新中国に貢献した日本人たち  中国中日関係史学会  2015.11.6.

2015.11.6. 新中国に貢献した日本人たち

編者 中国中日関係史学会
訳者 武吉次朗 日本国際貿易促進協会相談役(元常務理事)兼社団法人中国研究所顧問 32年生まれ。58年中国から帰還。摂南大教授歴任

発行日           2005
発行所           日本僑報社

留用 ⇒ 一時留めて任用すること

1.   留用の背景と経緯
敗戦後の東北地区(旧満洲)には1百万余の日本人がいて、国共双方も米国も全部日本へ送還する方針だったが、国民党支配地区では鞍山製鉄所など多くの分野で日本人専門家の協力が不可欠であることが判明したため、特別の規則を作って「留用」させることになった
共産党も、国民党に倣って必要な要因を「留用」させることとなった
東北にいたこれ以外の日本人は、46年にすべて引き揚げ ⇒ 国共双方が順調に協力し合ったおかげ

2.   留用の分野と規模
医師・看護婦など医療関連の要員 ⇒ 3000+補助・雑役2000
工場・鉱山・鉄道の技術者と現場を束ねる管理局要員と作業員 ⇒ 6000
中国空軍の創設に協力した元関東軍第4錬成飛行隊(通称林部隊) ⇒ 300
映画製作(旧満映) ⇒ 100
研究所の科学者、縫製工場の技術と熟練工
総人数は不詳だが、およそ1万数千人、家族を含めると2万数千人

3.   留用の方式
組織ぐるみ ⇒ 医療関係者、林部隊、兵器工場
中国側による指名 ⇒ 日本人に履歴書を書かせ、必要な技術者をピックアップ
日本側による指名 ⇒ 旧満鉄中央試験所長が贖罪意識から、資料と資材を中国側に引き渡すために、部下を指名して残留
割り当て ⇒ 女学生が見習い看護師として、一定地域ごとに人数を割り振られた
寄る辺なしから ⇒ 元義勇隊員が中国軍に誘われて参加
思想信条から進んで残留したケースもある

4.   初期の状況と中国の対応
留用の大半は不本意ながら残されたので、当初は不満を持っていたが、仕事ぶりが評価されて、中国共産党は「一視同仁」の政策をとったところから、中国人同僚と同様に処遇され、不満は解消していった

5.   思想の変化の理由
内戦の戦局の推移から、48年には共産党によって全東北が解放され、社会が安定化へ向かう
中国とのわだかまりが解消し、連帯感が生まれる
中国共産党幹部の対応が素晴らしかった ⇒ 「為人民服務(人民に奉仕する)」を率先して実行していた

6.   貢献の事例
留用された日本人の中に表彰者が続出
戸井田三郎 ⇒ 関東軍の衛生兵から解放軍の医療主任に。帰国後は清瀬一郎代議士の秘書から衆議院議員となり海部内閣では厚生大臣、村山内閣の首相特別補佐官

7.   留用日本人の管理
中国建国の前に東北人民政府設立、そこに「日本人管理委員会」が設置され、各職場に派遣された日本人を統括
日本語の『民主新聞』や月刊誌も発行、管理委員会のお膝元の瀋陽では日本人による文化娯楽活動も盛ん
50年からは日本との文通も可能になり、送金が許可された

8.   帰国後の留用日本人
5358年にかけ、21回に分かれて帰国したが、日本は中国敵視政策の時代で、「中共帰り」「アカの手先」と白眼視され、復職に苦労したのみならず、公安調査庁や警察からもつきまとわれた
77年 留用経験者による中国再訪開始 ⇒ 各地で大歓迎され、旧交を温める
84年 古川万太郎『凍てつく大地の歌』で初めて留用日本人が取り上げられた

9.   むすび
留用日本人が果たした役割 ⇒ 中国側では、54年周恩来総理が訪中団と会見した際、留用日本人の貢献を称え、日中友誼、友好の種子とする一方、日本側でも後藤田正晴元副総理が、埋もれていた史実が発掘されたことを評価すると同時に、戦争で破壊された日中両国の友好を無名の人々が自らの汗と血で修復したと称え、両国関係が厳しい状況にあるとき、地道な草の根交流という原点に立ち返れと呼びかけた





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