日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた  嶌信彦  2016.1.9.

2016.1.9. 日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた

著者 嶌信彦 ジャーナリスト。1942年中国・南京市生まれ。慶應大経卒。毎日新聞社入社。大蔵・日銀・財界担当、ワシントン特派員などを経て東京本社経済部を最後に87年退社しフリーに。『グローバルナビフロント』他の番組で解説者を務めてきた。現在はTBSラジオ『森本毅郎・スタンバイ!』『嶌信彦人生百景「志の人たち」』、BS朝日『ザ・インタビュー』等にレギュラー出演。著書に『日本人の覚悟』他多数。NPO法人日本ウズベキスタン協会会長

発行日           2015.9.30. 初版発行
発行所           角川書店

1945年、夏の終わり。
ウズベキスタンに抑留された工兵たちがいた。
彼らに課されたのは「ソ連を代表する劇場を建てること」。
捕虜生活の下、457名の隊を率いてプロジェクトを完遂したリーダーは、まだ24歳の将校だった。
「日本人の誇りと意地にかけて、最良のものをつくりたい」
彼らの仕事は、ソ連4大劇場の1つと称賛され、大地震にも耐えたオペラハウスとして結実した。
シルクロードに刻まれた日本人伝説!

序章 シルクロードの日本人伝説
1966426日 タシュケント市をマグニチュード5.2の大地震が襲う。国連統計によれば60年代までの世界で5本の指に入る大地震
市民がとっさに思い出したのが、地震の国から来た日本人捕虜が建てたナボイ劇場のあるナボイ公園に逃げること
街はほぼ全壊したが、アリシェル・ナボイ劇場は無傷で残る。旧ソ連時代ではモスクワ、レニングラード、キエフのオペラハウスと並ぶ4大劇場の1つとされ、ソ連にある約80の劇場の中で最高のボリショイ劇場の称号を持つ7つのうちの1
大地震に耐えたナボイ劇場の話は、瞬くうちに市内のみならず、ウズベキスタン国内や、遠く中央アジア各地にも伝わり、日本人は優秀で真面目な民族だという"日本人伝説は、91年に中央アジア各国が独立した時に再び思い起こされ、新しい独立国家の目標として日
本を見習おうとする国も少なくなかった
2次大戦敗戦直後の45年秋から約2年間にわたって捕虜としてナボイ劇場の建設に携わったのは、永田行夫隊長以下457人の旧陸軍航空部隊の工兵たちが主だった

第1章        敗戦、そして捕虜
永田は陸軍見習士官として3か月の訓練の後、野戦航空修理廠に配属され、42年春北満州に赴任、19年春に奉天に移動。航空機の修理・修繕が任務
敗戦の1か月後永田は再編された捕虜の中隊240人を率いて、貨車に乗せられタシケントのラーゲリへ
ウズベキスタンは、ローマ・ギリシャ文化と長安を結ぶ東西の重要な交易路に当たり、文化の融合地帯。社会主義ソ連の傘下に組み込まれた後はロシア語が強制され社会主義体制となったが、宗教はイスラム

第2章        抑留、劇場建設へ
革命30周年を記念してボリショイ劇場を建設する計画があり、設計者も赤の広場のレーニン廟を設計した第1人者シュシェフが指名され、設計図もできていたが、土台と一部の柱、壁が作られたところで大戦となり工事が中断したままとなっていた
永田の下に457人の隊員が集められ、ソ連の建設責任者の下で劇場の建設作業に従事
捕虜としての待遇は、ノルマはあったが、8時間労働や休日が厳守され、シベリア抑留一般とは格段の違い

第3章        収容所長との交渉
ノルマに応じた食料配分を強制するソ連のやり方に対し、永田はの精神を説き、収容所長に認めさせ、平等の配分を勝ち取る

第4章        誇れる仕事
45年末に日大工学部工業学校建築家の夜学を卒業、満州の関東軍経理部工務課に勤務していた若松少尉が日本人側の総責任者として他の収容所から移ってくる
477月高所作業中に転落死した隊員と、ラーゲリの外の雪の中で汽車に轢かれて死んだ隊員のために追悼式を行ったが、一兵卒のためにそんなことが認められることは異例
若松には先に帰国命令が来たが断る

第5章        秘密情報員と疑われた永田
ラーゲリではウズベク人も招いて演芸大会が催されていた
4収容所には、他の収容所で盛んだった民主運動という名の社会主義思想化、反日本軍組織の創出などの動きはほとんど見られず、劇場建設という共通の目的のために、団結が乱れることはなかった

第6章        収容所の恋
日本人の仕事ぶりに感銘を受けたウズベク人が好意を寄せるケースが多くなる
隊員の1人が一緒に働くウズベク人と結婚を決意するまで親しくなり、結婚に必要なソ連国籍取得の申請までしたが、捕虜の身で許可が下りようはずもなく、泣く泣く帰国したケースもある
完成間近となった9月、他の収容所に戻された隊員たちも集めて完成式を行う

終章 夢に見たダモイ
永田は、関係した全隊員の名簿を暗記
劇場の完成とともに、関わった隊員は他の収容所に移送され、逐次帰国の途へ
永田も、他の収容所に異動していた第4収容所の元所長の下に呼び戻され、翌年7月に帰国。若松も元所長に呼び戻され、年内最後の帰還列車に乗る
劇場建設に従事したラーゲリ仲間は2,3年内にほぼ全員が帰国
永田の暗記した名簿によって、後々まで残る「第4ラーゲル会」が始まり、永田が亡くなる直前の2009年まで毎年開催された

あとがき
元大蔵省財務官でアジア開発銀行総裁だった千野忠男氏から、日本をモデルに発展したウズベキスタンのことをメディアの力でもっと世の中に知らせてほしいとの話を受けて、96TBSの『報道特集』に話を持ち込んだところ、ドキュメンタリー作成を支援してくれることになって取材に飛んだ過程で知ったのが日本人捕虜による劇場建設の話
建設に関わった隊員たちのことはほとんどわからなかったが、第1回目の放映後の反響が凄まじく、第4ラーゲル会とも連絡が取れ、98年には日本ウズベキスタン協会を設立
01年にはウズベキスタン独立10周年に、團伊玖磨作曲の≪夕鶴≫を日ウズ共同で上演するとともに、永田氏以下の関係者が紹介され、万雷の拍手を受けた



Wikipedia
ナヴォイ劇場ウズベク語: Navoiy teatri/Навоий театриロシア語: Театр Навои)は、タシュケントにあるオペラバレエのための劇場である。正式名称は、アリシェル・ナヴァーイー記念国立アカデミー大劇場(ウズベク語: Alisher Navoiy nomidagi Davlat Akademik katta teatri/Алишер Навоий номидаги Давлат Академик катта театриロシア語: Государственный Академический Большой Театр имени Алишера Навои)。アリシェル・ナヴァーイーは、ウズベキスタンの伝説的な英雄で、文学、伝承でも度々取り上げられる人物[1]第二次世界大戦ソ連の捕虜となった日本人が建設に携わったたことで知られる。
概要[編集]
ナヴォイ劇場は、アレクセイ・シュチューセフが設計して1939194219441947年に建設され、194711月にアリシェル・ナヴァーイー(ウズベク人、偉大な詩人)生誕500周年を記念して初公開されている。劇場の収容観客数は1400人で、舞台の広さは540平方メートルである。[2]
ソ連は、レーニンによる政権樹立を行なった191711月の革命30周年にあたる194711月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていた。しかし、第二次世界大戦が始まったため、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事が止まっていた。そのため大戦後、日本人捕虜を活用して革命30周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵457人の日本兵が強制的に派遣された。ソ連の捕虜になったのは合計60万人とも言われ、満州で捕虜となった日本兵はシベリアなどで森林伐採、道路・鉄道建設に従事しており、この劇場建設の任務は特殊業務であった。
劇場建設の仕事は班ごとに別れて行われた。仕事内容は、土木作業、床工事と床張り、測量、高所作業(とび職)、レンガ積み(外壁作り)、電気工事、鉄筋と鉄骨組み立て、ウインチ、足場大工、大工に左官工事、板金、建物が出来上がった来たら電気配線工事、溶接、指物、壁などの彫刻など20種類くらいの職種ごとの班に別れて、効率的に作業をすすめた。日本人で死亡したのは、劇場建設の高所作業に従事していた者の転落事故と外出時に汽車に轢かれて死亡した2人。この2人はタシケント抑留日本人墓地(公営ヤッカサライ墓地)に当時死亡した日本人と共に埋葬されている。
労働時間は規則正しく8時から12時、1時間の昼食をはさんで13時から17時までの8時間労働。休日は日曜、元日メーデー、革命記念日。食料は1日一人当たりの配給量が決まっていたが、馬鈴薯は腐っている所が多いなど十分な量ではなかったが、3食規則正しく出された。11800から2200キロカロリー位の摂取量だった。ノルマの達成度合いによってパンの量に差をつけよとソ連から命令されたが、隊長を務めた永田行夫(当時25歳)の交渉により平等配分をソ連側に認めさせた[3]
また、収容所では自由時間に建築現場の床材から麻雀パイを作ったり、紙から将棋囲碁トランプ花札を作ったりした娯楽により捕虜たちの気分転換を奨励したり、地元のウズベク人を招いた演芸大会も行なわれた。生活の悩みは住居であった収容所に多量にいた南京虫。ベッドの隙間に無数に生息し、当初かまれるとかゆくて寝られないこともあったが、徐々に免疫が出来てかゆくなくなってきた。殺虫剤はないので、退治のために晴れた休日に庭にベッドを出して日光を当てて焼き、効果はあったが全滅させることはできなかった[4]
なお、サマルカンド国立外国語大学で教授を務めた胡口靖夫は、ナヴォイ劇場の建設に従事した日本人の「私らが昭和2011月上旬ころに着いたときにはもう建物はほとんどでけていました。これは間違いありません」という証言などから、「日本人捕虜が建設に参加した時には、基礎はもちろん建物本体はほとんどできていた。日本人捕虜が行った作業の中心は、左官・彫刻・寄せ木作りの床張り・大理石の床張り・電気工事などの内外装工事の『仕上げ』であった」と結論付けており、「勤勉に働いた日本人が基礎からレンガを積み上げて建設した」とされるのは「伝説」だとして、それが検証なしに広められていることを批判しているが、実際の建設に携わられた抑留者の方や現地のウズベク人、ならびにウズベキスタン政府が認識している話とは異なっているため、この認識は誤りであると思われる[5]
1966426日のタシュケント地震では、78,000棟の建物が倒壊したにもかかわらず、ナヴォイ劇場は無傷であり[6]、市民達の避難場所としても機能した。
2015930日にジャーナリストの嶌信彦は隊長の永田行夫など実際に建設に携わった多くの方の取材を元にナヴォイ劇場建設の秘話をノンフィクション『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』として角川書店から出版した。この本には詳細な抑留生活やウズベク人との交流などが描かれ、これまで出版された多くのシベリア抑留の悲劇とは違った日本人の勤勉で素晴しい和の精神などの秘話が描かれている[7]
エピソード[編集]
  • 建設時、懸命に作業する日本人に対して地元子どもから食べ物の差し入れが行われたが、彼らに対して木のおもちゃをお返しするなど劣悪な環境でも礼儀を忘れなかった。
  • 1996年、ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフが、建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場に設置した。その際の指示は「彼らは恩人だ、間違っても捕虜と書くな」というものであった。プレートは、ロシア語、日本語、英語、ウズベク語で書かれ、日本語は「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」と書かれている。
プレート
交通アクセス[編集]
市の中心部に位置する。アミール・ティムールの像があるアミール・ティムール広場より南西に徒歩約5分。
脚注[編集]
  1. ^ ウズベキスタンの州の一つであるナヴァーイー州の名前の由来でもある。ナヴォイはナヴァーイーのロシア語名。
  2. ^ Alisher Navoi Opera and Ballet Theater (英語)
  3. ^ 「追憶 ナボイ劇場建設の記録 -シルクロードに生まれた日本人伝説ー」NPO日本ウズベキスタン協会編集 P.19
  4. ^ 「追憶 ナボイ劇場建設の記録 -シルクロードに生まれた日本人伝説ー」NPO日本ウズベキスタン協会編集 P.21
  5. ^ シルクロード日誌5《文化遺産としての「ナボイ劇場」建設の真実》その1
  6. ^ 赤井克己『おかやま雑学ノート』吉備人出版 2000年 p.118-121
  7. ^ 嶌信彦ブログ 嶌信彦オフィシャルサイト




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