お言葉ですが。。。。 第9巻 芭蕉のガールフレンド  高島俊男  2012.8.14.


2012.8.14. お言葉ですが。。。。 第9巻 芭蕉のガールフレンド

著者  高島俊男

発行日           2008.6.10. 第1            単行本 2005.2.
発行所           文藝春秋(文春文庫)

2003年夏からの1年分を収めた
タイトルは、専門家に丸投げしてつけてもらっている
毎篇とびとびの話では面食らうので、編集者が似よりのテーマが集まるように並び替えている
単行本が出て3年経つと文庫本になる

やせっぽち一代記
1.        武蔵にいたころ
昭和40年代の前半の45年間武蔵で漢文を教えた
漢文の「漢」の字は本来、草冠ではなく「廿」 ⇒ 戸籍でも手書きからJIS漢字の印刷になったため、勝手に変更された字が多い
非常勤講師の方が多く、大半は東大の大学院生、授業内容は講師に一任 ⇒ 生徒の出来がべらぼうに良い
正田建次郎(数学者、美智子皇后の伯父)が、阪大の学長から経団連が引っ張って武蔵大学長となり、中校長を兼務。昭和44年文化勲章受章 ⇒ 「校長が文化勲章を受賞したそうだ」「ふうん」で終わる

2.        管弦楽組曲二番
試験の答案の裏面に好きなことを書け、特別気のきいたことを書いたら10点やると言った ⇒ 10点やった答案は、「いつも同じ服を着ている」「お天気屋さんだ」
文学部の助手に採用されて辞める時、生徒がプレゼントを贈りたいと言ったので、生徒の中でそこそこフルートを吹く子がいることを聞いてバッハの管弦楽組曲二番を頼んだ

3.        北陸心の旅路
『心の旅路』は1942年のアメリカ映画のタイトル。その内容から記憶喪失のことを「心の旅路」と言った(用法:試験が終わった途端勉強したことはみんな心の旅路だよ)が、それを分かってくれた読者からの手紙が嬉しかった

4.        泣きの涙のお正月
「滄海桑田」もただならず ⇒ 世の中の移り変わりの激しいことのたとえ
35年前の武蔵の教え子が痔の手術をしてくれた時の述懐
「鷗外三史伝」 ⇒ 江戸後期の学者の伝記、『澀江抽齋』『伊澤蘭軒』『北條霞亭』の三篇。鷗外の場合は伝記と言わず史伝と呼ばれることが多い

5.        サンライズ瀬戸
痔の術後故郷に帰れなかったときに教えてくれた夜行列車
著者は井手正敬(JR西日本社長)と駒場の同級生

6.        ケンケンガクガク?
侃侃諤々(自分の正しいと信ずることを、場所相手かまわず遠慮なく述べ立てること)と喧々囂々(大勢がやかまかしく騒ぐ様)の混同だが、91年には広辞苑も認め、「多くの人が色々な意見を出し収拾がつかないほどに騒がしい様」としている
重ね言葉は擬声擬態語が多い ⇒ 難しい字を充てているが、語としては単純

7.        やせっぽち一代記
「営養」「栄養」 ⇒ 辞書も併記するが、身を「さか()えやしな()う」では何のことかわからず、「いとな()み養う」であろう。身体を「滋()養」する意味で「営養」が主だったが、内務省に設置された「栄養研究所」という役所名がきっかけとなって「栄養」に変わった

今やひくらむ望月の駒
8.        どうせ俺らは玄カイ灘の
「玄界灘」と「玄海灘」 ⇒ 地図は「界」を使うが、昔から人によってまちまちで混乱
「超弩級」 ⇒ 1906年英国戦艦ドレッドノート級の性能を持つ戦艦のことを略して「ド級艦」と言い、その性能を超える戦艦が「超弩級艦」で、その第1号は1912年竣工のイギリス戦艦オライオン。日本もその頃から超弩級艦を建造、以後は大半が超弩級艦(「超級艦」とは書かない)。昭和の初め頃から戦艦以外にも台風などの表現に使われるようになり、戦後は「弩」の字が使えなくなったので、「超ド級」となった

9.        今やひくらむ望月の駒
北佐久郡望月町 ⇒ 05.4.合併により佐久市に編入
全国の「望月」姓は全てここの出身、1582年望月城が陥落後、地元には望月姓1軒もない
元々は滋野姓。ここから海野、禰津(根津)、望月の3姓が分かれた ⇒ 同族
馬の町 ⇒ 奈良時代から馬の牧場があり、「御牧(みまき)」からは天皇や皇族の乗馬が供給された ⇒ 史跡「望月牧と野馬除(のまよけ)」があり、「望月の駒=満月の馬」として歌にも詠まれている ⇒ 紀貫之「逢坂の関の清水にかげ見えて今やひくらむ望月の駒」
今少納言 ⇒ 江戸後期の学者狩谷棭齋の娘「たか」。伊澤蘭軒の息子柏軒(医者)に嫁ぐ
新少納言 ⇒ 神田の鉄物問屋の娘山内五百(いほ)。澀江抽齋の4番目の後妻

10.    パンツ・ステテコの論
11.    語ラザレバ憂ヒ無キニ似タリ
良寛の書いたもの、「君看双眼色 不語似無憂」→「君ミヨ双眼ノ色 語ラザレバ憂イ無キニ似タリ」と読み、「当人がそうと言わなければとても悲しみを持った人には見えない」という意味のはずだが、良寛の出身地出雲の役場が発行したパンフでは、「眼を見てもらえれば私の憂いが分かる」の意とあるのは不可解

12.    台湾天下分け目
ジャングルから出て来た元日本人兵の1人は台湾の原住民アミ族の人 ⇒ 戦前日本は、ポリネシアからフィリピンを経て無人の台湾に住み着いた原住民全体を「高砂族」と呼んだ
秀吉の頃台湾のことを高山(たかさん)と呼び、高山国(たかさんごく)がつづまってタカサゴとなり、「高砂」の字を充てたのは江戸の初め頃

13.    国境の長いトンネルを抜けると…
子規「雪残る頂一つ国境」 ⇒ 地名不詳
康成「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」The train came out of the long tunnel into the snow country.(サイデンステッカーの英訳には「国境」が欠落、原文では読者は汽車の中だが、英訳では空から見ているととる)
清水トンネルの開通は昭和6年なので、厳密には「県境」
江戸時代には、上野国と越後国の国境だったが、一般的に国の境を「こっきょう」という呼び方はない ⇒ 「上越国境」と言うのは戦後のスキーヤー辺りの造言い方
『雪国』に関しては両論あるようで、川端氏本人は、「コッキョーの」くらいに思っていたようだが、ある研究者に「くにざかい」と読む方も多いと言われ、「そうですかね」と譲っている ⇒ 本人の生前から研究者がいるのも珍しいし、日本人は字で意味が分かれば音はさほど気にしないとはいえ他人に言われて原作者が納得するという話も面白い
戦前の日本では、地続きの国境は樺太のみ。ソ満国境が歌に歌われる

14.    長野県がなくなるの?
古来、国名の一字に「州」をつけて呼ぶ習慣があった ⇒ 普通は頭の字を使うが、二字目につける場合もある(出雲→雲州、近江→江州)。「前中後」のついた国名にはつけようがないし、つけると混乱する(備前、豊前、筑前、肥前)
中国で神話時代から州があったのに倣って、カッコをつけて支那風に俗称を使った
信濃は古くは「科野」と書いた ⇒ 「しな」を含む地名は階段風地形を表すとする説と、「科(しな)の木」説とがあり、決着していない
豊科 ⇒ 明治74つの村(鳥羽、吉野、新田、成相)の頭文字をとった合成地名で、「しな」論争の埒外

芭蕉のガールフレンド
15.    文ちゃん文ちゃん
古来、男から女に手紙を書くことは希だったので適切な対称(相手を呼ぶ語)がない ⇒ 漱石の書簡集でも2500通のうち、社会的関係と言えるのは10通程度
芥川が、同級生の姪だった恋人(後の夫人)の塚本文(ふみ)に出した手紙では、「文ちゃん」の連呼
時とともに敬意が低減するので要注意 ⇒ 「貴兄」は、親しい友人か年下の相手に用いるし、「貴殿」も年長者宛には使わない
祇園の芸妓が漱石の第一印象を綴った手紙で、48歳の漱石を「日本語の上手な西洋人のおぢいさん」と表現しているのが面白い

16.    芭蕉のガールフレンド
大津在の後家さんで尼僧・智月 ⇒ 奥の細道の帰途の芭蕉に入門

17.    騎馬民族説と天皇
昭和天皇が、考古学者・江上波夫の騎馬民族説を喜んで聞いていた

18.    かごかく、汗かく、あぐらかく
「かく」という動詞の多様性に驚く
「ひっかく」の類、「露出する」の類、「組む」の類の3種が多い

19.    犬かき、べそかき、落葉かき
20.    ファミレス敬語はマニュアル敬語
「よろしい」は、上の者が下の者に対して「一応合格」とやや横柄に容認する場合の表現

21.    オカルト旧暦教
旧暦生活を勧める人がいるが、旧暦の認識そのものがいい加減

門弟いろいろ
22.    こいすちょう流
無知の証明 ⇒ 百人一首・壬生忠見の句「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」の句を、発音そのままに書くバカがいる
新かなを無理やり文語文に適用しようとした弊害であり、日本語の破壊にもかかわらず、岩波文庫がこの40年来その無茶をやっている ⇒ 寺田寅彦の俳句評論で引用した芭蕉の句「荒海や佐渡に横たふ天の川」を「横とう」と改変、そんな語はない

23.    蘇峰、如是閑、辰野先生
戦前の日本の知識人は、徳富蘇峰好きと長谷川如是閑好きに劃然と分かれる ⇒ どちらも好きというのはありえない
昭和10年代にまで生き延びた明治知識人の2本柱は、三宅雪嶺と幸田露伴
蘇峰は、著名度は高く一般大衆受けしたが、インテリには現代の道鏡と映る
フランス文学者・辰野隆が、随筆『忘れ得ぬ人々』で漱石・寅彦、如是閑に力を入れている ⇒ 特に漱石を尊敬、新婦の姉の頼みで結婚披露宴に夫妻で出席してくれたが、帰宅後胃病が急変して18日後に逝去
如是閑は子供のころ坪内逍遥の私塾に住み込み

24.    門弟いろいろ
「門弟」とは、師を尊敬し、慕い、生涯をかけて師の道を進もうとする者。門弟という観点で古今の名家を見たら面白い
江戸時代に門弟の多かったのは芭蕉 ⇒ 全国を旅して、門弟を指導
門弟の方から集まってきたのは荻生徂徠 ⇒ 家が茅場町にあったところから徂徠を中心とする学者集団を「蘐園(けんえん:茅場の中国風呼び方)」という
本居宣長も全国に門弟がいた ⇒ 死去したときには5000人近くいた
弟子のいない学者の筆頭は新井白石
早逝しながら門弟(子分)が多かったのは正岡子規(師・内藤鳴雪まで子分にした)と尾崎紅葉
全国に崇拝者はいたが、門弟はいなかったのが鷗外と露伴(助手や助っ人はいた)
柳田國男も全国に門弟が多かった ⇒ 特に女性を多勢育てた

25.    ドイツ語教師福間博
鷗外の崇拝者で、小倉師団の軍医部長の頃家まで押しかけてきて、息子於菟のドイツ語の家庭教師、後に一高教授

26.    乃木大将と鷗外
2人の親交の様子は、於菟の『乃木将軍と鷗外』に詳しい ⇒ 初めて会ったのは明治20年ベルリンにて(乃木少将39歳、鷗外26歳、どちらも陸軍留学生)
鷗外の作に『興津彌五右衛門の遺書』 ⇒ 細川忠興に仕え忠興の3回忌に追腹で殉死した武士を主題にした小説。仲間を斬り殺した際切腹を申し出たが主君に止められた
明治天皇の大葬に参列中に乃木殉死の噂を聞いたが半信半疑
乃木自殺は評判が悪かった ⇒ 朝日社内では社長以下「馬鹿な奴」ということだったが翌朝の新聞のトップは「軍神乃木将軍」。ただし、否定的評価も隅に掲載されていたし、陸軍においてもエリート教育の陸軍大学校の戦史講義では愚将
それを知って鷗外が3日で書き上げた乃木擁護の『興津彌五右衛門の遺書』 ⇒ 正面切って殉死を擁護するわけにはいかなかった

27.    殉死パフォーマンス
『興津彌五右衛門の遺書』は、その後史料が種々出てきて、史実と違うことが多かったために、改稿では大幅に変更を余儀なくされた ⇒ 初稿との違いの大きさがユニーク
鷗外は歴史そのままを重んじる人だったので、初稿の趣旨だった乃木大将はどこかへ行ってしまい、冒頭の「やつめボケたか狂ったか」も無論なくなった
「殉死」とは主君の後を追って臣下が自殺すること、消防士が現場で落命するのは「殉職」

28.    佐々成政の峠越え
旧暦と西暦を比較するのは困難 ⇒ 時代考証をしていても変な間違いが多い
旧暦で「秋も深い1124日」 ⇒ 西暦では「12日」なので、まったくトンチンカン
岩波新書に、佐々成政の越中から信濃への山越えが1225日で、「旧暦でも陽暦でも偶然同じ日」とあるが、そういうことはありえない(岩波では時代考証が出来ていない)。実際は陽暦で125日だった ⇒ 120名の家来のうち生存者は主従7名のみ
赤穂浪士の討ち入りも元禄151214日は1703130日。1702年は旧暦の1113日まで
岩波書店の辞書類では、強引に和暦の通し年数を西暦の年次としている ⇒ 広辞苑も同じにしているが、西暦で表すと歴史上の時候感が全部狂うので困る

柳田の堪忍袋
29.    柳田の堪忍袋
落語の人情噺の一つ、モトネタは講談の「碁盤割」 ⇒ 浪人(柳田格之進)が両替商と碁を通じて親しくなり、両替商の家で碁を打っているうちに店の金50両が紛失、疑いをかけられた浪人は、将来金が出てきたら両替商の主従の首をもらうのと引き換えに1人娘を吉原に売って支払う。のち旧主に帰参叶って出世する。一方金は店の中から出て来たが、柳田は2人を許し、娘は両替商が請け出して番頭と夫婦になって仲睦まじく暮らした
金原亭馬生(志ん生の長男で志ん朝の兄)は、誇り高い武士の娘にとってありえない結末だとして、話を変えて柳田自ら娘を身請けしたが、娘はやつれ果て見るに見かねた柳田が両替商に乗り込んで、2人の首の代わりに碁盤を真っ二つに切り、今後決して碁は打たないと、唐突に終わる ⇒ 原作に忠実
志ん朝は、不合理でも昔からの由緒ある形に従い父のやった通りに演じた

30.    浪人猪飼某の話
「碁盤割」の原話は、江戸後期に碁の歴史や古今の逸話を書いた『爛柯(らんか)堂棋話』にあり、浪人の名は猪飼某。娘を売って金を払ったところまでは同じだが、浪人は小作になり、金が見つかった後、商人が浪人を探し出して金を返すが、その金には手を付けずに生涯を終えた、というもの
「爛柯」とは碁の異名。「腐った斧の柄」の意。古い支那の話に、仙人の打つ碁を樵が見ていて、ふと気が付くと傍の斧の柄が腐っていたということからきている
「按語」とは、「按/案」は「思う」「考える」の意で、他人の文章や人の話を聞いた後自分の感想や批評を述べる時に、冒頭に「按ずるに…」と書く習わしがあったところから、その感想・批評のことを(「按語」と)いう

31.    蓑虫のやうなる童(わらは)
「肘笠雨(ひぢかさあめ)」とは、肘を笠代わりにして防げるほどの俄か雨のこと

32.    日本人は説教好き?
浪人猪飼某の話のネタモトは、江戸末期の随筆集『雲萍雑志』(著者不詳) ⇒ 萍はうきくさのこと、「雲や萍のようなとりとめのないことを雑(あれこれ)と志(しる)した」の意
「閑話休題」 ⇒ 主題からそれた話を元に戻すときに、冒頭に置く言葉
日本の学者の随筆には説教臭(読者に人の道を教えようとする傾向)が強いように思われる

33.    『キング』と『主婦之友』
『キング』⇒ 大正13年創刊の講談社が出した戦前最大の大衆向け低俗雑誌
『主婦之友』は婦人雑誌の王者、『キング』『家の光』と共に戦前の3大雑誌
女性のインテリは、男性と同じ知的関心を持つので、婦人雑誌=大衆雑誌

34.    『銀の匙』(中勘助著)の擬声擬態語
散文作品の中で一語一語気を使っているかどうかは擬声擬態語の使い方に現れる
ひらがなかカタカナかでも異なるし、前後にスペースを入れるか入れないかでも響きが違う ⇒ 日本語の文章は視覚が重要であること谷崎も『文章讀本』で説いている
にも拘らず、岩波文庫は勝手に「現代表記」に改変、旧仮名使いのみならず句読点まで変えてしまった ⇒ すべての文庫本の巻末に、「価値ある書物を確かな本文で提供することを、日本文化に対する創刊当初よりの任務とするシリーズ」とまで記載しているのは、鈍感・傲慢・粗暴であり、まさに「文化の罪人岩波文庫」以外の何ものでもない


法務省出血大サービス
35.    苺ちゃん、燕くん
昭和231月 新戸籍法施行により人名漢字は「当用漢字の範囲内」との制限 ⇒ 昭和26年「人名用漢字別表」により92字追加
その後も緩和の要望が出て逐次追加されているのは、戦後の「漢字制限・全廃」政策の失敗の好例 ⇒ 「苺」や「燕」など教科書にも新聞にも出てこない字をどこで知ったのか
当用漢字は、もともと固有名詞は別としてあった(岡、藤、弘、彦)にもかかわらず、当初は人名としての使用を認められなかった
名前変更の訴えは、受け付けた裁判官の裁量によるところが大きい ⇒ 「杏子」を役場が見過ごして受理したため勝手に「否子」として戸籍に登録したケースは変更を認めた

36.    法務省出血大サービス
2003年 人名用漢字の大幅見直し ⇒ 追加希望アンケート実施(「苺」が1位、「燕」3)
(2010.11.現在861字 ⇒ 内常用漢字の異字体212。常用漢字2136との合計2997字体が人名として使用可能)
奈良・平安にみられる女子名に付く「子」をどう読んだか ⇒ 清少納言の仕えた中宮定子を「ていし」と教えられたが本当は「○こ」で、それをどう呼んだかは今となっては不明なので、仮に音(おん)でよんでおく習慣になっている(「し」が音読み、「こ」が訓読み)
「明子」を「あきらけいこ」とよんだ例がある
建礼門院徳子も広辞苑他は「トクコ」としているが、昔は「一字子」(一字の下に子をつけた名前)での上の一字の音読みは絶対にない。二字子、三字子の音読みはある(度茂子)がこれは万葉假名名で、今の「ひらかな子」(ゆき子)にあたる

37.    「人名用漢字」追加案
2004年一挙に大幅な追加があったが、雑誌や書籍で多く用いられる表外字(常用漢字や人名漢字以外)を列挙したもので、人名に用いられるかどうかは選択の基準になっていない
見直しのお蔭で、政府の方針に反して書籍等で生き残っていた卑怯、蔑視、呪文、崩潰、厭世などのことばが市民権を得た ⇒ 日本人が普通に使ってきた言葉を政府が威力で禁圧するのはやめようというメッセージであれば歓迎する
最終確定の段階で、人名として不適当と思われる88(「蔑」を含む)を削除したのは、選択の基準を考えると矛盾
拡張新字体(類推字)は不採用とし、正字のままとした ⇒ 一部例外あり
例:「苺」は「毎」ではなく、正字の「母」を使っている

38.    カタカナ語には泣きます
国立国語研究所の外来語委員会が、外来語の日本語訳を公表 ⇒ 昔の外来語は目に見えるものが多かった
外来語は、不活性で応用の利かない、国語語彙として初めから不良債権となることが約束されているような代物、モノはともかく、抽象性の高い語は一度は国語に訳してみることが大事

39.    ボケの神秘
「こと」と「ことば」「こころ」は別個に管理されている ⇒ 実の娘も分からない痴呆者が世界中をアルツハイマーの体験談を話して回ったり、42歳で大病し25歳以降の記憶を喪失した人が実母の老けたのを見て驚いたり、不思議な現象が多い

40.    痴呆の歴史
「痴呆」が使われ出したのは大正以後 ⇒ 「腑抜け」や「愚行」くらいの意での使用例。昭和9年の辞書でも「あほう。ばか」とあり、医学用語として登場するのは昭和11年の『大辞典』、「ばか。あほう」が削除されたのは昭和44年の『広辞苑』第2版から
「痴」はおろかの意だが、「呆」は「保」と同音同義というだけで勝手に充て字として用いられたらしく、「痴呆」の場合も本来dimentiaの訳語として「痴狂」だったところ、「狂」の字は好ましくないとして忌避し、「呆」の字を充てた

41.    アホはどこから来たのかしら
13世紀初め、鴨長明に用例があるが、本当のところ語源は不明


役割に生きる日本人
42.    論文は何本?
助数詞の使い方の決まり ⇒ 中国では「量詞」と呼ぶが、日本語と一致するものはほとんどない。論文は「篇」(日本では「本」)、書物が「本」(日本では「冊」)
論文を「本」で数えるのは、業績とか研究の成果を対象としているから ⇒ 銃剣道の決まり手も同じ範疇
ひろく「痛快な行為」を俗に「1本」と言い、性行為もこれに当たる?

43.    壬申の乱、応仁の乱、大塩平八郎の乱
――の乱、――の変、――の戦い(合戦)等々呼び名が違うが、必ずしも共通した性格があるわけではないようだ ⇒ 中国では、「乱」は正統王朝に対する謀反の場合に使われる

44.    サルと猿はどうちがう?
干支は中国からはいってきて、無理やり動物を充てたもの、由来は不詳
日本語の猿は、「テナガザル」で英語はgibbon。本字は「猨」で「援」と同じで引っ張るの意。長い手を伸ばして引っ張るから「猨」と名が付いた。実際に日本に生息するのは、中国でいう「猴子(ホウツ)」、英語でmonkey。最も人間に近い一群を英語ではape

45.    七時十分になりました
「ジッカイ」と「ジュッカイ」(1巻の#49参照) ⇒ 「十」は中古漢語のP入声(にっしょう)の語で、日本に来てジフ(現在の発音ジュー)とジッの両様の音を持つに至った。他に執、集、雑など数多くある。「十」に「ジュッ」の音はないが、東京の下町辺りで「十思公園」を「ジュッシ公園」などと言っていたらしい。ただし「新宿」を「シンジク」というように反対の用法もあったので東京方言とは言えない
「十回」は本来「ジッカイ」が正しい(もともとの漢語音に基づいた日本語の発音)が、「ジュッカイ」と発音する人が多い

46.    役割に生きる日本人
日本語には1人称や2人称が数多くあるが、その大部分は役割名称 ⇒ 先生が生徒に「先生は‥…」というのは自分の社会的役割を自分と同一化して言っている
名刺は、その人の役割を確認するために日本人にとって重要なもの
ひとたび安定した役割を与えられると、日本人は俄然その有能を発揮する ⇒ 役割構造が安定していないと、人の能力を活かせない。景気悪化等外部環境が変わっても、制度は極力残したまま柔軟な運用によって解決しようとするのも、制度を壊したくないから。1つの企業で成功したからといって、他の企業でも活躍できるということにはならない

47.    チャレンジ!
素人が参加する「裁判員制度」が始まる
ニュージーランドでは、陪審が席に着く時に、検事と弁護士が陪審を観察して気に入らなければ「チャレンジ!」と言うだけで交代させられる。理由は不要。辞書にも掲載

48.    「背伸び」の衰滅
いい年をした大人の若い女性が、小児の様な舌足らずの甘ったれた物言いをするのは気に食わない
昔は、子どもが大人びた風をして「背伸び」したが、豊かになると、子どもはしっかり者より、「可愛い」ことの方が求められるようになった。特に女の子はその傾向が強い
豊かさと同時に、民主主義の浸透によるもの ⇒ 「大多数」が主人公なので、主人公が背伸びをする必要はない

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