小説伊勢物語 業平 高樹のぶ子 2020.10.18.
2020.10.18. 小説伊勢物語 業平
著者 高樹のぶ子 1946年生まれ。84年「光抱く友よ」で芥川賞。日本芸術院会員、文化功労者。「トモスイ」「甘苦上海」「格闘」など著書多数。
発行日 2020.5.11. 第1刷
発行所 日経BP/日本経済新聞出版本部
日本経済新聞:
むかし和歌で「みやび」を体現した男ありけり
美麗な容貌と色好みで知られる在原業平の一代記。千年前から読み継がれる歌物語の沃野に分け入り、小説に紡ぐことで、日本の美の源流が立ち現れた
これは文学史上の事件である!
初冠(ういこうぶり)
業平15歳、初冠の儀式を終えたばかり。5歳年上の憲明(乳母・山吹の長子)を伴に春日野に鷹狩に出かける。途中で祖父平城帝(桓武帝に次ぎ51代)時代の都の様子をみようと、夕方の町を歩いて、姉妹が碁に興じているところを覗き見る
平城帝は、妃の母親と密通、譲位後に都を平安京から奈良に戻そうとして失敗し、業平の父・阿保親王も連座して、長く太宰府に配流の身となり、都人の評判は良くない
業平に気付いた姉妹に、贈った歌が、「春日野の若紫のすり衣 しのぶのみだれかぎり知られず」
返歌はなく、引き返す。源融の「みちのくのしのぶもじずり誰ゆえに みだれそめにし我ならなくに」を取り入れたもの
3憲明は業平の歌の才に、総毛立つものを覚える
雨そほ降る
平安京の右京(西半分)は、家々も少なく、七条まで下がれば市などで賑わうが、三,四条辺りは閑散としている。そんな中のある家に評判の女人がいると聞いて、業平が訪問
生母・伊都内親王が何故か都から離れたがっていると訴える。伊都内親王は桓武帝の皇女、配流から戻った阿保親王に嫁ぐが、阿保親王には配流先で親しんだ妻も子もある身
母の身代わりを女人の中に感じて、傍らにいながら起きているのか寝ているのか分からぬままに後朝(きぬぎぬ)を迎えたという状況を謳ったのが、「起きもせず寝もせで夜を明かしては 春のものとてながめ暮しつ」
誰(た)が通ひ路
業平は17歳になって近衛府に出仕、公卿の随身のほか宿直(とのい)にも精勤
歌読みの才覚は、宮人の口にも上り、美しい容姿や振る舞いとともに、女人たちの間でも評判で、通う先も一所ではなかったが、暑い季節になって一カ所に絞られる。西洞院大路五条の御方で藤原の血筋に連なるものの身分は高くなく傍流の末娘で恋上手
恋は追いかけるが負けといわれ、2晩五条を訪れなかったが、他の男が訪れている様子を想像すると3番目には堪らず歌を贈る。「出でて来しあとだにいまだかはらじを 誰が通ひ路と今はなるらむ」
蛍
ある日突然上位の官が文使いで来訪、異例のことに驚いて中を読むと、男の娘が通りがかりに業平を見初め、恋に焦がれるあまり病が重く、もはや臨終という。父親と一緒に家に行って娘を抱き上げるが、おろした時には息絶えていた。悲しむ家人に対し詠んだ歌が、「くれがたき夏のひぐらしながむれば そのこととなくものぞかなしき」
死人に触れると30日は外出謹慎となり、亡き姫君のことを想って笛を吹いていると、屋敷の中で琵琶が合わせるように鳴る。飛び交う蛍に亡き姫君を重ねながらまた一首詠む。「ゆくほたる雲のうへまでいぬべくは 秋風吹くと雁につげこせ」
昏(くら)き思ひ
洛西の嵯峨の院に住む嵯峨帝(52代、桓武帝の息子)は、業平の大叔父、文人として漢詩や書を能くし、死刑廃止の英断をしたが、今は病に伏せる
ある日父に密かに呼ばれて、近日中に嵯峨邸の崩御に合わせて良からぬことが起きるが、母を守るようにいわれる。葬送直後に謀叛勃発、張本人は空海に並ぶ書家で嵯峨帝の妃の従兄弟・橘逸勢で、嵯峨帝の娘(桓武帝の息子で53代の淳和院の皇后)の子・恒貞親王を担いで新たな朝廷を興そうとしたが、近衛府によって取り押さえられる
恒貞親王は皇太子を廃され、嵯峨帝の息子仁明帝(54代)の皇子・道康親王が立太子(後の55代、文徳帝)
母・伊都内親王は橘逸勢と親しく、その捕縛の報に体調を崩し、長岡に移ると言い出す
長岡
在任の流罪が決まり、逸勢は伊豆に下向途中、厳しい責めによる身体の衰弱から横死
直後に父死去の知らせが届く。逸勢の怨霊の仕業ともいわれ、謀叛の時から首謀者といわれ、密告者であるとも噂があった
母は長岡に新居を建てて移り住む。業平が訪ねると、童女たちが寄って来て歌を詠みかけるので、見目より長じた歌に仕方なく返したやり取りが、「あれにけりあはれ幾世の宿なれや 住みけん人のおとづれもせぬ」 「葎(むぐら)生ひてあれたる宿のうれたきは かりにも鬼のすだくなりけり」
更に寄って来た童女に一首、「うちわびて落穂拾ふと聞かませば 我も田面(たつら)にゆかましものを」(落穂拾うほどお困りなら、田の傍らまで出て行きお手伝いしましょう)。落穂拾いの数合わせの意味が通じたらしく、童女は走り逃げ、業平も追うのを止める
大幣(おおぬさ)
道康親王が紀氏の静子と結婚、皇子・惟喬(これたか)親王と内親王誕生。藤原氏の政治の力には押しやられていたが、紀氏は書や学問においては代々優れた血筋
静子の兄・有常が業平を見込んで娘と引き合わせる。和琴を能くするが3日通っただけで終わる。心に残っていたのは長岡で会った童女、憲明が捜し出して会ってみると、童女も覚えてはいたが、業平の思い焦がれる気持ちに対し歌のやり取りではぐらかされる
有常への義理で和琴の方に会いに行く。後に3日夜の間に子が出来たことを知る
若草
年を経て業平は蔵人となり、帝の御在所の御殿に勤仕、さらに2年後には近習の臣に
仁明帝が崩御され、東宮が文徳帝となり、紀氏の血筋から帝が出る望みが出てきたものの、藤原良房(文徳帝の母方の伯父)の娘・明子(あきらけいこ)が文徳帝の第4子・惟仁(これひと)親王を生み、僅か8カ月で立太子し、紀氏の望みは絶たれ、良房が外祖父として絶大な権力を振るう
藤原の色を好まず、文人の系譜である紀氏を敬ぶ業平は、落胆する静子を慰め、その娘・恬子(やすこ)内親王の弾く筝と自らの笛を合わせ、相府蓮を奏でるうちに愛おしさを覚え、贈った歌が、「うら若み寝よげに見ゆる若草を 人の結ばむことをしぞ思ふ」。それに対し子供とも思えない返し、「初草のなどめづらしき言の葉ぞ うらなく物を思ひけるかな」が来て、業平の心は思い乱れる
恬子内親王が皇女として伊勢の斎宮(いつきのみや)に遣わされるのではないかと心配
3年後、文徳帝崩御により惟仁親王が清和帝として即位(56代)すると、恐れていたように恬子内親王が斎宮に定められる
業平は、和琴の方と再会して、2人の間に子が出来ていたことを知る
白玉
恬子内親王には、斎戒の諸儀式が始まる
良房の権勢に気圧されて憂さ晴らしに、嵯峨帝の皇子・源融と逍遥に、父の領地だった芦屋の墓所を訪ねる旅に出る。船で山崎から難波津に出る。津は朝廷が認めた船泊なので、海賊などの心配はない。難波津に憧れを抱いていた業平は、太宰府から赦されて都に戻る途中難波津に立ち寄った際の父の思いを巡らせながら歌を詠む、「難波津を今朝こそみつの浦ごとに これやこの世をうみわたる舟」(浦ごとにいくつも見える舟は、この世にも似た憂き海を渡る。この世は思うにまかせぬ事ばかり、と嘆く)
住吉の明神は和歌の神であり、松林で歌会を開いた時の業平の歌が、「雁鳴きて菊の花咲く秋はあれど 春のうみべに住みよしの浜」
布引の滝に来て歌会をするが、滝の飛沫の白玉を自らこぼす不遇の涙に見立て、残り少ない自らの人生を落ちる滝水に譬え、白玉のように涙とともに袖を濡らすもよしとする鄙(ひな)住まいの人の見事な歌を誉める
露の宿り
露ははかなく消えるもの、いにしえより涙に譬えられ、それゆえ袖にて受けるもの
思いがけずわが身に降りかかるのも露であるのを身に染みて覚えることがあった
母に憑りついた物の怪を払うために詣った清水観音で出会った良房の兄弟の子・高子(たかいこ)に想いを寄せ、会えないまま袂が涙の露で濡れていると歌う
これをや恋と
母から手紙が来て、邪鬼が去ったという。「老いぬればさらぬ別れのありといへば いよいよ見まくほしき君かな」の歌が添えられて、会いたいというので、日々の宮仕えの身には長岡は遠いと書いた後、長生きしてほしいと返したのが、「世の中にさらぬ別れのなくもがな 千代もといのる人の子のため」
舅殿に会いに出向くと、幼子が庭で遊んでいるのを見て、もしや自分の子ではと声をかけると、果たして我が子と分かり落涙、わが子を育ててくれた舅に感謝の歌を贈る
そんな折、暫く音沙汰なかった高子から文が届き、喜びの涙が袖に溢れる
みそかなる
漸く願い叶って高子のいる五条の后(良房の妹で仁明帝の后・順子、高子を同じ邸内に住まわせて可愛がっていた)邸に入れてもらうが、御簾越しに話すのみにて中には入ることが叶わない
そのうち、邸への入り道だった築地に番人が立つようになり、密かに御簾まで行くこともままならなくなったことを詠んで贈った歌が、「人知れぬわが通ひ路の関守は 宵よひごとにうちも寝ななん」
順子から文が届き、番人はそのうち寝るでしょうから、間を置くようにとのこと
文の遣り取りのみ許され、半年後に会うと約束したが、その頃俄かに高子姫が兄に連れ去られ、清和帝に入内との噂が立つ
恋に敗れた業平は、傷心を癒やすために山科の山里に身を隠す
そこへ恬子内親王から文が届き、いよいよ伊勢に下向するという。兄と慕ってくれた内親王が、最後に今一度笛の音が聴きたかったという言葉に、業平は胸が締め付けられ、涙を流す。内親王が5日の旅を終えて伊勢に着かれた直後に母が身罷る
忍ぶ草
恬子内親王の実兄・惟喬親王から、友のいない都は寂しいと文が来て、山科から高倉に戻る
高子のいなくなった五条の后邸に梅を見に行くが、淋しさを歌にしたのが、「月やあらぬ春や昔の春ならぬ わが身ひとつはもとの身にして」
業平の位階が上がり、内裏に勤仕することも多くなり、内裏の一角に住んで花嫁修業中の高子姫とすれ違う機会もあらばと願っていたところに、侍女を通して文が届く。野百合にも似た忘れ草に文が結ばれており、「あなたの心の忘れ草が、忍ぶ草だったら嬉しい」とある。業平も「忘れ草ではなく偲ぶ草で、あなたを偲ぶばかり、会いたい」と返す
願い叶って終に部屋に入ることを許され手を取り合って喜ぶが、内裏のこととて共寝には到らず
朧月
歌の力は恋の成就には欠かせぬもの
朧月夜に共寝を果たし、その後も内裏の警護にかこつけて昼間から側に近寄ろうとする
内裏から五条の后邸に戻った高子姫を、宿直の業平が訪ねることが続き、周囲からも業平の役目の落ち度が目につくようになる
更には2人の逢瀬が良房、高子の兄の知る所となり、流罪の話まで出てきたため、2人は五条の后邸の築地越しに歌を投げ合って想いを伝え合う
芥川
業平は、五条の后邸の築地に牛車を寄せ、笛で高子姫を誘い出し、芦屋への旅に連れ去る
長岡からは馬に高子姫を抱いて乗り、芥川を渡ったところで夜を明かそうと倉に入り、姫を置いて外に出た間に、後をつけてきた姫の兄たちに姫をさらわれる。無念の思いを歌にしたのが、「白玉か何ぞと人の問ひし時 つゆと答へてきえなましものを」(姫が、あれは白玉かと尋ねた時、あれは露だと真っ直ぐに答えて、あの露のようにはかなく消えてしまえばよかった)
杜若
勧められるままに傷心の身で東国へ下向、伊賀を経て尾張の東海道へ、所々で歌を詠みながら、三河に入ると川が多くなり八つ橋というところ来て、流れのそれぞれへ橋が渡されおる風情は、都に造られた遣水より雅にして趣の深さもまたわざとならず在りのままに見事であり、鄙にて鄙に非ずの景色を楽しんでいると、橋が架かる流れに沿うように見事な杜若が群れ咲いているのを見て、急ぎ幕を張り御食(みもの)をいただく
求められるままに業平が”かきつばた”の5文字を読み込んだのが、「から衣きつつなれにしつま(妻)しあれば はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」
宇津の山
駿河に入って、東海道難所の1つ宇津の山を越えると、5月なのにまだら模様に雪が白く降り積もる富士と、その裏には火を吹き煙を立てる浅間が見える。業平は、「信濃なる浅間の嶽に立つ煙 をちこち人の見やは咎めぬ」(遠くの人も近くの人も煙を見とがめないことはない)と詠み、宮廷の貴人たちが富士の山の姿のように優しく手を広げて見えても、心の裏には浅間の嶽のように、燃え滾る蔑みの姿があることに思いを及ばせ嘆息する
長旅のあとで遂に武蔵と下総の中に流れる大層大きな川・隅田川に至り、渡し舟に乗った時に見た都では見ることのない鳥の名を船頭に問うて詠んだのが、「名にしおはばいざ言とはむみやこ鳥 わが思ふ人はありやなしやと」
武蔵鐙(あぶみ)
隅田川を渡り入間の郡に向かい、三芳野で3晩泊り、更に陸奥国(みちのくに)に向けて旅を続ける
姉歯の松
陸奥国まで来て、途中塩竃の浦に立ち寄り海を眺める。栗原では蓮の沼のほとりに幕を張る。神仏が天上世界と人界の境と定めた地といわれ、東(あずま)の国の行き止まりとされる。姉歯の松がある。宮城県北部。地の女と都の女を比べながら、多情な妻を持った男とその妻が返した歌を披露したのが、「我ならで下紐解くなあさがほの 夕影待たぬ花にはありとも」(朝顔が夕べまでに姿を変えるように心変わりしても、私以外の男に下裳(したも)の紐を解いてはいけない)、「二人して結びし紐を一人して 逢い見るまでは解かじとぞ思ふ」
塩竃・水無瀬
東への下りに比べて京への戻りは仰天の急ぎで、神無月半ばには戻る
時移り、業平は右馬頭(みぎのうまのかみ)を拝命。官馬や馬具、地方の牧場を預かる馬寮(めりょう)の頭(かみ)で、警護に関わる役
水無瀬に惟喬親王の別宮があり、桜の頃には毎年親王が出掛けた。水無瀬や交野は、山野の遊行や鷹狩りで賑わう地、年に1度の桜花、年に1度の散り時を逃しては桜を愛でるとは言えない。桜の木の下に馬を止め、枝を折って挿頭(かざし)にし、酒宴となる。身分の高い者から順に歌を詠むが、業平が、「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」と詠んでこのところの恋路のあれこれを思い返していると、誰かが返歌して、「散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき」(この嫌な世に何が永遠に在るでしょう)
夢うつつ
秋には勅命を受け右馬頭として諸国を巡る旅に出る。土地それぞれの野禽を狩りし、宮中へ捧げるお役目だが、殺生を嫌う清和帝の代は狩りは形だけ、その他に諸国の事様を巡察し朝廷に報じる役目もある。伊勢から海路で尾張までの旅だが、伊勢への道は4年前斎王となる8,9歳の恬子姫が通った道。都からの正式な使いであり、事前に連絡がいって、斎王から歓迎の文が届く。伊勢神宮の数里北にある広大な土地に500を超す人々が斎王を支えて暮らす。都大路と変わらぬ衣と沓には驚く
斎王に会ってお互いの来し方を語る。2人きりで食事をして共寝しようと迫るが、斎王の身とて叶わず、筝と笛を合わせ、共に満月を見上げて終わらざるを得ないと残念がっていたら、夜中に恬子姫が寝所まで忍んで来る。夢かと思いながら自らの衣の中へと包み込むが、斎王であることに突き当たりたじろぐうちに明け方を迎え去っていく。すっかり朝が来て恬子姫から届けられた歌が、「きみやこし我やゆきけむおもほえず 夢かうつつかねてかさめてか」。業平は、「かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよひさだめよ」と返すが、その夜は斎宮寮長官の宴が一晩中続き再会は果たせず
宴の席に侍女が来て杯の皿を差し出すと、裏には、「かち人のわたれど濡れぬえにしあれば」(徒歩でも濡れないほど浅い縁だったのか)と上のみだったので、業平は、「またあふさかの関は越えなん」と下をつけて返し、尾張から戻る折、斎宮近くの大淀の浜に舟を寄せるのでその折必ず会いたいと言伝する
大淀
10日後に大淀に戻ってきて使いをやると、明日の宵に笛の合図をくれとの返事、寝静まったのを待って川を上り、逢瀬を果たす。衾に恬子姫を招き入れ、夜が明けるまで、幾度となく繰り返し、再度の逢瀬を願うも、1度だけで斎王に戻らねばといわれ、後ろ髪引かれながら京へ戻る
炎上
貞観8年は、都にとって空が赤く染まるほどの禍の年。内裏の空気の険しさが感じられる
恬子姫の母・静子が身罷る
内裏に放火、中心の応天門が焼け落ちるが、火事を契機に大納言伴氏と左大臣源氏の権力争いが顕在化。大納言が放火を左大臣によるものと提訴したが、良房の後ろ盾で、逆に大納言が放火犯として詰め腹を切らされ、遠国に配流。人臣初の摂政となった良房の天下となる
秋深まるころ文が来て、一条辺りに車で待つとあるので、出掛けてみると、斎宮寮の長官が斎王の次女・杉を連れてきて、杉の手の中には赤子がいる。業平との一夜にできた子で、恬子姫が命がけで産み、ある優れた方の所にお連れするというが、その前に1度だけ業平に抱いて欲しいという
高子は25歳になって、その年の11月入内、清和帝は8つ下。業平には手の届かないところへ上がられた
藤の陰
3年後、高子に念願の皇子・貞明親王が生まれ、立太子
念願適った良房の全盛期
異母兄・行平邸で、藤原一族の中で行平と近い友を呼んでの祝宴で、業平は瓶にさした藤の枝を一同が詠んだ後に、「咲く花の下に隠るる人を多み 在りし(在原氏のこと)にまさる藤の陰かも」(咲く花の陰に隠れている人が多いので、昔よりさらに花の陰は大きいことですね)と藤原氏が格別栄えた様を詠み、一同を沈黙させる
行平の3女が、業平に、「高子は老いた方ゆえ、いずれ内裏に上がって1の后となる」と言って驚かせる
花の宴
高子の花の宴が、桜の名所で良房邸でもある染殿で開かれ、業平も列席が許される
高子の兄から、歌合の判を頼まれ引き受ける。高子の傍で、既に天使の母としての威厳を備えた姿を見ながら判を果たした後、自らの歌を詠みあげる、「花にあかぬなげきはいつもせしかども 今日(けふ)の今宵に似るときはなし」(花に飽きることなどなく、何時までも見ていたい。溜息が出るのはいつものことだが、今宵の思いに似た時は、かつてなかった)
花散り雪こぼれ
この年も惟喬親王の水無瀬の離宮で花を愛で狩りを楽しむ
徹夜で語り明かすが、戻った直後に突然剃髪、まだ30前だった。比叡山に入る
その2か月後良房死去、親王が仏界から招いたような成り行き
千尋の竹
行平は有能な官人で、3女の文子を内裏に上げることに成功、身分は更衣と低かったが、貞観17年親王を生む。貞数(さだかず)親王で、行平邸で藤の宴が催されてから6年が経つ。親王の誕生で、在原一族にとっても落ちかかる陽を山の端より天中に置き直したほどの目出度き事で、業平も、「わが門に千尋ある竹を植ゑつれば 夏冬誰か隠れざるべき」(在原一門にも立派な竹を植えたからには、夏も冬も誰がその千尋もある陰の恩恵を受けるだろう。竹は末代まで根をはる力を持つ)と素直に言祝ぎの歌を詠み、6年前の藤の宴のことを思い起こす
紅葉の錦
清水の西、小塩山の麓にある大原野神社は、藤原一族の女人にとって疎かには出来ない神社で、高子が行啓したのは紅葉の鮮やかな頃、貞明親王立太子のお礼。近頃ない大層な行列で、業平は近衛の役で警護。参詣のあと従賀した者たちに労いがある
直後に高子から文が来て、歌会を漢詩(からうた)ではなく和歌(やまとうた)にて催したいとの内容に、業平も応じる。竜田川の紅葉の一刹那を捉えて描かれた屏風を前に歌の才が集まり歌合に興じる。業平が連れて行った僧正遍昭の息子の素性法師が、「もみじ葉の流れてとまるみなとには 紅深き波や立つらむ」と、紅葉の流れ行く際の港の情景を詠んだ後、最後に締めたのは業平で、「ちはやぶる神代も聞かず竜田川 唐紅に水くくるとは」
潮干潮満(しおひしおみち)
貞観18年、清和帝が貞明親王に譲位(57代、陽成帝)。高子の兄・基経が摂政
退位に伴い、恬子斎王(31歳)も退下(たいげ)し、尼となって東山の山里に隠棲
恬子が産んだ業平の子は、伊勢神宮のお役を勤める高階家にて養われているとの噂
業平は恬子に歌を贈って再会を願うが、やんわりと断られる
翌年夏の賀茂の祭り見物に都に来られるとの報せがもたらされるが、業平が口軽く詠んだ歌に気を悪くしたのか、祭りの途中で帰ってしまう
蛍の頃、ついに恬子から呼び出しが来て勇んでいってみると、侍女・杉を身請けて欲しいとの要請。杉は、妾にも妻にもならず、下女として仕えるという。連れて帰るが、なかなかの才女で、歌の遣り取りに楽しみを見出す
鶯のこほれる涙
陽成帝即位の翌年、右近衛権中将に昇進。在原家の五男だったので、在五中将と呼ばれた。すぐに高子から歌が贈られて来て、「雪の内に春は来にけり鶯の こほれる涙今や解くらむ」(凍っていた涙を解かして鳴く鶯のように、長い冬だったがこれからは氷も解けるので存分に歌を詠いあげてください)とあって、昇進が高子の配慮だったことを知る
舅殿が身罷られ、歌の仲間でもあった源融が基経との確執の果てに辞表を出し、業平が翻意を促す役目を仰せつかるが、融の辞意は翻ることはなかった。「飽かず哀し」という業平に対し、融は自分には「十分でないこと、足りないこと」に耐える力はないと言って、業平を羨む
ほととぎす
元慶2年、相模権守に、翌年、帝の傍に仕え、太政官の連絡に当たる職の要の蔵人頭に任じられ、これ以上望めない高い位に上がる
憲明が突然死んで鬱々と過ごす。憲明が誠実(まめ)に書き留めた分厚い綴じ紙を開き読むのが楽しみとなる。そんな中に思いの届かなかった女(ひと)とのやり取りがあった。業平が思いを込めて、「秋の野にささ分けし朝の袖よりも 逢わで寝る夜ぞひぢまさりける」(笹をかき分けて露に濡れながら帰る後朝(きぬぎぬ)の別れの袖よりも、逢えないまま一人寝の夜の方が、逢えない辛さゆえに袖は涙で濡れ勝っている)と送ったら、「見る目なきわが身をうらと知らねばや かれなで海人の足たゆく来る」(顔を合わすことがない私だと知らないのか、足がだるくなるまで通ってきますねと、無駄なこととやんわり諭している)と無視された。思い出しても相当な歌人だったと、贈答を誇らしくさえ思う
つひにゆく
食が細り、自分の歌をよすがに、遠き日の中に生き直しているように思える
歌は短い文字でしかないが、そこに纏わる心の浮き沈みの大きさはいかほどのものかと察せられる
飽かぬことを哀しと思いつつも、それが生きることの有難さだと、深く感じ入る
飽かず哀し:叶わぬことへのひたすらな思いこそ、生ある限り、逃れること叶わぬ人の実情で、飽くほどに手に入れようとしても、それは歌の心に叶わない。歌は叶わぬこと、為し得ぬことも、詠み込むことが出来るし、歌は命を越えて生き長らえる。飽くまで求めるが、すべて満ちた歌のなんと趣薄きこと、つまらぬものばかりで、叶わぬゆえ歌に哀しみや趣が生まれる
仕えていた杉が、「あが君の歌は、末々までも残り、この国に受け継がれていく」というと、業平も、「憲明の記した歌の数々、そなたに預ける。死んだ後、そなたの才にて、歌物語など綴るのもよい。恋に身を染めた男の、幸いに満ちた姿として終えていただきたい」と言って目を閉じる
最後に詠んだ歌が、「つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」
あとがき
現在通行する125章段の形は、13世紀に藤原定家が書き写した本が基
作者は業平自身だという説もある。彼の一代記を小説にするには、125章段をシャッフルし取捨選択し、時間軸の糸を通しながら、物語にしていく困難さがあった
死の床で、若い女に生涯の歌を託して、伊勢物語の発生とタイトルを暗示させるという顛末は、読む限りの考証にはなかったが、斎宮の専門家のアイディア
古典との関わり方として、私は現代語訳ではなく小説家で人物を蘇らせたいと思ってきた。千年昔には身体感覚において、どこかが違う人間が生きていて、私たちは、現代にも通じる部分においてのみ、かの時代の人間を理解しているのではないか。この疑問は、書くことに矛盾をもたらし、文体を模索させた。平安の雅を可能な限り取り込み、歌を小説の中に据えていくために編み出したのが、この文体。味わい読んでいただければ、在原業平という男の色香や、日本の美が確立した時代の風が、御身に染み込んでいくものと信じる
泉鏡花賞に高樹のぶ子さん
2020/10/14
19:54 日本経済新聞
第48回泉鏡花文学賞(金沢市主催)は14日、高樹のぶ子さんの「小説伊勢物語 業平」(日本経済新聞出版)に決まった。賞金は100万円。
選考委員の綿矢りささんは「美しい独特の文体で、原文の歌をうまく生かしたのが高く評価された」と語った。村松友視さんは「これまでの取り組みを一歩超える手法を編み出した」と評した。〔共同〕
高樹のぶ子さん寄稿 現代に響く「伊勢物語」の普遍性
2020/8/30
2:00 日本経済新聞
業平の思いは言葉の技巧を待たずにあふれ出る(大野俊明画「夢うつつ」)
平安時代の歌物語「伊勢物語」。千百年を経ても響く普遍的な魅力はどこにあるのか。本紙夕刊で連載し、五月に刊行された小説「業平」の著者、高樹のぶ子氏が寄稿した。
たかぎ・のぶこ 1946年生まれ。84年「光抱く友よ」で芥川賞。日本芸術院会員、文化功労者。「トモスイ」「甘苦上海」「格闘」など著書多数。
和歌に息づく文学の神髄
「伊勢物語」の主人公と言われている、千百年昔の歌人在原業平の人生を、小説として蘇らせたところ、作者の予想を超えて反響があった。コロナ禍の時代に、古(いにしえ)への旅が好まれるのだろうか。
「伊勢物語」は平安時代の古典として中学高校でその名前が知られているけれど、読み通した人は意外と少ないようだ。業平の名前も、有名な歌も覚えているのに、完読出来ない理由は何だろう。
13世紀に藤原定家が編纂し書き写したとされる125章段の、現在通行している伊勢物語だが、読み通すには筋道を辿るのが煩雑で、エピソードも断片的に置かれていて、繋がりが悪いことが大きな理由だと思われる。
もともと通して読むように作られてはおらず、有名な「鬼一口」と呼ばれる芥川の章段や、東下りで詠まれた「かきつばた」の歌など、印象的な場面や歌が沢山あるのだが、順序立てて読むのが難しく、途中で投げ出してしまうのだ。
このたび一代記として、業平の人生を時系列で小説にしたので、ボトルネックとなっていたこの流れの悪さが、一気に解消したのは間違いない。古典の研究者から、まず小説「業平」を読んで、次に「伊勢物語」を読めば解りやすい、と言われたのは嬉しかった。
むろん「業平」は小説であり、学者による諸々の研究に沿わない部分も当然あるけれど、可能な限り史実を尊重したので、伊勢物語の導入本として活用されれば本望である。
実際、受験校として有名な開成中学が、テキストとして使って下さった。人生初の古典が「業平」であれば、古典は楽しいものになるだろう。
それにしても業平という男は魅力的だ。伊勢物語の人気が千百年も保たれてきたのは、ひとえに業平の魅力による。
実在の人物であり、その生身から出た歌が、それぞれの時代の心に響いたということだろうが、彼は現代においても充分に、小説の主人公たる要素を持っている。
小説の要素とは、一人の人間としての社会と自我の葛藤、男としての苦悩や、哀楽の情のことである。叶わぬことへの抵抗や身の処し方は、永遠のテーマ。
その要素はすべて歌の中に在る。詠嘆も賛美も哀切も恋情も、素直に歌に顕れている。
紀貫之は業平について「心余りて言葉足らず」と言ったが、それこそ業平が愛されてきた理由でもある。業平の思いは言葉の技巧を待たずに溢れ出してしまうのだ。
万人が共感できる情や、四季の受感は、時の流れにも色褪せない。歌と歌が詠まれた状況を説明する詞書(ことばが)きによる章段、つまり場面の集合である歌物語に、小説的な想像をはたらかせながら、日本人は業平の歌を繰り返し愉しんで来た。
禁忌の恋に身を投じ、破れた果てに「身を用なき者に思いなし」東へと下る。
あの時代独特の恩寵だろうが、許されて都へ戻り、その後も権力との距離を測りながら、命の最後まで生き抜いた男。
業平の存在、歌は、日本文学の底を流れる「隠遁者の哀しみ」「流離の気品」「武より文を尊ぶ美意識」の源流になったと言えるし、漢詩から和歌への文化の移行に、大きな役割を果たしたのも間違いない。
小説「業平」は、伊勢物語に散らばる魚の小骨を拾い集め、骨格を作り肉をつけて泳がせた、と譬えられることに、あえて付け加えるならば、現代に泳ぐ業平の小骨の一つ一つは、紛れもなく九世紀に実在した歌人のDNAを持っていることだ。作者の私はただ、業平の小骨を繋ぎ合わせ、切れ切れであった情感に流れを作ったまでのこと。
このうえは長く先の世まで、業平さま、泳ぎ続けてください。
高樹のぶ子さん×林望さん 伊勢物語と源氏物語の魅力
小説「業平」刊行 いま古典を読む意義語り合う
2020/6/12
17:00 日本経済新聞
2019年に日本経済新聞夕刊で連載された高樹のぶ子さんの小説「業平」がこのほど刊行されました。平安時代の歌物語「伊勢物語」を、主人公とみられる在原業平の一代記として小説化しました。発売1カ月で4刷と、古典に材を取った純文学としては異例の売れ行きをみせています。古典作品の魅力やいま古典を読む意義について、高樹さんと「謹訳 源氏物語」を著した林望さんがオンライン対談で語り合いました。対談を収めた映像の完全版は記事の最後に掲載します。
(司会は編集委員 中野稔)
はやし・のぞむ 1949年生まれ。作家・国文学者。英ケンブリッジ大学客員教授、東京芸術大学助教授等を歴任。「イギリスはおいしい」「恋の歌、恋の物語」など著書多数。近刊に「おこりんぼう」
■伊勢物語は超ベストセラー
司会 まずは「業平」をお書きになった高樹さん。「伊勢物語」への関心はどのように生まれたのでしょうか。
高樹 中高生のころから興味はあったんです。出てくる和歌も有名なものが多いですよね。でも、どこで、どんな心情で詠まれたのかが分からない。わたしもいつか、女流作家のひとりとして日本古典からの流れに入ってみたいと、リスペクトと憧れがありました。
司会 林さんは「伊勢物語」にはどんな印象がありますか。
林 ぼくはもともと書誌学者。その立場からいうと、「伊勢物語」は最も多種の本が出版された超ベストセラーなんです。歌の詠み方の手本であり、恋の手本でもあるという「歌の教科書」。男はどう詠み、女はどんな返し方をするのがしゃれているのか、その妙が書かれている。これが非常に良く読まれた理由のひとつです。
司会 林さんは「謹訳 源氏物語」で源氏の全訳に取り組まれました。
林 物語といっても、源氏と伊勢では全く違う。伊勢は、味わうべき歌があって、その詞書(ことばがき)によって叙述する文体。対して源氏は、古女房が物語の語り手という設定で、口語体です。ぼくはそのナレーションを変更して、現代の小説として源氏物語を書いた。高樹さんは「業平」で、伊勢物語の叙述する文体を、語る文体へと変更されましたね。
高樹 古典は長い間、人の声、つまり語りで伝承されてきました。古典を現代によみがえらせるなら、語りによって時代の風やにおいもよみがえらせてこそだと思っていたんです。語りの調べを作れた理由のひとつには、自分の年齢が関係しています。たとえば40代ではこの文体はできなかった。年齢を重ねて、いろんなことが見えてきて、文体と体の関係がしっくりいっている。
林 「業平」を拝読していて、この小説の語り手、ナレーターは誰なのだろうと思っていたのですが。
高樹 誰の視点でというか……業平さんの肩の上あたりを、浮遊しておりました。肩にとまって、時にはあちらこちらへ行って。業平の心にも分け入ったり、ちょっと客観的に引いてみたり。
林 誰かが物語っている雰囲気なんですが、その主体がいわゆる近代小説の「神の視点」、すべてを見渡して書いているようで。紫式部に近いですよね。
■平安時代の物語はラジオドラマ
司会 源氏物語の現代語訳は数多くありますが、林さんはどんな訳にしたいとお考えだったのでしょうか。
林 源氏を読むというと、半分勉強のようになりがちですが、それではつまらない。小説も娯楽ですからね。紫式部が現代語で語り直したらどうなるか、そう考えて書きました。
高樹 私にとって一番読みやすい訳が、林さんの「謹訳 源氏物語」です。国文学者であり小説家である、両方がうまく相まって「謹訳」という源氏ができたのだと感じます。林さんは「源氏を訳す」ではなく、「源氏を書く」としていますね。このスタンスの違いは大きい。
林 紫式部の時代には、物語は文字で読むよりも朗読して聞かせる、ラジオドラマのようなものだったはずです。語りの演じ分けによって主語を省くことができた。でも本という媒体における作者と読者の関係では、もっときちんとした説明が必要になる。一方で、説明的になりすぎて、読書の興をそいではならない。和歌を盛り込む高樹さんの「業平」でも、同じご苦労をされていると感じました。
高樹 歌に注釈を入れると、小説として引っかりを覚えてしまう。音楽を聴くように小説を読んでもらいたいんです。和歌を通り抜けて読んでいくなかで、それが味わいになればいいと考えました。
司会 謹訳も小説も、古典を読み込み創作するうえでは近いものがありますね。それぞれの作品の主人公についてはいかがでしょう。源氏物語の主人公・光源氏と、伊勢物語の主人公と目される在原業平は、歌がうまく女性にもてる、という点で共通しています。
高樹 源氏の舞台は伊勢より百年あと。でも私は逆に、源氏を参考にしました。おそらく紫式部は、業平の伝説的生涯を意識して源氏物語を書いたんじゃないかしら。業平の東下りと光源氏の須磨への籠居、童女にかける思いなど、業平の逸話と光源氏のエピソードには、共通点が多くある。紫式部が頭のどこかに業平を置いて源氏物語を書いたのであれば、千百年のちに引用させてもらってもいいかな、と。
林 光源氏らが巡り合った女性について語る「雨夜の品定め」や、春と秋どちらが良いかを議論する「春秋優劣論」を想起させる場面、業平の妻となる紀有常の娘と、末摘花の反転した造形……高樹さんの「業平」には、源氏物語にヒントを得ているなと感じる点がたくさんあります。
高樹 リンボウ先生にかかると、みんなばれてしまいますね。細かく読んでいただけるのもありがたいし、一般の方には平安時代の雰囲気を感じていただけたらと思います。
■古典を現代によみがえらせる
司会 2つの物語が舞台とする平安時代からは長い時間が過ぎました。いま古典作品を読む意味を、どうお考えになりますか。
林 国際化のなかで、日本人のアイデンティティーが大事になってくると考えます。古典を読むと、私たちの祖先が何を考え、思い悩み、喜びを見いだしてきたのかが分かる。そこに覚える懐旧の情をアイデンティティーに持ちながら世界で活躍するのが、国際的な日本人といえるでしょう。
高樹 日本の美の源流をたどっていくと、わびさびや、あわれへのシンパシーに行き着く。業平の歌は、連れ出した藤原高子を奪い返されて「自分は用なき者」と思ったところから大きくなる。権力から離れた「用なき者」にしか見えない美を、平安時代の文学から感じてほしいです。
林 古典で描かれているのは、千年の年月を経ても変わらない心のありようや自然の美しさ、捨てられていく人のさみしさといった普遍的なテーマです。私は大学と高校で長く教えましたが、分かりやすく話せば若い人もみな、古典に興味を持つ。「通訳者」がいれば、古典は勉強のためではなく、本当の楽しみとして読めます。
高樹 私の「業平」は古典ではなく、古典を現代によみがえらせた、現代の小説。男と女と、恋と言葉のはなしです。そういうの、みんな好きでしょ? 楽しんで読み、いつの間にか平安の世界に遊んでもらえたらと思います。
司会 ありがとうございました。お二人の変わらぬご健筆を願っております。
和歌のリズム「雅な世界へ」 泉鏡花賞に高樹氏
2020年10月16日 11時00分 朝日
第48回泉鏡花文学賞(金沢市主催)は、高樹のぶ子さん(74)の小説「小説伊勢物語 業平」(日本経済新聞出版)に決まった。平安時代の歌人、在原業平の生涯を歌物語「伊勢物語」を通じて描いた作品。高樹さんは報道陣の電話取材に「新しい冒険をした作品が評価されて大変うれしい」と語り、受賞を喜んだ。
ですます調と体言止めが印象的な作品で和歌も登場する。高樹さんは和歌のリズムを壊さず、その意味を伝えるよう書くことに苦心したといい、「読みながら音楽を感じてほしい。それは歌を理解することにもなりますから」と語った。選考委員の一人、綿矢りささんは「和歌を生かし、のびやかな語り口で書いた美しい文体。仕上げるには相当な筆力が必要」と評した。
また高樹さんは今回の受賞を「1100年前の業平さん」に報告したと説明。「いま世界中に旅には出掛けられないけれど、昔の日本の雅な世界には旅できるから、ぜひその世界で遊んでもらいたい」と述べた。
同文学賞は金沢生まれの泉鏡花の功績をたたえ、1973年に全国初の地方自治体主催の文学賞として制定された。今回は42作品の推薦があった。
授賞式は11月21日に金沢市文化ホール(同市高岡町)であり、副賞の100万円などが贈られる。(三井新)
2020.9.19.(売れてる本)
2020.09.22. 好書好日
高樹のぶ子「小説伊勢物語 業平」 豊かに湧き出る日本語の美
いいなあ、楽しいなあと思いながら、豊饒な言葉の世界に耽溺した。
業平――と聞いて、稀代のモテ男をイメージする人は、現在ではずいぶん減っただろう。一方で作品舞台は平安時代と聞いて尻込みする人は、おそらく多いと思われる。
だがそんな方にこそ、ぜひこの一冊を手に取ってもらいたい。主人公・在原業平の出自や平安期のややこしい儀式などを知らずとも、滾々(こんこん)と湧き出る泉に似た日本語の美に、誰もが絡め取られるに違いない。
――春真盛りの、大地より萌え出ずる草々が、天より降りかかる光りをあびて、若緑色に輝く春日野の丘は、悠揚としていかにも広くなだらか。
映画のワンシーンもかくやと思わせるこの書き出しには、体言止めが効果的に使われている。この文体は業平の生涯を和歌物語『伊勢物語』を通じて描く中で、筆者が選び取ったもの。日本語の美しさを生かす「ですます調」と体言止めが併用され、それ自身が一つの歌の如きリズムを生む。
もともと平安時代は現代に比べ、五感に訴えるものが多い時代だ。人工の灯のない夜の闇と、微かに瞬く星影。クラクションもテレビの音もない静寂を破る虫の声、木々を揺らす風の音。そんな世界で人の思いを紡いできた和歌の力が、作中で瑞々しく蘇る。
『伊勢物語』の現代語訳はこれまで多く出版されてきたが、時間が時折飛び、匿名の登場人物も多いこともあって、正直、分かりやすい書物とはいいがたい。しかし筆者はその主人公とされる業平の生涯を小説に描くことで、作中に埋没していた人物たちに息吹を吹き込むとともに、平安前期という少々馴染みのない時代を活写した。
好書好日編集部
聞いた話によれば、筆者は今後もこの時代を舞台とした作品を描かれるという。この豊饒なる泉にまた触れることができるかと考えると、今からわくわくする。 澤田瞳子(小説家)=朝日新聞2020年9月19日掲載
◇
日経BP・2420円=5刷4万部。5月刊。国語の教科書にも載る古典を現代小説化。コロナ禍で書店が閉まった最中の刊行ながら、ネット書店でよく売れたという。
業平の挫折と再起、古典の世界を感じて 高樹のぶ子さん、開成中で特別授業
2020.10.29. 朝日
作家の高樹のぶ子さんが、伊勢物語の主人公とされる在原業平をテーマに、開成中学校(東京都)の3年生に特別授業をした。高樹さんの著書『小説伊勢物語 業平』(日本経済新聞出版)を、同校が古典の授業に使ったことから実現した。
日本文学が持つ言葉のリズムから、高樹さんは語り始めた。「まだあげ初めし前髪の」と、島崎藤村の詩「初恋」を朗読し、「五と七の組み合わせは、日本文学においてずっと続いてきた音律。日本人の身体的な感覚に合っている」と説明した。『業平』も、5音と7音を意識したという。
愛する女性との逃避行に失敗した業平は、自身を「用なき者」と思い詰め、東下りの旅に出る。高樹さんは、この業平の姿が、深く胸に刺さったという。
高樹さんは6年前、平安の説話集「日本霊異記」を題材にしたミステリーを手がけた。だが、納得がいく出来にはならず、「古典に進もうという最初の入り口が、ガチャンと切られてしまった気がした」。めげずに取り組んだ今作には手応えがあり、「業平の挫折感と、再び都へのぼって自分の役目を果たした人生を、とても身近に感じます」。
生徒たちに、こうメッセージを送った。「みなさんは、まだ自分を用なき者と思ったことはないかもしれません。でも、もしこの先そのようなことがあれば、業平の東下りを思い出してください」
質疑応答では、「業平は浮気ばかりしているように見え、中学生向けの内容じゃない」といった意見も。高樹さんは「心を尽くし尽くされる関係を、身分も性格も違うそれぞれの相手と築くことは、人間力が高くないとできないこと。今とは、結婚のシステムも違いますから」と解説した。
授業を終えた高樹さんは「古典の世界にも、男がいて女がいて、歌を交わしていたというのを、勉強するのではなく、そこに入り込んで感じてもらえていたら」と話していた。(松本紗知)
Wikipedia
在原 業平は、平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。
六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。
全125段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
l 出自[編集]
父は平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で、業平は父方をたどれば平城天皇の孫・桓武天皇の曾孫であり、母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。血筋からすれば非常に高貴な身分だが、薬子の変により皇統が嵯峨天皇の子孫へ移っていたこともあり、天長3年(826年)に父・阿保親王の上表によって臣籍降下し、兄・行平らと共に在原朝臣姓を名乗る。
l 経歴[編集]
仁明朝では左近衛将監に蔵人を兼ねて天皇の身近に仕え、仁明朝末の嘉祥2年(849年)无位から従五位下に直叙される。文徳朝になると全く昇進が止まり、官職に就いた記録もなく不遇な時期を過ごした。なお、後述の貞観年(862年)の従五位上への叙位は正六位上からの昇叙ともされ[1]、文徳朝で位階を降格された可能性もある。
清和朝では、貞観4年(862年)に従五位上に叙せられたのち、左兵衛権佐・左近衛権少将と武官を務める。貞観7年(865年)右馬頭に遷るとこれを10年以上に亘って務め、この間に貞観11年(869年)正五位下、貞観15年(873年)従四位下と昇叙されている。
陽成朝に入ると、元慶元年(877年)従四位上・右近衛権中将に叙任されて近衛次将に復すと、元慶3年(879年)には蔵人頭に任ぜられるなど要職を務める。蔵人頭への任官については皇太夫人・藤原高子からの推挙があったと想定される[2]。またこの頃には、文徳天皇の皇子・惟喬親王に仕え、和歌を奉るなどしている。元慶4年(880年)5月28日卒去。享年56。最終官位は蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守。
l 人物[編集]
『日本三代実録』の卒伝[3]に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、昔から美男の代名詞とされる。この後に「略無才学、善作倭歌」と続く。基礎的学力が乏しいが、和歌はすばらしい、という意味だろう。[4]
歌人として『古今和歌集』の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している[5]。『古今和歌集仮名序』において紀貫之が業平を「その心余りて言葉足らず」と評したことはよく知られている。子の棟梁・滋春、棟梁の子・元方はみな歌人として知られる。兄・行平ともども鷹狩の名手であったと伝えられる[注釈 1]。
早くから『伊勢物語』の主人公のいわゆる「昔男」と同一視され、伊勢物語の記述内容は、ある程度業平に関する事実であるかのように思われてきた。『伊勢物語』では、文徳天皇の第一皇子でありながら母が藤原氏ではないために帝位につけなかった惟喬親王との交流や、清和天皇女御でのち皇太后となった二条后(藤原高子)、惟喬親王の妹である伊勢斎宮恬子内親王とみなされる高貴な女性たちとの禁忌の恋などが語られ、先の「放縦不拘(物事に囚われず奔放なこと)」という描写と相まって、高尊の生まれでありながら反体制的な貴公子というイメージがある。なお『伊勢物語』成立以降、恬子内親王との間には密通によって高階師尚が生まれたという説が派生し、以後高階氏は業平の子孫ではないかと噂された。
紀有常女(惟喬親王の従姉にあたる)を妻とし、紀氏と交流があった。しかし一方で、藤原基経の四十の賀で和歌を献じた[注釈 2]。また長男・棟梁の娘は祖父譲りの美貌で基経の兄・藤原国経の妻となったのち、基経の嫡男時平の妻になるなど、とくに子孫は藤原氏との交流も浅からずある。
同じく『伊勢物語』に描かれた「東下り」についてもその史実性については議論がある。通説では貴種流離譚の一種とみなす説が強いが、角田文衛のように母の服喪中の貞観4年(862年)の出来事とする説がある[6]。戸川点は史実か創作かは断定できないとした上で、業平や父の阿保親王が中央との兼官ながら東国の国司を務めていたことに注目し、当時問題となっていた院宮王臣家の東国への進出(荘園の形成・経営)に業平周辺も関わっており、創作であったとしてもその背景になる事実はあったとみている[7]。
また業平自身も晩年には蔵人頭という要職にも就き、薬子の変により廃太子させられた叔父の高岳親王など他の平城系の皇族や、あるいは当時の藤原氏以外の貴族と比較した場合、むしろ兄・行平ともども政治的には中枢に位置しており、『伊勢物語』の「昔男」や『日本三代実録』の記述から窺える人物像と、実状には相違点がある。
l 官歴[編集]
注記のないものは『六国史』による。
貞観5年(863年) 2月10日:左兵衛権佐。3月28日:次侍従
貞観6年(864年) 3月8日:左近衛権少将
元慶元年(877年) 正月15日:右近衛権中将[9]。11月21日:従四位上
元慶3年(879年) 10月11日:蔵人頭、右近衛権中将・相模権守如元
元慶4年(880年) 日付不詳:兼美濃権守。5月28日:卒去(蔵人頭従四位上行右近衛権中将兼美濃権守)
l 系譜[編集]
父:阿保親王
母:伊都内親王
妻:紀有常の女
長男:在原棟梁(?-898)
生母不明の子女[注釈 3]
次男:在原滋春
l 短歌[編集]
勅撰和歌集に80首以上入撰した、六歌仙・三十六歌仙の一人ではあるが、自撰の私家集は存在しない。現在伝わる『業平集』と呼ばれるものは、『後撰和歌集』成立以降に業平作とされる短歌を集めたものとされている。業平の歌が採首された歌集で業平が生きた時代に最も近いのは『古今和歌集』である。また『伊勢物語』は業平の歌を多く使った歌物語であり、業平像にも大きく影響してきた。以下の歌の中にも伊勢物語の中でも重要な段で登場するものも多い。しかしさほど成立時期に隔たりはないと思われる『古今和歌集』と『伊勢物語』の双方に採首された歌のなかには、背景を説明する詞書の内容がそれぞれで違っているものや、歌自体が微妙に変わっているものがある。『伊勢物語』より成立も早く勅撰和歌集である『古今和歌集』が正しいのか、あるいは時代が下るにつれて『伊勢物語』の内容が書写の段階で書き換えられてしまったのか、現時点では不明である。ちなみに勅撰の『古今和歌集』においてさえ、業平の和歌は他の歌人に比べて詞書が異様に長いものが多く、その扱いは不自然で作為的である。
l 代表歌[編集]
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは — 『古今和歌集』『小倉百人一首』撰歌。落語「千早振る」も参照。
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし — 『古今和歌集』撰歌。
忘れては 夢かとぞ思ふ 思ひきや 雪踏みわけて 君を見むとは — 『古今和歌集』巻十八、雑歌下。
から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ — 『古今和歌集』撰歌。
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと — 『古今和歌集』撰歌。
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして —『古今和歌集』巻十五、恋歌五。
人知れぬ わが通ひ路の 関守は 宵々ごとに うちも寝ななむ —『古今和歌集』巻一三、六三二。また、『伊勢物語』五段。
l ゆかりの地[編集]
業平がモデルと言われる人物はさまざまな物語や文献に登場している。業平に関連した伝説は各地に伝わっている。
奈良市法蓮町にある不退寺は、仁明天皇の勅願を受け在原業平が開基した。寺伝によれば不退寺は、元は祖父・平城天皇が薬子の変のあと剃髪したのち隠棲した「萱の御所」であったと言われる。平城天皇の皇子・阿保親王やその息子である業平もこの地に住んでいたと言われている。
天理市櫟本町の在原神社は業平生誕の地とされ、『伊勢物語』の23段「筒井筒」のゆかりの地でもある。境内には筒井筒で業平(と同一視される男)が幼少期に妻と遊んだとされる井戸があり、在原神社の西には業平が高安の地に住む女性のもとへかよった際に通ったとされる業平道(横大路、竜田道)が伸びている。ただしこの高安が何処を指すかについては、奈良県生駒郡斑鳩町高安と大阪府八尾市高安の2説がある。また、龍田から河内国高安郡への道筋については、大県郡(大阪府柏原市)を経由したとする説と、平群町の十三峠を越えたとする説がある。俊徳街道・十三街道も参照。
伊勢物語に登場する地名。現在の知立市八橋町。
無量寿寺から10分ほど離れた落田中の一本松でかきつばたの歌を詠んだと伝えられている。在原寺は在原業平の骨を分け寛平年間に築いたと伝わる在原塚を守るため建立された。後の鎌倉末期頃に供養塔も建立された。現在の愛知県の県花がかきつばたに制定されているのは、この故事にちなんでいる[11]。
業平橋(東京都墨田区、埼玉県春日部市、兵庫県芦屋市、斑鳩町)、言問橋
墨田区と春日部に業平橋という橋が架かっている。墨田区の橋については業平橋 (墨田区)を参照。
墨田区には言問橋という橋があるが、これも前述の伊勢物語9段が由来で、業平の詠んだ歌に「いざこと問はむ」という言葉が入っている事にちなむ。
浅草通りにある業平橋に隣接する東武鉄道の駅はかつて「業平橋駅」と呼ばれていた。(現在は駅隣接地に東京スカイツリーが建設され、とうきょうスカイツリー駅に改名)
京都市西京区にある十輪寺は在原業平が晩年住んだといわれる寺で、業平寺とも言われる。
高島市マキノ町在原には、在原業平が晩年に隠遁したという伝説があり、業平の墓と伝えられる塔がある。
880年美濃権守に任じられ、美濃国府に赴任した際に表佐(おさ)に館を建立したといわれている。その年に業平が亡くなると、天皇の勅願により館跡に業平寺が開創された。1783年(天明2年)に永平寺の天海和尚が業平寺を再興。現在は在原山薬師寺[12]となっている。
l 注釈[編集]
1.
^ 「鷹狩」を執着とも言えるほどに趣味とした桓武天皇の子孫にあたる
2.
^ 「桜花散りかひ曇れ老いらくの来むといふなる道紛ふがに」『古今和歌集』巻七、賀歌。但し「桜花散りかい曇れ」といった不吉な歌い出しではじまるなど、純粋な言祝ぎの歌と単純に解釈すべきか、微妙な一首ではあったのかもしれない。
3.
^ 『伊勢物語注冷泉家流』では滋春の母を染殿内侍としている。また、『本朝皇胤紹運録』によると、滋春及び高階師尚を在原業平と恬子内親王の子とするが、真実性には疑問がある。
l 出典[編集]
1.
^ 『日本三代実録』貞観4年3月7日条
2.
^ 角田文衛「藤原高子の生涯」「陽成天皇の退位」『王朝の明暗』東京堂出版、1970年。目崎徳衛「在原業平の歌人的形成-良房・基経執政期の政治情勢における-」『平安文化史論』桜楓社、1968年。片桐洋一『天才作家の虚像と実像 在原業平・小野小町』新典社、1991年
3.
^ 『日本三代実録』元慶4年5月28日条
4.
^ 谷口榮「在原業平」 / 小野一之・鈴木彰・谷口榮・樋口州男編 『人物伝小辞典 古代・中世編』 東京堂出版 2004年 21ページ
6.
^ 角田『王朝の映像』(東京堂出版)の説
7.
^ 戸川点「在原業平伝説」(初出:すみだ郷土文化資料館 編『隅田川の伝説と歴史』(東京堂出版、2000年)/所収:戸川『平安時代の政治秩序』(同成社、2018年))
9.
^ 『近衛府補任』
11. ^ “あいちのシンボル”.
愛知県. 2020年4月25日閲覧。
12. ^ “薬師寺”.
垂井町観光協会
(2015年7月16日). 2020年4月25日閲覧。
『伊勢物語』とは、平安時代に成立した日本の歌物語[2][3][4][5][6][7][8]。全1巻。平安時代初期に実在した貴族である在原業平を思わせる男を主人公とした和歌にまつわる短編歌物語集[6]で、主人公の恋愛を中心とする一代記的物語[3][5]でもある。主人公の名は明記されず、多くが「むかし、男(ありけり)」の冒頭句を持つ[2]ことでも知られる。作者不詳。平安時代のうちの具体的な成立年代も不詳で、初期、西暦900年前後[8]、前期[4][7][8]、(現在のような形になったのが)中期[3][5][6]などの説がある。名称については後述する。
『竹取物語』と並ぶ創成期の仮名文学の代表作[5]。現存する日本の歌物語中最古の作品[8]。同じく歌物語とされるものに『大和物語』があるものの、後世への影響力の大きさでは『伊勢物語』と比べるべくもなく[4]、そういった意味では『伊勢物語』は『源氏物語』と双璧をなしており[4]、これらに『古今和歌集』を加えて[3]同時代の三大文学と見ることもできる。
l 名称[編集]
当初は『伊勢物語』『在五物語[9]/在五が物語[2][3][4][5][7][9](ざいご が ものがたり)』『在五中将物語[2][4][9](ざいご ちゅうじょう - )』『ざい五中将の恋の日記[9]』『在五中将の日記[5][7]』『在五が集[9]』など様々に呼ばれていたが、平安時代末期には『伊勢物語』に統一されていった[9]。また、略称としては「在五中将[5]」「在中将[2][3][10]」と「勢語(せいご)[11]」が見られる。
係る書物(※『伊勢物語』と呼ばれることになる書物)の存在を示す記述の文献上初出は、『源氏物語』第17帖「絵合」に見られる和歌「伊勢の海の深き心をたどらずて ふりにし跡と波や消つべき(解釈例:伊勢の海の深く隠れている物語の心を味わおうともしないで、ただ古いからと波が消すように否定して良いはずがない。)」の「伊勢の海の深き心を」云々で、「在五中将」の名も含まれる前後の文章内容からこれが『伊勢物語』を指していることが分かる[12]。
古来諸説あるが、現在は、第69段の伊勢国を舞台としたエピソード(在原業平〈通名:在五中将〉と想定される男が、伊勢斎宮と密通してしまう話)に由来するという説が最も有力視されている。その場合、この章段がこの作品の白眉であるからとする理解と、本来はこの章段が冒頭にあったからとする理解とがある。前者は、二条后(にじょうのきさき。藤原高子の通称)や東下りなど他の有名章段ではなくこの章段が選ばれた必然性がいまひとつ説明できないし、後者は、そのような形態の本はむしろ書名に合わせるために後世の人間によって再編されたものではないかとの批判もあることから、最終的な決着はついていない。
また、業平による伊勢斎宮との密通が、当時の貴族社会へ非常に重大な衝撃を与え(当時、伊勢斎宮と性関係を結ぶこと自体が完全な禁忌であった)、この事件の暗示として「伊勢物語」の名称が採られたとする説も提出されているが、虚構の物語を史実に還元するものであるとして強く批判されている。さらに、作者が女流歌人の伊勢にちなんだとする説、「妹背(いもせ)物語」の意味であるとする説もある。
また、『源氏物語』「総角」の巻には、『在五が物語』(在五は、在原氏の第五子である業平を指す)という書名が見られ、『伊勢物語』の(ややくだけた)別称であったと考えられている。
l 内容・構成[編集]
定家本によれば全125段からなり、ある男の元服から死にいたるまでを数行程度(長くて数十行、短くて2~3行)の仮名の文と歌で作った章段を連ねることによって描く。章段の冒頭表現にちなんで、この主人公の男を「昔男」と呼ぶことも古くから行われてきたが、歌人在原業平の和歌を多く採録し、主人公を業平の異名で呼ぶ(第63段)などしているところから、主人公には業平の面影がある。ただし主人公が業平とあらわに呼ばれることはなく(各章段は「昔、男…」と始まることが多い)、王統の貴公子であった業平とは関わらないような田舎人を主人公とする話(23段いわゆる「筒井筒」など[注 2])も含まれている。中には業平没後の史実に取材した話もあるため、作品の最終的な成立もそれ以降ということになる。
各話の内容は男女の恋愛を中心に、親子愛、主従愛、友情、社交生活など多岐にわたるが、主人公だけでなく、彼と関わる登場人物も匿名の「女」や「人」であることが多いため、単に業平の物語であるばかりでなく、普遍的な人間関係の諸相を描き出した物語となりえている[注 3]。
複数の段が続き物の話を構成している場合もあれば、1段ごとに独立した話となっている場合もある。後者の場合でも、近接する章段同士が語句を共有したり内容的に同類であったりで、ゆるやかに結合している。現存の伝本では、元服直後を描く冒頭と、死を予感した和歌を詠む末尾との間に、二条后との悲恋や、東国へ流離する「東下り」、伊勢の斎宮との交渉や惟喬親王との主従愛を描く挿話が置かれ、後半には老人となった男が登場するという、ゆるやかな一代記的構成をとっている。一代記というフレームに、愛情のまことをちりばめた小話が列をなしてるさまを櫛にたとえて「櫛歯式構成」という学者もいる。さらに、そうした結合を相互補完的なものと見なし、章段同士を積極的につないでゆく読み方もある。
作中、紀氏との関わりの多い人物が多く登場することでも知られる。在原業平は紀有常(実名で登場)の娘を妻としているし、その有常の父・紀名虎の娘が惟喬親王を産んでいる。作中での彼らは古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調されている。何らかの意図で藤原氏との政争に敗れても、優美であったという紀氏のありようを美しく描いているとも考えられる。
l 作者と成立[編集]
作者、成立共に未詳。物語の成立当時から古典教養の中心であり、各章段が一話をなし分量も手ごろで、都人に大変親しまれたと考えられている。『源氏物語』には『伊勢物語』を「古い」とする記述が見られ注目されるが、一体『伊勢物語』の何がどのくらい古いといったのかは説が分かれており、なお決着を見ていない。
作者については古くから多く意見があった。藤原清輔の歌学書『袋草子』や、『古今集注』の著者顕昭、さらに藤原定家の流布本奥書に作者は業平であろうと記述があり、さらに朱雀院の蔵書塗籠本にも同様の記述があったとする。また「伊勢」という題名から作者は延喜歌壇の紅一点の伊勢であるとの説もあり、二条家の所蔵流布本の奥書に伊勢の補筆という記述がある。このように『伊勢物語』の作者論は、作品そのものの成立論と不即不離の関係にあり、『古今和歌集』と『後撰和歌集』の成立時期の前・間・後のいずれの時期で成立したかについても説が分かれていた。しかし近年[いつ?]では、『伊勢物語』と実在した業平との間には一線を画す必要があると考えられている[注 4]。
現在行われている成立論の一つとして、片桐洋一の唱えた「段階的成長」説がある。元来、業平の歌集や家に伝わっていた話が、後人の補足などによって段階的に現在の125段に成長していったという仮説である。ただし増補があったとするには、現行の125段本以外の本がほぼ確認できないという弱みがあり、段階的な成長を説くことに対する批判もある。また、最終的に秩序だって整理されたとするならば、その整理者をいわゆる作者とすべきではないか、という指摘も見られる。近代以前の作品の有り方は、和歌にせよ散文にせよそれ以前の作品を踏まえるのが前提であると考えられ、現代的な著作物の観念から見た作者とは分けて考える必要がある。
そのような場合も含めて、個人の作者として近年[いつ?]名前が挙げられることが多いのは紀貫之らである[注 5]。しかし作者論は現在も流動的な状況にある。
l 後世への影響[編集]
『伊勢物語』は「いろごのみ」の理想形を書いたものとして、『源氏物語』など後代の物語文学や、和歌に大きな影響を与えた。やや遅れて成立した歌物語、『大和物語』(950年頃成立)にも共通した話題がみられるほか、『後撰和歌集』や『拾遺和歌集』にも『伊勢物語』から採録されたと考えられる和歌が見られる。
『枕草子』の第82段に「あやしう いせの物がたりなりや」とあるように[16]、この時代で既に「伊勢物語」をもじった「いせのものがたり(僻の物語)」という言葉遊びがあり[16]、「いかがわしい物語」や「えせ物語」という意味で用いられていた[16][注 6]。中世以降にはおびただしい数の注釈書が書かれるようになり、それぞれに独自の伊勢物語理解を展開して、それが能の演目の『井筒』や『雲林院』などの典拠にもなった。近世以降は、『仁勢物語』(にせものがたり)を始めとする多くのパロディ作品が創られ、現代でも清水義範の『江勢物語』(えせものがたり)などが生まれている。
また、人形浄瑠璃や歌舞伎の世界でも『伊勢物語』は題材の一つとなっており、惟喬親王と惟仁親王(清和天皇)の位争いを中心に、在原業平や紀有常などを『伊勢物語』のエピソードを交えて活躍させている。代表的なものとしては次の演目がある。
『井筒業平河内通』(いづつなりひら かわちがよい)[17]
初代近松門左衛門作。享保5年(1720年)、大坂竹本座にて初演。
『競伊勢物語』(はでくらべ いせものがたり、別訓:はなくらべ いせものがたり、だてくらべ いせものがたり、すがたくらべ いせものがたり、くらべごし いせものがたり)[18]
初代奈河亀輔作。通称『伊勢物語』。安永4年(1775年)4月、大坂中の芝居にて初代中村歌右衛門らにより初演。
現代においては、高樹のぶ子が『小説伊勢物語 業平』を2020年に刊行している[19]。
l 諸本[編集]
現在『伊勢物語』の本文として読まれているものは、藤原定家が天福2年(1234年)に書写した「天福本」と呼ばれる系統の写本をもとにしたもので、刊行される単行本や文庫本、また学校等で使われる教科書類での引用など、この「天福本」の本文によらぬものはないといってよい。しかし『伊勢物語』の伝本については以下に述べるように他にもいくつかの系統があり、『伊勢物語』の成立が現在に至るも解明されていない状況においては、伝本についての研究はないがしろにできないものといえよう。その系統について説明すると大きく五つに分類できるといわれている。
(1) 定家本系統 … 藤原定家が書写したとされる本で、125段・和歌209首からなる。現存する『伊勢物語』の写本の実に95%以上がこの系統に属するといわれている。定家本はその奥書によって、さらに三つの系統に分けられる。
(A) 流布本(根源本)系統 …「抑伊勢物語根源…」に始まる奥書を持つ。定家はその生涯で何度も『伊勢物語』の書写を行っており、この根源本と呼ばれるものは、定家が書写したものの中では比較的早くできたものといわれている。根源本系統は現在までの研究によって、さらに数種の系統に細分化されることが明らかになりつつあり、どれぐらいの系統に細分化できるかについては学者によって異なるところであるが、さらに研究が進むことが期待される。しかし定家自筆の根源本は現在ひとつも残っていない。天理大学附属天理図書館蔵伝為家筆本、九州大学蔵伝為家筆本など鎌倉期の転写本があるが、天理図書館蔵伝為家筆本の末尾には他本(小式部内侍本〈狩使本〉ではないかといわれる)から採ったという18章段が付加されている。
(B) 天福本系統 …「天福二年正月廿日已未申刻…」に始まる奥書を持つ。定家自筆本は江戸時代、火災に遭い焼失したという。三条西家旧蔵本(現在は学習院大学蔵本)などがある。
(a) 学習院大学蔵本 … 三条西実隆が定家自筆の天福本を忠実に書写した本とされている。現在活字で出版されている『伊勢物語』のほとんどは、この写本を翻刻・校訂したものである。なお、天福本で実隆が書写したものについては他にもあり、それは四国今治市の河野記念文化館に所蔵されるという。
(b) 冷泉為和筆本 … 宮内庁書陵部の所蔵。冷泉為和が天文16年(1547年)に、定家自筆本を直接書写したもの。奥書に漢字・仮名の使い分け、行数の不同、紙数、外題にいたるまで、そっくりそのまま定家自筆本の通りに書き写した旨が記されている。
(C) 武田本系統 … もとは冷泉家に伝わる定家自筆の本であったが、様々な人の手を経たのち武田伊豆入道紹真が所持し、その後も若狭の武田家が所有していたところからこの名がつけられた。「合多本所用捨也…」に始まる奥書を持つ。武田本も定家自筆のものは江戸時代に消息を絶っており、現在残っているのはその転写本である。山田清市は天福本と武田本の本文を比較し、天福本には4箇所において誤写とみられる部分が存在するのに対し、武田本には本文における欠陥がないことを指摘している。
(2) 古本 … 定家本とほぼ同じ内容。系統的には定家本に先行するものといわれる。ただし、初期の無奥書定家本である可能性も否定できない点は注意しなくてはならない。
(3) 真名本 … 文字どおり、「真名」(漢字)で書かれた伊勢物語。初段から終焉まで125段・208首からなる。定家本と近いが内容に多少出入りがある。用字法などから鎌倉時代以降、あるいは南北朝時代以降の成立であろうといわれている。
(4) 広本系統
(A) 大島本 … 定家本に見えない章段を1段持つ代わりに、定家本115~117段が欠落しているため、章段数は123段である。また、巻末に皇太后宮越後本からの12章段と小式部内侍本からの24章段を併せ持つ。現在千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館に所蔵。
(B) 日本大学図書館本、阿波国文庫蔵本、谷森本、神宮文庫本 … 134段。初冠から終焉まで119段、それ以降に業平自筆本から採ったという14段を付記。
(C) 一誠堂本 … 97段。ただし、巻末に小式部内侍本の13章段を持っている。
(D) 泉州本 … 136段。定家本にはない10章段を持っているが、末尾は定家本125段にあたる部分となっている。また、第30段に返歌を載せた形式のものを末尾近くに再出させる。この本は戦災で焼失したがそれ以前に翻刻したものがあり、中田武司『泉州本伊勢物語の研究』(1968年、白帝社)にその本文が収められている。
(5)朱雀院塗籠本 … 奥書に「此本者高二位本、朱雀院のぬりごめにおさまれりとぞ…」とあり、高階成忠本か。初冠から終焉まで全115段。定家本にある11章段をもたず、定家本にはない1章段を持つ。現在は本間美術館(山形県酒田市)に所蔵される。
この他に注目すべき伝本としては通具本がある。この本は巻末に、まず定家本の流布本系統にある「抑伊勢物語根源…」の文章に続き、「堀河大納言通具」(源通具)の本に定家本でもってこの本を書写校合したという意味の奥書があるのでそう呼ばれる。本文は125段、205首。88段以降の章段の順序が定家本とは食い違う部分があり、さらに広本系統の本文を含むが、ほかに上にあげた5系統のいずれにもない本文も含む。古筆了佐の鑑定があり、それによればこの写本の筆者を二条為氏としているがその真偽についてはともかくも、鎌倉時代を下るものではないという。現在は鉄心斎文庫・伊勢物語文華館に所蔵される。
以上、五つの系統の伝本は全て初冠の章段で始まり 、「つひにゆく」の章段で男の死によって終焉を見る「業平の一代記」の形をとっていることにより、「初冠本」とも呼ばれている。このほかにも、男が伊勢へ狩の使いに行って斎宮と密通する段(69段)から始まり、「忘るなよ」の章段(11段)で終わる「狩使本」があり、それを小式部内侍が所持していたという伝承がある。これは清輔の『袋草紙』や顕昭の『古今集注』に記されているが、実は両者ともその実物を見たわけではない。現在では「書名の由来を説明するために後から作られた」という説もある。藤原定家はこの本を「狼藉左道」、すなわち許すべからざる偽書であると非難しており[注 7]、伝本も確認できない[注 8]。また、古くは「初冠本」と「狩使本」のほかに「業平自筆本」なるものがあり、「名のみたつ」の43段で始まり「つひにゆく」の125段で終るものであったと伝わるが、これも現存しない。
結局、伝本に関しても、完本として現存するのは鎌倉時代以降のものばかりであり、それより以前に遡るものはわずかな古筆切を別にすれば皆無である。『伊勢物語』の原典に迫ることのできる資料は何一つないが、ただ伝本の多さから、いかにこの作品が親しまれ、愛されてきたのかは十分伺い知ることができる。
l 研究史[編集]
古注釈[編集]
鎌倉時代
『和歌知顕集』
『伊勢物語肖聞抄』 - 牡丹花肖柏。宗祇「伊勢物語講談」の聞書。初稿本は文明9年(1477年)に成立。
『伊勢物語闕疑抄』 - 細川幽斎。文禄5年(1596年)2月に成立。
江戸時代
『伊勢物語拾穂抄』 - 北村季吟。寛文3年(1663年)以前に成立。延宝8年(1680年)刊行。
『勢語臆断』 - 契沖。元禄5年(1692年)以前に成立。享和2年(1802年)刊行。[26]
近現代の研究者[編集]
ここでは、特筆性の高い近現代の研究者などについて記述する。
阿部俊子(1912-1993年) - 国文学者、大正大学教授、学習院大学名誉教授。『伊勢物語』の研究で有名。
柳田忠則(1946年 - ) - 国文学者、日本大学教授。『伊勢物語』『大和物語』の研究で有名。
河地修(1951年 - ) - 国文学者(専攻は中古文学)。『伊勢物語』の研究業績が知られる。
田口尚幸(1964年 - ) - 国文学者。『伊勢物語相補論』や『伊勢物語入門 ミヤビとイロゴノミの昔男一代記』を刊行。
l 注釈[編集]
1.
^ 東下りの途上にある男(※主人公)の一行は武蔵国と下総国の間を流れる隅田川を船で渡る。果てしなく遠くまで来たものだと皆が心細さを感じつつ都を恋しく思っていると、鴨(かも)ほどの大きさの鳥が水面を気ままに泳ぎながら魚を獲っているのが見えた。都では見ない鳥なので船頭にその名を訊いてみると、「都鳥(みやこどり)」だという。そこで男は次のように詠んだ。
《 原 文 》 名にしおはは いさこととはむ みやことり わかおもふ人は ありやなしやと
《書き下し文》 名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 我が思ふ人は 有りや無しやと
《口語解釈例》 その名を持つからには[さぞや都の事情に詳しいのだろうから、]さあ尋ねよう、都鳥よ。[やむなく都に残してきた]私が恋い慕う人は無事でいるのかいないのかと。
それを聴いて船に乗っている人は一人残らず泣いてしまった。
2.
ただし能の『井筒』では、この段の主人公は業平と同一視される。
3.
この点が、同じく歌物語に属すとされながら、実在人物へのゴシップ的興味を前面に押し出している『大和物語』との顕著な相違点である。
4.
伊勢物語の重要な材料の一つに業平の歌集があったことは想定される。しかし明らかに『古今和歌集』との関係が強い章段も見られ、業平歌集と『伊勢物語』とは、一応別物であって単に筆を加えた物ではなく小説として書かれているのであり、古来根強く云われた業平の作という説は、近年[いつ?]は通用していない。[13]
5.
在原業平一門、源融を中心とする歌人仲間、伊勢、紀貫之等が擬せられている[14]。折口信夫(歌人・釈迢空)等は貫之作者説をとっていた。
6.
ただし、北村季吟は『枕草子春曙抄』で、これを『伊勢物語』第84段の「しはすばかりにとみのこととて御ふみあり」に関連付けて解釈し、「急用」の意であるとしている[16]。
7.
根源本奥書に「…後人以狩使事、書此物語之端。其本、殊狼藉左道物也。更不可用之」(九州大学所蔵伝為家筆本)とあり、また根源本によっては「伊行所為也」ともある。「伊行」とは藤原伊行のことで、この藤原伊行が「狩使本」の流布に関わっているという主張であるが、その真偽については定かではない。
8.
ただし現在、東京国立博物館には『伊勢物語絵巻』三巻(摸本)が所蔵されているが、本来20段ほどのその章段の順序は125段本とは大きく相違し、冒頭には狩の使の段(69段)を置くことから、現存しない「狩使本」をもとにしているのではないかといわれている[20][21][22]。この絵巻は江戸時代の狩野派の絵師、狩野養信らによる摸本であるが、その原本は鎌倉時代に遡るものとされる[23][24][25]。
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