首里の馬  高山羽根子  2020.9.23.

 

2020.9.23. 首里の馬

 

著者 高山羽根子 1975年富山県生まれ。多摩美術大卒(日本画専攻)SF作品『うどんキツネつきの』でデビュー、第1SF短編賞佳作。16年『太陽の側の島』で第2回林芙美子文学賞受賞。第160回、第161回芥川賞候補。本書で第163回芥川賞受賞

 

受賞の言葉

この困難な社会情勢の中で、自分ごときが何を、という思いは強くあります。出来ることは、今までも、これからも変わらずとても小さなことです。自分の小説の中に書かれている人はいつも、大きなことをしでかしているようでもあり、何の役にも立たないことをしているようでもあります

でも、この大変な、たいていの場合においてひどく厳しい世界は、それでも、生き続けるに値する程度には、ささやかな驚異に溢れていると思うのです。時にはびっくりするくらい美しかったり、胸が締め付けられるくらいに愛おしかったり、思い出していつまでも笑ってしまうくらい滑稽だったりします。この、どれだけ書いても書き足りないくらいの、それらのことについてを、私はずっと書き続けていきたいです

 

選評

平野啓一郎 ⇒ 沖縄、資料館、遠隔クイズ、宮古馬といった各要素の結びつきは理解できるもののやや苦しい。「孤独」ゆえに、3人称一元視点のナラティヴにはしばしば論評的な平板さがあった。それでも、この想像力を評価することに異存はない

吉田修一 ⇒ 候補に上がるたびに、作品は面白いのに、この作者が何を書きたいのか分からなかったが、今作ではその何かがくっきりした気がする。「孤独な場所」がどんな場所なのか、その正体を暴こうとする作家なのだろう。宮古馬の登場のさせ方は鮮烈、これを孤独の象徴だと読めば、そこには体温があり、怯えがあり、臭いがあり、疲れもある

松浦寿輝 ⇒ ずば抜けて面白い。「馬鹿々々しい」発想の小説だが、この「馬鹿々々しさ」は小説という物語形式の本質的魅力に触れている目覚ましい達成。非日常のSF的世界と、沖縄というフォークロア空間との間の絶妙な釣り合い。奇抜なユーモアに満ちた思考実験として第1級の作品

小川洋子 ⇒ 壮大な小説。人間が生きている痕跡を選別せず、平等に尊ぶ意味を問い掛けてくる。人と人を繋ぐのは、実体のある何かではなく、それが去った後の痕跡、幻なのだと思わされる

島田雅彦 ⇒ 沖縄のもうすぐなくなる資料館という装置を通じて、世界の孤独者との緩やかな連帯を謳う。世界観の提示という領域に踏み込んだが、この小説自体が特異なデータを集めただけの小さな資料館になってしまっては駄目で、もっと沖縄と世界の孤独が身体化されていればよかった

山田詠美 ⇒ この作者の小説には、いくつもの世界がパラレルに存在していて、それを繋ぐ鍵となるものが、今回は宮古馬。その馬に乗った作者の視点が物語を牽引し、文学にしかできない冒険に読者を誘ってくれる。マイクロSDカードと骨を結びつけるところなど、心地良く感傷的

川上弘美 ⇒ 静かな絶望と、その絶望に浸るまいという意志に、感じ入った。一読して〇、再読し、更にこの小説の奥行きを探りたくなった。作者はもともと「魔法」を使える小説家。この小説では、その「魔法」を力づくで行使することはなく、自在に書いている

奥泉光 ⇒ 孤独なもの、孤立したものへの愛惜を、リアリズムを基本に、そこからはややずれた虚構でもって描いた一篇で、世界のあらゆる事象が、どんなに詰まらなく見えるものであれ、必ず存在の痕跡を残すのだとの思いが細部から匂い立つ。受賞作にふさわしい佳作

堀江敏幸 ⇒ 距離の不確かな馬場に身を置くような一篇

 

 

沖縄の古びた郷土資料館で資料整理を行う主人公・未名子の前に1頭の宮古馬が現れる

未名子は、オンライン通話でクイズを出題するオペレーターの仕事をしている

戦後沖縄はすべて米国領(アメリカー)になったが、地名の方はなぜか王朝時代の昔から変わらず、ときにローマ字や漢字で表記されて歪みながらも音の印象は残したまま、何層にも他の意味が塗り重ねられて、なんとなくかつての面影を残しながら今に至っていた

若い頃から民俗学を長く研究していた女性の学者が沖縄に終の棲家を得て、未亡人になった歯科医の娘といっしょに暮らすようになり、彼女の資料を集めた「沖縄及び島嶼資料館」で資料整理をするのが未名子。中学の頃、学校を休みがちで、資料館で資料の整理をしていた学者の手伝いをするようになった時からの習慣が今まで続いているので、職場ではない

未名子は父親の遺してくれた住まいに1人暮らしで、仕事はパソコンで遠隔操作するクイズの出題のオペレーター。正式な名称は「孤独な業務従事者への定期的な通信による精神的ケアと知性の共有」、略称は問読者(トイヨミ)。相手の回答者の母語は日本語以外だが、みな日本語が流暢に話せるので、会話は全て日本語(いずれも仮想宇宙国家で、SF仕立て)

この島にはずっと昔から今に至るまで、ほんとうにたくさんの困難が集まってき続けた。台風もその1

台風一過のある朝、庭に1頭の宮古馬(ナークー)が迷い込んできて居座ったので、台風に備えて家の中に入れてあげる。翌朝駐在所に連れていく

4日後に衰弱して入院した学者の娘から、資料館を手放すとの連絡を受け取る。中身は好きなものを持ち出して構わないというので、資料データをテープに保存して、同時に遠隔クイズ出題の仕事も辞めて、受け持ちの回答者だった3人にそのテープを送って保存してもらう

琉球競馬は、速さではなく美しさを競っていた。琉球独自のもので、馬場は200mしかなく、並足や跳び足を駆使して美しさを競う王朝の士族の嗜みから始まり、琉球処分後職を追われた士族が沖縄各地域の富農に召し抱えられて各地の馬場が栄えた。沖縄戦を境に途絶え、現在は行われていないし馬場も僅かに跡が残っているくらい。途絶えた一番の原因は、南西諸島で度々発生した「ソテツ地獄」と呼ばれる飢饉。毒性が強く加工に手間のかかるソテツの実の澱粉しか手に入らず、不備な加工によって食中毒を起こし何人も死んだ。ソテツ地獄から脱出するために海外移住が増え、世界の日系人に沖縄姓が多いのもそれが理由

未名子は、警察からふれあい公園に預けられた宮古馬を密かに連れだして、ガマを根城にして乗馬の練習を始める。馬にはウェブカメラをぶら下げて、ガマでの生態の様子を見ることが出来る

学者が亡くなって、火葬場の直葬を手伝い、娘から学者の骨の一部を渡される。火葬が終わって帰りがけに、娘の若い頃の母親との葛藤を聞かされる。学者は若い頃社会に反発して平和運動家たちとコミュニティを作って歩き続け、思想的なコミューンを作ろうとして来たようだが、そういう生き方に対し、父親と住んで表街道を歩いて或る程度の成功を収めた娘は、幼少のころからそういう母親の生きざまに反発してきたが、年老いた母が1人沖縄に住んでいるのを見て、老後の面倒を見るために母と同居し、地元で歯科医院を開業していた

 

 

 

 

163回芥川賞・直木賞受賞作決定!!芥川賞に高山羽根子さん『首里の馬』、遠野遥さん『破局』、直木賞に馳星周さん『少年と犬』

2020715

こんにちは、ブクログ通信です。

163回芥川龍之介賞、直木三十五賞の選考会が715日に行われ、芥川賞に高山羽根子さん『「首里の馬」(『新潮』3月号掲載)』、遠野遥さん『「破局」(『文藝』夏季号掲載)』、直木賞に馳星周さん『少年と犬』が選ばれました!

163回芥川賞・直木賞候補作が決定!候補作10タイトルと著者情報を一挙紹介![2020616]

163回芥川賞受賞作

『首里の馬』は727日に単行本化される予定です。

著者:高山羽根子(たかやま・はねこ)さんについて

1975年、富山県生まれ。多摩美術大学美術学部絵画学科卒。2010年、「うどん キツネつきの」が第1回創元SF短編賞の佳作に選出され、同作収録したアンソロジー『原色の想像力』(創元SF文庫)でデビュー。2015年、「おやすみラジオ」が第46回星雲賞(日本短編部門)参考候補作に。同年、短編集『うどん キツネつきの』が第36回日本SF大賞最終候補。2016年、「太陽の側の島」で第2回林芙美子文学賞受賞。2018年、短編集『オブジェクタム』が第39回日本SF大賞最終候補作に。「居た場所」(『文藝』冬号掲載)で第160回芥川賞初ノミネート。2019年、「カム・ギャザー・ラウンド・ピープル」(『すばる』20195月号)で第161回芥川賞ノミネート。2020年、『首里の馬』で第163回芥川賞候補、三島由紀夫賞候補

 

遠野遥さん「破局」(『文藝』夏季号掲載)

本作は74日に単行本化されています。

著者:遠野遥(とおの・はるか)さんについて

1991年、神奈川県生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。東京都在住。2019年『改良』で第56回文藝賞を受賞しデビュー。2020年、『破局』で第163回芥川賞候補になる。

 

【第163【芥川賞受賞作】高山羽根子『首里の馬』、遠野遥『破局』はここがスゴイ!

高山羽根子『首里の馬』、遠野遥『破局』の2作の受賞が決定した第163回(2020年度上半期)芥川賞。その受賞候補となった5作品の読みどころを、あらすじとともに徹底レビューします!

2020/07/11

2020715日に発表された第163回芥川賞。高山羽根子『首里の馬』、遠野遥『破局』が見事受賞を果たしました。

『首里の馬』は、沖縄の歴史を記録保存する郷土資料館の手伝いをしている主人公・未名子の家の庭に一頭の宮古馬が迷い込んでくるという、どこか奇妙ながらも胸を打つ物語です。高山羽根子さんは今回が3回目の候補入りで、純文学ファンからは長らく受賞が期待されていました。

『破局』は、有名私大で充実したキャンパスライフを送る「私」が主人公の物語。一人称の視点を巧みに用い、「私」のどこかいびつな社会観や人間観を通してひとりの人物の世界を描き切った意欲作です。

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受賞発表以前、P+D MAGAZINE編集部では、受賞作品を予想する恒例企画「勝手に座談会」を今回も開催。シナリオライターの五百蔵容さん、作家の菊池良さんをお招きして、芥川賞候補作5作の徹底レビューを行いました。

果たして、受賞予想は当たっていたのか…… 白熱した座談会の模様をどうぞお楽しみください!

参加メンバー

五百蔵 容:シナリオライター、サッカー分析家。
3
度の飯より物語の構造分析が好き。近著に『サムライブルーの勝利と敗北 サッカーロシアW杯日本代表・全試合戦術完全解析』(星海社新書)

トヨキ:P+D MAGAZINE編集部。特に好きなジャンルは随筆と現代短歌。

菊池 良:作家。近著に、歴代の芥川賞全受賞作を読みレビューした『芥川賞ぜんぶ読む』(宝島社)。小学8年生で『文豪探偵の事件簿』を連載中。

目次

1.岡本学『アウア・エイジ(Our Age)』

2.遠野遥『破局』

3.石原燃『赤い砂を蹴る』

4.高山羽根子『首里の馬』

5.三木三奈『アキちゃん』

岡本学『アウア・エイジ(Our Age)』

【あらすじ】
生き飽きた気分になっていた「私」に、学生時代にバイトをしていた映画館から映写機の葬式をするという知らせが届く。「私」は1枚の写真を手がかりに、古い記憶をめぐる謎を解き明かしていく。

トヨキ:まずは『アウア・エイジ(Our Age)』から、お二方はどう読まれましたか?

菊池:まず、書き出しで一気に引き込まれました。「映写機の葬式をあげるから、ぜひ来ないか」という一文がとにかく魅力的ですよね。映写技師という仕事のディテールも丁寧に書き込まれていて、読んでいて社会科見学的な楽しみ方ができました。僕もそうなのですが、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』などで映写技師に憧れたことのある人が読むとたまらないんじゃないでしょうか。ミスミという女性にまつわる記憶の謎を辿っていく、ミステリ的な展開も非常に面白かったです。

五百蔵:この作品の主人公は神楽坂にある名画座で働いているという設定ですが、この劇場って映画マニアにとって聖地的なところなんですよね。僕も映画好きなので、当時カルト的だった作品を繰り返し上映してくれる劇場のひとつとして80年代にここに通い詰めた記憶があり……。だから正直、作品の趣旨とはすこし違うところで親近感を覚えてしまうんです、『アウア・エイジ』は()。菊池さんと同じく、一読して非常に面白いと感じたんですが。

トヨキ:映画好きの血が騒ぐ作品なんですね()。私も、今回の候補作のなかでは最後まで一気読みしてしまう求心力のようなものがもっとも強い作品だと感じました。ただ個人的には、謎を解くことがストーリーの主軸になり、エンタメ要素が加速する後半につれて、すこしだけ作品の魅力が薄れていくような印象も受けてしまいました。

五百蔵:たしかに、後半ですこし失速してしまう感じはありますね。ラストに近づいて「塔」が見えてくるところなども非常に面白いんですが、それは純文学的な魅力というより、構成や人物の配置の巧みさから生じる面白さだという印象でした。魅力的な伏線がたくさん飛び出てきてはそれがひとつずつクリアになっていく爽快さもあるのですが、作品のテーマそのものが終盤に向かうにつれて深まりを見せていくかという点では、議論の余地があると思います。

あと、弱点を挙げるとするならば、この作品の主人公は、世界に対してどのような態度をとるべきかを最初から最後まで確定しきれない人物として描かれているんですよね。確定できない人物を描くことそれ自体はいいのですが、読み手も作品を読んでいる間、同じように宙ぶらりんな状態にさせられてしまって、その体験が読後に私たちに残してくれる手応えのようなものがすこし弱いのかなと。

トヨキ:世界に対する主人公の関わり方を、一人称の視点のなかでどう描くか、という話でしょうか。

五百蔵:そうです。おそらく作者はこの作品のなかで、他者にとってはさして大きな意味を持っていないとしても自分だけはそれを強く記憶している──というできごとに対し、自分だけが世界から取り残されているような寂しさと同時に、世界との唯一の接点であるその寂しさを手放さないようにするんだ、というこだわりも持っている人物を描こうとしたと思うんです。そのジレンマをもうすこし掘り下げてほしかった、と感じました。一人称でしかできないことをしているという観点で言うと、僕は遠野さんの『破局』のほうが優れていると思いました。

 

遠野遥『破局』

【あらすじ】
筋骨隆々で責任感も強い「私」は、有名私大で充実したキャンパスライフを送っているかのように見えた。しかし、ふたりの女性を巡って、「私」を取り巻く状況は徐々に変化していき……

トヨキ:では次は、いま挙がった『破局』にいきましょうか。五百蔵さんがおっしゃったように、一人称の小説としての視点のコントロールの仕方には凄まじいものがあると感じました。主人公が世界を見るときの異様なまでの解像度の低さが最初から最後まで続く、というか……

たとえば序盤に佐々木の家へ行くには、国道に乗る必要があった。しかし考えてみれば、いつか佐々木から国道と聞かされただけで、本当に国道かどうか確かめたことはなかった。という文章がありますが、ここで覚えた「ん?」という違和感が、ラストまで一貫して続くんですよね。

五百蔵:遠野さんは、この主人公の男の局所的すぎる視野や凝り固まった主観を一文一文きっちりと逃さずに書き切っていますよね。読者にはこの男の主観を通じた景色しか見られないのに、主観の先に本当はそうではない現実があるということを徐々に想像させるようなつくりになっている。

人間の主観がいったいどういうものなのかを、手応えのある形であらためて認識させてくれる作品だと感じますし、一人称でしかできない世界の描き方をしていて、僕は非常に感心しました。……これ、あらすじだけを説明しようとすると、「人生イージーモードで生きてきた大学生がフラれて現実を知る話」みたいになってしまうと思うんですけど()

菊池:本当だ()。この『破局』というタイトルは、主人公が恋人にフラれること自体はもちろん、彼自身がすべて自分の手の上でコントロールできると思い込んでいた世界が破局するという結末も表していて、すごく巧みですよね。

五百蔵:そうですね。彼のようなマッチョな精神のあり方が「破局」することがあるとすれば、主人公が自分には決して関与できない社会制度の壁などにぶつかるか、肉体の変化──代表的なもので言えば、老いからくる体の衰えなどを痛感するかのどちらかだと思うんです。この作品では、後者の変化を単にパワーが衰えるという形ではなく、精力的にパートナーについていけなくなる、というようなちょっと違った形で書いていますよね。世界とひとりの人間との関係がどのように往来するかということを、遠野さんは非常に考え抜いて書いている作家なのだと感じました。

トヨキ:なるほど。その読み方もお聞きするといっそう、なんて緻密に設計されている作品だろうと思います。ただ私は、乱暴に言うと、どうしてこんなヤバい主観を延々読まされているんだろうとも思ってしまって……。途中で何度か挿入される主人公の友人たちの言葉や、元恋人である麻衣子が不審者に遭ったエピソードなども、主人公の考え方や人との接し方には最後まで一切影響しないじゃないですか。その変わらなさが巧みに書かれているからこそ、「怖……」と思ってしまいました。

菊池:そうですね、読んでいて非常に不穏な気持ちになる作品だとは思います。一人称小説として本当に完成度が高いし、主人公のなかでは一応、世界と渡り合うときの彼なりのルールらしきものが設定されているのも怖い。犯罪者は捕まえて裁きを受けるべきだし、本当は肉だけを食べていたいけれどマナーに反するからもやしも食べる、とか()。主人公のなかで一貫した倫理があって、それにはみ出した人に厳しくなる。昨今の「暴走する正義感」に通じるものがあって現代性があると感じました。傲慢な人物ではあるけれど、善良さがないわけではないんです。ただ、僕たちがよく知っている善良さとはちょっとジャンルが違う()

トヨキ:主人公がベッドの上で仰向けになって祈るシーンがありましたが、交通事故で死ぬ人間がいなくなればいい、働きすぎで心身を壊す人間がいなくなればいい……などと羅列していく彼の、一見すると善良なしぐさのようなものがなにより怖かったです。さまざまな背景を持っている社会問題をまとめて「祈る」行為で解決しようという。

五百蔵:たぶん、この人物にすこしでも共感できるかどうかがこの作品の最終的な評価を分けるんじゃないか、と思います。僕は、人間には大なり小なり彼のような偏りがあって、この人物はそれをデフォルメしているだけだと感じたので、「こんなやつの話なんて読めるか!」と思ってしまう気持ちもわかりつつ()、読む価値がないとはどうしても思えなかったですね。

 

石原燃『赤い砂を蹴る』

【あらすじ】
母子家庭で育った千夏と、千夏の母の友人である芽衣子。ふたりは家族の死をきっかけに、芽衣子の故郷であるブラジルに向かうことになる。

トヨキ:続いて『赤い砂を蹴る』。身内を失った人の心境の描き方であるとか、母子家庭のなかで育った主人公の家族との関わり方などが最初から最後まで非常に誠実に書かれていると感じ、純粋に、とても感動的な作品だと思いました。

五百蔵:僕はこの作品、ブラジル移民の生活のディテールであるとか、彼らの存在が戦後からの流れのなかでどのように位置づけられているか、というのがよく書かれているなと感じた一方で、どうしてもそれが「よく調べたこと」に留まってしまっているような印象を受けました。そのことが主人公にとってどのような意味をもたらしているのか、というところの書き込みが足りないように感じ、エピソード集のように思えてしまった部分はあるかもしれません。

菊池:たしかに、没入できるような感覚はやや薄かったです。作品に登場する芽衣子さんというキャラクターは日本でもブラジルでも移民に位置づけられてしまう、宙に浮いた立場にいるんですよね。日本には移民問題がない、と思われている風潮へのある種の問題提起というか、社会問題を炙り出したいという作者の意欲は強く感じました。今回の候補作のなかでは、歴史性や社会性がもっとも前面に出ている一作ではないかと思います。

五百蔵:移民の人々の現代的な寄る辺なさを描きたかった、というのは非常によく伝わってきます。おそらく構想としては、日本とブラジルそれぞれのローカルな事情をしっかりと書き込むことでその寄る辺なさが浮かび上がってくる、としたかったんじゃないかと。でもそれがただふたつの国の間で宙ぶらりんになっているということの描写で止まってしまっているのではないか、と僕は感じました。

菊池:たしかに、主人公が傍観者に徹してしまっているのはこの作品の弱みかもしれませんね。

五百蔵:そうですね。……いま話していて思ったのですが、石原さんは劇作家としてこれまで戯曲を書かれてきているんですよね。そういう意味では、あるテーマに関連する複数の歴史的な事象をひとつの舞台のなかで入れ子のようにして描くという、演劇的にはポピュラーな手法を用いているのかもしれないと感じました。僕がいま言った、主人公があらゆるできごとを傍観している物足りなさのようなものは、身体性をもって舞台の上で彫り込まれていくとしたら補填されるな、と……

トヨキ:たしかに、舞台装置が回転してふたつの場所を行き来するようなイメージで読むととてもしっくりくる作品だと思います。

菊池:すこしだけ作品の外の話をすると、石原さんは太宰治氏の孫にあたる方ということで注目を集めていますが……1935年、芥川賞の記念すべき第1回の受賞作が石川達三氏の『蒼氓』という作品だったんですが、これは日本からブラジルに移民しようとする家族たちの姿を描いた話なんです。実は、そのときの候補作には太宰氏の『逆行』も入っていました。『赤い砂を蹴る』に出てくる人物たちは『蒼氓』で出てきた人たちのちょうど孫ぐらいの世代になります。85年の月日が経ち、太宰氏の孫がブラジル移民の姿を描いた作品で候補入りしているのは、非常にドラマティックなものを感じてしまいます。

 

高山羽根子『首里の馬』

【あらすじ】
沖縄に住む女性・未名子は、沖縄の歴史を記録保存する郷土資料館の手伝いをしながら、オンライン通話で遠くにいる人々と会話をする仕事に従事している。ある日、未名子の家の庭に、一頭の宮古馬が迷い込んでくる。

トヨキ:続いて『首里の馬』。私は高山作品のファンなので、もともと過剰に評価してしまうのですが()、これは高山さんの作品のなかでも最大の傑作だと思いました。彼女の作品には安易にあらすじにまとめることを拒否したくなるような広がりがあると思うのですが、『首里の馬』にも読む前とあとでは世界の景色が変わって見えるような、読書体験を通じてここではないどこかに連れていかれるような感覚を覚えました。

それでいて、これまでの作品のいくつかのように、謎らしきものが謎めいたまま不穏に残される、狐につままれたような後味の悪さのようなものはなく、スッと視界が開けるように物語が終わったことにも感動して。最後の今まで自分の人生のうち結構な時間をかけて記録した情報、つまり自分の宝物が、ずっと役に立たずに、世界の果てのいくつかの場所でじっとしたまま、古びて劣化し、消え去ってしまうことのほうが、きっとずっとすばらしいことに決まっているという箇所には、思わず泣いてしまいました。

五百蔵:僕も、高山さんがこれまで書いてきたもののなかでいちばんよい作品だと思いました。いつものように奇妙なしかけは作中に散りばめられつつ、その突飛さが一切弱点になっていないのはさすがだなと。PCの画面の向こうにいる人にクイズを出題する、という主人公の仕事などはちょっとSF的なんですが、それもただ謎として投げ出されるのではなく、最後まで責任を持って書き込まれているなと。読者に寄りかかっているようなところがなく、書きたいことを書ききれている作品だと感じました。

これまでの作品のように拡散的ではあるけれど、書き手がそれを最初から最後まできちんと統御できている。本当にいろんなことが書いてあるのですが、それらがぜんぶひとつに結びつくような構成になっているのは素晴らしいですね。

トヨキ:そうですね……。作品のなかの世界がどんどん広がっていくにつれて、見晴らしもよくなっていくような感覚がしました。

菊池:今回の候補作のなかではもっとも開けている作品だったと思います。クイズを出題されている人たちの正体がわかってくるくだりなどは、なんだかGoogle Earthの画面をぐるぐると回しているときのような気持ちよさを感じました。今回は三人称で書かれた小説がこの『首里の馬』だけだったこともあり、こういった視野の広い作品はかえって新鮮に映りましたね。

 

三木三奈『アキちゃん』

【あらすじ】
小学生の「わたし」は、クラスメイトの「アキちゃん」を激しく憎んでいる。アキちゃんを憎み続けた果てに、「わたし」はアキちゃんのことを呪いたいと考え始め……

このレビューには一部、作品のネタバレを含みます)

トヨキ:最後は『アキちゃん』です。一読して、評価の大きく分かれそうな作品だと感じましたが……お二方はどう読みましたか?

五百蔵:最初は、主人公の憎しみの強さを表す表現に書き手の手練手管を見せつけられているような気がして「どうかな……」と思ったのですが、読んでいくに従って、そういった趣向以上に、主人公が憎んでいるアキちゃんという人物は果たしてそこまで憎まれるようなことをしているのか? していないとしたらなぜここまで憎まれているのか? というほうがずっと重要なこととして書かれていると気づき、とても面白い設計の小説だと感じました。

ひと言で言ってしまえば、「アキちゃんのジェンダーなんか関係ない、わたしがアキちゃんを憎んでいるということがなにより重要なんだ!」というのが主人公の主観ですよね。

トヨキ:そうですね。……私はアキちゃんに対する主人公の憎しみの過剰さを好ましく思い、アキちゃんのジェンダーは関係なく人としてアキちゃんを憎んでいるんだ、という、として人を見る視点がこの小説を貫いていることをやさしいと感じたのですが、何度か読み返しているうちに、それは一面的な見方かもしれない、と評価がぐらつきました。

五百蔵:うーん、そうですね……。「わたし」は偏った主観のなかでアキちゃんの憎らしさだけに目を向けているから差別的な思想から逃れられているし、作品自体もそうなんですよ、ということはたしかに言えると思うんですが、実はそのこと自体がトランスジェンダー差別という外部の問題を取り込んでしまっている、とも言えると思うんです。『アキちゃん』にはトランスジェンダーの登場人物がごく普通に登場するけれど、やっぱりアキちゃんがアキちゃんの望む体で生まれていたなら、アキちゃんの人生はどんなふうだっただろうという箇所などは、作品の外部性としてトランスジェンダーという要素を都合よく使っているのでは? とも捉えられてしまう。

菊池:読んでいてやっぱりすこし引っかかってしまったのは、アキちゃんのジェンダーが作品のなかで叙述トリックのように使われているけれど、それっていいのだろうか? ということでした。書き手が意識的にそれをしかけとして用いている以上、こちらが「ジェンダーは関係ないよね」と読むのも不自然ではないか、と……

トヨキ:『アキちゃん』は文學界新人賞の受賞作ですが、その選評のなかで、選考委員のひとりである東浩紀さんがシス女性(生まれたときに割り当てられた性別と性同一性が一致し、それに従って生きる人のこと)の苛立ちが描かれるばかりで、トランス女性のほうは最後まで救われることのない、いささか悲しい作品と書いていたのにもなるほどな、と感じました。

ただ個人的には、主人公の「わたし」はアキちゃんに限らず、家が宗教に入っていたバッチャンというキャラクターのことも呪文を教えてくれるちょっと変わった子という風にしか見ていないのが特徴的だと思っています。「わたし」は社会的なラベリングを抜きにした自分の主観のなかでしか他人を見ていなくて、だからこそ偶然にも、あらゆる差別意識から遠い場所にい続けられているという。もちろん、そういう素朴な他者の見方そのものがシス女性の無神経さだ、とも言えると思うんですが。

菊池:読んでいる間ずっと葛藤させられますよね。

トヨキ:そうですね……。差別というものに対する立ち位置を、読んでいる間ずっと自分の手で計測させられているような感覚がありました。ただ、その苦しい作業を読者に強いることで強制的に差別について私たちに考えさせてしまう力があるという点で、これはいい作品だと感じました。

五百蔵:なるほど。個人的に気になった点としては、意外と「わたし」の憎しみの具体性が書き込まれていないのではないか? というのがあります。もちろん「わたし」がアキちゃんを憎み始めたことのはっきりとした動機が必要ということではなく、人と人との間で生まれた些細な憎しみが積み重なり、しだいに巨大な悪意になっていくという関係の過程や変化そのものが、実はあまり書かれていないのではないかと……。それがただ憎む習慣として処理されてしまうことには、すこし疑問を覚えました。

 

総評

トヨキ:今回もありがとうございました。ずばり、お二方はどの作品が今回の芥川賞を受賞すると思いますか?

五百蔵:僕は『破局』かな、と思います。やっぱりこの作品は、作者の描きたいことと実際に書かれている一文一文が緻密にリンクしているし、そうやってひとりの人間の姿を浮かび上がらせるという、文学にしかできないことをやりきっていると感じるので。

菊池:そうですね、僕も完成度から言うと『破局』かなと思うのですが、選考委員の間で意見がどう分かれるかというのがちょっと読めないなと。……あと、仮に『破局』が受賞したらAmazonのレビューがすごく賛否両論であふれそうだ、とは思います。
芥川賞の第1回から続いてきた壮大なドラマが完成する、という点で、石原さんを推したい気持ちも大きいです。

トヨキ:なるほど……()私はやっぱり、これまでの高山さんの作品の集大成的な傑作だと思うので、『首里の馬』が受賞すると予想します。今回も、受賞作の発表がいまから楽しみですね。

 

 

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