大軍都・東京を歩く  黒田涼  2020.12.26.

 

2020.12.26.  大軍都・東京を歩く

 

著者 黒田涼 1961年神奈川県生まれ。作家。『江戸城天守を再建する会』会員。早大政経卒。大手新聞社にて16年記者生活の後独立。趣味の街歩きが高じて「江戸歩き案内人」に。数多くの東京の歴史ガイドツアーを務める

 

発行日           2014.12.30. 第1刷発行

発行所           朝日新聞出版 (朝日新書)

 

 

朝日新聞連載(20152020)『みちのものがたり』で言及

 

近衛師団司令部だった東京国立近代美術館工芸館。

高射機関砲の台座が残る千鳥ヶ淵。

第三連隊兵舎が不思議な形で残る国立新美術館別館。

『坂の上の雲』の秋山好古の名が刻まれた碑が建つ池尻大橋。

二・二六事件の反乱将校らの処刑が行われた渋谷税務署。

都内には、数多くの戦跡が残っている!

 

 

はじめに

1945年までは東京は軍都中の軍都

現代東京に残された江戸の遺構や痕跡、歴史を紹介する「江戸歩き案内人」として1年中東京の街を歩き回っている中、最初にの存在に目が向いたのが江戸城内の北の丸公園で、江戸時代には吉宗の子孫である御三卿の田安家と清水家の屋敷があった。武道館前の休憩所裏に近衛歩兵第一連隊後の碑があり、北の丸公園に近衛兵が駐屯していた痕跡

明治初期の丸の内から大手町、日比谷一帯は殆ど軍用地で、「天皇が軍に囲まれて住んでいた」と驚く。この驚きを感じてもらいたくて本書を書く

 

第1章      数々の歴史の舞台となった皇居――千代田・丸の内など

明治も前半までは旧江戸城の周辺はすべて軍用地で、解消するのは明治末のこと

Ø  北の丸公園は近衛師団の駐屯地だった 

北の丸公園が整備されたのは1969年。戦時中は近衛師団司令部と近衛歩兵第一連隊、第二連隊の駐屯地。記念碑が残る

第二連隊碑の傍に「岳麓山百合移植の碑」は新任連隊長だった深堀遊亀大佐による命令文で、「1939年富士の滝ケ原駐屯地に行った際、兵営の美化のためにできるだけたくさんの山百合を採ってきて兵舎に植えろ」という内容で、何の目的なのか詳細は不明

Ø  日本陸軍の出発点

近衛師団は天皇警護の部隊で、日本陸軍の出発点。薩長土の藩兵を「御親兵」として政府直属の部隊としたものが、1872年「近衛」と改称、後の近衛師団の元となる

1873年徴兵制開始、第一、第二連隊とも1874年編成され、以後敗戦までこの地に駐屯

Ø  空襲を免れた近衛師団司令部

1878年、公園の南東部の近衛砲兵営で竹橋事件勃発 ⇒ 西南戦争の論功行賞に不満だった近衛兵の反乱。憲兵制度や皇宮警察が誕生、軍人勅諭などの精神教育強化の端緒となる

東京国立近代美術館工芸館は近衛師団司令部の跡地。皇居の隣地だったため空襲も免れた

終戦の際、玉音放送を阻止しようとした「宮城事件」の舞台 ⇒ 森赳師団長を射殺してニセの命令を出して阻止しようとしたが、東部管轄区によって鎮定

工芸館脇には北白川宮能久親王の銅像 ⇒ 幕末には上野寛永寺のトプ・輪王寺宮として彰義隊を率いて戦ったが、その後許されて還俗、軍人となって近衛氏団長として日清戦争出征、台湾で病没

国立公文書館は、1901年に教育総監部が移転してきたときの跡地

Ø  千鳥ヶ淵に残る高射砲の台座

千鳥ヶ淵に向かって代官町通りの右手には土塁が残り、化粧板がのった丸いベンチは高射機関砲の台座跡。地下にはトンネルがあった

国立劇場と最高裁一帯29千坪には、1871年兵部省軍医寮附属本病院が設置され、29年新宿に移転するまで陸軍医療の中心地

三宅坂の角、平和の群像という3人の裸婦像のある所は、元々陸軍大臣、総理大臣の寺内正毅元帥の騎馬像があったが、遺族の申し出により政府の金属回収令に従って熔解

Ø  三宅坂の参謀本部

国会前庭公園の北地区に陸軍省と参謀本部、陸軍大臣官邸があった。三宅坂=参謀本部

彦根藩主井伊家の上屋敷の跡地

参謀本部は455月の山手空襲で焼失、その時の火の粉で皇居宮殿が焼失

公園には日本の地図製作上必要な「日本水準原点」が立つ ⇒ 地図作成は陸軍陸地測量部の仕事で、参謀本部と同じ敷地内にあり、原点を収めた標庫は1891年設置

Ø  練兵場だった日比谷公園

霞が関一帯は東京に駐屯する軍の主要演習場。1888年神宮外苑に移転

日比谷公園一帯は日比谷入江という海で地盤が軟弱、煉瓦造りの建物が建たなかったために1903年公園となる

農水省庁舎の地には、ジョサイア・コンドル設計の海軍省があり、厚労省前には「海軍省跡・軍令部跡」の碑が建つ

Ø  一面、軍事施設だった丸の内

東京會館、帝劇辺りは、監軍本部という東京鎮台司令部の跡地。徴兵制によって集められた兵隊を全国に配属した単位が鎮台

Ø  三菱・岩崎弥之助の先見の明

首都整備の必要から軍隊の移転が必要となり、あわせて新兵舎建設費用捻出のため、相場より遥かに高い価格での売却を企図、松方蔵相の懇請を受けて応じたのが岩崎弥之助。1890年に128万円(東京市の予算の3)10万坪を買い取り。三菱1号館が建ち、そのはす向かいには東京府庁舎も完成

Ø  徳川慶喜の屋敷は軍用地に

大手門正面には幕末に歩兵屯所があり、維新後は東京鎮台工兵営、近衛工兵営となる。その後憲兵司令部、東京憲兵隊本部

大手町から竹橋までは一橋家の上屋敷で、物産のあたりの大蔵省と内務省を除き、ほとんどが軍の施設

Ø  数多くの歴史の舞台となった九段会館

1934年建設の九段会館は元在郷軍人会(=予備役)の軍人会館。鉄筋コンクリートの上に和風の屋根が乗る「帝冠様式」という昭和初期流行のスタイル。戦後は日本遺族会に貸与

皇居外苑の内堀通りは、日露戦勝利の凱旋観兵式のため、祝田橋などは日比谷堀を埋め立てて造られたもので、急ごしらえのためか江戸時代のものと比べ大変貧弱

 

第2章      実戦部隊が集中する街――赤坂・青山・芝など

Ø  東京にたくさん残る「境界石」

赤坂一ツ木通りのTBS辺りには陸軍囚獄所があった。1893年には近衛歩兵第三連隊が移転

全国の軍用地角には「境界石」が建てられ、今も各地で見られる

Ø  ミッドタウンに「歩一の跡」

ミッドタウンは元防衛庁だったが、戦前は陸軍第一師団歩兵第一連隊の駐屯地。1874年編成、東京周辺から選抜されたNo.1連隊。第2代の連隊長が乃木希典

隣接する檜町公園に「歩一の跡」の碑が建つ。1963年建立

Ø  兵舎の一部を保存した国立新美術館別館

国立新美術館は、宇和島藩伊達家の下屋敷で、歩兵第三連隊の駐屯地

美術館本館玄関の向かいの別館は、1928年建立の第三連隊兵舎の一部を保存。関東大震災の復興事業として建てられ、火災の教訓から陸軍初の不燃の鉄筋コンクリート造の兵舎。空襲を逃れ、米軍接収解除後は東大生産技術研究所となり、07年新美術館開館に際し一部保存

Ø  六本木に今も米軍基地

今も跡地に残るのが米軍基地の「ハーディ・バラックス」で、27千㎡の地に事実上の米軍機関紙・星条旗新聞社などがある

Ø  射撃場の標的地だった青山葬儀所

元々は野原だった地、射撃場標的裏に青山墓地ができ、東京の住宅不足から1921年移転

青山中学や都営アパートには、1883年陸軍大学校建設、91年開校

Ø  徳川の菩提寺・増上寺は続々と軍用地に

軍施設が集中していたのが増上寺周辺。徳川家の菩提寺だったため、敷地はどんどん取り上げられ、海軍の施設が建設される

慈恵医大病院も、元は海軍軍医総監で、海軍を脚気から救った高木兼寛が軍医の傍ら創設した病院が起源、スタッフも海軍軍医の全面協力があった

Ø  東京タワーのお膝元に「水交社」

海軍の親睦組織「水交社」は1876年増上寺境内に出来る

戦後米軍接収後、フリーメーソンに払い下げ

ロシア大使館裏には、海軍水路局観象台(天文台のこと)があり、今も日本経緯度原点がある

赤羽橋たもとの古川沿いは久留米藩有馬家の広大な上屋敷で、工部省用地となって日本最初の機械製作官営工場「赤羽工作分局」設置、後に海軍造兵廠

Ø  弾薬庫があった自然教育園

明治学院大の北隣建物の上に神社のような屋根が見える施設は、「白金海軍墓地」の記念堂

高松藩松平家の下屋敷跡には1872年海軍の弾薬庫建設。1913年宮内庁に売却、白金御料地として放置されたため原生林化が進み、戦後国に戻され自然教育の場となる。史跡で天然記念物という珍しい場所

Ø  昔も今も軍用地の目黒

目黒川沿いの自衛隊目黒駐屯地は、1857年幕府が砲薬製造所設置

1928年には群馬県に移転するが、跡には海軍共済病院(現在の東京共済病院)が建ち、戦後接収のあと、自衛隊の施設地となり、最も長く軍用地として使われた場所

1930年建設の全長247mの大水槽は、今でも海上自衛隊艦艇装備研究所で船体の抵抗試験などに利用

 

第3章      平和な公園に悲しみの歴史――外苑前、代々木など

Ø  明治天皇ゆかりの榎

神宮外苑一帯は青山練兵場跡地

明治天皇が観兵する場所は、練兵場内の大きな榎の西側で、「御観兵榎」と名付けられたが、1995年の台風で倒木、2代目が育つ。東郷平八郎揮毫の碑が立つ

1907年万博開催予定地となるが、不況で中止、1909年代々木に練兵場が移転していたところから、明治天皇を祭神とした明治神宮創建とセットで空き地を記念公園とし、26年完成

Ø  国立競技場で学徒出陣の壮行会

国立競技場に地には明治神宮外苑競技場が出来、43年学徒出陣壮行会挙行。碑が立ったのは50年後の1993

Ø  中央線がS字を描く理由

中央線は1889年新宿・八王子間開業、都心乗り入れを図ったが、軍の横槍で、青山練兵場と水道橋南側の三崎練兵場を結んで作るように路線が決められ、大きく迂回させられた。そのため赤坂御所を通らざるを得なくなり、トンネル(御所トンネル)が通された

Ø  広大な練兵場だった代々木公園

一面の原野は飛行機の離着陸に便利で、1910年陸軍の徳川好敏大尉が日本初の航空機の飛行に成功 ⇒ 代々木公園南西端に「日本航空発始之地記念碑」が立つ。建立者は飛行機の活用普及に熱心だった朝日新聞社

終戦時には、納得できない右翼団体の14人が練兵場内で割腹自殺 ⇒ 参宮橋近くに碑

代々木八幡宮に「訣別の碑」 ⇒ 1907年練兵場建設に伴い強制移転させられた代々木深町の農民17人が別離を惜しんで建てた

Ø  渋谷税務署に二・二六事件の慰霊碑

渋谷税務署一帯には陸軍衛戍監獄(後の陸軍衛戍刑務所)があり、二・二六事件の反乱将校らの処刑が行われ、1965年に関係者の慰霊碑が建てられた

 

第4章      武器製造の地だった文教地区――水道橋・護国寺など

Ø  東京ドームの脇に軍事工場の残骸

東京ドームホテルの地下から東京砲兵工廠の建物基礎が発掘され、モニュメントとして保存

1871年、水戸徳川家上屋敷跡に兵部省造兵司東京工場を造るが、関東大震災で崩壊、小倉に移転し、1935年東京工廠閉鎖、民間払い下げ

Ø  後楽園が現代にまで残る理由

小石川後楽園内に「陸軍造兵廠東京工廠跡」の碑

砲兵工廠の建設運営の助言に来日したフランスの軍事顧問団が、造兵廠建設予定地のど真ん中にあった後楽園の保存を庭園好きの山縣陸軍卿に請願して保存が決まった

Ø  弾痕の残るトンネル跡

東京メトロ後楽園駅北側の礫川公園の奥に丸の内線沿いの茂みの崖地に煉瓦造りのトンネルのようなものがあるのは、明治初期の砲兵工廠時代に銃の試射場として掘られたもの、全長280m。戦後もライフル愛好家のための射撃場として使用され、1999年閉鎖

お茶の水や跡見のある一帯は、幕末に老中・安藤信正を出した平藩安藤家の下屋敷跡で、兵器支廠などが出来た

Ø  陸軍墓地があった護国寺

護国寺は綱吉創建の徳川ゆかりの寺で、維新後東半分が皇族墓地となり、今も豊島岡墓地として使われ、西には1873年から敗戦まで陸軍軍人だけの墓地があった

境内には「音羽陸軍埋葬地英霊之塔」の碑が立つ

Ø  東大キャンパスに囲まれた場所に射撃場

本郷キャンパスと農学部弥生キャンパス、工学部浅野キャンパスに三方囲まれた長方形の地域は射撃場の跡地を住宅開発したもの。水戸徳川家の中屋敷で、1877年警視局(現警視庁)の射的場となったが、西南戦争後は宮内省管轄となり、ライフル協会が利用した後宅地開発

 

第5章      尾張徳川家の跡地は軍人学校に――市ヶ谷・早稲田など

Ø  防衛省の市ヶ谷台ツアー

市ヶ谷亀岡八幡宮の裏参道にある「祭馬碑」は、1922年陸軍士官学校馬術教官部の教官と馬取扱人が飼っていた軍馬の供養のために立てたもの

Ø  防衛上、重要な尾張徳川家の土地

防衛省とその周辺は尾張徳川家の上屋敷の一部。標高30mと、江戸城本丸の25mより高いところから、江戸城防衛上の要所とされ、御三家筆頭に与えられた

維新後兵部省用地となり、1874年陸軍士官学校設立。終戦で接収され、60年返還、以後自衛隊が使用

Ø  蒋介石も出た振武学校

東京女子医大の辺りは尾張家の川田久保屋敷があり、維新後は陸軍経理学校、振武学校があった。振武学校とは、清王朝から陸軍士官学校などに入学しようとする留学生の予備学校で、毎年50200人の卒業生を輩出、当時の中国軍幹部の9割はここの出身

Ø  軍医学校跡地から100体を超える人骨

国立国際医療研究センターから箱根山、戸山ハイツ一帯は尾張家の下屋敷、戸山荘

医療センターは陸軍第一病院が母体。隼町の陸軍本病院が1929年この地に移転。陸軍軍医学校校長だった森鷗外の執務机が保存展示されている

Ø  陸軍戸山学校と箱根山

1874年陸軍戸山学校開設、歩兵戦技(射撃剣術剣術など)、歩兵部隊戦術体育軍楽の教官・生徒育成と研究を行い、また陸軍を代表する軍楽隊として陸軍戸山学校軍楽隊を有していた

箱根山は尾張家時代の庭園築山で、麓に「箱根山 陸軍戸山学校址」の碑が立つ

戸山幼稚園と戸山教会は、空襲で焼け出された都内の教会の再建場所としてGHQが斡旋したもので、建物の地下部分は戸山学校時代の将校集会施設

Ø  射撃場だった早稲田大学理工学部

諏訪神社の境内には「明治天皇射的砲術天覧所阯」の碑があり、射的場が出来た際明治天皇が観閲した記念で、射的場は戸山公園大久保地区や早大理工学部の敷地にあった。1882年開設。昭和までは山手線の上を超えて東から西へ射撃演習もしていたので、1925年周辺住民から廃止運動が起こり、28年にはコンクリート屋根付きの長さ300mの射撃場完成

海城中学・高校は、陸軍の成城学校と同様、海軍兵学校の予備学校として始まり、敗戦後一時閉鎖命令出て存続が危ぶまれるが、新制中・高として今に至る

 

第6章      一大軍事工場として開発された城北――板橋・赤羽

Ø  加賀前田家の屋敷跡は造兵廠に

加賀西公園には巨大な車輪のような火薬製造機部品が「火薬製造創始記念碑」として残る

金沢藩前田家下屋敷跡に、1876年屋敷内を流れる石神井川の水力を利用して陸軍砲兵本廠板橋属廠を造る

Ø  二造(陸軍第二造兵廠)時代の建物が数多く残る板橋

帝京若草公園は、圧磨機などを動かすために石神井川の水を引き入れた水路跡

Ø  物資輸送のレール跡を辿る

帝京大病院北門の稲荷台交差点から西北に向かう並木道は、明治初期赤羽根火薬庫道と呼ばれた軍用道路で、中山道が幅4間当時8間あった

北区立梅木小学校などは、1905年建設の陸軍砲兵工廠稲付射場の跡地

軍事施設の物資輸送のために今のJR赤羽駅付近から鉄道支線も敷かれた

Ø  「師団坂」――地名に残る駐屯地

赤羽緑道公園周辺の9万坪には陸軍被服本廠が1881年開設。戦後は大規模住宅団地に

星美学園や東京北医療センターは、陸軍や近衛師団の工兵隊が駐屯、「師団坂」の地名が残る

 

第7章      陸軍と自衛隊、軍の今昔物語――十条・王子

Ø  自衛隊駐屯地は一造の一部

自衛邸の十条駐屯地は、東京砲兵工廠鉄包製造所跡地、始まりは1905

東京第一陸軍造兵廠(一造)に改称

四本木(よもとぎ)稲荷あとの稲荷公園(現・中央公園)には「殉職慰霊碑」が立つ

Ø  図書館に生まれ変わった弾丸工場

北区立中央図書館は、1919年建設の一造の小銃の弾丸を作る275号棟を再利用した建物

Ø  石神井川のほとりに憲兵小屋

紅葉橋の北区中央公園文化センターは、陸軍東京第一造兵廠本部建物で、1930年完成、米軍から返還後の1981年から利用

滝野川橋たもと付近のコンクリートの箱は「憲兵小屋」といわれるが、使途は不明

Ø  電気軌道のトンネル縁石がある公園

ちんちん山児童遊園にある半円形のオブジェは、一造十条工場から隅田川に続く電気軌道下をくぐるトンネルの縁石を保存したもの

 

第8章      閑静な住宅街に残る跡――池尻大橋・駒場・三軒茶屋など

Ø  駒場高校裏には明治天皇の天覧台

国道246(大山街道)の北側、上目黒氷川神社裏手一帯は第一師団輜重(しちょう)兵第一大隊が駐屯、兵站部隊の一大拠点

1891年の陸軍乗馬学校を皮切りに、93年には陸軍獣医学校、16年輜重大隊が移転してきて、神社本殿裏手の住宅敷地内に「陸軍省所轄地」の標石が残る

駒場高校のグランドは騎兵実施学校の馬場で、卒業馬術演武の際は明治天皇が必ず全演武を天覧。その天覧台の碑が高校裏の公務員住宅との間にある

駒場小学校敷地内には、1870年徳川将軍家の鷹狩り場跡で新政府最初の閲兵式挙行、明治天皇が史上初めて一般人の前に姿を現わした記念碑「明治天皇駒場野聖跡趾碑」が立つ

Ø  マンション脇に『坂の上の雲』の秋山好古の名

駒場学園の南側、目黒川緑道に出る手前の崖の中腹に様々な碑が柵で囲われている ⇒ 騎兵第一連隊址とあり、「日本騎兵の父」と言われ、日露戦争でコサック騎兵を撃破した秋山好古大隊長が率いた連隊の駐屯地。1906年の日清・日露の戦没者慰霊碑の建立者には秋山の名が刻印

「馬神」の碑は、1930年建立の戦没、病没軍馬を慰霊するもの

学校や警察関係の宿舎、施設が多いのは、旧軍用地の特徴

Ø  今も現役の糧秣廠馬糧(りょうまつしょうばりょう)倉庫

246の南側、東山公園近くには50mほどの長さの大きな倉庫が2棟。軍馬のまぐさを保管する糧秣廠馬糧倉庫だったものがいまだに現役の倉庫として使用。倉庫の南西には駒沢練兵場が広がり、現在は自衛隊三宿駐屯地、世田谷公園、学校などがある

Ø  住宅の間に朽ち果てそうな連隊兵舎

練兵場の西側、現在の昭和女子大、三宿中学辺りには砲兵部隊の駐屯地ができる

下馬アパートの西にある倒れそうな大きな木造平屋の建物が、野砲兵第一連隊の兵舎で、奇跡的に1棟だけ残り、東京世田谷韓国会館として使用

 

第9章      おまけのショートコース――築地・中野・本所深川など

Ø  築地は海軍発祥の地

魚河岸の前身は海軍の中枢。幕末に隅田川べりの勝鬨橋南側たもと辺りに軍艦操練所を設けたのが始まりで、維新後は新政府の海軍用地となり、1869年海軍操練所、翌年海軍兵学寮と改称、72年海軍発祥となる海軍省設置。大名屋敷の庭園が残っていて、その築山に海軍卿旗を掲げたので、山を「旗山」と呼び、その記念碑が築地市場内に残る

関東大震災で海軍施設が壊滅、同じく被害に遭った日本橋魚市場が一日も早く再開するためという名目で跡を使用したが、そのまま居座った

Ø  スパイ学校があった中野

綱吉の時代、江戸の野犬を保護して飼った犬屋敷があり、30万坪に10万頭いたが、維新後は軍用地となって、1897年鉄道大隊や電信隊が駐屯していたが、転出した後1938年に防諜研究所として設立、40年陸軍中野学校として移転してきた

戦後は警察用地、08年移転してきた東京警察病院内に「陸軍中野学校趾」の碑が残る

Ø  補給の拠点だった本所深川

江戸時代、両国駅北側には御竹蔵という広大な倉庫が広がり、建築資材としての竹を保管、後に米を貯蔵、維新後も陸軍の倉庫として利用

1886年陸軍被服廠ができ、移転後は東京市に譲渡され公園に転換しようとした矢先に関東大震災勃発、多数の人が避難してきたがその家財が火災旋風で燃え上がり、この場所だけで地震発生4時間で38千人焼死。横網町公園にはその慰霊堂が立つ

錦糸町には糧秣本廠や兵器支廠の倉庫

Ø  戦争末期、特攻隊が発進した光が丘

42年の最初の東京空襲に慌てた軍が首都防空用の成増飛行場を建設、総面積181万㎡で、戦後は米軍宿舎、グラントハイツとなる

光が丘駅前から南北に歩行者専用の広い緑道が延びるが、ほぼその道沿いに滑走路

飛び立った戦闘機も多くは体当たり攻撃を仕掛ける特攻機

光が丘公園外の住宅街に掩体壕が残り、住宅の基礎として使用

Ø  高射砲台座が残る青戸

戦争末期には郊外に防空施設が多数作られた

葛飾区の区立白鳥小学校裏に戦争末期に設置された青戸高射砲陣地の高射砲台座跡がアスファルトで舗装されている ⇒ 6門の砲を20m離して半円形に配置、東から侵入する敵を想定して3カ所、計18門設置。分厚い基礎を撤去できずにそのまま残っている

 

あとがき

有名な公園の多くが軍用地だった ⇒ 代々木公園、北の丸公園、日比谷公園、光が丘公園

広域避難所の多くが軍用地

江戸時代、江戸の4割が全国300人足らずの大名屋敷。江戸人口の1/2を占める50万人の町人は1割程度の土地に押し込められた

明治維新で大名屋敷の多くは日本の近代化のために市民が活躍する土地になったが、それを引き継いだ軍用地は、市民が自由に使える場所ではなかった

戦後漸く限られた層の持ち物から、そこに住む多くの人たちが活用できる場所へと変わってきた

 

 

 

 

ダヴィンチ・ニュース(KADOKAWAが発行する書籍情報などを取り扱う月刊誌。1994年に株式会社リクルートが創刊) 2015.1.2.

『大軍都・東京を歩く』(黒田涼/朝日新聞出版)

 今は平和な日本だが、かつて日本には「軍」が存在し、日本各地にはたくさんの軍施設があった。もちろん東京にも数多くの施設があり、その面積は世界でも類を見ないほど広大であったという。

 コンサートなどが行われる日本武道館のある北の丸公園には近衛師団があり、イチョウ並木が有名な明治神宮外苑には青山練兵場が、国会議事堂の前にある公園の辺りには陸軍省と参謀本部、陸軍大臣官邸があった。また板橋・十条・赤羽・王子一帯には巨大な軍の工場や火薬庫があり、中野駅近くにはあの有名なスパイ養成学校の陸軍中野学校があった。

 また六本木の東京ミッドタウンには陸軍第一師団歩兵第一連隊、新国立美術館には陸軍第一師団歩兵第三連隊、赤坂にあるTBS一帯には近衛歩兵第三連隊が駐屯していて、皇道派の青年将校たちに率いられた彼らが1936年に二・二六事件を起こしている。その直前に将校たちが謀略を巡らせたのが、赤坂のプルデンシャルタワー(元ホテルニュージャパン)が建っている場所にあった料亭「幸楽」(戦時中に撃墜されたB-29が墜落して直撃、焼失している)だった。その二・二六事件で暗殺された高橋是清の自宅は赤坂から至近にあり、現在は高橋是清翁記念公園となっている。

 第二次世界大戦が終わってから70年、現在も残っている建物などはとても少なくなってしまった。だが目を凝らせば、その痕跡はそこかしこに残っている。それは軍需品を運ぶための引き込み線の跡だったり、この先から軍の施設であるという境界を示した石や、往時を偲んで建てられた記念碑であったり、土塁の跡や土地の起伏だったりする。そうした場所を歩いて巡り、近現代史を体感できるのが『大軍都・東京を歩く』(黒田涼/朝日新聞出版)だ。

 本書は「千代田・丸の内」「赤坂・青山・芝」「外苑前・代々木」「水道橋・茗荷谷」「市ヶ谷・早稲田」「板橋・赤羽」「十条・王子」「池尻大橋・駒場・三軒茶屋」「築地・中野・本所深川」というエリアを解説した全9章からなり、掲載されている地図を見ながらルートを歩けば、軍都の痕跡を見つけることができる。ということで、本書を片手にいくつか遺構を訪ねてみた。

原宿駅と渋谷駅の間にある東京都立代々木公園、NHK、国立競技場、渋谷区役所、渋谷公会堂、神南小学校のあるエリア。坂の上の平らで静かな土地には、かつて広大な敷地を持つ「代々木練兵場」があった。

今はブランドショップが建ち並ぶオシャレな「表参道」だが、戦前や戦中は赤坂や六本木にあった駐屯地からやって来る兵隊が、軍歌を怒鳴りながら練兵場へ向かう道だったという。

代々木公園内には、この地で1910年に日本で初めての航空機による飛行に成功したことを記念した「日本航空発始之地記念碑」がある。こんな場所から飛行機が飛んでいた事実に驚く。

 

 

 

太平洋戦争の敗戦に納得できない右翼団体14人が、1945825日に代々木練兵場で割腹自殺をしたことを慰霊する「自刃の碑」。代々木公園の西側、参宮橋門近くにある。

 

代々木公園内には、代々木練兵場で行われた観兵式で、明治天皇が傍らに立たれたという「閲兵式の松」が残っている。

 

 

 

 

二・二六事件後、捕えられた反乱将校たちが処刑されたのは、渋谷の公園通りを上がったところにあった「陸軍衛戍刑務所」だった。渋谷公会堂の裏にある渋谷税務署の一角に関係者を慰霊する像が建っている。

 

 

次に向かったのは、早稲田大学の横にある戸山公園だ。ここには射撃や剣術など歩兵のための教育を行う「陸軍戸山学校」があった。敷地内にあるひときわ高い箱根山の麓には「箱根山 陸軍戸山學校址」と刻まれた石碑がある。

 

現在は戸山幼稚園と戸山教会となっている建物の地下、石造りの重厚な部分は戸山学校時代の「将校集会施設」だったそうだ。上は教会となっていて、建物のてっぺんには十字架がある。

軍学を教える学校でもあった陸軍戸山学校。この円形の遺構は、彼らによって軍歌が演奏されていた場所である「野外音楽堂」の跡だ。

陸軍戸山学校には射撃場があった。今は静かな住宅街だが、一直線に伸びた北側の崖(写真右側)がその痕跡だ。西側の端(写真奥)には高いコンクリート壁があり、この壁に向かって射撃訓練をしていたという。この壁の向こう側には明治通りが走っている。

早稲田大学理工学部や戸山公園大久保地区のある長方形をした土地も明治時代から射撃場として使われていた。1928年にはカマボコのようなドーム状のコンクリート屋根に覆われた300mもの長さの射撃場がいくつも完成し、異様な風景だったという。

 普段は何気なく通り過ぎている場所に、歩くことで気づける軍の遺構が今も残っていることがわかっていただけただろうか。本書にはこれ以外にも多くの軍の遺構が紹介されている。

 建物や道は年を経るごとに変わっていくが、土地に刻まれた歴史というのは完全に消し去ることはできない。2015年は戦後70年の節目だ。本書を参考に明治~昭和にかけて「帝都」と呼ばれた東京を歩いて、戦争の時代と地続きである現代を見つめ直すいい機会ではないだろうか。

写真・文=成田全(ナリタタモツ)

 

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