天皇と軍隊の近代史  加藤陽子  2020.7.27.

 

2020.7.27. 天皇と軍隊の近代史

 

著者 加藤陽子 1960年埼玉県生まれ。89年東大大学院人文科学研究科博士課程修了(国史学)。現在東大大学院人文社会系研究科教授。主著『戦争の日本近現代史』(2002)、『戦争の論理』(05)

20年学術会議会員任命拒否6人のうちの1

 

発行日           2019.10.20. 第1版第1刷発行      2020.1.20. 第1版第3刷発行

発行所           勁草書房

 

初出一覧

総論    書き下ろし

第1章        長谷部恭男編『「この国のかたち」を考える』(14)

第2章        原題『日本軍国主義的興起』郭岱君主編『重探抗戦史(1) 従抗日大戦略的形成到武漢会戦(193138)(15)

第3章        劉傑・川島真編『対立と共存の歴史認識 日中関係150年』(13)

第4章        岩波新書編集部編『シリーズ日本近現代史⑩ 日本の近現代史をどう見るか』(10)

第5章        吉田裕ほか編『岩波講座アジア・太平洋戦争 2 戦争の政治学』(05)

第6章        吉田裕ほか編『岩波講座日本歴史 第18巻 近現代4(15)

第7章        増田弘編著『大日本帝国の崩壊と引揚・復員』(12)

第8章        『考える人』(11年夏号)

 

 

はしがき

この本は、1930年代の日本の軍事と外交を専門としてきた著者が、ときに、東大教養学部学生に向けて話した学術俯瞰講義、ときに、『岩波講座 日本歴史』の1章として寄せた論文、ときに、『考える人』の掌篇として描いた論考などを中心に編んだ8章と、今回書き下ろした長い総論から構成

イギリスからアメリカに国際秩序形成のヘゲモニーが移ってゆく1930年代、安全保障という点では、アメリカ中立法という外枠が設定され、経済発展という点では、やはりアメリカの互恵通商法という「坂の上の雲」が日本の目の前に現れる。このような時代にあって、安全と経済という2つの領域で政治的発言力を強めていった軍部、特に陸軍を分析対象として選んだ

筆者の研究を支えていた問題意識は、過去の痛苦を「忘れないこと」や戦争の前兆に「気づくこと」だけが戦争を考えるときにそれほど万能な処方箋なのか、との淡い疑念が著者には早くからあり、それだけでは戦争の本質を摑まえるのは難しいとの思いが予てからあった

今から220年以上も前、カントによって、共和国家体制こそが永遠平和のために不可欠だと説かれたが、その理由として、戦争の痛苦を一身に引き受けざるを得ない国民ならば、戦争という「割に合わない賭け事」に自らのめりこんでゆくはずはない、との想定があった。戦争で犠牲となる国民にその未来を決定する権限を与えておけば、戦争は起こらないはずだった。だが痛苦や惨禍を十分予想し得たとしても、「割に合わない賭け事」に自ら飛びこんでいく場合もあることを、人は経験的に知っている

今から100年以上も前、幸徳秋水は、「日本人は日清戦争に苦しい経験をしたことをモウ忘れて終った」の家、と日露戦争前に慨嘆していた。秋水は、戦争の痛苦をすぐに忘れてしまう国民が、戦争の起こされる原因に気づけずに、また次なる戦争に駆りたてられていく不条理を憂いていた

この嘆きの連鎖を止めるための方法は一筋縄ではいかないと思った筆者は、①国家の安全の概念と外交政策形成との関係に及ぼす政治主体としての軍、特に陸軍を描き、②政府の政策決定方式の本質的変容における軍の影響力について描いてみようと思った

総論を書いた背景は、近代にあって初の譲位による天皇の代替わりを目にし、近代の天皇の特徴とは何か改めて考えを巡らするようになったから

それは端的に言えば、軍隊の天皇親率との理念を根幹とするもの。天皇と軍隊の間に特別な関係が創出されていった背景には、明治ゼロ年代における士族反乱状況に対処するため、私兵的結合を排し、国内政治勢力に惑わされない中立不偏の軍事力の樹立が不可欠だったことがある。だが1882年の軍人勅諭中の「股肱の臣」と表現された天皇と軍隊の特別な親密さや、89年の憲法中の統帥大権と編成大権が規定する最高命令権者としての天皇の権威は、昭和天皇の時代動揺し変容を迫られた。天皇自身、39年の日独伊防共協定が問題になった時、陸軍に対し絶望感を述べる一方、軍人は軍人勅諭中の政治不干渉を勝手に解釈しパンドラの箱を開けて行く

総論では、まず、明治初年の徴兵告論から天皇制下の軍隊の在り方の特徴をおさえ、ついで、その原則が昭和初年になって変容する様を、青年将校らによる国家改造運動の有していた意味を再検討することでおさえる。1932年は、天皇が陸軍士官学校の卒業式に出席できなかった年であり、五か条の誓文に比すべき詔書の渙発を宮中側が覚悟した年でもあった

1章では、日本人が過去の歴史を振り返る際、そこで想起される「この国のかたち」とは、いかなる戦争の「記憶」によって形成されてきたのか、について考察

2章では、明治維新以降の日本は、憲法と議会と徴兵制軍隊という、近代国家の標準装備を備えた国として不平等条約体制からの独立を目指したといえるが、その際、日本の安全感や対外感における中国観・朝鮮観の特質は如何なるものだったのかを検討

3章では、第1次大戦はアメリカの参戦とロシア革命の勃発により根本的に戦争の性格を変えたが、日本の外交・軍事当局者はすでに16年には講和条約草案の骨子を準備しており、早すぎる「戦後」の準備によって日本は何を獲得しようとしたのかを検討

4章では、軍部内のクーデターである3月事件と関東軍の謀略による満州事変が起きた31年からの10年間、日米は何を巡って闘争していたのか、やや理念的に考察

5章では、天皇と軍隊の関係の変容は、軍人の政治不干与という大原則が否定されていく過程で生じるが、戦間期を対象に、軍による政治介入の問題を通時的に考察。ロンドン海軍軍縮条約をめぐる国内対立や満州事変を巡る国際連盟との軋轢は、日本の政軍関係をいかに変容させたか。これを統帥権と兵力量を巡る議論の変遷から追う

6章では、1940年を対象に三国同盟、近衛新体制、日米交渉という3大事案を巡る国内政治勢力の対立構造を描き、これらすべての背景にあった日中関係の打開という大問題がいかに構想されていたのかを論じる

7章は1945年を対象に、敗戦時に全国的に見られた軍需物資・資財の不正処理は現場の兵士の判断でなされたのではなかったこと、鈴木内閣最後の閣議決定の内容は、いかなる軍令として軍隊の末端まで指示されたのかについて論じる

8章も1945年を対象に、大戦末期に内地の各都市が受けた空襲被害につき、花森安治の散文詩『戦場』を読み解くことから考えた

 

総論 天皇と軍隊から考える近代史

1.    天皇と軍隊、その特別な関係

天皇と軍隊といった時に浮かぶイメージは、1940年紀元2600年記念の観兵式における勅語にある「朕が股肱たるの本分」が具象化されたものであり、1882年の『軍人勅諭』にも「朕は汝等を股肱と頼み」とある

戦争の最終盤アメリカは、それまで軍の行動の正当化のために利用されてきたシンボルとしての天皇を軍隊から引き剥がし、平和への復帰を促すシンボルとして転用し得ると構想し、他方、宮中勢力と海軍上層部を担い手とし、アメリカを相手とする終戦の道しかないとした東大法学部長南原繁ら教授グループは、天皇の詔書渙発方式による終戦を構想し、本土決戦に突入する前に日本軍の絶対的な抵抗を止め得る唯一の力を持つ天皇という地位の存在意義に、英米側が利用価値を認めている間に終戦に持ち込むしかないと考えた

軍部の武装解除を命じられる唯一の存在としての天皇に、日米双方が着目していた

 

2.    軍の論理と「幕府」論の存在

軍隊と天皇、兵備と国体の不可分論は東条ならびに当時の徹底抗戦派の持論

3133年、天皇と軍隊の関係性が大きく揺らぐ事実が露見 ⇒ 327月の陸軍士官学校卒業式に、安全上の理由から天皇が出席を取りやめたことと、32年前半、内大臣牧野伸顕や秘書官木戸幸一が「五か条の誓文」に比すべき詔書渙発を準備していたこと

当時青年将校や民間の国家主義者らは、しばしば批判すべき対象に「幕府」というレッテルを貼って批判。「幕府」に込められた意味は、1つには行政と立法を1人で担うような集権体制全般への批判であり、いま1つは天皇大権に対抗しうる軍事力を背景にした権力集中への批判で、後者については軍内部からも陸相と参謀総長の兼務、海相と軍令部長の兼務に対し強い忌避感が示された

 

3.    徴兵制と軍人勅諭

天皇を戴く国家体制は如何にあるべきなのか、現実に生じている政治経済制度の不具合は如何に解決されるべきなのか、という問いを巡る相克

元々明治の初め、天皇と軍隊の関係がいかに構想され、創出されていったのか ⇒ 維新政府が国家の軍事力再編に際し、9割が士族層で占められていた陸軍省において、士族志願兵制ではなく、徴兵制の軍隊を選択したのは、急進的な四民平等・秩禄廃止論に基づくもので、さらに士族の反乱を機に、徴兵制軍隊を天皇に直隷させるとともに、参謀本部を新設して、作戦計画・軍隊の指揮に任ずる軍令機関とした

陸軍省が目指したのは、天皇の許での軍隊統制であり、政治勢力と軍隊の結託阻止、私兵化の阻止、民権派=議会勢力からの軍事指揮権の分断

 

4.    宮中側近への攻撃と満州事変の作為

内閣製造者であった最後の元老・西園寺に対する右翼、国家主義者からの働きかけ ⇒ 関東軍による張作霖爆殺事件に対し、天皇が田中首相に辞職を迫ったとされる件では、「側近の輔翼」が悪いとして牧野内大臣や側近を辞めさせろとの声や怪文書が西園寺の元に届く

陸軍の策動は、参謀本部の若手将校141名が署名した、満蒙問題解決に関する檄文となって西園寺のもとに送られる

 

5.    共産主義の影

満州事変前夜、クーデターの推進者の中に共産主義者がいるとの噂。民間右翼、国家主義者、陸海軍軍人ら、多数のグループの間の連携を指示したことで知られる海軍士官藤井斉は、28年海軍将校の同志を結集して「王師会」を組織したが、左右両方の書を研究していたこともあって自覚的に共産党に接近、彼等の組織と言論を利用しようとしたふしがある

当時の共産党指導部は、帝大学生だった田中清玄らが中心で、武装主義を取っていたところから、軍の青年将校が共感し易い存在で、コミンテルン会議でも、軍隊内工作強化に成功したと報告されている

西園寺も、陸軍の若い士官の結社の状況から、陸軍内に赤、特に極左が入っていないかとの危惧を抱く

 

6.    士官候補生の天皇観

陸軍内部にあった天皇への不満は、軍紀厳粛ならず、若手連中には民間策士の指唆(しきょう)扇動を受け、北一輝、安岡正篤、大川周明などの門に出入りする者もあり、錦旗革命論という天皇否認論が唱えられ、士官学校から退学処分が出るしまつ

美濃部が例外領域として宮中と軍を挙げ、それぞれと天皇との関係の安定性が安定的な国政運営を左右すると唱えたが、1888年枢密院議長だった伊藤は、宗教が微弱な我が国で、国家の基軸として、また人心帰一の基軸に皇室を設定

 

7.    事件の計画性について

32,3年の一連のテロ事件の計画性のなさが常に研究の俎上に上げられるが、青年将校運動には2派あり、斬奸に目的を置く天皇主義派と、上部工作を通しての政治変革を目指す改造主義派。後者にあっても、先ずは現体制の破壊が先で、建設までは考えが及ばず、裁判自体が彼等の行動の正当性を国民に訴える場として利用され、実際にも機能していた

 

8.    上海事変の持った意味とは

満州事変(319)と上海事変(321)の関係性は、国際連盟がリットン調査団を派遣(3112)したのを受け、国際社会の目を満州から逸らすため、日本の特務機関が謀略によって上海事変を作為したと説明されるが、上海事変を作為した場所と、五・一五事件に使用された拳銃がやり取りされた場所が同じなのは、国内のクーデターと外国における謀略も呼応した地続きのものであり、列強の東アジアの拠点だった上海で大規模な戦闘が引き起こされた狙いは、単に列強の目を満州から逸らすどころか、世界貿易・開運の停滞により列強の経済の出血を強いることで、列強の対日干渉をより強いものとし、現政党内閣の存立基盤を危うくする狙いであり、更には列強の経済の出血により、日本への干渉的政策から手を引かせることを狙ったもの

 

9.    皇族という不安と詔書渙発

当時第5旅団長だった東久邇宮は、東北4省を保障占領すべきと考え意見具申

テロ頻発の政情不安、社会不安鎮静化のための詔書渙発の動きがでる

斎藤首相は、農民の困窮を中心とした国民の不満に向き合うため、「重大なる時局に際して国民に告ぐ」と題したラジオ放送で乗り切ろうとした

国家改造運動が盛んだった歩兵第3連隊の中隊長だった秩父宮が、憲法を停止してでも天皇親政を強く主張

秩父宮や東久邇宮の存在は、天皇にとって、人心帰一の基軸たる皇室の安定的運営は望むべくもなかった

 

おわりに

国外における戦争の目を効果的に鎮静化させるための方策と、天皇や皇室を維持してゆくための方策、二者択一を迫られたとき、西園寺が躊躇なく選んだのは後者

満州事変、上海事変の重大性に注意し、英米仏3国の対日態度を憂慮した天皇の観察眼は的確であり、上海事変を日露戦争以上の「難局」と捉えた大角海相の目も正確で、上海事変が日本側の当初の思惑を裏切った激戦となり、中国政府が国際連盟に新たに提訴し直したことを鑑みれば、時局に対する天皇の危機感や、内閣・統帥部に何等かの対策を取るよう求めた天皇の判断は正当な反応といえる

総論では、天皇と特別親密な関係で結ばれているとされた軍隊を天皇の統帥権の下で指揮すべき立場にあった青年将校や士官候補生の側に生じた新たな考え方に着目した。武力を以て国家を保護することを自らの任務と心得てきたはずの将校らは、危機の時代にあって国内の危機(共産革命や農民一揆)からも国家を保護するのが自らの任務だと読み替え、軍人の政治不関与を謳った軍人勅諭の核心部分を破壊していったと言える

 

 

第1章        戦争の記憶と国家の位置づけ

13年冬学期、東大教養学部で学術俯瞰講義「この国のかたち――日本の自己イメ-ジ」の連続講義を文章化したもの。日本近代史学にとっての「この国のかたち」は、日本人及び日本の国家としての累積された戦争の「記憶」にあると考えた筆者は、日清日露戦争に関して、最も信頼すべき最新の研究成果で明らかにされた史実をまずはきっちりとおさえて見ようと思った

2次大戦開戦直前の対米交渉において、日本側が譲れなかった満州国の承認と、防共駐兵権(停戦後も中国に駐兵する権利)に対する日本側の心性とは、日清戦争にまで遡る戦争の「記憶」であり、日本人及び日本の国家として譲れない条件=「この国のかたち」を形成

近衛内閣の外相松岡は、『日米交渉に関する件』と題した文書で、日本の東アジア政策が堅持されなければならない理由として、「永年にわたり幾多の困難を排除し、三度国運を賭し、20余万の生霊と巨大なる国幣を犠牲とし、漸くにして其基礎を築き上げた」からだとした

歴史学の立場から、「この国のかたち」と戦争の「記憶」の関係を考える

「歴史とは、根本において、批判である」(羽仁五郎)

日本の戦争に対する記憶の特質を考えると、フランスでは死者から生者に向けたメッセージとして残されているため正確に写し取られていることが確認されるのに対し、日本では生者から死者に向けたメッセージが史跡に残され、「過ちは繰り返さない」といった誓いと祈りの言葉になって、ときに生者の都合で死者の気持ちを忖度する恐れも生じやすい

戦没者追悼式で首相が述べた戦没者の思いは、特攻に散った学徒兵の残した手記や日記に淡々と綴られた文章から察せられる境地とは異なっていると思われる

 

日中関係に関する国民的な記憶の淵源としての日清戦争は、清国の対朝鮮出兵へと誘導した内閣の政策の勝利ではなく、蜂起した農民軍に対し日清連合で鎮圧行動をとろうとした政策目標の追求に失敗した内閣の失政の結果に他ならないというのが最近の研究の成果

朝鮮の進歩を邪魔する清国を倒し、朝鮮を独立に導いた、との神話が日本国内で広く信じられていくが、朝鮮の改革は朝鮮に任せよ、日中は撤兵すべきだとした清国の理性ある回答を拒絶し、撤兵に応ぜず単独で朝鮮の内政改革に着手し、ロシアやイギリスの調停も断り、戦争に突き進んだのは日本に他ならない

 

日露戦争開戦前の10年は、三国干渉への怒りに燃えた日本国民が臥薪嘗胆して日露戦に備えたとのイメージが定着していたが、実際は、国民の大多数と支配層の一部は直前まで厭戦的。開戦派の山縣・桂・小村も、消極派の伊藤も、満州問題と韓国問題を同時に交渉するとの立場では相違なく、満州問題解決のための対露開戦には山縣も反対で、日本側も最後まで開戦の意思決定がもつれ、一方、日本の韓国占領を容認するロシア皇帝の最終回答がより迅速に確実に日本側に届いていれば戦争は回避できた

ロシア側の資料からも、朝鮮問題が日露交渉の最大の対立点であったことがわかり、ロシアは日本に対し朝鮮の戦略的不使用要求と中立地帯の設定を求め続け、日本がこれを拒否し続けたのが半年余りの交渉の内実

日本側が、韓国問題を重視し始めたロシアの事情に疎かったのは、、日本自身が、韓国問題だけでは英米の支持を受けにくいと考え、満州の門戸開放を訴える戦争ならば英米の支持を得られると考えていた。一方、ロシア側も、日本の安全保障上に意味する韓国問題の位置づけの重さに気づいていなかった

日露戦争は、朝鮮半島を自らの安全保障上の懸念から排他的に支配しようとした日本と、それを認めようとしなかったロシアとの間の戦争

ロシア側は、ウィッテ蔵相を中心に遼東半島に向けた鉄道開発に邁進、旅順の軍港、大連の貿易港確保を目指したが、それより朝鮮に地歩を確保する方が経済的にも引き合うと考え始めたのが開戦数年前で、朝鮮を再び重視するロシア側の変化に日本側は無自覚だったばかりか、満州と韓国の利権を交換すれば、ロシアとの交渉妥結も不可能ではないと考えた日本の見誤りがあった

31年、満州事変を機に国際連盟の場で弁明を迫られた日本は、「数十万の生霊を失い、20億の負債」を負って満州を守ったのは日本だとの論陣を張り、1904年の戦争の記憶が上書きされた ⇒ リットン調査団が内田康哉外相に向かって述べた言葉は、41年の松岡の考える「この国のかたち」に対する有力な反論となっている。曰く、「満州が日本の生命線であり、日本が敏感だということは認めるが、他の国民もそれぞれ敏感なるべきものを持っている。欧州大戦の際、ある国々は国全部を挙げて戦い総てを失った。満州で20億を費やしたというが、欧州大戦ではそれより遥かに多くを費やし長く子孫を苦しめる負債を負った国も多々ある。20万の生霊を失ったというが、何百万の生命を失った国もある。しかもそれらの国々は唯1つのことを除いて大戦の結果何物も得なかった。大戦争で払った凡ての犠牲の結果として得た唯一のものは、平和を維持し、この惨禍を再び繰り返さざるための協同の機関だった」

日本人及び日本の国家としての記憶を、「この国のかたち」と表現したが、それを考える際大切なことは、それぞれの国や人々にも「この国のかたち」があるという事実を常に念頭に思い描くこと

 

第2章        軍国主義の勃興――明治維新から第1次大戦終結まで

スタンフォード大の郭岱君氏によって集められた台・日・中・米4か国の日中戦争研究者が分担執筆した『重探抗戦史(1) 従抗日大戦略的形成到武漢会戦(193138)』の巻頭論文として書かれたもの。漢字圏の読者を意識して、白黒を明確に書くよう努めた

列強との不平等条約体制を脱すべく、国家の「独立」を目指した明治政府が、富国強兵政策を取り始めて以降の歴史を振り返る。以下の問いを設定する。

    島国の日本及び日本人は、いかなる安全感(安全観念、国防感)を持ってきたのか。またその対外意識の中で中国は如何に位置づけられてきたか

    憲法や議会を含めた日本の政治制度の中で、日本の軍事制度は如何に位置づけられていたのか。その特徴はどのようなところにあったのか

    台湾、朝鮮を獲得して植民地帝国の1つとなった日本が、あるべきアジア太平洋地域の国際秩序を巡り、米英などの国々と、如何に対立を深めていったのか

1. 日本の朝鮮観・中国観の特質

1次大戦までの日本は、「近代植民地帝国の中で、これほどはっきりと戦略的な思考に導かれ、また当局者の間に、島国としての安全保障上の利益に関する、これほど慎重な考察と広範な見解の一致が見られた例はない」といわれるほど、島国としての自国の安全保障上の利益追求という目標が、為政者と国民の間で広く支持されていた

その背景には、古代日本が中国と対等の関係を築いているとの虚構が必要で、そのために朝鮮王朝を日本が従属させているとの挙行を作っていたことがあり、第2次大戦後、昭和天皇が敗戦時の鈴木首相や現首相の吉田を招いた茶話会で、白村江の戦で敗れたことを持ち出して、「その戦いが日本の文化の発展の転機となったことを考えると、今後の日本の進むべき道も自ずからわかる」と言っている

「日本」という国号は、669年以来中断していた唐への朝貢使(日本側の認識では遣唐使)702年再開した折に、「倭」ではなく「日本」と称したことから始まる

天皇とは、その本質において朝貢国を従えて初めて成り立つ称号であり、天皇が天皇たるためには朝鮮の服属が不可欠の前提 ⇒ 唐を隣国、新羅を蕃国(中国から冊封された諸侯の領地のこと)との対外認識を前提に国内支配に臨む

 

2. 政軍関係の特質と構造

旧藩支配下の身分制的な軍隊を武装解除できたのは、薩摩藩兵の強大な軍事力のお陰だったが、西郷個人の影響力の強い近衛兵の勢力は、中央集権国家の軍隊としては危険と思った長州系の政治家が1873年に実現させたのが国民皆兵を志向した徴兵令

78年参謀本部条例が、また、79年陸軍職制で「帝国日本の陸軍は天皇に直隷」すると定められ、軍や軍隊を政治の影響力から隔離する意味での統帥権独立を図り、実際の運用も政治と軍事の調和が比較的図られ、日清・日露戦役においても政府と軍の意思決定が一致していたのは、軍事を管掌する元老の山縣と政治を管掌する伊藤の存在が大きかった

統帥権独立による弊害が出始めるのは、大正期になって元老の協力による支配が緩み、政党・官僚・軍閥という3つの勢力が元老から自立化を遂げたことを契機とし、次第に内閣や議会による軍への干与を拒絶するという攻撃的なものへと転換

憲法は、11条で天皇の統帥大権を定め、天皇を輔翼するのは陸海軍大臣等とされ、55条の国務大臣の輔弼の範囲外としているが、12条の編成大権については国務大臣の輔弼の対象とされ、議会に予算議定権が認められていた。問題は1937年以降、長期にわたる戦争については開戦から終結までを1つの会計とする特別会計で運用されたために、議会の予算審議権が限定的なものとなってしまったこと

元老勢力の衰えと同時に、制度的にも国務大臣単独輔弼制で、当時の内閣制は憲法下の議院内閣制ではなく、首相に国務大臣の任免権はなかったこと、更には軍部大臣現役武官制などが加わって、閣内の陸海軍大臣の意向如何で内閣の死命が制せられることになり、次第に軍部が政治を圧倒するようになる

 

3. 日清・日露開戦の過誤と正当化の論理

日清・日露開戦の理由は、日本の国家としての安全感を確保するために朝鮮半島が他国の支配下に入らないようにする必要があるとの見方で為政者が一致していたこと

日清開戦に至った要因は、日清共同で朝鮮農民の反乱を鎮圧できるし、それによって朝鮮の中立を確保し、ロシアの対朝鮮進出を抑えられると楽観的に考えた伊藤・陸奥の誤算と、その楽観を背景とした対清交渉における強硬さにあったというのが最近の有力説

日露戦で日本が戦争を賭しても解決すべきと考えたのは朝鮮問題。ロシア側も日本の財政力の過小評価から開戦に踏み切れないと侮り、日本が絶対に受諾できない朝鮮半島の中立地帯設定を主張して譲らず。朝鮮への排他的支配を狙う日本と、それを認めないロシアとの間の戦争だったが、日本は英米を味方につけるために満州の門戸開放を持ち出した

戦闘そのものも、陸軍においては予想外の火力兵器の非力から、時代に逆行する歩兵による白兵突撃主義へと転換を余儀なくされ、海軍でも日本海海戦を正確に記述した『海戦史』が秘匿され、現実の勝因とは異なる大艦巨砲主義への過信があとに語り継がれる

 

4. 植民地帝国日本の権益と国際情勢

1次大戦では、ドイツが山東半島に持っていた根拠地(膠州湾)の清国への還付の目的をもって日本に交付するよう要求して参戦。講和会議でも、調印への不参加を盾に政治的圧力をかけ、自らの主張を列強に認めさせたため、全権団の中でさえ、牧野や近衛のみならず松岡すらも論理の一貫性を欠き不信を招きかねないとして反省の機運が出る。中国による日本批判が事実に反すると言える人間は講和会議随員中に1人もいなかった

続くワシントン会議でも現状維持的色彩が強く、列強が中国に持つ既得権益を原則的に維持することで合意。中国の反論は封じられた

「次の戦争」を想定する場合に最も重要なカギを握るのは帝国国防方針。従来仮想敵国の第1はロシアだったが、1923年の改訂ではアメリカとされ、中国を巡る経済問題と人種的偏見を原因とする長年の対立から、対米戦争の公算が高いと見做された

 

第3章        1次大戦中の「戦後」構想――講和準備委員会と幣原喜重郎

日中共同研究の成果『対立と共存の歴史認識 日中関係150年』の1編。幣原外務次官に率いられた日独戦役講和準備委員会が、1516年という早い段階で準備した講和条約の内容について考察

大隈外相が設置。開戦後半年で独領南洋諸島と青島を占領し、獲得目標を達成した日本が、いち早く戦闘から身を引いて「戦後」を構想 ⇒ 対華21条要求と山東省のドイツ権益の継承を念頭に、英仏露からの支持も取り付け済み。併せて山東鉄道と鉱山を入手するが、日本側の大戦中の「戦後」構想は、如何に合法的にドイツ権益を奪取するかを一貫して追求

大戦最終盤での米中の参戦とロシア革命勃発による戦線離脱により、講和会議のテーマは一変した

鉄道と鉱山はいずれも私有財産であり、接収には法的根拠が必要だったが、有償ないし無償の譲渡案が検討された

 

第4章        1930年代の戦争は何をめぐる闘争だったのか

岩波新書『シリーズ日本近現代史』の最終巻「日本の近現代史をどう見るか」のために書かれた。それぞれの時代を貫く根本的な問題は何かを検討。満州事変から日中戦争までの時代について、戦後アメリカが書き換えようとした日本の「憲法」とは何であったかを問うことで考えてみたい。戦後に戦中の中立違反を問われないよう、侵略戦争を国際共同体に対する内乱と捉えたアメリカの態度が、1930年代にあって、概念・用語の最終的な定義者として現れつつあったアメリカに似せ、自らの戦争のかたちを造形していった日本の態度と、実のところ相似形をなしていたのは皮肉は真実

30年代は、ヴェルサイユ・ワシントン体制という国際秩序を自らの国家にとっての桎梏と見做した日本やドイツが、軍事力を梃に実力で体制の変革を図ろうとした10

1.   国際軍事裁判所条例の革命性

戦前期までのドイツや日本の「何が」連合国側にとって問題とされたのか、の考察が焦点

戦後の軍事裁判のベースとなった裁判所条例は、45年のロンドン会議で決定されたが、その内容は①戦争違法観と、②指導者責任観からなるが、①については国際社会での了解が既に成立していたが、②については今次裁判で初めて確立された法概念。事後法に相当するとの自覚を共有しつつ①②共に確立された点で革命的といえる

2.   指導者責任論が成立した背景

旧来の国際法の了解では、戦争責任は国家=国民全体の負うべきものとされた(国民責任論) ⇒ 領土割譲や賠償金支払いの形で実現

戦争責任を戦争指導者に負わせるとの議論が出てきた背景は以下の2点。①無条件降伏という戦争終結方式では敗戦国民は奴隷とされてしまうため絶望的な抵抗を招きかねないこと、②侵略戦争は「国際共同体に対する犯罪」であるとの見方が生まれ、犯罪に対する刑事罰は個人が受けるべきとの発想につながる

②のような考え方がアメリカで誕生してきた過程をみると、敵対国家の行った戦争を戦時国際法の規定する「戦争」ではなく「犯罪」と認定できれば、国際法の縛りを受けることなく、自国の武力行使を「犯罪」に対する取締行為/制裁行為として正当化できると同時に、伝統的な中立概念の制約から逃れられるとの考え方がはっきりする

国際法が要求する中立概念とは、交戦国に対する公平の原則だが、第1次大戦後の経済制裁は、侵略国に対しては公平の義務を負うことなないとの考え方に基づくもの

3.   1930年代アメリカの「中立」

30年代の世界において、アメリカの「中立」が東アジア情勢に持った意味とは

37年以降の日中間の紛争に際して、日中双方の戦争の形態に大きな影響を与えたのが37年制定のアメリカ中立法で、①武器等の禁輸、②戦争状態の認定についての大統領の裁量権、③交戦国への資金供与禁止、④物資の輸出制限、を内容とする包括的なもの

日本側を苦しめたのは②と③。大統領が戦争と認定すれば、アメリカ金融市場での調達・決済が不可能となる。日本は宣戦布告によるメリットも多くあったにもかかわらず、アメリカ中立法回避のため宣戦布告せず

4.   日中戦争を語る語彙から見えるもの

新しい国際規範がアメリカ主導で創出されつつあった30年代は語彙と概念を巡る闘争の時代であり、「概念や用語」の定義者となっていくアメリカに対し、その解釈をめぐり日本が如何に自らの行為を正当化しようと図ったのか、日中戦争を表現する際の日本側の語彙の変化を見れば明らか

アメリカが、目の前で戦う相手国を国家として認めず、あたかも「国際共同体に対する内乱」を起こしたものとみる視角に対し、日本も「国民政府対手とせず」と公言

 

第5章        総力戦下の政―軍関係

「戦争の政治学」をテーマとする『岩波講座アジア・太平洋戦争』第2巻の巻頭論文

30年代初頭のロンドン海軍条約と満州事変は、統帥権を巡る天皇と軍隊との関係、兵力量を巡る省部(軍政と軍令)の力関係を決定的に変容させた。特に満州事変は、天皇の指揮権=統帥権が軍エリート自身によって解体された事件と位置付けられる

1.   政軍関係論と第1次大戦

近代化の過程で、貴族政あるいは身分的支配秩序から民主政への転換過程で、シヴィルとミリタリーとが機能的、制度的、価値的に分離し、政軍ないし民軍の分化を前提とした関係が成立する

政党勢力の伸長する日露戦後の時期は、同時に、シヴィリアン・コントロールを排除するための制度的枠組みが完成しつつあった ⇒ 軍令事項について国務大臣の輔弼を通さずに天皇に上奏する帷幄(いあく)上奏や、軍部大臣現役武官制など

一方で、統帥権独立性による社会的統合を目標とした軍部と、民意による社会的統合を実現しようとした政党との相互関係も注目 ⇒ 国民の思想や教育に対して軍が積極的に関与していく構造の背景には、総力戦となった第1次大戦を経て日本の軍編成思想が再考を迫られ、未教育補充兵を平時から把握し教育する措置が取られ、大衆軍の創出と戦時における大動員を可能とするような国民の精神的統一を軍が必要としたという事情がある

1次大戦の衝撃は、政軍関係の新たな領域を生み出す ⇒ 1つは総力戦時代の戦争指導の問題であり、もう1つは国際協調的な国際秩序の成立に即応し、裏面で遂行された軍の二重外交の問題。20年代は軍部と政党との協調による総力戦体制準備期といえるが、一方で、平時における外国駐屯軍に対し参謀本部が直接の指揮権を持っていて、国策を推進する原動力として戦争があり、大陸への地歩を固めるのが国策である現状がある限り、陸軍は中国・朝鮮への支配のための影響力を行使しようとし続ける

2.   統帥権の内実の変容

対米、対露、対中作戦は総力戦にならざるを得ず、総力戦を支える拠点確保のために満州事変が計画された。政党内閣制が崩壊し、藩閥も政党も政策の総合主体たる地位を失ってゆくこの期間、政軍関係は大きく様相を変貌させる

満州事変を機に日本は国際主義から離反していくが、その過程で軍を政治的影響力から防衛するための統帥権独立が、攻撃的に使用されるようになり、増大する軍部の政治的影響力の根拠となる天皇の統帥権の実質も変容を迫られる

天皇が軍隊に向けて下す命令は、天皇の幕僚長である参謀総長に下され、奉勅命令として直隷の軍司令官に伝えられるが、満州事変の際の在朝鮮日本軍の満州派兵は、参謀総長の帷幄上奏による追認すら宮中側近により阻まれ、閣議も経ないまま軍エリートによって準備・断行されたもので、軍隊への天皇の指揮権=統帥権の実質が軍エリートの計画的な意思によって初めて解体されたという意味で象徴的

海軍がワシントン・ロンドン軍縮会議から離脱していくのも、編成権については国務大臣の輔弼を必要とされていながら、天皇の大権で包含されてしまったことが背景にある

3.   宣戦布告なき戦争

政府と軍部双方は、それぞれの思惑から政戦両略の一致を目指し、様々な機構改革を模索

近衛内閣は、内閣制度を改革し、首相の権限を強化することで、軍部制御を試みる

37年の盧溝橋事件後の対応として、内閣が一致して宣戦布告は行わないと決定したため、陸軍省は軍事占領=軍制施行に代わって傀儡政権による占領地工作に早くから着手せざるを得なかった

国務と統帥のあまりの乖離に驚いた近衛首相や宮中側は、戦時ではないが大本営設置による政戦両略の統一を試み、代わりに内閣参議制を採択、10名の参議により、日中戦争に関する政務指導を担った。一方で軍部からは、陸海軍の最高統帥機関として大本営が宮中に設置

中国現地での施策については、政治と統帥を混淆するものとの批判が当初からあったため、内閣直属の新機関として興亜院が設けられ、外務省が行ってきた対中外交の権限を陸軍に移すと同時に、傀儡政権の政治経済指導を担ってきた方面軍特務部も吸収

4.   対米英蘭戦争へ

40年、日中間に和平工作が有望視され、近衛首相は和平後の体制として、陸軍をも抑えられるような国内「強力体制」を樹立すべく新体制運動を進める ⇒ 戦争指導機関の改革と内閣制度改革を連動させ、天皇輔弼者の一元的強化、即ち首相への執行権力の集中を狙うが、東条陸相は政治への現役軍人の関与は不可としたため、構想は挫折

南進によって英米との対立が不可避的になろうとする時期、天皇は「御下問」や「御言葉」を通じて、統帥部を積極的にリードするようになり、軍部にとっても天皇をいかに説得するかが重要になり、41年以降の政軍関係は、天皇と軍部の関係として発現

宣戦布告なき戦争の形態は、各省割拠型の合議的な中国占領地支配をもたらすが、こうした状況は近衛新体制にとっても軍部にとっても兵政2権の分離の克服以上の混乱を戦争指導の場に持ち込む

統帥部は、政府側の意見が、首相の下に一元化されるのを常に望んでいて、軍の代表1名と政治の代表1名が天皇の前で論議を尽くし、「聖断」を仰いで最高指導方針を決定すべきとしたが、政治と統帥のそれぞれの一元化の行き着く先が「聖断」という形で展望されていたことは、戦争の実際の終結過程と考え合わせると象徴的

 

第6章        大政翼賛会の成立から対英米開戦まで

『岩波講座 日本歴史』の戦中から戦後への移行期を扱う巻の巻頭論文

日中関係を横軸、三国軍事同盟・大政翼賛会・日米交渉を縦軸に取り、陸海軍を中心とした対外政策決定過程を追った

本章の課題は、40年の三国軍事同盟・大政翼賛会成立から日米開戦決定に至る日本の政軍関係の特質を、国際関係を踏まえつつ明らかにすること

三国同盟を日中関係から見ると、陸軍、特に参謀本部の中に、日中関係を2国間交渉によってではなく、国際的文脈から解決しようとする考え方が誕生したと見る ⇒ 三国同盟の力によって英蘭の影響力を極東から排除し、その間隙を縫って自給自足圏を南方に確立することで日中戦争の解決を図ろうとする。日独中ソの4国間には、20年代半ばから40年にかけて、ドイツを中心とした4か国のユーラシア大陸ブロック構想が伏流水のように流れているところから、三国同盟調印により、ドイツと中国に於て同構想を支持する勢力が活性化し、その勢力を核とした日中停戦構想も浮上

大政翼賛会と日中構想との関係では、翼賛会が日中停戦構想の中で期待された対外的な意味づけで、近衛らが構想したのは中国との和平を実現し得るに十分な政治力を結集できる中核体だった

日米交渉と日中関係については、米ソ支援のための時間稼ぎとして日米交渉が引き延ばされただけでなく、日本側も日米間の紛争の中心に日中問題があるとして、外務省が日中停戦交渉の場に中国をつかせるために米国を利用しようとしていた

1.   欧州情勢の激変と近衛新体制の始動

39年の独ソ不可侵条約で日本の価値が飛躍的に高まり、急速に冷え込んでいた日独関係に劇的な変化が起こる ⇒ 近衛が枢密院議長を辞して新体制運動に乗り出す契機に

近衛新内閣の政策の特徴は、既成政党への対決姿勢と、軍への統制志向だったが、結果的には陸軍の主張を丸呑みして組閣し、外相に予定された松岡の「強さ」に依存

2.   国策決定の新方式と非決定の内実

407月、新内閣がまず決定したのは2つ、基本要綱と処理要綱 ⇒ 基本要綱は対処すべき9つの重要施策を上意下達で決めたものであり、処理要綱は大本営政府連絡会議で決定され、軍部の提案がそのまま通っているが、陸軍の素案に対し海軍が反対し、両者の対立は未解決のまま残される

3.   「革新」派の論理と大政翼賛会の成立

408月、革新官僚たちによって新体制設立準備が進められるが、彼らは中国に対する日本の戦いを「国際資本主義及び共産主義の支那に対する支配と、蒋政権の之に対する服従」を止める戦いと認識し、東亜協同体の完成によって革命を成就させるとした

4.   三国同盟の調印と自主的決定の確保

ドイツの影響力を東南アジアから排除するため対独接近を図ったのが三国同盟に結実

当初日本に冷淡だったドイツの態度は、7月のヒトラーの和平提案を英国が拒絶したことで急変。ドイツは日本に接近し、日本側は武力行使義務を可能な限り負わずに実利を獲得しようとし、対英米武力行使は自主的に決定すると明記させた

5.   国際関係の中の日米交渉

41411月の日米交渉は、アメリカにとっては前月から武器貸与法に基づき対英援助のための大西洋の船団護送のため海軍主力を大西洋に移動させる必要から、その間対日抑止手段を必要としており、日本側は対中和平仲介者の役割をアメリカに求めようとした

日本軍の南部仏印進駐に対し、アメリカが石油の全面禁輸で応ずることを軍部は予想していなかった。一方で、防共駐兵問題が固守すべき条件とされたことが、日中関係打開を図るために米国に仲介を依頼すべく始まった日米交渉の命脈が尽きたことを意味した

 

第7章        日本軍の武装解除についての一考察

復員・引揚の共同研究の一章として書かれた

あれほど自主的武装解除を主張していた陸軍が、815日の詔書放送を境として、なぜ米軍による武装解除・復員へと急速に梶(ママ)を切ったのか、その理由について考察

武装解除の問題が、ポツダム宣言受諾に当たって協議された際、国体護持の問題と対置されて論じられていた事実からくる重み ⇒ ポツダム受諾を巡る御前会議では、国体護持の1条件での受諾を主張する東郷外相と、加えて自主的武装解除、自主的戦犯処罰、保障占領拒否の4条件を主張する軍部が激しく対立。これらの条件はtermsと訳され、ポツダム宣言第5項でいう8項目の条件termsに対応し、無条件降伏という場合の条件conditionとは区別される

1.   武装解除を巡る攻防

東条は、国体護持と兵備保持の不可分性

ポツダム宣言の外務省による解釈では、日本国の無条件降伏ではなく日本国軍隊の無条件降伏としている

御前会議の後、国体護持1条件での受諾を連合国側に伝えた日本は、宣言が天皇の国家統治の大権についての変更を含んでいない旨の日本の了解が正しいものかどうかを連合国側に確認を求めた ⇒ 米国務長官バーンズの回答は、「国家統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれる」の解釈を巡って、陸軍が制限ではなく従属と解すべきで国体護持を連合国が認めたとはいえず、宣言受諾は出来ないと反対

実際の武装解除は気の抜けるほど平穏理になされており、敗戦の前と後でいかなる変化があったのか

2.   昭和天皇と遼東還付の詔勅

ドイツの劣勢が明確になったあたりから和平準備が始まるが、その際天皇は、「領土はどうでもいいが、全面的武装解除と責任者の処罰なくして平和は出来ないか」と洩らしていたが、455月のヒトラー自殺の報を得た辺りから心境の変化があった

「聖断」に於て終戦が選択されたということは、天皇の中で、武装解除と戦争責任者の引き渡しを断念したということだろう ⇒ 木戸日記によれば、天皇は、計画と実行の間に常に齟齬があった軍部を明確に批判したうえで武装解除と戦争責任者の処罰をやむを得ない事としていたが、他の記録を見ても共通しているのは、自主的武装解除と戦争犯罪人引き渡しの2点を断念し、軍に屈辱を忍ばせる論理として、三国干渉の事例が引かれている

814日の「聖断」では、自分の判断に変化がないこと、連合国は国体を認めている、武装解除は三国干渉時の心持でやり、陸海軍には勅書を、国民には詔書を出し、ラジオ放送で説明してもよい、との方策を語る

三国干渉時の明治天皇の対応とは、955月の「遼東還付の詔勅」を指す

3.   アメリカのジレンマ

無条件降伏路線が絶望的な抵抗を惹起する問題から、指導者責任論が出てきて、戦争指導者と国民を分離したうえで、寛大な講和の可能性が示唆されていた

4.   実際の武装解除過程

混乱の中で多くの物資を担いで復員してきた兵隊の姿は、軍隊に対する国民の最後の信頼を徹底的に失わせるに十分だった。軍と国民の決定的な乖離が、この軍保有物資の処分という形で噴出 ⇒ 軍保有資財の処分は、連合国への物資引き渡しを逃れるための閣議決定に基づくもの。武器等については民間5社が解体を請け負う

92日占領軍からの一般命令第1号により武装解除が始まる ⇒ 総ての資材、施設等の完全なる表を提出させられることになり、終戦直前の閣議決定は取り消された

 

第8章        「戦場」と「焼け跡」のあいだ

新潮社の季刊誌『考える人』(11年夏号)の小特集『花森安治と戦争』中の掌篇

『暮しの手帖』の688月の特集号『戦争中の暮らしの記録』に、花森安治が書いた冒頭の散文詩『戦場』を読み解いたもの

東京大空襲の翌朝、花森は、幸福だった庶民の生活の場を戦場にしたアメリカや日本の政府の行いを告発。新聞に回想を公募したところ集まった1736篇の中から収録

花森が、焼夷弾攻撃を受けた日本の諸市街地を「今度の戦争で最も凄惨苛烈な戦場だった」と見たのは正しい

収録された回想の中で、読み手を最も暗澹たる気分にさせるのは食糧を巡る日本人同士の闘争。本来であれば戦争を始めた政府や絶望的な戦いを続ける軍部に向けられるべき怒りが、身近の無力な他者に向けられている

花森が、女と子どもの戦場の記録を、68年という時点で庶民に突き付けた心根の奥には、単にアメリカや日本の為政者への憤りだけがあったのではなく、餓鬼道に落ちた国民の昔日の姿を、今一度思い出す必要性に迫られたに相違ない。反戦とは、そのような精神をもってして初めて可能となるからだ

 

 

あとがき

軍隊と天皇との関係を通時的に見た時の大まかな見取り図を掲げる

国家が公的武力(軍隊)に依った時期は、律令国家としての8世紀の奈良時代までと、明治維新以降終戦までの2

防人の歌を採録した大伴家持の意識の裏に、天皇の公民兵だとの皇軍意識、武門の名を負う大伴氏ゆえの自負がある

天皇親率を理念に置き、政治からの中立性を確保すべく誕生した近代の軍隊が、その後いかなる論理と経緯によって変容を遂げていったのか ⇒ 急迫且つ重大な危機がある場合、国家の安全を担保する軍人にはそれを防衛する義務があるとの論法

 

 

 

 

2020.1.11. 朝日

(書評)『天皇と軍隊の近代史』 加藤陽子〈著〉

 更新続ける通説、なお残る難題

 世間では「過去は変わらないのだから、歴史は暗記ものだ」という印象が強い。受験勉強の名残だろうか。しかし歴史学界では新しい研究成果が不断に生み出され、通説は日々塗り替えられていく。作家や評論家がしたり顔で語る史論が、学界ではとっくの昔に否定された説に依拠していることも珍しくない。

 近代史においては、歴史像が更新されていくスピードが特に速い。司馬遼太郎の『坂の上の雲』や『この国のかたち』で理解が止まっている人が本書を読んだら驚くだろう。

 たとえば日清戦争については、当時外相だった陸奥宗光の戦後に発表された回顧録『蹇蹇録(けんけんろく)』に引きずられて、日本側が意図的に戦争に持ち込んだとかつては考えられてきた。だが近年の研究では、清国に対する強硬な外交姿勢は開戦決意に基づくものではなく、戦争にはならないという伊藤博文らの根拠のない楽観が背景にあることが解明されている。

 日露戦争に関しても、日本の世論は戦争を支持していたというのが古典的な理解だったが、以後の研究では日本国民のかなりの部分は厭戦的だったことが指摘されている。三国干渉への怒りに燃えた日本国民が臥薪嘗胆してついにロシアに勝利するという「物語」は日露戦勝後に生み出されたという。

 このように興味深い論点が多数見られるが、やはり最重要なのは表題通り、天皇と軍隊の関係であろう。明治の軍人勅諭で政治への介入を厳しく戒められた帝国陸軍がなぜ昭和期に政治化したのか。「天皇の軍隊」であるはずの彼らがなぜ昭和天皇の非戦の意思をふみにじったのか。これは古くて新しい問題で、昨年邦訳が出たダニ・オルバフの『暴走する日本軍兵士』も同じテーマに挑んでいる。正直なところ、これらの本の説明を受けても私にはまだ釈然としない気持ちが残る。今後も考え続けるべき難題なのだろう。

 評・呉座勇一(国際日本文化研究センター助教・日本中世史)

    *

 『天皇と軍隊の近代史』 加藤陽子〈著〉 勁草書房 2420円

    *

 かとう・ようこ 60年生まれ。東京大教授(日本近代史)。著書に『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』など。

 

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