ベートーヴェンとピアノ 限りなき創造の高みへ  小山実稚恵/平野昭  2020.10.26.

 

2020.10.26. ベートーヴェンとピアノ 限りなき創造の高みへ

 

著者

小山実稚恵 ピアニスト。チャイコフスキー、ショパンの二大コンクールに入賞した唯一の日本人。「12年間・24回リサイタル・シリーズ」を17年に完成、19年からベートーヴェンの後期ソナタを中心とした「ベートーヴェン、そして・・・・」を開始。国内外の主要オーケストラや著名な指揮者と数多く共演し、コンチェルトのレパートリーは60曲以上。被災地で演奏も続けている。CDはソニーと専属契約。17年度紫綬褒章受章

平野昭 武蔵野音大大学院修了。西洋音楽史及び音楽美学領域。1819世紀ドイツ語圏器楽曲の様式変遷を研究。特に、ハイドン、モーツァルトからベートーヴェン、シューベルトに至る交響曲、弦楽四重奏曲、ピアノ・ソナタを中心にソナタ諸形式の時代および個人的特徴を研究。沖縄県立芸術大、静岡文化芸術大、慶應義塾大教授を歴任。音楽評論分野でも月刊誌、日刊紙と放送出演で活躍

 

編集協力

長井進之介 国立音大大学院伴奏科修了を経て、同大学院博士後期課程音楽学領域単位取得満期退学。在学中にカールスルーエ音大に交換留学。演奏、執筆、「OTTAVA」プレゼンター等、多方面で活動中

 

発行日           2020.7.10. 第1刷発行

発行所           音楽之友社

 

はじめに

平野 19世紀がピアノ音楽百花繚乱の時代で、主役は1810年頃生まれたショパン、シューマン、リストだったが、みなベートーヴェンの音楽で育った

ソナタと変奏曲以外のロマン派ピアノ音楽の開花は、既にベートーヴェンの音楽の中に胚芽あるいは蕾の形で生まれていた

《ワルトシュタイン》以降の中期、後期のピアノ音楽の神髄に迫ってみたい

小山 今年は生誕250年。人間の無限の可能性を証明してくれるベートーヴェンの音楽――何があっても前進し続けること、生きることの大切さを学んだ

 

第19回     新しい道へと舵を切ったベートーヴェンが、新しいピアノを得てさらに創作意欲を燃やし、技術、和声、音域とあらゆる面が進化した《ワルトシュタイン》ソナタ、更に作曲者のお気に入りである《アンダンテ・ファヴォリ》を生み出す

l  ピアノ・ソナタ第21番《ワルトシュタイン》 Op 53 (作曲18034)

リヒノウスキーがエラール社に注文して作らせて贈った新しい機構を備えたピアノは、ベートーヴェンの新しい道を後押し

音域が5オクターヴ(61)から7鍵高音域に拡大、アクションも跳ね上げ式から突き上げ式となり、音色が豊かでタッチも重くなりダイナミックの幅も拡大。鍵盤の深さも1㎜深くなる

様々な技法や表現、ペダルの改革がおこなわれた作品に加え、一般的なソナタから考えられるような第2楽章ではなく、「序奏部」と記された緩徐楽章が置かれている点も特徴

献呈されたヴァルトシュタインは、ベートーヴェンのボン時代のパトロンで才能を高く評価し、当時新製品だったシュタイン製のピアノをプレゼントされた

l  《アンダンテ・ファヴォリ》WoO 57 (作曲18034)

《ワルトシュタイン》の第2楽章として書かれた可能性がある

 

第20回     エラール・ピアノによってより豊かなピアノの響きを得て、より劇的な感情表現を追求して書いたのが《熱情》であり、《ワルトシュタイン》のもう1つの第2楽章の可能性もある《第22番》

l  ピアノ・ソナタ第22番 Op 54 (作曲1804)

2楽章とも異例の同じヘ長調で書かれた特異な存在、どちらもソナタ形式になっていない

l  ピアノ・ソナタ第23番《熱情》 Op 57 (作曲18045)

このジャンルの1つの頂点。「英雄様式期」の作品で、4部分ソナタ形式で書かれている

ピアニズムの点での進化、感情的なアプローチ、「極限」を求める指示とその拘りなど、《熱情》には作曲家の意思が激しく反映されている(小山)

 

    ピアノ改良の歴史と呼応するように進化したベートーヴェンのピアノ曲

ベートーヴェンの生涯は、ピアノの改良発展の時代に重なる。生涯で使ったピアノの機種は10種を下らない

1796年夏、ピアニストでピアノ制作者でもあったシュトライヒャーに宛てた手紙で、「演奏法という点においてピアノアはあらゆる楽器の中で最も研究が遅れており、演奏法の発展も遅れている。ハープの音を聴いているかのようにさえ思ってしまう。ピアノにおいても歌うことが出来るのだということを理解している人はほんのわずか。ピアノとハープが全く異なる楽器であることを理解される日が来ることを希望する」と書いている

鍵盤楽器の主役がチャンバロからフォルテピアノに移行しても、チェンバロでは想定すらされなかったレガート奏法がピアノ曲の演奏法に広く取り入れられるまでには長い時間がかかった。後年、ベートーヴェンは87年ウィーンでモーツァルトを聴いて弟子のチェルニーに、「モーツァルトの演奏は見事だったが、ポツポツと音を刻むようでレガートな演奏ではなかった」と語るが、チェルニーは、「ベートーヴェンが遅いテンポで音を長く保つようなパッセージを演奏すると、聴く者は誰もが魔法にかけられたような感動に打ちのめされた」と語る

鍵盤音域は5オクターヴから5オクターヴと完全5度、そして6オクターヴへと広がり、ダンパー機構は膝梃子から足で踏むペダルへと改良、シフト・ペダルも2段階(ウナ・コルダ~ドゥエ・コルデ~トレ・コルデ)操作が標準装備されるようになる。ピアノ改良と並行して、ベートーヴェンのピアノ音楽の奏法や表現法も変化している

現在では、7オクターヴ+3音の88

ベートーヴェンがカデンツァを作曲するほど愛好していたモーツァルトの《ピアノ協奏曲第20番》が完成したのは1785年とされ、当時の使用楽器の音域はF1f35オクターヴで、楽曲中の使用音もこれに一致するが、ベートーヴェンが1809年作曲したカデンツァでは、高音域が1オクターヴ上のf4まで使われている

ベートーヴェンが愛用したピアノの製作者では、アウグスブルクのシュタイン一家(後に娘がモーツァルトのピアノ教師としても知られたシュトライヒャーと結婚して名前をシュトライヒャー工房と変える、6オクターヴ、73)、「ウィーンの宮廷付き室内オルガン及び楽器製造家」の称号を持つアントン・ヴァルター(5オクターヴ、61)のドイツ系に加え、1803年以降使用のパリのセバスチャン・エラール製(5オクターヴ+7音、68)1818年以降のロンドンのトマス・ブロードウッド製(6オクターヴ、73)。特に仏英の2社製のピアノは、ベートーヴェンのピアノ音楽の新たな表現領域拡大に大きな役割を果たす

最晩年に使用していたのは、ウィーンのコンラート・グラーフ製(6オクターヴ+5音、78)

足踏みダンパーの導入は1803年のエラール製からで、ベートーヴェンは入手直後に、《ピアノ協奏曲第3番》の第2楽章と第3楽章をこの楽器の表現機能に合わせて改作。ペダルの使用は、現在では打鍵音の延長と同時に、豊かな共鳴音と音の滑らかな連結を実現するためと考えられているが、ベートーヴェンの中期までのピアノ曲に見られる用法は、デュナーミク(強弱法)と密接に関連している

従来のウィーン式(跳ね上げ式)からイギリス式アクション(突き上げ式)に変わり、打鍵も重いが響きも重厚で深いものになり、音域の広さと強弱幅の大きさ、更には膝梃子から足踏みへと変わって操作性が飛躍的に高まる。ダンパー使用により、デュナーミクの表現性が一層重要となり、ベートーヴェンもデュナーミクを綿密に指示するようになる

 

第21回     ベートーヴェンのピアノ協奏曲は僅か5曲だが、その書法の革新は目を見張る。とりわけ第4番はピアノ協奏曲の歴史そのものを変えたといっても過言ではない

l  ピアノ協奏曲第4番 Op 58 (作曲18056)

冒頭からピアノ独奏で開始するという、常識破り

ピアノの主題提示がト長調なのに、それを受けるオーケストラはロ長調というのも異例

それまで自作のピアノ協奏曲の初演は、独奏パートを自身で演奏してきたが、この第4番がその最後のケース(以後は難聴で演奏を断念)。全体的にピアニストが音楽を牽引していくという考えが浮かび上がる

和声の繋がりを活かした絶妙な楽章構成、独奏ピアノとオーケストラの一体化を推し進め、19世紀に繋がる新しいピアノ協奏曲のスタイルを確立し始めた

 

 

第22回     バス楽器でしかなかったチェロに旋律楽器としての強い役割を与えた楽曲を残す。中でも《チェロ・ソナタ第3番》は充実した楽曲であり、若い頃に書いた3つの変奏曲にもその萌芽がみられる

l  チェロ・ソナタ第3番 Op 69 (作曲18078)

チェロ・ソナタを5曲しか残していないが、1,2番は20代半ば、3番は30代後半、4,5番は40代半ばと、創作の全ての時期に亘って扱ったジャンル。特に3番は、「傑作の森」に位置する時期であり、この作品も充実した内容を誇る

1,2番はジャン=ルイ・デュポール、4,5番はアンナ・マリー・エルデーディ伯爵夫人に献呈、3番は友人のグライヒェンシュタインというアマチュアのチェリストに献呈

l  《マカベウスのユダ》の主題による12の変奏曲 WoO 45 (作曲1796)

l  《魔笛》の主題による12の変奏曲 Op 66 (作曲1796)

l  《魔笛》の主題による7つの変奏曲 WoO 46 (作曲1801)

重厚なソナタに対し、同じチェロとピアノのための作品でも、上記3曲はベートーヴェンの即興性が活きた作品

 

    名チェリスト、デュポール兄弟

ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタとチェロ・ソナタにはフランスの影響が色濃い。デュポール家は1819世紀に活躍したチェリスト/作曲家一族で、ジャン=ピエールとジャン=ルイ兄弟の父はルイ15世の執務官でありながら、宮廷楽団でクラヴサン(チェンバロ)とチェロの奏者として活躍。兄弟はフランス革命まではパリで活躍、以後はベルリンに避難して、活動を続けた

 

第23回     ピアノ三重奏曲は、ベートーヴェンがOp 1として出版していることからも分かるように、非常に拘りを持って取り組んだ作品ジャンル。特に、その中でも異色なのが第5番《幽霊》と6番、《カカドゥ変奏曲》の3

l  ピアノ三重奏曲第5番《幽霊》 Op 70-1 (作曲1808)

l  ピアノ三重奏曲第6番 Op70-2 (作曲1808)

l  ピアノ三重奏曲《カカドゥ変奏曲》 Op 121a (作曲18013,16)

ピアノ、ヴァイオリン、チェロとそれぞれの楽器のためのソナタや協奏曲などを継続的に作曲してきたが、3楽器がともに演奏するピアノ三重奏曲の新作第5番と6番は、前作の第4番《街の歌》から11年もの期間が空いて書かれた

ピアノ三重奏曲の通し番号については現在も議論が続いている。《街の歌》や《交響曲第2番》の編曲(ピアノ三重奏曲版)、《創作主題による14の変奏曲》や《カカドゥ変奏曲》などを数えるかどうかで決まらない

 

第24回     ベートーヴェンが残した最後のピアノ協奏曲《皇帝》は、ピアノ独奏と管弦楽の緊密な関係によって交響曲的な性格を持ち、後の時代に多大な影響を及ぼす

l  ピアノ協奏曲第5番《皇帝》 Op 73 (作曲1809)

さらに進化。カデンツァから始まるのも異例で、シューマンやリスト、グリーグ、ラフマニノフらに受け継がれていく ⇒ エンペラー効果

l  ピアノ協奏曲 Op 61a (作曲1806)

l  ピアノ協奏曲 Hess 15 (作曲18145)

6番とされるものが上記2曲。前者は《ヴァイオリン協奏曲 Op 61 の編曲で、ヴァイオリン協奏曲を書きつつピアノ協奏曲への編曲も行っていたもの、後者は未完

 

    1809年は「カデンツァ」の年

1808年末《運命》《田園》等の初演アカデミー(演奏会)で難聴に起因する大失敗をし、ウィーンの音楽界に失望、ナポレオンの実弟が支配するヴェストファーレン王国のカッセル宮廷楽長の招請に応じようとしたが、ウィーンの貴族たちから終身年金のオファーがあって思いとどまったものの、ナポレオンはウィーンを攻略、ベートーヴェンは弟の家に身を寄せ、カデンツァを集中的に書き上げる。自ら難聴で初演が無理となった以上、第三者のピアニストが勝手な即興で作品本体の特質とかけ離れた名技性追究に走らせないためにも、カデンツァそのもの、或はカデンツァ開始部楽想を自ら示しておくことが有効と考えた

 

第25回     新しい道を模索するベートーヴェンが、一見学習用の要素が強いように見えるが、カンタービレ様式への歩みや洗練されたテクニックがちりばめられている

l  ピアノ・ソナタ第24番《テレーゼ》 Op 78 (作曲1809)

l  ピアノ・ソナタ第25番《かっこう》 Op 79 (作曲1809)

《皇帝》の後、ピアノ・ソナタのジャンルではここから加速度的にロマン派的作風へと近づく。歌心に溢れた作品が次々に書かれ、ジャンルの枠を超えた作品が目立つが、第24番は大きなターニングポイントともいえる楽曲

嬰へ長調は異例

25番は、突然古典的で、技巧的にもかなり平易。ベートーヴェンもやさしいソナチネというタイトルを与えている

l  ロンド第1番 Op 51-1 (作曲17967?)

l  ロンド第2番 Op 51-2 (作曲1798?)

演奏される機会は少ないが、個性的な作品であり、見逃せない創作背景がある

 

第26回     ベートーヴェンの主題を徹底的な操作と即興性、対照的な創作手法を比較する

l  ピアノ・ソナタ第26番《告別》 Op 81a (作曲180910)

ベートーヴェン自身による唯一の「標題付きソナタ」で、自筆譜に「敬愛する大公ルドルフの出発に際して」という書き込みがあり、ナポレオンのウィーン占領で疎開する際に献呈。大公はベートーヴェンのパトロンの中で最も身分が高かっただけでなく、唯一の作曲の弟子でもあり、特別な存在だった

l  幻想曲 Op 77 (作曲1809)

l  ロンド・ア・カプリッチョ《失われた小銭への怒り》 Op 129 (作曲1795)

上記2曲は即興的な作品だが、対照的な性格

《幻想曲》は、不滅の恋人候補の1人で姉テレーゼと共にウィーンでピアノを教えたヨゼフィーネ・ブルンスヴィクの兄で伯爵のフランツに献呈。ト短調で始まり、ロ長調で終わる。ロ長調の作品はほとんどない

カプリッチョは「気まぐれ」「狂詩曲」と訳されるが、即興曲と考えてもいい

同じ音型の繰り返しが多い

対照的性格を持つ音楽でも、ベートーヴェンの即興的に見える書法の作品には、綿密に計算された技法が駆使されている

 

    「幻想曲」Op 77の不思議な魅力

あまり演奏されない。《熱情》とともにフランツ・ブルンスヴィク伯爵に献呈されたが、夫人が傑出したピアニストで、ベートーヴェン作品の良き解釈者として知られていた

 

第27回     声楽が関わる作品。かなりの数の声楽作品を手掛けており、《第九》などの後期作品にも通ずる書法を見出すことが出来る

l  合唱幻想曲 Op 80 (作曲 1808)

声楽に対して強い思いを持っていたのは明らか

一番珍奇な作品。何故作ったのかよく分かっていない。即興のベースとして書かれた可能性もあり、断片的な音型の反復が非常に多い

l  歌曲集《遥かなる恋人に寄す》 Op 98 (作曲 18156)

連作歌曲集としてシューベルトの《美しき水車小屋の娘》や《冬の旅》が挙げられるが、それらが生まれる数年前に作曲されている。音楽が連作で、明らかな物語にはなっていないが、主人公の心境の変化がどこか物語的

 

第28回        「カンタービレ期」を象徴する作品。器楽作品に声楽の要素が溶け込み、旋律性と抒情性がふんだんに取り入れられ、ベートーヴェンの新たな顔が浮かび上がる

l  ピアノ・ソナタ第27番 Op 90 (作曲 1814)

5年ぶりに書かれたピアノ・ソナタ

2楽章構成で、ソナタ形式、ロンド形式と、形式上では特別なことは取り入れられていないが、その音楽は、それまでとは一線を画した抒情性に満ちている

l  ピアノ・ソナタ第28番 Op 101 (作曲 1816)

形式構造が定義し難い

イ長調のソナタでありながら、ホ長調のような開始で、歌謡的な主題を持っている曲

ハイドンやモーツァルトの古典的なピアノ・ソナタとは違い、19世紀のロマン主義を感じさせる

ソナタ形式が定義されるのは1830年代後半から40年代前半にかけてだが、ベートーヴェンは20年も早く、その「定義」から完全に離れたソナタを書いている。これ以降、彼の音楽は完全に後期の様式へと入り、さらに次の時代を切り開いていく

 

    入念なシフト・ペダル指示

現代のピアノでは右側のペダルを「ダンパー・ペダル」と呼び、弦を抑えていたダンパーが全音域一斉に弦から離れ、ペダルを踏んでいる間ずっと共鳴が持続

左側のペダルを「弱音ペダル/ソフト・ペダル」(正式には「シフト・ペダル/フェルシーブング」)と呼び、ペダルを踏むと鍵盤と連動したハンマー・システムが一斉に横にずれ、固定された弦の打弦位置が変わるので、音量が減少するが、重要なのは音色の変化

ベートーヴェンはシフト・ペダルによる音色及び音量の変化を後期ピアノ・ソナタの数カ所で念入りに指示している。最初の例が第28番の第3楽章。《ハンマークラヴィーア》ではさらに繊細な指示がみられる

 

第29回        ルドルフ大公に献呈された室内楽曲。高度な技術は要求されないが、洗練された技巧が駆使され、終楽章に変奏曲が置かれるなど、後期の様式が垣間見える

l  ヴァイオリン・ソナタ第10番 Op 96 (作曲 1812)

最後のヴァイオリン・ソナタ。前作から9年経つ。名ヴァイオリニストのピエール・ロードの依頼で書かれた

l  ピアノ三重奏曲第7番《大公》 Op 97 (作曲 18101)

 

    ルドルフ大公の音楽家としての才能

ベートーヴェンが主要な作品を最も多く献呈したのがルドルフ大公。トスカーナ大公レオポルド(神聖ローマ皇帝)の末子。優れたオルガニスト/ピアニスト。サロン・コンサートなどを通じて両者の交流が始まり、1808年《ピアノ協奏曲第4番》(作曲1806)を献呈、以降すべて自信作であり、どれもが伝統様式とは異なる革新性に満ちたものばかりを献呈

 

第30回        チェロという楽器の役割が大きく進化したことを感じさせるチェロ・ソナタの中でも、声楽性やフーガを取り込み後期様式の扉を開いた集大成の曲

l  チェロ・ソナタ第4番 Op 102-1 (作曲 1815)

l  チェロ・ソナタ第5番 Op 102-2 (作曲 1815)

チェロ・ソナタ最後の曲。3楽章制で、第3楽章のフーガが、ピアニストにとってもチェリストにとっても非常に難しい

 

第31回        楽器とピアニストの限界に挑戦するかのような曲。ピアノ・ソナタの完成形

l  ピアノ・ソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》 Op 106 (作曲 18178) 

屈指の演奏至難な作品

シューマンやリスト等後続の作曲家が高く評価、極め尽くされたと体感したことで、ピアノ・ソナタを書くのを止めてしまった

 

    2台のピアノから生まれた《ハンマークラヴィーア》

ブロードウッド父子はイギリスの著名なピアノ製作者。モーツァルト音楽の賞讃者で、モーツァルトとの親交でも知られるウィーンの銀行家を通じて紹介され、最新式6オクターヴのグランドをベートーヴェンに贈呈

 

第32回        ベートーヴェンの筆致を検証するうえで有益なのが変奏曲。平凡な主題からこれだけのものを創り出した筆致の見事さに注目

l  ディアベッリのワルツによる33の変奏曲 Op 120 (作曲 1819223)

最後の変奏曲であり、集大成

ディアベッリが独立した最初の出版物のための企画から生み出された

シューベルト、チェルニー、リストなど、ウィーン在の50人の作曲家に、デアベッリが作曲したワルツを渡して変奏曲を依頼。ベートーヴェン以外は第2部として翌年出版

献呈されたのは、不滅の恋人1人、アントーニエ・ブレンターノ

 

 

第33回        小品には彼自身の持つピアノ技法が素直に反映され、ピアノ教育にもたらすものは大きい

l  11のバガテル Op 119 (作曲 18202)

l  6つのバガテル Op 126 (作曲 1824)

ベートーヴェン最後のピアノ曲

l  ポロネーズ Op 89 (作曲 1814)

 

    小品と四手連弾を知らずしてベートーヴェンは語れない

バガテルとは仏語で小品の事だが、ピアノ曲として名称が広まったのはベートーヴェンの3つのバガテル集以降で、その音楽が評価され、受容されたからで、「バガテル」は包括的なタイトルであり、3集とも各曲それぞれ自由な形式によって書かれた小品からなるセット作品。一方で、ベートーヴェンは単独小品としてのバガテルを4曲書いている。WoO 52WoO 56, WoO 59(通称《エリーゼのために》)WoO 81(別名《アルマンド》)

ベートーヴェンのバガテルには、現在のピアノ教育に採用されてよい大切な表現法が備わっている

ベートーヴェンには6曲のオリジナル連弾作品がある

   ワルトシュタイン伯爵の主題による8つの変奏曲 WoO67 (作曲 1790/91)

   ソナタ ニ長調 Op 6 (作曲 1796/7)

   3つの行進曲 第13番 WoO 45 (作曲 1802)

   ゲーテの詩による歌曲《君を想うを伴う6つの変奏曲 WoO 74 (作曲 1803/4)

4手連弾の究極は《大フーガ》Op 134で、原曲は1825年完成の弦楽四重奏曲 Op 130の第6楽章フィナーレ。不評で、演奏可能な新しい第6楽章を作曲してロシアの音楽愛好家ガリツィン公に献呈・演奏されたが、ベートーヴェンにとっては、J.S.バッハのフーガ様式の咀嚼、消化を経て辿り着いた個人的かつ独創的フーガ表現であり、4手連弾ピアノ用に編曲して出版

 

第34回        究極といえるのが最後の3曲。未来へと受け継がれるものが詰まる

l  ピアノ・ソナタ第30番 Op 109 (作曲 1820)

l  ピアノ・ソナタ第31番 Op 110 (作曲 18212)

l  ピアノ・ソナタ第32番 Op 111 (作曲 18212)

ベートーヴェンが3曲をセットとして捉えていた。Op 111のハ短調を中心に長3度上(ホ長調)と下(変イ長調)のセット。モーツァルトも最後の交響曲は、394041番がそれぞれ3度の関係。しかもこのような組み合わせの場合、一曲を単調にするのが習慣で、それに従っている ⇒ Op 13でもすでに行われている(2番のイ長調を軸に、1番が長3度下のヘ短調、3番が短3度上のハ長調)

 

第35回        34回の後編

3曲ともフィナーレに重きが置かれているのは、全楽章で1つの作品であるという考えに基づくもの。2年後の《合唱》にも使われている考えかた

3曲すべてが深い抒情性をたたえつつ、J.S.バッハを始めとしたバロック時代の音楽へのオマージュともいえる、その強い影響が反映されている

 

    生前からあったピアノ・ソナタ全集出版の企画と没後の出版

一般にベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集といえば、186467年ライプツィヒのブライトコプフ&ヘルテル社編集刊行の《ベートーヴェン全集》(旧全集)。当時ゲヴァントハウス管弦楽団楽長でライプツィヒ音楽院教授の作曲家カール・ライネッケによる批判校訂版である

この頃には3種類の全集楽譜が出版。①リスト校訂版(1857)、②モシェレス校訂版(1858)、両版とも校訂者はベートーヴェンの弟子といってよい作曲家ピアニストだった。③ベートーヴェンと生前から親しかったトビアス・ハスリンガー社のもの

1800年を過ぎるころから、ブライトコップフ&ヘルテル社がモーツァルトやハイドンのピアノ・ソナタ全集の出版に取り組み始めていた。不完全なまま終わることが多かったが、ピアノの普及と関係して全集出版への機運は盛り上がり、ベートーヴェンに意向を打診したりもしていた

1810年代、各社が入り乱れて競争、当時版権とは異なるものの、初版(オリジナル出版)の独占出版契約が結ばれている場合もあって、各社とも全集を編纂することは容易ではなかった。多くの出版社が独占出版権を主張することで完全な形での全集出版は生前には実現せず

 

総括

ベートーヴェンの偉業が後世に与えた影響について考察

最後に得た楽器がコンラート・グラーツ製。6オクターヴ半。1825年頃貸与され、その頃にはもうピアノ曲を書いていない

ベートーヴェンがピアノ・ソナタのジャンルを極めたため、他の作曲家たちはバラードやスケルツォ、演奏会用練習曲といった周辺の様々なジャンルを開拓

同時代を生きたシューベルトは、ベートーヴェンとは異なる路線で進化を遂げるが、ベートーヴェンの没後書いた第1921番のソナタに関してはベートーヴェンの顔が見える

ピアノ協奏曲も大きな影響を残しているが、難聴になって人と合わせて演奏できなくなったこともあって1809年で作曲を止めている

ブラームスがシンフォニックなタイプの協奏曲を極めているのは、ベートーヴェンの理想が形になったものといえる

弦楽四重奏曲のジャンルについては、ベートーヴェンが古典派様式の集大成として存在し、ベートーヴェンの「後継者」はバルトークまで待たなければならなかった

 

    ベートーヴェンとの関連から見たブレンターノ家の人々と文豪ゲーテ

ベートーヴェンとゲーテ、そして両者と交流のあったブレンターノ一家の人間関係

ペーター・アントレ・ブランターノは、1762年フランクフルトで兄弟たちと貿易会社を経営、71年独立、フランツが生まれる。先妻死後女流作家ラ・ロッシュの娘マクシミリアーネと結婚し、クレメンスやベッティーナ誕生

フランツは独立してブレンターノ商会設立、銀行業にも進出して富を築く。ウィーン市の高級官僚で美術コレクターのビルケンシュトックの娘アントーニエと結婚。父の遺産整理でウィーンに戻ったアントーニエとベートーヴェンの親交が始まる

ベッティーナがウィーンでの劇音楽《エグモント》の上演成功を、師弟関係にあったゲーテに報告、1812年には彼女がゲーテとベートーヴェンのボヘミアでの邂逅を後押し

ベッティーナはフランクフルトの祖母の下で成長するが、この頃ゲーテの母親とも親交を結び、かつて自分の祖母や母にゲーテが想いを寄せていたことを知り、ゲーテに私淑。義姉のアントーニエはベートーヴェンの不滅の恋人1人、その娘マクシミリアーネに《ソナタ第30番》を献呈

 

 

 

ベートーベンの晩年を追体験 ピアニスト小山実稚恵

編集委員・吉田純子

20201017 1200分 朝日

 なぜ私はこんなに音楽に恋し続けているのだろう――ベートーベンの森に深く分け入ることが、音楽の道を歩む人生の意味を、あらためて自らに問い直す契機になったとピアニストの小山実稚恵は語る。名実ともに、日本の音楽界を代表するトップランナーだ。後期のピアノソナタ2曲を収めた新譜の録音で、いまを豊かに感じることを飛躍の礎とした、晩年の楽聖の心を追体験したという。

 ベートーベンは今年が生誕250年。新たな響きの地平を開かんとする野心に導かれたピアノソナタ全32曲は、無限の独創性と多様性の宇宙だ。強烈な自我をまとう楽曲ぞろいだが、今回録音した第28番イ長調の、邪心を削(そ)いだ無垢(むく)な表情に、以前からずっと心ひかれていたという。

 「いつものベートーベンの、ガツンとくる明快な『匂い』じゃなく、『香り』のようなものが静かにたちのぼってくる。冒頭の和声の移ろいなど、不安になるくらい所在なげなんだけど、その気配が高貴で美しくてたまらない」

 自我の炎をふっと消し、たちこめる煙のなか、胎動を始める新しい音楽に心を研ぎ澄ませる。そうしてベートーベンは、ピアノという楽器の歴史の扉を未来へと押し開く金字塔、第29番変ロ長調「ハンマークラヴィーア」を世に放つ胆力を得た。

 「最終楽章のフーガが、何かを乗り越えた人間の姿そのもの。バッハのフーガが自然のリズムの模倣だとしたら、ベートーベンのフーガは柔軟性を伴った肉体の躍動。28番の恥じらいも29番の強烈な意志も、全く別物なのに、まぎれもなくベートーベンなんです」

 第28番で、答えを求めぬ問いのようなフレーズの行方を無心に眺め、ベートーベンの逡巡(しゅんじゅん)に寄り添った。そして続く第29番で、ありったけの命を託された音符の群れを、即興性たっぷりに解き放った。この対照的な2曲に、誰もが立ち止まらざるを得なかったコロナ禍の先にある、希望の在りかが示された気がした。

 幼い頃は、自分の演奏を聴いて喜ぶ先生の顔を見たい一心で、ピアノのおけいこに通っていた。「おいしそうな果実に手を伸ばすように、本能で演奏を続けてきた」。東京芸大で、ドイツ音楽の権威だった田村宏から受け継いだ「音楽について思考する心」が、ようやく自分の中で熟しはじめていると実感している。

 「先生に恵まれました。もし、若い時期に煮詰まったエキスを詰め込まれていたら私、きっと挫折していたと思います。今頃になって、という恥ずかしさもありますが、音楽がなぜこんなに素晴らしいのか、自ら探求する人生が本格的に始まったことへのワクワクの方が大きいんです」

始まったばかりの幸福な循環

 昨年と今年、ベートーベン研究者の平野昭と共著を出した。ピアノに触れていない時間をいかに充実して過ごすか。そして、感じたすべてのことをどうやって音楽へと還元するか。幸福な循環は始まったばかりだ。

 113日午後3時、東京・渋谷のオーチャードホールでのシリーズ企画「ベートーヴェン、そして……」第4回〈本能と熟成〉で、ピアノ協奏曲0番と第5番「皇帝」を弾く。共演は山田和樹指揮横浜シンフォニエッタ。電話0334779999(編集委員・吉田純子)

 

 

 

猫親戚 小山実稚恵

日本経済新聞 朝刊 2020117

猫を飼いはじめて30年以上になる。いまは3代目の「ララ」。名前は私が好きな女性音楽家、クララ・シューマンとクララ・ハスキルにちなむ。彼女の母猫「こはるちゃん」の飼い主が、東京都大田区にある北千束動物病院院長の笹井利浩さんだ。知人の紹介でやってきた初代猫「ルビン」のときから、わが家と笹井家は"猫親戚"という間柄が続いている。

猫親戚は、それこそ猫のように、気がつくと一緒にいる。演奏会にはいつも来て下さるし、家族一緒に食事もする。笹井先生の別荘で、猫親戚を集めたお泊まり会を開いてもらったこともあった。

笹井先生は子どもの頃から生き物が大好きで、動物王国のような暮らしをしていたそうだ。屈託のない人だから、猫自慢をされても、それがごく自然で心が和む。長い演奏旅行のときには猫を預かってもらうこともあるが、帰ってくると「ララちゃん、お利口でしたよ」と言ってくれる。感性が敏感な動物たちもきっと、一緒に居ると落ち着くのだろう。

私たちの猫親戚関係は、音楽の発想標語でいうと「ドルチェ&レジェーロ(柔和に、軽やかに)」。もしくは「カンタービレ(歌うように)」という感じ。猫がいること、そして猫親戚がいることで生活に潤いと安心感を与えていただいている。(こやま・みちえ=ピアニスト)

 

 

 

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