ブルーノ・タウト 日本美を再発見した建築家  田中辰明  2012.8.22.


2012.8.22. ブルーノ・タウト 日本美を再発見した建築家

著者 田中辰明 1940年東京生まれ。65年早大大学院理工学部研究家建設工学専修修士課程修了。工学博士。6593年大林組技術研究所勤務。7173年ドイツ学術交流会奨学生としてベルリン工科大学リーチェル研究所に留学。9306年お茶の水大生活科学部教授。06年ドイツ技術者協会よりヘルマン・リーチェル栄誉メダル授与。現在お茶大名誉教授

発行日           2012.6.25. 発行
発行所           中央公論新社(中公新書)

ドイツ ⇒ 日本 ⇒ トルコ
ドイツ表現主義の旗手から、社会主義建築家へ。
日本美を称賛し、
新生トルコで新様式を展開

色彩の建築家はなぜ白木の美に惹かれたのか
1次大戦後のドイツ、タウトは貧困にあえぐ労働者のための集合住宅を華やかに彩り、「色彩の建築家」と呼ばれた。しかし、ナチスの圧迫を逃れて来日、白木の建築に感銘を受けて、日本美の紹介に努めた。その後トルコに招聘され、新しい様式の建築を展開。激変する環境の中で変容を重ねる作品を紹介しつつ、妻と秘書の2人の伴侶、建築家であった弟と子供のことなど、複雑な人間関係を解明し、58年の生涯を辿る

1860年 オイレンブルク伯爵率いるプロイセンの東方アジア遠征団の来日 ⇒ 翌611月 修好通商条約締結
2008年 ベルリンの集合住宅団地(ジードルング)6件が、[ベルリンのモダニズム集合住宅群]として、ユネスコの世界文化遺産に登録、うち4件がタウトの作品
平和主義に徹したため当時のナチ政権と折り合いが悪く、日本に亡命したが、希望していた大学教授の口もなく、建築設計の仕事も作品として残るのは熱海の旧日向別邸の地下室だけで、ナチスとともに戦争に突入しようとしていた日本は、タウトにとって次第に住みよいところではなくなる
イスタンブ-ル芸術アカデミー教授として招聘されたトルコに向かい、ケマル・アタチュルク大統領の信頼を得て、多くの設計活動を行うが、大統領の急逝の直後にタウトも急逝

第1章        修業時代
父親が田舎から出てきて古くからケーニヒスベルク(現在はロシア領のカリーニングラード)に住んでいた母親と結婚、事業に失敗したので、ブルーノは少年時代から働いて学資を稼ぐ
町中のクナイプホーフ島の墓に記されているカントの言葉「輝ける大空はわが上に、道徳的規範は我がうちに」が好きで、滞日中もよく短冊にこの言葉を書き、その1つが高崎市の少林山達磨寺に保存されている
18世紀の初め頃から「ケーニヒスベルクの橋渡り」(川中の2つの島に架かる7つの橋の一筆書き)という問題が話題に。町出身の数学者が不可能であることを証明
知識人が綺羅星のごとく輩出している町
1897年 同地のクナイプホーフ・ギムナジウム(日本の旧制高校)を卒業(数学が得意)後、地元のグートツァイト社という建設業に入社
1902年 地元の国立建築工学校を優秀な成績で卒業し、町を後にする
2次世界大戦の末期45.4.9.ソヴィエトの攻撃によって陥落、戦後東プロイセンは南北に2分割され、ケーニヒスベルクのある北部はソヴィエトに編入 ⇒ 1970年独ソ条約/独ポーランド条約締結により、ドイツが旧東プロイセンの放棄を認めた
46.7.4. ソ連最高会議幹部会議長ミハイル・カリーニンの名を取ってカリーニングラードと改称、ドイツ人住民はドイツへ送還かシベリア送りとなり、ソヴィエト人と入れ替わる ⇒ 現在は、バルト3国の独立により、ロシアの飛び地となり、経済特区
1903年 ベルリンでブルーノ・メーリング教授主宰の建築事務所に就職 ⇒ 1904年セントルイス万博の仕事に従事
1904年 シュトゥットガルト工科大テオドール・フィッシャー教授(現在のミュンヘンの都市計画に大きな影響を与えた人)に弟子入り ⇒ 同大にモダニズム建築の始祖ベーレンス教授がいた
1906年 結婚 ⇒ 相手はベルリン郊外在住鍛冶屋の3人娘の末っ子、相次いで子供が出来たが、妻は出産後体調を崩し、子供たちはブルーノの弟マックス(ブルーノ夫人の次姉と結婚)に子供がいなかったので養子同然に引き取って育てられる
1909年 ベルリンに盟友フランツ・ホフマンと共同の設計事務所開設、3年後弟も合流、タウト来日後も活動を続け、27年間存続
1913年 ライプチッヒの国際建築博覧会で「鉄の記念塔」を製作
同年 ベルリンのファンケルベルクで集合住宅団地(ジードルング)に着手(1916年竣工)、「すべての建築に色彩を」と称して、外壁に豊かな彩色を施すとともに、団地では階級の差のない生活、相互扶助活動を推進 ⇒ 2008年世界遺産
1914年 ケルンのドイツ工作連盟の展示会に「ガラスの家」を発表、世界的な名声を得る
1916年 ドイツ・トルコ友好会館建設のため初めてトルコ訪問、トルコの偉大な建築家ミマール(トルコ語で「建築家」の意)・シナン(スィナン)の作品であるモスクに強く惹かれる
1914年の第1次世界大戦では軍に召集され、社会主義運動家バローンと会って、その思想的影響を受ける
1918年 職場の部下エリカ(ベルリンにギリシャ風建築を残したシンケルの孫)と恋仲となり娘をもうけ入籍
1919年 モスクワに行って仕事をしたのが、後にナチ政権からにらまれる原因に。ユダヤ人という証拠はなく(現に弟マック・タウトはナチ政権かでも仕事を続けていた)、社会主義者と見做され、市民に影響力のあった人物は迫害の対象となった
タウトほど、建築を芸術として捉え、そこに哲学を持ち込んだ建築家はいない ⇒ 典型例が1918年起草の『アルプス建築』で、建築としては実現不可能な、理想と夢をスケッチと解説で残した
192124年 マグデブルク市の建築課長 ⇒ 『曙光』等の書物で建築に色彩を施すことを主張。「すべての建築に色彩を!」と言う「色彩宣言」を掲げて、自ら勤務する市庁舎や担当した集合住宅に色彩を施して宣言を実践

第2章        円熟期を迎えて
ベルリン市郊外ノイケルン地区に馬蹄形の集合住宅建設、小豆色に彩色。都会にあっても田園生活を満喫できるよう多数の樹木が植えられている ⇒ メゾネットで5.5mx8.4mの矩形
その他にもベルリンを中心に労働者のための集合住宅団地を数多く手掛けている

第3章        ベルリン・モダニズムのなかで
1924年 ベルリン市住宅供給公社の主任建築家となり、在任8年間にジードルングの集合住宅12千戸を設計・建設
1920年代はモダニズムの全盛期
表現主義全盛 ⇒ 様々な芸術分野において感情を作品中に反映させて表現する傾向を指し、建築では従来の構造主導から、曲線を多用したり美的感覚を優先させて情緒的に色彩を使用 ⇒ タウトはその代表的建築家とされ、思想的な素地をニーチェ、キエルケゴール初め多くの哲学者から導入、彼等がブルジョア的世界を拒否、歴史的束縛から解放され、個人主義的な孤独に生きる精神の力強さを持つことに共鳴 ⇒ ナチスによって「退廃的な芸術」として非合法化され終息。バウハウスも1919年グロピウスにより、美術と建築に関する総合的な教育期間として設立され、モダニズムに大きな影響を与えたが、表現主義同様に弾圧され14年で歴史に幕を閉じる
1930年 シャルロッテンブルク工科大客員教授
パリのシャンゼリゼに匹敵する高級感あふれる大ショッピングストリートを作ろうとして注目されたのがクアヒュルステンダム(通称クーダム) ⇒ 幅53m、全長3.5

第4章        日本美の再発見
19321933.2. モスクワでモスクワ劇場計画などの仕事をするが、政権側と考えが合わずベルリンに戻るが、娘の友人の父親で国防軍将校から逮捕者リストに載せてあることを知り、急遽パリ経由日本に逃亡 ⇒ 社会主義的思想・信条からナチス政権を逃れてきたというより、ユダヤ人だったという方が日本で受け入れられやすいところから、ユダヤ人と称したという説がある
日本滞在は1933.5.36.10. 仙台・高崎で工芸の指導をする傍ら、桂離宮、伊勢神宮をはじめとする伝統建築を高く評価する著作を発表 ⇒ タウトを日本人に理解してもらうために大きな貢献をしたのはこれ等著作の翻訳に携わった人たち
多くの実業家、文化人との交流 ⇒ タウトの日記に登場する回数の多い順に;
上野伊三郎(18921972) ⇒ 早大建築卒。シャルロッテンブルク工科大留学、建築構造学を学ぶ。ウィーン工科大学で振動学も履修。ウィーン出身の工芸家と結婚。日本インターナショナル建築会の会長として、タウトのビザ申請に奔走。桂離宮を案内。早大講師に招聘しようとしたが失敗。設計の仕事がないところから、設計を活かす場所を求めて日本を去ることを勧めたのも上野
井上房一郎(18981993) ⇒ 早大中退(自由画運動などの文化活動に没頭)。パリ留学、絵画や彫刻を学ぶうちにセザンヌに傾倒、彫刻のジャコメッティとも親交。父親の井上工業を継ぎ、工芸品製作を始める。高崎の実業家、有力者。久米権九郎の紹介でタウトを知り、高崎に招いて工芸品のデザイン、制作指導を委嘱。亡命生活を金銭面から援助。井上の銀座のアンテナショップを通じて実業家日向利兵衛に気に入られ、熱海の別邸地下室部分の設計を手掛ける
下村正太郎(18831944) ⇒ 大丸呉服店11代目当主。経営難の呉服店を百貨店として再興。タウト来日時に京都の別邸(現在大丸ヴィラとして呼ばれる京都市登録有形文化財に指定されたヴォ―リーズ設計の屋敷)の客として招く
久米権九郎(18951965) ⇒ 皇居二重橋の設計者民之助の息子、沼田の出身で群馬県に人脈、ドイツ・シュトゥットガルト工科大留学で建築を履修、日本で近代建築が建設され出したころに活躍。久米設計を創設、現在に至る。金谷ホテルや万平ホテルに久米式耐震木造を導入。タウト来日の時から助力を惜しまず、積極的に日本の伝統建築を紹介
ブブノワ夫人(18861983) ⇒ 女性画家。サンクトペテルブルクの貴族出身。芸術アカデミーで学んだあと、革命を経て22年に来日、日本で本格的な美術創作活動を開始。タウトに東京での宿泊場所を提供。58年帰国

         ブブノワ ⇒ 『12-10 恩地孝四郎』参照
廣瀬大蟲(18781968) ⇒ 高崎市の少林山達磨寺の住職。34.8.から離れの洗心亭をタウト夫妻の住居として提供
水原徳言(よしのり:19112009) ⇒ タウトの日本における唯一の弟子。タウトの日本に残る唯一の作品日向別邸の地下室工事の設計監理を補佐。井上工芸研究所勤務中にタウトの共同制作者、協力者として活動。タウトがトルコから呼び寄せようとしたが断るが、死後は日本でのタウト伝播に協力
吉田鉄郎(1891956) ⇒ 帝大建築科卒、逓信省入省。逓信建築の先駆者の1人。31年東京中央郵便局(09年解体)を設計。タウトに日本建築を紹介、日向邸でも手伝う
33.12. バーナード・リーチと柳宗悦が洗心亭に宿泊 ⇒ タウトは両氏に大変な敬意を払うとともに、濱田庄司、河合寛次郎、富本憲吉の陶芸も褒めるが、民芸には質の追求がないと批判
1933年 生駒山の小都市計画(現在の近鉄)に関わるが未実現
35年から 日向別邸の設計に関与 ⇒ 大阪で高価な工芸的芸術性のある家具類を販売する「唐木屋」の1人息子、紫檀・黒檀等高級品のアジア貿易で財をなす。タウトのデザインを気に入り、熱海の別邸の地下部分129.89㎡の設計を委嘱(その後日本カーバイトの保養所として使われ、篤志家が買い取った後04年熱海市に寄贈、「旧日向別邸」として05年熱海市指定有形文化財、06年国の重要文化財に指定)
台形の踏み板を使い90度に折れ曲がった階段が特徴。洋間・日本間とも奥に向かって階段状になっていて、階段に座って海を眺められるようになっている。完成はタウト離日の1か月前
『日本美の再発見』は、桂離宮を始め、伊勢神宮、飛騨白川郷の農家及び秋田の民家などの日本建築に「もっとも単純な中に最高の芸術がある」の典型を見出した、という内容 ⇒ タウトの死後、本人の原稿から作られたもの ⇒ 桂離宮(=皇室芸術)の簡素で機能的な美しさに驚嘆する一方、その後で訪れた日光東照宮(=将軍芸術)は世界のどこにでもあるもの、「キッチュ」として評価していない
マグデブルクでは「すべての建築に色彩を!」と唱えたタウトのあまりに早い変わり身を非難する向きもあり、マグデブルクでは表現主義の建築家として、ベルリンでは社会主義の建築家、日本では日本美再発見の建築家、トルコでは体制に寄り添う建築家と変貌を続け、確かに変わり身が早いようにみられるが、タウト自身は、「日本人の和服は非常に派手、ドイツ人の服は地味。したがって派手な和服には白木の建物が合い、地味な服装には派手な建築が似合うのだ」と応えている

第5章        2人の伴侶―妻と秘書
妻は2児を出産後体調を崩して実家に戻る
1918年 事務所開設の際秘書として入所したエリカと同棲、以後はエリカが妻に代わってタウトの活動を全面的に支える ⇒ タウトの口述筆記もして出版しているほか、交渉力にも優れ、日本での活動の下支えをする。自由学園でドイツ料理を教える
タウトは自らの重婚生活を「実地主義」と呼んだが、変わった結婚観の持ち主

第6章        イスタンブールでの生活
1936年 イスタンブールの芸術アカデミー教授のポストを得る ⇒ ベルリン時代馬蹄形住宅を共同設計したヴァーグナーがドイツ社会党に所属していたためにナチスに睨まれトルコに亡命、芸術アカデミーに所属していた縁
新生トルコ共和国の大統領ケマル・アタチュルク(「アタチュルク」とは、「父なるトルコ人」の意で、ケマルの功績に対し大国民会議が贈った姓)の信頼を得て多くの建築活動を行う ⇒ トルコ近代化に向け、建築教育にもドイツのモダニズムを取り入れようとしていた
1938年 ケマル死去の直後、過労が原因で急逝
1916年にトルコを訪問して以来、モスク(「ひざまづく場所」の意で、寺院ではなく礼拝所)の影響を受けた作品が多い ⇒ 16世紀の宮廷建築家シナン(スィナン)の設計したモスク(オスマントルコ繁栄の象徴とされるスレイマニエ・モスクの設計で有名)に心酔
トプカプ宮殿に隣接して建つギリシャ正教の教会アヤソフィアに4本のミナレット(教会の鐘楼に相当)を建ててイスラムのモスクに変えたのもシナン
タウトは「建築は調和の芸術である」と言っているが、これはトルコで学んだこと ⇒ モスク建築のバランスの良さからきている。モスクがドーム状に建設されるのも、宗教的理由というより、地震国トルコでの建設技術的理由が優先されたもの

タウトは建築家としてコルビジェ(77)、ライト(91)、ファン・デル・ローエ(83)と比べれば今一と言われるが、58歳の働き盛りで逝去したことを考えると致し方ない
恒久平和を考えるタウトは、ナチスとはもちろん、日本政府とも折り合いが悪かった
トルコでは、政権に寄り添って、新たに首都となったアンカラはじめ各地で多くのプロジェクトを手掛ける


日本経済新聞 書評 2012.7.掲載
第一次世界大戦後、ナチス・ドイツの迫害を逃れて来日し、桂離宮などの日本の美を紹介する著作を発表した建築家ブルーノ・タウト。その人生と作品を研究してきた著者が、子孫ら関係者の証言や資料を基にまとめた評伝だ。功績の解説だけでなく、弟や妻、秘書との関係にも触れる。知られざる一面に光を当てる


ブルーノ・タウトBruno Julius Florian Taut188054-19381224)は、ドイツ東プロイセンケーニヒスベルク生まれの建築家都市計画家。鉄のモニュメント(1910)、ガラスの家(1914)が評価され、表現主義の建築家として知られる。
ジャポニスムアール・ヌーヴォーを通して日本に関心をもち、晩年来日し長期滞在した。
人物・来歴 [編集]
ケーニヒスベルクの建築学校を卒業後、ベルリンのブルーノ・メーリンク、シュトゥットガルトのテオドール・フィッシャーの設計事務所勤務を経て、1909、ベルリンで建築設計事務所開業。1910ドイツ工作連盟に参加。ライプツィヒ国際建築博覧会での「鉄の記念塔」、1914のドイツ工作連盟ケルン展での「ガラス・パヴィリオン(グラスハウス)」は表現主義の代表的な作品とされる。また1919に、アルプス山中にクリスタルの建築を建てようとするユートピア構想『アルプス建築』や『宇宙建築師』(Der Weltbaumeister)を描いた。
1924から携わったブリッツのジードルンク(住宅団地)で国際的な評価を受けた。当時、1次世界大戦で敗戦国として製品を作ることで賠償金を支払っていたドイツでは、労働者が劣悪な環境下で働いており、ベルリンの労働者住宅は監獄のようであった。住宅供給公社ゲハークに就職したタウトは、主任建築家として労働者の健康を考慮した集合住宅に注力し、1924から19318年間で12000軒の住宅建築に関わった。1930、ベルリンにあるシャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)の教授に就任。
革命への憧れをもっていたタウトは、1932から1933までソ連で活動するが、建築界の硬直性に直面し、結局ドイツに帰国する。ところが、その直前にドイツではナチスが政権を掌握。親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われ、ドイツに戻ってわずか二週間後にスイスに移動、フランス、ギリシャ経由し、イスタンブールを通過し、黒海を渡ってソヴィエトに入り、シベリア鉄道でウラジオストックに到達し、海路で敦賀に上陸した。祖国ドイツに家族を残したまま、日本インターナショナル建築会からの招待を機に19335月、日本を訪れ、そのまま亡命した。
来日の翌日、桂離宮へ案内された。桂離宮を世界に広めた最初の建築家であった。当初は京都大丸当主の下村正太郎邸に滞在し、まもなく仙台商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)に着任。その後は井上房一郎の招きにより、高崎に移り、約2年間を高崎で過ごした。群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、和紙漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。1935に東京・銀座に開店した「ミラテス」で販売を始めた。また東京・日本橋丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催した。日本では建築方面の仕事に、余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていたが、その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行った。
1936に近代化を目指していたトルコのイスタンブル芸術アカデミーからの招請により、教授としてイスタンブルに移住。アンカラ大学文学部など教育機関の設計、そしてイスタンブル郊外の自宅など、日本で温めていた理論を実践すべく精力的に建築設計で活躍した(そのほとんどは現存している)。1938年に長年患っていた気管支喘息のため死去した。最後の仕事は彼自身の死の直前に死去した大統領ケマル・アタテュルクの祭壇だった。タウトの遺体はエディルネ門墓地に葬られた[1]
作品 [編集]
著書 [編集]
§  篠田英雄 『日本の家屋と生活』 春秋社、スケッチも多数収む。
§  『タウト 日本の家屋と生活』 岩波書店、大判で数度復刊。
§  篠田英雄訳 『ニッポン ヨーロッパ人の眼で観た』 春秋社
§  旧版は「タウト著作集」(全5巻)で、他は『建築・藝術・社会』
 『日本の藝術 ヨーロッパ人の眼で観た』と、『日本の建築』。
§  篠田英雄訳 『日本雑記』 〈中公クラシックス中央公論新社
§  篠田英雄編訳 『忘れられた日本』 中公文庫
§  篠田英雄訳 『日本美の再発見』 岩波新書旧赤版
§  篠田英雄訳 『建築とは何か (正.続)』 〈SD選書鹿島出版会
§  篠田英雄訳 『建築藝術論』 岩波書店、数度重版
§  篠田英雄訳 『画帖 桂離宮』 岩波書店 帙入り限定復刻(1981年、2004年)
§  篠田英雄訳 『日本 タウトの日記 1933-1936年』(岩波書店全3巻、旧版全5巻)  
§  森儁郎〔トシオ〕訳 『日本文化私観 ヨーロッパ人の眼で見た』 講談社学術文庫
§  森儁郎〔トシオ〕訳 『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』 講談社学術文庫  
§  斉藤理訳 『新しい住居 つくり手としての女性』 中央公論美術出版
§  斉藤理訳 『一住宅』 中央公論美術出版
関連文献 [編集]
§  タウト撮影 『タウトが撮ったニッポン』 酒井道夫・沢良子・平木収編著、武蔵野美術大学出版局
§  高橋英夫 『ブルーノ・タウト』 新潮社講談社学術文庫ちくま学芸文庫
§  田中辰明・柚本玲 『建築家ブルーノ・タウトー人とその時代、建築、工芸』 オーム社2010
§  田中辰明 『ブルーノ・タウト 日本美を再発見した建築家』 中公新書 2012
§  鈴木久雄 『ブルーノ・タウトへの旅』 新樹社-タウトの足跡・建築物を自ら訪ねた記録。
§  土肥美夫生松敬三編訳 『ブルーノ・タウトと現代 「アルプス建築」から「桂離宮」へ』 岩波書店  
§  土肥美夫 『タウト芸術の旅  アルプス建築への道 <旅とトポスの精神史>』 岩波書店
§  宮元健次 『桂離宮 ブルーノ・タウトは証言する』 鹿島出版会
§  SD編集部編 『ブルーノ・タウト 18801938』 鹿島出版会  
展覧会図録 [編集]
§  『ブルーノ・タウト 桂離宮とユートピア建築』 マンフレッド・シュパイデル監修
 ワタリウム美術館編/オクターブ20072
§  『ブルーノ・タウト 1880-1938』マンフレッド・シュパイデル、セゾン美術館(一條彰子、新見隆)編著、1994年。
§  『ブルーノ・タウトの工芸と絵画』 上毛新聞社出版局
 群馬県立歴史博物館、19894
§  『建築家ブルーノ・タウトのすべて 日本美の再発見者 Bruno Taut 1880-1938
 武蔵野美術大学タウト展委員会編、武蔵野美術大学ほか
 生誕100年記念ヨーロッパ・日本巡回展図録、1984
日本との関係 [編集]
§  桂離宮日光東照宮を対比させ、前者に日本の伝統美を見出し、『ニッポン』『日本美の再発見』などを著した。数寄屋造りの中にモダニズム建築に通じる近代性があることを評価し、日本人建築家に伝統と近代という問題について大きな影響を与えた。
§  日向別邸は熱海市に寄贈され、2005から一般公開、2006「旧日向家熱海別邸地下室」が重要文化財に指定された。日向別邸はもともと渡辺仁が設計した海を望む和風住宅であったが、地下室部分のインテリアがタウトに依頼された。
§  高崎市の少林山達磨寺にはブルーノ・タウトが暮らした住居(洗心亭)が残っている[2]
§  渋谷駅前で忠犬ハチ公を見かけた折、存命中に銅像まで建ったその逸話に感嘆しつつも、自身が残した実績と裏腹に母国では社会的に抹殺された身であることを嘆いている。
§  群馬県高崎市の創造学園大学内にブルーノ・タウト資料館が、20044月より設置され常設展示を行い、また「ブルーノ・タウト賞」を設けた(4回まで)が、経営母体である堀越学園の経営悪化により、20108月に資料館は閉館され、展示品は岩波書店に返却された。



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