悪党たちの大英帝国  君塚直隆  2020.12.21.

 

2020.12.21.  悪党たちの大英帝国

 

著者 君塚直隆 1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(2018年サントリー学芸賞受賞)、他多数

 

発行日           2020.8.25. 発行

発行所           新潮社 (新潮選書)

 

 

はじめに――「悪党」たちが時代を動かす

19世紀の文筆家レズリー・スティーヴン(18321904) 「偉大さとはその者の業績の善悪で決まるものである。たとえそれが欠陥だらけの働きだったとしても、他の何者にも優る偉業というものがこの世にはある」

スティーヴンは、世界に比類のない最大の人名辞典『国民伝記辞典DNB』の初代編集者

DNBは、世界の評伝(伝記)文化の中で、イギリスが特に抜きんでた存在であることを世に知らしめたが、あくまでも「上流階級主体のキリスト教白人男性社会を彩ってきた人々」の評伝の寄せ集めで、その偏見を修正したのが『オックスフォード国民伝記辞典』

イギリスでは、歴史を動かすのはあくまでも人間とその決断であるという史観が比較的強く残っている。その人間に対する飽くなき探求心が生み出した到達点が評伝(伝記)

本書は、このイギリスの評伝文化に敬意を表しながら、世界に冠たる大英帝国を築いてきた7人の人物の姿に迫る ⇒ キーワードは「悪党」で、公式の支配者やそれに従う世間の外側からアウトサイダーとして登場し、いつかその支配を崩壊に導いていった人たちをとりあげる

1. 30年に及んだ内乱「バラ戦争」(145585)を制し、近代イギリスの礎を築いたテューダー王朝の国王ヘンリ8(14911547)。テューダー家はランカスター王家の血筋を引くが、かなり遠縁で、元はウェールズの田舎豪族。王朝2代目のヘンリは、こうしたハンディを克服して、グレート・ブリテン島内からヨーロッパ国際政治の中で存在を示すが、その政治的野望のために妻を2人処刑、2人離縁、さらに多くの家臣の血を流していく

2. ヘンリ8世がローマ教皇庁から袂を分かったイングランド国教会が主流となっていた17世紀に、「異端」扱いを受けた清教徒として登場、国王と真っ向衝突して勝利し、初めて君主制を倒壊させたオリヴァー・クロムウェル(15991658)。史上初めて公の場で国王の首を刎ね、王政を終焉させ議会を支配下に置き、共和政を守るためにはあらゆる犠牲を厭わず、アイルランド遠征は「虐殺」とまで言われた

3. クロムウェルの死とともに王政復古(1660)となるが、「暴君」ジェームズ2世の登場で革命となり、オランダから来た国王ウィリアム3(16501702)が立憲君主制の礎を築いたものの、イングランド人からは「外国人王」としてしか見られず、彼の「名誉革命」でさえ、「オランダの利益が最優先された侵略行為」と後世言われる

18世紀になると、ドイツ北部のハノーファー侯爵が、1707年イングランドとスコットランドが合邦してできたイギリスの国王に即位、「外国人王」の続いたことが、「議院内閣制(責任内閣制)」定着への土台となる

4. 王朝3代目のジョージ3(17381820)は、「愛国王」を自負したが、時計の針を逆回転させる空回りに終始、「アメリカの独立」という近代イギリス最大の悲劇へとつながる

5. ハノーヴァー王朝時代、イギリス議会政治はトーリとホイッグという2党派が登場、19世紀後半以降の保守党と自由党に2大政党制へと引き継がれるが、その端境期に登場したのがパーマストン子爵(17841865)。アイルランドの貴族の生まれで、トーリからホイッグに移り、最晩年は自由党最初の党首として政治外交をリード。反面2度のアヘン戦争やインド大反乱の鎮圧のような「砲艦外交」を展開。自らの正当化のためにメディアを利用する姿は、現代のポピュリズムのはしりでもある

6. 自由党の庶民院(下院)で活躍したのがデイヴィッド・ロイド=ジョージ(18631945)。ジェントルマン(地主貴族)階級の時代が続いた当時では、中産階級の出で、ブリテン島の「辺境」ウェールズ出身という異端児。第1次大戦でクロムウェル以来の権力を手中にし、王権と議会を蔑ろにするような戦争指導を展開。ジェントルマン階級の時代にとどめを刺した

7. その弟分がウィンストン・チャーチル(18741965)。ジェントルマン階級の中核から現れ、若き日に保守党から自由党に寝返って、「人民予算」で貴族階級の既得権を奪い、保守党に出戻った後は要職に就けず政界から消え去る可能性があったが、未曽有の危機に直面してナチスと闘いながらも、自身は生粋の帝国主義者で、アジア・アフリカの人々に対する差別意識は最後まで抜けきらなかった

 

第1章     ヘンリ8世――「暴君」の真実

テューダー王朝(14851603)2代目のヘンリ8(在位150947)は、イギリス史上最も毀誉褒貶相半ばする君主

6人の妻を娶る好色漢

残虐性も突出。公の場で多くの家族、廷臣を処刑。高潔なトマス・モアも断罪

浪費癖もすさまじく、海外遠征のみならず、平時でも使いまくった

一方で、20世紀以降最も頻繁に映像に登場するほど、現代人の心を惹きつけている

12世紀半ば、プランタジネット王朝(1154年創設)の開祖ヘンリ2(在位115489)が「アンジュー帝国」として、フランス西部をも領有する偉大なイングランド王だったが、その後の英仏100年戦争(13371453)、ランカスター公爵家とヨーク公爵家の内乱だったバラ戦争(145585)により西欧の弱小国へと転落

バラ戦争の最中にランカスター家の血を引いて生まれたヘンリ(8世の父)が、1485年ボズワースの戦いでヨーク家のリチャード3世を破って打ち立てたのがテューダー王朝だったが、長期間フランスに亡命していたこともあって正統性は盤石とはいえず、一方で、国王が海外遠征中に行政・立法を司り、遠征費まで捻出したことから強大な力を持つようになった議会の支持を取り付け、更にヨーク家の継承者エリザベスと結婚し、両家の和解を実現。様々な手法で王権の強化を図るヘンリ7世は「イングランド史上最も有能な実務家」と言われる

16世紀初頭のイングランドは、人口僅か200万程度の、ヨーロッパでは弱小国

ハプスブルクに対抗して、新興の大国スペインを頼り、長男アーサーとスペイン女王イサベル1(在位14741504)の娘カタリーナを結婚させたが、5カ月後アーサーは急逝

代わりに次男のヘンリをカタリーナと結婚させるため、ローマ教皇を買収して兄嫁との結婚を認めさせる

1509年、ヘンリ7世の死去で8世が即位。大陸進出を試み、ネーデルラント(現在のベルギー)とスコットランド遠征に成功

外交では、聖職者出身のトマス・ウルジー(14751530)を使って、ルターの宗教改革を封じ込めるためにキリスト教徒の諸侯の団結を訴え、1518年ロンドン条約締結するもすぐに破綻

後継の皇子誕生を狙って、カタリーナのかわりに和解案・ブーリンとの結婚を認めさせようと教皇に談判したが離婚は認められず、1534年ヘンリ8世は教皇庁と袂を分かち、英国国教会を形成。正式にアン・ブーリンと結婚、生まれてきたのが後のエリザベス1

同時に、カトリックの修道院を順次解散させ、全教会財産の約40%を没収して着服

ヘンリ8世はローマ教皇から破門され、フランスとスペインがヘンリ追放のため十字軍で提携したのに対抗して、海軍力強化を図る

ウェールズ、アイルランド、スコットランドを併合し、議会の支援を受けてフランスへも遠征するが、1547年暴飲暴食がたたって慢性的潰瘍に陥り病没、享年55

息子エドワードには莫大な遺産を残すとともに、教会を国家の下に治め、主権国家の先駆けとなった。」外交でヨーロッパに過度に強力な存在が登場しないよう周辺の国々を牽制する「勢力均衡」策をとり、後のイギリス外交の源流と伝統を築く

王権と議会の協働を根付かせる契機となったのが「宗教改革議会」で、17世紀以降に確立される議会主義の時代の布石となる ⇒ ヘンリ8世の没後は、長男のエドワード6(在位154753)、次いでカタリーナの娘メアリ1(在位155358)へと引き継がれる

メアリ1世は、国教会を廃し、カトリックに戻したのも、議会と協調した結果

その後を継いだのがエリザベス1(在位15581603)で、プロテスタントの迫害で「血まみれのメアリ」と恐れられ内乱寸前になったイングランドの軌道修正に努め、議会に諮って国教会を復活させる

 

第2章     クロムウェル――清教徒の「独裁者」

ステュアート王朝(16031714)時代の内乱(164249)は、前代未聞の動乱で、この結果成立した共和政(164960)とこれを統治した「護国卿Lord Protector」クロムウェルの存在は、イギリス史の中でも極めて異質な扱いを受けることが多い。王政復古後におけるクロムウェルに対する歴史的な評価もまた厳しいもので、「あらゆる悪徳と暴力」を代表し、「哀れみや良心は全く持たない悪魔の子」と評されたり、「狡猾な役人でイギリスの偽善的専制支配者」だったとまでこき下ろされた。17世紀に「王権神授説」が登場すると、キリスト教の神と王権が有機的に結び付けられ、「王殺し」は政治的にも宗教的にも忌避されるようになり、クロムウェルはその最大のタブーを犯した

クロムウェルが再評価されたのは、19世紀半ばの歴史家トマス・カーライルによって、暴君に対して議会の権利を守り通した「英雄」との評価が定まる

イングランドにおける土地所有のあり方を大きく変えたのがヘンリ8世による「修道院解散」(153639)で、没収された教会財産はその後売却されたり下賜されたりして土地所有が広がる ⇒ 「ジェントリ」と呼ばれる新興階層が誕生、爵位貴族たちとともに「ジェントルマン(地主貴族)階級」と称されるようになる。爵位貴族が120人、ジェントリが2万人

クロムウェルも、新興ジェントリの家系に属していた。高祖父の結婚した相手がヘンリ8世の寵臣トマス・クロムウェルの姉だったこともあって、着々と資産を増やす

没落しつつあった家に生まれたクロムウェルは、国教会をプロテスタントに近づけようとするカルヴァン派のピューリタンの教えに傾倒、1640年の選挙でケンブリッジ市選出の庶民院議員に当選

1603年テューダー朝最後のエリザベス1世没後、遠縁のスコットランド王が跡を継ぎ、ジェームズ1(在位160325)となってステュアート王朝が始まる ⇒ 「王権神授説」を理論づけた王として知られる

ジェームズ1世の統治下では議会との協働が進められたが、没後を継いだチャールズ1世は、議会を無視して自らの政策を強行。スコットランドに国教会を強制したことから反乱に発展、議会に助けを求めるが、議会も国王派と反国王派に分裂して内乱となる

クロムウェルは、議会側について迅速に戦時体制を整え、「鉄騎隊」を率いて国王側を圧倒、自ら「神の摂理」によって動かされているとして、国王を裁判にかけて死刑宣告し王政を廃止するとともに貴族院も廃止して、共和政を確立

クロムウェルの次の標的は、内乱で亡き王を支えたアイルランドとスコットランドの征服

血みどろの闘争の結果、53年にはグレート・ブリテン&アイルランドの真の支配者となり、完全なる合邦が成し遂げられ、分裂と衝突を繰り返す優柔不断な議会を解散させ、「護国卿」の役職に就く。「護国卿」がイングランドに誕生したのは1422年に生後9か月の王が即位したとき以来

次いで、ヨーロッパ諸国から自らを守るために積極的な「プロテスタント外交」を基本方針に、大陸の巨大カトリック勢力であるハプスブルクとフランスが手を結ぶことを回避、プロテスタントの北欧諸国と提携関係を結ぶ。キリスト教徒の権益と国民の権益を両立させるため、スペインと対立するカトリックのポルトガルとも結びつき、宗教より国益を優先させる「国家理性」の考え方をとった

1658年急逝、国葬とされ、ウェストミンスター修道院に埋葬。3男リチャードが後継の護国卿となるが2年で崩壊。王政復古により有罪判決を受け、遺体は掘り起こされ公衆の面前に吊るされ、首が刎ねられた

後の名誉回復により、ロイド=ジョージは、「クロムウェルは偉大なる非国教徒の闘士」と絶賛、チャーチルは第1次大戦中に竣工した戦艦を「クロムウェル」と命名

 

第3章     ウィリアム3世――不人気な「外国人王」

イングランド国王にしてホラント州(オランダ)総督も兼ねたウィリアム3(在位16891702)が常に悩まされ続けたのが、イングランド人の島国根性insularity

「名誉革命」の立役者だったが、「軍事的暴君」でもあり、死去とともに急速に忘れ去られた

ヴァーグナーの《さまよえるオランダ人》の主人公

ネーデルラント(オランダの正式名称)は、15世紀まではブルゴーニュ公爵領だったが、ハプスブルクによる継承の関係で16世紀後半にはスペイン領となるが、北部7州ではカルヴァン派プロテスタントの信仰が広がり、80年戦争(15681684)という独立戦争が勃発

7州を率いたのがホラント州のウィレム(ウィリアム)2世で、1641年イングランドとの政略結婚で、内乱前夜にチャールズ1世の娘メアリと結婚。47年ホラント州総督に就任。48年には30年戦争後のウェストファリア条約でネーデルラントは独立を認められ、ウィレム2世は新生「オランダ」の最大実力者となる。49年義父チャールズ1世処刑に伴い義兄(後のチャールズ2)擁立に動くが、50年天然痘で急逝

その8日後に生まれたのがウィリアム3世。68年にホラント州総督に就任。イングランド、スウェーデンと同盟を締結し、ルイ14世のフランスの侵攻に対抗

77年には、ウィレム3世がイングランド国王チャールズ2世の姪メアリと従兄妹同士の政略結婚

イングランドでは、チャールズ2世に世継が生まれず、カトリック復活を唱える王弟ジェームズが王位継承第1位となったため議会が反発、議会の開会を請願してジェームズを排除しようとする請願派(ホイッグ)と、これに嫌悪して国王を支持する嫌悪派(トーリ)に分裂して対立。ホイッグの優勢な議会が排除法案を可決するとチャールズは議会を解散

85年、チャールズ崩御でジェームズ2世が即位すると、ウィレムの王妃メアリが継承第1位となるが、ジェームズの若い王妃に男児誕生、男子優先だったためにホイッグによる追い落とし作戦が始まり、全国で反国王の狼煙を上げたため、ジェームズ一家はフランスに亡命、ウィレムは一戦も交えることなくロンドンに入城 ⇒ 名誉(無血)革命

89年、ウィレム3世とメアリ2(在位168994)が共同統治で即位 ⇒ 「権利章典」制定により、君主制が存続するが、王権の大半は制限され、特に王室の収入は3%に減少、王領地からの収入はすべて議会に預託されたため、議会主権の立憲君主制が本格的に確立

オランダとイングランドの双方を統括するウィリアムにとって、ヨーロッパの危機とはルイ14世の飽くなき野望で、「勢力均衡」による「集団安全保障」体制の構築を目論む

アイルランドやスコットランドからは「イングランド王」としか見做されず、イングランドでは「オランダ人(外国人)の王」として煙たがられ、オランダでは「イングランドかぶれ」と蔑まれ、どこへ行ってもよそ者扱いで嫌われ、死後は急速に忘れ去られていく

世継が生まれないまま、メアリは32で天然痘で急逝、義妹の案が次ぐが、その子がまた11歳で早逝、ステュアート王家の直系は途絶えるため、1701年王位継承法を制定し、カトリック教徒は王位に就けなくなり、カトリック教徒と結婚する王族は王位継承権を放棄させられ、継承者がイングランド生まれでない場合は、議会の承認なしにイングランド王国領に属さない領土の防衛のための戦争にこの国を巻き込むことは許されないとした

1702年ウィリアム3世は落馬した後肺炎で急逝、享年51。イギリスとスコットランド王はアン女王、オランダ総督は従弟のフリーゾが継ぐ

どこでも嫌われたウィリアム3世だったが、彼のお陰で大陸はルイ14世の野望に対する大同盟を結成し、救世主となったし、イングランドでも大切な審議では議会の結論を尊重し議会主権の確固たる立憲君主制を築いた立役者

さらに偉大な功績は、イングランドに「戦争遂行装置」を生み出した ⇒ ルイ14世からナポレオンまでの「長い18世紀(16881815)」に大陸全体を巻き込む戦争が6回あるが、終始一貫して対立していたのはイギリスとフランスで、最終的に勝利したのはイギリスで、大量にヒト・モノ・カネを素早く集める術に長けていた。特に軍資金を提供したのは議会で、それを構成したのが「ジェントルマン(地主貴族階級)」であり、新たに登場した国債を発行しイングランド銀行が保証する「公的信用貸し」制度を導入。何れもウィリアム3世の時代に構築されたシステムで、ニュートンは造幣局総裁として協力

 

第4章     ジョージ3アメリカを失った「愛国王」

アメリカ独立革命を理論的に導いた思想家トマス・ペイン(17371809)の『コモン・センス』では、歴代英国王を「王冠をかぶった悪党」としてこき下ろすが、その筆頭が革命当時の君主ジョージ3(在位17601820)であり、後世の歴史家からも議会政治に過度に介入し、議会無視の専制政治を試みた「悪王」とされている

172年の王位継承法により、アン女王没後のイングランド王位はドイツ北部のハノーファー選帝侯家に嫁いだゾフィーの一族が継承することとなり、ゾフィーの長男ゲオルクがジョージ1(在位171427)として即位、ハノーヴァー王朝が成立

イギリス統治に関心がなかったジョージ1世に代わって、議会が実質的な統治権限を持ち、議院内閣制/責任内閣制が確立されていく

ジョージ2(在位172760)になっても議会主導は変わらず、44歳で早逝した皇太子に代わって王位継承者となった長男ジョージ3世には側近が「愛国王」となる教育を施す

プロイセンとマリア・テレジアのハプスブルクとの間のオーストリア王位継承戦争(174048)にオーストリア側について参戦。続く7年戦争(175660)ではプロセン側について参戦、その最中の60年ジョージ2世が逝去し、ジョージ3世が即位すると、国王が議会への支配を強め決定的に対立、頻繁な政権交代が続いて政治は動揺を極める

7年戦争終結とともに、北米大陸ではフレンチ&インディアン戦争勃発、勝利したイギリスは東1/3とカナダの東半分を獲得、その維持費用を植民地に負担させようとして重税を課したため植民地の強い反発を誘引し、独立戦争に突入。大陸で孤立していたイギリスは仏西蘭からの宣戦布告もあって敗退

1788年、突然ジョージ3世の言動が狂い始め、200年後に「ポルフィリン症」と判明する突発的に発症する精神障碍だったが、すぐに正常に服した矢先、フランス革命勃発で大陸は大混乱に陥り、イギリスのピット首相の提唱で対仏大同盟が結成され、イギリスの軍資金がそれを支えた

1811年、ポリフィリン症再発により、息子のジョージ4世が摂政皇太子となり、列強との同盟を強化してナポレオンに対峙、1814年の戦勝に導く

ジョージ3世は「愛国王」と言ってもアイルランドやスコットランドに行ったことはなく、イングランドでもロンドンやウィンザー周辺しか訪れていないが、国民からは「人民の父」として親しまれ、20年死去の時は国中が悲しみに包まれたという

ジョージ4(在位182030)は「放蕩王」、弟のウィリアム4(在位183037)は愛人との間に10人もの子供がいて、ジョージ3世死後は国民の君主制に対する信頼が崩壊寸前にまで追い込まれた。その後3世の孫のヴィクトリア(在位18371901)で救われた

国民生活に継続性と安定性をもたらし、国民から愛され、国民統合にとっての象徴的な存在として、「立憲君主の理想像」となった

 

第5章     パーマストン子爵――「砲艦外交」のポピュリスト

右はメッテルニヒから左はマルクスまで、19世紀のヨーロッパを代表する知性たちから非難を浴び、自国においても議会内の左右両派はもとより、ヴィクトリア女王からも攻撃を受けた稀代の外政家

アイルランドの爵位を持つ中小貴族の3代目、両親の早逝により20歳で爵位はじめ全財産を引き継ぐ。イングランドの爵位者は自動的に貴族院議員となったが、パーマストンは庶民院に立候補、07年議会入りを果たし、09年には陸軍事務長官として閣僚に

1830年、フランスの7月革命で王政復古していたブルボン王朝が倒され、ベルギーでも独立戦争が勃発、対応を協議する英仏露墺普による5大国会議で議長を務めたのが新任のパーマストン外相、ベルギーの独立を平和裏に実現させ、ヨーロッパに平和をもたらす

それまでの墺宰相メッテルニヒの既存勢力を温存する会議外交に対抗、ヨーロッパ国際政治の調整役として君臨

19世紀半ばから「世論」を形成する手段として影響力を持つようになった新聞を通じて、自らの政策を喧伝する天才的な手法を見せたのもパーマストン。種々の情報提供を見返りに外交政策を全面的に支援させる「持ちつ持たれつの関係」を醸成

ウィリアム4(在位183037)に代わってヴィクトリアが即位すると、自分より35歳年下の君主を蔑ろにし始める。パーマストンは、世界最強のイギリス海軍力を誇示した「砲艦外交」によりアヘン戦争に続いてギリシャにも圧力をかけてイオニア諸島への権益を拡大したことが議会での「外相解任動議」に発展。それは潜り抜けたが、51年にナポレオンのクーデターが成功すると勝手に祝意を伝え、女王が激怒して辞任に追い込まれる

イギリス国内政党政治は混乱期にあって政権交代が頻発、そのうち「ウィーン体制」下で初の大国同士の争いとなったクリミア戦争(185356)の最中、時の政権が投げ出したため、55年パーマストンが首相に就任。政治的混乱を回避するために確固たる地盤を持つ政党の必要性が叫ばれ、59年にはホイッグや急進派が自由党を結成、初代党首に就任

良くも悪しくも「パックス・ブリタニカ」の時代のイギリスを体現した存在 ⇒ 自由主義的な会議を用いて「ヨーロッパ協調」を実現し、何度も全面戦争の危機から大陸を救った

アジアではイギリスの国益を情け容赦なく追求 ⇒ アヘン戦争やインド大反乱(185758)など、帝国主義的支配の基礎を築く

奴隷貿易を禁止、イギリス海軍を使って密貿易を摘発

「世論」に力と意味を見出したイギリスで最初の政治家 ⇒ 自らの政策に中産階級や労働者階級の好意を惹きつけることを目指す一方で、大衆民主政治の時代を予見

 

第6章     デイヴィッド・ロイド=ジョージ――「王権と議会」の敵役

1次大戦の後半に首相としてイギリスを率いた大政治家

ヴェルサイユ会議のイギリス全権だった首相の下で財務省の役人として会議に参加していたケインズは、「ウェールズの魔女」、「究極目的の欠如、内奥の無責任、我々サクソン人の善悪の観念から超越ないし遊離した、狡猾と無慈悲と権力欲とを交えた存在」と評した

外相として会議に出席していた元首相のバルフォアも、「3巨頭のあまりにも大きな権限を持った、余りにも無知な男たちが、大陸を分割している」と酷評

保守党からは「無節操な独裁者」と嫌われ、労働党からは「反動主義的な裏切り者」に過ぎないと批判、彼の属した自由党からも「党を分裂させた張本人」とのレッテル

「大戦の英雄」は、終戦後4年足らずで失脚するが、36年にドイツを訪問、ヒトラーを「現存する最高のドイツ人」「ドイツのジョージ・ワシントン」と持ち上げ、後世に禍根を残す

生まれはマンチェスターで、1歳の時父親が急逝し、母の実家の靴職人でバプティスト派の叔父の影響を受けて育つ

弁護士から27歳で自由党の国会議員となり、尊敬するグラッドストンが推進するアイルランド自治政策をウェールズへと転化させ、ウェールズでの信教の自由を確立するため国教会の廃止を第1に掲げた

2次ボーア戦争(18991902)を道義に悖るイギリスの侵略戦争だとした反対活動で自由党党首に認められ、1905年の自由党政権で商務院総裁として入閣を果たす

次いで財務大臣となり、労働組合員や一般大衆に寄り添った政策で人気を博し、富裕層に増税する「人民予算」を貴族院の反対を押し切って通すと、貴族院の改革にかかり、庶民院(下院)優先を確立するとともに、奉仕だった庶民院議員の歳費を国費から支給

1915年、イギリス初の挙国一致政権が誕生、ロイド=ジョージは新設の軍需相に就任、16年には陸軍大臣。戦争遂行を巡ってアスキス首相の反旗を翻し、最終的に自ら首相となる

閣内戦時内閣を組成、内閣府を作って官僚を統制、ブレーンによる政策決定等独自のやり方を展開、王権を蔑ろにした。国王陛下の陸海軍の運用を巡っても衝突、議会も軽視

大戦の勝利を背景に実施した選挙で大勝、クロムウェル以来の大きな影響力を手に入れる

終戦後の復興過程で力をつけたのが労働者階級、史上最悪のストライキが頻発。さらに、アイルランド自治を巡り、北部のアルスターがイングランドに残ることに反発。勲爵士を金で売った疑惑が浮上して、僅か4年で失脚

ロイド=ジョージの辞任に伴う選挙では保守党が過半数を占め、次が労働党で、自由党は惨敗。以後イギリス議会政治は保守党と労働党の2大政党制が定着

2次大戦の勃発で、ロイド=ジョージは庶民院でチェンバレン政権の弱腰を激しく非難するが、急速に体調を崩し、選挙不出馬を宣言するが、死の直前嫌っていた伯爵に叙せられ貴族院への移籍が発表された

1960年代頃から、よりバランスの取れたロイド=ジョージ像が提示されるようになり、政界でも再評価される。その頃ウェストミンスターの国会議事堂の議員ロビーから庶民院議場へと向かうアーチにチャーチルと並んで銅像が建立され、99年発表の「20世紀で最も偉大な首相たち」のアンケートでもチャーチルに次ぐ2位となっている

国内の政治でも、国民保険法や老齢年金制度など、「福祉国家イギリス」の原点ともいうべき政策を実現させている

王権と議会の上に立って戦争指導をした姿は衝撃的であり、これに近い偉業を成し遂げたのはクロムウェルぐらい。しかもそれを「王殺し」や反対派の「議員追放」もせず、あくまで合法的に権力を掌握している

 

第7章     ウィンストン・チャーチル――最後の「帝国主義者」

歴史家として『第2次世界大戦』を著し、53年のノーベル文学賞受賞

保守党の新人議員マールブラ公爵の長男としてオックスフォード郊外のブレナム宮殿で誕生。祖父はアイルランド総督。母はウォール街の投機で財を成したアメリカ人の娘

父は、ソールスベリ侯爵の下で若くしてインド大臣から財務大臣に抜擢、庶民院の首相役まで務めたが、45歳で早逝

陸軍士官学校卒業後、キューバからインド、スーダンに赴任。99年除隊して保守党から立候補するが落選。第2次ボーア戦争の従軍記者として派遣され、着任早々捕虜となって、その脱出行が「世紀の冒険譚」となって一躍名声を不朽なものとする

英国の勝利でチャーチルは凱旋将軍の扱いを受け、余勢をかった1900年の選挙で初当選(25)するが、保守党の保護貿易論について行けずに04年自由党に鞍替え、議会で隣にいたのがロイド=ジョージで、「師弟」とも「兄弟」ともいえる関係の始まり。08年彼の後任として商務相に抜擢、社会福祉などに取り組み、自らの出自である貴族階級をこき下ろす

10年内務相、11年海軍相として海軍燃料を石油に転換するためアングロ・ペルシャ石油を買収、空軍の基礎まで築いた先見性は鋭い

15年、第1次大戦でオスマン相手のダーダネルス作戦で大失敗、責任を取って辞任するが、この「ガリポリの悲劇」は終生の悪夢。アスキスのお情けで「ランカスター公爵(=イギリス君主)領総裁」という閑職に留まるが、この閑に始めたのが油絵で、生涯の趣味となる

15年辞任し、翌年陸軍に志願し、1中佐として西部戦線に出征。その時の経験から戦車のアイディアが生まれ、第2次大戦で役立つ

17年、ロイド=ジョージ内閣で軍需相、陸空軍大臣兼務。ボリシェヴィズムを嫌悪して革命ロシアへの軍事介入を主張、第2次大戦時にソ連と提携する際に足枷となる

21年には植民地相として、アイルランド自由国の成立やオスマンから解放された中東問題に巻き込まれる

ロイド=ジョージの失墜と合わせて選挙にも敗れ、分裂した自由党を離れ保守党に戻ると、ボールドウィン内閣の財務相に抜擢されるが、金本位制導入に失敗し、29年には労働党へ政権を明け渡し、無冠・孤立の自称「荒野の10年」が始まって、執筆活動が主流となる

2次大戦勃発で民意に推されるように海相に復帰、さらに「ミュンヘン協定」によりヒトラーの台頭を許したとして民意が離散していたチェンバレンの辞任で40年首相となる

ロンドン空襲を空軍の活躍で撃退すると、ローズヴェルトとの書簡の往復を重ねて親交を深め、絶大な支援を引き出す。嫌っていた共産主義とも、独ソ戦開戦後は接近し、スターリンとも緊密に接触

終戦を待たずに457月の選挙では、国内問題を仕切っていた労働党が「ゆりかごから墓場まで」のスローガンのもと国民の社会保障や戦後の経済の立て直し策を打ち出して圧勝したため、即刻辞任。信頼を取り戻したジョージ6世からガーター勲章をとの好意を辞退して(53年のエリザベス女王戴冠直前に拝領)、『第2次世界大戦』の執筆にとりかかる。11ゕ国語に訳され65億円の印税をもたらす

51年の選挙で保守党が勝利、首相に返り咲くが、53年には脳梗塞に襲われ、英米ソ3大国によるトップ会談を画策するも不発に終わって55年引退を表明。その前日、女王夫妻が首相官邸を訪問、それだけでも異例なのに最後の晩餐まで共にした(葬儀にも前代未聞の参列)。引退する首相には「伯爵」が与えられるが、これまた異例の公爵に叙すと言われるも、縁のある地名を爵位に冠しなければならないために辞退、ウィンストン・チャーチルの名前に固執した

64年引退した時には議員生活最長の63358日を記録。65年逝去、享年90

息子は酒に溺れた出来損ない、長女は再婚した後父逝去の直前に自殺、次女は売れない俳優で最後はアル中

首相就任までは党籍を2度も変え、ドイツとの和解にも水を差す「日和見主義者、裏切り者、ほら吹き、利己主義者、人でなし、恥知らず、下劣な男、性質の悪い酔っ払い」として政界では知られていた

 

おわりに政治的な成熟とは

イギリスの歴史家アクトン男爵(18341902)の言葉、「権力とは腐敗する傾向にある。絶対的な権力は絶対的に腐敗するPower tends to corrupt and absolute power corrupts absolutely.」。その後に続けて、「偉大な人物というのは大概いつも悪党bad menばかり」、さらに「より偉大な名前がより大きな犯罪と結びついている」として、エリザベス1世、ウィリアム3世、ヘンリー8世やクロムウェル、ルター、ルイ14世が挙げられている

「偉大さとは、その者の業績の善悪で決まる」のも事実

19世紀半ば以降のイギリスでは、国民は「道徳」を君主に求め、政治家たちには「結果」を第一に求めた

 

 

 

(書評)『悪党たちの大英帝国』 君塚直隆〈著〉

20201031 500分 朝日

『悪党たちの大英帝国』

 王殺しや金権政治家の業績とは

 今年の5月にアメリカのミネアポリスで発生したジョージ・フロイド殺害事件をきっかけとして、BLMブラック・ライブズ・マター)運動が全米で盛り上がりを見せた。その波はイギリスにも押し寄せ、ロンドンの国会議事堂を見下ろすウィンストン・チャーチル像は「人種差別主義者」と落書きされた。

 確かにチャーチルは植民地支配を肯定する帝国主義者で、アジアやアフリカの人々に対する差別意識を終生持ち続けた。しかし著者は、本書で二つの言葉を引いている。19世紀イギリスの伝記作家レズリー・スティーヴンの「偉大さとはその者の業績の善悪で決まるものである」と、同時代のイギリスの歴史家アクトン男爵の「偉大な人物というのは大概いつも悪党ばかりである」だ。

 本書は、大英帝国の形成から崩壊に至る歴史を、7人の政治指導者を通じて描き出したものである。王妃と離婚するためにイギリス国教会を作ったと揶揄(やゆ)されたヘンリ8世は、ローマ教皇の権威からイギリスを解放し、「主権国家」のさきがけとした。王殺しを非難されたオリヴァー・クロムウェルはアイルランドスコットランドを征服して複合国家を初めて形成した。名誉革命でやって来た「外国人王」として不人気だったウィリアム3世はイギリスを一流国に押し上げた。アメリカ独立に断固反対したジョージ3世は立憲君主制を定着させた人物である。

 2度のアヘン戦争を主導したパーマストン子爵は、一方で大西洋から奴隷貿易を一掃した。金権政治を批判されたロイド・ジョージは社会福祉に取り組み第1次世界大戦を指導した。そしてチャーチルは、世界をナチスから救った。

 人物史は古典的な研究であり、著者の言葉を借りれば、歴史学界の最新の潮流から外れた「時代遅れ」のものである。けれども本書を読むと、やはり一個人が歴史を大きく変え得る、との思いを禁じ得ない。

 評・呉座勇一(国際日本文化研究センター助教・日本中世史)

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 『悪党たちの大英帝国』 君塚直隆〈著〉 新潮選書 1540円

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 きみづか・なおたか 67年生まれ。関東学院大教授(イギリス政治外交史)。著書に『立憲君主制の現在』など。

 

 

 

 

 

 

 

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