信仰の王権 聖徳太子  武田佐知子  2013.7.17.

2013.7.17. 信仰の王権 聖徳太子 太子像をよみとく

著者  武田佐知子 1948年東京生まれ。早大卒。都立大大学院博士課程修了。大阪外大助教授。文学博士。専攻は日本古代史、服飾史。85年『古代国家の形成と衣服制』でサントリー学芸賞

発行日           1993.12.10. 印刷             12.20. 発行
発行所           中央公論社(中公新書)

橘泰子さんの友人、橘邸クリスマス・パーティで面

聖徳太子と言えば多くの日本人はかつて高額紙幣に描かれた肖像を思い浮かべるだろう。しかし太子像はこれだけではない。日本の古代を語る上で不可欠の重要人物であり、しかも死後間もなく太子信仰が誕生、その生涯は神秘のベールに隠れ、実像を不鮮明にして、さらに異なる太子像を生む結果となった。時代の流れの中で変容してきた太子のイメージを多面的に検証、そこに込められた造像者の意図とエネルギーの源泉を探る

はじめに
太子の功績として挙げられる確実なものは研究者の間でも議論が分かれ、定説がない
死後のあらゆる時代を通じて、太子のイメージが再生産され続け、各時代、各集団、各人の要求に沿い、都合に合わせた太子像がつくられ続けてきた
ベールをはがすより、歴史上の人物としての太子とは別物の太子を生んだエネルギーは何か、新たな太子のイメージを必要としたのは誰なのか、その目的等を探求した方が、日本人が太子の上に重ねあわせてきた思い入れを明らかに出来る
このような目的のもとに本書は、信仰の対象として表現される聖徳太子の影響や画像など、種々の太子像を取り上げて、日本人が描いた聖徳太子のイメージを考えようとするもの
その具体的な方法論として、太子像の衣服やかぶりもの、髪型の表現を取り上げ、個々の太子像の位相を明らかにする。また個々の造形によって、太子に何が求められ、太子のどのような属性が表現されようとしたのか、そこにどのような造像者の意図が含まれていたのかを見ていく

       紙幣の肖像 聖徳太子――国家公認の「太子」への疑い
1930年発行の100円から高額紙幣に登場 ⇒ 84年まで続く
決定は1887年 ⇒ 今後の紙幣発行に当たっては、日本武尊、武内宿祢、藤原鎌足、聖徳太子等、天皇制を支えた古代人を使うこととなり、最初に武内宿祢が登場したが、聖徳太子が登場したのは大分経ってから、お雇い外国人絵師キヨソーネも印刷局を辞した後だったため、下絵は同局の技官・磯部忠一が御物の「聖徳太子2王子像」(古くは「唐本御影(とうほんみえい)」、「太子俗形御影(たいしぞくぎょうみえい)」、「太子唐形御影」と呼ばれた)を基に作成。終戦後GHQの指令で廃止されそうになったが、一万田日銀総裁の説得でパージを免れ、その後50年の1,000円券、57年の5,000円券、58年の10,000円券と常に最高額の券面を独占
太子降板の理由として唱えられたのが、「唐本御影」像が実は太子ではなかったという説で、画像に「川原寺(大陸系の寺院)」との墨書銘があることが根拠

1.    法隆寺献納宝物と太子像――皇室に消えた「唐本御影」
「唐本御影」は8世紀の作品と推定されるが、初めて記録に現れるのは11世紀半ば
明治初期に廃仏毀釈の嵐の中で、「古器旧物保存令」が出され、1878年法隆寺献納宝物として皇室に献納され帝室御物となり、第2次大戦後はマッカーサーの指令で国有財産として国立博物館に保管されることになったが、「唐本御影」や「法華義疏」等7点は皇室関係のものとして侍従職が保管。昭和天皇の遺産相続の際、5千点にものぼる美術品が課税対象となり大半は国に寄贈され三の丸尚蔵館に収納・展示されたが、皇位と共に伝わる由緒あるもの約600点は非課税となりそのまま侍従職が保管。「唐本御影」もそのうちの1点で、3種の神器と同等の扱い
「唐本御影」と同様、太子の親筆とされる「法華義疏」についても、料紙や文字、書体等から親筆性に疑義が唱えられている

2.    不思議な唐人の筆跡――「よくよく拝見すべし」
大江親通が12世紀初頭に法隆寺を訪れて「唐本御影」を見た際、「唐人の筆跡なり。不可思議なり。よくよく拝見すべし」と記した意味 ⇒ 唐人が描いたことと同時に、太子像か否かへの疑問
衣服の時代考証が始まるのは江戸時代後期になってから

3.    親通は救世観音を見たか――聖徳太子像の原形を求めて
フェノロサと岡倉天心が夢殿の救世観音像(聖徳太子の御影)を世に紹介 ⇒ 1884年政府の許可を取り付け、反対する寺側を説得して開けさせた
救世観音の模作は如意輪観音と呼ばれる
救世観音が秘仏になったのは親通が来る遙か昔で、親通は実物を見ず、帳の前で古老から聞かされただけだった可能性が強い
聖徳太子は、あつく仏教を信仰し、保護しながら、ついに出家することはなかった、俗人の立場から擁護したのであり、俗人としての太子の仏教に対する姿勢が、繰り返しさまざまなパターンで絵画に彫刻に表現された

4.    平安時代末期の太子像――冕冠とみずらの太子に見る仏法と王法の統合
「聖霊院御影」 ⇒ 太子坐像、法隆寺蔵

5.    異形の聖徳太子――時代の社会が作り重ねた不自然な肖像
6.    「ある聖人」慶政上人の説――「唐本御影」は百済の阿佐太子が描いた?
7.    顕真と「唐本御影」――中世の太子信仰と法隆寺復興への軌跡
鎌倉時代に法隆寺の僧・顕真が著わした『聖徳太子伝私記』には、法隆寺ではこの画像を「唐本御影」として相伝してきたとの記述がある

8.    「唐本御影」の認知――荘厳な儀式と真影の関東下向
9.    長屋王木簡の絵と「唐本御影」――発掘された画像と「唐本御影」複数説
10. 肖像画の歴史と「唐本御影」――似せ絵の普及と表現の変化
       現代の聖徳太子像――劇画にタイムスリップした童形の太子
世に聖徳太子の御影と称する物は、7,8割がた16歳像
現代に蘇った太子像は、再び少年の姿を取り戻した



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