世界の王室物語 新人物往来社 2020.10.13.
2020.10.13.
肖像画で読み解く 世界の王室物語
~ ロイヤルファミリー222人が語る王朝興亡史
編者 新人物往来社
執筆者
安達正勝 岩手県生まれ。フランス文学者・歴史家
菊池良生 茨木県生まれ。明治大教授
佐野あき 栃木県生まれ。作家
設樂國廣 東京都生まれ。元立教大教授
中村静香 茨木県生まれ。フリーライター
根本茂 埼玉県生まれ。代々木ゼミナール世界史講師
平川陽一 東京都生まれ。作家
渡辺みどり 東京都生まれ。文化女子大客員教授・ジャーナリスト
発行日 2011.2.25. 第1刷発行
発行所 新人物往来社 (ビジュアル選書)
第1部
世界を動かした五大王家
l ハプスブルク家
1273年、ルドルフ・フォン・ハプスブルクのドイツ王即位によって神聖ローマ帝国の「大空位時代」が終焉
王朝の始祖:ルドルフ1世(1218~91) 選帝侯会議で王に選出され、78年王朝を確立
死神に愛された皇帝:フリードリッヒ3世(1415~93) 52年戴冠。皇帝位世襲の布石
中興の祖:マクシミリアン1世(1459~1519) 「中世最後の騎士」と呼ばれ、傭兵による大量の歩兵部隊を中枢に据える戦術を用い、騎士の時代は終焉。婚姻政策でハンガリー、ボヘミア、スペインを手に入れる
妻フアナを狂わせた美しき公爵:フェリペ美公(1478~1506) 1482年母ブルゴーニュ公女マリアが他界するとブルゴーニュ公位を継ぎ、フランドルで育つ。96年スペイン王女フアナと結婚。04年フアナの母カスティーリャ女王イサベル1世が他界し、フアナが女王を継承すると妻の共同統治者となる。浮気性のフェリペにフアナは精神に異常を来し、狂女王と呼ばれた
オーストリアを託されたカール5世の弟:フェルディナント1世(1503~64) 1521年スペインを離れウィーン入城、ボヘミア・ハンガリー王女アンナと結婚。26年妻の兄がオスマンに敗れ、ボヘミア・ハンガリー王位を継承。オスマンはウィーンを包囲。55年ルター派を容認するアウグスブルクの宗教和議をあっせん。31年ドイツ王選出、56年神聖ローマ帝国皇帝
世界帝国の支配者:カール5世(1500~58) アラゴン王、カスティーリャ王、ナポリ王など70以上の称号を冠した。21年弟にオーストリア統治を任せ、以降兄の系統はスペインを、弟の系統がオーストリアを統べる
プロテスタントとカトリックの狭間に立たされた皇帝:マクシミリアン2世(1527~76) 21年プロテスタントに傾倒したため、51,2年には暗殺未遂事件が勃発。62年にカトリックへ改宗。両派が平和に暮らす世界を目指し、自らを「1人のキリスト教徒」と表した
奇人:ルドルフ2世(1552~1612) マクシミリアン2世の嫡子として生まれ、スペインのフェリペ2世のもとで育つ。傑出した知力で学芸に貢献、世界中から珍奇な品々や動物を集めた
兄ルドルフ2世から王位を簒奪:マティアス(1557~1619) スペイン領ネーデルラントの統治を巡って兄と対立、11年兄を追放してオーストリア、ハンガリー、ボヘミア王位を簒奪
30年戦争終結のために余儀なくされた苦渋の決断:フェルディナント3世(1608~57) 37年父帝フェルディナント2世の後を受け皇帝即位。フランス王家とハプスブルク家の争いの様相を呈した30年戦争終結のため、46年ヴェストファリア条約締結、新教諸侯の権利を大幅に認め、皇帝権限は縮小
芸術家を多く擁護したスペイン王:フェリペ4世(1605~65) 文学や芸術に熱心。ベラスケスなどを擁護。30年戦争でイタリア、ネーデルラントを失い、ポルトガルも独立、スペイン王家は斜陽。15年フランス王女イザベルと結婚、太陽王ルイ14世妃となるマリア・テレサを設ける
スペイン・ハプスブルク最後の王:カルロス2世(1661~1700) 母を摂政に即位、病弱
エフェリペ4世の王女:マルガリータ(1651~73) 15歳でレオポルト1世に嫁ぐ。カルロス2世の姉
芸術を愛したバロック大帝:レオポルト1世(1640~1705) 平和主義だったが、83年のオスマンによる第2次ウィーン包囲やスペイン王位継承戦争など戦いを余儀なくされる
弟とともに夢見た更なる権威:ヨーゼフ1世(1678~1711) 国内での皇帝の権威回復に努め、ハンガリーのラーコツィの反乱を鎮定、スペイン継承戦争を戦うが、命運尽き夭折
スペインを愛した皇帝:カール6世(1685~1740) 兄ヨーゼフの夭折で即位。1713年スペイン継承戦争に終止符。ルイ14世とらシュタット条約を締結スペイン領ネーデルラント、ミラノ公国、ナポリ王国、サルディニアを得、オーストリア・ハプスブルク最大の版図を領した。男子がなく、長女マリア・テレジアを継承者とするため24年長子相続を宣言
実質上の女帝として統治した強き母:マリア・テレジア(1717~80) 36年ロートリンゲン公と恋愛結婚、16子を得る。45年夫フランツが神聖ローマ皇帝に戴冠するが、実権は妻。プロイセンの脅威に悩まされ、56年にオーストリア継承戦争で失ったままになっていたシュレージェンを巡り7年戦争勃発
神聖ローマ帝国最後の皇帝:フランツ2世(1768~1835) 1792年即位。ナポレオンに蹂躙され、04年に全世襲領土をオーストリア帝国とし、06年神聖ローマ帝国解体。以後オーストリア帝国皇帝フランツ1世に。長女マリー・ルイーズをナポレオンに嫁がせる屈辱を強いられる
オーストリア帝国の万歳爺:フランツ・ヨーゼフ(1830~1916) 48年叔父フェルディナント1世のあと即位。67年には弟マクシミリアンがメキシコで処刑、89年には嫡子ルドルフがマイヤーリンクで自殺、98年には妻エリザベートが暗殺、14年には後嗣フランツ・フェルディナントが暗殺
「ヨーロッパの美妃」と謳われたフランツ・ヨーゼフ皇帝妃:エリザベート(1837~98) バイエルン公マクシミリアンの次女。54年結婚。67年ハンガリー王妃として戴冠。嫡子自殺後は喪服で過ごし、無政府主義者の手によって殺害
マイヤーリンクに散った皇太子:ルドルフ(1858~89) ベルギー王女シュテファニーと結婚するが仲が悪く89年離婚申請。革新的な自由主義思想に傾倒、保守的な父との対立を深め、男爵令嬢マリー・ヴェッツェラとピストル自殺
夫妻を襲ったサラエヴォの凶弾:フランツ・フェルディナント(1863~1914) 皇弟カール・ルートヴィヒの3男。周囲の相次ぐ死去で帝位継承者となり、93年には訪日。貴賤結婚のため妻は常に蔑視に晒された。1914年サラエヴォで夫婦そろって暗殺
ハプスブルク家最後の皇帝:カール1世(1887~1922) 16年即位。翌年ジクトゥス事件で国民の信頼を失い、第1次大戦終結とともに帝国崩壊、翌年スイスへと亡命。21年にはハンガリー王位復権を謀り失敗、マディラ島に流され死去
l ブルボン家
フランスには君主の家計が4つ、メロヴィング家、カロリング家、カペー家、ボナパルト家
ブルボン家はカペー家の系統
フランスには男子にしか王位継承権がないので、男子が断絶すると王家が交替
1328年カペー本家から傍系のヴァロア家に王位が移り、1589年ブルボン家に移る
現代でも絶大な人気を誇る初代:アンリ4世(1553~1610) 1589年「3アンリの戦い」を制してブルボン王朝を興す。新旧両教の融和を目指して「ナントの勅令」を発布。政策が新教寄りだと非難した旧教徒により暗殺
名宰相リシュリューとの二人三脚:ルイ13世(1601~43) アンリ4世の息子。8歳で即位。13歳まで摂政だった母を幽閉して権力を掌握、ユグノー討伐や北米での領土を拡大し、絶対君主の最初の1人に
ヨーロッパに君臨した「太陽王」:ルイ14世(1638~1715) 5歳で王座に。宰相マザラン亡き後は絶対唯一の王となり、フランス絶対主義を完成。スペイン継承戦争では孫のフィリップをフェリペ5世として王位に就けることに成功。豪華なバロック様式の宮廷文化も絶頂期。戦争と浪費、「ナント勅令」廃止による新教徒流出で産業が衰退、フランスの全盛期は一代で終わり、後は没落の一途
夫に顧みられなかった薄幸の王妃:マリー・テレーズ(1638~83) 地味な妻をルイ14世は好まなかったが、3男3女をもうける。輿入れの際、ハプルブルクけが持参金を支払えなかったことがスペイン継承戦争の原因に
ルイ14世に弓引いた女傑の孤独:モンパシェ姫(1627~93) ルイ13世の弟ガストン・ドルレアンの娘。従弟のルイ14世との縁談もあったが、フロンドの乱で反乱軍として王と戦い、敗れて蟄居生活を送る。パリに戻って華やかな社交生活を送るが、恋の叶わぬ孤独な生涯を送る
衰退のなかを生きた遊楽の王:ルイ15世(1710~74) 幸運な男。政治は宰相ショワズールと愛妾ポンパドゥールに任せ、放蕩の日々を送る。財政は完全に破綻、政治への不満が高まる
零落した王女に転がり込んだ王妃の座:マリー・レクザンスカ(1703~68) 元ポーランド王スタニスワフ1世の娘。父が王位を追われてアルザスで隠棲していた時、ルイ15世に迎えられ、13年で10人子をなし、医者に警告された
悪弊を一身に背負った善良な王:ルイ16世(1754~93) 革命勃発後も人気を誇ったが、ヴァレンヌ逃亡事件で、国民を捨てた王として支持を一挙に失う。王政のツケを1人で支払った
革命にすべてを奪われた悲劇の王妃:マリー・アントワネット(1755~93) ウィーンから嫁いできて退屈を紛らわせたのは浪費とフェルセン伯爵との恋。捕らわれの身となってフェルセンの手引きにより逃亡を試みたが失敗、再び幽閉の身となって、断頭台に消える
革命に捻じ曲げられた少年の心:ルイ17世(1785~95) 革命の思想を叩き込まれて母は驚愕
家族とフランスを愛したゆえの悲劇:エリザベト(1764~94) ルイ16世の妹。94年死刑判決。「天上のプリンセス」と呼ばれ、国民から最後まで敬い慕われた
革命を切り抜けて復位を果たす:ルイ18世(1755~1824) 16世の弟。革命勃発と同時にドイツに亡命していたが、17世の死を知り18世を名乗る。ナポレオンの没落後14年正式に復位を果たす。穏健な政治を行うが、甥のベリー公が暗殺されると絶対王政を復活させた
新たな革命に王位を追われる:シャルル10世(1757~1836) ルイ18世の弟。元アルトワ伯。首相にかつてマリー・アントワネットの取り巻きだったポリニャック夫人の息子を登用するなど時代錯誤な政治を行って民心を失うと、30年の7月革命であっけなく退位、ブルボン復古王政は僅か15年で幕
わが子のために策した王位奪還計画:マリー・カロリーヌ(1798~1870) シャルル10世となるアルトワ伯の息子ベリー公の妻。20年王位継承者の夫が暗殺された際子を宿していた。無事誕生したボルドー公は「奇跡の子」と呼ばれ期待を一身に集める。7月革命で王位を追われると、新国王ルイ・フィリップ一家の暗殺を企て王位簒奪を狙うが、密通のスキャンダルが起こりシャルル10世によりブルボン家から追放
凶刃に斃れた「奇跡の子」の父:ベリー公シャルル・フェルディナン(1778~1820) アルトワ伯の息子。マリー・カロリーヌとの間に「奇跡の子」を設ける
ブルボン家の系譜に繋がる最後の王:ルイ・フィリップ(1773~1850) ブルボン家に連なるオルレアン家の出身。ギロチンにかけられたオルレアン公爵の息子。「国民の王」を称したが、アメリカに亡命していた彼を王位に推したのは大貴族と裕福なブルジョワジーで、彼らに有利な施策を行うフィリップには、「株屋の王」と渾名がつけられた。48年の2月革命ではイギリスに追放され、オルレアン朝は1代で終わる
三色旗を拒み王座を逃す:ボルドー公アンリ(1820~83) 「奇跡の子」としてブルボン家支持者の期待を一身に集めたが、30年の7月革命によってルイ・フィリップに王座をさらわれる。普仏戦敗北後の73年シャンボール伯を名乗っていたアンリに王政復古のチャンスが訪れるが、三色旗受け入れを拒否して、復位の望みを絶たれる。世継はなく、本家は断絶。現在はオルレアン家の末裔がブルボン本家を名乗る
現スペイン王家とルクセンブルク大公家はルイ14世の血を引く。18~19世紀イタリアのパルマ公国と両シシリー王国(ナポリを含む)にもブルボン家が君臨したことがあるが、いずれもスペイン・ブルボン家の系統
l ロマノフ家
ロマノフ家隆盛の契機は、1547年同家のアナスタシアがリューリク朝のイワン4世の皇后になったこと。1598年リューリク朝のフョードル1世の死で王朝が途絶え、ツァーリが次々と交代する動乱時代となったが、1613年アナスタシアの甥のミハイルが即位
始祖となった若きツァーリ:ミハイル・ロマノフ(1596~1645) 動乱を終息させたのが有力貴族やコサックの支持を得たミハイルで、300年にわたる王朝の祖となる。フョードル1世の母方の従兄弟。自身は病弱で、政治は父フィラレートや貴族会議・全国会議に委ねている
大国への道を開いた2代目:アレクセイ(1629~76) 自ら政治に取り組む。ポーランド、スウェーデンと戦ってウクライナに領土を拡大。国内ではステンカ・ラージンの反乱を乗り越え、西欧化と領土拡大の道筋をつけ、ピョートル大帝へと受け継がれる
初の女性摂政となった烈女:ソフィア・アレクセーエヴナ(1657~1704) 1682年兄フョードル3世没後、2人の弟イワン5世とピョートル1世に代わって摂政に就く。ピョートル1世の成人が近づくにつれ両者の関係は悪化。89年姉を女子修道院に幽閉、ソフィアは弟への恨みを募らせながら孤独な余生を送る
燦然と輝く大帝の明と暗:ピョートル1世(1672~1725) 第5代。アレクセイの末子。姉を斥けた後は、スウェーデンとの北方戦争に勝利してバルト沿岸部を獲得、西欧への出口として新首都ペテルブルクを建設。急激な近代化に周囲が反発、皇太子アレクセイの陰謀が発覚して父子の確執は修復不可能となり皇太子は死刑。国内では多くの反乱に見舞われ、新首都建設でも労働者が飢えと寒さで死亡、治世は多くの負の部分を併せ持った
洗濯女からの大出世:エカテリーナ1世(1684~1727) 第6代。貧しい農家の生まれ。ロシアとの戦争で夫を失ったが、ピョートル大帝の目に留まり皇后となり、女帝に推されたが、享楽的生活が禍したか、在位僅か2年で急逝
浪費の象徴「氷の宮殿」:アンナ・イワノヴナ(1693~1740) 第8代。イワン5世の娘。西部のクールラント公爵家に嫁いでいたが、30年ピョートル2世の急逝で女帝に推挙。浪費的かつ残酷な性格、ローマ・カトリックに改宗した廷臣を厳冬期に建てた氷の宮殿で過ごさせた
2度目の黄金時代を築いた女帝:エカテリーナ2世(1729~96) 第12代。ドイツ出身。61年無能な夫ピョートル3世を廃し、オスマン帝国を圧迫して黒海沿岸部に進出、ポーランド分割で西にも領土を拡大。ロマノフ家の正統な帝位継承権保持者2名、ピョートル3世と、イワン5世の子孫のイワン6世が相次いで不可解な死。実子パーヴェル1世も愛人との子だと遺書で仄めかし、ピョートル1世の子孫であることを誇りにしていたパーヴェル1世を傷つける。啓蒙専制君主として名を馳せ、ヴォルテールら文化人とも交流、停滞していたロシアを復活。ポチョムキンらとの奔放な性生活が誇張して伝えられ、孫のニコライ1世は「帝冠を傷つけた娼婦」と非難
巨大な母を否定した息子:パーヴェル1世(1754~1801) 第13代。母エカテリーナ2世を忌み嫌う。ナポレオン寄りの外交政策が決定打となって宮廷内クーデターを招き暗殺される
対ナポレオン戦に全精力を使い果たす:アレクサンドル1世(1777~1825) 第14代。1812年ナポレオンを撃退したが25年急死。シベリアで余生を過ごすという伝説を生む
強固な専制政治を貫く:ニコライ1世(1796~1855) 即位早々クーデターが起こるほどの専制主義者、「ヨーロッパの憲兵」を自認してハンガリー独立運動を鎮圧。南下政策を進めクリミア戦争を惹起。1855年日本にプチャーチンを派遣し和親条約を締結
夫の愛人と暮らした晩年:アレクサンドラ・フョードロヴナ(1798~1860) 夫ニコライ1世は愛妻家で7人の子供に恵まれるが、体調を崩すと愛人バルバラに傾く。始めは心引き裂かれる思いだったが、ニコライの死後も良好な関係を築き同居
新時代を拓いた解放皇帝:アレクサンドル2世(1818~81) 第16代。改革の君主。クリミア戦敗戦を農奴制に代表される国家社会の立ち遅れに原因があると考え、61年農奴解放令となるが、改革・保守の両派から反発を招き、テロリストに暗殺。国は再生を果たす
家庭を愛した「ロシアの父」:アレクサンドル3世(1845~94) 第17代。良き家庭人。旅行中の汽車の脱線事故の際は破壊された車内で身を挺して家族を守った。古き良き理想的なロシアの父親像
すべてを背負った最後のツァーリ:ニコライ2世(1868~1918) 退位の4年前にロマノフ朝300周年を祝ったばかり。臨時政府によってシベリアに配流されたものの、家族揃って過ごせる貴重な日々だったが、1年半後何の前触れもなくエカテリンブルクの「イパチェフの館」で惨殺。1613年ミハイルが即位した場所もイパチェフ修道院。善良な家庭人が帝政の弊害の全てを背負わされた
長く語り継がれた生存説:アナスタシア(1901~18) ニコライ2世の末娘。多くの「自称」アナスタシアが出没するなか、アンナ・アンダーソンが旧皇族も含む多くの支持者を集めたが、死後のDNA鑑定で否定された
l オスマン家
オスマン家は、チンギス・ハーンに追い出されたムール・セルジューク朝のもとに封臣となったトルコ系遊牧民のエルトゥールルを祖とする
第1次大戦ではドイツに接近して参戦、敗戦により国は分割
国民を味方につけたムスタファ・ケマルが祖国解放戦争を成功させ、1923年アナトリアにトルコ共和国の成立を宣言
アナトリア(東ローマ帝国との国境地方)に割拠した建国者:オスマン1世(1258~1326) 父・エルトゥールルがムール・セルジューク朝内に築いた勢力を81年に受け継ぎ、同朝がモンゴルの来襲で衰退するのに乗じてオスマン君侯国を確立、99年正式独立を果たし、オスマン国家が成立。26年ブルサ攻撃中に没するが、息子オルハンは東ローマ皇帝の皇女と通婚、同市を陥落させ、最初の首都としている、更にバルカン半島に領土を拡大
国家の礎を築いた初のスルタン:ムラット1世(1319/26?~89) 東ローマ帝国から66年にアドリアノープルを奪って首都とし、中央集権的な国制を確立。キリスト教徒からなるスルタン直属の歩兵軍団イェニチェリを創設。帝国の基盤を築き「帝王」と呼ばれたが、セルビア貴族により刺殺
すべてを失った痛恨の敗戦:バヤジット1世(1360~1402) セルビアを征服した父・ムラット1世の死後、弟たちを殺害して即位。96年十字軍を破るなど軍事的才能に恵まれ「雷光」と呼ばれた。アンカラでティムールと激突、敗退して捕虜となり獄中死を遂げ、王朝は一時断絶
「千年の都」を手に入れた征服者:メフメト2世(1432~81) オスマン帝国を再興したのはメフメト1世で、その後メフメト2世が1444,45,51年と3度即位。金角湾を封鎖したコンスタンティノープルに対抗、船を陸送して湾内に侵入し53年陥落させ、イスタンブルと改称。以後スルタンのほかに「ムール・カイセリ(ローマ皇帝)」を名乗る。東ローマ帝国の滅亡はヨーロッパ世界を震撼させ、東欧やギリシャにも領土を拡大するオスマン朝の脅威を実感
後継者争いに敗れた皇子:ジェム(1459~95) メフメト2世の息子。父の死後ブルサに拠ってコンスタンティノープルの兄バヤジット2世とスルタン位を巡り抗争、敗れるとロードス島に逃れるが、フランスで獄中に
版図を倍増させた戦争の天才:セリム1世(1465~1520) 凡庸な父バヤジット2世を廃位して即位。幽閉した父を毒殺。オスマン史上最高の軍事の天才で、サファヴィー朝、マムルーク朝を撃退し、メッカとメディナを手中にし、シリア・エジプト・パレスティナも領有。僅か8年の治世で領土は倍以上に拡大
敵からも人柄を認められた大帝:スレイマン1世(1494~1566) 父・セリム1世急逝を受けて即位。キリスト教世界へ親征、ヨーロッパ世界の玄関口ベオグラードを皮切りに、フランス王フランソワ1世と結んでハプスブルクを攻撃、29年にはウィーンを包囲、地中海も沿岸の3/4を手中に。ヨーロッパ人にとって恐怖の対象だったが、高潔な人柄は認められ、オスマン朝の黄金時代を築いた畏敬の念を込めて「壮麗者」と呼んだ
大帝の治世に影を落とした寵妃:ヒュッレム(1510~58) スレイマンの寵愛を独占、後継者候補だった他の愛妾の息子ムスタファを策謀で処刑させ、息子バヤジットを時期スルタンにさせようとしたが、弟のセリムとの確執が高まるとスレイマンは弟を後継者に指名し、ヒュッレムの野望は潰える。スレイマンの死とともに帝国の衰退が始まる
改革を目指した少年王:オスマン2世(1604~22) 14歳で即位し、戦線膠着、財政悪化の帝国の改革を唱えるが、イェニチェリの改革を断行しようとして反発、処刑される
綱紀粛正を徹底した青年スルタン:ムラット4世(1612~40) バグダッドを奪回し名君といわれたが早逝。民情視察を頻繁に行う
「狂王」と呼ばれた鳥籠のスルタン:イブラヒム(1615~48) トプカプ宮殿内に後継者争いに敗れたスルタンの兄弟を幽閉する小部屋があり「鳥籠」と呼ばれたが、そこを出され兄ムラット4世の死体を見て自身の即位を信じる。長い幽閉生活で精神を病み、息子を風呂に投げたりハーレムの女性を袋詰めにして川に投じるなど奇行が目立ち、人心を失って「鳥籠」に戻され絞殺
チューリップ時代をもたらした文人スルタン:アフメト3世(1673~1730) 18世紀初頭、ヨーロッパとの力関係が逆転、83年ウィーン包囲に失敗、99年にはカルロヴィッツ条約でハンガリーも失う。半面治世後半は「チューリップ時代」と呼ばれる華やかな文化が栄え、対外的な劣勢を現世の快楽と美で忘れようとしたのか
ロシア戦敗北の報に奪われた命:アブデュルハミド1世(1725~89) 18世紀に入るとオスマン朝の解体が始まる。74年即位直後、ロシアに黒海の支配権を奪われ、87年からの対ロシア戦の敗報に接して病に臥し、そのまま死去
西欧化が招いた廃位と死:セリム3世(1761~1808) 西欧の事情に通じ、その導入を図った有能なスルタンで、その成果は「新式軍隊(ニザーム・ジェディード)」として結実したが、保守派の蜂起で殺害
列強と王朝を秤にかけた「均衡王」:
アブデュルハミド2世(1842~1918) ヨーロッパの国際政治に翻弄され「ヨーロッパの病人」になり下がる。新憲法を発布して西欧化に踏み出したが、77年の露土戦争で敗北すると、憲法を停止し30年にわたる専制政治を開始。08年青年トルコ人革命で反動政治は終わり退位を余儀なくされるが、オスマン史上初の議会に廃位されたスルタンとなる。治世中の90年、日本への使節を乗せた「エルトゥールル号」の遭難事件は日本とトルコの友好の始まり
オスマン朝の幕を降ろした老帝:メフメト6世(1861~1926) 第1次大戦末期、兄メフメト5世の後即位、敗戦と分割、革命と王朝終焉を見届ける。22年英国軍艦でイスタンブルを離れ、オスマン朝は滅亡、トルコ共和国が誕生。オスマン家のアブデュルメジト2世がカリフ(スルタンとは別の後継者)として登位したが24年廃位、一族共々国外追放。1938年ケマルの没後、恩赦によりオスマン一族の帰国が許され、現在トルコ在住の者もいる
l 愛新覚羅家
建州女真の騎馬民族(満州族)。1616年太祖・ヌルハチが中国東北部を統一、明から独立。36年にはその子太宗ホンタイジが大清皇帝として即位。1644年山海関を越えて北京に入城。清朝は前年太宗が死去、順治帝が即位。61年康熙帝が7歳で即位。2.4~2.5億の人口のうち2.3億の漢人を満州族が制御するため、様々な工夫がなされる
康熙乾隆時代の3代134年が清国の最盛期
清朝樹立後の混乱を正した英邁:世祖・順治帝(1638~61) 叔父の補佐により北京に無血入城を果たし、僅か6歳で即位、50年叔父の死後は親政。乱れた内政を改革。59年には勇猛を誇った鄭成功の北伐軍を下す
乱を制圧し繁栄の礎を築いた猛き皇帝:聖祖・康熙帝(1654~1722) 15歳で親政開始。自ら遠征を重ね版図を拡大。治世は安定・発展し隆盛へと向かう
難産の末に他界した康熙帝妃:孝誠仁皇后(1653~74) 満州族の正黄族の出身、65年皇后、第2子出産の際早逝。妻の忘れ形見を帝は溺愛するが、不肖の息子で廃太子として幽閉
官吏末端にまで目を光らせた:世宗・雍正帝(1678~1735) 康熙帝の第4子。清朝5代。45歳で即位、治世は充実、密偵を使い、末端にまで直接目配り
太平の御世を築いた賢帝:高宗・乾隆帝(1711~99) 10度にわたるジュンガル遠征で平定、台湾やヴェトナムも制圧、帝国の黄金期を築く。古今の書物を書写し保存、清朝文化の粋を集め『四書全書』完成。廃満思想は弾圧したが、多民族国家として繁栄
間に合わなかったアヘン禁止への固い決意:道光帝(1782~1850) 36年反アヘン派を登用するが、アヘン戦争で敗退
西太后に支配され若くして散った悲運の生涯:同治帝(1856~75) 父・咸豊帝が26歳で崩御すると、6歳で即位。8人の大臣で補佐すべしとの遺言だったが、父の寵愛する西太后にクーデターを起こされ実権剥奪、18歳で親政を復活させるが、2年後病没
皇帝3代を影で操った真の女帝:西太后(1835~1908) 下級官吏の娘、52年咸豊帝の側室となり、同治帝即位と同時に垂簾聴政により政界を牛耳る。同治帝の病没後は妹の子を光緒帝として擁立、95年日清戦争に敗れ、98年光緒帝親政となるが、戊戌の政変で復帰。00年義和団の乱で北京陥落、西安に移り住む。2年後紫禁城に戻り、光緒帝崩御の翌日宣統帝溥儀を擁立し、崩御
近代化への思想を掲げ、西太后に歯向く:徳宗・光緒帝(1871~1908) 長年西太后の傀儡だったが、近代化を目指し98年政治改革を試みるが戊戌の政変で幽閉。00年北京陥落の際は西太后とともに西安へ。西太后と1日違いで他界
連合軍襲来に紛れ消された光緒帝最愛の妃:珍妃(1875?~1900) 光緒帝の側室。満州貴族の娘。13歳で後宮に入り、98年戊戌の変で幽閉。00年北京陥落の際殺害、翌年遺体が発見され「貴妃」の称号を与えられる
政変に翻弄されたラスト・エンペラー:宣統帝(1906~67) 清朝最後の皇帝、満州国皇帝。11年帝国崩壊、「大清皇帝」の称号と皇帝特権は許された。17年復辟を図るが失敗、24年クーデターにより紫禁城追放。34年日本軍部の策略に乗り満州国康徳帝として起つ。敗戦後ソ連・中国で収容所生活を送り、59年釈放、67年癌にて逝去、皇帝として初めて火葬
最後の皇帝溥儀の皇后:婉容(1906~46) 22年溥儀に嫁し、35年夫の侍従と密通し子をなすが極秘に処理。孤独と日本軍の監視からアヘンにのめり込み、満州国解体後は逃亡の日々と監獄をたらい回しされ他界
離婚状をたきつけた溥儀の第2夫人:文繍(1909~50) 22年溥儀の側室。24年クーデターで追放、31年離婚を求めるが溥儀は拒否、裁判で離婚を勝ち取る。離婚後慰謝料で小学校を建て、教師となる
兄を支えることに生涯をかけた皇弟:溥傑(1907~94) 溥儀の弟。学習院から陸軍士官学校卒。37年日満親善のため嵯峨侯爵家の浩と結婚、2女をもうける。長女は57年天城山で心中。敗戦後ソ連に収容、59年釈放、穏やかな後半生を送る
第2部
歴史に光芒を放った王族たち
l 王たちが開いた古代と中世――世界史の曙(BC2000年頃~10世紀)
エジプトにはBC3000年頃から強大な統一国家が誕生、以後30の王朝が交代して、3000年にわたって支配したが、プトレマイオス王朝がローマ帝国の一部となって終焉
古代イスラエルには、BC1000年頃ヘブライ人が王国を建て、ダヴィデ、ソロモン王などで繁栄
メソポタミアでは、BC2000年頃バビロニア王国が興るが、アッシリアが取って代わり、初めてオリエントを統一
エジプト史上最強の王:トトメス3世(~BC1448頃) 第18王朝の王。領土史上最大、全盛期
神を超えたファラオ:ラムセス2世(BC1314~BC1224) 古代エジプト第19王朝の王。アジア進出
アッシリア最後にして偉大な征服者:アッシュールバニパル(?~BC627) 古代オリエントを統一したアッシリア帝国最後の輝きを放つ。エジプトからイランに至る版図を獲得。教養ある君主
帝国最盛期を生きた:サルゴン2世(?~BC705) 軍事的才能に秀で、多くの遠征で成功
敵女王に首を献じられた初代アケメネス王:キュロス2世(BC600頃~BC529) BC500年エジプトを除くオリエント全土を征服、新バビロニア王国をくだした際も、「諸王の王」と号し、バビロンに囚われていたユダヤ人を解放
マケドニアから世界の覇者へ:アレクサンドロス大王(BC356~BC323) アッシリア滅亡後、オリエントを支配していたアケメネス朝を滅ぼし、僅か10年余りエジプトからインドまで制したが、バビロンで急死すると帝国は分裂、すべてローマ帝国に滅ぼされる
エジプトを降した謎多き王:カンビュセス2世(?~BC522) キュロス2世の息子。父親の雪辱を期すが失敗。王位を簒奪したダレイオスが歴史を捏造したと言われ、謎が多い
「戦国の七雄」を平定した秦王:始皇帝(BC259~BC210) 戦国時代を平定し皇帝を名乗るが、度重なる外征と長城・宮殿建設に民衆の怨嗟の声が高まるなか死去、死後反乱が頻発、僅か15年で秦朝滅亡、劉邦の漢王朝へと続く
英傑曹操から魏を受け継ぐ:曹丕(187~226) 後漢の献帝から帝位を譲られ、魏の初代皇帝に。相次いで四川に蜀、江南に呉が並び立ち、三国時代の開幕
赤壁で曹操を破り、呉を築く:孫権(182~252) 劉備とともに曹操を赤壁に破り、呉を建国して初代皇帝に。三国では最も長く存続したが、魏から帝位を簒奪した晋に滅ぼされる
諸葛孔明の補佐を得て蜀漢を樹立:劉備(161~223) 漢の王族の子孫。義弟を殺した呉への報復戦で大敗、後事を孔明に託し失意のうちに没する
エジプト王国終焉を演じた女王:クレオパトラ7世(BC70/69~BC30) プトレマイオス朝で弟と結婚し共同統治を行うが、弟に排斥・追放され、ローマに頼って返り咲きを狙い、最初はポンペイウス、次いでカエサルを籠絡し王位を回復、カエサル暗殺後はアントニウスと結婚、その戦死後はオクタヴィアヌスを籠絡しようとするが失敗、自ら毒蛇に身を委ね崩御
偉大なる独裁者カエサルの跡を継いだ初代ローマ皇帝:アウグストゥス(BC63~14) 大叔父カエサルの暗殺後、カエサルが自分を後継者にしていたことを知り、急遽ローマに帰還、政治の舞台へ。身体が弱かったが、側近に恵まれ、政治の駆け引きに抜きんでていたためアントニウスなどの政敵を撃破、BC27年「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を得、ローマは帝政へ
ローマを恐怖に陥れた暴君:ネロ(37~68) 即位当初はセネカらの賢臣に囲まれ名君だったが、次第に残虐性を発揮。属州の反乱が続き自殺
武勇の誉れ高き「至高の皇帝」:トラヤヌス(53~117) 5賢帝の1人。スペイン生まれ。97年ローマ皇帝の養子に。ローマ帝国の版図を最大に。元老院より「至高の皇帝」の称号
古代ローマ最後の皇帝の重大な決断:テオドシウス1世(347~395) ゲルマン民族の侵入で内憂外患、帝国を再統一すると、キリスト教を唯一の国教として宗教問題を解決、東西に分割して2人の息子にそれぞれを分治するよう遺言して世を去り、以降東西は別々の道を歩む
東ローマ帝国、地中海世界を回復:ユスティニアヌス1世(483~565) 西ローマ帝国は476年ゲルマン人傭兵隊長に滅ぼされる。東ローマ(ビザンツ)帝国はイタリア、北アフリカを征服、ローマ帝国の旧領をほぼ回復するが、帝崩御後は急速に衰退
対ローマ戦、サーサーン朝優位を確定:シャープール1世(?~272) サーサ-ン朝初代の子。ローマ帝国からインダス川まで版図を拡大
一族長から諸国を蹂躙した猛き王:アラリック1世(370頃~410) 西ゴート族長の息子。マケドニア、ギリシャを蹂躙、401年イタリアに侵入して、シチリア遠征中に病没
仏教を守護したクシャーナ朝の王:カニシカ王(?~?) インド初の統一王朝マウリヤ朝滅亡後の混乱を経て北インドに登場、2世紀に全盛期を築く。仏教を篤く信仰
アンコール・ワットを残した王:スールヤヴァルマン2世(?~?) カンボジアのアンコール朝の王。12世紀にアンコール・ワットを建立。ヴェトナム南部からマレー半島北部にわたる版図を築くが、末期には混乱。15世紀タイ・アユタヤ朝との戦いの中で衰退
フランク王国メロヴィング朝の祖:クロヴィス1世(465/466~511) 496年ランスの大聖堂にて洗礼。歴代フランス国王のランスでの聖別はこれに倣う。地中海沿岸を除くガリアのほぼ全域を支配
カロリング朝を興し帝冠への道を開く:ピピン3世(714~768) メロヴィング家の家政を仕切る宮宰が実権を握り、スペインから侵入したウマイヤ朝を撃退した宮宰の子ピピン3世が、自ら新王朝を興す
神に加冠されし偉大なるローマ人の皇帝:シャルルマーニュ(742~814) 父・ピピン3世の死後、弟と分割統治、771年弟の死後単独支配に。帝国の版図を最大にし、800年ヴァチカンで教皇レオ3世よりローマ皇帝として戴冠。学問、教育、芸術を振興、文化を発達させた
初のイスラム王朝・ウマイヤ朝を創始:ムアーウィヤ(603?~80) 第4代カリフ(後継者)が暗殺されると、これと敵対していたムアーウィヤがウマイヤ朝を開き、周辺の征服を続け、東はインダス川、西は北アフリカ・スペインまで領する大帝国へと拡大
中国史上屈指の名君:李世民(598~649) 626年第2代皇帝となり、東西交易の要衝、高昌国を滅亡させ直轄領とした
傾国の美妃に心奪われた皇帝::玄宗(685~762) 治世前半は「開元の治」と称されるほどの善政を布き、唐の絶頂期だったが、息子の妃を見初めたために国が乱れ荒れ、755年安禄山の大乱勃発。楊貴妃を処断、玄宗は一旦蜀に逃れたが、長安に戻って軟禁状態に置かれる
l 聖地を賭けた王族たちの戦い――十字軍遠征(1096~1270)
十字軍の直接の発端は、トルコ系イスラーム王朝のセルジューク朝が1055年バグダッドに入城、アッバース朝カリフからスルタンの称号を与えられ、更に西進して聖地イェルサレムを占領し、ビザンツ帝国を圧迫したのに対し、ビザンツ帝国の皇帝アレクシオス1世がローマ教皇に救援を要請、それに応えて教皇ウルバヌス2世が1095年クレルモン公会議で十字軍派遣を決定
第1回(1096~99) フランスの諸侯を中心に派遣。唯一武力により聖地を奪回、イェルサレム王国を建国(1096~1291)
第2回(1147~49) イスラーム側の攻勢に対し、神聖ローマ皇帝コンラート3世と仏王ルイ7世が参加したが、内部対立などで失敗
第3回(1189~92) アイユーブ朝を建国してエジプトを支配したサラディンがイェルサレムを占領したため、東ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤ひげ王)、仏王フィリップ2世(尊厳王)、英王リチャード1世(獅子心王)が参加したが、フリードリヒは事故死、フィリップはリチャードと対立して帰国、孤軍奮闘のリチャードがサラディンと講和して帰国
第4回(1202~04) 教皇権の絶頂期を築いたインノケンティウス3世の提唱で実施されたが、コンスタンチノープルにラテン帝国を建国して終わる
第5回(1228~29) 東ローマ皇帝フリードリヒ2世がアイユーブ朝との外交交渉で一時的に聖地を奪回したが長続きせず
第6回(1248~54) 仏王ルイ9世(聖王)が指揮してカイロからエジプトを攻撃、マルムーク朝に敗れ、ルイ9世は捕虜となり、莫大な身代金を払って釈放
第7回(1270) 仏王ルイ9世が指揮して海路からチュニスを攻めたが、上陸後に病死したため失敗に終わる
間で、民衆十字軍や少年十字軍などもあったがいずれも失敗。巡礼者保護のため宗教騎士団が結成された
瀕死の帝国を救った賢帝:アレクシオス1世コムネノス(1048~1118) マケドニア王朝後の名門の出身。1081年クーデターにより東ローマ帝国コムネノス朝初代皇帝として即位。教皇ウルバヌス2世から傭兵の派遣を受け帝国領土奪還に走る
ビザンツの帝都を目指し渡海する:ボードワン1世(?~1118) 98年にはオリエント最初の十字軍国家エデッサ伯国の君主となり、1100年イェルサレムに入りボードワン1世となる
南北に敵を迎えながらもイェルサレム王国を維持:フールク1世(1089/92~1143) 第1回十字軍の結果、聖地を首都とするイェルサレム王国が誕生するが、フールク1世はその3代目
エジプト遠征を見据えた入植政策:ボードワン3世(1130~62) フールク1世の後を継ぎ、エジプトへの遠征を企図、道筋に続々とヨーロッパ人を入植させたが、サラディンが蹂躙
将器なく、無残な撤退:ルイ7世(1120~80) 第2回の派遣にドイツ王コンラート3世などと出陣するが、イェルサレム到着前に兵を失い、ダマスカス攻略で敗退し、遠征は失敗に終わる
第2回十字軍を率いるも連戦連敗:コンラート3世(1093~1152) 1138年神聖ローマ皇帝に選出。47年十字軍を組織するが、先々で全敗。外交戦略に秀で、皇帝権力の強化、領土拡大に成功
サラディンと互角の勝負を演じる:ボードワン4世(1161~85) イェルサレム王国に侵入したエジプト軍を率いるサラディンに対し奇襲をかけ、敗退させて80年休戦協約を締結
英国から聖地を目指した獅子心王:リチャード1世(1157~99) 90年イェルサレム陥落の報に、仏王と合流して海路パレスティナに向かうが、イスラエル攻撃までは至らず、92年軍勢を増強したサラディンの前に撤退、休戦協定を結ぶ
第3回十字軍を組織した尊厳王:フィリップ2世(1165~1223) 90年英王とともにアッコンを落とすが、英王との対立により帰国
神聖ローマ帝国歴代屈指の名君にして英雄:フリードリヒ1世バルバロッサ(赤髭王、1123~90) 89年十字軍総司令官としてアイユーブを破る大戦果を収めたが、進軍途中で脳卒中
敵からも尊敬されたイスラームの英雄:サラディン(1137/38~93) アイユーブ朝を開き、シリア、エジプトを統一。87年ジハードを宣言、イェルサレム占領、聖墳墓教会を閉鎖し、モスクを開放
同胞を攻撃し、ラテン帝国皇帝へ:ボードワン1世(1172~1205) 03年同じキリスト教国のビザンツ帝国に対して行った第4回十字軍は、コンスタンチノープルを攻撃、帝国を崩壊させ、ラテン帝国を建国し皇帝に即位
苦難のエジプト十字軍:ジャン・ド・ブリエンヌ(1148~1237) 入り婿としてイェルサレム王となり、18年に当時イスラームの中心地エジプトへの十字軍を企図、成功するが教皇特使と対立して帰国、3年後再度十字軍に合流してカイロを目指すが大敗に終わる
2度の十字軍を指揮するも無念の陣没:ルイ9世(1214~70、後に聖王) 48年と70年の2回にわたり進撃したが、最初は疫病の蔓延で撤退、2度目はアフリカを目指すが自ら病没。以後大規模な十字軍はない
稀なる智才と柔軟さで聖地返還をなした破門皇帝:フリードリヒ2世(1194~1250) 1920年十字軍実行と引き換えに神聖ローマ皇帝位を認められたが、立ち上がったのは8年後、しかも途中で疫病にかかり帰還したため破門。翌年再度出発するが、一方でイェルサレムを統治していたアイユーブ朝のスルタンと交友を深めており、交渉の結果、フリードリヒのイェルサレム回復を認め、聖地無血入城を果たし、聖墳墓教会でイェルサレム王として戴冠、宗教、文化の違いを認め、寛容と柔軟をもって統治
l ユーラシアを席捲した「蒼き狼」の一族――モンゴル族の拡大(12~16世紀)
モンゴル高原では12世紀ごろから部族間の統合の動きがみられる
モンゴル帝国の野望はアジアからヨーロッパへ。ロシアに次いで1241年ドイツ・ポーランドも撃破、1258年にはバグダッドを攻略してイスラーム世界に君臨したアッバース朝を滅亡に追い込む。1279年には南宋も征服するが、14世紀からは衰退へ
精強騎馬軍団でモンゴル帝国を築く:チンギス・ハン(1162?~1227) モンゴル部の族長テムジン。1206年高原を統一し、モンゴル帝国誕生。長城を超えて中国に攻め込み、南ロシアも併呑。息子たちによって帝国は急拡大
父の事業を成功に導いた2代目:オゴタイ・ハン(1186~1241) チンギス・ハンの3男で後継者。外征を進め、34年南宋を征服すると、甥のバトゥにヨーロッパ遠征を命じるが、41年寝床で急死、過度の酒色による不摂生が原因という
兄弟の不和か? 謎が残る死:モンケ・ハン(1209~59) 3代は2年で没、その従兄弟で4代目即位、さらなる拡大を続け、2人の弟フビライとフラグに、雲南とイランへの遠征を命じ、59年には朝鮮の高麗も服属。疫病で死去するが、フビライによる毒殺ともいわれる
日本にも矛先を向けた元朝世祖:フビライ・ハン(1215~94) モンケの死後、弟との内紛に勝利、新国家・元を建て、中国の管制・行政を導入、北京を首都とする。79年南宋を、87年にはミヤンマーを支配、74・81年には日本へ
英邁かつ勇武の質を備えた末子:トゥルイ(1192~1232) オゴタイの弟。人柄と人望を妬んだオゴタイによる謀略で死んだ可能性大
バグダッドを領してイル・ハン国を興す:フラグ(1218~65) モンケの弟。バグダッドを攻略、アッバース朝に代わってイル・ハン国樹立
西欧が震撼したワールシュタットの衝撃:バトゥ(1207~56) オゴタイの命でヨーロッパへ進撃、南ロシアにキプチャック・ハン国を建て、「タタールのくびき」と呼ばれるモンゴル人によるロシア支配が始まる
戦場の露と消えたポーランド王:ヘンリク2世(1196?~1241) 41年モンゴル軍の進撃に対抗して立ち上がったポーランド王。ワールシュタットで迎撃したが戦死。ヨーロッパ諸国は恐怖したが、オゴタイの死で撤退したため、九死に一生を得る
運よくモンゴルを退けた南宋皇帝:理宗(?~?) 当初、南宋とモンゴルは同盟して金を滅ぼしたが、次第に圧迫を受ける。59年モンケ崩御もあって、理宗治世中はモンゴルの攻撃をかわすことが出来た。死後征服される
イル・ハン国、チャガタイ・ハン国を征服:ティムール(1336~1405) 14世紀内紛でもめるチャガタイ・ハン国に立ち向かったのがティムールで、イル・ハン国にも侵攻、モンゴル族諸国を併呑、チンギス・ハンの大帝国再来を目指して征服活動に邁進
元を駆逐し、明朝を樹立:朱元璋(1328~98) フビライ死後の元朝の相続争いに乗じ、各地で暴動発生、最大のものが「紅巾の乱」で、その首領が後の洪武帝となる朱元璋。南京で帝位につき北上を開始、元朝をモンゴル高原に撃退
「タタールのくびき」を脱し、独立を果たす:イヴァン3世(1440~1505) 13世紀後半から内部抗争に苦しむキプチャック・ハン国が支配するロシアの中で力をつけてきたのがモスクワ大公国で、大公イヴァン3世が大ハン国への貢税支払いを拒否したのが自立の契機となる
l 泥沼化したイングランド対フランス戦争――100年戦争(1337~1453)
1066年フランス、ノルマンディを治めるウィリアム公がドーヴァーを越えイングランド王に勝利して王位に就く、征服王ウィリアム1世の誕生
1154年、アンジュー伯と結婚していたノルマンディ公女の息子アンリがイングランド王を継承、ヘンリー2世として即位すると、アキテーヌ公領を持つ王女と結婚していたため、イングランド王がフランスのアンジュー伯領、ノルマンディ公領、アキテーヌ公領を領有
1202年リチャード獅子心王の弟・失地王ジョンの時代、フランス領を没収されたため、英仏の確執と戦乱が渦巻く
1328年、仏王シャルル4世に男子無く他界すると、叔父ヴァロワ伯の嫡子フィリップが王に選出されると、4世の甥でイングランド王エドワード3世が異議を唱え、王位継承戦となるがフィリップが勝って6世となる。37年に再びエドワードが仏王位を狙って宣戦布告、100年戦争に突入
46年、英王「黒太子」が圧勝、カレー迄陥落させ、56年にはポワティエの戦いでも勝利するが、70年には形勢逆転
80年からはフランス国内の政争が続き、王を擁するブルゴーニュ派にイングランドが接近、20年にはフランス王女とヘンリー5世が結婚、シャルル6世の摂政となり、6世崩御後はフランスを統治することを約束するが、22年ヘンリー5世、シャルル6世と相次いで崩御したため、アルマニャック派の王太子がシャルル7世として即位を宣言、戦いが続く
29年、ジャンヌ・ダルクがシャルル7世に謁見、オルレアンを回復し、31年にはシャルル7世がブルゴーニュ公フィリップと和解、イングランドに対して巻き返しが始まり、53年アキテーヌのボルドーが陥落し、英軍は降伏し、100年戦争終結
100年戦争の口火を切ったイングランド王:エドワード3世(1312~1377) 27年父・エドワード2世をクーデターで廃し即位。37年、仏王に対する臣下の礼を撤回、仏王権を要求し宣戦布告、100年戦争スタート
フランス王位継承争いに勝利した実力者:フィリップ6世(1293~1350) ヴァロワ朝初代の仏王。28年即位。国内統治に注力し、人望も篤い。エドワードの宣戦を受けるが42年まで休戦の条約を締結
類稀なる知謀でイングランド軍を勝利に導いた皇太子:黒太子エドワード(1330~76) エドワード3世の嫡子。仏軍を破り、63年にはアキテーヌ公として入城
フランスの国力を増大させた:シャルル5世(1338~80) 賢明王。父・ジャン2世が英軍の捕虜となると王太子のまま政務を執り、財政改革などに着手。アキテーヌ大公領を英国から没収
和平寄りの考えを持つイング王:リチャード2世(1367~1400) 黒太子の嫡男。77年祖父・エドワード3世の死を受けて即位。仏王シャルル6世の娘と結婚。99年クーデターにより廃位・幽閉され死去
人質の身から逃亡したシャルル5世の弟:アンジュー公ルイ(1339~84) 父・ジャン2世の身代わりとしてイングランドに送られる途中で逃亡したため、父は生涯虜囚。兄を助けて仏軍を率いる
イングランド王位を簒奪:ヘンリー4世(1367~1411) 黒太子の弟の嫡男。99年クーデターによりリチャード2世を廃し即位。英仏戦争には慎重
フランス王位奪取直前の無念の死:ヘンリー5世(1387~1422) ヘンリー4世の嫡男。11年父の死を受けて即位。14年仏王位を要求して宣戦、ノルマンディ上陸を果たし、20年トロワ条約を締結するが、22年大願成就直前に他界
幼きシャルル6世のかわりに政務をとったフランス摂政:ブルゴーニュ公ジャン(1371~1419) 仏王ジャン2世の王子・ブルゴーニュ公フィリップの子。1380年シャルル6世の共同統治者として事実上行政を牛耳るが、王太子・シャルル(後の7世)により暗殺
100年戦争展開の黒幕:ブルゴーニュ公フィリップ(1396~1467) 19年の父・ジャンの暗殺後、イングランドと同盟締結。31年には仏王家とも休戦。以降戦局はフランス優位に
フランスを翻弄した王妃の欲望:イザボー・ド・バヴィエール(1370頃~1435) シャルル6世妃。オルレアン公と愛人関係にあったが、殺されるとブルゴーニュ公と結託、アルマニャック伯に接近したオルレアン公王子と対立が深まる
狂気に陥ったフランス王:シャルル6世(1368~1422) 1392年精神を病む。王女をヘンリー5世に嫁がせ、自らの死後王太子を廃嫡してヘンリー5世をフランスの相続人にしようとしたが、22年ヘンリー5世もシャルル6世も相次いで没
イングランド王を父に、フランス王女を母に生まれた幼王:ヘンリー6世(1421~71) 生後1年未満でイングランド王、次いでフランス王に即位。37年より親政を開始するが寵臣に牛耳られる。和平派で45年シャルル7世の姪と結婚、53年のボルドー陥落を受け精神に異常
ジャンヌ・ダルクらを迎えフランスを勝利に導く:シャルル7世(1403~61) 父・シャルル6世他界後トロワ条約否認、実母から「不義の子」と言われ亡命政府で鬱々と過ごすが、ジャンヌ・ダルクと出会い、オルレアンを解放、31年戴冠。ボルドーを陥落させ100年戦争を終結へ
l 未知の大海へ挑んだ王族たちの野望――大航海時代(15~17世紀)
1298年、マルコ・ポーロは獄中で『東方見聞録』を語り、アジアの香辛料や絹織物、陶器を狙って競って航海に乗り出した
イサベルの支援を受けたコロンブスの「新大陸発見」、マヌエル1世の命でインド航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマにより1494年にはポルトガル、スペイン両国間にトルデシリャス条約が結ばれ、地球を東西で独占し合う。ポルトガルはインド洋の交易地ホルムズと南海の拠点マラッカを占領し、アジアの香辛料貿易を独占。スペインは南米のアスティカ帝国とインカ帝国を征服、巨万の富を獲得
次のステージは専制君主国間の欲望を剥き出しにした争い。イギリスはエリザベス1世公認の海賊が跋扈、オランダ、フランスも追随、アジアを舞台に覇権争いが続く
1519年、ポルトガルの貴族マゼランが、スペイン王カルロス1世の命を受けて西回りルートを開拓、自身はフィリピンで死去するが、僅か18人は帰国、地球球体説が立証され、「太平洋」も彼の命名で、以後1世紀スペインが占有する
1405年、明朝永楽帝の命で鄭和の大艦隊がインド洋から喜望峰を超えてアメリカ大陸まで到達したとも言われる
ポルトガル・アヴィシュ王朝の始祖:ジョアン1世(1357~1433) 1385年ポルトガル王に選出。1415年モロッコに進出
父王ジョアン1世とともにアフリカ開拓に躍り出る:エンリケ航海王子(1394~1460) 1434年アフリカの西を回ってギニア海岸に達する。ポルトガルの海外進出と繁栄を築き「航海王子」といわれた
「喜望峰」の名を与えたポルトガル王:ジョアン2世(1455~95) エンリケの事業を引き継ぎ、アフリカ周回航海に向かわせ、88年には大陸南端に達し、東方への航路を見出して「喜望峰」と名付ける
ポルトガル大船団をインドへと出航:マヌエル1世(1469~1521) 97年ヴァスコ・ダ・ガマを使節としてインドへ派遣、05年インド総督を置いてインド洋を独占
コロンブスを援助したカスティーリャ女王:イサベル1世(1451~1504) 1492年グラナダ入城を果たし、コロンブスを西回り航路に派遣。94年にはポルトガルとの間にトルデシリャス条約締結
「日没なき大帝国」の君臨者:スペイン王カルロス1世(1500~58) イサベルの孫、神聖ローマ帝国皇帝カール5世となる。16年祖父フェルディナンドの死により母とスペインの共同統治者としてスペイン王位継承。21年アステカ征服、翌年マザランに西回りルート開拓を命じ、31年インカ帝国征服。「日没なき大帝国」の土台を築く
カルロス1世の庶子にしてレパントの海戦の英雄:ドン・ファン・デ・アウストリア(1547~78) 軍人として活躍、レパントの海戦でトルコ他を破り地中海を平定
宦官鄭和に大航海を行わせた明朝皇帝:永楽帝(1360~1424) 明の建国者・洪武帝の孫。7次にわたる鄭和の大航海を命じる。日本とも和解して勘合貿易を行う
祖父・永楽帝の遺志を継いだ孫:宣徳帝(1399~1435) 永楽帝の孫。明朝全盛期を築く
英露間の国交をもった女王:メアリー1世(1516~58) イサベル1世の孫娘で、54年スペイン王フェリペ2世と結婚。熱心なカトリック教徒で、プロテスタントを弾圧、「ブラッディ・メアリー」との異名。53年北極海経由の北西航路による中国到達を目指し、モスクワに到達したのを受け「ロシア株式会社(ママ)」を創設
英国海軍の父:ヘンリー8世(1492~1547) 1497年フィレンツェ人に委任して北アメリカへの航路を発見。海軍増強に努め、後の無敵艦隊へと繋がる
スペインを襲わせた処女王:エリザベス1世(1533~1603) 68年以来の海賊ドレイクに77年私掠許可状を与え、マザランを超える世界周航に出し、「騎士」の称号まで与える。アメリカで発見した地は女王に因んで「ヴァージニア」と名付けられた。1600年英東インド会社設立
インディアンの娘ポカホンタスと謁見した英国王:ジェームズ1世(1566~1625) スコットランド女王メアリー・スチュアートの嫡子。生涯独身のエリザベス1世の後を継いで英国王に。06年北米植民地建設のため勅許会社ヴァージニア社を設立、06年ジェームズタウンを建設し、インディアンのボウハタン族と交流
フランスの北アメリカ進出:フランソワ1世(1494~1547) 1525年イタリア人に北米東海岸を探検させ、34年にはカルティエをカナダに向かわせる
カナダ、ケベックのフランス植民地化を進めた王:アンリ4世(1553~1610) ケベック(ヌーヴェル・フランス)の植民地化を進めるため、地理学者シャンプランを派遣
l 時代の風雲児に翻弄された王族たち――ナポレオン戦争(1796~1815)
94年、テルミドール(7月)のクーデターで改革派が敗退、95年ヴァンデミエール(10月)の王党派の反乱に乗じてナポレオンが鎮圧、以後連戦連勝で、99年ブリュメール(11月)クーデターにより執政政府を樹立、04年元老院から皇帝に推挙され、国民投票を経て即位
12年の対ロシアで敗退、13年諸国民の戦いでも敗れ、エルバ島へ流罪となるが、ウィーン会議の最中に島を脱出、15年皇帝に復位。ワーテルローで敗退し、セント・ヘレナに流され生涯を終える
圧倒的な海軍力でナポレオンに勝利した英国王:ジョージ3世(1738~1820) 1798年英国と中東との連絡を絶つためエジプト遠征に出たナポレオンをナイル河口の海戦で撃破、03年には仏海上封鎖に踏み切った英国にナポレオンが宣戦布告したが、トラファルガー沖海戦で再度敗北。何れもネルソン提督の名を挙げる結果に
反乱渦中のスペイン王位を継いだナポレオンの兄:スペイン王ジョセフ(1768~1844) 06年ナポリ王、08年にはスペイン王ホセ1世として即位したが、スペイン人ナショナリズムの反発に遭い13年国外退出
兄ナポレオンに反発したオランダ王:ルイ(1778~1846) 06年即位。大陸封鎖令を出す兄に反発、ナポレオンに攻撃され、ボヘミアに逃亡。後に3男がナポレオン3世として皇帝に即位
ヴェストファリア王となったナポレオンの弟:ジェローム(1784~1860) 07年新たに建国されたヴェストファリア国王に任命されるが、放蕩三昧の末、13年ナポレオンがライプツィヒで敗退するとフランスに亡命し、王国は潰えた
名門ハプスブルク家から嫁いだ皇妃:マリールイーズ(1791~1847) 10年ナポレオンに望まれて嫁ぎ、1子を設ける。後のナポレオン2世でローマ王、ライヒシュタット公
ナポリ王位を継いだ皇帝の信篤き軍人:ミュラ(1767~1815) 有能な騎兵指揮官。ナポレオンの妹カロリーヌと結婚。ジョセフの後ウィーン会議までナポリ王
ナポレオンにスペイン王位を奪われた王:フェルディナンド7世(1784~1833) 08年クーデターで退位した父の跡を受けて即位したが、ナポレオンの兄・ジョセフに王位を奪われる。13年復位
ウィーン会議によってオランダ国王に任命:ウィレム1世(1772~1843) 最後のネーデルラント総督オラニエ公の子。95年ナポレオン軍の侵攻に際し英国に逃亡、13年帰国しオランダ王となり、ルクセンブルク大公も兼ねる
ナポレオンに弓引いた元フランス軍元帥のスウェーデン王太子:ベルナドッテ(1763~1844) ナポレオンと共に戦い元帥に昇進、スウェーデン王太子に任命されると、自国のためにナポレオンに反旗を翻し、対仏同盟に参加、徹底抗戦。18年スウェーデン王カール14世として即位
ナポレオン失脚によってノルウェー王位を失ったデンマーク王:フレデリク6世(1768~1839) 84年から障碍を持つ父の摂政として、英国と敵対し親フランス路線を取る。08年デンマーク及びノルウェー国王として即位するが、ナポレオン敗退により14年には王位を失う
l 受難の時代に立ち向かった王族たち――近現代の動乱(19~20世紀)
民族運動の契機は、1821~29年のギリシャ独立戦争、30年オスマン朝から独立を果たす
エジプトやバルカン半島の諸民族に波及し、オスマン朝の領土が大幅に縮小
ヨーロッパでは、第2次大戦後には多くの王昶が廃止
列強によるアフリカの植民地化が進み、1900年頃にはエチオピアとリベリア以外全土の植民地化が完了
ロシアの南下とイギリスの北上の狭間に立たされたのがイランとアフガニスタン。イランは両大国の「グレートゲーム」の場となり、ロシアとは2度の戦争でカフカ―ス領を割譲、イギリスには治外法権を認める
世界を制した大英帝国の象徴:ヴィクトリア(1819~1901) アフリカではエジプトと南ア、アジアでは清朝を侵食、インドではムガル帝国を滅ぼし、アフガニスタンを保護国化。議会制民主主義を貫徹し、黄金時代を築く
シパーヒーの乱に担がれた最後のムガル皇帝:バハードゥル・シャー2世(1775~1862) イギリス東インド会社からの年金で暮らし、実権を持っていなかったが、57年ムガル帝国復興のシンボルとして担ぎ上げられ復権宣言するも、反乱は失敗しイギリスに逮捕され帝位剥奪。ヤンゴンに流刑され死去。イギリス本国による直接統治が始まる
フランス第二帝政、栄光の再現ならず:ナポレオン3世(1808~73) ナポレオン1世の子で、52年第二帝政で即位、クリミア、インドシナ外征で力を発揮するが、普仏戦争敗退で捕虜となり帝政は廃止、イギリスに亡命、間もなく死去
希望の息子を失い悲嘆に暮れる:ウージェニー(1826~1920) ナポレオン3世の王妃で、3世死去後、息子に将来を託すが、南アのズールー戦争で戦死、希望を失ってスペインで余生を送る
ポルトガル、混乱の頂点に:カルロス1世(1863~1908) 財政破綻で共和主義台頭、王政への不満分子により息子共々暗殺
ポルトガルを離れ、亡命地で執筆三昧の晩年:マヌエル2世(1889~1932) 08年カルロス1世暗殺で即位。ジョアンの独裁政権を罷免するが、10年には革命へと発展したため、イギリスに亡命、ブラガンサ朝は崩壊。亡命後は執筆活動に専念
ドイツ帝国崩壊を招いた世界政策:ヴィルヘルム2世(1859~1941) 90年ビスマルクの引退後、世界政策を掲げて大海軍を建設、植民地争奪に邁進するが、第1次大戦で挫折し、オランダへ亡命
バイエルンを襲った世界大戦と革命:ルートヴィヒ3世(1845~1921) 13年議会の承認を得てバイエルン国王に即位するが、第1次大戦終盤の18年退位宣言の後、戦火を避けて各地を転々、ハンガリーで客死
オスマン朝から勝ち取ったモンテネグロ独立:二コラ1世(1841~1921) 1860年前王の暗殺を受けて選出。2度にわたりオスマンと戦い、78年独立を勝ち取る。1910年国王として即位するが、第1次大戦でセルビアに占領され、国外に亡命し王朝は1代で終わる
反動政治が招いたユーゴスラヴィアの混迷:アレクサンダル1世(1888~1934) セルビア人至上主義を掲げ、クロアチア人を圧迫、29年新ユーゴスラヴィア王国建国を宣言するが、両者の対立は激化、フランス訪問中に凶弾に倒れた後も民族問題は混迷を深める
謎の急死を遂げたブルガリア王:ボリス3世(1918~43) 18年連合軍の総攻撃によってマケドニアから撤退。反乱部隊が結成され父王は退位し、ボリス3世が誕生。第2次大戦では中立を宣言した後日独伊三国同盟に加盟、戦中に急死。46年王政停止で後継は国外に亡命
わずか1代で奪われたアルバニア王位:ゾグ1世(1895~1961) 家系はオスマン帝国で総督を務めた名家。27歳で首相となるがクーデターで追われ、25年復帰して大統領となり、28年王政を宣言。39年ムッソリーニの侵略を受けてギリシャに亡命
たった1か月のイタリア王位:ウンベルト2世(1904~83) ムッソリーニを政権に就けたエマヌエーレ3世が46年退位した後即位、直後の国民投票で王政が廃止されたため、1か月で退位、国外追放となる
カージャール朝イランの最期を看取る:アフマド・シャー(1898~1930) 英露の緩衝国と化し第1次大戦では中立を宣言したが、25年クーデターで王位を奪われ、パフレヴィ―朝に取って代わられる
大国の利害に翻弄された阮朝の最期:保大帝(1913~97) ベトナム語ではバオダイ。フランスで教育を受け、32年安南国王として君臨、45年退位、阮朝も滅亡。54年サイゴンに戻ってフランス連合の中のベトナム国の君主となるが、翌年共和制に移行して再び退位
ハワイ王国崩壊を歌った「最愛の女王」:リリウオカラニ(1838~1917) 74年兄の即位で宮廷外交の花形となる。78年《アロハ・オエ》他100曲ほど作曲。91年即位し、ハワイ人のために島を取り戻そう落したが、93年白人の革命が勃発、94年共和国建国、彼女は幽閉され、晩年は執筆活動を送る
「国父」の称号を得たアフガニスタン国王:ザーヒル・シャー(1914~2007) パリに学び、即位後は中立性を保持し、段階的近代化を進める。64年立憲君主となるが、73年クーデターにより王位を追われ、イタリアに亡命。国民の人気が高く、02年タリバン崩壊後帰国し「国父」の称号を得る
安穏な余生を送ったエジプト最後の王:ファールーク1世(1920~65) オスマンから独立しエジプトを支配したムハンマド・アリー朝の最期の皇帝。52年革命勃発で国外に亡命、跡を継いだ息子も廃位される
神と崇められた最後のエチオピア皇帝:ハイレ・セラシェ1世(1891~1975) 07年病死の父を継儀、16年皇帝追放のクーデターに関与、メネリク2世の摂政として外交に活躍、国連加盟を果たす。30年即位、「黒人の神」と崇められたが、73年民衆反乱によって崩壊・逮捕
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