憲法講話  美濃部達吉  2020.4.6.


2020.4.6. 憲法講話

著者 美濃部達吉

発行日           2018.11.16. 第1版発行
発行所           岩波書店 (岩波文庫)


憲法学者・美濃部達吉が「健全なる立件思想」の普及を目指して、明治憲法を一般読者へ向けて体系的に講義した書(初版1912)。天皇は法人たる国家の最高機関であるとする天皇機関説を打ち出した本書は、天皇主権説論者との論争を呼び起こした。後に国禁とされた美濃部学説の原点を知る上でも重要な著作。1918年の改訂版を収録


1911年夏、文部省開催の中等教員夏期講習会において帝国憲法の大要を講話した内容を公にする。憲法施行より20余年を経たが、憲政の智識未だ一般に普及せざること殆ど意想の外にあり。国体を語って立憲政治の仮想の下にその実は専制政治を行わんとするの主張が横行するのを見るにつけ、国民教育のために平易に憲法の要領を講ぜる一書を著そうとしたもので、憲法の根本的精神を明らかにし、一部の人の間に流布する変装的専制政治の主張を排することこそ、最も勉めたる所なりき
『日本国法学』を執筆中で、それに代わるべきものにはあらざれども、帝国憲法の趣旨を闡明(せんめい)し、健全なる立憲思想を普及せんとすることにおいてはその目的を同じうする。本書に依りて多少なりともこの目的に資することあらば余の本懐これに過ぎず


憲法講話の縮刷について  19189月 美濃部達吉
久しく絶版となっていた『憲法講話』の需要者が絶えないということで、多少の改訂を加え、縮刷して、再販となった。初版以後の法令の改正を追補し、その他前版の誤りを訂正。
初版刊行当時には、一部から、本書があたかも我が国体の基礎を揺るがさんとする危険思想を含むものの如くに攻撃せられたところから、再販するのは、少なくともこの如き危険思想は寸毫だもこれを包含せず、かえって健全なる立憲思想に終始するものたることを確信するからである


第1講     国家及び政体
憲法とは、政体の法則にて、最も重い規定は国の政体に関する事柄
国家の定義には客観的な心理はなく、国家は何であると考えるべきかという主観的問題ゆえに、諸説紛々
国家の本質については2種の傾向あり
    国家を以て君主の持ち物のごとく考える思想 ⇒ 天下は1人の天下なり。神授君権説、統治権説(君主は統治権の主体で土地人民は統治の目的物)、封建時代の思想であって、国家を君主1個人の目的のためにのみ存するものであるとするのは、健全なる国家思想に反することは明らか
    国家を以て国民の共同団結として考える思想 ⇒ 天下は天下の天下なり。国家を国民全体の永久的の結合体とみる説であり、君主も臣民も同心一体を為し、その全体を以て有機的の団体を為していると見る
国家の本質とは、まずは1つの団体。団体とは、共同の目的をもってする多数人の結合であり、団体共同の力によって目的を達しようと活動する。実際にその活動をするのは個人だが、それを団体の機関といい、すべての団体は機関を具有すべきもの。有機体とも
国家の団体としての3つの特色:
    国家は地域団体 ⇒ 一定の土地を基礎として成立する団体
    国家は統治団体 ⇒ 広く人類の生活を幸福ならしめんことを目的とし、そのためにその団体に属する人民を支配する力を持つ団体。支配権はもっぱら一般人民の福利のために行使さるべきもの
    国家は最高の権力を有する団体 ⇒ 国家の最も著しい特色であり、すべての団体を区別せしむる所以。自ら制限を加えるほかに何者の命令も受けず、独立自由に行動できる。国内法や国際法に従うが、それとて国家が自らに課した制約
国家が最高の権力を有すというのは、決して絶対無制限の権力を有すという意味ではない
国家は1つの法人であり、権利能力の主体
国家の享有する2大権利:
    財産権
    国内の総ての人民に対して命令強制を為し得る権利 ⇒ 国家に特有の統治権
主権とは、sovereignty=supremenessの訳で、自己の意志に反して他より制限を受けざる力のこと。統治権と同じ意味に用いられることが通常化しているが、本来統治権は国家の権利であり、人に命令し強制する権利なので混同に注意

すべての国家には必ず一定の政体がある
政体とは、国家機関の組織のこと。組織は各国の歴史上の事情によって定まるもの
大別して、君主政体と共和政体があり、国家最高機関の組織が1人の場合が前者で、多数人による合議体であれば後者。共和政体には、寡人政治、貴族政治、民主政治の別がある

第2講     () 帝国の政体
日本の政体は開闢以来君主政体 ⇒ 歴史上の基礎が極めて強固なところに特徴があり、憲法第1条に「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」というのはその原則を明言
この根本原則の下においてその体様については古来種々の変遷があった
最初の国家組織は氏族制度を基礎としたもの、血統を同じくすることが国家団結の主たる基礎となっていて、天皇が一大家族の家長の如き地位にあってその全体を統括していた「族長的君主政体」
大化の改革では、天皇の下に官僚政治が作られ、官僚的君主政体に変更
さらに、藤原氏が摂政として天皇に代わって大権を行い、武門に移って幕府が政治の実権を掌握したが、一貫して天皇を主権者として仰ぎ、その御委任によって政権を執ってきたもので、明治になって再び天皇親政の時代に還った
明治22年の憲法発布、翌年の帝国議会開会により、立憲君主政体が確立
    維新の変化で最も根本的なものは、国家の統一及びこれに伴う統治権の統一で、幕府と朝廷の対立から権力者の二重構造になっていた統治体制が一元化。さらにはたくさんの大名がそれぞれ小国家の如き有様にあったが、版籍奉還と廃藩置県により各大名の権力が除去された
    立憲制度の施行。19世紀以後世界の文明国共通の制度となるに至った政体で、その特徴は以下の3:
(i)       公民国家主義すなわち階級制度の打破 ⇒ 総ての国民が一定の法律上の資格に応じて平等に公民として国家の公務に就くことのできる体制
(ii)     民政主義すなわち国民の参政権 ⇒ 総ての国民に参政権が与えられる
(iii)    法治主義すなわち国民の自由の尊重 ⇒ 国民の自由を尊重し、法律に依らなければ国家の権力を以てもその自由を侵すことができない

2講 () 天皇(その1)
l 天皇の国法上の地位
天皇は、日本帝国の君主として、国家の総ての権力の最高の源泉たり、日本帝国の最高機関たる地位に在(まし)ます
天皇の大権は国法上当然に天皇に属する大権であって、誰からも委任されたものではない。したがって、法律上の語においてこれを国家の直接機関という
君主が国家の機関というのは、国家が1つの団体であるとすることから生じる当然の結果
君主が統治権の主体であるというのは、法律論としては誤った考え ⇒ 統治権は全国家の共同目的のために存するもので、統治の行為は君主1人の行為として効力を有するものではなく、国家の行為として効力を有する。国家が統治権の主体であって、君主は国家の機関であるというのは、この思想を言い表したもの
l 天皇の大権
天皇の大権とは、第4条にいう、「日本帝国の統治権は天皇の親しく総覧し給うところ」であり、統治権は憲法によって一定の制限を設けられているところが専制政治と異なる
大権は、広義では統治権の総てに及ぶが、狭義では天皇の親裁を要する事柄のみをいい、①立法大権、②議会に対する大権、③緊急勅令大権、④行政上の命令大権、⑤官制官規及び官吏任免の大権、⑥軍令及び軍政大権、⑦外交大権、⑧戒厳宣告の大権、⑨栄典授与の大権、⑩恩赦大権、と列挙されているが、もとより限定列挙ではない
l 天皇の不可侵権
3条「神聖にして侵すべからず」とは、天皇が「指斥言議(しせきげんぎ)の外にある」ことを謂い、憲法や諸法令に従って統治権を行使しなければならないのは自明であるが、如何なる御所為があろうと臣民の批評すべき限りではない
法律違反の大権行使に対しては、輔弼する国務大臣の責任
財産権の主体としては民事裁判の対象たり得るが、君主の神聖を害するものではない
l 皇位継承
日本の皇位は、男系男子による世襲
皇位継承の順序は、長系継承法といって系統を重視、第1の継承権ある皇兄弟に子孫あれば優先、子孫ない場合に初めて第2の皇兄弟に移る。親等の近いものを優先する近親継承法ではない
皇庶子孫にも皇位継承権を認める ⇒ 同親等内では嫡優先だが、皇嫡子が1人もいない場合は皇兄弟ではなく皇庶子に継承権が生じる
皇位継承を生じる場合は、天皇の崩御のみに限り、崩御と同時に皇嗣が当然に皇位に就く

第3講     () 天皇(その2)
l 摂政
天皇が幼少の場合に置き、天皇に代わって統治の大権を総攬する。憲法と皇室典範の改正だけは出来ない。天皇の代表者で、民法の代理と同じ観念だが、委任によって代表者となるのではなく、憲法上当然にその権限を有する(=法定代理)
総ての行為は、国務大臣の輔弼により行い、天皇と同様無責任
被後見人の一身上の利益を保護するための後見人とは異なり、公の大権を代わって行う
摂政が置かれるのは、天皇が未成年(18歳未満)の場合と、久しきにわたって大政を親(みずか)らし給うことの出来ない故障ある場合に限られる
摂政の有資格者は皇族のみ。皇太子や皇太孫など最も皇位継承の順位に近い皇族というのが本来の趣旨
怠中天皇 ⇒ 皇子がいないまま天皇が崩御し、皇后が懐胎の場合は、「胎児は相続に関しては生まれたものとみなす」というのは民法で初めて明文化された原則であって、皇室典範には明記されていないため、皇位は正系に伝うという原則に従って、懐胎中の胎児にいずれ皇位が継承されると考えるべき
l 皇室法
皇室とは天皇ご一家のこと。ご一家に属する人を皇族といい、皇族の資格は出生及び婚姻によってのみ生じ、永世にわたって皇族である。養子は認めない
4世以内の男は親王、女は内親王といい、5世以下は王・女王という

3講 () 国務大臣および枢密顧問
l 国務大臣
天皇が自分を輔弼するために大臣宰相を置くのは立憲国にのみ特有のものではないが、立憲国において特に重要な意味を持つのは、天皇の国務上の行為は必ず大臣の輔弼に依らなければ法律上の効力を生じないという点にある
かつて枢密院議長が内閣に列せられたことがあるが、勅旨を以て国務大臣になったもの
内閣は、総ての国務大臣が集まって国政を議する合議機関であり、合議の結果を陛下に奏請して御裁可を仰ぐ ⇒ 内閣官制には、法律案、予算決算案他7つの事項が列記されているが、それ以外の「高等行政」について総て閣議を経なければならないとしている
唯一の例外が軍の機密事項で、陸海軍大臣から直接奏上 ⇒ 帷幄(いあく)上奏
君主は無答責、総ては輔弼した国務大臣が責任を負う(55) ⇒ 誰かに代わって責任を負うというのは法律上許されないので、輔弼したことについての責任を負うもので、天皇の行為に同意できなければ詔勅への副署を拒否=辞職すればいい
国務大臣の責任には、法律上の責任と政治上の責任がある。前者については一般の官吏に適用される懲戒法は適用されず、天皇の信任のみである一方、後者については国会の弾劾の対象となり、裁判所に向かって大臣を公訴するとの意を持つ
大臣の任免権は専ら君主にあるが、議会が大臣の責任を問うことができるという意味において、大臣は議会に対して責任を持つと言える
内閣は普通の合議体と異なり、全内閣員の一致を要する ⇒ 各大臣がその職務に関して絶対にその責任を負うとされる以上、多数決に従わなければならないという道理はない
議院内閣政治/政党政治 ⇒ 全内閣員が同一の政見を持つということは、内閣が議会の多数派の政党で組織されることを意味し、多数を失ったら交代するのは自然の理
日本で未だ純然たる議院内閣の政治となっていないのは、政党の勢力が衆議院のみに限定され、貴族院には及ばないことと、貴族院が衆議院の決議を以て民意の発表として尊重するという思想を欠いていることが主な原因。さらには陸海軍大臣は必ず将官からと決まっていて、内閣が更迭されても多くの場合前大臣が留任することになっているのも議院内閣政治の成立を妨げる事情の1
議院内閣/政党内閣は、立憲政治を行う以上必然の趨勢にて、日本憲法下でも例外ではない
l 枢密顧問
内閣、議会のほかに独立する、天皇の最高の顧問機関として、明治21年憲法草案審議に際して設置され、内閣に対しても議会に対しても独立の地位をもつ
憲法上も必須の機関とされた(56) ⇒ 国務大臣も院議・表決に参加し得るが、過半数は顧問官でなければ開催できない
院議に付議される事項は、天皇から諮詢される、皇室関係事項と、国務に関する重要事項

第4講     帝国議会(その1)
l 議会の国法上の性質
「国民の中から公選された議員で組織」される合議体があって、「立法権に参与し、行政を監督する」ことを主たる任務とする ⇒ 帝国議会(一般的には通常国会)と称し、その存在こそ立憲国が立憲国たる所以の最大の特色
全国民から平等に選出されるべきであるが、実際上の不平等を無視するのは悪平等であり、小児、犯罪人、自活能力のない者、婦女子などには選挙権を与えないのが通常 ⇒ 国会は社会の縮写たるべしとの発想で、貴族院はその趣意に基
同じ立憲政治といっても、議院政治と君権政治があり、政治上の区別となっているが、立憲政治と専制政治というような法律上の区別ではない
l 議会の両院制度
一院制と二院制 ⇒ 二院制の長所は、多数決の欠点を補うことにあったが、1911年イギリスで下院の権限を強化したことは憲政史上の一大事
l 衆議院の組織
国民の公選によって組織されていることは各国共通の制度だが、選挙に関する制度は国によりまちまち
選挙権 ⇒ 普通選挙(平等普通選挙と等級普通選挙)と制限選挙。普通選挙の根拠となったのは、18世紀頃の天賦権説という、人間は生まれながらにして平等の権利を持つもので、選挙権は天賦の権利としてすべての人間に属しなければならないとする思想
被選挙権 ⇒ 日本の選挙法は寛大。納税も居住も不要、30歳以上の男子というのみ。神官・僧侶・小学校教員は退職後3か月は被選挙権なし
選挙の方法 ⇒ 直接選挙、選挙区制度、無記名投票

第5講     帝国議会(その2)
l 議会の権限
立法権 ⇒ 法律を協賛する権利(37)と、緊急勅令に承諾を与える権利(8)
財政に参与し監督する権限 ⇒ 事前の議決では予算、租税、国債発行、予算外国庫負担契約の締結があり、事後の議決では予算超過支出の承諾、財政支出を伴う緊急勅令への承諾、決算の審査がある
形式的権限 ⇒ 議会が国政に参与し監督するための補助手段として認められている権利で、上奏(49)・建議(40)・質問(議院法)・請願(50)4
議院内部の事項 ⇒ 議事規則を定める権利など
l 議会の会議
毎年1回召集を原則とする(通常会:予算を議決)。臨時会は随時勅令によって開催
l 議員の権利義務
参政権(国会への参列)。発言は無責任。不逮捕特権。歳費収受の権利

第6講     行政組織
行政の作用は天皇の親しく総覧し給うところで、議会の協賛は不要
中央集権と地方分権 ⇒ 程度の問題
l 中央官庁
明治218年は太政官制度
明治18年以降は内閣制度
官庁とは、君主の下において、君主の委任に基づいて国家事務の1部分を行う権限を持っている国家の機関を謂う。司法裁判所、会計検査院、行政裁判所以外は上官の命令に服従する義務を負う
l 地方制度
政治上からは自治制度と官治制度が混在、法律上の制度では国家自身の行政と地方公共団体による行政に分かれる

第7講     行政作用
立法の作用は法律を作るだけ、司法の作用は民事・刑事の裁判とそれに付随する作用だが、行政の作用は雑駁ないろいろの性質の行為を包含する広範なもの
行政立法 ⇒ 勅令または行政官庁の命令を以て法規を定めることが多い
行政裁判 ⇒ 
本来の行政作用 ⇒ 外交、財政、軍政、法政、内政
l 行政作用の形式的分類
事実的行為
法律的行為 ⇒ 私法的行為(売買・請負等)と公法的行為(行政処分と公法上の契約)
l 行政作用の制限
法律上種々の制限を受ける ⇒ 国家の権力は法律によって一定の制限を受ける
行政作用を以て人民の自由を制限するのは、契約による外は、法律または命令もしくは慣習法等或る法規においてこれを許している場合に限定
l 請願及び行政訴訟
行政処分によって不法に権利を侵害された場合の救済措置 ⇒ 再審査請求権
処分を為した官庁の上級官庁に訴えるのが請願、行政裁判所という独立の裁判所に訴えるのが行政訴訟

第8講     () 司法
l 司法の観念
法の適用について争いや疑いがある場合、その争いや疑いを決定するための国家の行為
法の総ての区域にわたって行われ、国際法、憲法、行政法、民法、刑法それぞれに存在するが、普通に司法という場合は、民事裁判と刑事裁判のみをいう ⇒ フランスが源
l 司法権の独立
司法の作用は、独立した裁判所によって行われるのを原則とすることを以て、司法権の独立と謂う ⇒ 裁判官の地位の独立と、職務上の独立が相俟って司法権の独立を担保
法律に対してはただその形式について審査権を持つのみで、内容については議会が協賛し裁可を得たものである以上、憲法違反であると断定する権力はない。一方で、命令に対しては、司法権の独立から、命令そのものが有効なものであるか否かを審査する権利がある
裁判官の兼職禁止 ⇒ 権威に拘制され、政論または商業の利益などの牽束を受けるような地位に立つことは禁止。公平に司直の府たるの職責を全うすることを勉める
l 司法裁判所
行政権の干渉のほかに立って独立に裁判を行うという原則は、憲法の実施で初めて創設されたものではない ⇒ 明治8年の大審院設置以降のこと、明治23年の裁判所構成法により現在の形に
l 訴訟手続
裁判公開の原則(59)。証拠法
l 特別裁判所
軍法会議、領事裁判、特許局審判、行政処分(違警罪、脱税等)

8講 () 法
l 法の本質
共同生活における人類行為の法則を「法」という。共同生活における各人の為すべきこと、為すべからざること、為し得べきことを定める法則
道徳との違いは、道徳は人の心までも支配する法則であり、人間の一身上に留まる行為についても支配するが、元来截然(せつぜん)と区別するのは困難
法は主権者の命令であり、国家の意思、国家の作った法則だとする説は、あくまで皮相的なとらえ方で、慣習や条理によっても法たる力を持つものがあるし、法が法として行われるのは我々一般人の社会的信念が基礎となっているもので、この信念に反するようなものはたとえ国家の意思でも法たる力を持つことはできない
教育勅語は、主権者の制定になる道徳上の法則
歴史法学者に多いのは、法は言語のように社会の発達に伴って歴史的に自然に発達するもので、立法といっても、ただ法を認定するに過ぎないものとするが、あまりに極端
法も道徳も我々の思想を離れて客観的に存在するものではない。法律意識と道徳意識の区別も程度の差に過ぎず、道徳の中にその効力の特に強いものが法たる性格を持つ。法には必ず従わなければならないが、道徳は時に応じて可否の判断を許し、従うのが善事とする意識が道徳的意識
法律的意識の依って立つところは、①服従心=国家の権力に服従、②習慣性・模倣性=社会生活の法則の大半はこれによる、③正義心=法は正義である
法の種類 ⇒ 制定法、慣習法、理法(正義法)

第9講      () 制定法の各種
l 憲法
国権の組織及び作用に関する基本的法則であり、国家と憲法は同時に存在すべきもの
狭義では、国会を開いている国の国権の組織作用についての根本法則のみを憲法という
不文憲法と成文憲法の差異は、成文憲法は普通の法律とその改正方法が違い、改正にはより一層鄭重なる手続きを要するところにある
l 皇室典範及び皇室令
皇室典範の制定は明治22年、皇室に関する根本原則を定める
皇室令とは、皇室典範に基づいて定められる法則や、その他すべて皇室の事及び宮内省の事に関する法則で勅裁を経て発布されるもの
l 法律
l 国際条約
国家と国家が結ぶ約束であり、国家間の法律関係を定めるが、官報に交付することにより普通の法律勅令と同様人民に対して効力を有するものとされる
l 命令
議会の議決を経ないで定めることができるものの総称
勅令、軍令、閣令、省令、庁令、府県令、郡令、島庁令など
l 自治団体の法規
市町村条例

9講 () 国民の権利義務
l 国民の権利
国民の国家に対する権利を「公権」と謂う
自由権 ⇒ 国民が違法に国家よりその自由を侵害せられざる権利。法律上決められた一定の範囲以外は自由を侵されない。居住移転の自由(22)、法律に依らなければ逮捕・監禁・審問・処罰されない(23)、住所安全の保障(25)、信書の秘密保持(26)、財産の安全の担保(27)、信教の自由(28)、言論・出版・集会・結社の自由(29)、請願の自由(30)。憲法の規定はあくまで例示に過ぎない
積極の民権 ⇒ 積極に国家に対してある行為を要求し、または国家からある利益を受くるの権利。裁判を受ける権利(24)、営業の免許や特許を受ける権利等々
参政権 ⇒ 人民が国家の公の職務に就くことのできる権利。同時に義務でもある
l 国民の義務
公義務 ⇒ 服従義務。兵役(20)、納税(21)、裁判に服する義務

第10講     帝国植民地
対象地域 ⇒ 台湾、樺太南部、遼東半島南西部、韓国
l 植民地の意義 ⇒ 経済上または政治上の意義であって法律上の観念ではない。国法上または国際法上国家に隷属する土地で、元来の住民は生来の本国人とは異なった人種に属し、地理上の位置も本国とは隔たっていて、しかしてそこへ本国から多数の移住民が移住しているところを「植民地」と謂う
法律上の特色としては、本国と法律制度を異にする点
l 植民地の法
特に指定されたもの以外は、内地の法律勅令その他の法令は効力を及ぼさない
植民地は、それぞれに別個の法域を構成する
憲法の有効性について、政府見解は新領土にも当然に効力を発揮するというが、実際は憲法に準拠して統治権を行っているのではなく、台湾(朝鮮)総督の発する律令を以て法律に代わる規定を為すことができることを定めて、憲法に代えている
関東州については、政府は日本の領土ではないと見做し、憲法は行われていないと解釈する
l 植民地の人民
植民地も日本の領土であり、帝国の臣民と見做す ⇒ 領土権の割譲=臣民高権の譲受
国際法上の慣習として、領土の割譲の場合は、その土地の住民は旧来の国籍か、併合国の国籍のどちらかを選択する権利を与えられる ⇒ 朝鮮併合は国家全部の併合なので選択の余地はなく、樺太の場合はロシア人には退去の自由を与え、日本国籍は与えなかった
関東州は租借地なので、人民に対する権利までも移転したものではない
l 植民地の行政組織
立憲政治は行われていない
帝国議会が関与するのは会計のみ、それ以外の行政は専ら君主の大権に属している
植民地行政の中央官庁は内閣総理大臣、直下に拓殖局を置き、もっぱら植民地行政を監督
l 植民地の司法制度
台湾・朝鮮では行政権と司法権が分離され、司法権の独立が認められている(二院制)


解説 高見勝利(1945生。憲法学者上智大北海道大名誉教授淡路島出身。小林直樹門下。中央大卒、大学院法学政治学研究科博士課程修了。法学博士東京大学)。法教授。北大法教授。上智大大学院曹養成専攻教授)
本書は、100年前の1918年美濃部が自著『憲法講話 全』に「改定を加えて、縮刷して、再びこれを公に」したもので、1912年刊の初版本がすでに絶版となり、読者からの要望があったこともあるが、著者自身、初版本刊行時に本書が受けた「危険思想を含む」との攻撃がいわれないものであり、むしろ「健全なる立憲思想に終始するもの」だということを改めて世に示しておきたかったのであろう。第1次大戦を機に民主主義思想が急速に普及し、欧州でドイツをはじめ多くの君主制国が共和制に移行、中国でも清朝滅亡後共和制樹立に向けた動きが活発となっていた
こうした日本を取り巻く民主化状況の中で、初版本刊行当時、国内の一部から「危険思想」視された美濃部の天皇機関説も、大正の幕開けとともに学会では通説化し、憲政運用の場でも美濃部説が受容され、さらにそれは、国家権力を制限する「立憲思想」として広く国民の間で好感を持って受け止められるようになり、社会に浸透していく
帝大法科在学中、最も感銘を受け、将来公法として身を立てる意を決したのは、一木喜徳郎の国法学講義。89年一木が内務省から帝大教授になって初めての講義を聞き、一旦内務省に入るが、一木の推薦で学究生活に入る。9902年欧州留学。帰国後帝大教授として比較法制史担当。20年からは34年の退官まで憲法を講義したが、明治末から大正初期にかけての上杉愼吉(13年から憲法講座担当)との天皇機関説論争の基礎となった彼の憲法理論は、それ以前に培ったもの
一木は、当時のドイツ国法学における国家法人説を踏まえ、穂積の「国体」(統治権の主体が君主か否か)と「政体」(統治権を総攬する最高機関の組織と方法)に峻別を理論的に根拠のないものと断じた
穂積説では、統治権の主体により生ずる国家体制の別を「国体」(君主国体か共和国体か)、統治権行使の態様により生ずる国家体制の別を「政体」(立憲政体か専制政体化)とし、両者「相関連せず」とする
美濃部は、穂積説を「根本の誤謬」と断じ、穂積の「国体」概念を否定したうえで、「政体」を君主と共和に大別、前者はさらに専制、制限、立憲の各君主政体、後者は寡人、貴族、民主の各政体(政治)に区分した政体類型論を展開
美濃部が立論の前提とした国家法人説とは、法律学上、国家を1個の法人格を持った団体と見て、国民に対する支配権を意味する統治権は法人たる国家に帰属する権利であると解し、いわゆる主権者とされる君主や国民は国家と「必ず同時に存在すべき」憲法によって、最高機関として組織され、その憲法に基づいて統治を行うべきものとする法理論
イエリネクの大著『一般国家学』は、ドイツ1国の国法学を英・米・仏の立憲憲法思想と融合させながら体系化したもので、美濃部の方途を決定づけた
l 初版本は、11年夏に行った中学校教員講習会で行った10回の講演速記に手を加え、翌12年に公刊されたもの。日本の憲法が置かれた状態を立体的に浮き彫りにしたもので、当時憲法が実際にどう機能し、また機能していなかったかを知り得るとともに、美濃部が何を憲法上の課題とし、それをどのように解決しようとしていたかを知ることができる。本書で美濃部が適示した基本問題は、ポツダム宣言受諾後の新憲法への憲法体制の転換、そして、体制転換後すでに70有余年を経た現在でも、なお憲法上の課題であり続けている
本書をものした意図は、明治憲法施行後20余年経過後でも、思いのほか国民の間に憲法の知識が普及していないだけでなく、憲法学者の間ですら「国体」を盾に「ひたすら専制政治を行おうとする主張」をなす者があるので、そうした一部の人の間に流布する変装的専制政治の主張を排除しようとしたもので、「健全なる立憲思想」を普及させたいとの思いが強い
「変装的専制政治」を説く憲法学者としてやり玉に挙げたのは、憲法講座担任の穂積八束と同講座の助教授上杉愼吉。上杉も同じ11年中等教育を通じて、「国民の国家心」の「要請陶冶」を企図していた
両者の論争は、政治権の主体を「国家」と解すべきか「天皇」と解すべきかという問題を軸に、「国体」と「政体」の関係、「国家」の法的性格、君主の法的地位等々の諸点について、明治憲法の解釈や法概念の立て方など法的議論の形をとって展開したが、論争の実体は、純然たる憲法学上の争いというより、美濃部説(天皇機関説)と上杉説(天皇主権説)のいずれが普通・中等教育の場で教授するに相応しいか、いかなる憲法教育を次世代に施すべきかを巡る争いであることは明らか
上杉は、美濃部説を、君主は国家の「機関」、人民の「使用人」とされるがゆえに、わが建国の体制、わが国体に関する「異説」だと攻撃。一方の美濃部も「国体」概念を振りまわし変装的専制政治を語る穂積・上杉の憲法論を根底から批判
穂積ですら、「法人」という概念は用いないまでも、「国家は法理上の観念において人格を具有す」とし、明らかに国家法人説を是認している
ただ、穂積は初版本発行の5か月後、病気のため帝大法科大学を辞職しながらも、中学校の法制科目における憲法教育の在り方として、美濃部説を批判。問題の分岐点は、皇位が統治権の主体か否かという点にあり、「皇位をもって統治の主体とするのはわが国体に反する」との美濃部の主張に驚くばかりか、その言語道断の説が文部省の権威の下に、全国師範学校中学校の教員を召集し法制科の講習として唱えられたことが不思議であり、さらに不思議なのは聴衆の中から1人もそれに疑を起こさなかったことで、説者より歓迎者の罪
修身の祖ともいわれた井上哲次郎も、国民として守るべき道徳を7点あげたうえで、「国体」とは「皇祖建国の当初より、万世一系の天皇億兆に君臨して、国権を総攬したまい…万邦無比」の国民的統一体であるとし、35年の天皇機関説事件後は、「我が国体」として教育現場のみならず、政治や社会の隅々まで支配することになる
国家法人説への言及は、初版本刊行前の法制教育の現場においてもなされており、中学教育の現場でも、国体を起点とし国体・政体の峻別をその生命線とする穂積説に対し、一木に代表される国家法人説を基礎とする政体論(国体否認論)のほうがむしろ優勢であった
もとより機関説論争は法的国家論に関する学術論争ではなく、次世代に憲法をどう教えるかを巡る論争で、明治末という時代状況の中で、美濃部の議論は世界的なデモクラシーの追い風を受けながら、天皇を頂点にした家族主義、国家主義的思想に基づいて体制再建を図ろうとする穂積・上杉派の巻き返しや、井上哲次郎に代表される国民道徳論の前に苦戦を強いられ、教育現場には面従腹背的な教科書も散見された
l 天皇機関説事件とは、美濃部の著作物が国法に触れるとされ、行政処分・司法処分の対象となり、そこで書かれた天皇機関説が政府の手により国禁の説と断定されたもの。1935年の貴族院本会議において、機関説を「国体を破壊する」ものとし、論者を「謀反人」と非難。32年から勅任されていた美濃部が反撃し、一気に事件へと発展。官僚主体の岡田内閣の倒閣を目論んだ衆院多数派の政友会が、軍部や右翼と結託して、機関説排撃運動を全国展開した。さらに衆議院議員が美濃部の著作を不敬罪に該当するとして告発したため刑事事件に発展。美濃部は、学説を翻すつもりはないが、貴族院議員としての職務全うが困難として辞職、刑事告発も起訴猶予となり、政府も、政友会等の圧力に負けて「国体明徴」の声明を発表するとともに、美濃部説を国禁の説として抹殺され、枢密院議長だった一木や岡田内閣の内閣法制局長官だった金森徳次郎も辞任に追い込まれる。文部省の対応も迅速で、大学等から機関説の講義を排除、東京帝大でも滝川事件の教訓から、美濃部退官後の憲法担当教授で自由主義者だった宮沢俊儀教授が末広厳(いず)太郎法学部長から呼ばれ、無抵抗主義を余儀なくされた。高文試験の試験委員も、美濃部・宮沢などが外され、穂積説に近い学者が任命、受験界にも大きな衝撃を与える
機関説排除によって憲法にもたらされたのは、憲法に従って統治をなすべき最高権力者が憲法の軛(くびき)から解放されることを意味し、時の為政者、権力者による憲法を無視した擅断(せんだん)的支配を可能にしたことから、「国体」の名の下、為政者によるほしいままの支配が、軍部はじめ権力組織の各処で跋扈し、戦争へと突き進む ⇒ 憲法の条規による国家統治からの逸脱であり、事実上の憲法改正というより破毀そのもの
一例を挙げれば、美濃部は憲法上許される「法律の委任」とは、特定の事項を指定してこれを命令の規定に譲ることのみを言い、一般的な立法権の授与は、3権分立の原則からも認められず、国家総動員法のようにほとんど白紙委任を認める措置は憲法の原則に抵触
l 本書は、初版本の刊行から機関説事件までの間、明治憲法の立憲的運用を定着させ、立憲秩序の安定化に仕え、実定憲法の内実をなすことを通じて、「明治憲法体制そのもの」の役割を果たすもの。記載内容が、今の憲法に即してみて我々の合点のいくところがあるとすれば、美濃部の説示した立憲主義が、今なおこの国に必ずしも根付いていないということだ。2つの憲法下における立憲主義の進展、現下の立憲主義の有り様を確かめるためにも、本書が広く読まれることを期待する




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美濃部 達吉(1873明治6年)57 - 1948昭和23年)523)は、日本法学者憲法学者政治家東京帝国大学名誉教授。戦前、和仏法律学校(現法政大学)に憲法講義を担当し、清国留学生法政速成科の憲法学の講義も担当した。法政大学通信教育学部の設立者。
天皇機関説を主張し、大正デモクラシーにおける代表的理論家として知られる。昭和時代には天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職した。戦後1948には勲一等旭日大綬章を受章。
妻・多美子は菊池大麓の長女である。東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男。兄に朝鮮銀行総裁等を務めた美濃部俊吉がおり、その子である商工省および企画院官僚だった美濃部洋次は甥にあたる。同志社大学教授の浜矩子は曾姪孫。
l  生涯[編集]
l  前半生[編集]
1873(明治6年)57日、兵庫県加古郡高砂町(現・高砂市)の漢方医美濃部秀芳美濃部秀軒の子。)の次男として生まれた。高砂小学校、小野中学校(現:兵庫県立小野高校)第一高等中学校を経て、1894(明治27年)、東京帝国大学法科大学政治学科(現・東京大学法学部)に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。1897(明治30年)に大学を卒業し、高等文官試験行政科に合格して、内務省に勤務する。1899(明治32年)にドイツフランスイギリスに留学し、翌1900(明治33年)に東京帝国大学助教授、1902(明治35年)に同教授となり比較法制史の講座を担任する。大学の同期に国際法学者の立作太郎、公法学者の筧克彦がおり、また東京帝国大での弟子に憲法学では清宮四郎宮沢俊義鵜飼信成柳瀬良幹松岡修太郎中村哲 (政治学者)、行政法学では田中二郎柳瀬良幹・宇賀田順三・園部敏らがいる。東京帝国大に先立ち、東京高等商業学校(後に東京商科大学、現・一橋大学)でも教鞭を執り、1903(明治36年)10月には同校の兼任教授となり、渡辺廉吉に代わって憲法・行政法を担当した。東京商科大学で助手を務めていた弟子に公法学者の田上穣治(のちに一橋大学名誉教授)がいる。また、1903年(明治36年)には、一木夫妻の媒酌で、文部大臣菊池大麓の三女・民子と結婚した。1908(明治41年)、一木が大学から退いた後を受けて、行政法第一講座を兼担。1911(明治44年)、帝国学士院会員に任命された。
1912大正元年)に発表した『憲法講話』で、天皇機関説を発表。同説は、ドイツのゲオルグ・イェリネックが主唱した「君主は国家におけるひとつの、かつ最高の、機関である」とする国家法人説に基づいて大日本帝国憲法を解釈し、日本の統治機構を解く学説である。同年、病気により退官した穂積八束教授の後を受けて東京帝国大学法科大学長に就任し、天皇主権説を唱えた上杉慎吉教授と論争を展開した。こののち天皇機関説は大正天皇昭和天皇、当時の政治家や官僚らにとっても当然のものとして受け入れられるようになっていった。1920(大正9年)、講座増設で憲法第二講座が設けられ、行政法第一講座と兼担する。
1930(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮条約の批准に関連して、いわゆる統帥権干犯問題が起きた際には、「兵力量の決定は統帥権の範囲外であるから、内閣の責任で決定するのが当然である」として濱口雄幸内閣の方針を支持した。また1932(昭和7年)に血盟団事件井上準之助大蔵大臣が暗殺された際には、政府による右翼取締りの甘さを非難した。政党による行き過ぎた利権誘導にも批判的で、内務省の革新官僚が推進した知事・官僚の身分保障規定(文官任用令11条)の復活には賛成論を唱えている。同年5月には貴族院勅選議員となる。
1934(昭和9年)に東京帝国大学及び兼官を退官し東京帝国大学名誉教授の称号を受ける。翌年3月には東京商科大学兼任教授も退任し、後任の憲法担当として大学同期の寛克彦を派遣した。
l  天皇機関説事件[]
天皇機関説」および「天皇機関説事件」も参照
1934(昭和9年)、国体明徴運動が起こり、昭和天皇の天皇機関説支持にもかかわらず、美濃部は排撃され始めた。また、前年には、ナチス・ドイツ焚書が行われ、美濃部の学説に影響を与えたゲオルク・イェリネックの著書が、イェリネックがユダヤ人であることを理由に、発禁・焚書の対象とされた。同時期、日本でもナチス・ドイツへの関心が高まり、美濃部の学説は反ファシズム・反ナチズムとみなされるようになった。
1935(昭和10年)、貴族院本会議において、菊池武夫議員により天皇機関説非難の演説が行われ、軍部や右翼による機関説と美濃部排撃が激化する。これに対し美濃部は、「一身上の弁明」と呼ばれる演説を行い、自己の学説の正当性を説いた。美濃部の理路整然とした演説に、議場は満場水をうったような静けさだった。
去る219日の本会議におきまして、菊池男爵その他の方か私の著書につきましてご発言がありましたにつき、ここに一言一身上の弁明を試むるのやむを得ざるに至りました事は、私の深く遺憾とするところであります。……今会議において、再び私の著書をあげて、明白な叛逆思想であると言われ、謀叛人であると言われました。また学匪であると断言せられたのであります。日本臣民にとり、叛逆者、謀叛人と言わるるのはこの上なき侮辱であります。学問を専攻している者にとって、学匪と言わるることは堪え難い侮辱であると思います。……いわゆる機関説と申しまするは、国家それ自身を一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の団体、即ち法律学上の言葉を以て申せば、一つの法人と観念いたしまして、天皇はこれ法人たる国家の元首たる地位にありまし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給い、天皇が憲法に従って行わせられまする行為が、即ち国家の行為たる効力を生ずるということを言い現わすものであります。
「一身上の弁明」演説
しかし、著書は発禁処分となり、不敬罪の疑いで検事局の取り調べを受けた(ただし、起訴猶予処分となっている)。
同年9月、美濃部は貴族院議員を辞職し、公職を退いた。
しかし、翌1936(昭和11年)には、天皇機関説の内容に憤った右翼暴漢の銃撃を受けて重傷を負った。この暴漢小田十壮は、一審で懲役8年、控訴した二審では懲役3年の判決を受けた。これは、美濃部の供述から、右足に負傷したのは逃げた空き地の鉄条網を越えてからのことになっていたが、暴漢小田が、7発の弾丸を撃ちつくしたのはそれ以前であり、別人の犯行の可能性が出たからである。
弁護人林逸郎竹上半三郎は、この疑問から警護の巡査達にも疑いが向けられ巡査たちを喚問したが証言が曖昧であったため、警視庁にも当該巡査達のピストルの取寄せを求めたが、警視庁はピストルが見つからぬと回答。さらに警視庁のピストルの台帳にも見当たらぬと回答。やむなく帝大で美濃部の体内から摘出された弾丸と、暴漢小田が犯行に使用したピストルの弾丸の施条痕の鑑定が行われたが、螺旋の巻き方が違うことが判明。暴漢小田に傷害の責任はなかった。美濃部に銃傷を負わせた犯人はいまだ不明である。
この一連の天皇機関説事件の中で、岡田内閣2度わたって「国体明徴声明」を出し、天皇機関説は異端の学説とし撲滅を宣言させられた。
l  戦後[編集]
第二次世界大戦後、領軍の対日「民主化」政策により憲法改正作業が行われ、美濃部も内閣の憲法問題調査会顧問や枢密顧問官として憲法問題に関与した。
しかし、占領軍は国家の根本規範を改正する権限を有しないとの理解を前提に、美濃部は新憲法の有効性について懐疑的見解を示し、国民主権原理に基づく憲法改正は「国体変更」であるとして反対。枢密院における新憲法草案の審議でも、議会提出前の採決でただ一人反対の態度を示し、議会通過後の採決も欠席棄権するなどして抵抗し、「オールド・リベラリストの限界」と非難された。しかし、美濃部の見解と同様に、主権の所在の変更を伴う日本国憲法制定は無効であったとする主張は根強く存在している。
ちなみに美濃部の弟子の宮沢俊義は、八月革命説ポツダム宣言受諾によって日本において法的には「革命」が起き、それによって主権の所在が天皇から国民に変更されたため、それに基づく日本国憲法は有効である)という学説を提唱し、憲法改正の正当性を宮沢は理論付けた。
1947(昭和22年)には、日本初の大学通信教育課程である法政大学通信教育部の初代部長に任命される。
日本国憲法の成立後には、この憲法の研究を重ね、多くの著書・論文を発表したが、日本国憲法施行の1年後、1948(昭和23年)523に没した。
l  年譜[編集]
1873(明治6年):57日、出生
1897(明治30年):7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。8月、務省に任じられ、縣治局市町村課に配属。12月、文官高等試験合格。
1898年(明治31年):8月、依願免本官(諭旨)。同月、内務省試補を命じられ、縣治局に配属。
1899年(明治32年):5月、比較法制史研究のため、ドイツ・フランス・イギリス三ヶ国への留学を命じられる。依願により内務省試補を免じる。
1900年(明治33年):6月、東京帝国大学法科大学助教授に任じられ、高等官七等に叙される。引き続き外国留学を命じられる。9月、従七位に叙される。
1901年(明治34年):3月、高等官六等に陞叙される。7月、正七位に叙される。
1902年(明治35年):10月、東京帝国大学法科大学教授に任じられ、高等官六等に叙される。比較法制史講座担任を命じられる。11月、帰朝。
1903年(明治36年):4月、高等官五等に陞叙される。7月、従六位に叙される。8月、法学博士を授けられる。10月、東京高等商業学校教授を兼任。高等官五等に叙される。
1905年(明治38年):5月、高等官四等に陞叙される。7月、正六位に叙される。
1907年(明治40年):8月、高等官三等に陞叙される。10月、五位に叙される。
1908年(明治41年):9月、行政法第一講座の兼担を命じられる。
1910年(明治43年):4月、高等官二等に陞叙される。7月、正五位に叙される。
1911年(明治44年):1月、帝国学士院会員。9月、比較法制史講座担任を免じる。12月、法制局参事官を兼任。高等官三等に叙される。同月、勲四等に叙され、瑞宝章を授けられる。
1912年(明治45年):4月、高等官二等に陞叙される。
1915年(大正4年):8月、従四位に叙される。
1916年(大正5年):1月、勲三等に叙され、瑞宝章を授けられる。4月、旭日中綬章を授けられる。
1917年(大正6年):10月、法律取調委員。
1918年(大正7年):5月、高等官一等に陞叙される。
1919年(大正8年):4月、東京帝国大学評議員。9月、銀杯一組を賜う。
1920年(大正9年):4月、東京商科大学教授を兼任。高等官一等に叙される。8月、高等官一等に陞叙される。9月、正四位に叙される。10月、憲法第二講座の兼担を命じられる。
1922年(大正11年):2月、ヨーロッパへ出張を命じられる。ベルギー学士院創立150年祝賀式への参列を命じられる。12月、帰朝
1923年(大正12年):1月、行政法第一講座の分担を命じられる。同月、勲二等に叙され、瑞宝章を授けられる。3月、行政法第一講座分担を免じられ、行政法第一講座担任、憲法第二講座の兼担を命じられる。
1924年(大正13年):6月、東京帝国大学法学部長。10月、九州帝国大学教授を兼任、行政法の研究に従事し、法文学部勤務を命じられる。高等官一等に叙される。
1925年(大正14年):3月、憲法第二講座の兼担を免じる。11月、従三位に叙される。
1926年(大正15年):4月、憲法第二講座の兼担を命じられる。同月、図書復興委員会委員
1927年(昭和2年):6月、東京帝国大学法学部長を辞任する(依願免職)。10月、九州帝国大学教授の兼務を辞任する(依願免職)。
1928年(昭和3年):3月、憲法第二講座の兼担を免じる。4月、旭日重光章を授けられる。11月、大礼記念章を授与される。
1929年(昭和4年):4月、憲法第一講座の兼担を命じられる。5月、法制審議会委員。9月、行政裁判法及訴願法改正委員会委員。
1930年(昭和5年):1月、衆議院議員選挙改正審議会委員。
1932年(昭和7年):5月、貴族院議員に任じられる。10月、昭和五年国勢調査記念章を授与される。
1933年(昭和8年):1月、勲一等に叙され、瑞宝章を授けられる。
1934年(昭和9年):3月、州国建国功労章を贈与される。同月、依願免本官並びに兼官。4月、正三位に叙される。同月、金杯一箇を賜う。5月、勅任官待遇。6月、東京帝国大学名誉教授。
1935年(昭和10年):3月、東京商科大学兼任教授退任。
1935年(昭和10年):9月、貴族院議員を辞任する(依願免職)。
1946年(昭和21年):1月、枢密顧問官に任じられる。7月、公職適否審査会委員。同月、公職適否審査会委員長。
1947年(昭和22年):5月、枢密院廃庁により枢密顧問官退官。
1948昭和23年):523、死去。
l  栄典[編集]
l  位階
1934(昭和9年)417 - 正三位
l  勲章等



天皇機関説とは、大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いたものである。ドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックに代表される国家法人説に基づき、憲法学者・美濃部達吉らが主張した学説で、天皇主権説(穂積八束杉慎吉らが主張)などと対立する。
l  概要[編集]
天皇機関説は、1900年代から1935頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である[1]。憲法学者の宮沢俊義によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる。
国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見る。国家が法人だとすると、君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機関だということになる。この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上はひとつの法人であり、その結果として、天皇は、法人たる日本国家の機関だということになる。
これがいわゆる天皇機関説または単に機関説である。
(太字は原文傍点)宮沢俊義『天皇機関説事件(上)』有斐閣、1970年。
1889明治22年)に公布された大日本帝国憲法では、天皇の位置付けに関して、次のように定められた。
1:大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス(天皇主権
4:天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ(統治大権
後述するように、天皇機関説においても、国家意思の最高決定権の意味での主権は天皇にあると考えられており、天皇の政治上の権限は否定されていない。
しかしながら、こういった立憲君主との考え方は大衆には浸透していなかったようで(美濃部の弁明を新聞で読んだ大衆の反応と、貴族院での反応には温度差があった)、一連の騒動以後は天皇主権説が台頭し、それらの論者は往々にしてこの立憲君主の考えを「西洋由来の学説の無批判の受け入れである(『國體の本義』より要約)」と断じた。
l  主権概念との関係[編集]
主権」という語は多義的に解釈できるため注意が必要である。
「統治権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、国家と答えるのが国家主権説である。一方で、「国家意思の最高決定権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、「君主である」と答えるのが君主主権説、「国民である」と答えるのが国民主権説である。 したがって、国家主権説は君主主権説とも国民主権説とも両立できる。
美濃部達吉の天皇機関説は、統治権の意味では国家主権、国家意思最高決定権の意味では君主主権(天皇主権)を唱えるものである。美濃部は主権概念について統治権の所有者という意味と国家の最高機関の地位としての意味を混同しないようにしなければならないと説いていた(美濃部達吉『憲法講話』)。金森徳次郎によれば美濃部は、天皇の発した勅語であっても主権者たる国民はこれを批判しうるとしていた。
l  天皇主権説との対立点[編集]
主権の所在
天皇機関説 - 統治権は法人としての国家に属し、天皇はそのような国家の最高機関即ち主権者として、国家の最高意思決定権を行使する。
天皇主権説 - 天皇はすなわち国家であり、統治権はそのような天皇に属する。これに対して美濃部達吉は統治権が天皇個人に属するとするならば、国税は天皇個人の収入ということになり、条約は国際的なものではなく天皇の個人的契約になるはずだとした[3]
国務大臣の輔弼
天皇機関説 - 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が不可欠である(美濃部達吉『憲法撮要』)。
天皇主権説 - 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼を要件とするものではない(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。
国務大臣の責任
天皇機関説 - 慣習上、国務大臣は議会の信任を失えば自らその職を辞しなければならない(美濃部達吉『憲法撮要』)。
天皇主権説 - 国務大臣は天皇に対してのみ責任を負うのであり(大権政治)、天皇は議会のかかわりなく自由に国務大臣を任免できる(穂積八束『憲法提要』)。議会の意思が介入することがあれば天皇の任命大権を危うくする(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。
l  天皇機関説を主張した主な法学者等[編集]
一木喜徳郎 - 男爵枢密院議長)
浅井清 - (貴族院勅選議員、慶應義塾大学教授)
金森徳次郎 - 東京帝国大学法学部教授、初代国立国会図書館長)
中島重 - 関西学院法文学部教授、帝大法科卒、美濃部門下)
田畑忍 - 同志社大学法学部教授、中島重門下、のち佐々木門下)
l  歴史[編集]
l  天皇機関説の発展[編集]
大日本帝国憲法の解釈は、当初、東京帝国大学教授・穂積八束らによる天皇主権説が支配的で、藩閥政治家による専制的な支配構造(いわゆる超然内閣)を理論の面から支えた(天皇主権説とは統治権の意味での主権を天皇が有すると説く学説である)。また、この天皇主権は究極のところ天皇の祖先である「皇祖皇宗」に主権があることを意味する「神勅主権」説とも捉えられた。
これに対し、東京帝大教授の一木喜徳郎は、統治権は法人たる国家に帰属するとした国家法人説に基づき、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるものと規定する天皇機関説を唱え、天皇の神格的超越性を否定した。もっとも、国家の最高機関である天皇の権限を尊重するものであり、日清戦争後、政党勢力との妥協を図りつつあった官僚勢力から重用された。
日露戦争後、天皇機関説は一木の弟子である東京帝大教授の美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。すなわち、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。
美濃部の天皇機関説はおおよそ次のような理論構成をとる。
国家は、一つの団体で法律上の人格を持つ。
統治権は、法人たる国家に属する権利である。
国家は機関によって行動し、日本の場合、その最高機関は天皇である。
統治権を行う最高決定権たる主権は、天皇に属する。
最高機関の組織の異同によって政体の区別が生れる。
辛亥革命直後には、穂積の弟子である東京帝大の上杉慎吉と美濃部との間で論争が起こる。共に天皇の王道的統治を説くものの、上杉は天皇と国家を同一視し、「天皇は、天皇自身のために統治する」「国務大臣輔弼なしで、統治権を勝手に行使できる」とし、美濃部は「天皇は国家人民のために統治するのであって、天皇自身のためするのではない」と説いた。
この論争の後、京都帝国大学教授の佐々木惣一もほぼ同様の説を唱え、美濃部の天皇機関説は学界の通説となった。民本主義と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、また、美濃部の著書が高等文官試験受験者の必読書ともなり、1920年代から1930年代前半にかけては、天皇機関説が国家公認の憲法学説となった。この時期に摂政であり天皇であった昭和天皇は、天皇機関説を当然のものとして受け入れていた。
l  天皇機関説事件[編集]
憲法学の通説となった天皇機関説は、議会の役割を重視し、政党政治と憲政の常道を支えた。しかし、政党政治の不全が顕著になり、議会の統制を受けない軍部[6]が台頭すると、軍国主義が主張され、天皇を絶対視する思想が広まった。1932年(昭和7年)に起きた五・一五事件犬養毅首相が暗殺され、憲政の常道が崩壊すると、この傾向も強まっていった。また、同時期のドイツナチスが政権を掌握すると、1933年には、ドイツでユダヤ人の著作などに対する焚書(ナチス・ドイツの焚書)が行われた。この焚書において、天皇機関説に影響を与えたイェリネックの著作も、イェリネックがユダヤ人であることを理由に焼かれた。昭和戦前の日本における、ナチス・ドイツやチズムへの関心や親近感の高まりも、天皇機関説への敵視に影響を与えた。
1935(昭和10年)には、政党間の政争を絡めて、貴族院において天皇機関説が公然と排撃され、主唱者であり貴族院の勅選議員となっていた美濃部が弁明に立った。結局、美濃部は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版違反として発禁処分となった。当時の岡田内閣は、同年83日には「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり」(天皇が統治権執行機関だという思想は、国体の間違った捉え方だ)とし、同年1015日にはより進めて「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする国体明徴声明を発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じられた。
l  天皇・皇室の見解[編集]
昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。昭和天皇は「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と本庄繁武官長に話し、真崎甚三郎教育総監にもその旨を伝えている[7]。国体明徴声明に対しては軍部に不信感を持ち「安心が出來ぬと云ふ事になる」と言っていた(『本庄繁日記』)。また鈴木貫太郎侍従長には次のように話している。
主權が君主にあるか國家にあるかといふことを論ずるならばまだ事が判ってゐるけれども、ただ機關説がよいとか惡いとかいふ論議をすることは頗る無茶な話である。君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ『西園寺公と政局』
また、昭和62年(1987年)に皇太子明仁親王が記者の質問に答える形で機関説事件前後の天皇ありかたについて言及しており、機関説事件に否定的なニュアンスのコメントをしている。
記者 訪米前の会見で、1930年代から敗戦までは、それ以前、それ以後と比べて天皇のあり方がまったく違うということをおっしゃったようですが、それはどういう意味ですか。
皇太子 天皇機関説とかああいうものでいろんな議論があるわけですが、一つの解釈に決めてしまったわけですね。そのことをいってるわけです。だから、大日本帝国憲法のいろんな解釈ができた時代から、できなくなってしまった時代ということですね。その時にある一つの型にだけ決まってしまった。昭和621216日、誕生日に際しての記者会見
l  戦後の天皇機関説[編集]
第二次世界大戦後、改正憲法の気運が高まる中、美濃部は憲法改正に断固反対した。政府、自由党社会党の憲法草案は、すべて天皇機関説に基づいて構成されたものであった。しかし、天皇を最高機関とせず国民主権原理に基づく日本国憲法が成立するに至り、天皇機関説は解釈学説としての使命を終えた。



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