独裁者が変えた世界史  ゲズ,オリヴィエ  2024.12.31.

2024.12.31.  独裁者が変えた世界史 上下

Le Siecle des Dictateurs   2019

 

編者 

ゲズ,オリヴィエGuez,Olivier 歴史研究者、著述家、ジャーナリスト。最新作の『ヨーゼフ・メンゲレの失踪』(グラセ社、2017年)はルノドー賞を獲得した

訳者

神田順子(15,7,1116,18章、年表と解説) フランス語通訳・翻訳家。上智大学外国語学部フランス語学科卒業

清水珠代(6,8) 上智大学文学部フランス文学科卒業

松尾真奈美(9,20) 大阪大学文学部文学科仏文学専攻卒業。神戸女学院大学大学院文学研究科英文学専攻(通訳翻訳コース)修了。翻訳家

濱田英作(1021) 国士舘大学21世紀アジア学部教授。早稲田大学大学院文学研究科東洋史専攻博士課程単位取得

田辺希久子(22) 青山学院大学大学院国際政治経済研究科修了。翻訳家

村上尚子(19) フランス語翻訳家、司書。東京大学教養学部教養学科フランス分科卒

 

発行日           2020.4.10. 第1

発行所           原書房

 

17-04 独裁者たちの最期の日々』『19-12 敗者が変えた世界史』も参照

 

 

上巻裏表紙

本書は、20世紀の独裁を理解するうえで有益な人物を選んで彼らの肖像を描く初めての試みである。有名な独裁者に知名度が低いもしくは忘れさられた独裁者をまじえ、20数名を描いた内容の濃い肖像であり、徹底的な調査に裏づけられた語りのおもしろさを特徴とする。筆をふるったのは、今日のジャーナリストおよび歴史研究者のうちからオリヴィエ・ゲズが選りすぐったライターである。こうして編者となったゲズ自身は、格調高い序文を執筆した。

 

下巻裏表紙

絶対主義の絶対的な形態である20世紀の独裁は、無慈悲で残忍な指揮者たちが奏でるオーケストラであった。彼らはいずれも、独自の刻印が真っ赤な焼き鏝で押された政治体制のなかで第一人者を演じた。彼らのプロフィールと性格には違いがある―正反対のことも多い―が、恐怖の日常化を手段とする権力への渇望、周囲の人間に向ける猜疑心を全員が共有し、人間の命だけでなく、あらゆる形の自由になんらの価値も認めない点でも同類であった。

 

上巻

1      レーニン―全体主義の予言者                   ステファン・クルトワ

2      ムッソリーニ―赤から黒に                       フレデリック・ル・モアル

3      スターリン―「現代のレーニン」―スターリンはどのようにしてスターリンとなったのか

ニコラ・ヴェルト

4      アドルフ・ヒトラー―ドイツのデーモン         エリック・ブランカ

5      フランコ―不沈の独裁者                        エリック・ルセル

6      フィリップ・ペタン―独裁者とは命令する者である   ベネディクト・ヴェルジェ=シェニョン

7      東條英機―独裁者?それともスケープゴート?       ピエール=フランソワ・スイリ

8      ティトー―あるいは大いなるこけおどし      ジャン=クリストフ・ピュイッソン

9      三代の金―金日成、金正日、金正恩の国      パスカル・ダイェズ=ビュルジョン

10   毛沢東―狂気の暴君                             レミ・コフェール

11   エンヴェル・ホッジャ―最後のスターリン主義者       フランソワ=ギヨーム・ロラン

12   アルフレド・ストロエスネル―自給自足体制の家父長           エマニュエル・エシュト

 

下巻

13   デュヴァリエ―ハイチは最悪の一族の誘惑に勝てるのか  カトリーヌ・エーヴ・ルペール

14   フィデル・カストロ―権力への執着            エリザベト・ブルゴス/ローランス・ドゥブレ

15   ジョゼフ=デジレ・モブツ―ザイールのプレデター    ジャン=ピエール・ランジェリエ

16   ムアンマル・アル=カダフィ―ベドウィンの難破       ヴァンサン・ユジュー

17   エーリヒ・ホーネッカー―ドイツ民主共和国の偉大なる舵とり          パトリック・モロー

18   アウグスト・ピノチェト―リベラルな暴君                ミシェル・フォール

19   ポル・ポト―流血のカンボジア                            ジャン=ルイ・マルゴラン

20   ホメイニー―神に仕えて                                   クリスティアン・デストゥルモ

21   サッダーム・フセイン―バグダードのごろつき          ジェレミー・アンドレ

22   アサド―父から子へ                                         ベルナール・パジョレ

 

 

まえがき         オリヴィエ・ゲズ

編者の独裁との最初の出会いは、198410歳の時。汽車で西ベルリンに向かう途中、東独に入った所でスパイを探す征服の男たちを見かけ、駅には独裁者の写真が掲げてあった

古代ギリシア初の専制君主ペイシストラトス以来、多くの君主が、何の制限も受けず、法に縛られることなく、自分が専有する権力を同族に対して残忍にふるってきたが、20世紀ほど独裁者が花盛りとなったことはない。世紀半ばの近代国家は、極めて精巧に構築された官僚主義タイプの中央集権型ピラミッド組織を統治の手段とし、「合法的」暴力装置、金がかかる複雑な諸機構、電気通信、軍事産業複合体を独占。それが独裁者の手に渡ると、暴力が前例のない激しさで炸裂。20世紀を独裁者の世紀とする

独裁者は常に紛争・革命・経済危機といった混沌の中から姿を現す。第1次大戦で、貴族階級が支配した旧い世界が瓦解、その後の大恐慌が新しくできた共和政を突き崩し、カリスマ的な救世主として振舞う者が頭角を現わす。30年代半ば、欧州の半分以上を独裁者が統治、総力戦が独裁者の支配権を広げた

ナチの廃墟の中で始まった戦後は、ソ連による被征服国への全体主義の押し付けにより独裁が拡大。さらに冷戦と植民地帝国の瓦解が革命とクーデターを巻き起こし、独裁を築く

独裁者はフィクションの作り手であるだけでなく、優れた役者及び演出家でもある。横暴な独裁者はその本質からして、個々の存在としての人間に対する猜疑心が強い。偏執狂的なサバイバーでもある

ハンナ・アーレントは『全体主義の起源』の中で、権威主義的な専制政治と全体主義的独裁の違いは、前者が相対的に少ない人口とリソースを遣り繰りしなければならないのに対し、後者はとてつもない「人的原料」を手にしていることにあると書いている。全体主義独裁者は、国家の道理を軽視、自分の衝動、非実用的な政策、虚構の現実に従い、無茶な目標を定める

ここ数年の間に出現したのがウェブ帝国。膨大な量の臣民の情報を把握し、恣意的に使う。世界の均衡を危うくし、人間の本質を恐ろしい速度で変えつつある。バーチャル依存症となった

 

1.     レーニン(18701924)―全体主義の予言者                 

ステファン・クルトワ(歴史研究者、フランス国立科学研究センターCNRS名誉研究部長、仏内外の共産主義、全体主義現象をテーマとする著作多数)

1886年、ロシアの奥地でイリヤ・ウリヤノフ死去。皇帝によって貴族に列せられた視学官。享年53。首都で勉学中の長男アレクサンドルは反体制テロ組織に属しているとして秘密警察に逮捕され、翌年絞首刑。ヴォロージャは相次いで父・兄を失い、世間からも爪弾きに

l  革命家の誕生

ウラジーミルは、兄の蔵書からダーウィン、マルクスなどの本を読み、革命へのシナリオを描く

初歩的なマルキシズムにかぶれ、マルキシズム原理の「科学的」性格を絶対的に確信する観念的で狂信的な傾向と、隣人への同情心の欠如をトレードマークとする人物像を形成

弁護士になって首都に移り住み、革命運動に没頭、1895年に逮捕されシベリアに追放

3年の抑留中に『ロシアにおける資本主義の発展』を執筆するが、机上の空論で失笑を買う

l  ボリシェヴィキのレーニン

シベリアから戻った後190617年は、ヨーロッパ各地を渡り歩きながら、革命と党に関する伝統的な考えを打破し、暴力的、ラディカル、共産主義的な革命を主張、ヨーロッパ各国の社会党の方向性には逆行。プロレタリア独裁と、反対派を物理的に排除し、共産党と国家が一体となった全体主義国家を特徴付ける統治やイデオロギーがらみの国家犯罪の原則を提示

1905年のロシア革命ではレーニンは何の役割も果たさなかったが、内戦、農民一揆、陸軍や海軍の兵士の暴動をバネに革命を成功させる方針を学び取り、同志を募り、ボリシェヴィキ(多数派)を形成していく。呼応した中にスターリンがいた

l  最高に素晴らしい驚き

1次大戦の勃発で、ポーランドにいたレーニンは敵国民として逮捕され、救出されてスイスに逼塞。社会党が支配する第2インターが、階級闘争より民族意識と愛国心を優先させ裏切ったのを見て、共産党による第3インターナショナル(コミンテルン)の創設を訴え、武器を持つ兵士たちに「帝国主義戦争を内戦に変化」させて共産主義革命を引き起こすよう呼びかける

1917年、ニコライ2世の退位により帝政が瓦解、ロシア社会は大混乱となり、ロマノフ王朝に対する不満の爆発を惹起、ドイツの諜報特務機関の支援で首都ペトログラードに戻ったレーニンは、臨時政府攻撃のキャンペーンを始め武装蜂起を呼び掛けたが失敗し、国外へ逃避

l  プロレタリア独裁?

普通選挙で政権を確立しようとするケレンスキーに対し、レーニンは暴力革命を呼びかけ、ボリシェヴィキ政権樹立を宣言し、プロレタリア独裁を始める。暴力を権力の拠り所とする共産党による独裁で、恐怖政治の第一の道具として、後のKGBの前身となるチェーカーを創設

憲法制定会議を暴力で解散させると、反対するあらゆる勢力に対し内戦を挑む

ドイツなどからの内政干渉に対し、ウクライナやバルト3国、フィンランドを放棄する代わりに、レーニンは戦争からの離脱を勝ち取って権力を維持し、強権的政策を推し進める

l  全体主義体制第1

レーニンは、欧州で共産主義革命が起こって自分の権力が盤石となることを期待し、欧州各国にコミンテルンの運動を展開したが、1921年には労働者・農民・兵士の評議会であるソヴィエトによる大規模な反発に遭い、全会一致の一体主義を鉄則とする全体主義システムを確立、国家と一体となった単一政党とそのカリスマリーダーによる政治の独占に加えて、社会全体を覆う恐怖が統治と権力強化の手段として機能した

レーニンの独裁体制は、ヴォルガ河地方の大飢饉で足元をすくわれかけたが、ヴェルサイユ条約の決まりに反してヴァイマル共和国と国交を結び、外交舞台からソ連を締め出していた大国の団結にひびを入れることに成功。さらに最後まで抵抗したロシア正教会を潰しにかかり、貴石を没収して財政赤字を補填、多くの聖職者を殺害

l  最後の迫害

1922年、レーニンは脳内出血に襲われ、死ぬ前に究極の敵を殲滅すべく、社会革命党と知識人を標的に不正裁判の嚆矢となる裁判により合法的に多くを処刑

l  勝負の終り

レーニンは、「より冷酷な人物」ゆえに書記長に抜擢したスターリンを「粗暴すぎるので更迭し、より寛容で礼儀正しい人物に変えるべき」との口述を残しながら、何度目かの発作で政治の表舞台から退場。廃人同様となり翌年死去

l  葬儀と物語の教訓

スターリンは遺骸に防腐処理を施し赤の広場に建設した霊廟に安置、自分のイメージを高めるためにレーニン崇拝を始め、20世紀はレーニンの真実を見抜けなかった。1956年フルシチョフがスターリンを引きずり落とし、ことさらに「正義の味方」レーニンを称えたが、弟子は師匠の仕事を引き継いだだけだった

 

2.     ムッソリーニ(18831945)―赤から黒に           

フレデリック・ル・モアル(歴史で博士号、サン=シール陸軍幼年学校などで教鞭、イタリア・ファシズム、教皇庁に関する著作多数)

矛盾に満ちた人物、未だ多くの謎を残すが、唯一一貫していたのは、イタリア国民を鍛え直し、本人が呼ぶところの「倫理的であり、神聖で、必要な」猛々しさを国民に根付かせるという夢

l  社会主義者からファシストへ、ただし昔も今も革命家

反教権主義で左翼が強いゆえに「赤い」が枕言葉となっているロマーニャ地方の申し子。父はアナーキストでガリバルディの信奉者。社会主義の理想をたたき込まれて育つ。イタリアで兵役につくのを嫌ってスイスに逃亡、その後戦闘的な社会主義者としての政治活動で何度か刑務所暮らしの後、イタリア社会党内で過激派として頭角を現わす。若い運動員の偶像として圧倒的な人気を獲得し、ナショナリズムと結びついた別の形の社会主義へと移行

1次大戦開戦に当り、中立を宣言した政府に対し、社会党の反戦主義路線と決別、フランスと手を携えて伝統的な社会秩序の転換に挑戦。1917年のカポレットの戦いの惨敗で国民の間に祖国防衛の機運が盛り上がるなか、塹壕戦に参戦して犠牲を払ったゆえに戦後イタリアの指導者となる資格を得た。レーニンが戦争の神聖な大義を裏切って中央同盟の帝国の勝利に手を貸そうとしたことを知って、ロシアのボリシェヴィキ革命政府を不倶戴天の敵と見做す

l  行進するだけで手に入った権力

イタリアが戦勝国となった後も、協商国側がイタリアに押しつけた「手足をもぎ取られた勝利」を拒絶できないリベラル派政府を糾弾。19年にはイタリア戦闘者ファッシを結成、当時はまだその指導者の1人に過ぎなかったが、22年のローマ進軍と「黒シャツ隊」を率いてエマヌエーレ3世との秘密交渉で信任を得たことで、国王から組閣を拝命

l  一歩一歩、慎重に独裁を目指す

政権を掌握したムッソリーニは、保守勢力との同盟関係を一時的な方便として使い、選挙法改正により24年の選挙で大勝した後も、反対勢力の激しい攻撃が続くなか、さらに2年かけてドゥーチェ(総統)と呼ばれる鉄壁の独裁体制を築く

l  腕まくりするムッソリーニ

国家ファシスト党を通じて、個々人を国家への従属によって改造する人類学革命に取り組み、ナショナリズムと社会主義を結び付けた、革命の新たなコンセプトを提唱、国家改造にかかる

最大の成功は、1929年教皇との間で合意したラテラノ条約で、教皇庁を独立国家とした

周囲を忠実な者だけで固めたが、粛清や迫害は起こらず、王制も22年の「暫定協定」に基づき現国王の死去までは維持された

l  ファシズムはムッソリーニ主義だったのか?

イタリアのファシズムは、当初各地のファシズム運動のボスであるラスたちが自主独立を死守していたため分権していたが、徐々に段階を踏んでムッソリーニが個人崇拝を確立し、自分の権威を認めさせていった

体制にとっての最大のタブーは後継者問題で、娘婿のチャーノが浮上

ムッソリーニは、国民から崇められ、愛されてもいたが、個人に集中し過ぎたために、43年に逮捕されるや否や、ドゥーチェを失った体制は即日崩壊

l  運命の暗転

1935年、エチオピア征服に乗り出して欧州諸国を挑発。半年後に目的を達成するが、国際舞台では孤立してドイツに接近。さらにドイツとともにスペイン内戦に介入

重大なのは1938年人種差別、反ユダヤ主義に踏み切ったこと。物理的な迫害には至らなかったが、益々ドイツ寄りを深め、ドイツのポーランド侵攻の際は、国内の反独派の圧力から中立を選択するが、フランスのあっけない降伏を見て、406月には英仏に宣戦布告

相次ぐ敗戦とドイツ軍による支援で、好戦的な熱情を糧としたファシズム体制は崩壊

l  弔鐘

43年英米軍のシチリア上陸はファシズムの死を告げる。身内からの反発で、ファシズム大評議会はムッソリーニの統帥権返上を決議。国王に拝謁したムッソリーニはその場で逮捕・収監され、連合国側と休戦条約が締結されるが、ムッソリーニに奇妙な友情を抱いたヒトラーは、彼を救出してロンバルディア地方にイタリア社会共和国を作らせ連合国に立ち向かわせる

45年、連合国に追い詰められたムッソリーニは、逃走途上でパルチザンに捕らえられ銃殺

 

3.     スターリン(18781953)―「現代のレーニン」―スターリンはどのようにしてスターリンとなったのか                     

ニコラ・ヴェルト(現代史学院CNRSの研究部長、ソ連史の大スペシャリスト)

レーニンが「遺言」でスターリンの資質に疑問を呈したのは、スターリンにとって後継者争いのスタートから大きなハンディキャップとなっただけでなく、レーニンが自分の妻を無礼な言葉でスターリンが詰ったことを知り、寝たきりになる直前に絶交を申し渡していたこともあって、スターリンはレーニンの古参幹部が全員排除されるまで、完璧な政治的正統性を自身に与えることに多大なエネルギーを費やし続けなければならなかった。常に守勢に立つ指導者だったが故に、周囲の人間の自分への忠誠心に対し猜疑心で臨み、経歴上の欠陥を脅かし続けた

l  台頭

革命から5年間、スターリンは既にボリシェヴィキ初期政権の幹部の1人であり、レーニンの側近の1人。貧しさと困窮の中で子供時代を送ったと公言できた数少ない幹部の1

神学校を素行を理由に退校処分となり活動家に転身、1902年から追放・逃亡を繰り返す中でレーニンの注目を引き、1905年地元のボリシェヴィキ代表に抜擢

1917年臨時政府の恩赦でシベリアから戻ったスターリンは、ボリシェヴィキの機関紙『プラウダ』の編集局書記となり、党大会でレーニン、ジノヴィエフに次ぐ3位の得票で中央委員に選出。革命政府樹立により民族担当人民委員に就任するが、実際は白熱する内戦の最前線で縦横の活躍を見せ、政治局の正規メンバー5人の1人として、レーニンが最も高く評価する部下で、22年中央委員会書記長に抜擢。党の幹部の人事の全てをコントロールする立場に立つが、ソ連邦の枠組みを巡って、同等な共和国の集合体を構想するレーニンと、ロシアを頂点とする大ロシア国粋主義のスターリンが衝突、レーニンはスターリンの評価を下げる

l  スターリンを勝利に導いた5つの要因

レーニンの後継者争いで巧妙に立ち回ったのがスターリン。最初にジノヴィエフ・カーメネフと組んでトロツキーを排除した後、ブハーリン・トムスキー・ルイコフと組んで最初の仲間2人を放逐、最後は30年までに3人を順次政治局から排除して単独の権力を掌握。成功の要因は;

     レーニンの死後、革命的独裁を象徴する守護聖人としてレーニンが崇められた

     スターリンがレーニンの革命遺産を巧妙に我が物とし、後継者としての権威を確立

     具体的な目標と新たな希望を与えてくれる、分かりやすい政治戦略を選択

     党のプロフィールを根底から変え、大衆の党員を大量に取り込み、スターリン親派を作る

     少数の結束の固いグループの補佐により、党と政治警察の諸機関を管理する能力を持つ

l  最良の弟子

スターリンは、神格化されつつあるレーニン思想の公認「注釈者」として振舞うことで、開祖の遺した遺産を独り占めにするという目標を立てる。『レーニン思想の基礎』を発刊し、規律と一体性を説き、若者を対象に入党キャンペーンを展開、大半が無教育の大衆の取り込みに成功

l  チェスとチェックメイト

スターリンが決定的に地位を固めたのは、1929年ブハーリンとルイコフに率いられた反対派を「右派」の烙印を押して排除したとき。先進国との遅れを取り戻すために大規模でハイテンポの工業化を目指し、そのために巧みな取り込みで労働者の搾取と農産物の大量挑発を強行、大飢饉は隠蔽し、ソ連の進路変更を宣言

l  スターリン式独裁機構の仕組み――同族集団のロジック

頂点を極めたスターリンは、政治警察を活用した専制的な「同族集団」ロジックを、有無を言わせず押しつける。右腕のモロトフを人民委員会議議長に任命し、党と国家の完璧な結合を実現

スターリンの個人独裁は、ヒトラーの「カリスマ性」と、ナチ党の地区責任者が大きな裁量権を持つ「ネオ封建的」指揮系統を基盤とするヒトラーの独裁とかけ離れている

193638年の大粛清を通じて、幹部の80%を入れ替えることにより、個人独裁が完成

l  スターリングラードの勝者、ヤルタの強者

1930年代の終りから、スターリンは大ロシアのナショナリズムを焚きつけ、自分の野望の道具とし、ロシア民族の盲目的愛国心を「ソヴィエトの祖国愛」と言い換えた

スターリンは、ナチ・ドイツの脅威を見誤り、軍装備でも後れを取ったが、多大な犠牲という代償を払って勝利を手中にし、絶妙の政治的センスを生かして巧に自分自身を神聖なる祖国の大義と重ね合わせることに成功、自らへの崇拝を勝ち得た。ヤルタ会談は彼の絶頂期

l  「諸民族の父」

戦後は「個人崇拝」が最高潮を迎え、49年の70歳の誕生日は盛大に祝われ、「諸民族の父」と崇められたが、本人は益々懐疑的となり、晩年はイデオロギー的な締め付けの強化を特徴とし、戦時中の相対的な自由化と社会監視の緩和は過去のものとなり、反ユダヤも含め弾圧が復活

新たな大粛清の序章を迎えるが、スターリンの死で回避。死後数カ月して彼の名はソ連の新聞雑誌からほぼ完全に消え去、3年後には忠臣の1人フルシチョフにより偶像は破壊される

党のイメージを守るために抹殺されたが、今日のロシアでは共産主義は廃棄されたが、逆説的にスターリンの人気は驚くほど高く、ロシアの国力と国際的威信を高めた偉人である

 

4.     アドルフ・ヒトラー(18891945)―ドイツのデーモン        

エリック・ブランカ(歴史研究者、ジャーナリスト、ド・ゴール主義と情報機関に詳しい)

スターリンは、戦後10年にわたりヒトラーに最後まで付き添った副官と執事を尋問し、ヒトラーの心理に関する情報を得てすべての側面を焙り出そうとした。ドイツの独裁者にソ連の独裁者が病的なまでに幻惑され、頭から振り払うことができなかったことを物語るこの尋問は、ヒトラーに関する最も風変わりな資料を残してくれた。1949年スターリンに提出された『ヒトラー文書』だが、歴史研究者がアクセスできるようになったのはソ連共産党のアーカイブが公開されるようになった91年からで、2006年初めてドイツで、翌年フランスで出版

l  怪物はいたって普通の人間であった・・・・

ごく普通の人間が、43年のスターリングラードの戦いでの敗退により心身は急速に蝕まれた

配偶者との関係もあり来りのものだし、独学者だったが全般的教養は驚くべきものだった

ワーグナーを崇拝したが、イタリアオペラのファンであり、ロシア音楽のレコードを蒐集、ショパンを愛好し、ジャズも嫌いではなかった。使用人はヒトラーの心遣いに感銘を受け、彼に惹かれた。残虐行為を犯す人間が、他の人間と根本的に異なっていないところに大きな謎が残る

ヒトラーは、ドイツ国民が求めた人物であり、自分たちの運命を托した人物であり、その言説には、第1次大戦の敗戦で抑圧されたドイツ民族の意識の浄化・解放する効果があった

l  ハプスブルグを憎んでいたオーストリア人

ヒトラーが第1次大戦に志願したのは、ハプスブルグの軍ではなく、ヴィルヘルム1世が建国した第2帝国の一部であるバイエルン王国軍で、負傷しただけでなく有毒ガスにもやられた

l  デーモンの目覚め

終戦後も軍に残り、共産主義者らによる「反国家的策動」を監視する情報提供員として活動しながら、ミュンヘン大学で経済と政治史を受講。汎ゲルマン主義と反国際資本主義、さらには世界の金融をコントロールして暴利を貪るユダヤ人排斥の反ユダヤ主義が頭の中で一体化

l  驚くべきスピードでの台頭

1919年、ヒトラーは軍の命令で過激な国粋主義組織のドイツ労働者党に潜入するが、たちまち同党の幹部に抜擢され、1921年には国家社会主義ドイツ労働者党NSDAPと改名して総統に就任。2年後には自己の力を過信してバイエルン政府の転覆を企図した一揆を起こすが失敗して服役。復活後は非合法に徹し、選挙ごとに絶対多数不在の中で得票を伸ばし、33年には首相の座を射止める

l  全体主義国家を築くまでの1

首相就任直後に国会を解散、議事堂に放火して共産主義者にその責任を押し付けて放逐、国家元首の緊急時における全権掌握の規定を濫用して憲法上の市民の基本的権利を剥奪

全権委任法の成立により、州レベルの独立性も否定され、中央集権的に再編成されるとともに、ユダヤ人や体制に批判的な人物の追放が始まる

l  指導者原理の陰で

34年ヒンデンブルク大統領が死去すると、国会は大統領と首相を合体させる法律を採択。同年の選挙では89.9%がナチを支持。ヒトラーは「総統兼首相」になり、全国民に忠誠を求める

l  「複数指導体制」の独裁?

高揚した活動亢進期と、無気力で真剣味に欠ける政務の長い期間が交互に訪れるヒトラーの人格は、周囲の人間を驚かせた。機能上は「複数指導体制」であったことは確かで、ゲーリング、ヒムラー、ゲッペルスのいずれもが独自の勢力分野を持ち、32名の大管区指導者も大御所としての影響力によって縄張りが変化した。ゲーリングは第24カ年計画の責任者であり、ヒムラーは内政の治安を担当、ゲッペルスはプロパガンダを担う。外政はヒトラーの独断

 

5.     フランコ(18921975)―不沈の独裁者                       

エリック・ルセル(著述家・ジャーナリスト、近現代のキーパーソンを論じた著作は高評価)

フランコは、彼を助けた枢軸国の2人の指導者とは異なる運命を辿り、今なお遺産は残存。絶対的権力を握った35年間にスペインは大きく変容し、スペイン経済は前代未聞の近代化を遂げ、社会に不可逆的な影響を与えた

l  影から光へ

ガリシア地方に生まれ、陸軍士官学校を出たフランコには目立つ点はなく、堕落した父親が反面教師として彼の人格形成に大きな影響を与える。志願して出征したモロッコで活躍、重傷を負って英雄となり、26年には少将に昇進、フランスからも叙勲

31年の地方選挙で共和派が勝利し、国王アルフォンソ13世が国外に去ると、新体制への軍人としての忠誠心に疑問を感じる

l  スペイン内戦

33年には無政府主義的な暴動などが頻発。36年には軍隊が反乱、内戦状態に

当時はまだ、第1次人民戦線内閣(左派連合)の軍政官だったフランコは、最終局面で反乱軍の最高司令官かつ潜在的なナショナリスト国家の元首となる。ロシアが共和派の支援に回る一方、フランコ側にはドイツとイタリアが付き、内戦が国際化

l  軽業師

1939年、フランコは内戦終了を待たずに臨時政権を立ち上げる。教会が政権を支持し、政権もカトリシズムに傑出した役割を認めて国教としたところにフランコ政権の特異性がある

当初、前独裁政権のファシスト党の力を借りたこともあったが、ファシズムと一体化することはなく、「原理主義的」と呼べる篤い宗教心に根差す、善悪二元論を基本とした独自性を持つ

「政治責任法」という特異な法律により遡及処罰を断行、執念深く敵を追い回して根絶。共産主義とフリーメイソンを徹底して排斥

カリスマ性には欠けたが、状況分析能力や相手の弱点を素早く察知して利用する知恵は抜群。長期的視野は欠如したが、短期的な状況判断はほぼ正確で、ヒトラーについて参戦しなかったことやユダヤ人迫害に手を染めなかったのはその好例

l  再浮上の業師

1940年代初め、フランコは自国の統治機構を当時の同盟国独伊を手本として構築していただけに戦後の立ち位置は微妙で、国連から加盟を拒否され、国内でも立場が悪くなって、将来の民主主義体制の構築と君主制への移行を表明。国民投票で80%の支持を得る

冷戦の勃発で、アイゼンハワーはスペインに米軍基地を置き、55年には国連加盟も実現

経済政策の失政と極寒による飢饉で、ヨーロッパの最貧国に落ちたが、経済専門家によるリベラルな政策により経済は立ち直る

l  黄昏

フランコはパーキンソン病の進行により徐々に一線から退く。アルフォンソ13世の息子で亡命中のバルセロナ伯が王位継承権を主張していたが、フランコに批判的だったため排斥され、73年その息子ファン・カルロス1世を即位させ、腹心のブランコを首相にして現体制を維持しようとするもテロで殺害され、最後はファン・カルロスに委ねざるを得なくなる

他の独裁者とは異なり、一度も誇大妄想的な無茶を犯さず、ある程度の妥協は必要だと理解できた。それこそが彼の権力の並外れた長寿の秘密だが、最後の最後まで前代未聞の無慈悲を示すこともあり、昔の敵を無意味に処刑

 

6.     フィリップ・ペタン(18561951)―独裁者とは命令する者である  

ベネディクト・ヴェルジェ=シェニョン(歴史で博士号、パリ政治学院講師、第2次大戦史の専門家)

1940年のペタンとヒトラーの握手の写真はフランスとナチ・ドイツの協力関係の象徴。プロパガンダと称賛と憤りとスキャンダルと物議の材料、そして最終的には裁判の証拠物件となる

決定権もない敗戦国の独裁者があり得るのか。20年間は筋金入りの共和主義者でもあった

l  元帥

第二帝政下に生れ、プロセンによる占領の惨めさを経験し復讐の念に燃えたペタンが、第1次大戦で勝軍の将となる。退役間近で開戦、マルヌの勝利で将軍となり、ヴェルダンの軍司令官として活躍、元帥に昇進。戦後も31年まで参謀部のトップ

開戦時スペイン大使だったが、休戦支持派に推されて入閣、抗戦派のレノー内閣が倒れた後の首相となり、新しい制度を敷くための白紙委任状が与えられた

l  つぎはぎだらけの制度

6月の休戦協定により国土は1/3となったが、ヴィシーに臨時政府が成立、同盟国イギリスとは決別

l  複数体制の独裁

枢軸国の共同交戦国となるリスクを冒してでも対独協力することが、最良の最も賢明な戦略との触れ込みで、熟慮の上選択された。これによりペタン政権は軍事的に第三帝国と一蓮托生の、出口のない悪循環に陥り、内戦を誘発

ペタンの政策の代名詞となった「国民革命」は、ヴィシーの空気が生んだものだが、日に日に高まるドイツの圧力の下、身を挺して国に奉仕する覚悟とは裏腹に、ペタンは愚痴をこぼしたり言い訳をしたりする、不満たらたらの独裁主義だった

l  いったいこれは独裁政治なのか?

政治的自由主義の否定は権利の抑圧に繋がり、ペタンは司法権を保持して敗北の戦犯を次々に勾留、弾圧を強める。外国出身やユダヤ系フランス人に対する差別的措置を取り、フランスを離イギリスについて戦い続けるフランス人に対しては欠席判決を出したので、益々反政府勢力が勢いづく

l  歴史の裁きを受けるのはわたし1人だ

19448月、ペタンはもぬけの殻となったヴィシーからドイツ軍によって連行され、帰国したのは終戦後。すぐに高等法院での裁判が始まり、翌月には反祖国罪を宣告される

ドゴール将軍により恩赦

 

7.     東條英機(18841948)―独裁者?それともスケープゴート?     

ピエール=フランソワ・スイリ(ジュネーブ大名誉教授、日本史担当、元仏国立東洋言語文化学院教授、東京の日仏会館元館長)

戦中記者に「独裁者か?」と問われ、「陛下の光に浴しているとき以外は路傍の石と変らない」と答える。天皇の「忠義で誠実な」臣下であって、独裁者ではない?

東條に暴君らしいところは皆無だったのに対し、彼が指揮監督するシステムは全体主義の匂いがプンプンする独裁そのもの

l  位人心を極めた凡庸な将官

陸軍士官学校で中等教育を終え、2回受験に失敗した後陸軍大学校に入学、1915年卒業して大尉に昇進、スイス・ドイツの駐在武官を経て陸軍省に入る。軍人としては無名だったが、事務管理能力を評価され、陸軍のヒエラルヒーを順調に駆け上る。過激な国粋主義に染まった「皇道派」将校の二・二六クーデター未遂事件への果敢な対処で名を揚げる

1938年、陸軍航空本部長になった頃から開戦派との評が定着。41年の「戦陣訓」は、敗戦間近の玉砕や特攻に見られる極端な戦術の原因となる

l  東條は軍の最高司令官?

首相を拝命した東條は、天皇から戦争回避への努力を指示されるが、強硬姿勢を崩さないアメリカの前に開戦を決意、涙ながらに天皇に陳謝したという(トップレベルの議論の記録は一切ない)

44年、マリアナ・サイパンの敗戦の責任を取って総辞職するが、周囲も彼を見すてて敗のスケープゴートとする。東條は自宅に隠棲したが、重臣会議には出席し、452月には「アメリカには厭戦気分が蔓延、ソ連は参戦しない」との上奏分をしたためる。指導者がこれほど判断を誤ることは稀

l  数多くの党派争いにゆすぶられる軍隊

近代日本の陸軍は長州藩の武士を核として構築。海軍は薩摩藩出身の武士が中心

陸軍内部では、「統制派」と、より急進的な「皇道派」に分裂。ニ・二六事件で皇道派は一掃

l  どの国を相手に戦うのか

複数の仮想敵国を絞り切れず。開戦に傾く東條には、政府から独立している統帥部の秘密の作戦計画が知らされないまま。戦況悪化の際も統帥部は情報を出し渋る

l  君主制と責任問題

最高権威であるはずの天皇の機能は曖昧そのもの

戦時中の日本では、巨大な機械と化していた軍と国の行政制度が命令を出していたのは間違いない。ただ、個人としては誰も責任を感じなかった。東條等死刑判決を受けた者だけがスケープゴートとされたが、これこそが戦前の日本における政治システムの曖昧さであり、丸山眞男は「無責任の体系」と呼んだ。東條は供述書の中で、「天皇の意に反した決定を自分が下すことなどありえない」と書いて、自らが浸りきっていたイデオロギーの罠に落ち込み、天皇に責任が及びかねない内容に慌てた木戸幸一が説得して供述を撤回させている

天皇は本質的に善であるが、周囲の人間が悪い、という理屈が国民の間に土壌として育くまれており、戦後アメリカ当局のお墨付きを得た言説となり、マッカーサーが日本のヒーローとなる結果を生み出したのみならず、意図的な健忘症とも呼べる、自分たちには責任がないとの思いを日本に浸透させ、これが今でも国際関係に影を落としている

 

8.     ティトー(18921980)―あるいは大いなるこけおどし 

ジャン=クリストフ・ピュイッソン(ル・フィガロ・マガジンの副編集長、バルカン・スラヴ世界の専門家)

ナチズムと闘い、48年にはスターリンとも対立、コミンフォルム(共産党情報局)から除名されたティトーは西側諸国から付き合いできる相手だと思われていたが、真実と伝説の間には大きなギャップがある。彼は職業革命家。ユーゴを占領したナチへの抵抗運動に遅れて参加すると同時に、連合国に後押しされたセルビアも攻撃。猜疑心と妄想癖に満ち、戦後は恐怖政治を敷く、彼が先導役となった第三世界の反帝国主義革命運動を支援、アメリカの支持を得る

194580年まで教権的に支配。スペイン内戦にはスターリンの命令で国際義勇軍を派遣し、自らユーゴ共産党の書記長を虚偽の嫌疑で密告して銃殺された後任に任命される

l  旅そして旅

若くから活動家として帝国内を転々と旅しながら、徴兵に応じて軍務に服し、第1次大戦中はロシアの捕虜となるが、革命によってかいほうされボリシェヴィズムに転向。18年成立した元々のセルビア王朝が支配するセルブ=クロアート=スロヴェーン王国に戻る

l  職業革命家

1920年、ティトーは成立後間もないユーゴ共産党に入党。非合法化されたが怯まず、暴力と決意と信念による政治的勝利を目指し支部責任者となるが、獄中で忠実な仲間を得る

モスクワでゲリラ戦とスパイ活動の教育を受け、クロアチア人テロによるセルビア王暗殺後の混乱に乗じて勢力を伸ばすとともに、前任の書記長を追い落として書記長となる

l  条約の歴史

ナチ電撃戦の間、地政学的中立を堅持。日独伊三国同盟参加も拒否。ヒトラーに強要された国王は条約に署名するよう首相に命じたが、軍隊が決死のクーデターを起こして拒否、条約は反故になったため、ヒトラーは怒り狂って首都を爆撃、多くの民間人犠牲者が出る

間もなく枢軸国軍がユーゴに侵攻、国王はイギリスに亡命政府を樹立。クロアチアが独立を宣言して大粛清をするが、国王の命を受けたミハイロヴィッチが占領軍に対しゲリラ戦で抵抗

その間ティトーは、ヒトラーとスターリンの同盟下で事態を静観

l  抵抗運動開始

独ソ戦開始により、ティトーは対独抵抗のパルチザン活動を指揮。志願兵が殺到し、ドイツ軍からの失地回復を進める。スパイを活用してミハイロヴィッチを誹謗中傷し、代わって連合国の支援も勝ち取り、43年のイタリア降伏後はチャーチルの信任を取り付ける一方、スターリンの軍事支援も得てベオグラードを解放。パルチザンがソ連のT戦車を操縦していた

l  統治のためには恐怖を

恐怖を煽って国内における自らの権力を固める一方、ドイツ軍の撤退やコソボにおける対独協力政権の解体によって生じた混乱を利用して、疲弊した地に虐殺と逮捕を広げ、大量の人間をソ連の収容所へ送る。激戦地に多くの若いセルビア人新兵を送り込んだのは民族浄化のためであり、戦後の選挙では、対抗勢力を対独協力の廉で一斉に追放、99.57%の支持を得て選ばれた共産党議員たちは即刻王制を廃止し、連邦人民共和国の設立を提案

l  東洋の独裁者風

ティトーは、中世の王の様に国を支配、側近たちに封土を与えるように地域の支配権を与えた

l  スターリンと指導者同士の闘い

1948年、スターリンがトリエステのコンゴについてティトーの頭越しに西側諸国と交渉したことで、最初の大きな分裂が生じる。ティトーの抵抗に激怒したスターリンは、ユーゴからブレーンを引き揚げ、ユーゴを東欧のあらゆる政治・経済機関から追放。ユーゴは内戦寸前となるが、ティトーはいち早く「スターリン派逸脱者」をユーゴ共産党から追放。西側諸国はヨーロッパの共産主義拡大に歯止めがかかったと快哉を叫ぶ

帝国主義的・官僚主義的になったソ連に対し、ユーゴは社会主義の原点に立ち返り、私有財産が全面的に廃止され、土地の集団化が開始、国内は飢餓状態に。スターリンの死去により両者の関係は正常化に向かうが、ティトーはスターリンの葬儀には参加せず

l  第三世界の先駆者

国内問題が片付くと、ティトーは東西両陣営への参入を拒む国々の盟主になることを企図

インド・エジプトの賛同を得て、さらに反植民地主義運動を主導する国々の同意も獲得する一方、その動きに幻惑されたアメリカからも莫大な資金を受け取る

l  悲劇的な未来を告げる終末

ティトーは見事に人の目を欺き、経済破綻を招き国民を隷従させる独裁政治の現実を隠し通した。監視の目が常に光り、牢獄は反徒で溢れ、経済は停滞、社会的・宗教的緊張に覆われた国で、北朝鮮に匹敵する個人崇拝の色濃い国。無為無策と思い上がりによって墓穴を掘る

最後は高血圧と糖尿病による動脈硬化、左足塞栓症に見舞われ死去。一触即発の状況のままに残していったバルカン半島は、91年から再び戦乱に見舞われる

 

9.     三代の金―金日成(191294)、金正日(19412011)、金正恩(1984)の国        

パスカル・ダイェズ=ビュルジョン(エコール・ノルマル・シュペリウール卒、歴史の高等教育教授資格取得、韓国と北朝鮮が専門

3四半世紀にわたって地球上でもっとも残忍な独裁の支配下にある国。絶対君主制国家に変貌させるという、前代未聞の離れ業を成し遂げた

l  初代皇帝、金日成

日成(太陽の意)は、日本の支配下に成金の農民の子として生まれる。若い頃から人を束ねる能力に優れ、抗日レジスタンスの中国共産党にスカウトされ、出世の階段を駆け上がる。40年にはソ連に逃れ、赤軍に編入され、将来の人脈を築き、終戦後のソヴィエト地域の管理を托される。45年には、ソ連政治局員の厳しい監視下にあって臨時人民委員会の委員長に抜擢

以後権力を手放すことはなく、権力を守るためには手段を選ばず

48年には北朝鮮を衛星共和国にしたスターリンに対し服従の意志を示すが、49年権力の座に就いた毛沢東には秋波を送った後、パルチザンを軍隊組織に仕立て上げ、アメリカが作った傀儡国家を潰そうと中ソを説得して再統一への戦いに踏み出したが大失敗に終わる

国内では反対勢力の粛正に動き、批判を許さない恐怖政治を敷く

中ソの支援が途絶える中、北朝鮮は大きく停滞、体力・気力の衰えた金日成は何も手を付けようとしないまま権力を息子に譲った後、94年心臓発作で死去

l  核に異常な愛情をそそいだ2代目、金正日

共産主義国での世襲の後継者誕生に世界は唖然。金日成が後妻との間に2人の息子を作ったため、その1人が後継者と目されたが、3年かけて金正日が政権の座をものにする

金正日は、父が夢見た体制の核武装に邁進。2006年には初の核実験に成功

たった1人の権力者として孤立し、暴飲などの無茶が祟り、後継者を用意することなく逝去したが、権力が身内のいずれかに引き継がれることを疑う者は誰1人いなかった

l  威嚇を切り札とする3代目、金正恩

金正日の後継者は、すぐに末の息子に決まる

当初金正日は先妻の子金正男に跡を継がせようとしたが、支離滅裂な肥満児で自由主義改革の支持を表明して軍の大顰蹙を買い、後妻の次男金正恩が、兄の金正哲を差しおいて後継の座を射止める。金正日の死の直後から、自らの力で権力を認めさせようと、父が用意していた摂政の義理の叔父をはじめ、邪魔者をすべて排除

l  金たちの王朝システム

どの時代にも、どのイデオロギーにも独裁者はいるが、金王朝は桁外れ。その動じない態度、執拗さ、強烈な絶対主義は、どれをとっても尋常ではない。国家的レジスタンスの称揚、朝鮮の歴史への崇拝、弾圧機構の精密化の3つの論理を結合した複雑なシステムがそれを支える

l  永遠の朝鮮

朝鮮半島では、変化が起こるたびに新しい王朝が権力を奪い、国を新たな方向へと導いた。金日成もこの系統に連なる

l  独裁機関

統制の方法は多様。第1に人民軍で、人口の8200万に達し、秩序の維持にあたる。次に警察とその裏組織で、全ての人民を監視。さらに強制収容所。その上労働党と300万の党員による不可解な官僚主義。プロパガンダ担当部局はマスメディアを管理しマスゲームを組織

北朝鮮の人々が、自分たちは「金日成の国」に住むという、それを信じている限り、共産主義の「赤い」王朝は君臨し続けるだろう

 

10. 毛沢東(18931976)―狂気の暴君                            

レミ・コフェール(ジャーナリスト・著述家、ヴァンデ・カトリック学院で教鞭、各誌に寄稿)

蒋介石は、多数の同国人を虐待したが、その後に四半世紀続く毛沢東の独裁は桁外れに残虐

革新的マルクス主義者としての毛は、革命が「前衛」である共産党の排他的占有物であればよいので、その点においては、毛沢東主義の暴政は、レーニン・スターリンの教義と合致

l  「毛主席」の台頭

毛は1911年の中華民国建国や19年の五四運動には関わっていない

建国当初の国民党と中国共産党とは蜜月関係にあって急進主義も影を潜めていた。毛は二十帰属のかたちで、共産党の活動家でありながら、国民党の広州の組織の所長に就任

共産党は「権力は銃口より生ず」をスローガンに、毛の主導で戦闘態勢を整え、国民党の共産党鎮圧に対抗してゲリラ隊長となって抵抗、31年には中華ソヴィエト共和国主席となり、赤色テロによる粛清で権力を確立し始める。34年には行き過ぎから更迭の瀬戸際に追い込まれ、屈辱的な自己批判によって辛うじて「長征」への参加を認められ、紆余曲折の後共産党を権力の座に導き、49年には天安門広場にて中華人民共和国成立を宣言

プロレタリアート独裁は、毛個人の強権に依存。毛の手法は、権力闘争の領域にゲリラ戦術を紛れ込ませたもので予想不能。同志の苦悩などには冷然として無関心

l  権力は恐怖の果てにある

秘密警察長官が音頭を取った整風運動を先駆けとして、最初の2年で恐怖政治を貫徹。群衆を扇動し、その声に押される形で次々に粛清を断行

l  無数の花を血でおおえ

先人であるレーニンやスターリンの教えを踏襲しなかったものの、2人の遺産の主要部分を引き継ぎ、中国の全体的集産化を推進。フルシチョフの非スターリン化は共産主義の放棄だとし、自らを世界革命の赤い旗を振る主導者だと標榜。一時的に社会の「健全なる」分子との対話という「小さな民主主義」を開始、「百花斉放、百家争鳴」を掲げたが、次第に批判と不平が吐き出され、強硬さを増してきたため、それが新たな粛清のターゲットを焙り出した

l  殺害のユートピア

58年に決定された「大躍進」政策は、共産主義的な強気のプロジェクトそのもの。失政が明らかになると自らは身を引き、代わりにトップに立った者に責任を被せ、更なる粛清に走る

l  天下擾乱

劉少奇らの実権派によって排除されそうになった毛は、『毛沢東語録』を手にした紅衛兵による党執行部の突き上げという「文化大革命」を通じて復権を果たす

72年にはソ連の脅威に対し、アメリカカードを切ってニクソンと対面するが、毛は老齢で、ALSの初期症状が現れ、76年周恩来死去の翌月死去。党親衛隊によって江青ら「4人組」が逮捕され文化大革命の死の連鎖は終わる

l  小さな指導者から中国皇帝へ

毛は文革で追放された鄧小平の才能を惜しんで、もしもの場合に復帰できるよう生かしておいたが、その鄧が文革後の実権を握り、共産党が許す限りの経済開放により、世界的大国に復帰させようと望む。89年の天安門事件を経て、自由主義経済と極度の警察集権化体制の混合の産物である新たな中国が誕生

毛神話を覆せば独裁の基盤が崩れて脆弱化するかもしれないということを自覚している現体制は、彼の建国の父たるイメージを維持するためにすべてを注力。今の北京では、脱毛沢東などは目下の話題にすらのぼされてはいない(ママ)

 

11. エンヴェル・ホッジャ(190885)―最後のスターリン主義者

フランソワ=ギヨーム・ロラン(エコール・ノルマル・シュペリウール卒、高等教育教授資格取得、ル・パワン誌「歴史」欄の特別寄稿者)

194485年、アルバニアで絶対権力者として君臨したホッジャは、未だに謎めいている

民族主義的な共産主義を打ち立て、隣国や同盟国とも断交。専制君主は、自国を道連れにして狂気の歩みを続け、アルバニアはその孤立と国際社会からの隔離故に「ヨーロッパの北朝鮮」「西洋のチベット」と呼ばれる

l  ロベスピエールの名において

フランス語教育が根付いていたアルバニア南部に生まれ、フランスを通して教養を培ったホッジャは、ほぼすべての国と敵対していたが、反フランスであったことは一度もない

ロベスピエールを尊敬、民族主義的な社会主義、パラノイア、攻囲妄想、行間から透けて見える粛清濫用の傾向など、彼の巧妙な手腕を学ぶ

フランスのモンペリエ大学に留学し、フランスで労働者の闘争に開眼したとされる。男娼として暮らしたが、当時の同国人の友人は、皆奇妙なことに大戦後に悲劇的な死を迎えている

l  消去法による出世

アルバニアにとっての第2次大戦は、39年のムッソリーニによる侵略で始まり、その6カ月後ホッジャは反ファシズムのデモを組織して政治人生を公式に始める。逮捕を免れて地下に潜伏、41年に設立された新アルバニア共産党の指導者の1人となる。プラグマティックで、バランスと力関係を察知するセンスの持主であったことは間違いなく、スターリンとティトーが送り込んだユーゴ人の間をうまく立ち回り、44年新政府樹立の際は首相となる

スターリンがティトーにアルバニア併合を認める中、ホッジャはまず国内の清掃に手を付け、共産党員しか立候補のいない選挙で圧倒的支持を得、更にスターリンがティトー同盟関係を解消したのを機にティトーを国内から一掃したが、スターリンからは「民族主義に過度に傾くプチブル」だと軽蔑されながらも独立を保つ

l  スターリン主義者

人口150万人に対し15千人の秘密警察職員を配置して監視、イデオロギー的な逸脱を摘発

スターリンに倣って、自分の私生活を厚いヴェールで覆う

スターリン失脚後もスターリンを称賛し続け、中国が喜んで手を差し伸べてくれると既に確証を得ていたこともあって、60年には支援を削除してきたフルシチョフを「ペテン師」と呼んだ

l  毛沢東信奉者

モスクワの共産党大会で、ホッジャはフルシチョフの面前でスターリンを褒め称えるという大胆な挙に出る。文化大革命に倣って自国の「革命化」に着手。彼はイスラム信者だったが、国民には無神論を強制する一方、国内に無数のトーチカを作って周辺からの攻撃に備える

l  鎖国

15世紀にオスマンの侵攻を押し戻す武勲で名高いアルバニアの英雄スカンデルベグの栄光を称える立像を多数作って英雄信仰を広め、、文化のアルバニア化をもたらす

ソ連と中国が接近したり、中国がティトーの訪中を歓迎して仲を修復するに及び、78年には中国とも断交して世界の中で孤立。フランスやイタリアを頼ったが、中国の援助が途切れて前代未聞の貧困に陥り、攻囲妄想のイデオロギーが倍加され恐怖政治がさらに強化

政権末期は、糖尿病の合併症で視力が落ち、国民の面前からも姿を消していたが、最後は心臓発作で死去。死後に長い間病人だったことが判明

後継政権は開放路線をとるが、非共産化を実現したのは1992年で、ホッジャの遺骸は国家殉職者霊廟から共同墓地に改葬

ある記録によると、5.5千人が処刑、24千人が投獄、7万人が流刑されたという。人口200万を考えると膨大な数。多くの記録は裁かれなかった旧体制の指導者層によって破壊された

 

12. アルフレド・ストロエスネル(19122006)―自給自足体制の家父長     

エマニュエル・エシュト(レクスプレス誌の元編集長、フィガロ・マガジンとリールに寄稿中、『独裁者たちの最期の日々』の共同編者、『敗者が変えた世界史』の共同編集)

195489年、ストロエスネルは最高指導者としてパラグアイを組織的に搾取し、反対者を弾圧。南米のあらゆる密輸の基地となった自国を大農園のように経営。闇取引の一部を委ねて軍人を買収。反共闘争の模範生となってアメリカから信頼を得、腐敗に目をつぶってもらう

l  エル・コンドル

1970年代、パラグアイ国内での弾圧は猖獗を極めた。75年「コンドル作戦」の名のもとに、ピノチェット(チリ)、ラファエル・ビデラ(アルゼンチン)、ファン・ボルダベリー(ウルグアイ)、ウゴ・バンセル(ボリビア)、エルネスト・ゲイセル(ブラジル)とともに、アメリカに後押しされ、南米反共国際組織を完成させ、カストロ兄弟の支援で各地に生まれたゲリラ組織を殲滅し、反体制派を排除するために協力

教育者で弁護士のアルマダは、組合活動が祟って「知的テロリズム」の罪で逮捕、拷問を受けたが、人権団体の働きかけで釈放され国外に避難。クーデターでストロエスネルが失脚した後、アルマダは彼を告訴し、パラグアイの司法は殺人の共犯者と認定したが、亡命先のブラジルは引き渡しを拒否。92年、パラグアイは民主主義国家に変わり、新憲法のジェノサイドには時効が適用されない条項を根拠に再度提訴。密告により発見された記録保管倉庫の資料は、凄惨な粛清の全貌を窺い知るのに十分だった。さらに、1967年に始まったストロエスネルによる熱帯雨林の採集狩猟民アチェ族の抹殺も明らかになった

l  鎖国政策

ストロエスネルは、他の南米独裁政権には見られない攻囲妄想に襲われていたが、もともとは17世紀に入植したイエズス会伝導村の自給自足体制、次いで19世紀パラグアイ独立の父ロドリゲス・デ・フランシアが門戸を閉ざし、保護貿易を実践する南米唯一の国とした伝統を引き継いだもの

1960年代初め、ケネディが南米の共産化防止のために提唱した「進歩のための同盟」には参加せざるを得ず、ようやく鎖国状態から脱出。世界最大のイタイプ・ダム建設、貿易と共同プロジェクトを推進し、73年には国境紛争を終わらせるためのリオ・デ・ラ・プラタ流域条約を締結

l  暴力の遺産

1932年のボリビアとの国境紛争であるチャコ戦争でストロエスネルは軍功を挙げ出世を果たし、国内がナショナリズムと権威主義の風潮に染まり、軍人が政界入りに必要な威信と正当性を獲得し、相次ぐクーデターから内戦化するなか、軍最右派として大統領側につき、反乱軍鎮圧に辣腕を発揮

l  「ドン・アルフレド」の自由裁量権

ストロエスネルはすべてのクーデターにかかわりながら、53年には陸軍総司令官に任命。同じコロラド党に属していたチャベス大統領を「容共」の嫌疑で追い落とし、臨時非常事態宣言の下の選挙で大統領の座を射止める。以後7回の大統領選挙は毎回同様の結果に

たった1人で統治し、自由裁量で権力を行使。密偵のネットワークが国中に張り巡らされる

煙草や酒、ドラッグなど多くの非合法取引に関する事実上の独占権を与えることで軍の高級将校たちを買収。密輸と売春の基地となる

友好国アメリカの介入を避けるため、ワシントンの打ち出す政策に熱心に協力

l  「独裁のティラノサウルス」の最期

1980年代終わりに、ストロエスネルが亡命を受け入れたニカラグアの独裁者ソモサが自国のゲリラ組織のロケット砲で暗殺されたことは、ストロエスネルの威信が傷つけられ、さらにこの10年で「コンドル作戦」の同盟の独裁政権が次々に崩壊し、デモクラシーに移行する中、ストロエスネルも息子の義父の主導するクーデターによって倒され、ブラジルへの亡命を許される

ブラジリアで穏やかな隠退生活を17年過ごして死去

 

下巻

13. フランソワ・デュヴァリエ(190771)―ハイチは最悪の一族の誘惑に勝てるのか

カトリーヌ・エーヴ・ルペール(ハイチ問題の著書多数)

1492年、コロンブスはハイチ島に上陸、イスパニョーラと命名。フランスの植民地から、1804年奴隷の反乱により島の名をハイチに戻し、初の黒人共和国が誕生したが、欧米から疎外されて貧困と暴力の淵に沈む。以後32回ものクーデターで独裁ばかりが花開く。その1つがデュヴァリエ王朝で、その支配は、長さ、残忍、貪欲によってハイチに赤い烙印を押す

l  パパ・ドク――野獣がたどった権力への道

未成年強姦の結果として生まれ、バカロレアを取得し公務員となり知識人を気取って政治的色彩の強い著作を出すが、いずれの党にも肩入れしなかったため投獄経験がない稀な1

44年から医師免許を活かして僻地を巡る農村医となり、「ボン・パパ・ドク」という綽名を獲得

l  殺人者としての第1

フランソワは、ハイチでの人種闘争は階級闘争に他ならない、裕福なエリート層のムラート(白人とアフリカ系の混血)と庶民である黒人の間の闘争として、そこそこの知名度を上げ、都市と農村の貧困層を擁護する労働者農民運動の設立に貢献、恩師だった大統領に接近して大臣にまでなるが、軍事クーデターにより政権は転覆し、フランソワも潜伏。56年大赦により表に出て大統領選に出馬、陰で騒乱を指揮し社会の混沌を作り出し、大差で勝利した途端に、選挙戦を支えた仲間をお払い箱にして独裁を始める

対抗勢力と次々に虐殺、民兵組織を構築し自らの親衛隊とした

l  ねっとりした闇の中で

64年には終身大統領に就任。妻や娘夫妻が裏切って追い落とそうと画策したが露見

l  重く暗い日々

反体制派運動が興隆、69年には左翼まで加わり、地位が危うくなったフランソワは、アメリカの反共主義に訴えたり、マフィアにも利権を与えたりして支援を要請

何度かの心臓発作の後、71年インチキ選挙で息子を大統領にして地位を禅譲したのち死去

l  ベビー・ドク、ハイチ共和国のゾンビ

国民は、10代の若い後継者ジャン=クロードに何かを変えてくれると期待して、「ベビー・ドク」の愛称で呼んだが、無為徒食、好き放題に育っただけ、それを母親が支えた

l  パパのいないハイチ

アメリカの支援も受けて経済改革に邁進、外国からの投資も再開されたが、母親を筆頭に政府内部は腐敗しきっており、息子も民主主義を期待する世間の支持を失って、強権をバックにして個人の利益を優先することを決意。国際援助と税収の1/3以上が一族の口座へと流れる

l  蜜月

1983年、教皇ヨハネ=パウロ2世が訪問し、「この国は変わらねばならない」との発言を機に、反対勢力が結集し、さらにカリブ地域の不安定要因になることを懸念したアメリカなどが最後通牒を突き付ける。86年米軍によって一族はフランスに逃れ、フランスも黙認して亡命生活が始まる。残されたハイチは無政府状態で、4日間暴力と残忍性の洪水に浸る

l  苦々しい最期

ムラート出身の放蕩の妻に財産を横領され離婚されたジャン=クロードは、2010年のポルトーフランスの大地震を機に帰国。世界各地からの支援金の流入とNGOの活動は彼にとって千載一遇のチャンスとなる。かつての犠牲者が人権侵害で彼を告訴するが、現政権は彼に同情的でお咎めなしとなったため、国際社会がICPOのローマ規定批准を迫る

健康状態の悪化と、家族内の絶え間ない争いに辟易としたジャン=クロードは、14年心臓発作で死去

l  ピティ=ピティ・デュヴァリエ、記憶を葬り去る者

国葬が検討されたが大反対の声に断念。ジャン=クロードの息子「ピティ=ピティ」は、母親から跡を継ぐために戻れと命じられ13年に帰国、祖父を称賛して周囲を驚かせ、大統領にも歓迎される。デュヴァリエリズムの聖杯として彼を崇める回顧的なデュヴァリエ政権の顔役たちに担ぎ上げられ、また政権を窺い兼ねず、周囲も暗黙のうちに王朝の後継者として認めているようでもある

(2021年、モイーズ大統領暗殺で、また国内は混乱。暫定政権の統治下にある)

 

14. フィデル・カストロ(19262016)―権力への執着 

エリザベト・ブルゴス(歴史研究者・人類学者、メゾン・ド・ラメリク・ラティーヌ館長

ローランス・ドゥブレ(歴史研究社・ジャーナリスト、2018年政治著作賞)

カストロの政治を貫く指針は、国の経済発展や国民の安寧な生活ではなく、アメリカとの恒常的な戦争状態が心を占める中、アメリカの支配からの解放と、対抗し得る強国建設への闘い

この反米感情こそ、カストロが西側諸国で信じられないほどの人気を獲得し、何をやっても大目に見てもらえた理由の1

l  反抗児

1898年、パリの和平条約で、無条件降伏したスペインはアメリカにキューバ内政への干渉権を認めるプラット条項を受け入れ、43年まで維持されたこの条項は、キューバがアメリカの属国となったことを公示するもの。カストロはキューバが抱えるこの条項によるトラウマを背景に、自身の反米主義を国是とし、長期政権のレコードを打ち立てる

父親が貧困から逃れるためにキューバに移民、サトウキビ栽培の土地を買い広げて成功

汚職と騒乱に沈むキューバでカストロも名声を求めて動き回り、ボゴタでの反帝国主義学生会議に参加して、前日暗殺された反体制派のリーダーに対する暴動に加わる。50年弁護士資格を得て貧しい人々の弁護にあたる

l  反逆者

カストロは、アメリカの支援を受けてクーデターで政権を乗っ取ったバティスタ政権に抵抗して、53年逮捕・投獄。2年後恩赦で釈放された後も、国内の混沌を煽り、メキシコに逃亡、後に不可欠の盟友となるアルゼンチンの医師エルネスト・ゲバラと出会う

l  英雄譚

56年、カストロは僅かな解放軍を組織してキューバに戻り、ロベスピエールを気取って革命を唱える。アメリカのメディアを騙して、悪辣なバティスタ政権と闘う希望の星と印象付ける

反政府勢力の結集を図り、58年末にバティスタを亡命に追込み、ハバナに凱旋

l  権力の取得

カストロは、軍隊を再編し、臨時政府と並行して「闇の政府」を組織し、議会を解散、資産を没収、1か月ほどで対抗勢力を全て潰し、絶対的権力者として君臨

1959年、はじめて訪米、穏健な革命家を演じてアメリカの世論を安心させる一方、キューバ人をモスクワに送って防諜活動員を促成

61年、ピッグス湾侵攻事件は、アメリカの脅威からキューバを守るための保護をソ連に要請する好機となり、アメリカには報復として国内のアメリカ企業を国有化、両国は断交

l  赤いコンキスタドール

カストロは自分の革命の輸出を試み、ベネズエラを手始めに、ペルー、グアテマラ、コロンビア、アルゼンチン、ドミニカ、ボリビア、ブラジルにも武器と要員を送り込む。公認のマルキシズムに反するフォコ理論(ゲバラとともに編み出した、農民に支持される前衛革命家のゲリラ闘争を重視する理論)を実践。第三世界の国々を集めて三大大陸サミットを開催、非同盟国のリーダーとなる。CIAやモサドに次ぐ諜報機関DGIを組織

l  大失敗

医療や教育の無償化を実現させたが、61年から強制された配給制度や私有財産禁止を原因とする経済振興の失敗は明らか

2016年死去。10年前に全権力を弟のラウルに譲渡。ラウルは兄の死後、あらゆる個人崇拝の表明を回避すると宣言

 

15. ジョゼフ=デジレ・モブツ(193097)―ザイールのプレデター 

ジャン=ピエール・ランジェリエ(ジャーナリスト、『ヴィクトル・ユーゴー辞典』など)

196597年、モブツは、ザイール(旧ベルギー領コンゴ、現在はコンゴ共和国)に圧政を敷いて君臨。流血の犯罪、汚職、国の資源の恥知らずな略奪を組み合わせた残忍な独裁

アフリカにおける「共産主義の防波堤」として売り込み、戦略的な役割を演じたが、冷戦終結により同盟者のステータスを失い、西側諸国から見放され、間一髪で亡命し異国で死去

アメリカの諺「豹の毛皮の上には、2人の首領が並び立つ場所はない」を皆に分らせるかのように、豹の毛皮のトーク帽(浅い筒型のつばのない婦人用の帽子)がトレードマーク

l  私生児

ベルギー領コンゴの250ある部族の最も弱小な部族の生まれ。父の雇い主のベルギー人判事の妻が子供がなかったためにモブツを可愛がってフランス語の教育を受けさせた。父親が早逝し、強制的に植民地軍に入れられ、頭角を現した後、地元紙の記者となり、ナショナリストで民主主義者という立場を鮮明にし、編集長となり、ジャーナリズム界の有力者になって、56年にはルムンバと友人に

l  ジョゼフとパトリス

次第に独立の声が高まり、59年の暴動を機に、ベルギー国王も独立承認を約束し翌年実現

モブツは地元紙の公式代表としてブリュッセルに駐在

選挙の結果、ナショアンリズム系の政党が圧勝しルムンバが首相になり、モブツは首相付き国務補佐官に任命。白人支配と給金への不満から軍が暴動を起こすと、モブツは軍のNo2になって鎮圧するが、すぐに2人の間には不信感が芽生える

l  ルムンバ、墓もない死者

相次いで勃発した地方の独立運動を機に、モブツはクーデターで大統領とルムンバを2人とも軟禁、ソ連大使も国外に追放。ルムンバのソ連接近を問題視したCIAと組んだ作戦だった

ルムンバは国民的人気があり、モブツも処刑しておきながら後日「国民英雄」に認定

l  CIAの友

ルムンバは、独立した今後の歴史の第1期を作るが、わずか6カ月で終焉。第2期は無秩序で暴力的な恒常的な内戦状態が5年続く。モブツはCIAと緊密な関係を築き、63年訪米しケネディに歓迎され、反対勢力の殲滅に邁進。65年にはゲバラもゲリラに加わっていたが、病気で国外に去る。65年、モブツは全権を掌握、大統領を罷免し、憲法を停止、議会を解散

l  聖霊降臨祭の絞首刑

暴力、奸計、嘘が「偉大なる豹」の独裁を盤石とした。マキャベリの『君主論」を愛読書とし、66年の聖霊降臨祭には元首相と閣僚らを公開処刑、国民は恐怖のメッセージとして受け取る

l  川を流れる死体

モブツは暴力で支配。恐怖は金銭と並んで、彼の長期政権の重要要素の1

l  虐殺と共同墓穴

アムネスティ・インターナショナルは、30年にわたってモブツの人権侵害を非難し続けた

92年、教会の呼び掛けで100万人が民主主義を求めるデモに参加したが、モブツは残忍な殺戮で対抗

l  「スーツ打倒!

国民を統制するための主要な手段が、67年結成のコンゴ唯一の党である「革命人民運動」で、

全国民をメンバーとした。独立当初には文化革命を国民に提案、西欧の精神的束縛からの解放を謳い、国名もザイールと変え、多くの賛同を得るが、頻発する内乱ではその都度外国軍の支援で窮地を脱する。ザイール風の名前に変えさせ、「スーツ打倒!」を語源とした名前の制服着用を強制。自らもモブツ・セセ・セコ・・・・と「全能の戦士」を表す苗字に引き延ばす

l  最高位のプレデター(捕食者)

伝統はあらゆる濫用を正当化する口実となり、モブツ礼賛はアフリカでは前例のないレベルに達する。「至高の案内人」と自称して驕慢そのものとなり、自分を対象とする個人崇拝の高揚にひたすら励む。74年キンシャサでフォアマンとクレイの「世紀の対決」で最高潮に

l  同盟者から迷惑な昔の知り合いへ

加齢とともに幻滅を味わうようになり、性格は暗くなる。前立腺癌に冒され、アフリカに吹く民主化の風を受け、90年に複数政党制を復活させるが、最高国民会議は現体制を糾弾する民衆裁判の様相を呈し、地政学的利点が消えてアメリカなどからも政権移譲を迫るが、モブツは拒否。94年、隣国ルワンダのフツ族過激派によるジェノサイドの後発足したツチ新政権の支持を受けたザイール国内のツチ族叛徒が決起し、モブツ体制は崩壊。その背景には、モブツがルワンダのフツ族前政権を支持していたこと、アメリカの支援をバックにアフリカ中部での覇権を築こうとしたウガンダの野望、さらにはモブツを見切ったアメリカの戦略変更があった

l  失墜と亡命

モブツは周囲の重鎮たちにも見限られ、97年モロッコに亡命直後に死去、同地に埋葬

 

16. ムアンマル・アル=カダフィ(19422011)―ベドウィンの難破   

ヴァンサン・ユジュー(レクスプレス誌国際部の特別寄稿者、バイユー戦争特派員賞)

リビアに、自ら考案した盲信的で愛国的な人民主義の具現を目的としたユニークな専制政治のモデルを敷く。歪んだユートピア、ディストピアの物語。カダフィは生きているときも、死んでも今なお謎。殉教者と崇める者もいれば、残忍な道化者と見做す者もいる

l  突拍子もない独裁者

カダフィは死んだが、ヒーロー不在に苦しむ若者たち、特にアフリカの若手インテリの間で、今でも彼を崇拝する向きがあるのは不気味

毀誉褒貶の激しい中で徹底した一貫性は、鎮まることのない反抗心であり、植民地の屈辱を晴らし、辱められた民に尊厳を回復させ、イスラムを再活性化し、イスラム共同体を結集し、国境を廃止してアフリカの統合を急ぐという執拗で強迫的な思い。ナーセル主義の信奉者

1977年、ジャマーヒリーヤ(大衆による国;リビア・アラブ社会主義人民国)を設立、直接民主制で、選挙も議会も政党も反体制派もない民主主義を志向

フランス革命を崇拝し、モンテスキューやルソーなどユートピア社会主義のパイオニアの著作を耽読。フランスとは最期まで接近と離反を繰り返す

l  リーダーの子ども時代

生年月日と父親は不明。遊牧民キャンプで生まれ、社会的差別の中で教育を受け、イタリアによる占領への抵抗運動の伝説を教えられて成長、ラジオ「アラブの声」のナーセルに感銘

l  カダフィの革命

63年、陸軍入隊、王政打破の活動が始まり、69年無血革命で王制を倒すと「革命指導評議会」の議長となる。73年までに抵抗勢力を一掃。変幻自在な態度はアラブ諸国の元首たちを困惑させ、エジプトとの連合は当然だが、他の諸国との関係は一貫性を欠き、モスクワにも秋波を送る一方でソ連の国家的無神論を撥ねつけ、アメリカと石油メジャーに気を遣う一方でヤンキーの帝国主義を糾弾

l  指導者についてこい

74年、カダフィは政治理念を深めることに専念するため、革命指導者以外の肩書を手放す。生涯国家元首の肩書きを拒否したのは、神聖な使命を托されている特別な存在という自負?

「第三の普遍理論」と称する『緑の本』に書かれた語録は浅薄皮相な寓話だが、パリからカラカスに至るまで世界各地で読まれ、新たなグルとして称えられたことには驚き呆れるばかり

l  暗殺者たちのパトロン

70年代中頃、リビアは西側諸国から国際テロ博物館と見做される程、世界のテロ組織の駆け込み寺だったが、盲目的な暴力がリビアの利益を害する事態が起きると、テロを非難

l  途方にくれたカダフィ

チュニジア、エジプトでの「アラブの春」の余波で、2011年ベンガジで大規模なデモや暴動が起き、国中が騒然となり内戦状態に。仏英米による空襲もあって反政府勢力のリビア国民評議会がカダフィ政権を崩壊に追い込み、フランス戦闘機により爆撃され逃亡途中で反乱軍に捕獲され嬲り殺される。暴君から解放された新生リビアは血まみれの内戦状態に陥ったが、これこそカダフィの置き土産であり、カダフィが死後に果たした復讐

 

17. エーリヒ・ホーネッカー(191294)―ドイツ民主共和国の偉大なる舵とり

パトリック・モロー(歴史博士号・政治学国家博士号、ドイツの共産主義とポスト共産主義時代に関する多くの著作と記事を執筆

l  最後の証人

93年、ホーネッカーはチリに亡命し、転移癌のため1年後死去。チリ共産党に守られ、最後まで自分たちが築いてきたものは今後の闘争においても生き続けると自分の正しさを確信

l  「私は過去も、今も、これからも共産主義者である」(ホーネッカー、1992)

1945年、スターリンからドイツの再建を「主導」するよう委ねられたウルブリヒトを筆頭とする10人の共産党幹部は、直ちにドイツ共産党を復活

ナチに投獄され、脱獄したホーネッカーは、生まれた時からの共産主義者で、共産党復活直後にウルブリヒトに出会う

l  権力への邁進

50年にウルブリヒトが書記長になると、全ての政党は国民戦線の名のもとに統一され、国内の政治的抵抗運動は違法となり、ソ連に忠誠を誓う

ホーネッカーはウルブリヒトに目をかけられ、5557年モスクワに研修に行き人脈を広げる

71年にはブレジネフの後ろ盾を得てウルブリヒトを解任しようとするが失敗するも、ブレジネフの仲裁で復帰、軍事クーデターによりウルブリヒトを軟禁、76年には書記長となる

l  偉大なる舵取り

ホーネッカー時代は、慣例遵守の官僚主義と、極端な規制強化を最優先した統治スタイルが特徴。がちがちの保守派から出発、ベルリンの壁に繋がるが、その後は改革政策により社会主義の理想を前進させようと、工業の近代化より社会・福祉政策に重点をおいたため、ソ連や西側にまで借款が膨らむ

1971年、東西ドイツ間に「通過協定」が結ばれ、東西の行き来が自由になり、73年には国連にも加盟する一方、国内は国家保安省MfS(シュタージ)が拡大を続け、反体制派を監視

l  崩壊

劣悪な労働環境や生活環境に国民の不満が高まり、社会闘争が激化

ゴルバチョフの開放政策を激しく非難し、西側との協調を裏切りと見做す

89年、ワルシャワ条約機構諸国の主権を制限するブレジネフ・ドクトリンが放棄されたが、ホーネッカーは腎臓癌に冒され、辛うじて政権には復帰したが、平和革命が進行。ゴルバチョフの訪独で東独が破産状態にあることを確認し、クーデターを承認したため、政治局の会議でホーネッカーの解任を決議。夫人も教育大臣を辞任。東独の長い政治的没落が始まる

l  モスクワへの脱出

90年、ホーネッカー夫妻は権力乱用と汚職の罪で訴追され、ソ連の陸軍病院に逃げ込み、翌年にはモスクワへ移送されるが、90年にドイツ統一が実現すると、新たな国家の運営者となった人民議会が旧政権幹部を訴追すると、モスクワに対してもホーネッカー引き渡し要求を強める。ゴルバチョフが大統領を追われたため、後ろ盾を失ったホーネッカーはチリ大使館に逃げ込む。最終的にはドイツに引き渡されるが、死を直前にして釈放され、チリに行って死去

l  女性を愛した男

東ドイツ国内では、国家元首がアヴァンチュールを重ねているという噂で持ち切り、全国に散らばる隠し子たちに養育手当が支給されていた。最後のプラトニックな恋も収監中、最初の恋もナチの女性刑務所で9歳年上の未亡人でナチ党員だった看守とで、脱獄を助けてくれた

 

18. アウグスト・ピノチェト(19152006)―リベラルな暴君               

ミシェル・フォール(ジャーナリスト、レクスプレス誌南米特派員)

1973年、社会党出身のアジェンデ政権が共産主義体制確立を企むとして軍事クーデターが起こり、大統領は自殺。軍事政権を掌握したのが数日前に大統領から陸軍大将に任命され、最後の最後に参加したピノチェット。以後矛盾だらけの独裁を17年続けたが、以前には見られなかった安定と繁栄へと導いた功績をピノチェットに認め、母国の救世主と見做す国民も数多く存在する

1990年に民主主義が復活した後も、98年まで陸軍総司令官として政界に睨みをきかせ、その後終身上院議員となる。ロンドンに移住後、チリでのスペイン人弾圧の罪でスペインから出された国際逮捕によりロンドンで拘束されるが健康を理由に釈放、チリに帰国した際には凱旋将軍扱いされたが、次第に不正蓄財などが発覚して孤立し、2006年陸軍病院で死去

ピノチェットの独裁の特徴は3つ。①暴力による政治、②民主主義へのノスタルジー、③リベラリズムの誘惑

l  暴力

1970年、アジェンデが大統領選挙に勝利すると、ニクソンは転覆を期してCIAを派遣

1973年のクーデターは、チリの右派と軍人にとって共産主義体制の誕生を阻止する必要性に応えるもの。ピノチェットの軍事体制の出発点にみられた暴力は、戦略的な意図と国家救済の思想に基づくものだった。「個人11人をその生活のすべての面で恒常的に支配する」と定義される全体主義の目的とは異なり、権力にとって脅威とならない限り、チリ社会が経済面や宗教面や社会活動面で自由に機能することを妨げなかった

野蛮な拷問や人権と人命の軽視といった暴力性そのもの、民主主義の諸制度の撤廃、長く敷かれた戒厳令、国境を超えた弾圧の拡大故に、ピノチェット体制は独裁の名に値する

l  民主主義の模造

民主主義の諸制度を廃止しながらも、法によって自分を正当化しようとして新憲法制定を企図、85年には民政移行を展望までしたのは、独裁政治に躊躇いを持っていたことを意味する

l  「銃剣の先端で書かれた」憲法

80年制定の憲法、国家の究極の目的は公益との原則を打ち出し、チリは民主主義共和国と定める。国民投票は2/3の多数でこれを承認

l  リベラルな専制君主

軍事体制と、民主主義の支持者であるリベラルな若いエコノミスト・グループとの組み合わせ

自国の経済破綻を救うべく、経済改革に意欲を示すシカゴ・ボーイズが提唱した経済的リベラリズムがピノチェットの目に留まり、1975年提唱者の中心だったデ・カストロが経済大臣となって新自由主義経済を導入

l  反革命

経済的自由主義の実現は、政治面での自由化を前提としており、その意味では「反革命」だったが、ピノチェットにとってこのリベラルな実験は、自身の反共主義と、「権威的で、保護された民主主義」によって「チリを救う」という自分の考えと共生できるものだった

リベラルな経済改革は、石油危機や80年の金融危機にも拘らず、チリ経済の構造を根本的に変え、急速かつ持続的な経済成長をもたらすが、同時に自由が経済分野をはみ出し、市民社会に浸透し、若者を中心に、自分たちの権利を享受したいという強い願望を焚きつける

l  ジョ・ボイ・ア・デルーシ・ノー!(私はノーと言う)

約束されていた「移行」期に突入した1983年、民主主義への回帰の動きが始まる。政界再編が始まり、88年国民投票でピノチェットへの反対票が上回り、大統領再選の目がなくなる。結果を認めようとしないピノチェットを軍や憲兵隊のトップが説得。翌年反政府運動を指揮したキリスト教民主党の創始者エイルウィンが大統領に就任。ピノチェットはその後10年陸軍最高司令官に留まり民政を妨害

l  天上の主君

2000年、チリの最高裁はピノチェットの不逮捕特権を破棄。高齢を理由に自宅軟禁となり、最晩年の2年を「天上の主君」のことを考えながら鬱々として過ごす。司法も彼を裁くことはついに出来なかった

 

19. ポル・ポト(192598)―流血のカンボジア                    

ジャン=ルイ・マルゴラン(エコール・ノルマル・シュペリウール卒の高等教育教授資格取得者、東アジアの近現代研究者、東アジアの大規模な暴力の歴史を扱った著作・記事多数)

クメール・ルージュ(カンボジアのクメール語読み197593年の正式国名)政権下で全人口の1/51/4(150200)が虐殺。侵略者の仕業でもなく、特定の民族の絶滅計画に基づく行為でもなく、他に類を見ないもの

l  ただの凡人か、潜行する策士か

中国系にルーツを持つが、ほぼ完全にクメール人に同化。色白なのは貴族の印とされ、高貴な雰囲気を漂わせる。ゲリラから79年ベトナム軍との対決に敗れゲリラに戻る

控えめだったが、権力を握った途端、あらゆる場面で彼の人間的な感情の欠如が露呈、家族を含め誰彼見境なく虐殺、敵対者は家族ごと皆殺しにされた。豊かな農家の生まれだが、凡庸そのものに育ち、パリに留学した際仏共産党に入党して経験を積む

52年帰国後、ベトミンの地下組織に加わりインドシナ共産党入党。ベトナム共産党から長期の支援を受け続ける一方、自立のためその覇権主義とは一線を画し、党総書記が政権側に暗殺されるとその代行に収まる。秘密厳守を行動原理とし、表に出ないままに状況を支配した

恐怖政治を敷いて周囲を萎縮させたことが、1978年ベトナム軍の侵攻による深刻な戦況の過小評価に繋がり敗退するが、タイ・中国・アメリカの連携体制で軍隊を再編成し、西部国境地帯で態勢を立て直し一帯を支配するも徐々に衰退。97年部下から「裁判」に掛けられ失脚

l  24時間で作り上げる共産主義体制

サロト・サル(本名)には若い頃から「純粋無垢」への強い執着があり、「生粋のクメール人」「純粋人民労働者」「党の歴史は純粋で完璧であるべき」との言葉が並ぶ

早くから伝統的に反ベトナム色の強いカンボジア・ナショナリズムを旗印に掲げ、75年政権を取るとベトナムからの解放を意図した極端な政策を取る。世界の共産主義が衰退に向かう中、ハノイはおろかモスクワや北京を尻目に、純粋革命の信念を唱える。その実現のためには即日でもすべてをひっくり返して、世界中の共産党員が夢見てきたような鋼鉄のように純正で堅固な秩序を構築する必要があるとの信念で、都市の住民を強制移住させ、紙幣の流通も停止

l  大量虐殺の動機

共産主義体制下での唯一のジェノサイドの動機は、複雑な社会の改造のために、短期間に断交された過激で一方的な政策にあり、社会の抵抗がそれを倍加し際限がなくなった

ポル・ポトの憑りつかれていた純粋性の追求がもう1つの原動力。民族主義を徹底し、外国人は全員国外追放。物々交換の自給自足体制、無政府状態の共同社会を築き鎖国化を進める

政権獲得後もクメール・ルージュは小さなセクトに過ぎず、徴兵を通じて軍隊を増員しても文盲の兵士の教育は難しく、暴力と恐怖によってしか他者を納得・尊敬させられなかった

l  20年たっても、悔悟は一切なし

1979年、権力の座から引きずり降ろされたポル・ポトは、終生大惨事の総括を行っていない

81年には幹部向けのセミナーで「悔恨」を口にし涙したが、責任をベトナム側に教育された幹部たちに押しつける。同年自ら共産党の解党を宣言し、亡命中のシハヌーク殿下や反共産主義の民族主義者らとの「連合政府」を82年に発足させ、その国際社会の認知を高めようとしたのも自らの復権を模索した結果だった。96年幹部の大量離脱が起き、98年プノンペン政府の裁判にかけられる前夜、軟禁状態のまま死亡。自死と思われる

 

20. ホメイニー(190289)―神に仕えて                  

クリスティアン・デストゥルモ(2次大戦専門の歴史研究者、イギリス文化に詳しい)

ホメイニーは圧力には無関心な、全く新しいタイプの独裁者。手懐けることができない人物

1979年、15年の亡命生活を終えてフランスから帰国したホメイニーが熱狂的に迎えられたの見て、西側諸国は仰天

l  ホメイン(イラン中部の町)からテヘランへ

偉大な指導者は生まれた町の名を名乗るという慣習に従い、後年ホメイニーとなる

シーア派の厳密な聖職者の組織のなかで成長、若くして頭角を現す。30年代にパフラヴィ―朝の初代皇帝レザー・シャーがイラン社会の世俗化を強引に進めたこと、特に服装の強制に反発してシーア派の伝統を実践し、慎重ながら非合法に近い生き方を選ぶ

41年、連合国はソ連への供給路開拓のためイランを侵略、ドイツよりのレザー・シャーを失脚させ、息子ムハンマドを後継者にした。ムハンマドは聖職者に多くの約束を与え、53年近代的民族主義者モサッデクにより帝位を追われた際、CIAの支援で権力に復帰したとき密かに後押ししたのが聖職の指導者(アーヤトッラー)たちだが、聖職者たちはなにものも恐れない「侵略者」アメリカの態度に衝撃を受けトラウマになる。その後数年間は穏やかでホメイニーも変わらなかったが、聖職者の消極的態度に失望し、独裁色を強めていく権力との妥協を非難し、宗教家は国を導くことこそ社会で演じる役割だという確信を持つ

l  「政治」の世界へ

先ずはシーア派内の堕落に対する闘いに挑み、「政治的」指導者に変貌、支持者を広げていく

63年、投獄されるも指導者のとりなしで釈放、情報機関サヴァクの厳しい管理下に置かれながら、トルコに脱出、体制の圧政と不信仰を告発し続ける

経済危機による国民の不満は爆発寸前で、デモが頻発、反政府勢力がホメイニーを中心に結束すると、ホメイニーはフランスに移って国際社会や知識人の共感を得ることに成功

l  凱旋

シャーの失脚によって、革命は支配権獲得の争いに引き裂かれる

ホメイニーの思想の中核は、人に選ばれるのではなく、神から正当性を与えられた最高指導者がいて、その者は学識豊かな宗教人で、誰からも尊敬される神学者であるべきだというもので、「法学者による統治」であり、世俗的体制ではなく神権体制の樹立を考えた

ホメイニーは、憲法制定前にイスラム共和党とその戦闘部門ヒズボラ(レバノンとは異なる)を手に入れ、その殺し屋たちが反対者を抹消していく

79年の国民投票により97%がイスラム(民主主義)共和国に賛成を投じたが、ホメイニーはイスラム共和国の定義については明言をしなかった。9カ月かけて自分の考えが浸透するのを待って、終身最高指導者を名乗り、その考えに従った憲法を制定

l  偏執病

79年末、シャーのアメリカ入国に抗議したアメリカ大使館の占拠と人質事件が起きると、ホメイニーは大衆と世論を観察した上で、アメリカ非難にまわり、通常の文明国間でのルールに対する敬意の欠如を曝け出して国際世論の反感を買う

80年にはイラクのサッダーム・フセインがイラン南部に侵略、イスラム共和国崩壊の危機に晒されながら、革命防衛隊の奮起で、ホメイニーが国全体でその影響力を強化し、反革命運動を鎮圧するチャンスとなった。イラクとの戦争は何年も続き、西側諸国とイスラエルが国連決議に動き、両国軍は撤退、イランは危機から辛うじて脱出

89年、ブッシュの大統領就任でアメリカとの関係は協調方向に転じ、側近の穏健派のラフサンジャーニーが西側諸国とより協調的な開かれた政治を目指そうと公言すると、ホメイニーはサルマン・ラシュディーの小説『悪魔の詩』に対しファトワー(イスラム教指導者による勧告・裁断)を発し、著者のみならず作品の発売に協力した人々すべてに有罪判決を下す。西洋の人々はこの時絶対権力の専制を象徴するこの言葉を初めて知った。西欧の外交官はイランから去り、日本人翻訳者も処刑。ファトワーは、多くの人々にとって彼の独裁の容赦ない象徴として永遠に記憶に留まる

89年、癌で死去。ホメイニーが進めた神の法による独裁は、余りにも彼の人間性と類稀なカリスマ性に結び付いていたため、彼の死によってイランの不確実性の時代が始まる

 

21. サッダーム・フセイン(19372006)―バグダードのごろつき    

ジェレミー・アンドレ(歴史の高等教育教授資格取得、ラ・クロワ紙の特派員として中東に)

l  フランスの友として

1972年、アル=バクル大統領の副大統領フセインは、西欧企業連合の所有下にあったイラクの石油会社を国有化して、突然国際舞台に登場。最初に英米との共同歩調を拒否していたフランスに接近、シラク首相との間に個別協定締結を皮切りに戦闘機購入や原子炉整備など次々と契約を結ぶ

75年にはイランとのアルジェ協定調印により両国間の戦争を回避して名を揚げ、さらに啓蒙君主ぶりも発揮、ユネスコの世界非識字者一掃キャンペーン支持によりクロペスカ賞を受賞

l  貴種に非ず

フセインの実像は明らかではない。惨めな階層の中で育ち、教育もろくに受けず、軍人でもなかった。1947年ダマスカスで設立された社会主義と汎アラブ主義の両立を図る世俗主義政党のバアス党のイラク支部に参加、主要メンバーのアル=バクルの庇護を受ける

1958年の革命でイラク王室は全員虐殺され、不安定な激動のサイクルに入る

l  暗殺

サッダームは、58年の革命を主導したカーシム将軍の暗殺に参加するが未遂に終わり、エジプトに亡命するが、共産主義への対抗勢力を支持したCIAと結びつきを持ち、63年アル=バクル主導のクーデターでカーシム首相が殺害されると、バグダードに大歓声で迎えられた

それ以後、サッダームは冷酷な共産主義者狩りを開始するが、アーリフ大統領はバアス党を敵対勢力と見做し非合法化したため、サッダームは大統領暗殺を企図するが発覚して逮捕・脱走

l  若き狼

1969年、バアス党はクーデターにより政権を握り、サッダームは副大統領となり、テロ組織を体系的に構築。パレスチナ過激派テロリスト集団を支えるごろつき国家として国際社会に登場し始める。79年にはアル=バクル大統領を「健康上の理由」から辞職に追い込み取って代わり、党指導者の特別集会を開き、55人の陰謀家をシリア・アサド政権の工作員と告発し粛清

l  侵略者

80年、サッダームはイランの政情不安に付け込んだ国境合意の見直しを強請すると同時に、イラク人口の多数派を占めるシーア派の扇動を恐れ先手を打とうとしたが、予想外の強力な抵抗に遭い、イスラエルからも爆撃を食らって原子力施設が粉砕される

イラク国内には恐怖政治とプロパガンダが一層強まり、経済は崩壊

88年、連戦連敗を重ねた挙げ句に、ようやく停戦を受け入れ

l  嫌われ者

1990年、イランとの戦争でほかのアラブ諸国が支援してくれなかったことを恨み、クウェートが過剰生産をして相場を引き下げているとケチをつけ、突然クウェートに侵攻

ブッシュは国連安保理事会指揮下の多国籍軍を招集し、イラクを集中攻撃

l  スケープゴート

2001年のテロの直後から、サッダームはブッシュが宣言する「対テロ戦争」の主要標的の1人と目された。03年に米軍がバグダード入りを果たしたが、サッダームは支持者をゲリラ戦へと煽り立てていた。最終的に隠れ家で逮捕され、05年から裁判に掛けられ、「人道に対する罪」で絞首刑となり06年末執行

 

22. アサド(ハーフィズ:19302000、バッシャード:1965)―父から子へ              

ベルナール・パジョレ(パリ政治学院と仏国立行政学院で学び外交官へ、94年以降各国大使、サルコジ時代の国家情報会議コーディネーター、元対外治安総局長官)

内戦は集結しつつあるが、廃墟と化した。人口の1/3は国外、1/3が国内で難民となっている

この災禍を引き起こした張本人がバッシャール・アル=アサドで、急ごしらえの後継者だった

l  徐々に台頭したアラウィー派

アラウィー派の創始者は、ユーフラテス川東岸の部族出身のブン・ヌサイル(884年死去)で、ヌサイリー派とも呼ばれてきたが、1920年代フランスの委任統治下で預言者ムハンマドの娘婿アリーから取って「アラウィー」を名乗るようになり、表面的にはシーア派、ひいてはイスラム教との繋がりが強調される。信仰は神秘主義的で、極端な習合宗教。教義の中心にはアリーと預言者ムハンマドに解放奴隷の三位一体があり、コーランは聖典の1つに過ぎない

モスクは持たず礼拝は個人の家で行い、メッカへの巡礼も行わず、クリスマスも祝う

過去には、不道徳・不敬虔として虐殺の対象にもなり、シーア派も異端とした

フランスによるシリアとレバノンの委任統治時代(192046)にアラウィー派は隷属状態から脱する。シリアは昔通商によって興った国で、シリア文明の後継者であるスンニ派にとっては商業が高貴な活動で、軍隊や行政は軽蔑の対象だったため、それをアラウィー派に委ねたところから、アラウィー派にとってはこれが立身出世の道となった

1946年、フランスが撤退すると、スンニ派主体の独立政府ができ、アラウィー派は翌年発足のバアス党と中枢を握っていた軍部への影響力を強めて反政府の抵抗を続ける

l  権力の座へ

エジプトのナーセルらが体現するアラブ・ナショナリズムの強力な潮流に後押しされ、バアス党はシリアに浸透。63年には反政府各派のクーデターにより政権を打倒、66年にはアラウィー派が反政府内での争いを制して政権の座につき、大々的な粛清を行い、旧来の穏健派を一掃。穏健派の中心だったバアス党の共同設立者たちも国外に亡命。アサドの父ハーフィズはバアス党の秘密軍事委員会で影響力を強め、空軍参謀長となり、軍隊のかなりの部分を掌握

70年、ヨルダンのフセイン国王が国内のパレスチナ勢力の排除を開始した際、パレスチナ勢力を支援しようとした政権に対しハーフィズは反旗を翻したクーデターを起こし、大統領らを逮捕、71年の大統領選では99.2%の得票で新大統領に「選出」される

l  ハーフィズ・アル=アサド――ライオン(「アサド」はライオンの意)にしてキツネ

ハーフィズはアラウィー教徒の貧農の生まれ。ソ連で戦闘機パイロットの訓練を積むが、軍歴はなく、その後はバアス党の政治家として活動。頂点に上り詰めたのは陰謀や潜入切り崩し工作によるもの。神経症といえるほどの猜疑心から、ライヴァル関係となる情報機関をいくつももって影響力を強化、国民を監視し恐怖に陥れる

1973年の第4次中東戦争(イスラエルでは「ヨム・キップール戦争」)での敗戦以降は、イスラエルに宥和的態度をとり、核兵器の代わりに化学兵器によって抑止力を行使するようになる

アサドは強力な軍隊を望まず、兵力は訓練も装備も不十分で、政権を守ることに特化

アサド政権は、東洋的な専制政治に近く、国民の意思の表明を禁止する一方、権力の安定を脅かさない限り中産階級の繁栄は容認

内閣は持たず、情報提供者だけを求めた。周辺を巻き込んだ「大シリア」を構想したが、現実主義に徹する。76年、左翼勢力とパレスチナゲリラの脅威に晒されたレバノン戦線(キリスト教徒民兵組織)支援を口実にレバノンに侵攻したが、2005年には米仏の圧力に屈して撤退

軍事的・外交的なバランス・オブ・パワーを敏感に嗅ぎ取り、イスラエルとの戦いより自らの政権の生き残りを常に優先。71年権力掌握後はすぐに軍事面で最大の後ろ盾となるソ連を訪問して不信感の払拭に努め、同時にアメリカの承認も得る。レバノンを廻フランスとの間にはしこりがあったが、6年以降は友好関係維持に転換。富や権力の誇示を嫌い質素に暮らす

ハーフィズは基本的に二重人格、礼儀正しいが冷酷で執念深く、頭脳明晰だが自分が広めたプロパガンダに流され、自らの美化したイメージにとらわれ津々浦々に銅像を建てさせた

2000年心臓発作で死去。後継者には長男のバースィルを考えていたが、94年車の運転中に謎の死を遂げ、次男のバッシャールに巡って来た

l  バッシャール・アル=アサド、巡りあわせと必然

医者を目指してロンドン留学中のバッシャールは、兄の死で帰国、士官学校に送られ、99年にはヨーロッパ政界にデビュー。父の死後副大統領が臨時大統領となり、バッシャールは軍の最高司令官となり、憲法を改正して大統領の最低年齢を34に引き下げ、バッシャールはシリア流の国民投票で勝利し大統領に選出

生まれながらのカリスマ性や威厳に欠け、美辞麗句を弄し、捉えどころがなく、歪んだ性格で、周囲は自由に操れると思ったが、意志の強さと頑固さに意外な執念深さを秘め、権力掌握と同時に古参幹部を大量に解任、しがらみを断ち切った上で経済の自由化を始め、政治囚を解放するなど「ダマスカスの春」を演出。スンニ派内を中心とした中産階級の台頭を促すことでバアス党の支持基盤を拡大しようとしたが、復讐心に燃えるスンニ派が政権への批判を強めたためバッシャールは方針を転換、「ダマスカスの春」は短命に終わる

フランスとはレバノンの反政府活動支援を巡って緊張が高まり、アメリカとはイラクのスンニ派支援を非難され関係悪化。さらに国内の暴力的な弾圧の情報がNGOを通して広く喧伝され、組織的な虐殺が明らかとなる。2013年には東南地域への空爆にサリンガス使用の爆弾を投下、国連の決議も無視したため、17年には英米仏が空爆に踏み切る

ロシアの支援を得て国内の弾圧を用化する一方、欧米の目をそらせるために服役中のイスラム過激派を大量釈放し、アルカイダ、後の「イスラム国」といったテロ集団の形成を誘引

反乱の初期からイランはアサド政権を支持し、レバノンの過激派組織ヒズボラを投入し、さらにシリア領内にイスラム革命防衛隊を配備。イラン国教のシーア派はアラウィー派を異端として忌み嫌っており、シリアへの関与は地政学的配慮に基づくもの。バッシャールもイランの風下に置かれるのを分かった上でイランとの同盟を優先

ロシアはシリア内戦に、外交面と軍事面の両面から介入。欧米のリビア介入への報復でもあり、地中海沿岸での足掛かりを確保する意味から、ロシア軍はシリア国内各地に駐留を続ける

ロシアとイランの支援の下、反体制勢力の主な拠点は次々と陥落

トルコは、ロシアの支援を受けていたクルドの影響力拡大を阻止するため、17年シリア北部を占拠。ロシアもトルコとの接近に共通利益を見出しクルドを見放す

イスラエルは、スンニ派よりはましだとしてアサド政権を支持したが、ヒズボラ支援は論外として13年以降数回爆撃を実行してシリアを牽制

バッシャールは、父や兄と違って隠し事や嘘が多く、歴代のフランス大統領が信頼を裏切られている。民主的な国々は、人道に対する罪での戦争犯罪人と付き合うのは難しい

 

【詳報】シリアのアサド政権崩壊 12815日にあったこと (2024.12.16. 朝日新聞)

 シリアのアサド政権を打倒した反体制派による新政権発足に向けた動きが進んでいます。12日は暫定政権が、旧政権下で制定された憲法と議会を当面停止すると明らかにしました。「法の支配」を確立すると述べるなど、民主的な国家建設の方針を強調しています。今後、一枚岩ではない反体制派をまとめ、安定的な組織運営を行えるか、国際社会の支援をどれだけ得られるかが焦点

シリアのアサド政権倒した過激派組織の正体 「穏健」イメージを発信

■■■1215(日本時間)の動き■■■

22:54(ダマスカス16:54

国連シリア担当特使、反体制派への制裁「解除を期待する」

 ペデルセン国連シリア担当特使は15日、訪問先のシリアで記者団に対し、シリアの反体制派を主導する過激派組織「シャーム解放機構」(HTS)がテロ組織に指定されているため、制裁対象であることに触れ、「制裁が早く解除され、シリアが復興に向けて動きだすことを期待している」と述べた。

 また、HTSの発表によると、ペデルセン氏とHTSの指導者ジャウラニ氏の15日の会談では、テロ組織認定を決めた2015年の国連安全保障理事会決議を見直す必要性についても議論したという。

20:18(エルサレム13:18

イスラエル政府、占領地ゴラン高原の人口倍増計画を承認

 イスラエル政府は15日、占領するシリア領ゴラン高原の人口を倍増させる計画を承認した、と発表した。イスラエルメディアが伝えた。

 ネタニヤフ首相は声明で、今回の承認について、「ゴラン高原の強化はイスラエルの強化につながる」と説明した。

 報道によると、ゴラン高原は現在人口約5万人で、ユダヤ人とイスラム教ドルーズ派の住民がおよそ半数ずつ住んでいる。約4千万シェケル(約17億円)を投じて入植を増やす予定。

03:00(ヨルダン1421:00

米トルコなど外相会合「包摂的な政府の樹立」求める

 アサド政権が崩壊したシリア情勢をめぐり、ヨルダンで14日、米国やトルコ、カタールなどが参加する外相会合が開かれた。米国務省が同日発表した参加国による共同声明では、新政権発足を進める反体制派に対し、少数派も加わった「包摂的な政府の樹立」などを求めている。

 声明では他に、化学兵器の安全な廃棄、人道援助のための自由なアクセスなどを求めた。また「シリアの統一や領土保全、主権を全面的に支持することを確認した」との文言も入った。ロイター通信は、ゴラン高原とシリアとの間の緩衝地帯に部隊を展開するイスラエルに対する牽制(けんせい)だと報じている。

02:26(ベイルート1419:26

ヒズボラ、シリア経由の補給路失う 指導者が明らかに

 レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラ最高指導者のカセム師は14日、アサド政権が崩壊してシリアを経由する武器などの補給路を失ったと明らかにした。ロイター通信が同日報じた。

 カセム師がシリア情勢に言及するのは政権崩壊後初めてという。報道によると、イランの支援を受けるヒズボラは、イランからイラク、シリアを経て武器などをレバノンに持ち込んでいた。シリアの補給路が機能しなくなったことで、敵対するイスラエルへの抑止力が弱まることになりそうだ。

 カセム師は、シリアで政権移行を進める反体制派について「新たな勢力が安定するまで、(ヒズボラは)明確な立場を取ることはできない」と評価を避けつつ、レバノンとシリアの協力継続を期待した。

00:13(ダマスカス1417:13

シリア反体制派指導者、イスラエルとの紛争望まず 国家再建を優先

 シリアの反体制派を主導する過激派組織「シャーム解放機構」(HTS)指導者のジャウラニ氏は、イスラエルとの新たな紛争は望まない考えを示した。現時点では国の再建と安定化が優先事項だとしている。シリアのテレビ局が14日報じた。

 アサド政権が崩壊した8日、イスラエル軍はシリアとの間の緩衝地帯に部隊を展開すると発表。その後、一部がシリア領内に侵入した。領内への大規模空爆も続けている。

 ジャウラニ氏は、「イスラエルの最近の暴挙は正当化できない。地域情勢を悪化させる脅威をもたらしている」と非難したが、一方でシリアは長年の内戦で疲弊していると指摘。イスラエルとの戦闘は避ける意向で、「外交的解決こそが安全と安定を確保する唯一の方法だ」と強調した。

■■■1214(日本時間)の動き■■■

01:10(ワシントン1311:10

ブリンケン米国務長官が予告なしにイラク訪問

 中東歴訪中のブリンケン米国務長官は13日、予告なしにイラクを訪問した。スダニ首相と会談し、シリアの政権移行をめぐって協議した。

 ブリンケン氏はバグダッドで記者団に、シリアで「宗派に属さない政府」の樹立が必要だと訴えた。また「シリアがテロの基盤にならないようにしなければならない」と強調。イラクがこれまで過激派組織「イスラム国」(IS)掃討作戦を米軍などと進めてきたとして、「イラクほどその重要性を理解している国はない」と語った。

 ブリンケン氏はこれまでヨルダンとトルコを訪問した。14日には再びヨルダンを訪れ、中東各国の外相とのシリア情勢をめぐる会合に出席する。

■■■1213(日本時間)の動き■■■

22:30(ダマスカス16:30

ロシアがシリアへの小麦輸出を停止か

 ロイター通信は13日、ロシアがシリアに対する小麦輸出を停止したと報じた。両国の関係筋から得た情報だとし、シリアの暫定政権の支払い遅延への懸念が理由だとしている。ただ、暫定政権に対し、穀物輸出国のウクライナが支援の手をさしのべる動きもあるという。

 世界最大の小麦輸出国であるロシアは崩壊前の旧アサド政権を支援し、小麦も輸出していた。ロイターによると、政権崩壊後、ロシア産の小麦を積んだ船2隻が目的地のシリアに到着していないことが輸送関連のデータ分析で確認できたという。

 一方、ウクライナの農相はロイターの取材に対し、シリアに食糧を供給する用意があることを明らかにしたという。ロシアの侵攻を受けるウクライナは、アサド政権を打倒した反体制派にドローン(無人機)などを提供していたと米メディアに報じられている。

19:19(テルアビブ12:19

イスラエル国防相、軍に緩衝地帯での越冬準備を命令

 イスラエルのカッツ国防相は13日、同国とシリアとの間に設けられた緩衝地帯に展開させている部隊について、冬の間も現地にとどまる準備を軍に命じた。現地にはシリアを見下ろせる標高2814メートルのヘルモン山があり、山上から同国を監視する可能性もある。AFP通信などが伝えた。

 AFPによると、カッツ氏の報道官は声明で「(国内が不安定な)シリアの状況を考えると、ヘルモン山の頂上に展開し続けることは安全保障上、非常に重要だ」と主張。部隊が山上にとどまる準備を整えるため、「あらゆることを行わなければならない」と述べた。

 英BBCによると、イスラエルは旧アサド政権が持っていた化学兵器などが過激派組織の手に渡ることを懸念しており、シリアを見下ろせるヘルモン山に部隊をとどまらせることは戦略的に重要だという。

06:20(ワシントン1216:20

ブリンケン米国務長官、トルコのエルドアン大統領と会談

 ブリンケン米国務長官は12日、トルコを訪問し、エルドアン大統領とシリア情勢をめぐって協議した。米国務省によると、米とトルコの協力やシリア主導の政権委譲への支持が議題となった。ブリンケン氏は「シリアのすべての関係者が人権を尊重し、国際人道法を守り、市民保護のあらゆる措置を取る必要がある」との考えを強調した。

 これに先立ちブリンケン氏はヨルダンも訪問した。ブリンケン氏は記者団に「シリア内外のいかなる勢力も、シリア国民の利益よりも私利私欲を優先させることがないように重点的に取り組む」と述べた。過激派組織「イスラム国」(IS)が再結集を図るだろうとも指摘し、IS掃討に向けてクルド人主体の反体制武装組織「シリア民主軍(SDF)」と協力を続ける姿勢も示した。

01:12(ダマスカス1219:12

トルコの情報機関トップがシリアに到着

 ロイター通信は12日、トルコのカルン国家情報機構長官がシリアの首都ダマスカスに到着したと報じた。シリア暫定政権の情報省も、カルン氏の来訪を発表。暫定政権を主導する過激派組織「シャーム解放機構」(HTS)のジャウラニ指導者やバシル暫定首相と会談するとしている。

 ロイターによると、カルン氏の来訪はアサド政権の崩壊後、外国高官による初めてのシリア訪問とみられる。トルコはアサド政権を打倒した反体制派に影響力を持つとされ、新たに発足した暫定政権への関わり方が注目されている。

■■■1212(日本時間)の動き■■■

20:41(ローマ12:41

G7共同声明「シリアを主体とする政治移行を全面的に支持」

 反体制派への政権移譲が合意されたシリア情勢をめぐって、主要7カ国(G7)は12日に発表した共同声明で、「すべての当事者にシリアの領土の保全と国家の一体性を維持し、シリアの独立と主権を尊重するよう求める」と述べた。

 G7の声明は、崩壊したアサド政権に対する責任追及の重要性を強調。シリア国内に残っているとみられる化学兵器の把握と廃棄に向けて関係機関と協力していく姿勢を示した。

 政権移譲に向けては「あらゆる形態のテロリズムと過激主義による暴力を非難する」と指摘。「すべてのシリア人の権利を尊重する姿勢を示して国の復興と再建に取り組むことを期待する」とした。

05:09(ダマスカス1123:09

反体制派指導者「前政権の刑務所閉鎖する」

 反体制派を主導する過激派組織「シャーム解放機構」(HTS)の指導者のジャウラニ氏は11日、ロイター通信の書面取材に対し「(アサド)前政権の治安部隊を解散し、悪名高い刑務所を閉鎖する」と述べた。アサド政権下では、刑務所が市民への拷問や処刑の現場になっていたと指摘されている。

 また、ジャウラニ氏は、国際機関と協力して化学兵器倉庫の可能性について調査している、とも説明した。HTSは、いかなる状況でも化学兵器は用いないと主張しているという。

02:30(ニューヨーク1112:30

国連、テロ組織指定のHTSと話し合いの可能性示唆

 国連のデュジャリック報道官は11日の記者会見で、アサド政権を打倒したシリアの反体制派を主導する過激派組織「シャーム解放機構」(HTS)から連絡を受けた場合、話し合いに応じる可能性を示唆した。国連はHTSを「テロ組織」として指定している。

 同氏は質問に正面からは答えなかったものの、「(グテーレス)事務総長と彼の下にいるチームは、できる限りのことをしてシリア内外の主要な対話者と関わっていく」と述べた。

 懸念について聞かれると「我々は目の前の状況に対応しなければならない。シリアの人々を支援するためにできることは何でもするつもりだ」と語った。

■■■1211日(日本時間)の動き■■■

22:40(ワシントン1008:40

米国務長官がヨルダン・トルコ訪問へ

 米国務省は11日、ブリンケン国務長官が1113日の日程でヨルダンとトルコを訪問すると発表した。ブリンケン氏はシリア情勢をめぐり「シリア主導による、責任ある政府への政権委譲」への支持を改めて示す。シリアの近隣国を支援する姿勢を示し、シリア難民を保護する必要性も強調する。

 シリアでは、反体制派への政権委譲が合意された。米国は反体制派を主導する過激派組織「シャーム解放機構」(HTS、旧ヌスラ戦線)などとの関わり方を模索しており、反体制派に影響力を持つトルコとの間でも議題となる見通しだ。

 ブリンケン氏は訪問で、パレスチナ自治区ガザにおける人質解放や、イスラエルとレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラの停戦合意の継続をめぐっても協議するという。

04:03(エルサレム1021:03

「イラン支援なら重い代償」イスラエル首相

 イスラエルのネタニヤフ首相は10日、X(旧ツイッター)に演説動画を投稿し、シリアの新政権がイランを支援すれば「重い代償を払わせる」と牽制(けんせい)した。新政権が旧アサド政権のように、イランと連携してイスラエルと敵対するのを防ぐ狙いとみられる。

 ネタニヤフ氏は演説で、新政権がイランに対し、シリア経由でレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラに武器を運び込むのを容認すれば、「旧政権に起きたのと同じことが起きる」と述べた。旧政権時代のシリアはイランにとって、ヒズボラに武器を供給するための輸送路として機能していた。

 ネタニヤフ氏はまた、シリアの軍事施設などに続けている攻撃について触れ、「シリアの内政に干渉するつもりはないが、我々の安全にとって必要なことは行う」と主張した。「シリア軍が残した戦略的軍事能力を(イスラエル)空軍が爆撃することを許可した。それらがジハード(聖戦)主義者の手に落ちないようにするためだ」と強調した。

03:20(テルアビブ1020:20

イスラエル軍、ダマスカスなどに350回以上の空爆

 イスラエル軍は10日、過去48時間の間にシリア各地の軍事目標に350回以上の空爆を行い、備蓄されている兵器の大半を攻撃したと発表した。「それら(兵器)がテロリストの手に落ちるのを防ぐため」と主張している。空爆した地点には首都ダマスカスも含まれるという。

 発表によると、イスラエル軍がダマスカスのほかに空爆したのは中部にある第3の都市ホムス、地中海沿岸のタルトス、ラタキア、中部パルミラと広範囲にわたる。対空兵器や飛行場、兵器製造拠点を狙い、ミサイルや戦闘機、ヘリコプター、戦車など「多数の兵器を無力化した」としている。

 旧アサド政権時代のシリアは、イスラエルと敵対するイランとの緊密な関係を保ってきた。政権崩壊後にイスラエルがシリアへの攻撃を活発化させているのは、シリアが再びイスラエルに敵対的な態度を取った場合に備え、あらかじめ軍事力を弱体化させる狙いもあるとみられる。

緩衝地帯に部隊展開、大規模空爆 シリア攻勢のイスラエル軍の狙いは

02:00(ニューヨーク1012:00

イスラエル軍の緩衝地帯展開を国連が批判

 ゴラン高原とシリアとの間の緩衝地帯にイスラエルが部隊を展開すると発表したことについて、国連のデュジャリック報道官は10日の会見で、緩衝地帯に部隊を置かないとした取り決めに「明確に違反する」と改めて批判した。9日にも同じ認識を示していた。

 第4次中東戦争後の1974年、シリアとイスラエルは「兵力引き離し協定」に合意し、緩衝地帯が設定された。国連兵力引き離し監視軍(UNDOF)が停戦状況を監視している。

00:40(ワシントン1010:40

ブリンケン米国務長官「少数派の権利尊重を」

 ブリンケン米国務長官は10日の声明で、シリアの政権移行や新政権をめぐり、「少数派の権利を尊重し、人道支援の流れを促進し、シリアがテロの拠点として利用されたり、近隣国の脅威となったりすることを防ぐ」ことを求めた。化学兵器や生物兵器の安全な破棄も要求した。

 ブリンケン氏は「シリアの将来を決めるのはシリアの人々だ」として、各国が「透明性のあるプロセス」を支持し、干渉を控えるべきだとの考えも示した。

 米国は、シリアの反体制派を主導する「シャーム解放機構」(HTS)をテロ組織に認定してきた。NBCニュースは10日、米国がHTSのテロ組織の指定の解除を検討していると報じた。カービー米広報補佐官(国家安全保障担当)は同日、記者団に「現時点でHTSについての政策変更は議論されていないが、彼らがすることを注視している」と語った。

■■■1210日(日本時間)の動き■■■

21:00(ダマスカス15:00

シリアでバジル氏が暫定首相に就任

 アサド政権が崩壊したシリアで、反体制派を主導する過激派組織「シャーム解放機構」(HTS)系の指導者、ムハンマド・バシル氏が暫定首相に任命された。ロイター通信が報じた。

21:00(ダマスカス15:00

反体制派、戦闘員に都市から撤退命じる

 シリアのアサド政権を崩壊させた同国の反体制派の司令部は、戦闘員に都市からの撤退を命じた。反体制派の中核である過激派組織「シャーム解放機構」(HTS)傘下の警察部隊と国内治安部隊を展開するという。ロイター通信が関係者の話として伝えた。

 旧アサド政権のジャラリ首相が9日にHTS指導者のジャウラニ氏と会談し、反体制派側に政権を移譲することで合意していた。

18:15(モスクワ12:15

「アサド氏は自ら大統領辞任を決めた」 ロシア報道官、ロシアの関与は答えず

 ロシアのペスコフ大統領報道官は10日、シリア大統領を辞任したアサド氏のロシアへの亡命をめぐり、ロシアが果たした役割を問われ、「国家元首の地位を離れることは、アサド氏が自ら決めた」と述べた。インタファクス通信が伝えた。

 ロシアがどのように関わったのかについては答えなかった。

03:30(ワシントン913:30

サリバン米大統領補佐官、イスラエルへ

 米国家安全保障会議(NSC)は9日、サリバン大統領補佐官(国家安全保障担当)が今週イスラエルを訪問し、シリア情勢などをめぐってイスラエル側と協議すると明らかにした。朝日新聞の取材に答えた。パレスチナ自治区ガザでの停戦と人質解放に向けた交渉や、レバノンやイランについても議題になるという。バイデン氏は8日の演説で、シリアのアサド政権の崩壊を受け、米高官を中東地域に派遣する考えを示していた。

 またバイデン氏は9日、ヨルダンのアブドラ国王と電話で協議した。ホワイトハウスによると、バイデン氏は「国連の支援のもと、シリア主導の政権移行プロセスを全面的に支持する」との考えを示した。

02:54(ダマスカス920:54)

米トルコ、北部要衝からクルド勢力撤退で合意

 ロイター通信によると、米国の支援を受けるクルド人主体の反体制武装組織「シリア民主軍(SDF)」がシリア北部マンビジュから安全に撤退することで、米国とトルコが合意した。シリア反体制派筋が9日に語った話として報じた。マンビジュはトルコ国境に近い地域の要衝で、ロイターによると、トルコが支援するシリアの反体制派がSDFとの戦闘を経て9日に制圧したことを、トルコの治安関係筋が明らかにしていた。

02:15(パリ918:15

仏難民保護当局、シリア難民の認定審査を一時停止する可能性

 シリアのアサド政権崩壊を受けて、フランスの難民保護当局は9日、フランスに逃れてきたシリア人からの難民申請の審査を一時的に停止する可能性があると表明した。仏メディアによると、欧州ではドイツや英国、北欧諸国などが相次いでシリア人の難民申請の審査停止を決めている。

 仏当局は声明で、「シリア情勢を注視している」とした上で、申請理由の内容によってはシリア人の難民の審査を停止する可能性があると説明した。フランスでは昨年のシリア人の難民申請が4465件あり、今年は約2500件を受け付けた。このうち未成年者を含む約700件が審査中だという。

 仏公共放送によると、2015年の難民危機を受けて欧州で最大のシリア人コミュニティーを抱えるとされるドイツを始め、英国やスウェーデン、ノルウェーなどはすでに審査の凍結を決定。いずれも今後の情勢を見極める姿勢で、審査の再開時期は未定としている。オーストリアは国内のシリア難民の帰還計画の準備を始めたという。

01:41(ダマスカス919:41)

シリア反体制派指導者、前政権首相と会談

 シリアの反体制派は9日、中核の過激派組織「シャーム解放機構」(HTS)の指導者のジャウラニ氏と、旧アサド政権のジャラリ首相が会談し、政権移行について協議したと発表した。旧政権の打倒から一夜明け、新政権の発足に向けて本格的に動き出した形だ。

 反体制派は9日、SNSへの投稿で、「シリア国民への(行政)サービス提供を保証した形での政権移行について調整した」と述べ、ジャウラニ氏とジャラリ氏が向かい合って協議する姿を収めた動画を公開した。その上で、「新政府は、発足次第その活動を開始する」と主張し、政権移行を急ぐ考えを示した。

 HTSは国連や米国などからテロ組織に指定されており、過去には拷問や処刑などの非人道的行為も報告されている。反体制派としては、旧アサド政権幹部と協力して平和裏に政権移行を進める姿を示すことで、国民や国際社会の懸念を払拭(ふっしょく)したい狙いがありそうだ。

■■■129日(日本時間)の動き■■■

21:04(ベイルート14:09

NATO事務総長「ロシアとイランは信頼できないパートナー」

 北大西洋条約機構(NATO)のルッテ事務総長は9日、シリアに関する声明を発表し、「シリア国民や地域にとって喜びの瞬間であると同時に、不確実性もはらんだ瞬間でもある」とし、事態の推移を見守るとした。

 ルッテ氏はまた、ロシアとイランについて、「アサド政権の主要な支援国であり、シリア国民に対して犯した罪の責任がある」と非難。さらに両国が、「アサド氏が自分たちにとって役立たなくなった途端に見捨てたことからも、信頼できないパートナーであることが明らかになった」とした。

21:04(ベイルート14:09

ヒズボラ幹部、シリア情勢めぐり「重要かつ危険で新たな変化」

 シリア情勢をめぐり、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラ幹部の政治家は9日、「重要かつ危険で、新しい変化だ」と述べた。ロイター通信が伝えた。親イラン勢力のヒズボラは、アサド政権を支える役割も担っていた。

20:43(エルサレム13:43

イスラエル外相、シリアへの攻撃認める AFP通信など報道

 イスラエルのサール外相は9日、アサド政権の崩壊後もシリアに残る化学兵器や長距離ミサイルなどの戦略兵器システムに、イスラエル軍が攻撃を仕掛けたと発言した。AFP通信などが伝えた。

 米CNNによると、サール氏は兵器が「過激派」の手に渡るのを阻止するのが目的と主張。また、シリアからの攻撃を防ぐためとして、イスラエル軍がイスラエルとの国境付近の戦略的な場所を一時的、集中的に制圧したとも説明した。

 ロイター通信は、イスラエル高官がシリアへの空爆は数日間続くだろうと述べた、と伝えた。

TL918:35(モスクワ12:35

アサド氏の亡命、プーチン氏が承認 ロシア報道官「会談予定はなし」

 ロシアのペスコフ大統領報道官は9日、シリアの大統領を辞任したアサド氏がロシアに亡命したとの情報について、「このような決定は国家元首なしにはできない。彼(プーチン大統領)が決めた」と認めた。ロシア政府が公式にアサド氏の亡命を認めたのは初めて。

 ただ、プーチン氏との会談予定はないとし、アサド氏の所在地についても、「現時点で言うことはない」とした。

07:12(ダマスカス01:12

シリアの武器庫を空爆か

 「シリア人権監視団」(SOHR)は9日、イスラエル軍に所属するとみられる戦闘機が、アサド政権を支援していたイランの革命防衛隊の武器庫を空爆した、と伝えた。シリア国内ではアサド政権の軍事拠点が立て続けにイスラエル軍によるとみられる空爆を受けているという。

 SOHRの報告によると、空爆は地方の軍事拠点にとどまらず、ダマスカス中心部のアサド政権の政府機関にも及ぶ。諜報(ちょうほう)機関や税関も攻撃を受けているという。

05:25(リヤド823:25

サウジアラビアが声明、「シリアの統一と結束」訴える

 サウジアラビア外務省は8日、シリア情勢をめぐり、「シリア国民とその選択に対する揺るぎない支援を再確認する」とする声明を出した。「シリアの統一と結束」が国内の混乱を防ぐ上で重要だと訴えた。

 声明では「シリアにおける急速な展開を注視している」としたうえで「シリア国民の安全を確保し、流血を防ぎ、シリアの国家機関と能力を維持するための前向きな措置を評価する」と述べた。

 サウジアラビアは2011年、アサド政権との関係を断絶。シリア内戦では反体制派を支援してきた。一方で、アサド政権との和解も進め、23年には関係正常化に至っていた。

【そもそも解説】シリア内戦が最大の転機 いつ、なぜ始まった?

02:26(ダマスカス820:26

シリア反体制派の大規模攻勢 900人超死亡

 シリアで反体制派が大規模な攻勢を1127日に開始して以降、900人超が死亡し、うち約140人が民間人だった。AFP通信が、シリア人権監視団(SOHR)による情報として伝えた。

 報道によると、1127日以降で910人が死亡。このうち138人が民間人、380人がアサド政権軍やその支援をする戦闘員、392人が反体制派という。

ダマスカスでは市民から喜びの声「自由だ!」 脱ぎ捨てられた軍服も

03:40(ワシントン813:40

バイデン米大統領、ロシアやイランは「忌まわしい政権を守れず」

 米国のバイデン大統領は8日、ホワイトハウスで緊急の会見を開き、「長い間苦しんできたシリアの人々にとって、誇り高き国のためにより良い未来を築く歴史的な機会だ」と語った。

 アサド政権を支援してきたロシアやイランについて「ロシアもイランも(レバノンのイスラム教シーア派組織の)ヒズボラも、シリアの忌まわしい政権を守ることができなかった」と指摘。その上で「独立した主権を持つシリアへの移行を確立するため、すべてのシリアのグループと協力していく」と述べた。

戦闘開始11日で「アサド政権崩壊」 反体制派の作戦成功の背景は

02:59(モスクワ820:59

ロシア高官がシリア反体制派と接触 ロシア国営通信

 ロシア国営タス通信は8日、ロシア大統領府の情報筋の話として、ロシア政府高官がシリアの反体制派の代表者と接触している、と伝えた。シリア領内のロシア軍基地と、大使館などの外交機関の安全が保証されているという。

 ロシアは2015年にシリアに軍事介入し、支援するアサド政権軍と反政権派への空爆などを行ってきた。だが、情報筋は、「国連主導の平和交渉を再開する必要がある」との考えを示し、「シリア国民の利益と、ロシアとシリアの関係発展のため、政治的な対話の継続を望む」と期待を示した。

02:48(モスクワ820:48

アサド前大統領がロシア亡命 ロシア国営通信

 ロシア国営タス通信は8日、ロシア大統領府の情報筋の話として、シリア大統領を辞任したアサド氏がモスクワに到着し、亡命を認められたと報道した。情報筋は「アサド氏と家族がモスクワに到着した。ロシアは人道的に判断し、亡命を認めた」と述べたという。

02:00(ニューヨーク812:00

国連事務総長「平和な未来築く機会」

 国連のグテーレス事務総長は8日、「14年にわたる残虐な戦争と独裁政権の崩壊を経て、きょう、シリアの人々は安定した平和な未来を築く歴史的な機会をつかむことができる」とする声明を出した。

 シリアの将来については「シリア人が決めるべき問題だ」と指摘。さらに「すべてのシリア人の権利を守りつつ、冷静さと暴力の回避を改めて呼びかける」とした。

00:05(ロンドン815:16

英首相 アサド政権崩壊を歓迎

 英国のスターマー首相は8日、シリアのアサド政権が崩壊したことについて「シリア市民はあまりにも長期間、野蛮なアサド政権のもとで苦しめられてきた。彼が去ったことを歓迎する」と述べた。英公共放送BBCが伝えた。

 シリアの「平和と安定」を呼びかけたスターマー氏は「この数時間、数日のシリアの動きは前例のないもので、地域のパートナーと話し、状況を注視している」と話したという。

■■■128日(日本時間)の動き■■■

22:22(テヘラン16:52

イラン外務省が声明「シリアの将来決めるのは国民」

 シリアのアサド政権の後ろ盾となってきたイランの外務省は8日、政権の崩壊を受け、「シリアの将来を決めるのは国民の責任だ」とする声明を出した。「全シリア人を代表する包括的な統治機構」が必要とも述べており、アサド政権から新政権への交代を事実上容認したとも取れる内容だ。

 声明はその上で、シリア国民が自国の将来を決める際には、「いかなる破壊的な干渉や外部からの強制もない」環境が必要だと訴えた。内戦で反体制派を支援していた米国などを念頭に置いているとみられる。

 声明はまた、シリアとの関係について「歴史に深く根ざしており、常に友好関係を保ってきた」と強調。「両国が賢明かつ前向きな姿勢で関係を継続することが期待される」とし、アサド政権後のシリアとも関係を安定させたい意向を示した。

22:14(エルサレム15:14

ネタニヤフ氏、アサド政権崩壊は「イランとヒズボラ打撃の結果」

 シリア情勢をめぐり、イスラエルのネタニヤフ首相は8日、アサド政権の崩壊は「政権の主な支援者であるイランと(レバノンのイスラム教シーア派組織)ヒズボラに対し、我々が打撃を与えた結果だ」と声明で述べた。

 ネタニヤフ氏は、アサド政権の崩壊は「中東における歴史的な一日となる」と強調。イスラエルのイランやヒズボラへの攻撃が、シリアの「抑圧的で暴虐的な政権からの解放を望む人々」に影響を与えた、と主張した。

21:38(キーウ14:38

ウクライナ外相「プーチンに懸ける独裁者はこうなる」

 ウクライナのシビハ外相は8日、「アサドは倒れた。プーチン(ロシア大統領)に懸ける独裁者は常にこのようになってきたし、これからも常にこうなるだろう」とSNSに書き込んだ。

 シビハ氏はプーチン氏について「彼は常に信頼する人びとを裏切る」と強調。「いまの主な目標は、シリアの安全を回復させ、人びとを効果的に暴力から守ることだ」と訴え、ウクライナとシリアの「将来の信頼回復」に向けた道を開く用意があるとした。

21:27(ブリュッセル13:27

EU外相、アサド政権崩壊は「ロシアとイランの弱体化」

 欧州連合(EU)の外相にあたるカラス外交安全保障上級代表は8日、「(シリアの)アサド独裁政権の崩壊は前向きで、待望された展開だ。これは、アサドの支援国のロシアとイランの弱体化を示している」とのコメントをX(旧ツイッター)に投稿した。

 カラス氏は今後を見据え、「私はこの地域の大臣たちと緊密に連絡を取り合っている。シリアの再建プロセスは長く複雑なものになるので、すべての関係者が建設的に取り組む用意ができていなければならない」とつづった。

21:14(ロンドン12:14

国際人権団体 「過去の暴力から脱却を」

 国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)のカラマール事務局長は8日、シリアのアサド政権の崩壊について、「(父の故ハフェズ・アサド元大統領の代からの)50年以上にわたる残虐行為や抑圧の末、シリアの人々がついに、尊重された権利を与えられ、恐怖から解放されて生きる機会を得ることができるかもしれない」とする声明を発表した。「この歴史的な機会をつかみ、数十年にわたる重大な人権侵害をたださなければならない」と訴えた。

 そのうえで、「最も重要なステップは正義であり、報復ではない」とし、反体制派に対して、「過去の暴力から脱却」するように呼びかけた。

21:02(ベルリン13:02

ショルツ独首相、アサド氏支配終了は「朗報」

 ドイツのショルツ首相は8日にシリアに関する声明を発表し、アサド政権下で「シリア国民はひどく苦しんできた」として、アサド大統領による支配終了を「朗報だ」と歓迎した。

 ショルツ氏はアサド政権について「自国民を残忍に弾圧してきた」などとし、「多くの人々をシリアからの脱出に追い込んだ」と批判した。そのうえで「今、重要なのはシリアで法と秩序が迅速に回復されることだ」と訴えた。

21:01(パリ13:01

「野蛮な政治体制はついに倒れた」 マクロン仏大統領

 フランスのマクロン大統領は8日、シリア情勢について「野蛮な政治体制はついに倒れた」とX(旧ツイッター)に投稿した。シリアの人々に向けて「勇気と忍耐に敬意を表する。不確実性のある今この瞬間、平和と自由、団結を彼らのために祈る」と連帯を表明した。その上で「フランスは中東のすべての人々の安全のために取り組んでいく」と述べた。

20:28(モスクワ14:28

「アサド氏は大統領の辞任を決断し、出国した」 ロシア外務省

 ロシア外務省は8日、「アサド氏がシリア紛争の参加者との協議の結果、(シリアの)大統領を辞任すると決断し、出国した」と発表した。ロシアは協議に関与していないとし、反体制派などに対し、政治的な手段で平和的に解決するよう呼びかけた。

 ロシアは2015年にシリア内戦に軍事介入し、アサド政権の後ろ盾となってきた。アサド大統領がロシアに亡命する可能性もある。

 シリア領に海空軍基地を保有するが、「現在、厳戒態勢にあり、深刻な脅威はない」としている。

19:46(パリ11:46

フランス外務省「アサド政権の崩壊を歓迎」

 フランス外務省は8日、「アサド政権の崩壊を歓迎する」との声明を発表した。シリアのアサド大統領について「国民の大部分を亡命に追いやり、残った人たちは虐殺や拷問、化学兵器による攻撃を受けた。フランスはすべての犠牲者に追悼の意を表する」とした。

 さらに、仏政府として「国家機関の維持とシリアの主権と領土保全の尊重を求める」と表明し、「民間人とすべての少数派を保護し、国際法に従って国民の多様性を尊重した平和的な政治移行を求める」との立場を示した。その上で「すべてのシリア人に団結と和解を、そして、あらゆる形態の過激主義を拒否することを求める」と呼びかけた。

19:26(ベルリン11:26

「何百万人ものシリア人が安堵の息をつける」ドイツ外相

ドイツのベアボック外相は8日、X(旧ツイッター)に、シリアのアサド政権の「崩壊」で、何百万人ものシリア人が「安堵(あんど)の息をつける」と投稿した。一方で、今後について「どんな姿をとろうとも、他の過激派の手に落ちてはならない」と警戒を示し、少数民族の保護を含むシリア国民への責任を果たすように求めた。国際社会に対しても、シリアでの「戦争と暴力の連鎖」を終えるための支援が求められているとして、それに向けてドイツは欧州連合(EU)などと連携を取っていくとした。

19:13(テヘラン13:43

イラン国営通信は「大使館が武装勢力に襲撃」と報道

 反体制派が攻勢を強めるシリアの情勢に絡み、イラン国営通信は8日、シリアの首都ダマスカスにあるイラン大使館が「武装勢力」に襲撃されたと報じた。反体制派の人々を指すとみられる。報道は建物が略奪・破壊されたとし、けが人の有無には触れていない。

 反体制派の攻勢で崩壊したとされるアサド政権は、自国民を弾圧してきた歴史がある。政権の後ろ盾だったイランに対しても、反体制派が反感を持っていた可能性がある。

18:32(モスクワ12:32

ロシア副議長「内戦が本格化する状況で支援難しい」

 ロシア上院のコサチョフ副議長は8日、シリアへのロシアの支援について、「内戦が本格化する状況では難しい。シリア人が自ら対応する必要がある」と、テレグラムに投稿した。

 ロシアはシリアに海空軍基地を保有する。「我々の第一の任務は、外交官と家族を含む民間人、シリアの主権と領土を守るために駐留する軍人の安全を確保することだ」と述べた。

18:10(北京17:10

中国外務省「シリア情勢の進展を注視」

 中国外務省は8日、「シリア情勢の進展を注視しており、できるだけ早く安定を取り戻すことを望む」とする報道官のコメントを発表した。シリアの中国大使館は機能しており、「助けを必要とする中国市民を全力で支援する」としている。

 国営中央テレビはホームページで反政府勢力や各国大使館の動きなどをタイムライン形式で時系列で報じている。

17:30(モスクワ11:30

ロシア国防委員長、シリア撤退に言及

 ロシア下院のカルタポロフ国防委員長は8日、シリア国内のロシア軍基地について、「非常に複雑な状況だが、必要な手は打っている。最も重要なことは、ソ連軍がどのように、ドイツなどで同様の活動を終えたかを忘れないことだ」と述べ、シリアからの撤退に言及した。ロシアのインタファクス通信が伝えた。

 ロシア軍はシリアに、タルトスの海軍補給基地とフメイミム空軍基地を保有しており、すでに撤退が始まったとの情報もある。カルタポロフ氏は「自国の利益を守る必要がある。まさに我々の大統領がやっている」と述べ、プーチン大統領が陣頭指揮で取り組んでいるとした。

16:00(ダマスカス10:00

アサド大統領、シリア出国か

 反体制派が攻勢を強めるシリアの情勢をめぐり、カタールの衛星放送局アルジャジーラは8日、反体制派の情報としてシリアのアサド大統領がすでに出国したと報じた。その後の所在は不明だとしているが、一部ではロシアに向かうとする見方もある。

 ロイター通信は8日、軍関係筋の情報として、アサド氏を乗せた飛行機が首都ダマスカスから飛び立ったものの、目的地は不明だと報じている。

 一方、米ニュースサイト「アクシオス」のバラク・ラビド記者は8日、イスラエル当局者の情報として、アサド氏の飛行機が7日深夜にダマスカスを飛び立ち、国内にあるロシア軍の基地に向かったとX(旧ツイッター)に投稿した。モスクワに向かうのが目的だとしている。米当局者も同記者に対し、アサド氏がモスクワに向かうことを計画しているとの見方を示したという。

シリア反体制派、首都ダマスカスに進攻 「アサドから解放」を宣言

15:35(エルサレム8:35

イスラエル軍、シリア対応で部隊配置

 シリア内戦の緊迫化に伴い、イスラエル軍は8日、同国が占領するシリア領ゴラン高原と、シリアとの間にある緩衝地帯やその他の場所に、部隊を配置したと発表した。

 声明で、緩衝地帯に武装した人物が侵入したことなどを受けた措置と説明した。また、今回の措置について、「シリアの内政に干渉するものではないと強調する」とした。

16:00(パリ8:00

「ロシア、アサド大統領を守ることに関心なかった」 トランプ氏が投稿

 米国のトランプ次期大統領は8日、シリアのアサド大統領について「国から逃げた。彼を保護していた、プーチン(大統領)率いるロシアは、これ以上彼を守ることに関心はなかった」とソーシャルメディアに投稿した。アサド政権を支援してきたロシアとイランについて「今、弱体化している」と指摘。その理由について、ウクライナ侵攻や経済の悪化、イランと対立するイスラエルによる戦闘の成功を挙げた。

13:40(テヘラン8:10

「アサド政府が崩壊」 イラン国営TVが報道

 反体制派が攻勢を強めるシリアの情勢について、イラン国営プレスTV(電子版)は8日、「武装勢力が(首都の)ダマスカスを占領、アサド大統領の政府が崩壊」との見出しで報じた。反体制派の首都急襲により、24年にわたるアサド氏の統治が「驚くべき最期」を迎えたとしている。

 イランは精鋭の革命防衛隊員を軍事顧問として派遣するなど、シリア内戦を戦うアサド政権の後ろ盾であり続けてきた。プレスTVは前日7日、政権軍がダマスカス郊外に「完全配備」されていると報じ、政権が揺るがないことを強調していたが、一転して政権の崩壊を認めざるを得なくなった形だ。

 

 

年表と解説

l  1792.8.1974.7.(ママ)――恐怖政治。ジャコバン派、ロベスピエール(175894)が理論化、実践した「革命の敵に対する凄惨な弾圧」を指す。彼は自分個人に権力が集中する体制を築かなかったが、レーニンからポル・ポトに至るまで数多くの「赤い」独裁者の手本となる

恐怖政治の間、23万人が銃殺、1.7万人がギロチンに。恐怖政治は、革命歴IV(4)年テルミドール9(1794.7.27.)にクーデターが起こり、「清廉の氏」の異名を取ったロベスピエールが国民公会の命令で逮捕され、ギロチンにかけられるまで続く

l  1895~――人類学者ギュスターヴ・ル・ボンが『群集心理』を出版、大衆に影響力を及ぼし操ることができる指導者の特質として、プレスティージュ(名声・威厳)のコンセプトを提唱。ヒトラーの参考となる

l  1902.2.――レーニンが『何をなすべきか』を発表。経済闘争から社会主義思想が自然発生的に形作られることを否定し、労働者階級に革命思想を外部から注入することに専念する前衛を政党の形で形成すべきと主張。この政治闘争マニュアルが結果的に、メンシェヴィキとボリシェヴィキへの分裂をもたらし、レーニンがボリシェヴィキの指導者となる

l  1905.1.9.――ロシア第1次革命勃発。労働者の評議会であるソヴィエトが各地に誕生

l  1908.7.24.――オスマン帝国で「青年トルコ人」革命が起こり、王政が専制政治を断念

l  1915.4.24.――イスタンブールのアルメニア人知識人一斉検挙を皮切りに、トルコでアルメニア人のジェノサイド開始。23年までに120万が虐殺、周辺の多民族にも虐殺が及ぶ

l  1917.2.23.3.3.――ロシア革命でニコライ2世退位

l  1917.10.25.――ロシア10月革命で、ケレンスキー臨時政府をボリシェヴィキが倒れ、トロツキーが先導した蜂起により、レーニンが国家指導者となる。国民が立ち上がったというよりは少数による権力奪取。各地のソヴィエトや人民委員会議の設立した政府が統治を開始

l  1917.12.8.――シドにオ・パイスがポルトガルでクーデターを起こし、権威主義的な政治体制を敷くが、1年後に暗殺

l  1917.12.20.――ボリシェヴィキが警察組織チェーカーを創設。後のNKVDKGB91年まで存続するが、反革命の取り締まりに奔走

l  1918.6.――ボリシェヴィキの赤軍と、皇帝支持派と共和主義者からなる白軍が対峙するロシア内戦への協商国(英仏日米等)の干渉が始まる。5年後ソヴィエト完勝に終わる

l  1918.7.10.――プロレタリア独裁の適用を目指す第1次ソ連憲法発布。市場経済の終焉と階級の消滅が可能となるはずだった

l  1918.7.17.――レーニンの指令によりロシア皇帝一家殺害

l  1918.11.9.――ドイツ・ヴィルヘルム2世皇帝退位。119日は、ドイツにとって鍵となる日付、23年のミュンヘン一揆も38年の水晶の夜も、89年のベルリンの壁崩壊も同じ日

l  1918.11.11.――ドイツと協商国との間で休戦協定締結、第1次大戦終結

l  1918.11.12.――ウィーンでオーストリア革命勃発、ハプスブルグ家の支配終焉

l  1919.1.15.――ドイツ社会主義革命組織スパルタクス団が革命のため立ち上がったところを、反対勢力によって団創設者のローザ・ルクセンブルク暗殺

l  1919.3.19.23.――ムッソリーニがファッシFIC結成。神秘化された革命思想と反共産主義をない交ぜにしたイデオロギーを掲げ、行動隊を組織して労組や左派革命組織を攻撃

l  1919.3.21.――ハンガリーの共産主義者クン・ベーラがボリシェヴィキを手本として、ハンガリー・ソヴィエト共和国の成立を宣言

l  1919.6.28.――ヴェルサイユ条約調印。汎ゲルマン主義ナショナリスト達に根深い復讐心を植え付け、戦勝国イタリアもアドリア海沿岸の領土獲得ならず、条約を屈辱的と見做す

l  1919.8.6.――仏軍とルーマニア軍がブタペスト制圧。ハンガリー・ソヴィエト共和国崩壊。ハンガリー国民軍を率いるミクローシュが実権を掌握

l  1919.9.12.――イタリアの詩人ガブリエーレ・ダヌンツィオがフィウーメ(クロアチアの一部)を占拠、第1次大戦の屈辱をはらす。ドイツではヒトラーがドイツ労働者党DAPに入党

l  1920.2.――ヒトラーはDAPを国家社会主義ドイツ労働者(ナチ)NSDAPに改名

l  1920.3.1.――ハンガリー国民会議がホルティを「王国摂政」に選び、王政復活

l  1920.3.13.17.――ベルリンで「カップ一揆」。民族主義者カップを国家指導者にしようとしたクーデター未遂事件

l  1920.4.23.――トルコ大国民会議開催。ムスタファ・ケマル将軍が議長に選出され、生涯トルコの権力者であり続ける

l  1920.6.4.――「トリアノン条約」により、旧ハンガリー領土を分割。全人口の1/3、約300万がチェコなど外国の支配下に入り、ハンガリーにとっては忘れられないトラウマに

l  1920.8.10.――オスマン帝国解体のセーヴル条約締結。クルディスタン(イラク北部)とアルメニア(トルコ東部)の独立を認める。3年後ローザンヌ条約へ置換え

l  1920.2.18.3.17.――クロンシュタットの水兵がボリシェヴィキに叛旗、赤軍に制圧

l  1921.3.21.――レーニンが新経済政策NEP発表。戦時共産主義に終止符を打ち、市場経済の要素(私有財産、余剰農産物の売買等)を復活

l  1921.8.8.――ヒトラーがナチ党の突撃隊SA創設、「褐色シャツ隊」と呼ばれる

l  1921.11.12.――イタリアで国家ファシスト党結成

l  1922.4.3.――スターリンが書記長に選出

l  1922.5.26.――レーニン脳内出血、以後能力低下の一途をたどる

l  1922.9.11.――希土戦争でトルコに敗れたギリシアでクーデターが王政を倒す

l  1922.10.28.――ムッソリーニ支配下の「黒シャツ隊」によるローマ進軍

l  1922.10.30.――エマヌエーレ3世がムッソリーニに組閣を命じる

l  1923.6.9.――民族主義者ツァンコフがクーデターでブルガリアの権力を掌握、生涯続く

l  1923.7.24.――近代トルコの国境を決めるローザンヌ条約締結で、アナトリア半島(トルコの西部分)全土がトルコ領と認められる

l  1923.9.13.――バルセロナでプリモ・デ・リベラ将軍がクーデターを起こし、アルフォンソ13世は王位に留まるが、政治権力を失う

l  1923.10.29.――ケマルがオスマンのスルタン制を廃止してトルコ共和国成立を宣言、大統領に就任

l  1923.11.9.――ミュンヘン一揆。ヒトラーとルーデンドルフのクーデター未遂事件

l  1924.1.21.――レーニン死去

l  1924.4.――イタリア総選挙。不正選挙で国家ファシスト党PNFが過半数を制す

l  1924.5.――ナチ党が選挙で31議席獲得(総議席の6.6)

l  1924.6.10.――反ムッソリーニ勢力のリーダー格だったマッテオッティ暗殺。世論が激昂

l  1924.9.11.――チリでクーデターが起き、軍事政権誕生

l  1924.12.23.――ユーゴの支持を受けたアフメト・ゾグ将軍がアルバニアで政権奪取

l  1925.6.24.――バンガロスがギリシアで政権を奪取、独裁を宣言するが、1年余で追放

l  1925.7.18.――『わが闘争』出版

l  192526――ムッソリーニがドゥーチェ(統帥)の肩書。1党独裁で秘密警察創設

l  1926.5.12.14.――ワルシャワ「5月革命」で主導したピウスツキ将軍が権力を掌握

l  1926.5.28.――ポルトガルでクーデター発生、第一共和政終焉

l  1926.12.17.――リトアニアで民族主義者スメトナがクーデターで権力を握る

l  1927.4.12.――上海クーデター。国民党が共産党を弾圧。蒋介石の南京政府誕生

l  1928――アメリカの広報活動専門家でフロイトの甥エドワード・バーネイズ著『プロパガンダ』は、広報活動と組織的政治プロパガンダを理論づけ、ゲッペルスに大きな影響を与える

l  1928.4.――1926年ポルトガルで成立した政治体制が「ディタドゥーラ・ナシオナル(国民独裁)」と名付けられ、経済学教授だったサラザールが財務大臣に就任

l  1928.11.13.――トロツキーが共産党から追放され、スターリンが絶対権力者に

l  1929.2.11.――ラテラノ条約。教皇がヴァチカン市国の君主、カトリック信仰がイタリア国教と認められる

l  1929.4.――集産主義による産業振興を強引に推進するソ連の第15年計画スタート

l  1929.10.24.29.――ウォール街の株大暴落。30年代を「大恐慌」に陥れ、こうした社会の混乱が権威主義的政治体制の温床に

l  1930.1.28.――スペインでプリモ・デ・リベラが首相辞任。その後の1年間強権的な独裁から立憲君主政治に戻そうとした後任のべレンゲルの政治体制を「ソフトな独裁」と綽名

l  1930.4.7.――ソ連の矯正労働収容所の管理部「グラグ」を創設、収容所の数を増やし、収容システムを合理化して、収容容量を急拡大

l  1930.5.16.――トルヒーヨ将軍がドミニカ共和国大統領に。37年ハイチ移民を大量虐殺

l  1930.9.14.――ナチ党が107の議席(18.3%」を獲得、ドイツ第2の政党に躍進

l  1930.10.3.24.――ブラジルの不正選挙で敗退したヴァルガスが軍事クーデターを起こし、1889年以来の共和制終焉

l  193133――ソ連で農業の集団化を原因とする大飢饉。ウクライナが最大の被害

l  1931――イタリアのジャーナリスト、マラパルテ著『クーデターの技術』出版、過去の独裁の権力奪取の手法を分析。ムッソリーニを批判した本はイタリア国内で発禁、自宅軟禁に

l  1931.2.18.――スペイン第二共和政成立

l  1932.4.12.――ヒトラーが大統領選に出るが、ヒンデンブルクに惜敗

l  1932.5.15.――神の概念をなくすことを目的としたソ連の反宗教5カ年計画スタート

l  1932.6.25.――ポルトガルでサラザール首相誕生。68年まで居続ける

l  1932.7.31.――ナチ党230議席確保(37.4)、ドイツ第1党に。ゲーリングが議長

l  1932.11.――ナチ党が196議席獲得(33.1)、第1党を維持

l  1933.1.30.――ヒトラー首相就任

l  1933.2.27.――国会議事堂炎上。ナチは共産党に責任を被せ、国家防衛緊急令と反逆防止緊急令を発布し、言論の自由や所有権を制限

l  1933.3.4.――ウルトラナショナリストの墺首相ドルフースはナチズム台頭を懸念、権威主義的政権運営で抑え込もうと、議会を無期限休会に

l  1933.3.5.――ナチ党288議席(43.9)で勝利

l  1933.3.19.――ポルトガルがファシズムに着想を得たエスタード・ノーヴォ(新国家)体制樹立のための新憲法採択

l  1933.3.20.――ドイツでダッハウ強制収容所オープン

l  1933.3.23.――ドイツ国会、ヒトラーに4年間の全権をゆだねる

l  1933.4.7.――ドイツでユダヤ人公務員排斥の法律

l  1933.4.26.――親衛隊SS指揮のゲシュタポ創設

l  1933.5.10.――ゲッペルスがベルリンで焚書

l  1933.7.14.――ナチ党1党支配、他政党禁止

l  1933.8.30.9.3.――ニュルンベルクでナチ党「勝利の大会」。翌年の大会はリーフェンシュタール監督の映画《意志の勝利》となり全体主義プロパガンダの古典

l  1933.9.4.――キューバでバティスタ軍曹を首謀者とする「軍曹の反乱」勃発

l  1933.10.14.――ドイツ国連から脱退

l  1934.2.6.――パリで元兵士とナショナリスト運動組織が反議会のデモ、鎮圧が流血の大惨事となりダラディエ内閣崩壊

l  1934.5.19.――ブルガリアでクーデター勃発、ゲオルギエフが政権を取るが、翌年失脚

l  1934.6.29.――「長いナイフの夜」始まり、親衛隊SSが突撃隊SAのレーム等幹部を粛正、保守主義者にも及ぶ。翌年ワイマール共和国軍はドイツ国防軍に再編

l  1934.7.2.――ヒンデンブルク死去。国会はヒトラーを「総統及び首相」に任命

l  1934.7.25.――墺首相ドルフース、ナチ党員に暗殺

l  1934.8.19.――国民投票は大規模な不正によりヒトラーに絶対的な権限付与

l  1935.3.16.――ヒトラー兵役を義務化、ヴェルサイユ条約違反の軍隊増強を強行

l  1935.9.15.――ニュルンベルク人種法(帝国市民法)によりユダヤ人の市民権剥奪

l  1935.10.3.36.5.9.――イタリアがエチオピア侵略。制裁を加えた国連から離脱

l  1935.10.10.――ギリシアでコンディリス将軍のクーデター。王政復古を宣言し、共和政を弾圧

l  1935.2.6.16.――ガルミッシュ=パルテンキルヒェンの冬季五輪がナチのプロパガンダに利用される

l  1935.3.7.――ヒトラーが非武装地帯のラインラント進駐

l  1935.7.17.18.――スペインの社会主義的施策に反発して軍が反乱を起こすとフランコが指導者になり、内戦始まる

l  1936.8.――モスクワ公開裁判の始まり。ボリシェヴィキ古参幹部の大量粛清

l  1936.8.4.――ギリシアでメタクサス将軍がクーデターで独裁開始。41年死去まで続く

l  1936.10.10.――フランコ将軍、総司令官兼元首に

l  1936.11.1.――ムッソリーニがローマ=ベルリン枢軸成立を宣言

l  1936.11.25.――日独防共協定

l  1937.1.1.――ソモサ・ガルシアがニカラグアの独裁者に、56年の暗殺まで在位。アメリカも「我々の側のろくでなし」と評す。「ソモサ王朝」は79年まで存続

l  1937.4.26.――ゲルニカがフランコ支援のドイツ・コンドル軍団により爆撃

l  1937.11.6.――日独伊防共協定

l  1937.11.10.――ブラジルのヴァルガスが、サラザールを手本に独裁開始。45年まで続

l  1938.3.13.――アンシュルス。ナチ・ドイツがオーストリアを併合

l  1938.9.11.――イタリアで、外国籍ユダヤ人を差別する人種法成立

l  1938.9.29.30.――ミュンヘン協定。ズデーテン地方等のドイツへの併合承認

l  1938.11.9.――水晶の夜。ドイツ全土で起きた大規模な反ユダヤ主義暴動

l  1939.2.25.――ハンガリー防共協定に参加

l  1939.3.15.――ドイツがボヘミアとモラヴィアを占領。スロヴァキア共和国独立宣言で、ナチの傀儡政権樹立

l  1939.3.27.――スペインも防共協定に参加

l  1939.4.1.――フランコ軍バルセロナ制圧、スペイン内戦終結

l  1939.4.7.――ムッソリーニがアルバニアを侵略

l  1939.5.22――独伊鋼鉄協約。軍事面での相互支援を約定

l  1939.8.23.――独ソ外相のリッペントロップ・モロトフ協定。両国の不可侵と中立義務

l  1939.9.1.――ナチ・ドイツによるポーランド侵略。第1次大戦始まる

l  1940.4.5.――ソ連によるポーランド人将校に対するカティンの森虐殺

l  1940.4.27.――アウシュヴィッツに強制収容所開設

l  1940.5.10.――独仏戦闘の始まり

l  1940.6.10.――イタリアが英仏に宣戦布告

l  1940.6.14.――ドイツがパリ占領

l  1940.6.16.――ペタン元帥が首相に任命

l  1940.6.22.――仏独休戦協定

l  1940.7.10.――ヴィシーの仏政権がペタン元帥に全権委任

l  1940.7.22.――ヴィシー政権が国籍剥奪法採択。ユダヤ人中心に仏国籍を剥奪

l  1940.8.20.――スターリンの刺客メルカデルがメキシコでトロツキーを殺害

l  1940.9.5.――ルーマニアでアントネスク将軍がファシズムを手本とする準軍事組織をバックに国家指導者(総統)に就任。国民軍団国家が成立。「ルーマニアのペタン」と呼ばれた

l  1940.10.3.4.――ヴィシー政権でユダヤ人公職追放、外国籍ユダヤ人を収監

l  1940.10.23.――仏西国境でヒトラーとフランコ会談。フランコの参戦を促すが応じず

l  1940.10.24.――ヒトラーとペタン会談。フランスは対独協力を約束

l  1941.4.6.――枢軸国がユーゴ侵略

l  1941.4.10.――クロアチアの成立宣言。反ユダヤ主義のファシスト集団ウスタシャの創立者パヴェリッチが国家指導者として455月まで権力を握る

l  1941.6.22.――ナチ・ドイツによるソ連侵攻「バルバロッサ作戦」開始

l  1941.9.――イギリスとソ連がイラン侵攻、ナチ・ドイツよりとされたレザー・シャー・パフラヴィー(25年よりイラン皇帝)退位。息子のモハンマドを即位させる

l  1941.12.7.――真珠湾攻撃

l  1942.1.20.――ナチ高官によるヴァンゼー会議、「ユダヤ人問題の最終的解決」話し合い

l  1942.4.18.――ラヴァルがヴィシー政権の首相に就任、対独協力を強化

l  1942.7.16.17.――ヴェル・ディヴ大量検挙事件、パリ近在のユダヤ人が大量に検挙され、東欧各地の収容所に送られる。最後まで生き残るのは1%未満

l  1942.7.17.43.2.2.――スターリングラード戦い。ドイツが敗退し、大戦の転換点に

l  1942.11.8.――連合国、北アフリカに上陸

l  1943.6.4.――アルゼンチン「1943年革命」軍事クーデターによりファン・ペロンの独裁体制構築、46年まで続く

l  1943.7.9.8.17.――連合国、シチリアに上陸

l  1943.7.25.――エマヌエーレ3世がムッソリーニの逮捕を命じ、ファシズム崩壊

l  1943.9.12.――ドイツ空挺部隊がムッソリーニ解放。サロにファシスト共和国建国

l  194.6.6.――連合国、ノルマンディ上陸

l  194.7.20.――ヒトラー暗殺未遂事件

l  194.8.1.10.2.――レジスタンスによるワルシャワ蜂起

l  194.8.20./9.8.――ペタンは、政府機能をベルフォール→ジグマリンゲンに移す

l  194.10.16.――ハンガリーのミクローシュはソ連に休戦を申し入れたことが露見、摂政を辞任。親ドイツのファシスト政府はユダヤ系ハンガリー人を収容所送りとし殺害

l  194.11.28.――ホッジャが政権樹立、アルバニアの最高権力者として死ぬまで留まる

l  1945.1.27.――赤軍がアウシュヴィッツを解放

l  1945.2.4.11.――ヤルタ会談。冷戦時代の東西の線引きに

l  1945.4.28.――ムッソリーニ、パルチザンに銃殺処刑

l  1945.4.30.――ヒトラー自殺

l  1945.7.23.8.15.――ペタン裁判。国家反逆罪で死刑判決だが、高齢で処刑未実施

l  1945.9.2.――ホー・チ・ミンがベトナム独立を宣言、1党支配体制を敷く

l  1945.11.20.46.10.1.――ニュルンベルク裁判。12名に死刑判決。国際法廷の手本

l  1945.11.29.――ティトーは亡命中のペータル2世の王制を廃止。共産主義独裁体制

l  1946.5.3.――東京裁判始まる

l  1946.9.15.――ブルガリア人民共和国成立宣言。ソ連に従属する「人民民主主義」国家のモデルに

l  1946.12.12.――国連がフランコ政権非難決議採択、国際機関からの排除を決定

l  1947.2.5.――ポーランド人民共和国総選挙は不正の中、初の憲法採択

l  1947.4.――ダマスカスで汎アラブ主義のバアス党結成

l  1947.12.30.――ルーマニア人民共和国成立宣言

l  1948.1.5.――ティトーとスターリンの協調関係破綻

l  1948.2.17.25.――プラハ事件、5.9.「人民共和国」成立宣言

l  1948.9.9.――金日成が北朝鮮建国宣言

l  1949.8.20.――ハンガリー人民共和国成立宣言

l  1949.10.1.――毛沢東が中華人民共和国成立宣言。蒋介石は台湾に逃亡

l  1949.10.7.――東ドイツ成立宣言

l  1950.6.25.53.7.27.――朝鮮戦争

l  1951.――哲学者ハンナ・アーレント著『全体主義の起源』出版

l  1952.3.10.――キューバのバティスタがCIAの支援を受け2回目のクーデター

l  1952.7.23.――エジプトで、自由将校団が国王を追放、ナーセルが54年首相に就任

l  1952.11.20.12.3.――チェコ共産党古参幹部排除のためのプラハ裁判実施

l  1953.1.13.――ソ連で医師団陰謀事件。高名な医師数名が患者の政府要人の暗殺を企んだとして逮捕。スターリン政権末期のパラノイアを反映

l  1953.3.5.――スターリン死去

l  1953.11.20.54.5.7.――ディエンビエンフーの戦いでベトミンが仏遠征隊に勝利

l  1954.5.4.――ストロエスネル将軍がクーデター、89年まで大統領に留まる

l  1954.6.18.――グアテマラのアルマス中佐がCIAの支援で軍事クーデターを起こし、57年の暗殺まで大統領を務める

l  1954.7.20.――ジュネーヴ協定調印、インドシナ戦争に終止符。ベトナムは南北に分断

l  1955.5.14.――ワルシャワ条約

l  1955.10.26.――ゴ・ディン・ジエムがベトナム共和国成立宣言。63年暗殺まで強権的に南ベトナムを支配

l  1956.2.14.25.――フルシチョフがスターリン時代の犯罪を告発

l  1956.10.23.11.10.――ハンガリー動乱。新政権が自由選挙とワルシャワ条約脱退を約束したが、ソ連軍の侵攻により制圧

l  1957.7.25.――チュニジア独立の父ブルギーバが共和国成立宣言、立憲議会により大統領に任命。新憲政党(後に社会主義憲政党)1党支配による体制構築

l  1957.9.22.――デュヴァリエがハイチ大統領に。アメリカの支援受け終身大統領に

l  195862――毛沢東が「大躍進」政策施行

l  1958.7.14.――イラクでマルキシズム信奉のカーシム将軍がクーデターにより王政転覆

l  1958.10.2.――トゥーレがギニア共和国大統領に。84年死去まで留まる

l  1958.11.17.――スーダンでアブード大将のクーデター。64年まで統治

l  1959.1.1.――カストロ指揮下のゲリラがハバナ制圧

l  1960.5.27.――トルコで軍事クーデター、メンデレス首相逮捕

l  1960.9.14.――コンゴ共和国でモブツがクーデター。ルムンバ首相は処刑

l  1961.2.――アンゴラ独立戦争。宗主国ポルトガルのサラザール体制崩壊へ繋がる

l  1962.3.18.――エビアン協定でアルジェリアの独立承認。翌年アルジェリア民族解放戦線が1党支配体制を敷く

l  1963.1.――コートジヴォワール大統領ウフェ=ボワニ政権が権威主義的となる転換点

l  1963.2.8.――イラクで軍事クーデターによりカーシム将軍が失墜、アーリフ大統領誕生

l  1963.3.8.――シリアでクーデター勃発、バアス党が政権掌握

l  1964.3.31.――ブラジルでブランコがクーデターを起こし、軍事独裁が85年まで続く

l  1964.10.14.――ブレジネフがフルシチョフを追い落とし、ソ連共産党第1書記に

l  1965.9.30.――インドネシアの左派系軍人によるクーデター未遂事件鎮圧のためスハルト将軍が共産主義者を大量に虐殺、共産党を解体。66年大統領に

l  1965.11.19.――マルコスがフィリピン大統領に。7281年戒厳令維持

l  1965.11.24.――コンゴでモブツが再度クーデターを起こし大統領に。新国名ザイール

l  1965.12.31.――「聖シルウェストルのクーデター」でボカサが中央アフリカ共和国の大統領に

l  1966.6.28.――アルゼンチンで軍事クーデター、軍事政権誕生(「アルゼンチン革命」)

l  1966.8.8.――中国で「文化大革命」始まる

l  1967.1.13.――トーゴでエヤデマ中佐がクーデター、大統領就任。05年死去まで留まる

l  1967.4.21.――ギリシアでパパドプロス大佐がCIAをバックに軍事クーデター

l  1967.12.2.――ボンゴがガボン共和国の大統領に、09年死去まで留まる

l  1968.1.5.8.20.――プラハの春

l  1968.7.17.――イラクでクーデター、バアス党が権力奪還、アル=バクルが大統領、サッダーム=フセインが副大統領に

l  1968.11.19.――マリでトラオレがクーデター、91年の逮捕まで大統領に

l  1969.9.1.――リビアでアル=カダフィがクーデター、王制廃止、リビア・アラブ共和国に

l  1970.11.13.――シリアでハーフィズがクーデター、00年死去まで大統領

l  1971.1.25.――ウガンダでアミンがクーデター、大統領になるが78年タンザニアに侵攻して逆襲され国外逃亡。独裁政権下で大量虐殺

l  1971.3.12.――トルコで軍事クーデター、1年後に民政移管

l  1971.4.21.――ハイチの「パパ・ドク」死去。息子が後継となり86年失墜まで大統領

l  1973.3.――アルゼンチン選挙、独裁終る

l  1973.6.27.――ウルグアイでクーデター、ボルダベリ大統領が軍事政権監視下に

l  1973.9.11.――チリで軍事クーデター、アジェンデは自殺、翌年ピノチェットが大統領に

l  1973.12.28.――ソルジェニーツィン著『収容所群島』パリで出版

l  1974――ギリシアでメタポリテフシ(体制変革)により軍事政権終了

l  1974.2.9.――エチオピア革命。マリアム大統領(7791)の「赤い恐怖政治」続く

l  1974.4.25.――ポルトガルのカーネーション革命。軍事クーデターでサラザールの後継政権崩壊。アンゴラ植民地戦争に反発した将校たちの国軍運動MFAによる無血クーデター

l  1975.4.17.――クメール・ルージュが首都制圧、ポル・ポトの「民主カンプチア」の虐殺

l  1975.4.30.――サイゴン陥落。海外脱出を図る「ボートピープル」発生

l  1975.11.20.――フランコ死去。ファン・カルロス国王即位

l  1976.3.24.――アルゼンチンでビデラの軍事クーデターによりペロン大統領失脚

l  1976.9.9.――毛沢東死去

l  1977.3.2.――カダフィが共和国をジャマーヒリーヤ(大衆による支配)に変え、汎アラブ主義、社会主義、イスラム神秘主義をミックスした個人独裁体制を確立

l  1977.12.4.――ボカサが中央アフリカの「皇帝」即位

l  1978.9.8.――イランの「黒い金曜日」。シャーによる大規模デモ弾圧

l  1979.1.16.――シャーがイランから亡命

l  1979.2.8.――ドニ・サスヌゲソ大佐がコンゴ共和国の大統領就任

l  1979.2.11.――ホメイニーがイラン・イスラム共和国の成立を宣言

l  1979.7.16.――サッダーム大統領就任。バアス党内粛清

l  1979.7.17.――ニカラグアのソモサ大統領辞任、アメリカ亡命

l  1979.8.3.――ンマゲがクーデターにより赤道ギニア共和国の国家元首に

l  1980.4.18.――マルキシストのムガベがジンバブエ首相就任、37年間君臨

l  1980.5.4.――ティトー死去

l  1980.8.31.――ワレサ(ヴァウェンサ)の自主管理労組(連帯)結成、反体制運動活発化

l  1980.9.12.――トルコで軍事クーデター

l  1980.9.22.――イラン・イラク戦争、8年続く。83年からイラクが化学兵器使用

l  1980.9.30.――ウルグアイの独裁が国民投票で否決され、民主制への移行期始まる

l  1981.10.6.――エジプトのアッ=サーダート大統領暗殺、ムバラクが後継に

l  1982.2.2.15.――ハーフィズによるイスラム同胞団蜂起に対するハマー虐殺

l  1982.11.6.――ポール・ビアがカメルーン大統領に就任

l  1983.8.12.――ノリエガ将軍がパナマ軍最高司令官に、90年までパナマを支配

l  1983.8.21.――アキノ・ジュニア暗殺で反マルコス陣営団結

l  1985.3.11.――ゴルバチョフが共産党書記長に、91年ソ連崩壊の端緒

l  1985.4.22.12.9.―アルゼンチンで軍政が裁かれ、ビデラが人道に対する罪で終身刑

l  1986.2.7.――ハイチでジャン=クロードが辞任、フランスに亡命。フィリピンでアキノ未亡人コラソンが大統領に

l  1987.10.15.――ブルキナファソでコンパオレが軍事クーデター、反帝国主義のサンカラ大統領殺害

l  1987.11.7.――チュニジアでベン・アリーがクーデター、ブルギーバ大統領失脚

l  1988.2.9.――サッダームがクルド人虐殺の「アンファル作戦」実施

l  1988.3.16.19.――サッダームがクルディスタンを爆撃。史上最重要な化学兵器使用による民間人攻撃で、責任者はジェノサイドの罪で死刑判決

l  1988.3.12.9.21.――ミヤンマーで大規模デモによりネ・ウィン政権崩壊するが、軍事クーデターで復活し民主化を求める運動を弾圧

l  1988.10.5.――ピノチェットの任期延長の国民投票は反対多数で、漸進的譲歩へ

l  1988.12.21.――パンナム機がスコットランド上空で爆発。カダフィのテロとされる

l  1989.2.――ハンガリーが複数政党制導入。体制の自由化と56年動乱時の名誉回復

l  1989.2.3.――パラグアイでストロエスネルが腹心のロドリゲスのクーデターで失脚

l  1989.2.6.4.4.――ポーランド円卓会議により、年末には人民共和国が実質的に終焉

l  1989.5.8.――ミロシェヴィッチがセルビア大統領就任

l  1989.6.3.――ホメイニー死去、ハーメネイーが第2代最高指導者に

l  1989.6.4.――天安門事件。「北京の春」終焉

l  1989.6.30.――スーダンでアル=バシール大佐がクーデター

l  1989.9.19.――UTA航空撃墜。カダフィの仕掛けとされる

l  1989.10.23.――ハンガリー人民共和国の終焉

l  1989.11.9.――ベルリンの壁崩壊

l  1989.12.20.――パナマのノリエガ将軍排除のためのアメリカ軍事介入

l  1989.12.22.25.――ルーマニア革命、チャウシェスク書記長夫妻処刑

l  199091――アフリカの仏語圏の国々で国民階層に政治問題を議論する「国民会議」運動勃興。独裁体制自由化に失敗

l  1990.7.28.――フジモリがペルー共和国大統領に選出。テロ組織センデロ・ヌミノソを追い詰める一方、インディオの極貧地域では強制的な避妊政策を推進

l  1990.8.2.4.――サッダームがクウェート侵略、第1次湾岸戦争開始

l  1990.8.6.――イラクのクウェート侵攻を受け、国連安保理がイラク制裁決定

l  1990.12.2.――チャドでイドリス・デビがクーデター

l  1991.1.17.2.28.――アメリカ中心の多国籍軍がイラク侵攻「砂漠の嵐」

l  1991.3.――イラクでクルド人と南部シーア派が反乱を起こすが鎮圧、アメリカも動かず

l  1991.6.30.――アパルトヘイト廃止

l  1991.8.19.――ソ連で保守派がクーデター、エリツィンが改革派リーダーと認められる

l  1991.12.26.――ソ連解体

l  1992.1.11.――アルジェリア軍将校たち(ジャンヴィエリスト)によるクーデターで圧倒的多数派のイスラム救国戦線を弾圧、内戦に突入

l  1993.4.27.――エリトリア独立宣言、アフェウェルキが大統領として君臨

l  1994.4.7.7.17.――ルワンダでツチ族大量虐殺。カガメの率いる愛国戦線がこの政権を倒し、00年には大統領に

l  1994.7.10.――ルカシェンコがベラルーシ大統領に選出、「ヨーロッパ最後の独裁者」

l  1995.7.13.17.――スプレニツァ(ボスニア)の虐殺、セルビア人によるムスリム殺害

l  1997.5.17.――カビラがザイールのキンシャサを制圧、モブツが失墜

l  1997.6.10.――コンゴ共和国(旧仏領コンゴ)の内戦、サスヌゲソが権力に留まる

l  1997.7.19.――リベリアでテーラーが大統領となり、無慈悲なゲリラ時代と同様の統治

l  1998.5.21.――ジャカルタでアジア通貨危機に起因する暴動勃発、スハルト大統領辞任

l  1998.6.15.7.17.――ローマ会議で国際刑事裁判所設立決定、ローマ規定調印

l  1999.4.27.――ブーテフリカがアルジェリア大統領に選出

l  2000.6.10.――ハーフィズ死去、バッシャールがシリア大統領に

l  2000.10.5.――セルビアの「ブルドーザー」革命でミロシェヴィッチ退陣

l  2000.11.17.――フジモリ大統領が選挙での不正を指摘され、国外へ、議会が罷免

l  2001.1.16.――キンシャサでカビラが暗殺、息子が後継に

l  2001.4.1.――セルビアでミロシェヴィッチ逮捕

l  2003.2.26.――スーダンのダルフールで紛争、多くの民間人が犠牲に

l  2003.3.15.――中央アフリカ共和国でボジゼがクーデターを起こし、10年治政

l  2003.3.20.4.9.――サッダーム政権打倒のため多国籍軍がイラクに侵攻(「イラクの自由」作戦)

l  2003.12.13.――サッダーム逮捕

l  2004.11.21.12.26.――ウクライナの「オレンジ革命」。モスクワ寄りのヤスコーヴィチが選挙に勝ったが不正を抗議され、再選挙の結果ユシチェンコが当選

l  2005.10.19.2006.11.5.――イラク特別法廷がサッダームに死刑判決

l  2006.12.30.――サッダーム死刑執行

l  2007.2.15.――カディロフがプーチンによってチェチェン共和国大統領に任命

l  2008.7.14.――国際刑事裁判所がダルフール紛争のジェノサイドでアル=バシールに逮捕状発行

l  2009.1.26.12.3.14.――国際刑事裁判所がコンゴ解放愛国軍のルバンガ司令官を戦争犯罪で有罪に。同裁判所初の有罪判決

l  2009.4.7.――リマでフジモリ大統領に人道に対する罪で禁固刑の判決

l  2010.12.17.――チュニジアの露天商ブアジジ焼身自殺、「アラブの春」の発端

l  2011.1.14.――チュニジア大統領ベン・アリーがサウジに亡命。「アラブの春」拡大

l  2011.2.11.――ムバラクが大規模デモで辞任、政権を軍に託す

l  2011.3.17.――国連安保理決議1973により、リビアへの軍事介入へ。カダアフィの失墜につながる

l  2011.4.19.――カストロが第1書記のポストを弟に譲る

l  2011.8.20.28.――リビアの反体制派がトリポリを制圧

l  2011.10.20.――スルトで反カダフィ派部隊に拘束されたカダフィ死去

l  2011.12.17.――金日成が死去、金正恩が後継に

l  2012.5.30.――リベリアの元大統領テーラーがシオラレオネ特別法廷により50年の刑

l  2013.3.24.――イスラム系の反組織連合体セレカが中央アフリカ共和国大統領を制圧

l  2013.7.3.――エジプト軍の軍事クーデターによりムスリム系のムルシー大統領失脚

l  2013.8.21.――シリア政府軍が反政府勢力弾圧に化学兵器使用

l  2014.10.28.31.――ブルキナファソで革命、コンパオレが辞任

l  2016.7.15.16.――トルコでエルドアン大統領に対するクーデターは失敗、報復

l  2016.11.25.――カストロ死去

l  2017.11.14.21.――ジンバブエでクーデターによりムガベ辞任

l  2017.12.4.――イエメンで元大統領(在位’78’12)で陰の実力者サーレハ暗殺

 

 

 

 

 

 

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独裁者が変えた世界史 上

この本の内容

20世紀の悪名高き独裁者は、人類の歴史にどのような影響をあたえたのか。信頼できる資料をもとに歴史研究家、知識人、ジャーナリストが24人の実像に迫る。

 

 

 

独裁者が変えた世界史(上・下) オリヴィエ・ゲズ編 魅力的な20世紀の悪人列伝

2020/7/4付 日本経済新聞

海音寺潮五郎の著書名を借りて「20世紀の世界悪人列伝」と名づけたくなる快著。レーニンにはじまりムッソリーニやスターリン、ヒトラー、東條英機、フランコ、毛沢東、ホッジャ、カストロ、ホメイニ、カダフィ、ポル・ポト、サダム・フセインら、計20人を超える独裁者たちについて、簡潔ながら興趣つきない評伝をまとめている。

一人ひとりが大部の伝記にふさわしい面々なので、個々の章が食い足りないのは否めない。たとえば中国の現代史に詳しい人なら毛沢東の章はいささか退屈かもしれない。蒋介石・蒋経国親子の章がないのに違和感を覚える方もいるだろう。

とはいえ、これほど幅広く20世紀の「ワル」たちを紹介した本は珍しい。謎の多い独裁者たちの実像に書き手たちがそれぞれに迫ろうと努めているのが、魅力を高めている。ヒト臭い世界現代史入門の趣がある。

巻末に、ロベスピエールの恐怖政治から2017年にいたるまでの世界の独裁体制を概観する年表があり、けっこう便利である。ネ・ウィンやマルコス、アミン、チャウシェスク、スハルトら、本文では取り上げていない独裁者や独裁政権が少なくないこともわかる。

通読すれば自由で民主的な体制がいかに貴重で得がたいか実感できる。神田順子ほか訳。(原書房・各2200円)

 

 


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