教養としてのラテン語の授業 Han Tong Ill 2023.7.23.
2023.7.23. 教養としてのラテン語の授業~古代ローマに学ぶリベラルアーツの源流
Latin
Lessons 2017
著者 Han
Tong Ill ハン・ドンイル 韓国人初、東アジア初のロタ・ロマーナ(バチカン裁判所)の弁護士。ロタ・ロマーナ設立以来、700年の歴史上930番目に宣誓した弁護人。2001年にローマに留学し、法王庁立ラテラノ大で'03年に教会法学修士号を最優秀で修了、'04年には同大学院で教会学法博士号を最優秀で取得。韓国とローマを行き来しながらイタリア法務法人で働き、その傍ら、西江(ソガン)大でラテン語の講義を担当。彼のラテン語講義は、他校の学生や教授、一般人まで聴講に訪れ、最高の名講義と評価された。その講義をまとめた本書は、韓国で35万部以上売れ、ベストセラーに。ラテン語を母語とする言語を使用している国々の歴史、文化、法律などに焦点を当て、「ラテン語の向こう側に見える世界」の面白さを幅広く取り上げている。ロタ・ロマーナの弁護士になるには、ヨーロッパの歴史と同じくらい長い歴史を持つ教会法を深く理解するだけでなく、ヨーロッパ人でも習得が難しいラテン語はもちろん、その他ヨーロッパ言語もマスターしなければならない。さらに、ラテン語で進められる司法研修院3年課程も修了する必要がある。これらの課程をすべて終えたとしても、ロタ・ロマーナの弁護士試験の合格率は5~6%に過ぎない。現在は翻訳や執筆を続けている
監訳 本村凌ニ 東大名誉教授。専門は古代ローマ史。『薄闇のローマ世界』でサントリー学芸賞、『馬の世界史』でJRA賞馬事文化賞、一連の業績にて地中海学会賞受賞
訳者 岡崎暢子 韓日翻訳・編集者。1973年生まれ。女子美大芸術学部デザイン科卒。在学中より韓国語に興味を持ち、高麗大国際語学院などで学ぶ。帰国後、韓国語学習誌、韓流ムックなどの編集を手掛けながら翻訳に携わる
発行日 2022.9.27. 第1刷発行 2023.1.5. 第5刷発行
発行所 ダイヤモンド社
ようこそ、「ラテン語」という叡智の貯蔵庫に――
日本語版刊行に寄せて――叡智の貯蔵庫としてのラテン語
批評家・随筆家 若松英輔
ラテン語という古い、しかし「古びることのない」言語を学ぶことは、単なる「勉強」の対象ではなく、叡智に触れる営みに他ならない
どの言語にも、それが用いられた文化の記憶が刻まれているが、1つの国家に限定されず、様々な賢者や哲学者、宗教者によって用いられたラテン語に蔵されているものの深甚さは他に類例を見ない。それと対峙するなかで私たちが触れるのも、言語化できる知識だけではなく、むしろ叡智と呼ぶほかない何ものかなのである
序文
本書は、私が西江大で'10~16年に教鞭をとった「初級・中級ラテン語」の授業内容をまとめたもの
セネカの『倫理書簡集』に、「人は教えている間に、学ぶ」という言葉があるが、「啐啄同時」に近い言葉で、私も授業を通じて多くを学んだ
Lectio I.
胸に秘めた偉大なる幼稚さ
「今日に集中し、いまを生きろ(カルペ・ディエムCarpe diem)」
l ラテン語はなぜ難しいのか?
キケロ(BC106~BC43):「純粋なラテン語ができることが素晴らしいというよりは、できないことがみっともないのだ」
文法が複雑だが、一旦覚えてしまえば、平凡な頭脳を勉強に適した頭脳へと活性化させ、思考体系を広げてくれる
l レオナルド・ダ・ヴィンチもラテン語を猛勉強した
人文学をラテン語で読むことにより、自分の脳を変えようとして、才能を開花させた
l ヨーロッパの学生がラテン語を学ぶ理由
ラテン語を学ぶのは人文系の高校に進学した生徒のみで、職業的な専門学校への進学者はラテン語を学ばない――人文系の大学に進むための高卒のディプロマ取得には「古典語能力」試験があり、ラテン語とギリシャ語の実力が試される
l 頭の中に「新しい本棚」を作る
ラテン語を通じて思考体系の新たな枠組みを構築する
l 勉強の動機は「不純」で良い
勉強は何から手をつけるべきか――何かを学び始める時にそれほどの大義名分は必要ない
l 「偉大なる幼稚さ」を大切に
自分の中に幼稚な動機を発見したとしても、その学びによって今後何ができるかを想像してみる。その気持ちが「偉大なる幼稚さ」だという事実を忘れるな
Lectio II.
最初の授業は休講します
l 学問とは「人間と世界を見つめる枠組み」を作る作業
「今後、自分に必要となる知識がどこにあるのかを知り、それを活用できるようにきちんと仕分けて整理整頓するための、頭の中の本棚を作る作業」
l ローマ人のシンプルな教育制度
ラテン語とギリシャ語、それぞれの「言語」と「文化」について教える
l ローマカトリック教会の公教育とは?
476年西ローマ帝国の滅亡により学校閉鎖、以後ローマカトリック教会が公教育を司り、典礼音楽、読み書き、基礎的な算数を教える
l 英語圏に修道会が運営する名門学校が多い理由
修道院学校は中世時代の公教育の最も代表的な機関で、西ヨーロッパで中世の教育を担当したベネディクトとドミニコの両修道会は代表的存在、一般にも開放
l あなたの心の陽炎を見つめてください
陽炎はラテン語でnebula。「取るに足りないもの」や「五里霧中」の意もある
勉強するということ、生きていくということは、私たちの心の中の陽炎を見ることであり、「取るに足りない」「でたらめ」のような心の現象も見つめるべき
Lectio III.
ラテン語の品格
l 欧米の「否定」の副詞は、インド・ヨーロッパ祖語の否定を意味する概念である”夜に流れる水の曖昧さ”から生まれた
古代人は真っ暗な夜を、「暗い海の水が地面に流れ出て生じる現象」と考えたので、「何も見えない」と言う代わりに「水だけ見えた」と言った
l ラテン語はインド・ヨーロッパ語族に属している
インド・ヨーロッパ語族は、北インド、近東、ヨーロッパ全域に伝播した言語群で、ラテン語はその中でもギリシャ語、ケルト語、古代ゲルマン語に加え、ヨーロッパ圏の言語を形成するイタリック語派の影響を受けた言語に該当
l 古代の人々は「母」という概念をどう考えたか?
ほぼすべての言語の「母親」を意味する単語には「マma」という音が入っているのは、「人間の生命と関わる人」という意味が込められている
l ピタゴラスはインドの思想に影響を受けていた
ピタゴラスを通じて、プラトンやストア哲学もルーツを遡ればインド思想に繋がる
カトリック教会の公式言語になったラテン語が廃れたのは、ルターの宗教改革に先駆けて教会を批判する人々が現れてからのこと。15世紀のイタリアの哲学者ラウレンティウス・ヴァッラは、ラテン語の衰退の理由は、正確なラテン語の知識の欠如によるものだとし、言語を正しく操ることこそが意思疎通や文化変容の唯一の解決策と考え、ラテン語を使う目的を明確にし、文法の正誤を整理、重要なコミュニケーション・ツールとしてのラテン語の品格を説いた
l ラテン語の「丁寧さ」が地中海の平和を生んだ
ヴァッラは、コミュニケーションの問題を解くカギをラテン語が握っていると考えた――正しい用法がすべての表現の基礎となり、それが真の知的体系を形成する
ラテン語の特性の1つに、相手を尊重し認めるという点がある――相手が誰であっても卑下することはなく、相手とのフラットな状態を前提としている
l 言葉とは船である
正しく言葉を操れてこそ、他者との正しいコミュニケーションが可能であり、ラテン語はまさにそれに適した言葉だとし、「ラテン語の典雅」と表現
Lectio IV.
私たちは学校のためではなく、人生のために学ぶ(セネカ)
言語は分析的な学習で学ぶものではなく、たゆまぬ習慣を通して身につけていくもの
l 赤ちゃんに学ぶ「言語学習の本質」
母語をmother tongueというが如く、勉強せずに吸収すること
l ラテン語の発音からヨーロッパ社会を学ぶ
ローマ式発音(スコラ発音)と、古典式発音(復元発音)に分けられ、前者はローマカトリック教会が用いてきた方式、後者はルネサンス期に古典的な文献をもとに復元した発音
l 発音から透けて見える「ヨーロッパ人のプライド」
英米独系の学者たちは古典式発音を、イタリア・スペインの学者たちはスコラ発音を使う
ラテン語の発音に触れると、単なる言語的側面のみではなく、それぞれの国が歴史をどのように眺めているのかなど、そこにはたくさんの問題が複合的に反映されている
l 言葉は自分を理解する手段、そして世界を理解する枠組み
「言語を何のために学ぶのか」が重要――学問とは、知るだけに留まらず、その知の窓から人間と人生を見つめ、より良い観点と代案を提示するものである
l 「真の知性人」とは?
勉強を積めば知識人にはなれるかもしれないが、その知識を人々のために使えなければ知性人とは言い難い
Lectio V.
長所と短所
l 長所と短所の「語源」から見えてくるもの
ラテン語の長所を意味する”meritum”は、神と人間の関係においては、どんなに優れた人間でも神に見返りを要求する資格がないことを表現する際に使う
英語の名詞は、ラテン語の名詞の一部を削除したものが多い
l 自分の短所と目をそらさずに向き合う
私たちは他人を観察するように、自分自身についても絶えず観察しているが、それを認識していないか、認識できていないかの違いだけ
l ラテン語の名句に学ぶ「捨てる勇気」
「川を渡り終えたら、舟は川に置いていかなければならない」
本来の長所であったものが短所になった時点で、思い切って手放すことが大事
l 人間は何歳になっても迷う。だからこそ
而立、不惑、知命、耳順となっても絶えず迷う。昨日の長所が今日の短所となりもする
人生とは絶えず、自分の中の長所meritumと短所defectusを自問し、選択する過程
Lectio VI.
ひとりひとりの”スムマ・クム・ラウデ”
ヨーロッパの大学の卒業証書で「最優秀」を表すラテン語
l 奥深いラテン語の名詞
ヨーロッパ言語は、冠詞の登場によって名詞の性と数を示すことができるようになり、さらに、厳密な語順の使用によって格を表せるようになった
l ラテン語を辞書で調べるときの注意点
l 真の教育とは、勉強したくなる動機を与えること
l ラファエロの絵画と神秘主義
聖母マリアがイエスの誕生を知らせる図に天使たちが描かれ、以後天使像は定型化される
l 自分の中の「最優秀」を認識する
勉強に行き詰まったとき、あなた自身が自らを慰める天使であるようにと教えている
Lectio VII.
私は勉強する労働者です
中世の教育は、3学(文法、論理、修辞)、4科(算術、幾何、音楽、天文)で構成
自分自身に関心を持たせ、各々が人生の目標を立てられるよう手助けをしていた
l ラテン語「エゴego」の役割
主語として私という存在を強調するときに一人称主語としてegoを使う
l 私たちは日々、「最善」を尽くしている
「一生懸命に勉強する」という目標を掲げて努力するが、そこに到達できなかったという思い込みに対して落ち込んでいる
l 習慣の語源が教えてくれること
ラテン語で「習慣」を表す名詞habitusに由来する英単語がhabitだが、habitusには「修道衣」の意もあり、同じ時間に同じことをするとの意味で「習慣」が派生
l 苦しみの中で幸せを見出す方法
Habitusという言葉のように、毎日の習慣で積み重ねられた勉強が、あなたの未来となる
l 「勉強する労働者」は挫折を楽しむ
勉強は自己の成長を学ぶよい課程であり、内なる自分との対話を通じて自らを知り、労うことにより、人はどんどん成熟していく
Lectio VIII.
カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい
l イエスの使徒パウロとローマのかかわり
新約聖書の『ローマの信徒への手紙』(以下『ローマ書』)とは、パウロがローマにいる信者に向けて書いた手紙。パウロは元の名をサウロと言い、厳格なパリサイ人で、イエスを神の子と崇める信者を捕らえていたが、不思議な体験を通じ心を改め、名もパウロと変えてイエスの福音を伝えようと伝道の旅に出る
l キリスト教がここまで普及した理由
「すべての人は同一の道徳的地位を持つ」と説き、隣人にも自分自身と同じく愛する能力があることを根拠とし、人間とは神の子であり「神の像」であるため、すべての人が平等であるとした
l キリスト教における「政治と宗教の分離」
カエサルと神を区分する福音書の勧告は、人間の歴史において古い政教一致を破壊する要素を孕んでいる――クリスチャンは地上と天井という2つの都市に属している市民だと考えられ、政治と宗教の間の合意が必要に
l 中世における「宗教と信仰の価値」とは?
聖書の価値だけでは現実問題の解決には限界があったところから、聖書の価値を認めながらも、世俗の学問と連携して問題を解決しようとした
Lectio IX.
たとえ神がいなくとも
キケロは、人間に備わった”批判的に思考できる能力”を価値あるものと考えたが、中世では神の理性のみが、近代に入ると人間の理性のみがフォーカスされた
l 法学者グローティウスの主張
国際法の基礎を作った17世紀の法学者グローティウスは、「たとえ神がいなくても」という前提を置いて、自然法こそが有効と主張
l 聖書は弟子たちによる”授業ノート”か
イエスですら、弟子たち全員を理解させることは不可能だったため、聖書は弟子たちが師の言葉を、さらにその弟子たちに向けて記したものと考えられるところから、聖書にはイエスの教えのすべてが記されているわけでもなく、イエスの意図が完璧に盛り込まれているわけでもない
l 人が哲学や倫理を求めた理由
西欧の歴史では、絶えず「たとえ神がいなくても」という仮定の下で、人間の理性で”人間と法”や”哲学と倫理”を求めてきたが、神の真意とは何なのかを問い続ける過程が必要
Lectio X.
与えよ、さらば与えられん Do ut des
BC91年、イタリア半島内の同盟市が結束してローマに対して蜂起した結果、同盟市の市民にはローマ市民と同等の市民権が付与される
l 「あなたが私に施したから、私もあなたに与えようDo ut des」
Give
and take相互主義
l 「相互主義」という国際ルールの起源
Do
ut desは、契約対象である物を渡すことで成立。寛容と対話の基本原理として作用
l 「自分さえよければいい」マッチョイズムの台頭
「与えよ、さらば与えられん」――単純なようでも、信じる心がなくては、個人と社会、国家と国家は共存できない
l 人生は、他者を思いやることで完成する
相手に施す準備ができていなければならない――人生は、自己実現だけのために邁進するのではなく、他者を思うことでさらに完成されるのかもしれない
Lectio XI.
時間は最も優れた裁判官である
l 時間にまつわるさまざまな言葉
ラテン語で時間はtempus
Time
flies=Tempus
fugit――元々はウェルギリウスが「好機を逃すな」として使った表現
l 長い時間をかけて辞典を作り、悟ったこと
『イタリア語慣用句辞典』『教会法律用語辞典』を翻訳
l 古代ローマ人は「幸せ」をどう考えたか?
ラテン語で「幸せ」はbeatitudo――「態度や心の持ちように応じて幸せになれる」の意
Lectio XII.
すべての動物は性交後にゆううつになる
l 絶望の日々をどう乗り越えたか
l ラテン語の名句を英単語と照らし合わせる
l 「期待した瞬間」が過ぎ去ると、人間は絶望する(2~3世紀の哲学者ガレヌスの言葉)
人間は自らを人間として自覚して以来、神を崇拝し始めたので、宗教とは、単に人間が強力な絶対者に従ったものではなく、その時代を支配していた冷酷な体制と不条理な価値観に喘ぐ生活の中で、生きる意味と価値を再発見するための苦闘から始まったといえる
l 「ゆううつ」を感じるところまで、上り詰める
上り詰めた後で、その感情の正体が何なのか突き止めてほしい
Lectio XIII.
あなたが元気なら、よかったです。私は元気です
l 古代ローマ人の挨拶
表題の一文は、古代ローマ人の手紙の「拝啓」に相当する挨拶文
l 手紙と時制のユニークなルール
ローマ人は、相手が受け取った手紙を読んだ時点でようやく自分の考えが伝達されたと考え、受取日に合わせて時制を作成――今日→あの日、昨日→前日に、明日→次の日に
l 郵便は軍事目的でも使用されていた
古代の郵便制度は国家権限の一環であり、一定区間ごとに駅が置かれ、その間を馬が全速力で走り、駅ごとに交代していく
l 「あなたが安らかであってこそ、私も安心できる」
現代人の生き方は、人々が善良さを失ったのではなく、誰かを思い遣る心の余裕がなくなってきているから
l 人生を好転させる、ちょっとした習慣
誰かと「一緒に、ともに」やっていこうという温かい心を持ち、周囲への関心も持ち続ける
Lectio XIV.
今日は私へ、明日はあなたへ
l 死をくぐり抜けた人間は、どんな香りを放つのか?
どんな人間でも、豊かで実りある人生を送らなければ、死後に植物のように甘美な香りを残すことはできない
l 古代ローマの葬儀
表題は、ローマの共同墓地の石碑に刻まれた文句で、「今日は私が棺に入り、明日はあなたが棺に入るのだから、他人の死を通して自らの死を考えなさい」という意味
l 人間は、他者に残された記憶によって香りを放つ
「生を欲さば、死への備えをせよ」ともいう
Lectio XV.
今日を楽しみなさい
l 名句Carpe diem(Lectio I参照)は農業に由来する言葉
エピクロス学派の詩人ホラティウス(BC65~BC8)の詩の最後の部分「その日を摘め、明日をできる限り信じないで」に由来する詩句で、果実の収穫は今日のうちにやれということ
l 今日を我慢し、節制するのは美徳なのか?
l ローマ人たちも「過去」に縛られていた
ローマ人は人々が明日のために今日を犠牲にするのと同じくらい、過去にも縛られていた
今日のこの瞬間が人生で一番美しい時であり、一番幸せでなければならない時間
Lectio XVI.
ローマ人の悪口
l ラテン語の「洗練された悪口」
ローマ人が口にする悪口の性質は、無礼や嘲笑といった言葉の武器に変形させた。ありふれた悪口では侮辱と感じなかったので、悪口が洗練され、緻密になっていった。ラテン語によって悪口が磨かれ、言語的にも緻密な形で侮辱を表現
l 「神聖な」「呪われた」という2つの意味が混在する言葉
ラテン語の「サチェルsacer」には、「神聖な」の他に「呪われた」という2つの意味が混在しているため、ローマ人は呪いの表現に「神々しくあれSacer esto」という言葉を用い、相手を断罪する時の決まり文句となった
l 「心の言葉」に耳を澄ませよう
他人との関係で誤解を生まないように、また一番大切なものを失わないようにするには、愛に包まれた洞察が必要。相手が何を必要としているのか、心の声に気付くことが大切
「時が去ろうとも、愛は残る」
Lectio XVII.
ローマ人の年齢
l ヨーロッパ言語が「水平型言語」である理由
ローマ法条文は、禁止文言のような直説法的表現ではなく、「~をしないよう願います」といった婉曲的な接続法的表現を使う――フラットな言語体系が発達すれば、思考や社会構造も柔軟になるところから、ラテン語に起源をもつヨーロッパ言語も水平型の言語
l 道徳的人間と非道徳的社会
l イタリア人に受け継がれた(年齢に対する)「寛大な精神」
l 学びとは、自分だけの歩き方を学ぶこと
大切なのは、「昨日の自分よりも成長すること」であり、自分の歩くスピードや動きを少しづつ把握していくこと
Lectio XVIII.
ローマ人の食事
l 「私を上に引っ張り上げる」ティラミス
イタリア語でティラミスとは、「引っ張る、握って引く」との意
l 古代ローマ人の1日の食事
「好みについては議論の余地がない、好みは人それぞれ」とのラテン語がある
l 肉や魚の面白い調理法
l 奴隷にも支給されていたワイン
ギリシャ人は、ワインは魂を解放してくれるものであり、心の内に秘めた自己を深く知ることができるものと考えた
l 宴がわかれば、ローマの文化がわかる
ローマ人の食文化にとって、食事とともに欠かせないのが宴
l 同性愛を禁止した合理的な理由
婚姻を通して人口を増加させることが不可欠だという国家戦略的な理由から同性愛を禁止
Lectio XIX.
ローマ人の遊び
l ローマ時代の様々なゲーム
l セネカが軽蔑した「円形闘技場の熱狂」
l 高度な技術力に支えられた公共浴場
l 勉強や仕事から意識的に遠ざかってみる
Lectio XX.
物事は、知っているものしか見えない
l ムッソリーニが標榜した都市計画「偉大なイタリア」
l カエサルが暗殺された場所
l 自分が知っているものしか目に入らない
知識があれば、それだけ世界を見る解像度が上がり、物事がよく見えるようになる
自分を客観的に見つめると同時に、外部の情報を受け入れる寛容さを持つ
Lectio XXI.
私は欲望する。ゆえに存在する(17世紀の哲学者スピノザの言葉)
l スピノザとデカルトの違い
デカルトの「Cogito, ergo sum」は、元々フランスの一般読者のため仏語で書かれた言葉
デカルトの唱えた”考える人間”には、人間は精神が存在の基準となり、感覚や情緒、欲望は、すべて精神の支配下にあるという考え方
スピノザは、精神と肉体は互いに支配を受けず、すべて自然の法則に従うと考え、欲望を通し、創造的で能動的な人間を見つめようとした
l 満足とは「充分に何かをする」こと
l 人間が作り出した最高の仮想が、人間を苦しめている
人間が作り出した最高の仮想は、「数」を含むすべての数学的概念。年俸や住宅の価格などの数値が幸福の基準となり、「数」に拘るあまりものの本質を見失っていないか
欲望を止めることができないのは、欲望が人間として存在する理由だからで、満足できる何かを見つけたい、というより何を欲望するのかが大事
Lectio XXII.
韓国人ですか?
1582年中国に派遣されたイエズス会宣教師マテオ・リッチの尽力でにより、ラテン語の単語として日本人はJaponius、中国人はSinicus、韓国人はCoreanusとされた
l 「国」という概念はいつから生まれたか?
15世紀のイタリア都市国家の概念を経て近代になって「国」「国家」という概念が生じた
l 「天才教授の怒り」忘れられないエピソード①
2002年、ラテラノ大の総合試験当日、ワールドカップの準々決勝でイタリアが韓国に負けたため、試験官の教授が激高して韓国人の私を試験会場から締め出そうとした
l 「韓国人ですか?」忘れられないエピソード②
突然街中で東南アジア系と思しき男から、流暢な韓国語で韓国人かと聞かれ、「韓国人、悪い人たちです」と言われた――外国にいるがゆえに自分の国籍と常に向かい合う
l 「私たちはみな同じ人間」という真実
「ガラパゴスシンドローム」とは、自分たちの標準だけに固執し、世界市場で孤立してしまう現象だが、人間関係にも当てはまる
Lectio XXIII.
しかし、今日も明日も、またその次の日も、私は進んでいかねばならない
l Sexの由来は数字の「6」だった
十戒の6番目は「姦淫するべからず」で、口にするのも憚られ、単に「6(sex)」とだけ簡略にいって指示代名詞の代わりとしたのが、ラテン語で本来の「性」を意味するsexusと一致して語源となり、英語のsexが性を意味する単語として定着
l 単語一つに思想が反映される
英語の指示代名詞thisに対し、ラテン語では人称、性別、単複毎に別の名詞が使われる
単語は、単純に意思疎通の道具に留まらず、その時代を象徴し、その時代の価値観を垣間見ることができるよい媒体といえる
l 「勉強」の由来は「心から望む何かに力を注ぐこと」
「勉強する」というラテン語の動詞の原型は「studere」で、英語のstudyの語源だが、本来の意味は「専念する、努力する、没頭する」の意。それも人真似ではなく、自分のやり方を探すことこそ人生で重要なこと
Lectio XXIV.
真理に服従せよ
中世ヨーロッパの教育は、様々な神学的思考によるテーマとともに使徒パウロの思想に支配されていた。パウロの思想をベースにした神学は、クリスチャンたちに信仰心と責任感の重要性を説き、一方で終末論的な世界観を植え付けようとした
l 世界の問題を「世俗の学問」の力で解決する
パウロは、現世の権威は神から与えられたものとし、教会の法令が市民法に優先し、聖書がすべての根源としたが、中世になると聖書万能への疑念が噴出、聖書を尊重しながらも、世俗の学問の力を借りて問題を解決しようという試みが始まる
l ボローニャ大学の果たした役割
最初に設立された大学がボローニャ大で、法学の中心
真の学問をscientia、論述程度の学問をarsと区別
l 大学は何を大切にしてきたのか?
中世以降に設立された大学のモットーには、scientiaを始め「真理veritas」「知恵sapientia」「光lux」という語が好んで用いられ、ハーバードはVeritas(真理)、イェールは「光と真理Lux et veritas」、オックスフォードは「主は私の光Dominus illuminatio mea」、ペンシルバニアは「良心のない方は空虚Leges sine moribus vanae」などがある
大学とは真理を追究する殿堂だとの趣旨に則り、あちこちの大学で「真理」という言葉を掲げるのは、ヨハネ福音書の「真理はあなた方に自由を得させるであろう」に着想を得たもの
l 「真理」とは何か?
ラテン語の「真理」が「命令法・能動態」を使わず「命令法・受動態」を使用するのは、真理は当然に受け止めるべきもので、外部の力によるものは真理ではないから
l 真理を解くカギは「宗教」にある
宗教は、それぞれの集合体が休息する庭のようなもので、そこに育つ「好みや考え方がそれぞれ異なる植物」は、庭が小さくなればなるほど共存が難しくなる。大自然は「誤った存在」ではなく「異なった存在」としてすべてのものを受け入れる
Lectio XXV.
みな傷つけられ、最後は殺される(仏ユリューニュ教会の日時計の言葉)
l 古代ローマでどのように医学が発展していったか?
科学的治療といえる医学が普及したのは共和政ローマの後期で、ギリシャや中東を通じての普及する。天然薬草の伝統文化は教会修道院へと受け継がれる
日時計に刻まれた「傷」は、「身体的な傷」ではなく「精神的な傷」をさす
l 心と体を傷つけるのは、他者ではなく、自分自身
他者を通じて自分の弱さを思い知るたびに、過ちを全て他者のせいにするか、自分自身を振り返ることができるかによって、自分の心と体を傷つけるかどうかが決まる
Lectio XXVI.
愛しなさい、そしてあなたが望むことを行いなさい
l 砂漠とは、神への信仰が深まる場所
砂漠の荒々しい自然環境は人間を浄化し、その過程を体験した人々は自らが選ばれし人間だと考えるようになった
l タクラマカン砂漠の洗礼
湿度にやられて持病の心臓発作が出て、何とか一命をとりとめたが、その時浮かんだのが、悪い記憶をよい記憶に浄化させ、良い記憶がないなら、これから作っていこうと思った
賽は投げられたalea jacta est
Lectio XXVII.
これもまた過ぎゆく
l 今日できることは明日に延ばそう
私たちが経験し、受け入れなければならない感情にも、毎日の限界値がある。1日で我慢できる感情の許容範囲を越えたら、人はそこで悪あがきせずにその感情を翌日に持ち越す
l 「朝、自分に微笑みかける」という課題の真意
自分に対する労いと励ましであり、自己肯定のアクション
今日の絶望を、今すぐ逃げ出したくなるような気持を、煮えたぎるような怒りを、すべて明日に先送りにしてみる
l うれしいことをしっかり噛みしめる
仏教では、「すべては移ろいゆくもの」と説く
うれしくて幸せな瞬間には思い切り喜んで幸せを享受し、それが過ぎ去るときも当然だと受け入れる
Lectio XXVIII.
命ある限り、希望はある/息をしている間、私は希望を持つ/生きている限り、私は望む
l 今の人生を送るか? 完璧な世界で新たな人生を送るか?
l 希望の語源は「期待して望む」
希望は、生きている人間だけが語れる
l 死と直面して悟ったこと
人間は永遠から来て有限を生き、永遠に還る存在
監訳者あとがき 本村凌ニ
現代では死語と化したラテン語だが、「ラテン語でいえば格調が高く思われる」という動機で学ぶ者もいる。格調の高さの裏には、文明と伝統が深く根付いている
授業では、ラテン語を母語とする言語を使用している国々の歴史、文化、法律などに焦点を当て、ラテン語を通して見える世界の面白さを幅広く取り上げている
ラテン語の授業という光景の中にも、韓国人と日本人、それぞれの立場を相対化できることは、相互理解には欠かせない
好書好日
ハン・ドンイル『教養としての「ラテン語の授業」』 気遣いがもたらした複雑さ
ラテン語の魅力を言葉にするのは難しい。なにせ、一つの動詞だけで少なくとも80近い活用形を暗記しなくてはならず、ドイツのギムナジウム時代、試験の度に膨大な量を復習しなければならなかった。今でもあそこまで複雑である必要性が正直わからない。しかも、その煩雑さゆえに衰退したという説もあるくらいで、だとすれば残念すぎる結末である。私に至っては5年間も履修したというのに、今ではほとんど忘れてしまっているという有り様だ。
がしかし、10代前半にどんな難題でも一つずつ分解して組み立てる方法を教えてくれた人生の師匠であり、著者ハン・ドンイル氏の言葉を借りるなら「頭の中に本棚を作ってくれた」言語であることは間違いない。本書では、ラテン語を学ぶ経験が人生にどのような贈り物を授けてくれるのか、ローマ時代の格言と共に著者の経験や示唆に富む人生観が紡がれている。
複雑さについて、ハン氏による興味深い考察があった。ラテン語を正しく操れば、「他者との正しいコミュニケーションが可能」になるというのだ。広大なローマ帝国の共通語ともなれば簡単な方が都合が良さそうなものだが、むしろ逆なのだという。なるほど、一理あるかもしれない。多くの民族間で齟齬が生じないように言葉を尽くした結果、どんどん複雑になっていったのだろう。
また、ローマ人は手紙を書く際、相手の手元に届いた時に合わせて時制を調節する習慣があったそうだ。今日はあの日、昨日は前日といったように。これはちょっとやりすぎな気もする。この考えすぎる癖は過去時制の多さにも表れており、ローマ人が過ぎたことをいつまでも気にしていた証(あかし)だという。しかし、そんな彼らの気遣いがラテン語を複雑に、つまり豊かにしていったのだとすれば、なんだか、愛おしくすら思えてくる。優しい語りに癒やされながら夜眠る前に少しずつ読み進めるのもおすすめしたい。=朝日新聞2023年1月28日掲載
◇
本村凌二監訳、岡崎暢子訳、ダイヤモンド社・1980円=5刷3万5千部。昨年9月刊。著者はバチカンの裁判所の弁護士。「本好きな人が集まる書店で特に売れています」と担当者。
ラテン語・児童文学・現代詩… 韓国発の翻訳書が多彩に
活字の海で
2022年10月22日 2:00 日本経済新聞
韓国の書籍の邦訳は児童書や教養書にも広がっている
女性の抑圧を描き日本でもベストセラーとなった韓国小説『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著、斎藤真理子訳、筑摩書房)の邦訳刊行は2018年だった。出版科学研究所の調べによると、この年の韓国翻訳文芸書の新刊点数は30点。年々拡大し21年は49点に達した。フェミニズム文学がけん引する韓国書籍の出版は20年代に入り、点数はもちろんジャンルの多様化も進んでいる。
9月末に出た『教養としての「ラテン語の授業」』(ダイヤモンド社)はバチカン裁判所の弁護士である著者、ハン・ドンイル氏が西江大学で行った講義をまとめたもの。ラテン語を通じて思考の新たな枠組みを育もうという教養書だ。監訳を古代ローマ史が専門の本村凌二東京大名誉教授、推薦文を批評家の若松英輔氏が寄せた。
編集担当の中村明博氏は想定読者に「語学や世界史に興味のある人」を挙げ、翻訳した岡崎暢子氏は「知られていなかっただけで韓国にはたくさんのコンテンツがある」と指摘する。さまざまなKカルチャーが浸透し、韓国とラテン語という取り合わせを自然体で受容する土壌が整ったのが今なのだろう。
6月刊行の『5番レーン』(ウン・ソホル作、ノ・インギョン絵、鈴木出版)は水泳部の小学6年生を主人公に、ライバルとの切磋琢磨(せっさたくま)や淡い恋心を描写する児童文学だ。競争社会が取り沙汰される韓国だが、本書が説くのは勝ち負けではなく、自分で問題に向き合う大切さだ。「親世代には競争社会への危機感がある。自分の満足のために子供を利用してはいけないと心を切り替える親の姿も描かれ、大人にも読んでほしい本」と翻訳したすんみ氏は語る。児童文学や絵本の読者の射程を大人に広げる動きも高まっているという。
韓国で盛んな詩にも注目が集まる。10月、亜紀書房は1990年に出た茨木のり子訳編『韓国現代詩選』を新版で復刊。担当する斉藤典貴氏はブーム前から韓国文学の出版を多数手掛けてきた。「小説以外も紹介できたらと考えていた。『キム・ジヨン』からスタートした読者にもぜひ手に取ってもらいたい」と話す。翻訳家の斎藤真理子氏と若松英輔氏が解説を寄せ、読者の理解を助ける。
「易しい言葉で深い世界を表現している」のが収録詩の特徴だと亜紀書房の斉藤氏。翻訳家の岡崎氏は「少しだけ目線が違う」のが韓国作品の面白さだと語る。共感と発見を味わい、日本の作品を振り返る。そんな読書ができたら楽しい。
(桂星子)
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