明治維新という過ち  原田伊織  2016.2.26.

2016.2.26. 明治維新という過ち 【改訂増補版】
 ~ 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト ~

著者 原田伊織 クリエイティブディレクター。昭和21年京都・伏見生まれ。近江・佐和城下、彦根城下で幼少年期を過ごし、大阪外大を経て広告、編集制作の世界へ

発行日           2015.1.15. 第1刷発行                 15.11.25. 第17刷発行
発行所           毎日ワンズ

前年8月の二水会推薦図書


はじめに
今の社会が危険な芽を孕んでいるのは、「近代」といわれる時代に入ってからの日本人が過去に遡って永い時間軸を引くという作業をしなくなったことが深刻に関わっている
敗戦に至る過ちを「総括」するということをやっていない
俗にいう「明治維新」の時も全く同じで、それまでの時代を全否定し、ひたすら欧化主義に没頭、その挙句に吉田松陰の主張した対外政策に忠実に従って大陸侵略に乗り出した
明治維新こそは歴史上、無条件に「正義」であり続けたが、果たしてそうなのか。幕末維新に関わる歴史とは、あくまで薩長による勝者の歴史
坂本龍馬にしても、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』が龍馬の実像だと信じ込まれているが、実際は麗しき誤解があまりに多いことが分かっている  ジャーディン・マセソンの長崎(日本)代理店であるグラバー商会の手先に過ぎない
歴史の実相を明らかにするには、多くを先人に学ばなければならないし、史実を知ろうとする場合には細心の注意が必要
往時を生きた生身の人間の息吹を己の皮膚で感じるという地道な作業の果てに、「明治維新」という無条件の正義が崩壊しない限り、この社会に真っ当な倫理と論理が価値を持つ時代が再び訪れることはない

第1章        「明治維新」というウソ
もともと大和民族は、多元主義的な生態を維持してきた
長州・薩摩の下層階級が最初にかぶれた思想とは実に浅薄なもので、単純な平田派国学を旗印に掲げ、神道国教・祭政一致を唱えたが、これは大和民族にとっては明白に反自然的な一元主義であり、ここへ国学の亜流のような「水戸学」が重なり、事の成就する段階で高揚する気分のままに気狂い状態に陥ってしまった
明治維新の動乱期に、廃仏毀釈の名のもとに、日本の伝統文化・芸術の根幹を担ってきた日本の仏教は、宗教としても文化的価値としても徹底的に弾圧された
官軍による歴史認識・歴史教育の最たるものは、当時の実態から著しく乖離した「勤皇」=「尊王攘夷」という解釈であり、「志士」はテロリストそのもの
幕末に力を得てきた国学諸派が唱えたのは、幕府による全国統治は天皇が将軍家に委任したものであるという大政委任論であり、孝明天皇も「尊王佐幕派」の代表。薩長が唱えた「尊皇」はテロ活動のための「大義名分」に過ぎない
テロを手段とした討幕が成功しなかったとすれば、徳川政権が江戸期の遺産をうまく活かして変質し、国民皆兵で中立を守るスイスか自立志向の強い北欧3国のような国になっていたのではないか。少なくとも吉田松陰の主張通りに大陸や南方侵略に乗り出すこともなく、挙句に大東亜戦争という愚かな戦争に突入して国家を滅ぼすことだけは断じてなかったであろう
「大政奉還」と「王政復古」の実相  尊王佐幕派が主導権を握る朝廷内にあって、薩摩の大久保が討幕派の下級公家・岩倉具視を唆して天皇、摂政の署名もなければ花押もない偽の勅許(偽勅=討幕の密勅)作る。薩長による天皇の政治利用はここから始まる。偽勅とは知らないまま勅許が出たことに驚いた徳川慶喜は慌てて大政奉還に動く
幕末の3傑とは、岩瀬忠震、水野忠徳、小栗忠順。川路聖謨を加えて4
1842年には『薪水給与令』を発布し、1825年から施行されてきた「異国船打払令」を完全否定し、対外政策を実質開国へと180度転換していた
1797年以降、アメリカの交易船が13回も長崎に来航しており、ペリーが初めてではない
1846年には、アメリカ軍艦2艦が浦賀に来航し通商を求めたが、幕府は拒否している
幕府の大政奉還に伴い公武合体が現実味を帯びるのに対し、岩倉・大久保がとった次の手がクーデターで、186712月薩摩以下、土佐、安芸、尾張、越前の5藩によって御所の9門が閉鎖され、岩倉具視が天皇に「王政復古」の大号令を出させた
クーデターは失敗に終わった  土佐をはじめとする佐幕派が岩倉のやり方に反発して内部分裂となり、一方の慶喜も諸外国公使を味方につけ「王政復古の大号令の撤回」を要求したため、偽勅による幕府転覆の策謀は未遂に終わる
紛糾した御前会議の模様を聞いた西郷が、「短刀1本あれば片がつく……」といって、暗に反対派の山内容堂を脅かしたことは、後々昭和の極右勢力にまでつながる問答無用の事の進め方だった
クーデターに失敗した薩摩は、「赤報隊」という組織を作って江戸で佐幕派諸藩の挑発に乗り出し、それを阻止するため幕府は庄内藩に「江戸市中取締」を命じるが、激化するテロに庄内藩の堪忍袋の緒が切れ、薩摩藩邸焼き討ちとなり、さらに薩摩討つべしとの「討薩表」を朝廷に出そうと幕府軍が朝廷に向かうところを薩摩が襲ったのが鳥羽伏見の戦いの引き金であり、さらには戊辰戦争へと発展

第2章        天皇拉致まで企てた長州テロリスト
薩長による江戸体制の破壊は、下級武士中心なるが故の酷い下劣な手段であり、明らかな反政府運動(賊軍)だったが、勝つために朝廷を担ぎ、脅かし、利用して、決定的な勝利を勝ち取る  勝てば官軍
1870年 追われた会津藩士は松平容保の後を継ぐべく幼君を抱いて、下北半島の「斗南」まで落ちて立藩するが、寒土とさえ呼べないくらいの荒涼とした土地で、多くの餓死者を出し、塗炭の苦しみを味わったが、そもそもの始まりは会津藩が京都守護職を押し付けられたところから始まり、長州のテロ集団に徹底的に押しまくられ、挙句の果てが戊辰戦争の敗戦へとつながる
武家とは、「武士道」と呼ばれる「精神文化」の担い手であり、具現者。この、世界的な普遍性を持つ極めて日本的な精神文化は、江戸期に精緻に完成したが、あくまで武家の専有文化であり、農民や商人には直接には生き様としての関わりを持たない
長州のテロリストの大半は、下級武士であり、武家の倫理観とは縁遠い出自の者であったことが、テロの残虐性を物語っていると同時に、かれらが唱えた「攘夷」もテロの名目に利用されただけのもの
著者は、主として倫理性という観点から長州テロリストの犯罪を列記し、145年にわたってそれを包み隠してきた「官軍教育」を否定しようとする
いったんは池田屋騒動で京を追い払われた長州だったが、「蛤御門の変」で巻き返し、御所を攻撃するという暴挙に及ぶ

第3章        吉田松陰と司馬史観の罪
幕末動乱の人物像は悉く脚色されているが、吉田松陰ほどその度合いの激しい例も珍しい
乱暴者の多い長州でも特に過激な若者の1人に過ぎない。もともと下級武士だったが、度重なる無法に藩自身が手を焼き、士籍を剥奪、家禄を没収している
松下村塾も、陽明学者の玉木文之進(乃木の弟が養子となっている)の私塾であり、松陰はその塾生。松陰の処罰の煽りで、玉木は藩の職を追われている
松陰が安政の大獄で処刑された際も、井伊は長州藩に意向を聞いたところ、「松陰の行動は暴発であり、斬首やむなし」だったという。その松陰を「師」として崇めだしたのは、御一新成立後しばらくたってから、足軽以下の中間を出自とする山縣有朋が自らの拠り所として言い出したもの。現実に、松陰の思想があったとしても、将来に向けて何の展望もない虚妄に近いものだったし、外交思想に至っては実に稚拙なもので、「大和魂」によってカムチャッカから満州、台湾、フィリピンまで領有すべきというもの。恐ろしいのは、その後の日本がその道を歩んで国家を滅ぼしたという事実を我々日本人が体験したこと
明治維新から昭和にかけての軍国日本の侵略史を、御一新の時点から一貫してなぞって振り返ってみるという作業を怠ったらなければ、吉田松陰の神格化や、坂本龍馬の虚像がはびこることも、致命的な欠陥を含む司馬史観なるものが歴史観を支配することもなかった
「維新」至上主義の司馬史観の罪  「御一新」が成立した後の新政府(太政官政府)の腐敗に怒り失望して下野した西郷の心情を分析しながらも、結局はやむを得ないステップの1つとして比較的あっさりと切り捨て、その後の明治政府の清廉さを強調。日露戦争から太平洋戦争の敗戦までの40年間を「異胎」と呼んで、日本史として「連続性を持たない時代」と規定するが、民族の歴史に連続性がない時代などありえようはずもなく、その「異胎」こそが「いわゆる明治維新」の産物であって、歴史に学ぶことを自ら放棄している

第4章        テロを正当化した「水戸学」の狂気
「明治維新」という名の事件なり、事変というものは歴史上どこにも存在しない
長州のテロリストが拠り所としたのは「水戸学」
水戸学精神が、「昭和維新」の名のもとに昭和に入ってから再び燃え上がった
大正末期から昭和初期にかけて、深刻な戦後不況と国際摩擦を背景に、明治維新への回帰運動が活発化。五・一五事件や二・二六事件に典型的に表れた極右勢力による「維新」騒ぎが誘因となって、幕末動乱期への回帰心理から「明治維新」という言葉が一般化
もともと「維新」という言葉そのものが水戸学(藤田幽谷)が生み出したものであり、戦前の陸軍がよく振りかざした「国体」という言葉も水戸学の産物
昭和維新の精神的支柱は北一輝であり、大逆事件(1910)以前の日本を理想国家とする
水戸の2代藩主光圀の公家好きというか、"公家かぶれが「尊皇」に結びついて、後世薩長政権になってから光圀が誤って見直され、それが今に伝わる「水戸黄門」を生んだ背景となる。公家かぶれから、中国思想にあった「尊皇斥覇」を知って、そのまま日本に当てはめたのが『大日本史』につながる
水戸の攘夷論の特徴は、誇大妄想、自己陶酔、論理性の欠如に尽きる。その傾向は後の長州軍閥にそのまま継承される
官軍教育によれば、幕府の鎖国を打破して日本の近代化を成し遂げたのが「明治維新」だと説くが、「鎖国」という言葉自体幕閣が使いだしたのは幕末になってからの事。現実は幕府による貿易管理のことで、江戸期を通じて「4口」と呼ばれる貿易窓口が存在、長崎口、対馬口、薩摩口、蝦夷口がそれで、それ以外にも財政難に陥った多くの藩が密貿易を続けていたのも事実
『大日本史』が犯した歴史改竄の例  神功皇后を実在の皇妃としたり、「壬申の乱」で敗れた大友皇子を勝手に即位させ、弘文天皇という諡号(しごう)まで創っている

第5章        二本松・会津の慟哭
戊辰戦争とは、1868年鳥羽伏見に始まり日本各地で行われた武力による旧幕府勢力を掃討した戦いの総称
大久保利通が、革命成就のためにあえて武力の行使にこだわったとして評価されるが、これは誤り。また、官軍の近代化された装備が幕府軍を圧倒したというのも、二本松戦争以降の奥羽での戦闘においては正しいが、初戦では幕府軍のほうが圧倒的に兵站では勝っていたが、肝心の指揮官が自ら戦場を放棄したのが敗因
鳥羽伏見に始まり箱館で終わるが、その過程で最も悲劇的な事態が起きたのは二本松と会津
二本松は丹羽家の10万石、武家数354家。奥州街道を会津に向かう薩長軍に対し、少年隊を含め全員が玉砕したのは二本松藩ただ1藩のみ
奥羽鎮撫軍の実質的な権限者は薩長の下級武士で、彼らの武家の倫理性に欠けた振る舞いが純朴な奥州諸藩の侍の心を逆なでしたことから、薩長軍による会津・庄内藩討伐への派兵を求められた奥羽列藩が反抗したために戊辰東北戦争となったのが実相
会津・二本松と同様に官軍に抵抗した代表格が、楢山佐渡(家老)の南部藩や、河合継之助の長岡藩で、長岡藩も焼き尽くされた
勝敗を分けたのは兵站、特に重火器の威力の違い。と同時に31藩による奥羽越列藩同盟の中の裏切りが決定打となる。最初に裏切ったのは三春藩で、明治以降両者の婚姻は成立せず、平成の大合併(05)でも合併は実現しなかった
次いで秋田藩の「裏崩れ」といわれる裏切りで、戦闘中の後方にあった秋田藩が寝返る
奥羽列藩と会津による様々な止戦工作は、会津全群の百姓による松平容保父子の除名嘆願書まで出されたが、いずれも鎮撫軍の長州出身指揮官に拒絶され、最後まで戦った挙句、官軍によって暴虐の限りを尽くされた  会津残党が幼君を抱いて落ちた先が南部盛岡藩の一部だった下北半島で、半島の大半と十和田湖の東の村を併せて斗南藩3万石を立藩。1年後の廃藩置県で斗南県となるが、すぐに北海道の一部を加えた弘前県となり、直後に名称を青森県と変更。鉄のとれる下北と米のとれる津軽が合併

第6章        士道の終焉がもたらしたもの
近代日本の思想的先駆とされる福澤諭吉は、1901年時事新報に『丁丑(ていちゅう)公論』を書いて、西郷を排除した政権を非難している。人が権力を握れば必ず腐敗するが、その時「抵抗」することが肝要なのだと説き、西郷の「抵抗の精神」を評価
福澤自身が「武士」であり、「武士」の精神を高く評価。福澤自身のアイデンティティとは、自分が武士であるという点にある
薩摩人にとっての美意識とそれを具現する薩摩武士も西南の役で死滅  司馬遼太郎も『街道をゆく――南伊予・西土佐の道』の中で、「我々が持続してきた文化は、弥生時代に出発して室町で開花し、江戸期で固定、明治後崩壊を続け昭和40年前後にほぼ滅びた」と言っている

あとがき
官軍の後付け史観のみを押し付けられて、それを無条件に信じるだけで一度もその適否、是非、功罪を検証していない
「新時代」「近代」と、時代が下がることがより「正義」に近づくと錯覚していないか
「近代」は「近世」=江戸時代より文明度の高い時代だと誤解していないか
長州・薩摩政権の書いた歴史を物差しとして時間軸を引いているが、そもそもその物差しが狂っていることに、いい加減で気づくべき。そのためには幕末動乱以降の出来事をすべてそのまま、飾り立てなく隠すこともなく、正直にテーブルの上に並べてみるべき











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