ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー  Brady Mikako  2020.12.20.

 

2020.12.20.  ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

 

著者 Brady Mikako 保育士・ライター・コラムニスト。1965年福岡市生まれ。県立修猷館高校卒業後、音楽好きが高じてアルバイトと渡英を繰り返し、96年からブライトン在住。ロンドンの日系企業で数年間勤務したのち英国で保育士の資格取得、「最底辺保育所」で働きながらライター活動を開始。17年新潮ドキュメント賞受賞し、大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞候補となった『子どもたちの階級闘争―ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房)ほか著書多数

本書で2019年ノンフィクション本大賞

 

発行日           2019.6.20. 発行    2019.11.25. 13

発行所           新潮社

 

初出誌『波』(20181月号~20194月号)

同誌での連載は本書刊行後も続く

 

老人はすべてを信じる。

中年はすべてを疑う。

若者はすべてを知っている。

子どもはすべてにぶち当たる。

(オスカー・ワイルドの3行に、自らの経験で得た最後の1行を加えた)

 

はじめに

息子が中学の音楽部の発表会にバンドで出演しギターを弾く

23年前に知り合った旦那は、シティの銀行をリストラされ、憧れていたダンプの運転手になる

20年前から住んでいるブライトンで、子どもができたころからすぐに保育施設で見習いとして働き始め、息子はその託児所に預け、伝説の幼児教育者が育ててくれた

1学年1クラスしかない市のトップの公立小学校に入り、最終学年では生徒会長も務めて育ったが、中学に入って一変したのは、中学が殺伐とした英国社会を反映するリアルな元底辺中学校だったから

息子の人生に私の出番が来たと思っていたが、私の人生に息子の出番がやってきたことを実感した、11歳の息子の中学校生活の最初の1年半を綴る

 

1.    元底辺中学校への道

小中学校は公立でも選択できる。英国教育水準局Ofstedという学校監査機関の監査報告など詳細な情報が公開され、それに基づく学校ランキングが大手メディアのサイトで公開

学校は自宅まで距離の近い順に入学を許可するので、人気校周辺の地価が上がり、富者と貧者の棲み分けが進み、「ソーシャル・アパルトヘイト」と呼ばれる社会問題になっている

息子は、元公営住宅地で「荒れている地域」に住んでいたが、カトリック信者だったこともあって、隣接する高級住宅地と両方のためにつくられた、ランキング1位の公立カトリック小学校に行っていたのに、中学は「ホワイト・トラッシュ」が通う中学という真逆の学校に進学。学校説明会に行って在学生のファンクな音楽演奏を聞かされて魅かれたのが理由

人種の多様性があるのは優秀でリッチな学校という奇妙な構図が出来上がっている

白人労働者が多く居住する地区の学校はレイシズムがひどい

息子は、嬉々として新しい学校生活を始めたが、最初の国語の授業で「ブルー」の意味を直され、落書きのように端に書いた言葉が、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」

 

2.    glee/グリー」みたいな新学期

入学の際の事務的な通知の中に、「入学翌日にオーディションがあるので準備しておけ」というのがあり、ミュージカル《アラジン》が取り上げられ、息子は脇役をとってきた

「ドラマ(演劇)」という教科を通じて、日常的な生活の中で言葉を使って自己表現能力、創造性、コミュニケーション力を高めることを重視

中学に入って早速白人から汚い言葉を投げつけられたり、主役のハンガリー移民の子が黒人に対して人種差別的な言動を吐くのに怒りを覚える

多様化した社会のレイシズムには様々なレイヤーが生まれていて、どんどん複雑化する

本番では主役が変声期で肝心のデュエットが歌えなくなったのを、息子が舞台裏で代わりに歌ってカバーして、大成功だったが、主役と仲直りしたわけではなかった

 

3.    バッドでラップなクリスマス

79年には英国人の42%が公営住宅に居住していたが、サッチャー時代に払い下げられ、その後公営住宅は殆ど建てられておらず、元公営住宅地も持ち家と借家が混在

労働党政権下のゼロ年代に「チャヴ」という「無礼で粗野な振る舞いに象徴される下層階級の若者」が誕生、大きな社会問題となったが、白人労働者階級の総称としても使われた

現代では差別用語となっているが、問題の根元にあるのはリアルな貧しさ

クリスマスには、チャヴとされる生徒がハードなリリックのラップで大盛り上がり

元底辺中学校に「元」をつけたのは、生徒たちに対し贈った教員たちの迷いのない拍手だったのだろう。今では中位辺りにまでランクが上がっている

 

4.    スクール・ポリティックス

学校行事の新春一発目はWalking with Parents。校長が両親に学校を案内する

学校は、「British Value」の推進をポリシーにしている。以前はEnglish Valueであり、最近ではEuropean Valueといわれるが、どれか1つということではないはず

分断とは、どれか1つを他者にまとわせ、自分の方が上だと思えるアイデンティティを選んで身にまとう時に起こるもの。近時その風潮が強まって、物事を悪くしている

人種、ジェンダー、性的指向といった個人のアイデンティティの問題を重視する政治をアイデンティティ・ポリティックスという。80年代以降、右派はそういう問題に対し無頓着や無視する人々であり、左派はその右派と闘う人々だったが、その闘いが過熱して、肝心の貧困や格差、労働問題といった階級政治の軸が忘れられ、階級の固定化が進んだ

差別発言のどこがいけないのかを言う前に、人を傷つけることはどんなことでもよくない

 

5.    誰かの靴を履いてみること

学期ごとにProgress Report(通知表のようなもの)が配布される

「ライフ・スキル教育」という科目を5段階で評価 ⇒ Citizenship Educationのことで、社会において充実した積極的な役割を果たす準備をするための知識とスキル、理解を提供する

Empathyとは、「共感」、「感情移入」、「自己移入」。他人の感情や経験などを理解する能力で、いわば「誰かの靴を履いてみること」(=他人の立場に立ってみる)

雪の日には、身動きの取れなくなったホームレスなどを地域ぐるみの助け合い活動でシェルターに収容し保護する。英国の草の根の機動力には驚かされる

 

6.    プールサイドのあちら側とこちら側

市主催の中学校水泳大会のプールサイドは、私立と公立に分けられ、私立の方はガラガラ

競技も私立と公立で別々にレースをするが、表彰は全体で行う。私立の方が圧倒的に速く、公立の中では優秀な地域の学校が優位。親の所得格差が子どものスポーツ能力格差になっていて、庶民とエスタブリッシュメントの間の越えられない高い壁というリアリティには暗澹たる気持ちになる

 

7.    ユニフォーム・ブギ

制服のリサイクルのボランティア。公立校には制服を買えない生徒が大勢在籍。特に10年の保守党政権誕生後は緊縮財政から、平均年収の60%以下の所得の家庭で暮らす子どもの数が子ども総人口の約1/3410万に膨れ上がる

低所得者層の子どもが多い学校には、pupil premiumという補助金があるが、学校のレベルを上げるために使われたりして、必ずしも直接貧困層の補助に回っていない。一方で社会福祉的な活動もやっている。制服のボランティアもその一環

 

8.    クールなのかジャパン

英国のストリートでいわゆる人種差別的なことを言われるとき、我々の事を「日本人」と特定してからかってくる人はまずいない

サッカーのワールド杯が始まって息子が日本を応援している

EU離脱の国民投票依頼、英国ではNワード(ナショナリズムのほう)は最も危険なサブジェクトになった。左派はそれを頭ごなしに否定し、右派は熱狂的に称揚する。エクストリームな分断が広がっている

 

9.    地雷だらけの多様性ワールド

メディアが使う政治用語でいえば、「なんやかんやいっても応援してしまう感じ」のことを市民的ナショナリズムという。民族的ナショナリズムと対抗する軸として使われる言葉で、数年前スコットランド独立投票の時に盛んに議論されたコンセプト。民族性ではなく、在住地による新たなナショナリズムの可能性があることが強調された

この国には様々な人々が住み、様々な文化や考え方を持ち、様々な怒りの表出法をする

うっかりすると、地雷を踏みつけてしまう

 

10. 母ちゃんの国にて

息子は日本語が全く話せず、祖父も博多弁で喋りまくるのに、なぜか2人は気が合って2人だけで仲良く過ごしているし、コミュニケーションも成り立っている

日本で外国人と日本人の間に生まれた子を「ハーフ」と言うが、ポリティカル・コレクトネス的には問題で、英国でも同様ポリティカル・コレクトネス的に問題なMxed RaceをやめてBi-Racialというべきとの意見もある

実家のある福岡では、よそ者に対する差別が市民生活の隅々にまだまだ色濃く残っている

 

11. 未来は君らの手の中

ブライトンは「英国のゲイ・キャピタル」とも呼ばれる

And Tango Makes Three(タンタンタンゴはパパふたり)』という絵本は、セントラル・パーク動物園の実話で、恋に落ちた2羽のオスのペンギンの話。飼育係が2羽のペンギンがカップルと気付いて放置された卵を巣に置いたら、それを温めて赤ん坊を孵化した

年長の子どもが対象で、読みきかせると彼等が関心を持つのは、恋に落ちたところで、オス同士だということは問題にならない

Tangoの名の由来は、It takes two to tango.(タンゴは2人で踊るもの)との諺から

この絵本を読みながら、子どもたちの両親にはいろいろな組み合わせがあることを自然に学んでいく

自分の子どもが体外受精だということは、中学になって学校で一通りの性教育を受けたところで公表し、自然に受け入れられた

 

12. フォスター・チルドレンズ・ストーリー

フォスター・ファミリーの間を転々とたらい回しされる子もいる

 

13. いじめと皆勤賞のはざま

いじめられても皆勤賞のために意地でも学校に行くので、余計にまたいじめられるという悪循環がある

 

14. アイデンティティ熱のゆくえ

白人中心の学校で珍しく中国人が生徒会長になった

フランスで「黄色のベスト」デモがあったが、彼等が着用していた蛍光イエローのベストやジャケットは、英国ではHi-Vis(High Visibility)と呼ばれ、そこに誰かがいることが見えないと危険な目に遭う可能性のある仕事をする人たちが着る作業服だが、同時に路上を歩かせる幼稚園児にも着用させなければならない

生徒会長が父親が経営する中華料理店の配達を手伝うために着ていたイエローのベストを見て同じ学校の生徒が「ヴェリー・イエロー」とおちょくったのに対し、空手をやっていた生徒会長が蹴りを入れるふりをして寸止めをしたら、相手が転倒して捻挫したため、その親が学校に抗議して問題になり、喧嘩両成敗となった

息子には黄色人種としての当事者意識はなかったようだが、生徒会長は息子も同種の仲間と思って、一緒に闘ってくれたらしい

著者はこの界隈で暮らしている東洋人に対する帰属意識を持っていて、同じような差別された経験を持っていればいる程、無意識のうちにもこの「仲間感」は強くなる。人種差別というものは、他人には嫌な思いをさせたり、悲しい思いもさせるものだが、それだけではなく、「チンキー」とか「ニーハオ」とかレッテルを貼ることで、貼られた人達を特定のグループに所属している気分にさせ、怒りや「仲間感」で帰属意識を強め、社会を分裂させることにも繋がる。アイデンティティの袋小路だ

 

15. 存在の耐えられない格差

一緒に小学校に通っていて、そのままカトリックの公立校に進学した女の子が失踪。行方不明ではなく家出で、何度も繰り返していた。母親は元底辺中学校の出身で、何とか苦労して子どもを上位の学校に入れようとして成功していたので、著者が息子を元底辺中学校に入れようとした時、なんて馬鹿なことをするのかと反対した

英国では年間10万以上の16歳以下の子どもたちが行方不明になっている。時にはドラッグ・ビジネスに巻き込まれ、運び屋にされて転落していく子どもたちも多い

Ofstedは厳しいガイドラインを設けて行方不明児童を出さないよう指導している

 

16. ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとグリーン

2年生の2月のハーフタイム(学期の間の休暇)直前、英国各地で地球温暖化対策を訴える学生デモが全国各地で行われ15千人が参加。半年前にスウェーデンで同じ趣旨のスクール・ストライキが飛び火してきたもの

ブライトンは英国で初めて緑の党の国会議員を選出した場所で、学校も環境問題に熱心なところが多く、特に「優秀」とされる学校は、緑の党支持者の教員が引率してデモに連れて行ったが、息子の学校は通常授業となり、学校によって対応が分かれるという不条理が発生 ⇒ グルーミングという、小児性愛者(ペドファイル)がネットのチャットなどを通じて子どもたちと仲良くなり、性的行為を行うために手懐けていくことに譬えられた

英国では、公立学校で子どもが学校を休むと、School Absence Fineという罰則が親に課される。学期中に休暇旅行に連れて行ったり、ずる休みをしたり、1学期に3日以上欠席した場合で、支払いが遅れると加算されていく。貧乏な家庭にとっては大きな負担となり、子どもは勝手に休みが取れない仕組みがあるので、学校の規則に従わざるを得ない

新しい学校に通い始めたころは、レイシズムみたいなことも経験したし先行きの不安もあってブルーだったが、今は「未熟」や「経験が足りない」という意味でのグリーンだという

子どもたちには、人種も階級も性的指向も関係なく、みな共通の未熟なティーンの色があるだけ

 

 

 

 

書評:『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

ばる|専業読書家(人文学) ブログ 2020/04/02 17:22

個人的に昨今すごく注目している書き手のブレイディみかこが、英国で子育てをするなかで社会のボトムから見た、英国の格差/階級/人種多様社会の今を書く。

同じく子育てノンフィクションで個人的に大大大ヒットで出色の出来栄えだった近著『子どもたちの階級闘争――ブロークン・ブリテンの無料託児所』から数年後、順調に育った息子はいまや中学校に通っている。底辺託児所から中流小学校を経て、底辺でもないが中流でもない中学校へ舞台を移したのが本書。

ピュアで感じやすく、飾り気がない子供という存在は、社会情勢の変化に最も早くダイレクトに反応する、いわば社会の鏡である。本書は特に、人種のるつぼたる英国社会がレイシズムの倫理と歴史/実際の間で揺れ動く様の具体的で克明な現場レポートを、前著そのままの軽妙な筆致で描き出す。

島国がゆえに均質な社会を保ってきた日本では中々現前しない、それがゆえに直観もしにくい、リアルでシリアスな人と人の明確な「差異」。当然多くの問題や不幸を孕むこれらと対峙し、国や個人レベルで長い年月に渡り調停し続けてきた英国社会の強みやその文化の厚み。それが十全に反映される教育カリキュラム。悲喜こもごもあれど、そして当事者以外にやっぱり伺いしれずとも、これをシンプルに羨ましいと感じてしまう自分がいる。

そして、今回のコロナ禍におけるアジア人差別のようなものが、そういった厚み、その強さ、その人権意識をもってしても、いとも簡単に外在化してくるあたりは素直に示唆深い。「生きるために脅威を忌避すること」は、社会成立以前の原初状態にほど近い、とてもとても根深い観念なのだ。

本書そのものとしては、思ったほどは面白くなかったというか、面白かったんだけど過去作が良すぎて期待値が高まりすぎたというか、正直わりと劣るかなーという感想だった。

底辺モンペと荒くれキッズたちの衝撃的な託児所風景(生活保護家庭で育つ2歳女子が友達の腹に蹴りを入れまくるとか)を描いた前述『こども~~』に比べると、息子が通う中学校にそこまでデンジャラスな感じがなかったり、息子自身がやけに大人びて様々な問題を俯瞰して見るあたりで、社会問題のトップとボトムが今まさにここで交差して社会そのものを投影しているという緊迫感が薄らいでしまったは大きい。なんだかんだ言って、このスーパーマザーあってこの息子ありという感じで、息子が賢くなりすぎていて社会を対象として論じる側に立ってしまっている。

世間的に話題なのは本書の方な気がするが、圧倒的に『子ども~~』のほうがオススメ。

 

 

池上彰さんを唸らせた2019年ノンフィクション本大賞受賞作 格差社会に生きる子どもたちの未来とは?

レビュー新潮社

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 著者 ブレイディ みかこ [著]

多様な社会での「親子物語」

[レビュアー] 池上彰(ジャーナリスト)

ヤフーと本屋大賞による「2019年ノンフィクション本大賞」を受賞し、注目を集める『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』について、ジャーナリストの池上彰さんが書評「多様な社会での『親子物語』」を寄せた。本作がこれまでのノンフィクション作品と圧倒的に異なる理由とは何か? その一端を解説してくれた。

 ***

 先日行きつけの書店の店頭に『タンタンタンゴはパパふたり』を見つけました。おお、ブレイディみかこさんが『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の中で紹介していた絵本ではないか。

 これはニューヨークのセントラルパーク動物園で恋に落ちた二羽のオスのペンギンの話です。実話なんだそうです。

 この絵本はイギリスの保育業界では「バイブル」のような扱いになっているとか。そうか、さすがイギリス。LGBTの人への差別意識を持たせないように、こういう絵本を読み聞かせているのか……と思っていたら、そうではないのですね。

〈子どもたちには、誰と誰が恋に落ちるのは多数派だが、誰と誰が恋に落ちるのは少数派、みたいな感覚はまったくない。「誰と誰」ではなく、「恋に落ちる」の部分が重要なのだ〉(『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』)

 なるほどねえ。誰が誰と恋に落ちたっていいじゃないか。子どもたちは、それを本能的に悟っているのかしらん。

 英国社会を取り上げたノンフィクション作品はいろいろありますが、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、格差社会に生きる子どもたちと、彼らをとりまく大人たちの生活ぶりを同じ視線の高さで描いているところが、ほかとは圧倒的に異なります。「上から目線」ではないのです。それは、著者の息子さんが「元底辺中学校」と作者が称する学校に入学したことによって、もたらされたものでしょう。

 恵まれた上品な家庭の子弟が通う名門のカトリックの小学校を出たのに、そのままカトリックの中学校に進学せず、「元底辺中学校」に入学するとは。日本によくいる教育ママが聞いたら卒倒するような選択を、この親子はヒョイとしてしまったのです。さあ、ここからドラマの始まりです。

 子どもたちが直面する「事件」のひとつひとつは、ぜひ本で読んでいただくとして、ここではその背景を説明しておきましょう。

 イギリス社会は、私が子どもの頃は「ゆりかごから墓場まで」というスローガンに象徴されるように社会保障の充実した国でした。日本にとってお手本のような国として習いました。

 その一方で、「福祉が行き届いていると、人々は働く意欲を失う」とも言われ、経済が停滞し、「英国病」と呼ばれました。

 ここに大ナタを振るったのが、保守党の「鉄の女」サッチャー首相でした。新自由主義の立場から「小さな政府」を目指し、社会福祉を削減しました。その結果、経済は活性化しましたが、格差が拡大しました。

 その後、労働党が政権を奪還しましたが、労働党のブレア首相も新自由主義と大差ない政策を取ったために格差は縮小しませんでした。では、いまはどうか。ブレイディみかこさんは、別の書籍で、次のように語っています。

〈英国では、保守党が緊縮財政をはじめた二〇一〇年から、実は平均寿命の伸びが横ばいになっています。一応、世界で一番リッチな国の一つだし、医療技術は進歩するわけですから、それまでは右肩上がりで伸びていたのに、二〇一〇年から恐ろしいことにパタッと止まっている。医療支出削減で国立病院も人員とインフラが不足して緊急救命室の待ち時間が史上最長になっているし、一日に一二〇人程度の患者を廊下で手当てしているという病院もある〉(『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』)

 こんなイギリス社会で、貧しい家庭の子の様子を見ていられずに手を差し伸べる先生たち。先生の給料も上がっていないのに。人々の助け合いによって、かろうじて維持できている社会の実際が、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』では赤裸々に、活き活きと描かれます。

 社会の底辺にも差別意識が何重にも積み重なっている。この本を読むと、そんな深刻な現状を知って気分が落ち込むのですが、著者の中学生の息子との会話によって、救われる。これが、この本の大きな魅力でしょう。

 中学生の息子はどんどん大きくなる。格差と差別を目の当たりにしながらも精神的に成長する。その傍らには、息子の成長を喜び、息子と共に悩み、考え、成長する母親の姿がある。

 そんな親子の成長記録を読むことで、読者の私たちもまた成長する。

 そしてブレイディみかこさんは、イギリス社会の現実を日本の私たちに報告しながら警告を発しているのです。「これは、近未来の日本の姿かも知れないよ」と。

新潮社 2019116 掲載

池上彰(ジャーナリスト)

1950(昭和25)年、長野県生まれ。ジャーナリスト。東京工業大学教授。慶應大学経済学部卒業後、NHK入局。報道記者や番組キャスターなどを務め、2005年に独立。『伝える力』『おとなの教養』『新・戦争論』(共著)ほか著作多数。2013年、伊丹十三賞受賞。

 

 

キリスト新聞

【書評】 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』 ブレイディみかこ

 イギリスで結婚、アイルランド人の夫と12歳の息子と3人で暮らす著者が、息子の通い始めた「元底辺中学校」で起こるさまざまな事件を通して、一緒に悩みながら成長していく過程を綴ったノンフィクション。

 著者は「一応カトリックの洗礼を受けており」、配偶者の叔母は修道女、従弟には神父もいるという「敬虔なカトリック一族の出身」でもあるため、息子は「人種の多様性がある優秀でリッチな」公立カトリック校に入学。しかし、学校見学会を機に、「白人労働者階級」の子どもたちが通う中学に進学することになる。

 小学校では生徒会長もしていたような真面目で「いい子」の息子が直面するのは、人種差別、ジェンダー問題、貧富の格差、万引き、いじめ、暴力、政治的対立など、まさに世界の縮図。

 一見パンクで破天荒な子育て奮闘記だが、決して他人事とは思えない遠くて近い世界の現実と向き合わされる。全米に拡大した警官による暴行死への抗議デモを引き合いに出すまでもなく、21世紀に至ってもなお、人類はあらゆる差別と決別できずにいる。

 「カトリック教会に所属して子どもをカトリック校に入れる保護者たちも圧倒的にミドルクラスが多い。つまり、親の所得格差が、そのまま子どものスポーツの能力格差になってしまっているのだ」

 かつてイギリスの植民地だった香港でも、課題は共通する。果たして、日本の「リッチな」キリスト教系私立校に通う「いい子」は、「荒れた公立校」との格差を、どれだけ想像できるだろうか。

 厳しい現実に留まらず、学ぶべきヒントも多い。公立中学校から導入が義務づけられているというシティズンシップ・エデュケーション(公民教育)の充実ぶりもその一例。他人に同情するシンパシー(感情移入)と、知的作業としてのエンパシー(英語の定型表現では「自分で誰かの靴を履いてみること」)の違いなどは、画一的で押し付けがましい日本の道徳教育でもぜひ扱ってほしい。

 固定概念や偏狭なナショナリズムに囚われず、寄留者として俯瞰する親子の視点は、同じくカトリック信者の親元で育ち、国際結婚の末、海外で活躍する漫画家のヤマザキマリさんとも重なる。

 「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らす」という著者の言葉に、いま一度耳を傾けたい。

 

 

 

好書好日 2019.9.26.

ブレイディみかこさん「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」インタビュー 多様性は楽じゃないけど「楽ばっかりしていると無知になる」

文:藤生京子 写真:家老芳美

 パンクな文体で腐った政治を撃つ豪速球投手。と思えば、ユーモアと繊細さをマジックのごとくブレンドさせた変化球の人。英国在住のライター、ブレイディみかこさんが放つ言葉の力に勇気づけられた女性たちは多いでしょう。話題の最新作『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)では、英国の公立中学に通う一人息子の葛藤と成長を描きながら、多様性の時代に生きるややこしさ奥深さを余すことなく伝えてくれます。一時帰国を機に、女性たちへのメッセージも込めて、たっぷり語ってもらいました。

お話を聞いた ブレイディみかこ保育士、ライター、コラムニスト

英国・ブライトン発、「元底辺中学校」の現場から

――一気に読みました。英国社会の荒廃を無料託児所などの光景から浮き彫りにしたルポや、政府の緊縮財政の愚を指弾する時評とは、ずいぶん雰囲気が違う気がします。

 そうかもしれません。英国で周囲にいる人々や出会った人々を観察して書くのでなく、いままさに私自身の現場である子育ての日々を、初めて書いたノンフィクションなんです。

 ロンドンの南、ブライトンという海辺の町で息子が通う公立中は、貧しい白人の子どもが多く、少し前まで学力的に最底辺校と呼ばれていたところです。それが音楽とか演劇とか、生徒がやりたいことをのびのびやらせるユニークな改革を重ね、生徒たちの素行も改善され、学力も上がってきた。とはいえ、トラブルは日常茶飯事。移民問題や貧困問題が背景にあります。そこで起きる出来事をちりばめながら、思春期の息子と私たち夫婦のホームドラマの要素も入っているので、マイルドな印象もあるのでしょう。

 単著は10冊目になるらしいのですが、今回は、より多くの読者に届くオープンな本にしたいと思いました。自分の主張は控えめにし、状況を皆さんに伝え、考えていただく。果たして面白いのかな、という気持ちもありましたけど。

――すごく面白いです。この手法だからこそ、今ひとつわかりにくかった英国社会の最前線の一端を、リアルに知ることができた気がします。

 本当に、ぐっちゃぐちゃですからね。人種・民族にジェンダーといった軸と、階級という軸とが複雑に交差して。移民でもお金をためて一定レベルの生活をしている人もいれば、貧しく取り残された白人も多い。いろんなレイヤー(層)があって、互いに意識し、時に差別しあう。「多様性はややこしい、衝突が絶えないし、ない方が楽だ」って書きましたけどね。

 いま英国は、3度目の大きな変化の波にあるといわれています。「揺りかごから墓場まで」で有名な福祉政策を打った労働党政権の「1945年のピープルの革命」が最初。そして次が80年代、福祉切り捨てや民営化などの新自由主義的路線に転じたサッチャー政権。90年代には「第三の道」を提唱したブレアの労働党政権が期待されましたが、失望に終わり、2010年から保守党が進めてきた緊縮財政によって、貧困層にしわ寄せが強まり、社会の分断が進みます。EU離脱をめぐり紛糾するいまは、3度目の波のさなかなんですね。

 というわけで、ひどく大変な状況ではあるんですが、子どもたちはたくましい。日々、ぶつかりあい、迷い、考えながら、思いがけない方法で、突破していっている。乗り越えるというより「いなしていく」という言葉がぴったりかな。たとえば、ぼろぼろの制服を着ている友達に、代わりの服をあげたいと思う。でも返ってそれは、相手を傷つけることにならないか。いざ口にしたら、案の定、不審の目を向けられた。とっさに息子は「君は僕の友達だから」と言ったんですね。

――絶妙の一言ですよね。

 そのやりとりを目にしたとき、私が思い出したのは、例えばジョージ王子が通っている私立校をはじめとし、「ベストフレンド」という言葉は使っちゃいけない、という方針の学校が出て来た、というニュースでした。さすがにPC(ポリティカル・コレクトネス=政治的な正しさ)の行き過ぎだと、たたかれていたようですが、ほら、いいんだよ、助けたくなるかけがえのない友達がいていいんだよと、息子が示してくれた気がしました。

 そういえば数か月前、マイクロソフトのワードファイルで、AIPC(ポリティカル・コレクトネス)的に正しくなるよう私たちの文章を書き換えることが可能になるというニュースが話題になりました。PCを否定するつもりはありません。それは多様な社会で生きるために必要なものです。でも、あらかじめ問題になりそうな言葉が、「なぜいけないのか」を考える暇もなく排除されてしまったら、その言葉を吐かれた人の痛みといった現実的なことを考えてみる機会も、奪われかねない。深く理解することと、傷つけあって学ぶこと。2つが結びついている場合もあると思う。

――ご本の中で、多様性は楽じゃないと伝えたブレイディさんに、息子さんが「楽じゃないものがどうしていいの?」と尋ね、「楽ばっかりしてると、無知になるから」と答える場面が印象的でした。

 さっきの話に通じることです。今の時代、インターネットで何でも手に入れられると思いがちですね。でもそれで知識を得たことにはならないでしょう? 私、よく「地べた」という言葉を使うんです。「机上」に対する「地べた」。地べたで実際に人とぶつかる中から、本当の理解が生まれる。インテリジェンスというより、「叡智」みたいなもの。それが今の世の中、欠けていないでしょうか。頭で考えすぎて、空中戦になりがちな今の風潮をみていると、子どもたちの世界の方がよっぽど人間として大人で、まともに思えることも多い。

 もちろん、物事を論理的に考えていく知的な作業の大切さも承知しています。あるとき、息子が「エンパシー」という言葉の意味を、学校のシティズンシップの試験で問われて、「誰かの靴を履いてみること」と回答したというんですね。これは英語の定型表現なのですが、シンパシー(同情する)と違い、エンパシーは自分と違う理念や信念をもつ人のことを想像してみる、主体的な力のことです。息子は、EU離脱などで分断が進む今の社会で、その力が大切になると教わったらしいです。

――ご本の魅力の一つは、そうした息子さんの聡明さですね。様々なバックグラウンドをもつ友人たち、先生、お母さんお父さん、道ですれ違う人たちまで、いろんな言葉や態度から、様々なことを感じ取り、考え、次に生かしている。

 いえいえ、まったく聡明じゃないところもありますけどね。でも、もう13歳ですから、スポンジみたいな吸収力には驚かされます。えっ、そんなこと覚えていたんだと、はっとさせられることは多いです。私も、一緒に学んでいく日々です。

ライター・保育士、ブレイディみかこができるまで

――福岡のお生まれですね。どんな子どもでしたか。

 気が強かったですね(笑)。とっくみあいのケンカもしましたよ。勉強は全然しなかったけど、試験の要領だけはよかった。家は土建屋なんですが、貧乏でしたね。周りもそんな感じだったから、中学まではあまり気にならなかった。ところが地元の進学高に入学して、家のことは一切言えなくなりました。お金がなくてパン1つしか買えなくても「ダイエット」なんてウソついて。裕福な家庭の子どもたちには、貧乏のイメージがわかないわけですよ。彼らの幸せな世界を、こんな暗い話題で壊しちゃいけない、と感じていた。

――それは、自分を保つため?

 そうだったと思いますね。恥ずかしかった。なんでこんなに貧乏なんだろう、なんでこんなところに生まれちゃったんだろうって。親がバカだからだと思っていましたよね、ずっと。

 上の学校に行きたいとか、お金があれば、ああいうこともできた、って気持ちは当然ありましたけど、自分でなんとかしなきゃいけない。で、バスの定期券を買うために、スーパーのレジ打ちのバイトをやっていたんですが、あるとき学校にばれちゃったんですね。そうしたら担任から叱られた。理由を正直に説明したら「いまどきそんな家庭があるわけない」って。そこから、本気でグレましたね。授業をさぼり、バンドばっかりの生活になった。

 英国との出会いはそのころからです。学校で家のことを話せない自分がいて、でも帰宅してブリティッシュ・ロックを聴いたら、労働者階級である自分を誇りに思う人たちがいると知る。会ってみたい、彼らの国に行ってみたいと、あこがれました。

――いつから渡英したのですか。

 高校卒業後の80年代半ばです。行ってみたら、やっぱりすごく気が楽でした。労働者階級の誇りも肌で感じましたけど、何ていうかなあ……あまりちっちゃなことにこだわらない。自分は自分で、好きにしていられる。それが日本と決定的に違った。で、ビザが切れると帰国して、お金をためてまた出かける、というフーテン暮らしを続けました。男性を追いかけていったこともありましたね、はい(笑)。バブル世代だから、楽天的だったのかもしれません。いまはこんなフラフラしていても、何とかなる、という根拠なき確信を抱いて生きられる時代だった。

 その後、アイルランド系の英国人の夫と知りあい、結婚して96年からブライトンに住み始めました。この間、日系企業のアシスタントをしたり、翻訳の仕事をしたり。新聞社で働いたこともありますが、特派員が発信する英国だけが日本に情報として入るとしたら、かなり偏ってしまうなと正直思っていた。駐在員の記者の方々はいつも多忙で、地元のコミュニティに根差して生活しているとは言い難い。そうすると、英国の人々の感覚と報道がずれて行くのは当然です。だからと言って、自分が書こうとか、そんなことは夢にも思ってませんでしたが。

 ライターの仕事は、ほんの小遣い稼ぎに始めたことです。それが変わってきたのは音楽雑誌「エレキング」に書くようになってからですね。好きな音楽について書き始めると、政治も社会も、いろいろと自分の言いたいことがわいてきた感じで。そうこうするうち、2006年に出産し、翌年に保育士見習いを始めるわけです。

――そもそも、また何で保育士に?

 自分の子を産むまでは、子どもなんてケダモノというくらい、好きじゃなかったんですよ。それが、世の中に子どもほど面白いものはない、と大転換が起きた。無料託児所の門をたたいたら、ここの創設者が地元では伝説の幼児教育者だった。息子は彼女に見てもらったのですが、親なら見逃すような成長のあとも、詳細に記録してくれるプロ。平等も自由も大切だ、両方あってしかるべきだという理念の持ち主でした。私の師匠、と呼べる人ですね。

 でも当時の保守党の緊縮政策のツケで、託児所はつぶれてしまいます。そこから保育士の仕事をPR誌に書いてほしいとみすず書房から声がかかり、別途、ヤフーニュースでも執筆依頼があって、その記事を集めた本が岩波書店から出た。人文書の世界にデビューみたいな感じですかね。それから今日に至る……ほとんど成り行き、ですよね。

――でも、もともとはライター志望だったのですか。

 いやいや、そんなことないですよ。ただ、本を読むこと、文章を書くことは、好きだったのかな。十代のころは、けっこう小説を読んでいて、特に好きだったのは坂口安吾とオスカー・ワイルド。流行りの作家なんかも、わりと読みましたね。

 あと、不良だった高校のとき、白紙で出した答案用紙の裏に、バンドの詞や、大杉栄についてのミニ論文とか、ヒマだから書いてたんです。そうしたら、私の文章を読んだ現代国語の先生が「君は物を書きなさい」と言ってくれて。どの先生からもたらい回しにされていた私の面倒をみる、と言ってくれ、2年生、3年生と担任になってくれた。何度も何度も自宅に足を運んでくれて、「大学に進んでたくさん本を読んで、たくさん文章を書きなさい」と。まあ、うっとうしくて勉強もやりたくなかったから、大学には進まなかったんですけど……。回り回って、こうして物書きになった。不思議ですよね。

――いろいろな出会いが、いまのブレイディさんをつくってきたのですね。ご本にも、息子さんの友達2人に絶妙なケンカ両成敗が下された話にからめて、小学校の恩師のことが思い出されていました。

 周囲の反対を押し切って、差別を受けていたコミュニティの人と結婚した方です。きっとご自分の経験があったからこそでしょう、彼女は、どの差別がよりいけない、という前に、「人を傷つけることはどんなことでもよくない」と子どもたちに言い聞かせていました。もう40年ほど前で、半分覚えていたかどうか、くらいの話だったのに、息子の話を聞いてフラッシュバックのように蘇ってきた。子育ての面白さは、そんなところにもありますね。

日本社会へ、日本の女性たちへ

――平成のほぼ30年、離れていた日本は、いまブレイディさんの目にどう映りますか。

 一言でいうと、窮屈になった。帰国するたび、そう感じますね。様々な現場で若い人たちを取材したことがあるのですが(「THIS IS JAPAN」、太田出版)、仕事でも人間関係でも、生きづらさを自分のせいにする。自己責任論というやつですね。どうにかなるという楽天的なところも感じられない。私も若いころ、めちゃくちゃ貧乏だったけど、もう少し楽天的でした。今の、この時代を覆う空気なんでしょうね、きっと。

 それから気になるのは、女性問題。英国にいると、特に去年くらいから、女子学生を不利にする医学部入試とか、相撲の土俵に女性が上がれないとか、女性が虐げられた国・日本、というニュースばかり目に入ります。海外メディアにとっては、いかにも日本っぽいという話題で、飛びついている面もあるでしょうけど、悲しいのは、「いや、それはウソです」と言えないことですね。

――確かに。反論できない。

 いまの日本で何がいちばんダメかといえば、経済と女性問題です。この問題をどうにかしていくには、フェミニズムのありかたを考え直すべきじゃないかと思う。男性社会で差別はいろいろあったし、つらい目にあったけど乗り越えた。私=グレイト、だからあなたも頑張れ――こんな新自由主義的な発想では、逆に個人が生きづらくなると思う。もっとソーシャルなフェミニズムを作りだしていかなければいけないのでは。世界的に広がった「Me Too」の運動だって、そういう方向でしょう?

 フェミニズムといって語弊があるなら、シスターフッド(女性同士の連帯)と言い換えてもいい。つらいことをなくしていこうよ、という社会制度を変えていく方向への転換は、一人じゃ絶対無理ですから。

 最近、韓国の女性作家の「82年生まれ、キム・ジヨン」っていう本が売れているじゃないですか。知りあいに聞いたら、あれを読んだ韓国の女性はみんな怒った。でも日本の女性は泣いたと。これが示唆するものは大きいと思う。泣いて終わってたら、しょうがない。涙が乾いたら明日からがんばろうじゃ何も変わらない。やっぱり、みんなで怒らないと、誰もビビらないですよ。

――でも以前、フェミニズムって「おっかない」と感じていたと書いていましたよね。

 ええ、そう思ってました! 私なんか、きっと怒られるって。だから最近まで直接的には書かなかったんです。やっぱり、フェミニズムが学問になってしまって、第一波がこう、第二波がこうと(笑)。そんなことを知らない学のないおまえが言うな、と言われそうだから発言しちゃいけないのかな、と思ってた。

 でも、これからの女性の運動は、フェミニズムのフェの字も知らないような人が「私もつらい」「おかしいと思う」と声をあげる、あげてもいいんだ、と思えるものにしないと実際には何も変えられないと思う。女だからといって、何でこんな目にあわなきゃいけないの?と誰もが言い出せる勇気をもらえるものにしないと。

 フェミニズムも左派も、よく分裂しますよね。左派は思想や理念で分裂するのが宿命だとよく言われますけど、でも女性であるということは思想や理念じゃないですよね。事実であり、現実です。なのに無駄に分かれて行ったら、それだけ声が細く小さくなって行く。そもそも女性って数的にはマイノリティでも何でもないですよ。世の中の半分、しっかり生きているんですから。これが何で、いまだにマイノリティということになってるのかが問題であって。

 もちろん個人であることも大事ですよ。だれかと同じになれ、って上から言われたら、私はぜったいイヤだし、まず、なれないし。個人でありながら、そのうえで、ゆるやかに連帯する。個人的なものとソーシャルなものはいつも対立する概念でもないですよね。私が私として生きられるようにするために連帯して闘うこともある。要するに、このバランスが大切なんですよね。

――萎縮し、閉塞する一方の、日本社会へのメッセージは、ありますか。

 不確実な時代って、みんな正しい答えをほしがります。迷ったり、間違ったり、道を踏み外したりすることを恐れる。そういう機運が、ますます閉塞を強める。だから、そういう時代こそ「迷ってやる」くらいの気持ちが必要じゃないかな。自ら迷いながら、探していく。ネットに答えなんか載ってない。だから、ここだけが世界だと思わないこと。迷っているあいだに、まったく違う世界が見つかるかもしれない。今ある世界が、すべてじゃない。どんどん違う世界に出ていけばいいと思いますよ。

 最近、100年前に生きた日英の3人の女性、アナキストや運動家のことを本に書いたのですが(「女たちのテロル」、岩波書店)、いまの時代にアナキズムが必要だとすれば、「鋳型にはまるな」っていうことなんだと思う。人がつくった鋳型にはまるな。今ある鋳型を信じるな。これだけ世界が大きく変わっている時代です。これまでの鋳型を信じてやっていても、しくじる可能性が高いですし(笑)

――今後のお仕事は。

 私は自分が論客とは思っていません。なりたいとも思っていない。現場を大切にしたいのもあるし、何が書かれているかよりも、「どう書くか」のほうが気になるということは、書き始めた頃からずっと言ってきた。物書き、ですよね。明確にそうありたい、と思っています。

 ただ、小説とかノンフィクションとか評論とかエッセイとかルポとか、ジャンル分けが細かすぎると思うことがよくあります。形式にこだわりすぎというか別に、ぎちぎちに分けなくてもいいんじゃないかと。ジャンルをクロスオーバーしていると、邪道というか、イロモノ扱いもされますけど、窮屈なところにはまり込むより面白いと思います。

 先日、詩人の伊藤比呂美さんと会ったんですが、彼女は詩だけでなく、エッセイや小説も書かれていますけど、「私の書くものすべてが詩だ」と仰ってます。僭越ながら、その感覚はわかる気がする。と言っても私は詩人じゃないので、「私」がジャンルということにしておきますか。なあんて。

 

 

朝日

(欧州季評)コロナ、英国「南北の分断」 原因、地理でなく貧困に ブレイディみかこ

20201210 500分 朝日

 必要のないコートやジャケット、黒か濃紺のジャージーのボトムやパーカがあったら寄付してほしいというメールが息子の学校の校長から届いた。9月に学校が再開されて以来、コロナ対策として換気のために教室の窓が開けられているが、当然ながら寒いので室内でも上着の着用が許可されている。

 また、体育のある日は、狭い更衣室で「密」の状態になったり、間違って他人の服を触ったり着たりして感染するのを防ぐため、朝から体操服を着て登校し、帰宅するまでそのままだ。半ズボンにポロシャツの体操服姿で一日過ごすのは寒すぎるので、例年なら必要のないジャージーのボトムやパーカも購入する必要が出てきた。だが、その余裕のない家庭が多く存在する。だから、一部の保護者のボランティア活動では賄えなくなり、校長が寄付を呼びかけているのだ。

 イングランドより寒くなるスコットランドはもっと大変なのではないかと思っていると、やはり、スコットランド各地の学生服バンク(慈善団体によるフードバンクの制服版)が需要急増を訴えていた。ある制服バンクでは、福祉課などから紹介されて来る利用者数が、今年9月で前年比40%増となり、11月では131%増だったという。ある職員は、英紙ガーディアンにこう話している。

 「冬用ジャケットの需要が増えた原因は、換気を保つために窓を開けた教室は寒いので、上着を着用する子どもたちが出てきたことと、そして、コロナのために貧困に陥った家庭が多く存在し、季節が変わるこの時期に冬用の暖かい上着を買うお金がないということの両方です」

     *

 英国は115日から2度目のロックダウンが始まり、122日に解除されたが、その間も学校の授業はあった。そして、ロックダウンの開始前には、地域ごとに3段階の感染リスクの高さで分ける警戒システムを用いてきた。このシステムはロックダウン終了後の現在も用いられているが、これで明らかになったのは、11月の段階で、感染リスクが「非常に高い」と見なされた「第3段階」に指定された地域が北部に圧倒的に多いということだった。当初、これは冬の訪れが早いからだと思われてきた。

 しかし、オックスフォード大学の人文地理学教授、ダニー・ドーリング氏がガーディアン紙に寄稿した記事によれば、北部のほうが南部より貧しいからであり、リモートワークできない職業の人が多く、公共交通機関を利用する人が多いせいだという。子どもの世話にしても、北部では近隣に住む家族に預けているケースが多く、低い賃金ではなかなか保育園に子どもを通わせられない。早期リタイアできる余裕のある人は北部には少なく、年金をもらいながら仕事をしている高齢者が多い。住宅事情も、狭い家で大家族が暮らしていることが多く、外に働きに出る家族の一人が感染すれば家族全員に広がる。

 他方、南部のロンドン通勤圏の地域には、近所に親類縁者が住んでいるケースは少ないし、リモートワークできる職業に就いている人々が北部より多い。PCR検査で陽性になったとしても、そのまま家で働き続けられる人たちだ。また、核家族が多く、子どもにはそれぞれ自室があって、家族内で交流も少ない。

 つまり、英国で話題になっているコロナ感染における「南北の分断」は、地理的なものというより、居住者の経済状況や生活様式が関係しているというのだ。この説を後押しするように、ノース・サマセットやケント・アンド・メッドウェイなど南部に分類される地域でも「第3段階」に指定されている貧しい地区があり、単純に「北部は寒いから」では説明がつかない。

 貧しい暮らし向きの家庭ほど感染リスクを負っている。コロナによる経済危機のために、英国では約70万人が貧困に陥っているという分析もある。レガタム研究所が発表したこの数字には12万人の子どもたちも含まれており、これで英国の貧困者の数は1500万人以上にのぼり、人口の約22%が貧困ということになる。

     *

 コロナ後の世界は変わると言われる。が、いま食べられない人々に「思想の転換点」とか悠長なことを説いてもしかたがない。まず必要なのは貧困対策だ。コロナ禍を抜けた世界を待っているのは、見たこともない規模での貧困禍かもしれないのだ。

 公営住宅地で気をつけて見てみれば、本当に今年はジャケットを着ていない子どもが多い。1着ずつあれば冬は乗り切れるからと、残りの上着は家族分すべて寄付すると言うママ友もいる。服を寄付することや、必要な子どもに分配することは私たち庶民にもできる。が、コロナで職を失ったり、自分の店を閉じた保護者たちのために雇用を創出したり、国の貧困率を減らしたりするのは政治の仕事だ。今年は各国政府のコロナ対応の有効性が比較されたが、来年は各国の貧困対策が比較されることになるだろう。目を見開いてしっかりそれを見ていかなければならないのは、有権者一人一人だ。

     

 1965年生まれ。保育士・ライター。英国在住。著書に「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」「ブロークン・ブリテンに聞け」など。

 憲法、科学などテーマごとの「季評」を随時掲載します。ブレイディさんの次回は来年3月の予定です。

 

 

ブレイディみかこが見た英国のユニークな教育現場

文化往来 2019713 6:00 日経

人種差別はなくならないし、厳しい経済格差は変わらない。それでも子どもたちは日々成長する自我をぶつけ合い、互いの違いを認めて生活するすべを身に付けていく。英国在住の保育士・ライター、ブレイディみかこの新刊「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社)は、欧州連合(EU)から離脱するブレグジット問題で迷走する英国で生きる中学生の日常をユーモラスに、ときにほろ苦く描いたノンフィクションだ。

英南岸の街ブライトンで、労働者階級や移民の子どもが集まる保育所で働く日々をつづったブログや著書「子どもたちの階級闘争」(みすず書房)が話題になった。1人息子が11歳で入った中学校は、ユニークな音楽教育などを通じ「元底辺校」から抜け出そうとしていた。「面白い先生が集まっていて、例えばLGBTQ(性的少数者)についての教育にも力を入れている。校長自ら(シンボルカラーの)虹色のストラップを首から提げて、相談したい生徒はいつでもおいでって」

ブレイディみかこ著「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社)

期末試験の問題が「エンパシーとは何か」。「シンパシーと似ていて英国人でも区別が難しいけれど、エンパシーは他人の感情や経験を推し量って理解する能力、つまり『共感』のこと。誰かをかわいそうだと思うシンパシー(同情)と違って、知的な作業なんですよね」

息子は解答用紙に「誰かの靴を履いてみること」と書いた。「他人の靴は、もしかしたらちょっぴり臭って嫌かもしれないけど、とにかく履いてみることで、自分と意見の違う人の立場を想像できる。EU離脱騒動で分断され、カオスみたいになっている社会に、今こそ必要とされている発想だと思います」

書名は息子がノートに書いた言葉から取った。日本人の母とアイルランド系の父の間に生まれ、アイデンティティーをつかみあぐねている息子。「でもね、一つだけを選ぶ必要なんか別にないって思うんです。日本人で、アイルランド人で、英国人で、同時にヨーロッパ人であっていい。むしろ、一つしかないと思い込むところに、いさかいが起こる」

(郷原信之)

 

 

 

 

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