志ん生のいる風景 矢野誠一 2020.7.31.
2020.7.31. 志ん生のいる風景
著者 矢野誠一 1935年東京生まれ。芸能評論家、エッセイスト。東京市代々木八幡出身。歌舞伎学会、日本文芸家協会会員。都民劇場理事、早川清文学振興財団理事。演劇雑誌「悲劇喜劇」(早川書房)編集顧問。麻布中学校、麻布高等学校卒業。中学時代から「映画研究部」に所属し、先輩に山際永三、福田善之、和泉二朗、佐藤重臣らがいた。1956年、文化学院卒業。劇団三期会(のちの東京演劇アンサンブル)の演出部に所属。1962年、8代目桂文楽、6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さんなど、戦後屈指の名人を一堂に集めた「精選落語会」(イイノホール)をプロデュース(~1968年)。1967年「上方寄席’67」「東西交流落語会」の制作・企画で芸術祭奨励賞。落語を中心として評論活動を行なっている。1969年から東京やなぎ句会に参加し、俳号は「徳三郎」。
5代目春風亭柳朝、7代目(自称5代目)立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目三遊亭圓楽を「若手四天王」と命名した。作家の夏堀正元は従兄弟。
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1967年、芸術祭文部大臣奨励賞(「上方寄席’67」「東西交流落語会」の制作・企画)
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1996年、第10回大衆文学研究賞(評論・伝記部門「戸板康二の歳月」)
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2006年、第14回スポニチ文化芸術大賞優秀賞
発行日 83.12.5. 初版 96.10.20. 6版
発行所 青蛙房(せいあぼう)
序章
古今亭志ん生。5代目。本名、美濃部孝蔵
僕の、一番好きな落語家である
1.
1973年秋彼岸
1973.9.21.古今亭志ん生死去、享年83
毎日新聞に、『感動的「芸人に徹した一生」』の題で追悼文を書く。「落語という芸の魅力は、演者の語り口にこそあるので、物語というものはそれに付随したものに過ぎない。志ん生の存在は落語そのもので、「火焔太鼓」などのおかしさは、話の面白さではなく、志ん生という人の発想そのものにあったので、こういう落語家は簡単には出るものではない。最後まで芸人で通した生涯は感動的ですらある。志ん生という落語家が逝ったのではなくて、落語という芸そのものが消えてしまった思いがしてならない」
普通、「間」というと、演劇的な意味で演技的な運動が停止される状態を指すが、この「間」には、情緒的な一種の快感を客に与える効用がある
落語の「間」の、演劇のそれとの一番の違いは、情緒的な「間」が、演劇ほど重要な意味を持たないということだろうか。多くの場合、それは生活的なリアリティを与える以外に、あまり役に立たないのが実情。情緒的な快感を聞き手に与えるよりも、笑わせることの方を大切にする落語における「間」は、当然のことながら、落語家の語り口に託された、聞き手に笑いを与えるための技術なので、落語としての効果的な「間」は、演劇的には凡そ無意味なものである例が多い
志ん生は、落語における「間」を、ギャグとして利用することに卓越した技術を持っていた。ぐっと言葉に詰まった時、程よい「間」があって飛び出してくる言葉は、決まって聞き手の意表を突いたもので、客席はどっと来る。志ん生の「間」は、聞き手の側に次に出て来る志ん生の言葉を予想させる「間」であって、それが見事に裏切られて、意表を突いた言葉が飛び出してくるから、笑いが生じ、「間」が生きてくる
2.
さむらいの自我
志ん生が、陸軍省恤兵部の命を受けた松竹の手で結成された慰問団の一員として日本を出たのが終戦直前の5月。志ん生55歳、同行の6代目円生が10歳下。大連で敗戦を迎え、2人で共同生活をしながら何度も死にかける経験をし、戦後はそれぞれが詳しく著書に記しているが、2人はそれまでの生き方からして違い過ぎ、些細なトラブルをしばしば起こしていたらしい。志ん生の叩き上げに対し、円生は5代目の養子として子どもの頃から高座に上がった「寄席育ち」(円生の著書の題名)のエリート
志ん生が満州に行ったこと自体、酒に惹かれたと言われるが、それ以上に志ん生が空襲を異常に恐れていたことがある。自分が助かりたい一心で家族も捨てて満州に逃れた志ん生の人間的な弱さが、実は強烈な自我の塊と化して、志ん生を支えた。息子の10代目
金原亭馬生は父のことを、「芸人としては認めるが、親としては失格で、好きじゃない」という。あのもののない時代に一家の働き手が満州に行ってしまって残された者はどんな思いで過ごしたことかと思い出す
筆者が落語を好きになった動機は、47年麻布の文化祭で先輩の小沢昭一や加藤武がやった落語を聞いたこと
志ん生が自ら語る出自についても、戸籍とは微妙に異なり、旗本の出である事実を自慢げに語り続けたのは、志ん生がさむらい好きだったからとしか言いようがない。さむらいの心を持ち続けた芸人だった
類稀なる落語的美意識は、心豊かな暮らしから生まれたものであり、「武士は食わねど高楊枝」の心意気が志ん生の胸の内には生涯あった
3.
ひとりの師
芸名を16回も変えたのは志ん生以外聞いたことがないが、師匠も何度か変えている
最初に入門したのが17歳の時、名人といわれ、三遊亭圓朝門下の逸材の誉れが高かった4代目橘家円喬で、師匠も名乗った朝太(ちょうた)という前座名をもらったと本人も言い、定説となっているが、円喬が弟子に「朝」の字を付けたことはなく、2代目小圓朝門下で、入門時は20歳だという
圓朝の衣鉢を継いだ名人として、藝の評価の高かった円喬だが、その晩年は仲間内でも孤立した状態で、己の藝に生きんがためとかく協調性に欠けた行動をとっていた。圓朝の臨終に立ち会っていなかったのも円喬の立場を悪くし、圓朝襲名の話が出なかったのも円喬自身の性向に問題があったとされる
落語という藝は、本来パーソナルなものだが、そうした藝に携わる人々を、三遊派といった組織に統轄せしめた点で、三遊亭圓朝は優れた芸人であると同時にオーガナイザーでもあった。それに対し円喬は、落語が本質的にパーソナルであることに殉じた芸人で、そのことがますますこの人を孤高に押しやっていった気味がある
そんな円喬を崇拝してやまなかったのが志ん生で、円喬の「外交的でない」とか「愛嬌がない」といった性格はそっくりそのまま志ん生の一面を示しているように見える
たいていの落語家は、愛嬌は高座の上でだけふりまけばいいと考えているが、それでも世間一般の人よりは、多少とも愛嬌があって、外交的な手腕に長けているのが落語家というものだろう。そうした点からいうならば、志ん生は円喬同様に、およそ落語家らしからぬ落語家であった
志ん生が生涯にわたって円喬の弟子と言い続け、心酔しきっていたことを隠そうともしなかったのは、その優れた技藝に対する敬愛の念もさることながら、落語家としての生き方そのものについても指針としていたからだとも受け取れる。仲間内での評判の悪さなど、優れた藝の前には何ほどのことも無いことを知っていた志ん生にとって、円喬はあらゆる面で落語家としての規範であった
円喬のうまさは、並外れて優れた描写力の高さにあり。意識的な芝居の世界に対する傾斜が窺える。歌舞伎における演技術を落語の語り口に取り入れようとした。描写は、語り口をより豊かにするための1つの手段。志ん生にとって、円喬の持つ描写力の高さは、生涯信仰の対象のようなものだった
4.
藝と商売
円喬の藝を伝える文章に、出来の好くない時の記録が皆無というのも、余計に円喬という落語家に対して神秘的な面影を与えているが、志ん生には神秘性はまるでなく、今日「やる、やらない」は気分次第。ところが、「やらない」ときでもサマになったのが志ん生
客の程度によって話をやり分ける ⇒ 「セコキン」という悪い客にはいい話を苦労して喋っても報われないので、シモがかった内容の短い話をして喜ばせたり、同じお座敷に外の落語家が呼ばれていると、さっさと先に短い話だけして帰ってしまうこともあった
ほかの噺家のようには「お座敷」を大切にしなかった
「藝」と「商売」は自ずから別物。「藝」は年1度か2度やるもので、毎晩やっていたら身が持たない。「遊び」に来た客には気持ち良く遊ばせて帰すのが我々の「商売」の腕
「藝惜しみ」する所もあって、十八番といわれる得意の演目を、そう簡単には高座にかけなかった志ん生や三笑亭可楽は、その藝を求めて寄席通いをするファンには冷たい存在と写ったとしても無理がなかったが、「商売」をするつもりで高座に上がったのに、何かのはずみで存分に「藝」をやってしまうような天邪鬼なところがあるのがいい芸人の1つの特性かも知れない。志ん生が、騒がしい酔客の一団を前に、一切無視して、滅多に演じることのなかった《富久(とみきゅう)》をやりきって、自然な形で拍手に送られたことがあった
5.
曙光がさす
芸名を29年間に16回も変えた落語家はいない。しかもそれを売物にしていた気味がないでもない。変えなければならなかった事情が前半生のありようを物語っている
藝名を変えて益するところはあまりないのに、しばしば変えた裏には、仲間内から決して良く思われていなかったことにもよる
雨の日には、たいして稼ぎにならない寄席に行くより休んで酒でも飲んでいた方がいいとなって、しばしば寄席を「抜く」(無断欠席)ために仲間に迷惑をかけることになる。博奕の負けも含め、仲間に対する金銭的な不義理も少なくなく、ルーズな生活態度が仲間内から敬遠されていた。自分の評判がよくないことを知って、そこから何とか逃れようと気を配り続け、改名はそのための方便で、新しい名前を得て、何か違った生き方ができやしないかと考えた結果が16回の改名 ⇒ 志ん生が「真生」に通じる命名であることは5代目を継ぐ時すでに知られていた。志ん生は代々短命で終わっていたので、襲名は最後の賭けだったが、赤貧洗う如き時代から、志ん生襲名を機に、藝の面でも生活の面でも曙光がさしてくる
落語の藝を、活字で記録する「速記本」は、1884年圓朝の『牡丹燈籠』が嚆矢、新しい読み物としての地位を獲得すると同時に、落語家にとってお座敷と同様の大切な収入源となる。寄席(演藝場)は、1924年に東京市内で107カ所、入場者総数は394万
1981年、講談社刊『昭和戦前傑作落語全集』には、速記620篇の中から選りすぐって収録されているが、志ん生が21本で最多、次いで金語楼の18本、3代目金馬の16本
志ん生の場合、演目も少なくないが、雑誌に載せる速記の性格を常に考慮して、多少とも毛色の変わった演目を提供しようという意識が他の落語家よりも強く働いているように窺える。お馴染みの話にも、志ん生ならではの色彩はかなり濃厚に投影されている
寄席で殆ど売れることのなかった志ん生が、寄席以外の場、つまり放送、レコード、雑誌の速記といった分野に関心を向けたのは当然のこと。仲間内での評判を気にしなくてよかった。いくつか自作があったのも意外だし、馴染みの演目でも独自の演出を窺うことが出来、この時代の志ん生には、ほとばしるものがあったのだろう
40年近衛首相の提唱した新体制運動に呼応して「藝能文化連盟」が結成され、落語家たちも自主規制により41年浅草本法寺境内に「はなし塚」を建立、時局にあわぬ話53演目を禁煙落語として葬ったが、芸人コンプレックスを持ちながら奔放に生きてきた芸人が、せめて自分たちの力でできることで体制協力を願い出ることによって、国民としての免罪符を獲得しようとしたものともいえる。そういう世の中の動きに超然としていたのが志ん生で、戦時体制順応とか、時局便乗などとはまるで無縁の関心で、日を追うに従い暗くなりつつある世相も、志ん生にとっては自分の落語に多少とも新しい色彩を加えることのできる材料に過ぎなかった
「藝と商売とは別」という芸人としての処世訓を、晩年に至るまで持ち続けた、そのきっかけの1つに、この時代の雑誌に沢山の速記を発表して新しい商売を覚えたことが挙げられるかもしれない
6.
父と子
82年、志ん生の長男10代目金原亭馬生逝去。享年54。「死なれてみるとこんなに惜しい人はいない」という言葉がぴったり。少年非行兵を志願しながら虚弱体質で落ち、軍需工場も眼を悪くしてやめ、国民徴用令を逃れるために、落語家なら軍需工場の慰問に廻る仕事があると父に勧められ43年に父の弟子になる
志ん生の息子だからといってそのことがさしたる役には立たないどころか、志ん生の若い時分の身勝手な振る舞いを決して快く思っていない仲間が大勢いたであろうから、父親の名前が却て邪魔になる場合もあるという事実を入門早々に教えられ、落語家として多少とも屈折した歩み方をしたとしても無理からぬところがあった
しかも、2年も経たないうちに志ん生は満州に慰問に行ったまま帰らない。人一倍苦労して、人一倍早くうまくなり、人より一足も二足も早く世を去ってしまう。父親に似て大酒呑みだったが、そのために高座をしくじるということもなかったし、仲間内の評判を落とすこともなく、「親爺とは違う」ところを見せようとする意識が必要以上にあった
同じような意識は、馬生より2年先に逝った林家三平にもあり、父の7代目正蔵が売れた落語家なのに自分の金を残すことが急で、仲間づきあいの面で必ずしも評判がいいとは言えなかった分、三平は仲間内で「金が切れる」という点で頗る評判がよく、余暇さえあれば若い落語家を連れて飲み歩き、仲間づきあいで父親と同じ間違いを繰り返す愚を避けた志ん生は酒の上で何度も仕事をしくじった以上に家庭にも迷惑をかけてきたが、馬生は芸人には珍しいくらい家庭的な人で、家から出ることを嫌がった
父親に対し、終生醒めた態度を取り続けた必然の結果として、落語という藝に対しても、志ん生とはかなり異なった藝質の持ち主に仕立て上げられた ⇒ 志ん生は、「ぞろっぺい」でいい加減な一面が他の落語家にはない魅力でもあったが、馬生の藝には「いい加減さの魅力」というものは希薄、というよりそれに目を背けようとする潔癖さが馬生の背骨として終生ついて回った。辻褄の合わない描写はせず、藝の嘘の効用を受け容れず、本来なら得られたはずの落語家冥利まで惜しげもなく捨ててしまった
志ん生の十八番の《火焔太鼓》でも、実在の火焔太鼓は雅楽で用いる高さ1丈を超える大きさで到底背負える代物ではないところから、馬生は大八車で運ぶことにしたため、志ん生が「だからおめえは駄目だっていうんだ。実物の大きさなんでどうでもいいんだ」
馬生の考える誠実な藝とは、嘘のない藝であって、志ん生が「藝だから許される嘘」を巧みに利用していたことを理解し、自分もある程度はそれを許容しながらも、納得のいかないことに対して必要以上に厳しい態度を崩さなかったことが、父親と比較して自分の落語のスケールを小さなところにはめ込んでしまった気味がある。歌舞伎でも、明治の変革に際し、9世團十郎が創始した「活歴」の、枝葉末節に拘り過ぎて肝心の「劇的興奮」を失ってしまったという誤謬が思い起こされる
酒は大好きだが、煩わしい酒は嫌いという酒飲みの、志ん生がその典型であったことはほぼ間違いない。いわゆる「酒席」は好きではなく、独り「いくら」を前にちびりちびりとやる
志ん生の左腕に般若の面の筋彫がしてあった。道楽の末の噺家で無疵の人は少なく、志ん生も若気の至りでやったのだろうが、あまりに貧弱なるがゆえに人にもあまり見せたがらなかったのだろう
古道具屋を覗くことが好きだったが、同時に一度買ったものを売ることも好き ⇒ 並外れた自我意識の持ち主としては、それを支えるための武器でもある小金を、さして必要としない状態がやってきてなお、習い性になったというか、道具屋を呼びつけては、手渡して小金を得ることに、奇妙な老人の喜びを見出していたのではないか
志ん生の次男は、古今亭志ん朝。38年生まれ。人一倍照れ性で人飴で話すことは向いていないと知っていた志ん朝は、外交官志望で東外大を受験したが失敗、浪人中に、50近くで得た子供だけに可愛くてしかたなく、手元に長くおいておくには落語家がいいと考えた父親のたっての希望に応えざるを得なくなって落語家になった。長男の時は馬生の方が稽古熱心だったが、次男の時は志ん生の方が熱心。父親譲りの負けず嫌いで、一旦落語家になると見る間に腕を上げてみせた。志ん生のスタート時と同じ朝太の芸名で前座から始まったが、上野の本牧亭で2か月に1度「古今亭朝太の会」を開き、毎回2席づつ新しい演目を披露。前座の身で定期的に自分の会を持つなどは、その時分破天荒なことだったが、いつも超満員の客を集めたのもまた例のないことで、親の七光り的な面が全くなかったわけではないが、何よりも落語家として異数の才能に恵まれていたことがよく分かる
62年、入門後5年という記録的なスピードで志ん朝を襲名し真打に昇進したが、志ん生は前年末に倒れて真打披露の高座に姿はなかった
芸名の伝承は、それを絶やさないために継いでおきさえすればいいというものでもなく、あくまでその名跡に相応しい芸風の持ち主によって受け継がれるのが理想
天衣無縫、自由闊達、感性がたよりにうつった志ん生の藝には、細かすぎるくらい細かい神経の裏付けがあるが、些細な言葉一つをも決して蔑ろにしなかったのは、落語家としての美意識であり、心構えでもあった。日常の生活まで和服姿で通したり、家の出入りや、新しく品物をおろした時など切火を打つような落語家の家庭ならではの習慣は、馬生家までで、志ん朝の代ではさすがもう受け継がれていないという。だが、志ん朝という人は、父の落語家的日常生活感覚の中から、落語家ならではの美意識と心構えだけは、しっかりと抽出して受け止めている。それが、格別に心してのものではなく、ごく自然な感性としてなされているところが、志ん生という落語家を忘れられないでいる世代の人々の心に、ある安らぎを与えている
7.
冬の夜に
61年、巨人軍優勝祝賀会の余興に招かれ、そこで倒れ一時は絶望視されたが、1年後には右半身不自由の身をおして高座に上がり、若干あった言語障害の後遺症を意識してずっとゆっくりした口調で演って世間を驚かせた
1年も経って復帰すると、倒れた時の詳しい事情が分かって来て、売れっ子の師走、野球などには興味のない志ん生が、忙しい合間を縫って引き受けた「藝ではなく商売」のお座敷、しかも川上監督の都合で1時間以上も待たされ、さして落語に興味のある聞き手でもない場に、志ん生ともあろう人が何故あがったのかと関係者は悔やむ。さすが自我を貫き通してこれまでやってきた志ん生も年齢(とし)を取ったのだという以外にない。若い時分にはおよそ縁のなかった妥協という便法を知るところまで、志ん生は年齢を取ってしまっていたのだ
61年の落語界は、明治生まれの落語家たちが元気に活躍していた時代で、戦後の落語が芸術的な水準に於てピークに達した時期といえる。藝が溢れるばかりの輝きを持っていた時代で、新安保条約の自然成立など、いってみれば蚊帳の外の出来事だった
68年、筆者が始めた「精選落語会」第40回の高座が最後、演目は十八番の《二階ぞめき》という廓ばなし。廓の好きな若旦那のために、番頭が店の二階に吉原を拵え、若旦那が冷やかして歩くというものだったが、話の途中から《王子の狐》に変わってしまう。マネジャー役の長女が舞台後ろの屏風の影から違うよと囁き続けたがそのまま通してしまい、次の会から出場を辞退
昔の落語家は、高座で一席やる以外に、「飛び道具」と称する裏芸の1つや2つ持っているのが普通。ほとんどの人が踊りの手ほどきを受けていたて、よく高座で踊っていたし、落語の中にちょっとした歌の入る音曲ばなしというのもあって、志ん生もよくやっていたが、滋賀の三井寺辺りで売り出された俗曲の「大津絵」を志ん生がやる時の歌詞は「冬の夜に」で始まる火消しの女房の心意気を歌ったもので、小泉信三が聞いて落涙し、以後も自宅に招いては落語のあと大津絵を所望するなどこよなく愛したという
8.
好敵手
志ん生と全く対称的な存在として、8代目桂文楽がいる。1892年生まれ。逝去は2年早い。性格、生き方など対称的な存在だが、芸風や、落語に対する感性、姿勢、神経もすべて対称的で、色彩のまるで違った落語を聞くことが出来た
文楽は健康に気をつかい、仕事でも掛け持ちはせず、トリもなるべくなら遠慮したいといい、晩年には体力を消耗するからと、得意の《愛宕山》をやる時はあらかじめ主治医の許可を得たくらい神経を使っていたが、一方の志ん生は医者嫌い、薬嫌いで通っていて、71歳で倒れるまで入院などしたこともなく、禁酒禁煙と注射が何より耐え難かった
楽屋でいつも賑やかに明るく、華やかな空気が漂っていた文楽に対し、楽屋で無駄口一つ叩かないのが志ん生
人をそらさない如才のなさという点に関しては文楽には天才的なところがあった
三木助の3回忌に安藤鶴夫が「しのぶ会」の声をかけたが、毀誉褒貶が激しく三木助を不当に高く評価しすぎたとの批判があった安藤が音頭を取ったことに反発を感じた向きも多く、同日に「しのばず会」も不忍池近い本牧亭の座敷で企画され、両方から声の懸かった人も何人かいて一種の踏み絵状態になったが、どっちもしくじらないように行動するのが文楽の処世術で、苦も無くそれができる人だった
文楽の藝が初代吉右衛門同様、一点一画を疎かにしない楷書の藝で、精巧無比な機械にまで譬えられた。「役者は一生が修行です」といった吉右衛門の言葉通りに、ねりにねりあげた結果が高座に現れたもので、寸分の狂いもなく、放送の録音でも同じ話を何度収録しても、その仕上がり時間が1分と違わなかった。それだけに一つ話を高座にかけるまでに、気の遠くなるくらい稽古に時間を費やした。《富久》などは稽古を始めてから5,6年で漸く初演となったが、研究会に《富久》が発表されると、そのたびに文楽は休んでいたので、《富休》と揶揄された
それだけにレパートリーが他の落語家に比べて少ないのは極めて当然
最後の高座は1971年の第42回落語研究会で、演目は《大仏餅》で、途中で登場人物の名前が出てこずに絶句、客席に頭を下げて退場。4か月後に肝硬変で逝去するまで一切落語を口にしなかったという
何度も何度も稽古して、その日演ずる作品は必ず事前にさらい直して、稽古ですら手を抜くことなく高座そのままに演じていた努力の人にすら「絶句」というあり得べからざる事態が襲うところに藝の恐ろしさと虚しさがある。「申し訳ありません。もう一度、勉強し直してまいります」という詫び口上の稽古までしていたと聞く
一方で、志ん生の場合は、口を突いて出て来る言葉そのものが落語で、何をどう喋っても落語になってしまうような魔力を具えていた。文楽に劣らぬ稽古をしていたらしいが、その結果を些かも感じさせることなく、落語と遊ぶが如き境地にうかんでいた志ん生の藝の秘密に、いま頻りに惹かれる。絶句したことが落語家としての死命を制した文楽に対し、元気な頃の志ん生はしばしば絶句した上、それをギャグとして巧みに利用して見せた
最後の高座から臨終まで5年近い歳月があったが、その間志ん生は稽古をしていたという。「独演会やりてえな」が口癖で、当人はいつでも高座に出るつもりで待っていた
9.
再び1973年秋彼岸
1973年秋のお彼岸に心筋梗塞で逝去。享年83。臨終には誰も立ち会っていない
落語家は、その生涯自体が藝のようなところがある。その落語家が死んだとき、その人の落語が完成する。だから、その落語家の死に方までが多分に伝説化される
たった1人で、芸人じみた大芝居をすることもなく、密かに彼岸に向かった志ん生の死に方は、生半可な伝説を拒否してのける厳しさがある
結城昌治『志ん生一代』の解説で、山田洋次が「美しい幕切れ」と評した描写は、もとより小説だから、志ん生伝説を作ることは可能だったが、そんな作業を厭わせぬだけの、事実でもって志ん生は自分の生涯を完成させた。美しい死に方といっていい
終章
戒名は松風院孝誉彩雲居士 文京区小日向の還国寺に墓がある
補遺 志ん生残影
馬生の一周忌が上野精養軒で開催。ひと頃真打昇進披露は精養軒が決まりみたいな時期があった
志ん生が逝って10年になるが、その評価はますます高まっている。落語家の評価は、終極のところその藝に対してなされるのが普通だが、志ん生の場合は些か違っていて、生き方そのものがこれほどに評価された落語家はそういない。極めて強烈な自己主張をしてのけ、好き勝手な道楽三昧にふけり、およそ反道徳極まる生き方をしてのけている
そんな生き方を貫いてきた志ん生が、最長老ということで落語協会の会長に推され、しかも何もしない無精な会長を7年も務め、評判が頗るいい。就任前周囲は、ずぼらでわがままな志ん生が何をするかわからないと言って反対する人もいたが、おとなしくもなり商売の方にも身を入れるようになったと言って、その豹変ぶりに驚きの色を隠さなかったが、現実は年齢をとったに過ぎないのでは。自我を貫くのも身勝手も、通らないから無理にも通そうとするので、年齢と共にそれに疲れてきた
俳句や川柳同様、落語もまた、無駄な言葉や説明は、出来るだけ省くを以て良しとしており、いい落語家になればなるほど、簡潔な言葉に多大の効果を委ねているのが普通だが、川柳をよく詠んだ志ん生の場合、落語でも川柳でも、語感の面だけに神経がいって、語感から抜け出ることをしなかったため、落語感あふれる川柳を作り続け、最後まで俳句の持つ雅味、風味には関心がなかった
馬生が川柳を捨てて俳句に傾倒していったのは、余りに大きくのしかかってきた父権から逃れる唯一の方法として、父とは全く異なった色彩の落語を、独自に創造することで、それには俳句の持つ雅味、風味を身につけることが、とりあえずの手立てであった
それでいて、いかにも馬生らしい気取り屋の裏側に、志ん生的落語感が姿を変えて息づいているし、嫌いな人は避けるという交際法は、志ん生そのもの。落語家という職業において、かなり重要な面を持つ人づきあいの面で、父親と同じやり方を踏襲し終えたことが、馬生の後世の評価に、悪い材料となるわけがない。馬生もまた孤高の落語家だった
あとがき
落語という藝には、青春を燃焼させてなおやまない、あやしい麻薬のような誘惑が内在していた。そんな時代を象徴する存在として志ん生という落語家は、やはり偉大に過ぎた感がある
青蛙房から初めて原稿の依頼が来た時、志ん生の書下ろしで行こうと決めたが、結城昌治氏が『週刊朝日』に『志ん生一代』を連載する時、評伝を試みようとしたが、若い時分の資料がほとんどなく、考証の手掛かりすらつかめなかったので小説のかたちをとったと聞いていたこともあって、本書も評伝のかたちにすることは最初からあきらめ、志ん生の周囲の人の取材もせずに、筆者自身の知っている志ん生として書いたので、些か恣意的な読み物となった。書いている間、志ん生がまだ現役の落語家であるという錯覚に付きまとわれたが、「人は、思い出の中で永遠に生きる」ということを実感したのは初めての体験
落語家は、その生涯自体が藝のようなところがある
2020/7/18付 日本経済新聞
新型コロナウイルスのせいで、経済がおかしくなってきた。傷むのは弱いところから。そんな世の常を昨日も今日もニュースが告げる。昭和の名人、古今亭志ん生の人と芸を愛惜する本書のくだりがすっと胸に落ちる。
古風な商店街のわきの細道を、買い物の詰まった大きな袋を下げた女性が歩く=山口朋秀撮影
「貧乏ではあっても、こころゆたかな暮しは可能だし、金に不自由しない身でも、貧乏たらしい暮ししかできないひともいる」
むろん志ん生は心豊かな暮らしをおくった。長屋のなめくじを日本の連合艦隊が攻めてくるさまに見立てた。「なめくじみたいに、切られようが突かれようがケロンとして、ものに動ぜず、人にたよらず、ヌラリクラリと、この世のなかの荒波をくぐりぬけ……」(「なめくじ艦隊」)
そんな期待が落語家の顔を「いまにもなにかを語り出しそうな表情」にみせる。「志ん生が、口をつぐんで、語らないとき、志ん生は志ん生であることを休んでいたのだ」
中学時代から寄席にかよった矢野誠一さんは、余人にない風姿をそう解いた。
1973年秋のこと、矢野さんは東京の谷中にあった自宅まで弔問に出かける。ホール落語の制作を手がけたことから間近に接していたのだ。いつもどおり団子坂で車を捨て、変わった名の質屋を目印に谷中銀座近くの路地へ。遺影を前に「志ん生は志ん生であることをやめてしまった」との感慨に包まれた。
かの「なめくじ長屋」があったのは下町の本所あたりだが、終焉の地を歩けば、志ん生の風景を目指して歩いた30代の矢野さんがしのばれる。落語家は、その人を伝える文章によって生き続ける。
慶応義塾の塾長だった小泉信三が、聴くたび落涙した志ん生の歌があった。大津絵節の「冬の夜に」だ。火消しの女房が半鐘を聞いて飛び出す鳶の夫の無事を祈る。「ほんにおまえはままならぬ……」。本書で知ったその哀調を記録音源で聴く。志ん生のおかしみの根にあるもの、苦難にじっと耐える日本人の心がそこにあった。
(編集委員 内田洋一)
やの・せいいち(1935~) 評論家。東京生まれ。麻布中学在学中、小沢昭一らの影響で落語の魅力にとりつかれ、寄席通いを始める。文化学院卒。劇団三期会(現東京演劇アンサンブル)の演出部に所属し、新劇の裏方として活動する。62年から落語の名人を集めた「精選落語会」をプロデュースし、68年まで続ける。落語会を制作する一方で芸能評論、エッセーを多数執筆、中でも落語評論の第一人者として知られる。
著書に「三遊亭圓朝(えんちょう)の明治」「女興行師吉本せい 浪花演芸史譚」「文人たちの寄席」「小幡欣治の歳月」など。表題作は、落語家の人生と芸を評しつつ、惜別の思いとともにつづる。1983年に発表された。
(作品の引用は河出文庫)
(文化の扉)えー、志ん生ってえのは 破天荒で勉強家/声色・しぐさ、生かした話芸
2019/8/26 日本経済新聞
遠藤賢司の歌ではないが、いい時は最高、悪い時は最低。クサヤの干物と同じで、好きになったら病みつきに。えーそれが志ん生というものでして……。
酒に酔って高座で居眠り。NHK大河ドラマ「いだてん」で登場したこの逸話、目撃証言が増えているとか。ほかにも預かった金を使い込み、新婚なのに遊郭の吉原や博奕場へ通うなど、いまなら「反社会人」の烙印を押されそうな問題児ぶりは数知れず。極貧時代のあだ名は「死神(しにがみ)」だった。
徐々に売れ始めて五代目古今亭志ん生を襲名。満州から帰国した還暦間近になって人気が爆発し、亡くなって40年以上経ってもCDが売れる。「いつか花が咲く」と信じながら埋もれていく芸人がほとんどなのに。
孫弟子の古今亭菊之丞は「時代がよくなったのかも」。一人でできて経費のかからない落語は、戦後のラジオでは優良コンテンツだった。志ん生はネタ数が豊富で重宝された一方、放送局との専属契約を破って他局に出演することも。偏屈な性格は年をとっても変わらず「売れてなかったらただの変なおじいさん」と証言する人が多い。
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高座は出来不出来の差が激しかったと言われる。共に「昭和の名人」と呼ばれる八代目桂文楽や三遊亭円生はセリフや構成を突き詰めた。では、「大正から明治にかけて」と言ったり、忘れたら「どうでもいい名前」と開き直ったりした志ん生は?
曽孫弟子に当たる桃月庵白酒(とうげつあんはくしゅ)は、二つの技に着目する。一つは声の使い分け。「高音も出せるし、たまに低音を入れる。飽きさせない工夫なんだろう」。高い声は女性を演じやすく、夫婦喧嘩のリアル感を消して笑いを生む。もう一つは、しぐさ。くすぐり(ギャグ)を増幅するために動きを加えたらしい。
「蛇から血が出てへーびーちーでー(ABCD)」のような言い回しは、先輩のを盗んだり自分で考えたり。78歳で引退しても、ネタが浮かんだら稽古と称して前座に聞かせた。反応が鈍いと機嫌が悪くなったとか。
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素行が悪く小学校を卒業前に退学させられたが、勉強家でもあった。70歳を過ぎても古書店で落語の速記本を探した。何度も読み返してボロボロな『円朝全集』を亡くなるまで手元に置いた。字の読めない噺家がいた時代ではインテリといえる。
満州で独演会をする際、ソ連軍に検閲された。吉原や花魁が出る噺に難色を示されると「封建時代を風刺した」と押し通したという。「安い酒みたいな大統領がいて、カストリっていうんですか」と時事ネタを入れることも。演芸評論家の矢野誠一さんは「本質は器用な人だったのかも」と推し量る。
現役時代に出版された『なめくじ艦隊』などの自伝は、破天荒な半生に誇張や創作が交じっている。「天衣無縫な噺家」を自らプロデュースしていた。
十八番は人生経験そのもの。「火焔太鼓」「黄金(こがね)餅」は貧乏、「風呂敷」は酔っぱらい。「替(かわ)り目」「お直し」など夫婦の噺には、長く支えたりん夫人の影が。でも当人は素直に認めなかった。江戸っ子の照れと強情は、どこか憧れと懐かしい感情をくすぐる。(井上秀樹)
■ふにゃっとした良さ 俳優・お笑いタレント、ラサール石井さん
最初はつかみどころのない落語だなと思いましたね。あのふにゃふにゃとした良さがわかるようになったのは、芸人になってからです。結局、その人が面白いってのが一番なんだな、てのに行き着きました。
僕の師匠の杉兵助が似てるんです。江戸っ子の年寄りはああいう滑舌があまりよくないしゃべり方ですよ。井上ひさしさん作の舞台「円生と志ん生」で志ん生を演じた時は「えー」って第一声をマネしただけです。似たような芸人は、やっぱビートたけしさん。他には、間寛平さんですかね。
偉くなりたいという欲が全くない人だったんじゃないか。それと、お酒飲んで高座に上がってるくせに、酒で身を滅ぼしていないんです。その意味で本当の酒飲み。道楽をさんざんやって落ち着いてきてから面白くなってきたんじゃないかな。
<読む> 矢野誠一『志ん生のいる風景』(河出文庫)は落語プロデューサーとして接してきた著者による古典的評伝。ビートたけし『やっぱ志ん生だな!』(フィルムアート社)は類似点を指摘されるお笑い第一人者が実践的な芸人論を展開する。『古典落語 志ん生集』など速記本はちくま文庫から。
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5代目 古今亭 志ん生(1890年〈明治23年〉6月5日 - 1973年〈昭和48年〉9月21日)は、明治後期から昭和期にかけて活躍した東京の落語家。本名、美濃部孝蔵(みのべこうぞう)。生前は落語協会所属。出囃子は「一丁入り」。戦後の東京落語界を代表する落語家の一人と称される。
長男は10代目金原亭馬生(初代古今亭志ん朝)、次男は3代目古今亭志ん朝。孫に女優の池波志乃(10代目馬生の娘)。
生涯[編集]
出生[編集]
1890年(明治23年)、東京市神田区神田亀住町(現・東京都千代田区外神田)の生まれ。父・美濃部戍行(みのべもりゆき)、母・志う(しう)の五男[注釈 1]。出自は高位の士族。生家は菅原道真の子孫を称する徳川直参旗本であった美濃部家で、祖父は赤城神社の要職を務めた[注釈 2]。明治維新の際の支給金を父の代ですべて使い果たし[注釈 3][注釈 4]、孝蔵が生まれた頃父は警視庁で巡査をしていて貧乏暮らしだった。しかし子供の頃から父に連れられ、寄席で売られるお菓子目当てに寄席通いをした。
下谷区下谷北稲荷町(現在の台東区東上野5丁目)に転居し、1897年(明治30年)、下谷尋常小學校に入学。1901年(明治34年)、小学校卒業間際の11歳の時、素行が悪いため退学させられ、奉公に出される。奉公先を転々とし、朝鮮の京城(現在のソウル)の印刷会社にいたこともあるが、すぐに逃げ帰った。1904年(明治37年)には北稲荷町から浅草区浅草新畑町(現在の台東区浅草1丁目)に移転し、ここを本籍にした[1]。
落語との出会い[編集]
博打や酒に手を出し、放蕩生活を続けた末に家出。以来、二度と実家へ寄り付かず、親や夭折した兄弟の死に目にも会っていない。この頃、藝事に興味を抱くようになり、天狗連(素人やセミプロの藝人集団)に出入りし始める[1]。1907年(明治40年)頃に三遊亭圓盛(2代目三遊亭小圓朝門下、本名:堀善太郎)の門で三遊亭盛朝を名乗るが、まだプロの藝人ではなくセミプロであった[1]。同時期、左の二の腕に般若の刺青を入れたという[1]。
1910年(明治43年)頃、2代目三遊亭小圓朝に入門し、三遊亭朝太との前座名を名乗る[2][3][4][5]。5代目志ん生自身は、当時名人と称された4代目橘家圓喬の弟子であったと生涯語っていた[6]。1916年から1917年(大正5年から6年)頃、三遊亭圓菊を名乗り、二つ目になる[1]。1918年(大正7年)、4代目古今亭志ん生門に移籍し、金原亭馬太郎に改名。その後、1921年(大正10年)9月に金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進する[1]。
結婚[編集]
1922年(大正11年)11月、清水りんと結婚。1924年(大正13年)1月12日に長女・美津子、1925年(大正14年)10月7日に次女・喜美子(後の三味線豊太郎)、1928年(昭和3年)1月5日に長男・清(後の10代目金原亭馬生)が誕生。笹塚から夜逃げして本所区業平橋のいわゆる「なめくじ長屋」に引っ越したのはこの年である[注釈 5]。なお、この間に(1924年・大正13年)3代目古今亭志ん馬を名乗っている。
当時の実力者だった5代目三升家小勝に楯突いたことで落語界での居場所を失い、講釈師に転身する。謝罪して落語家に戻るが一向に食べられず、当時人気者であった柳家金語楼の紹介で初代柳家三語楼門下に移るが、今度は師匠の羽織を質入れして顔を出せなくなった。その後、詫びがかなって復帰したものの、前座同然の扱いで貧窮極まる。腕はあったが愛嬌がなく、周囲に上手く合わせることもできず、結果として金銭面の苦労を強いられた[7]。この頃の5代目志ん生は身なりが悪く、「死神」「うわばみの吐き出され」などのあだ名で呼ばれ、仲間内や寄席の関係者から軽んじられて、寄席でも浅い出番での出演だった。場末の寄席(いわゆる「端席」)を廻ってどうにか糊口を凌いでいたという[8]。一部の好事家からは評判が良かったが、売れ出すのはもう少し先のことになる[9]。
この頃、「染物屋の若旦那」である宇野信夫の家によく出入りして世話になっていた(当時、宇野は浅草・橋場に親の貸家があり、その借家料で生計を立てながら劇作家の修行をしていた)。
馬生・志ん生襲名[編集]
1932年(昭和7年)、再び3代目古今亭志ん馬を名乗る。落語界入りしてから長らく売り出せず苦労した5代目志ん生だが、この頃になってようやく少しずつ売れ始める。1934年(昭和9年) 9月に7代目金原亭馬生を襲名。1938年(昭和13年)3月10日、次男・強次(後の3代目古今亭志ん朝)が生まれる[1]。1939年(昭和14年)に5代目古今亭志ん生襲名。朝太から志ん生襲名まで16回改名した(詳細は#改名遍歴参照)。
1941年(昭和16年)、神田花月で月例の独演会を開始。客が大勢詰めかけるほど好評だったが、この頃の5代目志ん生の客は噺をじっくり聞いてくれるような良い客ではなかったという[10]。
満州へ〜帰国後[編集]
1945年(昭和20年)、陸軍恤兵部から慰問藝人の取りまとめの命令を受けた松竹演藝部の仕事で、同じ落語家の6代目三遊亭圓生、講釈師の国井紫香(2代目猫遊軒伯知)、比呂志・美津子の名で夫婦漫才をやっていた坂野比呂志らと共に満州に渡る[11][12][注釈 6][注釈 7]。満洲映画協会の傍系である満洲演藝協会の仕事を請け負ったがそのまま終戦を迎えて帰国出来なくなり、現地で引き揚げ船の出航を待ちわびながら生死ギリギリの生活を強いられる。
1947年(昭和22年)1月12日、命からがら満州から帰国。同月27日帰宅[1]。帰国がニュースに取り上げられるなど注目され、後は一気に藝・人気とも勢いを増し、寄席はもちろん、ラジオ番組出演なども多くこなす大変な売れっ子となった。あちこちで仕事を掛け持ちするので、寄席の出番よりも自分の都合を優先してしまい、周囲からわがままな仕事ぶりを非難されることもあった[13]。この頃から人形町末廣で余一の日[注釈 8]に独演会を催すようになった。8代目桂文楽と並び称されて東京の落語家を代表する大看板として押しも押されもせぬ存在となり、全盛期を迎える。
1953年(昭和28年)にはラジオ東京専属、翌年にはニッポン放送専属になる。1956年(昭和31年)6月、自伝『なめくじ艦隊』を発行。5代目志ん生当人は読むのはまだしも書くのは不得手で、弟子の初代金原亭馬の助による聞き書きであった[14]。同年12月、『お直し』の口演で藝術祭賞を受賞する。
会長就任[編集]
1957年(昭和32年)、8代目文楽の後任で落語協会4代目会長に就任。1963年(昭和38年)まで会長を務める。
5代目志ん生の後任の会長を選出する際、一部で2代目三遊亭円歌を後任に推す動きがあり、2代目円歌本人も会長就任に意欲を示していたが、5代目志ん生は「人気や活躍の期間では円歌の方が上だが、藝の力量では圓生の方が上」と判断し、力量重視で6代目圓生を後任に推した。一時は対立を回避するために8代目文楽が会長に復帰することで人事は決着したが、1964年(昭和39年)に2代目円歌が亡くなったため、結局、翌1965年(昭和40年)に6代目圓生が会長に就任することとなる[15]。
病気[編集]
1961年(昭和36年)暮れ、読売巨人軍優勝祝賀会の余興に呼ばれるが、口演中に脳出血で倒れる。3か月の昏睡状態の後に復帰するも、その後の高座からは以前の破天荒ともいうべき藝風が影を潜めた。この時を境に5代目志ん生の「病前」「病後」とも呼ばれる。療養を経て復帰した5代目志ん生は半身不随となっていたため、講談で使用する釈台を前に置き、釈台に左手を置いて高座を務めた。
1964年(昭和39年)、自伝『びんぼう自慢』を刊行。さらに5年後に加筆して再刊されたが、いずれも小島貞二による聞き書きである。同年11月、紫綬褒章受章。
事実上の高座引退[編集]
1967年(昭和42年)、長女が1964年(昭和39年)に亡くなった2代目円歌の息子と結婚したため、一時は円歌の遺族と姻戚関係があった[注釈 9]。
1968年(昭和43年)、上野鈴本演藝場初席に出演。これが最後の寄席出演となった。同年10月9日、精選落語会に出演。これが最後の高座になる。この時、「二階ぞめき」を演じていたはずが途中で「王子の狐」に変わってしまったことをマネージャーである長女に指摘されたため以降高座に上がらなくなったが、5代目志ん生当人は引退した気などなく、少し休んでやがて高座に復帰する意志は持っていた[16]。
1971年(昭和46年)12月9日、妻・りん逝去。12月11日に葬儀が行われる。その翌日には8代目文楽が逝去。晩年の文楽は寄席や落語会に出演せず引退同様の状態であったが、高座に上がる気持ちは持ち続けていた。この年、すでに高座を去っていた文楽がウイスキーを土産に志ん生を訪ねて歓談し、別れ際に「二人会の相談をしよう」と呼びかけていたと家族が証言している。妻の葬儀でさえ涙を見せなかった志ん生だが、文楽の訃報を聞いて「皆、いなくなってしまった」と号泣した[17]。
1973年(昭和48年)9月21日、自宅で逝去。享年83。戒名は「松風院孝誉彩雲志ん生居士」。墓所は文京区小日向の還国寺。現在では同じ墓に息子の3代目志ん朝も眠っている(一時、同じく息子の10代目馬生も同じ墓に眠っていたが、2011年に墓所を移転している)。
年表[編集]
5代目志ん生の無名時代の経歴は、資料が乏しい上、当人の記憶もあやふやだったために諸説ある。下記#改名遍歴と食い違う部分があるが、脚注に示した史料のままとした[18]。
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1890年(明治23年)6月28日[注釈 10] - 神田区神田亀住町に出生。
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浅草区永住町127(現在の台東区元浅草2丁目)に転居(年月日不明)
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浅草区北稲荷町51(現在の台東区東上野5丁目)に転居(年月日不明)
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1904年(明治37年) - 北稲荷町から浅草区浅草新畑町4(現在の台東区浅草1丁目)に転居
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1905年(明治38年) - この頃、博打や酒などの素行不良が重なり家出する。
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1907年(明治40年) - 藝事好きが嵩じて落語のセミプロになり、この頃、三遊亭圓盛の下で三遊亭盛朝の藝名をもらう。
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1910年(明治43年) - この頃、2代目三遊亭小圓朝に入門。三遊亭朝太の藝名でプロの落語家になる。
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1916年(大正5年) - この頃、三遊亭圓菊に改名して二つ目昇進。以降、目まぐるしく改名を繰り返す。詳細は#改名遍歴を参照。
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1918年(大正7年) - 4代目古今亭志ん生門下に移籍し、金原亭馬太郎に改名。
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1920年(大正9年) - 谷中清水町(現在の台東区池之端4丁目)に転居して下宿生活。
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1921年(大正10年)9月 - 金原亭馬きんに改名して真打に昇進。
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1922年(大正11年)11月 - 清水りんと結婚。
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1923年(大正12年) - 北豊島郡滝野川町大字田端185(現在の北区田端1丁目)に転居。
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1924年(大正13年)1月12日 - 長女・美津子誕生。
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1925年(大正14年)
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4月 - 3代目小金井芦州門下で講釈師になり小金井芦風を名乗る。
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9月 - 師匠の3代目小金井芦州逝去により落語家に戻る。
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10月7日 - 次女・喜美子誕生。
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1926年(大正15年) - 豊多摩郡代々幡町大字笹塚(現在の渋谷区笹塚)に転居。
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1927年(昭和2年) -
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代々幡町大字幡ヶ谷(現在の渋谷区幡ヶ谷)に転居するが、すぐに元の笹塚の家に戻る。
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1928年(昭和3年)
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1月5日 - 長男・清誕生。
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4月 - 本所区業平橋1丁目12(現在の墨田区業平1丁目)に転居。いわゆる「ナメクジ長屋」。
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1934年(昭和9年) 9月 - 7代目金原亭馬生を襲名。
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1936年(昭和11年)2月26日 - 浅草区浅草永住町(現在の台東区元浅草)に転居。
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1937年(昭和12年)8月 - 本郷区駒込神明町338(現在の文京区本駒込)に転居。
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1938年(昭和13年)3月10日 - 次男・強次誕生(戸籍上は3月11日)。
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1939年(昭和14年)3月 - 5代目古今亭志ん生を襲名。
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1943年(昭和18年)8月 - 長男・清が入門。
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1945年(昭和20年)
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4月13日 - 空襲で罹災。本郷区駒込動坂町327(現在の文京区千駄木)に転居。
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5月6日 - 満州に慰問に出るがそのまま終戦を迎えて帰国できず、およそ1年8か月を現地で過ごす。
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1947年(昭和22年)1月27日 - 満州から帰宅。
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1951年(昭和26年)11月 - 日暮里町9丁目1114(現在の荒川区西日暮里3丁目)に転居。
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1953年(昭和28年)7月1日 - ラジオ東京と放送専属契約を結ぶ。
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1954年(昭和29年)7月1日 - ラジオ東京と放送専属契約を解除し、ニッポン放送と放送専属契約を結ぶ。
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1956年(昭和31年)
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6月 - 『なめくじ艦隊』発行。
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12月 - 藝術祭賞受賞。演目は「お直し」。
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1957年(昭和32年)
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2月 - 落語協会の会長に就任。戦後4人目の会長。
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4月 - 次男・強次入門。
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1961年(昭和36年)12月15日 - 脳出血で倒れて入院する。
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1962年(昭和37年)
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3月1日 - 退院。以降、自宅で療養する。
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11月11日 - 新宿末廣亭で高座復帰。
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1963年(昭和38年)7月 - 落語協会の会長を辞任する。
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1964年(昭和39年)
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4月 - 『びんぼう自慢』発行。
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11月 - 紫綬褒章受章。
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1967年(昭和42年) - 妻・りん脳出血で倒れる。勲四等瑞宝章受章。
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1968年(昭和43年)10月9日 - 精選落語会に出演。これが最後の高座となる。
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1971年(昭和46年)12月9日 - 妻・りん逝去。
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1973年(昭和48年)9月21日 - 逝去。
人物[編集]
藝について[編集]
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6代目三遊亭圓生・宇野信夫・坊野寿山らによれば売れない頃の5代目志ん生の藝は「(前略)うまいとは思ったけど、どうしても売れるとは思えない藝(後略)」[19](坊野寿山)、「(前略)噺はうまくなかった(後略)」[19](宇野信夫)、「(しゃべり方が)とても速かった」[19]「(前略)セカセカして、さっぱり間がとれない(後略)」[20](6代目圓生)といった状態であった。
6代目圓生は「(前略)藝の幅が五十をすぎて、パーッと開けちゃった(後略)」[20]「(前略)人間はズボラだったが、藝にウソはなかった(後略)」[20]「(前略)志ん生の藝は傷だらけ(中略)その藝も完璧なものじゃなかったわけで、人間描写もいい加減なところがあった(後略)」[20]「(前略)小さく固まらなかったから、いつかその藝がなんともいえない独特の藝風にふくらんでしまった(後略)」[20]口演の出来不出来が激しかったが、「(前略)そこがいかにも志ん生らしいところで(後略)」[20]「(前略)志ん生さんにはフラがありましたが、あれも型があっての上での自在な間なんです。型のないものは藝じゃありません。(後略)」[21]と評している。「完成した5代目志ん生」を見ると「天衣無縫」と思えるが、実際は売れない時代が長く、藝について苦労して非常に考えた上であの藝風を苦心して作り上げたことが窺える。
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6代目圓生は「志ん生とは道場の試合では勝てるが、野天の真剣勝負では斬られるかもしれない」と藝へのアプローチの違いを剣に例えて、5代目志ん生の藝を評した[22][23]。一方、5代目志ん生の方は6代目圓生について「まんべんなく人物描写をしているが、それだと噺にヤマが出来ない。主人公だけ浮き彫りにさせてやらなきゃ駄目だ」と評して、「主人公を躍動させ、脇の人物は少しばかり殺す」という演出法を取っていた[24]。
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満州滞在中に満洲電信電話の新京放送局が主催した演藝会で、当時アナウンサーだった森繁久彌と出会う。5代目志ん生と6代目圓生の二人でバレ噺(下ネタがかった噺)を交代で演じ、森繁が「こんなバレ噺もある」と紹介しながら司会進行した。演じる側としても実に楽しい会だったようで、客が鈴なりになって他のお座敷の仕事を放り投げて延々と続け、そのあと森繁が酔い潰れた5代目志ん生をおぶって帰った。森繁の藝達者ぶりに二人は瞠目し、5代目志ん生は森繁を「あなたなら日本ですぐに売り出せる」と絶賛した。のちの森繁の活躍で5代目志ん生の目の確かさが証明されたことになる[25][12]。
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独特のクスグリのセンスで高い評価を得ている5代目志ん生であるが、実際はそのかなりは初代柳家三語楼の作に負うものである。三語楼宅が火事になった折、そのどさくさにまぎれて三語楼のネタ帳を盗み出して自分のものにしてしまったのは落語家内では有名な話であると、後に5代目柳家小さんがTBSラジオ「早起き名人会」で川戸貞吉に述懐している。
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噺のディテールはかなり大雑把で、「井戸の茶碗」を口演中に登場人物である「千代田卜斎(ちよだぼくさい)」の名がいつの間にか「千代田売卜(ちよだばいぼく)」になってしまったことがある[21]。「卜斎」なら武士や医師などの人名だが、「売卜」は占い師のことである。このように、人名・地名や言い立ての順序・内容を誤るなどは日常茶飯事であった。次男の3代目古今亭志ん朝が噺の登場人物名を問うと「何だっていい」と答えたり、噺の途中で登場人物の名前を忘れてしまったが「……どうでもいい名前」と何食わぬ顔で済ませて客を爆笑させたりするなど[26]、登場人物の名前を忘れて高座を去った8代目文楽とは対照的であった。これについては5代目志ん生から噺を教わった5代目三遊亭圓楽が「落語のとらえ方、解釈の仕方を大事にし、登場人物の本質、了見をまずつかんでいた。それさえ肚にいれれば、『台詞なんざ、自分でこさえたっていい』という考え方だった」と評している[27]。
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3代目志ん朝が入門した後、5代目志ん生は「自分が教えちゃ物にならない」として、自分では稽古をつけず、8代目林家正蔵(後の林家彦六)のところに稽古に行かせていた[28]。3代目志ん朝は、「(5代目志ん生に)なろうとしてもなれるものではない。(8代目桂文楽を)お手本にしている」と語っている[29][30]。
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気に入らぬ客の前ではいい加減な噺で切り上げ、周囲を呆れさせていた。その一方で、数名の酔客にヤジを飛ばされた時、一切無視して丁寧にじっくりと「富久」を演じた。酔客は黙ってしまい、5代目志ん生が退場すると大きな拍手を送った[31]。
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大阪でも8代目文楽らと共に戎橋松竹などの寄席に上がることがあったが、当時大阪はトリオ漫才(かしまし娘など)の全盛期で、客席には漫才を見に来た団体客が多く、落語はまったく受けなかった。そのため、5代目志ん生は時間を守らずにすぐ切り上げてしまい、次の出番の藝人を慌てさせていた。東京でも気分が乗らないとさっさと高座から下がってしまった[32][33]。
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1958年(昭和33年)10月11日、「第67回三越落語会」において「黄金餅」をトリで演じる予定であったが、8代目正蔵がその前に似たような内容の「藁人形」を演じてしまった。これは落語会の事務関係者のミスによるものだが、落語界では、一つの興行で同じ傾向の噺が続くことは「噺がつく」と呼ばれるタブーである。8代目正蔵の後に高座に上がった5代目志ん生は、客席に断って演目を変更し、手持ちの噺の中から艶笑噺の「鈴振り」をたっぷりと演じた[34]。
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藝にはプライドを持っており、ある落語会で「牡丹灯籠 〜御札はがし〜」を演じることになった際には「これは生半可なことじゃあできねえんだから、ワリ(出演料)に「牡丹灯籠代」が付くよ」と言い出して関係者を困らせた。このゴタゴタでやる気をなくしたのか、高座では散々な出来であったという。
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自身が得意な噺はなかなか人に教えなかった一方で、一度人に授けた噺は以後高座でやらないようにけじめをつけていた。かつて演じていた「夕立勘五郎」や「町内の若い衆」などは、他人に教えた後はピタッと演じなくなったという。[35]。
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余藝として端唄などを得意とした。元慶應義塾塾長・小泉信三は5代目志ん生の「大津絵」を聴き、度々目頭を濡らした[36]。
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「酒気を帯びて高座を務める」「時間通りに来ない」「自分の独演会に来なかった」などズボラなエピソードが多く伝わるが、当時電通でラジオ番組制作を担当しており、親しく交流していた小山観翁によると、小山が担当した録音の当日に酔っていたり遅刻したりしたことは一度もなく、録音する演目の口演時間を前日に寄席で計測し、録音時に時間調整するといった丁寧な仕事ぶりだったという[37]。
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5代目志ん生は「(前略)売れない噺家に用はないとまでいわれた(中略)あのときの気持ちだけは、あたしゃァ忘れない(後略)」[37]「(前略)いまに見てやがれ畜生め。席亭のほうから出てくれッていわせてやるんだ(後略)」[37]と思ったと語っていた。売れない頃に関係者に粗略に扱われた恨みは根深かった。
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相手の都合など意に介さず気ままに振る舞ったのは、「(前略)あの寄席の親父が気にいらないとか、あいつは……っていうと、周囲の迷惑は思わない。そいつに迷惑かけてやろうという一心で(後略)」[37]というケースと、仲間内で多少の甘えが許されると踏んだ場合にというケースがあると小山は推測している。小山いわく「(前略)この野郎にはズボラをいいのか悪いのかってえのを、ちゃんと心得てズボラをする男ですね(後略)」[37]。
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貧乏・天衣無縫・融通無碍・出たとこ勝負、といったイメージばかりが紹介されるが、小山は「(前略)型がないどころか、きちんとあるんですよ(中略)一点一画をゆるがせにしないという藝であるのに、それを天衣無縫に見せるという、この親父はたいした親父だ(中略)タヌキですよそりゃァ(後略)」と語っている[37]。
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貧乏についても小山は、落語の速記本の購入や音曲の修行など藝事にはしっかり資本を掛けていることを根拠に、貧乏時代を売り物とするためにいささか誇張して「(前略)自ら神話を作っていたのではないか(後略)」[37]と推測している。
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8代目文楽は、「(前略)あちらは、いまンなって若い時分の貧乏を自慢してますがネ。あの時分金のないのはおたがいだったんだ。その、おたがい金のなかった時分、なけなしの五円貸して、返してもらえなかった身のことは、誰も考えてくれない……(後略)」[38]と語っている。出演料がまとまった収入源になるメディアがNHKの前身にあたるラジオ放送(日本放送協会の沿革参照)以外存在しなかった当時、5代目志ん生だけでなく落語家がそもそも儲かりにくい稼業だった。
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出たとこ勝負、いいかげん、というイメージについては小山は「(前略)八十何年も落語を演っててねェ、そんなに出鱈目でいいかげんであろうはずがないという、この原点をわりに皆さんが考えませんねェ(中略)だからむしろ逆に、いいかげんに見せる技術が秀れていたと。(後略)」[37]と語っている。
酒について[編集]
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関東大震災発生時は、酒が地面にこぼれるといけないと思って真っ先に酒屋へ駆け込み、酒を買った。酒屋の主人はそれどころではないと勘定をとらず、その場でタダで1升5合ほども飲んで泥酔して帰宅した。夫人のりんは当時長女を妊娠中で、大地震の最中に家から飛び出して泥酔して帰宅した亭主にさすがにたまりかねて大変な剣幕で面罵した[39]。
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戦時中、漫談家の初代大辻司郎と銀座数寄屋橋のニユートーキヨーでビールを飲み、「エビの絵が描いてある大きな土びん」にビールを詰めたものを土産にもらって都電で帰宅中、日本橋の付近に差し掛かったところで空襲が始まった。電車から降ろされたが逃げることをあきらめ、地下鉄入口に腰を下ろした。爆弾がおちて死にでもしたら、せっかくもらったビールがもったいない。飲んでしまわなければ死んでも死にきれないとすべて飲み干して、そのままその場で寝入ってしまった。翌朝、奇跡的に無傷のまま目覚めて帰宅。いつまでも帰宅しないのであるいは空襲で死亡したのでは、と家族は諦めていた[40]。
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満州で終戦を迎えたものの、混乱状態の満州から帰国する目処がつかず、1946年(昭和21年)頃の国内では「志ん生と圓生は満州で死んだらしい」と噂が流れていた[41]。実際、本人も今後を悲観して、支援者から「強い酒なので一気に飲んだら死んでしまう」と注意されたウォッカ一箱を飲み干し、数日間意識不明になったことがあったが、その後意識を回復した[42]。当時、6代目圓生と二人で極貧生活をしていた時、苦労して手に入れて持ち帰った酒瓶を蹴躓いて落として割ってしまった。人生で情けなくて涙をこぼして泣いたのは後にも先にもこの時だけだと後に語っている。
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酒に酔って高座に上がったことが何度かある。1958年(昭和33年)5月30日の「第13回東横落語会」では大幅に遅刻し、真っ赤な顔、怪しい呂律で高座を務めた。噺も支離滅裂だったが、その様子が笑いを誘い、当日一番客の拍手を浴びたのは5代目志ん生だった[43]。人形町末廣の大喜利でも居眠りしてしまい、トリの4代目(自称9代目)鈴々舎馬風がいくら起こしても起きなかった。新宿末廣亭でも一度居眠りしたことがある[44]。
放送専属契約[編集]
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1953年(昭和28年)7月1日、ラジオ東京(現在のTBSラジオ)と放送専属契約を交わす。専属時代にも他局の番組に出演したが、それを指摘されると「専属は他に出てはいけないのが不自由だ」と周囲にこぼしていたそうで、そもそも専属契約というもの自体をよく理解していなかった[45]。ラジオ東京側も「志ん生だから仕方がない」といってあきらめたというエピソードがある。1954年(昭和29年)6月30日に契約解除し、翌日からニッポン放送と放送専属契約を結ぶが、この時期にも、ニッポン放送専属だったにもかかわらずNHKに出演した録音や映像が残っている。ニッポン放送との放送専属契約は1962年(昭和37年)9月3日に解除するまで続いた。
改名遍歴[編集]
5代目志ん生は幾度も師匠替え・改名をしていることで有名である。度重なる改名の背景には、借金から逃亡する目的と一向に売り出せない状況の打破を願う意味があったと言われている。改名遍歴には諸説あるが、ここでは一般的に知られている遍歴を記載する[46]。
4代目古今亭志ん生は「志ん生」襲名のわずか1年後、ガンで没した。「志ん生」を襲名した歴代の落語家はみな早死にしているとされるため、5代目を襲名する際に危惧する声が上がったが、5代目志ん生は「5代目は長生きして看板を大きくすれば良い」と取り合わなかったという[47]。
メディアにおける5代目志ん生[編集]
7代目馬生時代から5代目志ん生襲名前後の頃、落語全集の中に実演の速記が掲載され始め、「講談倶楽部」などの当時の落語雑誌に小噺や新作落語が多数発表されている。ただし、新作落語は雑誌発表用に作ったもので、実演用ではない[48]。
1932年(昭和7年)7月以降の3代目古今亭志ん馬時代、『元帳』を日本ポリドール蓄音器から発売。7代目金原亭馬生時代の1935年(昭和10年)、日本ビクター蓄音器からSPレコードで『氏子中』を発売した。3代目古今亭志ん馬時代から5代目古今亭志ん生襲名後まで、十数枚SPレコードを発売している。戦後出演したラジオ東京、ニッポン放送、NHK、電通制作地方局向け番組などのラジオ放送用の音源や東宝名人会での録音を大量に残し、それらをもとに各レコード会社がLPレコードやカセットテープで商品化した。21世紀に入った現在もなお、CDなどの媒体で流通しており、5代目志ん生の落語を聞くことは容易である。
その一方で、残っている映像は少ない。映画では『銀座カンカン娘』に落語家・桜亭新笑役で出演し、短縮版だが「替り目」を7分近く演じている(また、一人で「疝気の虫」を稽古しているシーンもある)。この映像は、現在確認されている限りでは、5代目志ん生が演じる落語の映像としては最も古いものである。NHKでの落語の口演映像としては「風呂敷」「岸柳島」[49]「おかめ団子」「鰍沢」が残されている。「鰍沢」は病後の録画で、短く編集されている。
ラジオ番組では落語の中継や録音の他に、インタビューやラジオドラマに出演。数は少ないがニュース映画やテレビ番組にも出演している。
また1981年にはNHK特集で「びんぼう一代~五代目古今亭志ん生~」と題して現存する映像や当時の著名人に取材したドキュメンタリーが放送された。
映画[編集]
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『クイズ狂時代』(東映東京、1952年)
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『大日本スリ集団』(東宝、1969年)
出演番組[編集]
落語の中継・録音番組を除く。
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「光子の窓」(日本テレビ、1958年 - 1960年) ※テレビ黎明期のバラエティー番組。ゲストとして数回出演している。
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「藝と人」(NHKラジオ) ※東京新聞記者でコラムニストの須田栄が、病後療養中の5代目志ん生の自宅を訪問してインタビューしている。
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「志ん生復活」(ニッポン放送、1963年) ※安藤鶴夫脚本のラジオドラマ。5代目志ん生が出演し、安藤自身のナレーションで番組を進行。
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「人に歴史あり」(東京12チャンネル、1968年7月3日放送) ※息子2人を含む弟子一同と出演。柳家金語楼や8代目桂文楽などがゲスト出演した。
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「初笑いウルトラ寄席」(TBSテレビ、1973年) ※自宅で収録された映像。番組のオープニングで挨拶した。
著書[編集]
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なめくじ艦隊 志ん生半生記(朋文社、1956年、のちちくま文庫)
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びんぼう自慢(毎日新聞社、1964年、のち立風書房→志ん生文庫→ちくま文庫)
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志ん生長屋ばなし(立風書房、1970年、のち文庫→ちくま文庫)
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志ん生江戸ばなし(立風書房、1971年)
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志ん生滑稽ばなし(立風書房、1975年、のち文庫→ちくま文庫)
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志ん生廓ばなし(立風書房、1970年、のち文庫→ちくま文庫)
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五代目古今亭志ん生全集 全7巻(川戸貞吉・桃原弘編、弘文出版、1977年 - 1983年)
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志ん生艶ばなし(立風書房・志ん生文庫、1977年、のちちくま文庫)
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志ん生人情ばなし(立風書房・志ん生文庫、1977年、のちちくま文庫)
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古典落語 志ん生集(飯島友治編、1989年9月、ちくま文庫)
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志ん生藝談(河出書房新社、2006年7月)
5代目志ん生を扱った作品[編集]
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劇団こまつ座 「圓生と志ん生」(2005年初演、2007年再演、2017年三演、戯曲:井上ひさし) ISBN 978-4087747652
※満州時代の5代目志ん生、6代目圓生の2人と周辺の悲喜劇を描いた演劇。5代目志ん生役は初演と再演は角野卓造・三演はラサール石井、6代目圓生役は初演と再演は辻萬長、三演は大森博史。
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「クライマックス 人生はドラマだ 古今亭志ん生」(日本テレビ、単発ドラマ、1960年)
※5代目志ん生の半生を描いた作品で、本人も出演。長男・10代目馬生が自分の生まれた当時の父親役、次男・朝太(後の3代目志ん朝)が同じく父親の青年時代を演じた。このドラマには他にも多数の落語家が出演している。
※5代目志ん生の妻・りんにスポットを当てた昼ドラ。池波志乃がりんを演じ、3代目志ん朝が語り(ナレーション)を担当した。
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『山藤章二のラクゴニメ』(ポニーキャニオン)
※5代目志ん生の口演の音声は残っているが映像がほとんどないため、1990年代に当時のデジタル技術を駆使して、残されている収録音声と山藤章二の手によるイラストアニメを組み合わせ、高座姿のイメージを再現しようと企画された映像作品。当初はビデオ、後にDVDで販売されている。
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「NHK特集 びんぼう一代 ~五代目古今亭志ん生~」[51](NHK総合テレビジョン、1981年)
※立川談志 、池波志乃 、3代目志ん朝、10代目馬生、初代 林家木久蔵 、海野かつを 、橋達也 、団しん也 、金原亭駒平 、小沢昭一、小島貞二、林家彦六、坊野寿山、森繁久彌。池波志乃はこのミニドラマで、上述のドラマ「おりんさん」より以前に5代目志ん生の妻・りんを演じたことになる。また、小沢昭一は「高座で寝ていても、それが面白い」と称えられた、その高座を目撃したことを披露、森繁は満州での5代目志ん生とのエピソードを語っており、団しん也はモノマネのレパートリーの1つである6代目圓生の6代目橘家圓蔵時代を演じ、当時、初代林家木久蔵だった木久扇が師匠・林家彦六の5代目蝶花楼馬楽時代を演じている。
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「落語無頼」(藝能座)
※小沢昭一が5代目志ん生を演じた。
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「いだてん〜東京オリムピック噺〜」(NHK総合テレビジョン、2019年)
※大河ドラマ第58作。5代目志ん生が語る架空の落語「東京オリムピック噺」を通じて1964年東京オリンピック開催までの日本スポーツ界の歴史を辿るとともに、5代目志ん生の半生や彼の視点から見た明治・大正・昭和の東京の変遷を取り上げる。5代目志ん生をビートたけし、青年期(美濃部孝蔵)を森山未來が演じる[52]。池波志乃は本作においても妻であるりんを演じている(青年期:夏帆)。
得意演目[編集]
持ちネタの多さでも有名で、この点では5代目志ん生と6代目圓生が戦後東京落語の双璧とされる。限られた噺を徹底的に磨き抜くため演目の少なかった8代目文楽とは対照的である。
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あくび指南
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井戸の茶碗
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居残り佐平次
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大津絵
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おかめ団子
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お直し
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火焔太鼓
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替り目
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紀州
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首ったけ
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強情灸
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黄金餅
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権兵衛狸
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三枚起請
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鈴振り
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品川心中
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狸賽
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茶金
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付き馬
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唐茄子屋政談
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二階ぞめき
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錦の袈裟
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抜け雀
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猫の皿
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風呂敷
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文七元結
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牡丹灯籠
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妾馬(別名:八五郎出世)
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もう半分
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らくだ
など多数
弟子[編集]
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金原亭馬子(女流)
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初代金原亭馬の助
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2代目古今亭圓菊
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3代目吉原朝馬
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古今亭志ん駒(師匠5代目志ん生没後は10代目馬生一門に移籍し、後に落語協会分裂騒動の煽りを受けて3代目志ん朝一門に移籍)
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初代古今亭志ん五(師匠5代目志ん生没後は志ん朝一門に移籍)
脚注[編集]
注釈[編集]
1.
古今亭志ん生 『びんぼう自慢』288頁、矢野誠一 『志ん生のいる風景』 42-44頁。資料によっては父親の名を「戌行」と記しているが、「戌」は訓読みで「いぬ」と読む。「まもる」という意味の「戍」とは全く別の漢字であり、誤記である。
2.
^ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 42-44頁。5代目志ん生当人によれば生家は美濃部家の分家で旗本時代の禄高は八百石であり、美濃部本家は禄高三千石であったとの事だが、結城昌治の旗本武鑑を根拠とする調査結果では美濃部本家が禄高五百石、同族に七百石や八百石の家があるが祖父の名では該当者なし。しかし親類に禄高三千石余りの大身旗本があり、祖父が旗本だった事も間違いない、と推定している。ただし、同時に結城昌治は旗本武鑑そのものの信頼性に対する疑義も指摘している。
3.
^ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 43頁。支給金で本郷の切通しに土地を購入して家を建てたが、連帯保証の負債を清算するために程なく手放して神田亀住町の長屋に転居した。
4.
^ なお、この頃、「ステテコの圓遊」こと初代三遊亭圓遊と親密だったという。
5.
^ 結城昌治 「美濃部孝蔵(五代目古今亭志ん生)年譜」 『志ん生一代 下巻』321-326頁
6.
^ 後年、5代目志ん生は「物資不足で満足酒が飲めなくなったから満州に渡った」と語っていたが、実態は第三者からの依頼によるもの。6代目圓生は、母親の逝去で旅に出られなくなった5代目古今亭今輔の代わりに満州に渡った。
7.
^ 美濃部美津子 『三人噺』 50-54頁。空襲の度に恐怖でパニックを起こす5代目志ん生を長女である著者が見かねて、向こうは空襲がないからと話が来た時に満州行きをすすめた。
8.
^ 通常の寄席興行を行わない月末の31日のこと。独演会などの特別興行を行うことが多い。
9.
^ 美濃部美津子 『三人噺』 71-72頁。後に離婚したので姻戚関係は解消された。
10.
^ 古今亭志ん生 『びんぼう自慢』297頁。5代目志ん生当人によれば6月5日生まれとのことだが、戸籍上は6月28日である。
出典[編集]
1.
^ a b c d e f g h 古今亭志ん生 『びんぼう自慢』 321-341頁、年譜(小島貞二編)
2.
^ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』47-83頁
3.
^ 「五代目古今亭志ん生(美濃部孝蔵)年譜」 『総特集古今亭志ん生』204頁
4.
^ 結城昌治 「美濃部孝蔵(五代目古今亭志ん生)年譜」 『志ん生一代 下巻』 321-326頁
5.
^ 橘左近 『東都噺家系圖』 81頁
6.
^ 小島貞二 『私の中の志ん生』
7.
^ 10代目金原亭馬生 「父・志ん生の人と藝」 『志ん生讃江』 46-51頁
8.
^ 川戸貞吉編 「五代目古今亭志ん生2 柳家小さん 川戸貞吉」 『対談 落語藝談4』 176-177頁。
9.
^ 金原亭馬生・小島貞二 「はだかの志ん生」 『総特集古今亭志ん生』 158-175頁
10.
^ 川戸貞吉編 「五代目古今亭志ん生2 柳家小さん 川戸貞吉」 『対談 落語藝談4』 179-180頁
11.
^ 結城昌治 『志ん生一代 下巻』200-201頁
12.
^ a b 6代目三遊亭圓生 『新版寄席育ち』 254-256頁。
13.
^ 6代目三遊亭圓生 『寄席楽屋帳』231-232頁
14.
^ 古今亭志ん生 『なめくじ艦隊』 294頁
15.
^ 6代目三遊亭圓生 『寄席楽屋帳』 234-240頁
16.
^ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 209-211頁
17.
^ 美濃部美津子 『三人噺』 68-69頁
18.
^ 結城昌治 「美濃部孝蔵(五代目古今亭志ん生)年譜」 『志ん生一代 下巻』321-326頁、橘左近 『東都噺家系圖』81頁を基に作成。
19.
^ a b c 三遊亭円生・宇野信夫・坊野寿山 「志ん生のヒラメキ人生」 『総特集古今亭志ん生』 184-191頁
20.
^ a b c d e f 三遊亭円生 「志ん生八方破れ一代記」 『総特集古今亭志ん生』 60-64頁
21.
^ a b 京須偕充 「六代目三遊亭圓生 ―藝の非常と有情」 『みんな藝の虫』 12-14頁。
22.
^ 興津要『落語の風土』134頁。
23.
^ 宇野信夫 『私の出会った落語家たち 昭和名人奇人伝』 118頁
24.
^ 5代目三遊亭圓楽『圓楽 藝談 しゃれ噺』115頁
25.
^ 古今亭志ん生 『なめくじ艦隊』 232-236頁
26.
^ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 240頁
27.
^ 5代目三遊亭圓楽『圓楽 藝談 しゃれ噺』114-115頁
28.
^ 5代目三遊亭圓楽『圓楽 藝談 しゃれ噺』169頁
29.
^ 小林信彦 『名人 志ん生、そして志ん朝』 〈朝日選書〉720、朝日新聞社、133頁
30.
^ 古今亭志ん朝 「名人と藝 ―おやじ志ん生と文楽」 『CDブック 完全版 八代目桂文楽落語全集』 37頁
31.
^ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 101-104頁
32.
^ 京須偕充『落語名人会 夢の勢揃い』74頁。
33.
^ 古今亭八朝・岡本和明編 『内儀さんだけはしくじるな』 216-217頁
34.
^ 京須偕充 『落語名人会 夢の勢揃い』 78-82頁
35.
^ 5代目三遊亭圓楽『圓楽 藝談 しゃれ噺』113-117頁
36.
^ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 214-218頁
37.
^ a b c d e f g h 川戸貞吉編 「五代目古今亭志ん生3 小山観翁 川戸貞吉」 『対談 落語藝談4』 191-229頁
38.
^ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』113頁
39.
^ 古今亭志ん生 『びんぼう自慢』 109-111頁
40.
^ 古今亭志ん生 『なめくじ艦隊』 127-129頁
41.
^ 「ピンチよさようなら 師匠の大事と戦う 美濃部りん」『志ん生! 落語ワンダーランド』72頁、読売新聞 1962年(昭和37年)11月18日付
42.
^ 古今亭志ん生 『びんぼう自慢』 240-242頁、274頁、268-271頁
43.
^ 江國滋 『落語手帖』 135-137頁
44.
^ 色川武大 『寄席放浪記』 56-57頁
45.
^ 川戸貞吉編 「五代目古今亭志ん生2 柳家小さん 川戸貞吉」 『対談 落語藝談4』 183-184頁。
46.
^ 保田武宏 『志ん生の昭和』 37-38頁より作成。
47.
^ 小島貞二『志ん生の忘れもの』173頁。
48.
^ 矢野誠一 『志ん生のいる風景』 129-138頁
49.
^ 落語「巌流島」五代目古今亭志ん生 NHK名作選(動画・静止画)-NHKアーカイブス
50.
^ 川戸貞吉 『現代落語家論 下巻』 155-156頁
51.
^ NHK特集 びんぼう一代〜五代目 古今亭志ん生 NHK名作選(動画・静止画) -NHKアーカイブス
52.
^ 2019年 大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」出演者発表 第2弾,NHKドラマ,2017年11月29日
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