ヨーロッパ石庭づくりの旅  シュミット村木眞寿美  2015.9.19.


2015.9.19. ヨーロッパ石庭づくりの旅―私の庭にはベートーヴェンがいる



著者 シュミット村木眞寿美 1942年東京生まれ。早大文大学院卒後、離日。ストックホルム大、ミュンヘン大在学。ミュンヘンの社会福祉専門大学卒業。娘3人の母。ドイツ国籍取得



発行日          

発行所           論創社



欧州に誕生した6つの庭の物語

〈世界をどう結ぶか、異なった文化を背負う人々がどう分かり合えるか、これは常に私の問うて来たことだった。その問いに、石が答えてくれるかもしれないと思えるところに、石庭という芸術の未来が見えてくる気がする〉…… 同じ夢を追う多数の庭師とともに、ヨーロッパの地を這うようにして作り上げた、6つの石庭をめぐる異色のドキュメント



日本列島に人が住みついてから、今日に至るまで、貴族の社会でも、武士の時代でも、明治維新から現代まで、石は、日本人の美意識を反映させてきた。我慢強く、歴然として、崇高であり、ユーモアにあふれ、静かなのに饒舌で、ありのままの姿で人前に現れても、様々なものに変身してみせる。なかなかの名優で、時には、神様の振りさえするのだ。土地の石を使い、人の手で「完成」に達した後も、周囲の自然が作り続けてくれる石庭。自然が、世界の創生と共にあったような姿にしてくれることを願って、作った人間は去る。(シュミット村木眞寿美)





前奏曲

「石立僧」のように、「石を探した」旅について語る

ユーラシアの玄関(みたいな)ショプロンに到達するまで、1998年から2009年までに、多くの協力者を得て、中欧の5か国に日本の石庭を作った

独特な日本の文化をどのように外国に紹介し、その土地に生かせるか、難しい問題

日本の文化を通して私は何かを主張したかった――自分を「河原物書き」と呼んでいるが、売れない本を書きながら、その本を通して言いたいことを紙や机から離れた別の形で、もっと自然に近いところで、時代の意志として残したいという願いがあった

そこに現れたのが石立僧。彼らによって残されたのが、中世から現代にいたるまで日本の自然と風土を糧に歴然とその美学を磨いてきた石の庭

5番目の庭がハンガリーのショプロンに誕生したことは特に感慨が深い。なぜなら、ハンガリーの盆地に到達して国を作った人たちの出発したのは、ウラル・アルタイ山脈の麓であり、私たちも、多くは、おそらくその麓から、もっともっと遠く、遥か絹街道の長旅の行き着く先まで行った人たちの力と智を受けて、他から到着した人と混ざり合い、今日に至っている存在に違いないから。異なるように見えて、人間はどこか似たようなものなのだが、目に見えるものが、だまし絵を作っているので、似ていることに気付かない


第1章 花・ベルツ日本庭園 (チェコ、1998)

カールスバード(カルロヴィ・ヴァリイ)に行ったきっかけは、ベルツと妻の花

1904年秋、軽井沢から草津に行ったベルツの旅の記録で草津をほめ、「無類の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、まったく理想的な飲料水がある。ヨーロッパにあるとしたらカールスバードより賑わうことだろう」とあったのを読んで行ってみたくなった

その時のご縁で1992年、カルロヴィ・ヴァリイと草津市が姉妹都市になる

チェコとドイツの国境紛争に翻弄されたこの町の悲惨な歴史を知って、その後の人生を決めたほどの衝撃を受ける。後の欧州思想への接近はこの時に始まった

ベルツ夫妻を追いかけていたのは、ちょうどソ連崩壊を機に東欧が新しい秩序を作るまでの混乱期で、世の中が荒れているときだっただけになおさら、夫妻の生涯を象徴する何かを残したいという衝動にかられ、文化のはざまで人間への愛を失わずに生きた人の足跡を何かの形で表して、異民族同士の平和共存を主張しなければならないと思った

そんな時出会ったのが、愛知県の造園緑地建設の業界にいた進歩的な人達で、人工的護岸工事などによる自然破壊への反省から河川の近自然工法や再自然化を学ぶために南ドイツの州山岳地帯に技術者を派遣して、アルプスの麓の河川工事の現状を勉強していた

ミュンヘン市の公認ガイドだった私が、彼らと接触、自らの熱い想いを語るうちに、彼らが興味を示し、後に愛知万博の日本庭園を造ることになる庭園作家の野村勘治氏を連れて1997年カールスバードを見に来てくれた

カールスバードの博物館長や市長も乗り気で、テプラ川の南側の公園の中、ベートーヴェンの銅像の後ろに市が土地を提供、地元で石を調達して石庭を作る

2つの勾玉が向き合って円を構成、異文化が融合し合って一つのものを作り上げることを象徴的に表現


第2章 交竜の庭 (ドイツ、2001)

11世紀から歴史に現れ、バイエルンからボヘミアに向かう峠の町フルトイムヴァルト

当時廃墟となって放置されていたクーデンホーフの居城ロンスペルグ城があるポベジョヴィッツイは、この町から車で30分のところにあり、著者も城の再建活動を広げるべく協力者を探していた

そんな折、カールスバードの石庭建設のために何度もこの町を通り過ぎている間に欧州の国境の問題に直面し、通常日本で考えている国際交流がどんなに表面的なものであったか、多層的問題に翻弄されながら、認識していくとともに、異民族の平和共存という著者自身の課題の解決策の一つとして、ミツコが子供たちを育てたボヘミアの町ロンスベルグへ通じるドイツの国境の町フルトイムヴァルトに石庭を作ろうと考えた

カールスバードの作庭の時に助け舟を出してくれた三河造園の中原氏が、今回も二つ返事で乗ってきてくれた

竜退治の芝居が名物のこの町に相応しく、同じ竜を配した竜安寺の石庭に倣って、それぞれに異なった文化を背負う竜がお互いを見つめ合い、戦わずに2つの胴体で輪()を作る形が決まり、石も町の周囲の森の中で見つける


第3章 リヒアルト・クーデンホーフ=カレルギーの墓を石庭に (スイス、2003)

インターラーケンとレマン湖畔のモントルーの間の山の中、標高1050mの高級別荘地グシュタードには、ミツコの次男リヒアルトが住み、埋葬されている

ドイツの諺に、「水を飲んで、井戸を掘ってくれた人のことを思わないのは、恩知らずというものである」というのがある。この墓をこのままにしておくことはできないと思った

2003年 その思いを中原、野村両氏に伝えると、2つ返事で協力を約してくれ、墓を管理している「パンヨーロッパ・スイス」からも作庭の許可が下りる

母親のミツコが宮中参内した時に、皇后から贈られた扇をメインテーマにして庭のデザインが決まる。2つの扇を鶴の翼のように重ねて左右に広げ、扇が末広がりにリヒアルトの思想の広まることを暗示する

除幕式には、日墺ブルガリア等周辺国の大使、周辺市の市長、バルテュス夫人節子など、晴れがましい顔ぶれがそろう

年末に中原社長急逝


第4章 クーデンホーフ・ミツコ記念日本庭園 (オーストリア、2008)

「ロンスベルグ城再建推進協会」が進めていた修復活動は、チェコが共産主義国家で効率が悪く一向に進まず、大口寄附者の了解を得て、リヒアルトとミツコに関する文化事業に転用することになり、著者の提案で、鉄のカーテン崩壊後20周年を記念して、カーテンを最初に切ったハンガリーとオーストリアに国境の町ショプロンに「リヒアルト・クーデンホーフ=カレルギー記念日本庭園」として、パンヨーロッパを表す石庭を作る案が浮上したが、その途中で、ミツコ終焉の地メードリングの博物館で企画するミツコの常設展へのアドバイスを求められ、さらに石庭も作ることが協会で決議される

ショプロンに先立って、メードリング博物館の庭に「ミツコ・クーデンホーフ記念石庭」を作ることになり、またまた野村氏の好意で設計され、母をテーマに、真ん中に母を表す丸い石を置き、そこから螺旋形に出ていく光のようなものを敷石と砂利で表現

石はウィーンの森で探す


第5章 石庭、パンヨーロッパ枯山水 (ハンガリー、2009)

2009年 欧州解放20周年記念式典に絡んで、ショプロンの話が復活

そのころ原稿を書いていた左手のピアニスト、ゲザ・ズィツィを通して知ったハンガリーへの親しみを大切にする気持ちもあって、早目に石庭建設の話を断るつもりで出かけたところ、地元観光局の担当者の誠意にほだされて作庭推進を決意

すでに協会が作庭を決議していたので、作業は順調に進んだが、リヒアルト・クーデンホーフ=カレルギーがフリーメーソンだったとの噂が持ち上がり、ましてや外国人の名前を公共の場につけることは難しいということで、名前の件は取り下げ

作庭の基本的な費用は協会が負担したが、公益団体が認めない諸々の出費については小学校の同級生と友人達からの寄附で補った。お陰で極端な倹約を迫られることがなかったのはありがたかった。遠くに来て、まさか、小学校の同級生が私を探してくれるだろうとは思わなかった。今は小金井に移転してしまったが、学芸大学附属豊島小学校というのはそんな学校だった

2010年 欧州解放20周年記念式典の日に石庭も除幕式が行なわれ、ショプロン市に委ねられた ⇒ 記念式典が行われた国境の村フェルトラーコシュはすぐ近く

ショプロンは、2002年以来、秋田の鹿角(かづの)市を姉妹都市


第6章 ヴァーレンの鶴 (ドイツ、2013)

最後は、国境の克服ではなく、障碍(不幸)の克服

旧東ドイツのメッケレンブルグ・フォーポメルン州ヴァーレン市は、下北半島の六ケ所村と姉妹都市。その関係で日本庭園建設の話が持ち上がったが、あまりのコストの高さにドイツ側が困惑、中根大使を通じて著者に相談があった

今回も野村氏の協力を得るとともに、地元で身障者と非身障者が一緒に働く園芸や木工場やホテルを経営する人との共同作業で作庭が完成

どこの大陸に住もうとも、世の移り変わりが織りなす仮の衣装を脱いだ時に、残された真心で人は分かり合い、助け合っていけるはず

伝統を養分として普遍のテーマを抱き続ける限り、石庭は作られ続け、その美を深めていくだろう

地球がある限り、異なった人々が平和に共存できるだろうという希望を捨てないでいれば、人類は生き残れるのではないだろうか

そんなことを、日本の美を通して表現してきたのが著者の石庭である








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