ニューヨーク・タイムズが報じた100人の死亡記事  William McDonald  2020.8.14.

 

2020.8.14. ニューヨーク・タイムズが報じた100人の死亡記事

The New York Times Book of the Dead: 320 Print and 10,000 Digital Obituaries of Extraordinary People

 

編者 William McDonald 『ニューヨーク・タイムズ』記者。1988年入社。06年より死亡記事担当。アメリカの人種問題を扱った記事でピュリッツァー賞受賞

 

訳者

矢羽野薫 181214章 

服部真琴 9章、11

雨海弘美 10章、11

 

発行日           2020.5.20. 初版印刷                    5.30. 初版発行

発行所           河出書房新社

 

同時代人だからこそ書けた 衝撃的な 最期の瞬間とその人生

死は、人生を呼び起こし、過去に光を当てる――リンカーン、ヒトラー、スティーブ・ジョブス、マイケル・ジャクソン・・・・。創刊以来の約170年間、時代を反映する100人の死亡記事に凝縮された歴史の息づかい

 

表紙カバー裏

過去の死亡記事を読むことは、時間を超越する経験かも知れない

死亡記事が掲載されるのは選ばれた人々だ。彼等の実績、傑出性、社会に与えた影響が、彼等を一流の舞台に押し上げた。私たち死亡記事の担当者はこんなふうに言う。「彼等が浮かび上がって来る」(中略)

紙面の死亡記事と同じように、この本は過去を映す鏡。広角のバックミラーだ。1本の死亡記事は1つの人生を物語るが、ほかの死亡記事と並ぶことによって、全体が社会を反映し、彼等の人生が歴史の最前線へと導かれる

 

 

はじめに

1865.4.17. 『ニューヨーク・タイムズ』紙の1面は次のように伝えた

《我らのとてつもない損失 リンカーン大統領、暗殺される 恐ろしい犯罪の詳報》

国家的な惨事としては小さ目の見出しは、左上の長細い1コラム分を占めていた。興奮より悲しみを誘い、胸ぐらを掴むというより、肩に手を置いて慰めるかのような見出しだ

下に続く記事も抑制がきいている

遠い昔のアメリカ人にとって、リンカーンの暗殺がどのような衝撃だったのか、知る由もないが、当時の言葉を読むと、事件の詳細を知っていることも忘れて、情報に飢えている当時の人々に自分を重ねる

過去の死亡記事を読むことは、時間を超越する経験かも知れない

『ザ・タイムズ』のように歴史の記録に貢献するという役割を意識してきた報道機関は数えるほどしかない。この本には、世界に足跡を残してきた最も聡明な人々の本物のポートレートが詰まっている

1万人を超えるアーカイブのうち約300を抽出。本書も紙面も、死亡記事が掲載されるのは選ばれた人々。結果として名前が残っているに過ぎない。彼等の人間としての自尊心が、私たちのそれより必ずしも価値があるというわけでもない。よりニュースに値するというだけ

登場人物の共通点は、競争を勝ち抜き、周りの人々は消えていった、ほんの僅かな差だとしても、より世間の関心を掻き立てると認められた

大半が白人男性。紙面でも似たような不均衡は見られるが、近年は大分改善。偏りは間違いなく存在するが、それもまた歴史であり、過去の偏見と不正義を映し出している

初期の死亡記事は掲示板の告知とほとんど変わりなかったが、やがて死亡記事は伝記の要約になり、賛美する口調も少なくないが、20世紀前半はより定型的、記者の署名がつくのはまだ先

歴史の大半を通じて控えめな死亡記事が多い

ゴッホやセザンヌ、チェーホフ、カフカなどが登場しないのは、死亡記事がなかったから

ジャーナリズムは様々な分野で進化を続けている。死亡記事もその1つで、近年の死亡記事はかつてないほど、ナラティヴなストーリーテリングのツールとして威力を発揮。熟達した死亡記事を事前に用意する記者は何人もいる

新聞の死亡記事は、1人の人生を語るうえで、夢のない手法になっていくかもしれないが、どのような形になっても、死亡記事の基本的な使命は変わらない。偉大な人生を呼び起こし、その人生を形づくった過去に光を当て、1人の人間が歩んだ道が私たち後継者をどのように導くかを照らし出す

 

1章       世界的な著名人 The World Stage

 

1.    オットー・フォン・ビスマルク Otto von Bismarck (1815.4.1.1898.7.30.)

ドイツの断片性が生んだ脆さを目の当たりにするが、一方で、断片を1つの連邦として束ねることが出来れば、揺るぎない国家に潜在的な力をもたらすことを見抜いていた

権力者の絶対的権威を提唱したが、自分に対して振るわれる権威には我慢がならず、いかなる苦境でも堂々と己を晒し、命を狙われているときでさえ国中を馬で疾走する大胆さから、「狂人ビスマルク」とも呼ばれた。早くから政治に志し、知名度が高まるにつれて敵も多くなり、自らも「プロイセンきっての嫌われ者」になったと告白

あらゆる大衆運動を嫌い、国王は臣民に何も言う必要はなく、思う通りに振舞うべきと考え、48年前半には「民主主義と立憲主義の温床であるすべての大都市が地球上から一掃されない限り、世界の永続的平和はない」と主張

47年結婚するが、これ以上甘いストーリーはないというほど甘い恋愛を経ての結果だった61年、盟友ヴィルヘルム1世の即位とともに首相となり、ドイツ統一に向けてオーストリアやフランスの勢力を殺ぎ、ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠を行う

太平洋やアフリカのドイツ人入植地を次々に併合、国外にもう1つのドイツ帝国を築くことに拘り続けるが、ヴィルヘルム2世の即位後の90年辞任

人となりには議論の余地もあり、友人は手放しの賛辞を送るが、敵対する人々は雑言を浴びせる。家族関係は問題ないが、公人としての振る舞いは残忍な暴君という非難も少なくない。残忍な人間だったら、戦争の痛みを和らげるために最善を尽くそうとせず、戦争の恐怖を大いに楽しんだことだろう

 

2.    ヴィクトリア女王 Queen Victoria (1819.5.24.1901.1.22.)

81歳にして初めての大病、本人も意識していなかっただろうが、大往生

1837年即位した女王の治世はイギリス史上最長、1人の君主の治世でこれほど拡大したことはない。文学と知識の探求に関しても目覚ましい成果を残し、新しい事実と書き言葉による記録の蓄積に多くの不朽の貢献をし、この時代の頭脳が達成した科学的実績は人類に傑出した驚異と恵みをもたらした

後にプリンス・コンソート(王配殿下)の称号を受けるアルバート公は、ザクセン=コーブルク=ゴータ公の次男で、ヴィクトリアの3か月後の生まれ。36年初めて王女と対面、40年結婚。女王は国政以外はすべてアルバート公に絶対的な権限を託していることを自ら示す。61年病死後のヴィクトリアは隠遁に近い生活を送り、67年ロイヤル・アルバート・ホールの礎石を据える。87年在位50周年式典。9人の子供、31人の孫、6人の曾孫

84/85年に普通選挙実現

1839年勃発の対中国の戦いは貿易戦争。42年の南京条約で香港島を永久割譲

1854年のクリミア戦争は、オスマン帝国が支配していたエルサレムの聖地の管理権を巡る露仏の対立が発端

1年後には背ポイの反乱が始まり、58年直轄領にして、76年インド女帝の称号を獲得

郵便料金が引き下げられ、蒸気機関の性能が向上して交通網が発達したのは最大の功績

37年には溶かした銑鉄に空気を吹き付けて精錬する製鉄法が発明され飛躍的に製鉄業が発展

崇高で永続的な文献も残す。最右翼はダーウィン。マコーリー、サッカレーが不朽の名声を得る可能性は大いにある。ブラウニング夫妻の詩もディケンズやエリオットもこの時代

 

3.    ニコライ・レーニン Nicolai Lenin (1870.4.22.1924.1.21.)

死因は脳出血。「レーニン」は筆名、本姓はウリヤノフ

世界最大の農業資源を持つ国の食糧資源が破綻するなか、あっという間に権力を掌握して、国際的な信奉者までを惹きつけた

小作人と労働者がレーニンを訳も分からず畏怖したのに対し、彼に近い人々は、その絶対的な無私無欲さと、確たる信念の強さを知っているからこそ忠誠を誓った。自分の理論がうまく機能しないという現実が、彼に致命的な病をもたらした精神的要因の1つとして報じられたこともある。フランス革命は暗殺を正当化したが、レーニンはその数百倍の人を司法の名の下に殺害。レーニンにとって最大の失望は、国際的な社会主義運動が失敗し、諸国の共産主義者が政府を転覆できず、革命の早い段階で世界をソヴィエトの支配下に置くことが出来なかったこと

ただ、彼の革命思想は当初から、「資本主義的な」政府との妥協を許容、ロシア革命の際スイスに亡命していたレーニンを、ドイツは戦略的に大戦からロシアを遠ざけるべくレーニンをロシアに戻すためドイツ領内の通過を認めたが、この資本主義政府の支援をレーニンは喜んで受け入れた

レーニンは生涯で2度ロシアの歴史に大きな影響を与えた。最初は05年の革命で、2回目は17年。純粋な教条主義を貫き、中途半端な妥協を許さなかった

ボリシェヴィキ政権は最初から社会に混乱をもたらした。生産活動はほぼすべて停止し、輸送網もカオスと化して、大都市を襲った飢饉は地方に広がった。戒厳令で産業を国有化し、労働者に命懸けの労働を強いて製造を復活させようという試みが散発的に実施されたが、持続することも広く適用されることもなかった

ロシアの社会が崩壊しても、ロシアの社会制度を世界に向けて宣伝し推奨するレーニンの著述活動は衰えを知らず、ロシアの飢饉と破滅の現実を認めようとせず、実情を伝える報道は資本主義勢力のメディアの悪意とされた

21年レーニンは初めて部分的ながら敗北と失敗を認める

 

4.    孫逸仙(孫文) Sun Yat-Sen (1866.11.12.1925.3.12.)

肝臓癌

中国政界で知られるようになったのは80年代後半で、国外から満州民族の清朝皇帝を激しく批判した革命思想が祖国でも支持を集め、波乱と勝利と敗北が始まる

国民の蜂起を指揮して皇帝を退位させ、12年に共和制国家の樹立を宣言したが、清朝の後継者は袁世凱が北京で大総統に指名され、孫文の国民党は解散させられたため、21年再度孫を「中国大総統」に選出したが、最後まで中華民国の大総統の座の奪回はならず

孫と同志は広東を拠点に40百万(推定全人口の1/4)が暮らす中国南部を掌握し、「中華南国」と呼ばれることもあるが、国際的に承認している国はない

 

5.    レオン・トロツキー Leon Trotsky (1879.11.7.1940.8.21.)

本名レバ・ブロンシュテイン。同志の暗殺者の手による撲殺

生涯を通して宗教など既存の秩序を攻撃したが、最初は15歳の時、ロシア正教会の神聖な肖像を冒瀆したとして放校に。10代後半にして革命家。マルクス主義を信奉し、共産主義的思想を徐々に体系化、後にレーニンとともにロシアで実践。05年ロシア第1革命で逮捕・流刑。看守の名前を拝借・亡命して以来、その名で世界中に知られる

17年の革命では当初ケレンスキーを支持したが、11月革命でレーニンとともに権力を掌握。赤軍を創設・指揮して周辺地域を平定するが、レーニンとも対立、レーニンの病状悪化で後継になると見られたが、スターリンらのトロイカ体制との権力争いに敗れ、政治的な破滅へと進む

29年叛逆の嫌疑で国外追放となり、35年には再度政府指導者暗殺の謀議で有罪判決を受け、メキシコに亡命するが、新たな反逆罪裁判が追い打ちをかけていた

 

6.    ベニート・ムッソリーニ Benito Mussolini (1883.7.29.1945.4.28.)

失脚、逃亡、拘束、処刑というムッソリーニ最期の物語の最終章は更に醜く、独裁支配の最後に暴君が迎えた、歴史上最もおぞましい結末として語り継がれるだろう

ファシズムを実践し、イタリアを20年以上にわたり支配したムッソリーニは、近代の全体主義の独裁者として初めて権力を掌握し、一番早く権力を失った

彼の人生は最初から最後まで難解、常に華やかでドラマチック。その転落は劇的で、彼がとてつもない責任を負っていた世界大戦の重要な転機となった

貧しい家庭に生まれ、粗暴で攻撃的、各国を放浪しながら社会主義者組織に出入り。第1次大戦では陸軍に志願、模範兵に。戦後は反動勢力と結び、騒乱を起こして社会的闘争を行うと公言。22年には黒シャツ隊を率いて暴れ、国王から組閣を命じられ権力を掌握

35年のエチオピア侵攻を機にイギリスと一触即発の状態になり、以後ドイツへの傾斜を深める。ナチスのチェコ侵攻のあと、イギリスの依頼で調停に乗り出しミュンヘン会談をアレンジするが、親ナチスの立場を鮮明にし、最後まで中立を明言して置きながらドイツ軍のパリ進軍の直前参戦を表明したものの、計算違いだったことはすぐに明らかになる

 

7.    アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler (1889.4.20.1945.4.30.)

ドイツのラジオ放送が、ワーグナーの死を悼んだブルックナーの交響曲第7番を流した後、国民と世界に向けてニュースを告げた。国民の協力と秩序と自制心に訴えながら、ヒトラーに後継者として指名されたデーニッツが、ヒトラーを国に人生を捧げた英雄と称え、「私の最初の仕事は、ボリシェヴィキの敵を阻止してドイツを破壊から救うこと。この目的の為だけに軍事闘争は続く」と宣言

ヒトラーは、レーニンやムッソリーニと同様、第1次大戦の産物。共通の環境が3人を育てた。1418年の血と混沌を生き延びて頭角を現したが、ヒトラーは3人の中で最も唐突な登場。無名から絶対的存在へ。諸国の新たな戦争を解き放ち、世界を挑発

1次大戦後のドイツで社会と政治と経済が悪化したことが、ヒトラーが権力の座へと躍り出る踏み台となる

大衆と個人の心理を見抜く目は不気味なほどに鋭く、人々の感情を揺さぶる最強の技を習得し、その強みが他人――「羊とバカ者の群れ」――に対する軽蔑を助長

1次大戦では陸軍に志願、伝令兵として鉄十字章を授与。敗戦後も義勇軍のスパイとして働き人脈を広げ、雄弁さと冷酷な手法と大胆な思想を武器に小さな政党活動に没頭し、新しい力と偉大な時代の到来を約束して聴衆を沸かせた

政治的戦略に於て傑出した才能を持っていたヒトラーは、軍と産業界という最大の影響力を持つ人々からの支持と、大衆の熱気と無思慮な追従を、見事に融合させた

30年のドイツ国会選挙は、歴史上最大級の混乱で、前年の大恐慌の深刻な影響を受け、右派左派双方の過激分子が大きな力を獲得し、民主的な共和国は次第に機能しなくなった

ヒトラー政権初期の脅威的な出来事の1つは、主要都市で行われた焚書で、ナチスが西洋の文明と縁を切ったことを象徴

「帝国は消化不良で死ぬ」というナポレオンの言葉通りに、全ては終わった

連合国軍の進撃でヒトラー帝国は崩壊し、ドイツは近代国家として最低の地位に落ちた。それは「支配民族」の歴史にヒトラーが遺した置き土産だ

 

8.    (マリア・)エヴァ・(ドゥアルテ・デ・)ペロン Eva Peron (1919.5.7.52.7.26.)

アルゼンチン史上、新世界史上、最も影響力のある女性の1人は、長く病を患っていた

享年30。「国家の精神的指導者」と呼ばれたが、前年の癌の手術で憔悴

売れない女優からラジオ局のレギュラーとなり、24歳で陸軍次官のペロン大佐と知り合い、45年結婚。結婚前から夫の政治活動を手伝う。一旦夫はクーデターにより副大統領・陸軍大臣の座を追われたが、46年に大統領に当選すると妻として官邸に入り、国政に影響力を持つ。47年のヨーロッパ外遊では熱狂的な歓迎を受け、51年には夫婦で国を率いようと高圧的な選挙活動を始める。副大統領候補となるが、軍の抵抗にあって断念

 

9.    ヨシフ・スターリン Joseph Stalin (1878.12.18.1953.3.5.)

共産党ほかの連名で死去を伝える声明を発表、党と政府の下に結集するよう訴え、国内外の敵との戦いに向けて固い結束を示し、政治的に最大限の警戒を怠らないことを求めた

死因は循環器と呼吸器全般の機能不全で、脳卒中の発作から4日後のこと

世界で初めてマルクス主義の大国を築いた強硬な革命家集団の1人であり、独裁者として精力的に、冷酷に、国家の社会主義化と産業化を推し進めた

性格と狡猾さと幸運が溶け合って権力を手にする。国内の知識人(と呼べる人がいたとしたら)より忍耐強かった。個人的な魅力も自在に振りまき、トルーマンも「ジョーが好きだ。まともな男だ、ただ政治局に囚われているだけだ」といい、戦時中はローズヴェルトやチャーチルなど連合国の指導者たちからも称賛と感嘆を受けた。トロツキーは「知性は取るに足りないが、ソ連の官僚組織に染みついている「凡庸さの精神」を体現している」と評し、レーニンもスターリンを筋金入りの共産党員として高く評価する一方、「粗野」で「粗暴」な人間であり、「胡椒がききすぎた料理しか作れない料理人」と語る

本名ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。グルジアの極貧の村の生まれ。早くから革命に身を投じ、05年の革命の一端を担ぎ、投獄・逃亡を繰り返し、17年の革命で釈放され、革命の中枢へと入る

69歳の誕生日に、メディアはソ連の国民に厳しい現実を見せつけた。公表された写真は髪が真っ白。70歳の誕生日は盛大な祝賀会が催され、私生活を初めて国民に垣間見せたが、それが最初で最後、以降個人的な動向は殆ど伝えられなかった

2度目の結婚で息子と娘が出来、息子は空軍中将だが、娘のスヴェトラーナについては、その名前と知的関心が高いことしか聞こえてこない

 

10.    ウィンストン・チャーチル Winston Churchill (1874.11.30.1965.1.24.)

独裁者に立ち向かう意志を体現した偉大な人物が、今朝自宅で歴史の1頁になった

9日前に脳卒中。息子1人娘2人、孫10人、ひ孫3人、一番下は2日前に誕生

粘り強さと生命力が彼を歴史的な人物にした。イギリスを1つに束ねて第2次大戦の勝利へと導いた彼の胆力は、自国を救っただけでなく、世界中の国を解放したといえる

偉大な戦争指導者のみならず、戦争と政治に長け、言葉の力を知り尽くした非凡な人物

63年ケネディがチャーチルに米国の名誉市民の称号を授与した際に、「彼は言葉を動員して戦場に送り込んだ」と言った

画家としても高く評価され、歴史家や著述家としても知られる。53年ノーベル文学賞受賞

46年ミズーリ州での演説で鉄のカーテンに言及

陸軍士官学校は3回目の入試で合格、「騎兵科」に入学するが、騎兵科は自前で馬を用意できる裕福な子弟を受け容れる裏口だった。インドとスーダンで従軍。01年から政治活動へ

39年イギリスがドイツに宣戦布告した直後に海軍大臣に復帰。14年第1次大戦が始まった時と同じポジションに。40年ドイツのオランダ・ベルギー侵攻直後に首相就任

24年から64年まで庶民院議員の連続当選を続け、「庶民院の父」と呼ばれる

 

11.    ホー・チ・ミン Ho Chi Minh (1890.5.19.1969.9.2.)

心臓発作で死去

20世紀の政治家の中でも彼の不屈の精神は際立っていた。その執念で、ヴェトナムの独立と、共産主義と民族主義の融合という目標を追い求めた

若い頃から、フランスの植民地だったヴェトナムの解放を信じ、54年ディエンビエンフーの戦いで仏軍を破る。ヴェトナム国家主席就任の9年後のこと

54年のジュネーヴ休戦協定により北緯17度で南北に分割され、南がアメリカの支援を受けて国家を樹立、分割が既成事実化しそうになったのを見て米軍の猛攻に立ち向かう

ヴェトナム戦争の間、軍需物資の重要な供給源であるソ連や中国など共産主義国とも絶妙のバランスを保つ。徹底した実用主義の共産主義者であり、理論を語るより行動する人

若くして社会主義的な活動に傾倒、共産主義者が民族の解放を後押しすると信じ、仏共産党の創設に参加、22年にはモスクワも訪れコミンテルン大会でレーニンに対面、38年には中国に行って八路軍にも参加、40年ヴェトナムに戻り、ヴェトミンを組織して日本軍と戦い、アメリカの盟友として世界の表舞台に立つ

2次大戦終結とともに、ホーはヴェトナムの独立を宣言したが、国際的に認められるまで9年を要す。ポツダム協定により北は中華民国が、南はフランスの支配下に

68年米軍の北爆停止、パリ和平交渉開始

 

12.    シャルル・ド・ゴール Charles De Gaulle (1890.11.22.1970.11.9.)

80歳の誕生日の直前、心臓発作で死去

2次大戦の英雄は、フランスが内戦勃発の危機に直面し、アルジェリアで駐留軍が反乱を起こした58年政権に就く。以来11年絶対的指導者として君臨したが、69年行政制度改革を図る国民投票で敗北し政界から引退

40年崩壊寸前のフランス国民に戦い続けようとロンドンから呼びかけたのが准将に昇進したばかりの無名の軍人。その時「私がフランスだ」と名乗った信念は彼の心の支えとなり、59年には第5共和政の大統領となり、仏植民地帝国を解体してアルジェリアの独立を承認、一方でその信念ゆえに国内の経済不振に目が向かず、世論に見限られた

サン・シール士官学校卒業後配属された歩兵連隊の隊長がペタン大佐で、第1次大戦で負傷・捕虜となった後、戦後ペタンがド・ゴールを最高軍事会議の事務局に招く。第2次大戦開戦直後国防次官となるが、レジスタンス組織化を決断、政権がドイツへの休戦を準備し始めるとロンドンに亡命、イギリスは自由フランスの指導者として認めるが、ヴィシー政権のペタンはド・ゴールを任務放棄として死刑を宣告

41年フランス国民委員会を組織して委員長に収まり、事実上の亡命政府となる

44年ルクレール将軍が解放したパリで凱旋パレードを率いたのはド・ゴールで、挙国一致内閣を設置して14か月指揮を執る。46年突然引退し、1年余り後撤回して政党制度を否定する人民連合を結成、共産主義と労働組合を痛烈に批判して強硬手段に訴えた

54年までに人民連合は解体、55年公的生活から引退し、『大戦回顧録』を書くが、54年勃発したアルジェリア危機の拡大で58年首相に指名され、59年第5共和政憲法の下80%以上の支持を得て大統領に就任。62年アルジェリアに独立政権発足。その間60年に原爆実験を成功させ、7年後再選されるが、近代化への移行で国内の不満が鬱積、教育改革に端を発したデモの頻発に加え、信任を問う国民投票に敗れ、ゼネストに至って引退

 

13.    ニキータ・フルシチョフ Nikita Khrushchev (1894.4.15.1971.9.11.)

ソヴィエト連邦を10年以上にわたって率いたのち、クレムリンで反旗を翻した保守的な指導者たちに追放されたフルシチョフが心臓発作で死去。正式発表はない

元独裁者の評価を貶め、数々の罪を暴くことに腐心したが、64年に引退後は逼塞

「平和共存」を国際社会の基本概念に加えた人物

56年党大会で3年前に死去したスターリンを徹底的に糾弾、スターリン主義の邪悪さはスターリン個人の欠点のせいで、我々周囲に悲惨な事態を止める力はなかったと強調するための演説で、厚かましいほどの大胆不敵さはその後の10年のフルシチョフの政治を象徴。ソヴィエトの政治に新しいスタイルを取り入れ、閉鎖的だったスターリンとは対照的に、積極的に外に出て大衆と触れ合ったが、外向的な性格が最後は失脚を招く

62年のキューバ危機は、クレムリンから最大級の判断ミスとされ失脚の原因となる

内戦では赤軍に従軍、22年工科大学に入って学内の党組織で書記に指名されたことが契機となって党活動に邁進、34年中央委員になり、同時に選任された139人中100人が逮捕・銃殺される粛清を生き延び、41年にはウクライナ共産党の第一書記としてウクライナ経済の発展を導く

スターリン没後、党を掌握して第一書記となり首相のブルガーニン元帥と組んで世界に行動力と外向性を見せつける

彼の性急さが露呈したのは、56年のポーランドと直後のハンガリーの政変で、ポーランドのゴウムカは社会主義陣営に留まることを約束したので軍事行動は抑えられたが、ハンガリーはワルシャワ条約機構からの脱退を表明したためソ連軍が侵攻

アメリカとの関係では、59年アメリカを公式訪問し、ニクソン副大統領相手に資本主義と社会主義の優劣について即興の「討論」を繰り広げ、友好関係構築を呼びかけたが、60年の国連総会では東欧諸国との関係を非難されて激昂、ソ連指導部内での支持を失っていく

キューバに接近しながら中途半端な介入に終始したことが毛沢東との深刻な対立に拍車をかけ、国内の不況も重なって不満が高まり、64年の休暇中に解任が決議され年金生活に

 

14.    蒋介石 Chiang Kai-Shek (1887.10.31.1975.4.5.)

2次大戦の連合国の指導者・4巨頭の最後の生き残りだったが、心臓発作で死去

27年反共産主義を掲げた流血のクーデターで中国の指導者の昇り詰めたが、22年後共産主義革命によって権力を奪われた

政治的にも社会的にも経済的にも混乱を極めた中国を率いて第2次大戦を戦い、国家の安定を目指したが絵空事に終わる

対日抗戦の戦略として、地方の軍閥とともにゲリラ戦を選んだために、共産党陣営は農民との距離を縮め勢力台頭を許した

40年代以降、米政界では蒋と国民政府を支援する「チャイナ・ロビー」が繰り広げられ、アジアへの共産主義拡散の防壁と期待されさまざまな支援が実現

孫文の下で参謀長を務め、ソヴィエトに支援を求めるが、孫の死去に伴い、クーデターを起こし、共産主義者と労働者を虐殺して南京国民政府を樹立。国民政府は、蒋に個人的な忠誠を誓った軍閥の緩やかな連合体へと変化していくが、アメリカの参戦とともに42年アメリカがスティルウェルを派遣して抗日戦線を統一指揮しようと提案したが、中国の支配を目論む蒋は拒否。終戦で国民党と共産党は休戦協定を結ぶがすぐに内戦に突入、共産党が国内をほぼ掌握するなか、米国務省も国民党政権を見限る

49年総統辞任、台湾に逃れ、50年中華民国総統への復帰を宣言、66年の4期目の就任演説ではいつか本土に戻って新しい国を建設すると誓う

 

15.    フランシスコ・フランコ Francisco Franco (1892.12.4.1975.11.20.)

39年内戦終結で右派の武装勢力を率いて勝利、以後36年にわたり独裁支配

後継者に指名されたのはファン・カルロス・デ・ボルボン王子(37)

民主主義の根本的な権利を抑圧する政策によって社会に安定をもたらす一方で、スペインの生活水準を引き上げ、産業の発達をもたらし、アメリカと重要な同盟関係を結ぶ

当初は厳格な支配を敷いたが、50年代からは比較的緩やかに

2次大戦中は巧みな外交戦術により、独伊から重大な軍事的支援を受けるなど親密ぶりを強調しつつ、非交戦国の立場を貫き、戦後は国際社会から排斥されても辛抱強く耐え、冷戦の本格化した50年、アメリカがスペインに軍事基地を置くことを決断、孤立状態から脱した。55年にはスペインをファシスト政権と見做していた国連にも加入

36年人民戦線内閣誕生とともにクーデターに参画、他の指導者の死で指揮官になったフランコは、ナチスの支援を得て内戦を終結させる

53年アメリカがスペインの軍事基地使用の見返りに経済・軍事支援を決断して蘇る

フランコの残酷さは古代ローマ軍のそれにも例えられ、人間味はなく、効率的でさえあった。一方で家庭生活は地味、腹回りを気にして少食に努める

 

16.    毛沢東 Mao Tse-Tung (1893.12.26.1976.9.9.)

後継者問題の決着が見えないまま他界。後継者の指名はなく、8億の中から毛と同じような畏怖と尊敬の念を集められそうな部下もいない。死因は公式に言及されていない

先進的な大国に踏み荒らされていた時代に生まれ、祖国を復活させて大国としての伝統的な地位を取り戻すという、子供時代の夢を実現させた人生だった

驚異的な忍耐力と考え抜かれた戦略で、農民の不満と愛国心のエネルギーを利用し、農民の小さな努力を数百万人の軍隊に組織。中華人民共和国建国後も、無学な民が圧倒的多数を占める半封建的な農業国を世界で5番目に多い人口を擁する近代的で産業化された社会主義国家に変えた。外交の世界に新たな針路を提示、西洋諸国が課す不平等条約の屈辱の世紀を終わらせた

とことん複雑な人物で、彼を動かす原動力は人道主義と全体主義が入り交じっているように見えた

 

17.    アンワル・アル・サダト Anwar El-Sadat (1918.12.25.81.10.6.)

73年の対イスラエル戦争(4次中東戦争)開戦記念の軍事パレード観閲中に銃撃され死亡。70年ナセルの後を追って大統領に就任、ソ連との関係を絶ち西側に接近

77年自らイスラエルに赴き和平を締結したが、アラブ諸国からは裏切り者と見做され憎悪の的となり、貧困に苦しむ騒然とした国内の不安を鎮めることも出来なかった

「自分の思考の枠組みを変えることが出来ない人は、現実を変えることが出来ず、いかなる進歩もなしえない」というのが信条で、変化を受け入れる姿勢がイスラエルとの和平を実現

パレスチナ人自決権を譲った結果、アラブ世界で事実上孤立、サウジはエジプトへの支援を縮小し、エジプトはアメリカ依存を強める

イスラエルとの対立に終止符を打つため、72年モスクワからの派遣部隊に退去を命じ、ナセルの親ソ路線と決別したのは重要な政治的転換点で、国民の厚い支持が背景にある

 

18.    裕仁 Hirohito (1901.4.29.89.1.7.)

2次大戦参戦国の指導者のうち最後の生存者が死去。在位の62年間は日本の近現代史で最も波乱に満ちた時代だったが、先の123人の天皇の大半と同じように、行動するより座して見守る君主だった

死因は十二指腸癌。879月膵臓の手術(日本の天皇として初めての開腹手術)の際発見されたが本人に告知されず。日本では癌を患者に告知しないことが多い

裕仁が即位した時代は、臣下と臣民は、彼を天照大神の子孫として敬った。神話を利用した軍国主義のプロパガンダにより、200万人以上の兵士が天皇の名の下に命を落とした

45年神話は砕け散り、臣民は初めて天皇の肉声を聞いた。その5か月後もう1つの伝統が崩壊、主権は人民にあり、天皇はもはや神ではないと宣言

明仁は、戦後にアメリカの占領下で立憲民主主義に移行した日本において、初めて誕生した天皇。開国し封建主義を捨ててから120年間で4人目の君主

裕仁は2年前まで精力的に活動。海洋生物学の研究に勤しみ、庭園を散歩して、年に数回皇居のベランダで国民に手を振った

手術後一旦は回復したように見えたが、昨年9月の吐血後は国全体で緊張が高まり、テレビ越しに寝ずの看病をした。皇居の外には報道陣が張り付き、体温や血圧、脈拍や呼吸の数を死の直前まで伝えていた

症状の悪化とともに、暫くの間日本の機能が停止したかのようだった。国民の大多数は天皇といえば裕仁しか知らず、その象徴を失うという運命に向き合いながら

 

19.    サダム・フセイン Saddam Hussein (1937.4.28.2006.12.30.)

残虐さと戦争と大言壮語で30年以上イラクに君臨し、米軍部隊に首都を追われ、故郷に近い町の薄汚い地下穴で逮捕され、絞首刑となる

小作農の小倅に生まれ、暴力はのし上がるために手っ取り早い手段、59年バース党員として独裁者の暗殺に加わったのが政界に飛びこむ契機。68年クーデターでバース党が権力を掌握すると党の民兵組織作りに従事、恐ろしい治安組織を生む

79年イランのイスラム革命に乗じてイランへ侵攻するが反撃にあって劣勢になったところへ、産油国へのイスラム革命波及を懸念したアメリカが支援

90年にはクウェートへ侵攻して傀儡政権を樹立、国際的な危機を招来

034月の目撃を最後に行方をくらます。最大で30カ所用意した隠れ家と忠実な部族民に助けられ、バグダッドを脱出

フセインは折に触れて、イラクで生まれた世界最古の文明メソポタミアの名だたる指導者に自分を重ねようとした。古代の都バビロンの城壁を、新たに焼いた大量の煉瓦で再建

 

20.    マーガレット・サッチャー Margaret Thatcher (1925.10.13.2013.4.8.)

「鉄の女」 タカ派的な経済政策をとり、フォークランド紛争でイギリスに勝利をもたらし、冷戦時代末期の複雑な米ソ関係を助けた政治家。脳卒中。準国葬を執行

イギリス史上初の女性首相。女性が西側の大国を率いたのは近代で初。厳格で冷徹な投手として保守党を3連勝に導き、7990年まで政権を率いる。首相在任期間は20世紀のイギリスの政治家として最長。インフレと財政赤字と労働争議で病んだ経済に荒療治を断行したため、政権末期には閣内からも反乱。ヨーロッパの更なる統合には反対

国の繁栄をもたらす唯一の手段は個人の責任と勤勉で、自由市場民主主義は如何なる侵略にも立ち向かわなければならないと主張、その信念は批判者からも敬意が払われた

現状維持のイメージが定着していた保守党を、改革の党に変え、企業は活性化し、産業の成長が勢いづいて、中流階級が急増したが、3期目は挫折が続き評判も色褪せた

ソヴィエト連邦に敵意を燃やし続け、イギリスの核兵器の近代化を主張したことは、核戦争への恐怖を煽ったが、ゴルバチョフと信頼関係を築き、レーガン大統領と友情を深め、80年代の軍拡競争終焉へ向けた米ソの緊張した交渉において重要な役割を果たす

イギリスではローマ教皇と全国炭鉱労働組合には喧嘩を売るなといわれるが、サッチャーは意に介さず、84年いくつかの炭鉱を閉鎖し、業界の雇用を削減、大規模なストライキに発展したが、1年たって漸く終息。以後「大衆資本主義」の実現に突き進む

 

21.    ネルソン・マンデラ Nelson Mandela (1918.7.18.2013.12.5.)

南アフリカ初の黒人大統領で、尊厳と自制の国際的な象徴

自由を探求し続けたマンデラは、部族の王族の家で育ち、解放運動の地下組織に加わり、刑務所の採石場で働き、大統領を譲った時も、国は依然として犯罪と貧困と腐敗に苦しんでいたが、一方で民主主義が根付き始め、平和が驚くほど広がっていた

自分が迫害者より優れていると常に思っているから、どんなときも寛大に振る舞える

唯一黒人が学ぶことが許された大学で法律を学び、最大の黒人居住区で抵抗運動に参加、61年武装闘争を指揮、反逆罪で逮捕されるが無罪、以後地下に潜る、その後の裁判での陳述は国際的な反アパルトヘイト(現地語で「隔離」の意)運動の指導者としての地位を確立するものだったが、終身刑を宣告され27年投獄、獄中から白人政府と交渉を開始

90年釈放され、黒人と白人の間で白人の支配を終わらせる道筋を協議

9499年の大統領時代の最も重要な遺産は、揺るぎない権利章典の下で法の支配が定着したことで、予想されていた人種や民族の衝突が現実にならなかったこと。彼は統治者として以上に、遥かに優秀な解放者であり、国作りの人

 

2章       アメリカ大統領 American Leaders

22. エイブラハム・リンカーン Abraham Lincoln (1809.2.12.65.4.15.)

暗殺犯は2人だが、共犯者の名前は不詳。何れも行方不明

スワード国務長官も同日自宅で襲われたが、犯人は逃走

死亡記事では生まれた月がJulyとなっている

極めて貧しい環境に生まれ、教育の恩恵を受けず、少しづつ人生の階段を上り、最高位に辿り着いた。優秀な弁護士で、州議会議員から連邦上院議員まで上り詰め、黒人の元奴隷の政治家フレデリック・ダグラスとの論戦における演説は、この国の政治家の口から流れ出た最も崇高で卓越した言葉

知識と教養の殿堂、ニューヨークのクーパー・ユニオン(大学)で行った演説は、最高の選挙演説として広く認められる。奴隷制を部分的に容認し、部分的に解放した状態で国家が存続することはあり得ないという紛れもない事実を、政治家として初めて明確な言葉で語った

この4年間で、リンカーンは高い知性の持ち主であることを証明。自分の国の民のために貢献できる機会をこれ程与えられた人物は、過去にほとんどいなかった。自分の国のために偉大な奉仕をする機会をこれ程恵まれた人物はワシントン以来だった

奴隷解放は、最大の功績として語り継がれ、彼の名声を歴史の最後の瞬間まで伝える

善良で誠実な人、この激動の時代に彼のように実直で良心的な人物が指揮をとったことに、この国は感謝しているだろう

仲間を愛し、貧しい黒人たちからは半ば神のように称えられた。彼の墓に落ちる最も苦い涙は、彼がその足枷を叩き壊し、彼が最も尽くした人種がこぼす涙だろう

 

23. フランクリン・D(デラノ)・ローズヴェルト Franklin D. Roosevelt(1882.1.30.1945.4.12.)

米史上唯一2期を超えて務めた大統領は、4期目の83日目に勝利の喜びの最中で死去

彼が率いた大義は勝利の最終段階に近づいていたが、大戦は死後も続き、極東の敵は今なお頑強に抵抗している。この戦争を勝ち抜いて永続的な平和を実現するために、彼に取って代わる指導者はいないと多くの国民が認めたからこそ、4選を果たした

任期を通じて、社会と経済は急激かつ劇的な変化に満ち、ローズヴェルトは米国史上最も評価の分かれる人物になった。多くの人に愛され、多くの人に憎まれながら、自分が率いた国と自分が生きた世界の未来を形づくるために、誰よりも多くのことを実行した

生い立ちは、社会的地位の高い裕福な家庭の典型。ハーヴァード大からコロンビア・ロースクールを出て弁護士。セオドア・ローズヴェルトお気に入りの姪エレノアと結婚

1910年ニューヨークで民主党が主導権を回復した時に勢いに乗って弱冠28歳で州上院議員となり、党のリーダーとして全国に名を馳せ、12年の大統領選ではウィルソンの当選に貢献、海軍次官となって第1次大戦を迎える

21年ポリオを患い、生死を彷徨い壮絶な闘病生活を乗り越え、28年ニューヨーク州知事となり、高い職務能力を発揮、並外れた政治手腕を振るう

32年大恐慌の断末魔の苦しみの中での大統領選で42州を制して当選、翌年の就任式直前暗殺者に襲われ命拾い。就任演説では国民に熟慮した計画があると語りかけ、「私たちが恐れなければならないのは、恐れそのものだ」と宣言、その後の実績を象徴する言葉となった

就任後直ちに臨時議会を招集、100日間で米議会史上、最も多くの法律を制定。平時としては初めて、大統領に事実上の独裁かつ広範な権限を認め、米政府の政策立案に根本的で革命的な変化をもたらす

ニューディールのいくつかの政策に違憲判決を出した連邦最高裁に対し、権限縮小の改革案を提出、議会で否決されたが、判事の死亡や引退などで、結果的にどの大統領よりも多くの判事を指名

記者会見を頻繁に開き、国民との直接対話を積み重ね、言葉の応酬をワシントンで最高のショーに仕立てた。庶民に向けて自分の政策を鮮烈なフレーズで説明する才能に長けた

並外れた人間的魅力があり、政策の見識には疑問を持ちつつも彼を慕った。深みある豊かな声は、多くの炉辺談話や正式な演説として、ラジオを通じアメリカの家庭に届けられた

40年の民主党大会では3選に向けた態度を明らかにしていなかったが、第1回目の投票で指名され、閉幕直前に劇的な出馬宣言をし、本選では旋風を巻き起こす

独裁者と侵略国に立ち向かい、中立法を改正して、民主主義国の「武器庫」となることがアメリカにとって最も有用な役割だと主張し、武力侵攻の犠牲者に資金と支援を提供することを議会に認めさせた

真珠湾後は、アメリカ経済を総動員した最も強力な戦争経済が生まれ、徴兵も1844歳に拡大、兵力1100万を達成

44年民主党はローズヴェルトの4選を支持、ローズヴェルトが再選されなければ敵国を安心させ助けることになると主張、36州を制して史上初の4選が実現

 

24. ジョン・F(フィッツジェラルド)・ケネディ John F. Kennedy (1917.5.29.63.11.22.)

テキサスで銃弾を受け死去。犯人のオズワルドはソ連に亡命したことがあり、キューバ公平委員会で活動、今夜殺人罪で起訴された。在職中に暗殺された4人目の大統領

プリンストンから、病気でハーヴァードに転校、政治学で優等の成績で卒業

45年政界進出を決意、47年マサチューセッツ州選出の連邦下院議員、53年上院議員。苦痛を伴う慢性的な背中の障碍のため、容態悪化で入退院を繰り返し、政治的な関心を物書きで実現しようとして書いたアメリカ政治の勇敢な決断を取り上げた『勇気ある人々』(56)はピュリッツァー賞(伝記部門)を受賞

56年の副大統領候補で敗れた後、58年の上院議員選挙では記録的大差で勝利し、60年の大統領選では、カトリック教徒である壁に挑戦して乗り越え、唐の指名を獲得すると、ニクソンとの本選では初のテレビ討論という革新的手法が取り入れられ、その第1回目の全米放送が選挙の命運を分かつ。カトリック問題でも、プロテスタント聖職者との話し合いをテレビ放映させ、教皇に忠誠を誓うカトリック教徒がホワイトハウスで自主的に行動することは出来ないとの主張に対し、信仰ゆえに国益に適う決断ができないと自覚した時は大統領の職を辞すると明言して支持を増やす

史上稀に見る接戦を制した後、政権に就いても重大な事件が続く。就任演説は僅か1355語、近年の大統領の中でも特に短い決意表明だが、有名なフレーズは残った Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country

議会との調整は困難を極め、結果が出せないまま支持率は下がり続け、約束していた公民権法も税制改革も棚上げのまま、最後の記者会見では立法の実績がない事実を認めている

 

3章       ビジネスの巨人たち Titans of Business

25.    J・ピアポント・モルガン J. Pierpont Morgan (1837.4.17.1913.3.31.)

今の世代の記憶にある限り昔からアメリカの金融界の第一人者であり続け、世界の銀行業界にとって唯一最大の存在と言われてきた。彼の人生は、この国の鉄道、産業組織、大手銀行が勢力を拡大した時代と密接に絡み合う

1907年の金融恐慌で彼の権勢は頂点に達し、全ての人が彼の指揮に従った

莫大な資産の相続人として出発。85年には激しい競争に明け暮れた鉄道業界の競争に終止符を打ち、20世紀を迎えるころには東海岸を代表する銀行家に発展。無煙炭の輸送を仕切り、カーネギーを抱き込んでUSスティールを設立し鉄鋼業を独占

07年の金融恐慌では、国が業界全体の支援のためにモルガンに資金を預託、一切をモルガンの判断に委ね、銀行の救済計画がまとまって恐慌は一気に終息

マディソン&36thのモルガンの屋敷は美しい庭園で知られる。書物と美術品の個人コレクションを収蔵するモルガン・ライブラリーを始め、ニューヨークの中心部で最も素晴らしい個人邸宅群の1つ。ニューヨーク州クラグストンの夏の別荘がお気に入り

末娘のアンはブルックリンのネイヴィー・ヤードで労働者に商品や手ごろな値段の食事を提供する食道の開設に尽力したが、結婚の噂が流れるたびに、「ピアポントの娘でいるより、その人の妻になりたいと思う男性にまだ出会っていない」と語る

 

26.    アンドリュー・カーネギー Andrew Carnegie (1835.11.25.1919.8.11.)

気管支肺炎。スコットランド生まれ。父親は地元で最後の機織り職人

01USスティールに株を334.5百万ドルで売却して引退、慈善活動に取り組み、平和推進のための図書館の建設などに推定5億にのぼる巨額の資産を費やす

48年ペンシルヴェニアに移住。電信技師から身を起こし、南北戦争では軍の鉄道と電信を監督。戦後は政府の電信網の監督。寝台車製造や油田開発に投資して資産を膨らませ、63年に投資した製鉄所が後の製鉄帝国へと成長。製鋼のベッセマー方式を導入

 

27.    ジョン・D・ロックフェラー John D. Rochefeller (1839.7.8.1937.5.23.)

人生1世紀の節目とした目標まであと2年を前に突然の死去

貧しい過程に生まれ、正式な教育をほとんど受けずに、効率的な営利組織と近代的な企業経営の先駆者となり、同時代で最大の影響力を持つ資本主義者となって、高等教育と科学研究と公衆衛生に関する史上最大の慈善家にして後援者になった

現役引退時の資産は推定15億ドル、1市民が1代で築いた資産としては恐らく過去最大

アメリカで最も金を「稼ぐ人」は、引退後は世界で最も多く金を「与える人」になり、カーネギーの350百万よりさらに多くを投じた。18551934年に慈善団体と教育団体に530.8百万ドル寄付していたことが死後初めて公表

ニューヨーク州の町医者の家に生まれ、10代で金貸しの秘訣を知る。59年ペンシルヴェニアで石油が発掘され、62年にロックフェラーは石油事業に乗り出す。70年スタンダードオイル設立を皮切りに、企業の再編成と合併を繰り返し、72年にはクリーヴランドの精製会社を統合、82年の強大なスタンダード・オイル・トラストの結成へと発展

近代の産業独占時代の始まりを告げる新しい営利企業の基礎を築き、全米の石油生産と輸送を牛耳るが、独占の脅威が非難を呼び、反トラスト運動へと発展、醜聞が蔓延る

 

28.    ヘンリー・フォード Henry Ford (1863.7.30.1947.4.7.)

自動車業界の先駆者が死去。03年設立の一大帝国の経営の最前線からは1年半前に引退

組み立てラインとベルトコンベアを導入して近代アメリカの大量生産方式を確立。スターリンほどの権力者でさえ、大量生産が第2次大戦の勝利の基礎を築いたと認める

アメリカ人の思考に計り知れない影響を与えた。高い賃金と短い労働時間という経済哲学の伝道者

戦前に29百万台以上の自動車を製造した会社は、巨大な設備の軍需転換を強いられ、8000機以上の4発エンジン爆撃機のほか、戦車や戦車駆逐車、小型4輪駆動車、水陸両用小型4輪駆動車、輸送グライダー、トラック、エンジンなどの軍需品を製造

4380歳の誕生日目前に1人息子を失うが、経営の舵を取り続ける

デトロイト郊外の農場に生まれたが、機械いじりが好きで家を飛び出し、デトロイトの機械工場に見習いとして入る。イギリスの雑誌に載っていた内燃エンジンに注目、92年最初の「ガソリン馬車」を完成。出資を募って独自で開発した自動車の製造を始め、レースカーで優勝して名を売り、03年には2気筒8馬力の自動車を1708台販売

軽くて強度のある車体製造用にまだアメリカで生産されていなかったバナジウム鋼と出会ったのが大量生産時代の幕開けにつながり、黒のT型モデルに統一して25年には200万台を生産

14年フォードは18時間労働、最低日給は5ドル(それまでの平均賃金は2ドル40セント)と決める。コストを削減し、原材料の調達と輸送の中間マージンを省くべく、すべて自前で手配し、新しい生産方式を大成功させ、国際的な名声を得る

18年社長を息子のエドセルに譲り、農業用トラクターの開発と週刊誌の刊行に専念すると宣言。21年の不況で財政危機に陥るが、銀行に頭を下げるとともに、資産の現金化を進め危機を回避、以後銀行との関係を全て断ち切って、常に潤沢な手元資金を確保し、銀行に厳しい取引を迫った

24年には全米で生産された自動車の3台に2台はフォード。26年にはGMがシヴォレーを開発して強力なライバルに成長。27年からはT型に代わってA型が人気を博し、28年にはヨーロッパに事業を展開。ソヴィエト・ロシアへも技術支援を行う

大恐慌勃発で実業界のリーダーが集められた時、賃下げの声も上がったが、購買力の維持を何よりも重視。ニューディール政策にも反対し、労働組合結成の権利を定めた規範への署名も拒否。ローズヴェルトの対抗馬を支持、労働組合と対立し続けた

UAWとの闘争は41年フォードが全面的に組合の要求を認めて決着。組合に反対し続けたフォードだが、自動車業界で最も高い賃金を払うことも公言

アメリカの第2次大戦参戦に反対したが、軍備増強の圧力に負けて41年軍需生産のための新工場建設に着手。最終的に1時間に1機のペースで爆撃機を生産

 

29.    ハワード・ニューズ Howard Hughes (1905.12.24.76.4.5.)

その人生と同じくらい謎めいた死を遂げた。自家用ジェットで航行中に脳卒中で死去

1974CIAと協力して68年に太平洋沖に沈没したソ連の潜水艦引揚に挑み、巨大なはしけを建造したが、結局失敗して核弾頭と暗号表とともに再び3マイル下の海底に沈む

人生最大の注目が集まったのは71年無名作家によるヒューズ自伝出版を発表事件で、ヒューズがでっち上げだと告訴し、大手出版社も出版を断念したもの

30年代には自ら航空機を操縦して最速記録を更新したり、ハリウッドで型破りのプロデューサーとして注目された。39年には91時間で世界一周を果たし、議会名誉勲章を受章したが、受け取りに現れず、後にトルーマン大統領が郵送したという

難聴に加えて極度の潔癖症だったことが世間との接触を拒んだ理由、握手も嫌がった

66年ネヴァダに移住、カジノと不動産に125百万ドル投資。一時TWAとノースウェストの経営から遠ざかっていたが、エア・ウェストを買収して航空業界に戻る

富の柱は、父親が開発した岩盤と石油掘削用ドリルを製造してリースするヒューズ・ツールで、ヒューズ・エアクラフトは電子機器や航空機を製造、政府との契約も多い

飛行機の操縦中に何度も事故を起こし大怪我をしているが、最大の失敗は第2次大戦中の飛行艇の開発で、政府資金をつぎ込んだが、1マイル空を飛んだだけに終わる

映画界では自ら発掘したジェーン・ラッセルを起用して西部劇を撮るが、胸の露出が慣習より多すぎるとして映画協会の検閲を通らず、戦時中公開されたが抗議と検閲で上映中止に追い込まれ、46年改めて全米で公開され利益と評判を手にした。2年後映画会社RKOを買収したが、赤字続きの内に映画の世界に飽きて経営権を売却

 

30.    レイ・クロック Ray Kroc (1902.10.5.84.1.14.)

マクドナルドのハンバーガー帝国を築き、アメリカのビジネスと食の慣行を変えた

サンディエゴ・パドレスのオーナー、一族の資産は5億ドルを超える

元ピアニストで、紙コップとミルクシェイク用ミキサーのセールスマンが、不断の努力と閃きで、ファーストフードに特化したドライブインとレストランの経営の改良を続けた

競争の激しいファーストフード業界の自動化と標準化の先駆者。急成長する郊外に目を付け、近所のマクドナルドを家族で訪れることが住民の儀式になった

55年シカゴ郊外にフランチャイズ1号店、今や32か国に7500店以上を展開、83年の売上は80億ドルを超えた。全店舗の3/4はフランチャイズ

成功のカギとなったのは、ファーストフードの小売業で様々な卓越した改良を実現させたこと。フランチャイズの契約相手を厳選し、人間関係のスキルが高い管理職を探し、品質を容赦なく追求、ハンバーグを大豆などの混ぜ物で嵩上げすることを認めなかった。ティーンエイジャーのアルバイトを革新的な方法で活用、低価格維持のためにコスト削減に努力

74年パドレス買収、熱意溢れるオーナーとしてチームを鼓舞

50を過ぎてからの実業界進出と遅咲きだが、60年代半ば新規上場した株は70年代前半人気急上昇で、73年初には60倍に膨れ上がる

繰り返し物議を醸し、従業員を嘘発見器にかけ、彼等がもらったチップを徴収していた

72年にはニクソン陣営への政治献金と、マクドナルドの最大関心事であるティーンエイジャーの最低賃金に対するニクソン政権の立場との関係に疑惑の目が向けられた

クロックのお気に入りの格言は、30代大統領クーリッジの言葉で、「不屈の精神に代わるものはない。才能でも教育でもない」というもので、幹部の多くが共有

ヘミングウェイと同世代で同じシカゴ郊外の生まれ、第1次大戦復員後ジャズピアニストから職を転々とし、ミキサーのセールスマンの時取引先でサンバーナディーノでファーストフード店を経営しているマクドナルド兄弟のオペレーションから閃きを得て、54年フランチャイズ展開を持ち掛け、ロイヤルティを払う契約を結ぶ。61年兄弟から全権利を買収

広告に大金をつぎ込み、消費者にイメージを刷り込むことに成功

79年脳卒中。妻はアルコール依存症の家族を支援する国家的啓蒙プログラムのオペレーション・コルクを立ち上げる

 

31.    スティーヴ・ジョブズ Steve Jobs (1955.2.24.2011.10.5.)

パソコン時代の幕開けに貢献し、デジタル時代に音楽や映画、モバイル通信をどのように経験するかという文化的な変革を率いたヴィジョナリー。膵臓癌の合併症で死去

病気を公表、長い闘病生活中も会社の顔であり続け、8月までCEO

デジタルテクノロジーを操り、直感的なマーケティングのセンスを活用して、パソコン業界と、インターネットを中心に広がるデジタル消費者と、エンターテインメント事業を定義。莫大な富を築き、個人資産は推定83億ドル

76年アップル創業から8年後にマッキントッシュを開発、パソコンは画期的に使いやすくなる。スカリーとの確執で12年間会社を離れたが、97年復帰後は次々革新的なデジタルデバイスを送り出し、音楽やモバイル通信など様々な業界全体をひっくり返した

会社を離れている間は、ジョージ・ルーカスからCGの会社を買収し、ピクサー・スタジオを立ち上げ、ディズニーと製作した《トイ・ストーリー》の公開をきっかけに、CGアニメーションの長編映画を、世界中の子供と大人が楽しめるアートの主流に押し上げた

ジョブズのテクノロジーの理解は、ポップカルチャーへの没頭と結びついていた。彼の世界観は、60年代サンフランシスコ・ベイエリアのカウンターカルチャーによって形成。LSDを試したことは、自分の人生で5本の指に入る重要な経験だったと語っている

シリアから来た学生の子としてサンフランシスコに生まれ、シリコンバレーの機械工の養子として育つ。電話ハックに触発され、無料通話装置を自作して稼ぐ

76年コンピュータお宅のウォズニアックとアップルを創業、ウォズニアックがコンピュータの原型を作りジョブズが商品化。77年には法人市場と消費者市場を席捲、81年上場

79年マウスで操作し、ディスプレイにグラフィカル・ユーザー・インターフェースを採用したパソコンのシステムをゼロックスの研究所で見て閃き、84年マッキントッシュの開発に成功するが商業的には失敗、ペプシコからスカウトしたスカリーと対立して85年退社

すぐにNeXTを立ち上げ、高等教育市場向けのワークステーションの開発を目指す。コンピュータ業界の主力になることはなかったが、90年若いプログラマーがNeXTのマシンを使ったワールドワイドウェブの最初のシステムを発明

96年次世代のOS開発に失敗したアップルはNeXTを買収、翌年ジョブズは顧問としてアップルに復帰。00年からCEOに就任、消費者向けエレクトロニクス業界の改革に乗り出し、最初のデジタル音楽事業はiTunesiPodの発表で急成長

05IBM,モトローラとの提携を解消、マッキントッシュの新モデルにはインテルを搭載

07iPhone発表、翌年には1160万台を売る

彼にモットーがあるとしたら、『全地球カタログThe Whole Earth Catalog』から学んだことかもしれない。60年代に人気を集めたカウンターカルチャー雑誌で、若い頃多大な影響を受けたと語る。同誌最終号に記された警句、「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」を紹介し、「いつもそうありたいと思う」と言っていた

 

4章       大義に生きる Champions of the Cause

32.    マルコムX Malcolm X (1925.5.19.65.2.21.)

好戦的な黒人民主主義者Black Nationalism運動の指導者が支持者の集会で射殺

犯人は黒人のブラック・ムスリムズの過激分子。マルコムは、白人による黒人の搾取と彼が見做すものを、辛辣な雄弁さで攻撃する才能があり、ネーション・オブ・イスラムとは63年に袂を分かち、今回の殺害にも組織は関与していないとするが、殺害の1週間前にはクイーンズの自宅を爆破されていた

アフリカ回帰運動を説いた牧師の子として生まれ、46年刑務所に服役したビッグ・レッドことマルコム・リトルは、マリファナを吸い、コカインをかぎ、ズート・スーツ(黒人の間で流行しただぶだぶのスーツ)を着込んで、スラングを飛ばすチンピラ。7年後釈放され、ネーション・オブ・イスラムの一員、マルコムXになっていた。「キリスト教が私を牢屋に入れ、イスラム教が連れ出してくれた」といい、犯罪歴はキリスト教世界でやったことだと悪びれることはない。母方の祖父が白人で「私の中に流れる白人強姦犯の血が憎い」という

獄中でイスラムの世界を知り、禁欲主義にのめり込診、ネーション・オブ・イスラムの一員として頭角を現す。人種差別主義で黒人分離主義を支持していたが、ネーション・オブ・イスラムと決別してからは、人種差別主義に背を向ける。決別の原因は、マルコムがJFKの暗殺を、「鶏が鳥小屋に帰るようなもの(=因果応報)」と言ったことで、マルコムは別なイスラム組織を設立、ネーション・オブ・イスラムはマルコム殺害を最高の名誉として煽る

 

33.    (エルネスト・)チェ・ゲヴァラ Che Guevara (1928.6.14.67.10.9.)

中南米の革命指導者が、ボリヴィア南東部で軍とゲリラの衝突の際殺害された

モスクワの不信感を煽った異端の共産主義者は、政治の冒険家として、孤高の活動家こそが人を革命に駆り立てて歴史を形づくるという信念を貫いた

スペインとアイルランドの血を引くアルゼンチン人ながら、特別法によって「キューバ生まれの」キューバ市民となり、思春期の頃から、19世紀の「解放者」シモン・ボリヴァールとマルティンの後継者を自負、中南米を支配するヤンキーを倒すために戦ってきた

学生時代から中南米の各地で暴れまわり、キューバではカストロの右腕として活躍、キューバ革命政権の幹部として、国連やモスクワ・北京などを訪問・演説したが、65年消息を絶つ。半年後カストロも出国を認めたが、後刻明らかになったところではゲヴァラがカストロに手紙を書き、「キューバ革命での責務は果たした。他の土地が私の力を必要としている」

 

34.    マーティン・ルーサー・キング・ジュニア Martin Luther King Jr. (1929.1.15.68.4.4.)

非暴力の急進的な兄弟愛を説いた公民権運動家。待遇改善を求める清掃労働者を支援するために訪れたメンフィスで白人と思われる男に狙撃され死去。犯人は逃走

何百万というアメリカの黒人にとって、キング牧師は人種差別撤廃運動の精神的な指導者であり、彼等の苦悩を代弁、屈辱を雄弁に語り人間としての尊厳を求める鬨の声を上げた

1967年夏、全米の多くの都市で人種間の緊張が高まり、放火や銃撃、略奪に発展した際、白人と黒人の過激主義者の板挟みになった

公民権運動と非暴力に対する強い信念は、ヴェトナム反戦運動でもキングを先頭に立たせた。人種融和政策の象徴として容赦ない攻撃と罵倒の標的となり、自宅を爆破され、暴力に会い、何度も拘束された。受動的な不服従の信念を貫くことが、人種分離主義者を激昂させた。平和を推進する手段として「戦闘的非暴力」を掲げる

63年夏20万の黒人がワシントンを行進するテレビ映像に白人までも圧倒された

キングは複雑な問題を誰でも理解できるように噛み砕くコツも知っていた

キングが影響力を拡大し維持できたのは、60年彼が中心となって設立・組織した南部キリスト教指導者会議と学生非暴力調整委員会の存在が大きい

絶好のタイミングで行動する本能が、55年初めて牧師としてアラバマ州モンゴメリーの教会に派遣されたキングの名を全国に知らしめた。バス乗車を巡る市営バスボイコット運動を、ソローやガンジーが提唱した市民的不服従を実践する場に仕立て上げた。その最中自宅が爆破され、さらなる混乱の中群衆を宥めた手腕は更に劇的だった

荒れ狂う人種間の対立にキングの言葉がもたらす影響力は64年にはニューヨークにも届く。黒人の多く暮らす北部の都市のワッツで暴動が相次ぎハーレムを中心に社会不安が増大する中、キングは秩序回復のための有力な仲裁者と目される存在となり、大統領選が終わるまで大規模な抗議活動の全面的中断を呼びかける

翌年には有権者登録を求める抗議活動の先頭に立ち、アラバマ州で黒人として初めて有権者登録をしたため、白人から暴行を受ける

 

5章       考える人(哲学者、研究者) Thinkers

35.    カール・マルクス Karl Marx (1818.5.5.83.3.14.)

死因は気管支炎、肺の腫瘍、内出血で、親友のエンゲル()が立ち会う

ドイツの社会主義者で国際労働者協会の創設に携わる。ケルンに生まれ、ボン大学とベルリン大学で哲学と法学を学び、42年ライン新聞に参加して編集長となるが、過激な論説は当局の圧力を受け、翌年廃刊。フランスへ行き政治経済と社会問題の研究に没頭

1844年『ヘーゲル法哲学批判序説』を発表、同時にドイツの理想主義を風刺したため、プロイセンの圧力がかかってフランスから追放、ベルギーに移る

47年ロンドンで労働者会議に参加し、共産党宣言の執筆者に名を連ねる

48年以降はロンドンで暮らし、64年ロンドンで結成された国際労働者協会は、「インターナショナル」として知られるようになり、中央評議会の中心となって規約を立案、全体の事実上の評議長となる

72年派閥闘争に敗れて書記長の座を追われ、インターナショナルは2

ロンドンを拠点とし、ニューヨークの新聞の特派員を長く務めた

 

36.    ジークムント・フロイト Sigmund Freud (1856.5.6.1939.9.23.)

精神分析理論の創始者。昨年ナチスがオーストリアに侵攻した後、息子のもとに身を寄せていた。1年以上前から病を患っていた

現代で最も広く議論されている科学者の1人であり、心理学で数多くの新しい概念を提唱、妥協は許さなかったが修正には柔軟。長い激動の研究人生を通じ、世界中が精神分析について語れるように道を開き、抑制が人間の心の壁になっていることを劇化する手法を確立

人生において無意識が大きな割合を占めることを、「心とは氷山のようなもの。全体の1/7を水面から出して漂っている」と譬えた

フロイトの理論が従来の心理学から最も逸脱しているのは、人間は思考する動物ではなく、意志のある動物だという概念で、それまでの「知的」な学問とされた心理学に対し、意志や欲望を理論の中核に据え、知性を周辺の要素に追いやった。この新しい理論をもとに人生の「神秘」の多くを説明、中でも錯乱状態の空想と妄想について新しい考察を示す。夢の重要性を強調、欲望を基礎とする理論は、ごく自然に性がその中核となり、「コンプレックス、抑制、神経症、精神病、抑圧、抵抗、感情移転」等、「フロイト派」の新しい語彙が生まれた

生まれはモラヴィア、ウィーン大学で医学を学び、フランスで精神医学を修め、ウィーンに戻ってあらゆる種類の精神疾患の患者を診察、臨床を通じて自らの理論を発展させた

アメリカを「思慮のない楽観主義と浅薄な行動哲学」しか生み出していない国として嫌ったが、アメリカ側も人間の行動と反応の説明において、性の要素を著しく過大評価していると批判

健筆家で、戦前の保守主義にとっては脅威であり、扇情的でさえあった。最もよく知られているのはヒステリーに関する研究と夢の解釈で、ヒステリーは神経性ショックによってもたらされ、感情的なものであり、本来は性的なもので、原因となる考えが抑圧されて思い出せなくなっている状態だと説明。精神分析の原則と、患者の自由意思を利用することによって、それらの考えを思い出すことが出来、ヒステリーの原因を除去できるとした

晩年は癌と重い心臓病に侵され、38年支持者の支援によってナチスの要求する身代金を払ってウィーンを脱出、ロンドンで最期を過ごす。モーセの神話と、ユダヤ教とキリスト教との関係を論じた著作を仕上げ、精神分析理論を使って宗教の起源を説明することを試み、激しい議論を巻き起こすが、未完成のまま残された

 

37.    ジョン・メイナード・ケインズ John Maynard Keynes (1883.6.5.1946.4.21.)

傑出した経済学者、経済再興の取り組みを2度も戦争に阻まれたが、全世界に影響を与えた。心臓発作で死去

完全雇用を金融政策の最重要目標とする理論を主唱

歴史家であり、音楽や演劇、バレエに造詣が深く、農場の経営で成功、家畜に草を食べさせる工夫を考案。本の収集家。錬金術に関するニュートンの未刊行の原稿は貴重な史料

文学界の中心にいた時期もあり、知識人の集まりブルームズベリー・グループに参加

初めて世間の注目を浴びたのは第1次大戦後のパリ講和会議に大蔵省代表として出席しながら途中で辞任した時で、過酷な条約内容は受諾を突き付けられたドイツ以上に、主導した国々に害をもたらすだろうと予言、賠償条項が厳しすぎると指摘

ケンブリッジで生まれ、生涯ケンブリッジ大学との関係は続き、市のハイ・スチュワード(名誉市民)を受ける。大蔵省と大学を行き来し、イギリスが複雑な財政問題に直面するたびにケインズの助言が重用された

 

38.    ジャン=ポール・サルトル Jean=Paul Sartre (1905.6.21.80.4.15.)

実存主義は、20年以上にわたり、世界中の著作家、思想家に影響を与えた。肺水腫

左派の政治活動を通じ、第2次大戦後の社会意識の形成に多大な貢献

政治は彼を書斎から街頭に連れ出し、彼の考察は小説や戯曲、伝記、エッセイ、小冊子の中で花開く。70年代に入り、極左の異端児となってからは、以前ほど注目されなくなり、19世紀の仏小説家フローベールの伝記が本格的な著作の最後となる

一時は共産党と緊密な関係だったが、ここ15年は寧ろ孤高の革命家。ソヴィエト共産主義より毛沢東主義に近い論調。知識人としての自分の名声を利用して極左の人々の表現の権利を守り、ギリシャ、チリ、スペインで権力に抑圧されたグループを支持する側にも名を貸した。数多の大義を掲げる叛逆者であり、現代のドン・キホーテ

25年前はカミュなどと共に多彩な議論を繰り広げる知的なリーダーだったが、近年は概念を生む繁殖能力を失った祖先として、過去の名声が残っているに過ぎなかった

彼の貢献のうち生き長らえるのは戯曲だけ、哲学者としては非体系的なアプローチが批判されるようになったが、自分の考えを実行しようと試み続けたことに敬意を払わぬ者はいなかった。自らも「様々な行動に己を賭けてきた」と語り、ド・ゴール政権への抗議活動や、アメリカのヴェトナム戦関与に反対して賛同が得られなかったことを振り返る

ナチスによるフランス占領時代、レジスタンスと同様、共産主義者と協力したが、ハンガリー動乱でソ連軍侵攻を仏共産党が支持したので決別。アルジェリアの独立運動も支援、着実に左傾化して、反体制派デモでも果敢に戦う

極左勢力として逮捕もされ、その主張は更に急進的になる。「約束とは行為であって言葉ではない」と言い、その使命感は自分に対する敬意も寄せ付けず、ノーベル賞に対しても「作家が制度化されることは望まない」として受賞を拒否

哲学的見解は進化し、変化して、自伝的小説では過去を否定しているが、実存主義の核心は不変で、簡単に言うと「不条理な世界において、人間は不確実であるにもかかわらず、人間は自分で自分を作っていく

母がシュヴァイツァーのいとこ、20歳で名門の高等師範に入学するが、この頃ボーヴォワールと知り合い、「偶発的な恋愛」の自由を認め合うという契約結婚を結ぶ

背が低く極度の斜視で、何時も創造の怒りに駆られているように見え、最後まで怒りの人

 

39.    スーザン・ソンタグ Susan Sontag (1933.1.16.2004.12.28.)

小説家、エッセイスト、批評家、アヴァンギャルドを情熱的に擁護し、同じくらい情熱的な政治的発言を重ね、20世紀の言論界の寵児にして評価が二分される存在。白血病

40年にわたり、彼女の著作は現代の真正な論説として、大学院の講義から大衆紙までいたるところで議論されている

高尚な文化と大衆文化の境界線を嬉々として掻き乱し、文化の研究に美的アプローチを提唱し、内容より様式を重視して、感性という言葉をあらゆる意味で大切にした。「著作を貫くテーマは、道徳と美学の適切なバランスを目指し続けた生涯の戦い」

セレブでもあり、映画に出演し、CMに起用され、そのイメージは20世紀の大衆文化を象徴する芸術品となった。過去を掘り起こすのではなく、新しさの伝道者となった

大衆文化の研究を、権威ある学問の追究に高めたが、彼女の全ての生産活動の拠り所は、モダニズムの感性を形づくる原動力を明らかにしたいという衝動的な欲求で、それを通じて、20世紀後半に人間として生きることが何を意味するのかを解き明かそうとした

1964年のエッセイ『キャンプについてのノート』は国際的に高く評価された

本人は小説家だと思っていたが、彼女を有名にしたのはエッセイ。78年には『写真論』で全米批評家協会賞受賞。現代の文科で写真を撮るという行為について探求

最後の長編小説『イン・アメリカ』は、19世紀カリフォルニアに移住してユートピア共同体を設立したポーランドの女優モジェスカの生涯を基にして書かれ全米図書賞を受賞したが、盗作疑惑が持ち上がった

 

6章       犯罪者 Notorious

40.    アル(フォンソ・スカーフェイス)・カポネ Al Capone (1899.1.17.1947.1.25.)

シカゴのギャングスタ―で、禁酒法時代に犯罪組織を率いた。4日前に脳卒中で倒れた

米史上最も残忍な凶悪犯罪者の首領として繰り広げたギャングの抗争では、300人以上が落命。2531年が絶頂期。最後は31年に脱税で逮捕され11年の懲役となったが、アトランタからアルカトラズに移送、刑期短縮で39年釈放されるも、既に性病が悪化して神経を病み、身体にも麻痺

ナポリの貧しい理髪師の家に生まれ、ニューヨークに移住、後に犯罪組織を受け継ぐことになるジョニー・トーリオに出会い、シカゴで密造酒を扱うトーリオの片腕として活躍。敵対する勢力を悉く暴力で屠って天下を取る

29年のイリノイ州上院議員、知事の共和党予備選(パイナップル予備選)では現職市長について戦い、敵対する陣営の候補者を暴力の標的としたが、残虐な殺しを指揮したが、結果は敗退するも、犯罪からは逃げ切る

 

41.    アドルフ・アイヒマン Adolf Eichmann (1906.3.19.62.6.1.)

ユダヤ人を強制収容所に移送し、死に至らしめた罪でイスラエル史上初の絞首刑

前日、イスラエル大統領は、恩赦の求めに対し、ヘブライ大教授も含め、寛大な措置を求める嘆願書がきたが、赦免や減刑を命じる権限を行使しないと発表、

最後まで冷徹・頑なで、プロテスタントの牧師が申し出た悔悛の機会を断る

最高裁の決定には、「ゲシュタポ長官にも劣らない力を持ち、1100万人のユダヤ人問題の最終的解決を進める権限があった人物が、他人が動かす機械の1本のねじに過ぎないということは、ねじの大小を問わずあり得ない。彼自身が機械を動かす1人だ」と記されていた

 

42.    ウサマ・ビン・ラディン Osama Bin Laden (1957.3.10.2011.5.2.)

アメリカ本土で近年最も破滅的な攻撃を企て、世界中が行方を追っていたが、パキスタンで米軍との銃撃戦で死亡。オバマ大統領が「正義は遂行された」と宣言、アメリカが主導するテロとの闘いの決定的瞬間となる

サウジ最大の建築会社を経営するまでに成功した父を持つ富裕層の息子として生まれ、急進的かつ暴力的な戦略で7世紀のイスラム帝国の再興を目指し、21世紀のテロの脅威を再定義した。9601年アフガニスタンを支配していたタリバン政権の庇護を金で買い、アルカイダをテロを輸出する国際組織に築き上げ、異教徒の政府を聖戦で倒そうとし、世界にテロを繰り広げる

手本にしたのは、7世紀にイスラム教徒を率い、北アフリカから中東にかけて異教徒や不信心者を圧倒した預言者ムハンマド。自らをエミール(首長)”と見做し、アルカイダは彼の夢を実現するインフラとなる

79年ソ連のアフガニスタン侵攻の際、ビン・ラディンは若いジハード戦士をアフガニスタンに送り込んだが、アフガニスタンの混沌がアルカイダの設立を後押しし、ビン・ラディンと他のイスラム過激派指導者を結びつけた。同時にアメリカもビン・ラディンと同じ敵と戦っており、アラブ勢力に武器と資金を供給し、ビン・ラディンという怪物を作り上げたかのよう

アフガニスタンにおける勝利でイスラム過激派は自信を深め、サウジに戻ったビン・ラディンは英雄として迎えられるが、サウジの王族は彼を警戒し、国外追放になってスーダンに移る

92年アデンでソマリアに向かう米軍部隊が滞在したホテルが爆破されたのがビン・ラディンによる最初のテロ攻撃。93年にはニューヨークのWTCの爆破事件、同年ソマリアでの国連PKO部隊の米兵殺害、95年にはリヤドで米軍施設で爆発事故

96年アメリカの圧力でスーダンからも追放され、アフガニスタンに亡命、タリバンとの連携を深め、聖なる地の占領者アメリカに対する戦争を宣言するファトゥワ(宗教令)を出す

98年ケニアとタンザニアの米大使館が爆破され、アメリカはその報復としてアルカイダの施設を空爆するが、後に誤爆と判明、ビン・ラディンはアメリカを緊張と敵対のスパイラルに陥れ、先に攻撃してきたのはアメリカであるという彼の主張を裏付ける

 

7章       軍人たち Warriors

43.    ジョージ・パットン George Patton (1885.11.11.1945.12.21.)

2次大戦の連合国軍指揮官の中でもひときわ鮮烈だった将軍が、2週間前の自動車事故で胸部が麻痺、肺鬱血で死去

北アフリカ、シチリア、西部戦線で勝利を収め、ナチスの将軍からも最も恐ろしい相手だと認められていた。活字にできない粗暴な放言で知られるが、米軍の歴史に残る言葉もある。北アフリカ上陸前に飛ばした檄、「攻撃して攻撃して、くたばったらさらに攻撃しろ」は、勝利に次ぐ勝利をもたらした信条に他ならない

433月北アフリカのエル・ゲッターの戦いでは米軍として初めてナチスに勝利、次いでシチリアを占拠、西部戦線では10カ月で6か国を進撃、50万人を死傷、75万人を捕虜とする。「血と気力の老将軍」との愛称で、すぐに爆発する怒りと毒舌は伝説

信仰心が篤く、教会で賛美歌を歌うのが好きで、米聖公会の朝の祈りをそらんじていた

一方で、不用意な発言や軽はずみな行為で繰り返し嵐を巻き起こす。非ナチ化について騒ぎ過ぎと批判、ナチスをアメリカの民主党と共和党が選挙で争い、どちらかが負けたようなものだといって、アイゼンハワーから4510月閑職に異動させられた

3代続く軍人の家庭に生まれ、学業はお粗末だったが、運動能力に秀で、12年のストックホルム五輪では近代五種競技に出場、5位になっている

1次大戦では戦車部隊を指揮。第2次大戦でもモロッコに上陸する米軍部隊の指揮官に任命。一旦退いた後シチリア侵攻を命じられ成功するが、野戦病院で戦争神経症と診断された2人の部下を「臆病者」と呼び罵声を浴びせて殴打。アイゼンハワーは激しく非難したが、パットンの能力と忠誠心と粘り強さは貴重だと擁護し正式な懲戒はせず

Dデイから2か月消息不明だったパットンは米第3軍を率い、驚異的なスピードでナチスを蹴散らし、チェコからオーストリアに入り、終戦時はリンツに迫っていた

 

44.    ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur (1880.1.26.1964.4.5.)

連合軍最高司令官として第2次大戦で日本を破り、朝鮮戦争で国連軍の指揮を執る

腎臓と肝臓の急性機能不全で死去

軍人の家庭に生まれ、03年ウェストポイントを首席で卒業、第1次大戦では殊勲十字章と殊勲賞授与、19年ウェストポイントの校長就任、30年大将で参謀総長。フィリピン軍の元帥として招かれるが、41年米陸軍に復帰、太平洋戦争の指揮を執る

50年朝鮮半島動乱に際し、国連軍を指揮して鴨緑江まで進軍するが、中国共産党軍の反撃に遭って大きな損害を被り、マッカーサー元帥は解任、米上下院合同会議で退任の挨拶を行い兵士の古い風刺歌を引用、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」

 

8章       発明家・冒険家 Ground Breakers

45.    トーマス・(アルヴァ・)エジソン Thomas Edison (1847.2.11.1931.10.18.)

偉大な発明家の才能の果実は、日常生活を魔法のように変えた

独創的な才能で世界を電気の光で照らし、蓄音機や動画撮影機など、科学のありとあらゆる分野で1000件以上の発明をした

オハイオ生まれ、精力的で独立心旺盛な性格はオランダから移住した祖先譲り。曽祖父は英国王党派で独立に反対し、13州が独立するとカナダに移住。孫はイギリスの支配に反発した立ち上がり、アメリカに逃れる

学校の成績は悪く、母親に勉強を教えられ独学で物理学と電気を実用的な面から理解を深める。22歳である特許が売れたころから運命の女神が微笑み始める

73年電気技術に関する発明のライセンス契約の選択権を全てウェスタン・ユニオン社に譲渡する契約を結び、ワシントンとニューヨークを結ぶ高速の電信機を完成

3年後にはアーク灯に代わる白熱電球の開発を始め、79年には発熱電球を実用化

77年にはモールス信号機を改良して蓄音機が生まれ、87年には動画撮影機を発明

 

46.    アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein (1879.3.14.1955.4.18.)

現代の最も偉大な思想家。物理学と数学の巨人であり、行動する人道主義者。大動脈破裂

葬儀は行われず、遺体は科学的研究のために主要な臓器を摘出してから埋葬。相対性理論を組み立て、核分裂の研究を可能にした脳も保存

05年発表した4本の画期的な科学論文 ⇒ ①分子の大きさを決める方法、②光電効果の解説(電子工学の基礎となり、ノーベル賞に)、③熱の分子動力学に関するもの、④運動物体の電気力学について(後に特殊相対性理論として知られる)

ドイツのウルムの生まれ、ミュンヘンで育ち、スイス国籍を取得してベルンの特許庁で働きながら物理学の博士号取得。ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所が彼のために新設した部長職に迎えられ、プロイセンの科学アカデミー会員に選出され、研究に専念できるだけの俸給を与えられる

32年プリンストン高等研究所設立で数学と理論物理の教授として招聘され、ベルリンと半々の暮らしを始めるが、ヒトラーの出現で彼の残虐行為を非難したため科学アカデミーから追放処分となり、33年イギリスに身を隠し、40年には米国籍を取得

世間から見えなくなると、伝説としてのアインシュタインは大衆の身近な存在となり、人々は自分たちには理解することなど望むべくもない理論で宇宙を作った人物ではなく、世界市民として、人間の精神と崇高な大志の象徴として感じるようになった。彼を語る時には、「聖人」「気高い」「愛すべき」といった言葉が使われ、彼の周りにはユーモアと温かさと優しさが広がる

彼の政治の理想は民主主義。ヒトラー政権誕生の2年前に、「暴力は必然的に道徳の堕落につながり、全ての暴力的な独裁体制はいずれ退化すると確信している」と書く

抑圧された人々に愛情を寄せ、シオニズムを強く支持

原爆投下を記者から知らされた際、「本当なのか?」と答えると黙り込み、「世界はまだその覚悟が出来ていないのに」と首を横に振った。その後アインシュタインは原子力科学者緊急委員会の議長に就任。アメリカ人に核戦争の潜在的な危険を知らしめ、原子力エネルギーの国際管理の必要性を訴えるために設立されたもの

「私たちが経験する最も美しく深遠な感情は、超自然的なものだ」と書き、「それは真の芸術と科学の源でもある。この感情に馴染みがなく、立ち止まって心を奪われることもなく、畏怖の念を抱かない人は、死んでいるも同然。その目はふさがっている」

 

47.    J・ロバート・オッペンハイマー J. Robert Oppenheimer (1904.4.22.67.2.18.)

原子爆弾の父。咽頭癌

45716日を境に、彼は人類による世界初の原爆実験の目のくらむ閃光と薄暗い影の中で生きることになった。科学の天才として輝く一方、54年には安全保障上のリスクとして名指しされるという屈辱をもたらす。63年には公の場で名誉を称えられたが、不可解なほど複雑な物理学者は、自らの振舞いに対する疑念を完全に拭い去ることは出来なかった

洗練された学者で、人道主義者、8か国語を操り、究極の精神的価値を探求する陰気な求道者。ニューメキシコ州アラモゴード砂漠で実験用の原子爆弾が爆発した瞬間から、宇宙の基本的な力が解き放たれることが人類に及ぼす影響に苦悩

原爆を開発したロスアラモス国立研究所初代所長としての功績から、46年に大統領殊勲賞と功労賞授与

ドイツ移民の子としてニューヨークで生まれ、化学者を志す。ハーヴァード大からケンブリッジに留学しラザフォードに師事して原子物理学を学び、ドイツに移って博士号取得。29年カルテックとUC Berkereyの教員となり、41年から「マンハッタン工兵管区」計画に参加

戦後水爆開発計画は棚上げとなったが、49年のソ連の核実験成功に触発され、アメリカでも核融合装置の開発が急がれたが、オッペンハイマーが議長を務める原子力委員会の総合諮問委員会は研究に留めるべきと決定。トルーマンは諮問を却下して開発を指示

戦前共産主義者と婚約していたこともあって、常に共産主義のスパイの疑いをかけられ、マッカーシズムの犠牲者となったが、62年ケネディから晩餐会に招待され名誉を回復

 

48.    チャールズ・A・リンドバーグ Charles A. Lindbergh (1902.2.4.74.8.26.)

世界初の大西洋単独無着陸飛行に成功。死因はリンパ系の癌。マウイ島の自宅で死去

27年スピリット・オブ・セントルイス号がロングアイランドのローズヴェルト空港を飛び立ち、33時間30分後にパリのブルジェ空港に着陸して名声をもたらした出来事は、彼を大いに興奮させ、深い悲しみに陥れ、激しい議論に巻き込む。辟易して人目を避けるようになり、個人主義を加速させて孤独を突き詰めた。自分の重要性について特別な感覚を抱き、商用航空の発展に大きな役割を果たし、ミサイルと宇宙開発技術の分野で存在感を発揮し、軍事にも影響力を持ち、後年は環境保護に大きな関心を寄せて意義ある発言をした

2000時間の操縦経験を持つプロのパイロットが綿密に計画した挑戦

19年に2機が成功、1回目は米海軍の飛行艇でニューファンドランド島からアゾレス島まで、2回目は英空軍の2人がニューファンドランド島からアイルランドまで飛んでいるが、両大陸間を単独で飛んだのは初めて

強烈な個人主義者。次第に保守的な見解を公言。技術者であり天才的な飛行家だったが、知的ではなかった。本はあまり読まず、社会を分析して語るわけでもなかった

2次大戦への参戦に反対した際、ユダヤ人がアメリカの映画や報道、ラジオ、政府で多大な権限と影響力を振るっていることを危険と語り、反ユダヤ主義かと疑われ、38年にはヒトラーの指示でゲーリングから星章付ドイツ鷲勲章授与を拒否せず、この勲章が生涯彼の評価に影を落とす

彼の人生は、性格と同様、影と謎に満ちていた。ミネソタの弁護士で土地投機家の家に生まれ、早くから飛行機に興味を覚え、22年初飛行、翌年には単独飛行、郵便機の主任パイロットとなり、セントルイスの実業家グループを説得して長距離飛行の夢に挑む

29年駐メキシコ大使の娘アン・モローと結婚、32年長男誘拐、2か月後遺体で発見

世間の目を逃れてイギリスに移住、米軍の要請でナチスの空軍と戦闘機工場を視察、その圧倒的力に、ヨーロッパ諸国の直面している危険の警告に努め、第2次大戦直前に帰国するとアメリカの不干渉主義を説く。反戦団体に入って圧倒的な支持を集め、ローズヴェルトから大きな脅威とみなされる。真珠湾を機に反戦団体は解散、リンドバーグは軍に志願するが拒否、ローズヴェルトの個人的な恨みだと憤慨

終戦から15年以上、メディアから姿を消していたが、空軍長官の顧問を務め、戦略空軍の再編成に携わる

64年環境保護で再び注目を浴びる。ザトウクジラとシロナガスクジラの保護に注力

 

49.    ニール・アームストロング Neil Armstrong (1930.8.5.2012.8.25.)

人類初の月面着陸。心臓血管バイパス手術後の合併症で死去

根っからのエンジニアで、優秀なテストパイロット。アポロ11号の船長として69年新たな歴史をつくる。ケネディが約束した期限まであと5カ月での達成。燃料がなくなりかけ警告音が鳴り響く中での快挙。以降72年の17号まで12人の宇宙飛行士が月面を歩く

オハイオ州監査役の父に6歳で飛行機に乗せられ、15歳では操縦していた。在学中の朝鮮戦争では海軍戦闘機パイロットとして78回出撃

NASAの前身機関でテストパイロットを務め、最先端で最も危険な航空機を数多く操縦

66年ジェミニ8号でアメリカ人民間宇宙飛行士として初めて宇宙を飛び、宇宙船ドッキングにも成功

宇宙計画を離れた後、イメージや功績を汚さないよう、細心の注意を払って行動。自分の名声に乗じることはなかった。何万の人々の努力が受けるべき称賛を全て自分が浴びたことに罪の意識を感じていたという。オハイオに戻ってシンシナティ大で航空宇宙工学の教授に就任、州内に農場を購入

遺族は声明で、「彼の並外れた人生を称え、世界中の若い人々の手本となって欲しいと願う。夢を叶えるために努力して、探求心を忘れず、限界を押し広げ、自分のため以上に、遥かに大きな大義のために無私で尽くす手本となることを」と発表

 

9章       文学者 The Literary World

50.    チャールズ・ディケンズ Charles Dickens (1812.2.7.70.6.9.)

ケント州の自宅で発作から麻痺に襲われ、意識を失ったまま戻らず

タイムズ紙は書く、「政治家や学者や慈善家が逝去してもこれ程の喪失感を残すことは出来ない。彼等は、この偉大な小説家のように、あらゆる家庭の一員になることなどできない」

ディケンズの死は英文学に、他の誰の死よりも大きな欠落をもたらした。当代無比の最も偉大な小説家

彼の人生は波乱に満ちたものではなかった。裕福ではないが幸福な家庭に生まれ、新聞記者として仕事をスタート、最初の文学作品もモーニング・クロニクル紙に寄稿。2作目の長編『オリバー・ツイスト』までには執筆の動機が、何らかの悪習の改革にあることが明確となり、救貧院制度が標的となり、3作目の『ニコラス・ニクルビ―』では寄宿学校の実態が暴露された

61年初の公開朗読を行い、以後アメリカも含め過密スケジュールをこなしたことが健康を阻害

彼の能力の源泉にして秘密はその想像力にある、登場人物や情景はページから飛び出してくるかのよう。お気に入りの研究対象はイギリスの下層階級や中流階級の生活

現代の大きな偽りと不正のいくつかを白日の下に晒し、その排除を少なからず早めた。彼が私たち人間のあらゆる気分や感情に共感を寄せ、男性と女性をより気高く、寛大に、純粋にすると見做したすべてのものを、優しさと率直さをもって描き出したことを、否定する者はいないだろう

 

51.    ハーマン・メルヴィル Herman Melville (1819.8.1.91.9.28.)

心不全。『白鯨』など海洋小説の著者。死亡記事は1紙で、それも34行だけだが、40年前には新作出版は英語を話す民族が領土を広げた土地の到る所で、文学上の事件と見做された

著作は長らく絶版で、四半世紀前の『戦争詩集』(66)は大失敗で、忘れられた身として没した。これ程急速に忘却された前例はなく、簡単には説明がつかない

生まれながらの冒険小説家。大海と、そこに浮かぶ島々のロマンや神秘をたたえる一連の空想的な物語に当時の人々が魅了され、著作の数々は英語作品の読者にとって、ポリネシア諸島とその周辺の海を詩的に解釈したものであり続けている

南太平洋は彼がほぼ独占した舞台であり、並ぶ者なき独壇場で、これが重要な文学的達成だったことは疑問の余地がない

 

52.    マーク・トウェイン Mark Twain (1835.11.30.1910.4.21.)

本名:サミュエル・ラングホーン・クレメンズ。死因は失意。1人息子を幼くして失い、娘の1人は10代と成人してから亡くなり、数年前には妻も失い、前年3人目の娘にも先立たれる。愛煙家。英語を用いるユーモア作家の最高峰

ミシシッピの川岸に生まれ、12歳で父親が他界したため、生活費を稼がなければならなくなり、印刷工見習いから始める。放浪衝動の命じるままに、南部西部のほぼすべての大都市を巡り、ミシシッピ川の水先案内人となったことが小説の素材につながる。この川を航行する船舶の側鉛手の間で、特定の水深を意味する用語として広く使われる「マーク・トウェイン」を初めて筆名として用いたのはネヴァダの地元紙で働いていた時期

一攫千金を目指して炭鉱業にも乗り出すが、無一文の病身となって講演を始めたのが大当たり。その傍ら小品を書いて東部の新聞などに送ったのが注目を集めるようになる

ニューヨークで、聖地を訪れる特別な遊覧旅行の汽船に飛び乗ったのが出世の始まり。旅行中に『地中海遊覧記』の着想を得て、瞬く間に圧倒的な成功を収め、突如著名人となる

07年オックスフォード大から名誉法学(正しくは文学)博士号授与

 

53.    レオ(ロシア語ではレフ)・トルストイ Leo Tolstoy (1828.9.9.1910.11.20.)

ピョートル大帝の盟友の子孫。『戦争と平和』の登場人物は父親の肖像

51年父親の死に伴い、大学を中退してコーカサスに赴き、その地の荒々しい自然に深い印象を受け、自然の在り方が人々の生活や性格に与える影響について考察したことが、後年の彼の哲学に大きく影響

クリミア戦争に砲兵将校として従軍、直接的な戦争体験が小説家としてのその後の仕事に極めて重要なものに。貴族の生活を放棄、地元で農奴を解放、簡素な生活の福音を説く

ロシア救済の道は、農民による土地所有と、単税制度の導入しかないと断言

『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』で高い名声を得た後も、自身の資産は家族に譲渡し、キリストの教義を文字通りの形で受け入れ、山上の垂訓を自らにとっての教えとして、貧しい隣人らに寄り添って暮らす

驚くほど率直に夫婦関係を扱った短編『クロイツェル・ソナタ』(90)は教会からの激しい非難を浴び、イングランドやアメリカで厳しく批判された

『復活』(00)の目的は、教義を理由にロシアで弾圧されたキリスト教一派ドゥホボルの支援で、売上はカナダ自治領が同派の信徒に約束した土地への移住のために投じられた。トルストイは聖シノド(正教会の最高機関)から破門され、トルストイは皇帝に宛てた公開書簡で、ロシアにおける国教会と政府の独裁を糾弾

 

54.    ジョゼフ・コンラッド Joseph Conrad (1857.12.3.1924.8.3.)

近年、「最も偉大な存命中の英語作家」「英文学において最も印象的で、最もロマンチックな人物」との尊称を手にしていた。当初は一握りの目利きの崇拝の対象に過ぎなかったが、批評家の間で名声が高まり、一般の人々の間での位置付けも上がる

本名:テオドル・ユゼフ・コンラト・コジェニョフスキは、ポーランドの地主の子としてウクライナに生まれる。マルセイユで石炭輸送船の職を手に入れ、以降海上での生活に明け暮れる。84年船長免許取得、同時にイギリス国籍取得。船長として10年公開を続けた後陸に上がって書き始める

 

55.    ヴァージニア・ウルフ Virginia Woolf (1882.1.25.1941.3.28.)

置手紙をして散歩に出たまま溺死と見られる。しばらく前から健康を害していた

サッカレーの孫娘。高い質を持つ15の書物で著名。少なくとも4つの異なる種類の思考や書き方に遭遇したため、「マルティプル・ミセス・ウルフ」と称された

書評家の撤廃が「公民の義務」だと主張

溺死体は、検視官によって自殺と判定。かなりの期間にわたって鬱状態にあり、夫宛の書置きがあった

 

56.    アーネスト・ヘミングウェイ Ernest Hemingway (1899.7.21.1961.7.2.)

銃器中の手入れ中に暴発事故で死去。熱心な狩猟家で、銃器のエキスパート。父親も狩猟を愛したが、糖尿病を患って落ち込み拳銃自殺、『誰がために鐘は鳴る』でも取り上げ

自ら危険を追い求め、第1次大戦ではイタリア戦線に、スペイン内戦でも、第2次大戦中も、数々の狩猟旅行でも死にかけている

卓越した感情の力と、パロディには出来ても巧妙な模倣は決してできない極めて独特な文体のコンビネーションによって、作家として世界的な名声と影響力を獲得

『老人と海』(52)は恐らく、その他の物語の原動力であるシンプルな力の精髄。本作において、人は自然の凄まじく過酷な力の犠牲者でありながら、それを超克する

作品の多くには、暴力と死への拘り、しばしば強迫観念とも呼ばれたものが顕著に見られた。銃を愛し、死と隣り合わせの闘牛に熱狂、パルチザンの戦いに共鳴

医師の家に生まれたが父親は診療より狩猟や釣りに熱心。高校で正規の学校教育を終えたが、様々な書物に親しみ、言語に対する天性の才能を持っていた

1次大戦でイタリア軍とともに戦闘を体験した様子は、『武器よさらば』(29)に見事に描かれている。パリで窮乏生活を強いられたが、26年『日はまた昇る』で突如名声を獲得。『午後の死』(32)で闘牛を世に知らしめた人物として位置づけられる

多くのアメリカの知識人同様、30年代にある程度まで左翼運動を支持。スペイン内戦では北米新聞連合のために取材し、『誰がために鐘は鳴る』(40)では共和制支持者への強い共感を示す。第2次大戦でも戦時報道員の仕事を再開、軍功に準ずる功績として「ブロンズスター」勲章授与

 

57.    ウィリアム・フォークナー William Faulkner (1897.9.25.1962.7.6.)

心臓発作。ミシシッピ州北部(深南部)の架空の地で、退廃した上流階級や強欲な地主、粗暴で抜け目ない小作人らのゴシック的サーガを展開、49年度のノーベル賞となる

地元の白人貧困層や黒人ならではの言葉で考え、書き記す能力を具えていたことが、天性の才能の鍵。レイプ、暴力、サディズムが絡み合う架空の地での物語は、一部読者にとって嫌悪すべきもので、そのため故国で評価が高まったのは外国で賛辞が贈られた後

フォークナーを巡る文学論争は、その死をもって下火となることもなさそう。荒涼として陰鬱な力は極めて印象的で、一方そのテーマと文体への嫌悪を語る者も多い

好意的な批評家に言わせれば、ギリシャ悲劇を思わせる手法で、人間の暗い旅路と最終的な破滅に向き合うといい、深南部の田舎者たちの見せる暴力に象徴性を見出す

架空の地とは、ラファイエット郡で、自らが育ち、一族が根を下ろしてきた町のこと

生き生きとした描写の達人

 

58.    JD・サリンジャー J. D. Salinger (1919.1.1.2010.1.27.)

2次大戦以降に登場した最も重要なアメリカ人作家とされながらも、成功と大げさな賛辞に背を向け、有名にならないことを望んだ文学界のガルボ(30代で女優引退後公の場に姿を現さず)。文学的名声は、数は少ないが極めて大きな影響を持つ作品に支えられる

『ライ麦畑でつかまえて』(51)は出版直後からベストセラー、ペーパーバック版は毎年25万部以上の売り上げを記録し続けている

文学の歴史において、ほんのいくつかの物語がこれほど多くの議論、論争、称賛、非難、戸惑い、解釈を呼んだ例は皆無に近い。こうした注目こそ、青年時代のサリンジャーが切望したものだったが、成功を手にした途端、彼にとってその輝きはたちまち褪せ、53年にはマンハッタンの文学界から姿を消し、ニューハンプシャー州コーニッシュの山腹の広大な住まいに転居し、作品の発表も次第に減っていき、65年が最後

評伝の出版も拒否、裁判に発展して勝訴。98年と00年に元の恋人と娘が回想録を発表

ユダヤ人ラビの息子でハムの輸入業者だった父の異なる宗教の子として生まれ、成績不良で退学処分になり、ミリタリー・アカデミーに送られたが、高等教育で長続きしたのは夜間講座で創作指導の時間のみ。第2次大戦中は軍隊に入り、防諜部隊でナチ信奉者の尋問をやり、45年には「戦争神経症」で入院、終戦後もナチ関係者を捕らえるためヨーロッパにとどまる。48年ニューヨークに戻り、以前と異なるタイプの作家としてのキャリアを再開

新進作家時代はプレイボーイで、ユージン・オニールの娘で後にチャップリンと結婚するウーナとも付き合った

 

10章    銀幕のスターたち Stage and Screen

59.    ハンフリー・ボガート Humphrey Bogart (1899.12.25.1957.1.14.)

2年以上前から食道癌。遺族は4人目の妻のローレン・バコール

彼ほど矛盾に満ちた映画人も珍しい。スターたらしめている誇大宣伝を自らの手で何度も割りながら20年以上にわたってハリウッドきってのドル箱スターであり続けた

言葉の代わりに銃で語るニヒルで無口なギャングのイメージだが、素顔は話題が豊富で軽妙洒脱な語り口、どんな宣伝係が用意するより見事なスピーチを即興で繰り広げた

52年《アフリカの女王》でアカデミー主演賞。「私は職業人」だといって仕事には激しいまでの自負心を抱くが。味わい深い演技がそれを証明

仕事に対する責任感の強さは親譲り、父は外科医、母は挿絵作家で芸術家。ニューヨークの華やかな社交界で成長。フィルム会社で働き、劇団の舞台主任を務めた後、20年代初頭から演技の道に入る。15年間下積みで苦労。2枚目スタートしてアップに耐える顔ではないと映画界に見切りをつけてブロードウェイに引き揚げ、34年《化石の森》にギャングの役があると知って劇作家に直談判で自らを売り込み、風貌と演技力が認められ、快進撃が始まる。一時期1本当たりの報酬が20万ドルといわれ、稼ぎ頭のトップ10に長年君臨

私生活では大っぴらに夜遊びを楽しみ、セーリングに情熱を傾けた

 

60.    ゲイリー・クーパー Gary Cooper (1901.5.7.61.5.13.)

大腸癌。カウボーイを当たり役とし、無口で勇敢な西部開拓者の象徴

41年の《ヨーク軍曹》と53年の《真昼の決闘》でアカデミー主演賞を取り、今年名誉賞を用意したが、受け取ってスピーチをしたのは友人のジェームズ・スチュワート

アメリカ男の代名詞。西部劇のみならず、感動を呼ぶ人情劇でも洗練された喜劇でも、常に強く寡黙な男。出演作の監督は口を揃えて、クーパーは生まれつき間の取り方が絶妙で、頭の回転が速く、役を理解しその本質を掴む知性に恵まれていると絶賛

父はモンタナ州最高裁の判事で牧場を経営、クーパーも父の牧場を手伝う。乗馬のエキストラをきっかけに1年期限で映画界に入り、満了直前大役が付き役者として留まる

33年一時期映画にも出ていた社交界の有力者ヴェロニカ・バルフと結婚、1人娘がいる

 

61.    マリリン・モンロー Marilyn Monroe (1926.6.1.62.8.5.)

ロサンゼルスの自宅で死去、ベッドサイドには空の睡眠薬の容器と14種類の薬

モンローの名声は女優としての功績を凌ぐ。ヤンキースの花形選手ジョー・ディマジオ、ピュリッツァー賞の劇作家アーサー・ミラーとの結婚・離婚を、人々は現代のヴィーナスに相応しい特権と受け止めた

ここ数年は挫折が続き、最後の2作品は興行的に不発で、そのうちの1作アーサー・ミラーが脚本を手掛けた《荒馬と女》の完成後夫婦は離婚

映画界きっての人気者golden girl の人生は、不幸と悲劇のうちに始まり、不幸と悲劇の中で終わった。死はその途方もなく華やかな経歴に終止符を打ち、誰にも望まれない非嫡出子として生まれた時からその身に降りかかり、過去十数年、名声のせいで脚光を当てられた数々の暗い出来事を締め括った

ビリー・ワイルダーは、「肉体の迫力」と呼び、「覚えている限りリタ・ヘイワースなど3人だけしか持っていない。カメラで撮影しても肉体らしさを失わない。手を伸ばせは触れられる気がする」と述懐。同世代のセックスシンボルで同等の人気を博したのはブリジット・バルドーだけ。晩年には評論家もモンローの演技力を認めた

2度の結婚は離婚に終わり、少なくとも2度流産、年とともに情緒不安定となり、心身の不調に悩まされる

ロスで生まれ、出生記録には母親を捨てた実父の姓をもらってノーマ・ジーン・モーテソンと記載され、後年母の姓のベイカーに改姓。母も母方の祖父母も精神病院に収容、おじは自殺、父はモンローの誕生の3年後に事故死。12組の里親を転々、2年間は孤児院

スリーサイズは94-58-94で、人並外れた体型とは言えない

5000通のファンレターが届き、うち少なくとも10通はプロポーズ。最初の夫は飛行機の整備工で4年で離婚。2人目、3人目はアメリカ人の憧れ

50年の《アスファルト・ジャングル》の端役だが、独特の歩き方で一気に注目を浴びる

ユーモアのセンスもなかなか。遅刻癖には皆閉口

 

62.    ウォルト・ディズニー Walt Disney (1901.12.5.66.12.15.)

ユーモラスな漫画を礎に年商1億ドルの娯楽帝国を築く。肺腫瘍の手術後だった

先頃、ワーナー・ブラザースが公開して、大手スタジオを個人経営する古参の製作者はディズニー1人になっていた。肥沃な想像力と勤勉なアニメーターたちが働く工房から、ハリウッド史上最大の人気者を誕生させ、歴史に類を見ない娯楽帝国を作り上げた

米国在郷軍人会とソヴィエト連邦の両方に賞賛された映画人は彼一人

獲得したオスカー像は29個。7分の短編アニメからスタートし、史上初めてアニメと実写を合成して、長編アニメ映画製作のパイオニアとなった。自然ドキュメンタリー映画もアニメに劣らぬ人気を博し、やがて実写の長編映画に進出

50.1百万ドルを投じ、300エーカーにファンタジーの世界を築いた全米最大級の観光地ディズニーランドは昨年10周年を迎えたが、来園者は50百万を超え、59年フルシチョフが行けなかったと不満を漏らしたのは安全対策が間に合わなかったため

新しいアイディアを思いつくたび、周囲は怪訝な顔をして、ミッキーマウスはどこにでもある漫画と映画館が相手にしなかったし、初の長編アニメ《白雪姫》も最後まで飽きずに見る観客などいるわけがないと業界人は鼻で笑った。プロデューサーとして初めてテレビ映画に進出した時も愚か者と笑われた

一方で、自らが製作した映画のテレビ放映を拒否した大物プロデューサーは彼1人で、7年毎に新たな世代の子供たちが旧作を観に映画館に押し寄せるはずだと主張

「自分の映画を芸術と呼んだことは一度もない。映画はショービジネスだ」と言って、ニューヨーク近代美術館でディズニー・キャラクターの展覧会が開催されてからも、自分の作品を芸術と見做すのを迷信的なまでに嫌った

勤勉だが高校も出ていないこの男に、ハーバードからイエールまでの名門大学が名誉学位を授け、生涯に授与された褒章や学位は700に及ぶ

前時代に活躍した映画界の草分けに近く、絶対的権力を求め、自分に従わない部下は容赦なく叱責

 

63.    チャールズ・チャップリン Charlie Chaplin (1889.4.16.1977.12.25.)

ほぼ独力で映画という新奇な娯楽媒体を芸術の域にまで高めた

1975年エリザベス女王によりナイトに叙された。何年も前から健康状態が悪化、車椅子で言葉も耳も目も不自由。ロンドンの浮浪児は運命に抗う人間の悲喜劇を体現することで不滅の芸術家となった。1467年まで80を超える作品に出演

チャップリンのユーモアの真髄は風刺にあり、人間の愚かさを笑いながらも、その表現は人間への愛情に満ちていた。シリアスでありつつも滑稽で、その2つが入り交じった作風がチャップリンの映画をドタバタ喜劇から芸術の域へと引っ張り上げた

映画の世界に入ったのは、トーキーどころか長編映画もない時代だったから、シチュエーション・コメディとパントマイムが頼り。喜怒哀楽は身振りと顔の表情で伝えるしかなく、国境を超えて世界の観客に理解されたのは、こうしたボディランゲージのお陰

映画に初めて出演して僅か2年後には、疑いようもなく映画産業の頂点に君臨する人物と評されるまでに出世

途方もない成功の秘訣の1つは、17年以降、製作の主導権を完全に握ったことにある。チャップリンは脚本家、主演スター、プロデューサー、監督であり編集主任

ヴォードヴィル芸人の父親と女優の間に生まれ、間もなく両親は別居、声が出なくなった母親に代わって舞台に上がった。母子は救貧院を転々。旅回りの劇団で成功を収め、喜劇俳優という目標のため13年に映画の世界に入る

25年には《黄金狂時代》で改めて大衆人気を確立

トーキーの発明で危機に面したが、31年公開の《街の灯》は音楽だけをつけサイレント映画として製作、目の不自由な花売り娘を巡る悲喜劇で爆発的にヒット、多くの評論家がチャップリンの最高傑作とする

続く《モダン・タイムス》では大量生産を風刺、急進派のレッテルを貼られる

40年代、ミシシッピ州の右派の下院議員から、チャップリンの生き方が「アメリカの道徳に有害」だとして国外追放を訴えられ、52年司法長官から「(自身の)道徳的価値を証明できない限りアメリカへの再入国を禁じると通告され、その後の人生をヨーロッパで過ごす

72年アカデミー名誉賞を受けるために漸くアメリカ入国を許される

 

64.    アルフレッド・ヒッチコック Alfred Hitchcock (1899.8.13.1980.4.29.)

サスペンスの巨匠、演出技巧の達人。関節炎と腎不全で、1年前から健康状態悪化

サイコスリラーを撮り続けた脅威と恐怖の巨人、サスペンスとショックのスペシャリスト

ささいな出来事が人生を揺るがす恐怖体験へと変貌するのがお決まりの展開、日常と異常のバランスを絶妙にとり、誰よりも自在に観客の喜怒哀楽を操る手品師として名を馳せた

明確にヴィジュアルを優先するスタイルを特徴とし、常に台詞よりも映像を強調、静寂を使うことで緊張感を高めた。モンタージュ技法が冴えわたる名場面は枚挙に暇がない

自分の作品に台詞のない役でちらりと顔を出すのがトレードマーク

30年代は、イギリスで一流監督として活躍、陰謀渦巻くスパイ映画の基準を打ち立てる

39年ハリウッドに進出し、《裏窓》等緊張感溢れるドラマティックな作品をつくる

大衆に根強い人気を誇るヒッチコック映画を、ときに評論家は内容が薄い、モラルが日和見的、シニカルと見下したが、ヌーヴェル・ヴァーグの旗手フランソワ・トリュフォー監督は、「純粋に視覚的な様式を持つトップクラスの不安の芸術家」と讃えた

ロンドンの鶏肉・青果店の家に生まれロンドン大で美術を学ぶ。幼少時に警察で留置されたことと高校で罰として行われた打擲が恐怖の原点で、10代で映画界を志し、とんとん拍子に出世。監督としてのデビュー作はミュンヘンで撮影したメロドラマ《快楽の園》

セルズニックがハリウッドに招聘、当初「俳優は皆幼稚だ」「俳優は家畜のように扱うべき」といって物議を醸したが、何人もの主演俳優が、非常に説得力ある監督と評し、作りたい作品を完全に把握してその通りに完成させる人だと述べる

運動とフィクションを嫌い、いたずら好きとして知られる

 

65.    フレッド・アステア Fred Astaire (1899.5.10.1987.6.22.)

稲妻の如く敏捷な足としなやかな脚を駆使してアメリカ1の人気ダンサーとなり、ミュージカル映画俳優として誰にも超えられない基準を打ち立てた

10歳前から60年以上に及ぶ芸歴は、母の意向で姉のアデルとコンビを組んで踊り、最初の成功を掴む。3368年に30本を超えるミュージカル映画に主演、うち11本が最も長くコンビを組んだジンジャー・ロジャースとの共演で、ポピュラーミュージック界の錚々たるソングライターが音楽を提供

誰にも真似できない自然体のダンスを披露するために陰で血の滲むよう努力をした結果、絶大な人気を博し、そして愛された。57年の特番《今宵、フレッド・アステアと》はエミー賞で9部門を制した

ダンス界ではダンサーの鏡と尊敬されたニューヨーク・シティー・バレエ団の芸術監督だったジョージ・バランシンはアステアを、「世界最高の踊り手」と評したし、偉大な歌手でもあった

一線を退いたのは70年頃で70歳を超えていた。10年後に、「80代にはいってまでプロでいたくなかった。小さな爺さんが必死で踊っているなんてふうには見られたくない」と引退を決めた時の心境を語る

オーストリアからの移民の子としてオマハに生まれ、突出したダンスの才能を示した姉にくっついてニューヨークのモダン・タップダンスのパイオニア、ネッド・ウェイバーンのダンス・スクールに入学。10歳でプロ初舞台を踏み、22年にはガーシュウィンの音楽に乗ってブロードウェイのスターの座を掴む。32年結婚して引退した姉に代わる新たなパートナーとも活躍、同年セルズニックからハリウッドにも迎えられ、33年銀幕にデビュー

晩年も1日の習慣はほとんど変わらず、5時に起床、若い頃と同じ134ポンドの体重を維持するため、朝食はゆで卵1

 

66.    フェデリコ・フェリーニ Federico Fellini (1920.1.20.93.10.31.)

実体験に深く根差した映画で、人間のありようを鮮やかに、ときに奇想天外な形で浮き彫りにした。心臓発作

56年の《道》他アカデミー外国映画賞4回、今年監督・脚本家としての功績により名誉賞

一貫して独自の視点から社会を見つめ、男と女、セックスと愛の関係に拘り続ける。公然とカトリック教会の権威を否定、罪の意識と孤立にも強い関心を寄せた

脚本は自分で書き、主人公は自分の分身。1本の撮影に通常2年かけ、納得するまで何度も撮影する完璧主義者

映画作りとは体温計で世界の熱を測るようなものであり、世界はいつも問題山積で高熱を出していると言った。楽観的な映画を作りたいが、我々を取り巻くのは断絶とペシミズム

年とともに作品は独創性と主観性を強め、結果としてたびたび物議を醸し、商業路線から離れていく。シュルレアリズムへと進化、虚実を自在に行き来する映像の回想録を作り上げる。作品は意外性に溢れ、一度見たら記憶に焼き付いて離れないシーンがいくつもある

最も自伝的色合いが濃く、自身の告解ともいえる野心作が《8 1/2》で身勝手な映画監督を巡る幻想的な愛の寓話。題名は本作が7本目の長編で他に短篇が3本あったことに由来

60年代中盤以降は、奇怪でけばけばしく、グロテスクなイメージが強調されるように

アドリア海の港町の商人の家に生まれ、町の映画館で映画への愛に目覚めた

43年のちに多くの作品で主演を務める女優ジュリエッタ・マシーナと結婚。フェリーニの人生と映画にかけがえのないインスピレーションを与えたマシーナは唯一の遺族

 

67.    黒澤明 (1910.3.23.98.9.6.)

映画界が生んだ数少ない真に重要な監督の1人で、世界にとって日本映画の代名詞

脳卒中。画家の目で構図を決め、ダンサーの勘で動きを撮り、ヒューマニストの感性を持ち、独裁者として現場に君臨した完璧主義者で、映画史に残る大物。多くの監督が影響

日本古来の説話に西洋の演技スタイルとストーリーテリングを融合した《羅生門》(51年欧米で公開、ヴェネチア金獅子賞、アカデミー名誉賞)で、第2次大戦後の世界に日本文化を紹介。その後も驚異的創作力を発揮、最高傑作を次々に発表。自ら作品に共通するテーマとして「人はなぜもっと幸せに共存できないのか」という問いかけを挙げる

黒澤と最も強い信頼で結ばれていたのは看板スターの三船で、4865年の17本の監督作品のうち16本まで主役を務めたが、《赤ひげ》(65)で仲違いし、以降組んでいない

71年《どですかでん》の興行的失敗と胆石を苦に自殺を図る。助かったもののその後は人が変わったようで、以後28年間に撮った映画は6本だけ。うち《影武者》(80)と《乱》(85)は黒澤映画の最高峰とされる

軍人の家に生まれ、11世紀のサムライまで遡る名家。無声映画と読書に耽る

36年助監督募集で当時最も有名な映画監督だった山本嘉次郎に見出され育てられ、43年に独り立ちして成功

 

68.    エリザベス・テイラー Elizabeth Taylor (1932.2.27.20113.23.)

その名はハリウッドの輝きと同じで、映画ファンを数世代にわたり圧倒的な美貌で魅了

鬱血性心不全の合併症。長年の間たびたび健康問題に悩まされた

10歳でスクリーンに登場、スクリーンの中で大人になった。70年間に50以上に出演

《バターフィールド8》《バージニア・ウルフなんかこわくない》で2度アカデミー主演賞

正式な訓練を受けてない割に、演技の幅は驚くほど広く、プロ根性には周囲も脱帽

モンローがセックスの女神、グレイス・ケリーがクールビューティー、オードリー・ヘップバーンが永遠のおてんば娘なら、テイラーは美の化身

役柄には少なからず自分自身が投影され、役柄を自分に引き寄せて演じた

スクリーンの中でも外でも、テイラーには天使と魔性の女が刺激的に同居。どんな時でも匂い立つような官能を発散し、その下にはけばけばしい宝石を好むなど、悪趣味な一面も潜み、自ら「品がないのは自分でも分かっているが、でも私に品の良さなんて求めないでしょ?」とファンに語りかけた

晩年は社会活動に注力、エイズ研究財団を立ち上げ資金調達を助ける

幼い頃は醜いと思われていた。画商と女優の子として赴任先のロンドンで生まれ、幼少で乗馬を始めたのが後に最初の大作を掴むのに役立つ。44年《緑園の天使》で乗馬好きの少女を演じて大人を涙させ、この1本でスターの座を掴む

アルコールと薬物依存の治療、97年脳腫瘍摘出、09年心臓の外科手術

回顧録の執筆依頼に対し切った啖呵が、「冗談じゃない。まだ回顧録のネタを作っているところよ」

 

11章    ポピュラー音楽 Popular Music

69.    ジョージ・ガーシュウィン George Gershwin (1898.9.26.1937.7.11.)

脳腫瘍の摘出手術で死去。アメリカ人の魂を解釈し、音楽にして伝えるのが何よりの望みだと語った。その言葉通り、ジャズのテンポを借りてアメリカの権威を揶揄するかたわら、クラシックの特徴を持つ《ラプソディ・イン・ブルー》を作曲し音楽界の重鎮を唸らせる

兄アイラ、上品な風刺の達人の劇作家ジョージ・カウフマンと組んで政府の体たらくを皮肉り国中を笑いの渦に叩き込む一方で、本格的なクラシック音楽を作曲

ジャズ・エイジの申し子。スコット・フィッツジェラルドがジャズ・エイジを代表する小説家とすれば、ガーシュウィンはその作曲家だった

ブルックリンで育ち、ティンパン・アレイ(ブロードウェイ)で修業し、ブロードウェイの旋律を楽曲に織り込み、オペラ《ポーギーとべス》で哀切な黒人音楽を全米に知らしめた

最大の功績は、小粋で耳に心地よいミュージカル音楽だとする向きもあるが、ガーシュウィンの音楽が後世に残るという点では、誰にも異論はない

伴奏やリハーサル用ピアニストとして出発、自作の曲が初めて多勢の聴衆の前で披露され、20歳でミュージカルの作曲依頼が来る

名声は瞬く間に広まり、続く10年間、次から次へとミュージカルをヒットさせた

芸術界の重鎮たちを感服させたのは、ピアノとオーケストラのための《ラプソディ・イン・ブルー》で、24年自身のピアノ独奏で初演。次いで交響楽《パリのアメリカ人》

 

70.    ビリー・ホリデイ Billie Holiday (1915.4.7.59.7.17.)

著名なジャズ歌手。心不全による肺鬱血。麻薬不法所持の容疑で病床で逮捕下にあった

ボルティモア生まれ、母は13歳、父は15歳。ハーレムで歌い始め、駆け出しのベニー・グッドマンに紹介され、徐々にジャズの世界で名が知られるようになる

38年ニューヨークの「カフェ・ソサイエティ」に出演してスター歌手として真価を発揮、髪に挿したくちなしの花、リズムに合わせて物憂げに鳴らす指、頭を小粋に傾けて歌う姿という長年にわたるトレードマークを確立

47年麻薬犯罪で逮捕、リハビリ施設に収容。有罪判決を受けナイトクラブへの出入り禁止

 

71.    ジミ・ヘンドリックス Jimi Hendrix (1942.11.27.70.9.18.)

熱く激しいギタープレイで多くの聴衆を刺激したロックスター

薬物の過剰摂取との情報

熱しやすく官能的、露骨な性表現で年配者に衝撃を与える一方、うねるギターサウンドを武器に北米とヨーロッパの若者の心を掴んで世界的なスターとなる

音を引き延ばす「ファズ」やミュートのきいた管楽器のような音色を出す「ワウペダル」等のエフェクタをはやらせた立役者。独特のロックを生む

シアトルの生まれ、16歳で高校中退、ナッシュヴィルの黒人向けナイトクラブでギターを弾き始め、ギタリストとしてリトル・リチャードのバンドに入る

66年独自のバンドを結成、イギリスのヒットチャートで4位になり、間もなく読者投票で世界最高のミュージシャンに選出

69年のウッドストック・フェスティバルは最も記憶に残るステージ

麻薬所持の容疑でトロントで逮捕

 

72.    ジャニス・ジョプリン Janis Joplin (1943.1.19.70.10.4.)

ロック歌手。薬物の過剰摂取。ヘンドリックスが強力な睡眠薬9錠服用して死亡した直後

ロックミュージックに落とし込んだ黒人のカントリーブルースをしゃがれ声で絶唱、声だけでなく全身全霊を歌にぶつけた

体当たりの生き方。故郷テキサス州ポート・アーサーから66年にはロック黄金期のサンフランシスコを経由してスターの座に上り詰め、リキュールの一種サザン・カンフォートを愛飲していると公言、舞台でもラッパ飲み、酩酊の喜びを開けっぴろげに語る

カットしやすい性格で、69年にはタンパでの公演中、客席にいた警官に卑猥な言葉を浴びせて逮捕。移り気で、バックバンドのメンバーにも自分と同じひたむきさを要求

 

73.    ジム・モリソン Jim Morrison (1943.12.8.71.7.3.)

ロックグループ「ドアーズ」のリードシンガー。不機嫌で謎めいてセクシュアルな詩人というロック界のスーパースターのイメージを体現

64UCLA映画学部の仲間とその周辺で結成された4人組が「ドアーズ」、67年には全米で最も人気のあるグループ。西海岸で勃興する電子的に増幅されたロック音楽を、音響スタジオの枠を超えてコンサートホールへ持ち込み、演劇的イベントとして扱われた

大音量で独特だが、最も注目されたのはモリソンが手掛けた歌詞。暗示的で、しばしば倒錯的な意味に満ち、それをステージの上でモリソンの唸り声や冷笑、うめき声が助長

批評家はモリソンの態度を、「猥褻で挑発的で、不適切で冒瀆的」としたが、実際69年にはマイアミでのロックコンサートで公然猥褻行為で逮捕され有罪になり、67年にはニューヘイヴンでも露出行為をしてステージから降ろされている

 

74.    ルイ・アームストロング Louis Armstrong (1901.8.4.71.7.6.)

ジャズ・トランペット奏者でシンガー。睡眠中の心臓発作、ほかに肝臓と腎臓の障碍も

「サッチモ」の愛称で知られた偉大なショーマン、「目の前の聴衆のために生きる、彼等を楽しませるためにいる」という信条に従って生きた

並ぶ者のないジャズ・トランペット奏者であり、アメリカ音楽の発展において最も鮮烈で、最も大きな影響力を持つ1人に数えられるソロ演奏の巨匠

ニューオーリンズの葬列や安酒場(ホンキートンク)で演奏されていた粗削りで野性的な黒人の民族音楽を、唯一無二の芸術形式として確立した

一夜限りの公演をひたすら繰り返すことでその名を知られるようになる。表情を作り、気の利いた言葉を飛ばし、何よりも過去に歓迎されたレパートリーを厭わずに再現し続けることで観客の喝采を浴び、ミュージシャン仲間やジャズ専門家の一部からは舌打ちされた

年お追うごとに演奏力が衰えると、トランペットソロを歌に替え、それ自体が驚異的な楽器ともいえそうな彼の声は、「鉄粉」や「つがいに求愛するやすり」に譬えられてきた

ニューオーリンズでの幼少期は、極めて貧しくみすぼらしいものだったが、そこから抜け出した彼は自己憐憫を交えることもなく、ユーモアさえも漂わせながら、当時を振り返ることが出来た。13年大晦日に新年を祝おうと通りで拳銃を撃って逮捕、黒人浮浪少年院へ送られ、ラッパとコルネットを教えられたのが音楽へのとっかかり。小学5年で少年院を出た後は、地元裏路地のコルネット奏者として名を売り、25年頃からシカゴでトランペットに転向、29年ニューヨークに戻るまでにはジャズ界で崇拝の対象と化す

「サッチモ」の愛称は、ロンドン公演の際、綽名のSatchel Mouth(大口:バスの車掌が下げていたパッチンと大きな口が開くがま口)を間違って伝えたところから来た

自ら収録したレコードは推定1500枚、うち数十枚が、今ではコレクターズアイテムに

長年、人種分離政策が実施されていることを理由に、故郷のニューオーリンズでの公演を拒否して来たが、公民権法の成立で65年漸く帰郷、ジャズ博物館で人種混成バンドとともに得意満面で演奏

 

75.    デューク・エリントン Duke Ellington (1899.4.29.1974.5.24.)

作曲と演奏活動でアメリカ音楽の地平線を広げ、国際的に高い評価を獲得し、2世代にわたるファンの耳を楽しませ、踊らせた。肺癌から肺炎を併発

コットン・クラブからカーネギーホール、ウェストミンスター寺院まで鳴り響いた

ワシントンDCで育ち、優雅な身のこなしから小学校で公爵dukeと渾名され、長身の折り目正しい都会人で、人を元気づける芝居っ気と辛辣なウィットの持ち主

65年ピュリッツァー賞音楽部門の審査会が特別賞を満場一致で提案したが、諮問委が拒否

自らの音楽が「ジャズ」に分類されることを一貫して拒否したように、一般的な「ジャズ」の意味合いを超越。「黒人音楽」とすべきだが、ここまで混ざり合うと色分けは不可能とした

作曲家、編曲家として、超一流の演奏者が繰り出す個性的な音色を土台に作品を築くことで独自のスタイルを創造、ピアノを弾くが本当の担当楽器は楽団そのもの

同業者にも、エリントン・サウンドの原理を解き明かすことは出来なかった。基本的な素材はほぼ一貫してブルースと、ミュージシャンが自分の声のように自在に操る楽器の音色だったが、クラシックの音楽家はドビュッシーやラヴェルとのつながりを指摘。1232小節を1コーラスとする基本形からジャズを解放したパイオニア

生涯に書いた曲は6000を超えるが、長年テーマとして使われた《A列車で行こう》は、39年から67年の死ぬまで右腕として作・編曲を手掛けたビリー・ストレイホーンの作曲

正規の音楽教育は受けず、15歳で初めて作曲、20歳では楽団を率いてバイト演奏、23年からニューヨークに出てハーレムで演奏、27年からはコットン・クラブで人気を博す

30年代後半スウィングの大ブームでベニー・グッドマンやグレン・ミラーに遅れをとるが、41/42年から再び全盛期に。50年代に入ってビッグバンドの人気凋落後も存在感を示し、56年のニューポート・ジャズ・フェスティバルでは聴衆を熱狂させる

その後15年にわたり米国務省の支援で世界を回る。映画音楽はバレエの為にも作曲、69年の大統領自由勲章ほか、輝いた栄誉は数えきれない

音楽漬けの生涯で、73年の自伝に『音楽こそわが愛人』のタイトルをつけたのも当然

 

76.    エルヴィス・プレスリー Elvis Presley (1935.1.8.77.8.16.)

アメリカで最初の、そして最も偉大なロックンロールスター。ハスキーなバリトンとあからさまなセクシュアリティでポピュラー音楽を再定義した。心不整脈

一時代前のシナトラや一時代後のビートルズと同様、歌手を超えた存在――それぞれ100万枚以上の売り上げ記録を誇る45のゴールドレコードを獲得した、1つの現象

25歳を待たずに既にショービジネスの伝説となり、30歳では業界史上最高の報酬を手にするパーフォーマー。32作の映画に主演し、ほぼすべてがエルヴィス主演だけが売り物にも拘らず、いずれも莫大な興行収入を稼ぎ出す

ミシシッピで生まれ、両親とともに伝道集会などで歌って人気を博し、プロモーターに発掘されて地方巡業に出、初のヒットシングル《ハートブレイク・ホテル》は56年で、200万枚を売り上げ、その後も驚異的なヒットを連発。56年にはハリウッド進出、デビュー作は《やさしく愛して》で、映画評論家は一致して駄作と嘲笑したが、収入は制作費の5

58年陸軍に入隊、2年にわたって西ドイツに駐留

自宅のグレースランドは18の部屋を備える100万ドルの豪邸、「メンフィス・マフィア」と呼ばれる取り巻きの若者たちに囲まれて暮らす。空手で体形を保っていた

 

77.    ジョン・レノン John Lennon ( 1940.10.9.80.12.8.)

ニューヨークの自宅「ダコタ」の玄関で銃殺

69年最後のアルバム《アビー・ロード》製作、70年解散、75年引退

リヴァプールで雑役夫の家に生まれ、3歳で父に捨てられ、成功したレノンの前に現れた父親を認めなかった

68年イギリスで麻薬所持による有罪判決を受け、アメリカからの国外退去命令を受けるが最終的に認められた

ロックグループの中で最も人気があり、最も影響力が大きかった。ジョンは、その中で最も情熱的で、恐らくもっとも偉大な才能を持つ真のロッカー。レノンとマッカートニーが典型的な補完関係に基づいて協力し合い、曲の大半を作る。レノンの激しさとマッカートニーの柔軟性の対立は、解散後にさらに露骨になり、レノンは自己満足的な叫びに陥る場合が余りに多過ぎたし、マッカートニーはタフさがなくなって軽薄なポップ路線へと漂っていった

 

78.    マイルス・デイヴィス Miles Davis (1926.5.26.91.9.28.)

いつまでも耳に残る音色と変容を続けるスタイルによって40年にわたってジャズ界の計り知れない試金石であり続けたトランぺッターで作曲家。肺炎と呼吸不全、脳卒中

フレージングと「間」の感覚という影響をもたらしつつ、1つのスタイルに留まらなかった

キャリアの基盤はブルースだが、コラボレーションに深く根差したもの

気まぐれな性格。イリノイ州の裕福な歯科医の息子、13歳からトランペットを習い始め、たちまち人気者になり、ビバップ界の中心地ニューヨークへ向かい、44年ジュリアードへ

48年より精緻な構成を持つ新たな様式として、九重奏団による豊かで思索的なアンサンブルにハーモニーの雲を広げるようなソロが漂う「クール・ジャズ」を開発。次いでビバップの拡張された和声に基づくハード・バップへ

ファンクにも目を向ける

75年から、潰瘍と骨液包炎のせいで5年以上にわたり闘病生活

 

79.    フランク・シナトラ Frank Sinatra (1915.12.12.98.5.14.)

ポピュラーソングを芸術の域にまで高めた。心臓発作

アメリカの大衆文化史上最も偉大な歌手。20世紀のエンターテイナーン中で最も成功

アメリカの精神を映す鏡。俳優としても58本の映画に出演。マイクの使い方を確立したビンクロに憧れ、色気とパーソナルなタッチを歌詞に込めることで、ポピュラー音楽の歌唱法を大きく変えた。ご法度だった怒りや不機嫌や虚勢を表現することで、ロック歌手の奔放でアグレッシブなヴォーカルスタイルに道を開く。スウィング・ヴォーカルを復活

右腕となったのが辣腕アレンジャーのネルソン・リドル。いち早くビッグバンドにストリングスを入れて成功、2人でラスヴェガスをエンターテインメントの中心地として確立。ライフスタイルと芸が時代の象徴に

ニュージャージー州ホーボーケンの貧しいイタリア系の家庭に生まれて頂点を極めた軌跡はマイノリティの勝利と見られた

40年代ローズヴェルトと民主党を支持したが、80年にはレーガンと共和党を支持、アメリカ政治の大変動と重なる

ハリー・ジェイムズに見出され、トミー・ドーシー楽団に移籍してから独立、初のソロコンサートは聴衆が集団でヒステリー状態に陥り歴史を作る。46年人気絶頂から、イタリアに強制送還されたマフィアの大物ラッキー・ルチアーノとの関係を非難されて下り坂に

53年の《地上より永遠に》でアカデミー助演賞を獲得して復活

60年代において、アメリカの中年プレイボーイと言えばシナトラで、ビリー・マーチンなどの大酒呑みの取り巻きグループ「ラット・パック」を引き連れラスヴェガスを溜り場とした。サンズ・ホテルの株を買い、週10万ドルのギャラで度々公演を行う

カウンターカルチャーがポピュラー音楽を席捲した60年代後半には、シナトラはロックンロールを「低能なごろつきの音楽」と見下し、時代遅れに見られた

 

80.    マイケル・ジャクソン Michael Jackson (1958.8.29.2009.6.25.)

ポップミュージック界のピーターパン、大人になることを拒んだ少年

神童から世界的スーパースターへ、さらに訴訟とパパラッチと美容整形の失敗に悩まされた悲しき有名人へと変貌、アメリカらしい名声と放縦の人生を生きた

生涯売ったアルバム総数は750百万枚。最後は歌手というよりもキャラクターとなった

エンターテイナーとして頂点を極めたのは82年のアルバム《スリラー》で、全米レコード協会は28回プラチナ・アルバムに認定。シングルは全世界で1億枚を売りグラミー8

03年少年への性的虐待疑惑で訴追されどん底に落ちたが無罪

インディアナ生まれ。6人の男兄弟と一緒に5歳からプロとして音楽活動開始。3人の姉妹もそれぞれに音楽活動を続ける。ジャクソン5でリードヴォーカルを務めるかたわら、ソロでもデビュー

どんなに稼いでも、そのエキセントリックな暮らしぶりは大きな経済的負担。ロス郊外に作った「ネヴァーランド」はジャクソンの聖域となったが、莫大な借金を抱え込む

 

81.    デヴィッド・ボウイ David Bowie (1947.1.8.2016.1.10.)

無限に変化し、激烈なまでに時代を先取りしたソングライターで、数世代にわたるミュージシャンに演劇性とイメージとペルソナが持つ力を教えた。1年半前から癌で闘病

何よりもアウトサイダーについて語る歌を作り、その音楽は千変万化の混合体

様式も時代も大陸も超えたコスチュームやイメージを身にまとい、大規模なショーを行うたび、見習うべき手本と到達すべき目標を後に残す。音楽のジャンルを超えて称讃、模倣

不安と世界の終わり、メディアとパラノイア、距離と切望が彼の生涯を貫くテーマ

ロンドン生まれ、その地でロックンロールを吸収、10代からバンドを率いてブルースを歌い、60年代後半に表舞台に登場した時は、迫力あるロックミュージシャン

74年アメリカ移住、ファンクに転じるが、ドラッグで精神状態は不安定になる一方だった

ドラッグから逃げることを求めて、スイスや西ドイツに移住

80年代には演劇界に身を転じ、ブロードウェイに登場、96年ロックの殿堂入り

 

82.    プリンス Prince  (1958.6.7.2016.4.21.)

ソングライター、歌手、プロデューサー、全てのパートを1人で演奏、録音するワンマンバンドにして窮極のエンターテイナー。エレベーター内で不審死

身体からは音楽がほとばしり出て、すさまじいまでに多作で、ギターとキーボード、ドラムを極め、ファンク、ロック、R&B、ポップを自在に構築し、ジャンルに収まらない音楽を作った。70年代後半のデビュー以後、セックスシンボルにして神童、音楽業界の商慣習と戦いつつわが道を行く芸術家であり続けた。04年ロックの殿堂入り、グラミー賞7

ミネアポリスでバンドリーダーとその歌手の間に生まれ、独学で楽器をマスター、10代の若さで創作上の自由を保証され、79年の2作目がヒット

84年ゴア上院議員の妻が娘が聞くプリンスの曲の内容に衝撃を受け、ペアレンツ・ミュージック・リソース・センターを作ってレコード会社に圧力をかけ、セックス過剰の曲に「親への警告 露骨な表現あり」のステッカーを貼らせたが、ステージではきわどい表現を自粛したものの、歌から性の喜びが消えることはなかった

 

12章    クラシック音楽 Dance and Classical Music

83.    リヒャルト・ワーグナー Richard Wagner (1813.5.22.83.2.13.)

天才の閃きを実行するための忍耐強い努力が素晴らしい果実をもたらすことを証明した人生。屈辱的な失敗に直面しても決して自信を失わず、己惚れるべきところがある時はそれも価値のある資質になった。改革者の常として周囲の敵意を掻き立て、愛される性格ではなく、人々の評価は真っ二つに割れるが、信奉者は着実に増えている

ライプツィヒで生まれ、子供の頃は音楽の才能を感じさせなかったが、若い頃に嘲笑を浴びたことで勉学に目覚め、18歳の時「彼ほどベートーヴェンの作品を研究し尽くした若い音楽家はいない」とまで言われた

33年オペラを書き、34年マグデブルク劇場の音楽監督に就任するが、興行が大失敗に終わり辞任、39年パリに行き、42年《リエンツィ》がドレスデンで上演されて大成功、そのまま同地の宮廷歌劇場の指揮者に就任、次々にオペラの大作を発表

リベラルを信条とし、49年ドレスデンの蜂起でも先頭に立つが、鎮圧されスイスに亡命、58年までの滞在中に孤独を深めるが、《指環》に取り掛かる

リストとは特別な友情で結ばれ、50年リストの指揮で《ローエングリン》が初演、70年にはリストの娘と結婚

76年大成功を収めたバイロイト音楽祭は、音楽史上最も卓越したイベント。欧米各地で「ワーグナー協会」が結成され巨額の資金を集め、ワーグナーの理論を実現する劇場を建設

昨年バイロイトで初演された最後の作品《パルジファル》は今後さらに有名になるはず

 

84.    ジュゼッペ・ヴェルディ Giuseppe Verdi (1813.10.9 or 10.1901.1.27.)

60年近くイタリアのオペラ界に君臨。リーダーであり、手本であり、古い様式を若返らせ、新しい様式を創造。音楽の新しい命の歌声を人々の耳に届けた

《アイーダ》と《オテロ》は、彼が芸術家として築いてきたすべての地位を白紙に戻して書き換えた。それまで彼は大衆に好まれる作曲家で、先人から受け継いだ公式に従って大衆向けの作品を書いていた。過渡期の傑作から、「19世紀の最も情緒的で、演劇的で、官能的な作曲家」と称されたのは不当な評価ではないが、2曲によって真の劇的な才能を披露

《ファルスタッフ》は、近代イタリアオペラの難解で堅苦しい公式からは更に離れたが、自分がイタリア人であることも個性も失ってはいない。従来の定型は名残さえなく、快活で陽気で流暢な音楽の会話が展開される。この素晴らしい作品によって、ヴェルディはイタリアのオペラ作曲家の枠を超え、世界で最も偉大な抒情詩劇作家の1人としてモーツァルトとワーグナーに並んだといっても構わない

イタリアオペラの歴史の中でヴェルディと伍する人物はスカルラッティのみ、フランスにはいない。ドイツでもモーツァルト、ウェーバー、ワーグナーの3人くらい

 

85.    グスタフ・マーラー Gustav Mahler (1860.7.7.1911.5.18.)

ニューヨークフィルの元指揮者。心臓の疾患(ママ)が肺に広がって死に至る

ボヘミア生まれ、ウィーン大学に学び、オーストリアの様々な町の劇場で指揮を振り、85年プラハの国立劇場でザイドルの後任として首席指揮者に就任。97年にはドイツの音楽家憧れのポストであるウィーン宮廷歌劇場の芸術監督、ウィーン・フィルもリヒターの後任の指揮者となり、07年退任してアメリカに渡る

ウィーン宮廷歌劇場は当時総てがつまらない手順に支配され、無関心が蔓延していたが、オーケストラも歌劇団も舞台装置もすべてを改革し、バレエ団まで刷新。ウィーンの反ユダヤ主義がマーラーを苦しめたのもアメリカに渡った理由で、08年初からメトロポリタンで指揮、09/10年は再編成されたニューヨーク・フィルの首席として専念

 

86.    イゴール・ストラヴィンスキー Igor Stravinsky (1882.6.17.1971.4.6.)

13年《春の祭典》で音楽界に爆弾を落とし、20世紀を通じて震撼させた。心不全

世界各地を飛び回ったが、最後埋葬されるのはヴェネツィアのサン・ミケーレ島の墓地のロシア人区画。13年に同曲を上演したロシアのバレエ興行師ディアギレフは彼に音楽を根底から覆す機会を与えたが、同じ墓地に眠る

生涯で唯一の師リムスキー・コルサコフの下で書いた曲は100を超える、何よりもバレエ

若いうちに書いた《火の鳥》《春の祭典》《ペトルーシュカ》が最高傑作と言われ、20年代に厳格な新古典主義に移行、50年代にはさらに難解なセリー(音列)主義に転向

サンクトペテルブルクの音楽家の家に生まれ、コルサコフの息子と同級となり、父親に紹介されて弟子入りを頼む

08年ディアギレフと知り合い、バレエの編曲の仕事から始まり、バレエ・・リュスのパリ公演のためにロシア民謡を題材にした同名の《火の鳥》を作曲して一躍有名に

1次大戦で祖国に永遠の別れを告げ、無駄を削ぎ落した厳格で彩の少ない新古典主義へ

音楽評論家との対立は伝説になっている ⇒ ジャーナリストのレビューを害虫呼ばわり

 

87.    マリア・カラス Maria Callas (1923.12.2.77.9.16.)

激しく劇的な人物像ゆえに、同時代の最も刺激的はオペラ歌手と言われた。心臓発作

ソプラノ歌手としてのキャリアの大半は、論争と係争と伝説と神話で溢れている

ほぼ忘れられていた19世紀のベルカントオペラに新たな光を当て、ベッリーニやドニゼッティ、ロッシーニの作品を蘇らせた

2次大戦後のあらゆる歌手の中で、誰よりもオペラを支配、その声、音楽性、舞台での存在感、激しい気質は、古き良き時代のプリマドンナ・アッソルータ(バレエの最高位称号)

ギリシャ人の両親がマンハッタンに移住した直後に生まれ、13歳でギリシャに戻り音楽を学び、19歳でアテネ王立歌劇場で正式デビュー。第2次大戦後ニューヨークに戻る

当時からイタリアのオペラ歌手の目標であるミラノ・スカラ座に49年登場し、51年から正式な所属契約、主要なオペラの主役しか歌わなかった

体重を70ポンド落として135ポンドのスリムな体で、54年にはアメリカにもデビュー

世界の歌劇団を征服したが、諍いも増え、シカゴ、ウィーン、サンフランシスコ、メトロポリタンなど各地で告訴騒ぎなどに巻き込まれたが、並外れた興行収入で乗り超える

65年のメトロポリタンの《トスカ》が最後の舞台、73年テノール歌手ステファーノとの世界ツアーのカーネギーホールが人前で歌う最後だが、歌声はほとんど失われていた

49年結婚した相手はイタリア建材業界の大物で、彼女に安心を与えたが、オナシスとの恋愛関係になって離婚。オナシスがジャクリーンと結婚したことについては口を閉ざす

スカラ座のライバルだったテバルディとの不仲は有名

 

88.    レナード・バーンスタイン Leonard Bernstein (1918.8.25.90.10.14.)

米史上最も才能に溢れ、最大の成功を収めた音楽家。進行性の肺不全からの心臓発作で、健康上の理由から指揮者引退を発表してから5日後のこと。生涯の大半を通じてヘビー・スモーカーで、肺気腫や肺感染症、胸膜腫に罹患。8月のタングルウッドが最後の舞台

数多くの分野での成功は、それぞれの分野での救世主を期待した人々からは歓迎されなかった。音楽教育でも才能を発揮、ピアニストの腕前も名演奏家、マーラーの指揮では最高級であることに異論はない

マサチューセッツ生まれ、ロシアから移住して行商をしていた父は音楽に反対したが、10歳でピアノを習い始める

人生とキャリアの多くの場面で、多様性を歓迎、ユダヤ系移民の息子として、ヘブライ語とユダヤ文化に生涯敬意を払う一方、ローマ・カトリックにも深い尊敬の念を抱く

ニューヨーク・フィルのロジンスキに指名され次席になった43/44年シーズンに客演指揮者のワルターの病気で次席に代役が来て鮮烈な成功を収める。51/52年から6期音楽監督だったミトロプーロスの下で頻繁に客演を繰り返し、57/58年は共同首席となり、1年後に音楽監督に指名。劣化して観客数の落ち込んでいたニューヨーク・フィルに新しいアイディアを積極的に投入

87年刊行の伝記で同性愛者であることが広く世間に知られた

晩年になっても、多くの分野に挑戦して極めるという自分の若い頃の決断を改めて擁護

 

89.    ルチアーノ・パヴァロッティ Luciano Pavarotti (1935.10.12.2007.9.6.)

力強く純粋な歌声で、戦後のオペラのテノールに新たな基準を定めた。06年膵臓癌手術

70年代までオペラとリサイタルでキャリを積み、豊かな声ですぐに同世代を代表するオペラ歌手として名声を確立。”King of high-C”の愛称で親しまれた

80年代には「3大テノール」としてカリスマ性を示し、90年代前半からパヴァロッティ&フレンズのチャリティが始まり、多くのスターたちと共演してレコードを発売したが、次第に名声に満足して凡庸なレベルで満足したのか、80年代には新しいオペラの歌を覚えることが出来なくなっていた

04年引退コンサートの世界ツアーを企図したが、病気もあって半分で終了。95年のメトロポリタンでの代表作《連隊の娘》では所々高音が出なかった

心の人で、知性を感じさせるわけではなかった

80年代後半、圧倒的な才能を存分に発揮、オペラを名声と金のなる木に変えた彼の功績の最大の象徴は「3大テノール」。クラシック音楽の批評家の大半は、演者の才能として評価に値しないと拒絶

近年のパヴァロッティは、気まずい注目を浴びていた。体重の増加が止まらず、故郷のコンサートでは口パクが発覚、93年にはスカラ座でブーイング、彼の出演を前提に用意された公演を頻繁にキャンセルしシカゴでは永久追放を決断、02年にはメットでも2回の公演に出られず追放されかけた

イタリアのモデナ生まれ、父がアマチュアのテノール歌手。61年エミーリア劇場の国際コンクールで優勝してデビュー、63年からは舞台が世界に広がる

65年サザーランドの公演に参加し、「助言と励ましと手本により技術を伸ばす大きな要因になった」と自ら語っている。67年にはミラノ・スカラ座でカラヤンの指揮でヴェルディの《レクイエム》を歌ってさらに進化

2つのギネス記録保持者 ⇒ 165回のカーテンコールと、「3大テノール」のクラシック・アルバムの販売数

90年代は毎週のようにゴシップ欄に登場、後半からは健康問題が取り沙汰

97年にはメットで《運命の力》を予定したが、新しい役を覚えるつもりはないと宣言、劇場は彼の集客力に敬意を表して、《仮面舞踏会》に差し替え

 

13章    アーティスト The Visual Art

90.    オーギュスト・ロダン Auguste Rodin (1840.11.12.1917.11.17.)

生涯の大半を1人で歩いてきた。容赦のない貧困という逆境と戦い、敵対的な批判と戦い、後年は世界各地の熱狂的は信奉者の頂点に1人立ち尽くしていた

パリの貧しい家庭に生まれ、エコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)から「才能の証も見られない」として入学を拒否され、23歳での結婚を機に制作意欲が掻き立てられ傑作を生み始める

77年の《青銅時代》は地球上の最初の人類を表現した男性像だが、余りのリアルさに、生きている人間から型を取ったに違いないとまで言われた

音楽界の正統派がワーグナーを敵視したように、彫刻界の正統派はロダンを認めようとしなかった。彼は主題を理想化せず、リアリズムを追求し、創造の閃きに素直に従った

名声を得てからでさえ、作品を嘲笑されることもあり、文芸家協会が依頼した《バルザック像》は、滑稽でないとしても理解不能として別の彫刻家に平凡な像を依頼し直した

作品の量は質と同じくらい驚異的、89年には31点の彫刻が並んだ

バルザック論争のあとは、装飾的な大作に没頭、《地獄の門》はパリの装飾美術館の門扉として制作され、《考える人》もその群像の1

16年フランス政府にすべての作品と所蔵する美術品を寄付(価値総額40万ドル)し、ビロン館に集められて展示される代わりに、ビロン館に生涯住むことを許され、現在はロダン美術館として知られる

スケッチも彫刻と同じくらい素晴らしい

 

91.    アンリ・マティス Henri Matisse (1869.12.31.1954.11.3.)

フランスの最も偉大な画家の1人。心臓発作。40年の術後病状は思わしくなかった

フランスの天才の最後の1人。巨匠と呼ぶに相応しい。何かを思考する人は、誰でも彼の弟子を名乗ることが出来る。彼の思考は、私たちの時代を照らしてきた

半世紀前に近代の芸術運動をパリに持ち込んだ反抗的な芸術家の若きリーダーであり、色彩の魔術師、最高のデッサン画家、比較的狭い範囲の主題に不変の多様さを染み込ませた

05年ルオー、ヴラマンクらとともにサロン・ドートンヌでパリに衝撃を与え、野獣派と非難され、燃えるような激しい作風を糾弾される

51年南仏のヴァンスに数千人が殺到。マティスが自身の「最高傑作」と呼び最後の作品となった修道院の礼拝堂を見に来た

穀物商のことして生まれ、パリでギュスターヴ・モローに師事、コローなどの影響を受け、ルーヴルで古典の名作を模写して勉強

美学の世界は彼の作品を「芸術ではなく危険な感染症」と評し、08年ニューヨークでの展覧会は興奮した称賛が相次ぎ、権威あるアーモリー・ショー(国際近代美術展)では激しい論争の渦中に投げ込まれた

17年からはニースを拠点とする

「芸術家は、子供の頃のように、先入観なしで人生を見つめなければならない。その能力を失ったら、独創的に、1人の人間として自分を表現できなくなる」

 

92.    ジャクソン・ポロック Jackson Pollock (1912.1.28.56.8.11.)

抽象画家。抽象表現主義者。アトリエのあったロングアイランドでの自動車事故死

キャンヴァスを床に置いて上から絵の具を垂らすという型破りな技法で知られる

「同世代の画家の中で最も独創的な芸術」と称賛される一方、「不規則なエネルギーの組織されていない爆発」に過ぎないとの批判も浴びた

ワイオミングの農場で生まれ、絵画の才能を見出されニューヨークで正式な教育を受ける

40年代前半自然主義的なアプローチの反動として、半抽象的な表現主義の技法で描き始め、47年には本格的に使っていた「ドリッピング」は、彼の創作の最盛期を象徴する技法となる

 

93.    フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright (1867.6.8.1959.4.9.)

「現代の最も偉大な建築家」を自負。腸閉塞

53年全米芸術文化協会の最高の金賞を受賞した際の言葉は、ライトの名声と富と考え方が徐々に変化していたことを象徴、「影が落ちる。奇妙な病が私に忍び寄ってくる――謙遜という病が」

米建築界の偉大な急進主義者だったライトは、やがて、勢い盛んな近代建築学派のリーダーとして認められるようになる。その変化は、建築は機能に従うというライトの揺るぎない理論が和らいだというより、彼の教義と逸脱を世間が少しづつ受け容れたのだ

「高層建築の父」ルイス・サリヴァンの下で学びながら、アメリカ特有の高層建築ブームには批判的で、ニューヨークの剥き出しの高層ビルを批判し、アメリカの家は「箱」であり、「人間の魂の棺」のような設計だと批判

ライト自身の哲学は、「プレイリースタイル(草原様式)」として知られるようになった地面に近い低層の心地よい住宅が物語る。彼が設計する機能的なオフィスビルは中程度の高さで、コンクリートスラブやガラスのブロック、管材などを多用。堂々とした大きな建築物も多く、東京の帝国ホテルは23年の大地震に耐えた

ウィスコンシン州の牧師の家に生まれ、両親譲りの強い個性と反抗心は、ライトの性格と仕事を特徴づけた。同州大で土木を学び、シカゴで伝統的な建築に反発するサリヴァンの製図室で建築を学ぶ。4年後衝突して独立したが、生涯サリヴァンを「デア・マイスター」と呼んだ。反抗心の塊で、彼の設計は最初から過去のどんな建築とも違った。最初の設計は、「生活するための」低い屋根の家で、シカゴ郊外のオークパークでの自らの新婚生活のための家。低い庇の家で、水平な大地を意識した構造は、建築界に衝撃を与え、周囲の平らな風景に溶け込む設計は「プレイリースタイル」と知られるようになるが、ヨーロッパでは大いに称賛されたものの、アメリカ建築界は無視し続けた

アメリかで知られるようになったのはスキャンダルと悲劇によるもので、09年ウィスコンシンに隣人のための私邸として「タリアセン(ウェールズの言葉で、「輝く頂上」の意)」を立てるが、14年にそこで隣人一家が気の狂った使用人に惨殺され、家は放火で全焼したが再建。一方ドイツで出版した作品集が日本の天皇の目に留まり、15年帝国ホテルの設計を450万ドルで依頼される。問題は地震対策で、壁と床がスライドする斬新な工夫を施し、配管系統もパイプが割れにくい設計で、電線は地震で揺れてもショートや高電圧による死亡事故が起きないよう配置。22年完成。1年後の大地震で唯一生き残る

論争と批判にもまれながら、着実に前進し、人気と注文が増えていった。自分がアメリカの理想的な建築様式だと考えるコンセプトを「ユーソニア」と命名。全米芸術文化アカデミーの会員に選出され、数々の賞を受賞するが、80歳を超えてもなお批判を巻き起こした

ニューヨークの高層ビル群に対し好んで辛辣な言葉をぶつけたが、45年市から初めて設計を依頼されたのがソロモン・グッゲンハイム美術館の新築で、「芸術を開かれた窓越しに鑑賞しているかのように見る」とした設計案は、称賛と嘲笑の雪崩を起こしたが動ぜず、着工が数回先送りとなったが、56年漸く開始、後1,2か月で完成の見込み

 

94.    マルセル・デュシャン Marcel Duchamp (1887.7.28.1968.10.2.)

今世紀の最も影響力のある芸術家の1人。アメリカの市民権を取得、パリとニューヨークの自宅を行き来していた

13年のアーモリー・ショー(国際近代美術展)で国際的な脚光を浴びたが、10年後に36歳で自らのキャリアを捨てるが、半世紀後にポップカルチャー世代の精神的な父となる

ダダの精神の真髄で、第1次大戦後にダダイズムを実践した人の多くが主流の画家になったが、彼は美的なニヒリズムのヴォードヴィルに論理的な結論をもたらした

矛盾は、デュシャンが創造した観念と芸術の宇宙において重要な部分を占める

いくつかの意味で、悪評高いアーモリー・ショーのスターであり、嘲笑の標的はキュビズムの展示で、現代美術が辿り着いた狂気を象徴していた

ルーアンの公証人の家に生まれ、兄弟は皆20世紀の美術に目覚ましい貢献をしている

17歳でパリに出て、数年後にはピカソがキュビズムで具象絵画の伝統を打ち砕くのを目撃

13年には、日常の既製品を作品として選ぶだけで芸術に高められるという「レディ・メイド」の最初の作品を発表。一連の作品は、ポップアート作家と廃物彫刻家の祭壇に奉られた

17年独立芸術家協会委員を辞任。どんな作品でも6ドルの参加費を払えば審査なしで展示するという展覧会を開催しながら、方針を撤回したことに抗議したもので、自ら別名で出展したのが《泉》という磁気の男性用小便器を横に倒したもの

19年ダダ全盛期のパリを訪れ、ダダの英雄として迎えられる

長生きの秘訣は、「酒は飲み過ぎず、気に入った女はすべてものにすること」だと語った

 

95.    ココ・シャネル Coco Chanel (1883.8.19.1971.1.10.)

20世紀を代表するファッションデザイナー。死因不明

20年代のパリファッション界に君臨。名を成したのは香水で、占い師に5がラッキーナンバーだと言われ、「シャネルNo.5」というシンプルなネーミングで大金持ちとなる

激しい女性、容赦のない物言いで、短気でウィットに富み、どこまでも高慢、えも言われぬ魅力に溢れていた。ファッションという説教壇に立つ自由人

ファッションの暴政からすっきりしたラインで肩の張らないデザインにより女性を解放

当時最も革命的とされたのは、ジャージー素材のドレスとスーツ、ツイードのスーツとジャージー素材のブラウス、ベルボトムのズボン、トレンチコート、ピーコート、タートルネックのセーター、セーラー帽、ボブヘアー、コスチュームジュエリー、そしてリトルブラックドレス(襟とカフスは白が多い)

シャネルスーツ――ブレードの縁取りを施した襟のないカーディガンの上着と上品なスカート――はあらゆる価格帯で最も多く模倣されている婦人服のデザイン

シャネルのハンドバッグも様々な形で模倣され、60年代に最も普及した服飾品の1

シャネルにとってファッションの大きな変化は、マナーと日常生活の条件の大きな変化から生まれた。25年に女性が会社で働き始めたのが契機、女性の活力を取り戻させ、若返らせること、そうすれば人生に対する考え方も変わり、もっと喜びを感じるようになる

仏中南部オーヴェルニュで生まれ、母は結核で死に、父は子をおいて逃げた後、育ててもらったおばの元からも逃げて独立

13年ドーヴィルに開いた帽子店でシンプルさとラインの美しさで勝負したのが名声への最初の1歩。5年もたたないうちに彼女の独創性が影響力のある裕福な女性の心を掴む

17年ジャージー素材が注目され、ヴォーグ誌に「ジャージー・ハウス」と呼ばれて人気

デザイナーとしての最初の黄金期は20年代半ばから30年代後半にかけてで、当時ヨーロッパで最も裕福な男性の1人と言われたイギリスの第2代ウェストミンスター公爵ヒュー・グロヴナーと交際

リッツホテルを借りていた時、ガス爆発による煤で汚れた髪を短く切って1つに束ねリボンを巻いて白いドレスに合わせてオペラを鑑賞したところ、そのファッションが瞬く間に流行、ボブヘアーが誕生

30年代後半から54年の復帰までの間の人生は曖昧

80歳を超えてからキャリアの頂点を極め、自分のサロンを宮廷のように支配

結婚は一度もせず、「男の肩に止まった鳥より重い存在になりたくなかった」からという

 

96.    パブロ・ピカソ Pablo Picasso (1881.10.25.1973.4.8.)

肺水腫。61年結婚した2人目の妻ジャクリーヌ・ロックが看取る

キュビスト、シュルレアリスト、モダニスト、陶芸家、リトグラファー、彫刻家、優れた製図工、活力の魂、無愛想、誠実で不誠実な恋人、鋭敏な財政家、目立ちたがり屋、感情を燻ぶらせ続けたスペイン人、それがピカソ

かつて彼は語る、「私にとって、絵は目的でも実績でもなく、幸運な機会であり、芸術体験だ」、「私は自分が見つけたものを表現しようとする。探すのではなく見つけるのだ」

ピカソの想像は留まるところを知らず、気分や考えを驚異的な速さで芸術作品に変えることが出来た。画家としてだけでも作品は6000点を優に超える

美しさと醜さの従来の境界線を曖昧にし、ときには破壊した作品は、反ヒューマニズムとも批判され、その言葉は新しい洞察をもたらしていると考えていた彼の心を掻き乱した

ピカソが伝統主義を覆してきた長い道のりは、そのまま現代美術の歴史でもある

周囲は無秩序に散らかっていたが、性格は几帳面

女性は、ピカソが固執して没頭し続けた対象の1つ。彼個人の人生と芸術家としての人生に大きな影響を与えた女性は7人。うち2人と結婚

36年以降はスペイン内戦に突き動かされて政治に関わる。共和国政府の熱烈な支持者として資金援助。44年には仏共産党に入党

 

97.    ジョージア・オキーフ Georgia O’Keeffe (1887.11.15.1986.3.6.)

アメリカ絵画界の第1人者。夫のアルフレッド・スティーグリッツとともにアメリカのモダニズムの発展と普及の重要な階段を牽引

女性が自分で選んだ分野でどのような男性とも対等にやり合えることを証明

自然の形状を解釈して操る人として、鮮烈で個性的な色彩の遣い手として、自分が愛するニューメキシコの景色を紡ぐ叙情詩人として、アメリカの歴史にその名を刻み、女性たちが象徴的で曖昧なイメージの新たな可能性を探求する道を切り開いた

16年著名なスティーグリッツのギャラリーで個展を開き突然名乗りを上げた。彼は世界的な写真家で、新興の現代芸術の後援者で、2人は24年に結婚、彼女を撮った500枚以上の写真は、写真史上最も素晴らしい愛の詩とも言われている

現代美術の絵画と親和性が高いが、ヨーロッパの影響は驚くほどみられない。ヨーロッパ様式の奴隷であり続けるという運命から逃れたといわれる

ウィスコンシンの小麦農家に生まれ、シカゴで美術を学ぶ。自分の考えを表現することに大胆に挑戦し続けた

 

98.    アンディ・ウォーホル Andy Warhol (1928.8.6.87.2.22.)

ポップアートの創始者。胆嚢の手術後に心臓発作

最も偉大な才能は、世間の注目を集めることであり、記憶に残るフレーズを使い、最も衝撃的で長く残りそうなビジュアルイメージを見つけ出すこと

彼の才能と取り巻きのエネルギーが結び付いて、彼のキャリアを通して数々の悪名高い事件を起こした。60年代には自分に似た替え玉を講演に行かせたり、68年には自分のスタジオ内でファンに銃撃されたりした

80年代に若い世代のメンターとしてコンテンポラリー・アートの最前線に突然戻り、キース・へリングやパスキアらが彼を慕った

ペンシルヴェニアのどこかで生まれたが、生年も曖昧。カーネギー工科大でピクトリアルデザインの学位を取得、ニューヨークに出てイラストや商業画家として50年代後半には成功を収めた後、絵画に挑戦。62年ロスでキャンベルスープ缶のシルクスクリーンを初めて展示して認められ、ポップアートの一大ムーヴメントが生まれる

63年には絵筆を全く使わず、代わりにシルクスクリーン・プリントの硬い線を活かし、画像を非人間化、この手法がウォーホルの代名詞となる

70年代は腰を据えて持続的に創作活動に取り組み、芸術的なアウトプットを増やす

 

14章    アスリート Athletes

99.    ベーブ・ルース Babe Ruth (1895.2.6.1948.8.16.)

2年近くの闘病の後咽頭癌で死去。あらゆるフィクションを探しても、ルースの現実の人生ほどドラマチックな道を歩んだ登場人物はいない。ボルチモアの慈善施設の片隅で見いだされ、野球を代表する人物になる。球界屈指の人気者であり若者のアイドル

ルースが名声と莫大な富を得たのは、多くのホームランを打った才能のお陰なのか、裏表のない「人当たりのいいregular」性格の賜物なのか、昔から議論の余地があるところ

フィールドの外では生まれながらのショーマンであり、フィールドの中では最高級の選手

最初はレッドソックスの投手でワールドシリーズでも3勝を挙げる程だったが、外野手に転向するとすぐに年間本塁打記録を破る。1920125千ドルという記録的な額でヤンキースに移籍。ヤンキースは21年ニューヨーク本拠の球団として初めてアメリカン・リーグを制覇、以後3連覇して23年にはワールドシリーズも制し、同年「ルースが建てた家」ことヤンキースタジアム完成

活力とスタミナは底なしで、「ルースのようなウェスト」と言えば崩れた体型を指したほどだったが、25年転倒・入院して変わる。2760本塁打を記録

メジャー在籍22年、年俸総額89万ドル余り、広告契約等合わせて100万ドルを稼いだといわれ、34年に引退後は、ニューヨークのウェストサイドに所有の大きなアパートで悠々自適の生活を送る。47年「ベーブ・ルース・デー」開催、ルース財団を設立して恵まれない子の支援を続ける。48年ヤンキースタジアム25周年記念イベントに背番号3のユニフォームを来て登場、以後永久欠番に

 

100.モハメド・アリ Muhammad Ali (1942.1.17.2016.6.3.)

世界ヘヴィー級チャンピオン3回、20世紀スポーツ界最大のカリスマにして、物議を醸し続け、激動の時代を体現した

30年以上パーキンソン病で入院、死因は敗血症ショック

最もわくわくさせるボクサーで、型破りのボクシングスタイルをリングに持ち込み、スピードと敏捷性とパワーを、過去のあらゆるファイターよりも見事に融合させた

拳と同じくらい口でも人々を楽しませ、自己流の不揃いな詩(“Me! Wheeeee!”)で人生を語った。ベトナム戦中徴兵を拒否、公民権運動の真っ只中で人種統合を拒絶。イスラムに改宗し、カシアス・クレイから改名

反戦を貫いてリングに上がることを許されず、全盛期の3年以上と巨額のファイトマネーを犠牲にしたことは尊敬を集める

マスコミは彼を「ルイヴィル・リップ」(よく喋ることからついた綽名)と呼び、本人は「ザ・グレーテスト」と名乗った

冷戦におけるアメリカの主張を鸚鵡返しに唱えたが、次第に国を批判し始め、66年には「ヴェトコンに何の反感も持ってない」と公言して政治的な標的になる

偽善者でもあり、自分は「レイス・マン」(黒人地位向上を志す知識人・活動家)と言いながら、他のアフリカ系アメリカ人の外見を侮辱。対戦相手のジョー・フレイジャーを「ゴリラ」と呼んだことで、フレイジャーは後年まで憤慨

伝統を重んじる格闘技ファンは、アリのスタイルに愕然とした。両手をだらりと下げたまま後ろにのけぞることを批判。21年間の通算成績は565

私生活は矛盾に満ちていた。何度も結婚・離婚を繰り返す

政治的にも社会的にも独特な感覚の持ち主。多くの人の善意を巻き込む力は偉大で、「目に余る行為も、許す。虹が暗闇に消えていくことを責められないように、彼を責めることは出来ない。虹は雷雨から生まれる。アリは虹であり、雷雨でもある」といわれた

読み書きを正式に教わったことはなく、本を1冊も読んだことがないと告白したが、ボクシングで分別と規律を学び、60年のローマ五輪で金メダルを取るとプロに転向、64年リストンを掛け率17の不利をひっくり返してノックアウト(「蝶のように舞い、蜂のように刺す」)。翌朝イスラム信徒を公言し、数週間後改名

67年良心的兵役拒否者を申請、全米のボクシング団体から王者を剥奪。徴兵拒否で有罪となり控訴。74年ジョージ・フォアマンからタイトルを奪還、以後3年で10回防衛するが81年引退。まもなくパーキンソン病の診断

「人々から崇拝されることが好き。自分ではどうにもならないほど体が弱っても、子供のような無邪気さと、陽気で楽観的な性格は変わらなかった」と妻が述懐

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

訳者あとがき

1851年創刊の『ニューヨーク・タイムズ』紙には、約170年間で1万本以上の死亡記事が掲載

死亡記事の最大の魅力は、当時の息づかいで語られていること。それぞれの実績や作品を社会がどのように評価するか、歴史の中でどこに位置付けられるか、確定していない場合がほとんど。当時の生々しい描写を楽しみたい

欧米の主要全国紙には、死亡記事の専門記者がいる。故人の歩みを丁寧に紡ぎ、記者の個人的な評価や思いを込めた文章も少なくない。生前に「死亡記事用のインタビュー」をすることもある。113月死去したエリザベス・テイラーに長文の追悼を手向けた『ニューヨーク・タイムズ』紙の演劇評論家ガッソウは05年に死去。テイラーは晩年健康問題が度々報じられていたとはいえ、掲載当時はちょっとした話題になった

今回の翻訳出版に当たり、版元の許可を得て編集部で100人を選ぶ。広く時代を反映しているもの、エピソードを楽しく読めるものといった視点を意識(日本人は、原書にも昭和天皇と黒澤明のみ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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