有島武郎を巡る物  杉淵 洋一  2020.8.5.

 

2020.8.5. 有島武郎を巡る物語 ヨーロッパに架けた虹

 

著者 杉淵 洋一 1977年秋田県生まれ。愛知淑徳大学初年次教育部門講師。専攻は日本近現代文学、比較文学。0107年フランス留学。共著に『文化表象としての村上春樹―世界のハルキの読み方』(青弓社)、論文に『有島家とフランスとのかかわりをめぐって』(『有島武郎研究』第22)、『有島武郎の『草の葉』会とその弟子たち』(『ホイットマン研究論叢』第31)、『井上靖におけるフランス―そのテクストから見えてくるもの』(『井上靖研究』第14)など

 

発行日           2020.3.26. 第1

発行所           青弓社

 

軽井沢図書館の新刊本コーナーで見つけて

 

大正期に活躍した小説家・有島武郎の代表作『ある女』は、なぜ・どのような経緯で遠いフランスの地で翻訳されたのか。翻訳者の来歴を調べ、有島本人との関係性や、そのバックグラウンドにあった人的なネットワークを浮き彫りにして、日本の近代化の一翼を担った人物として有島武郎を再評価する

 

 

序章 失われた書籍を求めて

筆者が仏留学当時手にしたのは1998年フィリップ・ピキエ社刊行の廉価な文庫本タイプで、翻訳が直近になされたものではなく、好富正臣とアルベール・メーボン()2人によってなされ、エルネスト・フラマリオン社が26年に出版したものの再録版

有島武郎の作品は、この26年翻訳の『ある女』の前篇だけしか存在していない

07年帰国した際、『有島武郎事典』に『フランスにおける有島武郎受容』と題して、フランスで出版された『ある女』についての紹介を含め、フランスでの有島武郎の受容状況について拙文を執筆したことが契機となって、08年の第43回有島武郎研究会で報告した際の研究ノートが本書第1部第1章の基になり、第1部全体に指針を与える役割を果たす

本書で提起しているのは、1926年のパリでの『ある女』の出版が、翻訳者の単なる興味本位によるものではなく、有島は既に亡くなっていたが、その思想なり人脈が他者に伝わった結果であり、出版をその物質的な到達点の1つとして見ることが出来るのではないか、ということであり、また、出版に至る過程には、有島を巡る、これまで言述されることがあまりなかった様々な複数の集団の介在があったということ

近年、有島武郎といえば「白樺派」の一作家と安直に扱われる傾向が顕著で、有島と白樺派メンバーとの関係性、共通点、相違点などを巡る検証作業も、グループ内の西洋芸術、文学(文化)、思想の受容の様相を顕在化させるためには大変重要だが、過度に拘ると、もっと大きな有島のイメージ――政治、外交、経済、医学などの側面も含め、大正時代中期以降の日本を牽引した人々に示唆を与えた有島――のごく一部だけを切り取ることになり、ことさらに有島のディレッタントな文化人(知識人)としてのイメージを強調することになりはしないか。有島という人間の本質的なところを見逃してはいけない

単に文学者の1人としてではなく、国際化する当時の日本で近代化の一翼を担った先駆者として、あるいは、日本の近代化を担った人々の象徴になって示唆を与えた稀有な人物として、日本近代史の中に有島を置き直すこと、これまで語られてきたイメージからは見えてこなかった「有島の思想とその系譜」を描き出すこと、それが本書の要諦であり目標

 

第1部     [フランス語版]有島武郎『或る女(前篇)』フラマリオン(1926)をめぐって

第1章    出版に至る経緯と翻訳作品の構造――翻訳の特殊性と精度についての一考察

1.    フランスを中心にした欧米圏での有島文学

1926年の翻訳本は、フランス語で出版された有島唯一の翻訳作品

ここでは、翻訳テクストから、翻訳の経緯、今後有島武郎という作家がどのように読まれていくのか、有島の文学作品がどのような読みの可能性を秘めているのかについて検討

欧米言語による有島作品の翻訳は、英語の単著として『ある女』『生まれ出づる悩み』『迷路』の3作。前2者は東京、3番目はアメリカの出版社で、英語圏の読者にも有島武郎という名前が作家として認知されているとは言い難い

その他いくつか、諸言語での翻訳があるものの、何れも日本の文学や文化を異文化の読者に伝達するという、大枠の目的のために有島の作品が利用された程度にとどまり、有島武郎という作家そのものに直接スポットが当てられたとは言い難い

欧米諸言語で翻訳が出されている作家では、谷崎、漱石、川端、三島、大江、村上、小川洋子らの認知度が高く、有島はマイナー

98年、南仏のトゥールーズ第二大学の日本学研究科長として日本の教育システムなどを専門に研究しているクリスティアン・ガラン准教授が26年の翻訳を見直すことになり、新たな序文を付け、著作のタイトルを、ヒロインに因んだ『葉子の日々』に改題して、アルルの主に東アジアに関連した書籍を扱うピキエ社から文庫本として再出版されたものの、日本における近代的女性像の萌芽の1サンプルとして葉子の「新しい女」としての表象に光が当たったと言えるもので、有島という作家が特に注目されたものではない

但し、再出版によってフランス護憲の読者に有島という作家に興味を抱かせるための契機にはなったようで、『一房の葡萄』が大学の授業のテクストとして使用されている

 

2.    1926年、パリ――『或る女(前篇)』がフランス語訳された経緯

26年版の特徴として、翻訳の時間的な早さがある ⇒ 日本で刊行された僅か7年後。仏語圏の国々における日本文学への受け皿が少ない翻訳事情を考慮すると異例の早さ

有島は、1918年以降、一高、帝大の学生を対象に、アメリカの詩人ホイットマンの詩集『草の葉』の購読と時事放談のための私的サロン・草の葉会を主宰したが、有島を唯一日本人師匠とした芹沢光治良が翻訳出版の経緯を語る ⇒ 芹沢が農商務省を辞してソルボンヌに社会経済学の学生として留学していた時、同宿の雑誌編集長から2冊の日本の小説の仏語訳が出版されたことを聞かされる。1つは賀川豊彦の『死線を超えて』で、もう1つが『或る女』。後者はパリの日本大使館勤務の外交官で有島の崇拝者だった好富の翻訳に、仏語の先生が手を加えて共訳者になっている。好富は23年東大政治学科卒、調査部に配属され革新的少壮外交官として皇道外交の理論家の一翼を担う、43年南京総領事で客死

共訳者のメーボンも、当時のフランスでのアジア学研究の第1人者で、日本に主題を求めた著作も多く、文学や美術を筆頭に芸術の領域でも相当の見識を持った人物。1910年代日本に滞在、日仏両言語による雑誌『極東時報』を創刊、主筆兼社長に就任

出版社は、内容の良否を検討せず書籍を大量に刊行するとの悪評が高く批評家の目にも止まらなかっただけでなく、フランス側から待望された出版とも言い難い

 

3.    フランス語版『或る女(前篇)』と原著テクストとの比較

日仏両言語のテクストを対比することで、仏語テクストが持つ、有島武郎についての研究に新たな展開を導入できる可能性について考察する

書籍の全体像として、翻訳版の構成そのものが原著のテクストから大きく乖離、その上意訳、省略が多岐にわたる ⇒ 3,4章が1つになっているほか、有島の文体の美しさの特徴でもある洗練された比喩表現や、会話なども落とされ、言語量的にも半分程度に縮訳

それ故、ストーリーの展開を追うことは出来るが、有島が小説を作るために駆使した比喩表現や、有島独特の筆の運び方を逐語的に感じ取ることは全く不可能

大幅な縮訳のテクストになった背景には、好富の2つの狙い、1つはフランス語を理解するものに自身が尊敬する作家を知ってもらいたいとの思い、もう1つは翻訳自体が好富の仏語勉強や習得という実践的な目的を内包していたこと、がある

「フランス語のスタイルになっていないから、原文は面白いかもしれない」といった評があるように、好富の翻訳をメーボンがフランス語として流暢に読むことが出来るよう添削したと考えられる

 

第2章     有島武郎に潜む政治性と外交性――共同翻訳者・好富正臣とアルベール・メーボンの活動から

1.    日本人翻訳者・好富正臣の場合

翻訳者2人の人間関係、それと有島との距離を分析し、3者の空間が当時の日本社会に対して担っていた役割、与えた衝撃について考察

好富は芹沢の1年後輩、「草の葉会」にいたかどうかは不詳だが、興味は持っていた。帝大英法科卒の鶴見祐輔が有島同様一高弁論部関係の学生を私邸に集めた火曜会(別名ウィルソン倶楽部)に有島が頻繁に顔を出し、2人の友情が深まったが、芹沢はこの火曜会にも参加、外務省で好富の先輩にあたる芦田均(後の首相)が駐露大使館の書記官だった頃に、火曜会で有島と対談した際などに好富が有島に接して崇拝するようになった

芦田は一高で新渡戸稲造の薫陶を強く受け、1年先輩の鶴見とは半世紀以上の交友を保つが、演説の天才と目されていた鶴見が芦田の演説について手放しで称賛する程で、学生時代には漱石を囲んで議論を交わし、『新思潮』に寄稿していた玄人肌の文学青年だった。11年外交官試験に合格して、翌年ロシア大使館勤務を拝命

鶴見は、「有島君の喪失は、永久に補うことのできない欠陥を私の胸の中に残した」と、有島と波多野秋子との情死事件がもたらした大きな衝撃を公言してはばからなかった。同様に好富も有島の真摯な姿を目の当たりにする機会がどこかであって、その際に抱いた強烈な有島の存在感が、仏語訳『或る女』を26年パリで出版させる決定的要因になったのではないか

 

2.    フランス人翻訳者アルベール・メーボンの場合

メーボンは有島と同じ1878年マルセイユ生まれ。滞日期間中、日仏協会にしばしば顔を出し、フランスに造詣が深い日本の知識人などと交流があった。黒田清輝とも交流

22年の離日に当たり、フランスの思想や文化の普及に協力し合った日本人たちの恩に報いようとする思いが強くあったのは想像に難くなく、帰国後はジャポニザン(親日家)としてフランスで日本紹介のために健筆を振るい、仏文芸界に名を残した

有島生馬もメーボンとは交流があり、自身の財産の大半をメーボンが日本で創設、経営した仏蘭西書院に投資していたが、メーボンが健康を害し50そこそこで死去したため、『或る女』の後篇も含め有島作品の翻訳の話は起こり得なかった

翻訳者2人が属する集団の中に有島が組み込まれ、彼らと協働する存在だったという下地があったからこそ、有島の小説はフランス語への翻訳のターゲットになり得たのではないか ⇒ 有島を白樺派の一作家、又は大正期の西洋芸術の受容に寄与した一人物という一方的な側面から安直に捉えてしまうことは、有島の多くの本質的な部分を閑却し、実像とは違った歪な有島像を塑像する行為に近い。有島が協働した共同体を出来る限り正確に記述していくことこそ、有島が歴史に対して担った立ち位置を最も明瞭な形で浮かび上がらせる手段になるのではないか

 

第3章     フランスにおける有島武郎『或る女』の評価――作品への偏見(オリエンタリズム)と作家の生き方への興味

1.    1920年代のパリでの日本文学

当時のパリでは日本文学については無関心。パリ大書店の1つにキャビネ・コスモポリットという世界文学文庫があったが、インドや支那はあったが日本は完全に除外

20年代中盤には、在仏日本人やジャポニザンとして知られたフランス人たちの努力によって、それなりの量の日本の文芸作品が訳出されるようになる。谷崎の『愛すればこそ』(25)、漱石の『門』(28)、山田菊子の『源氏物語』(28)など

有島の親炙に浴していた芹沢光治良によれば、『或る女』の翻訳出版については、26年が有島の死後3周年だったこと、好富が崇拝する作家に報いる強い思いを抱いていたこと、インフレのお陰で好富がほぼ自費出版の形で出版を申し出たことなどが複合的に絡み合った結果ではないかと推定されるが、インテリ層のフランス人読者は好意的には受け止めていなかったことが窺える

 

2.    1920年代のフランスにおける有島武郎とその周辺の紹介について

日本文芸の紹介の流れとしては、好富・メーボンによる国木田独歩の『第三者』や、有島生馬の『別荘の隣人』などが文芸雑誌に掲載されたり、メーボンが『白樺派ないし人道主義者たち』として作家たちを紹介、中でも武者小路実篤と有島武郎が重点的に採り上げられ、『或る女』でも本文の前に「作家紹介ノート」として、作品より作家紹介に費やしている

一般的なフランス人の読者に対してというよりも、ジャポニザンと呼ばれる日本にまつわる事物を愛好するフランス人たちの知的好奇心を満たす情報発信装置として機能していた

 

3.    出版直後のフランス語版『或る女(前篇)』のパリでの評価

ヨーロッパ人には、日本人作家がヨーロッパ化一辺倒に映るという先入観や、日本人に欧米の小説を凌駕するような文章が書けるはずがないという差別意識によって、当時の日本の現代小説が正当な評価を与えられる対象にはなっていなかったこともあり、当時の一般的なフランスの読書家の間で、『或る女』についての内容の吟味や詳しい考察がなされるという状況は不可能に近いものだった

そういう中での好富の翻訳は、1人の日本人が、フランスという国と対峙し、日本が一等国たる国家であり、その国を代表する有島という作家が、西洋の文豪たちに勝るとも劣らない小説を作り得たことを記すための言語を巡る1つの「冒険」だったと言える

 

第4章     翻訳行為における〈共同/協働〉の可能性――ベルクソンから有島へではなく、有島からベルクソンへ

1.    翻訳テクストに表出するベルクソン〈生〉の哲学の影

翻訳者におるフランス語の単語の選択が、ベルクソンによる生の哲学からの影響を強く示唆している。有島がベルクソンの〈生〉の哲学から少なからず影響を受けて、評論などで度々言及しているという事実に基づいた筆者の先入見も多分に作用しているだろう

有島は、自身の生活3形態論(習性的生活/智的生活/本能的生活)で、最も崇高な生活の根幹をなすにも拘らず、科学によって歪められてしまったと考える〈本能〉という言葉を、ベルクソンが「正しき意味に於て用い始めた」と断言し、〈生〉の哲学を生命の真に赤裸々な表現として称揚している。ベルクソンの〈純粋持続〉の状態を、自身が生活の最高の形態として措定する本能的生活に譬え、この生活は、純真な子供の心と真実なる恋愛においてのみ成就されるとしている。この点を翻訳者が汲み取って恋愛描写に恣意的に反映させ、その意の通りに読者に作用していたとするなら、仏語版の読者は、当時の日本の知識人階級の間にはベルクソンが確立した哲学が浸透していることを木霊(エコー)のようにして示唆されただろうし、ベルクソン哲学の一解釈として、有島が生命の絶え間ない創造的発達状態を男女の恋愛の成就の体現に求めた点に、少なからぬ関心を抱いたのではないか

 

2.    有島の恩師・新渡戸稲造とベルクソンの友情

有馬や好富がベルクソンに感化されたと同時に、26年刊行の『或る女』仏語訳によって有馬からベルクソンへの思想の伝播があったのではないかと思われる節がある ⇒ ナチスに代表される反ユダヤ主義の台頭の中で、ユダヤ人の血を引くベルクソンが生命の本質として、〈愛〉の概念にすがらざるを得なかったのは必定の運命だったのかもしれないが、ベルクソンの32年出版の『道徳と宗教の二源泉』では、宇宙の根源を司るものとして神に支えられた〈愛〉の生に対する最重要性や不可欠性を説いている

有島は、札幌農学校に知遇して以来、終生無二の師として新渡戸に敬愛の念を抱き続けたが、新渡戸が19年国際連盟の初代事務次長としてジュネーヴに7年滞在する間、22年に国連の諮問機関としてユネスコの前身である国際知的協力委員会が設置され、初代会長に就任したベルクソンとの間に親交が生まれている。新渡戸は、ベルクソンとの出会いを、在外中の役得であり格別のものとして回想しているように、2人の交流は精神的次元まで及んでいた

新渡戸の東京帝大時代の教え子の鶴見祐輔が、札幌農学校時代の思い出を聞かされる際には、いつも格別な教え子として有島のことを聞かされたという

それだけに新渡戸にとって相思相愛の弟子だった有島の23年の情死事件は衝撃的で、その代表作の仏語訳が出版されるというニュースには、パリの日本大使館に頻繁に出入りしていた新渡戸が全く接点がなかったとは考えられない

同様に、有島と関わりがあってフランスに留学していた芹沢もベルクソンとの交流を自身の著作の中で回想している

当時のフランスに滞在していた有島ゆかりの日本人と、彼等が関わりを持ったフランスの知識人たちが〈協働〉することによって創造された〈共同〉体の中で有島が担っていた位置から、有島の国際外交的、つまり政治的な〈共同〉体の中での存在が浮かび上がる

有島は、この翻訳に関わった多くの人間たちから尊敬され象徴視された存在であり、この翻訳を巡って形成されていた〈共同〉体は、日仏の狭間で、文化、経済、言語などの接触を内包しながら、国策を左右するレベルの権限を持ち得る、極めて政治的な集団だった。ここから、有島は単に作家だったのでも、西洋受容の一端を担ったのでもなく、日本の国際外交を担う人間たちの精神的支柱として機能し、彼等の決定の場で、顕在的・潜在的な形で影響を与えていたと断言できる。

その意味で『或る女』の仏語テクストはその顕在的な形の一端、そしてそこからの可能性を見せてくれる貴重な書籍であり存在といえる

 

第5章     『或る女』に表象されるベルクソン的音楽世界――小説への〈純粋持続〉概念導入の試み

1.    『或る女』内部に鳴り響く「音楽」

『或る女』は、ヒロインの聴覚の流れを追い、主人公自身が聞いた音を記述していくという傾向を強く持った小説であり、音による表象が登場人物の性格を読み取る1つの判断材料にさえなっている小説。「音によって構築された芸術作品」の体現を強く意識したのか、「音楽」と言う言葉を13回も使ったように、音楽への関心の高さは当時の有島の音楽を含めた西洋芸術や西洋思想への強い関心の一環として生じたものと推測

ベルクソンが提唱する〈生〉の哲学の特質は、〈生〉を1つの持続として捉え、持続の不可分性を強調することにある。彼の父親はピアニストであり、幼少から音楽と密接な繋がりを持っていたこともあって、彼の哲学には音楽的な比喩が多用されている

ベルグソンの純粋持続の概念が、有島に小説家としての方向性を確信させ、ヒロインの恋愛における不思議な感情の渦巻きを描写するに至っている

有島が言う「人に強い衝撃を与え、生の推進の力を生み出す」という「音楽の聖境」の再構築の作業を、彼の生業たる芸術の分野で成就させようとした1つの試みが、19年に完結する『或る女』だったと考えられる

 

2.    有島とベルクソン哲学との接点

有島は、音楽に裏打ちされているという部分でベルクソンの哲学を深く意識し、ヒロインの頭脳の活動を、シンフォニーの指揮者のような精神活動の中心点として捉えている。この点で、有島によるベルクソン哲学への理解と体現とを目論んだ試みの実践として小説『或る女』を解釈することが許されるだろう

有島の頭の中には常にベルクソン哲学の影が何らかの形で潜んでいたことを想像できる

 

3.    ベルクソン哲学の『或る女』への反映

有島の「音楽」とベルクソンの「持続」の概念との関連性、さらにそれらの関連性が『或る女』の言説内部にどのように反映しているかを考察

1920年、有島の生命論、芸術論の総決算ともいうべき『惜しみなく愛は奪う』の中で、「単独では意味のない音声を組み合わせてその中に愛を宿らせる仕事は如何に楽しくも快いことで、それは人間の愛を混じり気なく表現し得る楽園といわなければならない」という

明治維新前後の国際情勢の変化によって、日本と西洋諸国との閉じていた扉がこじ開けられた結果、日本での芸術の伝統の中に、西洋の長い歴史の中で培われてきた芸術や思想に対する考えが交じり合い、新たな芸術観に基づいた新たな日本の文学・文芸が生み出されていった。その流れの中で、当時の作家たちは自分の芸術作品、詩、戯曲などが、どのようにすれば真の芸術、本当の芸術たり得るかを考え、そしてそれを実現することに取り付かれていった

ベルクソン哲学に表彰される音楽性に基づいて、自己の芸術、小説を、純粋持続の体現と考える音楽にどのように近づけていくかが有島にとっての究極の理想・目的となった。小説の創作でそれを最も先鋭的に試みようとしたのが『或る女』だと考えることは、この作家の創作活動を考える上では必然

 

第6章     有島武郎はどのように西洋を翻訳したか――『或る女』にみる文化翻訳

1.    有島武郎による文化翻訳の試み

ヴァルタ-・ベンヤミンは1916年発表の論文『言語一般及び人間の言語』の中で〈翻訳〉を、「不完全な言語をより完全な言語へ翻訳すること。それは何かを付加することが出来る。この何かが、つまり、認識にほかならない」と定義する。「起点言語」の文章に、翻訳者の「認識」たる解釈・偏見・印象・誤解などが加わることで、「起点言語」=「目的言語」という等価の関係性は根本的に成り立たない

本章では、『或る女』を文化翻訳の一例として取り上げ、そこに顕在化する〈文化の翻訳〉の臨界点と独自性を提示してみたい

有島研究の第一人者・児玉晃一によれば、有島は「最も西欧的な知性の作家」で、東洋や日本への回帰があまり見られない珍しい作家。当時の日本で最もバタ臭い作家の1

翻訳と文化の連結点で有島文学が持つポジティブな可能性について検討

『或る女』で有島が認識して言説化を試みようとしたものを3つのレベルに分別

    他者に実際に起こった出来事についての著者による目標言語(日本語=母語)としての言説化のレベル

    自身の実際の異文化(起点文化)体験の著者自身による目標言語としての言説化のレべル ⇒ 著者が自身の体験に基づいて

    ②をさらに踏み込んで、著者による起点言語(英語=異言語)其物の目標言語テクスト(日本語)の内部での言説化のレベル

 

 

 

 

 

 

 

2.    文化翻訳の限界と可能性

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第2部       有島武郎が形成した共同体

 

第7章     有島武郎・草の葉会と鶴見祐輔・火曜会――恩師・新渡戸稲造の人材育成教育の延長として

 

1.    有島武郎・草の葉会(一九一七年〔大正六年〕三月十二日

2.    鶴見祐輔「火曜会(ウイルソン俱楽部)」(一九一六年〔大正五年〕十二月十六日

3.    両会の軸としての新渡戸稲造

4.    人材養成機関としての両サロンの役割

 

 

 

第8章     有島武郎における文学的精神と社会的良心――作家・芹沢光治良の眼差しから

 

1.    芹沢光治良が草の葉会に参加した経緯

2.    芹沢光治良と有島武郎の交流

3.    芹沢光治良の人脈から浮かび上がる有島武郎像

 

 

第9章     受け継がれた有島武郎の「〈美〉を見る「眼」」――哲学者・谷川徹三の草の葉会参加を起点として

 

1.    谷川徹三が草の葉会に参加した経緯

2.    草の葉会が谷川徹三に与えた影響

3.    谷川徹三が有島武郎と草の葉会から学んだこと

 

 

第10章     有島武郎「クラヽの出家」をめぐる二つの聖地――〈軽井沢〉で〈アッシジ〉を描くということ

 

1.    「クラヽの出家」執筆の地としての〈軽井沢〉

2.    〈軽井沢〉に付与された〈聖地〉としてのイメージ

3.    〈聖地〉と〈リゾート地〉、二つのイメージの共存

4.    「クラヽの出家」に漂う〈軽井沢〉の影

 

 

第3部    思想伝達の系譜――父から子へ

第11章    有島武郎テクストと政治との関連性についての一考察――原敬首相暗殺事件の周縁から

1.    原敬首相暗殺事件

2.    原敬暗殺事件に対する有島武郎の反応

3.    有島の原敬暗殺事件への無関心に潜む父・武の影

4.    〈和解〉なき親子(父子)関係

 

 

第12章    有島武郎における〈学習院〉からの逃避――自由主義教育の受容と実践の見地から

1.    「負フ所無シ」とする〈学習院〉での教育

2.    有島が理想とする子どもへの教育

3.    有島における〈自由主義教育〉の淵源

 

 

第13章    反抗する日本知識人の一系譜――父・鶴見祐輔と子・俊輔

1.    父・祐輔の〈転向〉と子・俊輔への影響

2.    若き日の〈抵抗、反逆する〉父・祐輔

3.    〈自由主義者(ルビ:リベラル)〉、鶴見親子におけるその伝達の可能性

 

終章 有島武郎をめぐる物語

 

 

 

出版社からの紹介

「白樺」派に属し、明治期・大正期に活躍した小説家として名高い有島武郎。その代表作『或る女』は1919年に刊行されたが、その7年後にフランスで前編だけが翻訳され、現在まで唯一のフランスでの有島の翻訳作品として読まれている。なぜ、どのような経緯で有島の作品が遠いフランスの地で翻訳されたのか。

その謎を解き明かすために、2人の翻訳者の来歴を調べ、翻訳されたテキストと原著を詳細に比較・検討して、翻訳に至ったプロセスを描き出す。そして、翻訳者と有島本人との関係性を探り、そのバックグラウンドにあった新渡戸稲造・芹沢光治良・鶴見祐輔・谷川徹三らとの人的なネットワークや共同体の実態を掘り起こす。

有島たちの思想に世代間の関係性がどう影響していたのかも検証して、小説家としてだけでなく、日本の近代化の一翼を担った稀有な人物として有島武郎とその系譜を再評価する野心的な試み。

 

 

Wikipedia

有島 武郎(ありしま たけお、1878明治11年)34 - 1923大正12年)69)は、日本小説家

学習院中等科卒業後、農学者を志して北海道札幌農学校に進学、キリスト教洗礼を受ける。1903(明治36年)に渡米。ハバフォード大学大学院、その後、ハーバード大学で歴史・経済学を学ぶ。ハーバード大学は1年足らずで退学する。帰国後、志賀直哉武者小路実篤らとともに同人白樺」に参加する。1923年、軽井沢別荘(浄月荘)で波多野秋子心中した。

長男・行光(ゆきみつ)は、俳優の森雅之

代表作に『カインの末裔』『或る女』や、評論惜しみなく愛は奪ふ』がある。

目次

1経歴

2作品

2.1校歌(作詞)

2.2小説

2.3評論

2.4童話

2.5戯曲

2.6全集

3親族

4逸話

5脚注

6関連人物

7外部リンク

経歴[編集]

東京小石川(現・文京区)に旧薩摩藩郷士大蔵官僚・実業家の有島武の長男として生まれる。母は幸子。祖父・宇兵衛も同じく郷士であった。武郎4歳の時、父の横浜税関長就任を機に一家で横浜に移る。父の教育方針により米国人家庭で生活。その後、横浜英和学校(現・横浜英和学院)に通う。この頃の体験が後に童話一房の葡萄』を生むことになる。

10歳で学習院予備科に入学し、寄宿生として過ごし、19歳で学習院中等全科を卒業する。その後、札幌農学校に入学。教授の新渡戸稲造から「一番好きな学科は何か」と問われ「文学と歴史」と答えたところ失笑を買ったという。内村鑑三森本厚吉の影響などもあり、1901(明治34年)にキリスト教に入信する。農業学校卒業後に軍隊生活を送った後に渡米。米国ではハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒しホイットマンイプセンらの西欧文学、ベルクソンニーチェなどの西洋哲学の影響を受ける。さらにヨーロッパにも渡り、1907(明治40年)に帰国。この頃、信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れる。アナーキストの巨星であった大杉栄が海外に遠征した際に、黒百合会を主宰していた有島武郎は同志としてカンパをしたが、実はそれまでに大杉とは数回しか会ったことがなかった。

帰国後は再び軍務(予備見習士官)や東北帝国大学農科大学の英語講師として過ごしていたが、弟の生馬を通じて志賀直哉武者小路実篤らと出会い、同人誌白樺』に参加する。『かんかん虫』『お末の死』などを発表し、白樺派の中心人物の一人として小説や評論で活躍した。

1909年(明治42年)、東京にて陸軍少将・神尾光臣の次女・神尾安子と結婚。

1911年(明治44年)、札幌で教職を務めていた時、長男・行光(ゆきみつ)誕生(のち、俳優の森雅之として活躍する)

1916大正5年)に妻・安子(肺結核により平塚の杏雲堂で、27歳で没)と父を亡くすと、本格的に作家生活に入る。『カインの末裔』『生れ出づる悩み』『迷路』を書き、1919(大正8年)には『或る女』を発表した。

しかし創作力に衰えが見え始め、『星座』を途中で筆を絶つ。1922(大正11年)、『宣言一つ』を発表し、北海道狩太村(現・ニセコ町)の有島農場を開放する。1923(大正12年)、『婦人公論』記者で人妻であった波多野秋子と知り合い、恋愛感情を抱く(有島は妻・安子と死別後は再婚せず独身を通した)。ところが秋子の夫春房に知られる所となり、脅迫を受けて苦しむことになる。そして692人は長野県軽井沢の別荘(浄月荘)で縊死を遂げた。77に別荘の管理人により発見されるが、梅雨の時期に1ヶ月遺体が発見されなかったため、相当に腐乱が進んでおり、遺書の存在で本人と確認されたという。複数残されていた遺書の一つには、「愛の前に死がかくまで無力なものだとは此瞬間まで思はなかつた」と残されていた。2009平成21年)7月に、死の約半年前から有島が秋子と取り交わした書簡各3通が札幌市にある「北海道立文学館」で一般公開された。

辞世の歌は

「幾年の命を人は遂げんとや思い入りたる喜びも見で修禅する人のごとくに世にそむき静かに恋の門にのぞまん / 蝉ひとつ樹をば離れて地に落ちぬ風なき秋の静かなるかな」

というものであるとされ、唐木順三の評では「いずれも少女趣味以上ではない」と断じられている(『自殺について』1950年(昭和25年))。

師であった内村鑑三は「この度の有島氏の行為を称えるものが余の知人に居るならば、その者との交流を絶つ」(大意)と言明した。

北海道に縁が深いことから、北海道新聞社により「有島青少年文芸賞」という文学賞が実施されている[1]

魯迅が紹介したことから中華人民共和国での知名度が高く、教科書にも掲載されて広く読まれている。

作品[編集]

校歌(作詞)[編集]

札幌農学校 校歌『永遠の幸』 - 札幌農学校在学中に作詞(ジョージ・フレデリック・ルート英語George Frederick Root)作曲・納所弁次郎 選曲・大和田建樹 校閲)

同曲は後身の北海道大学校歌としても定められている。

小説[編集]

かんかん虫

或る女のグリンプス(のちに『或る女』として刊行)

カインの末裔

クララの出家

或る女

生れ出づる悩み

凱旋

酒狂

文化の末路

運命の訴へ

星座

小さき者へ

実験室

お末の死

評論[編集]

惜しみなく愛は奪ふ

宣言一つ

二つの道

Deklaracio1924

童話[編集]

一房の葡萄

溺れかけた兄妹

戯曲[編集]

ドモ又の死

全集[編集]

『有島武郎全集』全15巻+別巻 筑摩書房(なお大正期に叢文閣全12巻、昭和初期に新潮社10巻が出版)

妻の神尾安子と。

親族[編集]

弟に、画家の有島生馬、作家の里見弴日本油脂取締役の有島行郎。妹シマは東京慈恵会医科大学を設立した高木兼寛の長男喜寛と結婚。妹の愛は、三笠ホテル経営者の山本直良に嫁ぐ[2]

妻安子は陸軍大将男爵神尾光臣の次女。2人の間に子として、行光(俳優の森雅之。森と愛人との間に産まれた孫に日活ロマンポルノで活躍した女優の中島葵)曾孫にミュージシャンの有島コレスケ、敏行(翻訳家。石井好子と婚約していたと言われるが[3]第二次世界大戦中に若くして結核で亡くなる)、行三(母方の神尾家を継ぎ、男爵。その次男はシンセサイザー奏者の神尾明朗)[2]

甥(弟・行郎の息子)に創価学会初代音楽隊長で公明党代議士の有島重武指揮者作曲家山本直純は、妹・愛の孫。

逸話[編集]

東京都千代田区六番町にある家には落語家3代目三遊亭圓が住んでいたが、晩年に転居している[4]

1922(大正11年)、大杉栄ベルリン国際無政府主義大会に参加するために密航を企図すると、密かに渡航費を大杉に渡し、後に新聞記者に対して「僕は大杉君とは立場が違うが、ああいう器局の大きい人物を、いたずらに日本のようなせせっこましい所に置いて、内輪喧嘩をさせておくのは惜しいような気がしたので、世界の大勢を見てきたほうがよかろうと考えたからである」と談話している。(大杉栄『日本脱出記』、大杉豊『日録・大杉栄伝』より)

有島は極端に蛇を怖がった。その一方で心中相手の 波多野秋子は蛇が好きで蛇をかたどった指輪をはめていた。蛇がかすかに頭をもたげ、蛇腹がぐるりと指をとりまくデザインだったが、遺体の 波多野秋子はその指輪をはめていなかったことから有島と交際する様になってからその指輪を外したとみられている。

脚注[編集]

1.    ^ 有島青少年文芸賞サイト2019716日閲覧)。

2.    a b 有島武郎歴史が眠る多磨霊園

3.    ^ 石井好子著『私は私』

4.    ^ 三遊亭圓歌さん追悼秘話 最後まで寄席にこだわり終活、「山のあな、あな」は自らの吃音経験笑いに - ZAKZAK 2017425

 

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