日本人の足跡(2)ー長沢鼎、薩摩治郎八、クーデンホーフ光子  産経新聞  2020.12.28.

 

2020.12.28. 日本人の足跡(2)――世紀を超えた「絆」を求めて

 

著者 産経新聞『日本人の足跡』取材班

 

発行日           2002.2.20. 初版第1刷発行

発行所           産経新聞ニュースサービス

 

20-06 赤星鉄馬の評伝』で、叔父として言及あり

 

 

ピュリッツァー賞カメラマン沢田教一、無位無官の「知の巨人」南方熊楠、インドシナ遍歴の新聞記者近藤紘一、黒い瞳の伯爵夫人クーデンホーフ・光子、幕府オランダ留学生榎本武揚・・・・などなど、第2巻もスケールの大きな人々が揃った

「戦」が「今年の漢字」に選ばれた21世紀開幕の年が去った今、どんな時代を造るべきか。その指標を、少しでも本書から読み取っていただければと思う

 

 

²  カリフォルニアのブドウ王 長沢鼎(18521934)                   松尾理也

薩摩生まれ。13歳で英国留学、その後渡米。カリフォルニアのサンタローザにワイナリーを開いて財を成し、「プリンス」「バロン」と呼ばれた。日系社会の重鎮として活躍し、サンタ・ローザで死去。享年82

Ø  謎に満ちた国際人 光当てたレーガン演説

1983年晩秋、来日したレーガン大統領が、米大統領として初めて国会で演説。「ナガサワというサムライ・スチューデントがサンタローザでワイナリーを開き、間もなくカリフォルニアのグレープ・キングとして知られるようになった。日米両国にとって、この元戦士のビジネスマンの功績は多大」

国際交流協会の米国側会長が長年日米の交換留学生事業に携わっていたが、定年後サンタ・ローザに移住した際、長沢に興味を持って調べ始める。米国大使館の友人を通じて調べたことが大統領周辺の耳に入り国会でのスピーチに繋がる。1915年サンフランシスコ万博で長沢は審査員を務め、長沢の残したゲストブックにはエジソンやフォードの名前が残るほど、かなりの有名人だったことがわかる。元会長はその後も長沢のことを地元コミュニティにアピールしてきたのが実って、サンタ・ローザ市役所内の商工会議所ホールには長沢の胸像が飾られる

日本が列強の一員に加わったころ、米国社会で掴んだ成功は、日本人にとって愛国心を鼓舞するような興奮を呼んだに違いなく、1920年代の日本では長沢の半生を題材にした映画も作られた ⇒ 出身地の薩摩に高貴な血を引く許嫁がいたというラブロマンスだったが、事実ではなさそう

長沢は、森有礼、五代友厚らとともに幕末薩摩が英国に送り出した「薩摩藩留学生」15人の中の最年少

全米で最も広範な日系移民史料のコレクションがあるUCLAにあった長沢の手紙には、明治3年森が初代駐米弁務使としてワシントンに来た際、帰国して働きたいと申し出たが、1年先に岩倉大使が来るまで待てと言われ、今でなければ一生帰らないと啖呵を切って、そのままアメリカに居続けることになったといういきさつが書かれていた

明治の最後にサンフランシスコに寄港した海軍練習艦に、島津家30代当主島津忠重が士官候補生として乗り組んでいたが、事業に大成功した長沢が馬車を仕立ててサンタ・ローザに招き、門前で土下座して迎えたという

長沢は自らの内面を語ることがなかったので、謎を深めてもいる。唯一残した文章は、1909年「加州日本人中央農会」主催の「老農懇親会」に寄せた『実験及び研究――ぶどう栽培及びぶどう酒醸造について』という一文のみ。当時56歳で、日本人移民に、植え付けと手入れ、ワインの醸造方法、さらには販売、経営に至るまで広範に指南

 

Ø  13歳で密航、英国留学――気丈なサムライ・ボーイ

サンタ・ローザは、漫画『ピーナッツ』の作者チャールズ・シュルツが暮らしたスヌーピーの故郷

1960年代半ば、地元誌の編集者が郷土史を監修した時に長沢のことを発掘

長沢が残した業務日誌のような英文の日記を読み、地元にその存在をアピール

1852年薩摩藩天文方の家に生まれ、本名は磯永彦助。64年藩が開設した「開成所」に入学、翌年英国へ。密航のため変名を与えられ長沢鼎となる

一行はロンドン大学に聴講生として入学するが、長沢だけは年少もあってアバディーンの中学に入学

 

Ø  終生の師と出会う――カルトの中で自給自足

長沢以外の留学生は、夏休みを利用してアメリカに向かい、付き添いの英外交官から、カリスマ的教祖トーマス・レーク・ハリスを紹介される。教団を率いてコロニーを運営していたハリスの教えは、禁欲的な武士道の精神にも通じる快い響きで共鳴

ハリスに紹介された長沢は心酔、経済的に困窮していたこともあって、米国の教団で労働しながら勉学に励むという選択をして、1867年ハリスについて米国に旅立つ

教団「ブラザフッド・オブ・ニューライフ」はエリー湖畔のニューヨーク州ブロクトンにあり、ワイン醸造が主要事業。苦しい惨めな思いで22歳までを過ごす

この間、アメリカに留学した山川捨松(後の大山巌夫人)との間にロマンスの噂もあったが、頑なに妻帯を拒み生涯を独身で貫く

 

Ø  信仰とビジネスと――頭角現わしつつ抱える矛盾

ハリス教団は一種のカルト ⇒ カリスマ性を持った指導者の下、理想の生き方を追求するために、宗教的あるいは社会主義的なコロニーを結成している団体のこと

780人との共同生活で頭角を現し側近にまで上り詰める

他の留学生は明治維新を機に帰国するが長沢は残り、1875年教団内の内紛を機にハリスが少数での再建を決断してカリフォルニアに移住した際同行。サンタ・ローザに土地を買って「ファウンテングローブ」と名付けワイナリーを始める

同行したもう1人の日本人が荒井常之進(後に奥遂)で、仙台藩士で箱館戦争まで従軍して抵抗、初代駐米弁務使として米国に行く森に従者として渡米、ハリスに傾倒していた森が箱館以来敬虔な信者だった荒井を人材として斡旋、以後信仰生活に入り、サンタ・ローザでは印刷所の担当。荒井はその後帰国して巣鴨に住み、「巣鴨聖人」と呼ばれ、田中正造らに影響を与えた

荒井はハリスの反対を押し切って自らの意思で帰国、一方の長沢はハリスによって精神世界に引き寄せられたが、同時に抑圧も感じる、そんな矛盾した感情に悩まされた結果が「沈黙」に繋がったのではないか。ほとんど記録が残っていない

 

Ø  白人社会に太いパイプ――ワイナリー成功、地歩を築く

現在のファウンテン・グローブには、「パラダイスリッジ」という小さなワイナリーが建ち、ブドウ畑は「ナガサワ・ヴィンヤード」と名付けられ、今なお地元のワインメーカーのパイオニアとして尊敬されている

1879年ブドウの植え付けを始め、欧州での寄生害虫大発生による打撃も手伝って、順調にスタートし、82年には醸造所完成、93年には州内コンテストで2位に、販路は世界へ

牛島謹爾(18651926)は「ポテト・キング」として名を馳せる。1888年渡米してストックトンでジャガイモ農園を始めて成功したが、彼に米国史上最も重要な園芸家と言われるルーサー・バーバンクを紹介したのも長沢ではないか

サンタ・ローザで成功した長沢が再々試みたと推定されるのがメキシコへの移住。何度か帰国し、移住のための資金を募集。25万人収容のコロニーの建設を説く。1897年以降のことで、その後激しくなる排日運動への対策というより、自らの夢の実現だったようだが、資金は集まらず。後に高橋是清もサンタ・ローザに長沢を訪ねる

 

Ø  最後まで「孤高」貫く――称賛と嫉妬の中で大往生

1906年サンフランシスコ大地震の際、日本人学童は中国人学校へ通うことが義務付けられ(サンフランシスコ学童隔離事件)、排日運動が始まる。日露戦争を契機とした黄禍論が根底にあり、日本人学童再編入で解決したものの、日米紳士協定による移民渡航の自粛が定められた。23年には日本人による土地所有禁止令も発令されたが、長沢は例外

当時日系社会で発刊された『北米之日本人』でも、長沢は優等生として評価。駐在員とも交流する一方、本格化した日系移民の雇用にも貢献し、多くの日本人が巣立っていく

1920年禁酒法施行によりビジネスは縮小したが、それまでの貯えにより生活は豊かで、排日の嵐の中、長沢は日本人の誇りである一方で、嫉妬の対象にもなる

1934年禁酒法廃止の2か月後逝去。地元誌は最大級の賛辞を贈る。遺産118,050ドル

長沢は、カリフォルニアのブドウ王として、同時代の日本人とは比較できないほどの成功を手にし、それが余りにも完璧だったため、成功に伴う孤独もまた完璧になった

 

 

 

 

 

朝日新聞より

鹿児島)「長沢鼎の印鑑」発見 英国留学生記念館に寄贈

城戸康秀

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写真・図版再建されたワイン醸造所「パラダイス・リッジ・ワイナリー」につくられた長沢鼎の資料展示コーナー(米カリフォルニア州サンタローザ、いちき串木野市提供)

 

 薩摩藩英国留学生の1人、長沢鼎(かなえ)(18521934)のものとみられる印鑑が、米サンフランシスコ在住の親族から、薩摩藩英国留学生記念館(いちき串木野市)に寄贈された。今月から一般公開されている。

 長沢は1865年、藩命による留学参加者の中で最年少の13歳で渡英。米国に移住し、後にワイナリー経営で成功して「ブドウ王」と呼ばれた。印鑑は長沢の妹の孫が残した遺品の中にあり、発見した娘のメアリー・イジチさん(67)が今年1月末、記念館に郵送してきた。

 小判形(長径10ミリ、短径6ミリ)の印鑑は水晶製で「長澤」の文字が彫られている。朱肉がついているなど使用された形跡があるが、押印された文書は見つかっていないという。

 長沢の氏名は、出国時の藩主から授けられたとされる。生涯独身だったことから、記念館は本人の印鑑とみているが、いつ、どこで、誰が作ったのかは分かっていない。長沢は明治から大正にかけて4回帰国し、1910(明治43)年には鹿児島市で長沢の戸籍が登録されており、その際に使われた可能性があるという。

 記念館は「長沢は本名を使わず、藩主から授かった氏名を米国でも名乗り続けた。印鑑は、そうした長沢の『ラストサムライ』としての気概を物語る貴重な資料」と説明している。

 先月にあった印鑑の報道公開の際、長沢のブドウ畑の一部や遺品などを引き継ぎ、2017年に山林火災で焼失したワイン醸造所「パラダイス・リッジ・ワイナリー」(カリフォルニア州サンタローザ)が昨年12月に再建されたことも報告された。このワイナリーは、焼失したタキシードなどの遺品を展示し、記念館が長沢の資料収集を行う際に親族を紹介するなど協力してきたという。

 被災を受けて、鹿児島市のサンタローザ友好協会といちき串木野市が募金活動を展開し、計約380万円を現地に贈るなど交流が続いていた。

 記念館の資料収集時から米国の関係者と接してきた同市観光交流課の奥ノ園陽介さんによると、今年2月半ばにワイナリーからメールが届いた。感謝の言葉とともに、再建された建物や長沢の資料展示コーナーの写真が添えられていた。焼け跡から見つかった長沢の日本刀もそのまま展示されているという。(城戸康秀)

 

 

全米のバーに焼酎を 超名門大の「黒船」准教授が仕込む

伊藤繭莉

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 焼酎にはまった米国人研究者が、伝統的な手法にこだわったオリジナル焼酎を造った。「焼酎との出会いが人生を変えた」とまで語る米国人による焼酎は、近く販売される予定だ。

 昨年12月中旬。福岡市在住のスティーブン・ライマンさん(49)が、鹿児島県いちき串木野市の大和桜(やまとざくら)酒造で、黙々とサツマイモを切っていた。焼酎造りに関わって7年目、製造工程はすべて把握している。

 専門のスポーツ医学で、普段は大学の医学部でスポーツ選手の関節のけがなどを研究している。米国のコーネル大学の准教授として在籍するほか、日本の大学で講師も務めている。

 焼酎造りは肉体労働だ。米を洗って蒸して糀(こうじ)をつくり、芋を洗って蒸す作業など早朝から深夜まで続く。酒蔵にいるときは、併設の事務所で寝泊まり。「いつもは脳を使ってばかりだから、頭がすっきりしてリラックスできます」と話す。

 焼酎との出会いは2008年、出身地の米ニューヨーク州で偶然入った日本居酒屋だ。ワインやビールに比べて腹が膨れず、料理が進んだ。「料理に合うし、心地よかった」。別の日には泡盛や芋焼酎を飲んだ。最初はにおいがきつくて飲めなかったが、次第に好きになり、焼酎があるニューヨークの店を飲み歩いた。

 焼酎に関する英語でのサイトがなかったため、友人と焼酎に関するサイト「乾杯US」を開設。それぞれの焼酎の甘さやなめらかさをチャートで紹介した。

 製造工程を知りたくなり、12年に九州・沖縄の酒蔵をめぐった。そのときに大和桜酒造と出会った。家族経営で、仕込みの季節には1日も休まず糀の状態を確認していることを知り、感銘を受けた。

 翌年、インターン研修をさせてほしいと杜氏(とうじ)の若松徹幹さん(42)に申し出たところ「日本語ができるようになってから」と断られた。それでも待ちきれず、23カ月後に再度、押しかけた。以来、日本で大学講師を務める18年まで、酒造りの季節に毎年、米国から鹿児島に渡った。

 酒造りを知るにつれ、疑問も湧いた。米を機械でなく手で洗う理由を聞くと、若松さんは「米洗いで手を抜けば、芋洗いも手を抜き、いつかもっと手を抜くことになる」と答えた。一つの工程もおろそかにできないと思った。

 初めてのインターン期間の最終日、若松さんから「自分の焼酎をつくってみたら」と提案された。ところが、翌年訪れると、若松さんはそのことに触れなかった。「自分は試されているのだ」と思った。インターン3回目となる15年の最終日、若松さんから「もうインターンではなくアシスタントだよ」と働きぶりを認められ、翌年からのオリジナル焼酎造りを許された。

 江戸時代から続くこの酒蔵では初めて外国人が酒造りに挑んだ。若松さんは「『神は細部に宿る』というが、掃除がきちんとでき、作業の意味も考えているので、酒造りに向いていると思った」と話す。

 材料は、焼酎で使う白糀ではなく、泡盛で使う伝統的な黒糀にこだわった。ニューヨーカーは健康や自然に配慮してオーガニック好き。サツマイモや米は、有機栽培のものにした。初めて蒸留器を使わせてもらい、甕(かめ)で熟成させた。アルコール度数は、大好きな元大リーガー、ドワイト・エバンスの背番号にちなみ、鹿児島の一般的な焼酎より1度低い24度にした。

 約3年熟成したものを昨年試飲した若松さんは「黒糀を使うのは初めてで、試飲したときは好きな味ではなかった。まろやかな味で口当たりもよかった」と出来を褒めた。

 焼酎の名前は「鼎(かなえ)」。米カリフォルニアでワインを造った薩摩藩士、長沢鼎(18521934)からとった。ライマンさんが米国で勤務するコーネル大学の生徒だった長沢は、ライマンさんの出身地の近くでワイン造りを学んだ。海外で酒を造るライマンさんは、自分と長沢を酒造りの開拓者として重ねた。

 ライマンさんが酒蔵に来て以来、酒蔵には毎年外国人が訪れるように。若松さんは「宣伝をしていないのに、口コミだけで海外の人が来るようになった。スティーブンが黒船のようにやってきて、焼酎の良さを改めて感じられた」と話す。

 ライマンさんは「焼酎は香りがいいし、アルコール度数が低いから米国人も気に入るはず。全米の全てのバーに、焼酎が置かれるようにしたい」と夢を抱く。

 ライマンさんは知人と共同で出資し、一昨年末に福岡市中央区の酒屋「ニューヨークワイン トレーダーズ」内に角打ち「よか晩NY」を開いた。「鼎」はこの酒屋で販売し、角打ちでも飲めるようにする計画だ。問い合わせは大和桜酒造(0996362032)へ。(伊藤繭莉)

 

 

みなさんから・編集部から

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 みなさんから

 6、7面の「みちのものがたり」、日本人にして米カリフォルニアのワイン王となった長沢鼎(かなえ)について「初めて知った」という声が多く寄せられました。「国際人になる強い決意をお持ちで、白人に負けてなるものかと日本人の意地を最後まで通された生涯に深い尊敬の念を抱きました」(香川、51歳男性)、「気骨ある生き方に心動かされた」(東京、64歳女性)。

 

 

(みちのものがたり)カリフォルニア・ワイン王の道 米国 13歳の密航留学生、西欧へ

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写真・図版ファウンテングローブの今

写真・図版

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 米カリフォルニア州ソノマ郡。高級ワインで有名なナパバレーのとなり、その歴史はナパよりも古い。車道からは黒く焦げた木々やブドウの苗木が見える。2017年の大規模な原野火災の傷痕だ。

 西海岸を南北に走る国道101号を少し入ると、ショベルカーが広大な空き地を行き来していた。周辺には産業団地やゴルフ場、住宅地もある。100年前、ここはブドウ畑だった。ワイン醸造所や温室、馬小屋を備え、洋館のまわりには草花が生い茂った。だが、往時をしのばせる「痕跡」はもう何もない。

 「ファウンテングローブ・パークウェー」

 その道の名を除いては。

 長沢鼎(かなえ)(18521934)が、この光景を見たらなんというだろう。薩摩藩士の本名磯長彦輔。幕末に禁を破って、13歳で英国に密航し、数奇な運命に翻弄されながら「カリフォルニアのワイン王」と呼ばれるまでになった人物だ。

     *

 1865(元治2)年417日。鹿児島県の羽島浦から、英国を目指す1隻の船が旅だった。薩摩藩主の密命を受けた藩士19人が乗船。最年少の長沢のほか、後の大阪商法会議所会頭の五代友厚や、後の文部大臣の森有礼らが名を連ねた。船は武器商人トーマス・グラバーが準備した。

 留学生の送り出し計画は、63年の薩英戦争後に持ち上がる。英国の最新鋭の艦船と大砲の攻撃で街は焼き尽くされ、薩摩藩は「親英政策」にかじをきった。64年に開成所(洋学校)を設立し、長沢は英学を選択した。長沢の名は密航前、藩主から賜ったものだ。

 出航から2カ月、ロンドンに着いた留学生は、港にひしめく蒸気船蒸気機関車、高層の建築物群に驚く。幼い長沢はほかの留学生から離れ、英スコットランドのグラバーの実家に身を寄せた。無二の親友となる森は、兄への手紙で「誠にこの児(こ)は剛気の人にてすえ頼母敷(たのもしき)」と評した。

 長沢は優秀で、腕っ節も強かったようだ。スコットランドの中学で英文法など6科目で成績優秀者に名前があがった。他方、けんかになると懐中時計で相手を打ち据えた。のちに、自身が「私が刀を腰に差していたら、英国の町人や百姓を何人傷つけたかしれない。まことに危険千万であった」と振り返っている。

 しかし、維新の動乱で藩からの送金が途絶え、長沢ら6人は67年、宗教結社「新生兄弟社」の教祖トマス・レイク・ハリスを頼って渡米。東海岸の教団のコロニーで厳しい農作業に従事した。

 71年ごろ、当時19歳の長沢に将来を決定づける出来事が起きる。先に帰国した森が、日本初の米駐在少弁務使として、ワシントンに戻ってきたのだ。長沢は森を訪ね、帰国の相談をする。「来年、一緒に帰ろう」と提案する森に対し、長沢は「いまでないなら、一生帰らない」とたんかを切ったという。

 ただ、長沢の気持ちは揺れていたようだ。森あてとみられる手紙の下書きにその真意がうかがえる。「(日本人に)いま最も必要なのは、人間社会の根底にある構造をより深く知ることだと思う。僕は将来役立つための最善の準備を進めている」

 長沢の伝記を書いた鹿児島国際大の森孝晴教授(米文学)は「長沢は明治維新を経験しておらず、藩主がいなくなった日本に帰りたくても、帰れなかった。日本の未来のために、国際人として生きる道を選んだ」とみる。

 大陸横断鉄道開通から6年後の75年、長沢はハリスと共に西海岸に向かう。ここから「カリフォルニアのワイン王」の道が始まった。

 白人に日本人の意地示す

 長沢らはサンフランシスコの北90キロのサンタローザに土地(16平方キロ)を購入した。木々が並ぶなだらかな丘陵地。ハリスは「ファウンテングローブ(泉湧く木立)」と名付けた。

 研究熱心な長沢は、本格的なブドウ栽培とワイン醸造に取り組む。82年、60万ガロン(約227万リットル)の貯蔵能力がある醸造所が完成。93年には当時のカリフォルニアワインの生産量の1割にあたる21万ガロン(約80万リットル)を占めた。州内800以上のワイナリーが参加する品評会で2等に入賞するなど品質も評価され、英国や日本に輸出した。

 1906年、ハリスが死去。長沢は農場(約75平方キロ)など遺産を継承した。

 生涯独身の長沢は、日本からおいの伊地知共喜と妻ヒロら親族を呼び寄せた。6歳まで長沢と暮らした長女エミー・モリさん(92)によると、長沢は温厚で、威厳があった。農学者バーバンクや新渡戸稲造ら日米の著名人の来客が絶えず、農場の労働者とも昼食を共にする気さくな一面もあったという。

 「ファウンテングローブの日本人男爵」の著書がある地元紙記者ゲイ・ルバロンさん(84)は「スコットランドなまりの流暢な英語を話す日本人が、地場産業のワインで成功した。非常にユニークな存在だった」と話す。

 しかし、ワイナリーはこのころ、害虫や度重なる火災で厳しい状態にあった。20年からの禁酒法も追い打ちをかけた。一方で、西海岸では排日の機運が強まり、州は13年、外国人土地法で日本人の土地所有を事実上禁止。20年に日本人の借地も禁じ、24年には日本人移民を全面禁止した。

 長沢は3431日、自宅で息を引き取った。享年82。その前夜、枕元に親族を呼び寄せ、「逝く時が近づいたようだ。きっと美しい場所に違いない」と告げたという。波乱に満ちた生涯を終えるその瞬間、長沢の脳裏には何が浮かんだのか。

 地元紙は翌日、長沢の死を12面で伝えた。

     *

 長沢は生前「成功談や苦労話などというものは偉い人のいうことで、私なんかが口にすることではない」と謙遜した。しかし、ヒロはあるインタビューにこう語った。

 「『ぼくの苦しさは、普通の人だったら死んでしまうよ』と話されたことがあります。アメリカ西部の白人に、日本人の意地を示すために歯を食いしばって、がんばっておられました」

 長沢の死後「日本人への差別が一気に噴き出す」(森教授)。長沢は、ヒロの長男コースケにワイナリーを継ぐよう遺言したが、親族は全遺産の3%程度の現金を受け取っただけで、ファウンテングローブを追われた。その後、太平洋戦争では日系人キャンプに送られる。

 歴史に埋もれた長沢の名前が再び脚光を浴びたのは、訪日中のレーガン米大統領が国会演説でその功績をたたえた1983年。「……彼は『カリフォルニアの葡萄(ぶどう)王』として知られるようになった。長沢は私たちの生活を豊かにしてくれた。サムライから実業家になった日本人は、日米両国に多くをもたらした」

 演説を機に、87年に始まった鹿児島とサンタローザの学生交換プログラム。参加者は三十余年で延べ336人にのぼっている。

 エミーさんはいう。「大おじは成功を夢見て、新天地に来た。挑戦する人を応援し、自分でも挑戦し続けた。その精神は今も生き続けています」

 (文・吉田美智子 写真・ドン・フェリア)

 今回の道

 西海岸を南北に走る国道101号につながる「ファウンテングローブ・パークウェー」(約8キロ)は、ワイナリーがあった場所を突っ切るように整備されている。周辺には、長沢鼎=写真=ゆかりの名のついた道や公園がある。

 ぶらり

 米国に行く前に訪れたいのが、鹿児島県いちき串木野市の「薩摩藩英国留学生記念館」(0996351865)。午前10時から午後5時。入場料は大人300円、小中学生200円。

 カリフォルニアのソノマ郡立博物館には遺品や写真のほか、長沢が建設し、2017年の火災で焼失した馬小屋「ラウンドバーン」の模型=写真=を展示。長沢のワイナリーの敷地隣のパラダイス・リッジ・ワイナリーにも展示があったが、火災で焼失。12月の再オープン後、一部を復活させるという。

 サンタローザはビーグル犬の人気キャラクター「スヌーピー」を生んだチャールズ・M・シュルツが晩年を過ごした地としても有名。博物館では原画などを見ることができる。

 読む

 豊富な資料と関係者へのインタビューで長沢の足跡を追ったのは、渡辺正清著『評伝 長沢鼎 カリフォルニア・ワインに生きた薩摩の士』(南日本新聞開発センター)。森孝晴著『長沢鼎 武士道精神と研究者精神で生き抜いたワインメーカー』(高城書房)は長沢の死後の親族の苦難や日米の交流も描く。

 余話

 長沢ら留学生は渡米後「日米が戦争を始めたら」という議論で割れた。宗教家ハリスに意見を求めると「神のために戦う」と言われ、留学生は失望したという。長沢が太平洋戦争時に生きていたら? 「大おじは日本人を誇りにしていたが、同時に米国人だった。身をさかれる思いだったでしょう」と親族エミー・モリさん。

 長沢は愛「藩」心から13歳で日本を出て、英・米と住んだ。そして、親友の森有礼を国粋主義者に刺殺された。「偏狭な愛国心」が何も生まないことは、誰よりも分かっていたはずだ。サンタローザと鹿児島の交換留学プログラムでは、米学生を広島の平和記念資料館に連れて行く。「被爆者の写真や遺品を見て、核兵器が何を引き起こすのかを本当に理解し、繰り返してはならないと誓うのです」と責任者シャウナ・ローレンチェンさん。長沢の精神はきっと受け継がれている。

 

 

鹿児島)長沢鼎を伝記に 国際大の森教授が出版

野崎智也

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写真・図版ラウンドバーンの再建を願う現地の女性ら。昨年10月の火事の後、フェイスブック上に同様の投稿が広がった=フェイスブックから

 

 幕末、薩摩藩英国留学生の1人として米カリフォルニア州に渡り、有数のワイナリーを築いた長沢鼎(かなえ〈1852~1934〉)の伝記を、鹿児島国際大の森孝晴教授が出版した。今も続く同州サンタローザと鹿児島の友好関係の礎を築いた先人。「その偉業を多くの人に知って欲しい」と話す。

 タイトルは「長沢鼎 武士精神と研究者精神で生き抜いたワインメーカー」。

 森教授によれば、当時の先端技術を学ぶために派遣された長沢は渡米後、現地でワイン事業にその後の生涯をささげた。刀を大事にし、藩主島津茂久からもらった「長沢鼎」の名を名乗り続けたという。森教授は「死ぬまで武士の心は忘れなかった」と感心する。ワイン事業で成功した理由については、長沢が暦学者の家系の出だったことを挙げる。「ブドウの種類や木の育て方など、どうすればおいしいワインができるか。商業的な気持ちではなく『研究者精神』が結果として成功につながったと考えている」。

 本の中で特に力を入れたのが、長沢の死後の時代だ。第2次世界大戦前後、米国に残り日系人収容所にも入れられた子孫の苦悩や、その後の鹿児島とサンタローザの友好関係を濃密に書き込んだ。

 長沢の存在をきっかけに1983年、鹿児島とサンタローザにそれぞれ友好協会が誕生。昨年10月、山火事でサンタローザが被害に見舞われた際には鹿児島県内から多くの寄付が集まった。森教授は「長沢なしでこんなに長く交流が続くことは無かった。死してなお長沢は生き続けるようだ」という。

 山火事では長沢が建てた馬小屋「ラウンドバーン」が焼失した。交通量の多い道路沿いの丘に建ち、真っ赤な円形の小屋はランドマークとして親しまれた。フェイスブックで再建を呼びかける「Rebuild the Round Barn」というページが立ち上がり、賛同する地元の人たちの間で投稿が広がった。「それだけ愛される建物を長沢が建てていたことは誇りです」。

 森教授は広島生まれの東京育ち。鹿児島に縁はなかったが、中央大大学院を卒業後、鹿児島市に移住。長沢研究の第一人者だった県立短大の門田明名誉教授(故人)と出会い、研究を始めた。「13歳で海を渡り、アイデンティティーを大事にした生き様に引かれた」という。現在は友好協会の会長を務める。本の中には銃を構える長沢や、家族との記念写真などほとんど公表されていない写真も多数あるという。

 税抜き1500円。問い合わせは高城書房(0992600554)へ(野崎智也)

 

 

鹿児島)長沢鼎の名冠したワインバー 城山観光ホテルに

野崎智也

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写真・図版新しいバーの店内を内覧する招待客ら=201851日、鹿児島市、野崎智也撮影

 

 幕末の薩摩藩英国留学生の一人で、米カリフォルニア州で有数のワイナリーを築いた長沢鼎(かなえ)(1852~1934)の名を冠したワインバーが3日、鹿児島市の城山観光ホテルにオープンする。1日、来日していた長沢の子孫も出席してセレモニーがあり、長沢の功績をたたえた。

 オープンするワインバーは「ザ セラー N バロン・ナガサワ」。ホテルの耐震工事に合わせ、4階にあったカフェを一新した。

 ワインセラーにはカリフォルニアを中心に各国のワイン170種、約1千本を常備。ワインが並ぶ入り口から入ると、ガラス張りで落ち着いた雰囲気の店内が広がる。田中健一郎店長(34)は「グラスワインも多数用意しているので、気軽に楽しんでもらいたい」と話す。

 1日にはオープンを記念するセレモニーがホテルであり、関係者ら約100人が出席。長沢のおいの子孫にあたる米国在住のケン・イジチさん(63)が、「バロン・ナガサワ」の名称使用を認める覚書にサインした。店内を見て回ったイジチさんは「とても美しい。長沢の歴史が未来の世につながるように成功してほしい」と話した。

 英国に留学した長沢は1867年に渡米し、米カリフォルニア州サンタローザで広大な畑を所有、有数のワイナリーを築き上げた。

 日系人差別のあおりを受けて事業は引き継がれなかったが、「ぶどう王」と呼ばれる長沢の偉業は現地に根付いている。今でも長沢の写真をラベルに使ったワイン「KANAYE The Grape King」が作られており、今回オープンするバーで飲むことができるという。(野崎智也)

 

 

鹿児島)米でワイナリー築いた武士、長沢鼎の子孫が来日

野崎智也

201851 300

 幕末に薩摩藩英国留学生として英国に渡り、その後米カリフォルニア州で有数のワイナリーを築いた薩摩藩の武士、長沢鼎(1852~1934)の子孫ケン・イジチさん(63)が来日し、初めて鹿児島市を訪れた。長沢の生誕地などをめぐり、市内の親族とも初めて対面。長沢の死後に見舞われた日系人差別の記憶とともに、家族の歴史を振り返った。

 イジチさんは、同市の城山観光ホテルに53日、長沢鼎の名を冠したワインバー「ザ セラー N バロン・ナガサワ」がオープンするのに合わせ、妻のロクサーヌさんとカリフォルニアから428日夜に来日した。

 イジチさんは、1896年に渡米し、ワイナリー経営を手伝った長沢のおいの子孫。しかし、ワイナリー事業は受け継がれなかった。イジチさんの知人で、長沢の歴史に詳しい鹿児島国際大の森孝晴教授によると、長沢が亡くなった頃は米国で日系人差別が広がっており、イジチさんも取材に「第2次世界大戦中、父やおばらが日系人収容所に入れられた」と、家族を襲った苦悩を振り返った。

 父や祖母らは長沢について詳しく語らなかったが、イジチさんは2014年、開館した薩摩藩英国留学生記念館(いちき串木野市)を訪問した。「長沢の偉大さを知った。誇らしい気持ちだ」

 今回の来日では初めて鹿児島市を訪問。長沢の姿もあるJR鹿児島中央駅前の銅像「若き薩摩の群像」を見て、同市上之園町の生誕地碑などを訪ねた。

 30日には同市冷水町にある長沢の墓を参り、花と線香を供えて手を合わせたイジチさんは「ここに来ることができてうれしい」と話した。

 さらに市内に住む親族の松原隆夫さん(51)らと初めて対面。松原さんの曽祖母の妹がイジチさんの祖母にあたるという。

 松原さんがまとめてきた家系図を見せると、イジチさんはそこに在米の親族の名前を書き加えていった。イジチさんも家族の写真を見せるなどして、会話に花を咲かせていた。(野崎智也)

 

 

日経新聞より

薩摩武士ゆかり醸造所全焼 米ワイン産地、山火事で

20171016 11:30

【サンタローザ=共同】米西部カリフォルニア州を襲った山火事で大被害が出たワインの世界的産地、ソノマ郡サンタローザ。幕末の薩摩藩の武士で、現地で生産技術が認められて「ワイン王」と親しまれた長沢鼎(18521934年)の記念施設やブドウ畑がある醸造所も焼けた。「日本からも多くの人が来てくれたのに」。関係者は肩を落とした。

山火事で全焼したワイン醸造施設(13日、米カリフォルニア州ソノマ郡サンタローザ)=共同

「この辺りに陳列品が飾ってあった。貴重な資料は全て灰になってしまった」。長沢の記念施設があったという場所で、管理担当だったソニア・ビック・バーウィックさん(49)が残念そうな表情を浮かべた。

 「ワイン王」と親しまれた長沢鼎(鹿児島県いちき串木野市役所提供)=共同

施設跡には無数のワインの瓶が散乱。日本から寄贈を受けた、長沢が実際に使った刀やはかま、生活用品などを陳列していたが、原形をとどめたものは見当たらなかった。8日夜に施設に火が迫っていると連絡を受けたが「火の勢いはものすごく強く、あっという間に焼け落ちた」とバーウィックさんは振り返る。

長沢は1865年、薩摩藩主の命令で西洋文化と技術を学ぶために渡英し、帰国せずに米東部でブドウ栽培の技術を習得。75年にサンタローザでワインづくりを始め、カリフォルニア州の有力なワイン商人の一人に。1983年に訪日したレーガン元大統領は長沢を「偉大な日本人の一人」に挙げたという。

大きなたるが重ねてあった建物の周辺では、木材やプラスチックなどが焼けた異臭に混ざり、ワインの香りが漂う。「再建を目指したいが、もう二度と同じ施設を造ることはできない」。バーウィックさんはうなだれた。

 

 

薩摩から留学「ワイン王」の日記発見 米で成功

2012314 11:45

幕末の薩摩藩留学生で、米国で成功し「ワイン王」と称された長沢鼎(ながさわ・かなえ、18521934)の日記が、米カリフォルニア州で見つかった。親しかった初代文部大臣、森有礼に宛てた手紙の下書きも含まれ、米国に一人残った長沢が、明治維新直後の祖国を思う心境がつづられている。

米国で見つかった長沢鼎の日記()と雑記帳(117日、鹿児島県いちき串木野市役所)=共同

長沢は、薩摩藩が西洋文化を取り入れるため、1865年に森らとともに英国に派遣した若者の一人で、当時最年少の13歳。宗教家ハリスと出会って米国に移住し、カリフォルニア州サンタローザでワイン園を経営。ワインはカリフォルニア十大銘柄に数えられた。サンタローザの議事堂には胸像も建っている。

鹿児島純心女子大の犬塚孝明教授(日本政治外交史)によると、日記は米コーネル大在学中の1871年に執筆。手紙の下書きは日記の最後2ページ半にわたり、他の留学生が帰国する中、日本に帰るか、残って勉強を続けるか迷う様子が英語で記されている。

犬塚教授は「日本のために何かしなければと考え、なかなか永住の決心がつかなかった当時の心情を知ることができる」としている。

2012年度の開館を目指す鹿児島県いちき串木野市の薩摩藩英国留学生記念館に収蔵する予定。〔共同〕

 

 

 

²  薩摩治郎八(190176)――「バロン」と呼ばれた男                    植木芳和

Ø  稀代の放蕩人生――意地と誇りで600億円散財

パリ市街南端の「パリ国際大学都市」の一角に日本の城郭を模した地上7階建ての留学生宿舎「日本館」(通称メゾン・ド・サツマ)が建つ。世界37か国の宿舎が点在

1929年、「バロン・サクマ」の寄付で完成。泡のように消えた彼の財産が、形として残った数少ない遺産

1901年神田の和洋木綿販売「薩摩商店」の御曹司として誕生。近江商人の祖父が西南戦争の際、木綿の値が底をつくことを見込んで買い占め巨利を博した

渡仏して、ピカソやコクトーら芸術家と交流を深める一方、日本人芸術家も支援

見下されていた日本人の誇りと意地のために金を使い、最高級の勲章「レジオン・ドヌール」を受章し、一文無しとなって帰国

 

Ø  18歳の旅立ち――ロンドンで酒と芸術三昧

1919年オックスフォード大留学のため渡英するが、勉学そっちのけで、劇場や画廊、博物館を巡り、派手に金を使って著名人にも近づく

1次大戦の英国の英雄「アラビアのロレンス」に会って心酔

 

Ø  霧の都から花の都へ――巴里で華やかな女性遍歴

21年、「祝祭と狂乱の時代」のパリに移って社交界にデビュー

 

Ø  「マダム」「パトロン」の理想――蜃気楼のように消えた夢

25年一時帰国の際出会った千代と結婚 ⇒ 仏人ピアニスト・マルチェックスを招聘、女子学習院での特別演奏会で貴族院議員・山田英雄伯爵令嬢と知り合い、パリに連れ戻る

パリに移住して間もなく藤田嗣治と出会ったのを契機に、放蕩からパトロンへと変身

藤田等は治郎八の支援で29年「仏蘭西日本美術家協会」旗揚げ、「薩摩展」を各国で開催

「マダム薩摩」は治郎八の指南でヨーロッパ風に洗練され、ファッションの最先端のパリでモデルとしても活躍したが、31年肺を患いスイスで療養、帰国して49年死去

「美術協会」も内紛から治郎八が手を引いたため解散、パトロンとしても頓挫、賭けた夢が蜃気楼のように消えてゆく

 

Ø  絶頂期の遺産――放蕩男が建てた厳格な館

1925年仏文部大臣の提唱により、第1次大戦での人類の惨禍を繰り返さないため、学生や若い学者たちの国際交流の場を提供しようと計画されたのが大学都市構想で、37か国の学生寮は一部を他国の留学生にも開放することになっている

日本政府も参加を表明したが、関東大震災の後遺症もあって財政は逼迫、結局支配階級への食い込みを目論んでいた薩摩商店が一手に引き受けることになる。この功績により「レジオン・ドヌール」受章。「バロン・サツマ」と呼ばれるようになり、夫妻の身につける服が、パリ社交界の流行をつくるとさえ言われるようになって、まさに「薩摩男爵」の絶頂期

 

Ø  今蘇る薩摩コレクション――「平和」願ってプラハで講演

プラハ郊外のプラハ国立美術館の東洋館に治郎八が政府に寄贈した20(現存は19)の日本美術品、通称「薩摩コレクション」がある。代表は鈴木春信の浮世絵

治郎八が一時帰国して戻ってきた34年、ナチス台頭に危機感を持った治郎八が、ナチスが食指を動かしていたチェコに乗り込み、平和講演を行うことを決意し、翌年無事に実現するが、その直後にプラハ国立美術館に日本美術部門設立の計画を知らされ、自らの蒐集品の寄贈を申し出た

 

Ø  人脈を生かし人道的活動――戦火のパリで文化人救出

大戦中もパリに留まり、人脈を生かして日本人たちを救出

45年逮捕の版画家・長谷川潔もその1

35年薩摩商店倒産、資金的バックボーンを失って38年一時帰国したが、国際大学都市総裁の要請で日本館存立維持のため戻り、占領中もパリに留まる

最後のフランス引揚者で、今もパリに住む日本人画家の最長老・関口俊吾氏(90)は、「(治郎八は)戦時中も滞在した数少ない日本人の1人。当時の危機的な状態を振り返ると、どうやって生き延びたのか不思議なくらい」と、筆者のインタビューに応えて言った

 

Ø  阿波で余生、粋貫く――「末期の水」は唇にワイン

終の棲家は徳島、敬台(きょうだい)寺に眠る。終戦後の51年帰国して56年浅草で徳島出身の踊り子・利子と出会い再婚、59年脳出血で倒れ晩年を彼女の故郷で過ごす

治郎八の一生の大きな落差に2人の小説家が目をつけ、瀬戸内は『ゆきてかえらぬ』、獅子文六は『但馬太郎治伝』を書き、再び世に「バロン・サツマ」の名が知られる

66年仏外務省の招聘により夫妻で船旅でパリを訪れる。76年逝去、享年74

 

 

²  Kウーデンホーフ・光子――黒い瞳の伯爵夫人               大川聡美

Ø  ロングセラー香水「ミツコ」――神秘的な美しさ漂わせ

1919年発売で80年以上のロングセラーを続け、故・ダイアナ元英皇太子妃が愛用した香水は、第1次大戦後の暗闇の中でパリの女性たちの心を捉え、欧州におけるジャポニズムの影響もあって話題を呼び、人々は「光子」をイメージした香りではと噂した

香水は、ゲラン社の創業者の孫で3代目の調香師の代表作、日本をイメージしたとして話題に。ゴンクール賞作家・ファレールのベスト・セラー、『ラ・バタイユ(戦い)(1909年刊)のヒロインである日本の侯爵夫人の名に因んで命名

1892年商家の娘・青山みつが駐日オーストリア・ハンガリー帝国代理公使のクーデンホーフ伯爵と出会い結婚、4年後伯爵の故郷ボヘミアに移り住む

14年の結婚生活の後、31歳で未亡人となり、「東洋の花」は「西洋の龍」に気丈に変身、「光子」と名乗るようになる

女手一つで7人の子を育てるが、次男のカレルギーが『パン・ヨーロッパ』を執筆

1997年写真家ライターの南川三治郎が『クーデンホーフ光子――黒い瞳の伯爵夫人』出版、光子の居城「ロンスベルク城」の修復工事が進行中で、工事資金の募集活動が難航していることを伝える

 

Ø  若き外交官と運命の出会い――「障害」越え欧州へ旅立ち

1892年、新宿納戸町界隈で油屋兼骨董店を営む青山夫妻の3女・みつ(17)が近くにあったオーストリア・ハンガリー帝国在日公使館の代理公使クーデンホーフ伯爵(32)と路上で出会う。みつは芝の社交倶楽部・紅葉館で行儀作法や茶道などの素養を身につけており、多民族の文化への関心が強かったクーデンホーフの目に留まる

公使館で暮らし始め翌93年長男ハンス(光太郎)誕生、翌年二男リヒャルト(栄次郎)誕生

父は結婚に猛反対し光子を勘当、クーデンホーフ家も許さず。クーデンホーフ家は元々オランダの出身、16世紀の独立戦争の際、ハプスブルク王家に立って戦ったため王家に仕えるようになり、オーストリアを経てボヘミアに広大な領地を得る

みつの父親には金で、クーデンホーフ家は父親の逝去で、両家の障碍がなくなり入籍したのはリヒャルトの生まれた年

96年休暇で居城ロンスベルク(現・ボヘンジョビツェ)へ初めて渡欧

 

Ø  ボヘミアの城に定住――「女王であり奴隷」の日々

夫ハインリッヒは休暇のあとシンガポール赴任を経て、領主として領地経営に専念したため光子もボヘミアに定住

03年末っ子の四男カルル出産後肺結核に罹り転地療養

離日前に謁見した昭憲皇太后から贈られた象牙製の扇と「どんな場合も日本人の誇りを忘れず、祖国の名誉を守れ」とのお言葉を噛み締めて病を克服

 

Ø  早すぎる夫の死――修羅になった「東洋の花」

1906年夫が心臓発作で急逝、享年46。光子が療養から戻った7か月後の出来事

夫は遺言状を残し、光子を遺産相続人、7人の子の後見人に指定、光子は莫大な財産を引き継ぐ。親族からの異議申し立てに対して敢然と立ち向かい勝訴、厳格で専制的な家長となって、女手一つで子どもたちを育て、領地を経営、確かに「修羅の道」を歩み始める

三男のゲロルフ(18961978)は、第1次大戦に従軍した後、プラハの日本大使館で通訳として務め、60年グラーツ大学で日本語の教授となり多くの日本語の書物をドイツ語で紹介。その息子は画家ミヒャエルによれば、「父は日本の話はいろいろしてくれたが、祖母の話は一切しなかった」という。叔母たち(光子の娘たち)から聞いたところでは、「祖母は祖父逝去後別人のように変わり、厳しくきつい女性になったようだ」。ミヒャエルは日本人女性と結婚してウィーンに住む

 

Ø  「ワルツ」一転、疎開生活――男装で芋運ぶ伯爵未亡人

1908年ウィーンに居を移し、社交界にデビュー、大歓迎を受ける

民間親善大使的な役割も果たす

1次大戦中は、長男と三男を戦地に送り、疎開して赤十字の奉仕活動に邁進

収穫したジャガイモをオーストリア軍が戦うワルシャワ近くの戦地まで男装して500㎞を自ら運んだという

 

Ø  思想家・二男との愛憎――「パン・ヨーロッパの母」に

1次大戦の終結で故郷はチェコ領となり、オーストリア国籍の光子一家はウィーン郊外のメードリンクの山荘に移る

大国の崩壊と疲弊した地域に「パン・ヨーロッパ」の理念を掲げたのが思想家のリヒャルト

欧州統合のバイブルと言われた『パン・ヨーロッパ』を著し(23年刊)、十数か国語で翻訳され、政治家や欧州経済の指導者らの共感を得る。書斎の夢を初めて政治運動にした功績は大菊、29年には仏外相ブリアンが国際連盟総会で統合構想に言及

厳しすぎた光子の下から子どもたちは次々に離れ、32年脳卒中で倒れて隠遁生活に入ったころには二女のオルガだけしか手元にいなかった

最初に親元を離れたのが二男で、まだ学生の頃十数歳も年上の人気女優との結婚に反対されて約10年絶縁状態となり、2人の雪解けは、「パン・ヨーロッパの母」の名称が贈られた後の事

 

Ø  特別な輝き放つ場所――生まれ変わる思い出の城

2001年、ロンスベルク城を光子とリヒャルトの資料館などの複合的施設にするための改修工事が進む。城にはハンスが住み、ユダヤ人妻やパン・ヨーロッパ運動でヒトラーから目をつけられているリヒャルト、そして母を守ろうとナチスに入党したため、戦後は城から追放され、一時軍用施設となったがその後は廃墟

1988年城の復元が決まり、チェコ文化省からも少額だが予算が付く

村木眞寿美さんは、「この城こそ異文化交流の場になるべき。日本人も民族共存に貢献したいのだということを広く知ってもらいたい」と、独自に募金活動を展開

ボヘミアのクラトヴィーの国立公文書館に、将来公開される予定の資料500点以上が国家財産として保管されている

左手を使ってドイツ語で書かれた遺書は、41年逝去まで何度も書き直され、全財産をオルガに遺すとあった

 

Ø  映画製作・・・・再び脚光――勇気与える光と影の人生

光子の日本への思いは終生変わらず。週1回は母へ手紙を書き、多くの在留邦人を自宅に招待。30年対面した宮本(当時は中條)百合子はその様子を小説『道標』に書く

昭和40年代、リヒャルトの来日講演を機に、光子もクローズアップされ、その生涯は小説や漫画、舞台、バレエなど様々に作品化 ⇒ 2000年新橋演舞場《ミツコ――ウィーンの伯爵夫人》で光子を演じた大地真央は01年の松尾芸能賞優秀賞受賞

02年にはロジャー・サイモン監督のハリウッド映画《MITSUKO(仮題)》公開予定。主役未定。公開と同時期に世界各地で「ミツコ展」開催も予定

吉行和子の1人芝居《ミツコ――世紀末の伯爵夫人》も上演

01年には村木著『ミツコと7人の子供たち』出版

ロンスベルク城修復工事の募金活動については、チェコの日本大使館も動き始め、世界でちょっとした「ミツコブーム」が起こりそう

光子が裁縫の針を見失った際、唱えた「おまじない」は、「清水の音羽の滝はかるるとも失()せたる針の出でぬことなし」と3回繰り返す

 

 

 

 

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