職人の近代 道具鍛冶千代鶴是秀の変容  土田昇  2017.8.30.

2017.8.30. 職人の近代 道具鍛冶千代鶴是秀の変容

著者 土田昇 1962年東京生まれ。土田刃物店3代目店主。父一郎より引き継いだ千代鶴是秀の作品の研究家であると同時に、木工手道具全般の目立て、研ぎ、すげこみ等を行う技術者でもある。竹中大工道具館(神戸)の展示、研究協力。ものつくり大学技能工芸学部非常勤講師。

発行日           2017.1.31. 印刷                2.10. 発行
発行所           みすず書房

刀工名家に生まれ。廃刀令後の明治に大工道具鍛冶として修行し、道具を実際に使う大工たちの絶賛によって揺ぎ無い地位を得た千代鶴是秀(18741957)
修業時代に師から使用者重視という製作思想の根幹を心に刻みつけられた是秀の、機能美の極致のような作品の中で、唯一ほかと異なるたたずまいを持つのが一群のデザイン切出小刀である。自由で流麗な意匠をまとったこれらの切出群は、実用面から言えば使いにくく、道具が道具でなくなるギリギリの地点に位置する。抜群の切味を隠し持ちながら、使用される事を想定しない非実用の美。道具鍛冶として名声を得ながら、是秀はなぜ実用を犠牲にした美しいデザイン切出を作ったのか
著者は祖父、父と3代にわたる大工道具店を営む中で、長年、千代鶴是秀の作品に向き合ってきた。是秀からじかに教えを受けた父一郎から伝えられた貴重な話しや資料を手掛かりに、朝倉文夫らとの交わりを始め、是秀の周囲の芸術家や文化人、職人たちの跡を丹念にたどり、その作風変化の謎を時代という大きな背景の中で一つ一つ解きほぐしてゆく。鑿(のみ)や鉋(かんな)、切出と深く対話するように、鍛冶文化の豊かさを伝えながら

切出小刀という木工具は、鋸、鑿、鉋、玄能という主たる道具に比べて脇役、補助的な木工具であり、雑用具的性質を宿命づけられている。家庭用刃物の範疇で、木組みの精緻な仕口を工作するための厳しい決まりがあるわけではなく、また鉋のように鉋刃と切削冶具(じぐ)たる鉋台との精妙な関係性に気を使わねばならないこともないので、製作者にある種の自由を与える。特に外皮、外形における自由度が高い
千代鶴是秀の切出小刀類こそは、その外皮に於いて驚くべき多彩さ、完成度を示し、彼以前の刃物鍛冶、道具鍛冶が踏み込み得なかった域に至っている
職人の分身とも言いうる道具において、千代鶴是秀の製作品は、持主であり使用者である者の存立に関わるものと化し、精妙な職人技術を支える根幹をなすものとも解釈されたが、彼ら名人職人にとっては道具たり得ぬ刃物も是秀は作り、それが美しい形状をした切出小刀群で、製作者の余技が明らかに実用からの乖離と引き換えに、1つの美に至った
是秀は、若い頃から自らの製作品を持ち歩いては街の大工道具屋に立ち寄り、主人の評価を聞いていた。彼の持ち込み提示癖は、製作品そのものを見極めてくれる批評者を渇望していたことの表れであり、職人の道徳の変質に対する警告行為でもあった
日本の近代化における外皮と骨格の矛盾の中で、大工道具鍛冶名工、千代鶴是秀がどのように矛盾と対峙し、その作品がどう変質していったのかを検証してみたい

第1章        大工道具鍛冶、千代鶴是秀の修業時代
刀剣鍛冶の家の生まれ。祖父は米沢藩上杉家御抱刀工、初代運斎綱俊(加藤八郎)
祖父の姉の子で石堂家に養子に入ったのが、江戸幕府御抱刀工の7代目石堂運壽斎是一
祖父の兄の継嗣に、徳川から明治にかけての刀工、固山宗次がいる
1876年廃刀令後、7代目是一、8代目寿永(是秀の叔父、是一の養子)の下で、是秀と9代目石堂秀一が修業に入り、寿永が農具より製作難度の高い大工道具作りに没頭していたため、自らも大工道具製作技術を学ぶ
7代目、8代目の相次ぐ逝去により、1899年石堂家より独立して麻布笄町で道具鍛冶の仕事を始目、秀一と2人でそれまでの刃物鍛冶、道具鍛冶が実現し得なかった域の品質のものを制作していく ⇒ 是秀の妻は秀一の妹で、2人は従兄弟であると同時に義兄弟
是秀の名声の基礎は、1900年西郷家出入り棟梁恩田栄吉に18分叩鑿を作り、1911年三輪善兵衛(ミツワ石鹸創業者)宅棟梁金子氏に53分大鉋初霜を製作したこと
鑿も大鉋も、いずれもそれまで名工とされた初代田中国弘、初代田中義廣に負けない名品との評価を受けた ⇒ 国弘、義廣も兄弟。それまでは、「鑿は国弘、鉋は義廣、手斧(ちょうな)は三ノ輪、錐は木瓜(もっこ)屋でとどめを刺す」と明治期の大工では言われていた
是秀の研究により、徳川後期以降の鍛冶銘や業績の一部が後世に伝えられるようになった
源兵衛、勘兵衛、キ文字といった関西の名工、重房、吉房という会津の名工、勝元、平義という江戸の鍛冶、国行、国義、宗近、豊廣、武虎など初代国弘、義廣の後継者たち
是秀20歳代の頃、高村光雲が評価していた高価な栗原信親の彫刻刀を見せられても、その道に興味を示さなかったのは、玉鋼で作られていたから ⇒ のちに洋鋼に変換
玉鋼(正式には和鋼)は、中国地方の良質な砂鉄を原料とし、たたら製鉄法によって作られる原始的な純炭素鋼で、溶岩状の塊に過ぎないため均質性に乏しく、均質化、強靭化を図るために、折り返し鍛造して積層構造のものとしているので、鍛冶技術者の熟練度が直接製作品に反映される
明治期にヨーロッパから輸入され始めた洋鋼は、均質かつ大量に生産されたところから、使いやすく良質だった ⇒ 明治末期には完全に玉鋼に取って代わる
是秀の師寿永は、まだ玉鋼を使用して農具や木工具を手掛けて評判をとっていたが、明治2030年にかけての3年間ほど、洋鋼を使った鉋が登場、鍛冶銘は「重勝」で一気に名声を獲得 ⇒ 寿永は遺言で、秀一と是秀に洋鋼の使用を勧める
1911年下谷竹町の三善善兵衛宅普請場を訪ねて金子棟梁から、「大鉋がもう1枚必要。よく切れる方を仕上げに使いたい」と注文されたのも、自ら現場に出向いて技術を試す対象とした貪欲さこそが是秀を特異な存在として引き立たせてもいる
切出小刀は、一見無骨で単純過ぎるくらいの形状のまま作られてきたが、是秀が後半生において外皮の王者たる冴えを見せた華やかはな切出群とは対極をなす存在であり、是秀が不必要な美しさと引き換えに、使用上の必要条件をやや浸食するようなものを提示する行為に埋没する必要性とは何だったのか、実用道具鍛冶であった者が、しかもその人種の中でも技術や感性が優れた者が、実用度を犠牲にしてまで手にしようとしたものの秘密を探る
『高村光雲懐古談』に、「いやしくも仏師たるもの、自作を持って道具屋の店に売りに行くものではない」という道徳観が染みわたっていたという話があり、実際光雲の一生はすべて受け身で徹底しているが、既に仏師としての名声が確立し、市場も存在しているだけに成り立ち得るものと考えられる
一方の是秀の姿勢は光雲のそれとは矛盾するが、廃刀令で仕事がなくなり、大工道具鍛冶分野には名だたる名工がいて、彼らから技術を学び取らなければならないレベルだったことから、使用者である大工たちに使いたいと思わせる製作品を目指す格闘の段階にいたが故の考えがあってのこと
日清戦後、陸軍工兵用の木工具の注文が来る ⇒ 鑿や鉋の質が悪かったことから、新たな納品業者として白羽の矢が立ち、石堂家の仕事として是秀、秀一が協力して請け負ったが、この時の仕事の譲り合いによる非効率を避けるために是秀が独立を決心したという
西郷家でいるの棟梁恩田栄吉が是秀に作らせた18分の叩鑿を評して、「国弘でも石堂でもない名品」と、驚嘆すべき技術を持った新人鍛冶の登場を宣言 ⇒ 恩田は明治政府高官家出入棟梁
恩田のために作った是秀の18分叩鑿は、稀なほど状態よく残されているのが特徴。ほとんど使われず、研ぎ減った様子がないと思わせる初さがある。小ぶりな大入鑿と違い、主に建築構造材の加工に使われる。刃幅が狭く、堀鑿と別称され、ひたすら大玄能で叩かれることによってホゾ穴を掘り、仕口加工を掘り崩しつつ成形する。一方、12分以上の刃幅の叩鑿は広鑿あるいはサライ鑿と別称され、ホゾ穴及び仕口加工の仕上げ切削に使われる。鋸や堀鑿によって大方加工された部分を突いて仕上げて行く鑿がサライ鑿で、叩鑿において、刃幅の狭い堀鑿のほうがサライ鑿に比べて使用減退がずっと激しく、時代の古い木工具を調べていくと、大突鑿やサライ鑿は比較的多く得られるが、堀鑿はあまり残っていない ⇒ 明らかに恩田が是秀の鑿を特別視していたことがわかる
関東大震災のころ亡くなった恩田から道具屋を通じて是秀の鑿を買い取ったのは、石膏型取師で名品道具の収拾が趣味だった宮嶋一。その死後は弟子の牛越誠夫が受け継ぐが、牛越は是秀の長女と結婚
昭和40年代に角鑿機の開発で消滅したホゾ穴掘り専門の穴大工に認められてこその鍛冶職人であり大工道具鍛冶と言える
是秀は、玄能、金槌等の打撃系工具にも手を出していた ⇒ 刃物製作とは違った難しさがあり、特に柄がすがるヒツと呼ばれる穴の工作と焼き入れ方法が異なる。ヒツ穴は熱し赤めた鉄にタガネ()を叩き込み火造り成形するが、玄能・金槌の大きさ(重さ)や形状によって最適なサイズがあり、経験がものをいう

第2章        逸脱の始まり
是秀の作風変化は、明治末から大正期にかけて起こり、単なる優秀な鍛冶職人ではなくなってゆく父親像に後継者の息子太郎の死の要因もあるように思われる
独立した当初の笄町時代、栗原波月(光太郎)との出会い ⇒ 八王子の生糸問屋の息子で大変な資産家、是秀より何歳か年長、職人仕事に興味を持って実家に鍛冶小屋を建てるほどで、是秀が意気投合したのも火造り装置についてのアドバイスが発端
宮嶋との出会いも影響 ⇒ 実際に使用を目的としない宮嶋の求めに応じて、大入鑿(押入鑿)1(10)や八分鉋 を始めいろいろな道具を製作している
これらの流れの中で、是秀作品は変質し始める ⇒ 実用道具からの逸脱要素を持つものに関心を寄せる人種との交流が背景にある
火造りしっ放しのまま切出小刀類を手掛け始めたのは、ヤスリやセンで仕上げた精緻さとは違った印象のものを提示してみたいという欲求とともに、削らずとも形にし得る鍛冶技術の根幹をその表皮(刃物の鋼の表面)に定着させてみたいという目論見があったに違いない
鉄の塊から削り出して作ったものではなく、赤めた鉄を叩いて、その造形に持っていくやり方で、純粋に形状の面白さを狙ったもの
鍛冶技術の本質はここにありとの主張を内に隠し持ち、秘めたものとするための是秀独自のデコレーション技術だったとも解釈できる
朝倉文夫との出会い ⇒ 朝倉自身が日本の職人技術にただならぬ関心を示していたことが、是秀の作風変化を促すことに結び付いたと推測できる。朝倉の初期から中期にかけての多くの作品の石膏取りを請け負ったのが宮嶋で、彼を通じて朝倉も是秀に彫刻鑿を注文している。朝倉彫塑館に収蔵されている木彫道具は是秀作のものばかり
是秀が朝倉に作った道具類の中で、とても変わった形状の切出小刀があり、刃物としての実用を想像しにくい形で、切出小刀とも文鎮ともしれない鉄の塊で眺めているしかない

第3章        試練の時
実用道具としての大工道具は、使用されることによってその有用性を証明し、使われれば磨滅減退して、いつかは使用不能に至る
技術者とは、持てる技術なり付随する感性を誇りとし、製作物の永遠、もしくは製作物や自らの技術に関せられた現世の名誉が永く重んじられることを望む ⇒ 残存させてゆこうという意思はシステムを得て実現されるが、もの作りに使われる道具はそのシステムの外のもの
是秀は、昭和の初め頃アイヌの木製のペーパーナイフのような形のものを見て、刃がある形状なのに、全く刃物としての鋭さ、危うさを感じさせない所に感心、鉄であんなものが出来たら、机の上に置いても刃物としての危なさを感じさせず、おかしくない切出しが目指せないかと言っていた
是秀も秀一も弟子の育成には失敗で、唯一秀一の弟子菊地精一のみが後に石堂輝秀として鉋鍛冶となる
1921年千代鶴の名義を長らく独占販売していた田中政八商店に進呈し、以後千代鶴刻印あるものは全部偽物と宣言

第4章        職人の不器用、職人の道徳
大正から昭和初めにかけて、内情は鍛治一族消滅の歴史だった ⇒ 弟子たちはいずれも師匠ほどには技術的達成に至らなかったわけではないのに消滅に向かったところに特徴
隙のない製作方法を維持するための道徳が、時代との擦り合わせに不適合な面を多く含んでいたからこそ、崩壊の因子を増殖させてしまった ⇒ 使うものではなく祀るものとして神棚道具と評された事実からしても、別格の意味を違えたものと化していた
是秀は一族の不幸続きの時代に、実用者、江戸熊ばかりでなく、彫刻家朝倉文夫をはじめとする芸術界の人脈とも付き合い始め、旺盛な製作活動の下で変質を遂げている
なぜ是秀が弟子育成に失敗し、田中政八商店による「千代鶴」銘の偽物鉋製作問題で主たる納入商人との関係がぎくしゃくしたものとなる中で、同じ様に弟子を失い酒に救いを求めた石堂秀一のような、あるいは宗教に救いを求めた弟子秀房のような、職人としての自壊に向かわずに済んだのか ⇒ 息子太郎の存在が大きい。太郎は鍛治技術を修業しつつ彫刻作品製作もなすことを父から許可されている。ものを作り出す作業に対して稀有な資質を有し、大工道具も是秀の域に達し、弟子を失って酒に溺れた石堂家の銘である「運寿」を名乗ったが、商品を売る行為を嫌い、僅かに溜まった小遣いも趣味につぎ込んで、挙句の果てが1933年三原山に投身自殺を遂げる。家業と彫刻のはざまで起きた不幸
是秀は太郎を1年間探し続け、太郎の火造り残したものを仕上げて「運寿」銘で卸し、夜でも玄関の鍵を閉めず、太郎の部屋も1946年までそのままにしておいた。太郎の死亡届を役所に出したのも戦後になってから
1940年後期2600年を記念して、宮崎県日向に神武天皇が国家統一のため東征する際の皇居があった地に「八紘之基柱(あめつちのもとばしら、通称:はっこういちうのとう)」を彫刻家日名子実三(朝倉の弟子)が設計、是秀が日名子のために鏝(こて)を作った
是秀は、動力による機械を一切導入せずに鍛冶屋としての生涯を送る ⇒ 原始的設備で多岐にわたるものが生み出せるのは不思議で、近代の大量生産システムとは違うが、物を作り出す過程において作業者が仕事に打ち込める熱意の土台となるべきものは、この不思議さに対する執着だと思う。物質に対してある作用を施し、何物かを生み出してゆこうとすると、作用前と作用後での変化は不思議さとして作業者の手に伝わる。不思議だからこそ、なぜその変化に至ったのかを物質と作用の両面から解釈を試み、解読過程のうちにまた新たなる作用方法と変化の多様性を感知してゆく。単なる鉄分を多く含んだ砂を折畳みナイフに仕立て上げてしまう不思議を、火床と鞴(ふいご)と金床しかない作業場でなしえてしまうとはそういうことなのだ
誠実に仕事をすることが道徳である国民性を持つ日本
是秀が守ってみたいと考えた鍛冶技術の革新とは、体感としての物質解釈、作用解釈、そして導き出される変化の多様性ではなかったか
その体感を誇りに思い、愛していたからこそ動力機械の設備はしなかった
戦時中、是秀は軍刀作りには手を染めず、大工道具以外は、万人相手の販売をしていた銀座木屋に刃物などは仕事に使わない人種の方々に美しい形状の切出小刀を納品している
戦争中も疎開はせず、不思議に焼け残った仕事場九三房で戦後も12年間製作を続ける
太郎の死を受け止め、誠実に毎日働くという道徳を実践していく
明治神宮拝殿棟梁、松濤観世流能舞台棟梁の野村貞夫が是秀の作品を評して、「たいていの鍛冶屋は、こちらが図面なり木型を作って注文を出すとどこか至らぬ部分があって、こちらがそれを工夫して使いこなすことになり、それが大工の腕の見せ所だし仕事だと思っているが、是秀のはこちらの要求以上のものを作ってしまう。そういうものは使えないものです」と言っている
日本が身の丈を自覚せずに真面目に取り組んだ戦争において、誠実で働き者であるところの人々が生み出したものは、不誠実である前に陳腐であり、何はさておき陳腐だけは許せない人種がいて、その人種たちにとっては、政治も経済も思想も二の次で、職人的逞しさにつながっている。その逞しさを是秀は、大工道具使用者たる職人から学んだ

実用道具を高度に調整しうる職人達に、道具がいかにあるべきものかを深く教授され、結果、優秀な実用大工道具鍛冶たりえた是秀が、なぜ美しい切出小刀群を作ったのか
職人とは違った人種と交友し始めた事や、日本の近代化の質や推移が大きく関係し、この島国の風土が生んだ気質としての引き籠り者的誠実さを持って是秀の実績が成立し、継続しえていたことが分かった来た。時代の変化に対して持てる技術の作用の可能性を模索し、同時に世の変化に浸食されてはいけない技術の芯だけはどのような方法を用いてでも守ってみようとの試みのうちに、是秀の技術や感性は、元々あった健康な大工道具、実用道具の外皮から滲み出て、変質に向かった。それは実用、非実用の境界を深く解釈したうえで横断してみる冒険であり、引き籠り者がなすこととしては限界的な自己変革であったろう







(えぐ/こく)


















はじめに
「千代鶴是秀」という名前について、大工道具を取り扱っている多くの金物店、また極めることの難しさ・面白さから「大工道具の王様と言われる鉋」に関心を持っている人達は、その名前だけはよく耳に入ることと思います。しかし、この千代鶴是秀がどのような生まれで、鍛冶職としてどのような修業をし、どのような弟子を持ち、刀鍛冶職の名跡である石堂家や石堂輝秀とどのような関係にあるのか、さらに千代鶴太郎、千代鶴運壽、千代鶴國安、千代鶴延國、千代鶴貞秀という名前とどのような関係にあるのかなどについては、千代鶴是秀と繋がりのあった同時代のほとんどの人達が亡くなってしまっている現在ではよく分からない人が多く、またインターネット上では誤った記述も発信されています。

そこで最近、金物業界の一部の人たちから、千代鶴是秀について多くのことをよく知りたいとの要望が私にありましたので、生前の千代鶴是秀と親交のあった金物業界の人達から過去に私が聞いた話や、千代鶴是秀が私の家の近くの宿山に住み、鍛った鉋を千代鶴是秀本人が直接持ってお店に訪れて鉋の台入れを依頼するなど、千代鶴是秀と交際のあった台入れ職人の私の父・故左喜雄から聞いた話や、白崎秀雄著「千代鶴是秀」、土田昇著「千代鶴是秀」、幸田守親「随筆なにがなんだか 名工千代鶴是秀」、日本刃物工具新聞などを参考にして、上記のことについていろいろと詳しく述べてみましょう。

(一)千代鶴是秀の曾祖父と祖父と父

 千代鶴是秀(本名 加藤廣)は、明治7年7月31日東京の麻布に生まれ、昭和32年10月2日に目黒区宿山の自宅において、清貧に徹した82歳の生涯を終えました。鍛冶職としての約70年の生涯において、日本刀をはじめとして鉋・鑿・小刀・切り出し・玄能・鋏・鏝など多くの名品を千代鶴是秀の名前と共に残していきました。
また、墨跡にも大変優れた才能を発揮し、大工道具などに関する作品と共に墨跡作品も、業界人や愛好家はもとより、演劇・茶道関係などの人達に、いまでも大切に所蔵されています。
 
 千代鶴是秀の偉大な功績は、曇りのない澄んだ精神でただひたすらに全精魂を込めて槌打ち、大工道具や打刃物を単なる道具から、見事なほどに均整がとれて清らかな気品の漂う芸術作品までに高めたことにあるでしょう。昭和26年はいじめ、最高の栄誉のひとつである芸術院恩賜賞の候補に挙げられたこともありました。

しかし千代鶴是秀の生涯は、それらの作品からはとても想像もできないほどの厳しい風雪に晒され続けた生涯でありました。これから述べる千代鶴是秀の家系については、鈴木智雄作成の「千代鶴是秀の家系図」を見ますと、その複雑な繋がりがよく理解できますので参照して下さい。

 江戸時代の末期、「新新刀の祖」と呼ばれる刀鍛冶に水心子正秀がいました。正秀は江戸で優秀な刀鍛冶を幾人も育成していました。その門人の一人が千代鶴是秀の曾祖父・加藤和泉守国秀で、米沢藩上杉家の刀鍛冶でした。国秀の子に加藤八郎がいて、父の国秀と同様に正秀の下で刀鍛冶の修業をしたのち、独立して長運斎綱俊を名のり、米沢藩上杉家に仕えました。この綱俊が千代鶴是秀の祖父です。綱俊の兄に刀鍛冶の綱秀(綱英とも名のる)がいました。綱秀の子には、綱俊に弟子入りし、のちに幕末江戸において屈指の刀鍛冶の名工と言われた固山宗次がいました。綱俊には、このほかにも高橋長信、青龍軒盛俊らの優れた多くの門人を育成し、備前伝では水心子一門を凌ぐほどの勢力になって行きました。

 綱俊は正秀に学んだのち、大阪に行って鈴木治國に師事し、そしてさらに西国を遊歴したのち熊本で駐槌した経歴を持ち、文久3年(1863年)12月5日に66歳の生涯を江戸飯倉町上杉邸内石堂家において終えています。綱俊の刀鍛冶としてのランクは、新新刀上作に位置付けられ、かなりの名工として認められ、刻銘は
「於東都加藤綱俊造」や「羽州米沢藩住加藤綱俊」を切りました。

 綱俊には三男三女がいて、長男は米沢藩上杉家の刀鍛冶である西尾家に養子に入り、四代目西尾辰三郎となりますが、若くして亡くなりました。次男の助一郎は、弘化4年(1847年)11歳のとき、父・綱俊の弟子で刀匠として高名であった周防国岩国の青龍軒盛俊に入門しました。そこで助一郎は8年間修業をし、19歳になったときに江戸に戻り、それから以後は父・綱俊と一緒に刀を鍛え、綱俊の晩年は助一郎が父の代作を行いました。この助一郎が二代目長運斎綱俊(是俊とも名のる)で、千代鶴是秀の父であり、母キクは上杉家中の士分である斎藤弥次衛の三女でした。二代目綱俊は刻銘に「運壽是俊」や「長運斎綱俊造之」を切り、刀匠としのランクは新新刀中上作に位置付けられていました。

 初代綱俊は処世でも大変長けた人物でした。自分の姉の子である加藤政太郎が鍛冶に優れた才能があるのを知ると、長女のトヲの婿養子に迎え入れ、次いで武蔵大掾藤原是一に始まる刀匠としての名門である石堂家の家督を買い取り、形式の上において加藤政太郎を石堂重二郎の養子にさせて、七代目石堂運壽斎是一を名のらせました。この七代目石堂是一は二代目綱俊より17歳上で、江戸幕府の御用鍛冶師・下坂近次郎などに次ぐ幕府屈指の名工となり、刀匠としてのランクも新新刀上上作と極めて高く、刻銘は「石堂運壽斎是一精錬作」や「石堂藤原是一精錬」を切りました。
 しかし子ができなかったので、初代綱俊は三男の助太郎を養子にさせ、八代目石堂是一を名のらせました。八代目石堂是一は、綱秀や光一、秀一とも名のり、また「石堂運壽斎藤原壽永」とも刻銘を切りました。
二代目綱俊よりも3歳下でした。

江戸において、「綱俊、宗次、是一などの一門はいずれも備前伝に長じた幕末新新刀の良工である」と評価され、また明治6年(1873年)にはウィーンで開かれた万国博覧会に政府の選抜によって、七代目石堂是一、固山宗次、栗原信秀の三人が日本刀を出品し、刀匠としての栄誉を授けられ、まさにこの頃の綱俊一門は絶頂期にありました。


(二) 千代鶴 是秀

 千代鶴是秀が明治7年(1874年)に三男として誕生したとき、父は38歳、長男 新は16歳、次男 義次郎は11歳、長女 順は5歳、祖母は71歳でした。この時七代目石堂は55歳、八代目石堂は35歳で、千代鶴是秀が誕生する50日前に八代目石堂の長男の眞勇美(九代目石堂)が誕生していました。そして明治7年というこの年は、刀を身に帯びてはいけないという廃刀令が施行され、刀鍛冶の生活に決定的な影響を与えた年でもありました。刀の需要がなくなってしまったのです。

 初代綱俊が66歳で没したとき二代目綱俊は27歳でした。その後二代目綱俊は長雲斎綱俊と銘を切って明治維新後も刀を鍛えましたが、父と一緒に刀鍛冶をしていた長男の新が段階的な廃刀令によって刀を鍛えることに身が入らなくなり、父のもとを去り、のちに地方で行き倒れて亡くなりました。また次男の義次郎も政治に興味をもって父のもとを去って行きました。やがて二代目綱俊は中風で倒れ、長い闘病生活の後に明治28年11月59歳で世を去りました。このとき千代鶴是秀は22歳で、鍛冶職として自立したばかりでなく、結婚もしたばかりでした。

 明治維新前後から石堂家を支え、長雲斎一門の中核となったのは八代目石堂で廃刀令の2、3年前から近くの農家の求めに応じて鎌や鍬を打ち始めていました。これを野鍛冶または農鍛冶といい、刀匠として上杉家のみならず、幕府の御用刀鍛冶を勤め、万国博覧会に選ばれて刀を出品した八代目石堂にとって内心忸怩たるものがありましたが、生活のために致し方ないと求めに応じていました。やがて評判が広まり、鉋や鑿なども鍛つようになりましたが、請われても決して銘を切ることはありませんでした。この頃の鉋や鑿などの大工道具鍛冶として、後世に名を残す國弘・義廣一門や重勝などの達人たちがいました。

 明治17年6月4日、加藤廣こと千代鶴是秀は11歳のとき、母キクに連れられて鍛冶職として入門するために北新門前町の石堂是一宅を訪れました。七代目石堂63歳、八代目石堂42歳でした。そして、七代目に師事し、八代目に技術の指導を受けることになったのです。この二人の石堂から「名を恥ずかしめぬ鍛冶職になるという以上、決して金銭を頭に置いてはならぬこと。そして常に修業を怠らぬこと。」を言い渡されました。この言葉を千代鶴是秀は忠実に生涯守り続けました。入門した時には、父の二代目綱俊はすでに中風を病んで半身不随でした。

 明治24年10月、石堂家に突然の不幸が訪れます。八代目石堂がチフスに感染して49歳で急死しました。そして1ヶ月後、今度は気力を失った七代目石堂が後を追うように亡くなりました。70歳でした。このとき千代鶴是秀は18歳でした。

 19歳になった時、鍛冶銘を名のることになり、通常は師匠の名の一字を上に自分の名を下に付けるのですが、そうすると是廣になり、國弘・義廣一門に間違われやすいので辞めにし、七代目石堂是一の「是」と八代目石堂是一が秀一とも名のっていたのでその「秀」を戴いて、「是秀」と名のることにしました。また、江戸城を築いた太田道灌が鶴が三羽空に舞っているのを見て、千代田城とつけた故事を思い出し、千代も鶴も大変おめでたい「千代鶴」にしようとして名のったとか、またあるとき皇居の二重橋まで歩いて行くと、たまたま鶴が空に舞うのを目撃して「千代鶴」と名のることになったとの言い伝えもあります。しかしどれが定かであるのか分かりませんが、当時としては大変珍しい鍛冶銘として「千代鶴是秀」と名のることになったのです。

 そして、従兄の九代目石堂秀一と一緒に若い二人は、大工道具鍛冶の達人として知られた先人たちの作品を研究しながら研鑽に勤めました。明治27年に八代目石堂の四女 信と結婚しました。是秀21歳、信19歳でした。そして、一男三女をもうけるのです



(三) 千代鶴是秀の弟子たち

千代鶴には4人の弟子がいました。一人は栃木県那須生まれの露窪貞吉で、修業を終えた後に郷里に帰って独立し、千代鶴是秀は鍛冶銘貞秀を与えましたが成功せず、家の小作を手伝っているうちに若くして結核で亡くなりました。二人目は勝次郎といい、大変気がきいて腕のいい弟子で千代鶴是秀も将来を期待していましたが、家庭の事情により修業半ばで泣く泣く鍛冶職になることを諦めることになり、工場の見習い職工に転職していきました。三人目は榊原美代治で、弟子入りしましたが鍛冶職になることに早めに見切りをつけ、東京高等工業学校に進学しました。しかし卒業日前で病で亡くなりました。最後の弟子が西尾英吉でした。刀匠西尾家に養子に入り、四代目西尾辰三郎となった初代綱俊の長男・綱秀の子・辰三郎と千代鶴是秀の5歳上の姉・順が結婚してもうけた次男でした。30歳近くまで千代鶴是秀のもとにいましたが、大正6年に独立して九代目石堂の妻・ラクの縁継ぎの女性と結婚して、鍛冶銘を秀房と名のりましたが、精神に異常を来して入院し、そのまま回復することはありませんでした。英吉の妻はその後二人の子供を英吉の親戚に預けて離婚しました。

 このように自分の弟子たちを一人前の鍛冶職に育て上げることができなかったばかりでなく、まだ若くして非運な生涯にならざるを得なかったことに、師匠として深い悲嘆と重い責任を感じざるを得ませんでした。

 後年、千代鶴是秀は「大正7年以来、弟子はとっておりません。」と常にのべていますが、その真意はこのようなことにあったのかも知れません



(四) 九代目 石堂秀一と三人の弟子たち

 八代目石堂の長男の眞勇美こと九代目石堂秀一は、千代鶴是秀と同じ明治7年生まれで、僅か50日の年上でした。10歳のとき母を亡くし、千代鶴是秀が石堂家に入門すると共に一緒に七代目、八代目石堂のもとで厳しい修業に勤め、お互いに良きライバルとして一人前の鍛冶職になるために切磋琢磨していきました。しかし18歳のとき、明治24年の後半、父の八代目、伯父の七代目を相次いで亡くし、若くして九代目石堂秀一を名のり、石堂家を背負うことになったのです。やがて、九代目石堂秀一と千代鶴是秀は大工道具鍛冶を代表する双壁になっていきました。

 明治42年、菊池清一(のちの十代目石堂輝秀)が13歳で九代目石堂秀一に弟子入りしました。このとき九代目石堂は37歳でした。すでに二人の弟子がいました。一人は清一より3歳上で、九代目石堂の妻・ラクと同郷で従弟の杉山武勇でした。鍛冶職としても優れ、新橋新富町に独立して秀行銘を名のりましたが、大正10年26歳で病死しました。もう一人は清一より3歳年下であり、杉山武勇の弟の秀作で、子がなかった九代目石堂の養嗣子になっていました。この秀作は大正12年に失恋の痛手から毒物を飲んで自害しました。

 九代目石堂が仕事をしたのは大正13年までで、大正14年9月の秀作三回忌前後から細工場に降りることは決してありませんでした。その後の九代目石堂作と伝えられている作品はすべて清一の代作でした。石堂家は清一が一人で背負っていたのです。
昭和4年に清一は独立して輝秀銘で鉋を鍛ちましたが、2年余り石堂を名のることはありませんでした。以前から病に倒れていた九代目石堂は、昭和4年に目黒区宿山の千代鶴家に世話になり、昭和6年57歳でこの世を去りました。

 そして昭和30年、千代鶴是秀の妻・信は、途絶えた石堂家を再興するために協議離婚をして石堂 信に戻り、輝秀の昭和7年生まれの次男である秀雄(十一代目石堂)を養子に迎えて石堂の籍を復活すると、すぐにまた千代鶴是秀と婚姻しました。

 十代目石堂輝秀は昭和の名工として労働大臣賞を受賞した後、ほどなくして昭和57年85歳で生涯を終えました。石堂家は現在十一代目秀雄、十二代目良孝が守っています。


 固山宗次は長雲斎一門の親戚関係にあり、つまり初代綱俊の兄である綱秀の嗣子であり、また初代綱俊の弟子でもありました。この固山宗次は幕末から明治の始めにかけて屈指の名工匠と評され、麻布長坂に住居を構え、多くの弟子を持っていた誉れの高い刀匠でした。しかし40歳のとき明治政府による帯刀禁止令によって刀鍛冶としての生活を失うと、一門の弟子たちを引き連れて目黒の火薬庫に職を求め、鉄砲鍛冶の職工になりましたが、やはり長くは続かず退職し、その後世に出ることはありませんでした。弟子たちは分散しましたが、その中に剪定鋏の阿武隈川宗寛や散発鋏の義國(友野釜五郎)のように、その後に鋏の製作によって成功した弟子もいました。


(六) 千代鶴 國安

 刀匠列伝のなかに越前国の武生に千代鶴國安を流祖とする千代鶴一門がいて、その子孫も代々千代鶴と号して、國安・宗光・國秀などを名のりました。初代千代鶴國安とは、南北朝時代の京都の名刀匠で、1337年に刀剣の制作に適した土地を求めて越前の国武生に来住し、武生の鍛冶職に刀鍛冶の高度な技術を教えるばかりでなく、自らも鎌を鍛ったとも伝えられ、越前打刃物の開祖として崇敬されました。そして後世の越前打刃物の隆盛に多大に貢献された刀匠として、地域の人達によって國安を祀った千代鶴神社が建設されています。

 千代鶴是秀が修業時代にこの千代鶴國安の名前や故事について知っていたのかどうかは定かではありません。しかし19歳のとき、自立して世に出る際に自分の鍛冶銘をいろいろ考えたとき、名門刀匠としての血筋の矜持が、鍛冶銘として当時大変めずらしく、また慶賀な千代鶴銘の着層を得たことは間違いありません。
祖父や父が使った長雲斎の号を後年千代鶴是秀自身も使い、「長雲斎千代鶴是秀」と銘を書くこともありましたように、大工道具を鍛ちながらも常に刀匠としての矜持を持ち続けたことからも理解できます。



(七) 二代目 千代鶴 太郎

 千代鶴太郎(加藤太郎)は明治40年千代鶴是秀の長男として生まれ、小学校時代の成績は大変優秀であり、細工も驚くほど起用でした。高等小学校卒業後、父の下で鍛冶職として修行を行いましたが、姉・玉の影響もあって文学書や哲学書などを読んだり、西洋クラシック音楽などを聞くなど豊かな感受性の持つ若者でした。昭和4年徴兵検査を受けて甲種合格でしたが、当時の制度で抽選によって兵役が免除されたので、彫塑に関心も持っていた太郎は父の承諾を得て多摩美術学校に入りました。こうして鍛冶職を本業として研鑽を積みながら、美術学校で彫塑も学ぶことになったのです。

 今まで切り出し・小刀など小物を主として鍛っていた太郎は、昭和5年の23歳頃から大工道具問屋の涌井精一と父の賛同の下、運壽銘の鉋を本格的に鍛ちはじめました。この当時、千代鶴是秀は是秀銘と藤四郎銘で鉋を鍛っていました。千代鶴運壽銘は涌井精一が登録しました。

 運壽銘は石堂家の由緒ある累代の譲り名でありましたが、十代目石堂が病臥していたのでその号銘を太郎に継がせようとしたのです。こうして太郎は千代鶴二世として、また刀匠の名門石堂家の縁者として名工の血筋を引いていることを世に明らかにすると同時に、その名を決して汚してはならない運命を背負うことになったのです。運壽銘の鉋は高い評判を博することになりました。

 このことが千代鶴家に思わぬ悲劇をもたらすことになったのです。太郎は美術学校で彫塑の勉強を続けたかったのですが、両親の意思を拒むことができずに2年で止めました。しかし父の鍛冶職を継ぎ、それに専念することに迷い、彫塑の勉強を強く望んでいたのでひどく苦しみ悩みました。そして昭和8年1月、太郎は伊豆大島の三原山火口に消息を絶つのです。28歳の若さでした。

 太郎の没後、千代鶴是秀の作風は磨きをかけたりなどしてより芸術性の高い作品になりました。また供養の意味から自ら運壽鉋を鍛えましたが、その後大泉の鈴木や戦後一時期延國も鍛ったり、また富山の金山その他の鍛冶職が代作しましたが、延國以外は千代鶴是秀が焼き入れと仕上げをしていました。




(八) 三代目 千代鶴 延國


 千代鶴延國(落合宇一)は明治28年静岡県三島に生まれ、13歳のとき、初代國弘の弟子の宗近の弟子である三島の宗次に弟子入りしました。宗次は当時東海道随一とその名を評された鑿・鉋鍛冶でした。宇一は大正5年海軍に入隊しました。貧しくて小学校も満足に卒業していなかった宇一は、海軍で数学の基礎勉強をすることになり、この経験が後年鍛冶などについて計数的な考察をするようになるのですが、大正9年除隊し鍛冶職に復帰しました。

 大正11年横浜で大工道具問屋涌井商店の商標である久國銘で鉋を鍛ちましたが、評判が芳しくないので、涌井精一の紹介で大正14年千代鶴是秀宅を訪れ、弟子入りを願い出ましたが、大正7年以来弟子を取らないと告げられて断られました。しかし恩義のある涌井精一からの紹介であるので、千代鶴是秀は細工場に降りて鉋造りのすべてを伝授しました。そのお陰で大正15年から宇一の鍛つ久國鉋は評判を得るようになりました。

 昭和6年頃、宇一は涌井商店と販売権利問題で久國銘が使えなくなってしまいました。困った宇一は千代鶴是秀宅に相談に行ったところ、延國銘を授かりました。これ以降は延國銘で鉋を鍛つことになったのです。しかし不況で鉋が売れなくなり、生活のために一時鍛冶職をやめて横須賀の海軍工厰に職を求めました。延國37歳昭和7年の8月のことでした。

 昭和22年11月、千代鶴是秀は目黒本町の延國宅を突然訪れました。戦時中空襲に遭って故郷の三島に疎開していましたが、終戦後まもなく元の住所に戻り、バラックを建てて鍛冶職を再開していたからです。千代鶴是秀が延國の鉋鍛冶としての情熱と技術を見込んで千代鶴三代目を継いでもらいたいと告げるための訪問でした。翌昭和23年の1月、千代鶴是秀や関係者列席の下に延國は正式に名跡である千代鶴銘を三代目として襲名することになりました。このとき千代鶴是秀78歳、延國52歳でした。以後延國は三代目千代鶴延國と銘を鉋に打ちました。そして昭和48年二人の息子に仕事のすべてを譲って隠居し、昭和53年72歳でこの世を去りました。その後、平成4年1月細工場が火事になり、鉋鍛冶を再開することは二度とありませんでした。



(九) 千代鶴 貞秀

 神吉義良は明治41年兵庫県三木市に生まれ、鉋鍛冶をしていた兄に弟子入りし、昭和初期の不景気の時代、東京へ職人として上京し、ニ代目國弘の弟子である國高や学童用の手工鉋を作っていた荒川区尾久の水無川という鉋鍛冶の下で働きました。そして昭和7年、三木に帰郷する前に何度か千代鶴是秀宅を訪ねました。千代鶴是秀は、弟子を取ることはいっさいありませんでしたが、訪ねて来た誰にでも暖かく応対していました。
帰郷後、大名人の千代鶴是秀に会って来たことを宣伝文句にして鉋を鍛っていましたが、兵役に就くことになりました。戦後、復員してから鉋鍛冶を再開し、主に義千代という刻印銘で、鶴の型をした刻印や千代鶴直伝という文字印をそえて打ち込んでいました。

 昭和24年に千代鶴是秀から、かつて弟子に授けた銘である貞秀を進呈されて、それ以後は千代鶴貞秀と自ら名のることになりました。やがて、村松貞次郎東大教授の書かれた「道具曼陀羅」に鉋鍛冶師として紹介され、千代鶴貞秀の名前は世に広く知られることになりました。昭和26年から平成2年にかけて播州三木でいろいろな賞を受けながら、現代の名工として二代目を育てました。

 二代目千代鶴貞秀(神吉岩雄)は昭和19年に三木市に生まれ、16歳のとき父の千代鶴貞秀に弟子入りしました。平成2年に二代目千代鶴貞秀を襲名し、平成10年には経済産業大臣認定の伝統工芸士になり、現在も鉋鍛冶を守っています。


(十) 近代大工道具鍛冶の始祖 初代國弘と義廣 

 初代國弘(田中和多吉)は文政3年に生まれ、幕末に越後三条から江戸に出てきて鉋や鑿を主として鍛ちました。明治維新のとき49歳で、いまの八丁堀に住んでいました。七代目石堂より2歳上で、八代目石堂より25歳上でした。弟に四寸・五寸の大鉋を鍛つことを得意とする浅草田圃の義廣がいました。この兄弟は若いころ兵部銘で知られた越後の幸道のもとで修業したと伝えられています。

 義廣の鉋は穏やかな上品な作柄、兄國弘は気性も荒く鍛った刃物は鋭く切れ味は一等で、國弘は下削りの荒シコ、義廣は仕上げに向いていたと評されていました。

 初代國弘の功績は、幕末まで深い穴を掘るのに使った叩き鑿を、首の長さを短くして造作に適した押入鑿を創造したことと、また鋼を付ける部分がいままで刃丈の3分の2であったのを、刃丈いっぱいに鋼を付けたことです。この鑿のことを國弘型と呼びました。また鉋の頭の部分を國弘型と呼ばれるゆるやかな丸みをもった形にし、以後現在まで鉋はほとんど國弘型で鍛たれています。これらのことから初代國弘は近代大工道具鍛冶の始祖と呼ばれています。

 初代國弘は鍛冶銘を天野國弘とか天國弘と切り、二代目から四代目まで同様でした。弟の義廣は鉋に田圃義廣と銘を切りました。

 初代國弘には國道・國貞・早稲田の國義・三島の宗近・子の國行などの弟子がいて、一門は大工道具鍛冶界に君臨していました。弟子の中でも焼き入れ・仕上げなどのすべての点で父・初代國弘の良さを引き継いだ子の國行は特に優れた名工で、腕が立つと評された國道・國貞らを凌ぎました。しかし、わずか2年余りのみしか國行銘で鍛ったことはなく、初代國弘の代作もしたようですが、明治19年頃26歳で夭折しました。千代鶴是秀より15、6歳上でした。

 刀匠から野鍛冶、そして大工道具鍛冶へと転じた八代目石堂が特に模範としたのが初代國弘の作品であり、千代鶴是秀や九代目石堂も初代國弘の作品を敬い、多くを学び取りました。

 二代目國弘(田中國吉)は嘉永2年に生まれ、牡丹町に転居した後大正7年69歳で亡くなりました。三代目國弘は大正13年震災に遭い、世田谷の上馬に転居したの後、昭和20年に59歳で亡くなりました。二代目、三代目は初代の名声と恩恵を受けたものの初代に並び評されることはありませんでした。その後國弘家は鍛冶職をやめてしまいました。

結びに

 鉋、鑿、鋸などの名高い大工道具鍛冶職が衰退してから、すでに長い歳月が過ぎました。終戦後一面の焼け野原から復興の建設ラッシュによって大工道具鍛冶職は隆盛を見ましたが、電動工具の登場で大きな影響を受け、さらに建築工法の変化や木造住宅のプレカット化そして替え刃式鋸・鉋の普及などで決定的な影響に見舞われて現在に至っています。大工道具専門店や鋸目立て店では経営が立ち行かなくなりました。しかしまだ一部の大工道具鍛冶職の人達が、それでも火を消さずに頑張っていますし、近年のインターネット上では特に鉋に対する一般の関心は高く、あらゆる観点から鉋についてホームページが開かれていて大工道具の王様にふさわしく、うれしい限りです。 

 今回の「千代鶴の系譜」を書くことになった契機は、友人たちとの話の中で「千代鶴のことをよく知らないので、それについて書いてくれないか」と頼まれたからです。わたしは大学卒業後、父の店を継ぎ、店の経営を勉強するかたわら、商品である鉋や鑿、墨壷などの大工道具に興味をもち、鉋台入れの名人といわれ、鉋や鑿にたいへん造詣が深く、かつ千代鶴是秀とも交流のあった父の話を聞いていろいろ調べて行くうちに、鉋や鑿を鍛つ古今の鍛冶職に関心を持ち、業界の大先輩などに話を聞いたり、自ら文献などを調べてり、また作品の収集をしたりして来ました。またわたしが幼少の頃、家に訪れた千代鶴是秀氏や奥様の信氏に何回かお会いしていたり、十代目石堂輝秀氏が亡くなる1、2年前に石堂宅を業界の若手グループで訪れて輝秀氏に話を伺ったり、その時に十一代目石堂秀雄氏に鉋の鍛造を間近で見学させて頂いたりもしましたので、明治・大正・昭和・平成の時代に亡くなられた大工道具鍛冶の人たちを広く鎮魂したいという気持ちと、また店を継いだ長男の智雄にもこれからのことを知っておいて欲しい思い、特に鉋鍛冶を中心に書き上げました。

 勿論、これらの記述は完璧なものではありません。修正しなければならない箇所も多いのではないかと思います。ともあれ千代鶴是秀を中心としていくつもの鍛冶職の系譜が理解できるものと思います。長男の智雄が「千代鶴是秀の家系図」を作成してくれたことは、この原稿を書くに際して大変役立ちました。尚、この原稿は平成18年6月に書いたものに修正や新たに追加をして書き直したものです。



 平成18年8月吉日

 有限会社 スズキ金物店
 代表取締役  鈴木 俊昭


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