文豪の悪態  山口謡司  2020.8.11.

 

2020.8.11. 文豪の悪態 皮肉・怒り・嘆きのスゴイ語彙力

 

著者 山口謡司 号「菫雨白水堂」。1963年長崎県生まれ。大東文化大文教授。博士(中国学)。大東文化大大学院に学び、89年よりイギリス、ケンブリッジ大東洋学部に本部を置いて行った「欧州所在日本古典籍総目録」編纂の調査のために渡英。以後10年に及びスウェーデン、デンマーク、ドイツ、ベルギー、イタリア、フランスの各国図書館に所蔵される日本の古典籍の調査を行う。その間、フランス国立社会科学高等研究院大学院博士課程に在学し、中国唐代漢字音韻の研究を行い、敦煌出土の文献などをフランス国立国会図書館で調査。著書にはベストセラー『語彙力がないまま社会人になってしまった人』、『日本語を作った男』(29回和辻哲郎文化賞)

 

発行日           2020.5.30. 第1刷発行

発行所           朝日新聞出版

 

「勉強しなよ」

「そんなキタナイ小説は嫌いだ」

「日本人の恥さらし」

ずいぶん気が立っておいでですね・・・・

 

 

はじめに

変な人がいつのまにかこの世の中から少しづついなくなっていく

学生の頃にはまだ変な先生がたくさんいた

昨今みんなまじめになっていく

大学は自由な研究の場ではなくなり、学生の就職をサポートする機関になってしまった

文豪あるいは作家という人たちにも変な人が多かった

鴎外は、バイ菌がいっぱいだと言って生モノを食べることができず、果物まで煮て食していた

漱石も、いつもイライラで、公衆の面前で子どもたちを殴ったり蹴ったりしていた

尾崎紅葉は、人が嫌がるほど校正に時間をかけて寝不足となり、寝不足解消のために深酒となり、35歳の若さで亡くなる

川端康成は、将棋を指す菊池寛の所に来て何も言わず菊池寛を睨み続ける。菊池寛は堪えきれず、「金か」といって札束を川端に渡したという

芥川は、人妻ばかりを追いかけまわし、太宰は覚醒剤を人に売りつけていた

最近は作家たちの変な話はほとんど聞かない、書店には小説の書き方についてのマニュアル本が並ぶ。小説もこぢんまりした

文豪たちの悪態、それは彼等の強い個性。使う語彙もその個性を離れては存在しない

言葉が人を創っているとするなら、彼等の変な行動の中で使われる語彙を理解すれば、或は彼等の本質に迫ることにもなるのではないか

彼等の語彙を身につければ、マニュアル化して閉塞化する社会を爆発的に面白くすることにもつながる

 

第1章      「馬鹿」「田舎者」

Ø  「オタンチン、パレオロガス」  夏目漱石が、奥さんを

漱石は奥さんをふつう、「おい」とか「お前」とか呼んでいたが、どうしようもない怒りが噴出した時は「オタンチン、パレオロガス」と呼んだ。『吾輩は猫である』にも同じ場面がある

「パレオロガス」という皇帝はいた。「おたんちん」は、江戸時代後期、吉原で「のろま」「まぬけ」などの意で使われた罵詈。これから派生して「おたんこなす」という言葉も生まれた

 

Ø  「馬鹿!」  漱石が小栗風葉に

人間の声とも思われないような、惻(いた)ましい声に聞こえた漱石の「馬鹿!」という怒り声

「惻ましい」とは、「ヒシヒシと心に迫ること」で、「惻隠の心は、仁の端(はじめ)なり」(『孟子』)

森田草吉は尾崎紅葉の弟子だった風葉の6歳下、風葉とばったり会って漱石への紹介を依頼され、時間潰しに酒を飲んだところが深酒となり、風葉は漱石邸に行った時に酔った勢いで漱石にため口をきいたので、漱石が一喝したもの

『こころ』でも「精神的に向上心がないものは馬鹿だ」といった有名な一句がある

 

Ø  「勉強しなよ」  尾崎紅葉が泉鏡花に

中国古典では「勉強」とは、「困難なことでも無理に頑張ってやること」をいう。「勉」は「娩」と意味を共有し、女性が狭い産道から無理に頑張って子供を生むという意味

尾崎紅葉が言ったのも、ただ「学問に励め」というだけでなく、「困難なことがあっても強いて頑張れ」と言っているように思える

紅葉は弟子の面倒をよく見た。鏡花も金沢から出てきて紅葉の弟子となり、風葉も親の反対を押し切って上京する際、紅葉が生活の面倒を見るからといって親を説得

鏡花が紅葉に弟子入りして間もなく短篇を書くが、余りの誤字嘘字の多さに驚いた紅葉がすべて直し、「立案凡ならず、文章亦老手の如し」と褒めて返す。その後も住み込みの鏡花に細かい指導をしつつ売り出すために援助

10年後鏡花は作家として大きく成長、一方の紅葉は胃癌に冒され、自分より高い原稿料をもらうようになった鏡花に対して、嬉しくもあり、弟子に追い越された悔しさに満ちた思いで、鏡花に原稿料の値段を聞き、それ以上は「勉強しなよ」としか言えない

紅葉の死後遺族が困窮して鏡花に紅葉の遺品を買ってくれと頼みに行ったところ、鏡花は「まだそんな身分ではない」と丁重に断り、遺族は悲憤の涙を流したという

女をとるか師弟関係をとるかと迫って同棲相手と別れさせられたり、弟子の面倒を見ながら彼等を奴隷のようにこき使った紅葉に対し、鏡花は感謝と同時に恨みのような感情も持っていた

 

Ø  「平凡浅薄」  中江兆民『一年有半』に子規が

「平」は「全く特徴がないこと」、「凡」は「大きな布で覆ってそこからはみ出すものが無いようにすること」で、「平凡」とは「全体をおしなべて平均にすること」「全体として特筆すべき特徴がない」の意

「平凡浅薄」は、正岡子規『命のあまり』(01年『日本』に掲載)にある

自由民権運動の旗幟として54年の生涯を駆け抜けた兆民が、亡くなる1年ほど前に喉の痛みを訴えたところ、咽頭癌(後に食道癌と判明)の宣告を受けるが、自身余命56か月と覚悟していたところに1年半と言われ、癌の痛みと闘いながら立て続けに書いたのが『一年有半』。20万部の増刷となり、続編まで書いたが、それを読んだ子規の感想が冒頭の一言。病においては自分の方が先輩だと付け加えた

子規が肺結核に罹ったのは89年、96年から歩行困難となり仰臥して執筆を続け、亡くなったのは兆民の1年あと

 

Ø  「紅葉はもう想が枯れた」  宮崎湖処子(八百吉)が尾崎紅葉に

「想」とは、向こう側にある対象を、心の眼で見ることを意味する

50刷を記録した『金色夜叉』も誰も読まなくなり、2018年は紅葉の生誕150周年だったが、何等顕彰するようなことはなかった

生前からいろいろな人に悪口を言われてきた ⇒ 紅葉の書く物は「洋装した元禄文学」など

漱石の11か月年下で、文壇デビューは89年と早く、売れっ子となるが、03年胃癌で急逝

当時のオピニオンリーダーのトップだった雑誌『国民之友』(社主:徳富蘇峰)の文芸批評を担当していた宮崎湖処子が、「もう紅葉でもあるまい。紅葉はもう想が枯れた。みな外国の通俗小説から翻案してきたものばかり」と罵り、田山花袋も「もっと骨を折らなければならない深い心理や魂の動揺するようなところに決して手を染めない」といって批判。『金色夜叉』もバーサ・クレイの『女より弱き者』を下書きにした翻案小説と指摘されている

紅葉を超えた文学が漱石。『吾輩は猫である』はドイツのホフマンが書いた『牡猫ムルの人生観』からの盗作だったが、そこから出発して誰にも書けない傑作を完成させた。紅葉にしてあと10年の歳月を与え、漱石と切磋琢磨する機会があったら、と残念に思う

 

Ø  「実に大なる田舎者である」  生田長江が田山花袋に

『枕草子』に、「卑しげなるもの」として「遣戸(やりど)、厨子(ずし)、いずれも田舎物はいやしげなり」と記され、「卑しい」は「下品、さもしい、がつがつしている、みすぼらしい、貧しい、けち臭い」などを包括して言う言葉で、「尊い」「雅」の反対語

舘林出身の花袋を、鳥取県出身の生田が「田舎者」と呼ぶのは如何かと思うが、「花袋の一切の長所と短所とはそこから出て来ている」と言い切る

花袋の『蒲団』は、弟子入りを希望してきた乙女を自宅に泊め、男がいるとわかって追い返したが、乙女の残り香のある蒲団に顔を埋めて匂いを嗅ぐという粗筋だが、モデルが実在するとの噂を当のモデルは否定したが、作者が告白

生田が11年『新小説』に発表した花袋に対する文学批評では、「泥臭くて創造性に欠け、芸術というところまで作品を昇華させていない」

他の人からも、花袋は美しく飾ることを知らず、欲望を満たして後にそれを苦しむ「田舎者」に見られていて、花袋も努力はしたが、野蛮さや土臭さは決して現代的、芸術的なところまで昇華されることはなかった ⇒ 白樺派の台頭で忘れ去られ、亡骸は本人の希望によって土葬

 

Ø  「立派な人の紹介状でも貰って上がりましょう」  内田魯庵が鷗外夫人に

「紹」とは、刀で切って、別の糸と繋げることを表し、「介」は「間に挟む」「助ける」の意で、「紹介」とは、「既に閉じている人の縁の一端を切ってその間に人を挟んで別の縁に繋いでゆく」の意

トルストイの『復活』などを訳し、外国文学を紹介した内田は、若い時徳富蘇峰の国民新聞社に勤め、偶々鷗外の家を通りがかったので挨拶に寄ったが、鷗外夫人が無作法をなじるような言い方で取り合ってくれなかったため、冒頭の一言を言って退散し、すぐに「鷗外を訪うて会わず」という文章を国民新聞に投稿。ところが戻ってみると「森林太郎」の名刺とともに詫びの言伝があり、追いかけるように手紙が来て、「詫びに上がったが留守で残念。いつでも来てくれ」とあり、慌てて投稿を取り下げる。鷗外は二足の草鞋の批判を恐れて神経を減らしながらあらゆる方面に気を遣っていて、間もなくこの最初の夫人と別れている

 

Ø  「才を娶らんよりは、財を娶れよ。女の才は用なきもの也、・・・・・なまなかなるは不具に殆(ちか)かるべし」  斎藤緑雨のコラムから

「なまなか(生中、生半)」は「中途半端」

明治前半には、女性に学問や文学は不要と考えられ、樋口一葉の母も、小学校首席の一葉を退学させている。緑雨は毒舌家で女性蔑視のコラムも書いたが、一葉に恋し、最後はその「才」に惚れ込み、尽くした

9611月一葉死去、享年25。兄が早逝したため家督を継いだ一葉は父親の残した莫大な借金を背負う

文才が開花したころには結核に冒され、96年春一葉に惚れ込んだ緑雨が、鷗外の紹介で診てもらうが進行し過ぎていた。「才」を使い果たし、「財」を得ることなく亡くなる

葬儀も、本郷から築地本願寺まで走るが、葬儀に立ち会ったのは僅か10有余名で、貧乏人の葬式より簡素。鷗外も騎馬で棺に従おうとしたが恥ずかしいからと遺族に断られている

 

Ø  「犬が轢かれて生々しい血! 血まぶれの頭! ああ助かった!」  啄木の日記から

貧乏のどん底にいた啄木は、たびたび眠れない夜を送り、自殺を考えているが、日記にも得体の知れない不思議な力が、啄木の首を真綿で締めていくのを感じる

同郷の金田一京助は蔵書を処分して金を渡すが、焼け石に水

漸く『東京毎日新聞』での連載が決まり、東京朝日新聞の校正係の職を得るが借金が多すぎる

同級生の兄弟がやっている小田島書房から処女詩集『あこがれ』を出版するが売れず、更に新聞に書いた『鳥影』も単行本にしようと小田島が勤める文学館に頼み込むが断られ、「面当てに死んでくれようか!」と切羽詰まった気持ちで大学館を飛び出したところ、自分の代わりに電車に轢かれる犬を見る

 

第2章      文豪の嘆きとぼやき

Ø  「創造力というものが無いんだね」  徳田秋声が武林無想庵に

「創」にはもともと「きず」の意がある。「刀(刂)」でものに傷をつけることで、その傷を境にして、何か次のことが生じるというので、「はじまる」「はじめる」という意味が生まれた

我が国で作られた「創造」という熟語も明治という新しい「きず」で前時代と袂を分かつことによって、生まれた言葉だったといえる。博学というのも古代から継承された道を知っているがために、かえって「きず」をつけることが出来ず、「創造性」を生み出す力に欠けるのかもしれない。多くのことを知らない人の方が、創造力に満ちている

武林無想庵は不思議な小説家・翻訳家。小説として読まれるものはないが、『むそうあん物語』という個人雑誌を書く。その発行発起人がすごい。谷崎、佐藤春夫、辰野隆、白鳥、如是閑

ダダイズムの洗礼を受けた作品

博覧強記で周囲も認めたが、徳田秋声に冒頭の一言を言われ、「だから小説が書けない」と

フランス文学の紹介に貢献。晩年失明、3番目の妻の聞き書きで『物語』は書き継がれた

 

Ø  「菊池は性質野卑奸」  永井荷風が菊池寛に

「野卑」は「下品で卑しいこと」、「奸獝」は「いつわること、いつわりが多いこと」

菊池寛は、文藝春秋社の創始者。アンデルセンやグリムを訳して外国の童話を広めた文学者

荷風は雑誌に『下谷のはなし』を連載、菊池寛の祖先にあたる漢詩人・菊池五山のことを考証した際、すべて「菊地」と書いたため、菊池寛は、創刊間もない文藝春秋に「自分の名前を書き間違えられるほど不愉快なことはない。文壇人中一番国語漢文歴史等の学問のある荷風が菊地と書く時代だから、文字の正しき使い方などに就いては現代は末世なのだろう」と書く

辱められた荷風は、何度も日記に菊池寛のことを悪しざまに書く。「悪むべきは菊池寛の如き売文専業の徒」など

菊池寛は、文藝春秋が売れれば何でもするという感覚で、荷風の考証を揶揄したに過ぎず、その後荷風に記事の依頼をするがにべもなく断られたが、それ以前にも菊池寛からの面会依頼も断っているし、「品性甚だ下劣の文士なれば、その編集する雑誌には寄稿し難し」として菊地の品位のなさを挙げて嫌っている

その後も10年にわたって何度かすれ違う機会もあったが、お互いに挨拶もしなかったという

荷風は、出版社の編集員だった川口松太郎とも不仲の関係

 

Ø  「漱石さんの物には贋物が多いのでしてね」  ある骨董商が内田百閒に

戦前の作家は、貧乏で神経質で、自殺をするか病んで亡くなるか、という印象が強い

漱石は、養父の莫大な借金を代わりに払った上に、胃が弱く、それが原因で49で亡くなる

芥川も売れっ子ではあったが、金には困窮。野上が芥川に向かって「お金が儲かる方法は亡くなればいい。自殺ならなお結構」といったが、その1年半後に自殺

漱石の弟子で、鈴木三重吉や後輩の芥川からも慕われた内田百閒は、岡山の造り酒屋の息子だったが、16の時に実家が倒産、以来亡くなるまで経済的に困窮を続ける

生活費に困った内田が漱石が自分に書いてくれた書の1幅を手放そうとして奥さんに骨董商に持って行かせたが、紹介状もあって、内田が漱石の弟子であることを知りながら、足元を見られて冒頭の一言があり、予想した半値でしか買ってもらえなかった

 

Ø  「親切なんか微塵もなかった」  小島政二郎が鈴木三重吉に

「微塵」とは、細かい、極めて微細なものという仏教用語で、物質を分割した最小単位である「極微(ごくみ)」が、上下四方の六方から結合したものをいう

小島の『眼中の人』は自身の自伝的小説で、大正時代の文壇の雰囲気を知るうえで重要なものだが、その中に鈴木三重吉の恐ろしい事実が記されている ⇒ 結婚後小説家として行き詰まり、不倫の果てに長女が生まれたころから童謡への才能を開花させるが、同時に酒乱の虐待が始まり、結局弁護士を立てて別れるが親権は離さず、母親は悲しみに打ちひしがれる酒乱の三重吉は、童話雑誌『赤い鳥』起ち上げになくてはならなかった白秋とも絶交

同書の中で小島は三重吉のことを、「三重吉の門に入ったが、酒ばかりで何も教えてくれないばかりか、小説は40前後まで人生経験を積んでから書き始めるべしといい、書いたものをこっぴどく批評した」として、「芽をそやし立ててやろうとする親切なんか」のあとに冒頭の一言

 

Ø  「嗚呼盛なるかな倉田百三」  南孝夫が倉田百三に

倉田の戯曲『出家とその弟子』が自費出版されたのは17年、26歳のとき。恋愛と性欲の相剋を追求する『歎異抄』の教えの戯曲化で、当時の若者の心を捉え10年で300

ロマン・ロランが仏語訳を倉田に申し入れ、翻訳本の序文に「現代アジアの宗教芸術作品のうち、これ以上純粋なものを見たことがない」と記す

岩波茂雄が売れる作家倉田を放っておくはずはなく、一高在学中から30歳ごろまでに書き溜めたエッセイのような文章を集めて『愛と認識との出発』を21年に出版すると、これまた旧制高校生の間で爆発的人気となる。中身は軽薄で薄っぺらい

倉田が売れれば売れるほど、売れずに燻ぶっている作家の憤懣は増すばかり。南孝夫もその1人で、文藝春秋に「南氏妄言」を掲載した以外の経歴は全く分かっていない。南の冒頭の言葉は、売れない作家たちの言葉にならない倉田への羨望と嫉妬に満ちた罵詈

 

Ø  「イゴメーニアックなあの調子が堪えがたく不快」  本間久雄が武者小路実篤に

Egomaniacとは、極端に自己中心的な人

子爵の末子に生まれて何不自由ない男の「猪進」は、本間には「堪えがたく不快」に写った

「堪」は、「土」と「甚」からなり、「甚」は「甘」と「匹」からなるが、「食欲」と「色欲」を表し、抑えがたい人間の深い欲望を意味。これに「土」がつくと、「分厚く重みのある山のような欲望」を表す。「どうしようもなく」という以上に「ものすごく激しい」「どうしても抑えがたい」の意

武者小路の『お目出たき人』(11年)を出版したのは洛陽堂で、後に『白樺』をはじめ人々の意識を変革するような本を700冊も出版。武者小路を洛陽堂に紹介したのは、学習院時代の師・高島平三郎で、後の東洋大学長で、武者小路はこの本を高島に奉っている

明治時代、文士といえば貧しく、独りでも自分の文章に共感してほしいと願って書いたが、武者小路は、「分かる人だけに読んでもらえればいい」と平然と言い放った上に、書いた文章といえば、たわいもない事を読みやすく書き下しただけ。後年、「空前の率直さと、底抜けの意識的楽天主義に独創がある」と持ち上げられたが、明治の文学を真摯に熟読し、日本文学史の中に読み込もうとする本間の目には、「自分ばかりいい気になったおめでたい人」としか映らず、冒頭の一言には、「人生も文学も、舐めんじゃねぇよ」と言いたげな本間の口吻が漂う

 

Ø  「お留守です」「お出かけです」  宇野浩二の女中が編集者に

「留守」は、古く中国の古典では「りゅうしゅ」と読んで、「天子が行幸や出陣をしている間、国都を守ること」で、「不在」を表す言葉として使われるようになるのは鎌倉時代

宇野の文章はだらだらと長い。27年精神に変調を来すと、句読点の多い短い文章に変わる

林芙美子が教えを請うた時に、「話すように書けばいい」といったという。「自分の持っている言葉で、話をする通りに書けばいい。これは武者小路が先祖」が本意だという

新潮社で太宰を担当した名編集者の楢崎勤が、宇野の自宅に行くといつも女中に追い返されると書いている

宇野が居留守を使ったのは、江戸川乱歩に「居留守「を使われたのを真似たというが、乱歩は宇野の大ファンで、宇野の文章かと思う程同じようなだらだらした文章を書く

宇野が長年交流のあった芥川のことを書いた『芥川龍之介』や明治末ごろからの文壇のことを書いた『文学の30年』は何度読んでもだらだらと惹き込まれる宇野式の傑作に違いない

 

Ø  「一合お酒を余計呑んでいるとかすれば」  野口雨情が広津和郎に

将棋好きの作家の筆頭は菊池寛で、3段とされるが、一番強いのは幸田露伴

20年のこと、久米正雄の借家の前の下宿に広津がいて、それぞれ何人かが集まって将棋をしていたが、果し合いをすることになったところ広津の家にひょっこり現れたのが野口雨情で、冒頭の一節のあと2段に勝のはむつかしくはない、というので、久米側の菊池寛と勝負させたところ、逃げまくる将棋で菊地に勝つ。翌年には「七つの子」で全国に名が知られるが、後で聞けば、将棋で食いつないでいた時もあったという

 

第3章      喧嘩もほどほどに

Ø  「芥川がえらく、しょげかえっていた」  佐藤春夫の『妖婆』批評に芥川龍之介が

「しょげる(悄気る)」は、ここでは「意気消沈した」との意で使われているが、江戸時代には、「どんちゃん騒ぎをする」意味もあった。「茂る」が語源で、訛ったらし句、冒頭の一言もどちらともとれる

佐藤春夫は多才な人。中国文学の翻訳や俳句にも通じ、門弟3000人、著名作家も多い

21年小田原事件で、谷崎が妻を譲ると約束しながら反故にしたため谷崎と絶交。その時谷崎の妻を思って作った歌が『秋刀魚の歌』 ⇒ 9年後譲受に成功(「細君譲渡事件」)

谷崎の回想に、「佐藤と芥川の競争意識は激しく、佐藤から芥川の作品の悪口を何度か聞いた覚えがあり、特に『妖婆』の批評は手厳しかった。芥川は佐藤を尊敬し、怖れてもいた。佐藤の『妖婆』評が『新潮』に載った後しょげ返っていたのを記憶している」とある

 

Ø  「青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」  中原中也から太宰治

「蛞蝓(なめくじ)みたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物ではない」  太宰から中也

中也(190737)の言葉の中には、2歳下の太宰(190948)を「まだ青臭い」といった意味が含まれる

中也のことを一番わかっていたのが3歳年上で、中也が初めて同棲した女優・長谷川泰子で、泰子の前では子どものように甘えん坊だったという。詩以外には何も残していない

中也と太宰が初めて会ったのは33年、草野心平と檀一雄を介して酒を飲んだが、中原の凄絶な搦みに音を上げた太宰に4者がもつれあった取っ組み合いとなったという

 

Ø  「希望を抱いてといったようなものではない」「尻尾を巻いて逃げる」  久米正雄のスピーチ

26年震災不況の中で、改造社・山本実彦は11円の『現代日本文学全集』全38巻の発売を発表(「円本」)。単行本1250銭の時代に、単行本の3冊分を1冊にまとめた廉価版で、大博打だったが大当たりして23万部の予約、半年後には50万部を突破。すぐに各社が真似る。当時の1円は現在の3000

28年荷風は『断腸亭日乗』に5万円の印税をもらい、無名の作家まで大金を掴む

タナボタの金が出来て作家がまずやるのが洋行で、社会主義思想に影響を受けた作家たちはモスクワへ行ったが、久米の洋行は、財界名士を招いての歓送会での冒頭の挨拶の通りで、夫婦の倦怠を解消するためのものだったのかもしれない

久米は漱石の門人となり、芥川らと『新思潮』を創刊するなど新進気鋭の作家として登場したが、女癖が悪く、宮本顕治と結婚前の中条百合子と恋愛関係にあり、漱石の長女に結婚を申し入れて漱石夫人の怒りを買ったり、長女が久米の一高の友人松岡と結婚すると松岡を恨むようなことを小説に書くなどして人気を得ていくが、だんだん大衆小説家と馬鹿にされる

 

Ø  「モデル問題から憤激し 菊池寛氏の暴行」  昭和5818日付『東京朝日新聞』

30年、広津が『婦人公論』に『女給』の連載を始める。菊池寛と実在の女給をモデルにした小説

余りの露骨な表現に菊池寛が怒って反論の寄稿をすると、中央公論は勝手に改題して掲載、逆上した菊池寛が怒鳴り込んで『婦人公論』の編集者に暴行を働いたため、暴行罪と名誉棄損の訴訟合戦に発展。原因を作った広津が菊池に詫びを入れると、友人の菊池は中央公論に対して怒っているのだと言う。中央公論は今後の執筆者と編集者の力関係の正常化のための闘いだと主張したため、広津が連載をやめるというと、連載の中止だけは困ると折れる。この一連の騒動が話題になって、『婦人公論』は追加注文が殺到、連載は大成功のうちに続く

 

Ø  「まるで中学生のようではございませんか」  室生犀星に妻が

18年、室生犀星が浅川とみ子と結婚。『つくしこいし(蛁蟟:つくつくぼうしの方言)の歌』は2人の結婚前に交わした恋文のうち、とみ子が書いたものを集めて短篇の書簡小説にしたもの(ふるさとは遠きにありて思ふもの・・・・)。39年発表の前年とみ子は脳溢血で倒れる

犀星は加賀藩足軽が女中に産ませた子で里親に育てられる。とみ子は金沢の文学少女。東京で白秋に認められた犀星との間に文通から交際が始まり、金沢に会いに行くが、大勢のとみ子の知り合いの中で遠くから見つめるだけで寄ってこないのを見てとみ子が言った言葉が冒頭の一言、「もっと勇気がいると思う」となじる

 

Ø  「そんなキタナイ小説は嫌いだ」  室生犀星が芥川賞銓衡委員会で

「君の小説だってキタナイじゃないか」  宇野浩二が室生犀星に

「きたない」を漢字で書くと、何か古びた権威のあるものを人に感じさせ、ひらがなだとすんなり受け入れられる言葉として意識されるが、カタカナだと、何か生き生きとした「キタナサ」とでもいうべきキラキラ光るものがそこにはある。「キタナイじゃないか」にしても、完全に「汚い」といって蔑むのではなく生々しいという意味での「キタナサ」を感じる

火野葦平の『糞尿譚』が、質朴な糞尿汲み取りの青年がもう誰にも負けないといって糞尿を撒き散らすところで終わる短篇で、芥川賞を受賞したのは38年。その時の銓衡委員会で、該当作なしで終わろうとした際、宇野浩二が『糞尿譚』という変な話があるといい、久米が面白いかもしれないが受賞作にはと難色を示す。佐藤春夫は「岩野泡鳴賞くらい」といい、菊池寛が読んでいないというと久米が内容を説明したところで冒頭のやり取りに。結局菊池寛が読んで受賞と決定

受賞の後日談。応召中の火野に賞金と時計を持って行ったのが小林秀雄。上官にどんな賞かと聞かれて軍人の金鵄勲章のようなものと答えたところ、盛大な授賞式を行うことになり、部隊全体を整列させた中で行う。賞金は国の母へ送るが、時計は修理しながら死ぬまで愛用

 

Ø  「木村の馬鹿野郎!」 幸田露伴が病床で

精神科医の春原千秋が『将棋を愛した文豪たち』の中で紹介した言葉

「野郎」という罵る言葉は江戸時代に生まれたが、元々男色を売る「陰間(かげま)」で、少年の歌舞伎俳優が宴席に侍って男色を売っていたもので、「童(わらべ)」が訛ったもの

木村は40歳近くも離れた将棋の師匠で14世名人の木村義雄。「馬鹿野郎」に「若い男」と思う気持ちがなかったとは言えない

露伴は、囲碁、釣り、料理、写真、舟、凧揚げなどあらゆる面に興味を広げて考証する博物学者

将棋を始めたのは一中入学の頃。家の都合で中退、独学で余市で電信技士となり、東京に戻って文学の道を歩み始める。再び将棋に沈潜したのは結婚後で、12世名人・小野五平に通うまでになったが、本職を差し置いて熱中するところを妻に諫められ断念。10年妻の急逝後、再婚した相手とうまくいかず、将棋を再開、小野から初段をもらうと4段まで進み木村の指導を受ける。37年名人になった木村が10年後タイトルを失った際、病床にあった死の直前の露伴の言った言葉が冒頭。露伴は10回忌に将棋連盟から6段を追贈されている

 

第4章      その「皮肉」も効いていますね

Ø  「この人一人は、日本の男が、巨大な乳房と巨大な尻をもった白人の女に敗れた、という喜ばしい官能的構図を以て」  三島由紀夫が谷崎潤一郎に

「官能」という言葉ほど、谷崎文学に相応しい言葉はない。「肉体的、性的な享楽を充足する働き」という意味で使われるようになったのは明治も末期になってから。元々は「動物の感覚器官の働き」をいうもので医学の専門用語

荷風や谷崎の世界には、他の作家にない、日本的な余りに日本的な不思議な享楽的世界が襖の奥から聞こえてくるような気がする

終戦の2日前、岡山に疎開していた荷風が、福井県に疎開していた谷崎を訪ね、より安全な福井に疎開したいと相談したが、その際谷崎が大盤振る舞いの歓待をしたことが荷風の日記に残されている。谷崎は、戦時中でもみんなが豆カスを食べているときの尾頭付きのタイを食膳に載せ、生活全般を一流趣味で固めるような食事をし、人にもふるまっていた

冒頭の一節も、三島が『谷崎文学の世界』で描写したもので、「敗戦時17,8歳以上の人間にとって敗戦が1つの断絶と感じられるのに、谷崎だけは例外で、生活全般を一流趣味で固め、日本古典文学の官能的な伝統を一身に集めていた。日本の男が白人の男に敗れたと認識してガッカリしている時に」といって冒頭に続き、そのあと「敗戦を認識していたのではないかと思われる節がある」という

文章の美しさ、言葉の裏側にある陰影の深さ、それは谷崎にしか書けない日本の文化の根源への理解なくしては産み出されないものがある

 

Ø  「まるで子供同志が話しているようであった」  菊池寛が横光利一に

菊池寛と横光が岡本かの子(18891939)の家に遊びに行ったとき、かの子と横光との問答を聞いた菊池の感想が冒頭の一節で、これで小説が書けるのかと疑ったという

「こども」を漢字で書くのに、「供」に「お供」「従者」の意があるので「子ども」と書くのだという

「供」は本来、「恭しく供物を人に勧める」の意で、そこから「お供えをする」「恭しい」の意でも使われるようになった。「口供(こうきょう)」という熟語は、「自分から事情をあれこれ説明する」の意味で、裁判で罪人が事細かく自分のやったことを白状するような場合に使われるが、本来は人がぺちゃくちゃ喋ることを表したもの

「文壇の鬼才」と呼ばれた横光(18981947)、菊池寛の『文藝春秋』創刊号(23年)に、『時代は放蕩する(階級文学者諸卿へ)』というプロレタリア文学批判を書き、川端、志賀と並んで「小説の神様」ともいわれ文学青年の尊敬を集めたが、敗戦直後の食糧難で胃潰瘍から腹膜炎を併発、49歳で夭折

菊池寛の横光評は、30年近い校友だが、いささかでも不快な気持ちを持ったことは一度もないといい、下手な麻雀の外は酒も飲まず、花柳界にも興味なく、女性に対しても謹直で、結婚した3人の女性以外恋人などは持たなかった

 

Ø  「これは相当の面魂(つらだましい)だと自分は思った」  広津和郎が直木三十五に

「面魂」は死語だろう。「気迫の籠った顔つき、強く激しい精神や性格が顔に表れていること」

直木(18911934)は変わった男。中学時代、試験の回答の字が小さくて読めないといわれ、翌日一抱えのわら半紙を持って行って一枚に一字書いて提出したり、六高の入試に失敗して親の反対を仕切って早稲田に入学、卒業時学費未納で除籍となったが卒業式に出席、ペンネームは本名の「植木」の「植」を2字に分けたもので、31歳から毎年年齢をペンネームに使用、菊池寛から止めろといわれて「三十五」にしたという

23年創刊の『文藝春秋』に毎号、辛辣なゴシップを書いて文壇の人たちから嫌がられた

直木の死後『文藝春秋』に載った広津の追悼文の一節が冒頭、「お辞儀もしない、無口な、無愛想な男で、要件だけの話しかせず、一癖ある男」ときて冒頭に続く

債権者が押し寄せる中、平然と寝続け、「出来たら払う、今はない」としか言わない

お由羅騒動を題材にした『南国太平記』がある程度で他に知られるものは殆ど無く、菊池寛も変わった男といわれるが、直木賞が今に残るのは菊池のお陰

 

Ø  「日本人の恥さらし」  本田顕彰が田中英光の訃報に

田中(191349)は32年ロス五輪の漕艇選手、横浜ゴムの普通のサラリーマンだったが、同人誌に『空吹く風』を投稿したのが太宰の目に留まり、次作は文学賞を受賞、太宰の序文をつけて出版したが、太宰の自殺のショックで不眠症となり睡眠薬中毒になった挙句、太宰の師の翌年太宰の墓前で自殺

本田が、訃報の数日後『讀賣』に寄稿、「(同日に起こった)湯川秀樹のノーベル賞受賞は日本人にとって一大朗報だが、田中の死は」ときて冒頭に続く

同日『讀賣』は『流行作家とは?』と題して一文を載せる。「流行作家という現象は、半ば編集者に罪があり半ば作家側に責があるが、一種特別な生活を強いられた生活人で、作家でも文学者でもない。作品の質より数を大切にする。精神よりも生活力がモノを言い、生活力を失ってヘタバったら窮死するしかない。生活の問題は生活の上で解決せよ。文学は自ずから別物」

 

Ø  「ほしいままな『性』の遊戯を出来るだけ淫猥に露骨に」  宇野浩二が石原慎太郎『太陽の季節』に

55年下半期の『太陽の季節』芥川賞受賞の際の宇野浩二の選評。「新奇な感じがしたが、一種の下らぬ通俗小説。時代に迎合して」のあとに冒頭に続き、最後は「読者を意識してわざとあけすけに、新奇に、淫靡なことを書き立てている」とする

「露骨」とは、「戦死して戦場に骨をさらすこと」と、「むき出しである/ありのままである」の両意があり、「露」に晒され、雨に晒されるものとして「晒す」という意味で使われる。向こう側が透けて見えるところから「表す」「現れる」の意を持つようになり、「露見」「暴露」などがある

芥川賞受賞を巡って激しい議論がなされ、佐藤春夫も、「内容の反倫理的なところは排撃しないが、風俗小説一般が文芸として最も低級であり、文学者というより興業者の域を出ない。作者の美的節度の欠如に嫌悪を感じる。芸術にあっては巧拙よりも作品の品格の高下を重大視する」として反対したが、石川達三と井上靖は「新人らしく新鮮で達者」で受賞に相応しいと主張、文学史上における世代交代を告げる一幕となった

 

Ø  「寂しい人だった」  今日出海が久保田万太郎に

「さびしい」には、「寂しい」と「淋しい」があり、「寂」は「静かなこと」「ひっそりとしていること」で、仏教用語に「寂静(じゃくじょう)」とあり、俗世間から離れてひっそりと静かなところで修行をすることを意味したところから「さびしい」の意で使われるようになった

「淋しい」は中国古典では「さびしい」意味で使われることはなく、「淋雨」で「しとしと降る雨」、「淋淋」で「水が絶え間なく滴る様」を表す漢字。「林」が「同じものがたくさん並んでいること」を表したので、さんずいをつけて「水がいっぱい流れている」ことを意味したものだが、そういう風景が恐らく日本人にとって「さびしく」感じられたのだろう

浅草の袋物やの家に生まれた久保田万太郎(18891963)は漱石の弟子、俳句は子規の孫弟子で、俳号は始め暮雨、のちに傘雨。慶應の文科予科に入り、その年荷風・鷗外・上田敏によって創刊された『三田文学』に『朝顔』や『遊戯』を発表し、新進作家としてデビュー

東京人にしかわからない「間」や「言葉」で独特の雰囲気を描く。芥川と仲が良かった

35年、妻が睡眠薬の量を間違って死去、息子が結婚するまで独身を通し、46年再婚するが、57年息子は事故死。62年には愛人が死去。63年梅原の家に呼ばれて赤貝の寿司で誤嚥を起こし死去。『朝日』に掲載された追悼文で冒頭の一節、「本人が前年の愛人の通夜で「男70過ぎて生き残っちゃみじめだ」と繰り返していたが、常に人が傍らにいた。そのくせ家庭にいても独り者のように自分で自分の用を足していた。寂しい人だった」

 

 

おわりに

文豪と呼ばれる人たちが現れたのは明治になってから。江戸時代までの文語文から写実的な言文一致を目指し、勧善懲悪が基調だった物語からリアリズムの文学を創り出す。大きな時代の変化の波の中から文豪たちは現れた

泉鏡花の文章の間から漂うのは、女性の着物の内側に秘められた成熟した女性の濃厚な匂いといわれるが、彼が独特の文体を手に入れたのは、江戸趣味などを敷き写したものではなく、ヨーロッパ文学と格闘して幻想的な色めく文体を生み出した

鷗外、漱石等は、ドイツの美学や英文学などの学問的な研究を通じて、新しい日本文学の地平線を切り拓いた

紅葉は鏡花に「お前も小説に見込まれたな!」と言ったが、文豪と呼ばれる人々は皆、「小説に見込まれ」て、前人未到の苦闘の道を進んでいった

鷗外も、荷風も、谷崎、志賀も、法に触れて発禁処分されているが、せっかくの労作も日の目を見ない

言葉を武器に闘う作家たちの語彙には、血と汗に満ちた力が宿っている

悪態について書きながら感じるのは、「綱渡りのような日々を送る作家が、悪態をつかないでいられないではないか!」ということ

一葉は、一心不乱に一葉を助けた緑雨に対し、こう日記に書いている、「(緑雨は)かねても聞けるあやしき男なり 今文豪の名を博して明治の文壇に有数の人なるべけれど 其しわざ、其手だてあやしき事の多くもある哉」。緑雨は怪しい男に違いなく、自分の居場所を他人に教えようとはしなかったし、ペンネームも20ほど使って、誰が書いたのかを分からせないようにした。しかし緑雨の語彙力、筆力は、一葉をして「この男かたきに取てもいとおもしろし みかたにつきなば猶さらにをかしかるべく」と言わせるほどで、なんと一葉は自らの死に当たってこの日記を緑雨に託している

人は独りでは生きられない。悪態をつきながらも文学者はやはり文学者に頼って生きていかなければならない道がある。そうやって切り拓いた文学の道は、険しく、深く、重く、面白い

 

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