KGBの男 Ben Macintyre 2020.8.23.
2020.8.23. KGBの男 冷戦史上最大の二重スパイ
THE
SPY AND THE TRAITOR(裏切り者): The Greatest Espionage
Story of the Cold War 2018
著者 Ben Macintyre イギリスの新聞『タイムズ』でコラムニスト・副主筆を務め、同紙の海外特派員としてニューヨーク、パリ、ワシントンでの駐在経験を持つ。著作を原作としてBBCのテレビシリーズが定期的に放送されており、番組ではプレゼンターも務めている。本書は、19年に英国推理作家協会のノンフィクション・ゴールド・ダガー賞受賞。代表作に、『ナチが愛した二重スパイ』
訳者 小林朋則 翻訳家。筑波大人文学類卒
発行日 2020.6.10. 初版発行
発行所 中央公論新社
1985年7月のとある晩、1人の中年男性が、モスクワ中心部の通りで、英国のスーパー「セーフウェイ」のレジ袋を持って立っていた。このレジ袋は信号であり、彼を密かにソ連から出国させる、驚くべき脱出計画スタートの合図だった
序――1985年5月18日
オレーク・ゴルジエフスキー大佐がKGBのロンドン支局長に正式に任命されるために、ロンドンからモスクワに帰国。ゴルジエフスキーはMI6から十数年前にスカウトされたスパイ
モスクワ召喚が罠だった場合に備えてMI6が計画した緊急脱出計画が暗号名「ピムリコ」
空港にはいつも入るはずのKGBの出迎えもなく、自宅マンションのいつもは使わない第3の錠が締まっていたため、仲間に監視されていることを悟る
第1部
1. KGB
オレークは、生まれも育ちもKGBで、KGBの申し子
スターリンのスパイ網を直接の前身とする組織。国内外での情報収集と、国内の治安維持と、国家警察としての機能を併せ持つ
父は学校の教師を経て、ロシア革命で筋金入りの共産主義者となり、正統なイデオロギーの厳格な番人。32年カザフスタンの強制的な「ソヴィエト化」に携わり、NKVDに入って政治思想の統制と強化を担当。スターリンの粛清が始まると率先して裏切り者の追放に協力。共産主義の抑圧によって作り出された、国家への従順な奉仕者の典型だったが、母は家族が共産党に迫害を受けたこともあって夫ほど従順ではなく、反骨精神を隠し持っていた
オレークはその次男として38年誕生。次第に父を「怯えた男」と考えるようになる。コムソモール(共産主義青年同盟)に入り、外国に憧れた
大人たちは家族間でも本心を明かさず、オレークも子供の頃から、二重生活を送るのは可能だと気づいていた。学業は優秀で、コムソモールでもリーダーを務める
53年スターリンが死んで、フルシチョフがスターリンを批判、真の自由化が実現し、父は戸惑い、息子は歓迎した。6歳上の兄は既にKGBに入っていた
オレークは17歳で外務省の運営する名門モスクワ国際関係大学入学
56年ハンガリー動乱でフルシチョフの改革方針の限界が見える
KGBは外国では2種類のスパイを運用 ⇒ 正式な身分による保護を受けた「リーガル」と、公的な身分を持たず通常は偽造書類で旅行する「イリーガル」
在学中にKGBに目を付けられ、卒業前に実地体験で在東ドイツ大使館の翻訳官として東ベルリンに派遣される。そこには兄が「イリーガル」のスペシャリストとしてスパイ網管理の活動中
ベルリンの壁構築に衝撃を受ける
62年からKGBに出勤するよう命令され、KGBの幹部養成機関である「赤旗大学」に入ってソ連スパイ術の極意を伝授される。中でも重要なのが「ドライクリーニング(KGB用語では「プラヴェルカ」)」で、自分が尾行されているかどうかを見抜き、尾行されている場合は偶然を装って監視から逃れる方法のこと
「ブラッシュ・コンタクト(すれ違い接触)」は、周囲に気づかれずにメモやアイテムを相手に直接渡すこと
「デッド・レター・ドロップ」とは、相手と直接コンタクトを取らず、メモや現金を決められた場所に置いて相手に回収させる方法
スパイ名を決める。本名とよく似たもので頭文字を本名と同じにする。本名で呼びかけられても、スパイ名しか知らない人は聞き間違えたと考えるからで、オレークは、「グアルジエツェフ」とした
採用条件の1つだったので、共産党にも入党
KGBの神話と実像の違いは明々白々で、道徳観念はさらさらない官僚機構。倫理的制約は全く受けずに活動
外国に行くために、同じように外国行きに憧れていたドイツ語を話すアルメニア人と結婚、直後にデンマークでの覆面スパイのネットワークを運用するポストに空きが出て提示される
2. ゴームソンおじさん
66年夫婦でコペンハーゲンに赴任。ソ連共産主義に対する西側民主主義の優位を示す最高の場所がコペンハーゲンだった
デンマークの国家警察情報局PETでは、新任のオレークを「ゴームソンおじさん」の暗号名で呼び、KGBの職員としてマークしていた
68年、チェコでドゥプチェクが自由化とソヴィエトのくびきからの解放に取り組み始め注目
KGBはこれを危険視して、ソ連軍がチェコ国境に集結し始める前からスパイ団を投入して、同盟国に対する情報作戦としては過去最大規模で「反革命勢力」との戦闘を開始、そこには兄のワシーリーも指導者層の誘拐担当として含まれていた
ソ連軍侵攻によりプラハの春はあっけなく終わり、新たなソヴィエトの冬が始まる
オレークは、罪もない人に対する軍の実力行使などありえないと主張していただけに愕然とし、強烈な反感を覚えるとともに、共産主義に対する違和感が急速に嫌悪感へと変わった
大使館から妻に電話して、プラハの春を押し潰したソヴィエト連邦を非難する。PETから盗聴されていることを知りながらの電話は、「西側への最初の意図的な信号」だったが、西側は受信し損ねた
70年帰国。PETがオレークKGBの情報員だと特定したのが確実とされたため本国へ異動したもの。4年前より一層陰気で抑圧的、猜疑心に満ちた社会になっていて、自らの祖国に反発を感じる
国際関係大学にチェコから留学してオレークと親友になったカプランは、チェコの春崩壊で国外逃亡し、フランスの情報機関に投降。亡命者たちに定められた手順の一環として、西側の情報機関が関心を示しそうだと思う人物の名を挙げるよう求められ、カプランは100人の名を挙げ、大半はチェコ人だったが、中に5人のソ連人がいて、うち1人がオレークだった。この情報に基づき、MI6(正式には秘密情報部Street Intelligence Service)のオレークのファイルには、「興味深い人物」として「サンビーム」の暗号名が付され、再び西側に現れたら接触してみる価値はあるかもしれないというメモ書きが挟まれた
71年、イギリス政府はソ連の情報部員105名を国外追放にしたが、スパイの追放としては史上最大規模 ⇒ 大物の寝返りで実現、世界で最大級のKGB支局は一夜にして無に帰し、回復させるのに20年以上費やすことに
ワシーリーがアルコール過剰摂取で急逝、享年39。KGBにより正式な軍葬が行われた
デンマークの情報網再構築の白羽の矢がオレークに立ち、大使館の2等書記官としてビザを取って駐在。実際はKGBの対外情報活動を担当する第1総局の政治情報担当者であり、MI6とPETは歓迎の準備に
3. サンビーム
72年、ゴルジエフスキー夫妻はコペンハーゲンに戻り、オレークは秘密情報を積極的に収集し、西側の社会制度の破壊に努める任務で、具体的には必要な情報にアクセスを持つ人材のスカウトだが、協力すると明言するには礼儀正しすぎるデンマーク人を相手に厚い壁に阻まれる
熱心な共産主義者でさえ、国を裏切るのは躊躇ったが、例外もいた
オレークは少佐に昇進。2年間で共産主義に対する違和感はますます強くなり、ソ連の文化的不毛と汚職と偽善に対する幻滅は深くなっていた。読書の幅を広げ、ソ連の反体制派作家の作品などを読みふける
MI6の支局長ブラムヘッドと接触したが、最大の問題はコミュニケーションで、ブラムヘッドはロシア語をほとんど忘れており、オレークは英語をまったく話せなかった
73年、MI6本部は、カナダに亡命していたカプランを使ってオレークの忠誠心を測る「リトマス試験」を実施。チェコで有罪判決を受け亡命していた事実を知っていたオレークは突然自宅に現れたカプランの姿に驚き、後戻りできないことを知りつつ家の中に入れる。オレークはカプランの挙動から彼が西側の情報機関から送り込まれたことを察知。翌日改めて2人で会ってカプランからプラハの春の話を聞いた反応を評価されていることに気づきソ連の侵攻はショックだったというにとどめる
オレークがカプランと会ったことをKGBに報告しなかったことがMI6にとっては貴重な情報
間もなくブラムヘッドが、毎朝バドミントンをやるスポーツ施設に現れ、オレークはすべてのこれまでの動きが自分のスカウトに向けられていることを悟り、ランチの誘いに応じる
オレークはすべてを上司に報告し、モスクワからの指示をもらって大使館前のホテルでブラムヘッドと会う
情報活動に昔からある計略の1つに「ダングル」がある。敵対する組織の人物をスパイに勧誘する素振りを見せ、共謀関係に誘い込んで信頼を勝ち得たところで、スパイであることを暴露する手
会談後、両者ともありきたりの報告を上げただけで、以後8か月間何も動きはなかった
74年、アイルランド異動を数か月後に控えたブラムヘッドが、漸くオレークの前に現れ、単刀直入に情報提供を要請すると、オレークも誘いを待っていたかのように、「今会っていることは誰も知らない」と話し、忠誠心を捧げる対象を変えたことを誤解のしようが無い形で示唆
オレークの中核にある特別な力が覚悟を決めさせた。その力とは、私がしていることは絶対的に正しく、人生を後戻りできないほど変えることになっても精魂を傾けるべき道徳的義務であり、正当な裏切りであるという、確固とした揺るぎない信念だった
ブラムヘッドが用意した隠れ家で会って、後任のホーキンズという弁護士上がりに紹介される
4. 緑のインクとマイクロフィルム
長年KGBは、スパイ活動を行う4つの主要な動機をMICEと言い表す ⇒ ①金銭、②イデオロギー、③強制Coercion、④自尊心Ego
不倫には厳しいKGBと妻の目を盗んで、ソ連保健省からWHOのコペンハーゲン事務所に派遣されていた女性と恋に落ちる
数日おきにホテルで不倫を重ねる一方、4週間おきに郊外の隠れ家で国家への反逆行為を重ねていたが、ある時PETの情報部員がソ連の外交官ナンバーの車が郊外に停まっているのを不審に思って本部に報告、危うく進行中の工作が台無しになるところだった
77年、ホーキンズの後任に、7年前カプランのファイルを読んでターゲット候補としてゴルジエフスキーに旗を立てたガスコットが来て、すぐに意気投合、「サンビーム」工作のギアが一段アップ
情報の提供は、本国から「外交用郵袋」で送られてくるマイクロフィルムをオレークが昼休みを利用して持ち出し、ガスコットに渡して彼が隠れ家で複写することで行われた
最終的にオレークは金銭の受け取りを承諾、ロンドンの彼の口座に振り込まれたが、それ以上にオレークを喜ばせたのがMI6長官からの個人的な感謝状で、緑のインクで「C」と自署。海軍の船長が緑のインクを使っており、MI6の創設者がそれを真似し、以後歴代長官が踏襲
オレークは、見つけ出した秘密の真実を総てMI6に伝える一方、同僚や上司と、家族と、親友と、不仲になった妻と、新たな愛人に嘘をつき続けていた
5. レジ袋とマーズのチョコバー
オレークからMI6に対し、疑われてモスクワに異動になった場合に備え、ソ連から脱出する方法を用意してもらいたいとの要望が出され、約束や保証は出来ないが、方法を検討することになる
ソ連は事実上巨大な収容所であり、280百万以上の人々が厳重に警備された国境の内側に幽閉され、100万を超えるKGB情報員や情報提供者が看守として見張っていた。特に厳しく監視されていたのがKGBそのもので、全員が全員を監視するスパイ国家が出来上がった
チェコやハンガリーから脱出させた実績はあるが、ソ連からはほぼ不可能に近かった
大使館職員が運転する外構涵養ナンバーの自動車は、通常国境を超える時に検査を受けることはなく、外交官は外交特権により安全な通行と接受国の法律による訴追の免除が認められており、自動車の無検査はこの特権の延長だったが、あくまでも慣例であって法的な規則ではなかったので、ソ連の国境警備兵が疑わしい自動車を検査するのを躊躇うことは殆ど無かった
ソ連とフィンランドの国境は、東西両陣営が接する最前線のうち、モスクワから最も近かったが、それでも12時間かかりる。西側の外交官は、休暇や保養のため定期的にフィンランドを訪れて、通常は車で行き来していたので、ソ連の国境警備隊も目の前で外交官用自動車が検問所を通過するのには慣れていた
MI6本部が策定した脱出作戦は、フィンランドとの国境を車で越えるもの、暗号名「ピムリコ」
78年、オレークは、近くモスクワに帰任すると告げられる。妻は不倫を知っており、帰任後すぐに離婚することに同意。イギリスに亡命する選択肢は考えなかった
MI6は、オレークがモスクワでMI6とコンタクトを維持しなくてもよいし、機密を送らなくてもいいと告げ、スパイを休眠させることを選ぶ。その上で、オレークがブラッシュ・コンタクトをして具体的なメッセージを渡したいと思ったら、グレーの帽子とセーフウェイのレジ袋で信号場所に現れればいいとし、それは彼の見つけた情報が、例えばソ連のスパイがイギリス政府内にいるなど、イギリスの国家の安全に直接影響を与えるものである場合にのみ行うとされた
離婚も再婚も迅速に進み、不倫と離婚はオレークのキャリアをどん底に落とす
ノルウェーの有能な外交官秘書でKGBのスパイとなった女性が突然逮捕され国外追放となった件で、KGB内部の情報楼ウエイしか原因は考えられないという結論を突き付けられ、偶々コペンハーゲン在任中に新任の情報員がうっかりノルウェーの秘密作戦について喋ったのをオレークがMI6に報告したため逮捕につながった経緯から、オレークは自分の身に危険が迫ってきていることを確信し、ショックを受ける
MI6との関係を立って新たな家庭生活に戻ることも可能だったが、オレークは逆にペースを上げる。キャリアを進めるために起爆剤が必要で、先ずは英語習得に注力、イギリス文化に没頭。敬愛する上司の薦めで、第1次大戦中にイギリスの情報部員だったサマセット・モームの小説を読む。作品の中で、諜報活動の道義的曖昧さを見事に表現
オレークがMI6とのコンタクトを絶ってから3年後、ガスコットはスウェーデンのMI6支局長に異動、オレークがもし再び外国に派遣される場合はストックホルムに来る可能性があると考えての人事だったが、デンマークの外交官に頼んでオレークの消息を探ると、英語を勉強中との答えが返ってきた
6. 工作員「ブート」
81年、KGBのイギリス班では、ロンドンのソ連大使館駐在のKGB情報部員欠員の後任を探していた。何とか嫌いな上司に取り入ってイギリスへのビザ申請まで持ち込む。西側で名が売れていたオレークにビザの下りない懸念があり、ましてや情報部員だったことがわかると即座にビザ申請は却下されるが、PETの協力も得て、英外務省は速やかにビザを下ろす
寧ろKGB内部の出国手続きに時間がかかる。その間オレークは徹底的に既存ファイルを熟読
ジャック・ジョーンズは、労働組合運動で最も尊敬される人物の1人。69~78年には200万以上の組合員を抱える西側最大の労組だった運輸一般労働組合TGWUの書記長。熱心な社会主義者だったが、64~68年の間KGBの工作員でもあった
「ブート 工作員秘密連絡員」のファイルはマイケル・フットのもので、45年下院議員当選、80年は労働党党首、84年の選挙では人気凋落のサッチャーに代わって首相になると目されていたが、40年代から20年以上にわたってKGBから金が渡り関係が進展していったという。余りに大物で、情報活動を行うというより、世論や政策決定を左右する「影響力を持つ代理人」だった。社会主義系の新聞『トリビューン』の編集長で、ソ連から多額の支援を受けていたが、68年のプラハの春でモスクワを激しく非難し始めたために援助は打ち切られ、工作員から秘密連絡員に格下げされた。レーニンの造語「有益な愚か者=うまく利用すれば本人の自覚なしに、操縦者の意図する目的に賛同させることもなく、こちらのプロパガンダを広めさせることが出来る人物」そのものだった
82年、1年以上もたって漸く出国の許可が下り、娘2人共々イギリスに向かう
第2部
7. 隠れ家
81年、CIA情報員のエイムズは、メキシコシティでソ連人スパイをスカウトする担当に
72年ロシア語の研修を受け、ソ連・東欧部で働くが、同年ニクソンがCIAを使ってのウォーターゲート事件捜査妨害が判明するとCIAは内部崩壊の危機を迎え、士気は落ち、組織としてのまとまりに欠け、不信感が蔓延。エイムズもどん底状態だったが、コロンビア大使館の文化担当官の女性ロサリオと知り合ったことでエイムズの人生は一変
ゴルジエフスキーはイギリスに赴任してガスコットと再会を果たし、新たな経常的なコンタクト場所と危険を察知した時の避難所を決め、「ピムリコ」作戦も維持することになって、オレークにとって決定的に重要な安心材料となる
工作は新たな段階に入り、暗号名も「サンビーム」から「ノックトン(村の名前)」になる
MI6にとって、ロンドンに拠点を置くKGBスパイの運用は初の経験だったため、最も問題となったのは保安局MI5による妨害で、彼等はロンドンでKGB情報員の疑いのある者全員の動きを監視。MI6とMI5の協力は前例がないどころか強い対抗意識を持っていて、MI6の情報員でソ連のスパイだったキルビーをMI5が長期にわたって調査したことで相互の不信感は明白な敵意に変わっていたが、今回は異例の協力体制をとることになり、両者が共有する情報の暗号名は「ランパッド」とされ、関係者は両組織で12人のみに限定
オレークは、4年にわたって収集して記憶した情報を3か月にわたって詳細に体系だってMI6に報告、特にMI6にいると見られたKGBのスパイに関する正確な情報は20年に及ぶモグラ狩りを終結させたし、西側に潜り込んでKGBのスパイをやっていたものの情報も役立つ
MI6では、かねてよりKGBのスパイ網が30年代と同様強大に違いないと思い込んでいたが、ゴルジエフスキーのもたらした情報はそうではないことを証明していた。深刻な脅威となるものは1人もいないと報告された
特に扱いが問題となったのは「ブート」のことで、次の選挙で政略的に利用されるのを防がなければならなかった。MI5から内閣官房長の耳までは入れたが、サッチャーに報告されることはなかった
もう1つゴルジエフスキーの伝えた情報で危険な内容が含まれていたのは、82年冷戦が再び激しさを増し始め核戦争の現実味が増す中、ソ連政府が西側は核ミサイルの発射ボタンを押そうとしていると思い込んでいるとの情報
8. RYAN作戦
81年5月、KGB議長アンドロポフが秘密会議で、アメリカが核兵器による先制攻撃によりソ連を抹殺しようとしていると告げる。東西間の核戦争は相互各省破壊に対する懸念から、長らく食い止められてきたが、70年代末に西側が核軍拡競争でリードし始めると、ソ連側に被害妄想により恐怖が広がる。アンドロポフが56年ハンガリー駐在大使だった時、外見上は強力な体制があっという間に崩壊する様子を目の当たりにした個人的体験によるものと推測され、彼は12年後にもプラハの春を弾圧するために再び「非常手段」に訴えた
猜疑心の塊のアンドロポフは、「RYAN作戦」と銘打って、ソ連としては平時に実施した史上最大の情報作戦により、攻撃こそ最大の防御だと確信し、自身の恐怖を裏付ける証拠を集め始めるが、西側にそのような計画は存在せず、作戦は深刻な誤解に基づいていた
情報活動で最も重要な規則は、そうに違いないと自分が思い込んでいることの証拠を決して探し求めてはならないというもので、アンドロポフはこの規則を完全に破っていた。ヒトラーがノルマンディ上陸作戦の上陸地点をカレーと考えていた時も同じ過ちを犯して、裏をかかれた
ゴルジエフスキーも赴任前に作戦のブリーフィングを受けていた
82年末、ブレジネフの後任にアンドロポフがKGB議長として初めて党書記長になると、作戦は加速。オレークによってもたらされたその情報に、MI6はあまりの浮世離れなKGBの情報収集・分析力に唖然としたという
83年3月、レーガン政権は、戦略防衛構想(SDI、後にスターウォーズ計画)を発表、アンドロポフは以下りまくって作戦をさらに拡張してきたため、ノックトンがCIAでも共有されることになり、20世紀で屈指の重要度をもった情報共有作戦が始まる
アメリカの情報部員で、イギリスが地位の高いソ連人スパイを潜入させていることを知っている数少ない1人がエイムズ、ロサリオとともにワシントンに戻ったエイムズは順調に昇進を続け、この頃には対ソ作戦を担う部署の防諜班トップだったが、待遇には不満
オレークの生活は心地よく落ち着いてきて、自分のスパイ活動は文化的反体制派の行為であって、変節者の行為ではないと信じていた。作曲家のショスタコーヴィチや作家ソルジェニーツィンが戦ったように、KGBの人間である自分は、自身の情報の世界を通してしか行動できなかった
秘密を伝えられたイギリスの政治家は3人、サッチャーには関連情報が特別な赤のフォルダー「レッド・ジャケット」に収められて報告され、その外は内務大臣と外務大臣のみ
オレークのKGB情報部員としての仕事は、上司たちが最初からあからさまに敵対的、自らも誰とも親しく交わらず、英語の能力も若干劣っていたこともあって、組織内での業績が不振
ゴルジエフスキーが組織内で昇進すればするほどMI6にとっての利用価値が上がるため、オレークの業績不振をカバーするためにMI6が積極的にサポート。工作員の信頼度を上げる目的で敵に渡して構わない情報のことを「チキンフィード」と呼び、イギリス情報部は第2次大戦中にそのような情報作りの達人になっており、膨大なチキンフィードをオレークに渡す。同時に、MI6によって仕組まれたKGBのための秘密連絡員とも直接会って、今後の情報源で役に立ちそうなことを仄めかし、オレークが新たな連絡員候補を掴んだことをKGBの上司に認めさせたため、オレークのKGB内での株が急上昇。さらに、オレークの昇進を妨害しようとしていた直属の上司を、折からの西側諸国で吹き荒れていたスパイ追放の嵐に乗って国外追放にしたため、オレークはその後任として政治情報担当部署のトップの候補となり中佐に昇進すると、更にKGB内の機密の書類へのアクセスが可能となり、ソ連のイギリス支配層への潜入のお粗末な現状が明らかにされた。オレークの妻も非常勤としてKGB支局に入り、支局長のタイピストとなったため、別の情報源も利用できるようになる
オレークが昇進してすべてが順調に見えた中で、支局長のもとにオレークの直属の上司の国外追放の真相と、さらなる秘密提供を申し出る手紙が届く。差出人名は「コバ」で、スターリンの古いニックネームの1つ
9. コバ
支局長はMI5の罠だと直感し無視したが、2か月後にはKGBの情報部員全員の正確なリストを添えた手紙がくる。それでも支局長は無視したが、オレークにその手紙を見せたため、イギリス情報部内にモグラのいる可能性が高くなり、MI5の防諜部がモグラ狩りを始める
02年女性として初めてMI5の長官にまで上り詰めたマニンガム=ブラーが当時人事部長として担当。間もなく、「コバ」の書いた2件の情報にアクセス可能だった対ソ防諜班の中堅情報員を探し当てる。学生時代からナチ礼讃者で、薄っぺらいマルクス主義的政治思想の持ち主で、なぜかMI5にスカウトされ、自身では後にイデオロギー的信念によるものだと主張したが、単に人々の注目が欲しかっただけ
「コバ」は3度目の信号に挑戦、直接大使館に電話して支局長との対話を要求したが、これも無視、情報活動の歴史でこれほどのチャンスをみすみす見逃した事例は他にまずない
「コバ」の行為の証拠固めが難航、最後は本人の自白に頼るという賭けに出たが、尋問2日目に突然態度を変えてすべて自白、家宅捜索で証拠も多数押収
MI5情報員による二重スパイ事件は新聞を賑わせたが、ゴルジエフスキーと「コバ」が結び付く気配は全く起こらなかった
10. ミスター・コリンズとミセス・サッチャー
鉄の女は、彼女のソ連人スパイに会ったこともなければ名前も知らなかったが、好感を抱くようになる。理由は不明だが「ミスター・コリンズ」と呼んでいた。彼からの情報は、他国には知らせてはいけないという意味の「UK Eyes A」の印判が押され、首相は熱心に読んだ
KGBは、83年の選挙でサッチャーを敗退させるための工作に邁進、左派ジャーナリストを使って批判記事を掲載させるなど、モスクワが選んだ候補者が当選するよう民主的な選挙を操作しようとしていたが、無駄な努力だった
83年後半、サッチャーの再選後、東西両陣営の対立は、レーガン政権が軍備拡張を急速に進める一方、ソ連の猜疑心はますます高まり、最終戦争となる武力衝突へ向かっているような様相を呈するまで進展。KGBはRYAN作戦のギアを上げ、各支局に西欧側が核兵器による奇襲攻撃を準備している証拠を見つけるよう発破をかける
83年9月、日本海上空でソヴィエト軍の迎撃機が大韓航空機を撃墜、乗員乗客269名全員が死亡。レーガン大統領は、非人間的な行為として非難し、米議会も国防費のさらなら増額を承認、一方のソヴィエト政府は、「犯罪的・挑発的行為」をとったとしてCIAを非難
両陣営とも、核攻撃に至るまでのシミュレーションを繰り返していたが、83年末の「エイブル・アーチャー83」の暗号名で呼ばれた西側の机上演習が、「通常と異なる活動」を探っていたKGBにとっては演習以上のものに映り、本部に対しアメリカ軍基地が警戒態勢に入ったとの間違った情報が伝えられる。実際には、ベイルートでアメリカ軍人に対するテロ攻撃があったために、基地が警備を強化しているに過ぎなかったが、ソ連は自軍の核兵器の準備を開始、CIAからもバルト3国とチェコで軍事活動が見られると報告されたが、演習が予定通り終了すると、両陣営の警戒態勢は一般大衆には知られないまま終息。キューバ危機以来最大の危機的瞬間とも言われているが、ソ連側が現実の核攻撃に対して本物の恐怖を抱いてることが西側にもはっきりわかった
サッチャーはこの事態を深く懸念したが、アメリカは自分たちが半ば作り出した状況を完全には理解していなかったため、MI6はCIAに、ゴルジエフスキーからの情報を共有して、KGBが机上演習を戦争勃発の意図的な前触れだったと考えていると、はっきり伝える
レーガンは、国防総省から核戦争の「想像を絶する恐ろしい」影響についてのブリーフィングを受け、核戦争で世界が終わる可能性について考えを巡らせていた
レーガンもサッチャーも、冷戦を平和な西側民主主義に対する共産主義の脅威という視点から理解していたが、ゴルジエフスキーのお陰で、ソ連側の不安が世界にとってソ連の侵略よりも大きな危険となるかもしれないことに気づいていた。ソ連トップのエリート層は、アメリカとアメリカ人を、単なる敵としてではなく、核兵器で先制攻撃を仕掛けるかも知れない侵略者として、心から恐れていることを理解、これを機に雪解けが進むようになる
米英首脳の新たな理解は、84年初めのアンドロポフの死去もあって、急速に緊張関係を緩和へと向かわせる。その功績の一端はゴルジエフスキーにあり、CIAとの情報共有を喜ぶ
CIAの情報次官だったロバート・ゲイツは、ゴルジエフスキーの情報を読んで、「エイブル・アーチャー83」では核戦争の瀬戸際にいながらそのことに気づいてすらいなかったことを、CIAの情報活動における大失敗と認める
ごく稀にスパイが歴史に大きなインパクトを与えることがある。連合軍がエニグマ暗号を解読したことで、第2次大戦は少なくとも1年短くなった。諜報活動と戦略的欺瞞作戦が成功し、連合軍のシチリア上陸作戦とノルマンディー上陸作戦はうまくいった。30~40年代にソ連が西側の情報機関にスパイを潜入させたことで、スターリンは西側との外交で決定的な優位に立つことが出来た。ゴルジエフスキーの活動もその1つに加えられる。彼の情報がソヴィエト連邦に対する西側の考え方を変えた
84年2月のアンドロポフの葬儀には西側からも要人が参加。サッチャーは、ゴルジエフスキーのアドバイスに従って、礼儀正しく友好的に振舞い、後継者のチェルネンコに「いまこそ根本的な軍縮協定を結ぶチャンスであり、恐らくこれが最後だ」と告げる
普通のスパイは事実を伝えるだけだが、オレークは、KGBが何を考え、何を期待し、何を恐れているのかを西側のために解釈することができ、それこそがオレークの貢献の真髄
MI6ばかりでなく、KGBもゴルジエフスキーの活動に満足。MI6は、KGBを十分満足させられえるだけの興味深い情報をチキンフィードに混ぜてゴルジエフスキーに提供
84年4月、「コバ」の裁判が極秘で行われ、禁固23年の宣告。同時にゴルジエフスキーのボスだったグークが駐英KGBの支局長と特定され、新聞に写真入りで大々的に報道、第2次大戦以降初めてKGBが保安局内部の潜入工作員をスカウトするチャンスを辞退したと書き立てられた。サッチャーはすぐに「外交官としての立場と相容れない活動」を理由にペルソナ・ノン・グラータとしてグークを国外追放に。グークは人々の注意を引いたことでKGBに恥をかかせ、完全に表舞台から姿を消す。ニキテンコが支局長代理となり、ゴルジエフスキーはその副官となって、もっと機密情報にアクセスできるようになる
84年12月、ソ連の若き次期トップ候補のゴルバチョフ夫妻が英国訪問、ゴルジエフスキーは双方に何を話すべきかをサジェストする立場に。MI6が入手した英国外務省作成の会談の概要メモは、ゴルジエフスキーによって一字一句に至るまでKGBからのゴルバチョフ宛の報告書に記載された。サッチャーとゴルバチョフは気が合ったこともあって、同じ台本に従って成功裏に初の会談を終える。MI6は情報をそのまま歪めることなく利用することで、両者の関係を管理して新たな可能性を開こうと努力。サッチャーはレーガン宛に、「ゴルバチョフは間違いなく一緒に仕事ができる人物だ」と感想を送る
「一緒に仕事ができる人物」は、今回の訪問のキャッチフレーズとなり、翌年ゴルバチョフが後継となった時に成立する、若くて活気に満ちた指導部を象徴する言葉となる
この立役者の1人がゴルジエフスキーだったが、彼の余りの的確で詳細な報告に称賛を浴びた支局長のニキテンコは、政治情報担当トップが作成した詳細で示唆に富むトップ会談の報告書に対し、「まるでイギリス外務省の文書のようだ」と疑念を示す
11. ロシアン・ルーレット
CIAのソ連班班長バートン・ガーバーは、KGBの専門家、80~83年モスクワ支局長、ソ連内に20人以上のスパイを放っていたが、MI6からの資料には感嘆すると同時にその情報源に興味をそそられ、対ソ諜報活動の責任者だったオールドリッチ・エイムズに調査を命じると、エイムズは消去法によりゴルジエフスキーに辿り着き、「ティクル」(自尊心をくすぐるもの)の暗号名が与えられる
85年1月、ゴルジエフスキーは、「ハイレベルなブリーフィング」のためにモスクワに召喚され、MI6はリスクを考慮して亡命の選択肢も提示したが、オレークは命令通り戻り、支局長昇進の内示をもらってロンドンに戻る。怒り狂ったニキテンコは1カ月後の離任の際、何も重要な情報を残さず引継ぎは一切なし
5月、エイムズは、CIAでは舞台裏の仕事とされた部署で業績を認めてもらえず、多額の借金があるうえ、浪費癖のある妻に手を焼いていたため、自らのアメリカン・ドリームを買おうとKGBに取引をしたいと申し出、見返りとして5万ドルを要求。表向きは駐米ソ連大使館の軍備管理の専門家をスパイにスカウトするとの理由をつけていたので、CIAもエイムズの行動を許可。時間をかけて裏取りをしたKGBは取引に応じ、エイムズの要望通り金をわたす。この時点でエイムズがゴルジエフスキーの名を知っていたかどうかは不明だが、何人かのCIA側のスパイがKGBに潜入していることを仄めかし、それもロンドンの支局の高位の者である可能性が高いとあって、すぐにKGB史上最大規模のスパイ狩りが始まる
すぐにゴルジエフスキー宛に再度の召喚命令が議長直々からくる。今回もMI6はゴルジエフスキー自身の判断を尊重するとし、亡命の希望があれば受け入れると伝えるが、ゴルジエフスキーはMI6が続けることを期待していることを慮り、管理されたリスクの中だとしてモスクワに戻る決断をする
第3部
12. ネコとネズミ
5月、ゴルジエフスキーは途方もない勇気を奮ってモスクワに戻ると、アパートの鍵の1つが、それまで使ったことがないのにかけられている。KGBが気付いていることを察知したが、同時にすぐ逮捕されなかったことから、まだ十分な証拠は掴まれていないことを悟る
なかなか議長の尋問は始まらず、その間ばったり出会った同僚から、イギリスのイリーガルのネットワークが全員撤収されたことを知らされる
自白剤入りのブランデーを飲まされ、尋問官が自白を迫るが、何とか自白は市内で切り抜けると、上司から、「我々を騙していたことは分かっているが、KGBには残し非作戦部門へ異動させる」と宣告。家族もすぐ帰国させるよう大使館が手配
KGBは、規則を守る組織だったため、上司は決定的な証拠を求めて、ネコがネズミを弄ぶように泳がせることにした
ロンドンでは、トラブル発生のシグナルとしていたゴルジエフスキーからの家族への電話があったにもかかわらず、その内容を聞き漏らしたため、ゴルジエフスキーのモスクワでの確たる状況がわからずに不安になっていたところへ、家族が帰国するとのニュースで絶望に陥るが、脱出作戦「ピムリコ」の発動に向けた準備が加速
家族が帰国して、オレークは妻に、高い地位にまつわる妨害だと嘘をつく
元KGBコペンハーゲンの支局長で作家に転身していた旧友に会うと、旧友はオレークのあまりの変わりように驚愕。オレークは、2週間の休暇を得て、KGB職員専用のサナトリウムに行く前に、「ピムリコ」の信号を発信する
6月、エイムズは自分の身を守るために、KGBにCIAがソ連情報部内で動かしている25人のスパイの名を伝えるが、その中にゴルジエフスキーの名前も入っていた。25人のうち少なくとも10人が殺害され、100以上の情報作戦がソ連側に漏れた
エイムズから決定的証拠を得た後も、上司はゴルジエフスキーをそのままに放置していた
13. ドライクリーニングをする人
脱出の覚悟を決めると、オレークは元気を取り戻したが、家族をどうするかで苦悶、一般論で妻に亡命を誘うと、言下に「馬鹿なことを言わないで」と言われ、同道を断念。後に妻は脱出計画を知ったら告発したかと聞かれて、「夫を逃がしていたと思う」と答え、自ら参加するかについては何も言わなかった
家族は妻の実家で夏を過ごすことになり出発した後、「ピムリコ」計画に従って、メッセージを渡そうとするが、MI6は最初の信号を見落としていた。再度のトライで漸く計画が始動
上司は、問題解決を専門の監視チームを使わず自らの部署だけでしようとしたため、ゴルジエフスキーが訓練を受けたスパイであることを知らされず、2度も尾行をまかれたのは幸運
脱出決行の日は、イギリスの駐ソ大使が着任の日、計画に大使は強硬に異議を唱えたが、「首相がこの人物を救う圧倒的な道義的な責任があると思っているはず」との内閣官房長の一言で議論は終わる
ゴルジエフスキーは、作家の旧友に誘われた彼の別荘に行く約束をするが、同時にサマセット・モームの短編小説の一節を再読するよう伝える。それはロシア革命の際、イギリスのスパイがフィンランド経由で脱出する話で、自分の考えを示唆するためだったが、同時にゴルジエフスキーの反乱は、昔からある意味文化的な反乱であり、ソ連の文化的不毛に対する抵抗でもあったことの証
イギリスでは、女王の招待でバルモラル城に滞在していたサッチャーに伝令が走り、緊急の承認を得る
14. 7月19日、金曜日
MI6のモスクワ支局長とアシスタントの2台の車で、国境近くでゴルジエフスキーを拾って国境超える手筈になっていたが、外交官の車が出国する時には正式な許可と特別のナンバープレートが必要で、アシスタントは問題なくプレートがつけられたが、支局長の方は夫人の免許証が盗難に遭い再発行されていないために交代ドライバーのいない外交官の車は許可が下りないことが判明、締め切り1時間前に奇跡的に新しい免許証が届き何とか新しいプレートがつけられた
19日午後4時、ゴルジエフスキーはいつものジョギング姿に似た服装で外に出て最後のドライクリーニングにかかる。徐々にスピードを上げ、最終的にはほぼ全力疾走でKGBの監視員をまき、その後もありとあらゆる監視脱出テクニックを駆使、レニングラード駅は来週から開催される世界青年学生祭典の参加者でごった返していた。レニングラード行きの夜行列車に乗って、レニングラードでフィンランド国境に向かって乗り換え、さらにバスで国境の検問所手前の落合場所に向かう
KGBが失踪に気が付いた時点は不明、少なくとも20日朝に警報を出した様子はない
落ち合う地点の手前でMI6の支局長たちの車が尾行してきたKGBの車をまいて待避所に逃げ込み、ゴルジエフスキーをピックアップ
15. フィンランディア
回収にかかった時間は僅か80秒、ゴルジエフスキーは1台の車のトランクにうずくまって服を着替える。目標を見失ったKGBの尾行者たちは、幹線道路の次の監視所で待ち伏せ、MI6の車が来ると安心したように数分間の行方不明の事実はごまかしたまままた後ろをつける
国境地帯は幅20㎞、フィンランドまでの間の検問所がソ連側に3つ、フィンランド川に2つある。KGBから国境封鎖の指示は来ていないらしく、検問所では単に外交官車を通過させるだけの手続きをとる。ソ連領最後の検問所では探知犬が嗅ぎまわる中、ゴルジエフスキーがトランクからロシア人独特の強烈な匂いを発していたが、外交官夫人の機転で咄嗟に連れてきた赤ん坊のおむつを取り替え、汚物を犬の前に捨てることで切り抜ける。フィンランドの2つ目の検問を無事通り抜け、カーラジオの音楽を《フィンランディア》に変えてトランクのゴルジエフスキーにも無事通過したことを伝える
MI6本部から来た救出チームと合流して北極圏に向かう。予めフィンランド政府には連絡をいれているが、何も知らないうちに通過する分には不問に付すとの回答があり、その通りフィンランド側の動きはなにもなく、事後報告の際も実力行使の有無だけを知りたがった
ノルウェーとの国境を越えるまでは車で、国境の空港からオスロ経由ロンドンに飛ぶ
MI6の支局長たちは、翌日車をきれいに洗ってからモスクワに戻り、新任大使は信任状をソ連政府に提出し、大使館員全員で記念撮影に臨む。お互いに長くはないことを分かっていた
作家の友人は、週明けにオレークが別荘に遊びに来るので待ち合わせるために出かけたが現れず、数日後KGBに召喚
KGBの上司は、モスクワ周辺の捜索を続ける
妻のレイラも、実家から呼び戻され、何回かにわたって尋問を受けるが、イギリス情報部のために働いていた疑いがあると言っても信用せず、自分の夫を返せと迫る
ゴルジエフスキーは、MI6の訓練基地に移され特別室で4か月を過ごす。本工作の新しい、最後の暗号名が、「オヴェーション(大喝采)」となり、これまで11年間彼から提供されたが、彼を危険に晒す可能性が高いために秘匿されていた貴重な情報を、関係各所に配布してフルに活用する段階に入る
ソ連との関係をどうするかは大きな難問だったが、それ以上にMI6を悩ませたのはレイラと2人の女の子をどうするかということで、暗号名は「ヘトマン」(コサック人の首長を意味する歴史用語)
8月、ヴィターリー・ユルチェンコという名のKGB将軍が、ローマのアメリカ大使館に亡命、情報活動の歴史の中で5指に入る奇妙な出来事。KGBに25年勤務し、海外での特別作戦に関与、亡命の動機は不明だが、外交官夫人との不倫がきっかけだったという、3カ月後やはりよくわからない理由でソ連に再亡命。この亡命はCIAの大勝利として歓迎され、オールドリッチ・エイムズが尋問役を担当。ユルチェンコはエイムズの名を知らなかった。代わりにCIA内部にいるスパイ2人を名指しし、更にKGBロンドン支局長のゴルジエフスキーが裏切りの嫌疑でモスクワで絞り上げられているという情報をもたらす。これを聞いた時のエイムズの反応は、この男が2重生活が完全に一体化していて本人にも区別できなくなっていることを暗示。KGBにゴルジエフスキーの名を教えたのは自分なのに彼が逮捕された責任は自分にあるとして、先ず彼を救うためにイギリス側に知らせなくてはならないと本能的に反応
CIAは、ゴルジエフスキーがイギリスのスパイとして活動していることをすでに知っていたことは隠して、新たなソ連からの亡命者の情報として、ゴルジエフスキーがイギリス側スパイの容疑で尋問を受けたが、MI6に心当たりはないかと尋ねる。MI6はこの情報によって、ゴルジエフスキーの話した内容が正しいことが証明されたと安堵すると同時に、アメリカ側にゴルジエフスキーが既に脱出していたことを対外的には初めて知らせる
9月、CIA長官ビル・ケーシーが直接ゴルジエフスキーに面談。ケーシーは、大戦中ロンドンに駐在しヨーロッパでスパイに指示を出していた。レーガンの選挙参謀のあとCIA長官となり、アメリカの情報能力の再建に腐心するが、やがてイラン・コントラ事件に巻き込まれ、2年後に脳腫瘍で死去。来るレーガンとゴルバチョフの初の会談で、レーガンが何を言うべきかについてゴルジエフスキーのアドバイスを求めに来たもので、アメリカ側は核兵器による相互確証破壊の代わりに、SDIによる相互確証防衛構想を提案し、実質的に核戦争を時代遅れのものに変える技術の共有により核戦争の脅威を終わらせようと考えたが、ゴルジエフスキーの回答は「拒否」で、SDIを完全に中止しない限りソ連政府はアメリカを信用しないというと、ケーシーはSDIはレーガンの肝いりプロジェクトなので中止はできないというと、ゴルジエフスキーは、それなら徹底的に続けること、圧力をかけ続けるべきで、ソ連は勝てるはずのない軍拡競争に多額の資金を投じて何れソ連指導部は破滅すると答えた
同年11月、ジュネーヴでの米ソ首脳会談で、レーガンはスターウォーズ計画を必要な防衛措置だとして、譲歩を断固拒否、SDIの最初の実験が首脳会談中に発表される。この会談は、後に両者の打ち解けた雰囲気を反映して「炉辺サミット」と呼ばれるが、レーガンは肝いりのプロジェクトで一歩も引かず、ゴルバチョフも世界は「より安全な場所」になったと思い、同時に、ソ連は西側に追いつくため改革を進めなくてはならないと、グラスノスチとペレストロイカが始まり、やがてゴルバチョフも統制出来なくなる。ゴルジエフスキーがソ連政府の思考法を正確に解釈したことが、ソ連崩壊の原因になったわけではないが、崩壊をもたらす一助にはなったと言えるだろう
ゴルジエフスキーはワシントンも訪問し、数々のブリーフィングを行い、アメリカ人は感心し感謝したが、答えられない質問が1つ、誰が彼を密告したか。ブリーフィングの中で、ゴルジエフスキーはエイムズに紹介され、「アメリカ的価値観を体現する人物に会え、強い印象を受けた」と語ったが、ゴルジエフスキーに劣らずエイムズも二重生活を送る芝居がうまかった
エピローグ
16. 「ピムリコ」のパスポート
脱出から1か月後、「ヘトマン」作戦始動。MI6の情報員からパリ駐在のソ連外交官に口頭で、ロンドンのKGB支局の上級情報員だった男が、家族と一緒になりたがっていることを、KGB支局長に伝えるよう伝言。サッチャーがソ連との秘密の取引を承認、イギリスに潜入しているソ連側スパイと引き換えに家族を解放するというものだったが、KGB本部は拒否
イギリスは、対応策「エンベイス」作戦を用意。外務省が亡命のニュースを発表、ゴルジエフスキーが特定したKGBとGRUの情報員25名を国外追放。ソ連政府もすぐ反撃に出て、英国大使を呼びつけ、MI6の支局員2人を含む25名を国外追放とする。大半は事件に無関係だった。サッチャーはさらに6名の追加追放を提案、ソ連も6名追加、双方で62名が追放され、モスクワのイギリス大使館にロシア語を話せる部下がいなくなる
ゴルジエフスキーは厳重な警護の下で外部との接触を断たれ、任務報告業務に没頭、諦めと希望の間を揺れ動き、自分の成し遂げたことを誇りに思う一方、個人として払った犠牲に絶望
KGB内部では非難合戦と責任のたらいまわしが始まる。最後に責任を取らされたのは、イギリス外交官の監視を担当したKGBのレニングラード支局で、多くの上級情報員が解雇・降格、影響を受けた1人にプーチンがいる。友人・同僚・恩人の多くが追放されるのを目の当たりにした
KGBは真相を把握できず、偽情報で対抗。元外相の回想録でも的外れな事実しか記載されていない。KGBがどれほど虚勢を張ってごまかそうとしても、冷戦史上最も重要なスパイをその手で押さえておきながら、みすみす逃がしてしまった事実は明らか。85年11月、本人不在のまま軍事裁判にかけられ、反逆罪で死刑の宣告
ゴルジエフスキーは、情報の世界でワンマンショーを行う。MI6の警護の下、世界各国を訪問して、KGBについて説明し、謎に満ちた組織の仮面を剥いでいった。MI6がロンドンに一軒家を購入し、偽名を使って生活
レイラは自宅軟禁に置かれ、オレークとの共有財産はすべて没収、両親からの補助で生活しなければならず、子供は姓を変え、漸くオレークと手紙のやり取りをしたがお互いに相手を騙していた。離婚すれば財産を返還すると言われ、子供のことを考えた方がいいと示唆されて離婚に同意、元の姓に戻る
サッチャーは87年以降3回のゴルバチョフとの会談で、家族の問題を持ち出し、何れも回答を拒否されたが、絶対諦めなかった
脱出から2年後に密かにモスクワから持ち出されたレイラからの手紙はKGBの指示を受けたものではなく、本心が赤裸々に綴られており、文面には怒りが満ち満ちていた。その後も電話で連絡を取ることがあったが、盗聴を前提にした堅苦しいやり取りは、信頼関係を壊すばかりだった
KGB第一総局長のウラジーミル・クリュチコフは、88年議長に昇進、ソ連邦崩壊を眼前に、KGB組織を使って権力奪取を試みるが、3日で失敗し国家反逆罪で告発。ゴルバチョフはKGB全職員23万人を国防省の管轄下に置き、K局は解散、幹部の大半は解雇。KGB新議長は組織の解体の責任者となるが、最初に取った行動の1つがゴルジエフスキー一家の再会
91年9月、妻と娘2人はロンドンでオレークに再会、その3か月後にソ連邦崩壊。新聞各紙は一家の楽しそうに散策する姿を掲載、旧ソ連で激しい政治的大変革が起きている時期に家族団欒と愛の力を描き出した。それは共産主義の終焉を手っ取り早く象徴するロマンチックなシンボルだったが、6年の別離で苦悩も深かった。子供にとってオレークは知らないおじさんであり、レイラにとっては選択のチャンスもくれないままに勝手な選択をしたひどいロシア人であり、お互いの間には何も残っておらず、93年冷戦と同様完全に終わりを告げる
現在レイラは、英露を行き来しながら生活、娘はイギリスで大学を終えそのまま在英、何れもゴルジエフスキーの姓は名乗らず、MI6は一家の面倒を見るという義務を果たしている
KGBにいた友人や同僚も彼を許すことが出来ない
ロンドン支局にいた直属の部下は、当時皆多かれ少なかれ反体制派だったのに、何故オレークだけが寝返ったのか疑問
元同僚で友人の作家リュビーモフは、最後に囮にされたことに憤慨、KGBからオレークの裏切りの主犯と見做され、元同僚の全員が交際をやめたが、ロシア版サマセット・モームにはなれなかったが、小説・戯曲・回想録を書き、忠誠心ではソ連人だが態度や振る舞いは保守的なイギリス人という、冷戦が生んだ極めて特徴的なハイブリッドであり続けた
新任の駐ソ英国大使カートリッジは、スパイ追放合戦のあと、英ソ関係が急速に以前の良好な関係に戻ったことに驚き、88年まで駐在。脱出作戦を「稀に見る大勝利」だったと回顧
MI6でゴルジエフスキーを受け持った工作担当者たちは、今でも諜報の世界に残る
脱出に直接関わったMI6のモスクワ支局員は大英帝国四等勲士OBEに、秘書は五等勲士MBEに叙せられた。支局長は後に上院議員。脱出に同行して汚れたおむつで一風変わった役割を担った支局長の娘はロシア美術の専門家に。KGBは脱出行に赤ん坊を連れてきたことをどうしても信じられなかった
KGBのスパイ容疑で禁錮23年を宣告されたベタニー「コバ」は、14年務めて98年仮釈放
スウェーデン人スパイ・バーリリンは、87年刑務所の外出許可を得た後ソ連に亡命、多額の給付金をもらって生活したあと、出国して警備コンサルタントなどで働き、94年帰国申請して3年服役後釈放されるが、介護施設で傷害事件を起こした直後の15年パーキンソン病で死去
ノルウェー人スパイ・トレホルトは、8年刑期を務めた後、92年異論噴出の中恩赦で釈放、11年再審請求でも無実とされ、ロシアに住んだ後キプロスに移りコンサルタントに
オールドリッチ・エイムズは、CIAの防諜センター分析グループに配属され、CIAが運用するソ連人工作員の最新情報にアクセス、そのままKGBに流したので、死者の数は膨らみ、同時に彼のスイスの口座の残高も膨らんだ。生活は派手になったが、妻の貴族的な態度が格好の隠れ蓑となり、ソ連からは合計460万ドル稼ぐ。派手になった彼の生活がかなりの期間CIAの同僚から気付かれずに済んだのは驚き
エイムズは金のためにスパイをしたが、ゴルジエフスキーはイデオロギー上の信念によって動いていた。エイムズの犠牲者の大半は殺されたが、ゴルジエフスキーに正体を暴露された者たちは最終的に社会に復帰している。両者の違いは道徳的判断の問題、ゴルジエフスキーは善のために行動し、エイムズは自分のために行動した
CIAは、多くのソ連人工作員が失われているのは、盗聴や暗号が破られているためと見做し、モグラ狩りのトラウマから、組織内のスパイの存在を疑わなかったが、93年に漸くエイムズの贅沢な暮らしが注目され、監視下に置かれ、94年逮捕、終身刑。妻も共謀で禁錮5年
ゴルジエフスキーは、密告の犯人がエイムズだと知って驚愕
97年、アメリカのテレビジャーナリストが、ゴルジエフスキーに面会した後、そのビデオテープ服役中のエイムズに見せる。ゴルジエフスキーは密告した男に直接語りかける。「エイムズは裏切り者だ。彼は金のために働いたに過ぎず、強欲でろくでなし。金の尽きるその日まで、自分自身の良心に罰せられるでしょう。自分はあなたをほとんど赦している」。エイムズは、自分の行動と彼の行動は道徳的に等価だと言っており、自己正当化に終始、殆ど独善的だったが、「私が抱いている類の恥ずかしさと自責の念は、今も、これから先もずっと、きわめて個人的なものだ」とも言っていた
KGBの怒りは消えない。15年プーチンの元大統領府長官イワノフは、ゴルジエフスキーのせいでKGBでのキャリアが潰されたと言い、元KGBボディガードで亡命者の殺害容疑で告発された男は、「もし誰かを殺さねばならないとしたら、それはゴルジエフスキーだ」と言った
ゴルジエフスキーの警備体制は強化。多くのスパイの後半生が証明している通り、諜報活動は大きな犠牲を強いられる
07年、女王誕生記念叙勲で、「連合王国の安全に対する貢献」を評価され、聖ミカエル聖ジョージ三等勲士CMGに叙せられた。架空のスパイ、ジェームズ・ボンドと同じ勲位
15年、脱出30周年を記念して、76歳のロシア人スパイを称えるために、関係者全員が集まる。脱出時の鞄はMI6博物館に収蔵されているが、この時記念に鞄が贈られ、中には脱出時の携行品と赤ちゃん用のおむつまで入っていた
訳者あとがき
著者は、本書を含め12冊を上梓、綿密な文献調査に基づいて歴史の真実を明らかにし、それを物語形式で綴る作家として高く評価。その名を高めたのは、著者自身が「第2次世界大戦諜報もの3部作」と呼ぶ、『ナチが愛した二重スパイ――英国諜報員「ジグザグ」の戦争』(09年)、『ナチを欺いた死体――英国の奇策・ミンスミート作戦の真実』(11年)、『英国二重スパイ・システム――ノルマンディー上陸を支えた欺瞞作戦』(13年)
続いて、3部作を通じて不吉な影のような存在として常に作戦を危険に晒す脅威となっていたソ連側二重スパイ、キム・フィルビーに着目し、その半生と亡命劇を『キム・フィルビー――かくも親密な裏切り』(15年)で克明に解き明かした
フィルビーとゴルジエフスキーは、イデオロギー上の信念からスパイになったという点では似ているが、違いも多い。『キム・フィルビー』では「友情」に焦点を当て、フィルビーの裏切りによって、彼と友人たちの友情が偽りのものであったことが明らかとなる(原題もA Spy Among Friends)が、本書で危うくなるのは、友情と並んで重要な人間関係の1つである「夫婦の愛情」。原題にあるTraitor(裏切り者)の相手はソ連だけなのか、妻も含まれるのかは、物語の1つのテーマとも言える
ロシア人の名前の解説:
ロシア人の名前は、①個人名、②父称、③姓の3つで構成
「オレーク」が個人名、「アントーノヴィチ」が父称、「ゴルジエフスキー」が姓
②の父称は、父親の名前をもとにした「~の子」という意味の名。息子の場合は「オヴィチ」または「エヴィチ」、娘の場合は「オヴナ」または「エヴナ」をつけて作る
目上の人物やフォーマルな場面では、個人名+父称で呼びかけるのが丁寧とされ、友人など親しい相手には個人名の愛称で呼びかける(「ニコライ」の場合は「コーリャ」など)
姓の一部には男性形と女性形がある。「アリエフ」は男性形で、その女性形は「アリエワ」なので、レイラ・アリエワの父はアリ・アリエフとなって父娘で姓が微妙に違う
Wikipedia
ソ連国家保安委員会(略称:КГБ(カーゲーベー))は、1954年からソ連崩壊(1991年)まで存在したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘密警察。軍の監視や国境警備も担当していた。
東西冷戦時代にはアメリカの中央情報局(CIA)と一、二を争う組織と言われていたが、ソ連崩壊と同時に共和国間保安庁(現在のロシア連邦保安庁)、中央情報庁(現在のロシア対外情報庁)、連邦国境庁(現在のロシア国境軍)などに権限を移行した。日本での略称は КГБ を翻字した KGB(露: カーゲーベー、英: ケージービー)が使われる。
l 概要[編集]
1958年12月23日付ソ連共産党中央委員会幹部会により承認されたソ連閣僚会議附属国家保安委員会規程によれば、その任務は以下の通りであった。
1. 資本主義諸国における諜報業務
3. 反ソ及び民族分子の敵対活動対策
4. ソ連軍各組織における防諜業務
5. 特殊施設、特別重要産業施設及び輸送機関における防諜業務
6. 国境警備
7. 党及び政府の指導者の警護
8. 政府通信の組織及び保障
9. 無線防諜業務の組織
l 歴史[編集]
ロシア革命直後、レーニンの命を受けたフェリックス・ジェルジンスキーが「反革命・テロ・サボタージュ取り締まりのための全ロシア非常委員会」(「チェーカー」)を創立する。本部はルビヤンカ広場の全ロシア保険会社ビルに置かれた。ソ連崩壊(12月)直前の1991年8月までジェルジンスキーの大きな銅像が正面に建てられていた。
同組織は、部員からは「ツェントル」(ロシア語: центр、中央)と呼ばれ、国民からは「オルガン」(ロシア語: орган、機関)と呼ばれた。その後、国家政治局(GPU)や、統合国家政治局(OGPU)、スターリンの最側近ラヴレンチー・ベリヤが指揮する内務人民委員部(NKVD)、第二次世界大戦中の国家保安人民委員部(NKGB)、戦後の国家保安省(MGB)を経て、一時内務省(MVD)に統合される。
1954年3月13日、内務省に統合されていた国家保安機能が再び独立し、国家保安委員会 (KGB) が設立された。1978年までは、ソ連閣僚会議附属機関。当時のソ連では、党、軍、そしてKGBを掌握することが最高権力者の必須条件と言われた。1967年から15年間議長を務めたユーリ・アンドロポフが政治局に入ったのはベリヤ以来のことであり、これはベリヤ追放後にニキータ・フルシチョフの発意で、軍と秘密警察を党の統制下に置くために国防相と同じくKGB議長の政治局入りを禁止してきたのをレオニード・ブレジネフは解禁したためであり、1982年には書記長に就任している。
1991年、ウラジーミル・クリュチコフ議長がソ連8月クーデターを起こすも失敗して解任され、後任に選ばれた最後の議長ワジム・バカーチンによって解散した。
l ロシア連邦の後継機関[編集]
ロシア連邦において現存する後継機関としては、
ロシア連邦保安庁 (FSB) - 防諜・犯罪捜査
ロシア対外情報庁 (SVR) - 対外諜報
ロシア連邦警護庁 (FSO) - 要人警護
ロシア連邦大統領特殊プログラム総局 (GUSP) - 地下シェルター等特殊施設の建設・運営
がある。また、直接の後継機関ではないが、ロシア連邦麻薬流通監督庁 (FSKN) は、KGB出身者が中核となっている。
l CIS諸国の後継機関[編集]
ソ連崩壊後、CIS各国は、ソ連構成共和国のKGBを継承して、独自の諜報・防諜機関を創設した。カザフスタン、トルクメニスタン等、一部の国では、スラヴ系職員が排除されている。
アルメニア - 国家保安庁(アルメニア語版、ロシア語版、英語版)
ジョージア - 対外情報庁(英語版)、国家保安庁(グルジア語版、ロシア語版、英語版)
なお、バルト三国では、元KGB職員はほぼ完全に排除され、主としてドイツの連邦情報庁・連邦憲法擁護庁を手本に諜報・防諜機関を創設した[要出典]。
l 組織[編集]
第1総局 - 対外情報活動
第2総局 - 国内保安と防諜
第8総局 - 通信と暗号解析
第3局 - 軍の防諜関係
第4局 - 輸送
憲法擁護局 - 以前の第5局、イデオロギーと反体制活動
第6局 - 経済面の防諜と産業の保安
第7局 - 監視
第15局 - 政府施設の保安
第16局 - 通信傍受とシギント
技術工作 - OTU
軍事建設局
第6部 - 通信の傍受と審査
KGB警護部 - 以前の第9局、政府警護
第10部 - 記録保管
第12部 - 盗聴
調査部
政府通信
ユーリ.V.アンドロポフKGB大学校(現在のロシア対外情報庁対外情報アカデミー)
書記局
特別監督局
人事局
財務・計画局
動員局
管理・供給局
l KGB職員[編集]
KGB職員の法律上の地位は、軍人である。軍人と同じ階級呼称を有するが、人事管理は完全に区別される。KGBの組織は、軍の長所・短所をそのまま受け継いでおり、方針を巡る内紛が起こっても命令一下で解決する一方、しばしば、アネクドートで嘲笑されるように、モスクワからの指令なしでは動けない硬直性を有している。
KGB職員は、一般大学出身者が多い。海外のKGB代表部の秘密工作将校には、大学卒業後に一般企業などに勤務した経験を有する者も少なくなかった。このことは、KGBが管掌する活動範囲がかなり広く、幅広い人材が必要とされたためと思われる。なお自ら志願したものは決して採用しなかったという。
国境警備隊については、将校は、一般の軍事組織と同様、高等国境指揮学校(士官学校)卒業生が占め、上級の教育はソ連軍の施設を利用した。下士官以下の国境警備隊員は、召集兵である。
軍部隊に配属される公安将校は、一般に該当軍部隊の将校の中から選抜されて、KGBの訓練を受けて任命される。このため、公安将校は、配属先の将校と同等の知識、経験を有している場合が多く、冷戦時代に書かれた小説のようなKGB将校とソ連軍将校(主にGRU)間の軋轢は少なかったという。
また、これも小説などでの描写とは異なり、KGB職員はその身分が明らかになっている場合でも、ソ連国民からマイナス感情を向けられることはあまりなかったといわれる。これは、実際にKGB職員に対して不適切な態度をとれば後で何が起こるか分からないという恐怖心もさることながら、KGBが国境警備や防諜といった国家の安全保障に直接かかわる分野を担当していることが国民にも知られており、むしろ頼もしく思われていたという理由もある。
KGB職員は、採用直後にKGB大学校で一年間以上にわたり秘密工作訓練と語学研修を受けてから、それぞれの部門に配属されていた[1]。海外のKGB代表部には現地語の語学研修を終えた秘密工作将校が10年前後にわたり配置されるのが一般的であった。アメリカCIAの工作官も同じく秘密工作訓練と語学研修を受けるが、海外のCIA支局を2~3年で異動するのが一般的であることから、語学力や現地情勢の知識ではKGB将校の方が圧倒的に上回っていたとされる。KGBでは幹部職員といえども、専門家を育成しようとしていたことがうかがわれる。
l KGBに関係する地名[編集]
ルビヤンカ (Лубянка) - 1918年にチェーカーが本部を置いて以来の国家保安機関の中心地。現在、ロシア連邦保安庁の本部庁舎と逮捕したスパイを収監する監獄が存在する。現在の建物は1900年に完成した商業ビルを増築したもので、隣接して子供向け商品の百貨店『子供の世界』(ジェーツキー・ミール)(Детский мир)がありKGBの本部要員が自分から名乗る場合にはこちらは百貨店「子供の世界」の隣の者だがという具合に呼称していた。
ソ連崩壊時に撤去されているが、広場の前にはチェーカーの指導者、フェリックス・ジェルジンスキーの像が立っていた。
ヤセネヴォ (Ясенево) - 1972年に対外諜報を担当する第1総局がここに移転した。現在、ロシア対外情報庁の本部庁舎が位置する。人里離れた森の中に位置するため、KGB職員のスラングで、「森」 (Лес) と呼ばれた。秘密保持のため、3重の検問が存在し、職員の出退勤時には、特別のバスが運行され、民警がモスクワ環状線の交通を停止させた。
レフォルトヴォ (Лефортово) - KGB管轄の刑務所。正式名称は、レフォルトヴォ一時収容取調拘置所であり、未決囚を収容するための施設である。建物は、1881年に建築され、帝政時代、既に刑務所として使用されていた。以後、連邦保安庁に至るまで国家保安機関により管轄されている。欧州会議加盟国の基準に従い、2006年に法務省に移管されたが、FSBの職員が法務省に「出向」することにより、引き続きFSBが事実上管理している。1997年に史上初の、また2005年には、2度目の脱走が起こった。
l 歴代KGB議長[編集]
イワン・セーロフ (1954年 - 1958年)
アレクサンドル・シェレーピン (1958年 - 1961年)
ウラジーミル・セミチャストヌイ (1961年 - 1967年)
ユーリ・アンドロポフ (1967年5月 - 1982年5月)
ヴィタリー・フェドルチュク (フェドルチューク、1982年5月 - 1982年12月)
ヴィクトル・チェブリコフ (1982年12月 - 1988年10月)
ウラジーミル・クリュチコフ (1988年10月 - 1991年8月)
レオニード・シェバルシン(1991年8月)臨時代行
ワジム・バカーチン (1991年8月 - 1991年12月)
l KGB出身の著名人[編集]
KGB出身者は、ソ連の一般人よりも国際情勢や国内の真の状態について通じていたため、ソ連崩壊後もロシアのエフゲニー・プリマコフ首相やウラジーミル・プーチン大統領をはじめ政界等で成功し、いわゆるシロヴィキの中核も構成している。
エフゲニー・プリマコフ - 第1総局
ウラジーミル・プーチン - 第1総局
セルゲイ・イワノフ - 第1総局
セルゲイ・レベジェフ - 第1総局
アレクサンドル・コルジャコフ - 第9局
ニコライ・パトルシェフ - レニングラード支局
ワシリー・ミトロヒン - ソ連崩壊後、膨大な機密文書(ミトロヒン文書)を持ってイギリスに亡命した文書管理官
ヴィクトール・オレコフ - 第5局 反体制派の弾圧を担当していたが、『収容所群島』等の発禁処分を受けた反体制派の本に衝撃を受け、反体制派を支援するようになった。
アレクサンドル・リトビネンコ - KGBからFSBにかけて勤務し、FSBの違法な活動を告発したのちにイギリスへ亡命。2006年、毒物によって暗殺される。
秘密情報部(英: Secret Intelligence Service、SIS)は、イギリスの情報機関の1つ。MI6の略称が広く知られている[3]。国外の政治、経済及びその他秘密情報の収集、情報工作を任務としている[4][5]。
l 名称[編集]
第一次世界大戦以前にはイギリスの諜報・情報収集活動は、複数の官庁が個別に組織を設け活動していた。第一次世界大戦が勃発すると全情報を一元的に管理することになり、戦争省情報部(Directorate of Military Intelligence,
DMI。直訳では「軍情報総局」)の元で各組織との連絡を担当する課の名称としてそれぞれのMilitary Intelligenceの種類に応じて組織名に番号が割り振られた。第一次世界大戦中のSISはMI(c)と呼称されていたが、1930年代後半にMI6の名称が割り当てられた。他の組織には、MI1(暗号、暗号解読。後に海軍の「Room 40」と統合され政府暗号学校を経て政府通信本部)、MI2(中東、極東、スカンディナヴィア、アメリカ州、ソ連)、MI3(東欧、バルト海沿岸諸国即ちリトアニア・ラトビア・エストニア)、MI4(地図作成)、MI5(防諜)などがある。第二次世界大戦中にMI5との連携が強化される過程でMI6の名称は広く用いられるようになった[4]。SISでは既にMI6の名称を公式には利用していないが、一般に認知されているため公式サイト等では用いられている。SISやMI6の名は報道やノンフィクション書籍、「007シリーズ」のようなスパイ小説・映画で古くから知られていたが、イギリス政府は1994年までその存在を公式には認めていなかった[3]。
日本政府は、日本語の名称として秘密情報部を用いている[6]。
l 組織と活動[編集]
国家の情報機関であるため詳細は不明な点が多いが、本部の下に「地域課」と「連絡課」が存在し、地域課で現地情報に通じた人材を育成保有して情報収集等を行い、連絡課が本部との連絡役となる。人員は2,500名で約3億ポンドの予算だとされる。
組織としては外務・英連邦省の管轄であるが、外務大臣だけでなく首相と内閣府内の合同情報委員会(JIC)へも報告が行なわれ、これらの指揮を受ける関係にある[5]。
第15代長官を務めたジョン・サワーズは公式見解として「任務は指導者に情報を提供することで、軍事工作はしない」「(007のような)殺しのライセンスはないし、欲しくもない」と語っている[7]。
l 歴史[編集]
1909年3月にアスキス首相は、国家特務機関を再編することを帝国防衛委員会(合同情報委員会の前身)に勧告した。首相の勧告に基づいて10月1日、委員会に「秘密業務局外国課」(Foreign Section of the Secret Service
Bureau) が創設された。設立時の責任者にはバーノン・ケル大佐とマンスフィールド・スミス=カミング海軍大佐が任命された。後に秘密業務局外国課長も務めたスミス=カミングはサインとしてイニシャルのCのみを用いたため、これ以後のSISの長官はみな同じようにCのサインを利用するようになった
第二次世界大戦下の1942年11月19日に、MI6部長スチュワート・ミンギス大佐の主導でフレッシュマン作戦を敢行し、ドイツの原子爆弾開発を阻止しようとするも失敗に終わった[8]。
第二次世界大戦中の1940年にMI6によって設立されたイギリス安全保障調整局 (British Security Co-ordination)は、対ドイツ諜報活動、イギリス連邦諸国におけるイギリス支援のための世論形成など、様々な工作を行ったとされる。長官はウィリアム・スティーヴンスン(William Stephenson)で、イアン・フレミングはその部下であった[9]。
1995年に本部がランベスから、現在のヴォクソールに移動。新庁舎は警備体制が強化されており、盗聴、爆発物に対する防御が施されている。テリー・ファレル設計による、古代メソポタミアのジッグラトを想起させる外観は「テムズ川のバビロン」とも呼ばれている。
2000年9月20日に真のIRA[10]が対戦車ロケット弾をビルの8階に撃ち込んだが、損害は軽微であった。
2006年4月27日に国際テロの高まりを受けた人員増強の必要性から多様な人材を確保するため、1909年の創設以来初めて新聞広告で工作員の募集を開始した。また、独自のウェブサイトを立ち上げた。近年ではMI6、MI5などの諜報機関が公式ウェブサイトで新人採用まで行っている。2005年の応募資格は、父母どちらかがイギリス人であること、21歳以上で過去10年間に5年以上イギリスに住んでいた英国民である事が最低条件である。
2013年、フランスがマリ共和国内で実施した軍事作戦(セルヴァル作戦)を支援[11]。
l 関係機関[編集]
SISに協力する機関には、国防省に属する国防情報参謀部 (DIS) や、内務省の下に置かれる保安局 (SS,
MI5) がある。SISは国内組織としては、軍事情報を主に扱うDISや国内防諜情報を主に扱うSS (MI5) と協力し[5]、国外でも西側各国の情報機関と協力して任務を実行している。
またこれら2組織や、同じ外務省に属する政府通信本部 (GCHQ)、内務省の下に置かれる国家犯罪対策庁 (National Criminal Agency,
NCA) とともにJICを構成している。職員の出向などの人事交流も行われている[12]。
秘密情報部が運営すると考えられる乱数放送にはリンカーンシャー・ポーチャーとチェリー・ライプがある。
l 歴代長官[編集]
全員がナイトに叙され、サーの称号を受けている。
代 |
名前 |
綴り |
就任 |
退任 |
1 |
マンスフィールド・スミス=カミング |
1909年 |
1923年 |
|
2 |
ヒュー・シンクレア |
1923年 |
1939年 |
|
3 |
1939年 |
1952年 |
||
4 |
ジョン・シンクレア |
1953年 |
1956年 |
|
5 |
ディック・ホワイト |
1956年 |
1968年 |
|
6 |
ジョン・オグリビー・レニー |
1968年 |
1973年 |
|
7 |
モーリス・オールドフィールド |
1973年 |
1978年 |
|
8 |
ディック・フランクス |
1979年 |
1982年 |
|
9 |
コリン・フィギュアス |
1982年 |
1985年 |
|
10 |
クリストファー・カーウェン |
1985年 |
1989年 |
|
11 |
コリン・マコール |
1989年 |
1994年 |
|
12 |
デービッド・スペディング |
1994年 |
1999年 |
|
13 |
1999年 |
2004年 |
||
14 |
2004年 |
2009年 |
||
15 |
2009年 |
2014年 |
||
16 |
アレックス・ヤンガー |
2014年 |
現職 |
l 著名な職員[編集]
古くからイギリスはMI6等諜報機関の存在を否定していたが、007の原作者であるイアン・フレミングは元MI6の諜報員であることを公表しており、現役時代の経験を生かした物語としてジェームズ・ボンドを産み落としている。MI6での経験にもとづいてスパイ小説を書いた作家としては、他に「アシェンデン」シリーズを著したサマセット・モーム、「ハバナの男」のグレアム・グリーン、ジョージ・スマイリーを考え出したジョン・ル・カレ(MI5から移籍)などが知られている[13]。
2010年9月21日にはクイーンズ大学(アイルランド・ベルファスト)教授で歴史学者のキース・ジェフリー(英語版)による、初めてMI6の歴史をまとめた『MI6秘録』(The Secret History of MI6)[14]が公式に発売され、モームやグリーンの他にアーサー・ランサムなどが所属していたことなどが公式に明らかにされた[15]。
ハーバート・ジョージ・ウェルズ - SF作家。
l 関連機関[編集]
保安局 (MI5)
特殊作戦執行部 (SOE) (en:Special Operations Executive)
保安局[2](Security Service、SS)は、イギリスの国内治安維持に責任を有する情報機関である。MI5(Military Intelligence Section 5、軍情報部第5課)として知られている。本部はロンドンミルバンク11番、テムズハウス。
内務大臣の管轄下にあるが、内務省との組織上のつながりはない。また、司法警察権を有さない純粋の情報機関として設立された経緯から[要出典]、スパイやテロリストの逮捕は、ロンドン警視庁(スコットランドヤード)が担当する。日本における類似機関として、公安調査庁が挙げられることがある。
尚、MI5に対して、MI6の略称で知られているのは、 秘密情報部(ひみつじょうほうぶ、英: Secret Intelligence Service、SIS)で、イギリスの情報機関の1つである。 MI6は、国外の政治、経済及びその他秘密情報の収集、情報工作を任務としている。 [3]。
l 組織[編集]
A
Branch - 作戦支援
B
Branch - 人事、教育
D
Branch - 防諜
G
Branch - 国際テロ対策
H
Branch - 他機関との協力の調整
R
Branch - 記録
T
Branch - IRA対策
l 沿革[編集]
1909年に戦争(陸軍)省(War Office)の外局として秘密業務局(Secret Service Bureau)が設立された。これは現在の保安局と秘密情報部(MI6)両方の機能をもつものであったが国内課(Home Section)と外国課(Foreign Section)に分けられており、保安局はこのうちの前者にあたる。
1914年に第一次世界大戦が始まると戦争省本体に吸収、作戦部傘下におかれたが、1916年には新規に誕生した軍事情報総局へと移管された。この際第5課という課名が与えられたことがMI5(= Military Intelligence 5)という略称に繋がっている。
その後、1929年に国防保安局(Defence Security Service)、1931年に保安局(Security Service)とそれぞれ改称されているが、MI5の略称は公式サイトのURLにもなるなど、根強く残っている。
2009年10月5日、創設100年に合わせて、公認歴史書が出版された[4]。
l 対テロ活動[編集]
l IRA対策[編集]
小説や映画とは異なり、歴史的にMI5は、アイルランドでは活動しておらず、IRA対策は、スコットランドヤードと現地警察の対テロ部署が行っていた。
しかしながら、冷戦終結と共に、テロ対策がMI5の重要な任務となった。1992年10月、F Branch(破壊活動対策)とK Branch(対スパイ)からT Branch(IRA対策)が創設され、IRA対策はMI5が主管することとなった。
l 国際テロ対策[編集]
2003年6月、国際テロの脅威の分析と評価のために、統合テロリズム分析センター (Joint Terrorism Analysis Centre;
JTAC) が創設された。センターの定員は、100人であり[疑問点 – ノート]、その内30人がMI5職員である。
JTAC所長は、MI5長官に従属するが、11省庁の職員が働く独立機構として活動している。JTACは、MI5のT Branchと密接に協力している。
JTACは、アメリカの国家テロ対策センター (National Counterterrorism
Center; NCTC)、オーストラリアの国家脅威評価センター (National Threat Assessment Centre;
NTAC)、カナダの統合脅威評価センター (Integrated Threat Assessment Centre;
ITAC)、ニュージーランドの統合脅威評価グループ (Combined Threat Assessment Group;
CTAG) と共に、対テロ・ネットワークを構成している。
l 歴代長官[編集]
代 |
名前 |
就任 |
退任 |
1 |
バーノン・ケル陸軍少将 |
1909年 |
1940年 |
2 |
オズワルド・アレン・ハーカー陸軍准将 |
1940年 |
1941年 |
3 |
デビッド・ペトリー |
1941年 |
1946年 |
4 |
パーシー・シリトー |
1946年 |
1953年 |
5 |
ディック・ゴールドスミス・ホワイト |
1953年 |
1956年 |
6 |
ロジャー・ホリス |
1956年 |
1965年 |
7 |
マーティン・ファーニヴァル・ジョーンズ |
1965年 |
1972年 |
8 |
マイケル・ヘンリー |
1972年 |
1979年 |
9 |
ハワード・スミス |
1979年 |
1981年 |
10 |
1981年 |
1985年 |
|
11 |
アントニー・ダフ |
1985年 |
1988年 |
12 |
パトリック・ウォーカー |
1988年 |
1992年 |
13 |
ステラ・リミントン |
1992年 |
1996年 |
14 |
スティーブン・レンダー |
1996年 |
2002年12月 |
15 |
2002年12月 |
2007年4月 |
|
16 |
ジョナサン・エヴァンス |
2007年4月 |
2013年3月 |
17 |
アンドリュー・パーカー [5] |
2013年4月 |
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