近代数寄者の茶会記 谷晃 2021.5.1.
2021.5.1. 近代数寄者の茶会記
著者 谷晃 1944年愛知県生まれ。京大史学科卒。芸術学博士。専攻は茶の湯文化学。出版社、香雪美術館勤務などを経て、現在は野村美術館館長。本書は茶会記に基づく書物の4冊目
発行日 2019.3.16. 初版発行
発行所 淡交社
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はじめに
茶の湯の成立要件は、専用空間としての茶室、専用器物としての茶道具、そして抹茶を点てる準備から客が飲み終えてすべてを収納するまでの動作を一連のものとして繋げた点前の3つであり、3要件すべてが整ったのは16世紀初頭。1533年に初めて茶会記が伝えられて以降、現在に至るまで連綿として茶会が記録され続けてきた
存在が知られている茶会記は数万回程度
本書では、明治以降現在に至るまでに活躍した数寄者の茶会記、およそ30人近くを取り上げる
第1章 近代の茶会記を読む
I 総論 近代数寄者と茶会記
明治維新でも庶民の生活が劇的に変化したとは考えにくいのと同様、茶の湯界の大勢としては江戸時代とさほど変わることなく受け継がれ、楽しまれていた
明治以降急速に力をつけ、豊かになった実業家や政治家たちが茶の湯への関心を向け始め、茶の湯を学ぶ傍ら、旧大名家などの入札会において、財力にものをいわせて名品・名器を手に入れていく。特に仲介する美術商が存在感を増したこと、家元の確立、家元直属の庶民茶人の存在などが近代の特徴
1895年東京で大師会が、1915年には京都で光悦会が発足、そこで釜を懸けることが数寄者の条件であるかのような観を呈し、そこに参加することが一流の経済人であるかのような雰囲気が生まれた
大師会の発起人の益田孝は、仏教絵画や仏具なども茶会に展示し、江戸時代後半には大徳寺物や宗匠物など、茶の湯の世界でしか通用しないものが茶道具として幅を利かせていた状況を打破、文化的・美術的価値があれば、茶道具の概念から外れても茶会に使用できる道を開く
近代数寄者の多くは実業家で、茶道具蒐集の傍ら、美術工芸品にまで対象を広げている
明確な茶の湯論を確立した人は少なく、もっぱら「趣味至上主義」に徹した
家元との距離が、俗に茶人と称される人々より遠いことは事実だが、関東ではそれが顕著
積極的に美術商と交わり、コレクションの形成に努めるが、これも関西の方が関係が濃い
関東の数寄者の特徴 ⇒ 家元との距離が遠い、美術商とも距離を保つ、益田と高橋箒庵の存在感が強大、三井系が多い、茶道具に限らず広く美術品を蒐集
関西の数寄者の特徴 ⇒ 家元や美術商との距離が近い、茶人の存在感大、財閥系列はなく藪内流が多い、名物茶道具に拘り
名古屋の森川勘一郎(如春庵)、金沢の越沢太助(宗見)の存在も際立つ
数寄者が個人として催した茶会のほか、グループを作って定期的に茶会を催したが、その代表格が益田の始めた大師会であり、関西で美術商が世話人となって始めた光悦会で、現在に続く。東京の和敬会、関西の十八会、篠園(じょうえん)会、籜龍(たくりょう)会、名古屋の三傑会、敬和会などもあったが、光悦会以外は茶会記は手付かず
茶会を網羅的に編纂したものに『旁求茶会記』があり、信長・秀吉をはじめ、織部・遠州・石州などの茶匠の茶会記の集大成だが、編者・成立時期は不明、編纂も杜撰で要注意
II 関東圏の茶会
Ø 高橋箒庵(1861~1937) 実業家、茶堂美術評論家。水戸生まれ。慶應義塾卒後福沢諭吉の時事新報社で記者、三井銀行始め三井の要職を経て、50歳で引退し茶三昧の生活
30代半ばでの益田の次弟の茶会が茶の湯との出会い
『大正名器鑑』をまとめたほか、『東都茶会記』『大正/昭和茶道記』など多くの茶会記を遺し、「茶会記文学」を築く
初風炉茶会 ⇒ 1909年麹町一番町の自邸内の佐久間将監の遺跡寸松庵茶室にて開催
白紙庵披きの自茶自賛の茶会 ⇒ 1913年四谷伝馬町に移転し、茶室「白紙庵」を新築したお披露目の茶会
口切茶会 ⇒ 1913年開催。当代数寄者がほとんど衆合
茶会記の書き方 ⇒ 懐石の内容や客名、道具組に加え、筆者の感想や、茶室内での会話にも言及することで、単なる備忘録から歴史的資料として貴重なものとなる
Ø 安田松翁(善次郎、1838~1921) 実業家。富山生まれ。両替店で奉公の後、1864年両替店開業。1880年安田銀行創立、安田財閥として興隆
多趣味な人だが、中でも茶の湯と囲碁に熱心
道具には拘りがなかったのか、4大財閥の中では安田だけがコレクションもない
日記の中から茶の湯関係を抜き出して、『松翁茶会記』として3冊にまとめて公刊。500会余りの記録として明治から大正の茶の湯を知る必須の資料
横網別邸初会 ⇒ 1880年開催。両国横網町の田安別邸を購入した79年に茶の湯を始め、僅か1年で主催
又隠の茶会 ⇒ 1912年開催。田安別邸に千宗旦が裏千家内に建てた又隠の写しをこしらえ数々の茶会の嚆矢となる
高橋箒庵によれば、「茶道の大家かどうかは疑問」としつつも、「維新後最初に斯道に入った古参茶人にして、和敬会16羅漢中の白眉たるは人の能く知る所」と持ち上げている
和敬会は、関東の数寄者で結成された茶会。1900~23年まで続く。定員を16人に限定していたため、16羅漢会とも称され、益田も高橋も欠員で補充された会員。公式の茶会記は存在しない
一休会は、松翁が狩野家から一休和尚の肖像画を譲り受けた際の条件として毎年一休忌を営むこととされたことから、安田邸にて忌日の11月21日に茶会を開催したもの
Ø 益田鈍翁(孝、1848~1938) 実業家。佐渡生まれ。貿易商から、造幣権頭に抜擢。三井物産社長から三井財閥当主。財界引退後は「茶道本山」と呼ばれ、近代茶の湯を牽引
近代数寄者の首魁的存在。多くの茶会を催すが、断片的な紹介に留まる
最近、自筆茶会記の存在が確認。他会記に見られる鈍翁茶会は群を抜いて多い
茅街茶会 ⇒ 1908年開催。規則や作法を簡素化し、ともかく茶の湯を敬遠しようとする財界人を引き込もうとしたため、断り切れなくなった人たちが「茅街の別業」に赴いた
鈍阿焼品評会 ⇒ 鈍阿焼は鈍翁が品川御殿山の自邸(碧雲台)で陶工に所蔵の茶道具を写して焼かせたもので、次第に評判となり値が付くようになった
大師会 ⇒ 鈍翁が始めた定期茶会。弘法大師の命日の3月21日に開催されたが、1922年の22回をもって財団法人組織に改組、原三溪が会長に就任して、会場も横浜の原邸に移る。48年再開以降は会場持ち回りで美術商が世話人として担当
御殿山大茶の湯 ⇒ 1915年開催。大正天皇大礼のお祝いを兼ねて盛大に挙行。御殿山中に14の会場を設け、それぞれに数寄者を担当につける。太閤の北野大茶湯に比類
Ø 野崎幻庵(廣太(こうた)、1857~1941) 実業家。岡山生まれ。慶應義塾卒後三井物産入社。中外商業新報社(現日本経済新聞社)社長、三越社長などを歴任。晩年は小田原在
初風炉茶会 ⇒ 1913年開催。当時売り出し中の野崎と岩原謙三(謙庵)が、同じような客の顔ぶれ、趣向で茶会を催したので、相並び比較された。岩原は、共同運輸(現日本郵船)から三井物産で常務となり、多くの会社の経営に関与、NHK発足時には初代会長となる。茶事での失敗談が多く、自ら素滑庵とも号した
『茶会漫録』全13冊刊行 ⇒ 1905~23年の300会以上を収録
「汲古庵」披露茶会 ⇒ 1907年開催。幻庵自身の初の茶会。茶の湯を始めて間もないころ、自邸の茶室の披露を兼ねて開催(幻庵の初陣茶会)。井上世外を正客とし、錚々たる顔ぶれ。「汲古庵」は井上の命名
葉雨庵開席 ⇒ 1919年開催。鈍翁の記録。幻庵が下渋谷羽沢に新たに開いた茶室の披きの茶会。鈍翁が「この家の蔵はますます深くして何が出ようとも測り難く」と記すように、相当の茶道具を蒐集していた様子が窺えるが、現在幻庵旧蔵とされる茶道具は見ない
Ø 根津青山(嘉一郎、1860~1940) 実業家、政治家。山梨生まれ。株式投資で財を成し、衆議院・貴族院議員。東武鉄道他多数の鉄道敷設に関与、「鉄道王」と呼ばれる
再建や企業買収を行い、「火中の栗を拾う男」「ボロ買い一郎」とも
明治末年頃から茶の湯に関心を向け、茶道具ほか古美術品を蒐集、膨大なコレクションが受け継がれ、根津美術館の庭園にはいくつもの茶室を配置
夕陽茶会 ⇒ 1924年開催。根津青山主催、青山邸内の斑鳩庵で挙行。馬麟筆の夕陽山水図が床に架けられていたところから箒庵がそう名付けたもので、往昔の将軍大名と雖も容易に企て及ばざる盛事と絶賛している
東京の数寄者はあまり点前を重視しない人が多く、3千家や藪内など家元の多くが京都に本拠を構え東京の数寄者との接触がさほどではなかったことが影響。逆に関東の数寄者から見れば関西の数寄者は点前に限らず道具の選択においても家元を意識し過ぎるきらいがあるとの印象を抱いていたようだ
明治以降の茶の湯界は、数寄者が主導したとよく言われるが、茶人と数寄者の違いは、所蔵の茶道具の質と量に加えて、茶人は点前を重視し家元にも近かったのに対し、数寄者は薄茶は代点出来ても濃茶までは人任せにできないところから点前も覚える程度の関心しかなかったことが上げられる
青山自ら記録した茶会記は現存せず。茶事では三井系との関わりが深いが、根津コンツェルン傘下企業の役員の名前が全く登場しない。各地の茶会にもよく招かれていた
青山のコレクションは7400点余りと、数寄者の中でも群を抜くと言われ、国宝・重文・重美が100点近くあり、質の高さも示す
Ø 正木十三松堂(直彦、1862~1940) 教育者。堺生まれ。東京帝大卒後、教育行政に当たり、東京美術学校長、帝国美術院長歴任。文展の創設に尽力
『回顧70年』、『正木直彦夫妻茶会記』全8冊、『十三松堂茶の湯日記』などが残る
大正5年2月の茶会 ⇒ 自身は茶を点てることはなく、研究者として茶道を見ていた
益田と極めて近く、藤原銀次郎(曉雲)、根津青山など東京の数寄者との交流が多いが、関西の数寄者との出会いは少ない。女性が比較的多く登場するのも十三松堂の茶会記の特徴
Ø 原三溪(富太郎、1868~1939) 実業家。岐阜生まれ。跡見で教鞭をとりながら東京専門学校(現早稲田大)で政治・法律を学ぶ。跡見時代教え子と相愛の仲となり、そのまま横浜の富豪原家の婿養子となり、個人商社を絹貿易で財を成し横浜一の財閥にした
古美術品蒐集の傍ら、若い画家たちを育て、茶の湯にも傾倒、100回余りの茶会記が残る
本牧三ノ谷の5万坪に住居を移し三溪園と名付け、全国から多くの名建築を移築、現在は横浜市に寄贈、公開されている
下村観山、菱田春草らのパトロンとなり、小林古径、安田靫彦、前田青邨など若手画家を育成。蒐集した美術品は没後散逸したが一部畠山記念館などで見られる
自著『一槌庵茶会記』⇒ 最も早い参加の記録は1910年で井上世外の茶会で、自ら主宰した初回は1917年とされる。その4年前には三溪園のシンボルの三重塔完成記念の茶会も主催しているが、まだ茶会というには自信がなく、展観席として茶道具などを披露しただけのかもしれない
蓮華院初茶会 ⇒ 1917年開催。三溪園見学希望に応えて、新築の茶室蓮華院披きの茶会を開催。正客は鈍翁。初陣茶人を「いたぶろう」とした老練衆に見事肩透かしを食らわせる出来栄え。鈍翁の感想は残されていないが、翌年末鈍翁が三溪園の桃山御殿で、自らを太閤に、三溪を神屋宗湛に見立てて「太閤茶会」を催したところを見ると三溪を数寄者としての技量もかなり評価していたのが窺える
三溪は、初陣茶会で「滅筆法」点前と称したように、点前が下手との謙遜もあるが、点前そのものにあまり価値を見出していなかったことを窺わせ、自己流を貫いたようだ
三溪は、芸術・美術として茶の湯を見ており、それ以外の社交性や宗教性などの要素は無視。鈍翁の茶湯は独自の高い美術鑑賞ことに仏教美術のそれを最も重んじたとして評価したが、小堀遠州の好みは「小慧(けい:さとい)細巧」、我が国の光輝ある茶道の神髄を没却した俗吏に過ぎないと罵倒
追善茶会 ⇒ 1937年開催。初陣茶会、1939年の別れの茶会と共に、三溪の代表的茶事の1つ。1週間前に急逝した嗣子を追善するもの。和辻哲郎、谷川徹三などを招く
最後の茶事 ⇒ 1939年開催。松永耳庵、育てた小林、安田、前田の3画家、仰木魯堂、贔屓の美術商中村好古など。井戸茶碗を正客耳庵のために出したのは、耳庵が有名な有楽井戸を所持していたのを知った上で、甚だしく遜色のあるのを敢えて使用するのが唯一のご馳走だとしたが、その他の道具はさほどのものはなくあっさりした組み合わせである中、いかにも三溪らしさが感じられる
Ø 藤原曉雲(銀次郎、1869~1960) 実業家。長野生まれ。慶應義塾卒後『松江日報』の主筆。三井銀行、物産を経て王子製紙の再建を果たし「製紙王」と称され、貴族院議員。商工大臣、軍需大臣など歴任。A級戦犯として出頭命令を受けるが不起訴。晩年私財を投じて藤原工業大学・藤原科学財団を設立、教育界にも貢献
鈍翁の勧めで表千家に入門、曉庵と号して活躍、『私のお茶』など茶の湯に関する書物を残し、多くの茶道具の名品を蒐集。スウェーデンに茶室瑞暉亭を寄付、国際交流に努めた
全7冊の茶会記に1917~53年に亘る250会近くの自会記・他会記混在で記載。1冊は蔵帳としたが掛物古筆58点のみで中断、8割が白紙のまま。すべて「寄付、床、後、薄茶、懐石、客」の順で記載され、批評や感想はない
来客は、数寄者・趣味人が多いが、昭和以降時局切迫に伴い政治家や軍人が多くなり、終戦後はまた数寄者中心になる
箒庵の曉雲評は、「些か雑駁で粗野とまではいわないものの「茶人めいた雰囲気」に欠ける」とあるが、この茶会記を見る限りマメで緻密な印象
他の数寄者の茶会記に比較的多く記録されている ⇒ 正木十三松堂の他会記に16会、箒庵の茶会記に13会、野村得庵7会など
捕虜茶会 ⇒ 1918年開催。落札直後の名器紹介のための茶会。正客の箒庵は、入手後も忘れられた頃披露するのが普通なのに、これではまるで捕虜の検分のようで、これが現代式茶事というものかと慨嘆したが、「天真爛漫にして手取り早き処に、この人をしてこの茶ありと思わしめたるは近頃痛快の至り」と感心。僅か庵主として二度目の点茶だがその実績は認める一方、名品とあらば金に糸目をつけず買い漁る殊勝さ感服に堪えずとしながらも、雑器が不揃いと道具揃えの未熟さを指摘、茶会記を「知らず庵主余を茶探として叱責するや否や」と結ぶ
壬戌(みずのえいぬ)茶記 ⇒ 1922年開催。関西の数寄者の中では野村得庵との交流の頻度が多く、この茶会もその1つ。振出と火入には自ら洋行中に求めたコペンハーゲン焼小壺が使われ、西洋文物の見立てとしては早い例
今里新邸 ⇒ 1932年開催。麻布新網町に加えて白金今里町に新邸を設けた際の披き茶会。加賀の越沢宗見を招く。炭点前は「悉く一粒撰り」のもの
即翁茶会日記 ⇒ 1951年開催。正客・畠山即翁の『茶会日記』に参加した記録が残る。服部時計店の服部正次(山楓)、五島慶太などが相客で、道具についての説明や茶席の様子などの記載はないが、「談ギ」として席上の話題が断片的に記載されている
かなり強引に名物茶道具を収集し、それをどんどん茶会で披露していた様子や、点前がなかなかの腕前だったことが想像される
Ø 松永耳庵(安左ヱ門、1875~1971) 実業家。壱岐生まれ。慶應義塾に学んで福澤を敬慕、卒後電力界に入り、九州水力電気や東邦電力を創業、「電力王」と呼ばれ、一旦引退後戦後は電気事業再編成に携わり、「電力の鬼」と呼ばれた
1934年、杉山茂丸の茶器を遺品として譲り受けたのが茶道に入る契機で、翌年杉山没に際し追善茶会を開催。入間郡に柳瀬山荘を新築し、茶室「久木庵」を愛用
自身の茶会記はないが、他の人物の他会記から10数回、他所の茶会に参加したのを含めると80会ほどの記録が残る
点前ぶりは、茶の飛沫が膝頭はもとより、畳一面青々と色染まる有様だったが、亭主は何の屈託も感じない亭主振り、初陣茶会で参会者の度肝を抜く茶会だったが、不慣れや下手というのではなく、些事に拘らない松永の茶の湯の特徴ともいうべきものを表している
熱海十国庵茶会 ⇒ 1937年開催。熱海の別荘小雨庵内に新築された茶室十国庵の披露茶会。箒庵が点前上達ぶりに驚嘆するとともに道具の取り合わせの妙も褒めている
原三溪、仰木魯堂兄弟との茶の湯を介した繋がりがことさら深かった
『茶道3年』など多くの著書を出版し、独自の茶の湯論を展開 ⇒ 茶会の4時間は長い、茶会には清らかなものを好み清浄なものを使う、常に驕らず器物を誇らず、道具屋に左右されないこと、茶道の根本精神である「和敬清寂」をモットーとすべきと説き、箒庵などの「趣味至上主義」とは別の道を行く。合理性を基本に据えた稽古の方法とその統一を主張
Ø 仰木政斎(政吉/政斎、1879~1959) 木工芸家。福岡生まれ。数寄屋建築家の仰木魯堂(敬一郎)の弟。魯堂の工房で指物師として修業。1923年広尾祥雲寺境内茶室・雲中庵を購入、住居とする。戦争末期は耳庵の柳瀬山荘に疎開
全2冊の茶会記『雪中庵茶会記』は、1930~1933年の780会を超える茶会記で、戦中・終戦直後の記録として貴重
戦前・戦中の茶会(上巻) ⇒ 1930年の星岡茶寮での北大路魯山人の茶会参加から始まる。陶器鑑賞座談会のようなもの。次いで茶器骨董翁とよばれた山澄力蔵の茶会。44年10月末の前田夢斎の茶会は戦時下の「食糧難にあって、謙遜にも似ぬご馳走に恐縮」するほどだった
1945年2月には耳庵の柳瀬山荘での茶会にも参加、正客の谷川徹三は「我軍に勝ち目はない」と断言、仰木も同感だとしている
終戦の詔勅は柳瀬山荘の母屋に集まって聞き「嗚咽にふけった」が、耳庵は聞き終わると早速お祝いの一服を皆に振舞い、夫人もとっておきの菓子などを出し、明日からは戦時服を改めるとはしゃぎ、どこか違和感を禁じ得ないと記載
戦後の茶会(下巻) ⇒ 1945年9月開催。進駐軍による美術品没収を恐れ、その隠匿に余念がなかったが、健康を害し、堂ヶ島へ静養に行く際の送別の茶会を開催。食事は丼物、道具は大半が借り物だったが、この不自由な中にも釜を懸け、茶を別(点)て暫しの別れを惜しむ
次は、「藤原曉雲翁戦犯予期の茶」で、同月末から10月にかけて3会
最終回が1958年開催の「梅露庵の茶」で、翌年政斎没
Ø 畠山即翁(そくおう一清いっせい、1881~1971) 実業家。金沢生まれ。東京帝大機械工学科卒。ポンプ販売事業を発展させ荏原製作所を創業。能楽にも傾倒。コレクションは白金台の畠山記念館で公開
若いころから裏千家の茶の湯を学び、自会記を1926年から約200会、他会記を1931年から約300会など6冊が残る
他会記の代表 ⇒ 1937年開催。青山の根津邸にて。正客は安田松翁の後嗣善助
自会記の代表 ⇒ 1954年開催。関西の美術商を招待
白里庵歳暮 ⇒ 1929年末開催。白金今里町の自邸洋館裏手に茶室を新築、地名を短縮して白里庵と称し、披露茶会を開催。寄付に遠州の歳暮の文が掛かる。箒庵は、「従来東都茶人の会は道具が立派なる割合に点前の未熟なのを常とするが、当庵のはこれに反して道具に割合はして手前(ママ)が格段に見事なのは練習のたまもので、東都紳士の例外」と感想を述べる。それほど東都の数寄者は点前は苦手で、婦人や娘に代点させている例が多い
即翁茶会 ⇒ 1934年開催。正客は正木直彦。道具組に客を茶道具でもてなす術が披歴され、美術史家を正客としたことを意識したものと思われ、コレクションの充実を物語る
Ø 齋藤寿福庵(利助、1889~1972) 美術商。鎌倉生まれ。親戚筋経営の平山堂美術展に入り2代目を継ぐ。東京美術俱楽部社長を20年務める
茶の湯を支えてきた脇役として、江戸時代中期に始まる家元制度や近代に入ってからの茶道具商の存在は大きい。茶道具商は茶会の裏方としても活躍
団伊能(貴族院議員、ブリヂストン自転車経営)が1946年提唱した「好日会」は鎌倉の月例会で20年続いたが、齋藤ら茶道具商の果たした役割は大きい
鎌倉幕府当時、新しい飲茶法である抹茶が持て囃されたことが古文書に多く見られる
「好日会」では、齋藤が自邸を開放、尚美庵・寿福庵等が利用された。道具組のみ記載の茶会記集が10年ごとに2冊あり、総計485会を記録。茶道具商が席主を務めた例が多い
家元直接か流派に関係する団体が席持ちをしていることが多く、女性の進出も顕著、いわゆる文化人の名も見られる
1946年の発足会 ⇒ 団伊能が不顧庵で席主を務め濃茶を点てた
五島慶太も深く関わり、五島美術館も開館後2年にして1会だけ懸釜をしているが、美術館の名を出して持ち出し茶会をした嚆矢
20世紀後半の顕著な特徴となった大規模な大寄茶会の先駆けであり、数寄者に代わって家元や茶道具商が表に出て実質的に茶会を取り仕切るようになったことを「好日会」の茶会記が如実に物語る
Ø 森川如春庵(勘一郎、1887~1980) 素封家・古筆研究家。一宮生まれ。天性の審美眼で古画・古筆の蒐集と研究を重ねる
かつて「茶どころ名古屋」と言われたのは、抹茶が家庭や職場、農作業の場でよく飲まれたことを示すが、数寄者も地元での活動に留まり、全国区には到らず
森川は例外、16歳で光悦作の「時雨」茶碗を、19歳で光悦作茶碗「乙御前」を破格の値で落札して名を馳せ、関東の数寄者とも交わり、地元でも「敬和会」を組織して活躍
舒嘯庵の半日 ⇒ 1915年開催。東京から箒庵を招き、父祖の代より蒐集した書画骨董を披露、箒庵も「時雨」と競り負けた「乙御前」の一覧を申し出、「乙御前」が黒茶碗と思い込んでいたのを恥じ、立派な道具組に感服し、侮れないものを感じる
敬和会 ⇒ 1922年、如春庵の呼びかけで名古屋中心の数寄者たちが始めた茶会。24年まで52会開催。関東大震災時には鈍翁も名古屋に疎開し、本会に積極的に参加
箒庵の茶会記にもたびたび登場するが、自身の茶会記は現存せず
コレクターとしても注目され、名古屋市博物館に約200点所蔵されるが、他は没後に散逸
Ø 諸戸雨月(精太、1885~1931) 実業家。桑名生まれ。父の山林事業を継ぎ発展させる。桑名瓦斯の重職など三重県財界の重鎮
江戸時代からの名家だったが、祖父が身代を潰し、父親が再興、日本一の大地主となり、それを次男と四男が継ぐ。数寄者として名高いのは四男の精太で、邸宅内の茶室の庵号に因んで雨月と号し、伴松軒とも号した
東西の数寄者との交流も多く、光悦会の席主を務めたこともある
戦災を免れた諸戸コレクションは、長く非公開だったが、近年財団法人化され県内美術館に貸与
『茶記原稿』と題した茶会記が遺されているが、最晩年の30,31年の36会に限定。当時雨月は熱海に療養中だったが、茶会の開催は東京、大阪、桑名など各地で開催
光栄茶会 ⇒ 1931年1月開催。自社のタオル製造の品質が認められ宮内庁御用達になったことを祝しての自会
鈍翁は半年のうちに5回も参じており、仲の親密さを窺わせる。仕事で付き合いのあった渋沢栄一が仲立ちしていたのかもしれない
節分茶会 ⇒ 1931年鈍翁の小田原掃雲台にて開催
名残茶会 ⇒ 1931年5月開催。雨月が学んだ名古屋松尾流の7代好古斎の好みでしつらえた茶室の改築の披露。毎月北伊勢の斯道同人による茶会が開かれていた
雨月邸内の茶室伴松軒は松尾流9代半古斎の好みで、『茶記原稿』にも松尾流ゆかりの茶道具がしばしば登場
久闊茶会記 ⇒ 1931年5月開催。俵孫一(衆議院議員。商工大臣、立憲民政党幹事長など歴任)が大臣在任中、タオルの製品見本市で知遇を得た雨月が工場見学を懇請、浜口内閣総辞職で大臣辞任後、松江からの帰路雨月の自宅に立ち寄った際、茶室楽案にて薄茶一服でもてなす。旅中ゆえ、正式な茶事ではないが、床には、「草まくら旅ゆくみちの…」の和歌が掛けられ、銘菓若葉によって初夏の季節を漂わせ、これに諸道具を取り合わせた
Ø 越沢(こしざわ)宗見(太助、1887~1970) 金沢生まれ。美術商「二嘉」経営の二木家五男。呉服屋「越中屋」の越沢家養子。養父没後も家を継がず、茶の湯と道具の世界に入る
藩祖前田利常依頼、町人に至るまで茶の湯を好み、金森宗和の長男が前田家に仕官して宗和流が伝えられ、宗旦の子息仙叟宗室も仕官していたこともあって、京、大阪、東京、名古屋と並び5都と称され、茶道具の売買が盛んであり、有力な美術商も多く活躍
野島乃庵に裏千家の茶の湯を学ぶ
『宗見茶話集』は自筆の茶道記を息子大島宗古が刊行。37会の記録、うち9会が自会、残る他会記は全国にまたがる。特に親密だったのが根津青山。箒庵とも親交深く、彼の茶会記には50回も登場
嬉森年始会 ⇒ 1919年開催。宗見の最初の「持ち出し茶会」。嬉森庵は箒庵邸内の茶室。東京と加賀を股にかけて活動中。大阪の春海商店の東京支店を任されていた
箒庵の『東都茶道記』では、道具組の尋常ならざるを褒め、全体として”苦労人の茶”と評し、30歳前後で独力此茶会を催すのは、今後茶器商として東都の檜舞台で活躍する武者振りが必ずや注目を集めるべしと、その将来性を高く買っている
星岡朝茶会 ⇒ 1919年7月開催。上流階級の社交所の観を呈していた星岡茶寮が経営難に陥った際、宗見が買い取り一時居住。1940年にも得庵と耳庵を客として宗見が茶会を開催しており、長きにわたって星岡茶寮の経営に参加していたことがわかる
荒大名茶会 ⇒ 1929年開催。宗見が貴族院議員を組織して「添光会」を結成、宗匠として月例の茶事をしていたが、浜口内閣誕生の際添光会員が多数大臣になったのを祝って臨時の茶会開催。正客は箒庵で、宗見の茶会に参じるのは3回目だが、道具組に批評を加えると同時に、「渡辺司法、俵商工大臣などが誕生するそうだが、宗見がまことに荒大名を強化せんとならば、大臣級よりも彼の行儀悪き衆議院の泥仕合連中を引き込んだ方が一層効果が大きかろうと思うが、彼にそれだけの勇気ありや」と疑問を投げかけている
成巽閣茶会 ⇒ 1932年開催。金沢での産業観光大博覧会開催への協賛として11会の茶会が前田公爵邸内の成巽閣にて、宗見以下10人が分担して各会3日間挙行
宗見に率いられて地元数寄者が総出で行ったが、宗見以外に全国に名を残した者はいない
III 関西圏の茶会
Ø 野村得庵(徳七、1878~1945) 実業家。大阪生まれ。29歳で家督を継ぎ、18年野村銀行創立、14年野村證券独立。28年勅選議員。野村財閥創始者。能楽にも傾倒、多くの美術品を蒐集し野村美術館として公開
自会記は16冊(初めの7冊欠落)計230会余を自筆で記録。主に京都の碧雲荘で開催。熱海の塵外荘は未完。茶会の趣旨としては新年の飾り付けや、得庵が中心メンバーとして活躍した篠園会、籜龍会の当番などのほか、政財界の要人や外国の賓客を招く
他会記は41冊で、1920~1943年計430会弱を自筆で記録。感想や批評もあって多彩
他に単独茶会記(自会29、他会62)が若干残り、蔵帳(蒐集美術品整理台帳)もある
特に、昭和北野大茶湯の記録12会分は貴重
得庵が茶の湯を習い始めたのは、1913年の初釜で、大阪伏見町に稽古場を開いた藪内節庵(11代竹窓の弟)に入門した時。自ら猪突性急な男で癇が高いところからその矯正のために始めたが、性格は茶の湯においても遺憾なく発揮され、猛烈な茶道具、美術品の蒐集に突っ込み有数のコレクションを形成
1915,6年ごろ、私家版の雑誌『つらかずら』に茶の湯に対する考え方を載せている。精神論にぶれ過ぎず、趣味至上と開き直ることもなく、茶の湯はわが国固有の文学・美術・芸術に根差しており、それに加えて「和敬清寂」という理念を有しているから我が国の大道とするに足ると主張。よき師範について学ぶべしとする
碧雲荘茶会 ⇒ 1923年開催。箒庵の『大正茶道記』によれば、碧雲莊の完成前で、母屋付属の茶室に招かれ、手放しで褒めている。藪内家の雲脚席を写して造られた茶席がそのまま舟に乗せられ、この舟茶席の命名を依頼され、「芦葉」と名付けた
近い将来関西の茶の湯界を担うべき人物の1人になることを予言
光悦会騎牛庵 ⇒ 1925年開催。野崎幻庵の『茶会漫録』によれば、この年には鈍庵との約束で、得庵が騎牛庵で濃茶席を、鈍庵が大虚庵で薄茶席を担当。あらかじめ道具組については得庵が鈍庵に相談しており、「大変な奮発」と敬意を表す
数寄者仲間の得庵評では、直情径行、大胆、研究熱心、接待上手、大名茶の湯を目指す、名品主義、能の影響など、事業でも共通するところあり、事業と茶の湯が相互に影響し合って、お互いにより高みへ上るための原動力ともなったのではないか
得庵が目指した大名茶の湯とは、何処までもコセつかず鷹揚に堂々とした書院茶で、すべての陣容から見て百万石以上の大名でなければできない茶事で、1928年の昭和天皇御大典奉祝に際し、久邇宮邦彦親王が同妃・若宮朝融王・同妃の宿所に充てられた光栄を記念するために翌年春に挙行された「御大典祝意」の大茶会に於て、いかんなく発揮された
大名茶の湯然とした茶会の舞台として碧雲莊が構築、実現され、さらに当時盛んに行われた大名家の売り立てで次々と大名家伝来の名物茶道具を入手
その後、能舞台を設置、舟の茶屋を係留する場所の隣に蘿月の舞台を作るうちに、得庵は碧雲莊を舞台として日本文化を得庵なりに再構築しようと考えたのではないか
Ø 村山玄庵(龍平、1850~1933) 実業家。伊勢生まれ。1872年西洋雑貨商田丸屋創業。1879年朝日新聞創刊。美術研究誌『國華』の経営を助け、衆議院・貴族院議員歴任
茶の湯は藪内節庵に師事、後に竹翠・竹窓に学んで皆伝を受け、玄庵・香雪と名乗り、十八会・篠園会のメンバー。蒐集した美術品は香雪美術館にて公開。茶会記は道具のみ記載
琳派揃い趣向 ⇒ 1921年開催。篠園会当番。得庵の他会記に記録され、本席は井戸脇茶碗以外目をひくものはなかったが、力を入れた薄茶席は、当時それほど人気がなく、特に茶の湯で使われることは滅多になかった琳派の作品をあえて使って茶席を纏めたのは慧眼
床に宗達、花入れは光悦作、風呂先は光琳、比老斎書付は空中、香合は乾山、茶入は光琳、茶碗は光悦、替が乾山、茶杓が空中、菓子器が乾山とある。茶会記録の最後に「大根の根は必ず東西ニ張る」と書き留めているが席上の話題かどうか不明
篠園会 ⇒ 1908~1943年の間、8月以外毎月開催。第1回は藪内節庵邸にて挙行。50回分の記録を纏めて3冊、計200回分が発行、後は1回毎の記録が残る
浪華の茶会 ⇒ 1913年開催。野崎幻庵の『茶会漫録』によれば、御影の玄庵邸内の燕庵写しの席での道具組を絶賛、東京から遥々鈍翁にお供して参加した甲斐があったようだ
燕庵写しは、藪内流皆伝の弟子にのみ建築が許され、家元に事故あった時は家元に移築することが条件で、現在の燕庵も幕末の大家で焼失した後に弟子から提供されたもの
玄庵残茶会 ⇒ 1924年開催。箒庵の記録によれば、濃茶・薄茶が終わってから懐石に移るのではなく、両茶の間に広間に移って懐石とあり、小間燕庵が十分に残茶気分を発揮しているので、懐石・薄茶も同じ席で頂戴して、飽くまで晩秋幽寂の滋味を味わいたかったと注文を付けている。茶の湯とは難しいものとの感を強くする箒庵の注文ではある
Ø 高谷(たかや)宗範(恒太郎、1851~1933) 茶人。大分生まれ。官吏として大蔵省・司法省勤務、東京控訴院判事を最後に引退。1918年京都・宇治木幡に松殿山荘を造営、茶の湯の精神で国を治め、太平の世の中にしたいと説いた
儒学者で勤王の士の父の教えを引き継いで儒教色が強く、彼の茶の湯論にも色濃く反映
茶の湯は、1886年大阪控訴院に赴任した際、江戸堀の遠州流茶人に入門したのが始まり。退官後弁護士として来阪、茶の湯にのめり込み、十八会のメンバーとしても活躍
1895年、上野理一らとともに遠州流茶道保存会結成
1903年、十八会のメンバーとして茶会を開催、遠州好みの茶道具が多く使われた
十八会は、浪花風流十八会ともいい、村山、藤田傳三郎(香雪)、上野理一(有竹)を発起人として1902年関西の数寄者18人が持ち回りの月例茶会を始めたもので、一巡した2年後に終了
織部、遠州、石州など、殆ど荒廃して今日存在するものなきを嘆き、宇治小幡に松殿山荘を造営、嘉納治郎右衛門(玉泉)、得庵らに呼び掛けて財団法人松殿山荘茶道会を設立、茶道を永遠に保存しようと努めた
早くから武士道に惹かれ、茶道と「同一精神」であると考え、茶道の精神で国を治め太平の世の中にしたいと「茶道経国」を説く
これに異を唱えたのが箒庵で、茶の湯は趣味以上でも以下でもないと「不毛の議論を挑む」が、宗範のあまりに「教道(ママ)的な」物言いが物議を醸した
喜寿自祝茶会 ⇒ 1927年開催。未完成の松殿山荘にて8日に亘り67名を招待。「今遠州」を自認する宗範ならではの道具組。通常濃茶は小間、薄茶は広間の伝統に対し、書院式たる広間の濃茶会の復活・改善を目指して研究中だとして実践
松殿山荘の着工は1919年、完成は1930年。11月から3日間新築落成披露の大茶会を開催、嘉納玉泉、得庵ら多くの協賛を得て7席に及んだという。完成後ほどなく第1回茶道講義を開き、「日本は神の国、臣民は神の子孫、茶道も神の道(=聖訓)に楽恪して奉行するを本旨と為す」と、独自の主張をさらに進めて皇国史観に近い考え方を披歴。精神主義的主張が強く出たため、得庵も最後は距離を置いた
Ø 芝川得斎(又右衛門、1853~1938) 実業家。大阪生まれ。1875年2代目として家督相続。村山龍平と共同事業などで財を成し、19年唐物商をたたみ、不動産業を軸に家業を守り、千島土地設立。十八会メンバー
比丘会茶会 ⇒ 1920年開催。得庵の他会記によれば、宗範の指導で造営された甲東園の10万余坪の自邸(武田五一設計、現在明治村に移築・保存)にて挙行。比丘会は一休会と同様、宗範の主導した茶会で、入会が認められると宗範から「懈怠比丘不期明日」の1行を貰うのが習わしで、茶会の床に掛ける。薄茶席では、養老の滝を趣向として、それに因んだ道具が組まれた。薄茶の後も邸内の草花などで順に花を生ける「花所望」など、立花に興じるうちに5時半となり散会したが、「茶事は2時(ふたとき、4時間)を過ぐるべからず」との戒めも無視
「懈怠比丘不期明日」は清巌宗渭の筆で、千宗旦の「邂逅比丘不期明日」と一対を成す
道具組では、得庵が火筯(はし)=火箸を「火スジ(筋)」と記しているが、読み違いが一般化して当時の茶会記に時折見られる勘違い
通常は炭点前が済むとそのまま懐石が出されたが、当時関西では、薄茶が終わってから懐石を出すことが多く、これを「前茶」と呼んで、箒庵など関東の数寄者は強く非難。関西では懐石がそのまま宴会になってしまうことが多かったのが原因だろう
Ø 嘉納鶴翁(治兵衛、1862~1951) 実業家。奈良県生まれ。寧楽師範に学び、87年嘉納家長女との縁談が決まり、89年白鶴酒造の7代目治兵衛を襲名、家業を再建
奈良の素封家中村家に生まれ、嘉納家の家業を継ぎ、鶴翁・鶴堂・鶴庵と号し、茶の湯は石州流、十八会メンバー。青磁器始め中国美術や茶道具の名品を蒐集、関西私立美術館の嚆矢となる白鶴美術館を1934年自らの古希祝として開設
3冊の鶴翁茶会記を残し、いずれも冒頭には「清酒白鶴販売上の原動力也」と記され、鶴翁の茶の湯に対する考え方がわかって興味深い。1903~1944年の計約130会の自筆記録で、雑記帳を整理したもの。最初は十八会で自身が当番の抹茶記としているが、十八会の記録には嘉納玉泉の担当となっており、鶴翁の勘違いか。それまで煎茶会のみで、今回が初の抹茶会としている。ただ、現在白鶴美術館には煎茶道具は収蔵されていない
1906年の第2回が薄茶席の初陣
西別邸初釜茶事 ⇒ 1921年開催。得庵の他会記によれば、前年秋の菊の会を病欠したため、改めて招待されたもの。席は大磯三井家別邸にあった織田有楽の好んだ茶席として有名な国宝・如庵(明治村に現存)の写し
道具組には、他流の宗匠の手になるものも使い、当時の数寄者が現在の流儀茶のように所属する流派に関係するもの以外使用しないといった偏狭さは持ち合わせていないことがわかる。当時薄茶には象牙の茶杓を使うことが東京の数寄者の間ではならいのようになっていたのを真似ている
濃茶席は型通りの厳粛なものだったが、薄茶は磊落で細かな約束事に捉われない鶴翁の茶の湯のあり方を遺憾なく伝える
Ø 西尾積翠(せきすい)庵(与右衛門養成よしなり、1863~1925) ⇒ 実業家。吹田生まれ。江戸時代仙洞御料の庄屋を務めた豪農・西尾家の家督を76年に継ぎ11代与右衛門となる。家業に励み、発展させるとともに、書・漢学・禅を学び、茶の湯は藪内流入門、翠雨・紹玄・紹敬・積翠庵などと号し、篠園会会員として活躍。何れも藪内流の燕庵写しと雲脚写しの茶室を構えたほか、自宅近くの古曽部窯の作品や和洋時計の収集でも知られる
西尾紹玄氏茶事 ⇒ 1921年開催。得庵によれば、4年前に藪内流11代を継いだ竹窓を招いた
篠園会初会茶会 ⇒ 1908年開催。積翠庵が担当。得庵の20会などに次ぐ14会を担当。道具組も、それほど目を惹くような名品はないにしてもそれなりに考えを練り、参会者に喜ばれるような組み合わせを目指したことは窺え、会員の多くは全国的に名を知られた人物とは言い難い茶人たちだが、茶の湯の勃興を支えたのは彼等のように地方に根差した茶人たちで、その代表ともいえる存在が積翠庵で、生きた時代を反映して近代数寄者との接点も出来たのだろう
Ø 住友春翠(吉左衛門友純ともいと、1864~1926) 実業家。公家の徳大寺家から出て、92年住友家に婿養子として入り、15代当主。西園寺公望の弟。茶の湯を裏千家の中川魚梁・狩野宗朴に学び、春翠・好日庵・知足斎・独慎などと号す。青銅器や絵画始め茶道具や能装束などを蒐集、1960年開設の泉屋博古館に収蔵。大阪鰻谷・茶臼山・京都鹿ケ谷・住吉・須磨と住まいを移したが、現存するのは鹿ケ谷有芳園のみ
1917~28年、計33会分の茶会記が残るが、最後の9回は春翠追悼茶会
茶臼山住友男爵催 ⇒ 1920年開催。得庵の他会記によれば、正客は宗範、美術商が同席。裏千家にある宗旦好みの又隠席を写した知足斎にて、大番頭が6か月の海外大旅行から大きな収穫を持って帰国したのを匂わせる道具組
Ø 松風聴松庵(嘉定しょうふう・ちょうしょうあん・かじょう、1870~1928) 窯業家。瀬戸生まれ。松風家の京都陶器入社。90年婿養子。06年松風陶器設立。国立陶磁器試験場の京都誘致に尽力。銭谷五兵衛の研究でも著名
歯科器材のメーカー松風の社長
家業の傍ら焼き物や茶の湯に熱心で、野々村仁清・尾形乾山・青木木米の3名工を顕彰する洛陶会の結成や、東山大茶会の開催などに奔走
松風嘉定氏催 ⇒ 1921年開催。得庵の他会記によれば、寄付に英一蝶の大仏(奈良)参詣図、本席の床には後醍醐天皇の宸筆和歌が掛けられていたとあり、終わった後洋館で洋食の夕餐が振舞われた。薄茶を点前したのは京都祇園の名妓・竹香(1878~1947)で、茶妓と称されるほど茶の湯に堪能で、裏千家に学び、1928年には数寄者60人の援助で洛東清水に茶室竹操庵を建て、翌年盛大な茶室開きが行われたといい、関東の政財界の有力者にも引き立てられた
東山大茶会 ⇒ 1921年開催。4日間40余席の抹茶席・煎茶席が並ぶ大茶会で、幻庵の『茶会漫録』でもその豪華絢爛振りを記し、得庵の南禅寺下河原別荘の抹茶席を第1に挙げている。箒庵も『大正茶道記』で全席を”電光的敏捷”をもって巡覧したとあり、自身は彫三島茶碗に点てられた藪内節庵宗匠点前の一服を楽しんだとある
Ø 小林逸翁(一三、1873~1957) 実業家。山梨生まれ。鈍翁の弟英作(紅艶)の家に寄宿して慶應義塾卒後、箒庵の知遇を得て保証人になってもらい三井銀行入行。阪急東宝グループ創業。政治家としても活躍し、「今太閤」とも称される
三井銀行の大阪勤務時代の支店長が箒庵だったことが、小林に茶の湯をはじめ美術全般に目を向けさせた
戦後も活躍した数寄者も2,3いるが、茶の湯界への影響の大きさでは戦前の数寄者に及ばない中、戦中に始め戦後に頭角を現した数寄者の1人が逸翁。現在の私鉄による事業の先駆けを成す。自ら主催した「芦葉会」の茶会記『芦葉会記』が残る
小林逸翁雅俗山荘催し ⇒ 1942年開催。正客の得庵の他会記によれば、相客は得庵夫人・菊子、藪内12代の猗々斎竹風・紹光ほかで、野菜などを紹光が持参し食糧事情悪化を窺わせる
『小林一三日記』 ⇒ 若いころから死の直前までを克明に記した日記を遺族が1991年全3巻にまとめ公刊したもの。各大臣や戦後復興院総裁として活躍した政治的な話に加え、電鉄経営主体の事業の話も多いが、茶の湯を中心とした文化的な話も少なくない
宝塚歌劇団生みの親として演劇や映画にも関心が高く、厳しい演劇評論家でもあった
美術への関心も高く、買入帳には絵画、陶磁器に加え、根来の食籠や破笠の折敷膳、芦雪や呉春の絵もあり、若くして「既にコレクションの行方を暗示している」ともいわれる
茶の湯より美術品購入が先行。妻の養父が俳諧の宗匠で影響を受けたこともある
茶の湯に入ったのは40歳のころ、表千家の生形朝宗庵(自徹斎、1880~1966)に入門、同時に茶道具の購入が始まるが、日記に茶の湯が現れるのは終戦直前の4月、住吉の山田禾庵の招きで出向いた茶会。戦時中にもかかわらず豪華な懐石具に驚く
芦葉会 ⇒ 逸翁主催。1941~64年の茶会記『芦葉会記』が残る。最後の7年は逸翁没後に続いたもの。有名無名15名ほどの集まり。参会者が自署しているところに特色
終戦1か月前の生駒での例会は、空襲警報で土蔵に避難しながら解除を待って続けられた
51年の追放解除までの間、時間に余裕ができた逸翁は茶の湯を楽しむが、当時の茶の湯の在り方に批判を強める ⇒ 茶道具の高騰を嘆き、ノ貫式茶会(燗鍋で茶も飲み飯も食った)の現代化が必要と説く。また、茶の湯は真善美の同志的な心の触れ合いであり生活を美化する文化運動であるべきとし、国民生活と不離の習慣にまで育てようとした
鈍翁らの趣味至上主義に対し、戦後活躍した逸翁や耳庵らが茶の湯を批判した根底にあるのは近代合理主義で、人の心の中に合理主義と数寄とが同居することは難しい
「唯物論者的茶人には生涯お茶の心は分からない」との声もあり、逸翁の主張する新茶道は茶人や美術商には到底受け入れがたい理想だったが、逸翁が展開した家元批判・箱書批判・点前の改革論などは現在でもなお通用するものであり、茶の湯が必要な改革を怠ってきたというべき
逸翁が『美術工芸』を創刊し、梅田の阪急百貨店6階に美術商を集めて古美術街を作ったことも大きな功績
Ø 寺村唯庵(助右衛門雅彌まさや、1876~1949) 実業家。京都生まれ。糸問屋「堺屋」10代目
“藪内流三村”と称された茶家の1つ。歴代茶の湯を学び、雅彌も籜籠会で活躍
籜籠会 ⇒ 藪内流の茶人・数寄者が東山の秀吉を祀る豊国神社内の豊秀舎を会場として、秀吉の命日(18日)に月例会として行われた茶会。藪内流12代若宗匠猗々斎紹光を盛り立てるために始められ、1928~42年まで計123会続き、戦況悪化で休会を余儀なくされた
唯庵が担当したのは1934~42年の計7会と多くはないが、34年以降はほぼ毎回のように客として参加、会の存続を支えた有力メンバー
四条河原町 寺村唯庵茶事 ⇒ 1921年開催。得庵の他会記に拠れば、待合(寄付というべき)に蕪村の四季山水図のうち秋の図が掛けられていた。先祖に著名な俳人がいたので、掛物や屏風に俳諧に因んだものが出されたのだろう。名品揃いの楽しい茶会が偲ばれる
Ø 関西の美術商 三尾邦三・戸田音一 ⇒ 起源は17世紀中頃で、古くは「唐物屋」「骨董屋」と呼ばれたが、江戸末期になると茶会にも深く関与、時には茶会を主催した
Ø 三尾邦三(みつおくにぞう、春峰しゅんぽう、1891~1966) 美術商・代議士。和歌山生まれ。春海藤次郎に奉公、春海熊三と称され、30歳で実家の不動産を買い戻し、「松雲荘」を造営、昭和初年に帰郷、代議士となる
春海商店三尾邦三の茶会 ⇒ 1921年開催。得庵の他会記に拠れば、専務の松尾が前年秋外遊から帰国した報告のための茶会。和歌山に新築した自邸の披露。招待状をフランス語で書いたり、燕尾服で現れたり、道具組にもレンブラントの版画が掛けられ洋行持ち帰りが使われと西洋かぶれ極まれりの演出。夜は底抜けの騒ぎとなって一泊
Ø 戸田音一(露綏ろすい、1892~1942) 美術商。大阪生まれ。父の谷松屋4代露朝隠居に伴い5代弥七と改名、31年当主となり露綏を名乗る。35年弌玄庵文庫『雲州公御蔵帳』刊行
谷松屋戸田音一の茶会 ⇒ 1922年開催。得庵の他会記に拠れば、戸田音一が大徳寺孤篷庵で主催した遠州に因んだ茶会。濃茶席を戸田が担当し、薄茶席は光悦会発足に奔走した京都の美術商・土橋永昌堂の初代嘉兵衛が担当。戸田商店は大阪で春海商店と並ぶ老舗。春海のような奇を衒う趣向もなく、まっとうで名品揃い
光悦会は、1913年光悦寺の住職・前田日延の提唱で発足。戸田嘉兵衛らの尽力で2年後に初会を開催。境内の大虚庵・本阿弥庵に加え、騎牛庵・三巴亭が増築され、鈍翁・箒庵など関東の数寄者も協力、22年には財団法人化し、毎年紅葉時に1会3日間開かれ、大師会とともに2大茶会として2015年には100周年を迎えた
戦前までは美術商は協力しても主導権は数寄者が握っていたが、20世紀後半以降は家元の権威が非常に強くなったと同時に美術商の力も強まり、数寄者の力が相対的に弱体化していることは否めない
Ø 水谷川紫山(みやがわしざん、忠麿、1902~61) 宮司。東京生まれ。近衛篤麿の4男。文麿・秀麿(指揮者)・直麿(ホルン奏者)を兄に持つ。1918年水谷川男爵家の養子となり、華道御門(みかど)流を再興、家本(ママ)として活動。戦中は貴族院議員として兄・文麿を助け、同時に兄を助けて近衛家に伝わる文書や美術工芸品の保存管理のための陽明文庫の設立と運営の中心を担う。46年春日大社、談山神社の宮司
寿月会 百会記 ⇒ 扉に「85叟 逸翁」と墨書あり、死の3週間前の自著。「寿月会」は1947年逸翁らが発起人となって茶道文化に新しき一路開拓を期して、奈良春日大社にある寿月観で毎月23日に開催された月釜で、58年の100回まで続く。寿月観は、毎年5月3千家宗匠による同神社の献茶祭の拝服席として知られた茶室。限定50名の会員には奈良・京都の社寺、数寄者、美術商、文化人などが名を連ねる。戦前から逸翁の面識を得、寿月会発足に当たっては発起人を依頼、百会記にも題字の揮毫を要請
『紫山水谷川忠麿遺稿』には、紫山の随想や和歌が掲載されるが、茶の湯については触れられず、紫山の茶の湯への向き合い方などは不明だが、かつては堺や京都に匹敵した奈良の茶道が寂れてきたことを慨嘆している
第36回寿月会 ⇒ 1951年開催。紫山担当。予楽院作花入「志保竹」は竹の突然変異で竹が「シワル」皺になったもので珍しく貴重。近衛家出身との矜持が色濃く反映された道具組だが、関東の数寄者は好まない
第54回寿月会 ⇒ 1953年開催。紫山担当(銀婚自祝)。寄付の画讃の筆者は津田青楓で、画讃の「資百福」は「万寿を称し百福を資(たす)く」との祝詞
第75回寿月会 ⇒ 1955年開催。正子夫人担当。徹底して外国産の美術工芸品でまとめた茶会として珍しい
陽明文庫の研究を通じて、近衛家の歴史や伝来の茶道具について熟知していたのみならず、絵画や音楽、和歌、華道にも通じ、伝統を誇る神社の宮司も務め、政治の世界にもいて広い見分と知識を身につけ、様々な人との付き合いがあったことを窺い知ることができる
やや距離を置いて茶の湯に接し、良くも悪しくも自分が接する多くの分野の1つとして認識していたのではないか
Ø 長谷川宗寿(元孚もとざね、1844~1907) 実業家、茶人。松坂生まれ。木綿問屋長谷川家の分家の1つ、西家(戎屋)は1738年創業、元孚は6代目
得庵の茶会記に全く登場しない。松坂の豪商長谷川には本家以外に東・南・西の3分家があり、本家は裏千家の茶の湯を嗜むが、茶会記は見いだせず。西家・元孚の茶会記のみが現存
沸湯の扣(自会記、1883~1904、計157会)、諸家釜日扣(他会記、1887~93、計219会)、利休居士300回追善茶事など計5会、長谷川宗暉追善茶会記(1875)などが遺る
道具組に唐物や名物が見られないのは、伊勢商家の茶の湯であれば致し方ないし、道具に拘らないのが宗寿が学んだ裏千家の主張した茶の湯。名物を求めて騒いだ数寄者たちとは異なり、無理のない範囲で手にした道具で純粋に茶の湯を楽しんでいたように見える
裏千家を学んだと推測される宗寿が、藪内や表千家の利休追善茶事記録を残したのか背景は不明
茶の湯を始めとする伝統芸能は維新で大きな痛手を受けたと考えられてきたが、宗寿の記録にあるような地方に根付いて小商いをしていた商人たちの茶の湯の集まりは、維新の荒波の影響をあまり受けることなく、江戸時代とさほど変わらないまま続けられていたと考えてよさそうだし、江戸や京・大坂の大都会での茶の湯も、武家や公家と縁のない町人たちの趣味としては維新の前後も変わることなく続けられてきた
第2次大戦終戦までの近代の茶の湯も、専ら数寄者と称された人物を中心に光が当てられているが、その底辺では江戸時代から変わらず連綿と茶の湯を続けていた商人を中心とした都市住民が支えていたと捉えるべき
Ø 煎茶会記 ⇒ 近代茶会記の最古の1つ『十八会記』にも煎茶会記が記録されたり、茶の湯の茶会記に相応する煎茶の記録「茗醼録」が遺されたりと、江戸末期に引き続き維新後も煎茶が盛んに行われていて、近代数寄者の主たる興味の対象は茶の湯だったが、煎茶道具も買い求めて形成されたコレクションに加えている
煎茶つまり「淹れる茶」の飲み方は、室町末期には日本に伝わり、抹茶の書物として有名な『南方録』にも利休と親しかった大徳寺の古渓宗陳がことさら煎茶を好むとあり、利休に煎茶にも茶の湯と同じように法式を決めて欲しいと依頼し、利休も受けている
17世紀中頃には宮中でも煎茶が飲まれていた資料があり、18世紀には庶民にも煎茶が普及したとあって、文人に好まれ、やがて煎茶道が確立される
得庵の主催した煎茶会の記録が残る ⇒ 1929年開催。有声軒という黄檗山萬福寺境内に、その前年煎茶道の祖とされる売茶翁高遊外を祀る売茶堂と共に建てられ、現在も煎茶会によく利用されている所。有声軒落成を機に結成された高遊会という煎茶を好む人の集まりの第2回目を得庵が主催。8畳間の待合に続き6畳間の本席という広さで、茶の湯の茶室とは相当に雰囲気を異にしている。道具組も茶の湯とはかなり異なるが、得庵の席の全体的な印象としてはかなり茶の湯的な要素が入っている
20世紀初頭までは煎茶も結構興隆したが、後半に入ると茶の湯が数寄者に代わって門人数の増大を背景に力をつけてきた家元主導でかつてないほど盛んになるのとは逆に、煎茶の勢いには陰りが見られ、家元制度を取り入れたりするが、茶の湯には遠く及ばない
両者の盛衰の差は、茶の湯における「侘び数寄」に比肩できるような理念が確立されなかったこと。「清」とか「清風」という理念を主張する煎茶派もいるが、書物には残っていない
茶の湯では、「侘び数寄」から発展した「わび」「さび」、近代になってからの造語と考えられる「わびさび」などの語句を耳にするが、煎茶を語る語句はほとんどない
煎茶は、発生時点では茶の湯批判が1つの存在理由になっていたが、明治以降は家元制度など真似て一種の自己矛盾を解消できなかった
茶の湯では、千利休以降も古田織部、小堀遠州、金森宗和、片桐石州など個性的かつカリスマ性を備えた茶人が輩出したのに対し、煎茶にも隠元隆琦や売茶翁、上田秋成などの名は上がるが、存在感に乏しい
道具についても、かつては茶道具を批判しながら、名品を追い求め、これまた自己矛盾
煎茶は、茶の湯に欠けた自由で闊達な雰囲気を重視したものの、独自の基本理念が構築されないまま、外見的には茶の湯と同様な姿になってしまったことが失速の原因
第2章 近代数寄者の茶の湯
I 近代数寄者と茶の湯
茶の湯に関わる人物
① 数寄者 ⇒ 江戸以降の語句。茶の湯を行う人という漠然とした意味合いで使われたが、20世紀後半になってから、「近代数寄者」として19世紀後半~20世紀前半に実業家として成功したうえで茶の湯に入った人物を総称するようになった。唐物や名物として古くから著名だった茶道具を中心にコレクションを形成した人物とも認識
本書の定義:茶の湯に強い執着を抱きながらも、家元制度の中に組み込まれることを避け、家元や家元制度とは一定の距離を置き、代々または一代で築き上げた資産を茶道具の蒐集につぎ込み、定期・不定期に茶会を催す人
② 家元 ⇒ 門人を把握し管理する元締め
本書の定義:高名な茶人の血をひき、古くからの点前作法を継承し、代々茶の湯を教えてきた家の長で、流派を率いている人
③ 宗匠 ⇒ 代々茶の湯を教えることを生業としている人々
本書の定義:代々茶の湯を教えることを生業とし、流派の中で重要な地位を占める人
④ 茶人 ⇒ 生活の一部として茶の湯に親しみ、家元制度に組み込まれている人たち
本書の定義:一応は家元制度に組み込まれながらも独自の見識を有して、茶の湯に深く関わる人
⑤ 門人 ⇒ 家元制度に組み込まれて茶の湯を教える先生と、茶の湯を学ぶ弟子(社中)の包括的な呼称
本書の定義:家元制度に組み込まれて、家元の指示通りに茶の湯を学び、あるいは教えている人
近代数寄者に関わる先行研究
① 原田伴彦著『近代数寄者太平記』1971年刊 ⇒ 「近代数寄者」の呼称の起源
② 熊倉功夫著『近代茶道史の研究』1980年刊 ⇒ 近代茶の湯に絞った最初の学術書
③ 田中比佐夫著『美術品移動史―近代日本のコレクターたち』1981年刊 ⇒ 数寄者に限定せず
④ 熊倉功夫著『近代数寄者の茶の湯』1997年刊 ⇒ 箒庵を通じて近代茶の湯を概観
⑤ 田中秀隆著『近代茶道の歴史社会学』2007年刊 ⇒ 社会学の方法論を用いて茶の湯を論じたもの
関東と関西の違い ⇒ 家元に対する接し方の濃淡、茶会の在り方も東京では和やかであっても羽目を外すようなことはないが、関西ではしばしば懐石が長引き、宴会と化すことも珍しくはなく、時に祇園に繰り出すこともあったという。関東の茶事では濃茶の点前が始まる前、中立までが懐石で、「茶事は二時を過るべからず」と戒めてきたが、関西では濃茶・薄茶を出してから懐石に移る方式(前茶)が多い
住居の考え方 ⇒ 東京では、小田原から箱根にかけて別荘を構える人物が多く、関西では「神戸に住んで、大阪で儲け、京都で遊ぶ」のが男の理想とされた
II 近代数寄者の茶の湯論
茶の湯のありようを正面から論じた書物の白眉は、『山上宗二記』『南方録』『不白筆記』『茶湯一会集』だが、数寄者による茶の湯論は極めて少ない。③の両者は教育者と哲学者で数寄者ではないが、近代茶の湯を考えるうえで重要と考え取り上げた
① 高谷宗範と高橋箒庵の論争
宗範は、茶道を武士道と「同一の精神」であると考え「茶道経国」を唱え、茶の湯の現状を憂え、儒教的色彩の濃い茶の湯にすべきで、以って国家の基本道徳としようと訴える
これに嚙みついたのが箒庵で、『おらが茶の湯』を著し、茶の湯は本来趣味であって、様々な好影響をもたらすが、それはあくまで二次的な副産物に過ぎないとした
② 小林一三と松永安左ヱ門の茶の湯改革論
小林の茶道論は、『大乗茶道記』『新茶道』など刊行されたが、批判の対象は茶道具の値段の異常な高さで、国際的に通用しないばかりか、将来は必ず下がるとし、ノ貫式茶会(燗鍋で茶も飲み飯も食った)の現代化の必要性を説く
小林の主張の根本にあるのは、茶の湯は真善美の同志的な心の触れ合いであり、生活を美化する文化運動であるべきとの考え方
松永耳庵の茶の湯論は、『わが茶日夕』『桑楡録』『茶道3年』などで展開、和敬清寂を旨とし、茶の湯の素晴らしさ、内容の深さを「宗教道場」と表現。合理性を基本に据えた稽古の方法とその統一を主張、新しい茶道教本の構想を暖めたが、小林は乗り気ではなかった
両者の根底にあったのは、実業界で培われた近代合理主義だが、一般の茶人からは「御殿様の趣味」の域を出ないとの批判が強かった
③ 奥田正造(1884~1950)と久松真一(1889~1980)の茶の湯論
奥田の『茶味』に拠れば、茶の湯には仏教の教えがその根底にあるとはいえ、「茶禅一味」を一貫して主張するのではなく、先達茶人の逸話を多く紹介し、その言わんとしているところを解説し理解させようとする。彼自身は若いころから仏典の研鑽に励み、彼の主張には仏教に対する深い理解に裏付けられた思想が流れ、自らの実践を通して示した「茶味」は現在の茶の湯に鋭い問題提起を投げかける
久松は、初めて茶の湯と禅という深い関係を詳しく論じた宗教哲学者。京都帝大で西田幾多郎に感化を受け西洋哲学に疑問を抱き、妙心寺に入って参禅し思索を深める
『茶の精神』を著し、茶道文化を不均斉・幽玄・静寂など7つの性格に分け、それを統一した本質的なものを「無」とし、「無」こそ日本茶道文化を作り上げた創造的根源だとした
茶の湯はとかく遊興に流れやすいことを歴史が示しており、周期的にそれを戒める論調が出されて茶の湯に揺り戻し作用が働いていたが、時に極端な論調に陥ることが多く、その結果人心が離れていった ⇒ 奥田と久松の論調は、揺るぎない根本理念を示そうとした
III 近代数寄者の茶道具蒐集と美術館
村山龍平のコレクションは茶道具のほかに仏教美術と武具類が多く、五島慶太(古経楼)は茶道具のほかに古写経や刀剣が多い。根津や藤田傳三郎(香雪)などは茶道具に限らず、日本の古美術が海外へ流出するのを憂えて買い求めたので日本や東洋美術全般を網羅
原三溪や正木直彦などのように、茶の湯そのものよりは、実際に茶会で使用された美術品(茶道具)により関心を示す者もおり、根津・藤田以上に日本/東洋美術としての優品が揃うことが多い
近代数寄者の多くは、得庵や畠山即翁のように、唐物や名物を多く集め内容を充実させ、茶道具中心のコレクションとなり、多くは1960年代以降美術館として公開
茶の湯関連の美術館・博物館は42館。うち国公立は8館で、7館までは寄贈された個人のコレクションであり、残る1館も東京国立博物館で、複数の個人コレクションが寄贈・寄託されて内容が充実された。私立の34館のほとんどは個人、それも数寄者のコレクションが中心で、茶の湯に関わるコレクションがいかに個人の力に頼っていたかがわかる
美術館の基礎となったコレクションの成り立ちはいろいろ
l 徳川美術館や彦根城博物館、陽明文庫などは、かつての大名家や公家の家に伝世したもの
l 泉屋博古館や三井記念美術館、本間美術館などは江戸時代から続く豪商や財閥が代々にわたって収集したもの
l 樂美術館や茶道資料館などは、桃山時代から続く職方や茶家に伝わる資料が中心
l 大和文華館や出光美術館などは、開館後に少しづつ買い集めて大きくした
l 多いのは、明治以降急成長した新興財閥のオーナーなどの数寄者が茶の湯に関心を示して、蔵を開いた大名家や公家の売り立てで買い求めて出来上がったコレクションを基に開館した美術館
第1世代 ⇒ 藤田香雪の藤田美術館
第2世代 ⇒ 三井松頼などの三井記念美術館や村山の香雪美術館
第3世代 ⇒ 根津美術館や住友春翠の泉屋博古館
第4世代 ⇒ 得庵の野村美術館、五島美術館
井上世外、鈍翁、箒庵、原三溪などのコレクションは散逸
さらに第5世代ともいうべき湯木貞一の湯木美術館(大阪)、北村謹次郎の北村美術館(京都)、萬野裕昭の萬野美術館(大阪)などがある
IV 近代数寄者と茶道具商
茶道具商の活躍する基盤を提供したのは大名家を中心とした売り立ての開催
1871年の姫路酒井家所蔵品の売り立てが最初。以後第2次大戦まで1300回ほど実施
参加者は、鑑札を得た美術商のみで、数寄者たちの指示をもとに入札に参加
茶道具は「名物」という茶道具独特の特殊な美意識に基づいて価値判断されるとともに、「伝来」が重視され、作者の茶人を投影させて見るというフェティシズムが働く
独特の価値判断は近代に入ってから加速、茶道具商がそれに拍車をかけた
遠州蔵帳、雲州蔵帳(松平不昧の所蔵品目録)とあっても目録自体が書誌的に信頼できる史料ではなく、目録自体が存在していないのにかつて誰かが所持していたとの伝来に基づいて○○名物などと称される場合もあるし、さらには伝来はほとんどが箱書に書かれた情報によるものであり、その真偽が厳密に検討されていないことが多い
茶道具には名物という言葉が使用され、大名物・名物・中興名物などに分類されるが、利休以前から有名だったとされる大名物でも、それを確認する資料に乏しいのが現状
ましてや、千家名物・八幡名物や○○家伝来などと称される茶道具も同様で根拠に乏しい
表千家と三井家、裏千家と住友家や湯浅家、藪内家と野村家や村山家との関係は深く、そこに茶道具商が絡んだトライアングルが形成され、明治維新以降低迷していた茶の湯を立ち直らせる原動力となった
第3章 資料篇
Ø 近代の茶の湯に関わる主な人々
Ø 近代の主な美術商
Ø 主な近代の茶会記
Ø 近代の主な茶会
一休会(関東) ⇒ 安田善次郎が一休和尚の偉器大徳を崇仰敬慕し、毎年11月21日に回向供養をした
遠州会(関西) ⇒ 1900年、大徳寺孤蓬庵で小堀遠州の遺徳を追憶欽慕するために発足、現在に続く
延命会(各地) ⇒ 1939年東京にて、美術史学者の荻野仲三郎や仏教学者の鈴木大拙を囲む財界人の茶会として発足。石井光雄、畠山一清、松永安左ヱ門、石坂泰三らの持ち回り
北倉(きたくら)会(関東) ⇒ 齋藤利助(寿福庵)が世話人となって、細野燕台などメンバー持ち回りの茶事を楽しむ会
敬和会(中部) ⇒ 『南方録』の研究と松平不昧・井伊宗観の茶を紹介する目的で名古屋の数寄者たちが結成。1922年第1回。51回まで茶会記が残る
光悦会(関西) ⇒ 本阿弥光悦を偲ぶ会。1915年発足。現在も光悦寺にて開催
好日会(関東) ⇒ 1946年団伊能が発起人となって齋藤利助が鎌倉で発足させた大寄せの茶会。鎌倉在住の茶人の茶席持ち回り
三傑会(中部) ⇒ 1936年信長・秀吉・家康を偲び、尾張徳川19代義親を発起人として結成。各地の数寄者も参加して42年まで7回開催
十八会/浪花風流十八会(関西) ⇒ 村山らを発起人として1902年関西の数寄者18人で結成、持ち回りの月例会
寿月会(関西) ⇒ 1947年小林一三らを発起人として、奈良春日大社の寿月館において開催の月釜。会員は50名限定。100回以上開催
篠園(じょうえん)会(関西) ⇒ 藪内節庵の稽古場において1908年開始の持ち回り茶会で41年まで続く。創始会員は他流派も含んで18名
松花堂会(関西) ⇒ 1922年松花堂昭乗を顕彰するため八幡市楽勝寺に茶室「閑雲軒」が再建され発足
大師会(関東) ⇒ 1895年鈍翁が狩野探幽旧蔵の弘法大使筆座右銘16字の一巻を披露する茶会を大師の縁日に品川御殿山の自邸碧雲荘で開催したのが始まりで、以後場所を変えて現在まで続く
籜龍(たくりょう)会(関西) ⇒ 藪内流の茶人が京都・豊国神社内の豊秀舎を会場に秀吉の命日の18日を月例会日として始めた茶会。1928~42年。服部七兵衛らが世話役
桐蔭会(関西) ⇒ 秀吉の遺徳を顕彰する目的で1928年京阪神の数寄者中心に結成。京都・豊国廟下の太閤坦に裏千家の発起で茶席桐蔭席が設けられた。現在は月2回の例会、4月の命日に豊国廟に献茶
北摂丼(どんぶり)会(関西) ⇒ もてなす心さえあれば丼一杯でも茶懐石になるという志のもと、1954年逸翁が始め57年まで持ち回りで続く
盲茶(もうちゃ)会(関東) ⇒ 1913年より鈍翁を中心とした三井内部の者によって組織
薬師寺会(関西) ⇒ 松永安左ヱ門の発起、東京で茶を飲みながら橋本凝胤薬師寺館長の話を聞く会。日中戦争激化に伴い逸翁の自邸で開かれ、逸翁急逝まで151会開催
吉野会(関西) ⇒ 1932年に中絶していたのを土橋嘉兵衛らによって再興、毎年島原の太夫道中と共に席が設けられ、現在に続く
四日(よっか)会(関東) ⇒ 1935年頃、円覚寺住職高畠眉山師の提唱で、毎月4日に行われた茶会。齋藤利助が尽力したが、第2次大戦勃発で中断
洛陶会(関西) ⇒ 3名工(仁青・乾山・木米)の顕彰を目的に松風嘉定を会長として発足。1921年東山大茶会と称して東山一円で始まり、昭和初期まで続く
芦葉(ろよう)会(関西) ⇒ 1941年雑誌『汎究美術』に逸翁が貰い物/ロハの作品の魅力を綴った随筆『芦葉の雫』がきっかけとなり第1回を、没後も1960年まで207会開催
和敬会(関東) ⇒ 1900年松浦詮伯爵の提唱で関東の数寄者の茶会を正式発足させ、震災まで続く。常時定員を16人としたため、「十六羅漢会」とも称す。当初は石黒忠悳、伊東祐麿、三井高弘、安田松翁で、鈍翁、藤原銀次郎、馬越恭平も後から加わる
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Ø 数寄者たちが蒐集した作品が見られる主な美術館
別ファイル参照
Ø 近代数寄者に関わる主な論文・記事
Ø 近代数寄者に関わる主な文献
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