情報覇権と帝国日本  有山輝雄  2013.10.24.

2013.10.24.  情報覇権と帝国日本 
I  海底ケーブルと通信社の誕生
II 通信技術の拡大と宣伝戦

著者 有山輝雄 1943年神奈川県生まれ。東大文学部国史学科卒。同大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在東京経済大学教授

発行日           2013.6.1. 第1刷発行
発行所           吉川弘文館

2013年度東京経済大学学術研究センター学術図書刊行助成

I・西欧列強は植民地拡大とともに情報網覇権を競い、その拡張の矛先は開国日本にも向かった。国家間の力関係を左右する国際ニュース配信と、通信社発足に格闘した帝国日本の挑戦を、技術革新とメディア組織両面から描く
II・第1次大戦後、無線通信が発達し、通信自主権を巡る争奪戦は複雑化した。東アジアの利権獲得に向けた、帝国日本の挑戦と軍事的敗北による挫折までを描き、情報の国際的不均衡という問題の根幹を浮き彫りにする

はじめに
1854年、前年に続いて来港したペリー艦隊を幕府は横浜の応接所に招待し、日本の相撲力士による残忍な動物力の見世物”(『ペルリ提督日本遠征記』より)に対し、アメリカは電信機と蒸気機関車を公開、より高い文明的な見世物によって自己の強大な力を見せつけようとした
ペリーが電信機を誇示したように、通信、なかんずく国際通信の問題は「文明」の力を考える上で最も重要な問題でありながら、その力が見えにくいところから取り上げにくい問題だった
本書は、開国以来、国際情報通信において、日本がどのように課題に直面し、それとどのように取り組んだのかを明らかにしようとする ⇒ ニュースの国際的流通に絞る
ニュース活動の基本的仕組み ⇒ 通信設備・回線の仕組みと、その設備を利用してニュースを生産し、配信する仕組み
国際ニュースの流通により、一層高度の技術と資金を必要とするだけに、大規模で、政治・経済・軍事などにより深く関係。その仕組みの在り方は、国際的力関係によって条件づけられるし、逆に国際的力関係が国際情報のあり方によって左右される
19世紀後半におけるニュースの国際的流通の状況 ⇒ 電信など通信の技術革新が進行し、通信技術が西欧列強の植民地拡大と密接に結びついていた
電信の発明は、人間の移動を必要としないという点で画期的。通信の距離・速度を飛躍的に高め、世界を一気に縮め、植民地拡大を可能とする重要な条件となった
情報覇権の確立 ⇒ 世界規模もしくは一定地域の情報の生産・流通などを支配し、その域内の住民の認識や思考に影響力を持つ権力であって、軍事力や経済力が背後から支える
開国と情報覇権 ⇒ 日本は開国と同時に、西欧列強による情報覇権の東アジアへの拡大の中に飲み込まれていく
思想や芸術など一定の体系性を持つ情報は、時間をかけた輸出によってある程度主体的な取捨選択も可能だが、時事的ニュースはそれ自体断片的であり、一瞬一刻も早い判断・伝達が生命であって、各国の総合的な情報力が試される。それだけにニュースは情報覇権の主戦場
19世紀半ば~20世紀半ば、東アジアにおけるニュースの生産と流通をほぼ独占していたのは、イギリスであり通信社のロイターであり、その海軍力・経済力と相俟って情報覇権を確立するが、同時に仏独とも協調して3国の通信社が世界分割協定を結んでいた
本書の基本的な主題は、開国から約100年間、当初はイギリスの情報覇権をほとんど意識せず、また次第に意識するようになってもそれを甘受せざるを得なかった日本が、その軛から脱しようと試みて西欧覇権に挑戦し、結局は1945年の敗戦によって手痛く挫折していった過程
国際情報流通の対等性は、不平等条約の解消のように円滑にはゆかず、例えば外国海底電線の依存が完全に解消したのは1943
情報の国際的流通をどのような枠組みで見るのか、それ自体が難問 ⇒ 情報の国際的不均衡は一層昂進し、欧米の文化帝国主義、情報帝国主義への批判は根強い
当時の日本を取り巻く国際情報流通に対して日本がとった政策と行動と、それが陥っていった矛盾、覇権に挑戦しながら自らが覇権化していく矛盾を内在的に明らかにしたい
既存の構造の枠内で弱者から強者に転じようとすることは多くの矛盾を背負い、強者支配の構造の再生産でしかなかった。こうした問題を考えるためにも、構造そのものの内在的理解が不可欠

第1部        海底電線と通信社の到来
第1章        19世紀情報覇権と日本
江戸時代の対外情報システムの窓口は4カ所
対馬口 ⇒ 徳川氏に臣従する対馬藩宗家によって対朝鮮交易、通信使招聘の窓口として機能
薩摩口 ⇒ 薩摩藩による琉球交易と使節の受け入れ
松前口 ⇒ 松前藩によるアイヌとの交易の窓口であり、ロシア情報の入口
長崎口 ⇒ 体系的で定期的な情報収集活動が行われ、入手情報が文書化されていた
唐船風説書、オランダ風説書、別段風説書(オランダのバタフィア政庁が作成)等の記録が残されている ⇒ いずれもキリスト教関係の情報を遮断することを主目的とした待機的情報受信であり、ネガティヴな情報収集、環境監視システムとして機能
19世紀半ばのモールス式電信機は革命的な通信技術であり、さらに海底電線被覆に用いられるガッタ・パーチャという樹脂を独占していたイギリスによって1848年英仏間ドーヴァー海峡の海底電線敷設成功によりコミュニケーションに革命が起こる
大西洋海底電線 ⇒ 英米実業家の協力により1856年会社設立、何度かの失敗の後1866年に完成
インドへの道も、1857年のセポイの反乱を契機に電信線敷設の要求が高まり、1860年に海底線が、70年には陸路が英独露の合弁で完成。6つの独立した回線で中継され、ロンドンからボンベイへの送信に対し422秒後に受信確認の返電があったという
71年にはシンガポール経由香港まで、さらに84年には上海まで伸びる
1864年、大西洋海底電線に対抗してシベリア大陸経由でアメリカまで繋ぐ電信線計画がアメリカのウェスタン・ユニオンによって進められたが、大西洋に先を越されたため、代わってデンマークの大北電信会社(英露間の電信線を敷設、英露の資本も入る)が、中国と日本をヨーロッパに結び付けるために活用を計画、70年明治政府から海底電線陸揚許可を取得
通信社の誕生 ⇒ 1835年フランスのシャルル・アヴァスが新聞社を対象にニュース・サービスを開始。自らの会社をAgence Havasと名付けたところから、ニュース通信社をagenceというようになった。また経営安定化のために広告代理業を兼務したことが、その後のビジネスモデルとして定着
次いで1849年誕生したのがドイツのヴォルフと1851年イギリスのロイター ⇒ どちらもアヴァス出身で起業。ヴォルフは、株式・商品相場のニュース配信から始まって政府支援を受け、大陸電報通信社として再発足。ロイターはアヴァスの翻訳係の後パリで起業するが失敗、英仏間の海底電線敷設の動きと呼応してロンドンに事務所開設、イギリスの電信線拡大の恩恵を最大限受けて社業を拡張、やがて自らも電信線を所有
3社にアメリカのAPを加え、1870年の協定で世界を4分割
アヴァス  ⇒ フランス、スイス、イタリア、スペイン、ポルトガル
ロイター  ⇒ イギリス帝国、エジプト、トルコ、極東
ヴォルフ  ⇒ ドイツ、オーストリア、オランダ、スカンジナビア、ロシア、バルカン
AP         ⇒ 米国領土
日本の開国の段階では、海底電線と通信社はまだできていなかった ⇒ 船便によるニュースという意味では変わらないが、頻度はアップ、さらに居留地で発行された外国語新聞を通じて、外国の情報がもたらされる。日本初の英字新聞は1861年長崎で創刊された『The Nagasaki Shipping List and Advertiser
日本からの情報発信 ⇒ 江戸時代は厳禁。幕末になって漸く海外に向けた情報発信の試みが起こるが、欧米や中国の英字新聞に載る記事はいずれも欧米の観点から見たニュースのみ

第2章        大北電信会社海底電線の上陸
68年当時神奈川府判事だった寺島宗則(後に外務大輔として対外交渉の窓口となる)は電信に関して最も開明的な知識を持ち電信導入に先進的役割を果たす
大北電信の上陸許可要請は、67年にまずロシアを通して申し出、アメリカからも別途要請が来る ⇒ 日本側の論点は3つ。国内電信まで認めるか、陸揚げ地をどこにするか、大北に独占を認めるか
イギリス公使パークスの介入もあって、70年大北電信との間で合意 ⇒ 国内は日本政府に任せ、陸揚げ地は長崎と横浜に限定、独占権は認めない。日本側から一定期間後の海底電信線の買い取りを申し入れるも拒否
71年長崎への敷設工事完了 ⇒ 現在のANAホテルの場所に「国際電信発祥の地」の碑が立つ。すぐに上海に延ばしたが、清国政府には秘密に敷設され、清国政府が撤去を要求したが、西欧列強の軍事力で既成事実を保持し続ける
国内線工事は難航したが、73年に開業

第3章        ロイターの進出
海底電線の開通に伴って日本に進出してきたのがニュースの生産と流通を専業とする通信社 ⇒ 1872年ロイターが横浜に来たのが最初とされるが、それ以前から居留地の英字新聞に広告が出ていた
元々は電報仲介会社として、69年には横浜に代理人を置いていた ⇒ 商取引に必須
72年、特派員が横浜に常駐
日本でも新聞が発行され、外国ニュースも掲載されるようになるが、ロイターとの契約は横浜の英字新聞が初。日本では74年に政府が「電報取寄人」の契約を結んだのが最初
日本からの発信としては、73年に政府が横浜の英字新聞を買い上げロイターを通じて欧米各国に配布させたのが始まり

第4章        1882年海底電線約定改訂
大北電信に対し、既存回線の増設、長崎・釜山間の回線敷設と30年間の独占権を認める
日本の情報覇権化の第一歩とはなったが、独占権を与えたことがその後の日本にとって大きな桎梏となり、この打開のために日本の対外情報政策は悪戦苦闘することになる ⇒ 朝鮮半島進出への強い願望からとはいえ、まんまと西欧情報覇権の罠に嵌り身動きが取れなくなるという結果となったが、身から出た錆
大北電信は、前年清国からも独占権を獲得

第2部        国際ニュース通信への願望
第1章        通信社活動の胎動
1877年当時、ロイターだけが海底電線を使ってロンドンから横浜までニュースを送信する配信網を作り上げている。速いものでは翌日の英字新聞に掲載
日本の新聞が、独自の取材で海外ニュースを掲載することはなく、国内の出来事ですら、電報は官公庁軍部が利用していた程度で、新聞社ニュースは郵送に頼っており、西南戦争の情報も3週間遅れで掲載
日本でも、国内活動を中心とする通信社の誕生 ⇒ 主に扱ったのは相場情報で、東京急報社が嚆矢とされるが創業年次は不詳。新聞社独自の情報の方が勝っていた
一般ニュースを扱う国内通信社の最初は、1888年設立の東京時事通信社 ⇒ 文明国が必ず持つべき利器だと謳い、新聞の遅報性に対し、通信社はニュース(=加工しない事実そのもの)を電信によって速報することに独自性を見出した。『朝野新聞』の記者だった二宮熊次郎が三井の益田孝の出資と政府から「報告下付の便利」の特権を得て始めたが、需要が盛り上がらず、報道内容にも事実を逸脱するものもあって経営難から自壊
86年、日本の新聞では初めて『官報』がロイターと直接契約

第2章        日清戦争を契機とする国際ニュースの活発化
94年、陸奥外相の指示で、独英兼任公使の青木周蔵がロイターと秘密契約 ⇒ 朝鮮半島を巡る日清間の緊張関係の高まりに加え、条約交渉を有利に進めるために「文明国」日本を印象付ける目的もあって、ロイターからの通信社の業務を超えての情報提供と、日本からの情報発信代行を約束したが、日本政府の思惑通りロイターが動かず98年廃止へ
97年、日本の新聞社2社、時事新報とジャパン・タイムスがロイターと直接契約

第3章        大北電信線依存脱却政策の台頭と高い壁
日本は、植民地政策拡大に伴い、独自の海外電信網の必要性を認識するが、30年の独占権に阻まれ、太平洋に活路を見出すが、中継点となる太平洋の島々の陸揚げ許可が取れず、米国電信会社との契約で、一部国産の海底電線を敷設することに漕ぎつける ⇒ 日本最初の敷設船は沖縄丸で、06年小笠原・横浜間にケーブル設置
電信線はアメリカ経由で世界に繋がったが、ニュース通信は、ロイター独占の壁に阻まれ、APが日本の通信社と契約してニュースを送ることも、日本の通信社がAPにニュースを送ることもできなかった
1910年、政府が大北電信から釜山・対馬間海底線を買収、漸く独自の海底線によって朝鮮半島と繋がる
12年の大北電信との独占権期間満了を控え、最も強硬に「電信通信の独立」を主張したのは軍部 ⇒ 実利優先で13年にロシア、清国政府も巻き込んで「修正大北会社免許状」公布。大北の独占権は消滅、日本の海底線の上海陸揚げを許容

第3部        帝国日本の生成と西欧情報覇権
第1章        日露戦後の対外ニュース発信の形成と難航
日露戦捷による大国意識から、対外的関心が高まり、海外ニュース輸入の拡大、多様化をもたらす
戦時の速報競争によって一時的に活発化した電報ニュースが各新聞の定常的ニュースとなるとともに、国内の政財界に国際社会での自己主張の意欲の台頭をもたらす
92年、帝国通信社 ⇒ 新聞用達会社と時事通信社の合併により設立。改進党系の通信社として活動、政府系の東京通信社と対抗
さらに01年生自由党の壮士・光永星郎が興した日本広告が07年に日本電報通信社(後の電通)として広告代理業と通信業を兼営してスタートし特に国際的通信事業に注力 ⇒ ロイターとの直接契約に加え、英仏独3通信社のカルテルに拘束されないアメリカのUP09年に「相互的電報同盟」を成立させ、外電を地方新聞社に流すことによって全体として国際ニュースの還流を活発化させることに貢献
電通のロイターとの契約を知って、大新聞によるシンジケートの中心だった大阪朝日は、独占供給でなかったことを知り反発、東京のシンジケートはロイターの値上げ要請を受け入れたが、大阪朝日は拒否、別途ロンドンの『ザ・タイムズ』と通信員契約を結んだほか、独自の外電入手ルートを開拓していく
同時に外務省が中心となって自力発信への模索も始まり、清国向けニュースの発信とアメリカでの通信社の設立計画が動き出す ⇒ 清国向けは東亜同文会が中心となり、電通が秘密補助金を受けて情報発信を行うが、ここでもロイターの情報覇権に阻まれて結局は不首尾に終わる。米国向けには、日本人移民への差別など対日意識の歪み是正を目的として09年ニューヨークに東洋通報社を設立したが、ここでもAP他の情報覇権の壁で、結局配信できたのは政府の作成した資料程度で、ニュースはほとんどなく、4年ほどで廃止

第2章        国際通信社の発足と第1次世界大戦期の国際情報変動
対外ニュース発信への願望が高まるなか、14年国際通信社設立 ⇒ 中心になったのが渋沢栄一。AP初代総支配人メルヴィル・ストーンがアドバイスしたナショナル・ニューズ・エイジェンシー(国家代表通信社)構想に共鳴。AP東京支局長ケネディを支配人として、まず既存英字新聞『ジャパン・タイムス』他を買収したが大赤字で2年後に分離。
1次大戦が日本における国際ニュースのあり方を変動させる契機 ⇒ 国際ニュースの需要の高まりと、対外情報発信の必要性が急増。同時に英仏独の情報覇権が世界規模で動揺し東アジアにおける英国のタガに緩む兆しが出てきた
電信連絡の繁多による電報の遅延が問題に ⇒ ニュースの入手ソースの多様化でロイターの独占に亀裂。『東京朝日』の外電は、『倫敦タイムス』特電、ロイター・国際通信社、UP・電通、自社特派員の4系統
徐々に「国際(通信)社」扱いのニュースが増大
軍部による宣伝活動への注目 ⇒ 20年代後半から大規模な宣伝国家政策形成へと動く
外務省情報部の設立 ⇒ 原敬内閣当時から必要性が議論され、21年に発足。民間通信社への資金援助を通じ、対外ニュース発信のできる組織へと改変
ロイターが、自ら必要資金調達のため銀行業に進出したのが原因で経営危機に陥り、英国外務省がテコ入れ、外務省情報局と実質一体化され、イギリスの対外宣伝活動の一部に組み込まれていった
23年、国際通信社は、政府の支援を得て、ロイターとの契約を更改、ロイターから受領したニュースを独自の名義で自由に発表できる権利を取得(goodwillの買収)

第3章        対中国宣伝活動と統合的宣伝政策の必要性
1914年、上海総領事の発案で同地に東方通信社設立 ⇒ 日本製のニュースを発信するとともに、中国から日本へのニュースも扱う
電通も北京支社を設置して情報活動に参入するが、経営的には苦しい
26年、東方通信と国際通信が合併、新聞聯合社が発足

第4部        国際情報秩序の地殻変動
第1章        西欧情報覇権の動揺と日本の挑戦
従来の英仏独中心の情報覇権が第1次大戦によって大きく揺らぐ
   国際情報の流れが質量ともに活発化 ⇒ 世界が一体化、単一の作業単位となる
   情報を生産し流通させるメディアが大規模化し、国家政策の中に組み込まれる
   国際情報覇権の主役が交代 ⇒ 米国が大きな力を持つ
   新しい通信技術として無線情報通信が進歩
日本にとっても、西欧情報覇権への挑戦の好機到来
アメリカは、情報の自由・機会均等といった普遍的原則を掲げて旧体制に挑戦するも、初の国際会議では棚上げとされ、結局は当事者間の交渉に委ねることとなり、力関係では日本は如何ともし難かった
僅かに青島・佐世保線を認めさせ、対中国の情報覇権構築が進む

第2章        無線通信の登場と情報覇権争奪
日本で無線通信技術にいち早く注目したのは海軍 ⇒ 1903年、三六式無線通信機完成
08年、銚子無線電信局と東洋汽船天洋丸無線電信局を開局させたのが一般公衆用無線電信の始まりで、主として海洋船舶との交信に当たる
対外無線電信としては、1915年落石無線電信局がロシアのペトロパブロフスクと交信したのが最初。翌年にはアメリカとも繋がり、天皇と大統領が祝電を交換し合った(ハワイで中継)。同時にドイツからの受信にも成功
世界規模で大無線局設置が進められたが、当時の技術で長距離に使用できる電波長は134個、内良好なものは69個のみ、さらに46個は既設局で使用済み、早い者勝ちの状況
23年、電波送受信設備の保有会社として日本無線電信会社が承認されるが、電報業務は政府管掌とされ、なかなか前に進まず
中国では、西欧の支援で無線事業が進む中、日本は三井物産をダミーに仕立てて強引に無線電信の独占権を獲得 ⇒ イギリスに加え、アメリカまでも介入して、独占の目論みは挫折

第3章        新聞聯合社の成立と活動
ロイターへの隷属から脱出する手段として設立されたのが26年発足の新聞聯合社
全国の日刊新聞社の組合組織という形を作り上げ、ナショナル・ニューズ・エイジェンシーを標榜、国際的ニュース活動を行う通信社として拡大強化
多額の投資の一部は政府助成金で賄う

第4章        転機としての1930年と対中国通信交渉
長崎・上海間、長崎・ウラジオストック間の海底電信線を大北が所有していることは、日本にとって対外情報通信の死命を握られていることで、その状態からの脱却が長年の課題
1930年末、中国政府と大北・大東電信との契約が満了を迎え、中国政府と彼等の独占契約の更改交渉の成り行きが注目されたが、独占権が否定されたものの、日本独自の回線についても5年と期限を区切られた ⇒ 交渉過程で妥協を迫られるとともに、中国でのナショナリズムの昂揚という大きな現実に直面
31年、日中無線通信交渉が妥結、東京・上海間にの無線電信業務を開始

第5章        情報戦としての満州事変
満州事変は、日本にとって未だ経験したことのない情報戦・宣伝戦だった ⇒ 国際的に流通する情報は、量的増加、種類の多様化、高速化、社会的浸透の深さと広がりなど、格段に進化・進展。軍事的には勝利したが、その国際的承認を求める局面の情報戦では苦戦を余儀なくされる
陸軍による謀略は事前の十分な準備に基づくものであったが、事前に日本の軍事行動が引き起こす国際的反響を計算し、その対策を立てていた形跡はない ⇒ 事前に周到な工作案を立てるべきとの建議はなされたが、具体化されていない
新聞聯合や電通は、特派員の数にもあるように、圧倒的な優位にあったが、ニュースの海外向け発信については、ロイターとの契約に拘束されて直接配信できなかった
柳条湖事件の第1報は連合の奉天支局長だったが、支那兵が仕掛けたことが信じられずに不明の匪賊によるものとして打電したところ軍に抑えられ、結局日本国内への第1報は電通のスクープとなった。当時電通の情報は大手新聞社にはあまり信用されておらず出稿を控えていたところへ、自社特派員から電話で確認があり、電通電を出稿することになったもの ⇒ 夜勤のベテラン記者が疑わしく思うほど真偽の怪しい事件だった
『ニューヨーク・タイムズ』の報道は、1面トップで東京の特派員の情報を基に、日本の愛国的・自己陶酔的な修飾語句を削ぎ落して脱色、さらに中国側の主張も掲載すると、日本=被害者という構図は薄れ日本の計画性が透けて見えてしまった
『ザ・タイムズ』の報道は、通常の海外ニュースの扱いで北京特派員の報告を基に日中両者を取材しているが、現地の状況より国際紛争という位置付けでの報道
直後から、国内では内務省警保局により記事の差し止めなどの措置が始まり、外国人記者の発信電についても監視を始める
満州事変の経験から、統合的宣伝政策とその機関設立の論議が一気に加速 ⇒ 32年新京に満州国通信社発足するも本格活動は3年後

第6章        国際ニュースの地殻変動と新聞聯合社
日本の通信社は、取材力・配信力をつけてきたが、ロイターの壁は厚く、自らの情報発信は徐々にしか進まない
APUPの台頭 ⇒ 英独仏3社の世界分割協定に割って入る
1927年、まずAPが米州ほぼ全域での行動の自由を認められる
次いでAPは、日本・中国を対象に聯合との提携を模索、ロイターの覇権に挑戦する戦略に合意
32年、4社間新協定 ⇒ 英独仏米の4社が自由にニュースを交換することを認め、地域分割を解消したが、広大な自国領土・植民地内での独占は存続
聯合は33年のロイターとの契約更改交渉に際し、APとの合意を背景にロイターから大幅な譲歩を勝ち取り、新聞通信協定では自由なニュースの交換と、取得したニュースを自己のクレジットで配信できるようになり、大幅な手数料の削減を実現。経済通信契約では、日本から発信する経済ニュースがほとんどないところから、ロイターから供給を受ける一方的関係となったが、費用負担は歩合制で1/3程度に削減

第5部        日本の東アジア情報覇権とその崩壊
第1章        国策通信社設立計画
統合的宣伝機関設立構想 ⇒ 積極的だったのは陸軍。19年に新聞班を設置して新聞記者への初歩的広報活動を始めて以降、シベリア出兵で活発化、満州事変でその重要性が一気に増した
具体化策として、連合と電通の合併計画が進められ、電通の買収額として2百万円提示するところまで行くが資金難から破談

第2章        同盟通信社の設立
代わって登場したのが逓信省と日本放送協会 ⇒ 放送ニュース充実や海外放送や国際電話実施など事業の拡充を計画。35年、新聞社19社と放送協会が出資して非営利公益法人の同盟通信社を設立。新聞聯合社から業務を引き継ぎ国際放送電報の発受信を独占、さらに36年には広告業を分離した電通を合併、強力な通信社が誕生。新たに首相直轄で設置された情報委員会の傘下に入る

第3章        同盟通信社の拡大と情報覇権
収入の過半は政府助成金
海外通信網を拡大 ⇒ 特に中国、次いで南方。自力による海外情報の収集に注力
中国での情報覇権の確立 ⇒ 満州国通信社(国通)と連携するとともに、中国の通信社・新聞社との関係強化、育成を進める
同時にロイターとの不平等契約もさらに改善

第4章        新たな通信手段電波の利用と情報覇権
対外通信手段の大変革 ⇒ 無線通信の技術革新の進行に伴い、日本の欧米依存に変化
日米間無線通信の実用化 ⇒ 34年、RCA+1社と契約するも、米欧間や米中間に比べても割高。さらにもう1社米社が参加するが、日本はあくまで受動的
日欧間の無線は、技術的不安定性は否めず、無線利用は拡大せず
放送の重要性が増す
同報無線電報も同盟通信社だけに許可された特権 ⇒ 39年、国内40カ所に受信局を設置、逓信大臣の統制下でニュースの送信を始める。海外への発信も開始
国際放送(外国の放送局との番組の交換)、海外放送(日本の番組を短波で海外に向けて放送する)も始まる
29年、無線時事通信会社設立 ⇒ 政財界が中心となって時事新報社との共同事業として無線電話事業を立ち上げ
31年、国際電話会社設立 ⇒ 海外放送のための送受信設備を提供する会社

第5章        電気通信政策の拡大
通信技術の多様化によって大北への依存度は相対的に低下 ⇒ 逓信省が中心となって39年から大北との契約条件見直し開始、40年には海底線陸揚権を43年までとする新特許状を公布するが、その時には大北の母国はドイツに占領されていたし、イギリスもアジアどころではなかった
日本は東アジアにおける情報覇権形成を強力に進めるべく、日満支を一体とする東亜電気通信ブロック構想を公表。日本無線電信と国際電話を合併させた国策会社として国際電気通信社を設立、通信ケーブル網を整備拡充、さらに南方へと延伸、大東亜通信会議を主宰

第6章        「世界的思想戦」とその終末
30年代、40年代の日本を巡る国際情報を考える上で大きな問題は、様々な国際情報の送受信が、専ら国策に基づく対外宣伝という枠組みに集約して考えられるようになったこと
「宣伝」は、本来正しいことを普く伝えて一般の理解と共鳴を求めること
「プロパガンダ」は、悪質な情報操作を指す軽蔑語で、敵方の「宣伝」を言い、自ら行う宣伝は「広報・PR」と言う
相手国別に宣伝方策を立案、国内向けには「輿論指導方針」の下、外務省情報部が中心となって多種多様な宣伝活動を内外にわたって展開
41.10.までは必要以上の敵愾心を抑制する方針だったが、10月以降は開戦を強く意識した輿論指導に転換、開戦後は大胆且つ活発に国民に知らしむることにより積極的に国民の理解と協力を求める
開戦直後「大東亜戦争」と呼称することに決まった戦争の宣伝情報活動は、「世界的思想戦」であると規定された ⇒ 思想(イデオロギー)と思想の戦いと見做し、「思想戦」という枠組みで捉えようとしたのは日本の大きな特徴
開戦時「大東亜戦争に対する情報宣伝方策大綱」を決定、43.12.には当初の対満支重視から、対大東亜・インドに重点が移る ⇒ 東アジア各国における被害者の連帯を掲げながら、日本の指導力を発揮するという矛盾が露呈
戦局の推移と共に、対外情報発信としての「対外思想戦」は事実上終わる

おわりに
日本にとっての西欧情報覇権への挑戦と挫折の一サイクルは終わったが、国際情報の不均衡、非対称という構造は、終わったわけではない。現在でも、国際コミュニケーションは、決して平等でもなく、互恵的でもない。情報の不均衡は国際政治の争点でもあり、情報の自由と市場原理を掲げる欧米諸国と、文化帝国主義を弾劾する発展途上国との溝は大きい。それを何とか調整しようとしたのが77年ユネスコに設置された「コミュニケーション問題研究国際委員会(マクブライド委員会)」だが、報告書でも解決のための処方箋が描かれたわけではない
その後、情報の国際的流通は、急速に巨大化・高速化した。グローバリズムが国民国家の一環だった対外情報送受信、情報の国際的不均衡という枠組みを無意味なものとし、インターネットなどの新しい情報手段は、国家権力や国境をすり抜けている
国民国家形成と一体だった対外情報発信という発想の枠組みは見直さなければならないだろうが、安易な普遍主義に立って国民国家を乗り越える市民の送受信を主張すると、自らの覇権主義に無自覚なまま、新たな帝国のお先棒を担ぐことにもなりかねない。改めて、日本の紆余曲折した国際通信の歴史を再考する意味がある


情報覇権と帝国日本(1・2) 有山輝雄著 「通信自主権」をめぐる挑戦の軌跡 
日本経済新聞朝刊2013年9月29

フォームの始まり

フォームの終わり
 黒船来航から敗戦まで、近代日本が戦った情報通信「百年戦争」の決定版通史である。電信、電話、新聞、通信社、放送局など、あらゆる国際コミュニケーションを包括するメディア戦史として日本人が読み継ぐべき大著の完成を喜びたい。
(吉川弘文館・各4700円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(吉川弘文館・各4700円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 対外情報システムの上で江戸時代は「鎖国」ではなかった。それは自ら発信することなく、必要な情報だけを一方的に受信するシステムである。そこにペリー艦隊が持ち込んだ電信機こそ、近代日本が投げ込まれた情報帝国主義の象徴だった。
 19世紀後半、イギリスは海底ケーブル網と「ニュースの商人」ロイター通信社によって情報覇権を確立していた。開国後、大北(グレート・ノーザン)電信会社の海底電線で世界と結ばれた日本は、情報の出入りをイギリスに握られていた。たとえば、1905年、日露戦争の講和会議がアメリカ東海岸のポーツマスで開催されたが、講和成立の第一報が東京に届くまでの径路である。その電信は太平洋を越えたのではない。大西洋横断ケーブルでイギリスへ、さらに南回りで上海から長崎に中継され、ようやく東京に到達した。また、三大通信社の世界分割協定により極東地域のニュース配信はロイターが独占しており、日本の新聞の外電もすべてイギリスの影響下にあった。
 この情報覇権を打破し、「通信自主権」を回復することが近代日本の目標となった。その挑戦の軌跡が日清戦争から第2次世界大戦まで、綿密な史料分析から描きだされている。
 アメリカの台頭と無線通信の実用化が決定的になった第1次世界大戦は、日本の通信主権回復闘争にとっても画期だった。しかし、日本が採用した戦略は、自らの情報覇権を中国などに押しつける「東アジア情報覇権」の追求である。満州事変の「情報戦」は国策通信社・同盟通信社を生みだすが、その挑戦は中国のナショナリズムとアメリカの情報自由主義によって手痛い敗北を喫した。
 それから68年、果たして情報戦争は終焉したのか。グローバル化の今日、戦いはますます熾烈である。「クールジャパン」を語るなら、まず読むべきは本書だろう。
(京都大学准教授 佐藤卓己)



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