魯山人 河出書房新社編集部 2026.3.24.
2026.3.24. 魯山人 味・陶器・書・花・人・・・・・業深く崇高な芸術家
編者 河出書房新社編集部
発行日 2015.5.20. 初版印刷 5.30. 初版発行
発行所 河出書房新社 (文芸の本棚)
『07-12 知られざる魯山人』『10-03 魯山人の書』参照
【魯山人・味】
² 料理と器物(魯山人) 『星岡』昭和5年10月
l 中国料理の食器を使っている日本料理
わが懐石料理に尊重する器具の例を挙げるならば、染付の各種、青磁万体、呉須赤絵(ごすあかえ)、金襴手(きんらんで)類など、残らず中国で生まれたもの。よく日本料理に調和させている。いわゆる古渡り物は、今日なお食器の最高権威として取り扱われている
ところが本場の中国では、古い優良な佳器はほとんど地を払って皆無、日本人や欧米人に選り取られた結果。日本では中国の優れた品を今もって使っていて、しかもその使途が動きのとれぬところまで発達しているのは、われながら感服の至り
l よい料理にはよい食器が入用で、よい食器にはよい料理が要求される
よい料理には、食器の選定が大いに、必要を生じてくるものである
料理の美と容器の美は両立して初めて最善の馳走ということになる
味覚を十分感じ得る者は、ぜひ器物の鑑賞眼が入用であって、そこに初めて料理通完成を称すべきであると思う
よい料理には盛り方の美しさ、色彩の清鮮、包丁の冴え、優れた容器との調和、それらに対する審美眼がなくてはならない。佳味を賞している席、すなわち建築物についての審美眼も必要。さらに林泉の幽趣、あるいはその境の山水に対する審美眼も必要
この3つの審美眼を包含し、総合して立っているものが茶道。食道楽の極致であり完成
² 探訪深泥池の蓴菜(魯山人) 『星岡』昭和8年6月
京都上鴨の深泥池のじゅんさいは、日本で一番と言われたが、もっといいのは奥の山1つを越して10丁ほど離れている池。1日かけて5升ほど採るが、蔓(つる)を鎌で舟に引き寄せて、右の親指の爪を長く伸ばしていてヌルヌルの新芽を人差し指の上に乗せて切り取る。東京に出るのは2割位。その5~8割位を星岡で費う
じゅんさいは日本最高の美食に属する
² 鮑の宿借り作り(魯山人) 昭和11年
美食倶楽部時代の創案で、今では茶寮料理の名物の1つ
あわびは房州のもの。伊勢鳥羽浦や舞鶴からもいいものが出る。房州のあわびは雌が多く、身が厚く赤みがあって最も優れている。雄は実が固い。新緑の頃に着く身が若々しくなり、夏ごろにかけてがよい。料理法としては、貝から身を外して塩洗いし、そのままおろし大根を乗せて蒸す。80度で25分くらい。蒸せば蒸す程柔らかくなるが、柔らかくなるにしたがって味が抜ける。十分冷ましてから姿なりに薄く切る。ワタは別に外して輪切りに
三杯酢は、酢6勺に出汁4勺、薄口醬油4勺、露生姜(つゆしょうが、搾り汁)を注す
² 湯豆腐のやり方(魯山人) 『星岡』昭和8年3月
切れ目のある昆布を敷き水を入れた鍋に豆腐を入れて強い火にかけると5分くらいで煮えあがる。箸で豆腐を押してみると軽い弾力が出来ている、その刹那がいい。煮過ぎて豆腐が締まってきたり、豆腐と豆腐がくっついたり、巣がたって来たりしてはうまくはない
豆腐は鍋に少しづつ入れる。醤油入れを鍋に入れて温めるのは、野外の寒い所でならともかく、部屋の中では必要ない
² 私の料理ばなし(魯山人) 『星岡』昭和8年6月
私はイタイケな時分から食べ物にはやかましく、味の良否も他に勝っていたので、養父母にうるさがられた。飯も9歳から炊き続けてきたがへんな飯は一度も炊いたことがない
美食生活を続けてきたが、記録は残しておらず、記憶も怪しく、組織的に料理を語ることはできない。大衆の役に立つような料理も語れまい。おそらく大衆から見れば架空の料理であるかも知れない
² 魯山人の招待宴(小島政二郎) 『味見手帳』’77年5月
去年の春、魯山人から突然長文のお花見の招待状が届く
拝上 まことに卒爾申し上げ、本当に失礼に候へども、実は常々ご清光なるお日常を羨望し、且つ敬慕も致しをる一人に御座候。しかしながら、写真以外ろくろく拝姿を得居らざる不肖より、突然不躾申上ぐるは何とも恐縮、筋道立たざる次第ながら、多年の幻想として一度皆様の御来光を得、○○抜きの四方山放談に花を咲かせて見たきものとの野望を抱き、何にしても今春こそと思い立ち、とうとう次の様々をご案内に及び、貴意を伺ひ上げ候やうな始終に御座候。時恰も4月7,8日頃は、茅屋(ほうおく)付近の風除けとも云ふべき、則ち山とも岡ともキッパリは名付けやうもなきデコボコながら、これも贔屓目で見れば、都踊の書き割りモデルにもなり兼ねまじき山桜、葉桜など点々として可憐なる山家娘よろしくの、うぶ化粧を施しをり、一年一度の美しき喜悦を我等に恵みをり候。ここで美酒あり、佳肴具はるとくれば、まづ申し分なきところに候へども、無冠の泥工(でいこう)、いまいましくもその工面まことに轆轤の如くは旨くは廻り申さず、おまけに京生まれの因果と云ふか、伝統のシミッタレも手伝ひ、やはり結局は心締(しんじ)まりに終ってしまひ、散らし寿司でもして置かうかなんて云ふ位が関の山、魯山人意気地がないぞと必ずや打たれるであらうことは、まあ承知、まあここ等で一つ春宵(しょう)ならぬ春昼(ちゅう)の一時を微笑んで貰ふんだと、一人極めで悦に入ってゐる、と云ふ次第に候。
こんなことでも、幸ひにご曵杖(えいじょう)があるとすれば、真実本懐至極、欣喜雀躍、今年は春から幸先がいいぞといふ所に候。さて、ここで柄にもなく特に低頭平身お詫び申し上げたき儀は、この際なくては叶はぬ美給の欠如に候。美酌全く絶無、この点何卒粋(すい)さまの御思案に何とかよき風の吹かぬものかと虚空を仰ぐのみに候。
用意あるものはと申し候へば、日本酒若干、ビール若干、これで全部に候。お茶箱持参の引立役相勤むると云ふ訳ではこれなく候へども、抹茶のしつらへも間に合はざる始末、どうぞ宜しく御分別願上候。尚くどくど野暮な一節を加へ、馬脚を現すが如きヘマながら、従来鎌倉には魯山人傲慢の悪名が流れをるかに山彦は響かせ居り候へども、これは所謂一犬虚に吠えて何とやら云ふ底(てい)のものにて、飽くまで誤伝に相違なきことを、不徳ながら自ら真剣に責任を以て弁明仕り候間、何卒お心安く御曳杖賜はりたく重ねて御願申候
日時 4月7日2時、8日正午
右両日の内、御都合御返事願上候。
雨天の場合は、屋内に観桜の用意致すべく候。
夫人御同伴、夫君御一緒、結構に候。お子さまは次の機会に御案内申し上ぐべく候。
バス御利用の場合は、山の内小袋谷(こぶくろや)御下車のこと。その場所に道案内致し置くべく候。
料理がうまいと評判の星岡茶寮の経営者。会員制。最後に出た果物の豪華な盛り合わせが印象的だった。いろいろな会合でよく行き、星岡も宝塚線の曾根に支店を出すほど繁盛したが、そのうち軒を貸して母屋を取られ、魯山人は陶器に専念、優れた美術品の蒐集家になる。万人が褒めたあと、判で押したように、けちで傲慢だと、悪口を言った
写真では見たが直接会ったこともなかったので、初めて北鎌倉小袋谷の魯山人邸を訪ねると、切通しの先に万頃(ばんけい)の田が広がる先に母屋が見える風情に圧倒。母屋の上にかぶさるように桜の大木が3,4本、7分散って3分残った花をつけて咲いていた。母屋は元禄時代の建物で、近代感覚はゼロ。迎える魯山人はちょっと笑っただけの愛想を見せる程度で出迎え、ごく当たり前に毎日逢っている人を迎えに立つような速度と落ち着きとで立ってきた。意外にも、ゆったりと無造作に背広を着ていたが、渋い好みで、いい品を普段着のように着ている。初対面の挨拶をしたと思ったのは我々の側で、魯山人の方は前から知っていたような構えのない態度で、こっちも初めての家に来たという窮屈な感じを、その瞬間に無くすことが出来た。度肝を抜かれたのは、大広間の左奥に、伊部(いんべ)焼の何とも言えないいい壺に幹とも云いたいくらいの満開の桜を高い天井から枝垂れる位堂々と生けてあったこと。この家のたたずまいと云い、ロケーションと云い、この桜と云い、スケールの大きな男の呼吸を感じた。案内状を鵜呑みにして朝飯を食べてきたが、何もないとあったのは嘘で、大広間には新富寿司や天婦羅のしほ屋の屋台があった。食べ物を盛る器類も、伊部の徳利を始めどれもこれも、彩も、模様も、色彩も、大胆で豪華なものばかり。いいご機嫌になったところで、素焼きの瀬戸物と絵の具が持ち出され、皆筆を執る。終わると福田屋の隠居がしつらえの汁粉が出された
こんなに静かに和気藹々と半日を楽しく過ごした経験は指を折って勘定出来るくらいしかない。しみじみ清遊したという思いがした。さすが魯山人の亭主ぶりは見事なものだった
【自作を語る・自分を語る】
² 自賛 自己の作品に対して一言す(魯山人)
小生の作品を見て天才だなどと称賛する人は、一寸感心するとか自分に出来ないと感ずると直ぐ天才を極めたくなるのではなかろうか。小生の作品は、割烹を除く外は、総て下手の横好きである以外、何者の尚ぶべきを有さない。むしろ小生は批評に長じているという自信はある。批評となると洋の東西を問わず、芸術檀上を得意としてとかくの批判を下す癖を持っている。そうして現代作品の大部分を屎(くそ)コッパイに千里の外に拒む風があって顰蹙を買う癖がある。しかも自分は批評の公明を期する者である。しかしながら自己の作品になると意の欲するところとは、距離甚だしく嘆息を重ぬるのみ。しからばとて自己制作を断念も出来ず、折に触れて製作欲が勃然と起こる
小生の美術鑑賞は約千年に遡るに非ざれば、最大の感激をなし得ない。中国でも、宋、元、明となっては感服し難く、清朝に於ておや。ただし日本に於ては、徳川時代の中にも鑑賞に価すべきもの、鮮なからざるを認むる。なかんずく光悦、宗達、大雅、蕪村、丈山、玉堂、芙蓉、茂卿、雪山、光琳、乾山、木米、仁青、版画、大和絵、特に良寛の如き、その外大茶人、高層、大人物に肝銘敬服すべきもの少なしとせず。維新以後も、雅邦、芳崖の特長を認め、春草の天分を敬愛し、村山槐多、関根正二の洋画に特異の天才は近世稀に見るところとなす。栖鳳が天来の名工振りも感心するが、世の声価に比し敬愛の念厚からざるを告白する。観山は、大観はと問質す者あらんか、唯微苦笑するのみ。むしろ清方、玉堂の分を知り足るを知る純情より、自己その儘を影写する姿を芸術として取り扱わんとす。御舟の力筆もまた逸作なりとす。茲に近代の作家として特質大書せざるべからざるは富岡鉄斎翁にしてその作品は真に敬服に堪えざるものあり。全世界の誇り。彼のゴッホ、セザンヌ、ロダン、ルノアールの如き、もしそれ鉄翁に対比せんか、殆ど足下の問題なりとす。呉昌碩に於ては最早問題にあらず。書に於ても鉄翁の如き芸術的能書は古来稀に見ることろ。書と言えば芸術境から一切葬り去らざるを得ざるは、所謂書家の書であることを遺憾となす。書に於て小生の常に最も肝銘措く能わざるものは歴代天皇の御書。歴代天皇の御宸翰の如き、気品高き芸術的意義深き尚(とうと?)き書を残した者は1人もない。大師然り、道風然り。問題は下落するが、山陽の書を讃美する者世に鮮なからざれど、三樹(山陽の三男)の書、博文公の書の如きを上位に置くべき。書家の書中強いて抽出せんとならば、僅かに貫名海屋1人なるべし。他輩は長三州を除かば字を書く職人と見なさざるを得ず。古来道楽の極致は仏像仏画に陶磁を以て終焉となすが如きも小生釈を加えんと欲す。仏像仏画の優を鑑賞なすは、美術道楽の終局ならんも、陶磁の権威を以て終りと定む
るは、識者の前に早計。頭を回せば小生の書斎には千年を経たる仏頂・乾漆仏がある。松方公旧蔵の鎌倉時代多門天像がある。書画も坐右に満ちて小生がなすところを児戯となし嘲笑するに似たり。かくの如くして天分教養ともに兼備せざる自覚に衝突するとき、実に無念遣る方なき憐れ寂しさを催す。是れ深く小生の省みて自己の作家に適せず、却て批評に鑑賞に一長なしとせざる所以なり。いずれにしても所詮下手の横好き者流は、他人迷惑を免れず。勉ん哉教養に、慎まん哉悪作に、進まん哉真理に
大正14年12月1日 (魯山人習作第1回展観録)
² 独立独歩:小自叙伝(魯山人) 『藝術新潮』'52年10月号
l 食道楽から始めた陶器
いつの間にか僕は陶器師になっている。「星ケ岡茶寮」は、日本の料理屋の悪習慣に慨嘆して僕が始めたもの。子供時分から食道楽で食物をうまく食うのにはつまらない器物に盛ったりしては美味さが出ない。いくら探してもいいものがないので自分で作るようになった
徹底した食道楽のさせた業で、それも百千万と作る。やり出した頃には、富本憲吉や浜田、河合という連中がいたが、僕は誰に倣うこともなく独立独歩で始めた。最近フランスに出品した時なぞ富本は全然相手にされず、浜田がまあまあ、寛次郎は問題外。僕だけが大いに評判になった。僕が鎌倉に窯を作ったときは、北鎌倉駅もなく、電灯、薬屋、何でも不便。近所の家がないから煙が出ても文句が出ない。景勝の地でうるさくないのが、25年前ここを選んだ理由
l 書家、篆刻家、美食倶楽部
20歳の時、書道の研究のため京都から東京に出る。いきなり書塾を開いてそれで生活した
『実業之日本』の書体は、僕が24,5の時六朝の字を研究して、広告文字にデザイン化した
競争を勝ち抜くために箔をつけようと、画家がフランスに行くように、僕は中国に行こうとしたが、第一革命で行かれなくなり、朝鮮で3年過ごす。印刷局に勤め、朝鮮陶器と篆刻などに興味を持ち勉強したので、30歳で帰国した時には一躍篆刻家になっていた
京都で栖鳳など、当時一流の画家たちの画印を彫ったら、個性も手伝って画家たちに尊重され、僕の画印が流行になった。東京に帰って、大観、青邨、清方、玉堂の印を彫る
順調のように見えて、青年時代は決して呑気なものではなく、貧乏を丸出しにしていた
篆刻の次が料理。画家たちとの付き合いで画家への尊敬心がなくなり、彼らのために印を彫る気がしなくなった。そこで美食倶楽部を作る。谷崎の小説を無断借用
3年で名士が集まり、「星ケ岡茶寮」の母体となり、彼らの寄付で「星ケ岡」の設備ができた
「星ケ岡」もだんだん大きくなると、自分でやることは少なく、指導するが料理は腕だけではうまいものはできない。材料が必要だが、料理屋はみんな目が利かない
何にでも目利きになること。総理大臣も同じ、その点吉田の方が鳩山より一段優れている
l 独立独歩の人生観、芸術論
僕はすべて独学。1人も師匠を持たなかったことは幸い。師も学閥なども不自由
弟子も作らない。人にものを教えるというような傲慢な神経は、僕は嫌いだ
天涯孤独を楽しむ
精神的な”師”はある。書なら六朝時代。中国でなら唐以前。日本では、一休とか秀吉で、自由奔放な個性を発揮していていい。武蔵はだいぶ落ちる。現代の3巨匠と言われる古径、青邨、靫彦にしても、習った枠から離れられない。洋画の安井、梅原にしても技術ではお稽古離れをしたいと望んでいるが、人間がそこまで出来ていない
その点面白いのはピカソ。上品ではないが、お稽古離れをしようと努力している点を買う
イサム・ノグチは初めからお稽古離れしている。日本一の旅館で僕の陶器を見て去年僕のところに来て、北鎌倉がすっかり気に入り、本を書く離れを貸したら山口淑子との新婚生活を始め、アトリエを建て増ししすっかり落ち着いてしまった。彼の人徳だ
ノグチと山口は実に似合いの夫婦、山口のように芸術がわかる女優は他にいない
料理の方では茶方だが、利休は一癖ある人で、1つの創作力を持っているが、俗物めいたところもある。太閤から見ると、ガンコで嫌な奴に見えただろう。利休の下に少庵、その下に宗旦。宗旦が一番茶の心を知っているように思われる
陶器では、足利から慶長にかけての500年ぐらい前の「時代」を参考にしている
【魯山人・陶】
² 陶説 古陶磁の価値(魯山人、語る) 東京上野松坂屋楼上にて 『星岡』(‘34年)
陶磁も名画も、原材料の価値を遥かに超える金額になるのは、芸術的価値があるから
近来、芸術という2字が濫用されているが、芸術は的(まと)といい得る
古陶磁には芸術的生命があると同時に美術的生命がある
世間でいうところの芸とは、初めから的を目指してやっている
工芸美術は、職工的で、あくまで外観を重視して理知的に工夫し、内容は一向にない
純正美術は、芸術的で、芸術はとりもなおさず内容を主とする。法隆寺の壁画や推古仏にしても内容が尊く、そこに価値がある。的に当たればそこはもう芸術そのもので、的から外れると芸術的になってしまう
芸術家が芸術を生むとは限らない。大観も決して立派な芸術を生む人とは言えない。推古仏から大観を見ると、間に天平あり、藤原が来て鎌倉・・・・。ずっと知っている人間から見ると、そんなに尊い芸術じゃない。煙草入れの金具を作る夏雄や、漆工の是真も、少し芸術的だが、大部分職工的である
加納夏雄(1828年 - 1898年)は、幕末から明治時代に活躍した金工家(彫金家)です。刀剣小道具(鍔や目貫など)の伝統的な技術を習得し、それを近代的な金属工芸へと昇華、日本における近代彫金の基礎を築いた第一人者として知られています。
柴田是真(ぜしん、1807年 - 1891年)は、江戸末期から明治時代にかけて活躍した、日本を代表する漆工家(蒔絵師)であり、絵師(日本画家)。その卓越した技術と芸術性から「最後の江戸職人」とも称され、漆芸と絵画の両面で幕末・明治の美術界を牽引
古陶磁の中でも青磁は、宋時代、日本の鎌倉時代に出来たもので、想像を絶する巧みな方法で、調子の高いものが出来ている。色も陶磁器の中で一番上品。日本人好みだが、中国では均窯を尊ぶ。青磁の色を形容して雨過天晴というが、中国では均窯をいう。同時代なのでどちらでもいいが、色もさることながら作行が非常によい。刀剣や仏像でも鎌倉時代のものはとにかく尊い。中国の宋時代の陶器に鉅鹿があり、作行として最も尊いものが生まれた時代。最高の装飾が施された床の間の黒文字の卓の上には青磁の香炉でなくてはならぬ。それが調和ということで、そのために青磁の香炉は陶磁器の中で一番値段が高い
均窯は(きんよう、鈞窯とも)とは、中国の宋代から元時代にかけて河南省禹県で焼かれた、乳濁した青色や紫紅色の釉薬が特徴の陶磁器です。澄んだ青の「澱青釉(でんせいゆう)」や、赤紫色の「紫紅釉(ししょうゆう)」が有名。中国の「五大名窯」の一つに数えられる名窯
「作行(さくゆき)」とは、主に陶磁器や美術工芸品の鑑賞において、作品のできばえ、土質、釉薬(うわぐすり)、形状などを総合的に評価する言葉です。作者の個性や、作そのものが持つ気品(作意気)を含めた技術的評価を指します
中国宋代(960-1279)の―陶磁器は「宋磁」と称され、中国の工芸文化のひとつのビークを示すものとして世界的に評価されています。 2020年は、近代における宋磁蒐集の契機となった北宋の町「拒鹿(きょろく)」遺跡と磁州窯の陶器の再発見からおよそ100年にあたります。磁州窯は白化粧や黒軸を用いた独特の文様表現によって、装飾性豊かな陶器を生み出しまLた。
古陶磁の高いのは抹茶茶碗、次いで床の間の掛物となるが、これも美術品としての価値故で、近時日本製陶の認識が深まり、陶器も書も日本のものが一番良いとなっている
書も建造物も日本のものが一番。歴史に残るような建造物は中国にも朝鮮にもない
能書はやはり弘法大師、道風、逸勢、あるいは嵯峨天皇、下って三藐院、近衛公、物徂徠、良寛など。もっと良い字を書いたのは大徳寺の高僧たち。中国の字は体裁ばかりがよく、技巧的、その書の約束通りに行き届いた書が書けているが、内容価値がちっともない
三藐院(さんみゃくいん)は、安土桃山時代から江戸時代初期の公卿・関白である近衛信尹(このえ のぶただ、1565–1614)の号、または彼が書いた流麗で力強い書風「三藐院流」のこと
荻生徂徠(おぎゅう そらい)が「物」の字を用いた、あるいは「物」の字を意識した呼称(「物茂卿」など)を好んだ理由は、彼が唱えた「古文辞学」の思想の中心に「物(ぶつ)」=「当時の古人が作った制度や文、実物」を重視するという姿勢があったからです。具体的には以下の理由によります。
「物」こそが真実(物即道): 儒学の真理は「心」の内で考えるものではなく、古代中国の聖人が作成した「礼楽(制度・音楽)」という「物」に定着していると考え、これを「物即道(ものすなわちみち)」と呼ぶ。
書の尊いということは、美術的人格的価値(=内容価値)が尊いので、絵や彫刻、古陶磁でも同様で、値段の高いのは美術的価値が高い。職工的な場合でも同じで、応挙の絵も実は職工的の方に大分足をかけている。日が経つにつれ篩にかけられて正当な芸術価値を評価される。私がなぜ今度展覧会で売るのかというと、10年も持っていると刺激がなくなる、鼻についてくるので、入れ替えて新しい刺激を得たいということ
【訪問記】
² 北大路魯山人 中村光夫 (仏文、文芸評論家) 『美術手帳』'53年8月号
ある雑誌編集者から、同じ鎌倉に住む魯山人の訪問を持ちかけられた
家は、大船から南の小さな盆地のような感じの谷にある
自分のやりたいことをし、暮らしたいように暮らしてきた、何事も周到に計画し、執拗に実行する人のよう。あくが強く、商才にもたけているという噂は本当だろう
瀬戸物を焼き始めたのは40歳ぐらいから、動機は料理の味を生かすため。生活の中で一つの機能を持つ自然物を、そのまま芸術品にすることに享楽の最高の形式があるのは間違いないし、山人の追求する美の理想もそこにある
山人の哲学の根底には、「料理」という考えがあり、それがすべてに通じている
山人の結論は単純で、「料理は結局材料。材料を選ぶこと」。自然を重んじて、季節や産地を知ることでその恵みを十分利用するという、人間が古来身に着けてきた知恵そのもの
瀬戸物の面白みは、との問いに対し山人は、「自然が助けてくれること」と言い、工夫の限りを凝らし、万全の準備をした後で、窯の火の働きにある予測を許さぬ効果を期待する
芸術家には、自分の身を削って芸術への犠牲に献げるストイックと、芸術を究極に於ては自分の生活を豊かするための手段と考えるエピキュリアンと2つの型に大別できるが、山人はその中間のややエピキュリアンに寄った側に立つ人。おそらく彼にとって一番大切なのは自我のあらゆる面での拡充であり、「独りで我儘に世の中を渡ってきた」というのが最後の誇りのようだが、陶器の製作は彼がその我儘のあかしを自然から求める場所で、この祈りの祭壇を持つことが、彼を一種の求道者にしている。いわば禁欲的意思に支えられた享楽家ともいうべき、同世代の多くの芸術家に見られる風格が感じられる。白樺派を連想したが、山人は彼等からは敵意の形でしか影響を受けていないよう
若い頃感化を蒙ったのは、京都の内貴清兵衛で、彼から立身出世主義のつまらなさを説かれたのが目を開く第一歩で、内貴には富田渓仙や御舟も世に出るまで世話になったという
最後に、「山人は、自分で自分のなりたいものに独力でなったのか」と聞いたら、即座に「そうだ」と確信を込めて答えた
【魯山人・書】
² 書論 良寛様の書 魯山人 『雅美生活』昭和13年8月
良寛様には常日頃親しみと尊敬とを持っている。その書は、それは品質に見ても、形貌すなわち書風に見ても、容易にあり得ない、素晴らしい良能の美書というべき。正しい書とか噓のない書というレベルではなく、真善美が兼ね具わっている。世間欲のない良寛様の人格の立派さが、そうしたものだというべき。元来が超俗非凡な天才的霊腕の仕業のこととて、他と比べても魅力の上に天地霄壌(しょうじょう)の差を生じている
中国で感服するのは王義之、唐太宗、顔魯公だが、良寛様のはその書の長所をこの辺から採っている。しかし安田画伯の言われる老成以前の書と晩年とでは大きな相違があり、私は晩年あるいは晩年に近い御作をとって価値を見ている
「その時々」の心境、感情の動きで生まれ出た書であることが認められ、すなおに何らの囚われなく、日々新たにして、停滞のない実際から来るその生活心情が窺われる
坊さん臭さがないのがいい。坊さんの悪例は黄檗の書。俗健そのもので、雅美風流には貧弱。職場を守ることが優先するため、必ず俗道に堕落する。大徳寺派には俗健はいない
黄檗山萬福寺(宇治市)と大徳寺(京都市)は、ともに京都の禅宗寺院ですが、萬福寺は江戸時代に隠元禅師が伝えた黄檗宗の大本山、大徳寺はそれ以前から存続する臨済宗大徳寺派の大本山です
芸術の情けないまでに萎びてしまった徳川末期に出てきたことにも驚異を感じる
良寛に近い年代に、美術的、芸術的に著しき作品を残したのが大雅。真面目に書かれた細字は、十分良寛と共通するものがあるが、ともすると遊戯にふけりたがり、書道を自己の手すさびのおもちゃにし過ぎて、豊饒な天性の技能をいたずらに浪費する癖があり、真摯そのもののみである良寛とはイデオロギーを異にする
良寛の道の伴侶は、大徳寺の春屋禅師
良寛の書において今一つ注目されることは、童児の手習いに見る稚拙そのものの含有。千年を目標として、当時の能書を師範として学び尽くした良寛、ゆくところまで行きついた良寛、いわゆる名手になりきった後、いまさら子供の稚拙そのままにくだけてゆくことは出来なかったようだが、それでも晩年の細楷には童年書家の影響を物語るものがありありと窺える。名手の外皮に童技童心を包蔵していることは明瞭
畢竟は外柔内剛の完成。すべてよき芸術は、外柔内剛と決まっている。よからぬ芸術は外剛内柔で、前者は雅美に富み、後者は俗雅に走る
この世を捨てきった不思議な人格と、専門家にも見難き技能を兼ね、しかも持って産まれた雅と美の要素をその書に盛り付けてつつましく見参した良寛の書の如きは、少なくとも徳川時代における驚異で、他に1人たりとも書道行動において相似たものはなかったはず
【魯山人・花】
花道 花と器 魯山人 『星岡』昭和7年12月
部屋に見事な花が飾られても、器が花と調和を欠く時、せっかくの花が死んでしまう
青磁の花入れに寒菊、伊賀の花入れに薄、竹花入れに牡丹の如き類は、相対関係の調和を破壊する無法に属するから、最も注意を要する
茶道における「青磁」と「寒菊」
茶道の稽古などで、花入(花瓶)と茶花(季節の花)の組み合わせとして言及されています。
·
花入: 青磁鶴首花入(せいじつるくびはないれ)などの青磁の器。
·
茶花: 寒菊(冬の菊)や蠟梅(ろうばい)。
·
情景: 青磁の冷たく澄んだ質感と、冬の厳しい寒さの中で咲く寒菊の取り合わせは、冬の茶席でよく用いられる風情ある組み合わせです。
l 花と花器のかさ(体積)――挿花を一目見て気がかりなのは、器よりも花のかさ(体積)のこと。逆の場合は挿し方さえうまければ醜くはならない。花の丈も、高過ぎるより短い方が落ち着きがある
l 花は半開――花の見頃は半開、それも2,3分咲きの頃。満開より色が強く鮮やかで底力がある。遠州は水仙を生けるに葉3枚のうち1枚黄ばんで折れた葉を用いたが、これは1点のサビを投じて風情の上に野趣の美しさを喜んだもの。満を持さざるところ、その心を一にすると見るべし
l 宵越しの花――茶道では昔は夜花を生けぬことになっていた。花の見にくい所で生けるのは不自然という考え。その代わり、茶室には釜があって湯気が立ち生きた働きがあって埋め合わせがつく。いまは室内が明るいので差支えはないが、花も水も宵越しは面白くない。毎日挿しかえるのが基本で日に日に新たな挿しぶりを賞する。床の間の掛物も同様
l 花は水揚げ――花に生気がなくては楽しめないし、見られたものではない。花は山野にあって美しい。その美しいものを、再び小さな部屋の中で野外と同じように美しく賞玩するのだから、あらゆる工夫、注意が入用
l 花は一重――若干の例外は除き、八重咲の立派さよりも一重の方がすっきりと美しい。床の花を賞する場合は一重に限る。八重しか手に入らぬ場合は蕾を使うべき
花道 花道にも憲章あり 魯山人 『自作陶展パンフレット』昭和27年
花は無上の自然美の一つで、それに見とれて感動するのに身分の上下や国籍など関係ない
花の相をまず知れ
自然に材料を取りながら、それに叡智、賢才、情操を加えて劇化演出する工夫が花匠の仕事。花器観賞は具眼(本質を見抜く力)でなければならぬ。そんな心で初めて花を生ける
【魯山人・茶】
茶道 茶美生活 魯山人 『独歩』昭和27年6月号
茶人と言われる人々の、日常生活における遊びぶりがいかほど光り輝いているかが気になって、あえて覚悟の上でバク談投下を試みる
およそ茶に関係あるものにして、切り離すべからざるものに、家屋があり、庭園があり、書画道具の類があり、いずれ一つとして、300年前に見立てられた美術思想、それを命とせざるものは、まずない。これらを研究し、それを理解すべく努力し、古人の源意を洞察し、終に古人の学ぶところ多しと、われを捨て茶事の功徳にぬかずくまでに至ってこそ、開眼の念願は達し得られるのだ。にもかかわらず、この軌道の上に一念を任さんとする者なく、その結果として、今日茶に親しむこと10年を誇る者たち、100人集めて10人の眼利きはむずかしいといえよう。茶堂の落莫(らくばく)を物語るではないか
【聞き書き・評論・エッセイ】
評論 『北大路魯山人』 青山二郎(評論家) 『藝術新潮』’53年10月号
型破りの奇人。他の連中は人も作品もひっくるめて魯山人以下
誰も「芸術を知らない」というのが何時もの論旨だが、それなら芸術は何かというと「美である」というのが結論だから、堂々としている
魯山人は、書のことになると開き直って人格論を持ち出し、人柄が良ければ字も亦必ず良いという
篆刻も若い頃から一家を成していたが、画家が尊敬できなくなってやめた
「美的生活」を主導した結果、尊敬できなくなったという画家の世界に自ら身を置いたのが怪しい
料理の心の師は茶人だと教えてくれたのは魯山人。料理と瀬戸物は離すことができないが、それを1人で握っているところが魯山人の独壇場
思い出の魯山人 『魯山人のこと』 白洲正子 『太陽』'89年5月号
私は今までずいぶん魯山人の提灯をもって来た。それは、生前の魯山人があまりに人に嫌われていたためその作品まで不当に扱われていたのと、現代の陶芸家の作るものがひどすぎるから。堕落しているのは政界だけでなく、日本中が金に振り回されて気が狂っている
魯山人の作品が法外な値段がするし、最近は書が特に高いそうで、良寛の数倍もするというので義憤を感じた
青山二郎に魯山人の書の感想を聞いたら「魂がない」と言った。魯山人は何をやらしても巧かったが、肝に銘じて何かを貰ったことはない。ただ趣味がいいから買ったまで
魯山人は学ぶために陶器を蒐集したというが、それは陶磁器を愛したのではなく真似るために利用したに過ぎないのであって、そういうものが文章の上のみか陶器や書にもありありと表れている。青山の感想もそういうことなので、言葉は何とでもいえると思うのは嘘
「人を使って窯を築き職工に自己好みなるものを作らせたものは、無精神なる形骸のみを巧みに真似るも、作品の上に何らの魅力もあろうはずがなく下劣な悪器たるに終わる」と言いながら、自身はろくろ師を雇い(荒川豊蔵もその1人)職工に作らせる名プロデューサーだった。自ら陶工をもって任ずるなら、精神の美など語らなければよかった。実際にも、彼は例えば「わかもと」の景品などを山と作っていた。物を書くというのは恐ろしい
「わかもと」のパーティーで、誰かが魯山人に字を書かしたら面白いといい、私が長襦袢だけになり、魯山人が何を書くのかと訊くから、「林間に酒を温めて紅葉を焚く」と言ったら、途中まで書いてごねだした。衆人環視の中で長襦袢1枚で震えていたため癇癪を起こしもろに一発食らわせた。あとで青山から「電車の車掌みたいな奴を殴るのはよせ」と叱られた
聞き書き 『魯山人伝説』 青山二郎 『藝術新潮』'60年8月号
黒田陶苑の主人が語る――昭和11年、星ケ岡茶寮と袂別した失意の魯山人を、わかもとなど財界人が集まって、陶芸道1本の目安を建てる。安田火災などが記念品を相当量発注。魯山人はお山の大将。書道にも大層自信を持ち特に図案化した籠字風の独特な揮毫を自慢。
山人は何事によらず水準を抜かねば承知しない。負けじ魂が五体に浸透していた
昭和12年ごろ、糸魚川の骨董屋に良寛の書があるという話を相馬御風が魯山人のところに持ち込み、魯山人は一目見て惚れこみ、金もないのに持ち帰り、わかもとの景品の注文を大量に受けて金を作り1万円払ったという
国税が22年も税金を払っていないと怒鳴り込んできた。当初研究のためだと言って藤沢税務署長から税金を納める必要はないといわれたのを盾に税務署の要求を拒んできたが、とうとう5年に限って遡り100万円払ってけりをつける
娘の和子を可愛がったが、いつまでも自分の才能を受け継ぐ様子が現れず、ついに自分の子ではないと言い出し、晩年倒れた後も和子の看病を受け付けなかった
遺産どころか借金ばかりが溜まっていたが、支援者が残った品を高く引き取ったり、仕掛けて死んだ焼物を完成して遺作展で売ったりして金を作り、遺族にも若干残した
【モデル小説】
『食魔』 岡本かの子 『鮨』'41年3月
【魯山人への旅】
『魯山人とある植木職人』 大野陽子(エッセイスト)
北鎌倉の山崎に窯を築き、7000坪近い敷地に点々と風雅な建物を建て、亡くなるまで30年をそこで暮らした魯山人。彼の後援者「わかもと」の長尾社長夫妻も鎌倉に別邸を構えている。現在鎌倉氏の所有になっているその「扇湖山荘」を訪ねた
魯山人はその邸について、「軽薄な成り上がり物、観光外人などが見ては絶賛に値する構え」と酷評する一方で、遠く相模湾を望む窓外の眺めについては長尾夫妻の大手柄と褒めちぎっている。「風流楽土」と言い、大概の風流人にとってもってこいの場所と言って、「風流」を連発。「雅美生活」を追求する魯山人の「風流」は、彼を語るときのキーワード
魯山人と親しい交際をしたという無名の郵便局員越後島氏の回想では、「抜け目のない計算の上に立って、自己を宣伝する究竟の場所として若桜街道の要衝の地を選んだ」という。久邇宮邦彦王の台臨を仰いだのも、光悦が家康などの最高権力者に取り入った故知に倣うなど、魯山人の生涯は演出の連続だったとも。独学の魯山人は、中村岳陵に日本画を習っていた越後島氏に意見を求めることもあった
それにしてもその悪態ぶりには、ものには言いようがあるだろうと言いたくなる。人を怒らせておいて、自分は人が悪いと言いながら、「私はいつも憎まれ口を利きたい」と攻撃は止まらない。生まれ育ちや学歴によるコンプレックスがそうさせるのだろうか。原因はともかく、自分でもこの衝動は止められない
高座郡(現藤沢市)から山崎に移築した魯山人旧居「慶雲館(閣)」。徳川初期の旧家で、初めは迎賓館として使われ、家康や明治天皇も来られたという。’43~’59年死ぬまでここに住む。’98年本宅・茶室とも全焼。11年間住み込みで建物と庭を管理した植木職人が焼身自殺を遂げた
星岡窯の土地建物は、大手証券会社社長が購入して別荘として使ったが、バブル崩壊で使われなくなり、空き家のまま放置され、かつて慈しみ手入れしていた庭園の朽ち果てた姿を見て世をはかなんだ植木職人が庭とともに消えて行こうとしたのではないか。魯山人の注文は10分以内に届けなければならないので大変だったという魚屋「魚作」も店を閉じ、煎餅のあった菓子屋「三橋堂」もすでにない
作品はこれからも多くの人に愛でられ、文章は「風流の教科書」として読み継がれていくに違いない
本館は、飛騨高山の民家を移築・改築したものです。建築家・大江新太郎らの設計によるもので、昭和戦前期の和風文化を画す代表的な大型遺構であり、類例が取り壊されていく中で、市内に現存する明治期以降の建築物として高い歴史的・文化的価値を有するものとされています。
茶室(伏見亭)は敷地の最も高い場所に位置し、明治時代に伏見宮別邸に建てられたものをそのまま移築したと伝えられる、由緒ある建物です。
庭園は、明治から昭和初期にかけて活躍した、近代日本庭園の先駆者として知られる7代目小川治兵衛(植治)とその弟子の岩城亘太郎の作とされています。アプローチの前庭、南側の洋風庭園、小規模な茶庭、伏見庭園の4つのエリアで構成されています。
長尾氏の別荘として使用された後は、「長尾美術館」や料亭「鎌倉園」を経て、昭和56年(1981年)に旧三和銀行(現三菱UFJ銀行)が取得。平成11年(1999年)まで研修所として使用された後、平成22年(2010年)10月に鎌倉市が寄附を受けました。
【魯山人座談】
『華々しき毒舌』 魯山人・棟方志功・勅使河原蒼風・岡本太郎 『淡交』'58年1月号
l 苦労と年と・・・・
(棟方) 今日集まったのは、それぞれ苦手に見られっている人
(魯山人) 青山二郎は、子供の時分から知っているが、口は悪くても根がない、縁日の植木みたいなもの。振る舞い酒以外は飲まない男。人の家に行くにも土産は持たない
l 狂人の手紙
(魯山人) 初めて棟方を知ったのは30年ほど前。仏画の版画を見て天才だと感心、買おうと思ったら5千円もしたが、よくて高いからしょうがない。以後肉感的になってきた
(岡本) 最初の出会いは、展覧会の時、激励の内容だが、気狂いから手紙が来たと思った
(棟方) 岡本かの子の詩や小説が好きだった
l ロダンのバカヤロー
(魯山人) ロダンの美術館を見てバカヤロウだと思った
(勅使河原) 陶器と言わず彫刻としての世界を魯山人にやらせたい。油絵具とブラッシュをあてがってごらん、大変なものだろう。岸田劉生というのも何でもやった
一平大いにくってかかる
(魯山人) 栖鳳の絵を貰って売った金で世話になった岡本のじいさんを京都見物に連れて行ったら、負けず嫌いの息子の一平がつむじを曲げた
(岡本) 魯山人が一平、かの子の一番グレたところに振り回されたことを自白したが、実際そうだ。俺は子供の時から見抜いていた。一平の悪さとかの子のダメなところ
(魯山人) 世の中に大味、小味というものを非常に重きを置く。アメリカは大味、個人でいっても名人芸は小味。小味の中には大味が入っても、大味の中には小味は入っていない
l うならせろ
(魯山人) 岡本は絵画きなら一筆何かを画いてそれで人をうならすような・・・・
l 顔のほうで似あう
(魯山人) 梅原の絵は芸術的に言ってどんな価値があるか
(岡本) 俺を除いては、芸術なんてない。梅原はだめだが、何かよさがある。安井曾太郎くらいの良さはもっている、しかし芸術じゃない。奴隷の芸術だ。何か他のものに依頼していて、今までにあったものを受け取っている、だからダメなんだ
l 小さい肝玉を大きく出せ
(勅使河原) 魯山人に聞くが、日本の焼き物では誰がましだね
(魯山人) 言いにくいけども、いない。強いて言えば、ギリギリ富本と浜田
(勅使河原) 魯山人にお願いするけれども、トリエンナーレに出すものを、少し人を食ったような大きさで、魯山人を示すようなでっかいものを作ってもらいたい
(岡本) つまり魯山人のきもっ玉の小さいのを一番大きなもので出してもらいたい
【魯山人・人】
『柳宗悦氏の民芸論をひやかすの記:帝展工芸評を読みて』 魯山人 『星岡』'30年
l いわゆる宗悦民芸本山――趣味上自己の主観を明らかに表示し、意義ある生活をなさんとす、その態度は見上げた器量人として、秘かに注目し、氏を愛すべしとするが、時々得手勝手な僭越極まる我田引水論をもって高飛車に餓鬼大将をやるので、尊敬するとは言わない。この頃大分氏の信者がいて、彼の相手として都合の良い東西も御存じなしの世間見ず、若い人ばかり、いわば世の名器も名品も碌々珍糞漢の連中。その信徒につけ入って、最もわかりやすい下手工芸、農民作品、たあいのない雑器を見せての講釈だから、審美的教養のあるなしは問題でない。一遍に卒業して、一躍美の真理界に陶酔した気になり、直ちに雨後の筍のように殖え、かくて宗悦本山は出来上がる。宗君得意でたまらぬ。いよいよ出でて下手物民芸の美的強調に勤める。しかして上手を否定するに辛辣
l 似非手織縞男(ておりしまおとこ)――柳氏自身の生活は、だいぶ曲者で、必ずしも彼の主張や理想とは一致するものではないらしい。氏の衣服調度の一々が民芸雑器のみで組織されているわけでもなさそう。もののわかる大人は相手としないで互いに顔見合わせてその無謀をせせら笑っているが、それを先生、自己に都合よい勘違いをして、世の中は鳴りを静めて傾聴しているがごとくに感じ傍若無人に気取ったことをあけすけに言う。この頃読売新聞その他で叱り飛ばされていたが、誰とても心あるものは、いい加減にしろと心に叫んでいる。柳君の悪い癖は、いつも自分1人を偉いものにしてしまうこと(そういう自分にもその癖はあるにはある)
l 菊面も偏盲も――輓近(ばんきん)民芸の、いわば高の知れた美を見つけ出した氏は、無上に嬉しくて堪らない。いわば初恋のようなもので、盲目(めっかち)でも痘痕(あばた)でもむやみに嬉しいと見える。それでも自分1人で喜んでいる分には差し支えないが、民器に心なき者を捕(ママ)らえては侮辱的口吻を浴びせかける。己(お)れんところが本家、本元だという、誰もこんな家元なんか争いもしないが。紛れもないお人好しの坊ちゃんで、旅をさせるのが薬だが、旅をしても物を習得しないので、旅は仕損だ
l 米国ならこそ――わざわざアメリカくんだりまで出かけての日本民芸、世界民芸の講釈と来ては、確かに無人境に違いないが、趣味にかけては世界有名な低級国、すこぶる得意に違いなかったろう。しかし、雑器の一手販売は無階級のロシアが良くないかね
l 山中氏の民芸品売り立て――東京・大阪で民芸雑器なるものを売り立てた際、目録の序に柳君は、茶祖も雑器を取り入れた云々と、チャンチャラおかしいご都合振りが面白い。茶祖の取り入れた4,5世紀も前の民器と、徳川末期の雑器とは作成された動機は1つであっても、結果に於て価値に雲泥の差があるんだと言ってみても、薄眼初歩悦君には解り難いだろうが。買約者の顔触れを見ても、氏に育てられて開眼したというような者はほとんどいない
l 上手意識――氏一流の雑器の美強調はさておき、君が否定するところの上手物なる物を氏がどのくらい知っているかが問題で、気の毒なほど信用が稀薄で、君の言う上手物は駄作の上手物であって、名作の上手物を未だ凝視したことがないらしい
l 推古という木食――上手物でも下手物でも純真の真、無邪気の気に変わりはない。下手物も数世紀も前のものとなっては、まったく無邪気で貫録もあって見厭きがしないが、徳川末期となってはたとえ邪気がなくも時代の力が足りない。君の病的興味にかかった木食上人が良い証拠。あれほど毎日木食仏のことを有頂天に礼讃していた君でも、おそらく今日では食い厭きたであろう。もう木食はコリゴリしたと早く兜を脱ぎ給え
木喰上人(もくじきしょうにん、1718–1810)は、江戸時代後期に活動した真言宗の修行僧であり、仏師です。米や麦などの穀物を絶ち、木の実や若芽を食べる厳しい「木食戒」を守りながら、日本全国を旅して千体以上の独特で微笑みを浮かべた仏像(木喰仏/微笑仏)を彫り遺しました
l 天平物より船箪笥――帝展の工芸評に「天平時代を無上に有り難がる」云々という君の嘲笑的口吻があるが、古いものは調子が高く、この調子が高いものに養われなくては、人間下落するばかり。徳川末期の雑器屋などに天平など解るもんか
l 器類を問わない寂と艶――このところ益田鈍翁が上出来。天平を認識して天平ものを熱愛し、雑器を愛でて田舎家まで造って喜ぶ
l 工芸赤化犯――柳君の工芸観と来ては、ただ雑器の一点張りで世を風靡せんと理想ばる。ここが柳君の出来の悪い所。工芸の階級用途を無視し、工芸作風を一種一様に流行さそうと望むのは、君に専制のレーニンの偉大さが入用。国外追放露国行きというところ
l 涎(よだれ)くる鯡皿(にしんさら/ヘリングプレート)――君の細君兼子夫人の声(アルト)に耳を楽しませる階級もあれば、安来節でなくんば嫌だという階級もある。君のように無邪気に廉価品ばかり礼讃するなら、まず隗より始めよで、自分の生活に徹底的に取り入れを行い、自己生活の矛盾を改めることだ
l くれても嫌な帝展の工芸――帝展の工芸観への反論は君と同感だが、君が伊東翆壺氏の陶製暖房を300円で買うというが、わが輩はくれるといっても貰わない
l 天勝式鏡台と兼子夫人――あの暖房を金を出してまで欲しいというからには、君の好尚に満点を意味するわけだが、そうなると、梶田氏作の化粧卓一組。君の所謂天勝向きという奴、それは君の評が当らない。暖房の前の君と天勝鏡台の前の兼子夫人、どう見ても築地小劇場が連想され、やあ御両人と大向こうでひやかすこと請け合い
l 団栗(どんぐり)連の少功作品――帝展の工芸品の大部分は、大地にぴったりと足がついておらず、みな浮足で何らの定見がない。製作動機に不純があり、作心の底には泥土の醜さがある。共通して俗流、帝展向き、まったく尚ばんと欲するも能わざる厄介者
l 真個の芸術とは――いかなる芸術といえども、線をもって成り立っていないものはない。どの部分から一寸の線、針小の一点を見出すも、みな全体より受くる大美観と、何らの相違あるを見出し得ざる高風がある
l 夫子それ開眼せよ――それに引き替え、幾度帝展を見るもその作物は、所見においてこそ情実観もあって魅せられることもなしとはしないが、近寄って見れば物の数ではない
l 錯乎(さくふ、入り交じること)たり民芸論――この度の官器的暖房が欲しくなるなど、虎の巻の民器本質論を忘却し、この上なき醜態であり、今後は眼光紙背に透るの用意をもって品評の軽率を除去せられたい。口から出まかせに長々と失敬ばかり述べ立てたが、あえて心無しの侮辱ではない。要するに君の所論好尚とはただお手軽に出来たもの、ごてごてしない単純なものというのが本質論に当るらしい。そこで君の民芸所論は君自身の懐中が基調となり、我田引水を振り廻すなきかを疑う。最初から富者たらしめば単純なる下手物崇拝論は生まれなかったであろう
l 暮迫る売立――柳氏の議論には恐ろしく矛盾が多い。内容に至っては支離滅裂、矛盾撞着、審美上の根本義を解しておらぬと断じて過言でない。床の間より台所へを高唱し、実用安価を工芸の根幹なりと主張する一方において、自己の最も是認する同人浜田氏作土瓶1個15円、醤油注1個5、6円の売価を平気で許しおるが如き行為である。富本氏然り、河合氏然り
人物観 『勅使河原蒼風のこと』 魯山人 昭和30年
草月老は偉才といってよい。恐ろしいプラスとマイナスを具えたそこにも人気がある。必ずしも自然美なるものを無上の伴侶としていない様相があって、とどのつまりはどうなって行くのかが僕らの興味。草月老は思い切ったことをする性格があって、いつも人をあっといわせる。家元という都合のいい立場にあっての活躍で、やかましいことをいう手強い者のないせいだから横行闊歩自由
人物観 『革命芸術家イサム野口の作品』 魯山人 『独歩』昭和27年9月
イサム君の作品は、彫刻というもののわれわれの頭に刻みついている彫刻ではない
米仏では早くから知られているらしいが、日本では誰もが何が何だかわからないという
彼の作品が示す直曲、すべての線にいささかも無理のない、誤りのない点は賞美に価する
この点は同相のピカソ、マチスの類品である。だが、イサムはピカソよりは美しく感じる
マチスの油絵にしても、過去において極めて常識的に努力した時間があり、それが70余歳にして幼児の切紙細工かのごとく、童心そのものをもって幼稚極まる図様を堂々発表するとことは、正気の沙汰とも思えないが、人間理知の行き詰まりから転じた理知によって作られた工夫である。ピカソの陶画も大同小異で、従来フランス名画には見えない新表現
ついに原始芸術に打たれる、幼童画に魅せられる、この尖端者の功罪は今に大きく影写されて、心ある者をゆすぶって止まぬであろう
伝統信奉者に比してみる時、イサムは偉人。そもそもの最初から伝統を無視し、原始に学び、幼童美術に打たれ、自然美を信仰して来た倖せ者。ますます革命美術家たれと祈る
人物観 『福田家女将を悼む』 魯山人 『独歩』昭和27年9月
最初にまち女史を知ったのは、風雅な料理生活を勉強したいので星ケ岡で使って欲しいと言って人伝に会いに来た時で、星ケ岡は不了見者が俺を理不尽に追い出したから今は関係ないと言ったら、先生がお出ででなければいかないと言い、将来旅館をやりたいのでご指導くださいと言って帰った。女史からの手紙を見ると、珍しく字が上手く、チャンと自分の字になっている。これは面白いぞと着目した
名士連が集まって女将の追悼座談会をしたが、どれも月並みだったので、我が輩は最後にこんな話をした。彼女には短所もたくさんあり、それを言わねば故人は浮かべない。彼女には光琳に絡む逸話がある。負けん気が強く、家人には魯先生の言うことは必ず聞くようにと言いながら、自分では一向に聞こうとしない。この負けん気が彼女の唯一の欠点と言えば欠点。雅美風流の生活があり、これが一番の取り柄。光琳の団扇を床の間に掛けていたので、いいナ、いつ買ったと訊くと、今テストしているというので、たかが光琳ぐらいを20日もテストしてまだ分からないのかと言ったが、光琳を褒めたのに気を良くしたのか、調子に乗って今度は光琳の富士山の絵を買った。博物館の先生に見て貰って買ったというが真赤な偽物。こんな話が故人のためには一番功徳になる。諸君は多勢寄ってるが、彼女の雅美生活そのものには遺憾ながら一指も触れていない
人物観 『田中伝三郎君の想い出』 魯山人 昭和6年
初めて会ったのは、私が14,5の時、伝三郎は20歳くらい。鼻糞を揶揄して鼻黒はんと言って家にやってきた。当時の彼は美少年だったが、便利堂を継ぐ頃には壮年面に変わり、便利堂の事務所で安定して威勢よく働いている姿を見て安堵した
伝三郎は実兄の弥左衛門に頼んで、内貴清兵衛に紹介してくれた。圭角ある私を、穏健な彼が良く世話をしてくれ、私は彼の厄介になり続けた。家庭の温かさを知らずに成人した私が田中家の温もりを気に入って押しかけ食客になった
泰山寺に滞留中には陣中見舞いに来て、祇園・島原を初めて経験させてくれた
彼が致命するまで私は敬愛を続けたが、馴染み深い、家庭の人たちにとっては先生も糞もなく三文の値打ちもない始末。かくの如き交際を30何年間と継続
思えば、彼は善良な人格の男。貧者、弱者を労わる彼の性格は世上稀に見るもの
第三期:田中伝三郎時代 大正14年(1925)~昭和5年(1930)
大正14年(1925)に弥左衛門が病没し、中村家三男の伝三郎(田中家婿養子となり田中姓)が引継ぐ。伝三郎は、既に弥左衛門の片腕として便利堂の事業に関わっていた[13]。 伝三郎は昭和5年に病没するので、中村四兄弟の中で活躍時期は一番短いが、その功績は原色版印刷部の創設である。
原色版印刷の発展に伴う、印刷物カラー化のニーズに対応することが急務であると伝三郎は考えていたが、便利堂の考える品質の高い技術力を持つ原色版印刷工場を運営するために必要である、有能な技術者を見つけられず難航していた。そんな折、実弟の中村竹四郎を介して、辻本写真工芸社の高級原色版部門併合の協議が成立、佐藤浜次郎ら優秀な技師が移籍して、昭和2年(1927)に原色版印刷所が開設された。これによりカラー印刷も可能となり、コロタイプと原色版による「美術印刷の便利堂」の基礎が確立された[13]。
人物観 『ピカソ会見記―ピカソの処世術』 魯山人 『藝術新潮』昭和29年9月
私のように贔屓でない者の会見記は珍しい
2,3年前、ピカソの皿が日本に来て展覧会をやったが、つつましくコピーと表示した判がちょこんと押してあるだけで人目にはつかず、小林秀雄や青山次郎が騙されていた
「陶器」ではなく「陶画」とでもいうべきものだが、それでもピカソの皿には、良否は別にしても生きている、なにかデリケートないい知れぬ味というものがない。第一、土をちっともいじっていない、土に対する愛情も何もあったものではない
それを見て僕はピカソの生活に承服しがたいものを直感した。純粋な男じゃない、相当の横着者。それが今度会ってみて、人品、風采すべてに現れていた。フランス人と違って柄が悪いとは予想していたが、実物は予想以上。離婚問題や子供の人質問題で機嫌が悪いということだったが、僕が関口俊吾と訪ねた時は上機嫌。人里離れた物置小屋のような貧乏臭いアトリエに案内し、自作を説明して一人楽しんでいるという態度。僕が陶器を焼く人間だということを知っているのに、陶器の話はしない。帰りに酔ったシャガールの方は、「東洋の陶器にはいろいろ秘密があるのでしょう。土のこととか、釉(うわぐすり)のこととか、そうした秘密がこちらに入ってくると、こちらの方も、本当の芸術品になるのだが・・・・」と、賢慮に東洋の陶器に対する尊敬を込めてくれたが、ピカソにはそんな常識的なところがない。自分勝手にしゃべりまくりながら、時々こちらを盗み見する、何か人をさっと見抜こうとするような、鋭い視線が印象的
大金持ちのピカソが、またなんというむさ苦しいアトリエで仕事をしているのであろう、住居も日本でいえば中流階級の生活。ピカソの絵は1000万円もするというが、売れなければ近くのアンチポリスの美術館に寄付。一か所に集めておけば見る人に訴えるものが大きい。そうした計算もあるのだろう。そうして彼は、板1枚、煉瓦1枚敷いていない土間の中にぼろ椅子に座って仕事をしている。それがピカソ流の処世術というべきものか
ピカソという男は、彼の「芸術」よりも、彼の「生き方」「生活」に異常に興味を惹かれる男
とにかく、生まれながらにして処世術を身につけてきた男だ
河出書房新社 ホームページ
毀誉褒貶相半ば、しかし圧倒的、美の塊、当意即妙、実際的な美しさ……。あくの強さとあふれる魅力……正面から切り結ぶ。文庫未収録エッセイも多数収録。
生活に息づく創造、線引きはしない 世田谷美術館40周年記念展
2026年3月24日 16時30分 朝日新聞
3月30日に開館40周年を迎える世田谷美術館(東京都世田谷区)。記念展「世田美のあしあと―暮らしと美術のあいだで」では、同館が力を入れて収集する「素朴派」の作品をはじめ、特色豊かなコレクションが並ぶ。独自の美術館活動がいかになされてきたのか、橋本善八館長に聞いた。
世田美の基本構想が固まったのは1982年。有識者らによってコレクションの収集方針が話し合われ、世田谷に多く暮らした美術家たちの作品に加え、いわゆる「素朴派」と呼ばれる独学の作家たちの作品を柱の一つに据えることが決まった。
当時、独学の作家の作品を体系的に集めている美術館はまだ日本になかった。「現代美術の主流があまりに難しく概念的になりすぎていて、もっと一般の人たちにわかりやすく、生活に結びついたものをという意識もあったのだろう」。若手学芸担当として開館準備に携わっていた橋本さんは、そう振り返る。
開館記念の企画展「芸術と素朴」では、アンリ・ルソーやアンドレ・ボーシャンら欧米の素朴派の作品や、そこに影響を受けた近現代美術、フォーク・アートや子供の作品まで幅広く紹介した。93年には国際巡回展「パラレル・ヴィジョン 20世紀美術とアウトサイダー・アート」で、精神疾患を抱える人らの作品と20世紀美術の関連を考察した。
今日では、滋賀県のやまなみ工房を筆頭に福祉施設でのアート活動が注目され、アウトサイダー・アートを中心に扱う展示施設や、障害のある作家らの作品を扱うヘラルボニー社の活動も広く知られるようになった。一方、知的・精神障害者を含めて美術の専門教育を受けていない人の創作を総称する「アウトサイダー・アート」と、ルソーを端緒に19世紀末~20世紀初頭のヨーロッパで見いだされた「素朴派」の定義や線引きには、いまだあいまいさが残る。
「バスキアのように専門教育を受けずに創造行為をしている人もいっぱいいるし、今の若い現代美術作家にとってアカデミックなものは必ずしも必要でない」と橋本さん。「“健常者”の定義だって実はあいまい。いろんな人の作品を見てきて思うに、結局、表現に線引きはできないんじゃないか」と指摘する。
世田美では現在、2021年の回顧展を機に多数収蔵した塔本シスコや山下清など、約200点の「素朴派」系作品を収蔵している。「世田美のあしあと」展ではこのほか、北大路魯山人など世田谷ゆかりの作家や「暮しの手帖」創刊編集長・花森安治に関するコレクションなどで、40年間の収集・展覧会活動の歩みをたどる。
「暮らしの中に息づいた美や創造を大事に掘り下げていくのも世田谷美術館の使命。どんなにいいものを集めても、その美術館らしくなかったりメッセージが足りなかったりすると、お客さんはただモノを見るだけになってしまう」
公立美術館のなかでも際だった独自色を打ち出せる背景として、40年で3人目という館長在任期間の長さや、設置者である世田谷区との良好な関係、地域住民の協力を挙げる。特に、来年度36期生を迎える週2回の年間講座「美術大学」、小学生の鑑賞教室を支える400人超のボランティアといった住民との関わりは、プロとアマチュアの線引きを超える素朴派の価値観にも通じるという。
「素朴派をやっているのに、“素朴派”に疑いを持っている。いろんなことをやってきた結果が、変なボーダーを引かない自分たちの姿勢につながっているんじゃないか、という気がします」(田中ゑれ奈)
(私のイチオシコレクション)世田谷美術館 橋本善八
2026年2月24日 16時30分 朝日新聞
■暮らしに息づく「美」の味わい 館長・橋本善八
郊外住宅地として発展してきた東京都世田谷区には、様々な分野の文化人も集まりました。こうした地域性もあって、当館の大きな活動テーマは「暮らしと美術」。生活と密接に関わり、日々を豊かにする美術を探求しています。
コレクションの柱の一つが、北大路魯山人(きたおおじろさんじん)(1883~1959)の器や書画157件です。作陶や料亭のディレクションなど多彩な魯山人の活動を支援したのが、世田谷に住んでいた実業家の故・塩田岩治氏。収蔵品は塩田夫妻の愛用品でした。
「染付葡萄文鉢(そめつけぶどうもんばち)」には、縁の一部に金継ぎが施されています。焼成時すでに欠けた状態でしたが、塩田氏は気に入って購入。自ら金継ぎをしており、とても大切に使っていたことが伝わります。
2人の交流は、ボーリング会社社長の塩田氏が魯山人の窯場の水の出を改善したことに始まりました。気難しいと言われた魯山人ですが、塩田氏とは心を通わせていたのでしょう。コレクションの器は長年の親交を通じて塩田氏の手にわたり、夫妻が日常的に使ったもの。暮らしの中にある「美」を感じます。
それは、当館が収集方針の柱とする素朴派の作品にも通じます。美術の専門教育を受けず独学で創作した画家たち、その筆頭格のアンリ・ルソー(1844~1910)はパリ市の入市税関に勤めながら絵を描き始めました。「フリュマンス・ビッシュの肖像」のモデルはルソーが思いを寄せた女性の夫、いわば恋敵。恋敵が亡くなった時、ルソーは女性にこの絵を贈ったのです。
正面を向き、影がなく宙に浮いているような姿には不思議な味わいがあります。ルソーはなぜこの絵を描いたのか。彼にとって描くことは、日々の生活や生きることと切り離せなかったのではないでしょうか。
当館は今年開館40年。所蔵品は近現代美術が中心で、写真、本の装丁、アフリカ現代美術など幅広いのですが、開館時からあるこの2点は当館の出発点ともいえるコレクションです。(聞き手・木谷恵吏)
*
はしもと・よしや 1984年から開設準備室に勤務。86年の開館時から学芸員として世田谷ゆかりの作家を紹介する三つの分館開設、展覧会「企業と美術シリーズ」など担当。2024年から現職。
《世田谷美術館》 東京都世田谷区砧公園1の2(電話03・3415・6011)。[前]10時~[後]6時。原則[月]休み。220円。2点は「開館40周年記念 世田美のあしあと 暮らしと美術のあいだで」で展示(4月12日まで)。
BLOG
今日は、北大路魯山人自身の文章と、他の”文化人”が魯山人について書いた文章とが集められたこの本について。
魯山人: 文芸の本棚 味・陶・書・花・人…業深く崇高な芸術家 [単行本(ソフトカバー)]
河出書房新社
2015-05-22
魯山人って何をやった人なの?と言われると、なんでもやった人としか答えようがないのだろう。本のタイトルにもある、料理・陶芸・書・花・絵画にいろいろ…。
私が知っていたのは、生茶のCMで名前が出てきたとか、納豆が美味しくなるために混ぜる回数を語ったとか、その程度。
以前行った島根の足立美術館に、北大路魯山人の陶器がたくさんあった。今行けば、価値はわからくても好きか嫌いかくらいは分かるかもしれません。勿体ないこと…。
魯山人が嫌いな人、魯山人を嫌いな人―1冊に入っている面白さ。
この本の面白いところは、戦前・戦後の文化人どうしの好き嫌いを俯瞰してみることができること。好き嫌いなんて言い方は故人も不本意だろう。しかし、それぞれの文体からは感情的な面がただよってくる。
ある本によると、その時代の作品を正しく評価できるには少なくとも50年は必要だそうだ。同時代の人間の作品を評価するむずかしさは、その人物と作品とが一緒に存在しているからかもしれないとも思う。
魯山人が嫌いな人、評価していない人。魯山人を批判する人。それが一冊の本に入っているというのは、かなりお得。本とテレビ(主にEテレ)でしか知らない人たちが人間臭く感じられて、とてもいい。
さて、まずは魯山人が悪く言っていた人――横山大観(日本画)、河井寛二郎(陶芸、民藝運動)、青山二郎(美術評論家)。すべてではありません。
横山大観、河井寛二郎…魯山人とともに足立美術館に多数。それぞれ、美術館のなかでも数の多いコレクションだったとはず。亡くなったあと、批判していた間柄の作品が、一人の人(でもないのかな)に集められて、同じ空間で愛でられている。時間を越えたふしぎな縁を感じずにはいられない。
青山二郎は白洲正子に影響をあたえた人くらいの知識しかないが(しかもドラマ)、青山二郎・白洲正子ともに魯山人をよく言っていない(どちらの魯山人評も本にはありました)のは面白かった。
「魯山人は書も巧かった。陶器も巧かった。(中略)私はそれらのものから肝に銘じて何かをもらったことがあるだろうか。残念ながらノウと答えるほかないのである。ただ抜群に趣味がよかったから買ったまでで、箱書があるものはすべて売ってしまった。良寛の例を引くまでもなく、その値段で魯山人以上の本物が買えたからである」(白洲正子「魯山人のこと」
…魯山人に恨みはないが、すぱっと気持ちのいい文だったので、つい引用。
本をとおして発見した岡本かの子
私のような者は、たとえばある本を読んで、そこで気になったものを掘り下げて…と脱線しながら、知識を広げていくしかないのだと思う。
今回そうやって出会えたのは、岡本かの子。魯山人のモデル小説『食魔』がとても面白かったのだ。魯山人の業や、一世代では片付かない人間の縁みたいなもの―エネルギッシュに、でもスラスラ流れるように込められていた。文体はすこし古いが、目や頭をとめることなく読むことができた。
(ちなみにこの本では、岡本太郎や魯山人、他2名での対談も載っていて、太郎はそこでも母親の話をしている。太郎が大人にならざるを得なかった”ダメ”な母だったようだが、『食魔』を読んだあとでは「おお!あの、かの子様!」とうれしく読んでしまった)
一応さいごに…魯山人語録。
ほとんど魯山人本人の話は書かなかったが、さすがにそれは申し訳ない。魯山人のことばで印象に残ったものを二つ。
およそ東洋の芸術を見るに、最初は中国であるが、最後は日本である。常にお体裁を作るのが中国民族の仕事となっており、それに味を持たせ、ものを柔らかくこなし、表面のお体裁に加うるに底力に重点をおき、魂を入れて生きたものにするのは日本民族の仕事となっている。(良寛様の書)
世の中に大味、小味というものを非常に重きを置く。あいつはなんぼよくても大味だ、国で言ったらアメリカは大味だ、個人で言ってもあいつの芸は大味、名人芸というものは小味だ。德川時代でもその先に行っても小味のよさです。小味の中には大味が入っているが、僕らは言うんだ。大味の中には小味が入っていない。(座談会 花々しき毒舌)
そこまで新しいことは言っていないのかもしれないけど、「あるあるだよね~」という気分に。
良寛さまの書を激賞している魯山人が、僧侶全般の書について、こんなことを言っているのも面白かったな~。
されば良寛様の書は、世間並みの坊さんのように坊さん臭いというところのものがない。とかく坊さんの書には、坊さん型というもののあるのが通例であって、それが名僧と凡僧とを問わず、一見坊さんの書であるという特色は誰の眼にも映って来るものである
この本のシリーズ、他も面白そうだな。でもシリーズより、まずは岡本かの子だ。
Wikipedia
北大路 魯山人(きたおおじ ろさんじん、本名:北大路 房次郎〈きたおおじ ふさじろう〉、1883年〈明治16年〉3月23日 - 1959年〈昭和34年〉12月21日)は、日本の芸術家。出生前に父親を亡くし、母親からも捨てられるが、複数の養親と素封家の家を転々としながら独学で美に関する見識を高め、生涯を通じて、篆刻、絵画[2]、陶芸[2]、書道[2]、漆工、料理[2]などのさまざまな分野で活動した。
私生活では過酷な幼児体験から他者を信頼することができず、誰に対しても率直な発言をおこなったために、周囲と多くの摩擦を引き起こして孤独な晩年を送った。
生涯
1883年(明治16年)、上賀茂神社の社家である北大路清操(きよあや / せいそう)と、同じく社家の西池家出身である登女(とめ)の次男として生まれる。士族の家柄ながら生活は貧しく、社会情勢は版籍奉還と1871年(明治4年)に施行された俸禄制と世襲制の廃止による混乱期にあった。父・清操は東京と京都を往復する暮らしをしていたが、房次郎(魯山人)が生まれる4か月前に自殺。母・登女は知り合いの巡査、服部良知の紹介で滋賀県滋賀郡坂本村(現:大津市坂本)の農家に房次郎を預けたのちに失踪。預け先でも房次郎は冷遇され、その状況を見かねた服部夫人が連れ戻した[注釈 1]。1883年9月6日、房次郎は服部家に入籍して服部房次郎となる。しかし、7月2日に服部巡査は行方不明になり、同年秋に巡査の妻も病死したため、この養子の夫婦が義理の弟である幼い房次郎の面倒を見ることになる[3]。
3歳の春、上賀茂神社の東側に拡がる神宮寺山を養姉に連れられて散歩をしている時、のちに魯山人の原風景となる、真っ赤なヤマツツジが咲き誇る姿を目にする[注釈 2]。房次郎はこの激しい色彩の渦を見て「美の極致」を感じ取り、自分は美とともに生きようと決心したという[3]。その頃、義兄が精神異常を来たしたのちに死去。1887年(明治20年)頃、房次郎が4、5歳時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せるが、そこで義姉の母から激しい虐待を受ける。2、3か月後、これを見かねた近所の人が上京区(現:中京区)竹屋町の木版師・福田武造、フサ夫人に養子縁組を持ちかける。こうして房次郎は1889年(明治22年)6月22日、福田房次郎となり、以後33歳までの約27年間福田姓を名乗ることとなる。福田家では6歳の頃から台所仕事を買って出、味覚を育み料理の基本を学んでいく[3]。
10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業。春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に住み込みの丁稚奉公に出される。ある日、奉公先での使い走りの最中に御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆描きの亀の絵と文字に心を奪われる。その絵を描いたのは「亀政」の長男で、のちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳であった。1895年には第四回内国勧業博覧会に出品された竹内の『百騒一睡』(大阪歴史博物館蔵)を観て感動し、日本画家を志すようになる[5]。この出合いで絵に対する好奇心と情熱が高まり[3]、1896年(明治29年)1月に奉公を辞め、養父母に画学校への進学を頼み込むが、家計上の問題もあり断念。養父の木版業の手伝いを始め、扁額や篆刻などの基礎的な技術を身に付けていく。他方、初めて一字書きの書道コンクールに応募し、何万もの出展作品の中から天の位、地の位、佳作に一点ずつ入賞。以後も応募を続け、次々と賞を受ける。14、5歳の頃には賞金で絵道具を買って自己流で絵を描き始め、西洋看板画家としても活動した[3]。
20歳の時、房次郎の従兄を名乗る縫箔屋から、実母の登女が東京にいることを聞き、上京して会いに行くが拒まれ、房次郎は東京で書家を志す。登女は四条隆英男爵家で女中頭として働いており[6]、房次郎は男爵の口利きで日下部鳴鶴と巌谷一六に師事するが[7][8]、教えが技巧や決まりごとに偏っていたうえ、書道は楷書体の練習から始めよという指導方針に納得できないものを感じてすぐに師弟関係を解消し、隷書体の稽古に没頭する[9][10][11][注釈 3]。1904年(明治37年)、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した隷書体による『千字文』が褒状一等二席を受け、田中
光顕に買い上げられる。選考委員の中には先の日下部や巌谷もおり、白髭をたくわえた50歳代の年配の応募者が居並ぶ中で、21歳での受賞は前代未聞の快挙であった。房次郎はこの展覧会で福田海砂(かいさ)と号していた(この号は翌年までの2年間のみ使用)。1905年(明治38年)、町書家・岡本可亭(漫画家岡本一平の父、洋画家岡本太郎の祖父)の内弟子となり、3年間岡本家に住み込みで版下書きの仕事を始める。可亭からは福田可逸(かいつ)の号を授かり、次第に師をしのぐほどに仕事の依頼が増え、登女との関係も改善していた。この頃、平安時代から江戸時代までの古典文学叢書「有朋堂文庫」(ゆうほうどうぶんこ)の隷書体による題箋を揮毫する[15]。やがて帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)に文書掛として出向するようになり、1907年(明治40年)、福田鴨亭(おうてい)を名乗り、可亭の門から独立する。翌1908年(明治41年)2月17日に結婚[注釈 4]。その年の夏に長男・桜一(おういち)が誕生。仕事は繁盛し、収入を文具骨董、外食に注ぎ込むようになる。また合間には書肆に出掛けて畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭した。この時期、実業之日本社の社長、増田義一に見込まれ、六朝楷書で同社の看板と雑誌「實業之日本」、「幼年の友」、「小學男生」、「少女の友」、「日本少年」、「婦人世界」などの題字を揮毫した[16]。
1910年(明治43年)12月、実母と共に朝鮮に旅立つ。母を京城(ソウル)の兄のところへ送り届けて朝鮮を3か月間旅した後、朝鮮総督府京龍印刷局に書記として3年ほど勤務する。1911年(明治44年)3月、日本に残した妻に次男の武夫(たけお)が生まれる。京城滞在1年弱で中国の上海に向かい、書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩に会い、呉から「隨縁草堂」という扁額を譲り受ける[17]。1912年(明治45年)夏に帰国し、書道教室を開く。半年後、滋賀県長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。ここで房次郎は福田大観(たいかん)の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。そして敬愛する竹内の後援者であった長浜の縮緬問屋、柴田源七の食客になることが叶い、訪れた竹内に落款印を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った竹内が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画家との交流が始まり、名を高めていくことになった。1913年(大正2年)、京都に戻った大観は柴田を介して知り合った冨田溪仙の紹介で、生涯の大パトロンとなる内貴清兵衛の知遇を得る。1915年(大正4年)には、金沢の細野燕台や太田多吉、陶芸家の初代須田菁華のもとに寄寓し、美味しい食物や陶器に触発される[18][19]。この頃、須田菁華窯で初めてやきものの絵付けをする。
1916年(大正5年)、3年前に長兄が他界したことで母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗る。そして北大路魯山人の号を使い始める(数年間は魯卿と併用)。その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として各地を巡り、味覚や器の使い方、客あしらいなどに関する見識を高めた。さらに内貴の別荘・松ヶ崎山荘で調理の研鑽を積む。ここでは急な来客があった時の料理の誂え方や、食材をさまざまな料理に調理する方法、残肴を新たな料理に作り替える方法などを学ぶ[20]。1917年(大正6年)、便利堂4代目の中村竹四郎の知己を得て、古美術店の大雅堂[注釈 5]を共同経営することになる。大雅堂では、常連客に高級食材を使った料理を古美術品の食器で提供するようになり、1921年(大正10年)、会員制食堂「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立って料理を振舞ったが、顧客が増えたために器も須田菁華窯でつくり始める。この年、大雅堂から竹内のために彫った落款印八十八顆を捺した印譜『栖鳳印存』(せいほういんぞん)を刊行。1924年(大正13年)には、文部省の査定により制定された常用漢字を楷書体・行書体・草書体の三体で揮毫した臨書のための法帖『常用漢字三體習字帖』(じょうようかんじさんたいしゅうじちょう)を刊行した。これは北大路魯卿名義で、前文部大臣の鎌田榮吉と国語調査会主事の保科孝一に序文を書いて貰っている。また、同年には伏見の初代宮永東山の窯を訪ね、初めて青磁をつくる。1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町の「星岡茶寮」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。この頃から魯山人の芸術的な志向は中国美術から日本美術に移っていく。1926年(大正15年)、夏から秋にかけて魯山人窯芸研究所「星岡窯」[注釈 6]を築窯する。9月、次男の武夫が15歳で夭折する。
1927年(昭和2年)、宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、星岡窯で本格的な作陶活動を開始する。1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を開く。1930年(昭和5年)には古物商の秦秀雄と出会い、意気投合して星岡茶寮の支配人として取り立てた。1931年(昭和6年)から翌年にかけて、便利堂から『古染付百品集』上下巻を刊行。1932年(昭和7年)6月1日、来日した英国の俳優・映画監督のチャールズ・チャップリンが第十四代東京市長・永田秀次郎の案内で星岡茶寮を訪れ、饗応を受けた。魯山人はこの時チャップリンが描いたドタ靴と富士山の2点の席画を高く評価している[注釈 7]。1933年(昭和8年)、木瓜書房から自作の篆刻印譜『作瓷印譜磁印鈕影』(さくじいんぷじいんにゅうえい)刊行。星岡茶寮が繁盛する一方、魯山人の横暴さや出費の多さから、1936年(昭和11年)には中村から内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放された。以降は作陶で生計を立てることとなり、自宅の母屋である春風萬里荘(しゅんぷうばんりそう)の賃貸を始め、顧客の迎賓館として使用していた慶雲閣(けいうんかく)を住居とした。さらに鳩居堂を通じて篆印の受注製作を始め[注釈 8][注釈 9]、わかもと製薬社主の長尾欽弥、よね夫妻をはじめとする、かつての星岡時代の顧客からの販促用や贈答品用の大口注文や、懇意にしていた料理屋や旅館からの食器の注文でどうにか糊口をしのぐ[注釈 10]。1938年(昭和13年)、新潟県の石油王、中野忠太郎の依頼で初めて金襴手(きんらんで)をつくる。さらに日本一の萌葱金襴手をつくって欲しいとの要望を受け、中野の潤沢な資金援助と、宮永東山窯の工人で赤絵の名手である山越弘悦の協力を得て、1年間にわたる試行錯誤の末に完成した。
戦時中は星岡窯で軍用食器もつくったが、職人が兵隊や徴用に取られて人材不足に陥り、銃後の物資不足で軍から特配された薪も底をつき、しばらくは敷地内の木を伐るなどして対応したものの、星岡窯は横須賀海軍工廠に近く、1937年(昭和12年)8月に改正された軍機保護法の排煙規制により窯を焚けなくなり[25]、創作活動を作陶から書や篆刻、漆工に切り替える。また、この頃相馬御風の仲介で良寛の書を手に入れたのを機に良寛に傾倒していき[26]、作品にもその影響があらわれていく[注釈 11]。このように創作面では新境地に至ったが、得られた収入は作品の材料費と食費に消え、職人にまともな給料を払わなかった。1939年(昭和19年)12月、日本橋の白木屋百貨店の地階に取り寄せができる食料品店「魯山人山海珍味倶楽部」を開くが1年ほどで閉店。1943年(昭和18年)、後援者 塩田岩治の計らいにより、利根ボーリング(現:株式会社東亜利根ボーリング)の社員となる[28]。1945年(昭和20年)、空襲により星岡茶寮が焼失。このとき、魯山人は「俺に弓を引くような真似をするからだ」と語ったと伝えられている[29]。終戦後の1946年(昭和21年)、銀座に自作品の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店、書画や器、さらに基部を自作の陶器で造った電気スタンドなども陳列し、在日外国人から好評を博す。1949年(昭和24年)、長男の桜一が死去。1951年(昭和26年)、アジア美術を専門とするパリのチェルヌスキ美術館(フランス語版)の「現代日本陶芸展」に出品された魯山人作「柿の葉文組皿」が好評を博し、評判を聞いたピカソがヴァロリスの美術館で魯山人の作品を観る[30]。4月に鎌倉在住の文化人を自宅に招き、観桜会を開く。晩年の魯山人は自邸に客を招いてこのような小さな宴を月に数回開くようになる。12月には前年に結婚したイサム・ノグチと山口淑子を星岡窯の敷地に住まわせ、のちに日本の陶磁器研究家となる進駐軍の新聞記者、シドニー・カルドーゾの知遇を得たことで海外にも魯山人の名が知られるようになる。この頃から岡山に赴き、陶芸家の金重陶陽と備前焼の作陶を始める[31]。平野武(平野正章、のちに平野雅章)を編集人として雇い、火土火土美房の機関紙「獨歩」(どっぽ)の発行を開始する。晦日近く越年の金策に窮した魯山人は、金沢時代から親交があった漆芸家、遊部重二の発案で立て続けに数点の屏風絵と書幅を書く[32]。
1953年(昭和28年)、1月、デイヴィッド・ロックフェラー夫人、マーガレット・ロックフェラー(英語版)の訪問を受ける。4月から5月にかけて、遊部重二の仲介により川崎汽船が保有するパナマ船籍の石油タンカー船「アンドリュー・ディロン号」のために二点の壁画『桜』、『富士』を制作する[33]。1954年(昭和29年)、4月から6月にかけてロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会[注釈 12]が開催され、その際に南フランスのヴァロリスとヴァンスでピカソとシャガールに会う。あわせて渡欧に際して携行した約200点の自作陶器をアメリカの美術館に寄贈。なお、この旅行は当初国費で渡欧する予定だったが、それでは言いたいことも言えなくなるとして、魯山人は多額の借金をして旅費を工面した(2015年時の貨幣価値に換算して約1億円[37])。そのために経済的に困窮し、以後は返済のために盛んに展覧会を催す。10月「北大路魯山人帰朝第一回展」を開催。1955年(昭和30年)、前年に発足した重要無形文化財保持者指定制度にて織部焼の人間国宝に指定されるが辞退した[注釈 13]。この年は京都、新潟、高岡、富山、東京で計六回の展覧会を開く。1956年(昭和31年)、日本橋髙島屋で「魯山人五十回個展記念展」を開催。この年と翌1957年は展覧会を四回、1958年は五回の展覧会を開くが、この年から急速に体調が悪化していく。家計はますます逼迫し、窯場の人間たちにほとんど給料を払えず、電気料金の支払いにも事欠くありさまだった。1957年(昭和32年)には最古参の職人で星岡窯の重鎮だった松島宏明(文智)が去り、星岡窯は求心力を失っていく。給料をもらえない職人や使用人たちは贋作を作ったり作品をくすねたりするようになった[39]。
1959年(昭和34年)、5月に東京国立近代美術館で開催された「現代日本の陶芸展」に姿を見せるが、魯山人はすでに自力で歩行できない状態となっていた。魯山人は作陶を諦めて書道での再出発を期し、10月に京都美術倶楽部で「魯山人書道藝術個展」を開くが、これが最後の展覧会となる。11月4日、鎌倉の自宅で尿閉を発症し、横浜十全病院(現:横浜市立大学附属市民総合医療センター)に緊急入院、前立腺の摘出手術を受けて小康状態となる。しかし吐血症状が起きたために再手術を受けると末期の肝硬変が判明。もはや手遅れの状態であり、そのまま閉腹して死を待つばかりとなった[注釈 14][注釈 15]。12月21日死去。76歳没。純真無垢な子供のようなあどけない死顔であったとされる[30][注釈 16]。12月24日に鶴岡八幡宮で神式による葬儀が営まれた。相続に際しては、以前から窯場の職人たちにまともな給料を払えず、退職金もなかったため、福田家の主人である福田彰が遺産分配人となり、窯場に残された作品や半製品、成形型、釉薬、陶土を現物支給品として分配した[40]。しかし、分与を受けた親族たちは誰も遺骨を引き取ろうとせず、結局傍系の親族である丹羽茂雄が預かることとなり、最終的に三番目の妻、島村きよとの長女・和子の采配によって洛北西賀茂の西方寺近くにある市営の小谷墓地に埋葬された。戒名は「妙法祥院高徳魯山居士」[41]。墓碑銘には生前の魯山人が書かせ、その出来栄えを誉めたという、和子が1937年(昭和12年)、10歳のときに揮毫した筆文字で「北大路家代々之霊墓 昭和十二年十二月建立 北大路和子書」と刻まれている[42]。
死後
1960年(昭和35年)、前年から準備を進めていた食物に関する著書『春夏秋冬料理王國』を淡交社から刊行。魯山人は星岡茶寮時代から食物と料理に関する文章を数多く発表してきたが、初の著書となる本書を目にすることはなかった。1964年(昭和39年)、美術出版社から平野武の編集で『独歩 魯山人芸術論集』を刊行。1971年(昭和46年)、文藝春秋より白崎秀雄による評伝『北大路魯山人』刊行。1974年(昭和49年)から翌年にかけて、東京書房社より平野正章の編集による魯山人が書いた料理・書道・陶芸に関する文章や語録をまとめた『魯山人味道』、『魯山人書論』、『魯山人陶説』刊行。1980年(昭和55年)には五月書房より同じく平野雅章の編集による『魯山人著作集 全三巻』(陶芸論集・料理論集・美術論集)を刊行。さらに、1983年(昭和58年)には平凡社より平野雅章の監修による『別冊太陽 生誕百年記念特集号 北大路魯山人』が刊行された。これらは同時期に再刊された習字帖や印譜とともに何度も版を重ね、魯山人に関する代表的な文献となった。1998年(平成10年)に「慶雲閣」が焼失、火元は焼身自殺を図った建物の管理人の放火とされる。2009年(平成21年)、3月23日に魯山人の生誕126年と没後50年を祝して、生誕地である上賀茂北大路町に石標が建立された。石標の文字は当時の京都市長(第二十六代)門川大作の揮毫による[43]。4月から2010年(平成22年)5月にかけて「没後50年 北大路魯山人展」が広島、福島、北海道、滋賀、東京、愛知、兵庫の一都一道五県で開催された。なお、この展覧会出展品には1953年に制作されたが海外で行方不明になっていたアンドリュー・ディロン号の壁画二点が含まれており、46年ぶりの里帰り展示となった。
子孫
1948年(昭和23年)、鎌倉で孫が誕生し、祖父の魯山人が「泰嗣(ひろし)」と命名した。泰嗣は陶芸家としても有名であった魯山人の影響を受け、幼い頃から魯山人と親交のあった荒川豊蔵の水月窯で陶芸の修業を積み、1992年(平成4年)、岐阜県に「无疆窯(むきょうがま)」を開設し、その窯元として活動している。
人物
魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ配偶者の清操は魯山人の出生前に割腹自殺を遂げた。結局実父が分からぬまま生後すぐ里子に出され、6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とした。この出自にまつわる鬱屈は晴れることなく、人格形成に大きな影響を及ぼした[44]。六度の結婚(1908年〈明治41年〉、1917年〈大正6年〉、1927年〈昭和2年〉、1938年〈昭和13年〉、1940年〈昭和15年〉、1948年〈昭和23年〉)は全て破綻し2人の男児は夭折した。娘の和子が生まれた後の二度の結婚は自分の幼少期の体験から和子には母親が必要だと考えたからだが[45]、海外旅行で抱えた借金で貧窮の極みにあった家計の足しにと、当の和子が魯山人の骨董を持ち出したことから勘当し、己が病床にあっても枕頭に呼ぶことすら許さなかった。その一方、家庭の温かみに飢えていた魯山人は、1954年から3年間放送されたNHKのラジオドラマ『青いノート』[46]がお気に入りで、何気ない会話や微笑ましい場面によく肩を震わせ涙を流して嗚咽したという[44][注釈 17]。魯山人は原作者の乾信一郎に会ってみたいと話している[47]。
美食家として名を馳せた魯山人は、渡仏の際に訪れた鴨料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」とし、自ら持参した粉わさびを溶いた醤油で食べたこともあった[注釈 18][49][注釈 19][注釈 20]。その一方、アメリカではハワイの空港で出されたアイスクリームとコナコーヒーを絶賛している[52]。酒の好みはビール党で、自分でビールジョッキも造った。銘柄はキリンビールの小瓶を好み、お湯割りの日本酒も嗜んだが、海外旅行から帰ってきてからはベルギーのツボルグや[注釈 21]、スコッチ・ウィスキーのオールド・パーなども飲むようになった[55]。星岡窯の敷地に住んだ山口淑子によれば、魯山人は自分が風呂から上がって7秒後に冷えたビールが出ないとお手伝いさんを怒鳴ったという[56]。しかしながら、魯山人の来客に対する懇切なもてなしぶりを伝える逸話は多く、小山富士夫が自宅で小宴を催していたある晩、魯山人がビールを持って現れ、小山の夫人にジンとショウガを用意させて即席のジンジャーエールを作って振舞っている[57][注釈 22]。
ここで魯山人が日常的に食べていた、ある夏の献立を紹介する。美食家として知られている魯山人であるが、北鎌倉の自邸で賄いを担当していた料理人の奥田政広によれば、魯山人の日々の食事は旬の食材の持ち味を活かしたむしろ平凡なものだったという。以下は戦後の魯山人と親交があった陶器商の黒田領治による奥田からの聞き書きである[60]。
- 朝食
味噌汁。実は賀茂なすの輪切りや三つ葉、根芋(里芋の新芽)じゅんさい、なめこなど。
塩鮭。
- 昼食
焼き豆腐の直がつお煮(水と削り節で煮る)。
漬物少々
- 夕食
ビール
塩茹で枝豆。佃煮。
ごく小さい小あじの酢漬け。
吸い物。きゅうりの薄葛仕立てに絞り生姜。
魯山人には傲岸不遜[2]、狷介、虚栄などの悪評がつきまとい、柳宗悦や梅原龍三郎、横山大観、小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家のピカソまでをも容赦なく罵倒した。この傲慢な態度と物言いが祟り、1936年(昭和11年)に星岡茶寮から追放されてしまう。逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王や吉田茂などから愛されもした[44]。複雑な性格で、黒田領治は魯山人の死後に出版された雑誌に「富士山のように遠目には素晴らしくても、近づきすぎると複雑な存在」という意味のことを書いた[61]。阪急電鉄創業者の小林一三とは親交が厚く、いくつかの逸話が残されている。小林が1940年(昭和15年)に商工大臣に就任したとき、魯山人に2尺もある大きな鯛を贈ったところ、魯山人は、「こんなに大きくては不味くて食えない、大鯛は恵比寿にでも持たせておけ[62]。」と側近に命じて返させている。また、魯山人が1943年(昭和18年)に阪急百貨店で個展を開いたとき、小林は、魯山人に対して「少しでも安く売るようにしてほしい」と伝える内容の文章を、同百貨店の美術誌に掲載した。これに対し魯山人は、同年10月19日付の小林に宛てた手紙で、「これが高いと言われるのは不愉快だ」と反論し、さらに同月17日には、その美術誌編集者を小林が気に入っていることが不思議だと、小林自身に対しても批判した上、展覧会の中止を申し出た[63]。1953年に芸術新潮の取材で北鎌倉の魯山人のアトリエを訪れた写真家の田沼武能は、魯山人はカメラを向けてもマイペースで、足をテーブルに乗せたままポーズも笑顔もなかったが、美味しい鰻でもてなしてくれ、被写体として魅力的な人物だったと語り[64]、同行した青山二郎は、魯山人のことが知りたければ、魯山人から一度技能を取り去って眺めてみれば、魯山人に対する世間の酷評や誤解は半減するとした[65]。晩年の魯山人の助手をつとめた平野雅章によれば、魯山人は細かいことに気が付きすぎる繊細な人間で、相手のことが見えすぎるために凡人はなぜ怒られたのかわからないとし、歯に衣着せぬ発言をするので誤解されるが、根は優しい人物だったという[66]。
魯山人は世辞や追従、借り物の言葉で話す人間を嫌った[67]。しばしば初対面の人間に喧嘩腰の態度を示したが、陶芸家の加藤唐九郎によれば、これは魯山人が興味を持った人間に対する挨拶のようなもので、魯山人から喧嘩を売られないのは歯牙にかけるに及ばぬ人物ということだという[68]。辻輝子も初対面の魯山人に喧嘩腰で接したところが逆に気に入られて、のちには何度も魯山人の喧嘩の仲裁をしたという[69]。このように、大人に対しては時として酷薄に接する一方、子供に対しては無条件な優しさを示した。近所の子供たちには自宅の敷地を遊び場として提供し、観桜会にも招いた[70]。ある子供が路地に咲いた雪柳の花を竹竿で払い落として遊んでいると、魯山人が駆け寄ってきて「おいおい。花にも命があるんだ。そんなことをしたらかわいそうだろ」と諭した。自然を愛し、花卉や小動物が好きで、いつもスケッチをしていた。少年が「昨日も同じものを描いていましたよね?」と話しかけると、「毎日、同じと思うのかね。すすきも、すすきに来る虫も、毎日違うんだぞ」と諭されたという[71][72]。魯山人は眠ることが好きだった。早寝遅起き、昼寝が好きで、毎日8時間以上12時間は眠った[73]。立派な芸術は自然に背かず、きちんと夜眠る生活から生まれるとし、電燈が発達したことで昼夜が区別できなくなったために人間本来の持ち物を無くしてしまったとした[74][75]。魯山人が最晩年の1959年に書いた随筆「小生のあけくれ」はこう結ばれている。
山鳥のように素直でありたい。太陽が上がって目覚め、日が沈んで眠る山鳥のように[76][77][78]。
作品とその評価
魯山人の創作活動は縦横無尽で多岐にわたり、その数も膨大で、生涯に残した作品は30万点以上と見積もられており[79]、やきものだけをとっても日本の主要な陶芸のジャンルをほぼ網羅している。魯山人の作陶工程は、基礎となる土捏ねやろくろ成型はおおむね工人に任せて、自分は絵付けや櫛目を施すというものであったが、すべての工程の細部にわたって指示を出すプロデューサーのような立場にあった[80]。魯山人の作陶方針は食器として使用することを想定したもので、魯山人は盛り付けさえ過たなければ調和させる自信があるとした[81]。一方、ろくろ成型に携わらない魯山人は陶芸家ではないとする批判もあったが[注釈 23][83][84]、魯山人亡きあと、かつての窯場の工人たちが魯山人の原型どおりに作ってみたところが、魯山人作品とは似て非なるものができたという[85]。
まず書で世に出た魯山人はその芸術的なキャリアの出発点から書道に重きを置き、書はその人間性をすべて反映するもので、芸術の根幹を成すものと位置付けていた[86]。絵も字と同じく点と線から成り立っていて、字がまずければ絵もまずくなるという考えに至った[87]。1929年(昭和4年)、初対面の加藤唐九郎に「字が書けなければやきものはできない。」と言い放ち、当時字が書けなかった加藤が「では字が書ければやきものはできるか?」と反駁すると、魯山人は「できるとも。」と答えたという。加藤は「それは素人のたわごとじゃ。」と激高して喧嘩になったが、後年加藤はこれは確かに魯山人の言う通りだったとし、良いやきものをつくるにはどうしても格調が必要で、それは人間そのものの格調、すなわち書から生まれるとしている[68]。
生来のうまいもの好きと養親の家庭で炊事を受け持っていた経験から、食材の持ち味を活かして余すところなく調理するという魯山人の料理哲学が生まれたが[88][89]、これは作陶にも生かされ、成形や焼成に失敗した作品をあらたな作品に作り直すことも行った[90][91]。魯山人は駆け出しの時期を除いて生涯特定の師につかず、自然が織りなす風景と法帖や優れた古美術品を範として、セオリーにとらわれない自由な発想で創作活動を行った[92]。毎日新聞の服部蒼外は1937年に開催された魯山人藝術展のカタログに寄せた文章の中で、魯山人には余技はなく、あるとすればすべてが余技だとし、「魯山人をひねくれ者だという人間がいるが、夢のない者にとっては夢のある者がひねくれ者に見える。」と書いている。一方、魯山人自身は、自分には現代の作品をけなす癖があり、他者からの批判にも滅法強いが、その実、自作の出来栄えには失望していると吐露している。
小生の見るところ小生の作品は、割烹を除くのほかは、すべて下手の横好きである以外、何物もたっとぶべきを有さない。むしろ小生は批評に長じているという自信はある。批評となると洋の東西古今を問わず、芸術壇上を得意として兎角の批判をくだす癖をもっている。そうして現代の作品の大部分をくそこっぱいに千里の外にこばむ風があってひんしゅくを買う癖がある。しかも自分は批評の公明を期する者であって、したがって批判には深き自信を有するのである。しかしながら自己の作品になると意の欲するところとは、距離はなはだしくして嘆息を重ぬるのみであることを常に悲しみつつある。これ批評において猛獣のごとく傍若無人なるも、自己作品については少女のごとく恐れ遜する理由である。しからばとて自己製作を断念もできず、良きものを見れば学ぼうという刺激を受け、悪いものを眺むれば、なに、遠慮するに及ばぬという驕りに陥り、折に触れて製作欲が勃然と起こる。すなわち書に、画に、篆刻に、濡額に、頃ろ(最近)はまた陶磁に、燦漆(漆芸)に、また別に割烹に、感興の触れるままに、順序もなく統一もなく極めて散漫に製作する。これが小生の作品となって本帖にあらわれいる次第である。— 魯山人習作第一回展観録(大正14年12月25日)[92]
魯山人の作品は、世田谷美術館、敦井美術館、京都国立近代美術館、足立美術館などの公的なコレクションのほか、魯山人が食客として寄寓していた素封家や逗留した旅館、訪れた料理屋などに対価として残されたものが多数ある。海外の美術館ではニューヨーク近代美術館が魯山人が1954年に渡欧した際に寄贈したコレクションを所蔵している。
すでに述べたとおり、生前から今日にいたるまで魯山人には毀誉褒貶がつきまとい、天才と評する者もいれば、俗物と切り捨てる者もいたが、魯山人自身は自分を褒める者も貶す者も、どちらも芸術を理解していないとして一顧だにしなかった[93]。青山二郎は魯山人のことを書いたというだけで信用を失うとしており、魯山人の芸術は偏見のない好奇心の強い人物のみが理解できるとした[65][94]。松岡正剛は魯山人の芸術を遊芸と呼び、魯山人を批評しようとすれば、逆に自分が批評される側に立たされるとしている[95]。魯山人は1955年に重要無形文化財の指定を固辞したが、その二十年ほど前にこのような言葉を残している。
現今、芸術の世界にまで勲章が授けられることになり、大いに懐具合のタネになっているらしいが、文部大臣賞とか芸術院賞とかいっても、肝心の文部大臣が芸術のなんたるかを知らない者であっては、どうにもならない。賞をくださる人が目利きであっての授賞なら話はわかる。だから賞を貰う前に、「一体誰がくれるんだ」とまず授賞を決定するご当人たちの銓衡(せんこう)からはじめねばなるまいね。それに作家にとっては、作品が永久にものをいうから、勲章などというアクセサリーはいらないね[96]。
最後に、かつて星岡茶寮の会員だった小説家の吉川英治が、1957年第53回魯山人作陶展のカタログに寄稿した文章を掲げる。
魯山人氏の作陶、絵画、書を観、また魯山人氏の人間に関するいわゆる巷間の "噂" を聞いたりすることも、おもえば年久しいものがあった。けれども私は、ほとんど、直接のその人については何も知るところがない。わずかに、故竹内栖鳳翁の告別式の席で、よそながらお会いしたかの程度である。だからといって、魯山人氏の芸術が私に無縁であったとは思っていない。いや否みなく、密接な宿縁をもったものとして、ひそかな敬慕は払ってきた。なぜならば、ゆくりない他家の壁面に、また或る日の茶陶に、ずっと古くは、氏自身が厨房のさしずをしていたといわれる星ヶ岡茶寮の料理をこの口にしたりして、氏の芸術が私たちの官能へ無意識にも何かのよろこびを響かせてくれた例は数えても数えきれない。私が魯山人氏を考えるばあいには、そういう人として泛(うか)んでくる。長い生活と人生の騒音の中で、いつも「美」と「静」と、もひとつ何か、ちょっと口に出ないが、誘思をそそるような、人間の生き方を考えさせるような、何かが彼の中に潜在している。作陶が多いらしく、書、篆刻、いたらざるなしと聞いているが、私が好きなのは、彼の絵である。そのくせ、専門画家がいちばん無視してかかるのも、氏の絵であるとか聞かされるが、私は、魯山人の絵が何しろ好きだ。音楽とおなじで、好きだという以外に、私には、氏の絵画に讃する語を知らないが、おそらく、その絵に眼をそむける専門画家は、氏の絵が怖いのではないかとおもう。とにかく、芸苑百年の一期のうちにも、魯山人のような巨匠は、そう幾人も出るものではない。やがて現在が過去といわれる時代になると、案外、当代大家の名も泡沫と消えて、氏の余技画のごとき物が、諸人の珍重となるかもしれない。芸術の評価というものは、かならずしも時人の評価が永遠でもなく、また正しいともいえないからだ。古来、その例はいくらでもある。たとえば木米、たとえば玉堂、たとえば誰々。例は日本だけでなく支那、西欧の芸苑にもたくさんある。だから私たち観賞家の側にあるものは、唯、自己の「觀」(かん)の眼を以て、直視、その作品にむかうしか何も是非の論はない。
著作
オリジナル
- 『栖鳳印存』1921年、大雅堂美術店、改版1981年、五月書房
- 『常用漢字三體習字帖』1924年、新橋堂、改版1977年、1980年、1982年、1996年、五月書房
- 『古染付百品集』 (上下巻)1931年、1932年、便利堂、改版1978年、五月書房
- 『魯山人作瓷印譜磁印鈕影』1933年、木瓜書房、改版1980年、五月書房
- 『春夏秋冬料理王國』1960年、淡交新社、改題改版『魯山人の料理王国』文化出版局、1980年
※『春夏秋冬料理王国』[注釈 24]、ちくま文庫、2010年1月、中公文庫(一部割愛箇所あり)、2010年1月
コメント
コメントを投稿