ブルース・チャトウィン  Nicholas Shakespeare  2020.9.14.

 

2020.9.14.  ブルース・チャトウィン

BRUCE CHATWIN   1999

 

著者 Nicholas Shakespeare イギリスの作家。1957年生。90年『The Vision of Elena Silves』でサマセット・モーム賞、ベティ・トラスク賞受賞。93年『The High Flyer』でグランタ誌の最優秀若手イギリス作家にノミネート。97年『The Dancer Upstairs(テロリストのダンス)』がアメリカ図書館協会のベストノベルに選出、ジョン・マルコビッチにより映画化。ノンフィクションジャンルでも定評、9198年チャトウィンの足跡を旅して執筆した本書は、チャトウィン協会でも公認の伝記として高く評価。07年『In Tasmania でタスマニア・ブック賞受賞、20か国で翻訳。新聞雑誌に寄稿するほか、電波メディアの司会者、解説者としても活躍する言論人

 

訳者 池央耿(ひろあき) 1940年東京生れ。ICU卒。翻訳家

 

発行日           2020.8.28. 初版発行

発行所           KADOKAWA

 

軽井沢図書館の新刊本の書棚で見て

 

ブルース・チャトウィン 「家に愛着を覚えたことはついぞないし、家という言葉を聞いても、普通の反応であろう親近感は浮かばない。旅の空では別として」

ヒュー・オナー(イタリアの美術史家) 「いつも渦中にいて、全てを知りたがった」

サルマン・ラシュディ 「いったい自分は何者かという核心の問題から、チャトウィンは間合いを取っていた」

スーザン・ソンタグ 「あのように人を惹きつけて、わくわくさせる個性が、おいそれといるものではありません。……ジャクリーヌ・ケネディがそうでしたが、ブルースも同じですね。ただ見てくれがいいだけではなしに、あの目の輝きが何とも言えません。男性も、女性も、みなあれで参ってしまうのです」

 

 

I.                      

1984年、南アのプレトリアのアイリーンにある仮小屋に現れたのが、金髪6フィート、ナップザックを肩にかけ旅行用のブーツを履いたイギリス人チャトウィンは、古生物学者ボブ・ブレインの著書を読んで、著者に会うために訪問

ヨハネスバーグ近くのスワートクランズ洞窟の発掘調査15年の成果に基づく原始人の行動に関する古典的名著。ブレインの化石人骨の分析は、それまでの通説と異なり、原始人は強暴な肉食人種ではなかった可能性を提起

人類を優位に立たせたのは、火を手名懐けたことに始まるとされるが、その痕跡を2人はこの時ここの洞窟で発見するが、火を潜ったとされる人骨が120万年前のものと特定されるのは1988年のことで、『ネイチャー』の表紙を飾ったのを見ずしてブルースは死去

人類が火を使うようになった証拠はブレインに、言葉ないし物語は、肉食獣について警告を発する必要から発達したと考える確実な根拠を与えた。事物の特定、情況の把握、高度に正確な情報伝達、そして、そのためにも精巧な可聴信号の要求が増して、言語が発達

出身地から距離を置いていた点、ブルースはアラビアのロレンスや、探検家バートンと心情において相通ずるイギリス人で、話ぶり、着こなし、歓待を疑わずにふらりと立ち現れる自然体などどれをとってもブルースの骨格の一部を成している

一方で、イギリス人が不信を懐くすべても兼ね備える。当世流の粋好み、熱心家、理屈屋でフランス贔屓、激しい思い込み、とりわけ、根深い執着はイギリス人が忌避する性向

 

ブルースの魅力の1つは諧謔。イギリス流の非合理主義がドタバタ喜劇から掬い取った厚顔無恥、無防備の饒舌、物真似演技の組み合わせだ

 

II.                     「子供を作ろう」

1968年、エディンバラ大の考古学教授のモスクワ訪問に同行

8歳までに5度転校したが、幼少のころから引っ越しに次ぐ引っ越しを重ねてきた

チャトウィン家の一族は、自分たちの居場所をよく心得ていた。何れも穏健な良識人で、面倒見がよかった。職業は弁護士、建築家、ボタン製造で、住み慣れた土地を離れず、どこかへ出かけるとすれば、いずれは戻ってバーミンガムを前にもまして心地好い土地にするためだった

父のチャールズは実践家。夢見る人ではなく、ずば抜けた記憶力の持ち主で、人一倍呑み込みが速い。医師志望だったが家が貧しかったため、父の跡を継いで法律の道に進み、父が早逝するとバーミンガムに法律事務所を開業、あらゆる民事を扱って公平な弁護士と評判をとる。バーミンガムをイギリス第2の都市、殷賑を極める商工の大都にするのに与って力があったクエーカー教徒とユニテリアン派が贔屓筋で、彼等の品格や非妥協性、固定資産を共有する相互依存の精神に少なからず影響された

母親は全く性格の違う人。さまざまな仕事を転々とした一家に生まれ苦労して育つ。母方の祖母にはジプシーの血が混ざる。貧しい家庭で正規の教育を受けていない

今にも戦争が始まる雲行きの中で結婚した両親は、早く子供が欲しかった。妊娠8カ月で、海軍志願予備兵だった父に令状が来て1年間軍事訓練に徴兵、父の不在で度を増した神経症を癒すために引っ越し僻が始まる

戦時中に寄寓した先は殆どが大叔父、大叔母、祖父母のところで、間近に触れ合った時間がブルースに年長者に対する思い遣りの心を植え付けた。最初に会った作家も父方の大叔父。地元の教会の修繕を一手に担う大工でもあり、考古学協会の熱心な後援者でもあった

 

III.                   飾り棚

大戦中、ブルースはバーミンガム郊外の父方の祖母の世話になった。大柄で厳格、保守党の有能な活動家で、32年以降は治安判事としてドイツ軍侵入に際しては処刑の権限を与えられていた。着るものはお洒落できちんとしており、公爵夫人のように振舞う

ブルースの楽しみは、祖母が結婚記念に贈られた飾り棚を覗くことで、これまでの思い出の品を詰め込んでまるで家庭博物館のようだった

曾祖父のジュリアス・アルフレッド・チャトウィンが建築界で一家を成し、ロンドンに出て巨匠チャールズ・バリー卿の門に入り、その代表作である国会議事堂の細部を設計。4年で地元に戻るが、最もよく知られている仕事はバーミンガム大聖堂の内陣で、バーン=ジョーンズのデザインによるステンドグラスの窓があるが、寄進者はミス・ウィルクス

ジュリアスの長男でブルースの祖父レズリーは忙しい弁護士だが、演劇と海に心を寄せる。父親譲りの抜群の記憶力で、美声でもあり聖書朗読は人気、アマチュア演劇界では一目置かれる存在で、毎年シェイクスピアを上演、オックスフォード大ではヨット・クラブを創立、自ら船を建造。由緒ある家柄の娘イゾベルを貰ったはずの結婚でレズリーの法曹人生は暗転、第1次大戦中は前線の兵士に郵便を転送する仕事で糊口を凌ぐ

チャトウィン家の美徳は克明な記憶と職人気質、鋭い勘、ざっくばらんな性格と、持久力。ブルースは、祖母の実家ミルワード方から冒険心と、小回りが利く器用貧乏と、人の金を使い込む病気の遺伝子を受け継ぐ

ミルワード家は代々縫い針と釣り鉤(ばり)の製造業だったが、祖母の父親が法曹の道を選び、世界でも屈指の大弁護士事務所を作り上げる。当時弁護士事務所は銀行家の役も担い、貴族から大企業までの弁護を引き受け、アイルランド総督だったモールバラ公爵の後ろ盾もあって、快楽を求めて湯水の如く金を使ったが、1897年由々しき落ち度を根拠に公爵からお払い箱にされてから環境が一変、やることなすことすべてが裏目に出て挙句の果ては依頼人から託された金を使い込み逮捕され、収監中に死去したが、祖父のレズリーは結婚によってミルワードの醜名を背負い込むみ、その後50年の生涯孫子にも家の恥を隠し通したので、息子のアンソニー(ブルースの叔父)10代になってガールフレンドからこの事件のことを聞いたというし、父も36年後に親戚の間でも知られていることを耳にして慨嘆

ミルワード家の曽祖父の面影は一生、ブルースについてまわる。ミルワードの不名誉はブルースが好んで人に聞かせる得意の演目になる。自ら、「作家は皆掏摸だ。その秘訣は掠め取る現場を出来るだけ見られないようにすること」と言っている。盗作、剽窃、かすりはいずれも物書きの手の内だ。59年からブルースを知る美術評論家は、「ブルースは類稀な知性泥棒で、他人の知的所有権をものともしない」と言い、別な友人も、「ブルースには油断のならない一面があり、個人でいながら何人もの浮浪児が共存しているような。あれは教育で身につくものではない」と言う

イゾベルは10人兄弟で、清廉潔白を絵に描いたような姉妹はそれぞれ教会の指導的立場の相手と結婚したが、男兄弟は裁判沙汰のあと散り散りになる。ブルースはその末路を追跡。イゾベルのお気に入りの従兄チャールズ・ミルワードは、有史以前の動物の標本を集めていたが、洪積世のナマケモノに近い貧歯類・ミロドンをほぼ完全な形で発見、ヨーロッパの古生物学界は色めき立ち、標本を提供したが、イゾベルの結婚記念にミロドンの毛皮の断片を贈る。これが祖母の飾り棚にあって、ブルースのお気に入りとなった

飾り棚はブルースの作家生命を支える宝庫。作品の主題(遠隔の地、1回だけの体験、驚嘆、虚構、野性)も、文体(寄せ集め、透明度、自己充足性)もすべて、そこを原点としている

ブルースの想像力の大本は、熱烈なヴンダーカンマー礼讃。ヴンダーカンマー(驚異の部屋、不思議の部屋)は数多の珍品、奇物を集めた博物陳列室、下手物展示館のことで、アメリカの驚異への反動としてウィーンで始まり、中世の地図の周辺で立ち騒ぐ危険な新世界に対する恐怖を和らげた。発端は新しい光の照射であり、規範の拒否がその極意

飾り棚のなかの古物は、ブルースの小説のここかしこに登場

 

IV.                    戦中の生まれ

ブルースは、戦時の子の例に漏れず、不安に怯える母親に甘やかされ、幼子を一族の希望と持て囃す年配の女系の親類たちからちやほやされて育ち、4年後に父が復員して弟が生まれるまでは家の中に競争相手がいなかった

母親は、ニュースを聞くのが嫌で自分の殻に閉じこもり、ブルースの面倒を見ることだけに集中。父は海軍で東地中海艦隊に加わり、最年少で大佐に昇進

ブルースにとって、蒐集が衝動に発する営為なら、旅もまた衝動がそもそもの端緒。「続く私の旅が、空想であれ、現実であれ、さして意味のないことは言わずと知れている。ただ、何はともあれ、自分の中に共存するアンビヴァレンス(両面価値)を大事にしていることはのっけから言っておかなくてはならない。短い間骨董品を搔き集めて利を上げる半面、思い立ったら矢も楯もたまらず、せっかくの蒐集品を惜しげもなく処分する。家に愛着を覚えたことはついぞないし、家という言葉を聞いても、普通の反応であろう親近感は浮かばない。旅の空では別として・・・・」

 

V.                      売春宿から豚小屋へ

45年、休暇で帰省した際、父のチャールズは、バーミンガムで警察に摘発された軍の慰安所のあとを借りて移り住む。父は対日戦勝記念日後に復員

新居では、ブルースが気管支炎、母も健康を害して、転地療養となり、47年に南の農地にある一軒家を借りる。澄んだ空気と豊富な食料が妻子の健康を増進

父の唯一の道楽は船遊びで、52年には世界周航を目的に建造された40フィートの船を共同所有、異例の贅沢だったが、母の道楽は着飾ること

父親の金髪と碧眼は母親の感受性とともにブルースに、母親の茶色の目と黒髪は父親の一徹な実用主義とともに弟ヒューに受け継がれている

 

VI.                    どこへ行くか、自分で知っている

48年、全寮制の私立初等学校に入り、10年を過ごす。10年の監禁生活が、後年の一所不在に糸口を与えたと思われる。饒舌でありながら目立たない存在、運動はだめ、情緒不安定を指摘されていた、注意散漫、行動が幼稚、自己中心の時期を脱していない

演劇に没頭、評価は高かったが、5年の学校生活を通じてほとんど注目されなかった

5年後共通入学試験に合格してモールバラ・カレッジに進む

 

VII.                 イギリスの学生

カレッジは、貧しい牧師の子弟を教育するために1843年創立され、戦闘的な英国国教会主義を貫き、硬派の気風は生徒に浸透して運動場で開花

5年の間、1日として教会礼拝を欠かさず、運動競技は必修で、笑止千万な規則づくめの生活はブルースに抜き難い臭気にも似た記憶を彫り付け、その記憶がブルースを傷つけたとは言わぬまでも、一筋縄ではいかない人物にしたことは間違いない

およそ目立たない凡庸な生徒、成績はビリに近く、数学が苦手だったが、演劇では仲間から絶賛。英語とラテン語の2人の教師は見所があると評価

ラグビー部の主将を務め、兎狩りでは先頭に立ち、競艇部の一員、平泳ぎはトップ、新石器時代の遺跡を思いのまま訪ね歩く

55年、ラグビーの練習で頭を打ち片眼の視力が衰えたのを契機に骨董品の蒐集に興味を持ち始める。早くから目が利いて、売買によってかなりの利益を得た

卒業後はオックスフォードに行きたがったが、父から金がないと言って拒否され、家に所縁の仕事である建築は、数学が苦手なうえ、ロンドンの建築学協会に行く必要があり、先祖代々のロンドン嫌いからこれも不可、アフリカで仕事を見つけようとしたが、これには母親が伯父が虐殺されたことを引き合いに出して反対し、結局母がファッション雑誌で知った美術品競売会社サザビーズを勧められ、58年入社

 

VIII.               仕事師

58年秋、サザビーズのピーター・ウィルスンは、ドイツ系ユダヤ人の蒐集家ヤコブ・ゴルトシュミットの遺産処分を巡る競売の指名をクリスティーズから奪うと、派手な宣伝に加え、初の夜間競売、史上初のテレビ中継を行って名士を集め、セザンヌをそれまでの近代絵画の落札額の倍の値段で落とさせ、その後印象派の絵は何年もサザビーズ以外では競売にかからなかった

ブルースがサザビーズに入社したのは、美術界における序列に変化の起きた時で、またとない幸運だった。運搬部門で働き、作品を見て簡潔に的を射た評を下すことを学び、職場は審美眼を具えて裕福で探求心に富む若い人脈と通じ合う条件を揃えていた。妻と出会ったのも職場だったが、3年ほどで倦怠が兆す。目録を作ることできびきびとして無駄のない文章の極意を身につけたが、余りに根を詰めたせいで視力を失う

ウィルスンに目をかけられ、重点注力部門の印象派を含む近代絵画部門と古美術部門で目録の品目解説の筆者となる。細心の観察、数ある歴史上の事実を時系列で記述する能文、行き届いた考証と筋の立つ解釈、いずれも目録編集者が仕事を通して薬籠中とするものだが、ブルースの文章の随所に、かつ客観主義的傾向に、そうした特性が見受けられる

説明書きに気のすむまで誇張を加える自由を与えられ、物件の出どころや、買い手の興味をそそる伝説、出品者にまつわる秘話といった物語をこじつけるように仕向けられた

ブルースは人が羨むほどの口上手で、競売の現場でその種の物語を巧みに生かすまでになる。ずば抜けて愛想がよく、誰が相手でも臆することがなかった

これまでオークションに一般庶民が参加することはなかったが、時代が変わり、美術品は誰もが買える有利な投資の対象となり、競売も一場の見世物と化した

ブルースにとってサザビーズはまさに「飾り棚」で、彼の鑑識眼は急速に発達

鑑識力を使って帆待ちでも稼ぎ、蒐集家仲間と手を組んで競売で得た利益を分け合ったりした

美学への執着はやがて見るという行為に特化、見ればすぐ独特の形を眼底に焼き付ける

審美眼は、民族文化や古美術に何よりも敏感に感応

 

IX.                    印象派

後にサザビーズの会長になるアンソニー・スピンクと、父の従兄を介して知り合い、サザビーズの近くにアパートを借りて1年同居するが、馬が合う仲ではなかった

結婚を意識した相手もいたが、専ら仕事に打ち込み、自信を深めていくが、印象派の作品を売り捌く新たな責任と不可分だった。ウィルスンから上司を飛び越して直接マティスのブロンズ彫刻49点の目録編集を任され、以降印象派の目録編集の責任者となる

新聞各紙でもブルースを古美術の権威と持ち上げ、印象派の絵画が次々と記録的高値で落札されていく様子を伝える

いかさまはサザビーズの成功の副産物で、贋作の急激な値上がりに促されて似せ絵がはやったが、ブルースは絵の具を嗅ぐだけで似せ絵を見破った。何度も贋作を見破り本人は自信満々だったが、反発も大きく、「ブルース自身がいかさま臭い」とまで言われた

印象派の仕事で気に入ったのは旅行、どこへでも出かけて現物を確認しなければならない

印象派の画家は皆それぞれに、作品に折り紙をつける保証人がいるし、今なお存命で自己評価を披歴する画家もいるが、ブルースは彼等と膝を交えて話をする

エリザベス女王に絵を届けにクラレンス・ハウスに行ったり、60年春以降は上流社会の花形と親交を深めていく

競売会社は3つのDで商売をする ⇒ Divorce, Debt, Death ブルースはウィルスンの名代で葬式に参列することが多くなる。相続人の多くは変わり種で偏屈だが、ブルースは臍曲がりを扱うコツを知っていた。措所動作がどんどんウィルスンに似てくる

 

X.                      美術品密売人

質素な生活から趣味に任せて飾り立てるまで、極端から極端の循環がブルースの人生の韻律で、半面はヨーロッパ人であることを忌み嫌い、一切を捨て去ってモーリタニアの遊牧民になりたがっていた。その一方で、恐ろしく世俗的な、欲深い採集家で、異端、変則ということについては見る目が違った。散文の特徴とされている独断的な飛躍は性格においても似たようなものだった

裕福な蒐集家との親交で、ブルースは分不相応に金を遣うことに味を占めたが、常に懐が寂しいとこぼしていた

サザビーズ特有の長い夏休みを利用して行く先も告げずに外国によく出掛けた。59年夏には単身サルディニア東部を徒歩で旅し、古代エルトリアの彩色した墳墓の探索のためイタリア本土のタルクィニアに向かう

6112月には同僚と初めて古美術の本場を訪ねて中東を旅し、禁止されている古美術を持ち出して、かなりの高値で売り渡した

 

XI.                    怪物の感覚

ブルースの乱費癖と、莫大な経費計上に悩んだウィルスンは、6110月の競売シーズンから印象派の競売にブルースと同格の管理職を採用。直後のサマセット・モーム所蔵の印象派絵画35点の競売を巡って2人は対立。モームの身辺で盗難が多発、長い間心の慰めだった絵画も「今や心配の種だ」としてサザビーズに託したもの。2人で分担して目録を作成、競売終了後2人は職業人として正当に認め合うようになる。競売の2日前になって老作家は絵を売らないと言い出し、弱ったウィルスンはブルースに対応を押し付け、同性愛のモームの部屋に行かせる。モームに髪をかきむしられてブルースは腐敗堕落と媚態の臭気がどれほど鼻持ちならないか、力を込めて語り、モームに弄ばれるのを回避したという

モールバラ時代、ガラス瓶に蜥蜴を飼っていたし、サザビーズでも一時コンゴ産の体長6フィートの黒白斑の錦蛇(パイソン)を飼っていた。若く裕福なアメリカ人のペット

元女優や蒐集家に追いかけられることも度々。蒐集家は概して同性愛者

ブルースの最初の作品『腐った果実Rotting Fruit』は、幾分かモームの人物像を下敷きに、ブルースの知るところ、感じていることの全てを包含した内容で、書かれたのもちょうどこの頃。未刊に終わったこの作品はブルースの卓越した諧謔の話術を原点としている。同性愛の世界を小説仕立てで語った唯一の試みで、後に「この身に怪物が巣くっている」として映画監督に売り込んでいる

モームの絵の売却を境に、ブルースはウィルスンが身も心も求める玩弄を拒んだ。ブルースは知人に、痴情の遊戯は度を越したと打ち明ける

ブルースは20世紀を代表するアメリカの舞踏家イサドラ・ダンカンと結婚したロシアの奔放な詩人セルゲイ・エセーニンの小伝を書いているが、エセーニンと同じく、ブルースもまた「男女両性に惜しみない情愛を懐かせるブロンドの好人物」だった。ある美術評論家もブルースを評して言う、「危険なまでに神懸かった強者で、軒並みに人を誘惑する。ブルースを心から愛した人間、あるいは、ブルースに恋した人間は数知れない。普通の神経なら誰しもだ」

ブルースは男女両性と取っ替え引っ替え短い交際を重ねた。未完のゲイで、同性愛に填(はま)って自己嫌悪に苛まれ、そのことが後半の人生を説明している。エディンバラ行きも、パタゴニア行きも現実逃避

25年後、主治医に若い時から同性愛者だったと告白、死の半年前、家族ですら知らなかったブルースの深層。誰に対しても胸中を明かさなかった

ブルースがあけすけにものをいう相手がいたとすれば、それは精神分析医のヴェルナー・ミュンスターベルガー。患者にはジェームズ・ディーンがいる。60年代からの付き合いで、「ブルースほど自分の好色をひた隠しにした男には会ったことがない」という。「ブルースは当事者であるよりも、観客、いや、正確には観察者だった」と言い、ブルースの同性愛を、掛かり合い、ないしは巻き添えを避ける方途と分析。そもそもの始まりは好奇心で、ブルースの旅は覗きの一種

『腐った果実』以後、ブルースは性体験についてほとんど語らず、文章では一切触れていない

スーザン・ソンタグは79年にニューヨークでブルースと知り合い、当時ブルースが血道を上げていた異様なまでに激しい性行動を目撃。「ブルースは誰とでも一度は寝た。憑き物に憑かれたようで、性行為は世界と掛り合うか、掛かり合いを避ける手段だった。本当に孤独だったので、人と繋がりを持つために行為に耽った」

 

XII.                 エリザベス

ウィルスンの秘書だったエリザベス・チャンラーはラドクリフ出でブルースより2つ上、ボストン在住のアメリカ人と婚約。ブルースが61年冬初めてアメリカを旅してから、サザビーズで唯一のアメリカ人だったエリザベスに目覚める

エリザベスは、父方も母方もアメリカで最も格式の高い門閥の血を承ける

海軍士官だった父は重巡洋艦ミネアポリスの艦長としてハワイに駐留、母親とオアフ島に訪ねた3日後に真珠湾攻撃があり、ワシントンの祖父母のもとに身を寄せる。ブルースは後々、日本軍の真珠湾攻撃を素材に「人間の残虐嗜好」を説明するようになる

母方の祖父は止むに止まれぬ蒐集家で、絵画コレクションに惹かれてサザビーズのウィルスンが近づき、それをきっかけにエリザベスがサザビーズで働くことになる

59年、サザビーズのニューヨーク支社長の秘書として入社、2年後夢だったロンドン本社へ転勤、ウィルスンの下で働くが仕事は張り合いがなかったため、1年で見切りをつけ、アメリカに残してきた恋人との結婚を決心する

ブルースが事故で車を大破させた後エリザベスに運転手の役を押し付けたのが2人が交際に発展するきっかけに。彼女の運転で、ブルースの故郷ウェールズの各地をドライブ、誰よりも一緒にいて楽しい人との印象を受けた彼女は、婚約者に詫びを入れて解消

色恋沙汰が家常茶飯だったサザビーズで2人の関係は2年間隠し通される

 

XIII.               アフガニスタン

63年夏、同僚とともに初めてアフガニスタンを訪問。目的は『オクシアーナへの道』(37)で語られたロバート・バイロン(旅行作家、190541)の足跡を辿ること。3週間の旅で、中央アジアに対する憧憬はいたたまれないまでになる

テヘランからカブールへ、国境はヒッチハイクで何時間もかけて無事に通り過ぎ、不安を感じながら国内航空でカブールへ。性急な復興計画で、バイロンが旅した1933年とは様変わりで、紀行文に描かれた景色の多くを破壊。ムガル帝国の奇跡の1つに数えられる建築美術の白眉であるカブール郊外のバーブルの墓も荒れ果てていて失望

64年夏、バイロンには食傷気味で、今回は植物に関心を移す。今回もサザビーズの別の同僚との旅。チャービルの自生するカルマ渓谷を訪れる

 

XIV.                饒舌家

64年、サザビーズはニューヨーク最大手のパーク・バーネットを買収

ブルースの上司の絵画部門の責任者が精神障碍で、ブルースが大西洋を頻繁に往復した結果疲労困憊、神経性視力障碍もあって翌年には長期転地保養のためスーダンに出発

ほとほと美術界が嫌になってきた。初めて遊牧民の暮らしを体験しながら、エリザベスとの将来に決心を固め、イースターをパリで一緒に過ごす

ブルースは同性愛が倒錯とはされない世界に生きていたが、育った環境は同性愛を認めない。この裏腹がブルースをハルツームへ追いやった。両親を尊敬しているだけに、がっかりさせたくなかったし、自らも人前に恥じることなく、安心で頼り甲斐のある家庭生活と人間関係を求めていた。弟には「俺の発狂を防ぐためだ。俺の錨だ」と本音を漏らす

ブルースの結婚相手の選択の眼識は確かだった。2人は関心が一致、2人とも農村育ち、美術と旅を愛し、何よりも独立独歩を重視。エリザベスの独創力と恬淡な自意識を買っている。エリザベスはニューオーリーンズの出で、黒人の血が1/8混じっている

65年、エリザベスの実家の教会で結婚、メイン州の沿岸を小帆船で1週間航海。エリザベスは婚約を発表した時に退職

 

XV.                  背の立たぬ深み

ブルース最後の派手な競売は、ヘレナ・ルビンスタインのアフリカおよび大洋州の彫刻コレクションで、66年ロンドンとニューヨークを電話で繋いだままにして行われ、51.6万ポンドを売り上げた

漸くグロースターシャーに47エーカーの家を見つけ、義母の支援で購入。競売の直後に平の取締役8人の1人に選ばれ、周囲からもウィルスンの後継者と目されたが、66年夏の初め退職

辞職の理由は、競売の仕組みにうんざりし、入札人のどす黒く歪んだ顔は見るに堪えないと感じたほか、ウィルスンとの確執だったというが、亡くなる半年前、ウィルスンと上司に明言したのは、ピット=リヴァース・コレクションをアメリカに「不正」に売却するよう2人に強制されたのが辞職の本当の理由だった。現代考古学の父と仰がれるヴィクトリア朝の奇人ピット=リヴァース中将は、有り余る富を2種類のコレクションに注ぎ込み、1つはオックスフォード大学教育博物館に寄贈、とりわけ愛着の深い品々は1881年以降ドーセットの自宅に近いさる私設美術館に管理を委ねた。ジプシーを教育するために農家を改築した学校に収蔵されているファーナム・コレクションは目覚ましいばかり変化に富んでいて、陶器、錠前、鍵に始まった蒐集は、更に間口を広げ、西アフリカから太平洋沿岸の民族文化を対象とするようになる。個人のコレクションとしては最大規模のベナンのブロンズ彫刻がブルースとサザビーズのわだかまりの根因となる。中将から相続した孫はファシズムを信奉した文化人類学者で40年には政治信条を理由に拘禁されているが、ファーナム美術館の立て直しをブルースの上司に依頼。27年内国歳入庁との間で、美術館が現状を維持する限り相続税は免除との約束をしているが、60年代には美術館が管理不行き届きから乱雑を極め一般公開を中止、国に譲渡を打診したが拒絶され、ブルースの上司に頼ってきたもの。孫の同棲相手が秘密裏に収蔵品を売り飛ばし、代わりに複製を置いたが、ウィルスンや上司はその取引に手を貸している。その不正を見兼ねたブルースが辞表を叩きつけた。サザビーズの役員会が、驚きうろたえたことに、ブルースはエディンバラ大に進み、考古学を専攻する意思を明かす

 

XVI.                考古学者

考古学に進むきっかけは、エルミタージュ美術館で遊牧民の族長の遺体を見た時。最大の悲劇は生半可な教育の栄養不良だと痛感。新石器時代と青銅器時代の世界的権威であるエディンバラ大教授スチュアート・ピゴットがブルースの新たな導師となる

ハワード・カーターのツタンカーメン発掘に刺激を受けてエジプト考古学の世界に入るが、泥臭い現場の発掘作業は真っ平だった

「学期中最優秀」の賞に輝き、ビゴットに認められるが、気候風土にはげんなり

期待に反して子どもは出来ない。素材ノートには自責を窺わせる、「カトリック教徒すれすれ。子供なし。欠如」

ブルースは自身の苦悶を美化して稀有な才能の開花を促す。ノートには不妊を是とする文言が目白押し。「不毛は知性の梯子。霊媒者の在り方だ」

 

XVII.              地獄の季節

67年の夏は、プラハ郊外のザーヴィスト発掘調査に参加

2年目は美術を選択

蒐集家でブルースともサザビーズ時代から親しいウェルチは、ブルースをビゴットに紹介したが、さらに自らの遊牧民の工芸品のコレクションをベースにアジア草原の遊牧民美術を主題とする博覧会の開催をニューヨークのアジア・ハウス画廊に持ち掛け、ブルースを主事に推薦。開催予定は70年初で、ブルースは早速サザビーズ時代の伝を頼りに選りすぐった美術工芸品を集めることに奔走

学術界の体験をブルースは「地獄の季節」と言う。斯界の見識不足、硬直した空気、雑駁な推論、直感的洞察の忌避に対して嫌悪が募る

目をかけてくれたビゴットも、最後は「どのみちブルースは何の世界であれ、じっくり腰を落ち着けて、手堅く人生に処する見込みはない」と言って引き留めるのを諦める

 

XVIII.            罪な本

ブルースは博覧会の準備に没頭。目録の序文に神秘的な民間伝承と人類学上の推論に塗りつぶされたようなエッセイを書いて、博覧会の最高責任者だった2人の女性学者に呆れられるが、ブルースは序文だけでの出版を試みる。ジョナサン・ケープ出版の会長で編集者トム・マスクラーがブルースに非凡な才能を認め、趣意書を書かせると、一般読者向けに人類はなぜ放浪するのかを平明な語り口で疑問に答える形式。9つの章を立てて遊牧への衝動を考察。冒頭の一章は自らの放浪衝動を語る

『裸のサル』の作者から、遊牧とは戻る所が一定していることを言うので、「人類の旅心」くらいに留めて置けと言われ、「遊牧」という言葉は避けて書き直し、69年博士課程を正式に放棄したその週に、『遊牧民という選択』執筆の契約に署名して200ポンドを受け取る

遊牧民を歴史上の重要な立場に復帰させ、人類の起源を解明する斬新な論考を志し、自身が語ることの論旨をすっきり明快に整理するのに14年かかる。その一因はブルースの移り気にあり、その1つは《ヘアー》の主役と同性愛に耽り、彼のためにミュージカルの脚本を書いたが結局は上演しないままに終わる

本の執筆のため最後のアフガニスタン行きを考えるが、旅費工面のためクリスティーズからの誘いに乗って、自由契約で年俸1250ポンドで2年契約を結ぶ。早速カイロでエジプト政府が目前に控えた対イスラエル戦争のための戦闘機中退を編成するための資金として国宝級の古美術品を競売にかけることとなり、クリスティーズを手伝う

 

XIX.                発散

途中からエリザベスが合流し、帰路エーゲ海にも遊んで、心地よい旅を終える

博覧会のあとも世界各地を旅して遊牧民の観察を続ける

執筆に専念する

ブルースが書きかけている本を、エリザベスはいつか「罪な本」と呼ぶようになる。書くだけで手いっぱいのブルースを横目に、エリザベスは自分なりの生活設計を模索しなくてはならなかった

70年エリザベスはインドへ9カ月旅行、その間ブルースはミランダ・ロスチャイルドと過ごす。ジェイコブの妹で、アルジェリアの革命家と結婚するが相手が暗殺され未亡人に。両性具有ともいえる風貌で、両面価値の併存はブルースの活力源でもあった

 

XX.                  解放

70年、見本原稿が出来上がり、主題を煮詰めていけば何れ良いものができるとされた

72年、原稿を出したが、長いだけで読むに堪えないもの、まるで未熟。出版は暫時保留に

ブルースも、気に食わない箇所があったこともあり、更に書き続けようと、ニジェールに向かう。遊牧民を主題に短編映画を撮ったが、見るに堪えない作品で、その後は鬱に落ち込む

 

XXI.                ジャーナリスト

72年春、『サンデータイムズ』は引退した美術コンサルタントの後任を探しており、年俸2万ポンドでブルースを雇う。3年の勤務期間はブルースにとって文章修業の総仕上げとなる。サザビーズはブルースを広い人脈に引き合わせ、物をよく見て記憶に留めることを教えた。エディンバラはある程度まで、学術的な基礎の構築に寄与した。3年間遊牧民の本と格闘した後で、新聞の原稿には締め切りがあって、読者がいることを思い知らせた。広範な読者を意識するなら、簡潔明快な文章を心掛けなくてはならない

ブルースが加わった『サンデータイムズ』はなお絶頂期。色刷りの付録雑誌は、ロンドンの新聞界で最大の利益を上げ、流行の最先端を行く出版物となり、読者は150万を超えて断然他の追随を許さなかった。卑語「シット」と恥毛の写真以外は何でも許される。何にもまして写真報道を主体とする編集で高い評価を得ていた

73年夏の6週間のシリーズ物『美術100万年』は、古美術の蒐集家とサザビーズの鑑定家とジャーナリストを扱()き交ぜたブルースの人間像を展示する陳列棚となった

何が読者を惹きつけるか、現実と無縁ではない対象を見定める天賦の才があり、すぐに花形記者となって、あらゆる分野の記事を書く。3年余りで30数編の特集記事を書き、最晩年にそのほとんどをまとめて自選集『どうして僕はこんなところに』を編纂

終生のテーマはアンドレ・マルロー。彼が語る体験をブルースが書き留めた

記事の内容を巡って編集者とトラブルを起こし、二度と『サンデータイムズ』には寄稿しないと誓う

 

XXII.              パタゴニアへ

以前からパタゴニアは片時も頭から去らない場所、核戦争になったらどこよりも安全な場所だし、学生時代には逃避するならここと思い定め、遊牧民の関係でもいくつか調査した種族の土地

74年エリザベスの父が急逝し、葬儀でニューヨークに駆けつけた際、『サンデータイムズ』の最後の仕事となるはずだったグッゲンハイム家の歴史を書く約束で取材費用を懐にして、突如パタゴニアに向かう。ペロンの死で政情不安真っ只中のブエノスアイレス経由

パタゴニアは2つの国の寄り合いで、住民の多くが2通りの生涯を送って、抜け出す前の環境を再構築

ブルースは、カメラを回しているとは知らせずに、人々の無防備は姿を撮り、暮らしの情景を凝縮して細部に至るまで克明に描き出したので、大勢の恨みを買う

1865年にウェールズ人移住者の一団がこの地に上陸。彼等が山と遺した縁の品々を写真に撮るとともに、その生活を紹介した文章は、反撃の術もない底辺の民を突っ転がした結果となりひどく怒らせた 

『パタゴニア』はチャールズ・ミルワードとナマケモノの皮を主題としている。南米最南端のプンタ・アレナス(旧サンディ・ポイント)のイギリス領事だったチャールズの足跡を追って、パタゴニアを放浪。チャールズはイギリスとドイツの副領事を兼ね、地元の有力者で今でも家が残る。1898年チャールズの船が難破し、02年からイギリス領事となり、マゼラン海峡を航行する船舶の補修など手広く事業を行うが、イギリス人社会からは必ずしも歓迎されず、パナマ運河開通後は事業も衰退、1915年イギリス領事の職を解かれ、28年死去、フエゴ島の島影を望む共同墓地に埋葬。現在は荒れ果てて見る影もない

1895年、マゼランのある洞窟で不思議な動物の毛皮を発見、たちまち「奇怪な謎の4つ足動物(ミロドン/ナマケモノ)」が今なお実在するとの風説を広め、ミルワードはその洞窟にダイナマイトを仕掛け、化石の破片を売って儲けた。ブルースの祖母にも結婚祝いに房毛を贈った。ブルースはその洞窟を訪ねてみたが、ミロドンは体長3メートルほどの草食動物で、外皮が厚く、強い鉤爪で土を掘る、紀元前115008000年頃まで洞窟に群がって塩気のある岩を舐めたが、高度に発達した消化器系を具えていなかった、地べた一面糞で一杯だった

 

XXIII.            君がどう思うか知らないけれど

エリザベスと母親はリマでブルースに合流し、ペルー国内をキャンプ用トレーラーで旅行

ニューヨークに戻って『サンデータイムズ』のために2本の記事を書く。グッゲンハイム記念財団と、ペルーに住むナスカの地上絵の研究者マリア・ライへの紹介記事。ほかにも西部のユタで足跡を追ったブッチ・キャシディとサンダンス・キッドの生涯を調べたが、記事は没に。その年『サンデータイムズ』の編集者が交代したこともあって契約破棄

『パタゴニア』は一夜にして成功を見たが、汗みずくの難行苦行の果てだった。自信を無くしかけたこともあった。見聞が広く、知識が豊富なところから、直喩表現が巧みだが、これは流麗な文章を書く心得の一部に過ぎない。文章家を志し、並外れた集中力と鍛錬で独自の文体を完成。妥協を知らぬ言葉の選択と位取りを、美術収集家だった前半生の哲学に擬えた人もいる(漆を塗っては磨くことを繰り返す工芸からくる漆の質感をブルースの散文が復原)。「文章は言葉による絵画である。写実に越したことはない」と言い、即物的ともいえる淡泊な表現を心懸けた

ブルースを読めば、もう1つの類似に気づかざるを得ない。禁欲的なまでに刈り詰めた文体と、所持品を必要最小限に止めるムーア人遊牧民の質素な暮らしぶり。ムーア人は何よりも青色を好み、布や皮の切れ端を接()ぎ合わせるパッチワークが得意だった

76年、5年ぶりに『終わりに――パタゴニアへの旅』の原稿を持ち込む。編集者のマスクラーは「十指に入る瞠目の力編」と感じ、「踏み込んで駆りたてるような力に欠ける」と言うアドバイスをもとに更に添削を進める。マスクラーのジョナサン・ケープは8年前の契約で印税600ポンドを前払いすることに同意、発行日は7710月、初版は4000

批評も絶賛、作家も手紙を寄越し、グレアム・グリーンは「愛読する紀行文の1つ」に挙げ、仏人作家で在仏パタゴニア領事ジャン・ラスパイユは、初のパタゴニア文学大賞を授与すると言ってきた。驚いたのはかつての美術界の同僚たち

アメリカ版の権利が5000ドルで売れて、袖広告には著者としてこの本を理解する鍵と考えている4つの項目を明記。①パタゴニアは人間の好奇心の象徴、②極度に変則的と言われる表現形式は、「遠いところで珍しい生き物を狩る」ようなもの、③75年のパタゴニア旅行と、「飽くなき希求と流離を象徴する瞑想の旅」のどちらかの選択を読者に任せた、④全編が旧約聖書のカインとアベルの伝説を読み解く手掛かりでなくてはならない

ブルースは紀行文学と呼ばれることに不満を懐き、書店では「新ノンフィクション」と銘打つのが流行った

ブルースは、家族の秘密をさらけ出し、類縁の人生や性格、名前や風貌を修正することに何の痛痒も感じなかったため、批判を浴びた。特にミルワード船長の2人の娘は怒り心頭

 

XXIV.             アマゾンに蹴飛ばされる

次作の構想は、西アフリカはベナンのダオメにいたデ・ソウザ一族の年代記。初代はブラジルからやってきたポルトガル農民で、奴隷貿易で成功して総督にまでのし上がった。後に『ウィダの総督』として刊行

76年末、ブルースはベナンの港ウィダを取材で訪れる。クーデターが勃発して多勢のヨーロッパ人とともに監禁。日記に一言、「外国語版。アマゾンに蹴飛ばされる」とあり、アマゾンは獰猛な女兵士の軍団だが、意味不明

クーデターは直ぐに下火となり、一晩足止めを食っただけで釈放され、出国

 

XXV.               ブラジル

ベナンからリオに飛び、ソウザの生まれと来歴を辿る

 

XXVI.             ニューヨーク

帰国直後、以前にあったオーストラリア人で株式仲買人の若い男と恋に落ちる。男を相手に命懸けになったのは初めて。7782年の間関係を続ける

写真家ロバート・メイプルソープのスタジオはありとあらゆる倒錯者の「寄港地」で、ブルースも何度か訪問、さらには無差別の性衝動も諍(あらが)い難い誘惑

『パタゴニア』で一躍人気者になるロンドンの知識階級で作っている結社には加わらなかったが、ニューヨークではいくつかに潜入、多彩な顔ぶれと友好を深めて文学人生にうねりが生じたという。スーザン・ソンタグ、リサ・ライアン、ジャスパー・ジョーンズなど、大富豪から粋筋まであらゆる範疇の人間を知っているようだった

ウェルチの紹介で、ジャッキー・オナシスとも知り合う、彼女がブルースにえらく惹かれたといい、エリザベスにもジャッキーをオペラに連れていくと書いて寄越す

 

XXVII.           おお、フロベール

2作もあちこち転々として書き上げる

「何だろうと、どんどん盗まなくてはだめだ。古典、名作の書き出しを片っ端から読め」と言って、自身はヘミングウェイから離れ、バルザック、フロベール、ラシーヌなどフランスの作家に傾倒。特にラシーヌ敬愛はほとんど際限がなかった。次いでフロベールを愛読、19世紀文学では最高の作品とし、『ウィダの総督』をフロベールの文体で書こうとした。更には、段落による見た目の効果を計算して、すっきりまとまったページを作ることに努め、一文一段落の字配りなど、フロベールそっくりだった

どこに住むかの思案は、ブルースの最大の問題ニア関わってくる。自分のデスクに向かうと書痙(しょけい)が起きて書けなくなる病質で、人の家に仮寓する方がずっと楽。どこで暮らしても、「定住の倦怠」が忍び寄るのは時間の問題

ブルースは結婚していることを人に言わず、エリザベスも滅多に人前に出ず。ブルースの好き勝手な気儘な行為、行動は少なからぬ人間を遠ざけたが、エリザベスは傍らを離れず、15年間ブルースの我儘によく耐えた。ある時ブルースがエリザベスの都合も聞かずに友人を連れていくと言ってすっぽかした時、遂に堪忍袋の緒が切れて郊外の家の売却を決心

 

XXVIII.        辺境

『ウィダの総督』は好評を博したが、全体としては条件付きの喝采で、ブルースの怪奇趣味が歯止めを失って独り歩きした印象を持たれた。売り上げは5000弱、アメリカ版は7000を越えず、『パタゴニア』の1/3に留まる。読者は、本書が全くの創作なのか、どこまで事実調査に基づいているのか困惑し、前の作品とを結びつけられずに戸惑った

ウィットブレッド賞選考委員会はあからさまにこの作品を黙殺し、ブルースの次作に最優秀処女小説賞を与えた。ブルース自身もこの待遇で味わった失望から、次の『黒ヶ丘の上で』ではトマス・ハーディ風の堅実路線に回帰し、方向を定めた

ブルースの作品はどれもみな、すぐ前の作品と相呼応している。『ウィダの総督』は残酷な内容と、地理的な広がり、貧富の差を書き込んでいるが、『黒ヶ丘の上で』はその反動で、穏和で静かな世界に舞台を移し、農耕民の変化に乏しい単調な暮らしを眺めている。前者は実時間で物事を描いているのに対し、後者では1世紀にわたって物語が展開

43年もの間母親のベッドで一緒に寝た双子の物語。作品の場所にウェールズの辺境を選んだことで、ブルースは最愛の土地に立ち帰り、「人間、行動の拠点がない事には彷徨えない」とは84年の発言。ウェールズには到るところに家族の匂いが漂う

マクスラーは、『黒ヶ丘の上で』をブルースのデビュー小説と銘打って刊行。「60年代以来当社が手掛けた優秀な書き手の1人である若手の飛び抜けた処女作といえる」とし、初版1万部ブッカー賞の締め切りを意識して発行日を9月末に繰り下げ、テレビの人気番組でも取り上げられる

過去の反省に基づいて親しみやすい設定で書くことにした小説は、広範囲の読者層に迎えられ、5年を経ずしてイギリスでも第1級の評価を得る売れ行きとなる。サルマン・ラシュディもこれをブルースの最高傑作と絶賛。ブッカー賞こそ逃したが、ウィットブレッド処女小説賞に決定

すぐに作中人物の同定が始まったが、ブルースは純然たる創作だと主張、87年に映画化された際も本人と目される人物が自分のこととは思っていなかった

 

XXIX.             裁判上の別居

1980年、エリザベスとブルースの別居は、既成事実で、カトリック教徒故にエリザベスは離婚を望まなかった。エリザベスはロンドンに近い家を別に買い移り住む

81年、2人は裁判による別居に合意、エリザベスとの絆が、たとえどんなに心細かろうとも絶えないようにするための便法で、ブルースはエリザベスを対象とする分の納税義務を免れる

ギリシャの若きファッション・デザイナーで売れっ子のジャスパー・コンランは、ブルースに会ってその豊富な知識と行動力に憧れ、ブルースもコンランの敬愛を受け入れる

 

XXX.               オーストラリア

祖母の飾り棚にあった携帯用の日時計の針が差しているところがボタニー湾で、次の作品の着想を得るために82年末オーストラリアへと飛び立つ

親類のビッカートン・ミルワードはブロークン・ヒルのゴールドラッシュで鉱山技師として存分に仕事をしたし原住民アボリジニに、多分夢見がちな親愛を懐いていたこともあって、久しい以前からオーストラリアには憧れていた

83,84年の2度にわたるオーストラリア中央部の旅で、15年来温めていた持論を敷延して花芽を咲かせる人種に出会い、旅の収穫は第4作『ソングライン』に結晶

性器の疾患で手術をした直後の身体で、養生しながら旅する

その頃、『黒ヶ丘の上で』がアメリカで好評を博した時期と重なり、『シドニー・モーニング・ヘラルド』でもハードカバー・ベストセラーの4位となり、81年の最優秀小説としてジェイムズ・テイト・ブラック賞に輝く

ノーベル賞作家のパトリック・ホワイトとも面談。パタゴニア同様、移民で成り立っている土地柄ゆえのちぐはぐに、何やら感興をそそられる。ブルースの文学の成功は別段オーストラリアの出版界を驚かせもせず、関係者はブルースを悪気のない軽侮の目で見ていたので、無名に等しかったブルースにとっては居心地がよく、すっかりこの地が気に入ってロンドンでは考えられないほど自由気儘にやっていた

砂漠を素材に息の長い瞑想禄を書こうと、アデレードでアボリジニを語った現地の作家で原始社会における秘密成人式の秘儀の写真家ストレーローの未亡人と会い、ソングラインへの知識を深める。ソングラインは、厳密には翻訳不可能な言葉で、地図であると同時に、一片の長い物語詩であり、アボリジニの自然崇拝と、古来の生きざまの根底に流れる祈りの調べでもある。一種の秘儀

パタゴニア同様、ブルースの縄張り荒らしは遺恨を買う。膨大な資料を要約して簡潔にものを言う才能は持ち前で、各領域の専門家は苦労して蓄積した財産をブルースに摘まみ食いされたと受け取って激怒。アボリジニ研究に携わっていた人類学者や法律家は今や土地権運動に関与していたが、時代錯誤を引きずったブルースの軽はずみな質問は土地権、住宅供給、公衆衛生といった実際問題に関わっている運動家たちの不興を煽る

『ソングライン』には手探りの不思議な異性愛が彩を添えている。エリザベスと別居して、ブルースは新たに複数の女性と関係をもったが、何れも甘美な恋愛に発展する可能性を孕んだ関係で、オーストラリア人女性も何人かいた

 

XXXI.             コウモリの洞窟

バルバドールで蝙蝠の群れている洞窟を訪れ、ブルースは中には入らなかったが、3年後に病気の原因を考えながら、ブルースはこの時の洞窟の記憶を掘り返した

インドネシアに2週間滞在している間に、食中道といったが、よほど質の悪い故障が起きて、長生きは出来ないと予感がする

オーストラリアに戻って、仲良しのサルマン・ラシュディと車でエアーズロックまで出かけた時、ラシュディは初めてブルースがエリザベスのことを話すのを聞く。エリザベスにした1本の電話で2人はよりを戻し、ネパールで落ち合うことになる

 

XXXII.           ブルース・チャトウィンとの1時間

ヒマラヤで2人は関係修復の糸口を見つけ、以後4年死の予感を撥ね除けながら『ソングライン』を書く

子供の頃から気管支炎の気があったが、ネパールから帰った時に手に原因不明の腫れ物ができ、84年オーストラリア再訪した後病気がぶり返す

84年、アボリジニ居留地で過ごすためにオーストラリア再訪

 

XXXIII.        真摯な探求

84年末には健康を害し、静養を兼ねてギリシャに隠遁

 

XXXIV.         神は存在する

ジャワで病を得て、大きな変化の波が起きる。「遊牧民の探求は神の探求」「信仰とは、正しい時に死を迎える技法である」などと日記にも書き、83年エリザベスとネパールで静養する間にギリシャ語でアトス、つまり住むところ、居場所について考え始めた。良きにつけ悪しきにつけ、自身の振る舞い、性向、その他もろもろ、己が存在の根源を突き止めようとする思索だった

ギリシャのアトス山の修道院を訪れ、すっかり気に入って山の虜になる

 

XXXV.           インド

85年帰国。ドーヴァー海峡で鼻炎発症、炎症が悪化

『ニューヨーク・タイムズ』の依頼で、かつて中国の雲南省に存在したアメリカ人植物学者ジョゼフ・ロックの評伝を書くために、エリザベスとともに香港・中国渡航。カトマンズで書こうとしたが手配していた家の環境がひどく、デリーに移って書き始める

86年、『ソングライン』の初稿をネパール国境の山岳地帯で完成

 

XXXVI.         医学上の一大事

86年夏、寝汗をかくようになり、喘息で苦しむ、皮膚に得体の知れない浮腫が出来る

『ソングライン』の草稿が完成。スイスで編集者と会って打ち合わせをするが、病院で検査しても原因不明の貧血と脱水症状がひどく、漸くHIV陽性の結果が出てイギリスに緊急移送されオックスフォードのチャーチル病院の救急病棟に収容

7881年に関係を持ったオーストラリア人が感染源と推定されたが、診療記録には78年ベナンで輪姦されたとある

当時エイズは世に知られてまだ5年ほど、臨床態勢はほんの緒に就いたばかり、患者の余命は35年とされていた

エイズという言葉は大嫌いだし、この不愉快なレッテルを貼られるのは耐え難い。ブルースはエイズを避けることに努めて生涯を送り、挙句の果てにこの病気で世を去ったばかりか、一般大衆が持て囃す悪名高い同性愛者、リベラーチェやロック・ハドソン、ロバート・メイプルソープと一緒くたに括られることになった

家族は勿論近い友人たちにもエイズのことを伏せ通した

エイズ患者によくある症状が出ないので、さらに精密検査をしたところ、マルネッフェイ型ペニシリウム症と特定、南アジアの竹藪に住むネズミに寄生する青カビの一種で、今でこそエイズを引き起こす病菌と知られているが、当時はタイと中国の農民以外に報告例がなかった。中国はブルースが何故か旅先に数えなかった国で、85年ネパールに向かう途中雲南省に立ち寄ったに過ぎないが、1泊した際「黒い卵」で体調を崩した記憶があった

「白人には例のない、骨髄を冒す極めて稀な菌」の発見にブルースは、短篇が1つ書けると狂喜。病菌は特異を珍重するブルースの感性を煽り、「医学上の一大事」と友人に書き送る

一旦小康状態になり、仕事も始めるが、状態は悪化し赤血球がほとんどなくなり、湿気たイギリスの冬を避けて南仏にアパートを借りる

 

XXXVII.       道化師

療養中に、サザビーズを辞した翌68年プラハ近郊に発掘調査に行った時のことを思い出して書いたのが『ウッツ男爵』で、蒐集熱に憑かれた寡黙な人物の物語、『ソングライン』に比べて短く軽快で、文章も引き締まって飾り気のある仕上がりとなった

 

XXXVIII.     宇宙的視野

87年、『ソングライン』刊行。同書はブルースの自己証明で、エリザベスに献げられている。出版にまつわる空騒ぎは真っ平といいながら、刊行当時ロンドンに滞在、インタビューなど14編に顔を出し、ベストセラー作家がどのように行動すべきかを心得ているかのように、積極的に広告塔を演じた。フィクションとして見ればチョーサーにも匹敵

トマス・クック紀行文学賞の候補に上がると、ブルースは談話を発表して、「あくまで架空の旅であり、一般の旅行記とは違うので、候補の取り下げを願う」

本書はブルースを、「一部少数の崇拝者が熱烈に支持するカルト作家から、広く人気を集めるベストセラー作家」に変え、文学界に地歩を築く

本書を「宇宙的視野」に立った本とする評価もあり、この地球に生きる我々は一体何者なのかを理解するためにオーストラリア人すべてに必読の書とまで言われた

他方で批判も強く、「フィクションの神髄を抉り出すまでの深みがない。ブルースは他人の頭と肩と手足を踏み台に世界的な名声を築いた」

同書はイギリスで、たちまちにして人気を博し、ジョナサン・ケープ出版は前払い印税2万ポンドを払い、初版を1万部印刷。ハードカバーの売上は20797部に達し、『サンデータイムズ』の人気投票1位に躍り出て、女王陛下の夏の読書に推薦された

「作家として生涯負い続けた重荷」を下したが、そのまま編集者任せにはせず、外国語版には手を入れる

 

XXXIX.         原因不明の熱

87年、新しい抗ウィルス剤の効果が表れて症状が改善、南仏で養生を続ける

88年、発症から20カ月にして、病院側がつとに疑惑を懐いた疾患が紛れもない事実だと認証。当時のイギリスにはエイズ持ちの著名人は極稀だったし、よしんばいたとしても米仏に比べて遥かに厳重な秘密の疾病とされていたため、ブルースも告白を公表して苦労を重ねて掴んだものを手放すには忍びなかった

彼の韜晦を是認する声も多いが、正面切ってエイズに対処しなかったことで散々批判を浴びる

『ソングライン』で一躍有名作家になったが、この本が至る所から未知の友人を招き寄せた。その中の1人がイギリス系南ア人の作曲家でケヴィン・ヴォランズ、アフリカを広く旅して草原の調べ、ズールー族の歌、レソトの渓谷にこだまする羊飼いの笛の音など、豊富な音楽で、全く新しい現代音楽を生み出す。ヴォランズがソングラインに曲をつけ、さらにオペラへと発展

新しい本を書き上げた、その題名は『ウッツ男爵』

『黒ヶ丘の上で』と『ウィダの総督』が映画化され、『ウッツ男爵』の前払い印税10万ポンドが入り、さらにブルース自選のエッセイ・短編集の題名を、ランボーがエチオピアの砂漠で自問した呟き『どうして僕はこんなところに』とすることに決める

病の進行につれて角が取れたことも周囲を驚かす。ものを見る目がそれまでになく穏やかになり、ささやかな快楽も素直に表現

菌が脳髄を冒して膿毒症を引き起こし、軽度だが、HIV感染の合併症である躁病に

エリザベスのためにコレクションを残そうと、見境なく買い増しに走る

患者が進んで薬物治療を受けたがらない場合は、精神衛生法により主治医が3日間の禁足を命じることが出来るとされ、ブルースの論理思考を司る部位が壊死して委縮していることを知り、父親はすぐに保護法廷に管財人選任を求め、リチウムを投与されて、主治医が患者拘束命令に署名、当面責任能力がないと判定された

ゴシップ新聞が嗅ぎつけて、大衆紙『トゥデイ』にエイズに冒された最初のイギリスの著名人とされ、何も本当のことを知らされていない両親は深く傷つく

9月には『ウッツ男爵』が発売、ハードカバーで『ソングライン』を抜いて21745部まで売り上げを伸ばし、ブッカー賞、ウィットブレッド賞の候補となる。同時にブッカー賞候補となった6作のうちの1つがラシュディの『悪魔の詩』だったが、両者とも賞を逸する

ブッカー賞の式典当日、病状悪化が報じられ、最後のマスコミ登場と決めたBBCテレビでの自作を語るインタビューで、視聴者はブルースの談話を聞きもせず、ひたすら鬼気迫る風貌に見入る。「残念だが、あの傑物が正気を失った」

 

XL.                   堕天使

痛みはなく、ただ衰弱が激しく、神経は麻痺状態。エイズ治療の経験があるという名医を訪ねてパリに行き、血清療法で持ち直す。パリはヨーロッパでどこよりもエイズに汚染された都会

小康状態になったことで、11月最後の旅行を試み、イギリスを出発し南仏のセイヤンへと向かう。やせ衰え、痛苦に歪んだ顔で身動きも不自由なまま車椅子に乗り、手真似で意思を伝えることもままならなかった

ブルースは手に負えない患者で、次々と医師を敵に回す。治療の一貫性を保持しようとする医師団の努力に水を差し、セイヤンには医師どころか看護師もいなかった。修道院の個室のような部屋に滞在、2度輸血のためにセイヤンを離れる。エイズは禁句で、最後までブルースはエイズを認めなかった

ヴォランズが、前の月にリンカーン・センターで初演した弦楽四重奏《ソングライン》の録音を聞かせる

2か月後エイズ・ホスピス入院の手筈を整えたところで昏睡状態に陥り、救急車でニースの病院へ、そのまま意識は戻らず。エリザベスもブルースに延命治療はしないと約束していた

 

XLI.                 チャトウィン効果

チャトウィンの逝去を、文学界の由々しき喪失と各紙は報じる

今では思索や生き方の模範とされて、ブルースは探求心旺盛で、崇高な精神は曇りを知らず、地球規模でものを考え、行くところ常に草は緑だった

ブルース人気は没後の本の売れ行きに反映。写真集や新たな短編集なども発刊されたが、「一部の作品は出版に堪える水準に達していなかった」としてそれらの動きを批判、「歯止めのきかない饒舌家で、とかく潤飾をこととし、せいぜい気取った文体と似非科学は未消化の誹りを免れない。求めてもいないところで、書くことの困難を言い立てる自己陶酔は見苦しい」とも言われている

ブルースが病気について偽りを述べたと取る感性は、その文学も虚偽ではないかという疑惑を招くが、空想と現実が溶け合うことを偽りとするイギリスの批評家筋の見方は、ものごとの色分けに拘らないヨーロッパ大陸では茶飲み話にもならなかった

没後10年を経るうちに、海外におけるブルースの人気はますます高まる。スーザン・ソンタグは、「過去30年のイギリス人作家で、繰り返し読むのはブルースだけ」と言い、文化人類学の分野でも反響を呼び、それまで不問に付されていた西欧の方法論、家父長的温情主義を修正に向かわせた

同時代の作家たちにも大きな影響を与え、「あの文章を耽読しなかったら、私の本は形をなさなかった」とか「ブルースの遺産は何はともあれあの型破りな冒険心だ」と言わせ、「現代小説は往々にして妙に躾が行き届いているが、ブルースの作品は凡そ躾けられていない」と言われた。国際体験と、未知との遭遇を間断なく希求する姿勢が人気の秘密ともいえる

死後1カ月してベイズウォーターのギリシャ正教セント・ソフィア大聖堂で追悼ミサ。亡くなる直前にアトス山で洗礼を受けて入信するつもりだったが、病気の進行が速かったので実現しなかったにもかかわらず、個人の遺志を尊重してミサを執行。聖歌を聞きながらラシュディはBBCの記者から、アヤトラ・ホメイニ氏が死刑を宣告したことを聞き、自由市民として人前に顔を出す最後となった

 

結び

17世紀の飾り棚は、アントワープのさる商人が誂えたもので、建築家で現場の棟梁でもあったブルースの曽祖父ジュリアスがこれを買い、ブルースの母が使っていたが、ブルースの死から6年後に没すると、ブルースと同じで過去の遺物には関心のないチャールズは親類に売却し、貧困家庭を援助する慈善事業の基金に充当

チャールズも心臓発作で直後に亡くなるが、弁護士としての最後の仕事は、エリザベスの要望を容れて「チャトウィン・ファミリー財団」の発足

サザビーズは89年の競売でブルースの種々雑多な原稿700ページを売り立てたが、廃棄処分を依頼された隣人が競売に付したもの。ブルースにとって何より許せないのは、未発表の雑文から人が何かを読み取ることだったので、エリザベスが落札し、隣人はその金でヴァイオリンを買った

メイプルソープほかの男友達が90年代前半相次いで死去したが、何れも死因はエイズ

『パタゴニア』はアルゼンチンのウェールズ人社会を活性化。新開地が拓け、95年の英皇太子妃ダイアナの立ち寄りは現地の自慢の種であり、1月中週2度ウェールズ人の聖歌隊が演奏を聴かせるが、それを目当てにキューナード海運の船で多くのアメリカ人観光客が訪れる。98年かつてパタゴニア領事としてフランスに駐在したラスパイユが武装集団を率いてパタゴニア王の名において、イギリス海峡の小島1つを侵略

ブルースのリュックサックは、死の直前まで親しくしていた映画監督のヴェルナー・ヘルツォークに遺贈。98年ヘルツォークは27年前のペルーでの飛行機墜落事故で唯一の生存者を説得して墜落現場を探索、遺品の数々をそのリュックに詰め、当時発見されるまでの10日間のアマゾン流域の密林での孤独な夜の森を語る娘を撮ったフィルムを持ち帰る

98年、ブルースの作品のペーパーバック版はイギリスで100万部を超えた。27か国で翻訳され、売れ行きは生涯の収入を上回った

「人類最初の火の使用」をネイチャーに発表したボブ・ブレインは、動物の補食の研究を続け、現在、ナミビアで550百万年前の顕微鏡的な化石を発掘している。「人類は線香花火だ。化石に痕跡すら残さない」

 

 

訳者後記

当代イギリスの文芸界に健筆をもって鳴るニコラス・シェイクスピアが、亡友チャトウィンの生涯を回顧した本書は1999年、ランダムハウス傘下のハーヴィル・プレスから発表されると同時に広範な読者の支持を得て、今や伝記の決定版という評価が固まっている

有能な美術鑑定家で、考古学にも通じる紀行作家チャトウィンの夭逝を惜しむ声はなおもって頻り

著者に懐旧の感傷はなく、色彩に富む多面体ともいうべきチャトウィンの素顔を浮き彫りにする狙いは図に当たって、読者は本書で類稀な異才と間近に向かい合える

ブルースは、常に居所を定めず、関心の赴くままにどこへでも行く奔放な行動で知られ、人一倍好奇心が旺盛だったせいもあろうが、傍目には何かに憑かれたように先を急いでいるとも見えた

著者は、畏友を偲ぶ心とは別に、生前の知己から聞き込みを重ね、膨大な資料を博捜して現身のチャトウィンをこの世に呼び返した

チャトウィンは図抜けて間口が広く、懐が深かったから、ちょっと身に脈絡を欠く印象を与えることもままあった。これまで会った中で最高の人と手放しで褒める贔屓もいれば、

歯止めの利かない饒舌で、気取った文体は未消化と切り捨てる向きもある

 

 

解説              池澤夏樹

文芸作品は、結局は書いた人の自己表現、それなくしては傑出した作品にはなり得ない

イギリス人はとりわけ伝記という分野が好きな人々で、イギリスの名のある作家はたいてい死後に伝記を書いてもらえる。ジョン・ル・カレのように生きているうちに伝記が刊行される例もある。著名な作家が亡くなると、友人たちが集まって誰が伝記を書くか決める。一旦決まれば縁者や友人・知人はみな執筆に協力する

チャトウィンの伝記は、他の誰の伝記以上に耽読を誘う。とんでもない男で、早逝だがこんなに濃厚で波乱に富んだ人生は滅多にあるものではない

ともかく派手。18歳でサザビーズに入社してたちまちのうちに美術品に関する知識と鑑識眼を身につけ大成功するが、業界の腐敗した空気をうんざりして辞め、エディンバラ大学で考古学を学ぶが、これも学界のよどんだ空気を嫌って辞め、『サンデータイムズ』紙でジャーナリストになって成功を収める。インタビューの達人で、これが天職と言ってもよかったが、3年で飽きた

その間ずっと取り組んできたのが『遊牧民という選択』を書き上げることだったが、結局は未完に終わる。この不毛の努力の成果は、『パタゴニア』と『ソングライン』に生かされたと言えるが、それはまた別の話

書くという行為は頭の中にあるものを紙に写すことではなく、頭脳とタイプライターの間の対話・議論であり、ものごとを深く考えるための手段の1つ。イェイツは「他人と口論してレトリックを作り、自分と口論して詩を作る」と言ったが、詩でも散文でも創作の原理は変わらない

チャトウィンの場合、自分が何を書きたいか、まるでわかっていなかった。それを探索する過程はそのまま彼自身と作品の主題・形式との格闘。普通の文筆家が1冊の本を書こうとする場合、先ずはざっと目標を定め、自分の知識を整理し、先達の書物を参考に展開を予想し、必要ならばフィールドワークやインタビューを実行して、執筆にとりかかる。チャトウィンは延々と目的地を探した。非力なまま荒野のクエストを続け、悪戦苦闘の成果として全く新しいスタイルを編み出した。主要4作のうち、『黒ヶ丘の上で』と『ウッツ男爵』は通常の小説の域を大きく外れてはいないが、『パタゴニア』と『ソングライン』は断章を束ねて1巻にしたようなもので、ざっと読んだだけでは全容がつかめない

チャトウィンは紀行作家(トラヴェローグ)、移動という過程を経なければ得られないものを求めて移動し、その地に行っての観察をただ文章化するのではなく、それを素材に何か形にならない思想を強引に構築する

イギリス人はよく国を出る。「大英帝国はイギリスを離れたがっている人々で成り立つ」といわれる。冒険という手法で国を出る者もイギリスには多く、世界は知り尽くされた

今はもう探検や地理的な冒険の時代ではない。チャトウィンの本では、少なくとも冒険を主題にはしない

本書を読んで、何と目まぐるしい人生だっただろうと嘆息する。移動に次ぐ移動、交際範囲が広い分だけ友人が多く、そういう友人たちの家に転がり込んで居候として暮らす間に原稿を書く。住む場所と同じように付き合う相手も次々に変わる。1人の男としてブルースは恐ろしくチャーミングで、恐ろしく我儘。人々は彼に魅惑されて近寄り、さんざ翻弄される。彼の方に他人を弄ぶつもりはないが、衝動のままに振る舞うから結果はそうなる

そんなわけで、チャトウィンについては人柄も作品も毀誉褒貶がはっきり分かれる。著者はそれを丹念に拾い上げたうえで客観的に扱う

彼の足跡を辿るような旅をしてみて、彼が紀行作家と言われて反発した理由がよく分かった。彼の関心は常に人間でありその生の痕跡

彼が偉大な理由は、新しい文学のスタイルを創出したところにある。書いたものは紀行文学に入るだろうが、最終的に『ソングライン』に至るまでの経路はそれだけで敬服に値する。『ソングラインの執筆は、「20年来、頭の中に渦巻いているこもごものことに筋道を立てる試みだ」と本人が言っていることに深く納得

 

 

(書評)『ブルース・チャトウィン』 ニコラス・シェイクスピア〈著〉

2020.10.31. 朝日

 いびつな気品生んだ饒舌と才気

 軽い。四六判で900ページ近い大冊なのに、手にすると意外なほど軽い。その意表をつく量塊感と軽みとが、本書の描く作家の生涯によく見合う。

 ブルース・チャトウィンは1970年代から80年代を「彗星(すいせい)のように」という決まり文句さながらに駆け抜けた英国作家である。

 小説家としては寡作短命で、生前は世界を渉猟する紀行作家と呼ばれたが、48歳で亡くなった後に真価が認められ、いまではデビュー作『パタゴニア』から没後に刊行された『どうして僕はこんなところに』まで、ほとんどの作品が邦訳もされている。その繊細さと剛直さ、空想癖、そして奇想と端正、放縦と高潔が同居する作風は、ある種のいびつな気品で読者を魅了してやまないのである。

 本書は40年生まれのチャトウィンのひとまわり以上年下の友人による伝記だが、4代前の先祖までたどった取材の厚みを通して、稀有(けう)な個性の長からぬ生涯が、どこか果てしなく茫漠(ぼうばく)たるものに見えてくる。

 「人間は絶滅を逃れるために語る」と手帳に記した作家は華やかな饒舌(じょうぜつ)とあふれる才気で人々を魅了し、S・ソンタグをして「女性も男性も、みなあれで参ってしまう」といわしめた。その一方、「偽善者で、気障(きざ)で、うるさ型でありながら」「自分をさらけ出して人に尽くす心遣い」を指摘した知人もいたという。

 実のところその博識は独学と聞きかじりの半ばするもので、青年期に有能を認められたオークション会社サザビーズの美術鑑定士としての眼力も、学識というよりは直観と集中力のたまものだったらしい。

 とすればこうした人物は、サギ師でなければ物語作者になるほかない。そしてその作品ばかりは単なるほらとは違う、誰をも歓迎する献身の産物だったと著者はいう。「透明で夾雑物(きょうざつぶつ)がなく、嘘(うそ)のように清澄な作品を書きながら、チャトウィンの実像は計算ずくの不透明」だったのだ、と。

 評・生井英考(立教大学アメリカ研究所所員)

    *

 『ブルース・チャトウィン』 ニコラス・シェイクスピア〈著〉 池央耿(ひろあき)訳 KADOKAWA 4950円

    *

 Nicholas Shakespeare 57年生まれ。作家。著書に映画化もされた『テロリストのダンス』など。

 

 

ブルース・チャトウィン ニコラス・シェイクスピア著

自己探求の形式としての「旅」

日本経済新聞 朝刊 20201031 2:00 [有料会員限定記事]

自己探求のもっとも奔放で外向的な形式が「旅」になるとすれば、作家ブルース・チャトウィンは真正なる旅人だった。彼が書き遺した文章は、小説であれ、紀行文であれ、日記やノートの断片であれ、すべて旅をつうじた苛烈な自己探求の証言だったといえるだろう。

本書は、そんな旅人チャトウィンの伝記である。900ページにせまる本書の迫力、生き生きとした細部の描写、出来事や登場人物の多彩さには眩暈(めまい)がする。編年的な記述に固執せず、時と場所が反響しあうように描かれた文章は、主人公の放浪と彷徨(さまよ)いの軌跡をそのまま映し出していて陶酔を誘う。

真の自己探求とは何か。それは自分が何者であるかを知るだけでなく、何者でないのか、そして自分のなかに潜む得体の知れない他人を見出すことでもある。チャトウィンの「旅」は、そして彼にとって「書く」ことは、自己を鏡に映すことではなく、見知らぬ顔と対面することの連続だった。

48年の短い生涯を彩る具体的な旅、その瞠目(どうもく)すべき人生の旅程。ロンドンでの美術鑑定家の仕事をなげうって放浪したパタゴニア。雪男の足跡を探し求めたヒマラヤ。冒険家ロバート・バイロンの傑作『オクシアーナへの道』に導かれてのアフガニスタンの荒野への旅。人類学者ストレーローの名著『中央オーストラリアの歌』に促されたアボリジニの精神世界への旅。南アフリカでは火の使用という人類の起源をめぐる考古学的証拠を自分の目で確かめようと奮闘した。

チャトウィンの饒舌(じょうぜつ)と沈思、情熱と移り気。彼の「統一のとれた個性」の不在のなかから明滅する一点の、ゆるぎない夢がある。遊牧民への夢。ノマディズム(さすらい)を、生きることの永久運動へと高めようとする意思。

彼は主著『ソングライン』で書いていた。人類の身体は、脳細胞から爪先まで、イバラの薮や砂漠を移動する生活に適合するように自然淘汰されて出来上がったのだ、と。であれば砂漠こそ人類の故郷だ。そして過酷な砂漠での何も持たない生が人間にとってもっとも純粋で自然な状態であるならば、定住も所有も家も快適な寝場所も、牢獄(ろうごく)にほかならない。

そこまで考え、遊牧民へと帰ろうとしたチャトウィン。彼は未踏の旅をした。先人は誰もいない。《評》文化人類学者 今福 龍太

原題=BRUCE CHATWIN(池央耿訳、KADOKAWA4500円)

著者は英国の作家。著書の『テロリストのダンス』は映画化もされている。

 

 

 

 

Wikipedia

ブルース・チャトウィン(Bruce Charles Chatwin, 1940513 - 1989118)はイギリス作家シェフィールド生まれ。サザビーズに勤めたのち、エジンバラ大学で考古学を学び、新聞社の特派員をへて作家活動に入る。南米西アフリカオーストラリアプラハなど世界各地を舞台に小説を発表。第1作『パタゴニア』はイギリスのホーソンデン賞EM・フォースター米国芸術文学アカデミー賞などを受賞、ニューヨーク・タイムズ・ブックレヴュー最優秀書籍に選ばれる。

l  主な著作[編集]

l  長篇[編集]

In Patagonia (1977) 邦訳『パタゴニア』 芹沢高志芹沢真理子訳、めるくまーる1990邦訳 新装版『パタゴニア』 芹沢真理子訳、めるくまーる1998

The Viceroy of Ouidah (1980) 邦訳『ウィダの総督』 芹沢高志・芹沢真理子訳、めるくまーる、1989邦訳『ウイダーの副王』 旦敬介訳、みすず書房 2015

On The Black Hill (1980) 邦訳『黒ヶ丘の上で』 栩木伸明訳、みすず書房(2014

Patagonia Revisited 1986) 邦訳『パタゴニアふたたび』ポール・セルーとの共著 池田栄一 白水社 (1993年)

The Songlines (1987) 邦訳『ソングライン』 芹沢真理子訳、めるくまーる、1994邦訳『ソングライン』 北田絵里子訳、石川直樹 解説、英治出版2009

Utz (1988) 邦訳『ウッツ男爵』 池内紀訳、文藝春秋1993

l  短篇集[編集]

What Am I Doing Here? (1989) 邦訳『どうして僕はこんなところに』 池央耿神保睦訳、角川書店1999

l  映像化作品[編集]

Cobra Verde 1987)『コブラ・ヴェルデ』ヴェルナー・ヘルツォーク監督, The Viceroy of Ouidahを原作とした映画

Utz 1994)『マイセン幻影』ジョルジュ・シュルイツァー監督, Utzを原作とした映画

 

 

 

今福龍太が読む 13

ブルース・チャトウィン『どうして僕はこんなところに』(角川書店)


 書くことは自分を鏡に映すことではなく、見知らぬ顔と対面することである・・・。ブルース・チャトウィンの紀行エッセイや小説を読んでいると、ある詩人のこんな箴言がいつも脳裏をかすめる。家族について書くとき、友人について語るとき、あるいは、ささやかで通りすがりの出逢いについて書きとめるときでも、チャトウィンのペンの運びはどこか、「自己表現」というような肩ひじ張った作業を志向しているというよりは、「見知らぬ顔」の出現に驚き、不意なる他者との対峙におののきながら、そうした経験の凝縮された一回性にかぎりなく魅せられている、といった趣を呈している。書くこととは、彼自身を投影する鏡を入念に仕上げてゆくことではなく、自己の周囲と自己の内部とに、無数の見知らぬ顔を出現させてゆく行為であることを、彼は誰よりもよく知り、そのことを生涯をかけて実践したのである。

 チャトウィンの場合、さらにこの「書くこと」は「旅すること」とほとんど同義でもあった。彼にとってはだから、旅は異文化との接触によって自己像を更新させ、自らの居場所を新たに教えてくれる啓蒙的で教育的な場ではおよそなかった。「書くこと」が絶対的な他者との遭遇であるように、また「旅すること」もただひたすら、未知の場所と未知の顔と未知の身体とを呆然と立ち尽くしながらまのあたりにすることだった。場所や人間のなかにひそむ不可思議な魂の実践を目撃し、それに打たれ、旅行者の月並みな期待を裏切られ、そののちに旅行者の遠心的な夢をかきたてられる・・・。そうであるとすれば、旅における自己の剥離は、チャトウィンにとっては自己崩壊でも悲劇でもなく、自己が帰属していると思っていた現実から引き離されてゆくことによってしか自分が生きのびる術はないのだ、という彼の哲学と世界ヴィジョンの証でもあったことになる。

 本書『どうして僕はこんなところに』は、断章・物語・人物素描・旅行日誌を収め、チャトウィンの死の年(1989)に出版された48歳の作家の遺著である。旅の途上で拾ったらしき骨髄を冒す奇病に肉体をさいなまれ、すでに死期を覚悟したチャトウィンが、自ら編集し、表題をつけ、前書きをしたためた文字通りの遺作である。旅する人であり、書く人でもあった一人の人間が、旅しうる生身の肉体を奪われかけ、なおも最後に何事かを書きつけようとしたとき、その書物は、そこに旅の記述がいかに豊穰に描かれていようとも、最終的には「自叙伝」となる。自らの鏡を作成することを拒み続けたチャトウィンの、ひび割れ、砕けかけた鏡の断片の集積が、一つの逆説としてここにある。そのことが私を強く打つ。

 「書くこと」に憑かれ、その熱をかかえたままサザビーズの美術鑑定士の仕事を突然やめて南米パタゴニアへの放浪へと出奔してしまった一人のイギリス人の若者が、その後20年の歳月をかけていったいどこにたどりついたのか。本書が指し示すのは、南米の荒野にはじまり、中央アジア、ロシア、アフリカ、ネパール、そして灼熱の赤い大地オーストラリアと流転した身体が最後に行き着いた現実の場所(プレイス)にかんする悲痛な事実であるとともに、旅を書き続けた魂が遍歴の後に最後に夢想しかけた精神の場所(トポス)のことでもあった。

 チャトウィンは死期にのぞんで編まれた本書で、彼が人生の涯てに行き着いた終なる場所についてはじめて語っているように思われる。無論、言外に。それは「書くこと」と「旅すること」の帰結が、宇宙全体として彼に迫ってくるような臨界の地点で見いだされた、安住しえない、しかし安息の場である。さらなる旅を歩き続ける可能性を断たれた者が、書物を書き残すことを通じて指し示そうとした「ここ」という現在の場所の凝縮された強度についてである。それを、きわめて即物的に「死」と呼んでしまうことはたやすいが、それだけでは、チャトウィンの哲学としてのノマディズム(遊牧的な移動原理)を、人生という道程がもつ不可避の宿命へといたずらに回収して終わることになる。死は彼にとって終わりの記号ではなく、すでに自らの死を人生の終わりとして生きる定住的な原理から離れて流転する魂の充満が発見した、悲痛であると同時に輝ける「現在地」なのであった。死にいたる病という見知らぬ他人の顔の突如の出現にたじろぎながらも、旅の涯てでチャトウィンが見ていたのは、この現在地にたどりついた自分自身への不思議に透明な確信であった。

 その事実を本書が伝ええているとすれば、本書の表題"What Am I Doing Here"は、原題通り正しく「僕はここでいったい何をしているのか」と訳されねばならない。チャトウィンにとって、旅も書くことも、「どうしてここにいるのか」という理由や来歴の探求ではなく、「何をしているのか」という現在の行動への執着によってつねに駆動力を与えられていたからである。

 

 

 

この人にしか書けない旅がある ブルース・チャトウィン「パタゴニア」

ブルース・チャトウィンの「パタゴニア」を10年ぶりくらい(?)に再読しました。 う~ん、やっぱりすごい。 この本の何がすごいのか、言い表すのはとてもむずかしい。 「こんなところが魅力です」と簡単にくくれない、重層的な内容と文章表現なので、感想を書くのがとてもむずかしい本です。 削ぎおとした文章は非常に男っぽくて、でもヘミングウェイみたいにマッチョじゃなくてもっと繊細で。

さらさらと読めるものではないので万人向きの本ではありませんが、紀行文学としてのひとつの到達点をみせる、屹立した秀作だと思います。 ほかの何ものとも似ていない、チャトウィンでなくては書けない世界が活字となって凝縮されています。

紀行文というと、たいていは単なる「個人の旅の記録」なのですが、チャトウィンにかかると個人的な思い入れや感慨は背景の中に淡く消えてしまい、パタゴニアという地の果ての世界そのものが物語のように立ち上がってきます。 ありとあらゆる事情からパタゴニアに流れ着いたさまざまな人たちに出会い、荒野に悪漢たちの足跡を探し、ひたすら歩き続ける旅。 時系列ではなく詳細な記録でもなく、深い教養と洞察力からチャトウィンの思索は思いも寄らない方向へ飛び文章そのものが、さまよい歩く感じを伝えてくるような。 人物名が出ても知識がないので、その背景がちゃんとわからないこともたびたびありました。 手放しで「すてき!」「大好き!」とはいえないのですが。 読後に残るのは、パタゴニアの荒涼とした風景、パタゴニアの荒れ地を吹きわたる風の音(そんな表現はほとんどないのに)、地の果てにまで至った寂寥感、心のおもむくままに歩き、見尽くしたという一種の達成感。 

この本を手にとった頃は、紀行文についての新たな可能性を自分なりに考えていたときだったのですが、あまりにもスゴイものを読んでしまって意気消沈。 自分と比べること自体がバカなんですけどね、まだ当時は若かったもので(笑)。 再読したら、その苦い記憶も掘り起こされてチャトウィンについて語ることはとてもむずかしい。

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