我、拗ね者として生涯を閉ず  本田靖春  2013.6.12.

2013.6.12. 我、拗ね者として生涯を閉ず

著者 本田靖春
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日本のジャーナリスト、ノンフィクション作家。
朝鮮京城生まれ。東京都立千歳高等学校早稲田大学政治経済学部新聞学科卒。高校時代の同級生に映画監督の恩地日出夫がいる。1955年、読売新聞社に入社。直後から社会部に在籍、朝日新聞社の深代惇郎とは同じ警察担当記者として接点があった。 1964年、売血の実態を抉った「黄色い血」追放キャンペーンは大きな反響を呼び、献血事業の改善につながった。その数々の功績から「東の本田、西の黒田」と称えられるエース記者だった。ニューヨーク支局勤務ののち、1971年、退社、フリーでルポルタージュを行い、1984年、先輩記者・立松和博氏の挫折を描いた『不当逮捕』で第6回講談社ノンフィクション賞受賞。『誘拐』(1977、第39回文芸春秋読者賞、第9回講談社出版文化賞)吉展ちゃん事件を扱い、『私戦』は金嬉老事件を扱ったもの。むつ小川原を扱った『村が消えた』と共に本多の代表作。大宅壮一ノンフィクション賞選考委員も務めた。
2000年に糖尿病のため両脚を切断、大腸癌も患い、同年から『月刊現代』で「我、拗ね者として生涯を閉ず――体験的ジャーナリズム論」の連載を開始、46回で中絶した。その綿密な取材は後続のノンフィクション作家たちの尊敬を集めていた。『本田靖春集』全5巻がある。趣味の麻雀は阿佐田哲也も賞賛した実力者で「昭和の雀豪」の一人。

発行日           2005.2.21. 第1刷発行
発行所           講談社

本田靖春『全作品集』が電子書籍で刊行された際解説を書いた後藤正治が日経で言及

糖尿病による慢性腎不全から、緑内障で右眼失明、狭心症、脳梗塞、歩行困難な神経麻痺、壊疽等々が余病としてでる
両足切断、右眼失明、肝がん、大腸がん・・・・・
病魔と闘いながら、「精神の自由」「人が人として誇り高く生きること」を希求し、現代人の心の荒廃を批判し続けた魂の叫びがここにある

第1部        由緒正しい貧乏人
「ノンフィクションの時代」の到来は昭和50年代に入ってから ⇒ 立花隆(文藝春秋)、柳田邦男(NHK)、沢木耕太郎、澤地久枝(中央公論)、上前淳一郎(朝日)、本多らが第一世代。自らの取材に基づき作品を書く
沢木以外は皆大手メディアの出身であり、組織の中で力をつけてから新しい可能性を求めて巣立った
ノンフィクション作家とは名乗らないが、ルポライターから頭角を現し確固たる地位を築いた1人に鎌田慧がいるが別格
新聞社を辞めた後も「社会部記者」の積りでやってきたし、そのことに誇りを持っている
憧れは朝日の「門田勲」 ⇒ 元編集局長、社主家の村山於藤(おふじ)と折り合いが悪く、局長退任後本人の希望で社会部の平記者に復帰
私はモノを欲しがらない。「由緒正しい」家系に流れる遺伝子の関係だろうか。欲しがっても手に入らないのなら欲しがらない方がまし。高度成長期、人々は熱に浮かされたようにモノの取得に走った。その行きついた先がマイホーム。実体はとても人間らしい生活を保証するものではなかったが、資産価値の上昇に満足し、保守化していった
日本には土地がないわけではなく、政策がない ⇒ 土地問題といっても、高々半径50㎞の円の中を50坪づつに仕切って住宅を建てれば、日本の全世帯が収まってなお余裕があるという程度の問題
国民は自らの愚かさを知らなければならない。その愚かさとは、欲望のみに頭を奪われ、政治を自分たちの使い勝手のいい様に変える努力をしてこなかったこと 
「豊かさ」が諸悪の根源とまでは言わないが、「豊かさ」を追い求めるあまり日本人は欲呆けしてしまった。暖衣飽食は社会の精神性を失わせていった。保守化の後の政治的無関心はこの国の将来を危うくしている。食べ物を口に詰めるより、頭と心に詰めるべきものがありはしないか
祖父が島原の貧農の次男で、食い詰めて朝鮮に渡る ⇒ 先祖返りの本来の意味は隔世遺伝のこと。祖父母からの遺伝の素質が、親に現れず、孫に現れること。筆者の場合は、敗戦によって暮らしが先祖返りした。戦後中学1年の秋に島原に「先祖返り」して、貧乏がどういうものであるかを肌身で知り、そこからしか見えないものを学んでいった。それが後年新聞記者への道に繋がる

第2部        植民地朝鮮、支配者の子として
仁川に居を構えた祖父は、一旗組としては成功者の部類、10人ほど使って製靴業を営む
父は、京城高等商業を出て総督府の役人から、高周波重工業という国策の製鉄会社の経理担当へ転出、課長にまで出世。肺浸潤にもかかわらず1人娘を溺愛したため娘は10歳で髄膜炎で死亡
母型の父は、祖父に呼び寄せられて朝鮮に渡った発明家だったが早逝、残された6人姉妹の長女だった母は京城一女を中退、薬学校で勉強して薬剤師となり病院に勤務したのち父と結婚、一生を父に献身的に仕えて、87年白血病で逝去、享年79
終戦直後の9月中旬、青酸カリまで用意したが、幸運にも残務整理の父を残して家族は釜山経由で帰国。父も11月には帰国                                                            
(2000年大腸癌切除のため4か月休載)

第3部        戦後民主主義、光輝く
引き揚げ者として差別・阻害された経験から、少数派、社会的弱者の視点から物事を考える習慣が身につき、後の財産となる ⇒ 少数派、社会的弱者の側に身を置くと人間社会の不条理が見える
47年初 父の高周波重工業復職に伴い東京・仙川に移り、千歳中学(旧十二中)に編入
民主化を目指すGHQが占領政策の一環として中等教育の現場に持ち込んだのが生徒会活動であり、生徒会総会の決定には学校がいとも容易く従い、生徒たちは自分たちの力で物事が動くことを肌身で感じ取る
幼少期、慢心させないことを教育の基本として厳しく躾けられたこともあって、親子関係が一番厄介で息苦しいものだった ⇒ 「尊敬する人」として父母を上げることに反発を感じ、大学に入る頃には父を偉いと思わなくなり、社会に出る頃には母をも乗り越えた

(2001年壊疽で右足切断により3か月休載)

上京後珍しく父が子供たちに手製の牌で麻雀の手ほどきをしたのが、学生時代の生活費稼ぎの手段となり、阿佐田哲也にも強いと一目置かれる存在に
生徒会長や学園祭の準備委員長として、拗ね者の萌芽を見る

第4部        新聞記者への道
父の病状からして大学進学を諦めていたが、父親から勧められ、憧れていた新聞学科を目指す ⇒ 早稲田は、千歳高校で中位の成績なら入れる大学で受験勉強もせず
入学直後の統一地方選で、社会党から世田谷区長選に立候補した千歳高校の級友の父親の選挙運動を手伝う ⇒ 惨敗
読売に入ったのは新宿が取り結ぶ縁 ⇒ 51年当時は全国紙を名乗っていたが実質的には関東を中心とするブロック紙で、朝日、毎日に比べ一段と格が落ち、紙面の粗さが目だち、センセーショナルな報道姿勢が安っぽく感じられたが、その年不健全な盛り場を暴く「新宿粛清」というキャンペーンを開始したのに魅力を感じた

(左足切断で3度目の休載)

読売のキャンペーンが国会の質問にも取り上げられ、警視庁も繁華街の暴力一掃に動き出す ⇒ 読売はその後も「不良外国人の東京租界の摘発」「築地魚河岸の浄化」と続け、53年社会部に第1回菊池寛賞が贈られた
52年 読売は大阪に進出してようやく全国紙への第1歩を踏み出す
読売に内定した後、早稲田に講師で来ていた読売の論説委員の事務所に出入り、年末のある日論説委員に代わって社説を書く。テーマは「十大ニュースと世相」

第5部        社会部配属、そして暗転
社会部黄金時代に入社、配属 ⇒ 「社会面の読売」と評価され社内でも別格扱い
読売の硬派(政治・経済・外報など)は、所得・学歴とも低い層を主たる読者としてきた読売の弱点で、中身が薄いものの読売はそれで通してきた ⇒ 大正末期に発行部数が5万前後に落ち込んで潰れそうになった読売に社長として乗り込んだ正力が打ち出した新機軸が社会面1本槍。52年の専売制復活(新聞社毎の競争体制)で死んでいた言論の自由が息を吹き返すが、その緒戦で読売は目覚ましい勝利
6か月後の本採用で甲府支局に飛ばされ、その不満もありさらには一旦飛ばされた記者が社会部に戻った例はないということもあって現地で社内外とぶつかり、辞表をたたきつけるが、飛ばされたのが読売社内の赤狩りのカモフラージュの一環だったとことから、裏の事情を知る幹部に慰留され、56.5.には社会部に復帰

第6部        溌剌たる警察(サツ)回り、そして遊軍
57年 立松事件 ⇒ 検察の主導権争いに巻き込まれた社会部の立松名物記者が、検察内部の偽情報を基に、売春防止法案潰し絡みの汚職で自民党代議士2名を告発、自民党代議士は名誉棄損で提訴、検察も立松を逮捕して情報源を炙り出そうとしたが立松は黙秘を貫く。読売は当局からの圧力に屈して取り消し記事を書くとともに、立松ほかの関係者を処分、立松は記者生命を絶たれ、失意のうちに5年後自死。この事件を契機に、社会部は社内での掣肘に遭い衰退していく

第7部        社会部が社会部であった時代
政治部と社会部はそりが合わない ⇒ 政治部からすると社会部はくちばしの黄色い奴らの集まりで、不勉強だから政治の何たるかを知らず、次元の低い「正論」ばかり言い立てるとし、「紅衛兵」と言って馬鹿にする。一方社会部は政治部を記者として認めない。赤坂の料亭で有力政治家にタダ酒を振る舞われ、その意に沿った原稿を書く、まさに権力者の走狗に過ぎないところからその存在を黙殺する
当時の読売には、社会部を前面に押し立てて、大衆の新聞として朝・毎の向こうを張るという総意が社全体にあって、若い芽を育てることに皆が熱心だった ⇒ 筆者が書いた記事を、「よみうり寸評」担当の論説委員が褒めてくれた揚げ句、料亭で一席設けることまでしてくれた。社会部が社会部であった時代の話
社会部の良き時代の幕開けは、新聞が戦後の民主化の先頭に立った当時だが、自ら勝ち得た言論の自由でないばかりに、新聞記者は浮かれ過ぎてその大切さを忘れ、旧体制の復活に連れて権力側に巧妙に祭り上げられていく
単に殺人者の名前を他紙に先んじて素っ破抜いたという類の特ダネには価値を見出さない。労多くして社会的に益なし。人々が遍く知っている事象を、それまでになかった視点から取り上げ、問題を指摘し、その報道の連続によって人々が目を見開き、その意識改革が次第に社会の動きとなって全体が問題解決に向かう、そういう報道こそに価値があると考える ⇒ 61年から4次にわたって取り上げた「交通戦争」キャンペーンがその代表格(高校の同期生で読売社会部同期入社の小倉による記事)
社会部嫌いで通る渡邉恒雄氏は、社の全権を掌握すると、人事面で社会部出身者を冷遇

第8部        渾身の「黄色い血」キャンペーン
62年 早稲田の学生が中心になって売血の実態調査を始める ⇒ 冷蔵保管で梅毒感染は防げたが、肝炎ウィルスの蔓延による血清肝炎(現在はC型肝炎として確定)が大流行。その源が商業血液銀行と呼ばれた買血業者(大手2社は731部隊の生き残り)で、ドヤ街を中心に常習売血者からの採血
その情報を基に山谷に潜り込んで取材
頻回採血を続けると赤血球が減って比重が下がり黄色っぽくなる ⇒ 「黄色い血」
採血及び供血あっせん業者取締法では、業者は1人から1か月1(200cc)しか採血できないにもかかわらず、多い人では24本も抜いていたため、貧血でバタバタ倒れた
()血が認められること自体世界の潮流からは外れるが、保存血のほぼ100(献血は0.5)が売血で賄われているのはさらに異常、買血の実態に至っては反社会的であり看過できないとして、「売()血追放、献血100%」への行政転換を訴えるが、厚生省は「必要悪」として取り合わないため、「黄色い血の恐怖」と題するルポを連載、3年半にわたるキャンペーンを展開した結果、64年大蔵省の予算支援もあって厚生省の献血への方向が決まる
2年後献血が50%を超えたところで買血最大手のミドリ十字が白旗を上げ、日赤から期限切れの廃血を譲り受ける(「成分製剤」と「血漿分画製剤」に転換)代わりに買血からの撤退を宣言
85年 日本の献血者は8.7百万人で、献血率は7.4%と世界最高水準を記録
血漿分画製剤に進出したミドリ十字は、急増する需要に応えるためアメリカの製薬会社から血漿の輸入を始めたが、アメリカの会社は買血に依存していたため、その製剤を投与された血友病患者がエイズに罹患して死亡 ⇒ 単純にミドリ十字の条件を受け入れたための事故であり、知識不足を露呈
筆者は98年肝臓がんを宣告されたが、原因は当時取材で何回も売血したのが原因だろう

第9部        病床で飽食日本を斬る
記事の良し悪しを分けるのは、主観の優劣 ⇒ 世界観も歴史観も持ち合わせていない人にまともな記事は書けない
この半世紀余を振り返って、私たち日本人が成し遂げた最大の偉業は、奇蹟的な経済発展を以て永年にわたる貧困を追放したこと、最悪のものは、消費熱に浮かされ、欲望の充足にのみ心を奪われ、取り返しの付かない精神的荒廃を招いたこと

第10部     正力コーナーへの嫌悪
記者だった頃、読売の社会面には3日にあげず載った「正力コーナー」と内輪で呼んでいた記事があった ⇒ 社会部記者の頭痛の種で、嫌気がさした筆者は退社の道を選ぶ
震災の荒廃を機に大阪本拠の大阪朝日と大阪日日(毎日)10紙以上が群雄割拠して凌ぎを削っていた東京に進出、東京勢は太刀打ちできずに経営困難に陥ったが、その1つの読売が身売りされることになり、摂政の宮襲撃事件で警視庁No.2を懲戒免職となった正力が跡目の候補となり、後藤新平の資金援助で再建スタート
読売という紙名は、記事を読み上げて道行く人々に売った、江戸時代の瓦版の販売方式から採ったもので、1874年創刊、創刊当時の紙名を一貫して使っている新聞としては最古
読売は正力の私物であって、始末が悪いことに全ての社員が抵抗感もなくそれを容認
正力が社主に就任したものの、警察官僚という前歴に、上層部がすべて辞表を出す。辛うじて1人だけ口説き落として編集局長にしたが、販売部門は警察の元部下たちで固め、「警察新聞」と言われる
正力の施策が悉く当たる ⇒ 最初が、25年に開始されたラジオ放送の番組欄、競争相手を利するとして敬遠する他紙を尻目に販売部数を伸ばす
当時の紙面構成 ⇒ 1面が広告(書籍、雑誌)2,3面に硬・軟ニュース、4面が婦人欄、5面が文芸・連載講談、6面に連載小説、7面が経済・論説、8面が市況
正力の紙面改革断行 ⇒ 37年から1面をニュースに開放
「正力物=正力コーナー」 ⇒ 正力が号令をかけて推進する、読売グループの企画や事業を、その進捗状況に応じて逐次社会面に掲載
「逗子3段」 ⇒ 正力の住む逗子版には3段で載せるが、後の版ではベタ記事にして隅に押し込める一種の目くらまし
正力の関連事業への関心の高まりとともに露出が増え、読者からも公器の私物化だとして苦情の電話がかかるようになり、社主に直接苦情の手紙を書くように仕向ける
49年 川崎競馬倶楽部設立、競馬場を建設して県に貸与
63年 読売ランド構想 ⇒ 競馬倶楽部が郊外移転のために手当てした土地に、57年読売主催のカナダカップで日本が優勝したのを契機にゴルフの普及を期してゴルフ場建設が先行、6164年と相次いでコースが完成、ゴルフ・ウィドウのための施設として遊園地構想が出てきて、正力の事業狂いに拍車
猪瀬と佐野眞一がまだ無名の頃、出版社と原稿料値上げの交渉をするのに名前を借りに来たが沙汰やみに ⇒ 著者が猪瀬の師匠だと言われたことがあったが、生き方のまるで違う彼が著者に学ぶことなどない。猪瀬は勉強家で仕事熱心、世渡りも上手だと思うが、なぜか人に好かれない、単に威張り過ぎるからといったような表面的理由だけによるものではなさそう。大宅壮一賞を受賞して朝日の「ひと」欄に登場したとき、略歴に「国労書記」とあったことに立腹していた。国民雑誌と言われる文藝春秋の『週刊文春』に喰らいついて有名人への階段を上っていったが、その略歴が邪魔だったのだろう
「おいしい生活」というコピーで大評判を取った糸井重里も全共闘時代にしては世渡り上手 ⇒ 「おいしい」とはちょっと物欲しげで卑しい語感がするが、今はそうではないらしい
全共闘時代で頑張っている中には『噂の真相』の岡留安則がいる。身の危険もあったろうが刊行を続けながら04年休刊を公表、そのあとに寂寥感を禁じ得ない
正力の新聞事業の位置付け ⇒ 新聞発行で得た利益を、各種事業を通じて読者に還元することが大切とし、新聞紙面を自分の手掛ける事業の宣伝係へと堕落させ、自らの晩節を汚す。著者が生涯を賭けた記者職を社主によって貶められたのが退社決意の発端
読売には、中途で独立する記者が多く、特に20年代入社にその傾向が強い ⇒ 芥川賞作家の菊村到、日野啓三、推理小説の佐野洋、詩集の大岡信、政治評論家の戸川猪佐武(菊村の実兄)、経済評論家の秋元秀雄、直木賞の三好徹、長部日出雄
60年安保における6.15の雑観記事に抜擢され見出しに署名入りという異例のトップ記事(激越なほど主観的に南通用門における乱闘を書いたが、自分の痕跡が残らないほど全面的に書き直された)で注目され、その直後に庄内の紀行文で、硬軟両面にわたる署名記事を書き、社内デビューを果たした格好だったが、主観の強い原稿を書くよう心掛けていたのが新鮮に映ったのか、以降社会面の署名記事が筆者に集中、それが部内に妬みや不快感をもたらしているという「加害妄想」が広がる
二・二六事件に際して、反乱軍の一部が朝日本社の正面玄関に機関銃を据え、自由な言論に圧力を加えようとした際、編集局長の緒方竹虎が銃口に身を晒しながら反乱軍に立ち退くよう説得したというが、今の読売には正力に立ち向かう人すらいない

第11部     さらば、読売新聞
渡邉恒雄が社長・主筆となった結果読売の社説は以下の問題を孕む ⇒ 特に自衛隊の憲法9条解釈

   社論の主筆偏重。実質的に論説委員に論調形成の自由と実権がない
   社説が論説の枠をはみ出し、ニュース面をも占める
   特に提言報道はアジェンダ・セッティング(報道による意図的な世論誘導)の色彩が強いうえ、社説とニュースが輻輳し、それらの識別が困難
正力ですら、自分の主張を編集の各部門に押し付けることはなかった
712月 退社
大学時代の友人の女友達が日劇ダンシングチームの踊り子で、その紹介で引き合わされた彼女の同期生に一目惚れ。妻にするため幼稚園経論の資格を取らせたが、浪費癖もあって銀座のホステスに転身、売れっ子になったが、61年結婚で身を引く。父親の療養生活に伴い両親と同居するが、母親が妻の言動に呆れたところへ、善行の団地に当選、新聞記者の自宅としては遠すぎたため、実質別居の生活となり、その間に妻が家庭を顧みない筆者に不満を募らせサラ金による浪費にはけ口を求めた。ある日突然会社にサラ金から督促の電話がかかり、問い詰めて全額を代わりに支払い、離婚。子供は引き取って再婚した

(この第11部の最終部分執筆が046月。直後に体調が悪化、中絶は3か月に及ぶ)

絶筆 拗ね者の誇り
独立後、古巣の先輩の紹介で文藝春秋の田中健五氏を紹介され、編集長をしていた『諸君!』の仕事が続いて入り、順調にスタート
田中氏に可愛がられたが、田中氏は確固たる信念に基づく保守主義者、誌面を通じて朝日を「左翼偏向」として批判。72年文藝春秋の編集長昇進とともに、新しい時代に向けての出発の狼煙を上げ、元文春の編集者だった立花隆を起用してノンフィクションの原型とも言うべきものを模索し始め、その先兵に筆者を起用、『現代家系論』の連載を任されたが、『文春』の常連の書き手に名を連ねるのは、体制に順応することを意味すると考え、距離を置くことにして、弱小出版社(潮出版社?)を主たる舞台としてスタートからやり直そうとした
やがて伸びてきた救いの手が無かったら、間違いなく野垂れ死にしていたであろう










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