい旅

 

4巻 あらすじ

1870年、新政府の下売薬は大学東校の管轄となり、洋薬を普及させるための短兵急な売薬政策を進め始め、日本伝統の漢方薬排除を目的に太政官布告「売薬取締規則」発令、全ての薬を大学東校が検分して許可を出すことになるが、高麗屋は予てからの薩摩藩御製薬掛との密約維持の功が実って許可の目途が付き、さらに富山の売薬問屋を統合して会社組織にしたり、薩摩藩が清国との交易を放棄したのを機に、直接清国から唐薬種を輸入しようとの構想が浮かぶ。高麗屋は東京と大阪に分社を作り、西洋薬種の学校も開設。1874年には富山の廻船問屋が干し昆布を満載して福州に向い直接唐薬種を買い付け

弥一が東京から来たジャーナリストに話した越中富山の売薬問屋の話は、大阪で新しく発行される新聞に長期連載物として掲載された

 

第七十三章     琉球と清国

第七十四章     一両は一円

第七十五章     清国福州

第七十六章     岩倉使節団

拍子抜けするほど平和裏に廃藩置県が行われ、越中富山は新川(にいかわ)県となり、県庁は魚津に建てられ、加賀藩領だった砺波郡が新川県に組み入れられたが、

 

第七十七章     不平士族

第七十八章     西洋時計

第七十九章     邂逅

第八十章          事業拡大開始

第八十一章     伏木(ふしき)の松葉屋

第八十二章     つるひこさん

第八十三章     公使館の料理人

第八十四章     列強の罠

第八十五章     大阪分社開設

第八十六章     馬上の人

第八十七章     密偵警察

第八十八章     船出

第八十九章     台湾出兵

第九十章          朱大老

第九十一章     青年の自死

第九十二章     西南戦争

 

あとがき

江戸時代の終り頃、薩摩藩、富山の売薬業者と廻船問屋、清国の4者の利害が一致して、当時極めて危険だった密貿易の広大なネットワークが出来上がる。富山市内で1年暮らし、広貫堂(明治9年創業、本書の舞台)などの富山の薬屋さんの店の近くにいて、富山の薬屋が江戸時代末期に日本を動かす大仕事をこっそりとやってのけたと知って驚き、歴史小説にする話が始まる

 

 

 

 

 

 

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宮本文学初の大河歴史小説、堂々の開幕篇!

幕末・維新の激動に立ちむかった「富山の薬売り」たちの知恵と勇気。
宮本文学初の大河歴史小説、四ヵ月連続刊行!
幕末の越中富山に生まれた川上弥一は、藩を挙げての産業・売薬業に身を投じる。
やがて薩摩藩を担当する行商人となった弥一は、薬売りと薩摩藩をつなぐ「密約」に気づき始めるーー。黒船来航、幕府の危機を背景とした壮大な物語が、今はじまる。

<全四巻から成る大河小説。読みごたえがある。
 武士や権力者ではなく、市井の人間が激動の時代を懸命に生きる姿が見事にとらえられているのは宮本輝ならでは。>
 ーー川本三郎氏(評論家)「毎日新聞」202567日付の書評より
<宮本文学の代表作の一つとして、長く読み継がれる作品になるだろう>ーー重里徹也氏(文芸評論家) 「東京新聞」2025531日書評より
<日本各地を回った富山の薬売りの鋭い観察眼と時代認識を通して、黒船来航から王政復古を経て西南戦争にいたる平和と変革の時代を描く雄渾な文学作品>
 ーー山内昌之氏(東京大学名誉教授)「週刊文春」2025227日号の書評より
<「一身にして二生を経る」ほどの幕末維新の激動を乗り越えた日本人のたたずまいが巨匠の筆で活写されている。この小説は混沌の現代を生きる私たちの心の支えだ。>
 ーー磯田道史氏(歴史学者・国際日本文化研究センター教授)

舞台は動乱の京都。大河歴史小説、佳境へ!

幕末・維新の動乱を描く宮本文学初の大河歴史小説、いよいよ佳境へ!
時代は江戸幕府最末期の安政から元治年間。薬売りとして一本立ちした川上弥一は、京に拠点を移す。寺田屋事件、池田屋事件と血なまぐさい騒動が続く京で、弥一は旧知の薩摩藩士・園田矢之助らと呼応しながら、人の命を救うために戦乱の町を奔走するーー。

紹介

執筆足かけ十年。宮本文学、初の歴史小説、全四巻の第三巻。
時代背景は、下関戦争(186364)から大政奉還(1867)、鳥羽・伏見の戦い(1868)を経て、明治新政府が本格的に発足するまで。
主人公・川上弥一は新時代に対応し、富山の薬売りを近代的な「カンパニー」に脱皮させようとする。
日本の夜明け前を、勇気をもって駆け抜けた人々の姿を描く!

執筆足かけ10年。宮本文学、初の歴史小説。全四巻の完結篇。
開国から明治維新・西南戦争を経て、日本の近代化が始まる激動期を、越中富山の薬売りの視点から描く。主人公・川上弥一は、薩摩藩担当の薬売り行商人から、最後は近代的製薬会社の創業を主導するまでになる――。
第四巻から時代は本格的に明治へ。近代日本が始動していく一方、西南戦争では若き薩摩藩士たちが痛ましい死を遂げていく。そして弥一の身辺にも、大きな出来事が起きるーー。


内容説明

「なんのために生まれたか、だって?幸福になるために人間に生まれてきたのさ」いよいよ時代は本格的に明治へ。文明開化で庶民の生活も大きく変化する。一方で、西南戦争では若き旧薩摩藩士たちが痛ましい死を遂げていく。そして主人公・川上弥一の身辺にも、大きな出来事が起きる―時代を超えた人間の本質に迫る、著者の真骨頂!宮本文学初の大河歴史小説 堂々の完結!

 

 

 

幕末の激動、うねり―薬売りの目線で 宮本輝さん歴史小説「潮音」、全4巻完結

2025428 500分 朝日

 宮本輝さん(78)が初めて手がけた歴史小説「潮音」(文芸春秋)が今年1月から月1冊刊行され、全4巻が完結した。幕末から明治維新を生き抜いた富山の薬売りの目を通して、歴史のうねりと人々の喜怒哀楽がみずみずしく語られる。

 ■庶民に徹し、違う見え方 喜怒哀楽絡め

 1853年のペリー提督率いる黒船艦隊の来航から開国、明治維新、そして近代化へ向かう激動期。越中富山から薩摩藩へ派遣された売薬行商人、川上弥一らは蝦夷地や琉球、清国とつながる密貿易の核心に迫っていく。それは幕府崩壊にもかかわることになる。

 密貿易のさわりをテレビでたまたま見て、興味をそそられた。宮本さんは小学生のころ、富山に暮らしたことがある。それに、富山の薬売りが年2回家を訪ねてくると、紙風船をもらえるのが子ども心に楽しみだった。「富山の売薬さんへの郷愁がありましたね。あの売薬さんが倒幕の歴史にかかわりがある?」と。

 武士の目線で語られがちな歴史だが、薬売りという庶民の立場に徹して書くと違って見えてきた。たとえば、ペリー来航の衝撃の大きさを実感した。「体の大きなペリー一行にぺこぺこする幕府側が、庶民には卑屈に見えたでしょう。政治的というより感情的に、たいしたことないなと」。そして時代は一気に変わっていく。

 安政の大獄、蛤御門の変、鳥羽伏見の戦い、西南戦争……。侍たちの動乱の中、富山の薬売りたちのなんと一貫して勤勉なことか。重たい荷物を持ち、毎年決まった家へ行き、使った薬の代金を得て、新しい薬を置いていく。薩摩まで行く行商人たちは片道35日かけた。「決して声高ではなく、こつこつと、雪が溶けると豪雪の地から各地へ出かけていく。すごい根性の人たちではないか」

 とはいえ、調べるには骨が折れた。各地の産物を運んだ北前船、売薬行商人の仕事ぶり、彼らが泊まった旅館の宿賃からおかずまで調べ尽くした。そうして月刊の文芸誌での足かけ10年に及ぶ連載となった。

 歴史ドラマの裏側で、行商人仲間らの交流や家族の情愛、人生哲学がこまやかに描かれる。ある時、弥一は厭世的になる。生きていていいのかと。宮本さん自身の思いと重なったのだという。

 連載していた当時、70歳を過ぎてがんを患った。死を覚悟した。よくなったが、ちょうどそのころ、同じ年ごろの友人ががんで亡くなった。それが芯からこたえた。

 「人生の苦労は何のためだったのか。生まれた時から死に向かっているのかい。人生って、いったい何なんだい」。2カ月ほど思いつめた。

 その時、気づいた。自分だけがしんどいと思っていないか。妻の気持ちを考えていなかった。どんなにか心配でしんどかっただろうと。「厭世的になっている時は、自分の中に自分しかいないんですね。家族のため、だれかのために一生懸命になる時、人はグチが出ないのだと思います」

 富山湾は水深1200メートル以上あるという。「底のほうの水はゆっくりとした動きをしているだろう。その動きは誰にも止められないし、その動きの中で人は生きていくのではないかな。そんな潮の音が聞こえてくる気がするんです」(河合真美江)

 

 

 

宮本輝さん10年かけた初歴史小説「潮音」 越中富山の薬売りの視点で幕末維新の動乱描く

2025/3/29 14:00 産経新聞

作家、宮本輝さん(78)が足かけ10年にわたる連載で手掛けた、初の歴史小説『潮音』(文芸春秋)が今年1月から順次刊行され、4月に全4巻が出そろう。越中富山の一介の薬売りが経験した幕末から明治への激動期を、蝦夷地、越中富山、薩摩、琉球、そして清国へと広がる秘密裏の交易ルートに乗せて壮大に描いた物語だ。

「しんどい作業」

初の歴史小説に挑んだきっかけは30年ほど前、薩摩による討幕の資金源に、越中富山の薬売りが関係していた話を知ったことだった。製薬に欠かせない唐薬種を入手したい売薬業者と、風土病の特効薬となる蝦夷地産の干し昆布が必要な清国。薩摩はそれぞれの利害をつなぎ、厳しい鎖国政策の目をかいくぐり、琉球を介した清国との密貿易で巨利を得たという。

「面白い話やなぁという感じで僕の中では終わっていたんですよ。それを小説に書こうとは夢にも考えませんでした」と宮本さん。ところが十数年後、編集者と酒を飲みながら雑談でその話をしたところ、「ぜひとも小説に」と懇願され筆を執った。

文芸春秋の月刊誌「文学界」で平成27年に始まった連載は令和6年に完結した。歴史小説は細かな時代考証が求められた。「書いている時間が3としたら、調べる時間が7ぐらいのしんどい作業だった。でも、10年頑張ったかいがあった」としみじみ振り返る。

時代の転換点

主要舞台は、江戸時代から全国津々浦々に薬を届ける売薬業で知られる越中富山。幕末維新を生きた主人公、川上弥一は架空の人物だが、当時2千人以上いた薬売りの一人だ。「越中売薬の営業マンが2千人以上も日本中を回っていたなんて、当時の日本にそんな企業ないですよ」と話す。

薬売りは春と秋の年2回、重い行李(こうり)を背負って全国を行脚する。薬の知識や調合法はもちろん、歴史学や地理学などの教養、手紙の書き方や礼儀作法に加え、他藩でトラブルを起こさない温厚な人柄に頑丈な体、忍耐強い資質が求められた。

弥一が担当する薩摩は、越中富山からなんと片道35日を要する。北国街道を歩いて琵琶湖、淀川、瀬戸内海を船で渡った後、九州の地を踏みしめて到着する気が遠くなる遠さだ。

取材で大分の豊後地方から日向街道を南下した宮本さんは、「弥一が憑依するというか、自分が弥一になっていくというか。そんな瞬間が何回かあった」と語る。

やがて一人前の薬売りとなった弥一は、先人らが築いた蝦夷地から越中富山、薩摩、琉球、清国を巨大な円で結ぶ秘密の交易ルートを目の当たりにする。鎖国下での密貿易はまさに命がけ。帳簿に残せない取引であることから、漏洩防止のため暗号のような符丁でやり取りし、手紙類はすぐに焼き捨てるという徹底ぶりだ。

密貿易によって豊富な唐薬種を得た売薬業者は業容を広げ、潤沢な資金を得た薩摩は倒幕へのエネルギーを蓄えていく。尊王攘夷派と開国派の衝突や、薩長の覇権争い、全国を行脚して風聞を得る売薬業者の隠密さながらの暗躍などを背景に、宮本さんは明治維新へと向かう時代の転換期をダイナミックに描き出した。

「鉄壁の権力を築いた徳川幕府がもろく崩れていく過程を腹を据えて勉強し、調べながら書きました」

なんのために生きていくのか

宮本さんは9歳の頃、父親の仕事の関係で富山市に1年間暮らしたことがある。「とにかく雪が多くて、雪の記憶しかないですね」。そんな雪深い越中富山の主要産業を担う売薬人について、こう描写する。

《貧しくて厳しい豪雪の地で辛抱というものを自然と学んだ人間たちが、人の苦しみを救う薬を売ることで家族を養える道を得た》

弥一は、そんな売薬人を体現したような誠実な心ある人物だ。売薬人として上層部に上り詰め、妻子にも恵まれた弥一が、「なんのために生まれて、なんのために生きていくのか」と、虚無感にさいなまれる場面が印象的だ。

「人生の中で突然、厭世観に包まれる時期があるし、僕自身が病気をして、もうこれでだめかなぁなんて、ちょっとでも思った時期があったから、あそこに至ったんでしょうね」

10年に及んだ連載中、宮本さんは2度の大病を患った。令和3年にステージ1と診断された肺がんの切除手術を行い、翌年には肝臓近くの脂肪腫を開腹手術で取り除いた。「これでもう、この小説(『潮音』)は未完だな」との思いがよぎったこともあった。

《生老病死。このたったの四文字に、すべてのことが収まっている》

《十歳で死ぬ人には十歳の春夏秋冬がある》

《地位や身分に関係なく、人々はそれぞれの生老病死の中の喜怒哀楽を懸命に生きた》

幕末維新のうねりを壮大なスケールで描きつつ、名もない薬売りの人生に、自身の人生観をも照射した大河歴史小説。激動期を懸命に生きた弥一の哲学的思索が、作品に一層の味わいを加えている。(横山由紀子)

 

 

宮本輝が初の歴史小説「潮音」市井の視点から

2025120 5:00 [会員限定記事] 日本経済新聞

作家・宮本輝の初となる歴史小説「潮音」(文芸春秋、全4巻)の刊行が始まった。「歴史小説とは縁のない人間だと思い込んでいた」という作家は、一人の庶民の視点から日本近代化の激動を描いた。

「実際にいた人間なのに、会ったこともなければ声も聞いていない。そういうものはちょっと無理だなあと」

半世紀近いキャリアのなかで、史実に材をとる歴史小説を手掛けたことはなかった。作家を新しい道へいざなったのは、歴史上のある逸話だ。

時は幕末。中国産の薬種を望む富山の売薬業者は、財政難にあえぐ薩摩藩と手を組み、清との密貿易に乗り出した。清が求める昆布の産地である蝦夷地、そして琉球を巻き込んでの巨大貿易圏を鎖国の時代に作り上げたのだ。

物語の軸となるこの話を知ったのは30年ほど前に遡るという。幼少の一時期を富山で過ごし、同地が舞台の「螢川(ほたるがわ)」で1978年に芥川賞を受賞した自身にとって印象に残るものだったが、小説にする気はなかった。後年、編集者らに伝えたときも同様だ。

だが作家の関心を知った周囲は執筆を望む。「いや、おれは書かないよとしばらくほうっておいた。歴史は泥沼や、一歩足を踏み入れたら抜き差しならないところへ行ってしまう、と」

「徹底的に考えているうちに一つ分かったのは、富山の売薬は一庶民に過ぎないということ。政(まつりごと)を行う人たちの間で何が起こっているのかを知る立場にない。となると、うわさや風聞、いろんなものを咀嚼(そしゃく)して推理を巡らす以外に動く方法がない。それを、ぼくが創ったらいいんだ。それなら書ける」

「潮音」は薩摩藩を担当する富山の薬売り・弥一の語りで進む。弥一と仲間たちは幕末から西南戦争の時代、西郷隆盛、大久保一蔵(利通)らの思惑を推し量り、富山の人々や恩義を感じる薩摩のために身を尽くす。

「ぼくは売薬側にしか立てない」と自らを定めた姿勢は、市井の人を描いてきたこれまでの現代小説とも重なる。

「世の中動かすのは結局庶民ですもん。ペリーが浦賀沖に来て日本中大騒ぎになり、尊王攘夷派、佐幕派と思想戦になったといわれているけれど、庶民たちは艦隊の大きさだけではなく、ぺこぺことうろたえる幕府を見て驚いたのだと思う。『徳川、たいしたことないじゃないか』という思いが、実は世の中を変えていく原動力になったのでは」

タイトルの「潮音」は、海の底の潮流の音を指す。「幕末だけじゃなくて、いつの時代も、今この瞬間も、時代というものの底の部分では、巨大な潮がゆっくりと動いている。そのなかに自分がいると分かっている人間と、全く分からない人では、人間の幅が、腰の据わり方が違うと思う」と力を込める。

「おれは、大きな大きな水底の潮の動きを書こうとしているんだ」。改めて気づいたのは、文芸誌での連載終盤、病を得て数カ月休んだときだったという。

「もうじき八十の人間が、せせこましい、けちな人間のこと書いてられへん。もうぼくは、幸福な小説以外は書かないぞ、美しい小説以外は書かないぞと自分に誓った」。結末の明るさには、そんな思いが響いている。

「どこの世界にも、今の世にも、弥一みたいな人がいるんですよ。分からないだけでね。その人たちが人知れず、一生を終えていくのは、それでいいんじゃないかな。皆生きて、老いて、病気をして、死んでいく。そのなかで幸福を見つけていくのは、一生懸命生きた人たち。雨がっぱを体に巻き付けて、日向街道を、薩摩へ薩摩へ向かっていった人たちでしょうね」。作中にたびたび登場する場面を取り上げて、そう語った。

(桂星子)

 

 

 

文藝春秋 20253月号

薩摩の倒幕を助けた富山の薬売り

 宮本  作家

 磯田 道史 歴史学者

2025/02/09

行商人が隠密的な役割を果たしていた

 磯田 この度宮本さんが第一巻を上梓された『潮音(ちょうおん)』(全4巻。小社より順次刊行)は、越中富山の薬売りを主人公に、幕末から明治初期の日本を描いた壮大な歴史小説です。歴史小説を書かれたのは、はじめてでしょうか?

 宮本 ええ、何もかも手探りで、結局書くのに足かけ10年もかかってしまいました(笑)。磯田さんは『無私の日本人』(文春文庫)で、大田垣蓮月をはじめとする江戸時代の人物たちを、あたかも目の前で生きているかのごとく書いていらっしゃる。今日はその秘訣を伺いたいと思って来ました(笑)。

 磯田 尊敬する宮本先生に褒められると本当に嬉しい。恐縮すぎて、穴がなくても、どこかに入りたくなります。坂本龍馬のようなヒーローが主人公の幕末歴史小説は珍しくありませんが、ご作品の『潮音』は異色です。無名の庶民の眼からこの時代を描いていました。

 日本では幕末から明治にかけて、人類史上例を見ない大変化が短時間に起きました。福沢諭吉は『文明論之概略』の緒言で「一身にして二生を経る」経験と書いています。西洋化、近代化を受け容れるなか、一人の人間が二度の人生を生きるほどの変化を味わい翻弄されたわけです。

 この大変化は、武士だけが経験したわけではありません。庶民も同じでした。『潮音』を拝読して、それを肌身に感じました。

 宮本 ありがとうございます。

 僕は昭和221947)年の生まれで戦争を知らない世代ですが、やっぱり敗戦というのも日本人が「一身にして二生を経る」激変だったと思うんです。そして敗戦後に生まれた僕たち団塊の世代が生きてきた時代は、とにかく社会の変化のスピードが速かった。主にアメリカから入ってくる新しい発明品なり、文化なりに真っ先に触れる経験をしてきた世代なんです。たとえば真空管ラジオがトランジスタに代わり、ブラウン管テレビが出てきて、今度は液晶になる──といった風です。文化の面でも、中学生や高校生の頃にビートルズにリアルタイムで出会い、それまで聞いていた音楽との違いに衝撃を受けました。

 そういう意味では我々の世代は、急激な変化への耐性が強い気がするんです。ちょんまげ頭を散切り髪にして、和服を洋服に着替える変化をわずか数年間に経験した幕末・明治の日本人の気持ちが、なんとなくわかるような気がします。

 磯田 1978年に『未知との遭遇』というSF映画が日本でもヒットしました。人類が宇宙人と出会う話です。幕末の日本人にとって「未知との遭遇」は異人との出会いでした。同じ地球の別域から来た人々に驚き恐怖し好奇心も抱いたのです。

 宮本 本当に宇宙人と会ったぐらいの衝撃だったと思いますよ。なにしろ、ペリーは身長195センチぐらいあったらしいですが、徳川将軍は身長150センチあるかないかぐらいでしょう。まさに、「大人と子ども」です。

 磯田 実際、アメリカの初代駐日公使ハリスが13代将軍家定に謁見した際は、家定を床から60センチ高い台の上に乗せる滑稽な計画が練られ実行されました。体の貧弱な将軍を威厳のある高さに見せかけようとしたのです。

密貿易が薩摩の財源に

 宮本 そういう噂は、庶民の間にもだんだんに広がっていく。そうして永久不滅と思われていた幕府が、「あれ、意外と弱いんちゃうの」と急に軽く見られるようになったんだと思います。噂話が日本全国に広がっていく間には、尾ひれ背びれがついて大げさになっていく。南の端の薩摩藩に届く頃には、「おい、将軍が異人に土下座したらしいぞ。大したことないから、みんなでやっつけてしまおう」ぐらいの勢いがついてしまったんじゃないでしょうか(笑)。

 磯田 そういう面はたしかにあるでしょうね。

 薩摩藩の動員可能兵力は10万人近いとされます。兵農分離がなされておらず、ふだんは木こりや漁師をしている郷士たちが、戦時には武器を手に全土に100を超える一国一城令に矛盾した砦に拠って戦う仕組みでした。歴史小説では司馬遼太郎さんも、この郷士制にふれています。薩摩藩はイギリスから新式のスナイドル銃を大量に買い集め、地上の敵を炸裂弾でなぎ倒す大砲も備えていました。日本の中で幕府が軍事的に滅ぼせない唯一の藩になっていました。

 ポイントは、その武器を買う軍資金を、薩摩藩がどこから手に入れたか、です。『潮音』の中では、琉球を経由した清国(中国)との密貿易の利益が元だったのではないか、という仮説を打ち出していますね。

 宮本 薩摩は8代藩主・島津重豪(しげひで)が外国から高価な財宝を買い集めたことなどにより、500万両という途方もない借金を抱えました。しかしそこから30年ほどの間に借金を清算したばかりか、さきほど磯田さんが言われたような大量の兵器を買い集めた。

 磯田 その金の出所は密貿易に加え、富山の薬売りも無関係ではないと物語に組み込まれています。日本海側の富山と、日本南端の薩摩とは一般には意外な取り合わせに見えますが、作中では接点が説明されています。

「海の道」がつないだ富山と薩摩

 宮本 江戸時代の日本の物流は、北前船による日本海ルートがメインでした。内海である日本海の方が、太平洋側より波穏やかで難破の危険が少ないからです。

 日本海に面した富山には、北前船を使って海運を手掛ける廻船問屋が集中していました。この廻船問屋と、売薬業を手がける富山の薬種問屋は密接な関係にありました。

 磯田 薬の製造・販売を薬種問屋が手がけ、物流を廻船問屋が担う近代的な分業が成立していたんですね。

 宮本 そうなんです。一方、薩摩藩は、幕府が握っている長崎の出島を介した正規の貿易ルート以外の、「裏ルート」をかねて狙っていました。それは、薩摩藩の属国になっていた琉球を経由し、清国の福州と往還するルートです。

 もっともその頃の薩摩には、長距離航海ができるような船はありませんし、また清国が欲しがるような貴重な産物もさほどありません。そこで、小説の中では富山の廻船問屋・薬種問屋と手を結んだという設定にしたのです。

 磯田 当時の清国が欲しがっていたものはなんだったのでしょう?

 宮本 大量の干し昆布ですね。蝦夷地(北海道)で穫れる良質な昆布を干したものは、風土病の特効薬の原料として、清国が喉から手が出るほど欲しいものでした。

 富山の廻船問屋が所有する北前船は、まず蝦夷地で干し昆布を買い集め、その後は日本海沿いに新潟、富山、敦賀……と各地に寄港し、それぞれの産物を仕入れながら下関にたどり着きます。

 その後、荷は別の船に積み替えられ、長崎などを通り九州西岸沿いに薩摩に至ります。鹿児島からは薩摩の船で琉球に向かい、琉球で清国の船にさらに積み替えて大陸の福州に干し昆布が到着するわけです。

 磯田 江戸時代は鎖国していて、外国との貿易は厳しく制限されていた、というのが教科書的な知識でしょうが、実際は黒船来航以前に、かなり「開国」していたのですね。

 宮本 そう思います。

 さきほど言った、蝦夷地の干し昆布を清国まで運ぶ「輸出」は、薩摩藩に莫大な利益をもたらしました。さらに、清国から逆ルートで「輸入」してくる漢方薬、鮫皮、朱、珊瑚、象牙といった貴重な産物は、やはり北前船を使って日本各地で売り捌かれました。その輸入に関しても、薩摩藩はかなりの利ざやを得ていたと思われます。

 磯田 その利益の蓄積が、倒幕にもつながっていったのではないか、という鋭い切り口です。そしてその背景には、富山と薩摩を結ぶ「海の道」があった。非常にダイナミックな構図で、学者の論文の先を行っていると思います。

例外が越中富山の薬売り

 宮本 学者さんはガチガチの資料的裏付けのあることしか言いませんが、小説家には「想像力」という武器がありますからね(笑)。

 富山には越中史壇会という歴史学会があって、現在の会長である米原寛さんに北日本新聞の記者が引き合わせてくれました。この米原先生に売薬業について多くのレクチャーを受けました。米原先生との出会いがなければ『潮音』は幾つかの場面で停滞しつづけたでしょう。米原先生にはとても感謝しています。

 磯田 『潮音』の目のつけどころがすごいのは、富山から薩摩に薬を売りにいく「薩摩組」の行商人を視点人物にしたことです。薩摩では他領民の自由な移動は厳しく制限されていましたが、数少ない例外が越中富山の薬売りです。彼らなら商売のためという名目で、遠い薩摩の地にも出入りすることができます。

 宮本 薬売りたちは、いったん薩摩に入ると、5日間ぐらい滞在して、村々の顧客を廻っていたようです。薩摩領内にいられる期間はきわめて短かったんです。「先用後利(せんようこうり)」と言って、前の年に置いていった薬の中から減った分のお金を貰う、今でも続いている仕組みです。

 建前としては、商売以外の余計なことを一切口にしてはなりません。けれども人間ですから、そうやって毎年顔を合わせているうちに、富山の薬売りと薩摩の人たちの間に、「情」のつながりが出てくるはずでしょう。

 さきほどもちょっと話が出たように、薩摩では武士と百姓の区別が曖昧で、村々にも普段は畑仕事をしている武士がいます。彼らと親しくなるうちに、薬売りたちが薩摩藩の内情に徐々に通じていく、ということはありえない話ではない──というのが当初の発想でした。

一向宗への警戒心

 磯田 ただ薩摩藩は、富山の薬売りに警戒心を持っていた節もあります。何度も「差し止め(行商禁止)」の命令を下したことが、文書に残っています。

 宮本 いちばん大きな理由は、一向宗(浄土真宗)でしょうね。富山は一向宗の信徒がとても多いんです。薩摩からすると、売薬を隠れ蓑に布教活動を行い、藩を転覆させるのではないか、という恐怖がありました。

 磯田 なぜ薩摩が一向宗を嫌ったかというと、豊臣秀吉の九州平定(158687年)にまで遡ります。この時、一向宗の本山である本願寺は秀吉と手を結ぶ。新門(次期門主)を下関まで派遣し、秀吉軍の支援に廻った、ということを窺わせる手紙が残っています。当時、薩摩には一向宗の信徒がたくさんいましたから、彼らが新門に呼応して、島津軍の動きを知らせ、それが秀吉軍に筒抜けになり、島津軍の敗北に寄与したことも考えられます。事実、島津・薩摩藩は秀吉に降伏後、一向宗に怒り心頭で、一向宗の領内根絶政策に走りました。

薬売りは「隠密」だったのか?

 宮本 そこで薬売りたちは、一計を案じ、「自分たちは、富山の中でも例外的に一向宗門徒の少ない越中八尾(やつお)から来た者で、けっして一向宗門徒ではない」という口実で、薩摩に入っていたんですね。薩摩組の行商人たちの申し合わせ書である「薩摩組示談定法(じょうほう)書」の中にも、「いったん薩摩領内に入ったら、どんなに親しい間柄であっても一向宗がらみのことを一切口にしてはならない」という文言があります。

 磯田 薬売りたちは、薩摩でどんな生活をしていたのでしょうか?

 宮本 「文學界」で連載を始める時、若い担当編集者が色々資料を集めてくれたんです。その中に、さきほど言った、「薩摩組示談定法書」がありました。薬売りが絶対に守らなければならない決め事の数々が挙げられています。

 まず酒を絶対に飲まないこと。道中の宿屋で知らない人間と相部屋になった時にはなにも喋らないこと。旅先で決してトラブルを起こさないこと。もし少しでも揉め事を起こしたら、仮に相手に非があったとしても即刻売薬行商人をやめさせる、と厳しい掟が並んでいます。

 磯田 他藩から来た者への薩摩の警戒心は、おそらく日本一だったと思います。なにしろ関ケ原の戦いでは西軍についた島津ですから、のちに徳川の縁戚になっても幕府からは「仮想敵国」とみなされ続けました。

 宮本 少しでも幕府の隠密ではないか、と疑われる節があれば、容赦なく斬り殺されたそうです。その中で仕事をしていたわけですから、薬売りたちの緊張感たるや、凄まじいものだったでしょう。

 磯田 薬商の金盛(金森)長蔵ら富山売薬薩摩組編『薩摩藩と富山売薬薩摩組』という本があります。高岡高等商業学校も『富山売薬業史史料集』を編んでおり、そこでは、全国各地での富山売薬の様子がうかがえます。たとえば萩藩(山口県)の項を見ると、「(自分たち行商人は)忍び目付に見張られている」。萩藩は、忍びにこっそり薬売りたちを監視させ、本物の薬売りなのか、幕府の隠密ではないかを確かめていました。

 一方、薩摩の関所では、「持ち金改め」があります。現在の価値に直して20万円以上の金を持っていないと、追い返されました。行商人の所持金が少ないと盗みに走りやすく、滞在中に病気になった場合も、薩摩側に負担が生じるのを嫌ったものでしょう。この所持金の改めについて「持ち金は必要最低限に申告しろ」という言いつけが残っています。多額の所持金を正直に申告すると、目を付けられるリスクが生じるからでしょう。

 宮本 本当に細心の注意を払って行動していたんだと思いますよ。

情報力を武器にした

 磯田 もっとも、幕末になると、富山の薬売りたちが、幕府ではなく薩摩のために「隠密」的な役割を果たしていた痕跡が窺えます。

 さきほど挙げた金盛さんの本には、薩摩の木村喜兵衛という町年寄が、富山の薬売りに「ごく隠密の御用をしてもらえないだろうか」と持ちかけるくだりが出てきます。

 宮本 それはあったでしょうね。「差し止めを解除してくれるなら、薩摩藩のお役に立つ情報をなんでも流しまっせ」といった取引はね。

 実際、僕も小説の中で、薬売りたちが当初から意図したわけではないけれど、結果として薩摩のために隠密御用的な仕事をすることになった、という形で書いています。

 磯田 薩摩藩は他藩に対し門戸を閉ざす、いわば「国内鎖国」の体制をとり続けました。その結果、外からの攻撃には強くなりますが、代わりに、日本国内の情勢には疎くなってしまいます。薬売りにそれを補う役割を期待したのかもしれません。

 宮本 なにしろ薬売りのネットワークは全国津々浦々に及んでいました。

 幕末の資料を見ると、東北、関東、中部、近畿、中四国、九州と、2000人以上の行商人が各地を廻っていた。担当地域で見聞きしたことは口外してはならないことになっていましたが、それはあくまで建前。薬売りを取りまとめる立場の人間を通じて、各地の情報は本国の富山に集約されていたでしょう。薩摩担当の薬売りが、京や江戸で起きていることを、さほどのタイムラグなく知っている、ということも十分起こり得ます。

 磯田 大マスコミの存在しない江戸時代、富山の薬売りの持つ「情報力」は、武器と同じぐらい価値があったでしょうね。

 宮本 富山藩には、売薬業を差配する反魂丹(はんごんたん)役所があり、そこには薬売りの人材育成所がありました。藩の百姓・町人の子どもたちの中でも選りすぐりの優秀な子だけが入学を許されたそうです。

 教えられるのは、一般的な寺子屋の「読み・書き・そろばん」のレベルではありません。江戸時代は東は金、西は銀と貨幣が分かれていたので、それを即座に換算する計算法や帳簿の付け方、あるいは薬の知識、地理歴史に至るまでを教えていました。また手紙の書き方も、時候の挨拶に始まり、長文の報告書の書き方、目上の人へ書く時、なにか不始末があった時の謝罪文の書き方、といった風にパターン別に教えられる。

 そしてビジネスマナーですね。どこの土地ではどんな風な口の利き方をすればよいのか、しかも武士の家、町人の家、百姓の家と場面を分けて、表情、ものごしに至るまで、講師の見本を生徒が徹底反復し身につけていったそうです。それを数え7歳から13歳を過ぎて奉公に出るまで続けるわけですから、優秀な行商人が育つはずですよ。

近代的ビジネスマンの先駆け

 磯田 「異文化」への対応力がなければ、よその土地で仕事はできませんからね。

 江戸時代は、現代人には想像がつかないほど各地域で言葉や風習が異なり、藩が違えば、外国でした。なかでも薩摩は、異質中の異質と言える存在です。

 余談になりますが、僕が京都に引っ越して8年目に、ようやく近所の人が心を許してくれて、自分のおばあちゃんが戊辰戦争の時、薩摩兵が京に入ってくるのを直接見た話をしてくれました。そのおばあちゃんは、「あの(薩摩の)人たちで、天子さん(天皇陛下)大丈夫やろうか」と言ったそうなんです。

 徳川に代わり、薩摩などが天皇の親衛隊(御親兵)になったわけですが、都の少女にすれば、薩摩人が粗野な風に見えたんでしょうね。

 宮本 上洛した薩摩兵たちの多くは、ふだんは畑を耕している郷士だったでしょうから、都の人から見れば、それはそれは垢抜けない連中に見えたでしょうね。

 磯田 それにしても、さきほど宮本さんがおっしゃった薬売りの教育システムは示唆的です。

 学者も歴史小説家も、数々の著作を通じて「日本だけが、アジアの中でなぜいち早く近代化に成功できたのか」という問いを掲げています。

 その大きな要因の一つに、教育水準・識字率の高さがあったことは間違いない。それが明治における国民国家としての統合につながります。富山の薬売りは、近代的なビジネスマンの先駆けだったのですね。

無謀な西南戦争のわけ

 宮本 『潮音』の主人公・川上弥一は、明治に入り、全国の薬売りを束ねた「カンパニー」、すなわち会社組織を作り、また、資金を調達するためには西洋流のバンク、つまり銀行が必要だ、とも説く。

 それらは現実にモデルがあります。今も富山で続く広貫堂(こうかんどう)という製薬会社は、売薬業者たちが合同して明治91876)年に起こしたものです。

 また、現在の北陸銀行は、富山藩の士族と売薬行商人たちが出資して、明治121879)年に設立された富山第百二十三国立銀行が源流のひとつです。

 磯田 その意味では、明治日本の近代化は突然起きたわけではなく、西洋文明を受け入れるだけの素地が、すでに庶民の側にもあった、ということですね。

 宮本 はい、そう思います。

 磯田 ところで、『潮音』の陰の主役とも言えるのが西郷隆盛でしょう。当初薩摩と敵対していた長州と手を結び、明治維新を成し遂げた最大の功労者です。

 ところが明治に入ると、大久保利通らと新政府の方針をめぐって対立、下野して鹿児島に帰ってしまう。明治101877)年には西南戦争を起こし、鹿児島・城山で自刃します。武士の世の終わりに殉じたかのような悲劇的な最期でした。

 宮本 この小説を書いていて、西郷がなぜあんなにも無謀な戦いをしたのかが、最大の謎でした。

 司馬遼太郎さんの『翔ぶが如く』(文春文庫)には、西郷軍と新政府軍がどう動いていくかが、あたかも従軍記のように克明に書かれています。しかしあれを読んでも、西郷が大将としてどのような役割を果たしたのか、まったく見えてきません。

 だいたい熊本城を攻め落とすことになぜあんなにこだわったのでしょうか。熊本城なんてほっておいて、さっさと北に進み、長崎か小倉あたりで新政府軍から船を奪い、本州へ進軍すべきでしょう。

 磯田 まったくその通りです。西郷の親族なんかも、そういうことを後で言っているんです。当時、明治天皇は京都に滞在中でした。そして新政府軍の軍事的拠点は大阪にありました。ということは、少数の兵隊と船で海を進み、突然、京都・大阪に出現して、天皇と合流すれば、西郷は政治改革を開始できたかもしれません。

西郷、松陰、乃木、三島

 宮本 西国各地には不平士族が一杯いて、西郷軍が来るのをいまや遅しと待ち構えていたわけです。「来てくれれば、俺たちも参加するぞ」と待っていたのに、熊本・田原坂(たばるざか)で釘付けになっていつまで経ってもやって来ない。西郷軍は、その作戦の拙さによって自滅したように思えてなりません。

 磯田 西郷が何を考えていたかについては二説あって、一つは「雪だるま大行進説」。神格化されていた西郷が兵を起こせば、熊本城にしたって無抵抗で門を開くだろう、その後は不平士族だけでなく、新政府軍の兵士も西郷軍に寝返り、雪だるまのように軍勢が大きくなっていくだろう、ときわめて楽観的な予測を立てていたのではないか、というものです。

 もう一つは、「緩慢な自殺説」でこれも捨てきれない。西郷は天に運命をまかせていた。自らの私学校の若者たちだけを死なせるわけにはいかないから同行した。万に一つ天命があれば、天皇に会えて、政治を刷新する。滅ぶなら滅ぶ。

 宮本 自分の滅びの美学のために、7000人近い若者を道連れにするのは、あまりに身勝手じゃありませんか。

 磯田 軍隊の近代化が必要で、そのために士族階級を廃止しなければならないことは、西郷も頭ではわかっていたと思います。しかし、魂がそれを納得しない。

 これは乃木希典や三島由紀夫がなぜ腹を切ったのか、と同じ問題です。なるべく苦しい死に方をすることで、魂魄が神州日本にとどまって護国の霊となる、という考え方が、武士階級には共有されていました。

 宮本 吉田松陰も、それに近い考え方をしていますね。

 磯田 はい、松陰が安政61859)年に刑死する前に記した『留魂録(りゅうこんろく)』には、「身はたとい 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」とあります。楠木正成や大石良雄を「死んでも死なぬ」生き方と称した。西郷、松陰、乃木、三島。この4人は、類似した思想を持っていたのではないでしょうか。義に死ねば、死は死ではない、後世の日本人の心に宿る。魂魄は地に留まり続け国を護る──との考え方です。

 もちろん令和の世に生きる若者たちにはまったく理解できないでしょうけれど。

 宮本 嫌やなあ、僕も腹切って死にたないわ(笑)。

人間を動かす巨大な力

 磯田 最後に一つ伺いたいのですが、『潮音』というタイトルはどこから来ているのでしょうか?

 宮本 富山湾って水深1200メートル以上で、日本でも有数の深さがあるんです。

 そういう深い水の底で起きているような動きが、人間の世の中にもあるように思う。誰も止めることができない、とてつもない大きな力が働いているんだけれども、あまりに深いところで静かに進んでいるので、ほとんどの人がそれに気づかない。そういう巨大な運命みたいなものを、『潮音』という言葉にこめたつもりなんです。

 人間ひとりひとりがその流れの中にあって、それぞれの生老病死を生きていくんだ、ということを書きたかったんですけれど、直接言葉にしちゃあかんな。言わずとも感じてもらわんと(笑)。

 磯田 いまや人工知能が実用化されつつあり、ユビキタス社会として地球表面の安い情報ならインターネットで瞬時に知ることができる。しかし、そういう現代だからこそ、目に見えない深い奥底の巨大な流れが気になります。それできっと人々は良質な歴史小説という芸術から、その流れに耳を澄ますのでしょう。

 

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