いま、解読する戦後ジャーナリズム秘史  柴山哲也  2020.10.15.

 

2020.10.15. いま、解読する戦後ジャーナリズム秘史

 

著者 柴山哲也 同志社大大学院文学研究科新聞学専攻中退。1970年朝日新聞入社、世界各地を取材。94年退職。イースト・ウェスト・センター、ハワイ大客員研究員、国際日本文化研究センター客員教員、京都女子大教授、立命館大客員教授などを経て、現在ジャーナリスト、メディア評論家。主著に『ヘミングウェイはなぜ死んだか』『真珠湾の真実』

 

発行日           2020.1.30. 初版第1刷発行

発行所           ミネルヴァ書房

 

今だから読み解ける、今だから開封できる事実がある。戦後の社会を動かす事件、そのジャーナリズム史はそのまま戦後史へとつながる。本書は、長年ジャーナリストとして事件に関わり、その内部を知った著者による戦後ジャーナリズム史である。事件の経緯、その内実を明かした後、その事件が如何に現代の社会に繋がっていくのかを読み解いていく。事件に向き合うことによって、新たな戦後史を提示する

 

序 戦後の「自由と民主主義」は進化したか

戦後70年過ぎて、戦後憲法の骨格である「言論の自由」と「民主主義」はどんな状況に置かれているか。戦後憲法の本質の「平和主義」「人権」等の憲法上の価値観は、どのような変質を遂げて今に至っているか。この問題意識のもとに、日本社会が戦後初めて憲法で100%の条文(ママ)を獲得し、「言論の自由」を行使して来たジャーナリズムの歴史を書きたいと考えた

70年の歴史を重ねたことで、本来なら言論の自由も民主主義もメディアもそれなりに成熟し、欧米諸国と肩を並べる程に進歩していなければならないが、そんな実感は持てない。むしろ戦後70年を経て、日本の言論の自由は劣化しているとの危機感を抱く

国連人権委員会は、「特定秘密保護法」や「共謀罪」の強行採決による立法に具体的な懸念を表明。国際ジャーナリズム機関「国境なき記者団」発表のメディアの自由国際ランキングでは、180か国中70位前後でうろうろしている。最高位は鳩山内閣当時の11

事件が示す時代のサインをジャーナリストは見逃すな ⇒ 70年三島由紀夫が憲法改正を唱えて自決した事件は、戦後日本の言論の自由に対する挑戦と思われた

戦後ジャーナリズムの中で起こった歴史的事件を取り上げ、それらが日本のジャーナリズムと言論の自由にどのような影響を与えたかを探る。過去の事件から、「今と未来の日本を解読する」試みでもある

ルソーが唱えた社会契約論の思想、自由と人権と民主主義の思想はフランス共和国憲法、アメリカ合衆国憲法に組み込まれているが、およそ世界の近代化した憲法はどこの国でもルソー的な人権思想と民主主義を掲げる

戦前の日本国憲法には言論の自由はなく、新聞には新聞紙法があって、新聞発行には政府の許認可が必要だったが、それでも個人としては欧米の言論の自由の価値を学問を通じて知り、自らこれを行使していた碩学の知識人はいて、「自由」の意味を知っていた

それでも、昭和のおぞましい大戦争の動きに抗することが出来ず、新聞は同調した

メディアが同調圧力に屈し、大学の学問的自由が抵抗力を失った時、我々には戻るべき居場所はなくなる。「言論自由の旋律」を勇気をもって奏で、追求していきたい

 

第1章      敗戦直後の日本の言論と新憲法発布

1.    GHQ占領下の言論表現の自由と検閲

戦後日本ジャーナリズム事件の最初の衝撃は、GHQ占領下において言論の自由を憲法で保障したこと。GHQ統治を批判する自由はなく、占領統治言論の特徴として、GHQによる検閲があったのは、同時矛盾であり、占領期の日本の言論と新聞が置かれた厳しい欺瞞

日本国憲法制定のプロセスに焦点を当てる ⇒ 本当に押し付けられた憲法なのか

GHQの一連の民主化政策の仕上げが新憲法発布

新憲法の理念には、日本の軍国主義の廃止だけでなく、ポツダム宣言、国連憲章、大西洋憲章など国際諸条約等の連合国の意思と理念が反映されていた。具体的には、GHQの統治の特色は天皇制の維持と、戦時中の大本営新聞を残してそのまま使う、旧体制温存の統治だった

「言論の自由と民主化」を日本人に教育しながら、その一方で、「占領統治に障碍のある問題の検閲」を行うという矛盾したもの。飴と鞭の言論政策

終戦直後、「言論及び新聞の自由に関する覚書」と「プレスコード」発令 ⇒ 新聞にはニュースのファクトに忠実であることを求め、センセーショナルな表現で国民を欺いたり、大本営のような虚偽報道をすることを禁じた

 

2.    「国民総懺悔」を誘導した新聞

「国体護持」へと国民の意識を誘導することが戦後日本の新聞の最大の目的で、指導者の戦争責任の追求より、敗れたのは国民11人であり、国民全体が反省し新しい日本のために尽力することが重要だという「国民総懺悔論」が新聞論調として溢れた

言論の自由について教育しながら、GHQを誹謗中傷する記事には目を光らせ、特に原爆被害報道と、占領軍兵士による婦女暴行事件報道には敏感で、1カ月もしないうちに両案件を報道した同盟通信に対し業務停止命令を出した ⇒ 同盟は解体、共同通信と時事通信に再編成

朝日も、米軍発表の日本軍によるフィリピンでの残虐行為は虚偽だとの記事を載せたり、原爆投下は国際法違反の戦争犯罪だという記事を掲げたりして、故意に占領軍を挑発したとして発行停止処分を受け、以後GHQとの妥協と協調路線に転向、「戦後民主主義の唱道者」になっていく

戦後半年して、米ソ冷戦の本格化に伴い、逆コースと呼ばれるGHQの政策転換により、戦犯を釈放してパージを解除、日本の保守層の人材温存を図る。戦争指導者の多くが無罪放免される「逆コース」の風潮の中、共産主義者や容共的なリベラリストがGHQの新しい標的となる

米ソ冷戦進行に伴う米国の反共世論とGHQの右旋回は、日本の戦後ジャーナリズムの左旋回に対してブレーキをかけ、新聞の自主規制を促す傾向に拍車をかけた

 

3.    原爆報道と新聞の「自主規制」

戦後の新聞に「自主規制」を迫ったものは原爆報道

検閲でチェックされた記事の中に原爆に関するものが無いのは、GHQが原爆報道に関し強い関心を持ちながら、関心を持つこと自体も含め核兵器に関する情報をアメリカがトップシークレットとしていたからで、同盟も朝日も発禁処分の理由として原爆報道については一言も触れていないが、日本の新聞界がそれとなく理解した

最初に広島の原爆の惨状を報道したのはロンドンの新聞に寄稿したオーストラリアの記者

 

4.    米ソ核戦略のトップシークレットと原爆投下

放射能被害の惨状を伝える記事はこれが最初で最後

GHQの検閲が公のものに限らず、同人誌から学校新聞レベルまであらゆる印刷刊行物に及んだ目的は、「原爆被害記述に関するチェック」で、膨大な発禁処分の証拠が残されている

 

5.    新憲法日本側草案の『毎日新聞』スクープ

毎日による新憲法原案スクープはマッカーサーの激怒を買ったが、正式な処分はなく、検閲も逃れていた。日本側原案とは、憲法問題調査委員会の松本烝治(憲法担当国務大臣)を中心とする東大法学部グループの学者や法曹界が中心になって作った原案で、明治憲法とほとんど変わらない内容だったため、マッカーサーが激怒して、急遽民生局に草案を起草させた

スクープの真相は謎だが、スクープによって日本側の意図が明るみに出た。新憲法の早期公布を要求したのは米国務省で、単独占領を考えた米国に対しスターリンが反対したため、GHQの上部組織として発足することになった極東委員会が稼働する前に、日本占領に必要な改革を米国主導で済ませることが最優先課題だった

GHQ草案にも多数の日本の民間や在野の憲法学者や法律家、教育者の意見が含まれているので、松本委員会案をGHQが拒否したからといって、一概に「押し付け憲法」という批判は当たらない

松本案を拒否し、GHQ案を日本側に手渡したホイットニー民生局長ら一行は、戸外で陽光を浴びながら、「原子力エネルギーの暖を取っている」といって、暗に受け入れを強制したという

「押し付け憲法論」を主張する江藤淳は、「憲法と安全保障が作る世界は二重の虚構に過ぎない。歴代内閣は、国際経済という現実の世界で成功を収め、沖縄返還や北方領土返還などに国家主権の発露を見出しているが、これは「交戦権」という国家の至高の権利を憲法によって否定されているからだ」とし、交戦権に拘る憲法改正論が伝統的な保守により共有される

 

6.    三笠宮の「戦争放棄支持」発言

466月の旧枢密院本会議の席上、昭和天皇が列席する中、三笠宮が、「米ソ冷戦の狭間にあって、中立の立場から和平の働きかけを行うべき」として新憲法の戦争放棄を積極的に支持しつつ、「マッカーサーの憲法という印象を受ける」といって採決は棄権

人民主権の言葉the peopleを「国民」と翻訳、日本国籍保持者に限定したり、「すべての個人の法の前の平等」や「人種、国籍の差別を明白に禁止する」文言も削除されたり、翻訳の改変を随所で行ったが、GHQはこれを黙認。「天皇」などの大きな問題を除けば、憲法の細部はGHQと日本政府、民間各層の日本人による合作ともいえる。シロタ女史はGHQ案にもなかった「女性参政権条項」を、世界で最も進んでいたスウェーデンを参考に挿入

9条の不戦条項は全人類の夢であり、日本国憲法に世界の理想が盛り込まれていたのは確か

 

第2章      憲法改正論の台頭

1.    10年後の「憲法9条」

日本で憲法改正論が台頭し、その主テーマが9条に絞られたのは、制定から約10年後

日本の論壇や表向きの憲法論では、「護憲」と「改憲」が二分する状況が作り出され、言論マーケットでは改憲か護憲か、革新か保守かという55年体制型の言論図式に寄りかかっており、図式に安住してどちらかの立場を踏むことにより、社論が硬直。こうしたメディア状況の中からは、国民にとって真に益となる憲法論議は生まれにくい

日本国民は、憲法の上に新しい自分自身の生き方と国家ビジョンを作り出していかなければならない。憲法に対する国民世論の形成をサポートし、リードするのが大新聞であり、ジャーナリズムの役割だが、日本の大新聞はそれぞれのマーケットの戦略や営業方針によって分割された言論市場に身を任している

新京都学派の哲学者上山春平教授は、回天魚雷で特高出撃したが機の故障で漁船に救助され九死に一生を得た体験を持つが、現行憲法を「押し付けられた憲法」ではあるが、最大の美点である「9条の不戦の誓い」は「戦後の国際連合の理念を取り込んだもので、2度の大戦を経験した世界諸国の共同意志として生まれた憲法で、旧来の至高権を主張した主権国家の理念に根本的な訂正を加えた人類最初の国際国家の制度化の試み」だと新憲法の世界史的意義を語る。同教授は、江藤淳が指摘する「交戦権」を国際組織に委ねた点で、戦後の日本を「半国家」と呼び、独り立ちした国民の手でもっと立派な憲法を作りたいが、保守政党の改正方向は不満足なホンヤク憲法よりもっと悪いので、改悪よりはやむを得ず護憲の立場だという

 

2.    憲法改正への動きが加速した平成時代

平成に入ると改憲の動きが加速。自民党の改憲案は、明治憲法回帰ともいわれる

04年、日本ペンクラブ会長の井上ひさしは、日本国憲法の骨格について講演し、憲法のコアである「主権在民」「基本的人権」「平和主義」は、日本国民が自らの意思で受容したものであり、押し付け憲法と考えてはいけないし、その原則を変更してはならないとした

A級戦犯処刑の翌日、岸信介のほか岸と人脈のあった児玉、笹川らの右翼の大立者も釈放、更には軍人の辻正信らも追放復活となったが、その裏にはGHQの右翼といわれた諜報局のウィロビーの貢献があったという

自民党の改憲草案では、「言論の自由」に対しても、「社会の安寧を乱さない限り」との限定条件が付いており、これでは明治憲法と変わらないし、人権規定もそっくり削除されている

現代の憲法改正の動きは、87年の憲法記念日の夜に起こった朝日新聞阪神支局襲撃事件を機に、闇の中の胎動を開始したと考えられる。言論表現に対するテロであり、思想的異論を潰すための無差別テロで、現代の改憲論が「反平和主義」志向の危険を孕んでいると懸念

 

3.    「憲法記念日」を狙った記者射殺の言論テロ

87年の朝日新聞阪神支局襲撃事件は、記者1人が死亡、1人が重傷を負う

日本の言論史上で新聞記者がテロで殺されたのは初めて

加害者は赤報隊を名乗るが、何者かは不明だが、犯行声明には「すべての朝日社員に死刑をいいわたし、天罰を加える。最後の1人が死ぬまで処刑活動を続ける」とあった

朝日は護憲派の先鋒であり、当時中曽根内閣が立法化を狙った「国家秘密法」「スパイ防止法」に反対、首相の靖国参拝反対の論陣を張る

犯人として疑わしき人物は多数いたが、特定には至らず、03年時効成立

77年、三島自決後に残された楯の会メンバーと野村秋介は経団連襲撃事件を起こす

93年、野村秋介は、彼を巡る『週刊朝日』の記事への抗議で、中江社長と面会中に短銃自決

事件から約20年後、右翼団体の機関誌に事件を肯定する署名記事を書いた人物がいる

18年放映のNHKスペシャル未解決事件《赤報隊事件》では、重要な捜査対象として浮上したある右翼団体の代表と、朝日社内の事件取材の特命班の記者が交わした会話があり、「立場の違いを認めず、考えの異なるものを射殺するという暴力は認められない」と追及

同年特命班は、『30年目の真実』を刊行、「刑事責任を問われることがなくなった今、名乗り出て事件の真相を明らかにすべき」と赤報隊に呼びかけた

12年、中曽根内閣の官房長官でイラン・イラク戦争への自衛隊掃海艇派遣に「閣僚としてサインしない」として反対、ストップさせた後藤田正晴は、世相が昭和一桁後半に似てきたと警告、言論を暴力で封じる動きに対して「用心せにゃならぬ時代に入ってきつつある。日本本来のあり方を見直せという声が出てきて、国民もその通りだという空気になりつつある」と表明

事件後、朝日には約300件の脅迫電話があり、脅迫状も多数送られてきた。中には、過去の気にくわない記事を理由に、相当の年配に達した学者とか医師などの知識階級の人物が、匿名性の陰からテロを肯定し、事件便乗犯として、脅迫事件を起こす卑劣さは記憶に留めておく必要がある

言論へのテロを隠れて企図する思想犯は、日本社会のどこに潜んでいるか分からず、警察の捜査にも新聞が総力を挙げて挑んだ犯人追跡の網にもかからない、残された無残な無力感とは何か

 

4.    改憲に否定的な米国の安保問題専門家

湾岸戦争の時は「Boots on the ground」といって自衛隊のへ㎜を強く求めてきたアメリカも、安全保障でタカ派と見られてきた人たちでさえ、日本の憲法改正には反対するようになったのは、現代の極めて日本主義的なナショナリズムと民主主義に逆行する改憲論を見兼ねてのことかもしれない。日本が国際システムを逸脱して自主防衛に走ることを警戒

現代の日本に必要なことは、国連の平和維持活動や環境問題、金融安定などへの力強い支援であり、国際的なリーダーシップ

 

第3章      ビキニ環礁で被曝した第五福竜丸

1.    日本人三度目の被曝

54年、讀賣が「日本人のマグロ船漁師がビキニ水爆事件で被災」をスクープ、世界を震撼

この事件を契機に、日本での原水爆禁止運動は加速して大きな社会運動になり、日本人の反米感情が高まる

アメリカ以外にも英仏が南太平洋海域で核実験を実施

日本漁船の被曝は、後に856隻と日本政府が発表している

 

2.    ビキニ環礁のあるマーシャル諸島取材の旅

南太平洋の島々には、いたるところに太平洋戦争の戦跡が残っていて、戦跡で地元の観光業が潤っている

 

3.    ブラボーショットで被曝した原住民たち

ビキニ環礁の水爆実験は、54年に1カ月半行われ、「ブラボーショット」という実験だったが、ビキニ環礁からロンゲラップ島へ移住させられた住民はじめ多くの被曝者が出ている

日本の委任統治領時代には自給自足体制が整っていたが、米軍基地や軍事的実験場とされてからは、アメリカからの援助金に縋り付くようになり、経済の土台を作ることが出来ないまま崩壊している

マーシャル島の海洋埋め立て計画では、ゴミ投棄が承認され、ヘドロの海と化している

先進国による原発廃棄物の投棄計画の対象にもなっていて、実験的投棄は既に開始

太平洋島嶼国が連帯して、核大国の実験や、日米欧先進国の原発ゴミ投棄に反対している

 

第4章      文化大革命の後遺症と闘った中国

1.    文革直後の荒廃と混乱、貧しかった北京と上海

共産圏では、党方針への批判の表現方法には暗黙のタブーがある

81年初の訪中の際、文革は終わっていたが、国家の統治機構が崩壊し、中国社会は内戦後のような混乱状態。そこからの驚異的発展の源は、文革の物心両面の廃墟の中から立ち上がったこと。日本の第2次大戦からの立ち直りと共通するものがある

文化大革命とは何だったのか? 革命の後退と資本主義への逆戻りを憂慮し、この反動の動きを阻止するために、地主階級を撲滅し、純粋な農民階級を基礎とする「大躍進運動」を掲げた

毛沢東は、スターリン主義のソ連共産党が指導する官僚独裁の計画経済を否定し、官僚制を排除、党幹部たちの既得権益や汚職を排除して、中国革命と経済建設を一挙に成し遂げようとしたが、経済の前に階級闘争の継続を主張して失敗し大きな飢餓が発生

 

2.    世界の若者に影響を与えた「造反有理」(反抗には理由がある)

文革は、日本でも6070年代にかけての大学紛争や全共闘運動に影響を与え、アメリカでも黒人解放・公民権運動に影響、フランスでもパリ5月革命に影響

 

3.    元紅衛兵だった作家の記録

紅衛兵は愛国の結実であり、1つの形。文革はすでに大爆発の潜在的条件を備えていた。文革によって官僚主義の一掃がおこなわれ、鄧小平の「改革開放」経済路線が姿を現すと、文革の地ならしの上に構築された今日の中国の巨大な姿が見えてくる

 

4.    日本の司法制度を導入した中国

党と人民公社による支配を法支配に切り替える社会運動の際、中国当局は日本の弁護士制度のノウハウに頼った

 

5.    中国の発展を支えた大学と人材と育成

歴史を振り返り、ことの善悪を判断する能力を磨き、反省すべきは率直に認めて反省し、言うべきことは言う。中国と付き合う姿勢と心の余裕が日本人に生まれた時、日本は再び中国と対等に付き合える国になるだろう

斬新な中国ビジネスのアイディアの展開を支えていたのは、中国の大学の知的生産時方法

中国の大学は国立の一流大学を除けば、政府からの援助資金は限られていて、各大学は自立更正を掲げて、研究実績をビジネスに結び付け、大学運営費を捻出する必要に迫られているので、日々安閑としていられず、絶えずイノベーションを起こして前進しなければならない

01年にはファーウェイも無名の通信機器の開発ソフトウェアの会社だったが、僅か20年弱で最先端のアメリカ企業と鎬を削るまでに成長

日本は世界と競争し闘える知的能力を身につけた若者を生み出すことが出来ないでいる。「日本の失われた20年」とは、高等教育の質を確保できなかったこととも関連している

 

6.    天津と北京で実感した中国の躍進

周恩来の出た天津の南開大学構内には周恩来記念館があり、「日本帝国主義下の中国」というコーナーがあって、日本軍による残虐行為の写真が展示されているのを見て、日本側の歴史修正主義の高まりと文化外交の怠慢に思いが及んだ

日本のマスコミは中国の反日運動のデモの盛り上がりを興味本位に伝えるが、反中国ムードを煽るような真似は慎むべき。戦前のような衝突がいつ起こっても不思議ではない火種は至る所にある。外交を疎かにして民衆の生の感情を刺激し合うのは国として愚かで危険な行為

 

第5章      ベトナム戦争がメディアを変えた

1.    新聞の金字塔、第四権力論の誕生

戦争の狂気がアメリカ社会に与えた後遺症は、ベトナム戦争の傷跡を描いた多くのアメリカ映画が物語る

64年、トンキン湾での北ベトナム軍の哨戒艇による米海軍駆逐艦への魚雷発射事件を口実に、ジョンソン大統領が北ベトナムへの報復爆撃を命令したのがベトナム戦の本格的始まりだったが、71年『ニューヨーク・タイムズ』が「ペンタゴン・ペーパーズ」をスクープしてトンキン湾事件はアメリカが仕組んだことを暴露

アメリカの自由と正義と安全が脅かされたと感じた時、アメリカ人は1つになる。リベラルで時として反米的と見られる『ニューヨーク・タイムズ』ですら、トンキン湾事件は「不吉な前兆。北ベトナムの共産主義者による暴挙の始まり」と書いた。後にでっち上げ事件であることが暴露

62年、ケネディ時代に「南ベトナム援助軍司令部」が設置された時、『ニューヨーク・タイムズ』からサイゴンに特派された記者がデイビッド・ハルバースタム。当初、「南ベトナムという国の実体に疑問を抱かず、アメリカの努力の妥当性を信じていた。我々の体制は優れており、我々の価値観は輸出可能であり、幸運に恵まれてうまく戦えば勝てる」と書いたが、間もなく出版された『泥沼の生成』では、戦争のエスカレーションへの悲観的かつ重大な疑念を表明、ベトナムへの介入戦争は失敗すると考えるようになる。フランスが植民地を守ろうとして始めたインドシナ戦争時代から成長してきたベトコンは、ベトナム国民の民族主義を掌握し、革命的な勢力として育ってきたという歴史に関する知識にアメリカ人は全く無知。彼の反戦への傾斜を決定的にしたのは、メコンデルタでへりから農民を射殺した現場を目撃した時

誹謗中傷や赤攻撃を受けながら、『ニューヨーク・タイムズ』はハルバースタムらの悲観的な記事を掲載し続け、やがてそれらの報道の事実がアメリカのニュースメディアに大きく影響を与える。アメリカの正義だと伝えていた新聞やテレビも徐々にベトナム戦争の不正義を伝えるようになり、テレビ映像は戦争で殺されるベトナム農民や女子供の生々しい姿を全米の茶の間に届けるようになる

67年、国防長官マクナマラは、膨大なベトナム戦争報告書の作成を命じ、後継者やアメリカ国民に対し、同じ過ちを繰り返さないために、過去の失敗に学ぼうと文書記録を残そうとした。これが「ペンタゴン・ペーパーズ」で68年末完成。サイゴンにもUPI記者として駐在していた『ニューヨーク・タイムズ』のニール・シーハンがこの文書をスクープして71年『ニューヨーク・タイムズ』に第1報が掲載され、トンキン湾事件のでっち上げが暴露され、戦争の間違いを国防総省が認めたことが明らかにされた。政権の中枢にあって政策を立案しながら疎外感と良心の呵責に苛まれたある大物のリークによるスクープだった。すぐに司法長官から2回目以降の掲載中止命令が出たが、最高裁が継続掲載を認め、全貌が明らかとなる

「プレスの自由」か「国家機密優先」かの判断を迫られた最高裁は、63で「修正憲法第1条のプレスの自由」を支持したが、その際『ニューヨーク・タイムズ』が創刊以来150数年の長きにわたって営々と築き上げてきた新聞の自由と信頼性の蓄積に負うところ大だったという

自由に取材紙報道できるメディアなしには、啓発された国民など存在しえない

戦争の現実を目の当たりにして、「ベトナムにはハトもタカもなかった」といい、「嘘についてばかり議論していた」という。ハルバースタムもシーハンも祖国アメリカ政府が国民についた嘘を問題視したのであって、反戦のイデオロギーではない

 

2.    「第四の権力」の形成とウォーターゲート事件

「ペンタゴン・ペーパーズ」がスクープされた時、『ニューヨーク・タイムズ』のソールズベリー記者は、「アメリカの権力構造が変わってしまうかもしれない」と書いた裏には、「第四の権力」として、3権に次ぐ新しい民主主義の監視とチェック機構が生まれてきたことへのジャーナリストとしての自覚が表れ、「第四の権力」としてのジャーナリズムの出現によって、米国民主主義の成熟への希望が込められていた

その翌年のウォーターゲート事件では、ソールズベリーの「大統領が倒れるかも知れない」との予感が的中。民主党全国委員会本部の押し込み強盗を、警察は単なる強盗事件として片付けようとしたが、多額の所持金と立派な身なりに不審を感じた『ワシントン・ポスト』の記者が根気良く追及した結果、全米メディアの支援も取り付け、議会による弾劾前のニクソンを辞任に追い込んだ

新聞がアメリカ国民をベトナム戦争の悪夢から覚まさせ、アメリカの民主主義を健全なものに甦らせた。新聞にとっては金字塔の時代となり、メディアは民主主義社会の基礎をなす3権を監視するウォッチドッグとして、新しい役割と政治、社会的な影響力を持つようになった

始まりはケネディ政権時のキューバ危機。『ニューヨーク・タイムズ』が、ソ連によるキューバでのミサイル基地建設をスクープしようとしたところ、ケネディ政権が差し止めを図るが、『ニューヨーク・タイムズ』は「記事掲載の是非、国益については新聞社が判断する」として大統領の求めには応じず、後にケネディは圧力によって言論を歪めようとしたことを間違いと認めて新聞社に対して謝罪した

 

3.    日本人ジャーナリストのベトナム戦争報道とその遺産

ベトナム戦争では、日本の第一線のジャーナリストたちも米記者に負けないほどの活躍をしていた。沢田教一はUPIのカメラマンとして戦場に赴き、日本人初のピュリッツァー賞を取ったが、その後カンボジア戦線取材中に消息を絶つ

朝日の本田勝一、石川文洋、秦正流、毎日の大森実、TBSの田英夫など、当初は比較的自由に動けたが、報道がアメリカ政府を刺激したこともあって、政府や自民党からクレームや圧力の嵐が始まる

アメリカの報道と違って、ベトコン解放戦線や北ベトアンム側の取材で優れた記事やルポが生まれただけに、アメリカ政府が日本のベトナム報道に怯んだ面もある

本田勝一が『朝日新聞』に連載したルポ『戦場の村』は、67年に書かれたもので、サイゴン特派員だった記者が、北まで入り込んだ生の記録で、殺される側のベトナム民衆への共感へと向かい、「侵略される側」から戦争の本質を描いて見せた

作家・開高健のルポは異質で、ベトナム少年兵銃殺シーンの描写に非難が集中、優柔不断な姿勢で戦場をうろついているというイメージで受け止められ、三島や吉本隆明らからも批判されたが、平和な日本から来た傍観者の自分の寄る辺のなさにおののく姿をさらけ出した

ベトナム戦争に独自の手法をもって、主体的に関わったジャーナリストや作家たちが輩出することで、日本のジャーナリズム界は豊かな遺産を残すことが出来た

67年正月、朝日新聞は「ベトナム和平と世界平和」を求めた年頭社説を掲載し、世界の有力紙に呼び掛け、イギリスの『ガーディアン』、アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』、フランスの『ル・モンド』、ソ連の『イズベスチャ』、インドの『タイムズ・オブ・インディア』などが応えて同趣旨の社説を掲載、日本の新聞が和平キャンペーンのリーダーシップを取った

 

第6章      外務省機密漏洩、西山事件が隠した沖縄基地の真実

1.    西山事件の発端

71年、毎日新聞政治部の西山記者が、外務省の女性職員(蓮見喜久子)を通じて沖縄返還にまつわる日米交渉の機密文書を入手、文書の一部が社会党の横道孝弘議員の国会質疑で持ち出されたことで、返還によってアメリカが日本に支払うべき軍事施設復元費用400万ドルを日本が肩代わりするという「密約」が暴露された

沖縄が無償ではなく、金で買い戻されるとなって、当時の佐藤政権が大きく揺さぶられたが、事件は政権の説明責任の追及には向かわず、機密漏洩の犯人捜しへと発展、女性職員が主犯、記者が共犯として逮捕・起訴

国会では、外務省アメリカ局長の吉野文六が、「調査する」と答弁するが、その後は沈黙を守り、30年後の06年『北海道新聞』のインタビューに答えて密約の存在を認めたにもかかわらず、自民党は歴代外相、官房長官が、「密約は存在しない」と答えてきた

2000年、米国で公開され公文書では、復元費用のほかにもVoice of America施設の国外移転費187百万ドルも日本側が提供することが密約に含まれており、元々返還協定で約束された対米支払い320百万ドル以外にも秘密裏に金が流れていたおそれがある

国会で秘密文書のコピーが公にされたため、取材源が露見、起訴状には「情を通じて」情報を入手したと下品な表現が使われた

当初、毎日新聞は「知る権利」を掲げて徹底抗戦すると宣言、他の大新聞も追随したが、蓮見・西山が秘密漏洩と教唆を認めて自首するに及んで、大新聞はスキャンダル報道へと傾斜し、ライバル紙を叩いて販売部数拡張のため西山批判に転じ、メディア間の連帯は生まれず。同時期ウォーターゲートでメディアの連帯を実現させたアメリカと好対照

それまでの朝毎体制から、朝読体制へと変化、日本のジャーナリズム全体の構造変化を起こさせ、メディアの保守化、右傾化をもたらす。毎日も西山を切り離し、西山も退職

 

2.    西山記者の私行にすり替えられた機密の中身

毎日は、西山の「情を通じた」取材行為は、「倫理違反の私行」として詫びたが、入手した国家機密の扱いについての判断はなく、沖縄返還の秘密条約は男女の性的スキャンダルに落とし込まれた

725月沖縄は本土復帰を果たし、佐藤内閣は総辞職、4選を狙った野望は潰えた。退陣表明の記者会見では、内閣記者会と衝突し、テレビだけ残して新聞記者を締め出した

スキャンダルを担ったのはテレビのワイドショーと週刊誌。特に週刊誌は、言論によるテロリズム効果と、その商業的な骨法を会得、大新聞が権力側への配慮のあまり腐敗と嘘を追及するジャーナリズムの力量を失いつつあるのに対し、「文春砲」「新潮砲」などと言われて政財界の腐敗と嘘を暴き続ける今日の週刊誌ジャーナリズムの成長へと繋がって行った

取材方法の是非は別にして、西山のスクープした秘密文書の意味した実態は、返還後の「思いやり予算」「基地の自由使用」「非核三原則の嘘と核兵器持ち込み、貯蔵問題」その他の米軍基地のあり方に直結する重大な影響を与えている。しかも真の問題点は、この秘密協定が沖縄住民にも本土の国民にもわからない場所で取引されたことにある。西山事件をきっかけに大新聞ジャーナリズムは社会の表舞台で生起している重大な問題への対応力を失い、政治権力への配慮を深めるメディアへと変質していった。そのターニングポイントとなる事件

1審判決で西山は無罪、蓮見は執行猶予付きの判決を受け入れ、それがまた蓮見への同情を集めた。蓮見は「騙された」と主張したが、十数回に亘り秘密文書のコピーを持ち出していた

同年暮れ、佐藤は「非核三原則」を目玉にしたのが評価されノーベル平和賞を受賞したが、「核抜き」は日本国民向けの宣伝で、アメリカに対しては密約で有事の持ち込みを約すというダブルスタンダードがわかっていたら、ノーベル賞はなかったろう

01年米国の公開公文書から、非核三原則が単なる建前だったことが判明、ノーベル賞委員会の1人は「佐藤のノーベル賞は、ノーベル賞委員会の最大の誤り」と語る

76年、高裁は西山を有罪とし、最高裁も上告を棄却。05年西山は「国家による情報隠蔽・操作」に対し国賠請求をするが、時効で却下、密約の存在については触れず仕舞い

08年学者らが、密約文書の公開を求めて外務省などに請求、地裁は密約の存在を認め、文書の開示を命じたが、外務省らは対象文書の「不存在」を理由に不開示を決定。判決も「文書が存在する限り」との付帯条件があり、原告側に存在証明義務がある

09年の民主党政権下でも、外務省に公開を命じたが、00年情報公開法施行の際、1200tもの沖縄関連機密文書を破棄したと言われ、「不存在」は覆らなかった

米国では25年後に公文書が全面公開されるため、後世に暴露され糾弾される。記録することが米国の政治文化だが、日本にはそうした政治風土が育たない

アメリカで公開されているので、密約の内容は分かっているが、問題はその密約文書を日本政府と外務省が認めないだけ。その上、日本がアメリカに非公開を要請しているケースもある

 

3.    沖縄人の心に届かなかった西山事件

03年沖縄に住む本土出身のジャーナリストが琉球朝日放送のテレビで西山事件のドキュメンタリーを作ったが、西山はその時初めて沖縄へ行っており、政治に翻弄されてきた沖縄の歴史と今に対する共感が事件当時どこまであったかは疑問、と同時に沖縄でも西山事件はほとんど知られていなかった

密約資料の出し方をもっと考えていたら展開は違っていたかもしれない。単なる「機密漏洩事件」に終わらせた政治家やジャーナリズムにも大きな責任がある

アメリカなら、ネタの取り方がどうあろうと、ネタの質で勝負できる。スクープはスクープであり、スクープした事実の価値は変わらない、というのが新聞記者の世界基準

アメリカのジャーナリズムは、「権力の嘘」を暴き、権力を監視するが、日本のジャーナリズムは戦前型の記者クラブを維持し、「大本営」としての権力の提灯を持つ習性が消えない

 

4.    翁長知事の遺志継いだ新知事の沖縄

75年、朝日が「30年目の戦後」という企画で、本土に復帰したばかりの沖縄の現実を書こうと、総論で復帰歓迎の論調が際立つ中、反復帰論を主張する『沖縄タイムス』のユニークな記者に会ったが、その記者は社長、会長を経て現在は引退。彼に今聞くと、当時西山事件に関心は全くなかったという

沖縄人は、自らを「ウチナンチュ」と言って、「ヤマトンチュ」の本土人と明確に区別、劣等意識ではなく、「沖縄人に固有で極めて特徴的な心理現象として歴史性をもって存在している」。たまたま国際法的に日本という主権国家に所属しているために「日本国籍人」であるという意識構造で、正常な日本人には理解に困る

琉球は江戸時代に薩摩藩によって侵略された歴史を踏まえ、日本総体が悪代官=抑圧者を指す「ヤマトンチュ」に抱合されてきた。明治の琉球処分でヤマトンチュによる筆舌に尽くせない圧政、収奪を受け続けた。その集大成こそ太平洋戦争末期の沖縄戦

大和が撃沈され敗戦が決定的になった段階でも、日本軍の作戦は沖縄を捨て、台湾強化方針に移り、地上戦を前に那覇は壊滅、県庁は普天間に避難したが、泉知事は本土に逃げ帰る。日本軍も行政も沖縄を見捨てた

『沖縄県史』の中にある『沖縄戦争記録』という沖縄人の戦争体験の惨劇を収録したものだが、未だに当時を思い出すと狂乱するしかないとして、証言できない人がいる

沖縄戦で「テンノウヘイカバンザイ」や「陛下の万歳と皇国の必勝を祈って笑って死のう」と言って自決していった沖縄人の生きざま=死にざまをどう考えたらよいか。大宅壮一は「動物的忠誠心」と呼んで揶揄。それを聞いた沖縄人の1人が憤激のあまり発狂したという

沖縄人に内在する思想観念は、「開かれた世界への渇望」に固着にあり、本土への楽土幻想を生み続けている

20年ほど前、日米地位協定に話が及んだ時、アメリカ側も地位協定がよくないことは認めるが、日本の司法制度が時代遅れのために、米兵が逮捕されると冤罪や人権侵害が起こり、却って問題が大きくなるというのが本音の話だった

 

5.    佐藤首相が約束した「核抜き本土並み」の実態

佐藤は沖縄返還を自分のライフワークのように語るが、これを米国側に持ち込んだのは実兄の岸で、アイゼンハワーと会見した時に持ち出した。米側は議会対策上、何等かの文書を必要とし、密約となって、米側に文書保存された

密約の中で最も重要なのは「核抜き」。69年発表のニクソン・佐藤共同声明の草案には、有事における核兵器の再持ち込みと通過に言及しており、「核抜き」とは一言も言っていない

核の持ち込みは事前協議の対象とされ、有事の際は米軍の核持ち込みに対し、日本政府は遅滞なく事前協議で「イエス」という密約

当時佐藤の特使として秘密交渉を遂行したのは政治学者の若泉敬で、94年『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を上梓し、交渉経緯を明らかにしている。交渉後学究生活に戻り、京産大で国際政治学の教鞭をとるが、当時の沖縄県知事に、「歴史に対して負っている私の重い結果責任を取り、国立戦没者墓苑で自裁する」と遺書を送ったが、一旦は思いとどまり、96年自宅で病没とされているが、実際には自殺、享年67。核抜きを実現できなかった責任感からか

西山と若泉、2人の知識人の壮絶な運命に対し、2人を巻き込んだ佐藤はノーベル賞を得て栄光の人生を全うする。2人の関与した沖縄返還の真実は未だに解明されていない

安全保障の基地負担を沖縄に押し付け、沖縄の反対運動には耳を貸さないという本土の政策に、沖縄県民の不満と差別感が助長され続けてきた

18年米軍元最高幹部は、軍事的には中国や北朝鮮ミサイルの射程に入る辺野古は基地としての安全性は低いが、基地予算が日本から支給されるから米軍は離れ難いと、本音を吐露

 

6.    辺野古移設、深まった琉球ナショナリズムと本土の闘い

辺野古を巡る本土政府と沖縄の闘いは、なる基地問題を超えて、本土と「琉球ナショナリズム」との闘いになっている

本土の米軍基地は最大時から94%縮小したが、沖縄の基地は沖縄戦直後の状態にある

 

第7章      まだ拉致問題が知られてなかった北朝鮮

1.    国交がない国、北朝鮮渡航専用パスポート

81年音楽・芸術交流事業に随行して訪朝した当時、まだ拉致は発覚していない

 

2.    横田めぐみさん似の少女の記憶

在日朝鮮人の北鮮への帰国運動は、50年代から84年まで続いた北朝鮮の国家事業で、約10万の在日朝鮮人と結婚した日本人妻たちが北鮮へと移住

横田めぐみさんが北鮮に拉致されたのは77

70年のよど号ハイジャック事件以降、旧社会党は朝鮮労働党との関係を深め、日教組もこれに合わせて北朝鮮との「連帯」を強調して度々訪朝団を派遣、90年には与野党議員グループが北鮮を訪問、抑留されていた第18富士山丸の船員問題を解決し、日本の植民地支配に対する「謝罪」表明で、日朝関係正常化の狙いがあったとされる。戦後初の外務省など政府関係者が北鮮入りし、政府間の正常化交渉に道を開こうとしていた

88年民社党の塚本三郎が初めて拉致問題を国会質問で取り上げ、真相究明を求め、梶山静六国家公安委員長も拉致の疑い濃厚との見解を示す

 

3.    小泉首相電撃訪問で金正日主席は拉致を認めた

97年になってようやく産経と『AERA』が横田めぐみさんが北朝鮮で生きていると、拉致報道の先陣を切り、国交回復を射程にしていた北朝鮮外交はゼロからの見直しを迫られる

02年の小泉首相訪朝で、金正日は拉致を認めたが、数人は既に死亡と発表され、日本人の反北朝鮮感情に火が付く

マスコミの対応が遅れた理由の1つは、韓国政治に問題山積だったことが挙げられる

北朝鮮社会に戦時下の日本統治下時代への怨恨が深く根を下ろしているのは明らかだが、拉致の背景は謎

 

4.    朝鮮半島第一次核危機の教訓

拉致問題解決の最も有効な手段は、北朝鮮政府内部の人権抑圧を告発する国際包囲網による国際世論の圧力を武器にすることで、国交回復とセットにしている間は解決できない

 

第8章      湾岸戦争からイラク戦争へ

1.    CNNを通じたアメリカの宣戦布告

テレビの戦争報道が与える社会的影響力の大きさは、ベトナム戦争から約20年後の湾岸戦争で証明

91年ジェームズ・ベイカー米国務長官は、開戦4日前にサウジの米軍基地で米軍兵士の前で、イラクに対する開戦予告を行い、CNNを通じてフセインはほぼ同時にこの場面を見ている

テレビのネットワークや電子ジャーナリズムが外交政策の主導権を握るかもしれないという懸念が現実化。”CNNカーブと呼ばれ、産地からの価値ある情報は、仲介者を通さず直接受け手へと届けられ、外交官は不要に

衛星放送時代の幕開けこそ、湾岸戦争がメディアに与えた役割。開戦を実況中継で伝えたのは、1人バグダッドに残ったCNNのアーネット記者であり、テレビは単なる報道の域を脱し、湾岸戦争の帰趨に一役も二役も影響を与えた

 

2.    メディアを使ったクリーンな戦争か

衛星によるメディア技術の発達と情報のグローバリゼーションは、国益がぶつかり合うはずの戦争の局面まで変えていく

ベトナム戦争が悲惨な戦争の実態を伝えたのに反して、湾岸戦争では逆に戦争の実態を隠すという皮肉な結果が生まれたが、これは電子化された第四の権力がもたらした負の側面

湾岸戦争はハイテク情報戦争となり、戦場の死や破壊や悲惨が見えないために、「クリーンな戦争」と言われ、戦争の実感は希薄になり、戦争の虚構化のイメージと映像を世界の茶の間に届け、戦争の実像をほとんど伝えなかった。これに対しては、「戦争のメディア化が虚構化を深めた」として湾岸戦争報道を批判する声がある

ジャーナリズムの役割は、自分が正しいと信じるファクト(事実)を世の中に伝えることで、事実には記者の価値観や良心の反映が含まれている

マスメディアは様々な立場と試行錯誤の中に投げ込まれながらも、やがては世論や公論をリードして世の流れを作ってゆく。ベルリンの壁崩壊から一連の東欧革命で果たした西側テレビの革命への影響力は、自由なマスメディアが世論を作る役割の重要性見直しのきっかけとなった。メディアの戦場では、正反対の報道が混在し矛盾しあい、統一性を失った混乱を作り出すこともあるが、それがマスメディア本来の姿でもある。そのような言論の闘いの場から生み出された公論や世論が錬磨され、より良い市民社会の世論が作られてゆく

 

3.    エンベッド取材で失われた戦場の真実

国防総省では、過去の経験から、記者に自由な取材をさせず、安全な取材及び記者と軍の一体感を醸成する「埋め込み型」(エンベッド)取材を考案したが、権力との蜜月を演出誘導されることで、監視の役割を削減された第四の権力が失ったものは大きい

テレビの映像の演出は、数々のフェイクニュースを作り出し、事実と嘘が判別し難くなり、戦場の事実が犠牲にされた。又ヤラセや情報操作の実験場にもなっている

96年中東初の自由なテレビとして誕生したカタールのアルジャジーラが、アフガン戦争以降、欧米メディアとは異なる独自の価値観や視点での戦争報道で大活躍。ビン・ラーディンの録画テープのスクープ映像は世界に衝撃を与える

アメリカ政府は、ビン・ラーディンの仕草の中にテロリストに対する指示が含まれている可能性があるということで、映像をそのまま流さないよう、3大テレビ局などに要請し、メディア側も戦時下の特殊事情を考慮してテープを編集して流したが、『ニューヨーク・タイムズ』は検閲に当たるとして反発、第四権力としての活字メディアの原則論と権威を見せつけようと、「国益を判断するのは政府だけに任された仕事ではなく、我々ジャーナリストの視点から国益を判断する。記事にするかしないかは自身で判断する」と論陣を張る

 

4.    テロ撲滅と言論の自由

言論の自由が進化したアメリカですら、テロ撲滅のためには言論の自由の制限もやむを得ないと、原則論の主張が難しい社会的背景が生まれていた中、『ニューヨーク・タイムズ』は言論機関の基本原則を貫くべきとの主張を敢えて掲げた

「『タイムズ』に載らないうちはニュースではない」とケネディに言わしめ、大統領自らが間違いを謝罪したその権威ある新聞社で、7つもピュリッツァーを取ったベテラン記者が記事捏造事件を起こす。あたかも現場に行ったかのようなインタビュー記事を書き、信頼度が急降下

情報革命の進化は、ジャーナリストの古い倫理観や使命感をどんどん飛び越えて腐蝕させていきかねない

監視機構の第四の権力として、マスメディアに対する広範な認知が生まれたのは、アメリカの新聞が戦争報道の苦難の中で作り上げたもの。戦争報道の本質には記録するジャーナリズムの真骨頂が詰まっている。誰かが戦場に出かけて戦争の実態を見なければ話にならない

 

5.    イラク戦争、経験の蓄積がなかった日本の戦争報道

イラク戦争で米軍は、西側同盟国記者たちに従軍取材をエンベッド方式で許可、日本人記者も参加したが、日本の新聞社には戦場取材経験にある記者はいなかった。戦場で拾った爆弾を持ち歩き空港で爆発し死傷者を出す不祥事を引き起こす

開戦前にバグダッドのプレスセンターが閉鎖された際も、日本の大手メディアは全面撤退し、後はフリーランスのレポートに依存。メディアはフリーランスの命を金で買っているだけ

戦争報道に限らず、日本のメディアを諸外国のメディアと比較する時、異質な部分が目に付く。ペンタゴン・ペーパーズやウォーターゲート事件報道のような際立った調査報道の例が、日本の大手メディアの仕事にはほとんどない

ロッキード事件やオウム事件にしても、嘘や腐敗を暴き社会に重大な影響を与えた事件解明は、大手メディアではなくフリーランスのジャーナリストの地道な仕事の結果であり、日本のメディア界の常識でもある

重要な問題であるほど報道しにくい、という日本の記者クラブ依存体質のマイナス面を抜本的に改革する必要がある。安部政権下で起こった言論機関への抑圧は、戦後日本が享受してきた「言論の自由」が水泡に帰す現実の危惧の到来を物語る。戦後の平和憲法体制と平和主義を見直す安保関連の立法措置が「有事立法」として実現しているが、メディアの役割を抜きに「有事」を語ることは出来ない。メディア自身の「有事」が捉えられていない。有事の報道システムを考えるのは、ひとえに言論機関やメディアの責任であり、有事立法の問題点を報道しながら、有事に際して自らの行うべき報道の仕組みをどう構築するのかという重要課題は忘却されている

「紛争下にある国々の現場にジャーナリストがいなくては、世論は偏った情報に頼らなくてはいけなくなる」という「国境なき記者団」の批判に対し、日本のメディアは答えようがない

 

第9章      細川政権誕生時の椿事件が語るテレビへの圧力

1.    『産経新聞』がスクープした「椿事件」の真相

93年戦後初の与野党の政権交代劇で主導権を握ったメディアは新聞よりテレビ。自民党は「10チャンネル、6チャンネルに負けた」と主張したが、当時のテレビ朝日の報道局長・椿貞良が、「非自民党政権が望ましいと考えて報道した」と語り、不偏不党の放送法を逸脱したものとして産経がスクープ

椿は国会に喚問され、舌禍を陳謝、報道自体はあくまで公正と主張したが、結果的に「公平」を損なう偏向報道を行ったことを認める。郵政省も厳重注意の行政指導を行い、98年の免許更新の際は、公平性に細心の注意を払うとの条件が付けられた

この事件を契機に、NHKと民放連は共同で、放送倫理・番組向上機構BPOを設立

当時メディアの雄は有力全国紙と見られ、新聞は概ね不偏不党の編集方針を掲げて偏向報道を否定していたが、産経だけはすでに偏向報道を是とする「主張する新聞」へと編集方針を変更。その産経がテレビ報道の偏向を告発し、新聞協会賞まで贈られているのは皮肉。しかも、受賞が有力視されていた朝日のリクルート事件報道を押しのけての受賞だったこともまたエポックメーキングな事件

 

2.    放送の自由と政治権力のバランスが崩れる

メディアへの政府の圧力問題は、60年代ベトナム戦争報道に関しアメリカの圧力を受けた自民党広報委員会が「ブラックリスト」を作り、人気キャスターだった古谷剛正、田英夫、藤原弘達乱番組を「偏向報道」としたことはあるが、関係者の国会喚問までには至らず

大新聞には不偏不党の社是があるが、テレビの本質は事実性より、面白い絵と視聴率を求めるもので、どこまで公平性が絶対的なものとして認識されているか疑問であり、新聞人から見たテレビは、ジャーナリズムから逸脱したメディアに見えていた

椿は、半ば確信犯的に走ったのは事実だが、彼の意図通りにテレビ朝日の報道が動いたという客観的な証拠はどこにもみつからない

面白い絵と視聴率への渇望、好奇心といったテレビの本能がテレビ・ジャーナリズムの本質を支えている。テレビ界出身の新しいタレント政治家が生まれ、政治の流れもテレビの影響力の中で捉えられるようになる。テレビという魔物に怯えた政治家や権力保持者の魔女狩りが椿の国会喚問だったと言えなくもない

政治改革を求める世論が強まるにつれ、自民党政府からの報道への圧力が頻繁に起こるようになった

03年民主党シャドウ内閣事件では、テレビ朝日のニュースステーションが「民主党菅直人の政権構想を過度に好意的に報道した」として自民党安部幹事長が抗議し、自民党議員のテレビ朝日への出演拒否を決定。04年の参院選選挙報道でもテレビ朝日に文書で抗議と相次ぐ

政治とテレビの緊張関係の根源に存在するのは放送法の「公平の原則」だが、「公平性」を判断するのが政府や権力側になっているところに問題

「言論の自由」とマッチしているのかも問題

国が電波行政を握り、放送の中身を支配しているのは、社会主義独裁国や軍事独裁国の国営放送

政権側は総務省を通じて電波の許認可権を握り、放送法を盾に電波取り消しを匂わせて圧力をかけることができるし、NHKは年度予算の国会承認が必要 ⇒ 現行の放送システムの下では、放送の自由を守るには政府権力側の配慮こそ不可欠で、日本の報道システムには「報道の自由」を守るうえで大きな欠陥があると言わざるを得ない

権力者が近代国家の憲法に無知で、言論の自由の歴史的意味を理解できなければ、民主主義や言論の自由を守ることは出来ない。自由な市民社会である欧米の国々では言論の自由がどのような苦節を経て近代憲法に書き込まれてきたかを、日本の為政者はもっと学ばなければならない

16年、安部政権下で高市総務大臣が放送法の公平原則に違反したテレビ局に対する停波に言及した時、田原総一朗氏ら7人の言論人が抗議声明を出し、政権に対して批判的を見られていた岸井成格、国谷裕子、古館伊知郎、小川彩佳などの有名キャスターが次々に降板、メディアと政権間の確執や圧力の存在が報道界の問題となった

 

3.    メディアのクロスオーナーシップの規制

活字メディアの新聞は、理性的に事実を伝え、分析批判するジャーナリズム能力は、テレビより優れているし、監督官庁もない。戦前の反省を踏まえ、GHQによって新聞は政府からの自由を保障されたが、日本のマスメディア界には、新聞社が民放のオーナーとなり系列化するクロスオーナーシップという独特のシステムがある。人事からニュースの系列化、報道の一元化に及ぶため、欧米では規制ないし禁止されている。欧米では経営者が編集権にはタッチできない仕組みが確立。報道の自由と民主化、多様化こそは、経済発展とともに先進国の条件

メディアの幹部らが首相と会食することなど欧米では考えられないし、官房機密費がメディア関係者に流れているのは、記者に対する賄賂に当たる。アメリカの記者の取材先との癒着への警戒感は半端ではない。その上に立って初めて、政権に対する遠慮のない報道が出来る

ウォーターゲート事件の時のみならず、トランプ大統領の相次ぐメディア攻撃に対しても、全米約400の新聞社が一斉に大統領非難の社説を掲げ、報道の自由への連帯感を示した

18年最高裁は、NHKの料金徴収に対し合法の判決を出し、その前提として「放送の自由と国家などの権力機構からの独立」を掲げた。NHKは国営放送ではなく、BBCと同じ公共放送だから、これを支えるのは国民の義務という理屈だった。判決に従い、NHKは国民の知る権利に十分応え、政府や他の権力からも自由な報道を行う義務がある

 

4.    電波制度改革への諸課題

ヒトラーが台頭した30年代、アメリカで考えられたのが独立行政法人FCC(連邦通信委員会)制度で、電波監理を政府から切り離した。政府もFCCに圧力をかけたり介入は出来ない

メディア独占に繋がるクロスオーナーシップの廃止と、日本版FCCの創設が喫緊の課題

テレビ電波は国民共有の幽玄の公共財であり、電波の配分や監視を国家直属機関が行えば、政権党による政治圧力によって報道の独立性に歪みが起こり得る

民主党政権下で、電波免許のオークション制や日本版FCC創設の法案が提出されたが、既得権益を守ろうとするメディア側の反対もあって実現せず、文明の進歩に逆行

 

第10章   オウム真理教と松本サリン事件

1.    マスコミが作り出した「河野氏犯人説」

松本市でのオウム真理教支部道場建設を巡る住民訴訟で、敗訴の可能性のあった教団が、94年裁判官の殺害を期して官舎めがけてサリンを撒いた事件で、周辺住民8人が死亡、約600人の重軽傷者を出す

付近の住民で、妻が後に死去した第1通報者の河野氏が、当時庭で農薬の調合を行っていたことから、警察とマスコミが連携して河野犯人説に飛びついた。1年後の地下鉄サリン事件で漸く真犯人が判明。日本のメディアが警察発表の根拠を検証もなしに垂れ流し、マスコミが冤罪を作る構造が露わとなった。自白重視の取り調べとマスコミの合作で冤罪を作る司法は、人質司法と言われ、欧米先進国では非近代的な司法と批判される

初歩的な科学の知識もないマスコミの姿勢は、9か月後の東京での悲惨な事件の導火線になったともいえなくもない

 

2.    TBSは今日、死んだに等しいと思います」

89TBSワイドショー「3時に会いましょう」のスタッフが、坂本堤弁護士がオウム真理教を批判した放映前のインタビューテープをオウム側に事前に見せ、その後坂本弁護士一家がオウムに拉致され、殺害される事件が発生。TBSは見せたことを否認したが、6年後のサリン事件の強制捜査で事実だったことが判明、TBSは初めて事実と認め謝罪、「NEWS23」の筑紫哲也キャスターは、「TBSは今日死んだに等しい。今日の午後までこの番組を今日限りでやめる決心でいた」と番組の冒頭で語る

松本サリン事件がオウム真理教によるものだと暴いたのは『週刊文春』だが、その原因となった怪文書は、早くからオウムを内偵していた公安当局が、マスコミ報道を軌道修正させるために流したとまで言われた

サリン事件の数年後に起こった和歌山毒入りカレー事件では、混入毒物が青酸カリだと警察も医療関係者も推定し、マスコミもそのように報道し、そうした流れができると異説を唱えることが難しくなるのはサリン事件と同様だったが、1人の女子中学生が被害者の容態についてネットを駆使して調査した結果、別種の薬物ではないかと考え、『文藝春秋』に論文が掲載され、「ヒ素」と修正された。『天声人語』は彼女を称讃し、「初期のうちに原因がヒ素であると見破ることは十分可能だったにもかかわらず、警察もマスコミも責任を果たしていない」と非難したが、新聞人としての反省をすべき

 

3.    アトランタ五輪公園の爆破事件

96年アトランタの五輪公園の屋外コンサートで爆破事件発生、傍らにいたガードマンが犯人と目され、マスコミが犯人説を流し続け、危うく冤罪になるところだったが、メディアが作り上げた冤罪報道という点では日米ともに同じだが、ユタの地方新聞が独自の調査報道に基づく反論記事を掲げていた。メディア全体が一色にはならない点が日米での顕著な違い

日本の記者クラブ制度は、「メディア・スクラム」とも呼ばれ、官製情報の独占を図る情報カルテルとして、その弊害がつとに指摘されてきたが、ニュースの質の自由な競争がない最大の原因であり、強い発信力を持ち、他者を排除するだけでなく、身内の社内の言論の自由まで奪う結果を招いている

冤罪を免れたガードマンは、大手メディアを名誉棄損で片っ端から訴え莫大な賠償金を獲得したというが、日本では賠償金が格段に安く、有名人のスキャンダルは書き得で、週刊誌は売れ、視聴率は上がる。逆に「スラップ訴訟」で内部告発した弱小メディアやフリーランスの記者が多額の損害賠償請求を起こされ、脅されることがある

事件の裁判で最も問題なのは控訴審を打ち切ってしまったことで、首謀者の考えを聞き出さないまま死刑にしてしまい、再発防止の手立てを打ちようがない。死刑は究極の終わりを意味する報復の概念ではない。恐ろしいオウム事件の風化を防ぎ、再発を防止し、語り継ぐのは国の役割だと思う

 

第11章   阪神・淡路大震災から東日本大震災へ

1.    阪神・淡路大震災の報道

阪神・淡路大震災は震度7、被災者43,792人、死者は6,343

すべての国民がリアルタイムのテレビ映像で災害の現実を見ていたし、黎明期とはいえ電子ネットワークで迅速な危機管理やボランティアなどの情報が発信され、被災地住民に情報がもたらされたが、村山内閣が情報をキャッチしたのは世界よりかなり遅れ、従って自衛隊出動が遅れ、救済が遅れた

事実を報道するのはジャーナリズムの役割だが、報道にはヒューマニズムが欠如していた

テレビ報道は、被災地の人々の実感から離れて、絵になる映像を追い求めていた

 

2.    東日本大震災、100年ごとに襲ってくる大津波

死者15,896人、行方不明2,536(7年後現在)

被災地を見ると、阪神・淡路大震災の時の教訓が生かされていない

連日のマスコミ報道が被災者救出に役立つことはほとんどなかった

ネット社会に移行していたが、ネットから発信されるデマは役に立つどころか、パニックを増幅する結果も生んだ

原発事故の同時発生で、政府の対応も緩慢、思考停止とパニックに陥っていたし、東電がマルトダウンを認めたのは事故後2か月たってから。事実が官邸に届かないために、根拠のない安全性の協調がなされたのは大本営発表と何ら変わらず、官邸と記者クラブメディアのいつもの共犯関係・不健全な癒着関係に終始し、情報隠蔽を見抜けなかった

そんな中、地元の『石巻日日新聞』が震災翌日に手書きの新聞を発行して、海外で話題になる

 

3.    死への直面を避ける日本の報道

取材現場のタブーの1つが、遺体をどう表現するか。日本のマスコミは遺体を避ける。特に現代の新聞やテレビには死生観の報道を避ける文化がある

70年の三島自決事件が契機。刎ねられた首が転がる写真が残酷すぎるとすぐに差し替えられて以来、新聞からは意図的に遺体の写真が消えた ⇒ 都合の悪い事実を消す日本のマスコミ特有のモザイク文かの始まり

災害のむごたらしい現実を被災地から離れた国民にも知らせるのがジャーナリズムのやるべき仕事の1つであり、災害の事実を正確に伝えることで、次の大災害に対する教訓が生まれ、失敗を繰り返さない英知が生まれる。理性的に伝えないと報道が嘘っぽくなる

ニュースの衝撃に驚くだけでなく、凄惨な現実を切り取った写真に見合った人間の悲劇をどう表現するかが、本当のジャーナリストの仕事であり、個人としての人間の姿を見つめるヒューマニズムが欠如した無感覚、無感動は取材を続けているうちに、記者たちは伝えるべき事実の重みを見失う

嘘をつくのが常態となった日本の記者クラブの新聞記者たちは、真実に触れると逆上する。それが「言葉狩り」を生んで、発言者を集団で叩く、差別用語を糾弾するのと同様、瞬間的でヒステリックな反射運動を起こす。差別用語にしても、言葉を言い換えて安心して内実の差別感を温存したまま、タブーに踏み込まずして、果たしてジャーナリストは真実を語ることが出来るのか。言葉には人の五感を揺さぶる情念、言霊が籠っている。報道には記者の魂が必要

 

4.    大災害が生んだ新しいメディアとSNS

東日本大震災では、当初からSNSやインターネットが活躍したが、中でも災害情報を個人レベルで送受信できるツイッターの活躍が目覚ましかった。東電や政府が事故の深刻さを隠蔽して正確な事実を発表せず、マスコミも大本営化したので、事故の実態が国民に伝わらない中ツイッターは草の根の報道メディアとなり社会的影響力を持ちつつ成長

SNSという強力な電子発信ツールを得て、安否情報の確認のメディアとなる

 

5.    阪神・淡路大震災から何が変わったか

国民あっての国なのだから、国民の苦しみを救えない国家は存在する意義はない。被災地を救うのは近代国家の役割であり義務

3.11で日本は変わった。終戦時の経験が蘇った

東電、政府、政治家、御用学者、マスコミが一体となって放射能安全神話を強調するなかで、これに反発する国民大衆は本能的な自己防衛のため、線量計を購入したり、ツイッターやネットで情報交換する新しい情報文化を作り上げていった

政府と国民の間の不信感の広がりは、政府の嘘を見破り原発事故の恐怖の真実を見たから

原発破綻の原因は自閉した原子力ムラの構造の中にある

 

6.    マスコミを動員した原発導入と安全神話の形成

原子力平和利用キャンペーンの先陣を切ったのは、「野獣も飼いならせば家畜となる」と謳った讀賣。米国がレッドパージを進める一方で、ビキニ環礁事件で原水爆禁止を求める反米感情を沈め、原爆へのアレルギーを緩和する「心理作戦」の一環として原子力の平和利用である原発の日本への導入を画策していたが、その水先案内人となったのが新聞人の正力松太郎

戦時中の日本の新聞が果たした大本営の国民洗脳能力に注目していたアメリカは、報道によって嘘を真実に変える新聞の力を利用

高度成長とともに批判意見は少なくなり、石油エネルギー資源のない日本は原発に頼らざるを得ないという世論が多数を占めるようになる。批判の急先鋒だった朝日でも、紙面から反対論が消えた

原発事故は公表されず、過疎地に莫大な協力金がばらまかれ反対意見を駆逐する、大学の研究にも原発マネーが投入され、マスコミにも東電マネーは流れた

 

7.    世界最大の原発事故と国際的認識の欠如

あらゆる情報が瞬時に世界を駆け巡り、いくら隠蔽しても必ずばれて増幅されて伝えられるということに、日本の原子力関係者や政府はあまりにも無知

被災地から一斉に非難し、御用情報に頼った日本のマスコミに対し、現場の生の情報を伝えたのは、外国人記者たち

仏『ル・モンド』は、「安全神話は潰えた」と報道

『ニューヨーク・タイムズ』は、「政府と官僚は福島の事実を知らなかったか隠蔽した。安全神話が日本に核危機をもたらしている」

パニックを恐れた日本政府やマスコミによる事故の矮小化や過小評価報道を修正する手掛かりは、外国のメディアから得ることが出来た

『ロイター』は、東電が繰り返し言及した「想定外の津波」という弁明が嘘であることを暴く

03TBSテレビ「筑紫哲也ニュース23」の「内部告発」というシリーズ番組で、福島第一原発の危険性について放映。装置の欠陥、不備が内部告発されたが、その部分は録画も含め削除され、日系米国人技術者は解雇され、その訴えに基づいて原発阻止に動いた福島県知事は、収賄容疑で逮捕、原発ストップの流れは消された

燃料棒冷却のために、崩れ落ちた建屋の上空から自衛隊機で水を撒いたり、石原都知事が東京の消防決死隊を派遣して海水を撒いたのを見て、世界の原子力関係者は大笑い

日本政府の対応に苛立った世界の原子力関係者は、国際社会が代わって事故を収束させるべきと主張、たとえ日本の主権を侵害したとしても仕方がないとまで言った

哲学者・梅原猛は、この大災害を「文明災」と命名、物質文明が高度に発達した結果、人類の手が及ばないほどに危険な原子力災害が発生したという意味。「技術が進歩すれば自然は奴隷の如く利用できるという近代哲学が問われている」と訴える

 

第12章   小泉ポピュリズム政治の誕生

1.    政治記者からテレビの茶の間の話題へ

日本でテレビの影響力が政治中枢で本格的になったのは、01年党内で泡沫候補と言われた小泉がテレビへの露出戦略によって総裁選に勝利した辺りから

「テレポリティックス」(テレビ政治)と命名され、大衆迎合のポピュリズムに近い

当時すでに、世の中の出来事や動きを知るメディアとして、テレビが65%、新聞が24%となっており、テレビの影響力は確実に高まっている

 

2.    テレビはジャーナリズムか

現代のテレビニュースの作り方は、大衆迎合のポピュリズムを煽ることで成立している

従来視聴率と結びつくことは考えられなかった国会中継が、視聴率を稼ぐ番組の1つになりかけているのも、政治ニュースのショーアップ化のなせる業

 

3.    欧米のジャーナリズム研究・教育レベルと日本の格差

活字とは異なるテレビの公共性とは何か、テレビ的公共圏(「公共圏」とはメディアが働く場の意)のありかを本格的に議論する必要があるが、日本ではテレビの影響力は新聞より大きいにもかかわらず、大学の研究レベルにおけるテレビは、ジャーナリズムとしての認知が遅れている。ジャーナリズム教育の専門学部を持つ国立大学はない

テレビにジャーナリズムとしての認識と価値を与え、正当に位置づける作業は乏しいのみならず、テレビ現場でも視聴率優先で娯楽性や面白さを追求し、面倒なジャーナリズムとしてのテレビ論には否定的考えがある。テレビ・ジャーナリズムの社会的役割と影響をアカデミックなレベルで分析して理論化し、適正な社会的位置付けを行うことが緊急の課題で、そうした研究成果をもとに、公共財の電波の責任感をテレビ側に戻す必要がある。それが民主主義先進国のテレビ文化に対する態度だ

新聞社のような独立性に乏しい日本のテレビ業界は、大衆の耳目を引くニュースや情報を集め、結果的に権力との衝突やジャーナリズムとしての新聞との競合を避けて来たと思われる

小泉政権を「ワイドショー内閣」と揶揄的に片付ける風潮の傍ら、内閣支持率が8090%という驚異的な数字を示し、ファシズムの危険を指摘する声が識者たちから出てきたが、一方でマクルーハンは、テレビが普及したらヒトラーはすぐに消えていただろうという。マッカーシーを政治の表舞台から失脚させたのはテレビで、活字や声でしかマッカーシーを知らなかった大衆は、人相の悪い彼が陰険に犠牲者を追い詰めるのを見て、その支持を取り下げた

テレビメディアの特性は、活字的な権威を崩して戯画化することには向いていても、ファシズムのような権威主義的な政治体制を作るのには向いていない

日本のテレビを考える上で注意すべきは、テレビメディアの量的な影響力に目を奪われるあまり、活字メディアに比べて質的なレベルにおいても過小評価してはならないこと。ワイドショーは物言わぬ大衆の中にあるフラストレーションや欲望の琴線に触れ、変革への渇望を伝えていたのかもしれない。テレビが視聴者心理を巻き込んで暴走し始めると誰にも止められなくなることを、「映像の暴走」という

 

4.    日本型「公共圏」の変動

メディアは、「市民的公共圏」において活動し、世論や公論を形成する。公共圏とは元来、教会権力から離れた内面の自由という「自立の精神」を内包させた新興ブルジョアジーの私人の領域から形成され、自由な言論空間を作り出し、ブルジョア市民革命の温床となってゆく

公共圏を、公権力に対抗する批判的な圏として育てたのが新聞で、フランス革命でもアメリカ独立戦争でも新聞という新しいメディアの存在は不可欠

一方日本の大新聞ジャーナリズムは、「是々非々」「不偏不党主義」を取り、危険地帯というよりはお上と庶民の間をつなぎ上からの情報と知識を伝達するという啓蒙的な役割を果たすと同時に、日本人の識字率と教養を高めるのにも貢献

テレビが主導したワイドショー内閣誕生では、官尊民卑の伝統文化の崩壊がみられ、明治以来の日本に連綿と続いてきた庶民文化の「革命」が起こり、異質の政治文化が出現

従来の政治文化はエリート官僚と知識人が指導し、熟達したプロである政治家の手で主導され、主権者であり納税者である大衆は僅かな回数の選挙を通じてしか自己表現の手段を持たないまま政治的フラストレーションから政治に対する無関心層が広範に醸成されてきた

活字メディアである新聞がリードしてきた日本の政治公共圏は、プロたちが操作する政治圏に属していた部分が大きく、新聞記事は上から目線で書かれ、同じ目線で読者の共感を得るような書き方ではなかった

 

5.    東欧革命、ベルリンの壁崩壊を促した西側のテレビ中継

テレビの特性は、大衆的な影響力の点で新聞を凌ぐ ⇒ 映像の持つ感覚的なインパクトは、活字の文章がノイズを消し去ることで成立するのに対し、テレビ映像では報道内容を超えて、背景の雑音とノイズがそのまま視聴者に伝わり、1つの政治的メッセージとなって力を持つ

テレビは新聞に比べ、遥かに無原則であり、アナーキーで、作り手の意図しないコントロール不能効果があらわれる

世界化した国際テレビ網はリアルタイムにおける世界の共同性の場となる

 

6.    ニュースは視聴率を稼げる

ニュースのショーアップ化は、CNNが創立された時のポリシー。創始者テッド・ターナーは、ウォーターゲート事件で西海岸でもニュースの視聴率が上がったのを見て、「ニュースは視聴率を取れる」ことを発見し、ニュース専門チャンネルを創始し、メディア界の風雲児と言われる

日本でも遅れてニュースのショーアップが流行、著名なキャスターを輩出、政治家や著名人も積極的に出演

テレビのプラス面は、そのままマイナスに転じる「両刃の剣」でもあり、国民がテレビの使い方を間違えば、盲目的な大衆迎合のメディアにもなり得る ⇒ テレビの特性は、「合意」よりは「知名度」を重んじ優先するということで、「知名度」の高さが「信頼性」に直結するような「公共圏」は、有名人たちが作る封建社会と変わらないことから、「公共圏の再封建化」という

椿事件は、テレビ界に政治権力に対する「忖度」を持ち込んだ最初であり、テレビの社会的影響力が桁違いに肥大した産物

小泉政権の支持基盤は永田町の自民党内ではなく、メディアが作り上げる世論にあった。小泉が何を目指して政権を握ったのかは判然としない。政策の目玉の郵政民営化は実現したがその後の郵政の現状は芳しいものではなく、イラク戦争にもいち早く支持を表明したが、大量破壊兵器の存在が嘘だったことで米英を含め世界各国はイラク戦争の間違いを認めたが日本だけは未だに認めていない

見てくれの映像を重視するテレビに支配される世の中は、一握りの有名人たちが支配する世界に堕してゆく。反知性主義、右傾化、格差社会の拡大は現代社会を覆うグローバルな大問題になっているが、西側テレビのネガティブな影響力の側面は東欧崩壊の時から察知できた

「テレビはジャーナリズムか」という命題は、戦後日本のテレビ界を貫いてきた課題。活字の新聞はテレビ社会の発展の前に影響力や権威を無くし、売るために活字の特性を失い、ビジュアルな紙面が要求されるようになり、「新聞のテレビ化」という逆転現象が起きた

圧倒的にテレビ優位の社会になったが、テレビ・ジャーナリズムの進化をもたらしてはいない

ジャーナリズムとは、公共性の高い質の良いニュース、視聴者の知る権利に応えるニュースの提供とテレビに論評の2つの要素を満たさなければならない。現在のテレビには論調が欠如。かつてTBSの筑紫哲也NEWS23に多事争論というコーナーがあり、本人は「あれはテレビの社説の積もりで試みた」と言っていたが、その後のテレビに引き継がれた形跡はない

CM獲得の目玉となるスポーツ番組が大きな比重を占め、ニュース番組を押しのけるようになり、ワイドショーを中心に専門外の芸能人たちがコメンテーターに登用される。テレビのポピュリズムと大衆迎合主義がジャーナリズムの専門性を劣化させ、素人化を促進

小泉ワイドショー政権が遺した負の遺産、テレビ・ジャーナリズムの劣化を修復するのは容易ではない

 

あとがき

「日本のジャーナリズムはトリックスターである」と言われる。文化人類学でいう道化師やペテン師に匹敵するが、前近代社会で活躍、果たした役割の本質は、旧体制の社会構造やシステムを温存し持続させること

同様に、日本のジャーナリズムは、社会秩序を攪乱して反権力の姿勢を見せることがあるが、行き過ぎの危険を察知すると方向転換して旧体制への回帰を促す。欧米のように、自由と民主主義の守護神として一貫して権力の腐敗や暴走を監視する役割には無頓着

60年の安保条約改定時のメディアはまさにトリックスターそのものであり、自民党一党支配の守護神だった

外国特派員たちから、日本の記者クラブ体制が他者の言論の自由と民主主義を抑圧していると指摘されても歯牙にかけなかった

経済力はあってもジャーナリズムがダメな国は世界から尊敬される一流国にはなれない

日本メディアの自由度国際ランクは70位前後で低迷

日本のジャーナリズムの視野狭窄、現状維持の自己肯定、自画自賛といった傾向がこのままでいいわけはない

北朝鮮の拉致問題は未だ解決せず、日韓関係も泥沼化して改善の気配はないが、日本のジャーナリズムは政府の応援団席にでもいるかのような姿勢に終始している

本土と沖縄の間の世論の分断も放置されたまま、本土の新聞と沖縄の新聞の間に同じ国の新聞とは思えない記事、論調の乖離がある

「朝日阪神支局襲撃事件」が、警察捜査と新聞社取材の総力を挙げたにもかかわらず解決しないのは、先進国としてあり得ないこと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いま、解読する戦後ジャーナリズム秘史」書評 自己省察足りず劣化のメディア

評者: 保阪正康 新聞掲載:20200314

著者:柴山哲也出版社:ミネルヴァ書房

 本書を読んでいて、日本のメディアは自己省察が足りないとの感を受ける。たとえばつい何年か前、有事立法をめぐる論議が国会の内外で盛んであった。しかしもし有事の状態になったら、メディアはどう報じるのか、「メディア自身の『有事』が捉えられていない」と著者は指摘する。

 政府はNHKなどのテレビ局の動員を考えているようだが、と著者はいい、これはかつての「大本営発表」ではないかと案じる。

 著者は50代半ばで新聞記者生活を離れ、その後は国内外の大学などでジャーナリズム研究と教授生活を送っている。つまり、自らの記者体験を学問的に位置づけることを後半生の務めとしたわけだ。それだけに具体的で論の運びがわかりやすい。加えて、豊富な海外取材のエピソードも盛り込んでいるので、意表をついた読み物にもなっている。

 1981年、北朝鮮に取材へ赴いた折、ピョンヤン近郊の外国人用と思しきレストランで食事をとる。その奥の売店に、日本のたばこがあったので求めたという。売り子の少女が日本語を聞いて笑った。写真を撮ろうとカメラを取りに行くと、少女は二度と姿を現さなかった。まだ横田めぐみさんの拉致が日本国内でも知られていないときで、著者はのちに彼女ではないかと推察する。写真がそっくりだったのである。

 著者は、しばしばアメリカの国立公文書館に赴いている。そこで探していた重要な外交機密文書を見つけたが、館員は日本の外務省の了解がないと見せられないという。外務省はこれほどまで取材の妨害をしているのかと、著者は驚く。

 本書は、著者の記者時代に起こった各種の事件(文化大革命、ベトナム戦争、湾岸戦争、オウム事件など)についても自らの取材を踏まえ、日本型ジャーナリズムの特徴を整理する。時代はジャーナリズムの劣化という方向に進んでいるのか、と著者とともに呟(つぶや)きたくもなる。

    

しばやま・てつや ジャーナリスト、メディア評論家。朝日新聞記者を経て、京都女子大教授などをつとめた。

保阪正康(ほさかまさやす)ノンフィクション作家

 1939年生まれ。著書に『五・一五事件 橘孝三郎と愛郷塾の軌跡』『東條英機と天皇の時代』『昭和陸軍の研究』『吉田茂という逆説』『ナショナリズムの昭和』など。個人誌「昭和史講座」を中心とする昭和史研究で菊池寛賞。

 

 

 

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