日本語を作った男 上田万年とその時代  山口謠司  2016.12.1.

2016.12.1. 日本語を作った男 上田万年とその時代

著者 山口謠司 大東文化大准教授。博士(中国学)1963年長崎県生まれ。大東文化大文卒。同大学院、フランス国立高等研究院人文科学研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大東洋学部共同研究員などを経て、現職。専門は中国および日本の文献学

発行日           2016.2.29. 第1刷発行
発行所           集英社インターナショナル

明治維新を迎え、「江戸」が「東京」となった後も、それを「とうきやう」とか「とうけい」と様々に呼ぶ人がいた。明治にはまだ「日本語」はなかったのである。「日本語(標準語)」を作ることこそが国(国家という意識)を作ることである――
近代言語学を初めて日本に導入すると同時に、標準語の制定や仮名遣いの統一などを通じて「近代日本語」の成立に極めて大きな役割を果たした国語学者・上田万年とその時代を描く

はじめに
母国語は空気のようなもの。無意識に使って不自由もなく、あって当たり前と思うもの
新しい世代が使う新しいコトバに不快を感じたり、別の地域のコトバを面白いと感じたり、変だなと思ったりする
発音、文法、語彙、表現、あらゆる面で世代間の言葉のズレは、少しずつ起こる
グローバル化が進めば、不思議な言葉もたくさん目に入り、耳にすることが多くなる。言葉が変わるのであり、誰もその変化は止められない
我々が使う現代日本語は、1900年ごろに作られた。いわゆる言文一致運動の産物で、自然に変化したものではなく、「作られた」日本語。これが「標準」とされた「標準語」で、官報で公表され、教科書で使われて普及した
言語がおよそ100年で1つの大きな変化を見せるということから考えると、平安時代の前期、日本語を〈ひらがな〉と〈カタカナ〉と漢字を使って書き始めた時代、つまり日本語の黎明期から10回連なって日本語が大きな調整を行わなければならない時代にさしかかっていたのが1900年ごろで、明治維新とともに訪れた
東京帝国大学文科大学という最高学府の、その中でも博言学という言葉の専門家で、ドイツ、フランスの留学を終えて最先端の学識を誇る男・上田万年は傍観者ではいられず、言文一致を行おうとして旗を振る

序章
1908年を境に、日本語は大きく変わろうとしていた。上田万年たちは、普通に話して、できるだけ多くの日本人が分かる日本語を「国語」として、分かり易い発音主体の「新仮名遣い」で書かれた新しい教科書を作ろうとした
漱石は、これから10年、胃を悪くしながら新しい日本語という波の先頭に立って言語表現を行っていく。そして万年たちはこれを支えるように日本語の歴史的研究や児童教育のための唱歌の制作などにも関わっていく
結局、これからほぼ40年後、戦後1946年の「現代かなづかい」が告示されるまで、万年たちの夢の実現は待たねばならなかった
漱石の『吾輩』が現れるまでの日本語、あるいは「国語」とはどのようなものだったのか、そしてその日本語はどのように形成され、「国語」と呼ばれるものとなったのか。明治というブラックボックスのような時代を、言語学を始めて学んだ万年という男の目を通して見つめてみる

第1部        江戸から明治~混迷する日本語
第1章        明治初期の日本語事情
万年なりに日本語の世界でいうべきことがあったし、彼の言葉があったからこそ、今の日本語が出来上がったとも言える
万年の人生、それは近代日本語が形成されるために費やされた政治の世界の出来事
維新直前の慶応3年、万年は17日に大久保3丁目で、漱石は15日に喜久井町で生まれ、2人はいずれ近代「日本語」の形成に対して大きく関係する
万年なしに漱石は生まれてこなかった ⇒ 『吾輩』を書かせたのは万年とも言える
「南蛮鴂舌(けつぜつ)」 ⇒ 出典は『孟子』南方に住む蛮人が使う言葉はまるでギャーギャーとさえずる百舌鳥(もず)のようにやかましく、まったく意味が分からない
江戸時代、お互いの「地域的方言」が分からないのを解決したのが「謡曲(能楽)」という共通の教養であり、共通言語となった
身分の違いによる「社会的方言」を笑いの種にしたのが「落語」で、言葉が通じないちぐはぐさが「落語」の笑いの原点
1872年、政府が教導職を設置 ⇒ 言葉を含め、生活の根底にある思想を、西洋列強に対抗できる「近代」的なものにする機関。思想はキリスト教に匹敵する「一神教」とするため、「三条教則」と呼ばれる、「敬神愛国」「天理人道の明示」「皇上(こうじょう)奉戴と朝旨(ちょうし)遵守」の3つの標語を掲げ、教導職を通じて「社会的方言」の解消を図る

第2章        万年の同世代人と教育制度
名古屋から東京に出て府立一中に入学、同級の斎藤緑雨は早熟で文章や俳句に優れ仮名垣魯文の弟子となり、20代後半には樋口一葉を発掘
坪内逍遥(18591935) ⇒ 83年東大文学部政治学科卒。「文学士」で小説家になった最初の人。『小説神髄』(85)には英語を使った表現が非常に多い。逍遥は、江戸の文芸にどっぷり浸かりながら、漢文も習い、同時に若い頃から英語による教育も受け、「和漢洋の学」を身につけた学者
外来語、特に英語は必須で、英語によって万年と漱石は明暗を分ける ⇒ 81年そろって府立一中に入るが、東大卒業は万年が88年で漱石が93年。この差が新しい日本語を創る大きな力となっていく
万年や尾崎紅葉は変則(英語主体)だったのですぐに大学予備門(第一高等学校)に入学できたが、正則(一般の普通学)の漱石や露伴は、英語を追加で学ばねばならなかった
英語学校では、外国人教師に習うのが正則、日本人教師に習うのが変則
万年は東大教授に就任し、文部省「国語審議会」主任を兼務
明治の教育システムは、86年制定の4つの「学校令」によって、国家主義的教育制度が確立。その中心にいたのは森有礼、大木喬任、外山正一の3人 ⇒ 森は英語を公用語にしようと唱え、大学南校や帝大の授業はすべて英語でなされた
外国に留学しなければ「博士」になれず、「博士」でなければ定年まで帝大の教授職を続けることはできなかった
逆に、新島襄や内村鑑三は、日本語を話すことはできても、日本語の書物を読解できず、英語訳か、読んでもらうことで耳から理解した
明治維新の若者たちは、江戸以前の我が国の文化を存在しないものとしたいと考えた
こうした急先鋒の学者たちが集まって73年に「明六社」を結成。名前の由来は明治6年に創設されたこと。中心は森有。福澤、西周、加藤弘之、外山正一らが参加。日本語のローマ字化を主張
85年、欧化政策推進。その反動で国粋主義的動きが激化
00年、「読書」「作文」「習字」をまとめて「国語」という科目を作る ⇒ まだ標準語が確立する以前で、「日本語」はどのように変わったのか

第3章        日本語をどう書くか
当時の人々が目指した「言文一致」とは
表記と表現の2つの問題 ⇒ 逍遥は、晩年の随筆『柿の蔕(へた)』で、「新しい思想」を書くことができる文章として「新しい文体」が必要だと説いた
「徳川時代の旧文章」とは、「漢文」と「漢文訓読」の併用
明治維新でまず出てきたのは、漢字を廃止して、ひらがなだけで書いてしまえという主張で、漢字が1つの物に対して1つ作られることからどれだけ漢字を覚えても際限がないし、逆に1つの漢字でいくつもの意味を持つ場合もあるので、これまたきりがない
66年、前島密が徳川慶喜に奉った建議書で、漢字を全廃しアルファベットのように仮名を用いるべきと主張。同時に「談話」と「筆記」つまり「言」と「文」を一致させるようなものにしたいとしている
83年、「かなのくわい()」発足 ⇒ 会長は有栖川宮威仁親王。中心は肥田海軍少将
85年、「羅馬(ローマ)字会発足 ⇒ 中心は外山正一東大教授
新体詩の誕生 ⇒ 89年、森鷗外他による『於母影』にゲーテやシェイクスピアらの詩が漢字仮名交じり文で訳されて生まれる。こののち共通語としての日本語の普及になくてはならなかった「唱歌」もまた「新体詩」によるもの
「歴史的仮名遣い」の「書き分け」 ⇒ 大槻文彦編纂の初の近代的国語辞典「言海」(初めてアイウエオ順に言葉を並べた)では、旧仮名遣いで書きながら、隣に小さくカタカナで新仮名の振り仮名がふってある
例:あきな()()=
万葉仮名と呼ばれる漢字を使って日本語を書くことが始まったおよそ5世紀半ばから、日本語には常に発音と表記の不一致という問題が付きまとってきた ⇒ 9世紀後半、日本語を書き表すための「仮名」が発明されたが、それはあくまで「仮り」の文字であって、それが発音される日本語の言葉の音素をそのまま忠実に再現するというものではなかった
「仮名遣い」という言葉が使われたのは、初めて藤原定家が和歌を正しく書くためにはどうするべきかということを彼の美意識の中に取り入れようとしたとき、『新古今和歌集』が編纂された鎌倉初期、1200年頃のこと

第4章        万年、学びのとき
85年、万年は東大に入って「博言学(=言語学)」を学ぶ ⇒ お雇い外国人教師のチェンバレンから比較言語学を習うが、「日本語」とは何か、「日本語」に「文」を作るための法則が見いだせるか、と問われ、答えられなかった
イギリスの文典流に学んで、それまではただ読み書きしていた日本語を、名詞とか代名詞、接続詞、動詞等に分類し、「文」を作る法則を体系づけていった
86年、日本語の教科書に口語が入り、ようやく「日本語」を論じることができるようになる
8990年、学者としての道を歩み始めた万年は7本の論文を書く
『言語上ノ変化ヲ論ジテ国語教授ノ事ニ及ブ』では、我が国で西洋音楽の教育を初めて行い、『小学唱歌集』を編纂した伊沢修二が行った『本邦語学に就いての意見(国語の変化の法則を問い質した)』に対して、自らの見解を述べたもの
言語の定義は余程狭められて居って、「1人の口より発し、他人の耳に聞かるる音の一体にして、社会の人が各自の思想を通達するために符喋(ふちょう)として用いるものなり」
「今我が国では、文章をよく書く人はいるが、言語を正しく話す人はいない。それは語学というものがまだ確立していないから。思想を吐露し合い、理論を闘わせる世界とするためには活きた言語を教える必要がある

第5章        本を、あまねく全国へ
徳富蘇峰(18631957) ⇒ 明治から昭和初期まで言論界で大きな影響力を持っていた。特に明治前期の日本語形成にこの人ほど大きな影響を与えた者はいない
87年、「民友社」設立、雑誌『国民之友』を出版。漢文訓読体で書いた『将来之日本』は好評を博す。漢文体の名文は何冊ものベストセラーを生み、真実を伝えようとする心で人の感動を得ることができた

第6章        言語が国を作る
90年、万年はドイツに留学
グリム童話の作者、グリム兄弟はドイツ文献学、言語学の専門家。文字と発音の間には乖離するものがあると指摘、「音韻推移(グリムの法則)」を作る
発音がどのように変化してきたのかを調べることで、発音変化の原理を導き出そうというもので、1800年代初頭に、異なる言語間における単語を比較することによって、音韻変化の法則を導き出すという画期的な方法を見出すことに成功
1870年代半ば、プロイセンからドイツ帝国が生まれてくるに際して、「ドイツ語」は「国家」と「言語」の関係において非常に大きな問題となって人々に議論された ⇒ 万年のドイツでの研究も、「国家」と「言語」との関係を日本に当てはめて考えることができるかどうかであった
ドイツでは、1815年のナポレオン戦争後のウィーン会議で35の君主国と4つの自由都市からなる「ドイツ連邦」が成立、それぞれが異なる言語を用いていたが、「国語浄化運動」を通じて近代ドイツ語が作られ、「言語統制」を行っていた
「国語は帝室の藩屏なり、国語は国民の慈母なり」 ⇒ 「国語」という思想が必要

第7章        落語と言文一致
帝国議会の開催に当たり、録音のない時代、議員の言葉を記録したのは速記。「議会」と「速記」が結びつく媒介をしたのは落語 ⇒ 初代三遊亭圓朝の新作落語「牡丹灯籠」を速記で起こした人がいた。速記を使えば人の語りをそのまま文字にすることができることを証明
話す言葉をそのまま文字で起こすことができるというのは画期的なこと
日本の速記は、1872年頃、アメリカのグラハム式を日本語に応用する形で開発された
外国語で書かれた文章には口語と文語の区別がないことに疑問を抱いた二葉亭四迷(18641909)が、圓朝の速記を使って言文一致を行ったと公言
四迷が写実小説と呼んだ初めての言文一致体小説『浮雲』は、「~だ。」で終わり、山田美妙の『胡蝶』は「です」「ます」調、尾崎紅葉の『多情多恨』は「である」調で記される
四迷は、『浮雲』誕生の経緯を「懺悔」している ⇒ 逍遥から「圓朝の落語通りに書け」というアドバイスをもらって書いた
理想的な新しい日本語には、「和文」と「漢文」と、昇華された「東京弁」による3つの和音が必要だった

第2部        万年の国語愛
第8章        日本語改良への第1
94年、万年帰国。帝国大学教授就任(博言学担当)
帰国後の報告会で、「国家に一朝事ある秋(とき)に当たり、日本国民が協同の運動をなし得るは主としてその忠君愛国の大和魂と、この一国一般の言語とを有()つ、大和民族あるに拠()りてなり」とし、自らの責務として「言語の一致と、人種の一致とを、帝国の歴史と共に、一歩も其方向より誤りなく導く」こととした
「国語」という言葉は、「日本国の言語」という意味で現れてきたもの。自国語⇔他国語
日本語という母国語がどのようなものなのかを研究し、きちんとした日本語の教育を行っていく必要があることを力説
95年、雑誌『帝国文学』創刊 ⇒ 『早稲田文学』に対し、官学風・高踏的立場からの論説、詩藻(しそう)、雑録、文学史料などを掲載。1920年廃刊
印刷という技術は、言語の変化と不可分の関係にあった ⇒ 写本の段階では方言などの影響で揺れていた表記が、印刷によって一定のものへと次第に固定化されていく

第9章        国語会議
95年、福島県令三島通庸の部下村上の娘鶴子と結婚
97年、国字改良会発足 ⇒ 「国家」こそが言語に対して責任を持って対処すべきと主張
99年、長男誕生もあって、「言語=国家」という思想で、国民が「国語」という共通の言葉を持つためにはどうすればいいのかを考え始め、新しい日本語を子供たちに教えなければならないと考える
字音かなづかいを発音主義出統一する ⇒ 漢字を歴史的仮名遣いで書くのをやめて、発音しているように書く。話している言葉と書き言葉を一致させる(言文一致の基本)
「位」は、歴史的仮名遣いでは「ゐ」だが、発音通りに「い」と書く
「火」も「く」ではなく、「か」と書く
98年、文部省専門学務局長を兼務 ⇒ 学問と政治は不可分であり、特に教育という人を創るための根幹にあって、「国語」はその中心課題
仮名遣いには3種類ある ⇒ 国語仮名遣い、字音仮名遣い、訳語仮名遣い
2者は、歴史的仮名遣いに則っているが、訳語仮名遣いだけは音韻主義で発音の通りの音をそのまま書く
訳語仮名遣いとは、可能な限り発音に忠実に写していく方法 ⇒ スープ、ランプ
字音仮名遣いとは、漢字の発音を書いて、読むときは別の音になる方法 ⇒ 「王」を「わう」と書いて「オウ」、「怪」を「くわい」と書いて「カイ」と読む。遣唐使以来の伝統がある
漢字の読みを旧仮名遣いで書くのは、奈良平安時代に遡れば、「訳語仮名遣い」であるが、時代を経ることでとくに「字音仮名遣い」と呼ばれるものになる
国語仮名遣いは、和語を書くための仮名遣いで、遡れば万葉仮名以来の伝統があり、万葉仮名は基本的には「字音仮名遣い」によって発達
万年は、新しい「明治の日本語」を作るためには、歴史的な経緯や語源を知るための旧仮名遣いを残す必要はないと主張
99年、文学博士の称号授与
1900年、文部省の「国語調査委員」に任命 ⇒ 委員長は漢字廃止論者の前島密
同年、文部省の小学校令において、「読書作文習字を国語の1科にまとめ、仮名字体・字音仮名遣いを定め(表音式に改め、長音符号を採用)、使用する漢字を1200字に制限」した
98年、万年は「P音考」という日本語学史上画期的な論文を発表

第10章     文人たちの大論争
91年に医学博士となった鷗外は、文筆家としても華々しく活動 ⇒ 「国語」と「漢文」を融合して、新し言葉で文章を書くことを試みる
02年、『即興詩人』を刊行 ⇒ 経済学者小泉信三は、「和漢の文字をかくまで駆使することは誰にもできるものではなく、和漢洋文学の珠玉であり、日本文の至り得る極所を示した」と絶賛
漢文では「漢字」の多用があり、ヨーロッパからの新しい思想や技術を受容していくことが困難
当時は3種類の言葉が存在した ⇒ 和文脈、言文一致体、漢文体
和文は、万葉の時代より受け継がれてきた「やまとことば」の伝統があり、和歌はこの言葉で書かなければならない
漢文は、列強進出以前の東アジアの共通語で、公文書は漢文で書かなければならない
雅俗折衷体 ⇒ 漢文訓読体を基本に間々和語を交えて書く。『南総里見八犬伝』
言文一致体は、和文の上に誰でもが分かる漢語を使用。東京弁が基本
鷗外は、89年時点では口語体のように見えたが、90年の『舞姫』から突然雅俗折衷体に転じ、文豪としての文章力を披歴
「和文」と「漢文」の一番の弱点は、主語がないことであり、特に漢文には「過去」や「過去完了」「未来」を表わす助詞や助動詞もない
1900年、高山樗牛はドイツ留学の直前喀血して断念 ⇒ 万年の4歳下、鷗外の9歳下。『帝国文学』発起人の1人。『滝口入道』が入選していた
あらゆることに戦闘的で論争を仕掛けてきた鷗外が、ドイツの審美学史を正確に読解していないうえに、訳語難から翻訳した文章が意味をなさない例がいくつもあると樗牛に攻撃される
訳語難に対して、万年や樗牛は、漢語に訳せない言語を輸入することを勧めている
02年、樗牛逝去。享年31

第11章     言文一致への道
06年、万年は『文章世界』に論文を寄稿、将来の文体は必ず言文一致でなければならないと書く。言文一致こそ、国民的のもの、社会一般が用いる所の文体となり、和漢分は中流以上の人の楽しみとして残るだろうと予測
1900年、万年は「言文一致会」創設 ⇒ 前年設立された「言語学会」の中の組織
00年、文部省が小学校令施行規則にて新たに「字音仮名遣い」を定める
「い」も「ゐ」も「い」に、「なう」、「なふ」、「のう」はすべて「のー」に統一
06年は、言文一致の軸が大きく動いた年 ⇒ 「国字改良会」(95)、「国語調査会」(00)、「国語調査委員会」(02)と続く動きの延長
90年、國學院設置 ⇒ 政府が国学の研究・教育機関として設置した「皇典講究所」が母体。98年財団法人認可。27年に万年が学長就任。「言文一致会」の実質的な事務処理や働きかけを行う
三宅雪嶺(18601945)は、文部省で教科書編集を担当するが、薩長によって機能する明治の「公職」に対して激しい嫌悪を抱いていたこともあってすぐに下野して文筆業に転じ、「政教社」を設立、雑誌『日本人(後『日本及び日本人』と改称)』は徳富蘇峰の民友社の『国民の友』と並ぶ3大雑誌となり大きく社会を動かしていく
02年、万年は「国民教育と国語教育」と題しする論説を発表 ⇒ 「立憲」「実業」「開国」「科学」「文学美術」「宗教」の6つの方面から国民が知識を得るようにするためには「国語教育」が必要と説き、「いろは」順(電話帳)、「アイウエオ」順(大槻文彦の『言海』、帝国図書館の目録)もどちらかに統一すべきと説く。さらに、高等教育の予備的教育になっている漢文や古典の日本語を止めて今こそ新しい日本語が必要だと主張
「漢文」には最低限の文法はあっても、教授法もなく、「習うより慣れよ」的な要素が少なくなく、漢文、漢語、漢字はそれ自体、インド・ヨーロッパ語族の諸語のように事物の定義を正確に行うことができるという性質を持たない
万年は、女子教育についても、留学中イギリスで郵便電信事務に多くの女性がいたことをひいて、在来男子の専有の職業でも、男女の共有となるべきものが少なくないとしてき、「婦人三従」(儒教の経書『儀礼(ぎらい)』が出典、嫁せざれば父に従い、嫁しては夫に従い、夫死すれば子に従う)の時代は既に去って女子は男子に頼らずともその幸福を共有し得べきなり、と説いた
さらに「国民教育と国語教育」の最後には、開国して国際化を進める以上は、日本の言葉を早く統一して日本語を早く覚え、残りの時間で支那語や英語を覚えなければ、とても競争場裏に立つことはできない。その上で、イギリスのように、世界の国々で英語が使われているように、支那や朝鮮、インドに日本語を広めていかないと支那に吸収され兼ねないとして、国語問題は自国の国民を養成するためばかりでなく、日本の言葉を亜細亜大陸に広めていく上に大いに関連していると説く ⇒ 日清戦争で占領した台湾では日本語教育が行われていた

第12章     教科書国定の困難
72年の学制頒布以来、教科書は「国の治安を脅かし、風俗を乱すようなものでなければどういうものでもよい」としてきた
02年、教科書を巡る疑獄事件 ⇒ 文部省の検定図書選定の際の収賄事件で、これを機に03年から教科書が「国定」となる
08年、義務教育の年数が4年から6年に延長、就学児童数は10百万に増え、教科書の発行冊数も60百万を超える
06年、漱石の『猫』の1節が『女子国語読本』に採録され、以後45年まで11作品が484件採録 ⇒ 漱石の言葉が日本語に大きな影響を与えたことは十分考えられる

第13章     徴兵と日本語
04年までに、国字国語改良はほぼ完了
日露戦争勃発に際し、徴兵、訓練、実践においては武器と同様「言葉」が必要
全国から集められた「兵隊」が同じ言葉を使用することなしには、戦争はできなかった

第14章     緑雨の死と漱石の新しい文学
04年、緑雨の死は、「江戸」という時代への幕引き
漱石の文体は、万年が望む言文一致体で、万年等の努力もあって教科書調査委員会を通じて教科書の読本に採用され始める
鷗外の文体は、永い和文様式の伝統と歴史の中にあってまったく孤立
鷗外が敬遠され、漱石が歓迎されるのは、文学作品の内容や人間性ではなく、文体が大きくものを言っている気味がある
鷗外が文学的正確さを貫き通そうとしたのは、彼が「田舎者」だったからではないか。その点、漱石は暢気に構えていた
漱石の気易い文体が後に残ることになったのは、日本人の心性そのものではなかったか

第15章     万年万歳 万年消沈
01年、貴族院にて言文一致の請願 ⇒ 我国の言語文字は繫雑にして習熟に困難、言文一致を国家事業とされたし
02年、国語調査委員会が調査方針を決議公示 ⇒ 文字は音韻文字、文章は言文一致体とする
05年、新仮名遣い改定
08年、臨時仮名遣調査委員会設置 ⇒ 岡田次官、鷗外、伊沢修二らが反対して新仮名遣い不採用となり、万年は委員会主事の辞表を出す

第16章     唱歌の誕生
新しい音楽を移植するためにアメリカから雇われ外国人として、80年に来たのがメーソンで、彼によってプロテスタントの讃美歌が持ち込まれ、日本に根付く「教えである唱歌」として学校で歌われる歌に転換された
81年、音楽取調掛長伊沢修二によって『小学校唱歌集 初編』発行 ⇒ 小学校教育においては、特に「徳」を養う場合に音楽が有効。ほとんどが讃美歌かそれをわずかに書き換えたもので、歌詞は日本人によって変体仮名を使用してつけられた
小学校からの教科書に音楽を取り入れたのは伊沢修二(18511917)。万年とも親しい
日本最初の唱歌の多くは、賛美歌を歌わせるために子供の音感を改造しようとしたキリスト者と、天皇の忠実な民に仕立てようとした天皇側近の儒者たちとの、互いに相手を無視した合作。キリスト者は曲を取り、儒者は詞を取った
87年頃から、言文一致唱歌運動が起こる
05年、漱石が、『猫』の第1回を載せたのと同じ号に『童謡』を発表している
「童謡」という言葉は、もともと中国の『漢書』や『後漢書』で使われている社会的批判の声を言う「わざうた」という意味で、日本でも明治時代まで使われてきた。子供の歌という意味でも江戸時代に使われたが、意識して書いたのは漱石が初めて。門下に児童雑誌『赤い鳥』を創刊した鈴木三重吉がいる
万年は、歌舞伎や浄瑠璃など日本の歌舞・演劇にとても詳しく、その研究を手伝ったのが高野辰之だが、文部省が初めて「文部省唱歌」を編纂した際、日本人が作った27曲のうちの何曲かは高野の詞で、東京音楽学校教授岡野貞一との名コンビが誕生
84年頃から始まった言文一致運動は、10年に創られる「文部省唱歌」によって、唱歌という最も子供に親しみやすい形として日本全国に伝えられていくことになる
レコードと蓄音機という新し技術が我が国でも開花し、国産品が作られてこの動きを加速させる
14年、「尋常小学唱歌()に、高野作詞、岡野作曲の《故郷》が載せられる

第17章     万年のその後
35年、師チェンバレン死去
万年はあまり師のことを書いていないし、むしろ批判的
漱石の文体は、「木曜会」にいた弟子たちによって引き継がれる ⇒ 内田百閒、寺田虎彦、野上弥生子、安部能成、芥川龍之介、久米正雄らに引き継がれ、その後の「日本語」が作られる
万年も「国語研究室」を通じて多くの人を育てる ⇒ 橋本進吉、講談社の野間清治
末娘・富美(円地文子:0586)が評価されるのは60年以降だが、その頃になってやっと「言文一致」が本当の姿を見せたのではないか
37年、万年死去、享年70
円地文子は、父を太陽と仰ぎ、自らの全集の解題にも、「全巻すべて新字体・現代仮名づかいの表記法を採用する」と記して、父に対する思いを表している



2016.5.1. 朝日
(書評)『日本語を作った男 上田万年とその時代』 山口謠司〈著〉
 現在、江戸時代の和本をすらすらと読める人の数はそう多くない。文章はむずかしく見え、それ以前に文字が読めなかったりする。
 このむずかしさは、明治大正時代の本を読むときのむずかしさとは格段に違い、日本語に激変が起こったことがうかがわれる。
 副題の上田万年は、この激変期に活躍した国語学者、言語学者。国として日本語のあり方を検討しなければいけない時代に彼は生まれた。
 本書の話題は、方言や、かな遣い、漢字廃止論、言文一致など幅広く、それをめぐる学者や作家たちの議論を紹介する。上田万年の伝記というよりは、それぞれの話題に上田万年が顔を出すという形である。
 美しい日本語をつくるといっても、その整理にこれだけの分野の人々がかかわってくるのが見所(みどころ)である。
 時代というものの大きさは、これだけの厚さをもつ本書であっても、まだそのほんの一部を眺めることができただけであることからも知れる。
 円城塔(作家)
     *
 『日本語を作った男 上田万年とその時代』 山口謠司〈著〉 集英社インターナショナル 2484円


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上田 萬年(うえだ かずとし、18672月11慶応31月7 - 1937昭和12年)10月26)は、日本国語学者言語学者東京帝国大学国語研究室の初代主任教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めた。小説家円地文子の父。教え子に新村出(『広辞苑』の編纂者)橋本進吉金田一京助亀田次郎らがいる。また、文部省専門学務局長や、1908に設置された臨時仮名遣調査委員会の委員等を務めた。1908帝国学士院会員。
生涯・人物[編集]
1867年(慶応3年)、尾張藩士の息子として江戸大久保(現在の東京都新宿区)の尾張藩下屋敷で生まれる。名は「かずとし」と読むのが正式であるが、本人は「まんねん」という読みも採用しておりローマ字 Mannen というサインも残されている。
東京府第一中学変則科(現・都立日比谷)の同期には、澤柳政太郎狩野亨吉岡田良平(京都帝大総長、貴族院議員)幸田露伴尾崎紅葉らがいた。またこの頃、教育令改正のため、のちに第一中学から新制 大学予備門へ繰上げ入学した。その後、1888明治21年)帝国大学和文科(のちの東京帝国大学文科大学)卒業。在学中はバジル・ホール・チェンバレンに師事し博言学(「博言学」はPhilologyの訳で、「言語学の当時の呼び方」とするのは少しずれる)の講義を受けた。卒業後大学院に進み、1890(明治23年)国費でドイツ留学ライプツィヒベルリンで学び、さらにパリにも立ち寄って1894(明治27年)に帰国する。留学中、東洋語学者のフォン・デル・ガーベレンツに出会い薫陶をうけた。またユンググラマティケル(青年文法学派)の中心人物、カール・ブルークマンエドゥアルド・ジーフェルス授業を聞いた。サンスクリット語の講義も受けている。
帰国後、東京帝国大学文科大学博語学講座教授に就任、比較言語学音声学などの新しい分野を講じ、当時古文研究にかたよりがちであった日本の国語学界に、近代語の研究、科学的方法という新風をふきこんだ。
1899(明治32年)文学博士号取得。東京帝国大文学部長等を経て、1919(大正8年)から1926(大正15/昭和元年)まで神宮皇學館(現・皇學館大学)館長兼務、1926(大正15/昭和元年)から1932(昭和7年)まで貴族院帝国学士院会員議員1927(昭和2年)東京帝国大学(東京大学)を定年退官し、1929(昭和4年)まで國學院大學学長を務めた。1937年(昭和12年)、直腸癌のため死去[1]
明治期に日本語そのものが大きく動揺していた中で、西洋の言語学を積極的にとりいれ、また日本の国学の伝統を批判的に継承して、標準語仮名遣いの統一化に尽力した功績は大きい。その一方で彼の強力な統一思想は明治後期から現代に至るまで150年以上に渡る方言廃絶主義を国家の教育として推し進める原点となり、沖縄の罰札制度に代表されるような非標準語地域の人々の心理的圧迫や、国家の言語の多様性を失わせる結果となった。[誰?]
文部省著作の「尋常小学唱歌」の歌詞校閲担当者の一人であり、今日著名な高野辰之よりも権限が大きい立場での校閲者であった。東京(江戸)生まれでドイツ留学という点で、「尋常小学唱歌」作曲主任であった東京音楽学校島崎赤太郎教授とは標準語のアクセント重視という点で気脈を通じていたと考えられる[誰?]
上田万年が行った言語研究の中での最大の功績は、1901にドイツで行われた正書法を日本の言語政策に応用しようとした点である。 旧仮名遣いの混乱を質すために、すでに明治維新以来「言文一致」への移行が必要なことは誰の目にも明らかだった。1901上田万年は、言語学会などを立ち上げながら、明治期にできる最新の方法で「言文一致」の表記を勘案した。長音記号の「−」の採用、また1903発行『仮名遣教科書』に見える新仮名遣い(これを「発音式」と呼ぶ)などがこれである。 この仮名遣いは、文部省内においても、初等教育での教科書にほとんど採用の予定であったが、岡田良平森鷗外など旧仮名遣いに固執する人々による運動の末、1907に貴族院が発音式から歴史的仮名遣いに改正すべき建義案を文部大臣に提出、また1908臨時仮名遣調査委員会第四回委員会での森鷗外による「仮名遣意見」によって完全に消滅する。 上田万年が日本の言語学及び国語学において果たした役割は大きい。それは多くの研究者を幅広い分野において育てたこと、また明治以降の実践的日本語教育を行う際の発音式仮名遣いへの争点を明らかにしたことである。
歴代國學院院長・國學院大學学長


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