冷戦  O.A. Westad  2020.11.7.

 

2020.11.7. 冷戦 上・下 ワールド・ヒストリー

The Cold War  A World History                2017

 

著者 O.A. Westad 1960年ノルウェー生まれ。オスロ大卒後、ノースカロライナ大チャペルヒル校で博士号取得。歴史家。ロンドン大政治経済学院LSE教授、ハーヴァード大教授を経て、19年よりイェール大歴史学部、ジャクソン・インスティテュート・オブ・グローバル・アフェアーズ教授。『グローバル冷戦史』(05)で外交史研究に与えられるバンクロフト賞受賞、冷戦史研究の第一人者としての地位確立

 

監訳 益田実 1965年生まれ。立命館大国際関係学部教授。イギリス政治外交史・国際関係史専門

訳者

山本健 1973年生まれ。西南学院大法学部教授。ヨーロッパ国際関係史

小川浩之 1972年生まれ。東大大学院総合文化研究科准教授。現代イギリス政治外交史

 

発行日           2020.7.3. 第1刷発行

発行所           岩波書店

 

上巻扉

資本主義と社会主義に世界を二分し、国家や人々の生活を翻弄した冷戦。それはイデオロギー対立であると同時に、1つの国際システムだった。その起源から展開、終焉までの100年の歩みを、冷戦史研究の第一人者が描き切った迫力の通史。米ソや欧州のみならず、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなど全世界を包含した「世界史」としての冷戦を浮かび上がらせる。上巻は19世紀末から2つの大戦を経て、キューバ危機までの冷戦が本格化する時代を扱う

下巻扉

下巻はヴェトナム戦争後の展開を追い、東欧革命とソ連解体による冷戦の終焉までを扱う

 

 

 

日本語版への序文(2019年)

グローバルな現象としての冷戦は日本にとって決定的に重要であり、冷戦にとって日本は決定的に重要だった。日本人の生活のあらゆる側面が冷戦のイデオロギー的な対立によってある程度までは影響を受けた

冷戦対立は今日に至るまで日本の国際関係にとっての限界を定めただけではなく、日本の国内政治と社会組織にとっての決定要因の多くも定めた。アメリカとの同盟を通じて、そして自らの巨大な経済力と対外的な影響力を通じて、日本は独自の目的のために冷戦の中で積極的な役割を果たした

日本の国内冷戦は2つの線に沿って展開 ⇒ 1つは日本国内での左派と右派の対立であり、もう1つはアメリカの占領から生じた。前者は、30年代初頭以降日本を支配した軍国主義的な権威主義者たちにとって、国内の左派を抑圧することが決定的に重要な目標であった。校舎については、占領初期の混乱が去ったのち、右派の人々はアメリカが冷戦に関して追求する目的の一部が政権復帰を目指す自分たちの希望とうまく適合するのに気が付き、日米のエリート層が共産主義の脅威に関して認識を一致させたことが重要

国内政治に加え、ソ連の共産中国への恐怖も相俟って、日本に於ける自民党の1党支配が生み出されたが、この55年体制を強固なものにしたのは日本の輸出主導型経済の成功であり、それはアメリカの支援があって初めて可能になった

日本が冷戦に及ぼした影響の中で見えやすいのは日米同盟。朝鮮戦争は冷戦をグローバルな規模で軍事化したが、アメリカがこの戦争を遂行するに際して在日米軍基地と日本による積極的な支援は不可欠だった。一方で見えにくいのは、日本の驚異的な経済成長が冷戦の遂行にどう影響したのかという点、そして日本の政策はアジア近隣諸国とソ連にとってどのような重要性を持ったのかという点

戦後の日本の経済成長によって資本主義は変容した。資本主義はとりわけ金融市場に関して、初めて真にグローバルなものとなった。日本は資本と金融に関する世界的な拠点の1つとなり、非ヨーロッパ諸国の多くにとって羨望の的となり、アメリカと共働することで1国の経済がいかに良い方向に変容するかを示す典型的な例となり、冷戦が決定的な岐路に差し掛かった時期にアメリカの経済状況を全体として強化することに貢献

中国が孤立から脱し、冷戦の最終段階で決定的な役割を果たすことが出来たのは、偏に日本との協力があったから

他方でソ連にとっては、日本と協力できなかったことが、その衰退と最終的な崩壊をもたらした重要な理由の1

冷戦は日本にもいくつかの重要な遺産を残した。対内的に最も重要な遺産は自民党による一党支配政治であり、対外的にはアメリカとの同盟。もう1つの遺産は、冷戦に刺激された特殊な形態の成長を基礎に築かれた日本の経済であり、冷戦終焉後の新たな環境にうまく適応できずに苦しんでいる

日本にとっての冷戦に由来する最も重要な問題は地域的なものかもしれない。日本とその重要な近隣諸国との関係は、すべて未解決なままだが、それは主としてアメリカとの緊密な同盟によって日本の外交政策にもたらされた受動性が今なお取り除かれていないからで、次世代の日本の政策決定者たちは冷戦によって課された枠組みを抜け出し、アメリカや他の国々と協力しつつ、東アジア地域全体の平和的な統合に寄与する政策課題を日本自らのために定めなくてはならない

 

序章 世界の形成

冷戦は194589年にかけて頂点に達した資本主義と社会主義の間の対立だが、その起源はずっと以前に遡り、その影響は今日もなお感じられる。すべての大国が何らかの形で冷戦との関係で外交政策を定めていくという意味で、冷戦はその最盛期に1つの国際システムを構成、冷戦に内包された競合する思想と理念は国内の言説の大半を支配した

冷戦はすべてを決定したわけではないが、大半の物事に、しばしばより悪い方向で影響

冷戦による対立に

助けられて超大国による世界の支配は堅固なものとなり、権力と暴力が国際関係を測る尺度となる世界となり、そこでは信念は絶対的なものとなりがちで、自分たちのシステムのみが善で残りは悪

冷戦の遺産のほとんどはこの種の絶対性に集中しているのは、アメリカのイラクやアフガンでの戦争に最悪の例を見出すことが出来る。それは、道徳的な確信、対話の忌避、純粋に軍事的な解決への自信といったもの

多くの国の統治システムの中には、重要な冷戦的要素が組み込まれているし、世界の多くの地域が今なお、冷戦という直近の大規模な国際システムによってもたらされた環境への脅威、社会的な分断、エスニックは紛争を抱えている

冷戦との企画可能な対象としては、1617世紀のイングランドとスペインの対立があり、プロテスタントとカトリックの対立

本書は、グローバルな現象としての冷戦を100年に及ぶ視点の中に位置付けようとするもので、始まりは1890年代に最初のグローバルな資本主義の危機が発生し、ヨーロッパの労働運動が急進化、アメリカとロシアが大陸横断型の帝国として拡張を遂げた時で、1990年前後のベルリンの壁崩壊、ソ連解体、真のグローバルな覇権国としてアメリカの最終的な出現とともに終わる

狙いは、社会主義と資本主義の対立が壮大な規模のグローバルな展開にどのように影響し、そして影響されたのかを理解すること。同時に、何故ある1組の対立が1世紀にわたり何度も何度も繰り返されたのか、そして、何故物理的またはイデオロギー的な力を求めて争うその他全ての者たちがこの対立と関係を持たなくてはならなかったのかを理解すること

冷戦は、それ自体が生み出した出来事よりも広範かつ深遠な経済的、社会的、政治的な変化を通じてのみ把握可能

イデオロギーは重要な役割を果たしたが、それに加えてテクノロジーも国際システムとしての冷戦に持続性をもたらす主な理由となった

冷戦は国際政治に起きた2つの根源的な変化の過程を背景に生じたもの。1つは19世紀ヨーロッパの諸国家をお手本として創造された新たな諸国家の出現であり、もう1つは支配的なグローバル大国としてのアメリカの出現で、これらの国際的な変化はまた、ナショナリズムが力を発揮し続ける枠組みの中で冷戦が展開するのを確実にした

ヨーロッパの近代化の中で批判勢力として最も根源的なものが社会主義。起源はフランス革命にあり、中心的な理念は公的に財産と資源を所有することと大衆民主主義の拡大

1890年代までには、ヨーロッパと南北アメリカ大陸の全域に社会民主主義政党が設立、資本主義システムの批判を展開。当時のベアリングス銀行の破綻を発端としたグローバルな経済危機が世界全体の経済に感染、すべてを変容させ、大量失業と大規模な労働争議が発生し、世界の主要国で政治指導者の暗殺が相次いだ

政治的に組織化された労働者による運動の出現は、19世紀後半の確立された国家システムにとって本物の衝撃だったが、同時に政治的、社会的な公正を求める女性による運動と反植民地運動の動きも重要な動員であり、政治的エスタブリッシュメントもそれに対立する社会主義者もほとんど関与していなかった

アメリカとロシアが西ヨーロッパ諸国を凌駕して膨張し始め、イギリスとの間での競争が激化。冷戦はイギリスの後継者としてアメリカが国際政治に出現したことを象徴するものであり、アメリカの力が台頭し、確固たるものとなっていく過程ともいえる

しかし、冷戦はそれ以上のものでもあった。ソヴィエト型共産主義が敗北し、ヨーロッパ連合を通じて制度化された民主的なコンセンサスの一形態がヨーロッパで勝利していく過程だった。中国において冷戦は、中国共産党によって実行された政治と社会の革命を意味したし、ラテンアメリカにおいて冷戦は、冷戦のイデオロギー的な分断線に沿った社会の分権化の進展を意味した

本書は、資本主義と社会主義の間に世界規模で生じた冷戦が持った意義を、そのありとあらゆる多様な姿を通じて、そして時には混乱をもたらすようなその矛盾に満ちた姿を通じて示す試みである

 

第1章     出発点

冷戦は19世紀から20世紀への転換期の前後に生じた2つの過程に起源をもつ

1つは、アメリカとロシアが強烈な国際的な使命感を漲らせた帝国に変容していったことであり、もう1つは、資本主義とそれを批判する者との間に存在するイデオロギー的な分断が先鋭化していったこと

19世紀後半から20世紀前半の世界は何よりもまず経済的、技術的、軍事的なアメリカの勢力の増大の歴史であり、第1次大戦終了とともに、唯一の債権国として、余剰工業生産力を保持

 

第2章     戦争の試練

2次大戦は、半世紀にわたる冷戦の枠組みを定めた。終戦とともに、ソ連の共産主義勢力とアメリカの反共産主義勢力の対立が世界政治の新たな中心的焦点となる

大戦中の米ソの同盟は、共通の敵により引き起こされたグローバルな戦争の中の偶然の同盟国でしかない妥協の産物

チャーチルも41年には、ナチ体制と共産主義が持つ最悪の特徴とは見分けがつかないと心情を吐露

冷戦は、戦後のポーランドで始まったと議論することが出来る。チャーチルは、ポーランド人たちの意向を無視したソ連の再建計画を受け入れたものの、その後のソ連のやり方に米英とも強い懸念を抱き、455月の「鉄のカーテン」発言へとつながる

トルーマンもスターリンの動きを牽制したが、スターリンは全く動じることなく、亀裂は深まるばかりとなる

 

第3章     ヨーロッパの非対称性

ヒトラーとの5年にわたる総力戦は、ヨーロッパに前例のない規模の破壊をもたらす

最も状況がひどかったのは東ヨーロッパ。共産主義にせよ、アメリカ資本主義にせよ、それぞれに1つの解決を示すものだったし、何等かの解決が直ちに必要だった

既に古臭く疲弊し尽くしたかに見えるイギリスとは異なり、米ソは将来の発展のために新しいモデルを提供することも出来た。物資の供給という点でより多く貢献できたのはアメリカだったが、ナチスを敗北させる上で赤軍が果たした中心的な役割は、ソ連の声望とスターリン個人崇拝に結び付く

ソ連の東ヨーロッパの支配が拡大する一方、西ヨーロッパの経済状況は悪化し続け、特に46/47年の冬はヨーロッパが経験した中でも最悪の部類に属すもので、食料備蓄は減少し、通貨は不安定化し、工業生産は縮小。アメリカは西ヨーロッパ再建のために前例のない援助を決定。トルーマンはマーシャル・プランにソ連も入れる賭けに出たが、会議には参加したものの、ヨーロッパに於けるアメリカの派遣と大陸の分断をもたらすと懸念したスターリンは受け入れを拒絶

48年の初めまでにヨーロッパでは、冷戦による国家システムが確立されつつあった。第2次大戦終了時点でソ連に占領されていた国々は共産党が政治的に支配。アメリカはヨーロッパの問題に関与し続けるだろう。イギリスが果たす役割は決定的に縮小。西ヨーロッパの左派のほとんどは共産主義とソ連に対抗して自国政府の側に味方するだろう。アメリカ政府はますます、ソ連と共産主義の封じ込めという観点から、ヨーロッパに対する、そして世界に対する政策を考えるようになっていた

 

第4章     復興

戦後の復興は、破壊からの回復と同時に、政治的、知的な復興も進行。それは共産主義と資本主義の間の、そして米ソ間の冷戦を国際問題の中心に据えることになった

当初、課題となることがらは、戦時中の協力の試みが記憶から薄れるにつれ、急速に変化していく。好例が国連で、当初ヨーロッパとアジアの救援と復旧のための活動に集中し、成功を収め、スターリンもあまり関心を示さなかったが、安全保障理事会だけは例外で、自ら望まない決議を阻止するために拒否権を使用

アメリカは、ヨーロッパ経済を再出発させることが自国の安全保障にとって決定的に重要であると見做す一方、ソ連と共産主義諸国の政府は当然ながら、アメリカが主張し、アメリカ政府の官僚によって実行されるヨーロッパ復興のための計画に参加するつもりはなかった。従って、西側連合国の管理下でドイツの西側占領地区をマーシャル・プランに組み込む必要があるということは、西側地区を東側占領地区から切り離すことを意味した。新たに導入された通貨ドイツ・マルクはこの分断の象徴であり、劇的な1歩となる

アメリカの年間GDP1.5%に相当するマーシャル・プランの西ヨーロッパ復興に果たした貢献は絶大だっただけに、当初受け入れに慎重な国もあった。各地の共産党との闘いもプランの重要な一部で、労働者階級の生活が向上したのが原因で、ソ連型の共産主義は敗北していく

アメリカは、平時に外国、特にヨーロッパ列強との同盟締結については形成すべきではないとの警告があったにもかかわらず、ヨーロッパに留まり続ける力があると保証する必要に迫られ、相互防衛の義務を規定したNATOに対する議会の同意を取り付けることに成功

当初、NATOは実質的には心理的なもので、人々はアメリカが直ちにヨーロッパ大陸から撤退することはないと信じ始め、同時にソ連の攻撃に対する安全保障も意味した

48年半ば以降、アメリカ軍の計画立案者たちの間に戦争への真剣な恐怖が存在、開戦準備が進められるとともに、国内での破壊工作への恐怖が訪れる。マッカーシー旋風は、スターリンによるいかなる秘密工作にも増してアメリカの利益を損なった

一方で、冷戦がアメリカ国内で生み出した警戒感も、ソ連と東欧が体験した激しい発作のような出来事の前では色褪せた。53年のスターリン死亡まで、大粛清は日常茶飯事

 

第5章     新しいアジア

2次大戦終了とともに、アジア大陸の大部分は根底からの革命に直面 ⇒ 中国、朝鮮半島、ヴェトナムでは共産主義が、インドネシアやインドでは民族主義者の集団が植民地からの独立を求めていた

戦時中から、主要国の全てで民族主義に代わる選択肢として共産党が姿を現し、コミンテルンにより日本に抵抗するよう命じられていた

アメリカの政策決定者たちは、終戦後直ちにアジアの一部にも強い関心を示す

中国での共産党の勝利と50年の朝鮮戦争は、東アジアの戦略状況を一変させ、日本が朝鮮半島でのアメリカ軍の反転攻勢を整え、必要な物資を補給する上で鍵となる役割を果たす。朝鮮戦争を受けて、アメリカ政府は出来るだけ早期の日本との講和条約の締結を決意

同時に東南アジアも独自の変貌を遂げつつあった ⇒ ほぼ全域が植民地化されていたが、終戦と同時にホー・チ・ミンがヴェトナムの独立を宣言、スカルノもインドネシアを建国、ビルマもアウン・サンがイギリスの撤退を勝ち取る。スカルノもアウン・サンも戦争中は日本軍に協力

54年ディエン・ビエン・フーでフランス軍が、中国共産党の支援を受けたホー・チ・ミンとの戦いに大敗したのは、アメリカ政府にとって冷戦の観点から見て非常に大きな問題で、ドミノ倒しとなることを何より恐れた。もう1つの懸念がインドで、ネルーはイデオロギーとしての共産主義に惹かれたことはなかったが、ソ連の発展モデルこそインドに相応しいと魅了され続けており、アメリカには背を向けていた。さらには、イギリスから独立する際に生じた暴力によって、脱植民地化から生じた周辺の国々はすべて大国である隣人の振る舞いに懐疑的となる

アジアのさらに西方では、第2次大戦以来アメリカ政府は、ヨーロッパと東アジアの同盟国のために中東からの石油供給確保に邁進、中東での英仏の脱植民地化が政治的な不安定を生み出し、冷戦のために一層重要性を増す石油供給を妨げる恐れがあった

保守的な君主に率いられたサウジとイラクはアメリカへの協力を約束したが、エジプトやシリアはパレスチナの紛争でアメリカの目標を台無しにする恐れがあった。そんな中、国連決議により48年イスラエルが建国を宣言、米ソともこの決議に賛成したものの、中東での内紛に発展し、ほどなくして冷戦対立を永続的に中東に直接持ち込むことに繋がる

45年時点で、両超大国にとってムスリム世界で最大の関心事はイラン。41年イランの民族主義者がドイツと協力するのを防ぐため、英ソは共同してイランを占領。アングロ・イラニアン石油会社(後のBP)による独占を通じてイランの石油生産を支配し続けるのが目的だったが、イギリスが引き揚げた後も、ソ連は北部占領地域でクルドなどの民族独立を支援して居座ったため、米英はソ連の撤退を要求、これが冷戦の最初の危機の1つとなる

アメリカの圧力を受けて渋々赤軍派撤退、北部の民族指導者たちは公開処刑となり、イランの共産党である中東最大の共産主義集団のツデー党は壊滅的な打撃を被る

 

第6章     朝鮮半島の悲劇

朝鮮戦争とそれがもたらした影響は、恐らく冷戦の中で最も大きな厄災

回避可能だったにもかかわらず、朝鮮半島の人々の間に生じたイデオロギー的対立の激しさと超大国による介入を可能にした冷戦の枠組みによって生み出された戦争で、冷戦対立の最も恐るべき姿を象徴するもの。朝鮮半島が荒れ地と化し、世界中の人々が次は我身と危惧。それゆえ朝鮮戦争はグローバルな規模で冷戦を激化させ、軍事化させたといえる

2次大戦後、李承晩と金日成の朝鮮統一運動の主導権争いに米ソが関与。当初は国際信託統治下での朝鮮自治政府案だったが、李承晩らの圧力に負けたアメリカが南側独自の選挙を認めたため対立が決定的となる。48年両者は相次いで建国を宣言、戦争の可能性は低くなったとして、両超大国は撤兵。半島では両者による開戦準備が進み、北側は開戦の許可をスターリンに求め、スターリンはちょうどそのとき誕生した毛沢東政権のやる気を測るテストとして、北朝鮮への支援姿勢を打診、毛沢東はスターリンとソ連を議論の余地のない国際共産主義運動の指導者として認めており、毛にとっては拒否回答などありえない打診で、典型的なスターリン式の試験だった。スターリンの確認を取った毛は金日成に支援を約束、ソ連も軍事支援を増強して開戦に踏み切る。スターリンがなぜわざわざアメリカ政府が勢力圏と見做しているのが自明の地域への攻撃を許可したのかは不明だが、年とともに自らの抱く妄想の虜になっていたことが考えられる。スターリンの許可がなければ戦争にはなっていなかった

トルーマン政権にとってより重要な意味を持ったのは、国際的な同盟をまとめ上げるのに成功したこと。前例のない国連決議によって16か国が朝鮮に派兵、うち90%はアメリカ人であり、さらに重要なのは国連兵士の全てがアメリカの指揮下で戦ったこと

一方、中ソの協力促進の上でも大きな役割を果たす。中国の介入の後ソ連は支援を増強、相互信頼は高まる

3年後に休戦協定が締結されたが、関わった全ての人にとって何の役にも立たない悲惨な戦争であり、朝鮮半島は破壊し尽くされ、朝鮮人自身にとって民族の大惨事

 

第7章     東側陣営

共産主義社会について驚嘆すべきことは、それが如何に繋がり合っていたかという点で、単なる安全保障のために同盟ではなく、世界はどのように機能しているのか、どのように変革されるべきなのかという点に関する共通の理解に基づいて作られた、統合主義的な政治と経済の試みであり、マルクスやレーニンの教え、スターリン統治下のソ連で発展した実践を拠り所とする世界だった。自らの団結を必死で守り、冷戦の中でソ連を支持するのに全力を捧げる世界であり、資本主義を全面的に代替するもう1つの選択肢であり、アメリカこそが第2次大戦の偉大な勝者であると信じる人々への戒めとなる世界だった

いずれの場所でも共産党の支配は軍事力を基礎に強制されたもの

 

第8章     西側の形成

5060年代西ヨーロッパは資本主義によって社会と経済が作り変えられていった

新しいものが成功した理由の1つは、古いものがもたらした大惨事にあった。悲劇的な半世紀の後ではどんな安定でもありがたかった、たとえそれが冷戦を通じて外部の勢力に押し付けられた安定だったとしても

西ヨーロッパで資本主義を救済し、統合された市場としてそれを拡大していくためには、大幅な混合経済化が必要

全ての中でアメリカが果たした役割は中心的なもの、ソ連の脅威と見做したものからヨーロッパを守るうえで、アメリカは決定的な役割を果たす。米欧の経済が統合へと向かう動きの中で、西ヨーロッパに生じた消費革命の中心にアメリカを位置付けた。多くの西ヨーロッパ人はアメリカを想像することで、階級、性差、宗教による制約から逃れることが出来た。アメリカ合衆国はそれゆえ、ヨーロッパに起きた革命の一部を成していて、ソ連が大陸の東半分に与えた衝撃と同様に深遠なものであり、より永続的なものだった

50年代に西ヨーロッパ経済の変革が加速した主な理由は3

1つは、それまでの発展の欠如を取り戻したから

次いで、アメリカによって提供された安全保障は、経済の発展にとって不可欠

最後は、かつてヨーロッパ人をしばしば分裂させてきた境界線を乗り越えて協力を行う能力があったこと。ヨーロッパ諸国間で経済的、政治的な統合のための協定が締結された

西ヨーロッパ統合の初期段階は、1/3の理想主義と2/3の実際的ない必要性によって生み出され、東側からの脅威に対し戦略的生産を増やし、結束を高めることを目指した

西ヨーロッパ内部で冷戦が突き付けた最大の課題は、ドイツ問題への対応。49年のドイツ連邦共和国の成立以来、常に西独の指導者たちが西側の結束を犠牲にしてドイツの再統一のためにソ連と取引するのではないかとの疑念が存在していたが、アデナウアーが西独政治における一定不変の存在として、再統一以上に西側諸国との統合を望むと宣言、50年前後に始まった「経済の奇跡」が裏付けした

西ヨーロッパの経済成長に伴って生じた消費革命の中で、アメリカの優越はますます目に見えるものとなっていく。肯定的なアメリカのイメージは大西洋を越えた交流拡大とともに膨らみ、さらにアメリカがその音楽、映画、ファッションを通じてヨーロッパに与えた影響によって加速

アイゼンハワー政権の二期目(195761)が始まる頃に生じたハンガリー革命によって、東西関係は大きく後退

 

第9章     中国の災難

中国の20世紀には奇妙な対称性があり、その大部分はイデオロギー的な冷戦と結びついている。世紀の初めには共和主義革命が起きたが、やがて共産主義と抗争がそれに取って代わり、世紀末にはマネーとマーケットが共産主義に取って代わる。その間は破壊と再建、熱狂と冷笑、そして大量の血が流れ続ける過酷な時代。一連の革命を特徴付けるのは残虐性で、77百万が、それも中国人の手で殺されている

50年代、毛とその指導部は、ソ連に導かれた共産主義諸国の共同体内部でのみ中国の進歩を実現できると信じていたが、50年代後半までには疑念が生じ、ソ連型の発展では遅すぎるように思われ、60年代初めまでには「兄弟国家」という発想は失われていた

毛がプロレタリア文化大革命と名付けた新たな粛清によって構想したのは、旧来の指導部を取り除き、中国の若者たちに革命を起こすよう直接訴えることで、変化の過程をより深いものとすること

毛時代の中国がもたらした最も重要な国際的影響は、共産主義は一枚岩であるという考えを永久に葬り去ったこと。中国共産党とソ連の反目は、国際政治を変容させ、冷戦の二項対立を突き崩す潜在的な可能性を秘めていた

 

第10章     帝国の解体

冷戦は、ヨーロッパ及びヨーロッパの子孫であるロシアとアメリカで、イデオロギー的な争いとして生まれた。20世紀後半には、この争いがヨーロッパの海外帝国の崩壊を取り巻く様々な過程と相互作用するようになった。ヨーロッパの優越は消滅し、脱植民地化が加速、70年代までに独立国家は45年比ほぼ4倍に増加、新興国を中心とした第三世界運動が発生。第三世界という名前は、1789年の仏革命の際に多数派だった反抗的な弱者「第三身分」への敬意を表するものとしてこの運動の主唱者たちがつけたもの

第三世界の指導者にとって冷戦は植民地体制の派生物であり、ヨーロッパ人が勝手に作り上げたもの、資本主義にしても植民地の支配者たちが押し付けようとしたシステムだったため、新興独立国の人々は資本主義を信じていなかったし、だからといってソ連の共産主義もあまりに厳格な統制を強いるように見えて受け入れるつもりはなく、第三世界が取り組むべき課題として強調されたのは、完全な経済的かつ政治的な主権、旧植民地諸国と解放運動の連帯、そして紛争の平和的解決とそれに続く核軍縮だった

5060年代に脱植民地化が幅広い規模で起こった背景には2つの理由がある。1つは宗主国の疲弊化であり、もう1つは植民地での外国支配への反抗

多くの新興独立国が世界各地に勃興、その全てが非ヨーロッパ人によって率いられて、冷戦が生み出した国際秩序によって抑圧されているとしてこの秩序を嫌ったが、国内外の対立を通じて彼等を巻き込みつつあった

 

第11章     ケネディを襲った危機

冷戦時代のアメリカ大統領としてアイゼンハワーのしたことは、明らかに矛盾に満ちたもの ⇒ 朝鮮戦争やアジアでの新たな戦争に巻き込まれるのを回避する一方で、大幅な軍事化を取り仕切っていた。アメリカの保有する核弾頭は10年で100倍増

ケネディは、前政権によって積み残され、急速に変化する世界によって生み出される不測の事態への対応に悪戦苦闘 ⇒ 最初がラオスで、アメリカの支持する政府が反乱勢力の脅威に晒され関与の度合いを高めざるを得なくなり、次いで最大のキューバ危機へ。ミサイル・ギャップという虚構を作り上げ、危機を煽った結果だった

ケネディは、アメリカが冷戦に勝利するためには、植民地から独立した国々がソ連の庇護下に転がり込むのを阻止しなければならないと信じていたし、フルシチョフも共産主義ではない第三世界の国々や運動にまで支持を約束していた。安全保障面でケネディが最初に焦点を当てたのは東南アジア。54年のヴェトナム分断以来、アメリカに支えたれた政権への反乱の気配が漂い続ける中で起こったのがラオスの反乱

ケネディを過小評価したことで、フルシチョフは48年のスターリンによるベルリン封鎖と同じくらい自滅的なやり方で、ベルリンに関する決定を下し、61年夏にはベルリンを分断する有刺鉄線が張られ始める

キューバでは、バティスタによる長年の悪政の結果もたらされた貧困と社会的な不正義から革命が勃発、アメリカ支配への民族主義的な反発が重要な役割を果たし、革命政権を樹立したカストロは、アメリカ政府との関係緊張化からソ連に向かう道を後押しされ、アメリカの全資産を国有化したため、アメリカは外交関係を断絶

フルシチョフは、ソ連国境に近いトルコ領内に核を配備しているアメリカに対抗して、キューバにソ連の核兵器を送ることを思い付きカストロと協議、ソ連のキューバへの武器輸送が現実味を帯びるに従い緊張が増す

キューバ領空を飛行していたアメリカのU-2偵察機がソ連のミサイルで撃墜され、戦争勃発が間近に迫る中、ケネディはなお外交的解決を模索、ソ連がすべてのミサイルを撤去するのと引き換えに、アメリカはキューバに侵攻しないと確約し、最終的にはトルコに配備されたミサイルを撤去すると申し出、危機は回避された

キューバ危機が明らかにした1つの重要な変化は、米ソ両陣営がスパイ行為と公開情報の双方を通じて、一体どれほど相手のことを知っているのかという点に関するもの。56年のハンガリー動乱を境に、それまでは搾取的な資本主義への嫌悪からソ連側に寝返る西欧人が多かったが、60年代になると重要なスパイとなったのは自国の社会にうんざりしたソ連人で、何れも西側が冷戦に勝利するのを望んでいた

ケネディは何らかの形でソ連との関係に永続的な安定をもたらす試みに挑戦、フルシチョフとの間で限定的に核兵器の実験を禁止する条約に合意

 

第12章     ヴェトナムとの遭遇

ヴェトナム革命は植民地的抑圧への抵抗として始まり、グローバルな冷戦と深く絡み合った一連の戦争として終わった

起源は19世紀のフランスによるインドシナの植民地化、あるいは、長年にわたる中国によるヴェトナム支配にまで遡る

革命の中核にはヴェトナム人の民族主義革命家たちの一団があり、若くしてマルクス主義者となり、ソ連の経験を称賛

多くの点で他のアジア諸国とは異なり、民族主義の受け皿として共産主義がほぼ最初から支配的なものとなった唯一の場所

反共を掲げたアメリカの戦争はその始まりから愚行であり、ケネディが犯した最大の誤りは、常に南北を2つの別々の国家と見做したこと

1964年トンキン湾決議は、公海を航行中のアメリカ軍艦に北の艦艇が発砲したことから、ヴェトナム戦争拡大への米議会のお墨付きが出たことを意味し、65年から米空軍による北爆開始

60年代半ばは第三世界の転換点 ⇒ 65年長きにわたり第三世界の擁護者だったアルジェリアで軍事クーデターが独裁政治を駆逐、ガーナでも揺るぎなき指導者と見られ第三世界の代表的なスポークスマンだったクワメ・ンクルメが66年の軍事クーデターで倒れたのも独裁政権化したからで、いずれも共産主義排除の方向に向いたのはアメリカにとっては思いがけない収穫だったが、裏でCIAが動くのをアメリカ政府は支持していた

コンゴでは60年にルムンバが殺害されて以来、脆弱な中央政府をアメリカやベルギーが支えていたが、64年反政府勢力が人民共和国の樹立を宣言、CIAに助けられた政権は徐々に反乱軍を制圧し、残忍な復讐を行う。アメリカの介入は他のアフリカ諸国の怒りに満ちた反応を呼び起こす

インドネシアでは、スカルノ率いる民族主義者たちが、アメリカを解放の仲介役として49年オランダからの独立を達成したが、次第に中央集権化を進めるスカルノにアメリカは警戒感を持ち、57年共産党との協力に向かうと、アメリカはイスラムを中心とした反政府勢力を支援。ソ連もスカルノには不信を懐き、共産主義者である下級将校を中心とした軍のクーデターを容認するも制圧され、共産党は非合法化された。軍による共産主義者らの大量殺戮が広がり、30年に及ぶ右翼による独裁的な支配に突入

アメリカがヴェトナムに集中していたために、新たに生じつつあった他の危機に関与できなくなったのは間違いなく、その1つが中東でのパレスチナ難民問題。アメリカはイスラアエルを混沌とした地域での西側様式を体現する安定の地と見做し、民生用支援に加え軍用装備の提供も拡大、イスラエルによる核兵器開発計画にも意図的に目をつぶった

もう1つアメリカが関与しなかったのが南部アフリカで、南アとローデシアで成長しつつあった白人至上主義政権を放置したため、アメリカ国内の175の都市で暴動、略奪、放火、銃撃などに見舞われる

 

第13章     冷戦とラテンアメリカ

キューバ革命後、冷戦最大の事件はチリのクーデター

南米の冷戦は、19世紀後半以降、イギリスに代わって大陸に確立されたアメリカの覇権に起因すると同時に、それぞれの国内部の階級間や民族間の紛争が招いた著しい不平等と社会的な抑圧の結果もたらされた政治的不安定が原因

アメリカの歴代政権は、ラテンアメリカの急進主義とソ連型の共産主義は当然の同盟関係にあると見做し、各地の軍事政権と同盟関係を結び、社会的な進歩を妨害

 

第14章     ブレジネフの時代

冷戦の観点から、60年代後半と70年代を「ブレジネフの時代」と呼ぶのは、彼が新たな状況への適応には消極的な姿勢を示し、冷戦体制内で自国の地位を断固として守ろうとしたことによる。冷戦中期という時代の代表的存在。大戦中に若くして少将となり、56年フルシチョフの庇護のもと最高指導部の一員となり、フルシチョフが事実上の宮廷クーデターで引退すると、平和的な権力交代で書記長に就任

60年代後半には超大国の視点から東西両ブロック間の緊張を徐々に低下させる試みの成果として緊張緩和(デタント)がもたらされる。先陣を切ったのは60年に核実験を成功させたフランスのドゴール大統領で、独自に東側への接近を試みる

 

第15章     北京のニクソン

60年代にはヨーロッパを変容させることになる変化が始まったが、70年代にはアジアを、そしてそれとともに徐々に世界をも変容させる大きな変貌が生じる

中国以外のアジア諸国はアメリカに支配された資本主義世界システムの中で経済的な離陸への準備を整えていたが、その先頭を走っていたのが日本で、60年代後半以降、他のアジア諸国も急速な経済成長を遂げ始める。特に4小龍と呼ばれた韓国、台湾、シンガポール、香港の成功は冷戦下のアメリカと緊密な同盟が、優遇された条件でアメリカや他の西側の市場に参入できることを意味するとともに、東アジアの権威主義的な政権が、アメリカ人顧問とアメリカの軍事支援の助けを借りて、自国民による反抗から自衛できることも意味した。冷戦の助けを得て、輸出主導型の成長は迅速な経済的変容に繋がる、より確実な道となり、その結果、かつてないような大きな規模でグローバルな経済的相互作用が生み出された

1971年アメリカ政府は、自らの経済的な利益を守るため、固定相場でのドルと金の交換を停止、ドルを実質切り下げることでアメリカの輸出業者と国内産業を支援。自国収支を重視するアメリカの姿勢により、グローバル経済は新たな、混乱した時代へと突入

ブレトンウッズ体制に基づき、米ドルへの依存という共通点のお陰で資本主義諸国の経済が徐々に統合を深め、安定した資本主義の成功をもたらしたが、それが6882年頃に一挙に変化

68年の米大統領選は、1912年のウィルソン以来最も低い得票率でニクソンが制したが、彼の選挙運動は、アメリカの偉大さの回復を誓う約束と、国内の人種的な少数派やアメリカを食い物にしようとする外国人へのあからさまな偏見に満ち溢れていた

インドシナからの撤退を模索するために中ソに接近

60年の日米安保協定の改定によって将来を決定付けた日本の急速な経済成長が、アジア諸国に1つのモデルを提供。特に韓国と台湾は冷戦の最前線に位置する国家であり、アメリカからの支援は重要な意味を持っていたし、シンガポールと香港も同様

中国では、文革後も毛沢東主義者による恐怖政治が続いていたが、徐々に政治情勢が変化しつつあり、毛沢東が心変わりした理由の一部は、冷戦への彼の見方が変化したことにある。インドシナを巡る中ソの対立から、アメリカは中国に接近、毛が受け入れたことで72年のニクソンの北京訪問が実現、アメリカは「1つの中国」を認める

米中接近に驚いたブレジネフも、デタントの機会を逃さず、ニクソンをモスクワに招いて第1次戦略兵器制限条約SALTIの署名に動く。アメリカもソ連を対等な存在と認め、冷戦の休戦が告げられた

 

第16章     冷戦とインド

冷戦の中の不確定要素はインド。新生インドの指導者だったネルーは、自らを非同盟、反植民地、社会主義と定義し、冷戦という国際システムをヨーロッパ的な関心に基づくものとして反発。ネルーにとって社会主義は、最も広い意味での社会的な支援と平等を意味し、イギリス左派の伝統に大きな刺激を受けて、個人を経済と文化による束縛から解放してくれる役割を社会主義に期待していた

トルーマンは、インドが冷戦の中でアメリカにつくのを望み、そうなると予測して二国間の経済援助も継続したが、インドは拒否

朝鮮戦争でも、北を非難するだけでなく、平和的解決を模索、休戦と捕虜交換交渉に関してインドのイニシアチブが実際に一定の効果を発揮したが、トルーマンはその努力を評価せず。一方で、パキスタンを建国したムスリムのエリートたちはアメリカによる冷戦遂行との連携を強化、アイゼンハワー政権も相互防衛支援協定を締結して大規模な軍事援助を行う

55年のバンドン会議でネルーは、冷戦は第三世界の利害に反していると明言、植民地支配によってもたらされた社会の混乱などの真の問題から目を背けさせるもので、植民地時代から持ち越された病弊と現在の冷戦の脅威の双方を克服するための第三世界諸国間の団結を訴えた。国内でも後進国ロシアの近代化に魅了され、自国を急速に発展させようと更に左傾化。フルシチョフもインドを訪問し、アメリカ人と同様ネルーとの個人的関係の構築は困難との印象を抱きながらも、積極的支援を表明

パキスタンでは、東部ベンガル系住民やヒンドゥー系パキスタン人による暴動が、政府による大量虐殺へと発展、71年にはインドが東パキスタンに対して軍事作戦を発動、独立国家バングラデッシュを建国して統治を開始すると、アメリカはインドによる侵略と非難し、インディラに代わったインドも、アメリカのパキスタンへの武器援助がインドへの不自然なまでの敵対的な姿勢を助長したとして応酬

インドのソ連との友好・協力関係は70年代半ばに最高潮に達し、74年のインドによる核実験も支援したが、ガンディーの権威主義的な支配と国家緊急事態宣言の発令は、民主主義勢力の反発を招き、77年の選挙で敗北するが、デサイー率いる新政権もソ連との友好関係を維持

80年にガンディーが政権に復帰したが、インドへの冷戦の影響はますます強くなっていた

 

第17章     中東の大渦巻

中東の冷戦も植民地主義とそれに対抗する勢力の間の長期的な闘争の一部として理解すべきであり、中東での対立の激しさは国内的にも国際的にも際立ったものだったが、その対立がグローバルなレベルで持った重要性もまた際立っている

米ソにとって中東は、その中に引きずり込まれてしまう恐れのある大渦巻

英仏の支配は、56年のスエズ危機によって弱体化が裏付けられ、各地で民族主義者による革命が政治を動かしていた

中東と冷戦を繋ぐ主な連結装置は石油供給のほかに、中東内部での世俗的な政治と宗教的な対立であり、さらには中東での新ユダヤ人国家の創造の3つ。中東諸国の民族主義、世俗主義者たちは殆ど社会主義者で、宗教的な定めに従って政府を組織すべきと信じる人々と対立関係にある。サウジだけが例外で、国内の治安のためにアメリカとの同盟を利用。イランもアメリカの庇護の下に近代化を意図し、シーア派聖職者を迫害

米ソともイスラエルの建国を支持したが、両者が犯した最大の誤りは、アラブ民族主義が活性化し、発展していくのを予見できなかったこと

アラブ民族主義は、第1次大戦後のオスマン帝国崩壊後に誕生、ヨーロッパ諸国が中東の全面的な植民地化へと動いたことによって、公然と反旗を翻す

ナーセルのエジプト独立闘争は、より広いアラブ解放闘争の一部であり、グローバルな反帝国主義や第三世界の利害と結びつくもので、政治的な経歴の初めから漠然とした形の社会主義を信奉、ソ連との緊密な協力による目的達成を狙う。70年完成の世界最大のアスワン・ハイ・ダムの建設でもアメリカの支援を断りソ連からの支援に頼る

ナセル急死の跡を継いだサダトは、追加の軍事支援を渋るソ連に対し、アメリカに接近

73年の第4次中東戦争は、イスラエルを支持するアメリカと、アラブ諸国を支援するソ連の衝突で、急速に冷戦としての様相を帯びる

ソ連に譲歩してイスラエルを抑えつけデタントを進めようとするフォードの政策に対し、自由至上主義(リバタリアン)思想、人権の促進、好戦的な外交政策など多岐にわたるその背景から、新保守主義者(ネオコン)と呼ばれる右派グループから激しく突き上げられる

サダトはイスラエルとの和平のためにアメリカの支援を求めて接近

ソ連は、アラブ諸国への支援体制を一層固める。イギリスの植民地だったアデンでは、民族解放戦線がイギリスからの独立を勝ち取り、イエメン人民民主共和国(南イエメン)となり、マルクス・レーニン主義を実践、ソ連にとっては重要な港湾への海軍によるアクセス確保の観点から大きな利益をもたらす

 

第18章     デタントの敗北

1970年代の半ばまでに冷戦は、以前よりは大幅に緊張度を低めてはいたが、確固たる国際システムと化したかのように見えた。緊張が高まり続けるのではなく、世界は何らかの形で米ソによる共同支配へ向かいつつあるように見えた。米ソは地域紛争を限定化し、核兵器の拡散を阻止し、それぞれの陣営内部の不穏な動きを回避する責任を共有するものと思われた

ニクソンとブレジネフによるデタント政策は、7376年のアメリカ政治の変化で崩壊へと向かう。73年にインドシナから撤退した後、北は南を制圧。隣のカンボジアでも共産主義者集団が権力を掌握

カーネーション革命でポルトガルでは40年続いた独裁政権が倒され政治的に不安定な時期が続き、左右対立によって国家の統治はほぼ不可能になり、その間にアフリカのポルトガル植民地は次々に分離独立。そこでもソ連やキューバの支援が目立つ

76年の大統領選は、ネオコンに推されたレーガンが共和党の指名選挙で敗れ、本選でもカーターの民主党に敗退。カーターは当初デタントを踏襲しようとしたが失敗

漸く政権に就いたレーガンの強硬な発言は、高齢化しつつあるソ連の指導者たちを本物の恐怖に陥れ、彼等は初めて世界が超大国間の全面戦争に向かいつつあると考え始めた

レーガンは、ソ連勢力を後退させるためにアフガニスタンでもパキスタンでもイスラムへの支援を強化

究極的にデタントを挫折させたのはアメリカ国内の政治。ニクソンとキッシンジャーはソ連とともに冷戦を管理しようと試みたが、政治に対する不信感は最高潮に達し、国際問題に関して対外的に対等な存在など受け入れないよう、レーガンを大統領に選んだ

 

第19章     ヨーロッパの前兆

1982年までに多くの人々が、冷戦はデタントの過程が始まる以前の状態に回帰したと語っていたように、より危険な様相を帯びる

ヨーロッパでの冷戦の変容も74年のポルトガル革命にその起源を見る

復活を遂げたポルトガル共産党がソ連とソ連が掲げる理想への支持を表明したが、76年ソアレス率いる社会党が急進的な社会民主主義に基づく政策方針を掲げて政権を獲得し、西側とアメリカは安堵

80年代初め、ソ連指導層の高齢化で次々とトップが交代、冷戦の緊張が一気に高まり、83年のソ連防空軍によるソ連領空に迷い込んだ大韓航空機撃墜で頂点に。死亡者のうち61人はアメリカ人

ソ連の指導者たちを取り囲む恐怖は、西側の圧力だけではなく、彼等が代表する経済と社会のシステムが困難に直面しているように思われたためでもあった。東ヨーロッパの状況はさらに悪化しつつあり、特に東西の生活水準の差が顕著になったことを東ヨーロッパの人々が知っていたというのが問題の根幹にある

1980年グダンスクにあるレーニン造船所の労働者がワレサに率いられてストライキを開始、政府も「連帯」の存在と要求を認めざるを得ない立場に追い込まれる

ポーランド以外でも見通しは変化しつつあった

西側でも、ECが拡大して南ヨーロッパを包含するようになったことは、冷戦にとってとてつもなく重要な意味を持つ。東ヨーロッパ諸国にとっては、自分たちもまたヨーロッパの共同体に参加できるという将来像を示すもので、この認識はソ連支配下にある東ヨーロッパに仕掛けられた時限爆弾だった

ヨーロッパ統合過程の加速がもたらしたもう1つの影響は、地域的なアイデンティティの拡大。ますます多くのヨーロッパ人が、自らが居住する国家だけに焦点を当てるのではなく、国境をまたいだり国境内で独自性を持つ地域の構成員として、自らを認識するようになった

 

第20章     ゴルバチョフ

80年代前半のソ連は、経済は下降局面にあり、政治は機能不全、共産主義の未来に疑念を抱き始めていたが、ソ連指導部は人民の支持という正統性に欠けていた

ソ連はグローバルな経済システムから孤立

85年チェルネンコの後任として最年少の政治局員だったゴルバチョフが指名され、厳しい監督を通じてソ連社会の再活性化が進められる

レーガンは早急な首脳会談開催を呼びかけ、核兵器の廃絶という目標に言及

86年アイスランドのレイキャビクで首脳会談が行われ、核戦争のリスクを廃絶することへの2人の指導者の意見がぶつかり合いは、今後冷戦に関する最も基本的な認識すら急速に変化し得ることを示した点で、ある程度の成果を収めたといえる

87年ゴルバチョフは国内でペレストロイカ(構造改革)とグラスノスチ(情報公開)を変革の中心に据えると宣言

 

第21章     グローバルな変容

70年代と80年代の前半に世界はとてつもない変化を遂げ、80年代後半になるとさらに大きく変化。新たなテクノロジーにより、多くの人々が情報を入手し、ビジネスを行い、将来について考える方法が変容し始めた。グローバルなイデオロギー的対立は無意味なものと化し、その一方でその他の対立――エスニックな、宗教的な、民族的な、経済的な対立――がより重要になる

爆発的な情報の拡散は、特に人々の優先順位に変化をもたらしたという意味で、冷戦を終わらせる大きな要因となった。グローバルな冷戦の決着は古くからある紛争の解決を促したが、それはまた、世界中で新たな形の緊張を生み出すことにもなった

アンゴラ内戦は7502年続いた米ソ代理戦争 ⇒ 南アの支配からの独立を目指してソ連、キューバの支援を受けたアンゴラ解放人民運動と、アメリカ、南アフリカ、中国の支援を受けた政府側の民族解放戦線との覇権争いだったが、88年米ソの歩み寄りでキューバのアンゴラ撤退とナミビア(南西アフリカ)の独立合意が成立、第三世界での冷戦対立の解消が頂点に達した

冷戦の終わり方を暗示するかのように、中米の内戦を最終的な解決へと導き始めたのは地域の国家集団によるイニシアチブだった

政治的な地勢の変化を最もよく象徴しているのが、南アのアパルトヘイト廃絶を求める国際キャンペーンの成功。長年にわたり米英は、南アの戦略的な重要性から、白人少数派の支配手段である露骨な人種主義への抗議の声を無視してきたが、80年代半ばまでに南アでの不正な統治への抗議活動はグローバルに拡散、国連も南アへの経済制裁と禁輸措置を要求、88年ロンドンにおけるネルソン・マンデラ70歳誕生日記念ポップ・コンサートはグローバルな興奮を巻き起こし、アパルトヘイト廃絶は冷戦の境界をまたぐ共通の課題と認められるようになっていた

冷戦によるイデオロギー的な分断が交代するとともに、ますます多くの集団が、宗教であれ、言語であれ、エスニックなものであれ、個人と集団のアイデンティティを無視してきた国家に対抗する行動を開始。人権活動家は普遍的な原則について語るだけだったのに対し、民族主義者や宗教活動家たちは彼等が帰属する共同体を代表して、彼等に深く根付いた権利と義務について語ったスペインのバスクやカタルーニャ、ソ連のバルト諸国のように、冷戦は彼等への抑圧を正当化する根拠になってきたが、冷戦は一種の非常事態

最も顕著な例はユーゴスラヴィア連邦共和国で、そこに生じた遠心力は、その後まもなく破滅的な結果をもたらす

左右のイデオロギー的な分断とは異なる新たな政治形態の出現という、大規模な変化が生じたのは中東で、イランのイスラム革命に刺激され、宗教的なアイデンティティと新たな政治的、原理主義的なコーランの解釈に基礎を置く新しい集団が生まれた。彼等はアメリカともソ連とも敵対

冷戦を終焉に導いた過程は、その起源と同様に多様で複雑。冷戦の終焉はあらゆる地域の人々に新たな機会をもたらす。人々がその機会を利用してより良い世界を生み出すこともあったが、それは冷戦の起源となり、終焉の地となったヨーロッパにとりわけ当てはまる

 

第22章     ヨーロッパの現実

89年にヨーロッパの冷戦が終焉したのは、東西関係が何年もかけてより緊密になったことで、双方が互いに抱いていた恐怖が減少したからであり、西欧側がその周縁に位置する国々をヨーロッパの共同体へと統合するのに成功してきたからでもある

改革のできなかった東欧諸国の共産党政権が国民による主権の行使によって崩壊するのをゴルバチョフは理解し放置した

レーガンほど任期中に自らの外交政策上の見解を変化させた大統領はウィルソン以外いない。退任演説の中でソ連はパートナーであると語る。経済を立て直し、核による破滅の脅威を除去した大統領として記憶されるだろう

西側ではゴルバチョフは英雄視されたが、後任のブッシュ大統領は伝統的な冷戦の戦士であり、「戦略的な小休止」として冷戦の終わりには懐疑的

ソ連側でも、国内経済は損なわれ、改革は進まず、ソ連や共産党支配への抗議の声が上がり始める。87年最初に動いたのがポーランド、次いでハンガリー

ベルリンの壁の偶発的な開放は文字通り、奇跡の年、89年に開かれた最大の突破口

ヨーロッパの冷戦の終焉は、何よりもまずドイツ問題を解決する機会が訪れたことを意味

想像以上の速度で再統一が進行したのは、東ドイツの経済崩壊と90年の東ドイツ総選挙がもたらした複合的な影響のためで、40%以上の人が東ドイツには政治基盤を持っていなかった西ドイツ首相コールが率いるキリスト教民主同盟に投票、再統一は自明の事実であり、ゴルバチョフは西ドイツがソ連に追加の経済支援を約束した見返りに、ドイツのNATO加盟に賛成したのみならず、1年以内の統一過程の完了にも同意

91年エリツィンのロシア共和国が、ゴルバチョフに立ち向かった守旧派によるクーデターを圧倒し、共産党を解散させ、ソ連を迂回する新たな主権国家共同体の設立に動く。ゴルバチョフも赤軍による武力行使は望まず、連邦に代わる何らかの形の国家連合を望み、エリツィンに後を託した

ソ連の解体は国際システムとしての冷戦の最後の痕跡を除去。70年代の半ばにグローバルな経済と政治が大きく変化し始めて以来ずっと、人間社会に対して冷戦が持つ支配的な力は衰え続けていた

新たな形のグローバルな相互作用が古いものに取って代わった

 

終章 冷戦が形成した世界

ソ連邦の崩壊で冷戦は終焉し、アメリカ一極支配となったが、アメリカのポスト冷戦勝利主義は、クリントン型のアメリカ式の資本主義的な繁栄と市場的な価値を強調するとともに、ブッシュ型の支配を強調する行動に出るが、何れも自己省察と具体的な論争のための機会が奪われ、冷戦後に必要な政策変更を実行するのは困難になった

冷戦後に生まれた神話は、レーガンによる軍備の増強と彼が示したソ連と積極的に対抗する姿勢が、アメリカに勝利をもたらした根源的な原因だと強調し、今後も将来の紛争との関連で用いられるに違いない

本書では、レーガン時代でさえも、長期的な同盟、技術的な進歩、経済の成長、交渉を求める意思こそが、より重要だったということを強調してきたが、アメリカが冷戦遂行の過程でせっかく得られた、より優れた教訓を、ポスト冷戦時代に果たすべき役割を把握する上で、十分活用できなかったのは明らか

アメリカはその力が縮小するのに合わせて、自らが長期的に実現したいと望む国際行動の諸原則に他者を結びつけるのを主な目標とすべきで、それこそが冷戦から得られた教訓だったが、それをする代わりアメリカが行ったのは、国境を遥かに離れた場所で無意味で不必要な戦争に従事し、短期的な安全保障を長期的な戦略目標と見誤り、絶対的な安全保障とせいぜいのところ一時凌ぎにしかならない安価な石油に執着することによって、特にアジアに関する限りはより大局的な観点を見逃すことになった。その結果アメリカは、将来の中国やインドの台頭や、西洋から東洋への経済力の移動、さらには気候変動や感染症といった構造的な試練に対して、本来できたはずの準備ができなくなってしまった

資本主義への経済的な移行がロシア人にとって破局的だったのは明らかであり、西側が冷戦後のロシアにもっとよい対応をすべきだったが、軍事的、経済的な統合の過程から排除されたロシアの人々には疎外感だけが残り、プーチンのようなロシア国内の頑迷な自国優先主義者たちの台頭を許す結果に繋がる。過去のロシアに降りかかった厄災は、ロシアの地位を低下させ、ロシアを孤立させるためにアメリカが仕組んだ計画の一部とみなす

プーチンの権威主義と好戦的な姿勢を支えてきたのは大衆による心からの支持で、ロシア人の大半は20世紀最良のロシアの指導者はブレジネフであり、それに続くのがレーニンとスターリンだと信じている。ゴルバチョフはこのリストの最下位

ロシア人以外の世界中の人々にとって、冷戦の終焉は疑いなく安堵をもたらした。核による絶滅という恐怖は去り、ヨーロッパと日本、中国は冷戦それ自体から多くのものを得た

冷戦という国際システムがヨーロッパに50年に及ぶ平和をもたらし、その平和に保護されることによって強靭な社会が育ち、その結果としてヨーロッパは驚くほどうまく冷戦後の変容に対処できたが、その変容のなかには東側の資本主義への移行とドイツの再統一が含まれる。日本も冷戦時代にもたらされた独特の国際経済上の優位を奪われたとはいえ、依然として1人当たりのGDPはアメリカより30%も高かった

中国は、彼等自身の必要とは殆ど無関係に、マルクス・レーニン主義独裁体制を押し付けられる羽目になり、冷戦初期には多数の悲惨な犠牲者を出したが、鄧小平の時代にはアメリカとの事実上の同盟関係から、安全保障と開発計画の双方で巨大な利益を得た。ソ連という超大国の存在の陰で得た恩恵であり、ソ連崩壊は中国にとって大きな衝撃

いま成立しつつある多極的な世界の中では、米中が最強の大国になるように思われるが、中露両国ともソ連とは異なり、孤立やグローバルな対立を追求しそうになく、対立や紛争、局地戦争は起こっても冷戦のような種類にものになることはない

冷戦の期間を通じて最も苦しめられたのは戦場となった地域。朝鮮半島、インドシナ、アフガニスタン、アフリカと中央アメリカの多くの地域が被害を受けた

かつてのマルクス主義者たちの多くが冷戦後の市場システムに容易に適応したのを見るにつけ、そもそも冷戦は回避可能な対立だったのではないかという疑問が生じる。明らかなのは、払われた犠牲に値する結果が得られなかったということ

かつての共産党の指導者の中にも、社会主義の根本が間違っていたという証言もあるが、第2次大戦後に生じた緊張の根底にあるイデオロギー的な対立は、分別ある考えの実現を極めて困難にした

冷戦が世界中の人々に影響を及ぼした最も重要な理由は、それが核による破壊の脅威を暗示していたからで、ゴルバチョフの世代が成し遂げた最も偉大な勝利は核戦争を回避したこと

指導者たちが地球の運命をかけてまで法外なリスクを冒そうとしたのか、なぜ多くの人々は彼等が探し求める全ての答えを与えてはくれないイデオロギーを信じたのか、その答えは冷戦時代の世界が今日と同様、明らかに多くの病弊を抱えていたことにあると考える

冷戦のイデオロギーは複雑な問題への即効性のある解決策を提示してくれたし、冷戦時代の普遍主義は、少なくともすべての人が約束された楽園に至ることが出来るかのように装っていた。冷戦の終焉後も変化することがなかったのは、国際関係の場での持てる者と持たざる者の対立で、それは宗教や民族運動の高揚によってさらに緊張の度を深め、共同体全体を破壊しかねない脅威となっている。彼等は、冷戦の普遍主義に縛られることなく、排外主義的か人種主義的であり、妥協を難しくしている

 

 

本書のアプローチ(と謝辞)

世界史とは常に、多くの人々の研究に依存しているがゆえに、黙示的にも明示的にも集合的な事業であり、そこでの個々人の貢献は多種多様な形の歴史記述を通じて達成することが出来る

世界史は、その従兄弟である国際関係史International Historyや国境を超えた歴史Trans-National Historyと同様、特有の意義を持つ。なぜならそれは、歴史家と読者が個々の国家や地域さえも超えた文脈に、ものごとを位置付けるのを可能にするから。それこそが著者が本書を通じて行おうと努めたことで、グローバルな冷戦の歴史を全ての大陸で幅広い時系列のなかで語り、様々な人々の集団がそれぞれどのように異なる形で、この対立を経験したかを明らかにすることである

 

監訳者あとがき

資本主義と社会主義の間のイデオロギー的対立としての冷戦の起源(序章、第1)に始まり、米ソの地政学的な対立、国際システムとしての冷戦の起源(2,3)、東西ヨーロッパとアジアでの冷戦体制の確立(49)、脱植民地化と冷戦の絡み合い(10)、冷戦最盛期の危機と地域紛争(11,12)、中南米、インド、中東での冷戦の展開とそれら地域の論理が冷戦に及ぼした影響(13,16,17)、デタントとその終焉(14,15,18)、グローバル化に伴うヨーロッパと世界の諸変化(1921)、東ヨーロッパの革命とソ連の崩壊による冷戦の終焉(22)、冷戦が及ぼした影響の意味の総括と冷戦後の世界への著者の見解(終章)

著者によれば、冷戦は直接的には4589年の資本主義と社会主義の間の衝突だが、起源はさらに遡り、最初のグローバルな資本主義の危機、ヨーロッパの労働運動の過激化、そして大陸横断型の帝国としてのアメリカとロシアの拡張がみられた1890年代に始まる

冷戦には国際システムとしての側面とイデオロギー的な対立としての側面の2つがあり、最盛期の40年代後半~80年代前半の間、米ソを中心とする二極的な国際システムを構築し、世界の主な国すべての外交政策は冷戦と何らかの関連を持ち、国内の言説の大半が冷戦に内包される対立的な思想や理念に支配された。このシステムとしての冷戦を形成する上で大きく影響したのが、米ソそれぞれが体現するイデオロギーの対立だった

90年代までに生じた急速な変化の結果、冷戦は国際システムとしてもイデオロギー的な対立としても時代遅れとなり終焉

冷戦は、アメリカの力が興隆し、凝固していく過程であり、冷戦終焉間際になって漸くアメリカのグローバルな覇権は安定し始める。同時に冷戦は、ソ連型の共産主義が敗北し、ヨーロッパ統合により制度化された民主的なコンセンサスがヨーロッパで勝利する過程でもあったが、20世紀後半の世界で支配的な争点ではあったが、唯一の争点ではないことに注意が必要。冷戦に由来せず、冷戦に支配されない、多くの重要な歴史的展開も同時に生じており、イデオロギー的な対立としても国際システムとしても、冷戦はより広範かつ深遠な経済と社会と政治の変化を通じてのみ把握できる

ナショナリズムの枠組みの中でも冷戦は機能しており、ナショナル・アイデンティティへの訴求は、米ソ双方が体現する普遍的なイデオロギーへの挑戦であり、冷戦的な二極システムに限界をもたらすものだった

以上が、本書の全体を貫く議論だが、本書の価値は視野の広さとその一貫性にある

既存の研究成果を広くかつゆして最大限の範囲をカバーしつつ、同時に1人の人間の手になる一貫した歴史記述として、多様な歴史的変化に万遍なく目配りし、相互の繋がりを途切れることなく辿りながら、その過程で冷戦が起こした変化、冷戦に生じた変化を明らかにし、読者が消化可能な1冊の書物とする

 

 

 

 

(書評)『冷戦 ワールド・ヒストリー』(上・下) O.A.ウェスタッド〈著〉

2020919 500分 朝日

 日本も含む世界的ドラマの総体

 冷戦とは、遠い過去の話だろうか。なるほど、199112月、大統領であったゴルバチョフの辞任により、ソビエト連邦は崩壊し、国家システムとしての冷戦は終焉した。それから30年近くが過ぎ、冷戦を体験的に知らない世代が増えたのは間違いない。しかしながら、その正負の遺産は残っており、日本も例外でないと著者はいう。

 「日本語版への序文」は、通常のこの種の文章と違い、読みでがある。長く続いた左右のイデオロギー対立はもちろんだが、日米同盟とその下での自民党優位の政治、そして冷戦に刺激された経済成長は、日本にとっての冷戦の産物であろう。それゆえに、日本経済は今日も冷戦終焉後の状況にうまく適応できずにいるし、アジアの近隣諸国との諸問題が未解決なのは負の遺産である。その意味で冷戦の克服は、日本にとっていまだ課題である。

 そもそも冷戦とは何であったのか。この問題を探るために、本書は1890年代の最初のグローバルな資本主義の危機に遡る。不安定化した世界にあって、市場、社会的流動性、変化を理念とする米国と、革命的な社会主義と合理的な計画経済を掲げるソ連が台頭する。冷戦とは二つの大国の、政治・軍事・経済のみならず理念の対立の時代であり、20世紀後半の新しいグローバルな資本主義によってアメリカの勝利に終わる。

 しかし、本書の魅力は、米ソの指導者やヨーロッパ諸国について分析するだけでなく、アジアやアフリカ、ラテンアメリカを含む、冷戦の真の「ワールド・ヒストリー」を目指している点である。地域によって状況は異なり、どこでも両大国の理念が貫かれたわけではない。各地域の軍事状況、民族主義のあり方、そして旧植民地帝国の解体の仕方によって、複雑なドラマが引き起こされる。その総体が冷戦であるということを、めくるめく本書の叙述を通じて読者は知るだろう。

 評・宇野重規(東京大学教授・政治思想史)

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 『冷戦 ワールド・ヒストリー』(上・下) O.A.ウェスタッド〈著〉 益田実監訳 山本健、小川浩之訳 岩波書店 各3740

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 Odd Arne Westad 60年、ノルウェー生まれ。米イェール大歴史学部教授。著書に『グローバル冷戦史』。

 

 

 

 

冷戦(上・下) OA・ウェスタッド著 複雑な歴史 活き活きと叙述

日本経済新聞 2020/9/5

冷戦の終焉から既に30年が経ち、万巻の書物がその通史や個別史を描いてきた。多角的で客観的なものも少なくない。だが、この複雑な歴史現象をある程度の分量でバランスよく綴ることは至難の業である。アメリカの歴史家ジョン・ギャディスらによる鋭い冷戦史研究もあるが、本書の著者はノルウェー人で、中国史を研究し、英米の大学で教鞭をとってきた。このことが本書を文字通りワールド・ヒストリーにしているといえよう。

原題=THE COLD WAR(益田実監訳、岩波書店・各3400円)
著者は60年ノルウェー生まれ。英ロンドン大教授などを経て、米エール大教授。邦訳書に『グローバル冷戦史』。
まず、本書は冷戦をロシア革命や第2次世界大戦末期からではなく、19世紀末のグローバル資本主義の危機から説き起こし、それに対する実験としてのソ連の崩壊に至る100年史として捉えている。つまり、グローバル化を縦軸として冷戦史を分析しているのである。しかも、横軸の幅も広い。冷戦の主役がアメリカとソ連であったことは言うまでもない。だからこそ、アメリカで優れた冷戦史研究が蓄積されてきた。だが、本書は中国やインドといったアジアの大国をはじめ、朝鮮半島、東南アジア、ラテン・アメリカ、アフリカ、そして中東と、世界中の冷戦の舞台を巡っている。

しかも、その地で冷戦に関わり犠牲になった人々を丹念に描き出している。例えば、エチオピア革命で失脚した皇帝ハイレ・セラシエは、獄中で殺され、宮殿の野外便所下に埋められたという。当事者だけではない。随所に挿入された著者の友人や知人たちの体験談も、本書を活き活きとしたものにしている。

当然、我々は現在の国際関係と重ねて、冷戦史を考えてしまう。中国とインドの対立は繰り返されるのか? 冷戦後に西側諸国がロシアにより包摂的であったなら、今日のロシア人の多くがレオニード・ブレジネフを20世紀最良の指導者とみなすようなことはなかったのか? 米中関係も米ロ関係も「冷戦のような種類のものになることはない」と著者は言うが、はたしてそうか? 原著が出版された2017年からわずか数年で、米中関係は大きく変化したのではないか? けだし「歴史とは過去と現在との活き活きとした対話」(EH・カー)である。

著者の言うように、日本は冷戦に大きく影響されてきた。しかし、本書での日本への言及はコンゴ以下である。冷戦史研究でも、日本からの知的発信が必要であろう。

《評》同志社大学教授 村田 晃嗣

 

 

 

(文化の扉)東西冷戦、「終結」30年 東アジア、米中「新冷戦」/ひとつの欧州、試練

2020727 500分 朝日

 かつて世界が東西両陣営に分かれ、にらみ合った時代があった。対立は政治や経済、科学技術、文化など各分野に及んだが、198912月の米ソ首脳会談で「終結」した。あれから30年。世界はどこに向かっているのだろうか。

 人類が全面核戦争の危機に直面したことがある。196210月のキューバ危機である。

 カリブ海に浮かぶ島国のキューバで革命が起き、61年に米国のすぐ近くで社会主義国が生まれた。ソ連がキューバミサイル基地の建設を図ったことで米ソの対立が深まった。ケネディ米大統領はテレビ演説でソ連を「平和と安全に対する明白な脅威。私たちが自由を捨てて服従する道を選ぶことはない」と批判。一触即発になった。最終的に米国の海上封鎖にソ連が譲歩し、ミサイルを撤去したことで衝突は回避された。『冷戦史』(同文舘出版)の編著者の一人、松岡完(ひろし)・筑波大学教授(米外交史)は「世界中の人たちが人類は滅亡するかもしれないという恐怖を感じた」と当時を振り返る。

 「冷たい戦争」(冷戦)は、第2次世界大戦末期から戦勝国の米英とソ連との間で起きた主導権争いがきっかけだった。ファシズムという共通の敵を失い、ソ連を中心に革命輸出を目指す社会主義諸国に対し、欧米諸国は自由民主主義を掲げ、軍事や経済面で結束した。世界は東西両陣営にブロック化し、核実験宇宙開発などで激しく争った。松岡さんは「米ソ間にはボヤを大火事にしない、対立を制御する意志が働いた。70年代に入ると米ソとも経済的に疲弊し、どちらが先に倒れるかの『自壊競争』になった」とみる。

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 冷戦は突然終わった。その理由について、下斗米伸夫・法政大学名誉教授(ソ連政治史)は「ゴルバチョフの改革(ペレストロイカ)は手遅れだった」と指摘する。「自国内の豊富な資源頼みで石油価格の低迷に悩まされたソ連の方が崩壊のスピードが速かった」。その後の世界は、民族・宗教紛争やテロが広がることになった。

 『冷戦文化論』(論創社)を書いた丸川哲史・明治大学教授(東アジア文化論)は、中国とソ連の対立が冷戦終結に与えた影響について考える。49年の新中国誕生後、悪化した中ソ関係に対し、敵対関係にあった米中両国は72年のニクソン大統領の電撃訪中で関係改善に向かう。「米国の対中接近戦略が70年代以降の国際情勢を規定した」

 いま、世界第2位の経済大国となった中国と米国との対立が深まり、「新冷戦」とも呼ばれる。東アジアの脱冷戦は可能なのか。丸川さんは「東アジアの冷戦対立は、日本に代わって植民地エリアに入ろうとした米国と、それを食い止めようとした革命中国がせめぎ合った歴史だった」とみる。日米協調下の日本も冷戦や新冷戦、脱冷戦の傍観者とは言えない環境にある。

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 東西ドイツの統一から間もなく30年。旧東独の生活や文化は「博物館の展示対象」となり、新首都のベルリンやライプチヒが、新たな発信地として注目される。近年、右派政党が、旧東独地域を中心に支持を集めている。柳原伸洋・東京女子大学准教授(ドイツ現代史)は「旧東独では、資本主義化に続いて大量の移民や難民の流入が、古き良き共同体や故郷喪失の危機感を高めているのでは」とみる。

 冷戦下で東西に分断された戦後の欧州は、2度の大戦の惨禍を教訓に地域統合を模索してきた。93年には欧州連合EU)が発足し、国境を超えた平和と繁栄を求める加盟国は最大28カ国まで増えた。だが、今年1月末に英国がEUを脱退。冷戦を克服した欧州統合の知恵は試練に直面している。(大内悟史)

 南北和平、日本の国益 政治学者・東京大名誉教授、姜尚中さん

 バブル経済下、平成改元とともにベルリンの壁崩壊を迎えた日本には欧米並みかそれ以上に多幸感がありました。でも、振り返ってみれば冷戦終結は、経済成長を続けてきた戦後日本が「成功の条件」を失う転機でした。

 東アジアには今も冷戦構造が残ります。ドイツなどとは違い、中国や北朝鮮ベトナムでは「熱い戦争」が起きました。単なる米ソの代理戦争にとどまらず、社会主義より民族主義、つまり政治的なイデオロギーよりも反植民地のナショナリズムが強い地域です。

 脱冷戦をどう実現するか。5月刊の『朝鮮半島と日本の未来』(集英社新書)に思いを込めました。1987年の韓国民主化と88年の盧泰愚(ノテウ)政権発足以来、30年余り。時間はかかっても対話は無駄ではなく、平和協定締結に向けて南北双方が歩み寄る「内側の一歩」は続いています。悲観せずに、統一へのプロセスとみるべきです。冷戦から利益を得てきた日本が、冷戦で犠牲を払った南北の和平を後押しし、米中「新冷戦」を防ぐ。日本の国益にもつながるはずです。

 <読む> 欧米は冷戦史への関心が高い。第一人者のO・A・ウェスタッド『冷戦 ワールド・ヒストリー』の翻訳(岩波書店)が7月に出た。松岡完ほか編著『冷戦史』は論点を網羅した入門書。東独・西独の工業製品を紹介する伸井太一『ニセドイツ』全3冊(社会評論社)も楽しい。

 

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