志賀直哉、映画に行く  貴田庄  2015.4.23.

2015.4.23.  志賀直哉、映画に行く エジソンから小津安二郎まで見た男

著者 貴田庄 1947年弘前市生まれ。著述業(専門は、映画、書物史、美術・文学)。早大大学院修士課程修了。芸術学専攻。7781年パリ留学。装飾美術書物中央校装丁科修了

発行日           2015.2.25. 第1刷発行
発行所           朝日新聞出版

知られざる映画ファン、志賀直哉はどんな映画を見ていたのか。贔屓の俳優や好きな作品は? また、『赤西蠣太』や畢生の大作『暗夜行路』といった、自らの作品の映画化をどう見ていたのか。
日記に残された地名や映画館を手掛かりに、当時の日本各地の新聞広告を辿る。すると、志賀が生涯を通して頻繁に映画館に通い続け、様々なジャンルの作品を見ていたことがわかる。しかし、志賀は映画に関する文章を殆ど発表しなかった。彼は映画という文章化できない芸術をただ純粋に〈パスタイム〉として愛した。
活動写真が娯楽の王様だった明治の終りから映画産業の黄金期を経て、衰退してゆく昭和30年代半ばまでおよそ70年、映画を見尽くした文学者による、かつてない「観客の映画史」

まえがき
志賀直哉は知名度の高いわりに、そして若い時から小説を書き始め、88歳という年齢まで生きたわりに、寡作な小説家。しかしその一方で、小説以外の多くの言葉を残した
彼の残した大部の日記が、無類の映画好きを示している
東京では浅草ロック、有楽町界隈、渋谷駅周辺などの映画館で、関西では京都新京極や大阪道頓堀などの映画館で、さらには奈良や熱海の映画館でも数多くの作品を見ている
映画が、長い間文学より下にあると見做されていたことは確か。特に邦画の場合、太平洋戦争が終わる頃までは、フィルムの質が悪く、撮影するキャメラやスタジオの設備などが劣っていたこともあってそう見做されていた。志賀自身もそう考えていたが、戦後になると状況が変化。「映画だって立派なものは芸術だと思うし、なまじっかなものよりいいものがある」と言っている
本書では、志賀の日記を基として、映画をこよなく楽しんだ志賀直哉像を多角的に描いてみたい
本書で目指すのは、志賀直哉という作家が体験した、極めて個人的で、偏頗(へんぽ)な観客の映画史

第1部        活動写真の時代
l  志賀直哉の日記
1904.1.1.(21)1960.2.21.(77)
永井荷風の『断腸亭日乗』に比べて知られていないのは、断片的で、欠落している年月が多いから
出版社の当用日記や手製のカレンダーに書き込まれた覚書と呼ぶ方がいいような内容
l  エジソンの映画と神田錦輝(きんき)
原節子の映画を多く見ている
1950年 原との対談で、1897年に神田でエジソンの発明した活動写真を見たと話している  日本で公に映画が上映されたのはその前年で、エジソンの「キネトスコープ」という「覗き眼鏡式映写機」といって、11人が箱の中にある動く映像を覗き見るもの
実際に志賀直哉が見たフィルムは、1本十数秒の短編集
l  團菊の「紅葉狩」
谷崎や川端も若き日に映画病に罹っている
谷崎は、192030代半ばで、大正活映の脚本顧問となっている
川端は、20代後半のとき、衣笠貞之助が製作・監督する新感覚派映画連盟に脚本家として名を連ねる
志賀は、映画製作には直接関わっていないが、文壇屈指の映画ファンだった
日本人の撮った活動写真の中で、フィルムの現存するものとしては最も古い「紅葉狩」も見たと、19042月の日記にある  学習院中等科の時に2度落第しているので、この時21歳で、まだ学習院高等科に進学したばかり
この頃志賀直哉は、内村鑑三の家に出入りして、彼の説教に耳を傾けている
「紅葉狩」は、上映時間6分ほど。日活による團菊の名狂言の映画化で、映像資料として初の国の重要文化財となっている  同名の謡曲を基に、河竹黙阿弥が脚色、9代目團十郎が振付けした歌舞伎の実写で、撮影したのは柴田常吉
l  日露戦争活動写真
揺籃期の活動写真は、繁華街の様子、外国の見知らぬ事物などを実写したものが大半であり、日露戦争は格好の題材となり、日本の映画界は戦争の活動写真特需の恩恵に与った
1904年封切りの作品は20本、内日露戦争以外の題材は2本のみ
日露特需に活動写真の将来性を見抜いたのが関西の横田永之助の横田商会、梅屋庄吉のM・パテー、河浦謙一の吉沢商店で、洋画の輸入や邦画の製作に積極的に打って出る  彼等が梅屋を中心に協力して1912年設立したのが日本活動写真(将来の日活)で、向島に撮影所を建てる
志賀は、内村の影響下にあって、戦争を嫌悪、特に兄弟のように親しくしていた伯父が徴兵され日露戦で負傷したことで深く傷つく
本人は、1910年の徴兵検査で甲種合格となり、市川の砲兵連隊に入隊するが、耳の疾患を捏造して常後備役免除となる
父親は、ふしだらな生活をしていると映る息子を鍛え直してほしいと思っていたらしいが、その安価な態度に志賀は腹を立て、日記のみならずそっくり後の小説にも書いている
そんな考えの持ち主だけに、戦争に関する「活動写真は皆偽り」と書いたのも当然で、讃美することなど到底ありえない
l  浅草電気館
1903年 電気館が日本初の常設映画館として浅草六区に開業
志賀の日記に浅草での映画鑑賞が初めて登場するのは1908年。いずれも電気館
活動写真が「映画」に代わるのは、大正時代になってから。言葉の発案者や時期は不明だが、谷崎が魁の1
l  浅草六区と吉原炎上
1911年 「白樺」の同人としてみなければならない作品『トルストイの葬式』を見て感激
同年4月の吉原の大火も実写で見る  1909年辺りから里見弴らと頻繁に吉原に通い、10年には花柳病に罹って治療しているほどで、大火の際も馴染の女の身を心配
l  怪盗映画『ジゴマ』
志賀の映画の見方は、気に入ったものなら何度も見るもので、洋画の名作とされるフランスの『ジゴマ』、アメリカの『愚なる妻』、イギリスの『赤い靴』などは日記にも何度も出てくる
悪党礼賛で稚拙な物語の『ジゴマ』は、社会現象として一世を風靡、志賀も追っかけのようにして見まくったが、青少年に悪影響を及ぼすとして上映禁止に追い込まれた
l  『ハムレット』考
志賀の短編に、芝居を見たことがきっかけとなって書かれた作品『クローディアスの日記』がある(『白樺』19119月号)  『ハムレット』に登場するクローディアスの心裡を、反ハムレット的な立場で書いた作品で、文芸協会の興行を見て思い立つ。東儀鉄笛(早大の校歌の作曲者)の扮するクローディアスに好感を抱き、他方ハムレットの軽薄さに腹を立て、主人公を入れ替えた短編を書いたが、何年かして同名の活動写真を見てハムレットを見直し、『ハムレットの日記』を書こうとしたが挫折
l  旅する作家
志賀が長く住んだ地は、麻布、安孫子、奈良、世田谷新町、熱海、渋谷となるが、いずれも日記から判断すると、映画館に通えるところ
引越し魔で、生涯23回の引越し  私小説作家にとって住環境の変化は創作の大きな糧だが、裕福だったことも手伝う
併せて1960年頃までの志賀の人生は旅する人生でもあった
l  時任謙作の見た映画
大正時代は、映画の進歩もあり、映画鑑賞は志賀にとって最大の〈パスタイム〉となる
『暗夜行路』に登場する1本の映画  主人公が新京極で、将来結婚することになる娘と出会ってひと目惚れしたときに見た映画として書かれているのが『真夏の夜の夢』を現代化したドイツの映画。該当箇所を書いたのは1921年秋と推測され、それまでに封切られた該当する映画は14年封切りの同名の作品
時任謙作こそ、志賀自身の「若き芸術家の肖像」なのだ
l  3度見た『愚なる妻』
1922年 電車事故の怪我の養生のため城崎温泉に滞在する
翌年、一家を上げて我孫子から京都に引越し、動機は不明
『愚なる妻』の封切りは23
l  芥川君のこと
志賀の作品に憧れ、その人柄を敬愛した小説家は数多くいる。芥川龍之介もその1
芥川は、漱石門下だったが、24歳の時漱石が急逝、優れた小説を書く先輩作家といった志賀を讃美、特に褒めたの漱石も高く評価した短編集『留女』(祖母の実名)
「志賀作品は何よりも先にこの人生を立派に生きている作家の作品」とまで書き、人生を清潔に生きている作家と評価している
1927年 芥川の自殺について志賀が『沓掛にてー芥川君のことー』と題して、芥川との出会いを中心に彼の思い出を書き残している  当時志賀は奈良に住み、妻の養生を兼ね一家で避暑に沓掛に来ていた
2人の出会いは7年前、浅草の活動小屋
志賀は弱い人間が嫌いで、ましてや自分が死ぬのに女まで道連れにすることに我慢がならず、乃木の自殺を何度も日記で非難しているし、有島武郎の人妻との情死も腹立たしく思ったが、芥川の訃報を聞いた時は何故か「仕方がない事だった」というような気持がした、根拠はないが不思議にそういう気持ちが最初に来た、と書いている  芥川が死の直前、妻の友人と心中する約束をしていたが未遂に終わったことは知らなかったはず
l  奈良日誌周遊
1925年 奈良に一家を構える  当時の日誌が戦後発見され、『奈良日誌』と題して出版された。2538年のうち26年初頭の3.5か月分のみが対象
あとがきで自身が書いているように、「大抵3,4か月で中断するし、家人に読まれても不快に感じられるようなことは書かない、検閲の恐怖は何時何所にでもある」というのが、志賀の日記に欠落の多い原因


第2部        映画三昧の時代
l  サイレント映画からトーキー映画へ
1930年前後から、トーキーになって字幕が付く  最初のトーキー映画は1929年封切りのウェスタン映画『レッドスキン』
映画館では、東京の邦楽座と武蔵野館がトーキー設備のある最初のもの
1931年封切りの『モロッコ』が字幕付きの最初。マルレーネ・ディートリッヒの我が国における実質的デビュー作として有名  34年までにはほとんど字幕入りに代わる
l  ディートリッヒを愛す
一番日記に出てくるのはディートリッヒ
次いでグレタ・ガルボ  37年封切りの『椿姫』がお気に入り
ダニエル・ダリュー  37年封切りのフランス映画『禁男の家』を見るが、代表作の『うたかたの恋』は戦時中検閲で上映禁止となり、封切りは戦後
l  二度目は面白かった『赤西蠣太』
自身の作品が映像化されたのは、生前では5本あり、それぞれの映画に一喜一憂した
『赤西蠣太』 36年封切り。片岡千恵蔵プロダクション。伊丹万作監督。作者には事後承諾だった可能性あり。撮影中志賀は一家を連れて太秦を訪問、片岡らを驚かす
志賀が最初に試写を見た印象は、「小説の形で作ったものをそれ以外のものに崩されるのはやはりいや」ということで、自分の作をやっていると思って見たのに自分の作ではないところに戸惑いを覚えたが、2回目に見た時は伊丹作品として見て面白かったと語っている
『好人物の夫婦』 56年。東宝。千葉泰樹監督。原作の形を崩さないと映画にならないところが志賀は嫌いで、映画化には消極的だったが、この作品の映画化を許したのは金が必要だったからといっている。自らシナリオに目を通し自分の希望を通してもらっているだけに、出来栄えには満足したが、映画としての評は、全てが丸見えで芳しくなかった
『正義派』 57年。松竹。渋谷実監督。自らもシナリオを読んで手直ししているが、90%は脚本家と監督の創作で、多少は力を合わせて作ったものと志賀も認める
『いたづらー野尻抱影君へー』 59年。松竹。中村登監督。野尻抱影(大佛次郎の兄)の若い日の体験談を自分流に書き直した作品で、原題は『悪戯』(46)。原作を大分膨らませて面白くしているが、どこまでシナリオに関わったかは不明なるも、出来栄えには満足していた。有馬稲子のキャスティングが気に入った面も強い
『暗夜行路』 59年。東京映画・東宝。豊田四郎監督
l  座談会へようこそ
志賀が数多くの映画を見ていたことが知れ渡って、映画関係者との座談会も少なくない
それらの座談会を通じて、志賀の幅広い映画体験が偲ばれる
l  2人の邦画女優
戦前、志賀が会って言葉を交わした女優は少ない  31年の日記に日活・太秦の人気女優だった入江たか子が登場
戦後は多くの女優と座談会や対談をしている  代表格が原節子と高峰秀子
原節子を見た最初の映画は37年の日独合作映画『新しき土』 新人女優だった原が抜擢されて話題に
志賀と原は、50年『婦人倶楽部』の企画により熱海で対談  好きな女優をダニエル・ダリューといって原に呆れられる
高峰秀子の作品も、『無法松の一生』ほか少なくとも5本は見ている  48年に一度雑誌で対談。高峰が志賀の作品で出来ないものはないかと質問したのに対して、既作品は崩されるのでいやだが、別に書いてもいいとまで言っている。高峰はこの対談を機に、積極的に志賀に接近している
l  映画監督交遊録
映画好きではあったが、個人的に付き合った映画監督は少ない
『赤西蠣太』の伊丹とも1度試写で会っただけ
他の映画化された志賀作品の監督たちとも会ったという日記の記述はない
戦後の志賀にとっての映画監督といえば小津安二郎
白樺派の作家としては、里見弴が小津と会った最初の作家  41年、溝口健二や内田吐夢らを交えた座談会。小津が里見のファン
47年小津が戦後初めて撮った『長屋紳士録』の試写会の後の座談会で志賀と小津は初めて会うが、2人の親交の始まりは小津が送ったシナリオに志賀がアドバイスをしたことで、信奉する志賀の助言を小津が受け入れたことが窺われるが、最終的に小津はこのシナリオを撮っていない
小津映画の試写会に志賀が招待されることが恒例となり、志賀の意見を聞くことが封切り前の儀式のように思えてくるほど  志賀も新聞広告用の推薦文を書いている
志賀は、小津の代表作とも言うべき『麦秋』を芸術と認める
小津も、5556年にかけて岩波書店から刊行された『志賀直哉全集』に、「爽やかな後味」と題した推薦文を寄せる
56年には、志賀、小津、里見の3人で蒲郡から大阪へ5日間の旅行  この時の思い出は小津映画『彼岸花』における蒲郡でのクラス会などに活かされている
親交のあったもう1人の監督が清水宏  49年志賀が朝日新聞への寄稿の中で、小津とともに個人的に知っている好きな人柄として紹介
清水は、網代の下多賀に蜂の巣という共同体を作り、孤児を引き取って農業をしながら半ば自給自足の生活を営む。共同体を撮ったドキュメンタリー『蜂の巣の子供たち』(48)は独立プロが製作した映画としては傑作
l  小津映画逍遥
志賀は、戦後小津の作撮った作品をほとんど見て、よく意見を述べている  戦前は洋画一辺倒で邦画はほとんど見ていない
『長屋紳士録』 小津の製作態度に「純粋な気持ちが感じられていい印象を受けた」と褒める一方で、無駄が無さすぎる、もっと膨らみが欲しいと、小説家らしい意見を述べる
『風の中の雌鶏(めんどり) 志賀の意見は見当たらないが、『暗夜行路』の影響が見られる作品
『晩春』 志賀が原節子と杉村春子を出演させるよう小津に推薦している
亭主が座っているのに女房が立ったまま話をしていたり、亭主より女房が先に風呂に入るようなシーンにはクレームをつけている
l  熱海で映画三昧
熱海(4855)や渋谷時代が最も多くの映画を見ている
熱海時代の日記は合計で2年分しかないが、51年のものは住んだ場所に因んで大洞台日誌と呼ばれる  映画に行ったのは38
獅子文六の『自由学校』の映画化(51)は、大映と松竹2社の競作
l  映画『暗夜行路』
1959年東宝系で封切り
志賀本人の感想は日記が無いので不明だが、阿川弘之が書いたところでは、「失望・閉口した。本人も、直前の『いたづら』の時のような「結構な出来」なぞという言葉は口にしなかった」
原作料  『正義派』が百万円、『好人物の夫婦』が50万円(45)、『暗夜行路』が2百万円(手取り)。全集の印税が底を尽きかけていたのでいくらか楽になったと言っている
52年の日記に遺言について書いた箇所があり、「著作権は決して売り渡すべからず。劇、活動写真にすべからず。喰うに困った場合はこの限りに非ず」としているので、その後の3本の映画化は「喰うに困った場合」があったということだろう
志賀文学のファンだった小津は、従軍中も『暗夜行路』を読んで感激、一方『暗夜行路』の映画化は池辺良が数年前から熱心に志賀に働きかけており、55年志賀が小津に「暗夜行路の件で」と電話していることまでは分かっているが、何を話したかは記録がない  恐らく、優れた文学作品の映画化はすべきでないと考える小津は、映画化に対しネガティヴな答えをしたものと思われ、一旦は立ち消えになったが、58年突然復活
志賀と豊田は、56年豊田の『白夫人の妖恋』を見た後の座談会で一緒になっている  シナリオを書いた八住利雄が、そのあと『好人物の夫婦』も書き、『暗夜行路』も担当
映画の評判は芳しからず、豊田も2年前に撮った『雪国』以上に映画と文学の違いに苦しんだと述懐、シナリオの八住も一番やりにくかった映画として挙げている。志賀も、「今までで一番多く原文の会話を入れている。非常に忠実だ」と述べているが、小説を読んだ時の感動が湧いてこないのは間違いない
この年度のランキングでは14位  1位は今井正の『キクとイサム』、2位が市川崑の『野火』、3位が今村昌平の『にあんちゃん』
小説と映画が異なる表現形式であることを示す典型的な映画
不出来だったことを肝に銘じたのか、この作品の後志賀作品が映画化されることはない
l  老いてなお映画に行く
渋谷時代(5571)  常磐松日記(58年初頭の2.5か月のみ)、渋谷日記(60年初頭の1.5か月のみ)で映画に行ったのは、前者が12回、後者が7
「今週は、渋谷の映画館をすべて見た」との記述もある
晩年は、56年に購入したテレビにも興味
『赤西蠣太』がドラマ化され58年放映。出来がよかったとの印象を持ったのか、10年後に『清兵衛と瓢箪』のドラマ化にも許可を与える。台本は志賀を信奉する安岡章太郎だったが、安岡は志賀に断りもなく、志賀のほかの作品のエピソードも交えて書いたため、無残な結果となり、志賀も自宅で見ながら途中で頭痛がしたと言って中座したという。この結果、志賀は自作の映像化を金輪際与えまいと決心したに違いない
60年元旦にNHK教育テレビが『志賀直哉人と文学-』と題する特集番組を放映。前年末の収録には本人も登場、テレビ放映の機構に好奇心があったからかもしれない
66年 河盛好蔵との対談で映画について話しているが、以降は映画についての発言や記述がないため、最後に見た映画が何かはわからない



志賀直哉、映画に行く 貴田庄著 ファンの体験通して語る文化史
2015.4.5. 日本経済新聞
 志賀直哉はこんなにも映画を見るのが好きだったのか。若い頃から晩年に至るまで邦画、洋画を問わずに実に多くの映画を見ている。近代の作家のなかでいちばんの映画好きだろう。
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 「清兵衛と瓢箪」や「暗夜行路」の作家を映画好きという一点で語ってゆく。これまで忘れられていた視点で実に新鮮。
 「カリガリ博士」「嘆きの天使」「天井桟敷の人々」などの名作だけではなく美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの「三人よれば」という娯楽作品まで見ているのには驚く。
 著者は日記や随筆、対談などを手がかりに志賀が見た映画を辿(たど)ってゆく。当時の新聞の映画の広告も参考にする。
 調べは徹底している。
 例えば、志賀はある随筆で、芥川龍之介と浅草の映画館で偶然会ったことを書いている。ではそれはいつ、どの映画館で、どんな映画を見たのか。著者はさまざまな資料に当たり、調べてゆく。細心綿密。
 志賀直哉は明治十六年(一八八三)生まれ。東京の映画発祥の地、神田錦輝館で「エジソンの発明した活動写真」を見ているから最も古い映画ファンと言える。後年、原節子との対談で「日本に一番初めに映画が入って来たときから観ているんだから」と誇っている。
 サイレントからトーキーへ、カラー映画へ。志賀の映画体験は生きた映画史になっている。従って本書は志賀を語りながら日本人がどんな映画を見てきたかという文化史でもある。
 志賀が明治四十四年に浅草の映画館で「露国文豪トルストイ伯葬儀之実写」を見た話など、こんな映像があったのかと興味深い。この頃、日本で大人気になったフランスの犯罪映画「ジゴマ」も志賀は見ている。
 小津安二郎が志賀直哉を尊敬していたことはよく知られている。志賀は「東京物語」をはじめ小津の映画をよく見ている。一緒に旅行も楽しんでいる。
 ごひいきの原節子とだけではなく高峰秀子や、映画化された「暗夜行路」で時任謙作を演じた池部良とも対談している。
 戦前、「赤西蠣太」が映画化された時には京都の撮影所で監督の伊丹万作、主演の片岡千恵蔵に会っている。
 谷崎潤一郎は草創期の映画に興味を持ち、「アマチュア倶楽部」などの脚本を書いた。川端康成も若き日、「狂った一頁」の脚本を書いた。
 志賀はそこまで深く映画には関わらなかった。あくまで「パスタイム(気晴らし)」として映画を楽しんだ。純粋な映画ファンだったと言えよう。
(朝日新聞出版・1800円)
 きだ・しょう 47年生まれ。著述家。著書に『小津安二郎のまなざし』『西洋の書物工房』など。
《評》評論家川本 三郎

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志賀 直哉(しが なおや、1883明治16年)220 - 1971昭和46年)1021)は、明治から昭和にかけて活躍した日本小説家白樺派を代表する小説家のひとりで、その後の多くの日本人作家に影響を与えた。代表作に『夜行路』『和解』『小僧の神様』『城の崎にて』など。
宮城県石巻市生まれ、東京府育ち。
主題:父との不和と和解、自我の形成
文学活動:白樺派私小説心境小説
代表作:網走まで』(1910年)
清兵衛と瓢箪』(1913年)
城の崎にて』(1917年)
赤西蠣太』(1917年)
』(1917年)
小僧の神様』(1920年)
暗夜行路』(1921–37年)
主な受賞歴:文化勲章1949年)
処女作:『或る朝』(1908年)

経歴[編集]

志賀直哉の祖父志賀直道は、旧相馬中村藩相馬家家令を勤め、古河財閥創始者古河市兵衛と共に足尾銅山の開発をし、相馬事件にも係わった。二宮尊徳の門人だった。父・直温総武鉄道帝国生命保険の取締役を経て、明治期の財界で重きをなした人物。第一銀行石巻支店に勤務していた父・直温の任地宮城県石巻市に生まれた。2歳の時に父・直温とともに東京に移るが、祖母・留女(るめ)に育てられる。学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学文学部英文学科入学。1908明治41年)ごろ、7年間師事した内村鑑三の下を去り、キリスト教から離れる。国文学科に転じた後に大学を中退した。学習院時代から豊富な資金力にものを言わせ、同じような境遇の友人だちと放蕩の限りを尽くす。第一次大戦の日本人唯一のエースパイロット滋野清武有島生馬、松方義輔(松方正義の九男)と共にリンチを加えたことがある。志賀は「人を殴つた話」と題する1956年の随筆の中で、清武を「兎に角、妙に人に好かれぬ男だつた」と評している(岩波書店『志賀直哉全集』第9巻、1999年、pp.351-354)。
1915大正4年)柳宗悦の勧めで千葉県我孫子市手賀沼の畔に移り住む。この後1923(大正12年)まで我孫子に住み、同時期に同地に移住した武者小路実篤バーナード・リーチと親交を結んだ。
著者唯一の長編小説である『暗夜行路』(1921 - 1937)は近代日本文学の代表作の一つに挙げられる[1]小林秀雄は、視覚的把握の正確さを評価している。
1949昭和24年)、親交を深めていた谷崎潤一郎と共に文化勲章受章。後半生においても、学習院以来の友人である武者小路実篤細川護立柳宗悦里見 らの他、梅原龍三郎安倍能成和辻哲郎安井曽太郎谷川徹三など多くの知識・文化人と交流があり、動静は残された多くの日誌や書簡にみることができる。戦後間もなくの時期、公用語を「世界中で一番いい言語、一番美しい言語」「論理的な言語」であるフランス語にすべきとの主張をしたことがある[2]。戦後は渋谷常盤松に居を移した。晩年は執筆を減らしたが、文学全集類に監修で多く名を出している。1971(昭和46年)に肺炎と老衰により没した。享年88
没後、多くの原稿類は日本近代文学館に寄贈された。岩波書店から『志賀直哉全集』が数次出版されている。志賀に師事した作家として、瀧井孝作尾崎一雄 廣津和郎網野菊藤枝静男島村利正直井潔阿川弘之小林多喜二らがいる。一時期居住していた千葉県我孫子市にある白樺文学館では、志賀の原稿、書簡、ゆかりの品を公開している。署名をする際、哉の文字の最後から2画目の「ノ」を省くのが普通だった。

年譜[編集]

志賀直哉の墓(青山霊園内)
·         1883明治16年)220日、陸前石巻(現在の石巻市住吉町)に、銀行員の父直温(なおはる)の次男として志賀直哉生まれる。祖父直道は旧相馬中村藩士で、二宮尊徳の門人。母銀は伊勢亀山藩士佐本源吾の4女。
·         1889(明治22年)、学習院の初等科へ入学。
·         1895(明治28年)、学習院の中等科へ進学。
·         1901(明治34年)、足尾銅山鉱毒事件の見解について、父と衝突。以後の決定的な不和のキッカケとなる。(志賀が足尾鉱毒事件の見学会に参加しようとしたところ、祖父がかつて古河市兵衛足尾銅山を共同経営していたという理由から父に反対された)
·         1906(明治39年)、東京帝国大学へ入学。
·         1907(明治40年)、父と結婚についての問題で再度衝突。
·         1908(明治41年)
·         処女作となる『或る朝』を発表。
·         回覧雑誌『望野』を創刊。
·         1910(明治43年)
·         『白樺』を創刊。
·         『網走まで』を発表。
·         東京帝国大学を中退。徴兵検査を受け甲種合格。市川の砲兵連隊に入営するが、8日後に除隊。
·         1912大正元年)、『大津順吉』『正義派』を発表。
·         10月、父との不和が原因で、東京を離れ広島県尾道市に渡る。
·         1913(大正2年)、『清兵衛と瓢箪』『范の犯罪』を発表。
·         1914(大正3年)、勘解由小路康子(武者小路実篤従妹にあたる)と婚約。
·         1915(大正4年)、柳宗悦にすすめられて千葉県我孫子市に移住。
·         1917(大正6年)
·         城の崎にて』『和解』を発表。
·         父との不和が解消される。
·         1920(大正9年)、『小僧の神様』『焚火』を発表。
·         1921(大正10年)、『暗夜行路』の前編のみを発表。
·         1931昭和6年)11月、訪ねて来た小林多喜二を宿泊させ懇談。
·         1933(昭和8年)、『万暦赤絵』を発表。
·         1937(昭和12年)、『暗夜行路』の後編を発表し、完結させる。
·         1938(昭和13年)、随筆『奈良』を発表。「食いものはうまい物のない所だ。」と記す。
·         1949(昭和24年)、文化勲章を受章。
·         1971(昭和46年)1021日、死去。

高畑サロン[編集]

現在奈良県奈良市高畑町に旧邸宅が「志賀直哉旧居」として保存されており見学を行うことができる。1925(大正14年)に京都山科から奈良市幸町に引っ越してきた志賀は、奈良公園に隣接し若草山の眺望も良い高畑に居宅を1929(昭和4年)に建設した。この際自ら設計に携わり、1938(昭和13年)から鎌倉に移り住むまでの10年間を家族と共にこの家で過ごした。数寄屋造りに加え洋風や中国風の様式も取り入れており、洋風サンルームや娯楽室、書斎、茶室、食堂を備えたモダンかつ合理的な建物であった。志賀はここで『暗夜行路』のほか『痴情』『プラトニック・ラブ』『邦子』などの作品を執筆した。
志賀を慕って武者小路実篤小林秀雄尾崎一雄、若山為三、小川晴暘入江泰吉亀井勝一郎小林多喜二桑原武夫ら白樺派の文人や画家、また陶芸家今西洋など様々な文化人がしばしば訪れ、文学論や芸術論などを語り合う一大文化サロンとなり、いつしか高畑サロンと呼ばれるようになった。書斎や2階の客間からは若草山や三蓋山、高円山の眺めが美しく、庭園も執筆に疲れた時に散策できるように作られていた。
志賀は後に東大寺別当となった上司海雲(かみつかさかいうん)とは特に親しく長い付き合いをしていた。奈良を去り東京へ帰った後も「奈良はいい所だが、男の児を育てるには何か物足りぬものを感じ、東京へ引っ越してきたが、私自身には未練があり、今でも小さな家でも建てて、もう一度住んでみたい気がしている」と奈良への愛着を表している。志賀のサロンの一部は上司海雲に引き継がれていった(観音院サロン)。

評価[編集]

白樺派の作家であるが、作品には自然主義の影響も指摘される。無駄のない文章は、小説文体の理想のひとつと見なされ評価が高い。そのため作品は文章練達のために、模写の題材にされることもある。芥川龍之介は、志賀の小説を高く評価し自分の創作上の理想と呼んだ。当時の文学青年から崇拝され、代表作「小僧の神様」にかけて「小説の神様」に擬せられていたが、太宰治の小説『津軽』の中で批判を受け、立腹し座談会の席上で太宰を激しく攻撃、これに対して太宰も連載評論『如是我聞』を書き、志賀に反撃したことがある。
小林多喜二は志賀直哉に心酔しており、作品の評を乞うたこともあるが、多くのプロレタリア文学作家が共産党の強い影響下にあることを指摘して「主人持ちの文学」と評し、プロレタリア文学の党派性を批判した[3]。その後、小林没後の1935年のインタビューでは、人をうつ力があれば主人持ちでもかまわないという趣旨の発言をしている(聞き手は貴司山治)。また、戦後一時期新日本文学会の賛助会員として名を連ねたが、中野重治が発表した文章に不快感をおぼえ、賛助会員を辞退したということもあった。
戦争に対しては、戦後に発表した「鈴木貫太郎」などの随想で内心反対であった旨のことを述べている。しかし戦時中は「シンガポール陥落」等で戦争賛美の発言も残しており、太宰治の「如是我聞」などによって攻撃材料とされた。ただ、同じ白樺派の武者小路実篤や高村光太郎らがかなり積極的な戦争協力の姿勢を示したのと比べて特に目立つほどのものではなく、1946(昭和21年)から小田切秀雄らによって文学者の戦争責任が追及されたとき、武者小路や高村はいち早く槍玉に上がったが、志賀は対象とされていない。[4]
日本語を廃止してフランス語を公用語にすべしと説いた[5]こともしばしば批判されている。批判者の代表として丸谷才一[6]三島由紀夫[7]を挙げることができる。これに対して蓮實重彦は、『反=日本語論』や『表層批評宣言』などにおいて、志賀を擁護した。

系譜[編集]

武者小路実篤と柳宗悦は、共に勘解由小路資生(かでのこうじすけより、子爵、貴族院議員)の孫
柳宗悦の妹・康子(さだこ)と志賀直哉が結婚
勘解由小路資生の孫の甘露寺家に、岩崎久弥の娘が嫁ぐ
柳宗悦の娘が池田勇人の妻・満枝
志賀直哉は、副島種臣の娘の子
直哉の娘は、柳宗悦の長男・柳宗玄に嫁ぐ

作品[編集]

·         暗夜行路
·         城の崎にて
·         和解
·         網走まで
·         大津順吉
·         清兵衛と瓢箪
·         小僧の神様
·         赤西蠣太
·         万暦赤絵
·         范の犯罪
·         母の死と新しい母
·         正義派
·         焚火
·         灰色の月
·         白樺』(雑誌)
·         宿かりの死
·         児を盗む話

脚注[編集]

1.   ^ 小説家大岡昇平は「近代文学の最高峰である」と讃えている。
2.   ^ しかし、志賀自身はフランス語はまったく解することが出来なかった。
3.   ^ ただし、志賀は小林の人柄には好感を抱いており、小林が拷問死した時の日記に「実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり」と記している他、小林の死の際、実母に弔辞を贈っている。)
4.   ^ シンガポール陥落の際は多くの文学者が祝意を表しており、谷崎潤一郎も「シンガポール陥落に際して」という文でそれを賛美している。その後の谷崎は『細雪』発禁によって戦争に非協力的な作家という印象が強くなり、志賀もその後はほとんど沈黙していた。それゆえ、戦後の「鈴木さんが総理大臣になった時、これはきっと、この内閣で戦争は終るのだろうという風に私は思った」(「鈴木貫太郎」)という発言もそれほど不自然なものとは言えない。
5.   ^ おもに『改造19464月号に寄稿した随筆「国語問題」を指す。「不完全で不便」な日本語をどうにかしなければ「日本が本統の文化国になれる希望はない」として日本語の廃止を提案した。そこで、「世界中で一番いい言語、一番美しい言語」である、「文化の進んだ国」フランスのフランス語を使うのが「一番よささうな気がする」と述べた。またその方法について「それ程困難はないと思つてゐる」「朝鮮語を日本語に切換へた時はどうしたのだらう」などと言い添えている。
6.   ^ 丸谷才一はエッセイ「日本語への関心」(1974年刊行の『日本語のために』に収録)において、「志賀が日本語で書く代表的な文学者であつたといふ要素を考へに入れるとき、われわれは近代日本文学の貧しさと程度の低さに恥ぢ入りたい気持ちになる。(中略) 彼を悼む文章のなかでこのことに一言半句でも触れたもののあることをわたしは知らないが、人はあまりの悲惨に眼を覆ひたい一心で、志賀のこの醜態を論じないのだらう」と述べている。
7.   ^ 三島由紀夫は『日本への信条』(愛媛新聞 196711日に掲載)において、「私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と述べている。


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