火山のふもとで  松家仁之  2021.8.9.

 

2021.8.9. 火山のふもとで

 

著者 松家仁之(まさし) 1958年東京生まれ。早大第一文卒。編集者を経て12年本書を『新潮』に発表、デビュー作とは思えないスケールと完成度、奥深い世界観が各紙文芸時評等で大きな話題に

 

発行日           2012.9.30.

発行所           新潮社

 

初出 ⇒ 『新潮』20127月号

 

「国立現代図書館」設計コンペの闘いと、若き建築家のひそやかな恋を、浅間山のふもとの山荘と幾層もの時間がつつみこむ

胸の奥底を静かに深く震わせる、鮮烈なデビュー長編

各紙文芸時評で話題沸騰、鮮烈なデビュー長編!

 

「夏に家」では、先生がいちばんの早起きだった。――物語は、1982年、およそ10年ぶりに噴火した浅間山のふもとの山荘で始まる。「ぼく」が入所した村井設計事務所は、夏になると、軽井沢の別荘地に事務所機能を移転するのが慣わしだった

所長は、大戦前のアメリカでフランク・ロイド・ライトに師事し、時代に左右されない質実でうつくしい建物を生み出した寡黙な老建築家

秋に控えた「国立現代図書館」設計コンペに向けて、所員たちの仕事は佳境を迎え、その一方、先生の姪と「ぼく」とのひそやかな恋が、ただ一度の夏に刻まれてゆく――

小説を読むよろこびがひとつひとつのディテールに満ちあふれた、類まれなデビュー長編

 

 

「夏の家」では先生が一番の早起き。玄関真上の書庫で寝起きしていると、明け方玄関が開いて先生が散歩に出ていく。標高1000mを超える森閑とした森の明け方の静寂を破るのは、先生よりもさらに早起きの鳥たちの鳴き声

北青山の路地の村井設計事務所はコンクリート造の1軒家。毎年7月終わりから9月半ばまで開店休業状態で、北浅間の古い別荘地、通称青栗村にある「夏の家」へ事務所機能が移転する

13人の所員の内、経理担当他数人を残して移る。夫人は代々木上原の自宅で小児科医開業

公共建築や都心のビルの仕事が多かった60年代を過ぎて70年代に入ると、住宅設計の割合が増え、クライアントは知り合いの紹介がなかば条件になっていた

僕が事務所に入った1982年には先生は70代半ば、今は現場にこまめに足を運び、依頼主とも密に打ち合わせをするが、事務所の将来については誰もが気がかり。80年代に入ってブレーキを踏みこみ、新卒の採用もなかったが、4年になって尊敬する先生の下での修業を志して、卒業制作で進行中の車椅子の家族と同居するための小住宅プランを同封して就職志願の手紙を書いたところ、先生の興味を惹いたらしく、面談の後仮採用

 

先生は、60年代終わりから70年代初頭にかけて、日本よりニューヨークで知られた。1967MoMaで開催の20世紀建築展で日本から唯一紹介された建築家。東洋の伝統的な様式を背景にしながら、同時にモダニズムの色合いを帯びた清新な作品を作り上げる希有な日本人建築家と評され、60年代前半の代表作の1つ京都の老舗旅館「籠屋(俵屋)」の一部が「日本的モダニズム」の作例として美術館の中庭に再現され関心を集めた

世界の古い建築を訪ね、その一方で鉄とガラスとコンクリートが切り拓くことになったシンプルで合理的なモダニズムの方法論に早くから通暁し、独自の作風を確立していた

展覧会のオープニングパーティでいきなり自邸の設計を依頼してきた財閥の3代目(ロックフェラー)を信頼して引き受け、数カ月東海岸に滞在して設計し、アメリカの建築雑誌でも大きく取り上げられた。その後も設計依頼がいくつも舞い込んだが謝絶

60年代公共建築華やかなりし頃にも、設計競技が前提となる公共建築には手を出さず、目覚ましい建築論を語るような人でもなかったのでメディアに取り上げられる機会は少ない

面接で先生はしっかりぼくの話を聞いてくれた

80年代早々の、どこか騒がしい、風を切るような勢いの建築の世界で、先生の作品は日本的な伝統の流れをくむ懐かしいものとして評価されがちだったが、事務所の運営にも先生の建築にも、日本的とは言い難い合理性が貫かれていた

先生の作る空間がしみじみと落ち着いたものに感じられるとしたら、その理由は、例えば天井高が、床置きの照明が、南向きの窓にはめ込まれた障子が視覚的にもたらすものであり、何か秘術があるわけではない。先生はそれを外向きに語ろうとはせず、ぼくたちに向かって、情緒的ではなく理屈の通った形として具体的に伝えようとした

 

入所の1か月後、浅間山が1973年以来の大噴火、噴煙が房総半島まで届いたという

「夏の家」には幸い被害はほとんどなく、例年通り7月最終週には事務所総出で移転の準備をし、3台のツーリングワゴンに荷物を積んで出発。青栗村は旧北浅間駅の東。1956年建築の山荘はコンクリート造の上に2階建ての木造がのる混構造。1階レベルが地面から離れ森の湿気が這い上がりにくい構造

棚坂軽便鉄道は1914年開通、64年廃線。元々はアメリカの鉱山用に開発された電気機関車を使用。新軽井沢駅から1時間半かけて北浅間に到着。終点の草津までは3時間

事務所の管理は、先生の6年後輩で今は設計から離れた事務長が仕切る

 

63年正月の大雪ではヒマラヤスギの大木が倒れ、同じ青栗村にある84年に98歳で死去した小説家・野宮春枝(野上弥栄子)の別荘が半壊。年寄の1人暮らしに大きな家はいらないと、倒壊部分を撤去して1週間で補修、以後もその家で4編の長篇を書き上げた。青栗村創設メンバーの1人で80歳から亡くなるまで自治会の名誉会長。山荘新築の際は自治会の審査があったため、村は個人の繋がりで広がり、自治体として活発に活動していたが、80年代には世代交代が進み、転売により見知らぬ人々が当たり前の場所に変わっていった

 

山荘では8人が共同生活。事務所員以外に先生の姪・麻里子がアルバイトで週日のみ参加

先生の実家は本郷の老舗和菓子屋で、弟が継ぎ、その娘が麻里子。音大卒で実家暮らし

先生の美校の同級生の画家・山口玄一郎(脇田和)は、先生の多くはない友人の一人、アトリエも自邸も別荘もすべて先生の設計

事務所に20年以上も勤務する建築士が2人、コンペの素案を検討

 

先生は1939年渡米し、ライトのタリアセンで働いたが、「夏の家」はタリアセンの影響

ライトは、40歳で依頼主の妻と不倫、仕事にも実生活にも行き詰まりを覚え、190942歳で妻と子供をシカゴに残し、恋人と渡欧。2年後帰国、生まれ故郷のウィスコンシンの丘陵に新たな住居兼仕事場を建て、ウェールズにルーツを持つライトは、この小さな丘とその建物にウェールズ語で「輝ける額」を意味する「タリアセン」と名付ける。第1次大戦開戦直後に強盗放火で全焼、家族やスタッフも殺害、犯人は自殺、動機不明

失意のライトを救ったのは、帝国ホテルの設計。凶行の1年前日本での打合せが始まり、18年からの4年間東京での現場の指揮に当たるが、建築費が当初予算の6倍にも膨れ上がった他、度重なる設計変更にホテル側との軋轢が頂点に達し、支配人は引責辞任、慢性的な胃腸障碍に陥ったライトも完成を見ることなく離日。ホテルはライトの日本人弟子の指揮で23年完成、落成の披露宴の開始直前に関東大震災に見舞われたが、ホテルは被害を受けず。その実績が地に堕ちたライトを瀬戸際で救う。直後にアリゾナから高級リゾートホテルの仕事が舞い込み、ライトは新たな造形を生み出す力を与えられたように見えたが、29年の大恐慌で依頼主の建築資金が吹き飛び、大プロジェクトは幻となった

32MoMaでの「近代建築・国際展」では、ル・コルビュジェ、グロピウス、ファン・デル・ローエが主役で、65歳のライトは過去の人として扱われる

ライトの関心は、新しい世代の育成へと向かい、アプレンティス(徒弟:建築家を志す卵)をタリアセンに集め、共同生活の中で建築を学ばせるフェローシップ事業をスタートさせ、教育者として晩年を送ると思われていたが、37年ペンシルヴァニアの「落水荘」で不死鳥の如く蘇る

脚光を浴びた代償として、過労が引き金となって重い肺炎を患い、アリゾナに転地療養したのが契機となってアリゾナにタリアセン・ウェストを造営、毎年恒例の転地ツアーがスタート。先生が紹介状を貰ってライトに手紙を書き、タリアセンに志願したのが39年、開戦後も居続けたが、ライトのタリアセンは兵役拒否の温床とFBIから睨まれ、424月仲間と離れてニューヨークに移動、日米交換船で帰国。そこで知り合い後に友人となったのが哲学者・梶木(安部能成/天野貞祐?)。帰国から3か月後の4211月事務所スタート

 

先生の持論は、「基本設計で少しでも腑に落ちない部分が残ると、実施設計の段階で必ず問題が再燃する。本当に納得するまで言葉は尽くした方がいい」「うまくいった家は、こちらが説明する時に使った言葉をクライアントが覚えていて、訪ねてきたお客にその言葉で自分の家を説明するようになる。建築家の言葉がそこに暮らす人たちの言葉になっている。そうすれば成功」「理詰めで話すよりもクライアントの具体的な希望をよく聞くこと」

事務所の仕事は鉛筆削りから始まる。鉛筆はステッドラー・ルモグラフの2H。オピネルのフォールディングナイフで削る。リラのホルダーを使って2㎝まで使用。午前と午後で最大10本を使うぐらいが仕事の正確さを守る目安で、それ以上削るのは筆圧が強すぎるか、乱暴か、急ぎ過ぎか、のいずれかで、考えなしにやっている証拠。図面は休み休み引けという不文律がある

 

ぼくが先生の事務所に志願した理由は、80年竣工の飛鳥山教会(レイモンド作?)に惚れて実測をしたこと

先生の設計の中心にあるのは、何よりも説得力を持つのはデザインだという考え方で、建物のデザインそのもので設計の提案や意図を説得できなければならない

事務所の2人のベテラン建築士からそれぞれの「国立現代図書館」の設計素案が説明され、議論を深める

 

建築用語で馴染めなかったのが「開口部」と「解」で、前者は解剖学でいう人体の各種の穴のことであり、後者は建築には完璧な答えは存在しないところから、「正解」ではなくただ「解」と一歩引いて書く。「施主(元々は施工主)」というのも、建築家の仕事が国家や宗教が何かを計画するとことから始まったので、そもそも施され与えられるものだったことに由来

設計素案の建物はベテランが担当し、書棚や家具調度類は若手が担当。先生から集会室で使うスタッキング・チェアの図面をおこすよう指示される。ライトより一回り年下だが55歳で早世した建築家・アスプルンドが設計したストックホルムの市立図書館の資料が参考になる。ライトよりもどこか先生の思想に通じるものが感じられる

 

山口画伯の別荘に空き巣が入り、その補修のための図面を引かされる。防災を徹底した家は要塞であって、住宅ではない。居心地がいいかどうかははなはだ怪しいと先生は言う。ある程度までは防災にも配慮した形とするが、飽くまで住み心地を優先

 

先生のプランは大きな六角形の本館と小さな六角形の付属棟が傾斜した回廊で繋がれたもので、一階おきに六角形の上に6つの角に接する円を重ね、円を巧みに組み合わせている。円という形は難しく扱いにくい。円の持つ全方位性、回遊性は、実は閉ざされたもので、外に開かれ、外と行き来できるものにはなりにくい。宗教施設のように中心を求め、閉じてゆく場を必要とするときには円の求心性が有効だが、公共的な開かれた空間では扱いが難しい。空間としての円ではなくて、外側から触れたり見たりする円の曲面は捨て難い。球体は外側に出るととたんに引力を発生する

セットバックした空間がたっぷりとられ、青山墓地近辺に意外と少ない広場的空間を提供

ある日突然麻里子から、実父と先生が相談してぼくと麻里子を結婚させようとしていると打ち明けられる

 

完璧な建築なんて存在しない。誰にもできはしない。いつまでもこねくり回してクライアントを待たせておくほどのものが自分にあるのか。そう問いながら設計すべき。いざという時のために常に時間を見ておく。そういう意味では建築は芸術じゃなく、現実そのもの

人の気持ちとはどう動くかという理(ことわり)が、先生の建築の根幹をなしている

 

10月半ば過ぎ、図書館の仕上げに集中するため、先生とぼくは2人だけで週末「夏の家」に籠ることになり、車で出かける。予想外に早く仕事が終わり、粒良野の愛人の家に立ち寄って一晩温泉に浸って帰ることになったが、粒良野の手前で脳梗塞を発症、すぐに長野の病院に担ぎ込まれたが重篤で集中治療室にそのまま留め置かれ、クリスマスが近づいてようやく左半身に動きが出てきた

11月には「国立現代図書館」の設計競技が行われ、先生のプランは「参考出品」として参加が認められたが、1等は船山(丹下)のプラン。威厳が求められるのであれば異存はないが、どう見ても依然として先生のプランがあらゆる意味で船山プランを凌いでいると思われた

 

建築には耐用年数がある。家は竣工した瞬間に建築家の手を離れ、クライアントと時の流れにその運命を委ねる。住む人間や持ち主が変われば住宅への評価もがらりと変わるのは道理で、取り壊しの知らせは建築家にとって内心どこかほっとする部分がなくもなかった。少なくとも私の場合はそうだった。30年前、先生が所長室の机の中に用意してあった手紙を事務長から見せられた時、自らは語ることの無かった事務所の将来について、何らかの理由で事務所が続けられなくなった時は自分の医療生命保険を元手にチーフ・アーキテクトに事務所の作品の事後管理を頼み、4年後には解散すると、あらかじめ書き残していたのだ―――この章以降、語り手は「ぼく」ではなく「私」となっている

 

83年初、意識が回復し人工呼吸器が外れたところで都内の病院に転院

初夏になって車椅子で事務所に顔をだした先生は、所長室の引き出しにあった事務長宛の手紙を渡して帰っていく。前年の7月末日付の手紙には万一の場合の事務所の始末についての指示が書いてあった

ベテランの建築士3人が事務所を作って独立、ぼくは事務長の好意で、事務所のOBの設計事務所に転籍、麻里子は学校の先輩と結婚して和菓子屋を継ぐ

85年先生逝去

 

私が初めて「夏の家」に行ってから29年後に再訪

先生が亡くなって麻里子の父が買い取ったが、麻里子の父が亡くなって私に買い取ってくれとの申し出があり、私の事務所の共同経営者でもある妻と一緒に視察に来た

妻は先生の事務所の3年先輩

 

 

松家仁之「火山のふもとで」 長野・軽井沢町

ようするに先生の設計っていうのは、含羞なんだよ。

文学周遊 2021731 14:30 日本経済新聞

「昔は、季節を問わず、集中して仕事をしたくなると出かけていった。図面を描く合間に、自分で風呂を焚き、食事をつくったり、暖炉に火を燃やして楽しんだものである。現在は、7月頃に出かけ、9月の初めまでのひと夏を静かに過ごしている」

皇居・宮殿の基本設計などで知られる建築家、吉村順三(190897年)の晩年の著書「小さな森の家 軽井沢山荘物語」の一節だ。

建築家の理想は自邸に宿る。竣工は1962年夏。吉村は、長野県軽井沢町に構えた「夏の家」と当地の風土を愛した。建築を志す者にとってその図面は聖典である。

小説のモデルを詮索するのは慎みを欠く行為かもしれない。でも、火山の麓に立つ著名建築家の別荘でのひと夏を描く本作の読者は、吉村とその薫陶を受けた建築家を思い浮かべずにはいられない。

物語は、80年代に〈あこがれの名匠=先生〉の設計事務所に入所した「ぼく」の回想で進行する。なぜ何の実績もない学生が採用されたのか。履歴書に同封した「車椅子の家族と同居するための小住宅のプラン」が先生の目に留まったのだ。この挿話が美しい。

建築家は、しばしば思想を語り、作品に自身の署名を刻もうとする。でも、「建築は芸術じゃない。現実そのものだよ」と先生は説諭する。

人にも建築にも寿命がある。だから先生は、やがて旅立つ住み手の日々の暮らしに寄り添う調度品など細部の手触りや寸法に心血を注ぐのだ。

作品はこの別荘地にかつて軽便鉄道「北浅間駅」があったと、描く。廃線になった群馬県長野原町の草軽電気鉄道「北軽井沢駅」が想起される。漱石一門の英文学者、野上豊一郎、弥生子夫妻も当地に別荘を構えた。作中に弥生子を思わせる作家も登場する。

一方、吉村は軽井沢の「室生犀星文学碑」にほど近い川辺に別荘を建てた。吉村事務所はこの地で約20戸の別荘を設計した。「脇田美術館」に隣接する邸宅もその一つ。

小説の末尾に、漱石作品ほど長大ではないが、「先生と遺書」が用意される。彼は設計を〈終わり=死〉から考えていたのだ。仕事への責任と愛情はそこから生まれる。

作家は「先生」のもう一つの物語を執筆中だ。本作に張られた伏線がどう回収されるのか。楽しみに待ちたい。

(編集委員 和歌山章彦)

まついえ・まさし(1958~) 東京生まれ。出版社の編集者を経て2012年、「火山のふもとで」を発表。読売文学賞を受賞した。「沈むフランシス」「優雅なのかどうか、わからない」「光の犬」に続き今春、高校生を主人公にした青春小説「泡」が刊行された。

端正な日本語が魅力だが、本書や「光の犬」などの装丁が素晴らしい。長年、活字文化を裏方で支えたプロの目配りだろうか。単行本というモノを所有する喜びを読者に与えてくれる。文芸誌に連載中の「天使も踏むを畏れるところ」は、本作の「先生」の若き日を描く。連載を毎回読むか、しばらく我慢して美しい本の出版を待つか。ファンは悩むところだ。

(作品の引用は新潮社刊)

  



Wikipedia

吉村 順三(よしむら じゅんぞう、190897 - 1997411)は日本の建築家皇居新宮殿の建設に関わった。

l  経歴[編集]

東京市本所区緑町の呉服商の家に生まれる。東京府立三中卒業。東京美術学校(現東京藝術大学)で建築を学び、実測と観察を通して日本の古建築に触れた。1931年に卒業[1]後、アントニン・レーモンドに師事。モダニズム建築を体得するとともに、レーモンドに日本建築を伝える。1941年、吉村順三設計事務所を開設。1945年、東京美術学校助教授就任。1962年、東京藝術大学教授に就任。1970年、東京藝術大学名誉教授。1990年、日本芸術院会員。

日本の伝統とモダニズムの融合を図った。

吉村の設計物件を特命で手掛けた建設会社としては、1933年から2014年まで営業しており、皇居新宮殿を担当した老舗・岩本組が知られている[2]

作品[編集]

名称

所在地

備考1

備考2

備考3

明和紡績工場

1952

静岡県藤枝市

佐倉厚生園サナトリウム

1953

千葉県佐倉市

医療施設

東山魁夷邸 

1953

千葉県市川市

専用住宅

三里塚教会

1954

千葉県成田市

宗教施設

共立蒲原病院

1954

静岡県蒲原市

医療施設

国際文化会館

1955

東京都港区

前川國男坂倉準三と共同設計

ニューヨーク日航事務所

1956

ニューヨーク

現存せず

オフィス

モテル・オン・ザ・マウンテン

1956

ニューヨーク

専用住宅

南台の家

1957

東京都中野区

専用住宅

葉山海の家

1957

神奈川県葉山町

専用住宅

箱根ホテル小涌園

1959

神奈川県箱根町

宿泊施設

河庄

1959

福岡市中央区

京都国際ホテル

1961

京都市中京区

現存せず

宿泊施設

東京都立竹早高等学校竹早山荘セミナーハウス

1961

山梨県北杜市

ソニー研究所

1962

神奈川県横浜市

現存せず

軽井沢の山荘(吉村山荘)

1962

長野県軽井沢町

専用住宅

NCRビル

1962

東京都港区

オフィス

東京クラブ

1964

東京都港区

現存せず

池田山の家

1965

東京都品川区

現存せず

専用住宅

浜田山の家

1965

東京都杉並区

専用住宅

俵屋

1965

京都市左京区

宿泊施設

久我山の家

1965

東京都杉並区

専用住宅

日本アメリカーナ大阪ビル

1966

大阪府

御蔵山の家

1966

京都府宇治市

専用住宅

愛知県立芸術大学

1966

愛知県長久手市

大学施設

文殊荘新館

1966

京都府宮津市

宿泊施設

湘南茅ヶ崎の家

1968

茅ヶ崎市

専用住宅

皇居新宮殿基本設計

1968

東京都千代田区

途中で宮内庁と意見が対立し辞任

青山タワービル・タワーホール

1969

東京都港区

事務所
音楽ホール

行川アイランド

1969

千葉県勝浦市

ホテルフジタ京都

1970

京都市中京区

現存せず

宿泊施設

山中湖の山荘 A (亀倉山荘)

1970

山梨県山中湖村

専用住宅

軽井沢の山荘 B (脇田山荘)

1970

長野県軽井沢町

専用住宅

井の頭の家

1970

東京都三鷹市

専用住宅

ジャパンハウス

1971

ニューヨーク

田園調布の家・猪熊邸

1971

東京都大田区

専用住宅

奈良国立博物館 新館

1972

奈良県奈良市

博物館

高野パール

1972

奈良県奈良市

ポカンティコヒルの家

1974

アメリカ

専用住宅

ロックフェラー3世の家

嬉野温泉 旅館 大正屋

1974

佐賀県嬉野市

宿泊施設

仙石芙蓉荘

1974

神奈川県箱根町

八ヶ岳高原音楽堂

1988

長野県南牧村

音楽ホール

受賞歴[編集]

日本建築学会賞作品賞(1956年)

ニューヨーク建築家協会デザイン優秀賞、パーソン賞(1972年)

日本芸術院賞1975年)[3]

勲三等旭日章1982年)

毎日芸術賞1989年)

文化功労者1994年)

勲二等瑞宝章1997年)

吉村順三に師事した人物[編集]

奥村昭雄

金壽根(キム・スグン)

中村好文

益子義弘

松村勝男

宮脇檀

平尾寛

張忠信

手嶋保

永田昌民

大野寛

板垣弥也

著書[編集]

『現代日本建築家全集8 吉村順三』三一書房1972年)

『吉村順三作品集 1 1941-1978新建築社1978年)

『吉村順三のディテール 住宅を矩計で考える』宮脇檀共著、彰国社1979年)

『新建築別冊 日本現代建築家シリーズ 7 吉村順三』(新建築社、1983年)

『吉村順三建築図集』(同朋舎出版、1990年)

『吉村順三住宅作法』中村好文共著、世界文化社、1991年)

『吉村順三作品集 2 1978-1991』(新建築社、1991年)

『吉村順三を囲んで』宮脇檀/六角鬼丈/藤森照信/中村好文、TOTO出版、1992年)

『小さな森の家  軽井沢山荘物語』(建築資料研究社、1996年)

『吉村順三設計図集』(新建築社、1998年)

『建築家 吉村順三のことば100 建築は詩』(永橋爲成監修/吉村順三建築展実行委員会編、彰国社、2005年)

『火と水と木の詩 私はなぜ建築家になったか』(講演録、新潮社、2008年)

 

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