海賊と商人の地中海  Molly Greene  2014.7.9.

2014.7.9.  海賊と商人の地中海 マルタ騎士団とギリシア商人の近世海洋史
Catholic Pirates and Greek Merchants  A Maritime History of the Mediterranean
 2010

著者 Molly Greene 米プリンストン大歴史学部教授。博士。専門は近世ギリシア・地中海史。東地中海を舞台とする異文化接触に関する研究を積み重ね、主に17世紀のギリシアを軸に、オスマン史とイタリア史、中東史とヨーロッパ史を繋ぐ歴史像の構築に挑む

訳者 秋山晋吾 一橋大大学院社会学研究科教授。博士(文学)。専門は東欧・中欧の社会史。地中海・バルカンから近世ハンガリーに到来したギリシア商人の研究に取り組む

発行日           2014.4.30. 初版第1刷発行
発行所           NTT出版

日本語版によせて 著者
ある国際法秩序が地中海で機能していたことを強調。それによって、これまでヨーロッパが大西洋と太平洋へと進出していく過程と表裏一体のものとして扱われてきた近世の国際海事法の発展の中に、地中海という舞台も付け加えることを試みた

はじめに
本書の原点は、カヴァリエーロという魅力的な人物が残したある古い論文『18世紀におけるマルタ海賊の衰退――ある海の歴史』(1959)との出会い
マルタ騎士団の私掠活動はイスラーム教徒に対する聖なる戦いであるべきなのに、ギリシア人を襲撃の標的とするのは果たして合法なのか
ギリシア人は、自らの船を守るために手当たり次第助けを求め、ローマ教皇のもとにまで足を伸ばしていたのは驚き

l  1627年 エーゲ海東部の小島でギリシア正教会の府主教がエジプト沿岸でマルタのガレー船がキリスト教徒の船を襲撃、積み荷を船ごと持ち去ったとして非難
l  マルタ騎士の手記にも、ギリシア船を拿捕、トルコ人がいるかどうか白状させようと拷問したが耐え抜いた、との記述がある
l  1634年 マルタ船が、トルコ人とトルコ商品を狙ってギリシア船を追い回し、トルコ人が船上から身を投げた
地中海の海賊の歴史としては、バルバリア海賊という北西アフリカ諸都市を拠点として活動した船乗りがいて、17世紀初頭を絶頂期としてイングランド辺りまで進出したが、イスラーム教徒の海賊による西地中海の出来事として限定的に記憶されたに過ぎない
東地中海では、キリスト教徒の海賊による全く別の物語があった ⇒ 南フランスや南イタリアの港町を拠点に大挙して東方へ出撃してくるカトリック海賊がイスラーム海賊より恐れられ、その抜きんでた存在がマルタ島だった
赤字に白の十字架が描かれたマルタ騎士団の旗にオスマン商人は震え上がる ⇒ 1570年代から200年に亘り闊歩した
マルタ騎士団は、第1回十字軍に起源を持つイェルサレム救護騎士修道会(聖ヨハネ騎士団)の生まれ変わり ⇒ サラディン率いるイスラーム軍によってイェルサレムが奪還された1187年に聖地を追われ、14世紀初頭からロードス島に拠点を構える
1522年 オスマン帝国のスレイマンによって島を奪われ、8年に亘って地中海をさまよった後、1530年にハプスブルク家からマルタ島やトリポリ要塞を贈与され、1798年まで活動の拠点とし、カトリック十字軍を自称して17世紀から18世紀初頭にかけてオスマン海域を荒らしまわった。自らを「私掠者(しりゃくしゃ)」と名乗り、1571年のレパントの海戦でオスマンの海軍力が低下したのを契機に地中海の西から東へと活動の場を移す
正教徒ギリシア人がオスマン帝国の主要な商業民だったことから、イスラーム教徒よりも正教徒が襲撃の対象となることが多かった
それまではオスマン帝国とスペインが地中海の支配権を巡って争っていたため海賊の跋扈する余地が少なかったが、レパントの海戦以後負けたオスマンは内陸の辺境に注力、勝ったスペインも新大陸に矛先を移したため、実際の戦闘に参加していたイスラーム、カトリック両海賊にとって、格好の稼ぎ場となった
もうひとつの勝者であるヴェネツィアも徐々にオスマンに領域を侵食され、地中海における軍事的・商業的優位を失う ⇒ 代わりに進出してきたのがフランス、オランダ、イングランドだが、17世紀にはどの勢力も地中海の安全保障を一手に担うほどの力を持っていなかったため、有象無象の小規模諸勢力が競い合う状況
本書の主人公は、マルタ騎士団と、その標的となったギリシア人。国際空間としての近世地中海は、オスマンとスペイン・ハプスブルクとの間の抗争から、北方ヨーロッパからの新興勢力が近代化の推進役として登場し、カトリックとイスラームの間の古い対抗関係に終止符が打たれたとされるが、本書が描こうとするのはそれとはまったく違う物語で、海賊が跋扈する海を、ギリシア商人たちがいかにして行き来したのかが本書の関心の中心
17世紀の地中海世界を秩序付ける際に宗教を再び重要視するようになったのは、新参のヨーロッパ諸勢力であり、騎士団は東地中海におけるカトリック勢力再興の一翼を担い、その再興を支えた柱は、騎士団以外にもフランスと対抗宗教改革があった
ギリシア商人はキリスト教徒だったが、その信仰心はカトリック教会から疑いの眼差しを向けられたうえ、大部分はオスマン帝国の臣民でさえあった


第1章        臣民と君主
(著者概要) 16世紀にオスマン帝国とヴェネツィアが作り上げた海洋秩序(=臣民と君主の世界)を概観。敵対者同士ではあっても、交易を潤滑に行うことは双方にとって利益
「ローマの海」の南岸が7世紀にイスラーム勢力の支配下に入ってから、常に地中海とはどのような海かという両義性に関わる議論がある ⇒ 自由に条約を結びあう諸国家が集う場か、いがみ合う2つの宗教が対峙する文明間の辺境なのか
キリスト教国家とイスラーム教国家の間で締結された条約が、数世紀に亘って地中海世界の秩序を根本から基礎づけていた ⇒ 宗教の違いを乗り越えて結びついていた
本書が主題とするのは、人や事物が曖昧性を帯びていることが商業活動にいかなる影響を及ぼしたのか、そして、不安定な世界を渡り歩くために商人たちがその曖昧性を利用していかなる戦略を駆使したかという問題を考察、より具体的には16-17世紀の地中海において、正教徒ギリシア商人がいかなる位置付けにあったのかを分析
16世紀にはオスマン帝国とヴェネツィア帝国が複雑な協力関係を構築したお蔭で、商人が比較的容易に、おおっぴらに、確実に移動できる空間が確保され、個々人がどの君主の臣民であるかということに基づいて構成される世界を作り出した
17世紀に入ると両者が東地中海の治安維持、円滑な海上交易を保障する能力を急速に失なうとともに、それに代わる勢力がまだ登場しない変動と混乱の間に、商人たちがそうした状況に適応するために駆使する戦略があった ⇒ 西方キリスト教世界から来た私掠船や海賊船が東地中海に乱入、宗教の名のもとに帝国秩序を混乱に陥れるが、その際正教徒ギリシア商人が活用した戦略が宗教的帰属性
16世紀、ギリシア商人という集団は西はイタリアから東は黒海までを股にかけた国際的コミュニティで、リヴォルノ(イタリア北西部)からアレクサンドリアまで散在、ヴェネツィア臣民として、あるいはオスマン臣民として、あるいは他の様々な君主の臣民として、宗教を超えて活動していたが、17世紀になるとその商圏が縮小し始め、大多数の正教徒ギリシア商人はオスマン帝国の臣民になり、地中海の航行は私掠船の横行で大きな危険が伴うようになる。特にヴェネツィア臣民でなくなっていた多くのギリシア人にとっての脅威は、カトリック世界から来る私掠船となったところから、ギリシア人はオスマンの臣民であることを隠す代わりに、自分たちの商売を守るための最良の戦略として自らをキリスト教徒であるということを声高に主張し始めた

第2章        宗教という指標
(著者概要) ヴェネツィアとオスマンによって構築された脆い秩序が、マルタ騎士団によって攪乱されていく過程を分析 ⇒ 宗教という指標が及ぼした明瞭な影響を見る
オスマン・ヴェネツィア外交が作り出した君主と臣民の世界と並行して宗教の世界は頑強に存続
オスマン・ヴェネツィア外交が作り出した君主と臣民の世界にあからさまに抵抗し続けていたのが、1522年にスレイマンによってロードス島を追われマルタ島で再起を図っていた聖ヨハネ騎士団に代表される私掠者たちで、「私掠国家」と呼ばれる
最盛期は16世紀末の四半世紀、レパントの海戦を境に西方の私掠者が東方へと急速に活動領域を拡大
聖ヨハネ騎士団とヴェネツィアとの不愉快な関係は1306年の騎士団によるロードス島占拠にまで遡り、以後十字軍騎士であることを自らの存在意義として東地中海の商業世界に本格的に入り込んだ騎士団と、独立独歩に拘る商人都市ヴェネツィアの自意識とは根本的に相容れず、ヴェネツィアはヨーロッパ中の大貴族から入会者を集めていた騎士団の例外だったことで有名だし、騎士団のガレー船の発注先にヴェネツィアがなることはなかった
きらびやかな要塞の島ロードスから不毛の地マルタに追われた騎士団は、資源の不足を海賊行為で補わざるを得ず、オスマン領のギリシア南部の町を攻撃して、イスラームに対する十字軍を継続させることを宣言するが、そのやり方はあくまで地中海において長い歴史を持つ法原理に則っていた
一方のヴェネツィアは、対オスマンで劣勢が明確になるにつれ、オスマンと通商協定を結び、共存の道を模索したところから、騎士団とはしばしば衝突するようになる
ヴェネツィアのガレー船が騎士団によって襲撃された際、積荷を強奪されて荷主から受け取り損ねた運賃を騎士団が支払っている ⇒ 海事慣習法では、友好国の船が敵の荷物を輸送している場合は臨検して拿捕できるが、商品の引き渡しを要求する代わりに運賃の支払いをするのが義務とされた
マルタとヴェネツィアとの係争は、時にカトリック・ネットワークを動かしローマにまで波及。地中海商業における教皇の影響力は、アンコーナの世俗君主としての役割に留まらない重要性を持ち、カトリック教会の長として、マルタとリヴォルノに代表されるようなカトリック私掠勢力とヴェネツィアの間を取り持つ仲介者として振る舞った ⇒ 両者とも頻繁に当否を争って教皇に直訴している

第3章        海賊の時代
(著者概要) 1571年以降オスマン海域で跋扈したカトリック海賊について論じる
カリブ海同様、地中海の海賊の活動も17世紀が頂点 ⇒ 最終的に海賊の活動が終わりを告げるのは1798年にナポレオンが海賊の一大拠点マルタに侵攻したとき
古くからの商業拠点に代わって、略奪品の売買で潤う都市、イタリアではリヴォルノ、北アフリカではトリポリ、アルジェなどが繁栄 ⇒ 不法貿易の中心に
17世紀はリヴォルノ(レグホーン)の世紀 ⇒ メディチ家の町で、聖ステーファノ騎士団を擁して私掠経済と深く結びつき、ヴェネツィアやアンコーナを凌駕する港町に成長
1561年 メディチ家出身の教皇クレメンス7世によって聖ステーファノ騎士修道会の設立が認可され、コジモ1世が修道会の初代総長となる。同時にトスカーナ独自の海軍を創設、必要が生じた際に備えて外交上の隠蔽策も準備、安価な海軍力として騎士団を活用
マルタ ⇒ 17世紀初頭から私掠国家として急膨張、疑いなくキリスト教徒の私掠行為にとっての手本となる。キリスト教私掠が公的性格を持っていた点が特徴で、イスラーム教に対するいままさに進行中の十字軍の新たな拠点であることを躊躇しなかった
カトリック対抗宗教改革によって教皇庁の影響力は東地中海にまで達する 
対抗宗教改革とは、16世紀トリエント公会議を頂点としたカトリック教会内の改革刷新運動のこと。かつては「反宗教改革」という語が用いられ、宗教改革とそれに伴って勃興したプロテスタントへの対抗という限定的な見方で捉えられて来たが、近年カトリック教会の改革は宗教改革以前から推進されていたものであったことが明らかになるにつれ、単なる宗教改革への反動とみる「対抗宗教改革」という言葉の語弊を避け、「カトリック改革」と呼んで中世後期以来の脈々と続くカトリック教会刷新運動に位置づける言い方が主流となってきている
カトリック教会は正教徒ギリシア人の帰一を目指し、正教会をローマと合同させるための世界的な布教活動を行う
オスマン帝国の最も重要で安定した同盟者が、同じようにハプスブルクと対立していたフランスで、その影響力が増大したこともイスラーム圏での布教活動活発化の一因となった
フランスは、1569年の通商協定によって、オスマン帝国内の礼拝の自由を獲得し、聖職者を置く許可を取ったところから、東方におけるカトリック教会の新しい保護者となっただけでなく、ローマの代弁者たることをひたすら目指す
とくに信仰心の篤かったルイ13世の治世にはローマと密接な関係を築き、帝国内でヴァティカンの公式な代表でもあった
教皇とフランスは、オスマン帝国のすべてのキリスト教徒に対して関心を向け、アラブ人もギリシア人も、カトリック教徒も正教徒も視野に入れた施策を展開 → 特に東地中海を舞台にしたカトリック教会と正教会による信仰刷新は、商業を始めとする生活のあらゆる領域に影響を及ぼす

第4章        オスマン帝国の地中海
(著者概要) オスマン商人集団が、マルタ騎士団を筆頭とするカトリック諸勢力と如何に対峙したか。オスマン集団は、一部カトリック信徒を含んでいたが大半は正教徒だったオスマン帝国のギリシア商人で、マルタ騎士の襲撃に対し異を唱えて法廷闘争を展開した唯一のオスマン商人
オスマン帝国の地中海
1633年 マルタの海事裁判所にギリシア商人がマルタ船による襲撃の被害による救済を求めて提訴
裁判所は、教皇に直属する国際的な軍事修道会、聖ヨハネ騎士団が設置したもので、これまでは腐敗した騎士たちが無法の世界で略奪していたと見做されてきたが、実は深く根付いた規範を基礎として法的・規範的秩序を創出し、機能させることを目的としていた
私掠の根本的な基準は誰を敵と見做すかであって、イスラーム教徒とユダヤ教徒は正当な標的であって、キリスト教徒はそうではないということ
世界をキリスト教徒とイスラーム教徒に分ける二元論に固執し、宗教的帰属性を優先させる論理はこの世界観の自然な帰結
訴訟事件の大半はエジプト沿岸で発生、残虐極まりない襲撃により積み荷から船まで奪い取り、乗客は無人島に置き去りにされた
1516年のオスマン帝国によるエジプト征服によって、エーゲ海南東部各地の港がエジプトとの交易の要の役割を担う

第5章        提訴への道
(著者概要) ギリシア商人による法廷闘争を追う。東地中海にあった様々な機関を通ってマルタへ持参する訴状を準備
提訴への道 
私掠の被害者であるギリシア商人がマルタでどのような主張をしたか
宣誓証言書 ⇒ 地中海沿岸各地の港に駐在するフランス領事か、オスマン帝国領域内で機能していた数少ないカトリック法廷の1つだったヒオス島のカトリック司教座法廷に行って事実を告げ、証言を聞き取ってもらい自らの正当性を主張


第6章        マルタの法廷にて
(著者概要) 訴状を分析を通じて、様々な海事慣習法と伝統のせめぎ合いを見る
略奪されたキリスト教徒がマルタで訴訟を起こすが、私掠者に出資する者と同じ人物が裁くために全て敗れ、さらに救済を求めてローマまで行くが、訴訟の過程で多くの費用を浪費してしまうために、残りの人生を貧困のうちに送ることになる
襲撃された被害者は、身ぐるみ剥がれたために、海事裁判所に出頭したとしても自らの積み荷を証明するものがなかった
海事裁判所以外にも、周辺の法廷に争いが持ち込まれることもあった

第7章        ローマへ
(著者概要) マルタ騎士団に対する訴状を携えてローマに向かうギリシア人を追い、17世紀地中海の現実を理解する際に避けて通れない対抗宗教改革、より広くはカトリック世界の問題を考察する
私掠者達に襲撃された被害者の行動が、対抗宗教改革の動きと関連  正教徒ギリシア人をカトリック信徒として囲い込みを目指す
ヴァティカンは、東西教会の合同を目指して東方への影響力の拡大を図る  カトリック教会が東地中海の正教徒ギリシア人に関心を示す
被害者がヴァティカンに救済を訴え出て、教会の高位者が動くこともあった

本書の中心をなすのは、近世地中海を国際的海事秩序が機能する場として描くこと
マルタ騎士団は、近世地中海の海事を広く構造づけていた行動様式とその前提を、単に最も凶暴な形で、最も声高に実践しただけ
カトリック勢力との衝突の場面では、マルタの海事裁判所の事例で見たとおり、地中海の全域で一定の法体制が有効に機能していたことが明らか
そのために、積み荷を偽装することも一般的に行われており、キリスト教とイスラーム教の間に存在する永久戦争が、海上を行きかう人々の上に影を落としていた。それが17世紀の地中海の現実
その法体制は一般的に考えられるよりも長い間存続していた  マルタの海事裁判所が設置されたのは1697年で18世紀のマルタと地中海全域で行われる交易の正常化の一翼を担った
18世紀になってもなお、東方キリスト教徒と教皇は、宗教上の目的と商業を関連させようと努めていた  イスラーム世界に対抗するためにキリスト教徒が1つにまとまることをあきらめなかった
大航海時代、地中海が取り残された海で、マルタ騎士団を時代遅れの存在と見る先入観や、宗教が衰退し通商関係が正常化するという見方が一般化していたが、実際に起こった個々の衝突事例を見ていくことによって、ある種の規範と慣習が有効に機能していたことを明らかにした。これらの規範と慣習は、海上で紛争が生じたときに人々が依って立つ支えだった  本書で描こうとしたのは、このような国際的海事秩序の場としての地中海であり、インド洋や大西洋と同じような空間としての地中海だった
本書の結論として以下の2つの結論を導き出すことが出来る
      人々は、ある君主の臣民として、あるいはイスラーム教徒として、キリスト教徒として、ユダヤ教徒としてだけ動き回っていたのではなく、ある国家の臣民であることと、ある宗教の信徒であることという2つの要素が曖昧模糊として混合していた  徐々に正常化していく国際秩序の中で2世紀にわたって混合の割合が変化し、宗教色が後退していった
      海上で起こった紛争は、地球の裏側で起こっていた事の反響  国際航行と沿岸航行という海事法上の区分があったことが分かる
イスラーム教徒とキリスト教徒が、交易し、交渉し、合意するという地中海の力学は、何世紀にもわたって繰り広げられてきたものであり、相手方が永遠に真の敵であり続けるということは起こり得ない
訳者あとがき
本書に登場する海賊の特徴に違和感がある
   法や規則を常に意識していて、自らの略奪行為の合法性を言い募ることに心血を注いでいた
   海賊は騎士であり、キリスト教の敵に対する戦争を遂行するという使命感を持っていたところから、「私掠者」と称される
   大航海時代の真っただ中にあり、その時代は西ヨーロッパ諸国が大西洋やインド洋へと進出、ヨーロッパでは世俗的な近代国家システムが形成され、世界の海では近代的な海事法が精緻化されていく過程と不可分に扱われ、それらが一体となって近代へと向かう秩序の形成が進んでいったとされるが、地中海の海賊もカリブ海やインド洋に展開した海賊と同様に「時代の先駆け」だった
ヴェネツィアやジェノヴァ商人に代わって東地中海の覇者となったのはギリシア商人で、海上交易の担い手として台頭、そこへ騎士=海賊がイスラーム国家オスマン帝国を宿敵とみなしてなだれ込んだが、被害をこうむったのはキリスト教徒のギリシア人だった
両者をめぐる闘争は、法廷に持ち込まれ、規範と慣習法によって裁かれるが、著者が繰り返し強調したのが「地中海の曖昧性ambiguity」で、キリスト教の防衛を存在理由とする騎士団がキリスト教徒を襲撃してもそれを正当化する余地があった
東地中海からその曖昧さが消えて、個々人が自分の帰属性を巡って戦略をめぐらす余地が失われていくのは、西ヨーロッパがこの海への進出を開始する18世紀になってからで、その時には人々は個人としてではなく、ユダヤ人、トルコ人、ギリシア人といった匿名かつ明確に定義付けされた集団として認識される




海賊と商人の地中海 モーリー・グリーン著 略奪を正当化したイデオロギー 
日本経済新聞朝刊2014年6月29日付
フォームの始まり
フォームの終わり
 17世紀の東地中海、そこは海賊が跋扈(ばっこ)する世界だった。1627年に書かれた書簡は、海賊が船の乗員を殴打・拷問し、着衣を剥ぎ取り、積み荷とともに船を持ち去ったと証言している。また、1716年にマルタに滞在したヴェネツィア公使は、マグリネという名の海賊がマルタの旗のもとでキリスト教徒ギリシア人を略奪し、袋詰めにして海に投げ捨てたり、頭蓋骨から脳みそが出るまで頭を縛り上げるなど、自白させて金品を巻き上げるためなら何でもすることで有名だったと記録している。
(秋山晋吾訳、NTT出版・3600円 ※書籍の価格は税抜きで表記しています)
(秋山晋吾訳、NTT出版・3600円 書籍の価格は税抜きで表記しています)
 ここに記された海賊はマルタ騎士団である。当時東地中海で人々を恐怖におののかせたのは、イスラーム教徒海賊ではなく、南イタリアやフランス地中海岸沿いから来るキリスト教徒海賊、とりわけ、マルタ島を拠点とするマルタ騎士団だった。そして、その標的は主としてオスマン帝国のギリシア商人たち、つまり、同じキリスト教徒であった。このマルタ騎士団とギリシア商人たちが本書の主人公である。
 著者によれば、東地中海の17世紀とそれに先立つ16世紀は、まったく対照的な時代であった。16世紀は、オスマン帝国とヴェネツィアによる海域秩序が存在していた時代、つまり、両者が東地中海の治安を維持し、円滑な海上交易を保証していた時代である。そこでは宗教の違いで商活動が制限されることはなく、どの君主の臣民であるかが重要だった。この時代、ギリシア商人たちはリヴォルノからアレクサンドリアに至るまで東地中海沿岸各地に散在し、ヴェネツィア臣民、オスマン臣民、あるいは、その他の君主の臣民として安全に商取引を行っていた。
 しかし、1571年のレパントの海戦でオスマン帝国がスペインに敗北すると、状況は一変する。オスマン帝国とヴェネツィアが東地中海の秩序を維持する力を失い、海賊が跋扈する弱肉強食の時代となったのである。本書は、マルタ騎士団に船や商品を略奪されたギリシア商人たちの裁判文書を基に、彼らの生きた世界を再構成しようとしたものである。マルタ騎士団の無慈悲な略奪活動はもちろんのこと、彼らの略奪正当化のために利用された宗教的イデオロギー「イスラーム教徒との永久戦争」、そして、ギリシア商人たちの対抗・対応が詳細に検討されている。海洋秩序、国家の役割、イデオロギーとしての宗教、政治的環境と交易など、現代世界の諸問題を考察するための示唆に富んだ好著である。
(東京大学教授 高山 博)


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マルタ騎士団は、キリスト教カトリック騎士修道会である。正式名称はロードス及びマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会(: Sovrano Militare Ordine Ospedaliero di San Giovanni di Gerusalemme di Rhodi e di Malta)。現在は国家ではないが、かつて領土を有していた経緯から「主権実体」として承認している国々がある。
軍事組織としての意味合いは既に失われているが医療団体としての活動はあり、イタリア共和国軍の軍医部隊として運用されている。

概説[編集]

12世紀十字軍時代のパレスチナに発祥した聖ヨハネ騎士団が現在まで存続したものであり、ロドス島(ロードス島)及びマルタ島における旧来の領土を喪失しているため国土を有さないが、主権実体(sovereign entity)として承認外交関係を有する国が約94か国ある。国際連合にオブザーバーとしても参加している。団(修道会)事務局はイタリアローマ・コンドッティ通り68に置かれており、建物内はイタリア当局から治外法権が認められている。
医療などの慈善活動を行っており、独自のコイン切手を発行している。

歴史[編集]

第1回十字軍の後、1100ごろ、巡礼保護を目的としてエルサレムで設立された。正式名称から明らかなように病院を持ち、ことに病気になった巡礼者の保護に務めた。十字軍勢力がパレスチナから追われた後はロドス島を根拠とし、聖地巡礼をするキリスト教徒の重要な経由地の守護者、ムスリム(イスラム教徒)に対する聖戦の実行者として活躍したが、1522オスマン帝国スレイマン1によりロドス島は陥落。本拠をマルタ島に移して、マルタ騎士団と呼ばれるようになった。その後の1798ナポレオン・ボナパルトの侵攻によりマルタ島を奪われ、領土を失う。領土を失った後も伝統的に「主権を有している」とされるが、正確な性質は不明瞭である。

対外関係[編集]

マルタ騎士団は世界の約94か国と外交関係を持ち、在外公館を設置している。外交関係国はヨーロッパ38カ国、アフリカ35カ国、アメリカ29カ国、アジア・オセアニア18カ国である[1]。いわゆるキリスト教文化圏の国々が多い。その中で主要国はフランス・ドイツ・英国・イタリア・ロシア・カナダがある。一方で、アメリカ合衆国・日本などは承認していない。また、国際連合では「オブザーバーとして参加するために招待を受ける実体(entity)あるいは国際組織」として扱っており、「加盟国」とも「非加盟国」とも異なる立場である。

統治機構[編集]

騎士団は、憲章に基づき、大評議会、次の役職が置かれている。
·         総長(Gran Maestro)は、国務評議会(Consiglio Compito di Stato)で選挙された終身職である。総長は、伝統的に大公(Principe)称号をおび、また伝統的に騎士団修道会の総長としてローマ教皇から枢機卿に親任される。
·         事務総監(Gran Commendatore)は、事務をつかさどる。
·         外務総監(Gran Cancelliere)は、外交に関する事項をつかさどる。
·         医務総監(Grande Ospedaliere)は、保健衛生、民生及び人道援助に関する事項をつかさどる。
·         財務総監(Ricevitore del Comun Tesoro)は、財政及び予算に関する事項をつかさどる。
憲章に基づく会議体はこれらのものがある。
·         国務評議会(Consiglio Compìto di Stato)
·         大評議会(Capitolo Generale)
·         政務評議会(Sovrano Consiglio) 
·         管理評議会(Consiglio del Governo)
·         監事会(Camera dei Conti)
·         司法評議会(Consulta Giuridica)

その他[編集]

騎士団の総長(Principe e Gran Maestro)は、カトリック教会の修道会の総長として、伝統的に枢機卿の任命を受けている。なお、枢機卿のほとんどが聖職者である現代では、あくまで名誉的なものである。
アマチュア無線の世界では、マルタ騎士団は国籍符号1A」を用いており、たとえばクラブ局(局名:1A0KM―Knights of Maltaの略)が存在している。この「1A」は、国際電気通信連合(ITU)がマルタ騎士団に割り当てたものではなく、アマチュア無線のみの独自の規定である。同様な例は、一部の領有権紛争対象地などの"帰属地未定区域"にも見受けられる。


聖ヨハネ騎士団は、11世紀に起源を持つ宗教騎士団テンプル騎士団ドイツ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会1つに数えられる。
本来は聖地巡礼に訪れたキリスト教徒の保護を任務としたが、聖地防衛の主力として活躍した。ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller)ともいい、本拠地を移すに従ってロードス騎士団、マルタ騎士団とも呼ばれるようになった。現在の正式名称は「ロードスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」(イタリア語:Cavalieri dell'Ordine dell'Ospedale di San Giovanni di Gerusalemme)である。

歴史[編集]

設立[編集]

聖ヨハネ騎士団の歴史は1023ごろ、アマルフィの商人がエルサレム洗礼者ヨハネ修道院の跡に病院を兼ねた巡礼者宿泊所を設立したことに始まる。第1回十字軍の後、プロヴァンスのジェラールの努力によって、1113教皇パスカリス2から騎士修道会として正式な承認を得て、1119に設立されたテンプル騎士団と同様に徐々に軍事的要素を強めていった。ただし、この時代は主に病院(ホスピタル)騎士団と呼ばれる様に、最大2,000人が収容可能といわれた病院や宿泊施設も従来どおり運営されており、騎士出身の修道士も平時には病院での医療奉仕が義務付けられ(騎士と呼ばれていても、公的には修道請願を立てた修道士であり、本来的な意味での騎士ではない)、設立時の趣旨を色濃く残していた。当時、この騎士団に入ることは大変な栄誉とされていたが、その代償として騎士団在籍中は如何なる理由があっても結婚が禁止された。
騎士修道会は十字軍国家の防衛の主力となり、聖ヨハネ騎士団だけで2つの大要塞[1]140の砦を守っていた。1187年にエルサレムが陥落した後も、トリポリアッコンを死守していたが、1291、ついに最後のキリスト教徒の砦アッコンが陥落した後は、キプロスに逃れた。この後は海軍(実態は海賊)となってイスラーム勢力と戦ったが、キプロス王が騎士団の存在を恐れたこともあり、1309東ローマ帝国領であったロードス島を奪いここに本拠地を移した。これ以降、ロードス騎士団と呼ばれるようになる。

ロードス騎士団[編集]

1312にテンプル騎士団の資産が没収されたとき、かなりの部分が聖ヨハネ騎士団に与えられた。また、中東のイスラーム教徒と戦う唯一の主要な騎士修道会となったため、西欧から多額の寄進を受けることができた。
騎士団の構成員は騎士が500人程度で、母国語によって8[2]の騎士館グループに分かれていた。各グループ毎に騎士館長(戦闘の際には部隊長となる)がおり、全体を騎士団総長が統率した。各騎士館の構成員の人数が常に均等であったことはなく、フランス人の3騎士館、スペインの2騎士館[3]の人数が突出していた。
1444にはエジプトスルターン1480にはオスマン帝国メフメト2の襲撃を受けたが、騎士団はこれを撃退した。西欧では久しぶりのオスマン・イスラーム勢力に対する勝利として騎士団の評判は高まったが、1522、オスマン帝国のスレイマン大帝400隻の船団と20万人の兵で来襲した。対する騎士団側は雑兵まで含めて7千人ばかりで、必死の防戦を繰り広げたが衆寡敵せず、ついにロードス島を明け渡してシチリア島に撤退した。

マルタ騎士団[編集]

再び本拠地をなくした騎士団だが、教皇クレメンス7神聖ローマ皇帝カール5の斡旋により、シチリア王からマルタ島を借りることになった。賃貸料は毎年「マルタの鷹」1羽である。このマルタ島でも、ロードス島のときと同様にイスラームやヴェネツィアユダヤ人に対し海賊行為を行い、マルタ島はイスラーム教徒やユダヤ人の奴隷売買の中心地となった。
1565に再びオスマン帝国の大船団に襲われることになるが、スペインの救援とスレイマン1の死(1566)によって、辛うじて防衛に成功した。このときオスマン軍撃退に活躍した騎士団総長ジャン・ド・ラ・ヴァレットにちなんでマルタ島の主要港がヴァレッタと名付けられた。続く1571レパントの海戦でもマルタ騎士団の船が参加している。
16世紀宗教改革が盛んになると、西欧各地の騎士団領は没収されるようになり、その力と存在意義は次第に失われていった。17世紀には、ロシア海軍フランス海軍の一部として組み込まれるようになった。
1798ナポレオン・ボナパルトエジプト遠征の際にマルタ島を奪ったため、根拠地を失った騎士団は正教国家であるロシア帝国を頼り、1801ロシア皇帝パーヴェル1を騎士団総長に選んだ。1803には再びカトリックの総長に戻るが、これ以降は求心力を失い、各地の支部が独自に活動するようになる。1834に本部はローマに移った。


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