外交官の文章  芳賀徹  2020.7.24.

 

2020.7.24. 外交官の文章 ~ もう1つの近代日本比較文化史

 

著者 芳賀徹 19312020年。東大教養学部教養学科卒。同大学院人文科学研究科比較文学比較文化専攻博士課程修了。文学博士(東大)。東大教養学部教授、プリンストン大東アジア研究科客員研究員(6567)、ウッドロー・ウィルソン国際研究センター所員(7576)、国際日本文化研究センター教授(97)、京都造形芸術大学長(9907)、岡崎市美術博物館(9811)、静岡県立美術館(1017)の館長などを経て、東大名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授、日本芸術院会員(18)。『平賀源内』でサントリー学芸賞、『絵画の領分――近代日本比較文化史研究』で大佛次郎賞、『藝術の国日本――画文交響』で蓮如賞、『文明としての徳川日本 1603-1853年』で恩賜賞・日本芸術院賞

 

発行日           2020.6.25. 初版第1刷発行

発行所           筑摩書房

 

軽井沢図書館の新刊書で見て興味

 

 

第1章      「攘夷」のなかの日本発見――ラザフォード・オールコック『大君の都』

初代駐日英国公使オールコック(180997)の人物と事績は、19世紀英国外交史の上でどの程度に評価されているのか ⇒ 他主要国の公使・総領事を上回る能力を発揮して活躍したと思われるが、英国では評伝はもとより、彼についての研究はほとんど見られない

1859年来日。外交官文学の傑作『大君の都――日本滞在3年の記』を著し、19世紀末英国におけるジャポニスム流行の一契機となり、英国日本学の長い系譜の一端緒ともなった

本国の外務大臣宛に、外交官性格論を展開、「絶えず暗殺の脅威があり、他方火事の危険と毎週のように地震が公館を揺さぶる中で、江戸駐在の外交官のポストはとうてい神経質な人に薦めていいものではない。最も多血質で図太い性格の人だけが任期終わりにほっと喜びを覚えるだろう」

上記報告直後の18601月にも、高輪・東禅寺の英国公使館通訳が殺害されている ⇒ 前年オールコックが襲われた際助けに入った男で、元水夫、船が難破したところをオールコックに救われて通訳となった。『大君の都』にも殺害当時のことが詳述されている

同日真夜中、麻布済海寺のフランス総領事館が火事で、総領事以下館員が東禅寺に避難

『大君の都』は、公式な報告書の合間に、日本各地の現場での私的な体験と観察、感情と印象とが随所に間歇泉のように噴き出ては記されることろが最大の魅力

オールコックは、日本民衆の生活の安らぎとそれなりの豊かさを知り、田野の光景の美しさに打たれるうちに、この国の鎖国と封建制とを打ち破りに来たはずの、先進文明国の初代外交官としての自分の使命に疑いをさえ抱き始める。「この封建制によって日本国民は、私たちの考えるような意味では自由ではないにしても、幾多の降伏を享受することが出来た。西欧諸国が誇る一切の自由と文明をもってしても、これほど長い幾百年にわたってこれらの幸福を確保することは出来なかった」。この懐疑は、近代西洋の唱える諸価値とそれに基づく極東政策への自己批判にも導く

 

第2章      暁窓残燭の下に――栗本鋤雲(じょうん)『匏庵(ほうあん)遺稿』(1900)

栗本鋤雲(182197)は、福地桜痴とともに、明治の文人・新聞人として記憶される。73年創刊直後の『郵便報知新聞』に入社し、旧幕遺臣としての隠棲生活から新時代の新聞人に加わる。ライヴァル紙『東京日日新聞』に福地桜痴が入ったのに対する対抗馬として懇請され、編集主任として存分に自由開明派の論陣を張り、明治言論界の一角に一種隠然たる「精神的権威」として臨み、福澤とも気脈相通じながら、薩長政府への在野批判者としての役割を果たす

鋤雲の信望の高さは、幕末の国内外の難局にあって、幕府外交の現場第1主義の重責を全うおして来た彼の経験の分厚さ、見識の豊かさにこそ由来。維新後一層光を増したその「志節」「気節」の高潔と、自ずからその見識と気骨とが滲み出た文章の重厚の美も、言論人の間に一層の「畏敬の念」を呼び起こさずにはいなかった

鋤雲が幕府外交に携わったのは、1863年箱館奉行所から召喚されてから。20代後半に幕府奥詰医師栗本家の養子となったが、52年オランダ艦船試乗に応募したかどで蝦夷地に左遷。対露交渉と蝦夷地開発にあたっていた箱館奉行所で、移住武士団の頭取を命じられ、開拓技師として縦横に活躍。召喚後は昌平黌の頭取から幕閣内の観察(目付役)に抜擢されるが、将軍から命じられたのは、一旦開港した横浜の鎖港談判で、初めて外交に触れる。以後下関戦争に対する幕府償金の支払い延期や、4か国代表による兵庫開港要求への拒否回答などきわどい交渉の矢表に立つ。箱館時代に付き合ったフランス人の関係で、フランスからの技術移転にも注力し、横須賀造船所と陸軍伝習、仏国語学所の開設などに動く

幕末期における幕仏最大の試みは6567年に進められた、仏輸出入会社の設立と対仏600万ドルの借款で、勘定奉行の小栗忠順(ただまさ、182768)を中心に鋤雲も参加、67年には齟齬を来した日仏親善策の修復のために急遽パリに外国奉行兼勘定奉行格として派遣される。そのまま第2代駐仏全権公使となり、関係は修復したが、欧州の金融恐慌もあって2つの試みは頓挫

大政奉還により鋤雲も帰国、隠棲し、欧州での見聞を『暁窓追録』(69年刊)にまとめる。夜明けの窓辺で微かに明治を予感しながら、徳川から明治への一遺産として書き残された卓抜な観察と洞察の文章

 

第3章      文学としての幕末外交回想記――田辺太一、福地源一郎、栗本鋤雲

幕末維新期回想の文学の中でも出色の作は、田辺太一著『幕末外交談』(98年刊)と福地源一郎著『懐往事談(かいおうじだん)(94年刊)

ほかにも渋沢栄一の『雨夜譚(あまよがたり)(87年刊)、福澤諭吉の『福翁自伝』(99年刊)、大隈重信の『大隈伯昔日譚』(95年刊)、内務省衛生局長長與専斎の『松香私志(しょうこうしし)』、旧土佐藩の志士佐々木高行の『勤王秘史佐々木老侯昔日談』(15年刊)、陸軍軍医総監石黒忠悳の『懐旧90年』(36年刊)、桂川甫周の娘今泉みねの『名ごりの夢』(41年刊)など

蓮舟田辺太一(18311915)は幕府儒官の子横浜開港に関する外交交渉の記録係として幕府外国方に関わり、岩瀬忠震(ただなり)や小栗忠順と並び「幕府3傑」の一人とされる外国奉行水野忠徳(ただのり:181068)の知遇を得、外交に深く関与、横浜鎖港談判では外国奉行組頭に抜擢されて使節団に随行。パリからの帰国後は不首尾による譴責を受けるが、67年パリ万博には再度渡仏、鋤雲の下で勤務。明治政府でも乞われて外務少丞(しょうじょう)となり、岩倉使節団にも1等書記官筆頭として随行。小栗を絶賛

桜痴福地源一郎(18411906)は、通訳官として外交に関わった1人。長崎生まれ。10代半ばで蘭語を学び稽古通詞となり、59年幕府の外国奉行所に入る。62年遣欧竹内使節団には福澤より格上の通詞として参加、全ヨーロッパを一周、横須賀製鉄所設立準備のための柴田使節団にも随行して再度フランスへ。71年には田辺とともに岩倉使節団にも参加

『東京日日新聞』の社長兼主筆(7488)に転じてからは毀誉褒貶さまざま。9世團十郎のために改良劇の脚本を書くなどの才人ぶりだったが、評価されるのは『幕府衰亡論』(92年刊、反維新史観による幕末史論)、『懐往事談』、『幕末政治家』(00年刊)3

田辺・福地の書が、外交の現場を離れて20数年後の回想記であるのに対し、鋤雲の『暁窓追録』は帰国直後のパリ見聞録で、外交に関する記事は皆無に近いが、幕末維新期の外交官が「先進」文明の観察研究者であることをも期待されていた使命を果たしたことがわかる。ナポレオン3世地下のフランスとその文明を多岐にわたって紹介し礼讃している

島崎藤村は『栗本鋤雲翁46回忌に』との一文で、鋤雲の文章を指して「短い言葉の底に隠れた雄々しい気魄」といい、「その簡潔で、しかも精緻な筆は、味わっても味わい尽きない風致を内に湛えている」と絶賛、『仏蘭西だより』でも「他の好いものを受納れるような同情に富んだ天性を50年も前の日本の武士に見つけることを心強く思う」と書く

 

第4章      岩倉使節団と日本の近代化――久米邦武編述『特命全権大使米欧回覧実記』

I       『米欧回覧実記』と私

久米邦武編著『特命全権大使米欧回覧実記』(5巻、1878年刊) ⇒ 片仮名交じりの漢文体で、西洋文明の現場に立った明治指導者たちの「驚嘆欽羨(きんせん)」の情と、身も焦げる程の好奇心の熱さと、祖国の現状を思いやる時の不安と、その後進性を認識し更に克服しようとする責任感とを描き出す。外交文化史の記録として卓抜のみならず、明治の全文学史上にも傑出した一雄編、記録文学というジャンルでは前後に比類を見ない名品

明治の悪の権化と見做された岩倉を首席全権大使とし、「明治絶対主義官僚」と定義された大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らを副使とする外交使節団ゆえに、外交史研究にも文学史研究にも顧みられない存在

久米(18391931)は、佐賀藩出身の漢学者。大使直属の随員となって専ら通訳を務める

使節団の主任務は、条約改正交渉の起源延期の提案だったが、各省庁のトップクラスを団員として、米欧の制度文物の全面的調査学習に重きを置いていた。71年横浜発、73年帰着

最初の訪問地がサンフランシスコ。「攘夷の気抜け場」と呼ばれたように、「打倒夷狄」を唱えながら太平洋を横断してここにやってきたが、開発のブームに沸く街の発展ぶりを見ていっぺんに攘夷の元気が揮発してしまうほどの彼我の差を見せつけられる。都市の基盤整備に加え、郊外の開発までつぶさに見聞。産業革命・工業化の進展とともに欧米の都市も急速な変化を迫られていた時代であり、最良のタイミングで視察が出来た。久米の名言、「其国に入り、其道路の修美を見れば、政治の修荒、人民の貧富、頓(にわか)に判然を覚えるなり」

 

II     岩倉使節団のアメリカ体験

69年開通の大陸横断鉄道でシカゴに出る予定が、大雪で「山中の僻邑」ソルトレークに迂回した挙句2週間足止め。1か月に及ぶ長い大陸横断旅行は、そのまま合衆国開化の歴史の順次目撃になり、使節団にとっても適切な文明学習・西洋研究の教程だった

 

III   西洋文明の学習と領略

『回覧実記』には「開明(シヴィル)」が頻出するが、いたるところで観察され、論究されている問題であり、岩倉たちにとっての近代西洋の文明とは、「野熟し林茂し、人烟(えん:)稠密」となることであり、都市基盤整備の上に商業、工業と人口が集中し、そのため石炭の黒煙濛々と天に薫じて「夕霞も黒」くなるほど、特に英国に渡ってからは各都市で「烟突より炎火を噴き、赫々天を焦がし殆ど火災あるかと疑愕せしむ」様に他ならなかった

使節団の関心の最大の焦点の1つが、産業革命の成果――政治・経済、教育精度と蒸気車・蒸気船の新交通手段に支えられ、それらの新しい展開を促しながら推進されてきた工業化と都市化と諸地域間交易の隆盛にあり、彼我の文明の「時差」を強く自覚し、頻りに問題視したことは興味深い。大久保は50年、久米は40年といい、なるべく小さく見積もりたがっている

 

IV    異文化への寛容と洞察

よく相手国の歴史の概略を把握して、鋭く遠くまで新興アメリカの精神構造を捉え、熱く民主主義礼讃を述べ、アメリカ社会の抱える様々な問題に対する懸念、懐疑、当惑を随所に漏らしながらも、全体として一国の政治の制度と成長のダイナミックスを肯定し礼讃している

文明とは知識と技術と知恵の蓄積があってこそ、緩やかに本物の展開をしてゆくのだという、ヨーロッパの歴史を通じて正統な一種の文化的保守主義を、大英博物館の見学を通して感じ取ると同時に、基礎の原理の把握とそれに基づく研究の積み重ねの重要性も、製造工場の現場で痛感する。「総て製作場には、図引(設計図)の肝要なること、人体に脳あるが如く、工業の綱領となるなり」

 

第5章      清国外交官の見た明治日本――黄遵憲『日本雑事詩』

黄遵憲(18481905)の『日本雑事詩』(1879年刊)は、77年に日本に着任した清国公使館員が詠んだ、154首からなる文明開化日本を軽妙洒脱に詩にしたもの。体系的な日本文明論は別途『日本国志』として87年完成。「由緒ある古い国が維新を起こし、一切が世界の新風に従って変化した。国は猶貧しくとも、外容はまばゆいばかり。東洋人はこうして西洋人に似て余りある程となった」と、維新日本の開化ぶりをいささかの皮肉も込めて礼讃したうえで、「もはや外夷を攘(はら)うことが出来ないのを知って岩倉使節団を欧米に派遣した」と言及

 

第6章      幕末洋学から日英同盟締結へ――林董(ただす)『後(のち)は昔の記』

I       明治外交官の教育

林董(18501913)は、日清戦争直後の駐清国公使、駐露公使(9700)、駐英公使/大使(0005)、第1次西園寺内閣外相(0608)、以後は外交畑を離れる。日英同盟締結の立役者。三国干渉以後、帝国主義諸国の角逐の烈しい時代に日本外交の最前線に立ち続けた

林は、幕臣の出。父が佐倉の堀田正睦(まさよし)に仕え、病院兼医学塾「順天堂」を開設。姉の嫁ぎ先に養子となるが、異母妹が後の榎本武揚の妻。13歳で横浜に移住、英語を学んで66年幕府の英国留学生となる(幕府崩壊により1年余りで終わる)。帰国後、オランダ帰りの海軍副総裁榎本に会い、反乱軍に身を投じる。1年の禁固刑の後、陸奥の知遇を得て引き立てられ、岩倉使節団にも陸奥の保証で参加。92年陸奥が外相になると、榎本外相の下で次官だった林を留任させ活躍の場が広がる

『回顧録』は01年ロンドン駐箚中に書いたものだが、達意の文章で、景・情ともに富み、徳川の教育と文化の水準の高さを思わせる。この種の文体が一般に外交官の公文書にも活用されて昭和の敗戦時まで外務省の1つの文学的・文化的伝統を作ってきているのは喜ばしい

藩閥の外にあって、しかも一時反乱軍にも加わった青年が、語学力と海外体験を無駄にすること無く、新体制の要路にある識者によって評価され、その力に相応しい活動の舞台に私大に押し上げられてゆく――林に限らず、福澤など多く見られた明治の変動期の社会現象だが、日本社会の公平さ、それゆえの近代化の効率の良さを示す事象でもある

岩倉使節団のフランス滞在中、林は工部大学校新設のための外国人教師傭い入れを担当、一足先に教師とともに帰国し、洋式技術導入のための高等教育機関の編成と運営に没頭。工部省が逓信省となって局長職に移り、更に香川県、兵庫県知事を歴任後、91年ロシア皇太子傷害事件で辞任した青木外相の後に文相から横滑りした榎本外相の下で次官にスカウト

林の榎本評は近い姻戚で元上官にも拘らず辛辣、「正直律儀なるがゆえに、人を信じて騙され易く、予が所論は多く榎本氏の信用する人の所論と合わず、平生親しく交わる人なれば、敢て辞すること能わずして次官となる」

 

II     外交回顧録の魅力

明治日本の外交官の回顧録の類が読んで面白いのは、列強角逐の世界に躍り出た発展途上国日本の対外第一線に立ち、能う限りの知恵と胆力を発揮して、与えられた重責を果たそうとした人たちの姿と思いが、彼ら自身の言葉を通じてありありと浮かんでくるから

『日英同盟の真相』は、林が『時事新報』の記者に語った交渉経緯で、林の死の直後13年に連載され、途中で林の自筆の記録『日英同盟協約締結始末』に代えられたが、外務省から掲載中止を求められ、再び『真相』に戻されて全篇一挙掲載されるも、すぐ発禁処分に遭った

同盟案は、前任の加藤高明公使に対し英国から打診があったが、正式な議題とならないまま、林新公使に引き継がれた。林は、外務次官として三国干渉に対応した経験から、日本の孤立を避けるためにも列強のいずれかとの同盟関係締結を志向、最良の相手はイギリスだとして、駐清公使として赴任直前、福澤が社主だった『時事新報』に寄稿、同紙の社説として発表されていた。福澤とは子ども同士が結婚して姻戚関係にあり、福澤もこの論を喜び、直後に『日本と英国との同盟』と題する社説を載せ世論の喚起を図る

林と英国外相ランズダウン(18451927)の交渉は順調に進んでいたが、01年元老伊藤博文が外遊の際、持論の日露協商を持ち出し、一旦林の説得が功を奏したかに見えたが、ロシア皇帝に拝謁した伊藤は持論を持ち出してかなり突っ込んだ意見交換をしたようで、現場をまとめるのに苦労させられた ⇒ 協約締結後の外相宛の『日英同盟協約締結始末』でも林は伊藤の外交現場への直接介入を「瞭解に苦しむ」と再三にわたり非難。伊藤を唆した井上馨の女婿・都築馨六に至っては最も許し難い人物として「賤しむべき者」と断じる

 

第7章      明治外交の危機に立つ――陸奥宗光『蹇蹇録』

I       外交の写生絵画

林の『回顧録』の最後は、「陸奥氏が亡くなり、生涯最第一の知己を失う」で結ばれている

林が初めて陸奥に会ったのは71年、陸奥が欧米視察から帰朝、当時紀伊徳川藩の兵制改革に専念していた陸奥に英語能力を買われて和歌山に同行、2か月後廃藩置県とともに陸奥が神奈川県知事を拝命すると、林も仕え、初めて官途に就く

2人には薩長閥に対するアウトサイダーとしての密かな共犯者の意識があり、何よりも林も陸奥に劣らず有能な、国運安泰のために「蹇蹇匪窮(ひきゅう)」の誠を尽くす外交官であったことが、2人の相互の信頼を厚くした

林は『回顧録』で、陸奥外相の対英条約改正成功(94)を讃えながら、先達の人柄について、「素より温厚篤実の士に非ず。むしろ捷知を以て自ら誇るの人だが、理義に明らかに人情に通じよく人を恕する。条約改正成就は、生涯の過失を償っても猶余りあり」と論じる

陸奥は10歳の頃、紀州藩政の中枢にあった父が一朝にして失脚、家名断絶で路頭に迷い、辛酸を嘗めるが、尊王攘夷派の運動に深く関わり、土佐の坂本、後藤とは親しく、海援隊に入って頭角を現すが、78年土佐立志社の林有造らとともに反政府運動を起こして5年投獄。8486年米欧留学するが、その間再婚相手に送った手紙を見ると、内面では細やかな「人情」の人であったことがわかり、『蹇蹇録』とはまるで違った側面を見せる

 

II     戦争と外交

1894年、清国が駐清日本代理公使小村寿太郎に国交断絶を通告

明治日本にとって最初の対外戦争という試練を通じて、政策決定の一切に関与し、その舵取りの中枢となった陸奥外相の心労たるや、並々ならぬものだったが、『蹇蹇録』から窺えば、殆ど想像を絶するものだったようだ ⇒ 東アジアの動静に関心を寄せる列強の干渉をいかに潜り抜け、清国に偏りがちな国際世論に対し、いかに開戦の正当性を訴えるか。慎重に事を進める最中に、最も懸念されるのは韓国現地に居留する日本官民の突っ走った行動と、それが列強にもたらす反響の意外な屈折で、『蹇蹇録』でも「(居留する我国人の行動が)常に蟻穴(ぎけつ)長堤を壊(やぶ)ることあらんかとの恐を抱きたりし」と書いている

折しも先進国との条約改正事業が他に先駆けて英国を相手に成就しようとしており、国際与論、なかんずく英国官民の輿論を刺激することは極力回避しなければならず、それでいて東アジアでは英国のプレゼンスが目立ち、英国人はどちらかというと日本より清国に親近感を持っていたため、朝鮮現地では何かと日英間に悶着が起き、そのたびにロンドンと東京の外務省相互間に電信が交わされ、日本側としてもヒヤヒヤし通し

駐英日本公使青木周蔵から明日にも条約調印の知らせが届いた直後に起こったのが、在韓日本公使大鳥圭介が李朝政府のお雇い海軍教官の英国人の解雇を要求するという事件で、調印は延期の危機に瀕するが、何とか翌日調印。3日後に大鳥公使は朝鮮政府に、清・朝間の宗属関係破棄要求の最後通牒を提出、その回答を「甚だ不満足」として、ソウルの王宮を占領

 

III   陸奥外交と「朝鮮問題」

陸奥は、朝鮮政策に係る日本側の失敗の原因を、朝鮮政府に対して表向きは強硬な言動(厲色(れいしょく)厳語)で改革を督促しながらも、内実はそれを支持すべき一貫した日本政府の方針も資力も熱意も不足のままに推移したことにありとしたが、ずるずると結論のないまま、95年には駐韓公使三浦梧楼らによる閔妃暗殺となり、日本の対韓政策に大きな打撃を与えるとともに、後退につながる

 

IV    変わりゆく日本像

『蹇蹇録』は、明治日本の最初の国際的危機を切り抜けた直後に、当の最高責任者によって語られた記録と同時に、帝国主義たけなわの時代における日本近代化=西洋化の意味についての考察が加わり、国の行く末に対する一種の危惧を伴った反省も洩らされる

連戦連勝で、それまで戦争の行方についても日本国の行動についても、専ら疑惑の目で見ていた西欧諸国の輿論が急に変わってきたことも記録。「外交上軍事上の行動において、その交戦国に対し並びに中立各国に対し一も国際公法定規の外に逸出したることなかりしを認めたるは、実に彼等に向かい非常の感覚を与えたるが如し」

一連の事実の持つ歴史的な意味合いを要約して以下のように述べる。「之を約言すれば、彼ら(欧米人)は欧州文明の事物は全く欧州人種の専有に属し、欧州以外の国民はその真味を咀嚼する能わざるものと臆想したり。然り而して今回戦勝の結果により、竟(つい)に彼等をして初めて耶蘇教国以外の国土には欧州的の文明生息する能わずとの迷夢を一覚せしめ、我軍隊赫赫の武功を表彰すると共に、わが国民一般が如何に欧州的文明を採用し、之を活動せしむるの能力を有するかを発揚したるは、特に我国民のために気を吐くに足るの快事と謂うべし」

三国干渉の処理を終えると賜暇を乞い、大磯に療養、2年後の97年には53歳で没するが、この時すでに日本の今後の進展が国内外の関係に於ていよいよ難しくなり、内外との相克が一層複雑になることを予感し、危惧していた

クリミヤ戦争以前に英国人が綽号せるジンゴイズム(熱狂的対外硬派)の団体の如くき振る舞いだと、近代日本最初の対外戦勝に陶酔し驚喜する民衆、又言論人の姿を描いて余すところがない。「我国古来特種の愛国心」を陸奥は、「如何にも粗豪尨大」で扱いかねるものと評する

 

V      李鴻章との応酬

1895年下関での日清講和会議。日本側代表は伊藤首相と陸奥外相。清国側は直隷総督に返り咲いた李鴻章と元駐日公使で息子の李経方

前年の朝鮮内乱以来ここに到るまでの外交の経緯を、その当事者としてなるべく広い視野から可能な限り客観的に記述しておこうとしたのが『蹇蹇録』執筆の志に他ならない。「政府が斯る非常の時に際会して非常の事を断行するにあたり、深く内外の形勢に斟酌し遠く将来の利害を較量し、審議精慮、苟も施為(しい)を試(こころみ)得らるべき計策は一として之を試ざるなく、遂に危機一髪の間に処し、時艱を匡救(きょうきゅう)し、国安民利を保持するの道此に存すと自信し、以て之を断行するに至りたる事由は、余亦之を湮晦(いんかい)に付するを得ざるなり」

敢て遼東割譲のようなロシアの干渉を招きかねない要求を講和条約に加えたのは当時の国内の「戦勝の狂熱」を考慮したからであり、それを入れない場合の内憂の方が条約調印後に来たり得る外患よりも重大と判断したからだともいう。三国に対しても清国に対しても、極めて限られた日数の間に、「畢竟我に在ては、其進むを得べき地に進み、其止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は当時何人を以て此局に当らしむるも、亦決して他策なかりしを信ぜむと欲す」と結論する

 

第8章      日露戦争の暗鬱――小村寿太郎

I       「臥薪嘗胆」の使命

小村寿太郎(18551911)は、駐韓公使(閔妃事件事後処理に当たる)、外務次官(9698)、駐米・駐露(00)・駐清(義和団事件講和会議)公使、外相(0106、第1次桂内閣)。日露戦争前史から終結に到る全過程に深く関わり、指導した最重要の責任者の1

日本海海戦の勝利から12日後に来たルーズヴェルトからの講和の公式勧告を受け容れ、小村が首席全権、駐米公使高平小五郎が全権に任ぜられ、誰が引き受けても国内に対しても当のロシアに対しても困難を極め、一身にとってはマイナスになることこそ多かれプラスになる事は殆ど何一つ期待されない交渉に臨む。小村は開戦5カ月にして、日本帝国の極東における利権拡張の方針を始め、対露要求の12項目を含む「日露講和条件に関する外相意見書」を提出、出発時には数歩退いた内容に変更。天皇の裁可を得た全権委員に対する訓令案の絶対的必要条件は、①韓国の自由処分の承認、②日露両軍の満州からの撤兵、③遼東半島租借権及びハルピン旅順間鉄道の日本への譲渡、の3項目のみ、他の9項目は+αに格下げ

三国干渉以来臥薪嘗胆の思いで負担に耐えてきた国民同胞が歓喜しているときに、生涯刻苦勉励、臥薪嘗胆の男が、沿道から万歳を叫び続ける人々を見て「彼等は戦場にいる子弟等が今に帰らしてもらえると思って喜んでいるのだ」と洩らしたという

 

II     ポーツマスの日露対決

「外交官」という固有の官職名が正式に決まったのは、1893年第2次伊藤内閣における官制改革による。2年度の『時事新報』で福澤は、『外交官の辛苦』と題して、複雑化する国際関係の場に乗り出す外交官の職分の重要性を弁じ、期待と激励を述べる

小村は、75年第1回文部省留学生としてハーバードのロー・スクールに留学、ニューヨークの法律事務所で実地研修の後、司法省に戻り、84年外務省に転出、翻訳局の後、陸奥外相の引き立てで日清開戦直前の北京に臨時代理公使、以後外交の最前線に立つ

ロシア側代表のウィッテとは、小村が駐露公使時代から面識あり、必須3条件については順調に進んだが、軍事費賠償とサハリン割譲になると途端に暗礁に乗り上げ

ウィッテは日露開戦に反対したことが祟って、武断派に取り巻かれた皇帝の全面支持を受けることが出来ず、強硬論一辺倒だったため、妥協の余地なく、決裂に近かったが、ルーズベルトの勧告でロシアがサハリン南部割譲に同意したため、きわどいところで妥結

帰国したウィッテは皇帝によって伯爵に叙せられる。小村は帰路ニューヨークで発病、3週間の療養中に日比谷焼き討ちの大騒擾の報に暗澹たる思いに陥る。小村は苦渋に満ちた心境を、残念ながら日記にも書簡にも残していない

 

III   新帝国主義の外交官

日露戦争勝利で世界における地位と役割が大きく転換しようとする1年、文化面では夏目漱石や上田敏が活躍、新しい詩文がもてはやされ、文明開化から富国強兵への道を一筋に進んできた明治日本にも、一方ではようやく政治・外交のプロフェッショナルが出現するとともに、他方では国是や国家目標から隔たりを保って自由な批判的学芸の人々の活躍が目立ち始めたのは、日本社会の多極化と成熟を示す現象といえる

帰国した小村を待っていたのは、米国鉄道王ハリマンによる南満州鉄道買収ないし日米シンジケートによる運営計画提案で、講和締結の最大のメリットを一朝にして水泡に帰せしめるものとして、即座の判断で既に同意していた桂首相、伊藤・井上等の元老を説得して合意を破棄

次いで、講和条件の3番目、遼東半島租借権と南満州鉄道譲渡につき清国の同意を得るための交渉に臨むが、戦勝国の力を背景に、「東洋平和」回復の恩恵を押し売りするなどの交渉力は新帝国主義国家の外交官の面目躍如

 

第9章      フランスからの詩人大使――ポール・クローデル

I       憧れの日本へ

クローデル(18681955)は、21年第17代特命全権大使として着任。初の大使昇格。天津領事などを通じて日本とも関わりあり。特にジャポニズムの流行に触れ日本文化を深く敬愛し、日仏間のさらに広範な文化交流を促すことをこそ自分の使命の本分として宣言

日本の後、駐米(192733)、駐ベルギー(3335)大使を経て退官

 

II     日仏詩画の交遊

短唱集『百扇帖』の中からいくつかに旧友の日本画家冨田渓仙の絵を添えて日仏合作の詩画集『四風帖』『雉橋(ちきょう)集』を刊行。クローデルほど日本国内を各季節で旅して回り、名所旧蹟を訪ね、絵や紙芝居を見、人に会い、それぞれの出会いを着実に自らの創作の源に摂取していった外交官はいない

 

III   ケー・ドルセー(仏外務省)との関係

194587日のクローデルの日記には、「ヒロシマ、ナガサキ、破壊さる」とあり、9日には「第2の原子爆弾がヒロシマに落とされた」とある。若干の情報の錯誤はあるが、しっかりと書き留められている。更に830日の『フィガロ』紙には、クローデルの『さらば、日本!』と題した、日本の破局を知ってその悲惨に思いを馳せ、焦慮の内に綴った痛切な哀悼の辞が掲載される。戦前の日本を破局に導いた「病因」をいくつも上げ、古き良き日本に訣別しつつ、聖書の言葉を引用して、「主は諸国の民を立ち直り得るものなされた」と結ぶ

 

IV    朝日の中の黒う鳥(くろうどり)

クローデルが同時代フランスの外交官及び外務省に関して回想と批判の文章を書いて『フィガロ』紙や『ヌーヴェル・李てレール』のような新聞・雑誌に寄稿するようになるのは引退後まもなくで、「キャリアの回想」としてまとめられるようないくつかの外交官論を書いている

活発に親密に政治・経済・文化の各方面にわたって広く付き合っていたクローデルが、一方では外交官という職業や本国本省に対してこれ程に鬱屈した感情を抱き続けていたのかと驚くと共に、意外なほど辛辣、且つ露骨な外交官論を展開

 

第10章   孤立と国際協調――幣原喜重郎

I       古風な合理主義者

イアン・ニッシュ博士の『日本の外交政策 1869-1942――霞が関から三宅坂へ』は岩倉具視から松岡洋右までの日本近代外交史を歴代の主要外務大臣ごとにまとめて叙述。日本外交史・日英関係史を研究して40年近い蘊蓄が込められた好著。副題の「霞が関から三宅坂へ」は、幣原喜重郎が霞が関(外務省)を去ってから4年後(1935)の旧友宛の書簡の中で使われた表現、「三宅坂に於て名実共に霞が関を占領することと相成候」からとられたもので、対外政策決定の権能がもはや外務省にも首相官邸にもなく、三宅坂の陸軍省と参謀本部に移ってしまったことを慨嘆する言葉

幣原喜重郎(18721951)が、駐米大使としてワシントン会議に列席し、帰国して外務省初の生え抜きとして第12次加藤内閣(192426)、第1次若槻内閣(2627)の外相として「幣原外交」を展開した辺りまでが「霞が関外交の全盛期」「日本の内外で霞が関が名誉ある地位を占めていた」時期

幣原にすぐ先んじて外相となった石井菊次郎(18661945)、本野(もとの)一郎(18621918)、内田康哉(18651936)、松井慶四郎(18681946)はいずれも外交官試験制度の直前、外務省試補や翻訳官として入省している。三高から帝大英法を出、86年外交官試験合格、すぐ朝鮮(仁川)に赴任、石井菊次郎領事の下で2年の後、ロンドン、ベルギー勤務の後本省に戻って6年半、更に米英蘭での在外勤務3年半、石井外相の下で次官となり、寺内、本野、当、内田と4年にわたって次官

「幣原外交」の哲学とは、「外交の本質は権謀術策ではない」「因果応報」

政治家たる者の最重要の資格の1つとして、「実行可能の政策と不可能の政策とを識別する判断力」を上げる

 

II     「国際協調」の現場

1919年、幣原は原内閣の外務次官から駐米大使に栄転。12年に続く2回目の米国駐箚

赴任後の懸案は、日本移民排斥、ヤップ島帰属問題、ワシントン海軍軍縮会議

 

第11章   「愛する女が狂ってゆく」――ジョージ・サムソン

I       外交官夫人キャサリンのまなざし

キャサリン・サムソン(18831981)の『東京に暮らす 192836』は英国大使館員夫人の回想記。詩人西脇順三郎の前夫人マージョリーによる42点の挿絵と響き合った傑作。結婚のため初めて来日してから8年間の日本体験が素材。同じ年の夫ジョージは、04年以来通訳として駐日英国大使館に勤務した日本のスペシャリスト。夫の友人の妻だったキャサリンと賜暇帰国中に親しくなり、中年の再婚同士で結婚

彼女の2作目は、『ジョージ・サムソン卿と日本』で、夫の外交官の、偉大な日本学者としての体験と業績について詳述している

 

II     古参日本通の鬱屈と悲嘆

ジョージ・サムソンは、日本問題専門の外交官(在日0447)。戦中戦後の欧米における日本研究の最も豊かな源流となった歴史家。38年帰国中の妻に宛てた書簡で、新任大使から冷淡な扱いをされて暗澹たる気分が滲み出るなか、日本人の友人からコロンビア行きを思いとどまるように言われたのに対し、「(米国に去るのは)反日感情からではなく、好きな女が狂っていくのを見ている男が感じるような、悲痛な思いからなのだ」と応える

サムソンがコロンビアに行くのは47年、同大の極東(東アジア)研究所の初代所長となる

1931年『日本文化小史』刊行。焦点の深さと鋭さ、叙述の文体の優雅さによって内外に高い評価を得る

39年離日、辞職するがすぐ翌年には職務に戻ることを求められ再来日。さらに45年末には極東委員会の英国代表として再度来日

 

第12章   大戦前夜の駐英大使――吉田茂と妻雪子

I       夢の浮橋

吉田茂(18781967)の夢は、英米側との協調による大陸及び国内での穏健派による政治的イニシャティヴの奪還であり、そのための協力をサムソンに打診

吉田は35年退官していたが、翌年二・二六事件後の広田内閣の成立時、近衛文麿の頼みで外務省同期の広田の引っ張り出し役を務め、その外相に擬せられたが、陸軍からの横槍で潰され、文相も拒否されると、広田の配慮で駐英大使に出る。英国駐箚は3回目、旧来の親善提携路線に引き戻そうとしたが、独走が両国政府の不信を買って、努力も挫折、後輩の重光に後事を託し、39年全く在野の人となった後も駐日英国大使らとも密接にコンタクトを続け、宇垣・有田との会談を通じ英国に中国での日本の権益を認めさせる

『西園寺公と政局』にはその辺の事情が詳しい

409月、吉田は西園寺宛に政局逆転を求める激越な手紙を書き、直後には近衛に総辞職を迫る長文の手紙を送る。90歳の元老西園寺はそれを読んで、「吉田の考えは我々とちっとも変わらないが、今自分が先に立ってどうするということは却ってよくない」と述べたといい、吉田の「夢」は、内外のどちら側から見ても「春の夜の夢の浮橋」に外ならず、「とだえして峰にわかるる」以外にはなかった

 

II     辺境領事の体験――満州時代

吉田の戦前の外交官生活は33年に及ぶ。0628歳で外交官試験に合格、奉天の領事館勤務を皮切りに、最後が駐英大使で、61歳で依願免官

土佐藩志士の家に生まれ、横浜の豪商の養子、重臣牧野伸顕の女婿という出自の良さにしては、現場での試練の期間が意外に長い。特に中国での勤務が長い。奉天の後英伊に駐在、安東の領事で4年余(1216)1年本省の後済南領事、パリ講和会議(18)に岳父の随員、そのまま在英大使館勤務(2022)で皇太子訪英の身辺に侍る。天津総領事で3年余(2225)、奉天総領事が2年余(2527)

通算12年にわたる中国勤務で、現地日本軍部との駆け引きや本国政府との応酬等の経験が、将来敗戦国の宰相としての彼の見識と底力を培うよき土壌ともなった

安東領事時代、吉田が国民党分子の不穏な動きに対し隣の州の警備の緩慢さを牧野外相に訴えたところ、山縣有朋の養子で隣の警備の責任者からの言辞も相当不遜なもので、明治式官僚同士の丁々発止の応酬の記録がそのまま記載されているところが、『日本外交文書』の深甚なる魅力

 

III   奉天からグロヴナー・スクエアへ――妻雪子のささやき

吉田著『回想10年』では、「チャイナ・サービスは裏街道であり、外務省内での出世街道は欧米の首都・大都市勤務なので、自分は如何に己惚れて見ても秀才コースではないが、負惜しみではなく、今にして思うと、支那大陸に早くから勤務できたことは、非常に得る所があった」

外交官としての実力の涵養に役立ったのは天津と奉天の計5年半にわたる総領事時代で、諸勢力の動揺極まりなき様を日々観察し、それに対処し、一貫して対中国の条約上の諸権利を保全すべく努める。本国政府に発信した報告書の類は『日本外交文書』の随所に見られる

奉天総領事着任直後、反張作霖の謀叛事件が発生、奉天に戒厳令が敷かれた際、吉田は不穏分子の動向を本省に報告するとともに、当面は日本の勢力圏内での軍閥の私闘を許さずとの見解を打電すると、旅順の関東軍司令部も同じ判断を下し、奉天に勢力を集中させる動きを示したので、すぐに吉田は幣原宛の電報で、日本軍の出兵は却て討張に口実を与えかねないとし、陸軍の独走を牽制する必要を上申。既に2年半後の張作霖爆死のような関東軍の謀略的動向に相当の警戒心を抱いていたことは明らか

事件の3週間後、吉田が張作霖を訪問し、独立の意思表示の真偽など直接訪ねたことを報ずる一文も興趣に富む。人物把握においてもその描写においても、並々ならぬ洞察力と文才を持っていたことが窺われる

軍人を嫌い、彼等の言動にいつも警戒していた吉田も、奉天総領事末期に上申した対中国対策案は余りにも威圧的で、現地の民族感情を無視・軽視した帝国主義的態度そのままで、自ら忌み嫌った関東軍の思考や行動とやがて軌を一にしていくもの。在満の高官たちからさえ批判され、積極外交を唱えた田中首相からさえ却下されるような対満・対中強硬意見に固執していく吉田の姿は、信じて猛進する、良く言えば国士風、悪く言えばすでにワンマンの風貌さえ浮かぶ。28年次官就任前に書かれた『対満政策私見』はジョン・ダワーによれば、「帝国意識の独創的な表現を意味するもの」で、「その分野の古典の域に迫る」と評されている

吉田の妻・雪子(18891941)は牧野伸顕の長女。牧野は大久保利通の次男、一貫して親英米派の外交官、反軍部のリベラル国際派としてのステーツマン、元老西園寺公望に最も近い宮中の重臣。岩倉使節団に青少年留学生50名の中に10歳で参加、3年の留学が彼の生涯のキャリアの出発点となる

雪子は、伸顕が在伊公使館書記官として勤務していた時、薩摩藩士三島通庸の娘との間にローマで生まれ、父についてローマ、ウィーンで暮らし、09年吉田と結婚。カトリック信者でスペイン系カトリック女子修道会のシスターと親しく交わり、彼女等が34年日本で上流女子教育の普及を求めて来日すると熱心に助力、清泉女子大開学の端緒となる

1938年、雪子がロンドンで『グロヴナー・スクエアの木の葉のささやき 1936-37』を刊行、駐英日本大使夫人の一種の日記体回想記。英文。新体詩が詠み込まれ、自ら英訳している

音楽も美術も詩歌もよく心得た繊細な芸術家肌の女性

36年、ジョージ6世の戴冠式には、昭和天皇名代で来英した秩父宮夫妻とともに参列。6か月にわたる宮夫妻の帯英を、日英親善の絶好の再保証の機会としてお供する

37年発病・入院、38年帰国の3年後乳癌から転移した咽頭癌で死去。享年52。日米開戦の2か月前だったことだけは救いだった

 

オールコックから陸奥、クローデルなどを経て吉田まで、「外交官の文章」を辿り、読んで来てみると、そこに刻み込まれた先達たちの、この国の運命とこの国の文化への思いの深さ、強さ、熱さに、また改めて心動かされ、感謝と敬愛の念を抱かずにはいられない

 

 

 

 

父にておはせし人――「あとがき」に代えて                 芳賀満

本書は『外交フォーラム』(都市出版)19931月号から959月号まで28回にわたって連載。父が外務省で講義を行い、その体験を雑誌の編集長で友人粕谷一希氏に話したところ、連載に至った。単行本化の過程で、20201月体調を崩し、2月胆嚢癌にて逝去するが、最後まで自ら原稿に目を通していた

常々「人文学は人だ、文章は人だ」と話していた父の人となりを紹介する

1931年山形市生まれ。父親は日本史研究者・教育者、母親も教育者。終戦後東京に戻り、四修で一高に入学。53年東大教養学科フランス語分科卒後55年フランスに留学。直前に日仏学院で妻・知子に出会う。比較文学比較文化を研究対象に、特に日本近代の比較文化史研究で多彩な業績を残す。江戸日本を文学と美術の視点で世界の中において捉え、その豊かな「秋津洲」に「徳川の平和Pax Tokugawana」を見出し、それがあったからこその明治・大正・昭和の文化と歴史の研究となる。蕪村を中心とした詩歌の研究も心から楽しみ、その学風は明るく自由闊達で春風駘蕩たるもの。研究者でありながら、詩と絵を愛した詩人で、研究論文でありながら艶やかに朗々と響くその文章は言語による芸術

研究は『大君の使節――幕末日本人の西欧体験』に始まり、『文明としての徳川日本』『桃源の水脈――東アジア詩画の比較文化史』まで、多くの著作や論文、随筆に結実

最初の著作『大君の使節――幕末日本人の西欧体験』が明治日本の最初の外交の文章であった『特命全権大使米欧回覧実記』を発見し論じたものであることを考えると、本書はその論を緩やかに閉じるものであり、同時に新たな境地を拓いたものでもあろう

職歴は、定職がなく、国会図書館司書の母が長らく家計を支えていた。63年東大教養学部の講師に就き、65年助教授、75年教授、92年名誉教授(文学博士)。後は著者略歴参照

私は明らかに父の強い影響で「永遠的客体」としての人間に惹かれ、東西の文化の往還に興味を持ち、古代ユーラシア大陸をフィールドとする東西文化交流史を専門とする。より実証的な歴史考古学をその方法論とし、アフガニスタンとウズベキスタンの国境をなすアム河の右岸に位置するギリシャ・クシャン系のシルクロード都市を発掘現場とする

本稿の題は、父もよく言及した『折りたく柴の記』の新井白石が父親の晩年を語る個所から採った。敬慕の思い、或は夕けぶりにむせぶも嬉しい気持ちは同じ

 

 

 

 

 

 

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