そのとき、本が生まれた  Alessando Marzo Magno  2013.6.16.

2013.6.16.  そのとき、本が生まれた
L’ALBA DEI LIBRI: Quando Venezia ha fatto leggere il mondo

著者 アレッサンドロ・マルツォ・マーニョAlessando Marzo Magno ヴェネツィア生まれ。ヴェネツィア大学でヴェネト史を専攻。週刊誌『ディアーリオ』の海外ニュース担当責任者として活躍中。ミラノ在住

訳者 清水由貴子 東京生まれ。上智大外国語学部卒。翻訳家

発行日           2013.4.8. 第1刷発行
発行所           柏書房

第1章        本の都、ヴェネツィア
リアルト橋からサン・マルコ広場へ抜けるメルチェリエ通りには、1520年にもいまと同じように賑やかな店が並んでいた ⇒ 売っていたものは生地、金革(金箔を貼って模様を浮き彫りにした革、邸宅の壁の装飾に使用)、武器と本
当時のヨーロッパで人口が15万を超える巨大都市はヴェネツィア、パリ、ナポリだけ
145255年のグーテンベルクが聖書を印刷したドイツを凌ぐ活況を呈す
16世紀前半のヴェネツィアでは、ヨーロッパ中で出版された本の半数が印刷されていた
ヴェネツィアで出版業が栄えていなかったら、こんにちの本も、普通に話しているイタリア語もこの世に存在しなかったかもしれない
16世紀の本は、基本的にページ売りで、買った人が自分の好きなように製本する
ヨーロッパの2大書籍見本市 ⇒ リヨンとフランクフルト(後者は今でも世界最大の規模を誇る)17世紀初めまではヴェネツィアの出版社や書店の参加が大半を占めていたが、やがてアントワープがとって代わる
印刷には3人の力が必要 ⇒ 植字工、インク工、印刷工
145255年 グーテンベルクがマインツで聖書を印刷
1457年 最初の本が出版
65年 マインツ以外のドイツの2都市とイタリアに初の印刷所設立 ⇒ ローマ近郊の修道院に来てキケロの『弁論家について』を印刷したのを契機に、イタリアに活版印刷術がもたらされる
1480年までにヨーロッパ全体で110の印刷所設立、うち半分がイタリア、30%がドイツ
ヴェネツィアに印刷術がもたらされたのもドイツ人によってであり、当初は5年の独占権が認められた
印刷はドイツで発明されたが、事業としての成功は3つの条件、知識層の集中、豊富な資本、高い商業力の揃ったヴェネツィアが理想的だった ⇒ その上、自由な都市であり、1553年までは検閲もなかった。あるプル山麓の豊富な水を利用して水車を動かす水力エネルギーに事欠かなかったところから製紙業も盛ん
1470年 ヴェネト出身のクレメンテ・ダ・パトヴァがイタリアで最初に本を出版

第2章        出版界のミケランジェロ、アルド・マヌーツィオ
文庫本も、イタリック体も、最初にベストセラーを出版したのもマヌーツィオ
句読点の使用も開始 ⇒ ピリオドとコンマの父とよばれる。アポストロフィとアクセント記号とともに、ギリシャ語の句読点を初めてラテン語や俗語へ取り入れた
最大の功績は、本を娯楽の対象としたこと
1455年のグーテンベルクの42行聖書と1499年の史上最も美しいと言われる『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』(ポリフィルス狂恋夢、イタリア・ルネサンス期の官能小説)は、インキュナブラ(西欧で作られた最初期の活字印刷物のこと)の時代において正反対でありながら卓越した本であり、人類の対極の探求欲とも言える出版史における傑作
マヌーツィオの経歴の詳細は不詳 ⇒ 1450年頃現在のラツィオ州で生まれ、ローマで勉学の後8990年頃ヴェネツィアへ。出版活動の手始めはギリシャ語の本
1502年 ヴェネツィア共和国の全領土内でのラテン語とギリシャ語のイタリック体での印刷特認権を獲得
1508年にはエラスムス自らの『格言集』をマヌーツィオの印刷所で出版
各地で彼の活字が多くの模倣を生み出し、特にリヨンでは瞬く間にイタリック体が複製される ⇒ マヌーツィオは外国で時間と金をかけて特許を申請して自らの出版物を保護しようとしたが効果はなかった。海賊版は誤植がひどく、マヌーツィオは誤植の一覧表を作って海賊版を判別しようとしたが、誤りを修正する機会を提供しただけで裏目に出た
1515年 ルクレティウスの『物の本質について』を最後に逝去 ⇒ 20年で132冊出版、うち古典が73冊、イタリア語の俗本が8冊、ラテン語の現代作品が20
孫の代まで続いたが、1597年後継ぎが無くなり印刷一族の王朝は終焉

第3章        世界初のタルムード
ヴェネツィアは、ヘブライ語書籍の出版の都としても史上類を見ないほど輝かしき数十年を記録。世界初のラビ聖書及び初のタルムード(ユダヤ教聖典)が出版されている
13世紀には少なくともシナゴーグがあり、その関係でヴェネツィアの南の島にジュデッカ島という名が付けられた
1492年 アラゴン王フェルディナンド2世と妻のカスティーリャ女王イサベル1世によってイベリア半島から追放されたユダヤ人はヴェネトに逃げてきた
1509年 ロンバルディアでヴェネツィアがフランスに敗北、ヴェネツィアが領土の大半を失いかけ、ユダヤ人の多くもラグーナの水に守られたヴェネツィアへと逃れたが、まとまって暮らすと目立ち過ぎて反感を買うことを恐れ、自ら願い出てゲットーを作る
1516年 史上初のゲットー(ユダヤ人隔離居住区)がヴェネツィアに建設
ゲットーでは様々なユダヤ人が共同生活を送り、礼拝の場所も設けられ、ヘブライ語の出版文化の開花をもたらす
シェイクスピアの『ヴェニスの商人』も、ユダヤ人が社会的に大きな影響力を持っていた証拠
ユダヤ人の出版社が生まれなかったのは、ヴェネツィア共和国が彼等に本の出版を禁じていたから
ヴェネツィアで最後にヘブライ語の本が出版されたのは1810年 ⇒ それ以降ヴェネツィアはディアスポラ(離散定住集団)の拠り所としての役割を放棄

第4章        消えたコーラン
16世紀前半を最後に誰も目にすることのなかったアラビア語で印刷されたイスラム教の聖典が1987年に発見 ⇒ 別の印刷者アレッサンドロ・パガニーニの研究をテーマとしていた若きイタリアの女性研究者がサン・ミケーレ島の修道院に赴いて偶然所蔵本のリストにあったパガニーニが153738年に世界で最初に出版したコーランを発見 ⇒ ツタンカーメンの墓の発見にも匹敵
何年も同じ図書館に保管され、定期的に目録も作成されていたにもかかわらず誰もこの本の価値に気付かなかったのは、誰もコーランを読めなかったから
同じ修道院には、ヘブライ語聖書の第3版も保存されており、イスラム教やユダヤ教の法典が10mと離れていない場所に何世紀もの間、血を流すこともなく保管されていたのは、まさにヴェネツィアならではの出来事
ヴェネツィアでイスラムの聖典が出版されたのは、利益を目的とした商業的試み ⇒ パガニーニは、東方諸国が莫大な市場になり得ると考え、オスマン帝国の領土にコーランを普及させようとしたが、出版の翌年には死去、息子も出版活動を止めている
アラビア語のコーランは、宗教改革の中で、教皇によって燃やされたとされていた
イスラム世界で初めてアラビア文字が印刷されたのは1706年 ⇒ 非イスラム教徒が非イスラム教の書を印刷
パガニーニのコーランは誤植が多い ⇒ 似たような形の単語が区別されていない。パガニーニが不可能に挑戦したことは間違いなく、彼等の失敗は、ヴェネツィアにおける出版の発展の限界を示す。ヴェネツィアで出版された本は、ヨーロッパからバルカン半島までを征服したが、オスマンやイスラム世界の壁を超えることは出来なかった。時同じくして、ヴェネツィアは人文書の国際市場において覇権を失っている

第5章        アルメニア語とギリシャ語
1512年 ヤコブが世界初のアルメニア語の本を出版 ⇒ ヤコブについては不詳
1638年 東方諸国で初めて出版された
アルメニア人は昔からヴェネツィア社会に溶け込んできた
1375年 アルメニア王国滅亡で多くのアルメニア人が保護と自由を求めてヴェネツィアに流入、1489年にはヴェネツィアに完全統合
1486年 世界初のギリシャ語書籍も出版 ⇒ 出版の背景には何世紀にも及ぶヴェネツィアでの定住の歴史がある。ヴェネツィアが神聖ローマ帝国の支配下には入らず、属州として発展する道を選んだところから、コンスタンティノープルの総督とも交流が生まれ、その痕跡は教会の金色のモザイク画を見ても分かる。その影響もあって15世紀のヴェネツィアではギリシャ・ブームが起こる

第6章        東方の風
ヴェネツィアは東方諸国への扉に当たり、国境を超えなくても東方の空気を感じることが出来た
ヴェネツィアの自由な空気のお蔭で、巨大な書籍の多国籍企業とも言えるほど、各国語での出版が可能

第7章        世界と戦争
新大陸と航路の開拓に加え、旧大陸の知識を普及させることでも、ヴェネツィアは大きな存在感を示し、少なからず貢献
ヴェネツィアでは、貿易活動が盛んで経済・文化の中心地として栄えていたことから、印刷術の発明の遙か以前から地図を作っていた
大発見の時代になって、スペインとポルトガルの競争の中でヴェネツィアは蚊帳の外だったが、ヨーロッパに新大陸の存在を知らしめたのはルネサンス時代に最も普及した地理書をヴェネツィアの出版社が出したから ⇒ 世界探検に対する知識欲が熱狂的に高まり、ヴェネツィアがそうした情報の発信地としての役割を担う
地図学は戦争と緊密に結びついている ⇒ 軍事建築と要塞建設に関する書は当時最大の軍事大国だったヴェネツィアがほぼ独占

第8章        楽譜の出版
ヴェネツィア人は楽器を弾くのも歌うのも好きだった ⇒ ヴェネツィアには楽譜出版の素地があったわけで、スコットとガルダーノという2社が音楽出版の商業化を牛耳る
楽譜そのものが活字で印刷されたのは1476年にローマで

第9章        体のケア――医学、美容学、美食学
医学、美容学、美食に関する本の出版も、15世紀末~16世紀初にかけてヴェネツィア出版界の輝かしい功績
ビジネス的に成功したのは医学書 ⇒ 16世紀になると専門家が進む。医学の発展という点では、ボローニャやパドヴァの方が進んでいたが、ヴェネツィアも海軍国として軍医の需要が多かった

第10章     ピエトロ・アレティーノと作家の誕生
天才、ポルノ作家、性倒錯者、優雅な知識人――アレティーノの形容詞には事欠かない
初の人気作家。ヴェネツィアに住み、歴史上初めてポルノ文学と定義できる本『色情ソネット集』を出版、観光客誘致にも貢献したが、時代とともに名声は薄れ、こんにちでは彼の文学的な功績はほとんど忘れ去られている
1492年アレッツォ生まれ、各地を転々とした後1527年ヴェネツィアに落ち着き、ローマから異端審問の結果追放の原因となった淫らな図と詩を満載した本を出版、相次いで娼婦の性愛を描いた作品を出して名声を高め、16世紀で最も重要な文献の1つとも言われる『6日間の色事談義』を出版
手紙を本にするという新たな出版の形態を考案、大きな反響を呼ぶ

第11章     衰退、最後の役割、終焉
ヴェネツィアに、ローマの異端審問の波が押し寄せ、本の出版に検閲の網が被せられる
新たな分野として情報の印刷 ⇒ 1718世紀 ヴェネツィアの出版は新聞や定期刊行物が中心
16世紀後半から出版ブームを支えた諸条件が失われていく
豊富な資本を提供していた貴族たちの関心が不動産や農業、さらにはアルプスの豊富な水力資源を活用した産業活動へと向けられる。貴族たちは競って農業や産業の中心に複合家屋であるヴィッラを建て、ヴェネト地方の景観まで変えつつあった。ヴィッラ建築の第一人者として歴史に名を残すアンドレア・パッラーディオ(150880、パドヴァ生まれ)の建築スタイルはイギリスのヴィクトリア朝様式の邸宅だけでなく、ワシントンのホワイトハウスや国会議事堂にも影響を与え、2010年にはアメリカ議会が彼を「アメリカ建築の父」として決議・認定
大西洋航路の開拓で、貿易ルートが地中海から外れたため、ヴェネツィアが取り残される一方、大陸の北側は大西洋に面しているだけでなく、国が宗教改革を受け入れたため、出版の自由がローマの異端審問に侵されることもなかった
フィレンツェやヴェネツィアの経済と文化の発展により、一時期はイタリア語がヨーロッパの共通語となったが、その重要性が薄れてきた
16世紀半ば、ローマの異端審問の影響がヴェネツィアに及ぶ ⇒ 1548年検邪聖省が設置され、プロテスタントの文学を禁止する権限により非合法の焚書が進行、出版界に致命的打撃を与える。世俗後による世俗文学は衰退し、代わって出てきたのが宗教書
外国語の書籍の出版においては、引き続きヴェネツィアが中心的役割を担う
1797年 ナポレオンに征服されヴェネツィアも一国の首都としての地位を失い、出版活動も終焉を迎える ⇒ 唯一の例外がアルメニア語書籍の出版で、1991年ソ連の崩壊により6世紀ぶりにアルメニア・ソビエト社会主義共和国が独立した直後に、世界で最も重要なアルメニア語の出版社が閉鎖された
1920世紀 ヴェネツィアの出版界に晩年の傑作が現れる ⇒ 芸術書に写真を用いる試みを始め、伝統的な印刷に限りのない可能性がもたらされる(ヘリオグラフィー)。これを最後に、ヴェネツィアの出版界の灯が消えた

訳者あとがき
本をあれこれ選べるのは、「出版界のミケランジェロ」ことアルド・マヌーツィオのお蔭。最初は専ら祈祷や学習のためにあった本を、彼は娯楽の対象とし、読書の楽しみを生み出した。持ち運べるように小型化したのも彼
マヌーツィオはじめ、多くの印刷者や出版人が活躍したのが、16世紀のヴェネツィア、世界の出版の中心として栄えた
電子書籍の登場によって人間と本の関係は明らかに変わってきた。だが恐らく技術では実現できないものがある。例えば匂い。買ってきたばかりの本、図書館の本、長らく棚の隅に眠っていた本・・・・・どれだけ便利になろうとそうした本を開いた時に鼻孔をくすぐる匂いを私たちは忘れてはいけない



そのとき、本が生まれた アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ著 「書籍都市」が生んだ知的革命 
日本経済新聞朝刊2013年5月12日付
フォームの終わり
 15世紀から16世紀前半までのヴェネツィア共和国は、東方交易で膨大な富を蓄積し、「アドリア海の女王」と謳われ、ヨーロッパの三大メガポリスの一つとして殷賑を極めたのだった。またルネサンス文化を牽引し、「ヴェネツィア派」を開花させたのである。
(清水由貴子訳、柏書房・2100円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
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(清水由貴子訳、柏書房・2100円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 実は、この時期のヴェネツィアには、もう一つ、「書籍都市」としての顔があった。
 本書によると、ドイツのグーテンベルクの聖書の印刷(1455年頃)から65年後のヴェネツィアは、ヨーロッパの書籍の半数を出版していた。「交易都市」特有の豊富な富、商業ネットワーク、言論の自由などを頼りに横溢な起業精神を備えた出版人がここに蝟集(いしゅう)したのだ。そのおよそ半数はドイツ人だった。たしかに印刷術ではドイツは最先進国であるが、カトリック教会の庇護のもとでの出版だった。
 一方、後発のヴェネツィアでは、人文主義者のサークルに集まった貴族が出版資金を賄っていたために、非キリスト教的というべきか、内容は多岐にわたっている。例えば、世界初のラビ聖書とユダヤ教聖典、さらにヘブライ語、ギリシア語、アルメニア語、南スラブ語書籍、またコーラン、世俗文学から医学書、美容術書、料理本、楽譜などであった。
 こうした状況には決まって天才的人物が輩出するものだ。「出版界のミケランジェロ」ことアルド・マヌーツィオは、「イタリック体」を発明し、句読点の使用も始めたことから「ピリオドとコンマの父」と呼ばれ、また文庫本も初めて出版した。彼の功績は、なんといっても、本を娯楽の対象にした「知的革命」に他ならない。
 それにしても、ヴェネツィアの順風満帆は16世紀中ごろまでだった。それ以降、ローマの異端審問の嵐に翻弄され、また対抗宗教改革の要請を受け、宗教書の刊行に踏み切るが、それと同時に、したたかにも「新聞」と定期刊行物を刊行し始める。
 1797年5月、ナポレオンの共和国征服によって、「書籍都市」もついに終息することになった。
 本書は、「愛書家(ビブリオマニア)」にとって、たまらない一冊である。
(法政大学名誉教授 川成洋)

そのとき、本が生まれた []アレッサンドロ・マルツォ・マーニョ
[評者]内澤旬子(文筆家・イラストレーター)  [掲載]朝日 20130526   [ジャンル]歴史 国際 
出版史から見たヴェネツィア
  1987年ヴェネツィアの小さな教会図書館で、コーランが発見された。刊行は1538年以前。世界で最初に印刷されたコーランだった。グーテンベルクが活版印刷を開発し、42行聖書を刊行したのが1455年。それから百年も経たずに、ヴェネツィアではアラビア語活字が作られ使われていたことになる。
 アラビア文字は、ラテンアルファベットに比べて1文字ずつ繋げて鉛活字を組むのが非常に難しい。ルネサンス期のヴェネツィアには、それに挑戦できる資金、技術、人材、販路に加えて言論の自由があったことを示す。一時はドイツをしのぐほどの隆盛ぶりだったという。
 アラビア語だけでない。アルメニア語、ギリシャ語、ヘブライ語、キリル文字など多言語に対応。さらに地図や新聞、楽譜、美容、料理にポルノまで。需要の多彩さが、当時のヴェネツィアそのものということなのか。出版史からたどる、ヴェネツィアの知られざる魅力にあふれた一冊。



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