はじめての渋沢栄一 渋沢研究会 2020.9.27.
2020.9.27. はじめての渋沢栄一 探求の道しるべ
編者 渋沢研究会 1989年、渋沢資料館を訪れた研究者と資料館の研究員・学芸員が中心となって発足。渋沢栄一が、91年に亘るその生涯において行った幅広い活動と渋沢が取り組んだ関連分野の実証的研究や現状分析などを、多方面から研究することを目的にしている。研究会紀要『渋沢研究』を編集し、定期的に研究会・例会やシンポジウムを開催
発行日 2020.5.30. 初版第1刷発行
発行所 ミネルヴァ書房
序章 本書の刊行意義 島田昌和(1961年東京都生まれ。93年明大大学院経営学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(経営学)。文京学院大教授。文京学園理事長。渋沢研究会代表)
歴史のメインストリームを歩き、自らが時代を変えた中心人物ではないが、重要な脇役として政治・経済・教育・外交・福祉・思想といった、驚くほど多くの場面に頻繁に登場
自分の興味関心に従って、この人物への興味を深めるための本であり、大学生がゼミ等で経済史や近代史を学ぶときに自分たちでこの人物のどこから調べるかを決めるための学習ガイドでもあり、更に自ら学ぶ姿勢、主体的な学び、思考力を養う教育への変革が叫ばれているので、小中高の学校現場で、日本中の色々な場所で何等か結びつきを見つけることが出来る渋沢を身近な題材として取り上げてもらうためのガイドとしても使うことも出来る
1840年深谷の生まれ。元々譜代系の領主が飛び飛びの細分化された領地の1つとして支配した地で、稲作りに適さない土地。父市郎左衛門が藍染めの原料が土地に適することを発見、近郷農家に広め、出来た製品を在地の紺屋に売り込むという才覚に長け、教育熱心だったこともあり、農村とは思えないほどの高い教養を授けてもらうことが出来た
渋沢は、水戸の儒者について勉強したり、剣術を千葉道場で学んだこともあり、世の中の最新の動きをよくキャッチしていたため、無駄死にした草奔の志士と違い、農民にも拘らず、京都に逃げ一橋慶喜の家来になって、その財政を担い出世街道を進む
洋行から戻って、旧幕臣が移住した静岡藩で半官半民の商社のような組織を他事例が軒並み失敗するなかで唯一成功させ、新政府の目に留まり、以降経済官僚の第1号として日本の新しい国作りの実務の中心を歩く
30代前半の渋沢はかなり強引な行動で相手をねじ伏せていくタイプ。近代的な紙幣制度導入のための一連の行動は、政治権力を背景にして強要する、決して褒められないやり方だった。政府に金がないため、財力ある三井組と小野組を頼みとし、一緒に組むことを嫌がる両組に「政府御用」を取り上げると脅しかけて紙幣発行を担う第一国立銀行への出資と参加を取り付けだけに留まらず、建築中の擬西洋風の新生・三井のシンボルの日本橋兜町の洋館を第一国立銀行の本店とするため取り上げてしまう
ビジネス界に転じてやり方が大分スマートに変わる。中上川彦次郎が三井の総帥になると、露骨に三井と渋沢の切り離しにかかるが、渋沢は同じ三井の益田孝とのパイプを太くし、渋沢の企てに益田を誘い込み、お互いに重要なビジネスパートナーとしていく。早い段階で中上川は失脚し、渋沢の読みが当たる
500もの会社の設立・運営・相談・出資に関わり、600もの福祉・教育・学術・思想等の団体の設立・運営に関わり続けた。数え70で一部の例外を除き産業界の役職を引退、77歳で完全に産業界から身を引き、その後92歳で亡くなるまで、社会公共事業に尽力。経済道徳や経営倫理の普及、実業教育、私立学校、女子教育の地位向上と支援、貧困者の救済、労使関係の改善、災害支援など多岐にわたる。芸事や芸術支援といった穏やかな活動とは明らかに一線を引いて、死ぬまで社会の矛盾や軋轢を直視して行動し続けた「巨人」
本書の構成
第I部は、一般の読者が渋沢に興味を持った時に役立つことをイメージ。歴史好き、現場から学ぼうというアプローチ、ビジネスの実社会で役立つことを学ぶスタンス
第1章は、フィクションとして描かれた渋沢についてのガイド
第2章と3章は、実際に渋沢が活躍した場所を訪ねて歩くためのガイド
第4章は、「渋沢論語」を取り上げ、時代を超えた普遍性に迫る
第5章は、渋沢の『自伝』を題材に賢い利用の仕方を示す
第6章は、後継者にスポットを当て、バトンを受け継いだ孫の学者・敬三が栄一の偉業を後世に残すために腐心し続けた軌跡を辿ることで、栄一が何をしたかったのかを紹介
第II部は、主として大学生などを対象に、渋沢研究の道標を紹介
第7章と8章は、経済史や経営史の領域での渋沢の取り扱い方を紹介
第9章は、政治史や外交史、国際関係史の分野での足跡を辿るためのヒント
第10章は、福祉や医療分野での足跡を辿るためのヒント
第11章と12章は、大学院レベルで学ぶ学生が渋沢を題材に論文を書きたいとき、残された未知の研究テーマ例を紹介。渋沢研究会メンバーの30年に及ぶ蓄積から抽出
第III部は、教育現場で渋沢栄一という人物を児童や生徒の主体的な学びに活かしてもらうためのヒント集
第13章は、新しい学習指導要領で重要視されている小学校の道徳での活用のためのヒント
第14章は、中高現場で国際的な視点を取り入れて日本と世界の繋がりを考えるような社会科教育の場面での活かし方を紹介
第15章は、深谷市が郷土の偉人をどのように学校教育の中で位置付け、活用しているかを紹介
第I部
一般読者のための渋沢栄一ガイド 解説・島田昌和
日本の近代史で多岐にわたり登場する渋沢栄一の実像、背景、人となりを理解する一助
生涯の全容を把握することは簡単ではなく、100人100様の描き方がある
常盤橋公園に立つ銅像は、33年朝倉文夫制作、戦時中の金属供出で撤去され、55年再建
第1章
歴史小説・ノンフィクション作品での描かれ方 中村宗悦(1961年大阪府生まれ。94年早大大学院経済学研究科博士課程単位取得満期退学。大東文化大経済学部教授)
1.
歴史小説のなかの渋沢栄一(1970年代以前)
発展途上から第2位の経済大国になるまでの時期を取り上げ、多くの作品は実業界で活躍し始めるころまでの若かりし姿と同時代の日本が重ね合わされて描かれる
大佛次郎作『激流』(日本経済新聞130回連載、51年)が最初
2.
歴史小説のなかの渋沢栄一(1980年代以降)
1980年代以降の作品を取り上げ、90年代以降になって、バブル崩壊とともに日本経済が失敗と挫折を味わう時代背景の下、企業倫理の重要性を説いた側面が強調される
荒俣宏『帝都物語』(1985~87)に主要登場人物として描かれる
童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』(経済界、91年)
3.
渋沢を主人公としたノンフィクション作品を取り上げ
渋沢の思想を現代的な解釈から紹介する「啓蒙書」 ⇒ 『論語と算盤』『雨夜譚』
渋沢の新たな側面を描き出そうとする作品 ⇒ 山本七平『近代の創造――渋沢栄一の思想と行動』(09年)
第2章
ゆかりの地を訪ねる――深川・兜町・王子 鮫島員義(1946年東京都生まれ。72年慶応大法卒。新ハイキング社社長。渋沢栄一の曾孫、正雄の孫)
1875年高級官僚を退官して、今後の日本の発展のためには民間企業家こそが自らの歩むべき道であるとの進路を定め、それまでの借家住まいから、深川福住町に邸宅を購入、その後兜町、王子と転居
1.
深川(福住町)――水運と物流の中心に 1876~
購入したのは旧近江屋喜左衛門宅は大島川に面しており、自家の船着き場で荷の上げ下ろしが出来る米問屋で、1万坪の米倉庫があった
深川は家康が入府の頃葦の原が広がる沼地、明治年間になっても水路が縦横に走り、水運を中心に物流が盛んで、水の都ともいえる地域。色町も点在、木場も近い
新進気鋭の渋沢が家を構えた近隣には、企業経営で意見を異にし激しくやり合った岩崎弥太郎の昔の別荘、清澄公園がある
欧州から帰国後、2,3年ごとに静岡、神田、兜町と引っ越しをしたが、36歳になって初めて購入したのが福住町の家。2女1男と共に落ち着いた生活を始めた家
長女・歌子は82年法学者・穂積陳重に嫁ぎ、別棟で暮らし、次女・琴子も大蔵官僚・阪谷芳郎に嫁ぐ。下町一帯は水はけが悪く、大雨などによりしばしば洪水が発生し、衛生面で問題を起こしたため、妻・千代の健康を心配し、当時東京の郊外だった飛鳥山に別荘を購入して静養させたが、コレラに罹患して82年死去。幼少の長男・篤ニは歌子夫婦に育てられた。家に隣接して広大な倉庫を作り、澁澤倉庫として篤ニに社長見習いをさせるが、事業欲はわかず
この邸は、83年再婚した兼子の実家(江戸末期には大富豪の1人だった深川・油堀の伊勢八)が、為替取引の失敗で没落した時に手放した屋敷だった
2.
兜町――新たな金融の中心街に 1888年~
江戸橋近くの兜神社の隣、運河沿いに立地、支援もし続けた清水組(現・清水建設)手による瀟洒な洋風建築は東京名所の1つ
自宅内に渋沢事務所を併設、第一国立銀行と半々で仕事をこなしていた。飛鳥山へ転居後も事務所が残り、関東大震災まで使用。震災後は東京株式取引所が日証館を建て、中小証券のための貸しビルとなる
3.
王子(飛鳥山)――工業と鉄道を眼下に 1901年~
8470坪の敷地は飛鳥山の1/3を占めた。国の重要文化財として現存する晩香盧馬田と青淵文庫以外は戦災で焼失。自ら起業した抄紙会社(現・王子製紙)が一望できる職住隣接の地として購入、当初は別荘「瞹依村荘」を建てて、79年グラント元大統領来日に際しては接待にも使用
一生における最大の失敗だった嫡男・篤ニの教育に対する反省から、後妻の3人の男子には中学時代から厳しい環境に置く。嫡男・篤ニは12年に廃嫡後42年死去、享年58。96年誕生の3男・正雄の長男・敬三が16歳の時栄一に懇願され、不本意ながら後を継ぎ、栄一の死後同族会のトップと、財界取り纏め役を引き継ぐ
4.
墓所(谷中)と銅像
第3章
渋沢栄一から見える近代化遺産 松浦利陸(1957年群馬県生まれ。06年総合研究大学院大文化科学研究科後期博士課程修了。博士(文学)。群馬県立女子大群馬学センター教授)
1990~16年、文化庁旧建造物課が全国38千の遺産を対象に行った「近代化遺産総合調査」により指定されたが、同庁新設の「文化財登録制度」対象の2万件余の物件の相当数が重複、重要物件については、最後には渋沢栄一に出くわすという
l 幕末~1873年 明治政府では最初期の富国強兵政策の実施プランナーとして、種々の近代化施策を発案・実行
l 1873(下野)~1916年(経済界引退) 経済人として全国的に活躍、「経済総理大臣」
l 1916~1931年(死去) 社会事業と国際親善に尽力。大工や建築家を重用
1.
富岡製糸場――設置主任の命を受けて
1870年、大蔵省租税正の渋沢は、官営富岡製糸場設置主任を拝命。実家での養蚕の経験が活きる。民部省にいた従兄弟の尾高惇忠を日本側責任者として建設を進め、2年後に完成・操業開始。93年三井家に払い下げ、横浜の生糸輸出業者の原合名へ売却、さらに片倉製糸に転売。04年国史跡指定をきっかけに富岡市が買収。仏人設計、和洋折衷の「木骨煉瓦造」。1987年まで操業。14年[富岡製糸場と絹産業遺産群]の名称で世界遺産登録
2.
経済人としての渋沢栄一が関わった遺産
役職就任は178社。名義貸しが多かったが、共通するのは日本経済にとって必要な企業であり、公益性を持つ場合には惜しみなく協力するという基本姿勢
政府委員としても多くの国家的プロジェクトで指導的な役割を果たす
日本煉瓦製造 ⇒ 深谷市在。「ホフマン輪窯」(1907年完成の第6号窯)、「備前渠鉄橋」(1895年完成の引き込み線の鉄橋)は国重文指定。1968年まで操業。欧化政策の一環で、旧知の井上馨外相に懇請され引き受けるが、井上の辞任で窮地に追い込まれ紆余曲折
旧碓氷線 ⇒ 1893年完成の日本有数の急勾配(66.7%)の鉄道路線。麓の横川から中間の熊ノ平までの約6㎞が国の重要文化財。メガネ橋と呼ばれる総煉瓦造りの第三橋梁。橋1基を除きすべて煉瓦造りで、日本煉瓦が供給
猪苗代第一発電所 ⇒ 1883年設立の東京電燈に発起人として参加。大電力長距離輸送電の実現が飛躍のきっかけとなるが、その典型的事業が猪苗代発電所の建設で、建屋は辰野金吾が監修。鉄筋コンクリートに不信感を持つ辰野は鉄骨煉瓦造りを採用、14年完成
大成功により、渋沢のガス事業は照明の分野から一掃された
東京駅丸の内本屋 ⇒ 首都東京改造に関する審議会に民間委員として委嘱され、府知事の上野・新橋間を鉄道線路で結び中間に中央駅を造る案を出し、渋沢は鉄道による町の東西分断を避け、隅田川に国際港を設置して玄関口とすべきと主張したが、知事案にまとまり99年工事開始、日本煉瓦に大量の発注。中央駅舎設計は渋沢がパトロンの辰野で、辰野の最大の功績は鉄筋コンクリートから鉄骨煉瓦案に変更したこと。08年着工、14年竣工
日本銀行本店 ⇒ 旧館本館は1896年竣工。辰野金吾がベルギー中銀を模範にネオ・バロック様式にルネサンス的意匠を加味。1974年国重要文化財に指定
3.
建築パトロンとしての渋沢栄一と建築家たち
産業育成、近代化の中で、建築業の育成に努力し、特別な関係が生まれる
清水組と田辺淳吉 ⇒ 江戸の大工の2代目・清水喜助が築地ホテル館(1868年)で洋風大工として注目され、三井の依頼で建築したのが兜町の第一国立銀行(72年完成)。和洋折衷の開化建築と呼ばれ、周辺に渋沢が産婆役をした会社が軒を並べる。3代目・満之助の急逝後、その遺言で同社の相談役として後見を務めた辺りから関係が深化。その時の恩義を形にしたのが渋沢の喜寿祝に贈った晩香盧。その設計者が辰野の教え子で同社5代目技師長の田辺
辰野金吾 ⇒ コンドルに習い、その後任として工部大教授に就任した時期に、工部省の推薦で渋沢の知遇を得る。初期13作品のうち、民間8件、うち6件が渋沢関連
4.
居宅とゆかりの建築物
旧渋沢栄一邸(福住町) ⇒ 1878年清水喜助の建築で完成。関東大震災にも耐え、嫡男の居宅として三田に移築、戦後の富裕税で敬三が物納し、政府が三田会議所として使用、老朽化で取り壊しの話が持ち上がった際、渋沢の関係者が購入し、青森に移築、現在は清水建設により江東区内に復元作業中、21年一般公開予定
誠之堂 ⇒ 1916年に渋沢の喜寿を記念して、世田谷区瀬田の第一銀行の保養施設「清和園」内に建設、96年解体後、深谷市に復元移築、03年国の重要文化財指定。田辺淳吉設計
渋沢史料館(晩香盧) ⇒ 飛鳥山にある木造瓦葺平屋建ての小亭。バンガローの音に漢字を当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から名付けた。17年喜寿祝に清水満之助が贈る、田辺淳吉設計。05年国の重要文化財指定
渋沢史料館(青淵文庫) ⇒ 飛鳥山邸内にある。1925年渋沢の傘寿と子爵の叙位祝いに建てる。田辺の設計。鉄筋コンクリート煉瓦造り2階建て、建築途中に大震災に遭遇、完成が遅れた。05年国の重要文化財指定
第4章
論語とビジネス 大島久幸(1968年神奈川県生まれ。専修大大学院博士後期課程修了。博士(経営学)。高千穂大経営学部教授)
『論語と算盤』と呼ばれる渋沢の思想について、同時代的意義と普遍的意義を概観したうえで、渋沢の思想の今日的意義を考える
1.
「論語と算盤」(道徳経済合一説)とはどんな思想か ⇒ 道徳経済合一説
経済活動に伴う利潤とその担い手が堅持すべき道徳を調和させる必要性を強調
仁義道徳と生産殖利とは、元来ともに進むべきもの。孔子は不義により豊かになることを戒めたのであって、義にかなった利は君子の行いとして恥ずべきことではないと説く
道理の伴う富の追求と、公益を第一に考えること
人々の生活を豊かにする経済活動と仁義道徳は一体のものである
2.
「論語と算盤」の時代性
渋沢の思想には、賤商意識の払拭と商業道徳の向上という2つの問題への克服の意味がある。賤商意識の払拭は、国益のための経済活動を担うビジネスマンの社会的威信を高め有為の士が活躍したいと思うような環境つくりの上で極めて重要。一方で、退廃的ともいえる商人の意識向上の論理的基礎として、論語が繰り返し説かれた
商人はモラルの向上のみならず、広く社会全体の改善に努めるべきと考えた
商業道徳の向上を最も熱心に説いたのが、積極的支援を惜しまなかった実業教育機関の場で、中でも一橋大の基礎となった官立の東京高等商業学校の設立支援は有名
3.
「論語と算盤」の普遍性
渋沢の思想は、19~20世紀初頭の近代化に邁進する日本経済を生きる人々が必要とする経済思想を普及させる目的から説かれたものだが、今日の経済社会をも見通したものだった
人々の生活を豊かにすることこそが儒教的道徳の眼目だと考え、そのための経済活動は賤しくないどころか、道徳的に極めて重要だとする一方で、商業道徳に繋がる部分では、嘘をつかないことと自己利益を第一にしないことを最優先課題とした
利益の追求の発端となる経済人の動機こそが問題
今日求められている企業経営の考え方に非常に強い親和性を持つ ⇒ 企業の社会的責任
第5章
『雨夜譚(あまよがたり)』を読む 平井雄一郎(1963年東京都生まれ。00年東外大大学院地域文化研究科博士後期課程単位取得満期退学。渋沢研究会会員)
渋沢栄一の「自伝」群は、「自伝」とは何ぞやという問題を考え直すための手掛かりを豊かに蔵している
1.
前半生だけの『雨夜譚』は「日本資本主義の父」の「自伝」か?
官僚を退官するまでの物語。87年に福住町の自宅で、幼児より退官までの経歴を口述筆記したもので、とても生涯を描いたものとは言えない
2.
全生涯の原点としての『雨夜譚』
自伝的なものの刊行としては、死去に数年先立つ『青淵回顧録』(1927年、渋沢米寿記念刊行事業)や、没後翌年の『渋沢翁は語る――其生立ち』がある
3.
後半生を描けない「自伝」と「他伝」
まとまって自叙伝とでも名付け得るのは雨夜譚だけ
幸田露伴(39年)や大佛次郎(53年)などの「他伝」も、実質的には大蔵省退官までが中心
4.
「自伝」としてのオーラル・ヒストリーの豊かさ
1926~30年、「雨夜譚会談話筆記」という、渋沢を囲んで、その過去の体験について聞き語ってもらった会合の記録
40年近く前の『雨夜譚』の口述筆記に比べ、穂積陳重や敬三といった近親者による正確な聞き取りといえる
1907~13年、渋沢自身が会主を務めた「昔夢会」は、徳川慶喜に対するインタビューの会で、旧主・慶喜の名誉回復が目的ではあったが、仕えていた当時の自身の身の処し方についても正しく弁明する目的も潜ませていたのではないかと思われ、いわば「隠れ自伝」ともいえる
5.
「自伝」の思い込みも役に立つ
思い込みや記憶違いはよくある。名前を間違えて子孫から名誉棄損で訴えられたこともあった(若森氏の訴訟事件)
第6章
後継者としての渋沢敬三 川越仁恵(1967年新潟県生まれ。神奈川大大学院歴史民俗資料学研究科博士課程単位取得満期退学。文京学院大経営学部准教授)
後継者は孫の敬三。栄一の長男・篤ニと敦子の長男として1896年生まれ。栄一が一族の将来を考え設立した同族会の社長に、当時19歳の孫の敬三を指名し、渋沢宗家継承が決まる
幼少時から生物が好きだった敬三は、東京高師附属中では生物学者を志すが、仙台二高進学の際農科を志望したが、祖父の願いを受け入れ結局経済学部に進学。21年東京帝大経済学部卒業後横浜正金銀に入社しロンドン赴任、帰国後退社、26年第一銀行に取締役として入行、31年栄一死去後子爵を襲爵、44年日銀総裁、45~46年幣原内閣の蔵相、46年公職追放、自らが制定した財産税として自宅を物納、創立以来社長だった渋沢同族(株)も財閥解体指定により解散、51年追放解除後は国際電電社長など戦後日本の財界で大きな役割を果たす。学問から離れることもなく、25年にはアチック・ミューゼアムを設立
1.
柳田国男との出会い
敬三は卒論で問屋資本の支配を批判、発足したばかりの経済学部では動機が若手のマルクス学者として活躍、社会科学では同学部が前衛的存在で、敬三もマルクス経済学の研究に参加し、日本の資本家に対し批判的で反感さえ持っていた
ロンドン赴任中の23年、民族学者・柳田国男に会い、民俗学に関心を持ち、帰国後に民俗学研究の拠点としてアチック(屋根裏部屋の意)・ミューゼアムを設立。金融恐慌の最中に、財閥や有産階級に対する批判が激化するなか、「足半(あしなか)」というつま先から土踏まずまでしかない短い藁草履の収集を始め、日本の生活様式を民具から読み取るという民俗学の研究に没頭、敬三の寄付により建造された日本民俗学会付属研究所と付属博物館に引き継がれる
2.
民俗学をベースにした独自の経済史アプローチ
栄一の足跡と理念を伝えるための近世経済史博物館の建設を目論むが、戦時中とあって挫折、収集された史料は51年文部省史料館へ移管され、保存・研究・公開されている
3.
学問に見るその生き方
「失敗史」の必要性を説くとともに、目立たぬわき役への敬意。自らを産婆役と決め、「論文を書くより資料を学界に提供する」ことを本分として職業的研究者を降りる
4.
栄一の思想を継ぐ、敬三の思想を継ぐ
公職追放を機に、解除への運動はせず、念願の学問の道に没頭
追放解除とともに推されて財界の要職に就き、財界活動を再開
栄一の事績を後世に残そうと、渋沢同族会で伝記を編纂、『渋沢栄一伝記資料』として残す
国家という官とそれを支える民という、両者にとってバランスの良い目配りを敬三は目指し、その証左を残すことによって栄一には見えなかった部分を後世に残そうと考えたのではないか
第II部
大学生・外国人学生のための渋沢栄一ガイド 解説・恩田睦(1980年神奈川県生まれ。11年立教大大学院経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)。明大商学部専任准教授)
多くの学部・学科で渋沢栄一に関する講義が行われている
渋沢の思想や人物像を浮かび上がらせ、今後深められるべき論点やテーマについても紹介
第7章
産業発展の視点から 高橋周(1971年神奈川県生まれ。早大大学院経済学研究科単位取得退学。博士(経済学)。東京海洋大海洋政策文化部門准教授)
「日本資本主義の父」と呼ばれる所以は、「私有財産制を基盤とした資本主義システムを近代日本で整備し、その中での経済活動を実践して見せた中心人物」
渋沢の産業発展との関わりには2つの面があり、1つは産業発展が円滑に行われるための制度の整備であり、もう1つはその制度に基づいた事業がうまくいくことを実践して見せたこと
1.
役人時代の制度整備 ⇒ 度量衡の統一、太陽暦など
2.
産業発展の土壌づくり ⇒ 第一国立銀行、株式交換所、財界、教育機関(代表は一橋大)
3.
産業の近代化 ⇒ 製糸業、製紙業、綿紡績業
第8章
企業経営の視点から 杉山里枝(1977年群馬県生まれ。東大大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。國學院大経済学部教授)
企業者活動について論じ、企業経営の視点から見た渋沢栄一について考える
1.
渋沢栄一が関わった企業と企業経営の特徴
関与した会社178社を見ると、①新しく欧米の知識や技術を導入した業種、②近代経済のインフラ事業、③主要な役職者として関わるのは1業種1社、④業種でダブル場合は地域的に重複しない、などが共通して読み取れ、社会基盤的な産業に多く関わったことがわかる
2.
渋沢栄一の企業経営、その具体的事例
大阪紡績は、82年設立で大規模紡績の先駆、輸入品に対抗して設立され、渋沢は創業から09年まで相談役として直接経営陣を支える
三重紡績は、苦境に陥った86年、渋沢の支援で再建、05年の3社合併を経由して、14年には大阪紡績と合併して東洋紡績となるが、両者の相談役として奔走したのは渋沢
3.
企業家としての渋沢栄一の理念
合本主義 ⇒ 目的に賛同する人々から広く資金を集め、事業を実施するための組織を立ち上げ、人材を選んで経営に当たらせ、経済活動を通じて国家社会を豊かにさせる方法について示す。合本主義を実践し、開放的な経営を行う
道徳経済合一説 ⇒ 倫理と利益を両立
第9章
政治・外交の視点から 飯森明子(1957年大阪府生まれ。00年常磐大大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。早大アジア太平洋研究センター特別センター員。渋沢研究会運営委員。日本国際文化学会常任理事)
「日米人形交流」イベント
1.
渋沢栄一の求めた政治
明治末、渋沢が自らの来し道を回顧しながら様々なテーマを扱った『青淵百話』には、「国家」や「社会」についても語っている
為政者の王道である「仁義道徳」は時代によって変わるものではないが、国家は独り為政者のみによって立つものではなく、それと相俟って国民もまた国民たるの責任を重んずるものとし、国民に政治への高い関心を求めるとともに、国民にも重い責任があるとした
社会についても、政治組織を外せば、国家と社会との差別はなく、公平なる見識を持ち、社会の光明面と暗黒面とを比較して、その孰に与すべきかを商量することが重要であるとした
2.
激動する社会のなかの渋沢栄一
1867~68年、慶喜の弟で水戸藩主・徳川昭武を代表とするパリ万博日本代表団に同行、銀行と産業発展の仕組みに関心を持つ。69年大隈重信の懇請で大蔵省に入り、近代国家の財政制度の礎を整える
実業家への転身は、旧武士層と庶民層のそれぞれの考え方や行動様式を理解していた渋沢だからこそ、それらを仲介する役割を果たそうという大きな決断だった
3.
国内中心の視点から「国際主義」へ
明治末期から大正の前半にかけて、実業界を引退する時期と重なるが、第1次大戦後の好況下、人間社会の国際道徳の荒廃を懸念し、12年に帰一協会設立、国際連目の活動を民間の立場から支援しようと、各国で作られた国際連盟協会の日本における初代会長に就任
国際連盟が、経済から世界の協調を図ることを高く評価したが、一方で渋沢の関与したすべての政治外交、国際関係に関わる活動が順調に成功したとは言えない
第10章
社会と福祉の視点から 稲松孝思(1947年石川県生まれ。国立金沢大医学部卒。東京都健康長寿医療センター顧問。総務省恩給顧問医)
1872年、首都東京の困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設として現在の福祉事業の原点ともなる養育院設立。東京府知事大久保一翁(忠寛)が幕府の目付だったときに立案した、西洋風の・幼院・病院設置プランに遡る。設置資金は松平定信が定めた江戸の貧民救済資金「七分積金」。明治になって七分積金(営繕会議所共有金)の管理を担当していたのが渋沢栄一。渋沢は74年より養育院の運営に関与し、76年事務長。90年東京市営となり、渋沢は亡くなるまで約50年間養育院長。松平・大久保・渋沢と受け継がれてきた江戸・東京の福祉事業の歴史は戦後も続き、現代の東京都健康長寿医療センターの設立につながる
1.
養育院史への取り組み
1972年、『養育院100年史』編纂
「近代医学史における養育院と渋沢栄一」との課題を設定
2.
黎明期の養育院と東京府病院
養育院設立の背景には、ロシア皇太子来日に際し、治安上の問題から街の浮浪者を収容する必要があった。一方で、寛政の改革の中で七分積金・町会所制度で蓄積された救貧資産は幕末までに巨額に上り、新政府の福祉政策に使われた
3.
渋沢栄一の社会事業と養育院
明治10年代に関与した福田会(仏教系乳児院)、日本赤十字は、パリ万博の日本使節団参加メンバーが関連
30年代以降に関わった岡山孤児院、感化院、救世軍は、何れも岡山のクリスチャンの社会事業家が打ち出したもの
明治40年代以降では、東京慈恵会(慈恵医大の財政基盤強化)、済生会(経済人代表として参加)、聖路加病院(評議員長)
古希以降は、社会活動に集中、中央社会事業協会を中核に各種団体の要職を務める
第11章
世界から考える新たな研究視点 木村昌人(1954年神奈川県生まれ。89年慶応大大学院法学研究科(政治学専攻)博士課程修了。法学博士。19年関大論文博士(文化交渉学)。関大客員教授。神田外語大非常勤講師)
渋沢栄一研究を、近現代日本史という一国史から、東アジア近現代史、世界史という広い舞台に乗せて、渋沢栄一の事績を改めて分析
1.
比較研究としての新たな視点
2.
渋沢栄一研究の地平を広げる
第12章
期待が寄せられる学問・研究領域 松本和明(1970年東京都生まれ。99年明大大学院経営学研究科博士後期課程中途退学。京都産業大経営学部マネジメント学科教授)
渋沢研究会は30年間に論文87本、研究ノート25本などを発表、公益財団法人渋沢栄一記念財団はグローバル・ベースでの様々な共同研究を組織し成果を上げているため、渋沢研究には進み切ったと見なされ、新規着手にブレーキがかかっている側面も否めないところから、新たに発掘すべき、深堀りすべき領域やテーマを示してみたい
1.
企業の設立と経営及び産業育成(ビジネス)領域
第一(国立)銀行の事業基盤の確立と持続的成長、社会での近代的金融システムの定着と円滑な運用に渋沢が如何にリーダーシップを発揮したのか、より実証的、かつ多面的に解明すべき
注目すべきは、渋沢が銀行業に関連する事業や団体の創設や運営に注力したこと。銀行(家)の社会的地位の向上を目指し、国立、私立を問わず結集して商議について議論するとともに相互の交流を深めるべく、「択善会(論語の「択て善に従ふ」から)」を立ち上げ(77年)、後の東京銀行協会のルーツとなる
2.
社会・地域貢献(フィランソロピー)領域
渋沢が積極的に関与して構築、実践された手法は、現代の各種団体やNPO法人等の創設や運営にも有用といえるが、論及が行き届いているとは言い難い
ビジネスの担い手となるビジネスマンの育成、商業教育に長期的かつ精力的に取り組み、商業道徳の認識や深化とともに、学理・学識とビジネスの実際との融合を重視しカリキュラムに組み込んでいるが、このスタンスが如何に具体化され展開されたかは重要なテーマ
代表的なものに商法講習所(後の一橋大)、大倉商業(現・東京経済大)、高千穂商業(現・高千穂大)、京華商業(現・京華学園)。女子教育では東京女学館、日本女子大学校(現・日本女子大)
3.
理念と思想――自らの活動の基盤として
渋沢の諸活動のベースと評され、自身も特に後半生に於て盛んに主張し続けていたのが「国益」「公益」の重視だが、渋沢がそれらをいかに認識し、自らの活動の基盤としたのか、さらに社会に向けて強調したのはなぜかという論点も注目すべき
「国益」「公益」の重視、「論語と算盤」、「道徳経済合一説」など渋沢が強く主張したのは古希を迎える前後からで、それ以前は「合本主義」や「官尊民卑の打破」、「企業(家)の社会的地位の向上」が中心で、その移り変わりや思想的背景である論語との関係も併せて論じられるべき
以上をまとめると、
①
『渋沢栄一伝記資料』の別館に所収されている『日記』の活用
②
アジアに関わる研究の充実
③
デジタル化と新たな歴史研究手法への積極的な関わり ⇒ デジタルヒューマニティーズ(デジタル技術の人文科学への応用)
第III部
学校現場での渋沢栄一ガイド 解説・是澤博昭(1959年愛媛県生まれ。東洋大大学院文学研究科教育学専攻修士課程修了。博士(学術)。大妻女子大博物館教授)
日本を豊かで幸せな近代国家にすると同時に国際社会への貢献も視野に入れ、市民の立場から取り組んだ渋沢の姿を、21世紀の子供たちに伝えるために構成
小学校教育における渋沢の論語の活用、中学・高校の教育教材、郷土の偉人、渋沢を調べ身近に感じるための方法という4つの視点を紹介し、学校現場で渋沢を身近な題材として取り上げてもらうためのガイドとした
第13章
小学校における道徳教育のためのヒント 渡辺大雄(1974年東京都生まれ。10年二松學舍大大学院文学研究科国文学専攻修士後期課程修了。二松學舍大教職課程センター専門委員)
深谷市では、小学校の道徳教育の授業の中で、渋沢栄一を扱い、『論語』の教育にも注力
1.
深谷市における特色ある道徳教育
2.
小学生のための『論語』教育
第14章
中学校・高校における社会化・国際教育のためのヒント 山内晴子(1944年東京都生まれ。08年早大アジア太平洋研究科博士課程後期課程修了。博士(学術)。朝河貫一研究会理事。石橋湛山研究会リサーチ会員)
高校の日本史教科書の中で渋沢栄一は、第一国立銀行設立者として登場するのみだが、それではもったいない ⇒ アヘン戦争の時に生まれ満州事変で死んだ渋沢の生涯を知ることは、即日本の近代史を学ぶことであり、自分第一主義蔓延の現代の世の中で、公益に殉じた渋沢の生涯は貴重であり、生徒一人ひとりが、自分は何のために何ができるかを考えるヒントになる。何故渋沢が魅力的な教材なのかを纏める
1.
魅力ある教材としての渋沢栄一
2.
授業展開案(1)――渋沢栄一の全体像の把握
3.
授業展開案(2)――渋沢資料館見学
4.
授業展開案(4)――東京帝国大学ヘボン講座
第15章
郷土の偉人を知る――生誕地・深谷と郷土の結びつき 高田知和(1962年埼玉県生まれ。95年早大大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。東京国際大人間社会部教授)
深谷市における顕彰と学びを検討し、それを通じて「郷土の偉人」にどのように関わっていくことが出来るのかを考えてみたい
1.
渋沢栄一にとっての郷土
2.
深谷市の学校教育と渋沢栄一
3.
地域社会への視線
付録 もっと知りたい人のためのガイド 谷田雄一(1986年埼玉県生まれ。19年早大社会科学研究科博士後期課程満期退学。早大大学院社会科学研究科研究生)
1.
書籍
2.
施設
渋沢史料館(晩香蘆、青淵文庫とも)、渋沢栄一記念館(深谷市)、東京商工会議所、東京都健康長寿医療センター(板橋区)
3.
ウェブサイトとデジタル化資料
おわりに 是澤博昭
本書は、渋沢研究会30周年記念で企画出版
日本の近代経済社会の礎を築いた渋沢栄一は、近代日本のあらゆる産業を興したと言っていいほど活躍し、単なる実業家、資本家ではなく、近代日本の民間経済界を作り上げる
利益と道徳が両立する経営精神を説き、文化を支援し、障碍者や貧しい子供の施設を助け、女子教育を支援し、国際交流にも尽力。彼の偉大さは、社会福祉、教育、国際親善や民間交流の3つの分野を中心に社会貢献をしたことにも表れている。渋沢は社会に貢献する経営者としての視点を保ち続けた
渋沢研究会は、幅広い分野で活躍した人物でありながら、①個々の実証的研究が不足、②足跡が充分社会で活用されていない、の2つの共通認識から出発し、渋沢が取り組んだ各分野での実証研究の深化と、その今日的意義を再評価することを目的とする
30周年で、渋沢研究の「手引書」を発行する理由とは――
養育院のように近代化の中で取り残された公の手の及ばない生活の基盤を形成する施設に、民間人の立場から物心両面で支援する。企業が社会に果たすべき責任という考えのもとに、社会貢献に指導的役割を果たした。その視点の先には、常に公益の追求がある。健全な民間主導の活動が公のそれと一体となり、車の両輪のように発展する国家の建設を目指し、さらに国際社会に貢献する国家となるために、日本はどうあるべきか常に考え続けた
公益を念頭に国を挙げて様々な事業を先導する人脈と活力、決断力を持った渋沢は、21世紀に入った今こそ、振り返るべき人物
30年の研究成果を広く伝え、渋沢の生涯や取り組んだ課題などを通して、自分なりに考えるきっかけとなる、わかりやすく親しみやすく、より深く研究するための「手引書」が必要
Wikipedia
渋沢 栄一(旧字体:澁澤 榮一、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、日本の武士、官僚、実業家、慈善家。位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。
l 概説[編集]
江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では、大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔・井上馨の下で財政政策を行った。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な会社の設立・経営に関わり、二松學舍第3代舎長(現・二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現・一橋大学)、大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。また、論語を通じた経営哲学でも広く知られている[2]。令和6年(2024年)より新紙幣一万円札の顔となる。また、令和3年(2021年)に渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ『青天を衝け』が放送される予定[3]。
l 経歴[編集]
ü 誕生[編集]
天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・渋沢市郎右衛門元助(1810年 - 1871年)[4]、母・エイの長男として生まれた。幼名は栄二郎[5]。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗る。渋沢成一郎は従兄にあたる。
渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。栄二郎も、父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想に繋がったといわれる。
ü 尊攘派志士から、徳川慶喜の家臣・幕臣へ[編集]
一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や「日本外史」を学ぶ。剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。19歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。しかし、惇忠の弟・尾高長七郎(従兄弟)の懸命な説得により中止する。
親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取って京都に出るが、八月十八日の政変(文久3年(1863年))直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。
主君の慶喜が将軍となったこと(慶応2年(1866年)12月5日-慶応3年(1867年)12月9日)に伴って幕臣となった。その頃京都の新選組の近藤勇と土方歳三に会い、京都に駐在していて薩摩と通じているという疑惑があった幕臣の大沢源次郎の捕縛に協力する。[6] パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武(後の水戸徳川家11代当主)の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、社会を見て感銘を受ける。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーである。帰国後もその交友は続き、アレクサンダーは弟のハインリヒと共に後に明治政府に勤めた渋沢に対して日本赤十字社設立など度々協力をするようになる。なお フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている[7]。
パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港に帰国した。
ü 大蔵省出仕〜実業家時代[編集]
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも、慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。その後、フランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの拝借金返済のために、明治2年(1869年)1月に静岡で商法会所を設立した。ところが大隈重信に説得され、10月には大蔵省に入省することとなる。大蔵官僚としては民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。1872年には紙幣寮の頭に就任。ドイツで印刷された明治通宝(通称ゲルマン紙幣)を取り扱ったが贋札事件の発生も少なくなかった。予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、1873年5月7日、大蔵大輔井上馨と大蔵省三等出仕渋沢で財政改革意見を建議し、建議書が『日新真事誌』などに掲載され、論議を生んだ。明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。明治8年(1875年)、商法講習所を設立する。
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(のちの第一銀行ならびに第一勧業銀行、現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。
第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、王子製紙(現・王子製紙、日本製紙)、田園都市(現・東急)、秩父セメント(現・太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)、サッポロビール(現・サッポロホールディングス)、東洋紡績(現・東洋紡)、大日本製糖、明治製糖、澁澤倉庫など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。1887年ころには、渋沢を慕う経営者や管理職が集まる龍門社が組織され、昭和初期には数千名の会員を数えた[8]。
「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案。成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。
1909年6月6日、70歳に達し、財界引退を表明し、第一銀行・東京貯蓄銀行をのぞく61の会社役員を辞任した[9]。
渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあったが、これは死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。 昭和6年(1931年) 死去。享年92。中村 天玲というものが渋沢栄一の子孫になった。
l 人物[編集]
ü 社会貢献活動[編集]
渋沢は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院(現在の東京都健康長寿医療センター)の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。
日露戦争開戦の前年にあたる明治36年(1903年)、対印貿易の重要性を認識していた渋沢は、大隈重信らとともに日印協会の設立に携わり[10]、第3代会長をつとめた。
関東大震災後の復興のためには、大震災善後会副会長となり寄付金集めなどに奔走した。
当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、高千穂学校(現高千穂大学)の評議員、二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。
学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏めに関わった。
また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。
1924年(大正13年)3月7日、ポール・クローデル駐日大使と協力して日仏会館を発足させた。
また、1927年2月19日、日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。
1931年には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金を募るなどし、民間外交の先駆者としての側面もある。
なお渋沢は1926年と1927年のノーベル平和賞の候補にもなっている。
ü 政治活動[編集]
明治22年(1889年)から同37年(1904年)の15年間に渡り、深川区会議員を務め、区会議長にも選出され、深川の発展の為に尽くした。
また、この間に第1回衆議院議員総選挙に出馬の意思表明をしなかったものの東京5区(本所区、深川区)にて94票を獲得、有効票とされ次点となった[11]。1890年9月29日には貴族院議員に勅選され[12]、同年12月15日の第1回帝国議会貴族院本会議に出席したが、以降は出席せずに翌年1891年10月29日[13]に辞任した。
1901年5月16日には組閣の大命が降った井上馨から真っ先に大蔵大臣として入閣を求められたが、これも辞退している[14]。断られた井上は渋沢が蔵相でなければ組閣の自信がないとして直ちに大命を拝辞、井上内閣は幻に終わっている。
ü 道徳経済合一説[編集]
大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。
富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。[15]
そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。
事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。[16]
幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者・山田方谷の門人で、「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。
ü 天譴論[編集]
関東大震災後の日本の言論界には、世間の風潮が利己的、放漫になった時、自然が天譴として大災害を起こし改革を促す、と解釈した「天譴論」が流行したが、その口火を切ったのは渋沢だった[17]。「天譴」は腐敗したブルジョアや近代産業文明を批判し、平等や自然回帰を賛美する流行語となったが、不自然さや偽善性を感じた人も少なくなかった。主唱者だった渋沢も「天譴だと言う人は、本当にこれを天譴と思って居るのではないかも知れませぬから」と苦言を呈するようになった。
エピソード[編集]
日本を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として日本銀行券(紙幣)の肖像の候補者として何度も選ばれ、日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)では肖像候補として最終選考にまで残ったが、当時は偽造防止のため肖像には髭のある人物を使っていたことから、髭のない渋沢を採用することは難しく採用されることはなかった。この際に作成された候補案のデザインはお札と切手の博物館で展示されている。後に偽造防止の技術が向上し髭の無い女性も使えるようになったこともあり、2024年度上半期に執行予定されている紙幣改定により一万円札に、渋沢の肖像が採用されることになった[18][19]。
1902年から1904年にかけて大韓帝国で発行された初期の第一銀行券の1円、5円、10円券には当時の経営者だった渋沢の肖像が描かれていた。ちなみに、この第一銀行券を「一国の紙幣が日本の民間銀行の銀行券を使用しているのはいかがなものか」と韓国独自の中央銀行(後の朝鮮銀行)へと切り替えたのは韓国統監時代の伊藤博文である[20]。
出身の深谷市では、栄一の命月の11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行した『さいたま郷土かるた』の「に」の項目は「日本の産業育てた渋沢翁」となっており、畠山重忠、塙保己一と並ぶ埼玉を代表する偉人として、3人札(役札:3枚そろえると10点)に選出されている。また『彩の国21世紀郷土かるた』の「え」の項目は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっている。これは深谷ねぎが栄一の故郷の深谷の特産品であることと、煮ぼうとうが埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。
現在埼玉県では渋沢の功績にちなみ、健全な企業活動と社会貢献活動に取り組んでいる全国の企業経営者に「渋沢栄一賞」を授与している。
l 栄典[編集]
ü 位階
1888年(明治21年)5月15日 - 従四位[21][22]
ü 爵位
ü 勲章等
1888年(明治21年)5月31日 - 金製黄綬褒章[21]
1892年(明治25年)7月19日 - 勲四等瑞宝章(民間人初の叙勲)[29]
1902年(明治35年)2月22日 - 勲三等瑞宝章[30]
1911年(明治44年)8月24日 - 勲一等瑞宝章[31]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[32]、旭日大綬章[33]
1928年(昭和3年)11月10日 - 旭日桐花大綬章[34]
1930年(昭和5年)5月21日 - 紺綬褒章飾版[35]12月5日 - 帝都復興記念章[36]
ü 外国勲章佩用允許
1889年(明治22年)6月8日 - ドイツ帝国:王冠第三等勲章[37]
1915年(大正4年)5月3日 - 支那共和国:一等嘉禾章[38]
ü 賞杯等
1878年(明治11年)4月30日 - 銀盃一個[21]8月 - 銀盃一個[21]
1879年(明治12年)12月 - 銀盃一個[21]
1880年(明治13年)4月 - 銀盃一個[21]12月 - 木杯一組・銀盃一個[21]
1881年(明治14年)3月 - 銀盃一個[21]9月 - 銀盃一個[21]
1886年(明治19年)12月7日 - 木杯一組[21]12月24日 - 木杯一組・木杯一個[21]
1887年(明治20年)12月20日 - 木杯一個[21]
1888年(明治21年)5月31日 - 木杯一組・木杯一個[21]
1890年(明治23年)3月27日 - 木杯一個[21]4月3日 - 銀盃一組[21]12月15日 - 木杯一個[21]
1891年(明治24年)7月8日 - 木杯一組[21]11月30日 - 木杯一組[21]
1892年(明治25年)3月11日 - 木杯一組[21]6月15日 - 木杯一個[21]
1893年(明治26年)6月6日 - 木杯一組[21]
1894年(明治27年)4月13日 - 木杯一組[21]4月17日 - 木杯一組[21]
1895年(明治28年)3月1日 - 木杯一個[21]
1897年(明治30年)6月1日 - 銀盃一個[21]
1899年(明治32年)10月24日 - 銀盃一組[21]12月6日 - 銀盃一組[21]12月19日 - 木杯一組[21]
l 系譜[編集]
江戸末期、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「東ノ家」「西ノ家」「中ノ家」「前ノ家」「新屋敷」などと呼んで区別した。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主二代目渋沢宗助宗休(渋沢儀刑の子である初代渋沢宗助宗安の子)の三男としてうまれたが、「中ノ家」に養子にはいったのである。明暦年間の「中ノ家」は小農にすぎなかったが、栄一がうまれるころになると村の中で二番目の財産家となっていた。栄一が故郷を出てからは妹の貞子が「中ノ家」を守り、須永家より渋沢市郎をむかえ4代目とした。貞子・市郎夫妻の長男元治は初代名古屋大学総長となった。
栄一は渋沢家の分家「中ノ家」の出だが、本家「東ノ家」からはフランス文学者の澁澤龍彦が出ている。
栄一は尾高惇忠の妹・千代と結婚したが、千代は1882年(明治15年)に死去し、翌年に伊藤兼子と再婚した。兼子の父は武蔵国川越出身の大富豪・伊藤八兵衛で、画家の淡島椿岳は八兵衛の実弟、作家の淡島寒月は甥にあたる。
渋沢氏(中ノ家)
∴
渋沢市郎右衛門
┃
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┓
┃ ┃ ┃
渋沢栄一 渋沢市郎(婿養子) 貞子
┃ ┃
┣━━━━┳━━━━━━━━━┳━━━━┳━━━┳━━┳━━┓ ┃
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
渋沢篤二 渋沢武之助 渋沢正雄 渋沢秀雄 歌子 琴子 愛子 渋沢元治
┃ ┃ ┃
┣━━━━┳━━━━━┓ ┃ ┣━━━━━┓
┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃
渋沢敬三 渋沢信雄 渋沢智雄 純子 華子 渋沢和男
┃
┣━━━━┳━━━━━┓
┃ ┃ ┃
渋沢雅英 紀子 黎子
┃
┣━━━━┓
┃ ┃
男 女
家族・親族[編集]
千代(1841年 - 1882年) - 歌子、琴子、篤二の母。コレラで死亡。尾高惇忠の妹であり、栄一とは従兄妹同士。
兼子 - 武之助、正雄、愛子、秀雄の母。兼子は水戸藩の金子御用達であった深川油堀の伊勢八(伊藤八兵衛)の娘で婿を取って家を継いだが、実家が没落し、夫と離縁した。芸者になるために両国の口入れ屋に頼んだところ、渋沢の妾口の話が持ち上がり、後添えとなった。奇しくも当時の渋沢の家は兼子の実家が没落時に手放したものだったという[40]。
庶子を含めると多数の子女がいたが、嫡出の7人の子女とその配偶者およびその子女によって渋沢同族会が結成された[41]。
長女:歌子(1863年 - 1932年) - 法学者の穂積陳重男爵に嫁ぐ。著書に『穂積歌子日記』。
二女:琴子(1870年 - 1925年) - 大蔵大臣、龍門社理事長となった阪谷芳郎子爵に嫁ぐ。
長男:篤二 (1872年 - 1942年) - 澁澤倉庫会長、妻は公家華族橋本実梁伯爵の娘敦子。渋沢家嫡男であったが廃嫡となり長男の渋沢敬三が栄一嫡孫となる。理由は諸説あり定かでは無い。新橋の芸者・玉蝶との遊蕩を理由との説[42]もあるが、事業家というより感性豊かな芸術家肌で蒲柳の質を心配されたためとも伝わる。
二男:武之助(1886年‐1946年) - 石川島飛行機製作所2代目社長[43]
三男:正雄(1888年 - 1942年) - 日本製鐵副社長。石川島飛行機製作所初代社長[43]。
三女:愛子(1890年 - ?) - 澁澤倉庫会長、第一銀行頭取、龍門社理事長となった明石照男に嫁ぐ。
四男:秀雄(1893年 - 1984年) - 東京宝塚劇場会長、東宝取締役会長。
庶子:ふみ
- 母は大内くに(1853年 - ?[44])。東洋生命社長となった尾高次郎に嫁ぐ。次郎は栄一の妻千代の兄尾高惇忠の子。
庶子:照子(?
- 1927年) - 母は大内くに。富士製紙社長となった大川平三郎に嫁ぐ。平三郎は栄一の妻千代の姉の子。
庶子:星野辰雄(1893年 - ?) - 東京印刷社長・星野錫の養子になり、のち立教大学教授。栄一の長女歌子の夫穂積陳重の弟穂積八束の次女と結婚。
庶子:長谷川重三郎(1908年 - 1985年) -第一銀行頭取。
養子:平九郎(1847年 - 1868年) - 栄一の妻千代の弟。飯能戦争で新政府軍に敗れて自決。
孫
穂積重遠 -
歌子の長男。法学者、最高裁判事。
穂積律之助 -
歌子の次男。軍人。
穂積真六郎 -
歌子の四男。朝鮮総督府殖産局長から朝鮮商工会議所会頭。のち参議院議員。
阪谷希一 ‐ 琴子の長男。満州国総務庁次長。中国聯合準備銀行顧問。
渋沢敬三 -
篤二の長男。子爵、民俗学者、澁澤同族社長、澁澤倉庫取締役、第一銀行副頭取、日銀総裁、大蔵大臣。父・篤二の廃嫡後に祖父・栄一より後継者に指名される。
渋沢信雄 -
篤二の次男。貿易商。澁澤倉庫監査役、妻は音楽教育家齋藤秀雄の妹。
鮫島純子
- 正雄の次女。鮫島員重(岩倉具視の曽孫、鮫島具重の子)の妻。『祖父・渋沢栄一に学んだこと』『なにがあっても、ありがとう』など著書あり。
明石正三 - 愛子の三男。足利銀行監査役。
明石武和 - 愛子の七男。味の素常務。
渋沢華子 -
秀雄の三女。小説家。
尾高豊作 -
ふみの長男。実業家、教育者。
尾高朝雄 - ふみの次男。法哲学者。
尾高邦雄 -
ふみの三男。社会学者。妻は哲学者和辻哲郎の娘。
尾高尚忠 -
ふみの四男。指揮者、作曲家。
曾孫
渋沢寿一 -
NPO法人樹木環境ネットワーク協会専務理事。
渋沢雅英 - 敬三の長男。渋沢栄一記念財団理事長、東京女学館理事長、イニシアティブス・オブ・チェンジ顧問。
阪谷芳直 -
銀行家、エコノミスト、思想家、翻訳家。
穂積重行 -
西洋史学者。
磯野富士子 -
モンゴル研究家
岩佐美代子 -
国文学者。
石黒孝次郎 -
古美術商、レストラン経営者。
久留都茂子
- 東京女学館短期大学学長。
尾高煌之助 -
経済学者。
尾高惇忠 - 作曲家。
尾高忠明 -
指揮者。
河野典子
- 河野雅治駐ロシア特命全権大使の妻。
大川慶次郎 -
競馬評論家。
諸井勝之助 -
会計学者。諸井貫一(渋沢家・尾高家の遠戚)の婿養子。
「尾高惇忠 (実業家)#系図」、「穂積家 (伊予国)#系図」、および「諸井恒平#系図」も参照
渋沢栄一が登場する作品[編集]
主人公
雲を翔びこせ(テレビドラマ、TBS、1978年、演:西田敏行)
雄気堂々(テレビドラマ、城山三郎原作、NHK、1982年、演:滝田栄)
青天を衝け(大河ドラマ、NHK、2021年、演:吉沢亮)[45]
その他
風雪 第13話「富の足音」(テレビドラマ、NHK、1964年、演:増田順司)
天皇の世紀(テレビドラマ、大佛次郎原作、朝日放送、1971年、演:山本亘)
筆子・その愛 -天使のピアノ-(映画、2007年、演:平泉成)
さくら、さくら 〜サムライ化学者・高峰譲吉の生涯〜(映画、2010年、演:松方弘樹)
猛き黄金の国 -士魂商才!岩崎彌太郎の青春-(宝塚歌劇団のミュージカル、本宮ひろしの漫画『猛き黄金の国』が原作、演:飛鳥裕)
あさが来た(連続テレビ小説、NHK、2015年、演:三宅裕司)
関連文献[編集]
史料[編集]
『渋沢栄一伝記資料集』〈第1
- 58巻〉(渋沢栄一伝記史料刊行会、1955年 - 1965年)
『渋沢栄一伝記資料集』〈別巻第1
- 10巻〉(渋沢青淵記念財団竜門社、1966年 - 1971年)
『渋沢栄一滞仏日記』〈日本史籍協会叢書〉(日本史籍協会、1928年)
主な著書[編集]
述『官板 立会略則』、明治4年9月 - 会社の設立にかんする説明
『渋沢栄一全集』 平凡社(全6巻)、1930年
『青淵百話』 同文舘、1931年/国書刊行会、1986年
『渋沢百訓 論語・人生・経営』 角川ソフィア文庫、2010年
『渋沢栄一訓言集』 渋沢青淵記念財団 竜門社編、国書刊行会、1986年
『雨夜譚 渋沢栄一自伝』 岩波文庫(長幸男校注)、1984年
『論語と算盤』(梶山彬編) 国書刊行会、1985年/角川ソフィア文庫、2008年 ほか再刊
『論語講義』 二松学舎大学出版部、1975年/講談社学術文庫(全7巻)、1977年
『渋沢栄一自伝 雨夜譚・青淵回顧録(抄)』 角川ソフィア文庫、2020年、井上潤解説(渋沢史料館館長)
伝記・評伝研究[編集]
白石喜太郎 『渋沢栄一翁』(刀江書院、1933年) - Google ブックス
幸田露伴 『渋沢栄一伝』 岩波書店、1939年、復刊1986年ほか/岩波文庫、2020年11月
渋沢秀雄 『渋沢栄一』 渋沢青淵記念財団竜門社、1951年
『渋沢栄一』(時事通信社、1965年)。新装版『澁澤榮一』2019年
『父 渋沢栄一』(実業之日本社(上下)、1959年)。新装・全1巻、2019年
『明治を耕した話 父・渋沢栄一』(青蛙房、1977年)。他にも改訂再刊を含めた著作がある。
渋沢雅英 『太平洋にかける橋―渋沢栄一の生涯』 読売新聞社、1970年/不二出版、2017年
鮫島純子 『祖父・渋沢栄一に学んだこと』 文藝春秋、2010年
土屋喬雄 『渋沢栄一』 吉川弘文館〈人物叢書〉、新装版1989年
木村昌人 『渋沢栄一 民間経済外交の創始者』 中公新書、1991年
新訂版『渋沢栄一 日本のインフラを創った民間経済の巨人』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2020年
山本七平 『渋沢栄一 近代の創造』 PHP研究所、1987年/祥伝社、2009年
続編『渋沢栄一 日本の経営哲学を確立した男』 さくら舎、2018年
鹿島茂 『渋沢栄一 I 算盤篇』、『- II 論語篇』、文藝春秋、2011年/文春文庫(上下)、2013年
「サン=シモン主義者 渋沢栄一」-『諸君!』で1999年8月号から長期連載。長らく未刊であった。
見城悌治 『渋沢栄一 「道徳」と経済のあいだ』 日本経済評論社〈評伝・日本の経済思想〉、2008年 ISBN
9784818820241
東京商工会議所編 『渋沢栄一 日本を創った実業人』 講談社+α文庫、2008年、ISBN
9784062812351
島田昌和 『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』 岩波新書、2011年
編著『原典でよむ渋沢栄一のメッセージ』岩波現代全書、2014年
泉三郎『青年・渋沢栄一の欧州体験』祥伝社新書、2011年
宮本又郎編著『渋沢栄一 日本近代の扉を開いた財界リーダー』PHP研究所、2016年
星亮一 『天才 渋沢栄一 明治日本を創った逆境に強い男と慶喜』 さくら舎、2020年
歴史小説[編集]
大佛次郎 『激流 渋沢栄一の若き日』 未知谷(新版)、2009年
童門冬二 『渋沢栄一 人間の礎』 新版・集英社文庫、2019年
津本陽 『小説 渋沢栄一』 新版・幻冬舎文庫(全2巻)、2007年
山田克郎『渋沢栄一 財界のフロンティア』新装復刊・春陽堂書店、2019年
l 注釈[編集]
1.
^ 1890年12月15日、第1回帝国議会の貴族院予算委員会に出席すると同時に休暇を願い出て認められている。
2.
^ 庶子を合わせると20人くらいになるという。澁澤は女性関係が派手だったようで、大蔵省時代には自宅に妾と同居していたこともある[要出典]。
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