ベートーヴェン捏造  かげはら史帆  2019.1.8.


2019.1.8.  ベートーヴェン捏造 -名プロデューサーは嘘をつく―
Oder Biographie von Anton Felix Schindler

著者 かげはら史帆 1982年東京郊外生まれ。一橋大大学院言語社会研究科修士課程修了。音楽関連企業に勤める傍ら、音楽家に関する小説や随筆を手掛ける。本書が初の単著
Twitter: @kage_mushi
Blog: http://kage-mushi.hatenablog.com/

発行日           2018.10.15. 第1刷発行  
発行所           柏書房


登場人物
アントン・フェリックス・シンドラー ヴァイオリニスト、指揮者、伝記作家、ベートーヴェンの秘書
ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン       薬剤師、ベートーヴェンの下の弟
カール・ヴァン・ベートーヴェン       ベートーヴェンの甥
ジュリエッタ・グイチャルディ          ベートーヴェンの恋人
イグナーツ・シュパンツィヒ             ヴァイオリニスト、ベートーヴェンの友人
カール・ホルツ                              ヴァイオリニスト、ベートーヴェンの秘書
カール・チェルニー                        ピアノ教師、作曲家、ベートーヴェンの弟子
フランツ・リスト                           ピアニスト、指揮者、作曲家、チェルニーの弟子
シュテファン・フォン・ブロイニング 宮廷顧問官、ベートーヴェンの友人
ゲルハルト・フォン・ブロイニング    シュテファンの息子
フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラー 医師、ベートーヴェンの友人
フェルディナント・リース      ピアニスト、指揮者、作曲家、ベートーヴェンの弟子
フランツ・ヴェルナー                     シンドラーの弟子
アレクサンダー・ウィーロック・セイヤー      音楽ジャーナリスト、伝記作家


序曲・発覚
ベートーヴェンの生涯において最も重要な事件の起きた時期に、いつも彼のそばにいて手助けできたのは、私一人だけである――アントン・フェリックス・シンドラー『ルートヴィ
ヒ・ヴァン・ベートーヴェン伝』(1)
1977年ベートーヴェン没後150年に東ベルリンで開催された国際ベートーヴェン学会歯、東ドイツにとって社会主義国家の威容を見せつけるチャンス ⇒ 19か国から500人もの音楽関係者が詰めかける
ドイツ国立図書館版・会話帳チームの2人の女性研究者が、この年までに5巻分を出版、その結果を、『会話帳の伝承に関するいくつかの疑惑』というタイトルで、ベートーヴェンの死後、故意に言葉が書き足されている形跡を発見したと発表 ⇒ 181827年人生終盤の傑作群が生まれた時期に、聴覚を失ったベートーヴェンが、家族や友人、仕事仲間とのコミュニケーションをとるために使っていた筆談用のノートで、現存するのは全139冊、うち137冊がドイツ国立図書館(現ベルリン国立図書館)の所蔵。手紙や日記と並んでベートーヴェン研究における重要な一次資料と見做されるが、筆記者の特定や文脈の把握が容易ではなく、1920世紀前半にかけて何人もの研究者がさじを投げてきた
26年前に会話帳の盗難事件が勃発。犯人はドイツ国立図書館の当時の音楽部門長ヨアヒム・クリューガー=リーボウ。西側諸国のスパイで、ドイツの東西分断の2年後の51年、会話帳を始めとする何点かの所蔵資料を盗み出し西ドイツに横流ししていた。盗品は返却されており、今回の犯人はそれとは全く無関係のアントン・フェリックス・シンドラー
ベートーヴェンの晩年に、音楽活動や日常生活の補佐役を務めていた人物。1827年ベートーヴェンの没後文筆活動に目覚め、184060年にかけ全部で3バージョンの『ベートーヴェン伝』を書いている
ベートーヴェンに関する読み物がほとんど存在していなかった時代、この伝記はベストセラー、ロングセラーとなったが、必ずしも評判がいいわけではなかった ⇒ 「無給の秘書」としてかいがいしく尽くす自己描写が誇張気味の一方、家族や他の側近たちのことを音楽家の人生を脅かす俗物であるかのように悪し様に描いていて、全て鵜呑みにはできない
伝記作家として客観性に欠け、不適当な人物という評もあるのみならず、「会話帳」に関してもシンドラーには「前科」があり、勝手に価値がないと判断して廃棄したと告白
今回の改竄は、139冊のうちの64冊分、246ページに及び、これまで世に広まった数々の伝説の真偽にも疑問がつき、ベートーヴェン像の崩壊に繋がり兼ねない
ただ、十把一絡げに自己顕示欲や嫉妬の産物として片づけるより、動機を慎重に見極めことも必要で、嘘の陰には何らかの「現実」の尻尾がのぞいている
ベートーヴェンの本性を目撃しつつ、意識的に彼の本性を衆目から隠して、それなりの偉大な音楽家像を残そうとしたとも言える
本書は、シンドラーの動機に迫ることによって、稀代の嘘つきの裏側の真実を、彼自身の眼差しを通して明るみに出そうという非常に物好きな試み

第1幕     現実
第1幕第1場         世界のどこにでもある片田舎
1795年チェコのモラヴィア生まれ(当時はハプスブルク領の一部)。この片田舎が生んだ唯一の有名文化人として、2001年に碑が落成
1820年シンドラーの故郷にベートーヴェンのパトロンのルドルフ大公が大司教として就任した際、《ミサ・ソレムニス》を捧げるために行くことになるが、そこに自分がお伴したように改竄。両親に会ったと書いているが、母親は既に逝去
第1幕第2場         会議は踊る、されど捕まる
1813年地元のギムナジウム卒業と同時にウィーン大学法学部に進学
ドイツ人としての愛国心に燃えたが、所属していた学生組合がメッテルニヒに非合法とされ逮捕され不満が鬱積する中で、かねてより憧れを抱いていたベートーヴェン(51)に出会う
第1幕第3場         虫けらはフロイデを歌えるか
ベートーヴェンには、30歳ころからちょっと気に入った若者を自分のお世話係に仕立て上げる悪い癖が出始まったが、シンドラーとの出会いもその1つで、初めて会話帳にシンドラーの書き込みが登場するのは1822年、139冊中の第18番目
既にベートーヴェンは18年に聴力を失なっており、便利に使われたものの、翌年には次第に噛み合わないところを感じるが、第九の初演が迫っていて、本来ロンドン・フィルハーモニック協会の一員だった弟子のリースや彼の同僚たちが、ベートーヴェンの経済状況を好転させるために、大きな仕事をしようとあれこれ手を回してくれたので、本来ロンドンですべきだったが、シラーの詩の英訳が困難となってドイツ語圏でやらざるを得なくなる。シンドラーはウィーンを推すが、ベートーヴェンは当時のウィーンがイタリアオペラの最盛期でロッシーニが大うけしていたために回避したかったが、周囲からの要請文もあってウィーンでの初演を認める。次の問題は指揮者の選択で、ベートーヴェンは30年に亘って彼の室内楽の数々を初演してきたヴァイオリンの名手である盟友シュパンツィヒ似させたがったが、アン・デア・ウィーン交響楽団劇場が猛反対したため、ケルントナートーア劇場と再交渉、ウムラウフの指揮、シュパンツィヒのコンマスでまとまりかけたところ、劇場がベートーヴェンによる指揮を持ち出す。10年前でさえ聴力の減退もあってベートーヴェンの指揮はしばしば音楽を外れて暴走、楽長のウムラウフが彼の背後に立って目くばせや身振りによって演奏者に指示を与えてこなした来たことがあったのを知って、シンドラーはむしろ客集めの口実として使えると判断、チケットは完売し、シュパンツィヒもシンドラーがいなかったらこの初演は実現していなかったと持ち上げる
《歓喜に寄す》の一節で、「快楽は虫けらのような者にも与えられ」と歌われる間に、ベートーヴェンはシンドラーの解雇を決めていた
第1幕第4場         盗人疑惑をかけられて
初演直後、ベートーヴェンは関係者を招いた昼食会で、演奏会でのシンドラーの仕切りに難癖をつけてきながら、大レドゥテンザール劇場での再演ではまたシンドラーを使い走りとしている。《第九》の前座として弟子のチェルニーにピアノ協奏曲を弾かせようとしたが、長いこと大勢の人前で弾いたことがないことを理由に断られ、演奏会自体も空席が目立ち、まばらな拍手とやるせないため息ばかりで、シンドラーは責任をとってベートーヴェンの前から姿を消す
シンドラー自身のウィーンでの音楽家としての生活が広がり始める
シンドラーに代わって、4歳下のシュパンツィヒ弦楽四重奏団の第2ヴァイオリニストのカール・ホルツが新しい秘書としてベートーヴェンの下に仕え始める
その矢先、26年ベートーヴェンの甥のカールがピストル自殺
第1幕第5場         鳴りやまぬ喝采
2年間のブランクの後、シンドラーはまたベートーヴェンの元に戻り、不在中の会話帳を見て、カール・ホルツがベートーヴェンと甥カールの間の橋渡し役として苦労したことを知る ⇒ 甥のカールは、ベートーヴェンが4年半に及ぶ法廷闘争の末に引き取った子供。4歳違いの弟で平凡な役人だったカスパルの息子で、カールが9歳の時肺結核で死去するが、妻と兄を共同後見人としたが、何を考えたかベートーヴェンが母親から息子を取り上げて、幼少期に父から受けたスパルタ教育のトラウマが甥への過度な束縛に繋がり、病的な執着心を持ったというのが一般的な見方。甥のカールの成長に従い、ベートーヴェンとは度々衝突するようになり、そこへ秘書のホルツが来て間を取り持とうとしたが、やがて3人の関係は破綻、甥は自殺を図り、瀕死のところを発見されて母親のところに運び込まれ、未遂に終わる
自殺未遂から2か月後、甥の入隊前の最後の時間を、弟ヨハンの招待を受けてウィーン郊外の別荘に滞在中肺炎で血や黄疸を吐いたり腹水除去手術をしたり、阿鼻叫喚の時を過ごす。看護していた人の中に、シュテファン・フォン・ブロイニングとその息子もいた。ボン出身の40年の付き合いになる腐れ縁の友人
遺言書を書かせた際、ベートーヴェンはシンドラーとブロイニング氏に向かい「諸君、喝采せよ、喜劇は終わりだ」といった ⇒ 昏睡状態となる
ウィーンで行われたベートーヴェンの葬儀は大勢のファンに囲まれて盛大に行われ、直後にはシンドラーの企画にベートーヴェンが生前支援の声掛けをしてくれた往年の良きライバルのフンメルがピアノ演奏をしてくれた演奏家がヨーゼフシュタット劇場で盛大に挙行、舞台袖からヴァイオリンをかかえて見守っていたシンドラーは、これまでのベートーヴェンとの葛藤を思い起こしながら最後に自分のためにこんな美しい贈り物を遺してくれたとの熱い想いが込み上げ、その思いに応えるために、自分もまた音楽家の端くれとしてこれからの人生を全うしようと決意。ベートーヴェンを愛するとは、彼の音楽を表現することであり、ヴァイオリニストとして彼のメロディを奏で、指揮者としてオーケストラを導く、そんな光に満ちた音楽人生を歩んでいこうと、願わくば彼が生きたこのウィーンで
ところが、その2か月後ブロイニング氏が急逝。甥カールの後見人であり、ベートーヴェンの遺品整理の現場監督者としての過労が祟ったもの
更には、秘書のカール・ホルツがベートーヴェンの伝記の発行を目論見、生前本人から許可もとっているとのニュースがシンドラーのもとに飛び込む
ベートーヴェンの遺品のうち、楽譜などの重要書類の価格査定は立会人を交えて行われるが、会話帳は本人以外の者が書いたノートで、正当な価値判断などしようもないと考えたシンドラーは、ホルツの伝記刊行に対抗するための手段として会話帳をすべて持ち出す

会話帳の最大の価値は、そこに書き留められた日々の苦労、ゴシップ、悪意やユーモアなど、瑣末なことにあるように思われる ⇒ まるで200年前のSNS

第2幕    
第2幕第1場         騙るに堕ちる
1827年 ベートーヴェンの死から4か月後、コブレンツ在住の医師ヴェーゲラーは40年前、5歳年下の宮廷音楽家ベートーヴェンと、ブロイニング家の長女でシュテファンの姉エレオノーレと3人で甘酸っぱい三角関係を持て余す青春の日々を過ごし、1792年キャリアのためにウィーンへと去ったベートーヴェンにエレオノーレは秘かに手製のチョッキを贈る。妙齢を過ぎてなお誰のところへも嫁ごうとしないのをヴェーゲラーはなぜか知っていたが、待ち続けるしかなく、1802年ようやくエレオノーレはヴェーゲラーの心を受け入れて結婚。旧友が独身を貫く状況には胸が痛み、ベートーヴェンの死の1年前から妻と共に文通を復活するが、ベートーヴェンからの手紙はいつも代筆。ベートーヴェンの訃報に心の行き場を失ったような気がして、シュテファンも逝った後自分との接点が断たれてしまったとショックを受けていた矢先、代筆していたのと同じ筆跡で手紙が届き、署名にはシンドラーとある。なかには、ベートーヴェンが死の直前、シンドラーとブロイニング、ヴェーゲラーを親しい愛する友人という言葉を残したこと、3人で伝記を共同執筆してほしいと遺言していたと記されている。早速ヴェーゲラーは同郷のボンの仲間たちにも資料収集の協力を仰ぎ始める。
20歳近く年下の友人フェルディナント・リースも、ヴェ-ゲラーから声を掛けられた一人で、ベートーヴェンと同じくボンの宮廷音楽一家の出身で、16歳の時ベートーヴェンを追いかけるようにウィーンに渡り、ピアノの弟子となった人物。ピアニスト、作曲家、指揮者として大成、いまはフランクフルトでオペラの制作に勤しんでいる。リースは、かつてベートーヴェンから味噌クソに貶されていたシンドラーのことを覚えていて、ヴェーゲラーに協力を約束
シンドラーは、会話帳を持ち出してウィーンを逃げ去り、歌手として成功していた妹のところに転がり込む
その間、ベートーヴェンとは縁もゆかりもないプラハの文筆家シュロッサーがプラハで、取材もろくにせずに『ベートーヴェン伝』を出版 ⇒ 生年も父親の名前も誤記
シンドラーは、ドイツ語圏の音楽業界で超有名メディア『一般音楽新聞』の元編集長ロホリッツに対し1827年にベートーヴェンの遺言と偽ってドイツ語へのリライト役を依頼
ケルントナートーア劇場附属の合唱学校の声楽教師の職でウィーンに戻ったシンドラーは、ベートーヴェンの翌年31歳の若さで死んだシューベルトを偲んで『ウィーン劇場新聞』に音楽に特化したスペシャル号を発行させ、シューベルトに関するコラムを書くが、その中でも嘘にまみれたエピソードを紹介している。それは、シンドラーがシューベルトの60にも上る歌曲の楽譜をベートーヴェンのところに持っ ていったところ、しばらく楽譜から手を放そうとせず、毎日何時間も喜びと共に曲を味わいながら、「本当にシューベルトのなかには神の如き火花が宿っている」と言ったというもので、あたかもベートーヴェンにシューベルトの魅力を教えたのは自分だと自慢。ちなみに、「神の如き火花」というフレーズは《第九》のさび部分に登場する歌詞「神々の火花」と酷似、話を盛った可能性が高いが、後にシンドラー自身盛ったからといって誰が損する訳でもない、皆フロイデ(歓喜)で何が悪いのかと嘯いている
さらに、シンドラーはミュンスター市音楽監督の職を手に入れ、故郷に凱旋。オーケストラの指揮の評判も良く、滅多に本物を聴く機会に恵まれない団員にベートーヴェンの交響曲を解説し演奏の仕方を教えた。その間もシンドラーはベートーヴェンとの関係を誇張し嘘を重ねていく
シンドラーは伝記の刊行を延ばしに延ばしていたが、それはベートーヴェンと自分との関係を知る人たちが死ぬのを待っていたからで、業を煮やしたヴェーゲラーは、38年リースと共著で『ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに関する伝記的覚書』を発刊
先行された怒りを越えて、シンドラーは自ら描き出した清く正しく凛々しい音楽家のイメージを持つ、ヒーローとして生きた音楽家の生涯を描こうと、肖像画家が醜いあばたを隠すように、自分の書く伝記でも自らの嘘もベートーヴェンの本性も完全に隠し通すと決めるが、その時目に入ったのが自分が勝手に持ち出してきた大量の筆談用ノート
第2幕第2場         プロデューサーズ、バトル
1840年シンドラーが『ベートーヴェン伝』を出版、それを手にしたカール・ホルツは、中身のあまりの出鱈目さに驚愕
41年には英訳版刊行、翻訳はロンドン在住の音楽家モシェレスで、何度かウィーンに滞在してベートーヴェンと親しく交友を交わしていた
シンドラーはメトロノームの速度に関する改竄を大量に行っているほか、「会話帳」という言葉もあえて命名してノートが稀有の存在であるとアピール ⇒ 得意のブランディング戦略の一環であり、シンドラーによる『ベートーヴェン伝』が長年にわたって読み継がれてきた最大の理由となっている
シンドラーは、「会話帳」を公的機関に献上しようと思い立ち、ベルリン王立博物館に声を掛けるが、直筆でもないメモはあまり関心を呼び起こさなかった
ホルツは、シンドラーのインチキ評伝の拡散を止めるために、自らの頓挫した伝記プロジェクトを復活させる。シンドラーに欠けていたベートーヴェンの家族や周辺人物との信頼関係を築き、45年ベートーヴェンの生誕75年を記念してできたブロンズのベートーヴェン像の除幕記念式典が開催されるボンに乗り込み、町中にシンドラーが無断でインチキ伝記を出版していることや、遺品の数々を図書館に売り裁こうとしているとの噂話をばらまく
地元の新聞などを通じて両者の中傷合戦がエスカレートしたところで、ベルリン王立図書館が各種資料の購入希望を寄せてきたので、「会話帳」に分かりやすくコメントを加え、全137冊を、年金支払いを条件に売却
売却直後の46年、シンドラーはベルリン図書館宛に、さらに2冊のノートがあってホルツが王族を中傷した内容のため渡せなかったがいつのまにか紛失したと嘘を並べてきた
第2幕第3場         vs嘘の抗争
1823年ウィーンのカリスマピアノ教師カール・チェルニーは、愛弟子のリストを天才だと確信、箔付けにベートーヴェンに引き合わせようとシンドラーを通じて面談を申し入れたが、招待した演奏会に来てくれたのはベートーヴェンの甥カールだった ⇒ 40年にシンドラーの出版した『ベートーヴェン伝』に勝手にリストを傷つけるような表現が載っていたらリストのベートーヴェン・リスペクトを台無しにしてはとチェルニーは心配
1835年ボンの名士たちが、ベートーヴェン像の建立と資金募集の声明を発表。当時音楽家の記念碑や銅像はロンドンのヘンデル像とハイドン像以外はほとんどなかったので、ヨーロッパ中の人々が驚く。リストも39年にはプロジェクトの支援活動に乗り出し、あっという間にチャリティで資金を集め、45年には除幕式に漕ぎつける
ベートーヴェン=リスト旋風が独り歩きし、「リストは少年時代にベートーヴェンと会い。才能を称賛されたことがある」というエピソードまでが世間に出回り出す ⇒ 自己プロデュース力とサービス精神旺盛なリストは、無根拠な噂をさも真実のように自分の口で語り出すことがよくあった
事件が起きたのは、除幕式に続くクライマックスの祝宴におけるリストの稚拙なスピーチが、自らの風来坊的な出自をさらけ出し、羨望と尊敬を込めてリストを仰いでいた人々が、得体のしれない宇宙人が我々の敬愛するベートーヴェンを乗っ取ろうとしていると不信感を抱く。当時、ショパンにしてもシューマン、ベルリオーズみな愛国主義者だっただけに、ハンガリー人を主張していたとはいえ、リストはどこの馬の骨ともつかぬペテン師に見做されがちで、音楽家仲間からも袋叩きに遭ったリストはしばらく静養を余儀なくされる
シンドラーは、単に会話帳に好き勝手に書き込みを入れるだけに飽き足らず、ツェルニーがリストを発掘したように、リストに代わるピアニストを見つけて世の中にベートーヴェンの真の後継者を紹介しようと企み、45年にミュンスターで12歳のフランツ・ヴェルナーを見出し、徹底してベートーヴェンを叩き込み、頃を見てパリにデビューさせようとするが、本人が賢明にもベートーヴェンしかひけないピアニストでは通用しないと逃げ出す。ヴェルナーは後にブラームスと親しくなり、ワーグナーの楽劇を指揮し、有名な声楽練習曲《コールユーブンゲン》を出し、最新の作品の指揮や教育活動で認められ、チェルニーのピアノ練習曲に匹敵する業績を声楽史の中に残した
47年リストがピアニストから事実上の引退。2年前の除幕式でのトラウマも一因
48年恋人のカロリーネ・フォン・ザイン=ヴィトゲンシュタイン伯爵夫人とロシアからヴァイマールに転居、文化芸術都市の宮廷楽長が第2の人生 ⇒ 同じ場所で宮廷顧問官を務めたゲーテにあやかったもので、「ゲーテ基金」創設を企図したが果たせず、革命に参加したために指名手配を受けスイスに逃亡中のワーグナーの《タンホイザー》を敢えて上演し過激派のドイツ・ナショナリストを全面的に支援するも、大衆の偏見と反発はやまず、10年後の58年楽長を辞したあとは、さすらいの生活を送る。宗教に傾倒してカトリックの下級聖職者に叙せられた姿は、「ドン・ファン(好色家)がスータン(僧服)をまとった」と嘲笑された
リストを巡る状況は、ベートーヴェンとそっくりになる  周りの連中がエピソードを好き放題に吹聴し、メディアが世の中に広め、人々が面白くそれを消費する。19世紀半ば、ゴシップやフェイクニュースはミュージシャンという職業に課せられた宿命
57年チェルニーが死に、58年にはベートーヴェンの甥カールと宿敵ホルツが亡くなり、老ヴェーゲラーも48年には鬼籍の人。ベートーヴェンと交友関係にあって残るのはシンドラーの他には、ベートーヴェンの晩年に彼の心を慰めたブロイニングくらい
ということで、シンドラーはもう1冊伝記を書こうとの仰天計画を進める ⇒ 60年『ベートーヴェン伝』第3版を出版。20年の間出版された伝記や論文などから新しく得た情報を盛り込んだほか、すでに死去したライバルを批判しこき下ろすことに精力を注いでいる。チェルニーやリストをも痛烈に批判

第2幕第4場         最後の刺客
1860年アメリカ人音楽ジャーナリストで伝記作家のセイヤ―(65)がウィーンのアメリカ公使館での仕事を得て、ヨーロッパかねてからの夢だった『ベートーヴェン伝』の執筆にとりかかる
既に、死の床に寄り添ったブロイニングへの取材も実現させ、ホルツからは書面での情報提供を受けていた
セイヤ―は、最初のシンドラーによる『ベートーヴェン伝』を目にしたのは、ハーヴァ―ドの法学院生のとき。感激して読み更に奥を深めるためにその後の伝記を取り寄せて読むうち、シンドラーの版とヴェーゲラー=リースの版に微妙な違いがあるのに気づく。両者の間に伝記の執筆を巡ってトラブルがあったということも随所で仄めかされている
49年真相究明に向けヨーロッパに向かい、解明の暁には自ら著者となって伝記を書こうと決意
1オンスの史実は、1ポンドの美辞麗句に匹敵する」がセイヤ―のポリシーで、歴史や歴史上の人物を語るに当たっては、ドライに事実を記した文章の方が、あれこれ飾り立てた文章よりも(16倍も)価値が高いという意味
54年セイヤ―はシンドラーを訪ね、シンドラーから聞き取ったことを、ベルリン王立図書館の「会話帳」で確認するため一字一句を書きとる。あまりの無謀な作業のため一旦体を壊してアメリカに戻るが、健康を回復してヨーロッパに戻り、再度第3版を書き終えたシンドラーに面会。それまでのシンドラーの言っていることがウソだと大筋で確信を持ち、彼の嘘に罪があるとする根拠を探りに来た
会話帳が400余りあって、シンドラーが価値がないと判断したものは燃やしたと、あまりにあっさり認めるので、ベートーヴェンと甥のカールによる赤裸々な諍いの書き込みについて、シンドラーは2人の関係のもつれの原因が甥の素行の悪さにあり、ホルツの存在が状況をますます悪化させたと明言しているが、極めて健全な愛を受けて育てられたセイヤ―の価値観からすれば、常軌を逸しているのは明らかに保護者であるベートーヴェンで、彼の振る舞いこそがカールを追い込んだとしか考えられない。それを史実として明るみに出すことが研究者としての務めと考えた
だが、同時にシンドラーも全く同じ問題にぶつかり、彼はベートーヴェンを晒し上げるのではなく、ベートーヴェンを守る道を選び、そのために罪を負って嘘をつき、それを貫こうとしている。歴史的叙述という観点から見れば失格者でも、シンドラーなりに矜持を貫いたともいえる
セイヤ―とシンドラーの面会は3日に及び、セイヤ―は黙って去っていく。セイヤ―が『ベートーヴェン伝』を完成させられるかはわからないが、ともかくシンドラーは逃げ切ったと確信、ベートーヴェンを守り抜いた、自分の嘘もベートーヴェンの本性も

シンドラーの人物伝を描くのは、オセロをプレイするのに似ている。現実を嘘で挟み撃ちして、盤上の石をひっくり返す。09年シンドラー研究者のヒューファーが著したシンドラーの伝記的論文、手紙、旅日記などから、何とか使えそうな情報を探し出し、無謀を承知でゲームに挑んだのが本書
ドイツ国立図書館の会話帳チームによる77年の学会発表は、シンドラーが会話帳に書いたセリフのどれが本物でどれが嘘であるかを明らかにし、シンドラーの『ベートーヴェン伝』に登場するエピソードのいくつかが作り話であることを証明
1幕第4場 プラーター事件 ⇒ 《第九》初演の慰労会の席上、収益をかっぱらったと罵倒された事件は、シンドラーによれば再演直後とされたが、真実は数週間前の初演直後だったことが判明。シンドラーとしては、初演の感動を金銭トラブルの描写で穢したくなかったのだろう
1幕第3場 《ミサ・ソレムニス》の報酬 ⇒ 写譜の販売報酬としてベートーヴェンから一定額を提案されたがシンドラーは受け取りを拒否、代わりに自筆譜をプレゼントしてもらったとしているが、報酬を受け取ったのは間違いなく、「無給の秘書」という肩書を強調するために報酬受け取りの事実を隠したのだろう
1幕第2場 学生時代の実態 ⇒ 学生運動との関わりについて、終生口をつぐんでおり、会話帳にも見当たらないが、王立図書館から報酬を得ている身として反体制運動に関与した過去が明るみに出るのはまずいと考えたのか、はたまた『ベートーヴェン伝』の正統な著者が過激なドイツ・ナショナリストだった事実を伏せる必要があったのか
2幕第3場 リストへの「聖なるキス」伝説とチェルニー ⇒ 本書では、リスト少年の送別演奏会を巡る一連の改竄は、リストの師チェルニーに対する複雑な感情と関係があると指摘したが、ベートーヴェン弾きとしてのチェルニーを崇め、ピアノ教師としてのチェルニーを否定するシンドラーの言動は、リストのピアニズムに対する批判と連動しているが、チェルニーとリストがどこまでシンドラーを意識していたのかは不明で、シンドラーの一方的な思い込みの可能性が大
シンドラーの心理と改竄のプロセス ⇒ 甥カールの自殺未遂事件を巡るシンドラーの見解は単純ではなく、事件の最大の原因がカールにあることは一貫しているが、伝記の第1版ではベートーヴェンが子供の教育に不向きな性格であったことはある程度みとめていたものの、第3版では伯父甥の関係を悪化させた犯人をホルツと名指し。明らかに45年に起きたホルツとの新聞上の論争の影響と思われる。シンドラーのホルツに対する不当な貶めは、秘書同士の嫉妬心からというより、ベートーヴェンの死後に起きた一連の騒動に起因していると考える方が妥当。改竄も4046年の間に断続的に行われたと推測され、リースや若き日の自分の行状にまつわる改竄は第1版出版時の40年前後に、ホルツやリストにまつわる改竄は45年の除幕式後に行われたと考える。改竄の一部は、シンドラー自身の精神的なジレンマを少なからず投影しており、シンドラーはベートーヴェンをその死後ですらコントロールできず、「ご辛抱ください」との改竄の書き込みが何か所もあるが、これは不機嫌なベートーヴェンを宥めるための常套句で、オリジナル個所にたくさんあるにも拘らず付け加えざるを得ない呻きだったのだろう
「音楽」をめぐる最大の嘘 ⇒ 本書は、シンドラーの嘘のうち、人間関係や伝記の成立過程にまつわるものを中心に取り上げ、音楽的な要素を含んだ嘘については深く触れていない。多くは演奏テンポをめぐる問題で、それが彼自身の指揮活動と密接な関係にあるが、後世に大きな悪影響を与えた嘘のうち《交響曲第8番》第2楽章をめぐる改竄はその最たるもの
シンドラーは伝記第3版で、第2楽章は、1812年春にベートーヴェンがメトロノームの発明者メルツェルに贈った、メトロノームの音を模した小曲《タタタ・カノン》(WoO 162)を転用した作品だと主張。会話帳でもシンドラー自身が16年のとある宴席で歌ったとする改竄を行っている。だが、12年時点ではまだメトロノームは発明されておらず、《タタタ・カノン》もシンドラーが《交響曲第8番》第2楽章を剽窃して作った偽作であるとほぼ確定
シンドラーは、《交響曲第5番》冒頭の旋律のモチーフを「運命が扉を叩く」さまに例えたと主張しているが、世に多くの影響を与えた罪深い嘘の1つだが、これはあくまで演奏解釈上の比喩に過ぎないが、第8番第2楽章の方は交響曲の創作動機の根幹に関わるものであり、嘘と判明した時の音楽業界の衝撃は非常に大きかった
シンドラーの嘘の根本的な動機は、今もってはっきりしない ⇒ ほかにも嘘と確定しているが、動機が分からない箇所が多数存在し、その解明が進むにつれ、ベートーヴェンの人物像も大きく刷新されていく可能性がある

終曲・未来
1977年ベートーヴェン没後150年。カラヤンがベートーヴェンの交響曲全曲を日本で指揮し、文化大革命後の中国で初めて《運命》が放送され、《合唱》の演奏時間を基準にした新しい音楽メディア、コンパクト・ディスクの開発が始まりつつあった年。
東ドイツ・ベルリンで開催の国際ベートーヴェン学会でシンドラーの会話帳改竄は暴かれたが、発覚直後の一騒動が収束した後、研究者の間にはもう1つの疑惑が生まれた。それは、本当にセイヤ―がシンドラーの嘘を見抜けなかったのか、ということ
セイヤ―は、同時期シンドラーの嘘を追究していたオットー・ヤーンとの総意の下、シンドラーについて見解をまとめた ⇒ シンドラーは自分の話においては誠実かつ正直だが、信用し兼ねる記憶と傾向を持っている。印象と後から作られた認識を、自身が昔から知っていた事実であるかのように考え、それを適切か判断する配慮なしに公表している
2度目の対面から4年後の64年にシンドラーは死去、セイヤ―の死はその33年後
セイヤ―は、66年『ベートーヴェン伝』第1巻を出版、出生から25歳まで。かつては母国アメリカのために書きたいと願っていたのに、ドイツ語で発表したのはシンドラーという宿敵を倒すためで、目的が変質。72年に第2巻、79年に第3巻を出版、ベートーヴェンの伝記研究の決定版として高く評価
セイヤ―が疑ったのは、シンドラーが書いた個々のエピソードの信憑性だけに留まらず、語りの手法そのものにあり、シンドラーが作品と人生、あるいは作品と精神との絡み合いを論じることで、ベートーヴェンの人間性が作品と同様に偉大だと証明する叙述スタイルをとったのに対し、セイヤ―は、作品を彼の人生や精神と結びつけて論じることを徹底して回避。作品について触れる時は、作曲時期や演奏会での客の入り状況など客観的に確認できる事実だけを描くことに努めたが、1816年ベートーヴェン人生の佳境でペンが止まる。会話帳が使われ始める2年前であり、そのまま死去 ⇒ 後継者はドイツ語版と英語版に分かれ、それぞれに伝記を完結させたが、両者で微妙な違いがあり、徹底的に正されているとは言えない
1951年のメーデーの祭典の賑わいに紛れてドイツ国立図書館(旧ベルリン王立図書館)から「会話帳」が消える。犯人は図書館の音楽部門長で、バリバリの共産主義者と言われていたが実は共産主義者を装った対ソ諜報機関の一味。ベートーヴェンやバッハの自筆譜はわかるが、なぜ価値も低そうで嵩張る会話帳迄持ち出したのかは謎。ドイツが東西に分断されてからまだ2年の当時、おそらく「ベートーヴェンを守れ」との信念からと思われ、盗品はボンのベートーヴェン・ハウスに引き渡されたが、8年後に犯人が別件で逮捕され、国立図書館の要請に従って会話帳は元に戻された。奇しくもベルリンの壁が築かれた61年のことで、東独の研究者たちが「ドイツ国立図書館版・会話帳チーム」を結成、編纂プロジェクトがスタート、シンドラーの改竄はこの編纂の中で発覚
改竄箇所には間抜けなミスが数多くあった ⇒ ベートーヴェン生前の1820年代と改竄に手を染めた40年代では、ドイツ語の書法が変化。単語(Synfonie)のスペルが異なったり、連続する会話なのに筆記具が変わっていたり、余白に無理やり台詞を挿入していたりと、不自然さは数限りなく、最終的に犯罪学の専門家迄投入して年代鑑定が行われた結果、64冊の会話帳(残存する会話帳の46%に相当)にかなり高い確率で没年以降に記入されたと見做し得る箇所が確認された
シンドラーの犯罪は、完全犯罪とはほど遠いもので、あらゆる凡ミスがシンドラーを嘲笑する格好のネタになった
一方で、改竄部分がはっきりしたとしても、シンドラーが書いたエピソードの大半は、嘘とも真実とも確証はなく、永遠に証拠が得られることはない
改竄が明るみに出た1977年は、「ポスト・モダン」という概念が登場した年でもあり、かつて世の人々が共通して持っていた大きな価値観が崩壊し、無数の小さな価値観へと解体されていった時代的な状況もあって、シンドラーの伝記が誰にも一定の共感を得られる偉大なベートーヴェン像を打ち立てるという意味で、まさにモダンの象徴だった。そして捏造の発覚はポスト・モダンの時代の幕開けにふさわしい音楽史上の事件だった
ポスト・モダン時代は、大時代的な偉人の伝記を語ること自体ダサく見えたが、20世紀も終わりに近づき、ポスト・モダン思想のピークアウトが見え始めると、揺り戻しのようにシンドラーの業績を擁護する意見も現れ始める ⇒ 不朽のベートーヴェン伝説を生み出した、音楽史上屈指の功労者とまで称されるようになったシンドラーを肯定するのが本書の目的ではなく、あくまでもシンドラーの眼差しに憑依して、「現実」から「嘘」が生まれた瞬間を見極めようとしたもの
64年シンドラー死去に伴い、まだ図書館に売却していなかったベートーヴェン関連の資料や遺品とともに、シンドラーのプライヴェートな記録が出てきたが、その中にシンドラー作曲によるいくつかのオリジナル音楽作品があった。ベートーヴェン・ハウスが作成した目録によればその数22作品、ピアノ曲、歌曲、合唱曲が中心。上演記録が残っているものもあるが、ほとんどは公に発表された形跡はなく、出版もされていない。一番古いのは秘書になる前の21年作。33年作曲のピアノ・ソナタには、「ベートーヴェンのスタイルをなぞって書こうとしたもの。なんという思い上がりだろう。罰に対する高慢さというべきか」との言葉が書き添えられている。楽譜は誰かに演奏してもらうことを想定したのか、浄書されている。コメントは作曲から20年近く後に書かれたもので、すでにその頃は作曲をやめていた。目録上一番遅い作曲年は43年で、『ベートーヴェン伝』(1)を書き終えて彼の夢は破れていた
「罰に対する高慢さ」と書いているが、それは、ベートーヴェンに仕える自分に強い誇りを持ち、ベートーヴェンをプロデュースするために罪を負うことさえ厭わなかった男が、自分の作品についてはその価値をとことん軽んじ、容赦のない自罰を行っている。その精神性の正体とは何か
自らの夢を捨ててプロデュース業を全うした男を演じたかったのかもしれないが、音楽を志した男にとって、一生かかっても敵わない天才に出会ってしまったことは、人生における最大の幸福であると同時に、最大の悲劇で、ベートーヴェンとの出会いはシンドラーにとって夢の始まりであると同時に、夢の潰える兆しだったのかもしれない
その人の音楽に身も心も支配されてしまうとは。自分で何かを作り出そうとしても、全てその人の剽窃のようになってしまうとは。その絶望に耐え切れず筆を折ってしまうとは。そして抱いた夢さえも「罰」と自ら呼ばざるを得なくなるとは
シンドラーが人生をかけて改竄したのは、彼自身の本心だったのかもしれない
でもそれは、別のシンドラー伝で語られるべき物語だ

あとがき
著者は、シンドラーのライバルだったリースの大ファンで、フランクフルトにあるリースの納骨堂参りのついでに、シンドラーの墓があったことを示す名前入りのプレートを探したが見当たらなかった
本書は2007年に書いた修士論文『かたられるベートーヴェン――会話帳から辿る偉人像の造形――』がベース。その後クラシック界のゴーストライター騒動(14年佐村河内/新垣隆)など真実と嘘を巡る様々な事件が起き、そのたびにこの論文の処遇につき思いを巡らせてきた。「会話帳」をメインテーマにした論文を、シンドラーを主人公にした一般書という形に移し替えようと決めた時、シンドラーが負った1ポンドの罪の重さを初めてわが身のものとして理解した気がした。アカデミアの人間ではない、立脚すべき方法論を持たない書き手が、一人の嘘つき男の目線から物事を語ろうとする危うさについて、幾度も自問自答した




ベートーヴェン捏造 かげはら史帆著 楽聖を伝説化した男の業
2018/12/8付 日本経済新聞
聴覚を失ったベートーヴェンが筆談に使った「会話帳」と称されるノートが139冊現存している。楽聖の生涯を知る上で、まぎれもない一級資料だった。1977年の学会で「ベートーヴェンの死後、故意に言葉が書き足されている形跡を発見した」と発表されるまでは。
会話を捏造(ねつぞう)したのはアントン・シンドラーという男だ。晩年、秘書として仕え、大部の伝記の著者としても知られる。本書は彼の視点を借りて、このような行為に手を染めた理由を探るノンフィクションだ。
この男が師と仰ぐ作曲家を心から尊敬し、献身したのは間違いない。だが、それは空回りだった。「師」はその押しつけがましさに辟易(へきえき)し、弟子と認めてすらいなかった。絶縁を言い渡されもした。そんな現実にシンドラーは耐えられなかった。
師と自分は一心同体だ。その師は暴力癖のある癇癪(かんしゃく)持ちであってはならない。病や悲恋の運命を乗り越えた英雄なのだ。シンドラーは理想を現実にするため嘘に嘘を重ね、都合の悪い部分は焼き捨てた。なんともあわれな人間の業の物語である。
だが、とも思う。伝説の捏造がなかったら、ベートーヴェンは歴史に残る英雄たり得ただろうか。シンドラーはファンを喜ばせる名プロデューサーともいえないか。複雑な余韻を残す一冊だ。(柏書房・1700円)


評・宮部みゆき(作家)
『ベートーヴェン捏造』 かげはら史帆著
20181203 0526
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秘書が「盛った」楽聖像
 晩年のベートーヴェンには、音楽活動や日常のあれこれをサポートしてくれる秘書がいた。アントン・シンドラーという(現在の)チェコ生まれのこの青年はベートーヴェンを崇拝・敬愛し、無給でとことん尽くして世話をした。その結果、ベートーヴェン没後のシンドラーは、楽聖の人となりをもっとも(ちか)しく具体的に知る人物となり、当然の義務(もしくは権利)のように『ベートーヴェン伝』を著して、これは世界中でベストセラーやロングセラーになった。
 しかし、シンドラーの書いたベートーヴェンの伝記には、何となくうさんくさいところがあった。「楽聖」ベートーヴェンを美化し、彼に仕える自分自身の存在を大きくし、返す刀でベートーヴェンの家族や他の側近たちのことはあしざまに扱っている。今風に言うなら、自分に都合のいいように話を「盛って」いるのである。
 さて、聴力を失ったベートーヴェンは、家族や友人たちとコミュニケーションするために、筆談用のノートを用いていた。「会話帳」と呼ばれるこれらのノートは、今日、百三十九冊が現存している。ベートーヴェンの創作の秘密や人柄、芸術観や音楽観を知るための最重要の一級資料だ。
 シンドラーはこの会話帳にも改ざんを行っていた。もちろん、自分に利があるように。あるいは、楽聖の言動がよりドラマチックになるように。たとえば『交響曲第五番 運命』のあのジャジャジャジャーンというモチーフについて、ベートーヴェンが「運命はかくの(ごと)く扉を(たた)く」と言ったというエピソードは、シンドラーが会話帳の記述をもとにして書いたという伝記の他にソースはないのだという。
 音楽史の研究家や熱心なクラシック・ファンの間では、このシンドラーのリストならぬシンドラーの捏造(ねつぞう)は非常に有名な事件なのだそうだ。私は本書を読むまで全く知らなかった。ぜひ、この驚きを分かち合いたい。徹夜本です。
 かげはら・しほ=1982年生まれ。一橋大学大学院修士課程修了。音楽家に関する小説や随筆を手がける。
 柏書房 1700円
20181203 0526 Copyright © The Yomiuri Shimbun


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