鶴見俊輔伝  黒川創  2020.8.27.

 

2020.8.27.   鶴見俊輔伝

 

著者 黒川創(そう) 本名・北沢恒(ひさし)1961京都市生まれ。作家。京都ベ平連の事務局長を務めた北沢恒彦(俊輔と「家の会」主宰)の長男。同志社大学卒。『思想の科学』編集委員などを経て作家に。『かもめの日』で2009年に読売文学賞、『国境 完全版』で14年伊藤整文学賞(評論部門)、『京都』で15年毎日出版文化賞を受賞。本書で第46回大佛次郎賞。編著に『鶴見俊輔コレクション』全4巻など。

 

発行日

発行所           新潮社

 

小説『新潮』20177月号~20187月号

後藤新平子爵の孫として生まれた不良少年は、いかにして稀代の思想家になったのか。93年間の軌跡と時代の激動を追う決定的評伝

 

 

1回 政治の家に育つ経験

第1節      「平城(ひらじろ)」に住まう

1923年、麻布桜田町の後藤新平(当時東京市長66)の屋敷内には9カ月の俊輔が眠っていた。革命ロシアとの国交樹立に奔走する新平に対し、右翼の暴行事件が2件続発

新平の夫人和子は5年前に他界。岩手水沢城下の貧しい家臣の家に育った新平を学僕に引き揚げてくれた恩人・安場保和の次女で、その没後2か月に長女愛子が鶴見祐輔との間に娘を生んだので、亡妻の「生まれ変わり」として「和子」と名付けた

新平の姉・初勢も、水沢の婚家(椎名家)に籍を残したまま、早くに出戻って新平と同居、親類から東大法科に通う若者(椎名悦三郎)を養子に迎え、この青年も屋敷に出入り

父祐輔は、85年の生まれ、岡山中学を首席卒業のあと、一高でも首席、帝大法科では次席。一高時代から弁論部に所属して弁舌を磨き、いずれは政治家として首相を目指す。息子が生まれた時も、初代首相にあやかって「俊輔」と名付ける

帝大法科卒業後、内閣拓殖局を経て鉄道院勤務。この時後藤新平が鉄道院総裁と拓殖局総裁を兼任。1112年恩師新渡戸に随行して米欧に旅行したことが後年の「広報外交の先駆者」たる華やかな履歴の序曲となる。帰国後新渡戸の媒酌で新平の長女愛子と結婚

後藤と伊藤の間には深い絆。伊藤が韓国総監在職中(0509)、後藤は初代満鉄総裁(0608)。後藤は16歳年長の伊藤の政見を慕い、07年には後藤が伊藤に対し、「新旧大陸対峙論」を開陳、下関から挑戦縦貫鉄道、満鉄、ロシア経営の東清鉄道とシベリア鉄道でヨーロッパへつなぐ「国際鉄道」の動脈を確立することによって、日露欧の「旧大陸」諸国は一致して、新興の米国という「新大陸」国家の中国進出に「対峙」する図式を描く

伊藤が総監を退任した時、桂内閣の逓信大臣だった後藤は、満鉄時代に築いた人脈でロシアの財務大臣と会うよう伊藤に進言し、哈爾濱での会談が実現したが、その哈爾濱で伊藤が韓国独立を闘う韓国人義兵によって暗殺

鶴見家の道徳的なダブルバインド(二重拘束)  祐輔は無邪気に総理大臣になることを自身で望み、わが子にもそれを託した名前をつけたが、愛子は地位に阿る心持を寧ろ軽蔑、夫が総理大臣になることなど望まなかったが、古風な武家育ちの女性としていつでも夫を立てており、彼の望みが叶うことを願ってはいただろうが、息子が総理大臣になることを口にすると嘆かわしく感じてしまう方だった。父親の向日性の価値観に沿って不用意にものを言うと、母親を悲しませることになる。母親は、常に全身全霊を打ち込み、一部の隙もない言行一致を続ける、自己犠牲と正義の人

祐輔の自宅に一高弁論部の後輩が集まって始まったのが火曜会。華やかな交際の広さを物語る講師陣を招き、毎回数十人の参加者で夜更けまで議論が続く

23年夏、火曜会の講師にも来た有島武郎が、参会者の『婦人公論』記者波多野秋子と心中

新平が芸者に産ませた子を結婚後養女にしたのが静子で、脊髄脳神経系統学の医学博士で神田小川町に内科精神科の佐野病院創設者佐野彪太に嫁ぐが、彪太の末弟が佐野学で22年に第1次日本共産党結成に参加、一時ソ連に亡命中は後藤からの援助があったというが、33年獄中から転向し共産党崩壊への序曲となる

他にも後藤邸には新橋の芸者で39歳年下の河崎きみが住み、新平との間に7人の子供を作り、妻和子死去後は後添えとの話もあったが、子爵の結婚には宮内省の許可が必要とあって、そこまでの決意には至らず、新平の母没後住まいを邸内に与えられ一家の世話をした

後藤家では、長男の一蔵が、妾を自邸内に住まわせていることに反発して父親を張り倒したため、廃嫡問題に発展、愛子のとりなしで何とか廃嫡にはならなかったが、一蔵一家は屋敷を出て近くの麻布十番に逼塞。暫く後、愛子は自らの家と一蔵の家を交換

一族は平城のように邸内にそれぞれ家を建てて同居

25年後藤はハルピンの日露協会学校の卒業式に参加。往復の途上で同郷の1年後輩だった朝鮮総督斎藤実から歓待を受け、奉天では張作霖に2度会って満州経営の発展に注力するよう説得

 

第2節      祖父・新平と父・祐輔の間で

24年、祐輔は39歳で鉄道省監察官を辞職、官職から離れる

1821年の米欧への出張の経験から、「新自由主義」という政見を掲げる。個人絶対の権威に立つ旧自由主義に対し、国家と社会を否定しない新しい自由主義で、その後の政治家としての進む道を示唆している。同時期愛子も誕生間もない長女・和子を実家に残して単身ヨーロッパから米国に渡り、ウェルズレーに学び、祐輔と一緒に帰国

いずれ国際舞台で欧米風に夫婦相伴っての社交術をとりたいという祐輔の考えもあってのことで、祐輔たちが主宰する太平洋会議などで愛子が婦人代表として加わることもあったが、自身では社会的な活動よりも家庭内の仕事が好きで、夫と子供の世話に全力を注ぐ。一方、世話好きで、気の毒な人のことになると、自分の弱い体のことを忘れて奔走し、夫の選挙の世話を尽くし、健康を損ねる原因の1つとなる

新平も祐輔も、夜や早朝は勤勉に読書するのが共通で、特に祐輔は能書家、健筆でもあり、日産70枚もペンを止めることなく書き続けた。東南アジア視察後に書いた『南洋遊記』(17)が好評を得て以来、外遊のたびに自著を出版。中にはベストセラーも記録

ただ、これらの文章は通俗的な紋切り型であるのは否めず、豊かな教養と審美眼を備え、細やかな感情の持ち主だったことが窺える本人がどうしてこうした大雑把な文章を書き飛ばしていくのを自分に許していたのかは分かりにくいところ

穏やかな家庭人で、母親が厳しく子供を躾けていると、割って入って止め役を果たすやさしい父親で、ハンサムで華やかな有名人にも拘らず外で浮名を流すことはなかった

父親は激しいところのある人で、岡山の士族の身分を売り払って北海道で屯田兵となり、殖産興業で群馬の紡績会社の工場長となるが、更に流れて最後は金に困って小田原で死ぬ。祐輔はそれを見ながら離散した家族をまとめて地歩を築いたので、乱暴な生き方への自戒と警戒心が働いていたのだろう

新平は娘婿を「懐刀」として重用しながら、「御親兵一割損」の信念からわざと割り引いて処遇したこともあって、祐輔は官途に見切りをつけ政界に打って出ようと決心したのかもしれない

24年、初めて衆議院選に岡山7(父祖の出身地からは遠く離れる)から立候補、「新自由主義」を掲げるが落選

24年米国で排日移民法成立に伴い、公演の招聘が舞い込み、好評に応えて全米各地から呼ばれ、「国際的正義」に適った世界的な人口問題の解決を呼びかける「広報外交」を展開

その後も毎年講演旅行が続き、米国社会で最も著名な日本人となる

26年の衆院補選ではまた落選。28年第1回普通選挙で岡山1区に移して漸く当選、最高点をとるが、その後も選挙では苦戦が続く

30年の衆院選は、同じ岡山1区から出るが、新平の死去後で、「明政会事件」という選挙がらみの収賄疑惑が祐輔に取り沙汰され落選

36年の衆院選では、後藤の故郷水沢(岩手2)に移して当選。民政党入党。以後3742年と3連続当選

戦後50年まで公職追放、52年の衆院選では岩手2区で落選。53年参院全国区で当選。59年衆院選岩手地方区で落選。選挙区を5回移って、通算55

40年米内内閣の内務政務次官(半年)54年鳩山内閣の厚相(3か月)と、実績は殆ど無い

28年、後藤は最後の訪ソ。脳溢血で2度倒れた後で、死を覚悟しての務めだったが、モスクワでスターリンと会談。ロシア革命の際シベリア出兵という自身の政治的失敗に収拾を図ろうと日ソ国交樹立を目指し、25年初の日ソ基本条約を締結して実現させたが、さらに「新旧大陸対峙」という極東の平和構築の基礎を形成するために張作霖に自重を求める忠告をし、更に目下の中国に政治的中心がない以上先ずは日ソの提携で中国の参加を促す受け皿を作ろうとして、自らスターリンを誘いに行った

29年、死期を悟った後藤は、後事を同郷の竹馬の友・斎藤実に託し、3度目の脳溢血で死去

新平は、蓄財とはほとんど無縁に生涯を過ごしたが、様々な人が出入りし、たびたび大きな金が動いた。内務大臣時代の部下だった正力が讀賣買収の際10万円を無心した時も、麻布の土地を抵当にして借り入れた金を回している。明治維新を迎えた新平に降りかかったのが「土着帰農」の一令で、北海道に移住して士籍を保つか、故郷に留まって帰農するかの選択を迫られ、父は平民の地位に下がることを選んだため、俄かに丸腰となって町人や百姓と相伍していくことには、最大の零落の辛さが伴ったと新平は回顧している

麻布の土地については、18年内相当時衆議院で質問され、一級選挙民になっているのは麻布の邸があるからで、それは95年に7000坪購入したが、元々相馬事件(故郷の旧藩主の御家騒動に連座して投獄)で戻ってきた時、同情者の支援によってまだ辺鄙な地域で20003200円で買ったものが、3万円で売れたので7000坪を1万円で買い替え、それが現在35万円という。没後50万円で売れたが、まだ5万円の借財が残っていたという

一蔵は、資産整理のため広大な土地を売却、北東側を愛子に遺贈、南部を一蔵が継承、残りは大恐慌中で売却先が見つからなかったので、徳川義親に借りてもらい、その後満州国の大使館として売却、戦後中華民国大使館となって、現在の中国大使館へと引き継がれる

新平は、河崎きみにも生活の原資をあらかじめ残しており、きみは後に葉山の別荘を処分して阿佐ヶ谷に新居を普請している

祐輔一家は、28年初当選後住居を転々。目白にいた時和子は牛込の成城小学校に入ったが、5年の時砧村に移転したため、母親と同じ青山の女子学習院に転向、直後に天長節の前日父について軽井沢に行くため欠席届を出すが後に問題化、謝罪を求められた和子が何故かと聞くと母親が呼びつけられたので、愛子は、「うちの子供は自分が悪いと思わない時に謝るようには躾けていない」と反発、仕方なく和子が謝罪文を書き、以後は優等で通した

母は、そういうことにかけては父より勇気がある、というのが和子の判定

俊輔は、高師附小の男女組。クラスで一番軽く、同級には嶋中鵬二(中央公論社長)、永井道雄(文相)

1930年、大連に星が浦公園に後藤新平の初代満鉄総裁を記念した銅像が立ち、除幕式に遺族が立ち会うが、その時の顔ぶれにこの一族の序列が見て取れる ⇒ 伯爵を継承したのが一蔵だが、妻の代わりに愛子とその長女・長男を伴う(祐輔は外遊中)。亡父・新平から厚い信頼を受け、彼を支えてきたのは愛子であって、一蔵も一歩譲っている

愛子の子供は4人、和子(18年生)、俊輔(22年生)、章子(あやこ、28年生)、直輔(33年生)。一族から特別に扱われるのは和子と俊輔のみ、「後はゴミ」と兄弟間で言われることも

章子の回想では、自分は台所と女中部屋がすべてで、姉・兄が奥にいるようだが、奥に行くことはなぜか許されず、兄弟の顔も見ることもなく覚えていないという

俊輔は、電車を何度も乗り換えて学校に通い、更に寄り道をして、家で待ち受ける母の厳しい躾と愛情からしばしの休憩を得ていた。小3の頃から万引きグループに入り、クラスに知れて村八分となる。上級生からの制裁を救ってくれたのがクラス委員の永井であり、文芸という共通の関心事を持ったのが嶋中で、それぞれ回覧雑誌を作ったり、神田の古本屋街に立ち寄ったりしていた

34年、直輔誕生後、後藤邸の「お花畑」に祐輔の家が新築され10回目の引っ越しとなる

 

第3節      国とエロス

24年の全米にわたる講演旅行は、「排日移民法」反対という明確な主張とも結びつき、一気に光彩陸離とした相貌を帯びる

背景には維新後ほぼ倍増した人口急増問題があり、海外移民の加速を背景に、新平も日ソ国交樹立の暁には、ソ連領沿海州などに日本の入植地を開けないかとの腹案を持っていた

祐輔は、外交による人口問題解決を期して、世界の人口問題を解決するために、世界の利益を壟断する白色人種に反省を求めるという、米国社会の良識層に訴える論調をとる

政治家としての新平と祐輔で大きく異なるのは、新平が終身の勅撰議員として「選挙」を必要としない政治家だったこと。新平の公人としての活動は、医師に始まって台湾民政長官として政策のジェネラリストとしての才覚を開き、そこから鉄道、内政、外交と得意分野を広げていった。政治行動の基本単位は面談で、交渉相手と直接向き合って談判

祐輔は、「選挙」が政治となる時代の寵児。一高時代から弁論部で弁舌に磨きをかけ、聴衆を掴む喜びと陶酔に惹かれてゆく。政治を語る言葉は、日常の言語からはやや離れて多分に技巧的なものとなり、書く文章でも耳障りよく聞かせるための技法が駆使されている。流行作家として、世界中に知己のある名士としてその声望を維持していくことが、どぶ板選挙には弱い政治家としての生命線。家庭人としての祐輔は、いたってリベラルで、知識と見識に富み、温厚で心持の濃やかな人だが、政治家として公衆の前に立つ時とは全く異なり、子供たちもそれを感じ取っていた

32年ゲッペルスに会見した後、ヒトラーに会うために10日もベルリン滞在を続け、結局会えなかったが、大勢の名士と会いながら、何を話したいのかが伝わってこないだけでなく、「情熱なくして、人の世に大事を成し遂げた者はいない」という言葉の信者で、ヒトラーがドイツの大衆を動かしているのは、その理性的政綱ではなく、彼の渾身の情熱だとし、どうして彼が自分の情熱を一般大衆に移し植えることが出来たのかを知りたがった

穏やかな人柄ながら、政治家としては焦りから逃れられない人で、自らの政治的語法である「新自由主義」も、ある種の現実論とリベラリズムの間のけじめをぼんやりとした語法によって曖昧にすることで、時々の日本政府の施策について追認を重ねて行く

後輩が後に回顧しているが、「鶴見の政治生活を一言で評すると、心持ちは高く理想を追いつつ、身体は低く現実の政権を追う。終生大臣病、総理大臣病から脱却できなかった」

二・二六で斎藤のおじさまは即死、祐輔も暗殺を覚悟、密かに遺言状を作成

35年、俊輔は高師附属を卒業、ビリから6番目で内部進学できず、7年制の府立高校の尋常科に進学。入試の方が難しいので、わざと悪い成績をとったのかもしれない。密かに猥褻本を集め、柳宗悦の宗教研究やピアズリーのようなエロティックな絵画への好み、心霊研究や神秘体験にも興味。漢文の先生について『日本外史』『史記』列伝などを読む

36年、阿部定事件で年上の女性たちとの情事もあって恐怖に襲われ、府立高校に通えず、府立五中に転向するが、2度の自殺未遂を起こし、3回精神病院に入院して37年には中退

いわゆる放蕩体験でもなく、ロマンティック・ラブ・イデオロギーの虜とでもいうべきか祖父や父がおんぶお化けのようにのしかかるだけでなく、家に帰れば生真面目の権化のような母親が、自分の不良化に悩み、弱り切ってさらに攻め立ててくるのもあって、自己破壊の衝動が募るばかり。自暴自棄の俊輔を救ったのが五中の隣にあった小石川バプティスト教会の神父。天理教の信者だった愛子もここで洗礼を受けたが、俊輔は洗礼を受けようと考えた様子は見られない

見兼ねた祐輔が37年にオーストラリアへの講演旅行の時に連れていくと気に入って3か月ほどアデレードで過ごす。帰国後同年末には再び父についてアメリカへ行き、ハーバード大の米国史家アーサー・シュレジンガーに会って後年の米国留学の手筈をつける。その時俊輔は留学するなら小学校から入りたいと主張、困ったシュレジンガーが、大学院生で学部の研究助手も務めていた都留重人に頼んで説得してもらい、高校からとなる

 

 

2回 嵐のなかの本 (201710月号)

日米開戦。ハーヴァード大の俊輔は収容所を経て帰国、海軍に属しつつ、哲学を模索する

 

第1節        佐野碩のこと

38921日、20世紀で初めてハリケーンが米国ニューイングランド地方を襲った日

東アジア研究者エドウィン・ライシャワー(1910年生)はケンブリッジ市のハーヴァード燕京(イェンチン)研究所に着任直後、宣教師の子として東京に生まれ育った彼には日本で体験した「台風」の記憶を甦らせた

16歳の鶴見俊輔は、同市郊外コンコードの寄宿生の男子予備校ミドルセックス・スクールに到着した日のことで、付き添ってきた祐輔は帰った後をハリケーンが襲う。100人の生徒の中で留学生は俊輔1人、英語も分からず、毎日50個の単語の暗記を自分に課す

父・祐輔は愛子・和子を伴ってニューヨークに滞在、「国民使節」という役目で、緊張を深める日米関係に、より楽観的な空気を呼び込みながら、対中国問題に関しては日本の立場の優位と正当性を宣伝するという難役だったが、近衛内閣の建前をなぞる程度に終始

和子は、ヴァッサー大の世界青年会議に出席、自由な校風に惹かれ翌年の留学を決める

愛子は、腹違いの姉・静子に頼まれ、左翼演劇人として追われ亡命生活を続ける静子の長男・碩に換金のために渡す宝石を預かっていた。碩は、モスクワに定住し劇場の研究員となって妻子まで持つがパリに追放され、米国入国も拒否され、米国経由日本に帰るべく船に乗る。碩は祐輔と連絡を取り、人民戦線のような運動を起こそうと考えたが、祐輔は既に体制に反対しない政治家になっている。碩は友人の奔走でメキシコへ行く

俊輔の英語力は1年で上達、ハーヴァードの入試を受け合格、哲学科に進むが都留の助言でプラグマティズムを専攻

 

第2節        「一番病」の始まりと終わり

1年の時は、ウィーン学団の中心的一員で4年前亡命してきたルドルフ・カルナップの講義をとり、記号論理学の演算に熱中。いきなり英作文で落第点を取るが、徐々に英語力も伸びて年間通算では優等で切り抜ける

外務省の在外研究員としてハーヴァード大学院で学ぶ本城(後に東郷)文彦が同じ下宿に入り込み、一緒に都留の内弟子に出向く

2年になると、70歳になろうかというバートランド・ラッセルも一目置いたというウィラード・クワイン(32)がテューターとなってチャールズ・サンダース・パース全集の『プラグマティズムとプラグマティシズム』の巻を講読

学費・生活費が限られたため質素な生活に甘んじ、背が低いのも気になって、余計成績では1番であることに拘る

ラッセルやホワイトヘッドの講演を聞き、夏目漱石の門弟でもあったエリセーエフ(51)の極東言語学やライシャワーの日本研究のセミナーもとる。エリセーエフやライシャワーは俊輔の日本語の先生でもあった

40年、一時帰国し柳宗悦(51)に会い、柳の初期から続くウィリアム・ジェイムズへの関心について質問しようとした。米国に戻った時のロサンゼルス港での横柄な口ききが原因で初めて留置場に放り込まれ、すぐ釈放されたが後日の本格的な拘留の予防接種の役目

大学に戻ると、エリセーエフとライシャワーによる日本語教科書『大学生のための初等日本語』作りを和子や本城とともに手伝う。41年刊。日米開戦によりハーヴァードとUC Berkeleyに海軍の日本語学校が作られ、陸軍はアーリントンでライシャワーが招かれる。そこでの教科書の作成も手伝う

41年春にはウィリアム・ジェイムズを主題とする優等論文(卒業に向け優等生の資格を有するものが作成する論文)の準備を始める。和子もヴァッサー大の大学院哲学科でマルクス主義の観点に立ってデューイ批判の修士論文の仕上げにかかる

同年、米国政府は在米日本資産を凍結したため、俊輔は学費を稼ぐため前田多門のニューヨーク日本文化会館でアルバイト。この時仲間とともにヘレン・ケラーを囲んで話をしたが、彼女が「大学で学んだことの多くをunlearnしなければならなかった」と言ったのが耳に残り、ずっと後になって「学びほぐす」という意味ではないかと思うようになったという

秋から1人暮らしとなって喀血が始まるが、来年の卒業を控え大学には内密に

11月駐米公使から留学生全員に、日米関係悪化につき引揚船を手配しているので帰国を勧奨する旨の手紙が届く。俊輔も和子も父の政治的立場を考えて迷ったが学業を優先、大半の留学生が留まることになる。結局引揚船は延び延びになる間に開戦、米国人で満船の引揚船は、開戦直前まで日本の開戦決定をカムフラージュするために横浜出港を引き延ばされた挙句、直前に出港しながら開戦と同時に日本に引き返したという

開戦当日も俊輔は勉強、敗戦を予測していたので、米国の友人から敵味方で憎み合うと言われた時には理解できなかったし、敗戦の時には日本にいなければと感じていた

本城文彦は、交戦相手国の外交団の一員としてヴァージニアの山中に軟禁される(後に東郷茂徳の娘婿となって東郷姓に変わり、74年外務次官、75年駐米大使)

年末には第3学年前期の成績がトップ(上位5%を指す)だったことを日本の家族に連絡

423月、下宿先でFBIの捜索を受け拘留。司法長官も「治安を乱す者以外は適性国人を逮捕することはない」と明言し、ボストンでは学業や日常生活は自由なままだったが、年初に敵国民登録の際、俊輔が「自分の心情は無政府主義者なのでどちらの国家も支持しない」と答えたのを思い出して、一旦は手帖やら資料を友人宅に疎開していたが、何事も起こらないので持ち帰ったところ。押収資料とともに連行され、「一番病」の時代が唐突に終わる

 

第3節        柵のなか

拘留されたのはボストンの移民局の留置場。食事は外のものより良く、ドイツ人とイタリア人ばかり、喀血も収まる。書きかけの優等論文は指導教授の奔走で留置場に戻され続きを書き、ニューヨークの和子に送ってタイプしてもらって、何とか期限までに提出、留置場で卒業試験の面接を受けるが卒業成績に満たず、優等論文を後期分を補う論文と認めてもらって卒業となったため、優等賞での卒業とはならず

拘留の審問では、後見人のシュレジンガー教授も弁護してくれたが、陪審の判決は12で「戦争期間中の抑留者」と判定され、エリス島の連邦移民収容所経由メリーランドのフォート・ミード収容所へと送致、ほかの日本人抑留者とともに集団生活、その後交換船で帰国という手筈だった。ただし帰国するかどうかは本人の自由。集団生活のリーダーに選ばれたのが日本綿花ニューヨーク支店長だった野田岩次郎、第1次交換船の乗船を辞退、翌年の第2次で米国人の妻と娘を残して単身帰国、戦後は財閥解体の実務に携わり、ホテルオークラ(当時大成観光)の初代社長

ハーヴァードからは、卒業を認める教授会の決定が届くが、「卒業試験は点数不足、提出論文は優等論文として合格させることは出来ないが、バチェラー・オブ・サイエンス(理学士=ギリシャ・ラテン語を履修しない学士号の意)”の学位授与の参考資料として認めた」というだけで、卒業できたのはどうか心もとないまま

425月、帰国指名者に指定され帰国を希望、和子も米国務省から問われて帰国を決める

祐輔の働きかけで、東郷外相は公電に、「交換船での留学生の帰国優先順位では俊輔・和子を優先せしめられたし」との手書きの一文を加えたという。祐輔の陽性の身贔屓ぶりはこれ程にも筋金入りで、それへの息子・俊輔の苛立ちは、なかなか通じないまま続く

6月交換船出港、中米やハワイからも含め1000人余りを乗せ、南米経由喜望峰へ廻航したポルトガル領ロレンソ・マルケスで日米両国人の交換が行われる

船内で都留夫妻に会って卒業確認を知らされる

日本からの出迎えの船に乗った途端、日本のしきたりの中に放り込まれる

2か月半の航海を終え、横浜到着時の官憲の取り調べは厳しく、やがて「横浜事件」と呼ばれる大掛かりな冤罪事件を形作る

横浜からは迎えに来た両親とともに車で麻布の自宅に向かうが、車中で祐輔が自発的に「神風が吹いた」と真珠湾のことを言ったのに俊輔は耳を疑い、相当危なっかしい人だとは思っていたが、まさかここまで変わっていようとは、と驚く

その衝撃が尾を引き落ちつけない。4年前英語を覚える時にも痛みがあったが、日本語に戻ろうとするのも痛かった。米国の牢獄以上に、日本の社会が牢獄だった

今年最後の徴兵検査に間に合うと言われて受験すると、結核に起因するカリエスの異常突起があるのが明らかなのに乙種「合格」とされ、敗北を日本人の中にあって受けたいと考え帰国したことが、早まった理想主義のように思えた

 

第4節        悪の問題

戦争は私に新しい字引を与えた。旧約に対する新約として、私の持つ概念の多くを新しく定義した。どうせ戦争にとられるなら、海軍で働く方がまだしも「文明的」な環境と考え、ハーヴァードで学んだドイツ語を活かし、軍属のドイツ語通訳として志願し、432月ジャカルタ在勤海軍武官府に着任。連合国の短波放送を聞いて役立つ情報を集めるほか、士官用慰安所施設の運営にもあたる

BBC放送からは、ジョージ・オーウェルがプロデュースしたT.S.エリオットがジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』について講義する1時間番組が聞こえてくる

443月には「ビハール号事件」勃発、豪州からインドに向かう英国商船をインド洋上で拿捕・撃沈するが、乗員は救助したのち一部を虐殺したため、戦後のBC級戦犯裁判で司令官が絞首刑になったが、上陸後伝染病に罹患した中立国人を鶴見の隣室の軍属が殺害役を命じられる。戦後10年余り過ぎた56年、『戦争のくれた字引』を発表、自身小説と呼ぶ形で事件にも言及。鶴見はその外にも戦争末期に帰還した後、戦時下の経験を記録しておこうと、『敵の国』『滝壺近く』という手記を書く。未発表。もし隣室の軍属でなく自分に捕虜殺害の命令が下っていたらどうしたか、殺していたらその後どうやって生きることになったのだろうか? この自問は戦後ずっと続く。これらのことを記録に残したいと思ったのは、殺害実行者が自分であったかもしれないし、ほかの日本人でもあり得たろう、そのことをいわば自分の消えない傷として、また、日本人自身が自分たちの歴史として、刻まなければと思ったから。何度も推敲された『戦争のくれた字引』は、鶴見の内面の記録として、読まれる必要がある

ジャカルタ勤務中に胸部カリエスが悪化、異常突起に穴が開いて2度手術。そこへ、マレーのマラッカ州知事で陸軍司政長官だった叔父の鶴見憲が見舞いに。退院後内地送還となるが、シンガポールで敵艦に包囲され出港できないまま、海軍通信隊所属に戻され、翻訳の仕事につくと、米軍の爆撃に見舞われる

この間古本屋でタゴール(3章が「悪の問題」)を見つけて読む。戦争を巡る諸現実に取り巻かれ、論理実証主義の足元の確かさが崩れ落ちる、そうやって液状化した昏い混迷に沈み込む中で――不完全な見方をしているということは、ある程度の真実を知っているのと同じである――というタゴールの無限に続く認識の連鎖に出会う。彼の論理実証主義の概念の束に、「旧約」から「新約」への入れ替えが生じるのは、ここである

44年終わり近く、練習巡洋艦が日本に向かうことになり、漸く帰国を果たす

 

第5節        『哲学の反省』を書く

軽井沢の離山の麓にあった祐輔の山荘で静養。軽井沢では、同じ船で帰国した大河内夫妻がいて、交換船浅間丸が横浜入港直前、官憲の取り調べで米国共産党のスパイがいるとのでっち上げとなり63人もの検挙者を出す「横浜事件」へと発展したことを知る

454月から慶應大日吉校舎の一角に置かれた海軍軍令部の翻訳部署に勤務

外務省の都留を訪問。都留は内大臣木戸幸一の実弟和田小六の娘婿。終戦間近を告げられるが、生きているうちにせめて1冊本を書きたいと思ったのが『哲学の反省』

終戦を挟んで11か月後には雑誌『思想の科学』を創刊。創刊同人は渡辺慧(さとし、10年生、物理学者)、武谷三男(11年生、理論物理学者)、都留重人(12年生、経済学者)、丸山眞男(14年生、思想史家)、武田清子(17年生、思想史家)、鶴見和子(18年生、社会学者)と俊輔の7人、和子が着々と同世代の新しい人脈を編み上げていた

『哲学の反省』には、『思想の科学』創刊号で俊輔が起草した「創刊の趣旨」に符合する部分がある

6月には結核菌が再発、腹膜炎が悪化して休職となり、麻布の家を満州国大使館に貸し、父・姉とともに熱海の借家に疎開して静養。愛子も血栓を患い軽井沢の別荘で章子の世話になる。原稿をほぼ書き終えたところで、終戦の詔勅は熱海で1人で聞く。「新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用」と聞いて「残虐」などという言葉を、日本の天皇がよく言えたな、と思い、猛烈に腹が立った

 

3回 『思想の科学』をつくる時代 (20181月号)

第1節        編集から始まる

軍属の俸給と戦時勤務手当、退職金を合わせて5000円、家が建つほどの金額で、創刊の原資となる。麻布の家はGHQに接収。祐輔は政界復帰を期し、11月には日本進歩党を結成、幹事長に就任

祐輔の弟・憲は外務省を退官した後兄の口利きで熱海市長となり、1年半後にはこの地で実業の世界へ。祐輔一家は成城に家を購入、疎開以来初めて一家揃って暮らす

敗戦で、これまで抑圧されていた知的好奇心の蓋が一挙に開いて、雑誌、書籍の刊行ブームが始まる。和子は、幼少のころから俊輔には世話好きな姉で、父の太平洋協会出版部が軍部との深いつながりから印刷用紙の配給量に恵まれ、配給枠が後身の太平洋出版社に引き継がれたことを活用して、俊輔に好きなことをやらせてみようと父に相談

俊輔は、GHQからの誘いもあったが断り続け、もっぱら軽井沢で静養

占領軍の当局者たちは、日本での見知や手づるを求めて、祐輔のもとを訪問していたが、461月翼賛選挙に立候補(42)し翼賛政治会の役員に就任したことが公職追放の対象となり、自分に相応しい時代の到来を喜んでいた祐輔はショックだったが、50年の解除まで、政治家として無為に過ごす

追放の直後、和子・俊輔の姉弟は太平洋出版社で新雑誌創刊の手筈を決める。出版社は、後藤新平が東京市長時代に建設着工を主導した日比谷の市政会館に事務所を移し、全面的に創刊を支援。俊輔は、祐輔からの多大な便宜提供に負い目もあり屈辱も感じたが、和子は意に介さず

創刊メンバー7人のうち、武谷は理化学研究所で戦時中原爆研究に携わり、反戦的な思想信条を疑われて2度の逮捕歴があり、丸山も一高在学中に唯物論研究会での長谷川如是閑の講演を聞きに行って検挙、勾留されて以来、帝大助教授就任まで特高刑事の来訪が続き、2等兵として応召中に宇品で被爆も。自ら戦争への賛意を示さなかった点で7人は共通

新雑誌のタイトルは、経済史家の上田辰之助(1892年生、トマス・アクィナスの経済思想の研究者)が皆の意見を聞いたうえで助言した「思想の科学」に決まる

465月創刊、表紙とも36ページ、発行部数1万部、定価2円、表紙デザインは版画家の恩地孝四郎(創刊号のみ)。目次立は、武谷の「哲学論」、上田と俊輔の「言語」、和子の「デューイ論」、本誌の特徴として欧米での新思潮を原著の書評として紹介する連載枠「ほんのうわさ」として2冊採り上げ。検閲でアメリカ/連合国側に好ましくない表現は削除

本誌の運営方針上の特徴が、読者からの寄稿を重視、その中から更なる「執筆者」を見出そうとする編集姿勢で、自らの主張を書くというより、討議の広場の成長を目指そうとした

論壇では共産党の勢いが強く、当時党員だった和子は、もう『民主主義科学』という正統な雑誌が出来たので、『思想の科学』は解散してはどうかとまで言った

羽仁五郎(1901年生)にも寄稿を頼む

 

第2節        軽井沢で語られたこと

軽井沢は思い出の地。戦前は競馬場があって、乗馬が盛ん。尾崎咢堂の別荘が近所で、俊輔より一回り年長で混血の美女だった次女や三女とも馬に乗った

元々別荘地は後藤新平のもの、後藤一蔵一家、佐野一家と隣接

沓掛寄りに住んでいた前田多門夫人とも行き来があった。前田は祐輔と一高弁論部時代以来の親友、前田は後藤の東京市長時代の助役、愛子と前田夫人も近しい

 

第3節        考えるための言葉

『思想の科学』の編集会議で武谷が提案したのが、「編集メンバーには論文掲載の提案権だけがあって、拒否権はない」という原則。共産党主導が強い民主主義科学者協会辺りの議論を聞いていると、イデオロギーにとらわれ、拒否権ばかりが使われて、独創的な論文の芽を摘んでいることを懸念、掲載を多数決で決めるのではなく、誰かが推薦すれば載せることにした。戦時下の言論弾圧で、38年と44年の2回にわたり逮捕・勾留、特に2回目は理化学研究所で原爆研究に従事した武谷の「技術論」がマルクス主義的とされたもので、仲間が救出に奔走してくれたが、その時の経験から出た智恵でもあった

『思想の科学』では「言語」の特集を組み、俊輔の創刊号の寄稿も『言葉のお守役的使用法について』で、旧仮名遣いによる晦渋でぎごちない文体、第2号では一転して現代仮名遣いに近い表記法で『ベイシック英語の背景』と題して英国の言語学者が提唱した850語からなる『ベイシック・イングリッシュ』についての解説を書く。旧制中学を中途退学して渡米、後は米国の大学で勉強したので、学術語はすべて英語で自分の中に入っているため、創刊号の時も、『岩波哲学事典』を引きながら書いている

バベルの塔の伝説そのままに、現代の世界で話されている言語は1500種に及ぶとされるが、この違いを超えて互いの言葉の意味をやり取りしようとしても「翻訳」では意味を正確に伝え合う保証はない。「意味とは何か?」そういったことから説き起こしていくベイシック・イングリッシュの意味論的な解説を試みた。単に読み書きの簡易化ということではなく、言葉の意味をいかに明確なものとできるかに焦点があるのだと力説

3号の『バートランド・ラッセル『西洋哲学史』合評』での前書きは全文かな文字

6号では表音式表記を徹底した書き方となり、占領期間中はこれを続ける。「ものお考える」「これわだいじな問題」などで、自身の思想的態度の実験(実践)だったようだ

47年からは、俊輔が中心となり、「ひとびとの哲学」という長期的な主題を設定し、哲学を知識人が占有するのではなく、普通のひとびとが生きる上で何らかの哲学に立っていることを実地の調査で取り出そうとした。そこに一人ひとりの「伝記」という方法が兆し始める。柳田國男はこの道の先人で、米国渡りのプラグマティズムや論理実証主義を仲立ちに、人間の精神の営みを探り始め、日本の伝統の中に自生する、別のプラグマティズムの回路に出会う

戦災孤児や浮浪者でごった返す上野駅などに出向いて対面で質問を繰り返す

この頃、市政会館の『思想の科学』編集部で、講師を招いての研究会が定例化、49年社団法人「思想の科学研究会」発足

早い時期から「マス・コミュニケイション」に着目、49年後半には羽仁五郎、長谷川如是閑、久野収などの言論界の諸先輩を相手に「20世紀思想の性格と展開」と題した座談会で、20世紀の大きな特徴としてマス・コミュニケイション(大衆向け伝達)を挙げ、それによって文字を使いこなす力が減殺される危機を説いたが、相手にされなかった

占領初期、かなりの数の米軍関係者たちが鶴見らに接触を求めたことは確か

 

第4節        共同研究の経験

48年、東北大法文学部助教授でフランス語を教えていた桑原武夫が古巣の京大に人文科学研究所西洋部教授として戻るに際し、俊輔に助教授のポストを用意。桑原は『思想の科学』の年間購読をして俊輔に興味。同時に東工大の宮城音弥からも誘いの手が伸びたが、都留の指図で京都に行き、初めて共同研究に取り組む。テーマは「ルソー研究」

『思想の科学』の経営が苦しくなり、定職はその助けになる

最初の大著『アメリカ哲学』は50年、世界評論社から刊行。プラグマティズムの組み替え

京大で桑原人脈が紹介され、その1人が梅棹忠夫(1920年生)。地元育ちで、戦時下のモンゴル調査を経て、戦後中国から帰国、京大理学部の大学院に戻り、間もなく大阪市立大の理工学部に新設される生物学科の助教授となる

 

第5節        変わり目を越えていく

『思想の科学』の経営悪化で、発行間隔が開き始め、49年は6回、50年は1回きり

50年、章子が法学者・内山尚三(1920年生)に嫁ぐ。東大政治学科では丸山眞男ゼミ、大学院では川島武宜の下で法社会学を学ぶ。父は追放解除で政界復帰を目指す

丸山のアドバイスで、思想の科学研究会の地方支部を作って活動の立て直しを図ることになるが、各地で講演などを契機に自主的な動きとして支部や読者の会が生まれ始める

1次『思想の科学』は51年のガリ版刷りをもって終息。会員数120(うち女性7)

最終号の巻頭に、恐らく俊輔の執筆で、「違った分野から世界に接している人々の意見を集め、それらをつつき合わせることによって、哲学の新生を計ろうとした。その意味で私たちの企てはほんの少し実現されたばかり」との長文の「通信」が載る

以後、53年に第2次「思想の科学」(誌名は『芽』)が再度創刊されるまで思想の科学研究会は、自身の定期刊行物を持たない時期に入る

社団法人化した時の研究会の会長は川島武宜。東大法学部教授の努力に負うところが大きい。雑誌の発行について定款の記載はなく、あくまで単独の学術研究団体として想定

『思想の科学』では、既存の制度化された学問の枠組みを打破したいと重ねて表明してきたが、定款では、研究会を「諸部門の学者の協力組織」と位置付けており、旧態の官立大学組織そのままの響きがある。これが関係者間に行き違いを生じさせる。川島が学術会議から補助金をとってきたのに対し、誰が使えるのかでもめて返上した事あり。ロックフェラー財団からも東大経由で補助金が出た。民間学術団体に対しては異例のこと

51年、俊輔に対し、スタンフォード大フーバー研究所の客員研究員の招致が来て、文相の認可も京大総長の承認も得て旅券の準備も終わっていたが、この頃から原爆に対する批判の動きが出始め、原水爆反対への賛同を求める署名簿に俊輔も署名したことがわかって、米国領事館がヴィザ発給を拒否。これ以来彼は一度も渡米することなく生涯を通す

ロックフェラー財団との関係においても、共産党系の陣営に属する歴史学者辺りから返上論が出てきて、都留も潔癖は原則的姿勢に立ち返って反対したため、俊輔も同調。雑誌経営に苦しみながら、表立ったところでは潔癖な道義に与する、俊輔の生涯を貫くマゾヒズムじみた自己分裂の性向が覗く。そんな自己分裂を抱え続けてその性癖に自信が苦しむのだが、決定的な自滅には陥らずに93年の生涯を生き、『思想の科学』もまた何度潰しても諦めず、50年間刊行を続ける。自己内部の矛盾の両極を繋いだのがつましさで、若い頃から平素の生活は切り詰めた暮らしの中にささやかな楽しみを見つけようと努め、裕福な両親との家を出て自分でそれよりも価値のあるものを見つけ出せることに、彼という人間の豊かさがあった。彼のつましさが、道徳的浪費癖の負担をいくばくか和らげ、もがくような苦境の中にあっても励ましとなった

米国入国拒否は俊輔にとって生涯最大の転機といえる。入国拒否は国家という機構が人にもたらす大きな恥辱。国家はこうした形で、人に絶えず踏み絵を求め、これさえ恥辱と感じないように仕向けていく。踏み絵を通ってその国の中へ入ってしまえば、もう忘れてしまう。そこから国際エリートとしての名声の道を辿っていく。今回入国を拒否されなければ手遅れだったかもしれない。その意味で大きな転機だった。米国は俊輔にとって身体の一部を成していただけに、すぐに自己嫌悪となって現れ、515月には鬱状態になって原稿も書けなくなる。人間として平気で生きているということが悪いという罪の意識が原因と述懐しているが、精神科の診察を受け、入院して持続睡眠療法をうける。京大辞職を桑原に申し出るが、病気の間は黙って給料を受け取れと言われ思いとどまる

52年、退院後は実家を離れて下町の知人宅に身を寄せる

独立を回復したこの年、『新大阪新聞』の京大担当記者の依頼で、『見事な占領の終わりに』という短文を寄稿、「今日僕はアメリカを好まないが、アメリカ人が日本人よりも高い倫理の下に暮していることを身にしみて感じる。日本の軍陣軍属が特に中国で暴虐の限りを尽くした記憶を持たない人はいないはず。これらのことをした日本人が、今は家に帰って善き父として元と同じ生活を持ち得ることに、日本の倫理を見る。アメリカの占領を非難する声を耳にするが、日本人は自分の見聞きしたアメリカ人の悪行の具体例に対し、自分たちが占領地で行ってきた悪行の頻度を掛け合わせてあげつらう。ということは占領軍の悪行を過大視する人ほどその経歴はあぶない・アメリカの日本占領は、アメリカの国民性の高さを裏切らぬものであった。それはアメリカ史から当然期待されるもので、「満州事変」を起こしそうだったマッカーサーを免職にしたことは占領期間中の輝かしい出来事。敗戦直後には、短期間だが、日本人が自分たちの力でできる以上の改革を、人民解放の方向においておこなった。占領が終わって、僕たちは今までより多く、自分たちの倫理によって暮らすことになる。今こそ一人一人の手で自分たちの戦争責任を追及し、自分の倫理に新しい方向を与えるべきではないか。東条さんだけを身代わりに立てることによって、ことは終わったのだろうか」

 

第6節        いくつもの土地から

朝鮮戦争はまだ続き、吉田内閣は占領法規に代わる後継法規として「破壊活動防止法」の制定を急ぎ、大学などでは反対運動が高まる

52年春には京大に戻り、反対運動の帰郷運動に加わり、地方へ遊説に行く

京都では、市井の人々からの聞き書きを進める「庶民列伝の会」も始まり、俊輔は京都での下宿先の女主人の伝記を書く

京大人文研の共同研究は「ルソー」の次「フランス百科全書の研究」が始まり、百科全書の編者ディドロを主軸とした2本の論文を仕上げる

53年、第2次『思想の科学』に当たる雑誌『芽』を創刊。元海軍少佐が平和運動の観点から軍事評論を刊行するために始めた建民社の支援を得る。表紙のデザインは研究会員でもあった岡本太郎(万博の太陽の塔に似たデザイン)。本文32ページ、定価30円、発行部数2000、実売は6割強、配本ルートが開拓できず、会員の手によって直接読者の許へ

54年、トヨタ自工の若い女子事務員から、鶴見の記事に質問を寄せてきたことがきっかけとなって「庶民列伝の会」に顔を出すようになったのが後の評論家上坂冬子(1930年生)

 

第7節        汚名について

54年、第3次『思想の科学』講談社から創刊。巻頭に編集長竹内好の『読者への手紙』、看板論文が梅棹忠夫『アマチュア思想家宣言』、本文90ページ、初版1万部、定価100

前月『芽』の終刊号刊行。15カ月で9冊刊行。同月祐輔が参院選初当選

版元が講談社になったのは会員でもあった嶋中の仲立ち。本来なら自分の中央公論とする所だが、兄の早逝で急遽家業を継ぐため学者から転じたばかりで、社業を安定させてからという思いがあってのことだろう

鶴見が特に注力したのは人気漫画家加藤芳郎による現代思想の系譜の漫画化で、欧米での新しい大衆文化と相互乗り入れしながら学問の前線を切り拓こうという動きを先取ったものだったが悪評

54年末、宮城音弥の誘いに乗って京大から東工大へ転職、「転向研究会」の活動開始

戦前自由主義者として通っていた人々の大方が、戦時中は国体の尊さを説き、欧米文化否定を説いていたが、戦後どう変わったかを考え、同時代のドイツやイタリア、ロシア、更には古代キリスト教弾圧の時代にも遡れば、世界の思想史を書くことが出来るとの考えから始まる。敗戦後僅か9年、まだ「転向」の当事者が現役という時期に着手されたため、研究者本人も素材となる時代に身を置いているため、「(研究対象となる)素材」と「方法(客観的な分析や判断の方法の確保)」の混同が避けられないという懸念がある中での決断

結局8年かかって、全3巻の大著『共同研究 転向』にまとめられる

着想を得るに際し、父祐輔の振る舞いの変遷が1つのモデルをなしたことは疑えないが、東工大転職と同時に祐輔は鳩山内閣の厚相となるも1カ月半で解散となり、祐輔の経歴はそれが生涯のピーク

55年になるとスキャンダルの餌食に。講談社から供与される月20万が個人的に不正流用されているという趣旨で、抗議すると訂正記事が掲載されたが、直後同系列の日刊紙が、今度は実名入りで掲載。問題の根底には、『思想の科学』が講談社という大手出版社という版元を得て、大衆化路線を進め、年会費300円で会員を募ったことから600人にも膨れ上がった大所帯の思想家集団となったことで、内部の意思疎通も悪くなり、お互いの信頼関係も崩れていく中でのデマだったが、俊輔のやり方に不満を持った一部幹部がこれを機に脱会。講談社は、同人雑誌の保護・育成に関心を持っていたが、『思想の科学』は5割返品という悪成績で年間10百万以上の赤字だったため、単純に経済的理由から継続援助を打ち切り、第3次は554月で終刊。4年近く途絶える

56年、母・愛子逝去、享年603年前脳溢血で闘病、最後は肝臓癌

同年、久野収との共著『現代日本の思想』は35万部、俊輔の著書の中で例外的な売れ行き

57年、ハーヴァード大経済学部の客員教授の都留重人が米国上院の治安委員会で証言した直後、友人で駐エジプトのカナダ大使ハーバート・ノーマン(1909年生)が赴任先のカイロで投身自殺、その原因が都留の証言と結びつけられ、日本のメディア上で都留に対する猛烈な批判、論難が浴びせられた。都留は、青年時代に左翼的思想傾向を強めた時期ノーマンと親交を結び、引揚船で帰国する際、蔵書をノーマン宛に残してきたのがFBIに押収され、ノーマンがマルクス主義者に仕立てられた。証言では不利なことを言わず庇い続けたが、マスコミは道徳的叱声を浴びせる方が記事になるとして取り上げ

都留も戦後の復帰の際、戦前に左翼系の学生運動に加わっていたところから米国のヴィザがなかなか降りなかったこともあり、俊輔は米国上院が都留に襲い掛かったのと同じようなことが自分に起こってもおかしくはないと背筋が寒くなる。ロックフェラー財団の助成活動すら左翼偏向への援助だとして標的にした米国の社会変化を都留たちが十分捉えていたとはいえそうにない。俊輔にしてもアナキストとして米国の獄中に置かれながら、米国という国家に対してほとんど警戒せずに来たことを思わずにいられない

1930年代のニューディール期という米国近代史上で最もリベラルな時代をそこに過ごした者に刻み込まれた、もはや時代錯誤な癖とでもいうべきものだったのだろう

59年、父・祐輔が脳軟化症で倒れ、14年の闘病生活に。発語能力は回復せず

暫くしてチャーチルが没。祐輔の旧著『ウィンストン・チャーチル』の版元の講談社が、最晩年のくだりを書き足して新版にして出版したいと言ってきたので、俊輔は自分が終章を補った方がいいように思えて、父の文体を模写して『英雄の死』を書き足す

 

4回 遅れながら、変わっていくもの (20184月号)

第1節        保守的なものとしての世界

59年、紙芝居作者・加太こうじ(1918年生)が、俊輔に声をかけ、俊輔は『思想の科学』で自叙伝を書かないかと加太を誘う。この偶然から後に加太は思想の科学者の社長に

同年、第4次『思想の科学』が中央公論から創刊。嶋中が永井道雄も引っ張り込んで引き受け。真鍋博の表紙。上坂冬子が50年のトヨタ自工での労働争議を背景に事務職員たちの人間模様を書いた連載が始まり、自工の組合幹部から掲載停止を求めてきたが、俊輔が拒絶・黙殺し、本人にも知らせなかった

祐輔の看護のため、成城と軽井沢を処分して父の多額の借財を清算の後、練馬区関町に介護用に新築、和子が全面的に面倒を見る。父親への思慕の深さとともに、この時代の「長女」という役回りにかかる重圧もおのずと働いたうえでの決断だろう

同年、筑摩書房から『日本の百年』の大型企画提示。5人で明治維新以来の100年を記録現代史として全10巻に仕上げる。来るべき明治100年を、政府行事に任せてしまうのではなく、民間の学問の課題として取り組むべきとする竹内好の提案からの影響が窺える

この時期、鶴見の思索にある明瞭な方向をもたらしているものが感じられる。歴史の中にいくつもの世代をまたいで形成されていく、民族、言語、そして近隣社会の規範や諸機能、ここに根差しながら働く持続的な力、こうしたものへの着目の深化である。同時に、鶴見の仕事が分析的な手法から、例示的な手法へと移っていく分水嶺ともなる

59年、『共同研究 転向』上巻刊行。総理府の志垣民郎(20-02 内閣調査室秘録』著者)から、大量の「追放解除申請書」を史料として役立てて欲しいと持ち込まれ、種々の形で公表

『オーウェルの政治思想』(70)では、オーウェルの「保守主義」は保守的懐疑主義に立っていて、そこでは保守的であるということが、国家批判の権利の放棄を意味することではないことを明確にし、日本の保守主義がそのまま国家批判の権利の放棄に連なるありかたを批判、オーウェル的な保守主義の欠落を埋めるために、保守主義以外の思想の潮流が代行することを認める

 

第2節        1960615

57年、敬愛してた石橋湛山首相が僅か63日で退陣、突如岸内閣が誕生。開戦時の内閣閣僚が戦後10年余りで最高権力者に返り咲いたことに衝撃を受け、60年には新安保条約が強行可決、直後に都立大教授の竹内好は辞表を提出、俊輔もこれに追随

615日のデモに参加した直後、週刊誌に『615日夜』という一文を寄稿。東條内閣閣僚だった岸を俎上に載せた、もう一つの転向研究というべきものだった

3日後の新安保条約の自然承認の日も国会周辺を埋めるデモの中にいて、夜を徹して語り合う。岸内閣を支えた官房長官は椎名悦三郎で俊輔の縁戚(新平の姉の嫁ぎ先)

 

第3節        結婚のあとさき

横山貞子は31年富岡市生まれ、酒造家の惣領長女。前橋の共愛女学校というミッションスクールから同志社英文科に進み、54年卒業時には俊輔の「庶民列伝の会」に参加。慶應大学院に進み、「転向研究会」に参加、イリノイ大に留学、60年秋俊輔と結婚

研究会仲間にも直前まで知らされず。お互いを対等に「汝」と呼び合い、暫くは別居

3度目の思い鬱病が現れ始める。密かに心を交わすような形で彼女のことを待たせ続けてきたことへの罪悪感と、個人生活で自身の幸福を追求しようとすれば罪責感にとらわれ自己嫌悪が募るばかりで鬱に陥る。貞子も俊輔を自殺に追い込まないよう腫れ物に触るように扱う。東工大を辞職して定収もないが、何とか間借りで共同生活が始まる

 

第4節        テロルの時代を通る――嶋中事件・『思想の科学』天皇制特集号・自主創刊

60年の安保闘争で政権自らが暴力的取締りを黙認したため、荒々しいテロの連鎖に陥る

7月、岸も池田を後継に決めた直後、首相官邸で右翼の襲撃に遭う

10月、社会党委員長・浅沼稲次郎が右翼少年により刺殺

11月、深沢七郎の小説『風流夢譚』が雑誌『中央公論』に載り、実名で皇族が首を刎ねられる場面に右翼が激昂してジャーナリズムも騒然とし、編集長が右翼へ詫びを入れるが、翌年右翼少年が嶋中邸に押し入って夫人とお手伝いを死傷

俊輔と永井は嶋中邸に赴き、社告を起草、主要各紙に掲載(朝日は意見広告だとして拒否)

61年、同志社から社会学科新聞学専攻の担当教授として招かれる

同年の年の瀬に、『思想の科学』の編集からは遠ざかっていたが、永井からの連絡で中央公論が天皇制特集を組んだ『思想の科学』新年号の販売中止を決め断裁処分したと知らされる。「嶋中事件」以後、中央公論とは『思想の科学』の編集責任はすべて思想の科学研究会にあるとの仕切りが出来ており、中央公論に抗議しようとする意見が大勢だったが、嶋中を追い詰めたくなかった俊輔は、中央公論との関係を断って、自らの努力で言論の自由を守ることに更に積極的でありたいとして自前の発刊の道を探る

一橋教授だった都留は、担当する『朝日新聞』の論壇時評で、編集内容を認めておきながら廃棄した中央公論社のみならず、その処置を了承した思想の科学研究会の対応について、「思想の自由の減点として、責任追及を怠るわけにはいかない」と、手厳しく批判

都留は鶴見を呼んで、井村寿ニ(1923年生、金沢の百貨店大和の経営者、のち勁草書房社長)を頼って雑誌を続けるよう指示、鶴見は関係者10人の連名で井村から100万円借金して出版社をつくる

62年、第5次『思想の科学』復刊第1号特集「天皇制」を思想の科学社から発行。144ページ、定価150円、16300部発行、好調な売れ行きで雑誌刊行が続く

 

第5節        いくつかの「家」のこと

61年、同志社で講義するようになって、卒業生の北沢恒彦から定期的な研究会をしたいと持ち掛けられ、「家」をテーマにした議論を積み重ねる集まりを考え、翌年「家の会」発足

東京での『思想の科学』の復刊と京都での「家の会」という互いの時間の進行速度が全く異なる二段構えの暮しを持ち得たことで重い鬱も回復に向かい、以後重篤な鬱は起こらない

64年夏、練馬関町の父の下に転居。62年和子がプリンストンに留学した後、章子とともに父の面倒を見るためで、貞子も仕事を辞める

父・祐輔の、公人としての自己と私人としての自己のズレを平気で放置したまま使い分ける生き方に堪えがたい憤りと屈辱感を抱いてきた俊輔としては、父との関係に自分たちなりの得心いく決着をつけておくには今しかないという思いもあったのだろう

66年、和子が帰国して成蹊大助教授として教え始めたのを機に、俊輔一家は京都に移住

 

第6節        善きサマリア人の教えに

65年、米軍のベトナム北爆開始を機に、抗議運動の呼びかけが始まる。若い世代に指導者を求めるべく、小田実(1932年生)に声をかけ、「ベトナムに平和を! 市民連合(べ平連)」が誕生、清水谷公園から土橋までのデモを行う。京都にもべ平連ができ、月1回の定例デモを実施、734月戦争終結まで8年間続く

 

第7節        裏切りと肩入れと

人からの期待を「裏切る」覚悟なしには、わが意を通すことは難しい

京大を辞めることは桑原への裏切りであり、東工大を辞めることは宮城への裏切り

桑原から教えられた心得は、「小事はこれを人に諮り、大事はこれを自ら決す」

桑原は、鶴見の辞職程度で、彼への信望を撤回するつもりはなかったようで、べ平連への肩入れもそのことを示している。65年べ平連が企画した「徹底ティーチ・イン――戦争と平和を考える」のイベントはテレビでも生中継され、自民党からも中曽根、宮沢など参加したのは桑原という学界の大物が司会役を務めることへの信頼感が役立っている

桑原は、その後の活動でも陰に陽に支援の手を伸べる

66年北爆開始に際し、鶴見らはべ平連の中に「非暴力反戦行動委員会」を立ち上げ逮捕覚悟の直接行動をとることになるが、駐日米大使ライシャワーはその翌月帰国して大統領と会談後辞任を発表。4半世紀に及ぶ知己たるライシャワーに対しての俊輔の「裏切り」の1つというべきか、少なくともライシャワーの側はそう受け取ったのは確か

 

第8節        脱走米兵との日々

6710月から、内地の米軍基地で脱走を呼びかけるビラを配ったが、横須賀寄港中の空母から脱走兵第14名が現れ、従弟の良行宅に匿う。記録映画を撮り、米兵は「声明」を発表。法的には、米兵は日米地位協定によってヴィザなしに日本に出入国出来るため、日本人が支援しても問題ないとの結論で、ソ連大使館に働きかけて、国外に逃がす便宜を図ってくれるよう働きかける。4人は翌月横浜港からナホトカ経由でスウェーデンに亡命

翌年には韓国系米兵が脱走、何人もの米兵があとを追うが、中にはスパイが紛れ込むこともあったが、仲間同士が疑心暗鬼に陥って凄惨な内ゲバになることの回避を優先

隠匿に協力してくれた日本在住の米国人からLSDに誘われ、元々薬物などの力を借りて精神拡大的経験をすることに関心を抱いていたこともあって、初めて試してみたが、その時の体験がその後も残って彼の著作にもはっきりと痕跡を残すことになる

鶴見の行動が、周囲の若者たちに大きな影響をもたらし、彼等の人生を大きく変えることになって、鶴見自身も衝撃を味わうのは事実で、申し訳ないとの思いを抱きながらも、そのようにしか行動できない自分というものについて、思い切るようなところがあり、この時期辺りからの鶴見はそういう要素を帯びてくる

70年、同志社が学園紛争に警察機動隊の出動を要請したことに抗議して辞職

この頃貞子は、創立間もない京都精華短大で英語・英文学の教員として仕事を始める

脱走兵の軍事裁判で基地内の法廷で証言に立ったこともある

 

第9節        亡命と難民と

べ平連が亡命を助けた米兵は約20名。日本側の協力者は優に1000人を超える

外貨獲得策としてベトナム派兵に乗り出した韓国軍からの脱走兵もいて、逮捕されると退去強制令状によって大村収容所に収監されたが、旧植民地人たるチュ先人だけを拘束・送還するための収容施設として、大村収容所の差別的な性格が明るみに出て、べ平連が収容所廃止に向けて動き出し、鶴見も関与、89年に収容所の機能が変わって活動を終える

72年、メキシコでの講義を引き受け、10カ月家族帯同で滞在。従兄の佐野碩は終生日本に戻らないまま66年没、享年61

 

第10節     沈黙の礼拝で

73年、父・祐輔死去、享年88。俊輔は京都から駆けつけるが臨終には間に合わず。和子はトロント大社会学部の客員教授に赴任中、直輔も滞米中、章子だけが看取る

祐輔の遺志により、師事した新渡戸と同じクエーカーの方式での葬式となり三田の普連土学園講堂で告別礼拝式を行う。クエーカーが重んじる「沈黙の礼拝」の最中、宮内庁から「勲1等瑞宝章」が届けられたが、俊輔は無視。生前勲2等を受けていたが奔走したのだろう

73年、『思想の科学』の4月号は、「いま子どもはなにを」という特集を組み、小学生の作文を募ってそれだけで作られた特集号

 

最終回 「伝記」をめぐる伝記 (20187月号)

「もうろく」の中に、未見の領域がある。戦後を生き抜いた哲学者の老境を読み解く

 

第1節        「世界小説」とは何か

日本における「世界小説」の起源をなす作品の1つに、俊輔は夢野久作『氷の涯』(1933)を上げる。シベリア出兵で哈爾濱に送られた兵士がジプシーの女と逃避行を重ね、日本軍の隊列から離脱し、「国」の外側へと越えていく。そこでの「国」という枠組みとは何か? 鶴見によれば、「世界小説」とは世界を1つのものとして捉える感覚で貫かれているもの

俊輔は、少年時代家に贈られてきた夢野の全集を読み耽る。夢野の父親は日本のアジア主義の源流をなす玄洋社の頭山満と交流が深く、伊藤首相はじめ政界の大物たちの懐刀として立ち働くことで知られ、後藤新平とも親しかったところから全集が送られてきた

俊輔も子供心にも、シベリア出兵を強硬に主張したのは後藤で、その失敗を償うために日ソ国交樹立に奔走した姿は見ていたし、日本陸軍によるロマノフ朝の金塊横領事件に陸軍次官が関与していたとの噂も耳にしていたが、夢野も父親から聞かされていた

俊輔にとっての頭山は、国技館の後藤家の桟敷の隣にいる物静かな老人に写っていた

俊輔は、一時夢野一族の伝記を書きたいという構想を抱いたものの口頭での発表に終わるが、第二次大戦で重傷を負って傷痍軍人となった夢野の長男が玄洋社国際部長の肩書で、65年のべ平連発足の呼びかけ人の1人に加わる

 

第2節        家族史のなかの「民芸」

後期の俊輔の著作群の中核をなすのは広義の「伝記」で、「ちくま少年図書館」に『ひとが生まれる――5人の日本人の肖像』と題した小伝集を書く(72)。中浜万次郎(182798)、田中正造(18411913)、横田英子(18571929、松代の武家に生まれ、富岡製糸場の伝習工女)、金子ふみ子(190326、横浜に無籍者として生まれ、朝鮮人アナキストと連れ添い、獄中で自死)、林尹夫(ただお、192245、学徒出陣の航空兵となるが撃墜され戦死)を取り上げ、それぞれが生まれ落ちた世界での自分の位置に気づき、社会に向かって働きかけを始める時期に焦点を置いて書かれたが、「世界小説」と同じ心持を共有している

7273年、メキシコに教えるために渡航して帰国後、新しい伝記『おぼえがき』の雑誌連載を始める(『月刊百科』741月~12)。同時に7475の丸2年間『朝日新聞』で『論壇時評』も担当、対象とするべき論文も100タイトル以上の刊行物に多岐にわたって掲載され、米国留学中の「一番病」時代さながらの勤勉な日々が続き、朝日の本社に行くと、旧知の学者や作家たちとすれ違い、『論壇時評』で取り上げてくれとのテレパシーを感じ、辛い2年間を送る

同じ朝日から『朝日評伝選』という伝記シリーズ開始にあたり寄稿を依頼され、幕末の蘭医で祖父と同郷で遠い縁戚の高野長英(180450)を書く。故郷の水沢は7311月に死去した父・祐輔の選挙区でもあり、長英がシーボルトの高弟で、「蛮社の獄」後には脱獄者として逃亡と潜伏を続けながら生きたことなども、ベトナム戦下の脱走米兵援助に長く携わった彼にとっては、興味をそそられるところがあった

『柳宗悦』は、『高野長英』上梓(75)後、先に連載を完結させていた『柳宗悦おぼえがき』に加筆したもの。メキシコから帰国後柳宗悦(18891961)は故人だったが、夫人・兼子(声楽家)は健在で話を聞いている。米国留学から一時帰国した18歳の俊輔は駒場の自宅に柳を訪ね、ウィリアム・ブレイクの研究者としての柳にキリスト教神秘主義について質問、柳はすべて仏教典から例を引いて答えた

72年、俊輔は詩人・金芝河(キムジハ)の投獄に反対する署名を携え、軍事政権下のソウルに渡り、政府庁舎で韓国政府に署名簿を手渡したが、8歳の頃祖父に連れられて斎藤総督に挨拶に来た同じ建物であり、韓国再訪が、柳という人物への見方にも新しく光を差し入れた ⇒ 日本支配下の京城で総督府の庁舎が建設されたが、朝鮮王朝時代の宮殿(景福宮)の前に立ちはだかるように立ち、宮殿の正門である光化門が破却されることになった時、柳は『失われんとする一朝鮮建築のために』という文章を書き『改造』(229月号)に発表、これをきっかけに、辛うじて移築に方針変更がなされたが、その文章を収めた自著『朝鮮とその芸術』の序には、「剣にて立つものは剣にて亡びる。軍国主義を早く放棄しよう。自らの自由を尊重するとともに他人の自由を尊重しよう。もしもこの人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだろう。そうなるなら亡びるのは朝鮮ではなく日本だ」と書く

70年代前半、京都の借家住まいをしていたが、突然家主から買い取りか退去かを迫られ、俊輔は70年に同志社を辞めたところ、妻・横山貞子も京都精華短大講師で余裕はなく、思い余った貞子が信用金庫に飛び込むと、何とか貸してもらえた。暫くしてこれを抵当に、別の土地を手に入れじっくり新築のプランを練って75年転居

33年、ブルーノ・タウトはナチから逃れて日本に亡命、2年余り高崎に暮らしたが、戦時下で仕事がないまま、36年トルコからの招聘に応じて離日、2年後現地にて客死

バーナード・リーチは、34年柳の招きで再来日し1年暮らすが、成人後2度にわたって長期の滞日経験があり、僅かな収入で友人たちと共同生活を楽しむ余裕があった。志賀直哉に言わせるとリーチの日本語は、「少ない語彙でかえって非常によく感じが出る」と言われ、「余り日本文化の細かい約束に拘らずに人間本意に大づかみに書く」という「白樺派の文体」の実現に少なからず影響を与えたと、俊輔も『柳宗悦』の中で指摘している

後藤邸内の洋館の設計にあたったチェコ出身のアントニン・レイモンド(18881976)は、37年離日後ユタ州の爆撃実験場で、日本での経験を活かして、対日に使用する効果的な焼夷弾実験用の日本家屋建設に携わった後、戦後日本に戻って軽井沢にもアトリエを開いて晩年のキャリアを築くが、彼が開発に協力した米軍の焼夷弾によって夥しい数の死者を生んだことについて深く注意を寄せた様子はない

俊輔の『柳宗悦』と貞子の『日用品としての芸術』は、日本の民芸運動に向けた批評として、対照的な2つの方向からの眼差しを構成

その後貞子に重い心臓発作が生じ、入院の続く時期があり、俊輔は家内労働に励みだす。自身では「生きがいを感じた」というが、家事労働に終わりがないことに気付き、「愛情が無かったら、大変な苦痛と煩わしさだろうな」と述懐

 

第3節        土地の神

76年、現代風俗研究会が京都・法然院で発足。初代会長は桑原武夫。法然院貫主・橋本峰雄(1924)の『性の神』という、世界の東西、古今を往還しながら、その主題を論じる著作と、そこから派生した「風呂の思想」というフィールドワークが中心で、彼の学風が俊輔にも強く働きかける

同年、竹内好(よしみ、191077、中国文学者、文芸評論家、佐久出身)が俊輔の新居訪問、戦時下の「中国文化研究会」以来の盟友・武田泰淳(191276)を亡くしたばかりの時期だが、竹内も体の不調を訴え、年末には癌で入院、翌年死去。その葬儀で弔辞を読んだ「中国文学研究会」当時の仲間で先輩格の増田渉(190377)も、途中で倒れ死去

79年、俊輔は『太夫才蔵伝』を刊行。「漫才をつらぬくもの」と副題にあるように、漫才という表現を成り立たせるに至る、多くの名もなき人々を巡っての伝記

ロンドンの美術館で見た世界の道具類の中で俊輔を惹きつけたのが、日本の根付けの蒐集で、権力の網の目に取り込まれず、ただ道を歩いている人の腰に下げておかれる、このささやかな理想が、鶴見にとっては魅力あるものとして映る

偉大な個人が日本にいないというのではない。田中正造とか宮沢賢治を立派だとは思うが、彼等の活動の値打ちも、ほかの同時代の人たちとの結びつきにあるのであって、むしろこうした考え方を世界史上の偉大な個人にも適用してゆきたいと思うようになる。この考え方を鶴見にもたらした1つが漫才だったので、その源に遡り、系譜と広がりを辿った

79/80年、モントリオールのマッギル大で戦時期日本の精神史、戦後日本の大衆文化史を講義するため家族で渡航、北米先住民のモホーク俗居留地を訪問

米国からは、51年スタンフォード大赴任のためビザを申請して拒否されており、以来意識して米国を回避

 

第4節        入門以前

文章を書く上でのモラルについては自分自身にとても厳しく、突き詰めた考え方をする

人を茶化したりすると、立派な実績のある人について批判があるなら、その仕事をちゃんと評価したうえで、全力を尽くして批判しなくてはいけないと、顔が紅潮するほど力を込めて𠮟る。批評という行為についての自分流の心得として、「自分の背中から刃を貫き、もし切っ先が余れば、相手の体にも届くように」書きたい、と言った

黒川(著者)は、小学生の頃から月刊誌『思想の科学』に寄稿していたが、8120歳の頃、編集委員の鶴見から、大学生の特集を作ってみないかと声がかかる。本の中の学生像という書評の小特集のような内容で、後に『大学生にとって大学生とは何か』の表題で82年に特集として掲載。それを機に卒業後は編集会議にも顔を出す

8292年、鶴見は朝日新聞の書評委員も務める

『デューイ』(84年刊)は、講談社の『人類の知的遺産』という全80巻の伝記シリーズの1冊で、企画委員の1人・都留重人からの慫慂によるもの。鶴見の実質的に最初の著書『アメリカ哲学』(50)にはデューイ(18591952)の章がない。当時の日本ではプラグマティズムの思想家といえば、ウィリアム・ジェイムズとジョン・デューイにも拘らず、若き鶴見は敢えてデューイを斥けたうえでプラグマティズムを論じたわけで、そこに当時の彼のプラグマティズム観の反映があった。約言するなら、コミュニケーションがあるという前提に立つ教育への過剰評価に対し、コミュニケーションが失敗した場合から学ぼうとする手だてが工夫されていないことを、鶴見は受け入れ難かった。そこを出発点とすることで、マルクス主義の進歩史観から最も遠い場所にいる。太宰に共感を寄せ、三島由紀夫における孤立に通有されていたものを窺わせる

若き鶴見にとって、デューイは「頭の悪い」思想家だったが、長命を保って学び直すことが出来る「頭の強い」思想家として生きていく。鶴見も、西洋哲学史上の大家の中で際立って普通人に近い哲学者と認める

久野収(1910年生)は、戦争中マルクスとデューイの双方からの影響を受けながら、反ファシズムに立つ雑誌『世界文化』を刊行、戦後も、戦争反対の論理と革命の論理を区分してともに協力できるところで平和運動を進めようと提唱。彼の中にその影響は残る

『デューイ』の中で鶴見は、自分から選ぶ道は1つでも、それを巡って自分を支持し得る選択の幅がもっと多くあることを忘れないことが大切。その幅を状況の中で常に新しく捉え直すことが、デューイのいう探求の論理学だろう。このような考え方をデューイから受け継ぐ時、日本の哲学はデューイを卒業するどころか、入門さえしていない」という

 

第5節        「まともさ」の水位

『夢野久作』は、89年鶴見も企画立案に加わる『シリーズ民間日本学者』(リブロボート)1冊として刊行。久作は息子に対し大和心を詠んだ歌を解釈して、「大和心という言葉を、みんなが和やかに融和協力するというように考えたらどうだろう。日本に限定することなく、世界共通の人間の心にあるものを歌にしたと考えたらどうか」と伝えたという

『久作伝』は、久作が26歳の時、93歳の祖母を見舞いに行ったときに、心得のある謡(うたい)を歌って慰めようとする場面で終わるが、何度も何度も初めてのように所望されるのに閉口しながらも歌い続けたという

鶴見がカナダのマッギル大で講義した際、50年代前半吹き荒れるマッカーシー旋風に敢然と立ち向かった最初の人として、劇作家リリアン・ヘルマン(1905年生)を取り上げた。ほかの人を罪に陥れる証言を拒否して公私にわたる暮しの上で多くの損失を被り、夫のミステリ作家ダシール・ハメット(18941961、『マルタの鷹』作者)は証言拒否で投獄後、釈放後も社会生活に復帰することなく終わっている。そんな彼女が当時を振り返って、「私が自由主義について持っている信念は殆ど無くしたが、代わりに何か密やかなものを獲得した。それは、まともであること、と呼んでおこう」と言ったが、鶴見がこう訳した原文には”decency”であり、その後にも”the sense of decency”「まともさの感覚」と用いる

現在「まともであること」の閾(しきい)はさらに下がって、そのように自分が生きているかどうか自体が確かめにくくなっているように思える。むしろ、「まとも」であるかどうか、という自問を消し去ることこそが、政治支配の語法、社会運営上の技術と見做されるようになってきた。「まともであること」のハードルが下がりに下がって殆ど水位すれすれ、あるいは海面下に没しているが、元々庶民の暮らしとはそういうもので、ただ、そこにおいても、まともさを感じさせる人はいたし、これからもいるだろう、ということではないか

老女を前にへとへとになりながら歌う久作の振る舞いは、ばかばかしいが「まとも」。彼の努力も後に何か残すとは考えにくいが、歌う甲斐があるとはそういう状態のことだろう。人が生きている意味というのも、結局、その程度のことなのではないか。そういう目には見えにくい一線が、なお、ここに残っているのは確かだ

「日本の伝統は、人間を縛るような普遍的断定を避けることを特徴とする。この消極的性格が、日本思想の強みでもある。普遍的原理を無理に定立しないという流儀が、日本の村に、少なくとも村の中の住民の1人であるならばその人を彼の思想のゆえに抹殺するなどということをしないという伝統を育ててきた。それは西洋諸国の知的伝統の基準においてはあまり尊敬されてこなかった、もう1つの知性のあり方だ」と、鶴見は言う

ヘルマンも、マッカーシーの攻撃に晒された結果、米国知識人の間にある自由主義的伝統の薄さに気が付き、何人もの人達と彼女が分かち持っている彼女自身のまともさの感覚に寄りかかるようになった。生き方のスタイルを通してお互いに伝えられるまともさの感覚は、知識人によって使いこなされるイデオロギーの道具よりも大切な精神上の意味を持つ

『アメノウズメ伝』(91年刊)は、神話と性を主題に、日本神話における助演級の女神を論じる。[神話]も「性」も、おおらかな喜びに結び付くが、反面、凶暴な暴力も帯びる。ことに日本神話は明治以降国家に編み込まれ猛威を振るった。戦地の性暴力もその背中に負ぶさった。機嫌を損ねて岩屋に籠ったアマテラスを引っ張り出したのがストリッパーの神アメノウズメの踊り。踊り自体は、主張としては支離滅裂だが、支離滅裂なところに主張があると言われたらどうなるだろう?

 

第6節        もうろくのこと

90年、思想の科学社の社長が加太こうじから上野博正(1934年生)に交代。上野は浅草のハンコ職人の息子、上野で町医者稼業を続け、新内の名取、62年思想の科学研究会入会

上野と鶴見で同社を経済的に支える。上野は自社ビルを提供、鶴見は土地を担保に借金

92年から鶴見は手控えの小型ノートで『もうろく帖』をつけ始める

40代半ばで『退行計画』(68)と題するノートを発表したように、早くから自らの来るべき「もうろく」に身構えるようなところがあった

記憶力は極めて優れていたが、老齢になるにつれ忘却は加速していくだろう、そうした予感と愛惜を書き残しておこうとしている

「存在の全体をどのようなものとして思い浮かべるかが、私の生涯の意味を決定する」

「自分にとって自分とは何か? 終わりのない試合を続ける、囲いのはっきりしない場所のことだろう」

「もうろく」を1つの方法として捉え直し、未見の領域の開拓という知的野心を抱く

『竹内好』の伝記に着手。竹内著『中国人の抗戦意識と日本人の道徳意識』は、日本でも高名だった作家・林語堂の英語で書かれた著書『モメント・イン・ペキン』(39年刊)を論評する形で書かれたが、その邦訳の在り方を取り上げることで、日本人が戦後もなお、自分たちが行った戦争について知らないことが多いという事実を明るみに出して、戦後の日本人にもなお続く「戦争」に対する道徳的観点の欠如を指摘する

93年小脳の梗塞で入退院を繰り返し、伝記のあとがきを書き終えたのは94年、その後大腸癌発見手術、胆石も摘出

 

第7節        世界がよぎるのを眺める

95年末、『思想の科学』で『鶴見和子研究』(962)見本刷り完成、直後に和子が脳出血で倒れる

『思想の科学』は965月号の刊行50年で終刊を決めていた

鶴見は、埴谷雄高のことを、「女3(母、姉、妻)にかしづかれた人」と言っていたが、実は自分自身のことを言っていた

和子は、俊輔が幼い頃、母からの際限ない叱責に割って入って助けてくれたし、長じてからも、知識人としての弟に強い敬意を払い続ける。だからこそ彼の社会生活上の自由を優先させて、自身再度の留学希望は後回しにして両親の世話をする。戦後漸くプリンストンの社会学部大学院に留学したのは44歳の時で、博士論文を書き上げて帰国、成蹊大で初めて助教授に就くのは48歳。にも拘らず俊輔は、彼女を「優等生」とからかい、学者としての彼女に向ける評価は概して点が辛い。晩年はさすがに改めたが、甘えが続く

直輔も、前月には持病の悪化で片足を切断

俊輔が家庭のことについて人前で話すようになったのは高齢になってから。弟についての言及の少なさは、年も違い、病弱だった弟とも離れて暮らすことが多かったこともある。「カネにこだわる」と評したこともある(両親も担任への手紙に「利害に対して敏感」と記している)。直輔はコロンビアのMBAから三菱商事に入り、『サラリーマン 働きがいの研究』(82)という著書を読むと俊輔の好みに重なることが多いのに驚く。96年死去。享年62

術後をおして埴谷雄高を巡る評論を書き始め、05年論集『埴谷雄高』にまとめる。中核に置かれているのは、埴谷の基調をなす「自同律の不快」で、「俺は俺である」という事実への不快、落ち着かなさは、彼が植民地の台湾で生まれ育った経験に基づくということ。優しい自分の母親が、台湾人に対して違った人間になる。不意の変形への恐怖と不信が、彼の心理の底に焼き付いて離れない

俊輔も、偶々生まれ落ちた特権的な境遇への「自同律の不快」を抱えて成長したのではないか。2人の間には日頃の個人的な交際はなかったが、竹内の病室で何度か会って、埴谷が「二重人格」だとの思いを深めたというのも、鶴見自身がそうだからと述懐。「日本の知識人に対する不信が生き続けている、埴谷に惹きつけられたのはそのせいだ」とも言っている

 

8節 未完の「伝記」について

『もうろくの春』(02年刊)は唯一の詩集。自身の葬式での配布を念頭に置いた企画。ツルゲーネフの自選小文集の表題に準じてつけた題

04年「九条の会」発足。呼びかけ人は俊輔、加藤周一、奥平康弘、小田実、大江健三郎ら

イラク戦争に自衛隊が派遣され、9条の実質が揺らいでいるとき

鶴見自身は、国民投票で「自分たちで守れるような憲法」を決め直すことも一案だろうと述べていたが、全体を改訂すればいいという立場には立たず、争点は9条を護るか護らないかに焦点を置くと、護る方がいいという考え方に立つ

06年、和子が宇治の老人施設にて没、享年88。和子が研究した南方熊楠ゆかりの田辺湾に続く紀伊水道に散骨

08年、鶴見から「竹内好シンポジウム」構想が浮上。自著『竹内好』が敗戦に至るまでの竹内の前史に注力していたため、戦後も論じるべく改稿を企図。鶴見が竹内と初めて会ったのは48年、竹内や武田泰淳ら中国文学仲間の会合に鶴見が出向いた時で、竹内は思想の科学研究会に最初から入会。俊輔に事実無根のカネと女のスキャンダルの嫌疑がかかった際無実を証明し、俊輔の名誉も守り、騒ぎに終止符を打つべく奔走してくれたのが竹内で、戦後の竹内を論じようとすれば、この事件も絡んで、客観的な「伝記」の書法から離れることを余儀なくされるため、伝記の期間を戦前に絞るのは止むを得ない決断だった

竹内の側からの鶴見にまつわる回想: 60年安保の時、私(竹内)は都立大を辞めたが、鶴見もしめし合わせたわけでもないのに直後に東工大を辞めている。私への義理立てが感じられてならない。私に比べると俊輔は公私混同の誤解を恐れぬ独裁者の気質を多分に備えている。その短所でもあり長所でもあるのが最大限発揮されたのが60年安保の時で、デモをやりながら、愛妻を射止めた。これ程大っぴらな公私混同はそうざらにはない

08年、シンポジウム「竹内好の残したもの」が京都で開催され、発言者への指示をした鶴見は討議を楽しんでいた。改めて尊敬する竹内の人間的な大きさを偲び、その日の『もうろく帖』にも、「これ以上のことを私の人生に望んでいない」と記す

翌年初めから心房細動で入退院を繰り返す。心臓に持病のある妻が2人で施設に入所しようと提案、一旦は同意するがすぐに撤回し自宅で暮らしたいという。「私はどうなってもいいの?」と尋ねる妻に、「すまないが」と鶴見は答えたという

11年の東北大震災ではテレビに釘付けとなる

同年6月、九条の会7周年で講演

同年11月、『複数の自我』が『京都新聞』に掲載。鶴見はノーベル経済学賞のインド人アマルティア・センの著書を読んで、センがインド国籍を手放さずにいるのはかつて植民地で生きたという記憶を維持したいとの意志であり、センが複数の自我を持つことを知る。現在センはインド国籍のまま、ハーヴァードの経済学科教授。日本人は自分たちの記憶に刻み込まれた複数のアイデンティティを保つところまで、行き着くことが出来るだろうか

この原稿を送った直後、脳梗塞に倒れ、これが生前発表される最後の自筆原稿となる

 

第8節        子どもの目

157月、鶴見の最期は誤嚥性肺炎。故人の遺志でしばらくは伏せられた

脳梗塞のリハビリのあと、発語はしばらく続けると混濁する状況で書くのも無理だったが、こちらが話すことは理解した。言語リハビリを続けていた

死んだとき、宗教関係の人たちは呼ぶなとの遺言。日本では戦争の時、仏教もキリスト教も、宗教人たちがその動きに加わったことを、自分は忘れていない

近親者のみで葬儀を済ませ、1週間後の記者発表を予定していたが、繰り上げて4日後に公表。その席で息子の太郎は日頃家庭での父の様子を聞かれて、「子どもの頃色々なことを父に話すごとに、面白いな! すごいね! との反応だったが、外の世界に出てみると世間の大人たちは何に対しても無反応だということがわかってショックを受け、そのギャップを埋めるのに長く苦労した」というような話をしていたのが印象的

俊輔の墓は多磨霊園にあり、両親、弟とともに眠る

 

 

 

鶴見俊輔伝、絆に頼らず丹念に 幼少から交流の黒川創さん「経験や会話を相対化」

20181223日 朝日

 戦後日本の思想と文化に大きな影響を与えた哲学者、鶴見俊輔93歳で亡くなって3年。半世紀にわたり、様々な形で関わった作家黒川創さん(57)が『鶴見俊輔伝』(新潮社)を刊行した。

 鶴見の活動は、長く、広く、深い。50年間主導した雑誌「思想の科学」にベトナム反戦の「ベ平連」、60年安保の「声なき声の会」、護憲を訴えた「九条の会」。演芸や漫画といった大衆文化まで論じ、実践を重んじる米国のプラグマティズムの紹介者でもあった。

 黒川さんは京都ベ平連の事務局長などを務めた父を持ち、小学生のときから「思想の科学」に寄稿。大学の時には鶴見の依頼で特集を作り、卒業後には編集会議にも加わるように。自身の作家デビュー後も、鶴見のアンソロジーを手がけた。生前の鶴見を知る人々が相次いで世を去るなかで、「自分が引き受けなくては、と責任を感じて」評伝を書き始めた。

 鶴見の人生は、哲学者として世に出る以前から波乱に満ちている。満鉄総裁や外務大臣を歴任した後藤新平の孫として、有名政治家の一家に育ち、小学生で万引きを覚え、中学時代は遊郭に出入り。退学や自殺未遂を繰り返した。10代で渡米、ハーバード大哲学科在学中にアナキストとして拘留され、交換船で帰国。従軍も経験した。ままならない人生の中でこだわったのは、「自分の足で立つ」ことだった、と黒川さん。

 鶴見との関係が深いからこそ、そこに頼らず、資料や本人の著作を丹念に読みこみ、事実として重ねていくことを心がけた。竹内好の伝記を書いた鶴見自身も、「敬意を抱きすぎた相手の伝記を書くのは難しい」とこぼしていた。「一緒に経験したり、話したりしたことを、相対化したかった」

 新しい事実の強調や、奇をてらったつくりは避けた。「特定のイデオロギーにそって生きなかったから、何を考えようとした人か、わかりにくい。その『真ん中』を書いてみようと思った」

 戦時に捕虜の殺害を命じられたらどうするか悩む一方で、夫婦生活で茶わんを洗うことの意味を問い続ける。鶴見にとっては、「どちらも等価だった」と黒川さんは言う。根本的な問いは、シンプルであるがゆえに、解決が難しい。「真理よりも、持ち運び可能な思想にこだわった。生活のすべてに思想が結びついていた。いつも考えていたから、退屈を知らない人でした」(滝沢文那)

 

 

 

(書評)『鶴見俊輔伝』 黒川創〈著〉

2019119日 朝日

 活動的人間の輪郭を際立たせる

 伝記に精彩を添え、読む者を楽しませてくれるのが、脇道の挿話やページの合間に挿入された数々の写真である。本書にも主人公にまつわるいくつかの写真が差し挟まれている。スネた不良少年(豪邸で撮られた家族写真には、「不良少年のつらがまえ」というキャプションがつけられている)は、17歳でハーバード大学に入学する頃にはコナン少年を思わせる知的でニヒルな青年に変貌している。そして戦後、細面は次第に丸みを増し、やがて穏やかな晩年の顔になる。

 鶴見俊輔は生まれながらにして伝記の世界、ある意味での公的世界に登場したと言える。母方の祖父は後藤新平、父は鶴見祐輔。獄中転向で知られる佐野学とも縁戚関係がある。子供の頃、張作霖爆殺の張本人が日本軍だと書生たちが噂するのを聞いている。アメリカでは、都留重人、ライシャワーと知り合い、日米開戦後の交換船がまた一幕の舞台を提供する。この舞台での出来事が横浜事件や戦後のマッカーシー旋風と細い糸でつながっていく。

 伝記作家の対象となりうる人物は限られている。例えばケインズの伝記は書きやすいが、ハイエクの場合はなかなかそうはいかない。外界との接触面を多く持ち、外界に積極的に働きかける活動的人間――バロック的人間と言おう――こそは伝記の格好の素材である。本書は鶴見俊輔というバロック的人間の多彩な人間関係と精力的な対外的活動を丹念に描き、主人公の人間的輪郭を際立たせる。

 外部への強い関心は思想家の「不良少年」気質と相まって、反権威主義、反アカデミズム、反普遍主義を育て、日常的な出来事、特殊なものへの興味をかき立てる。このような記事で埋められていく雑誌「思想の科学」を、後に丸山眞男は型やしつけを蔑視する内容主義だと批判する。このような批判が鶴見の思想に対する一撃となるのかどうか。さらに考えていかなければならないだろう。

 評・間宮陽介(青山学院大学特任教授・社会経済学)

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 『鶴見俊輔伝』 黒川創〈著〉 新潮社 3132円

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 くろかわ・そう 61年生まれ。作家。著書に『かもめの日』、編著に『鶴見俊輔コレクション』全4巻など。

 

 

第46回大佛次郎賞 『鶴見俊輔伝』――黒川創氏

20191219日 朝日

 優れた散文作品に贈られる第46回大佛次郎賞は、作家、黒川創さんの『鶴見俊輔伝』(新潮社)に決まった。一般推薦を含めた候補作の公募、予備選考を経て、最終選考で委員5人が協議した。贈呈式は来年1月29日、東京都内で、朝日賞大佛次郎論壇賞、朝日スポーツ賞とともに開かれる。

 「ツルミ先生」の世界、丹念な「地図」に 著作・資料から解きほぐした思想と素顔

 雑誌「思想の科学」やベトナム反戦運動の「ベ平連」で中心的な役割を果たし、戦後日本の思想や文化に大きな影響を与えた哲学者・鶴見俊輔19222015)。捉えがたいその全体像を、丹念な筆致で浮かび上がらせた。

 黒川さんは鶴見より39歳年下だが、京都ベ平連の事務局長を務めた北沢恒彦の長男で、幼い頃から行く先々に「ツルミ先生」の姿があった。大学卒業後には「思想の科学」の編集会議に加わった。「遠慮するような関係じゃない。お互いに率直であけすけな批評をする。『思想の科学』の多元主義って、そういうものだから」

 評論家として出発した黒川さんが、「鶴見さんや加藤典洋さんと同じことをやってもしょうがない」と、選んだのが小説だった。「思想の科学」休刊後の1999年に初の小説集を刊行。「人は自分の足でしか立てない。他の人の立っている場所に立たせてもらうわけにはいかないから」。自分の足で立つことは、鶴見が大事にしたことでもあった。

 小説を書き始めてしばらくはうまくいかず、「鬱々とした」40代を過ごした。絞り出すように書く度に、「自分の井戸はこれで空だな」と思った。あるとき、「絶望していますよ」と話すと、鶴見はこう答えた。「世の中には見込みのないフリーライターと、絶望的なフリーライターしかいないんだ」。書き方を具体的に教わることはなくても、「受け止められている」ことに助けられたという。

 ここ10年、小説と評論を交互に書いてきた。小説は、ラジオ局を舞台に人々の営みを描いた『かもめの日』や土地の記憶を掘り下げた『京都』、評論では夏目漱石らを植民地や戦争という観点で読み直す『国境 完全版』など、両分野で高く評価されている。「残り時間も少ないから、片方の井戸に水がたまるまでじっとしているわけにもいかない。もう片方で見つけたことが生きることもある」

 鶴見の評伝は、「いつかはやらないといけない」仕事だった。鶴見の著作集の編集を担い、活字になっていない活動もまとめてきた。「壁の下塗りのようなことを繰り返しやってきた」と話す。

 鶴見は膨大な言葉を残したが、言い切れなかったこともある。母方の祖父が東京市長などを歴任した後藤新平という出自に苦しんだ。そうした姿を著作と資料から丁寧に解きほぐした。「作家の想像力に頼らず、評伝のルールとして裏付けにこだわった」。そこから、ときおり鶴見の笑い声や目の輝きが伝わってくる。やはり、行動をともにする機会が多かったからだろう。「人間の心の動き方や想像の仕方、洞察は小説に鍛えられたところがあるかもしれない」

 この評伝は「地図」だと黒川さんは言う。長年にわたり様々な領域にまたがって、鶴見の世界は広がっている。自分の足で地図をたどる旅に出たくなる。(滝沢文那)

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 くろかわ・そう 1961年、京都市生まれ。同志社大学卒。「思想の科学」編集委員などを経て作家に。『かもめの日』で2009年に読売文学賞、『国境 完全版』で14年伊藤整文学賞(評論部門)、『京都』で15年毎日出版文化賞を受賞。編著に『鶴見俊輔コレクション』全4巻、『鶴見俊輔さんの仕事』全5巻など。

 

 

 

コロナ禍、首相の言葉づかい 人びとの暮らしへの想像力、欠く 寄稿、作家・黒川創

2020520日 朝日

 コロナ禍に対する政府の「緊急事態宣言」発出(四月七日)から、ひと月半が過ぎた。

 この間、安倍首相は「出勤者の七割減」という要請を重ねて語ってきた。だが、実は、この「出勤者」が何を指すのか、また「七割減」という目標(?)がどの程度達成されたのか、いまだに明らかにされないままである。

 安倍氏は、「オフィス」での仕事は原則在宅で行えるようにし、「どうしても出勤が必要な場合でも出勤者を最低七割は減らす」ことを「すべての事業者」に要請する、と述べている(四月一一日)。

 これは、「オフィス」で働く事務系職にリモートワークを勧奨し、彼らの七割で実現することを目指す、という意味なのか? それとも、「すべての事業者」に要請すると言っているのだから、職種を問わず、全勤労者の七割が自宅にとどまることを意味したのか? 彼には、こうした意味の不分明な言葉づかいが多い。しかも、ジャーナリズムも、いちいちそれを問いたださない傾向が強まっている。今回も、あまりこだわらずに、おおむね「『出勤者7割減』要請へ」(朝日新聞東京本社版、四月一二日)といった見出しでやり過ごされてきた。

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 だが、気をつけたいのは、安倍首相が「出勤者」を語るとき、現業部門や製造業への従事者はほとんど言及されることがない、という点である。彼にとっての日本の産業社会は、もっぱらサービス業などの第三次産業と金融資本の組み合わせで成っているかのようだ。

 むしろ、彼は、四月七日に「緊急事態」を宣言するに際して、すでにこのように述べていた。「……電気、ガス、通信、金融、ごみの収集・焼却など、暮らしを支えるサービスは平常どおりの営業を行っていきます。(中略)食品など生活必需品の製造・加工に関わる皆さん、物流に携わる皆さん、そして小売店の皆さんには、営業をしっかりと継続していただきます」

 今日風に言うなら上から目線、ちょっと古くさい言葉を使えば大本営感覚丸出しの言い草である。現業部門や製造業の勤労者は、当初から現場に出て危険を冒して働く存在として、決めつけられている。それならば、なぜ安倍首相は、たとえばごみ収集作業員の安全を守るため、「使用済みのマスクはポリ袋に入れて、しっかりと口を結んでから、二重にごみ袋に包んで出すようにしましょう」という程度の注意喚起をしないのだろうか? 指導者たる地位にある者が、率先して光を当てることで、人間の仕事はより尊厳あるものとして、敬意を払われるはずなのに。

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 政治家たる彼の特徴の一つは、このように、さまざまな境遇に置かれた「普通の人びと」の暮らしへの想像力を欠いていることである。それは、人間としての欠点でありながら、ときに、権力者としての強みでもあったろう。

 彼は、政治的な方向づけだけを下して、人間的な機微にわたる行政上の配慮は「よきに計らえ」とばかりに下僚に押しつける手法を取ってきた。それが、どれほどの苦しみを現場にもたらすかは、想像することがない。

 権勢にまかせて、モリ・カケ・桜でしくじり、強引な弁明を重ねたことは、彼を一種の虚言癖に陥らせた。このまま権力の座を去ると、のちには、自身も逮捕されかねない。だから、近しい人物を検事総長に就けることを企て、さらにコロナの陰に隠れて、検察庁法改正まで強行しようとしていると映る。

 法案審議を秋の臨時国会に先送りしたとしても、これの強行をうかがう理由が、政権それ自体の腐敗に根ざしていることに変わりはない。与党の自民党公明党こそ、こんな政権に、いつまでも付き合っていてはいけない。

     

 くろかわ・そう 1961年、京都市生まれ。2009年『かもめの日』で読売文学賞、14年『国境 完全版』で伊藤整文学賞(評論部門)、15年『京都』で毎日出版文化賞、20年『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。近著に『暗い林を抜けて』。

 

 

Wikipedia

鶴見 俊輔(1922大正11年〉625 - 2015平成27年〉720)は、日本哲学者評論家政治運動家大衆文化研究者。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる。

l  経歴[編集]

l  生い立ち[編集]

1922625東京市麻布区[ 1]で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの2番目(長男)として生まれる[ 2]

鶴見が幼少の頃、父・祐輔は新自由主義を標榜して新政党・明政会を結成し、自宅には父の政友が集まり会合を開いていた。また父・祐輔は雑誌「雄弁」の創刊に関わり、旅行記や小説、評論を執筆するなど講談社と関係が深く、鶴見は姉・和子と自宅に寄贈される講談社の本を競うようにして読み、「満州事変以前の講談社文化にひたりきって育った」。

1929年、東京高師附属小学校入学[ 3]。父・祐輔は海外での講演旅行などで自宅を空けていることが多く、特に1930年の明政会事件の後、約2年半を海外で過ごし、その間、鶴見は一緒に暮らしていた母・愛子から「しかられつづけのくらし」をしていた[ 4]。小学3年生ないし11歳の頃、不良化し、近所の子供たちと万引き集団をつくって本や小物の万引きを繰り返し、家の金を持ち出し、小学校をサボって映画館に入り浸り、歓楽街に出入りして女給やダンサーと交際、肉体関係を持つなどした[ 5]12歳の頃にはうつ病になり、睡眠薬を飲んで道路に倒れる自殺未遂を繰り返し、精神病院に3度入院。1935年に府立高校尋常科に入学するも2年生の夏に退学になり[ 6]1936年に府立五中に編入したが、19375月に中退した[ 7][ 8]

l  米国留学[編集]

19377月、父・祐輔の計らいで井口(いのくち)一郎とオーストラリアを旅行。同年末に父に伴われて米国へ渡り、翌19383月までワシントン斎藤博の公邸に預けられる。米国滞在中に、父と面識のあったハーバード大学の歴史学者・アーサー・シュレシンジャー・シニア英語版)教授を介して、同大学大学院に在籍していた都留重人と面識を得る。都留は生涯の師となった。同年9月に単身渡米し、マサチューセッツ州コンコードミドルセックス校英語版)(予備校)に入学[ 9]

19399月、16歳のとき、大学共通入学試験に合格してハーバード大学に進学、哲学を専攻[ 10]記号論理学者のホワイトヘッドラッセルの講演を聴講し、カルナップクワインに師事した。

19417月、日本軍の南部仏印進駐に対抗して在米日本資産が凍結され、日本からの送金が止まったため、夏休みにニューヨーク日本文化会館の日本図書館で本の運搬をして働く[ 11]。先行きへの不安から、生活費を切り詰め、成績優秀だったため卒業を急いで4年制の大学を3年で卒業できる飛び級コースを選択。この頃、結核のため喀血

19423月下旬、大学の第3学年前期が終わったとき、FBIに逮捕され、東ボストン移民局の留置場を経て、同年5月に戦争捕虜としてメリーランド州ミード要塞英語版)内の収容所に送られる[ 12]。抑留中に卒業論文を完成させ[ 13]、第3学年後期は大学の授業に出席できず、留置場で受けた後期の試験は不合格だったが、それまで成績優秀だったため、卒業論文を参考資料とすることで教授会の投票により特例的に卒業が認められた

19426月、日米交換船グリップスホルム号に乗船、経由地のロレンソマルケスで交換船・浅間丸に乗り換え、同年8月に日本に帰国[ 14][ 15]

l  海軍軍属[編集]

19428月、米国から帰国の翌日、自主的に麻布区役所に出頭し、4日後の徴兵検査で第2乙種合格[ 16]。陸軍に召集されるのを避けるため、海軍軍属ドイツ語通訳として志願し、19432月にドイツ封鎖突破船ジャワ島に赴任。ジャカルタ在勤海軍武官府2年間勤務し、主に連合国のラジオ放送を聴いて情報をまとめ、部外秘の新聞を作成する業務に従事した[ 17]カリエスが悪化し、ジャワ島・チキニインドネシア語版)の海軍病院で2度手術を受けた後、シンガポールの輸送船団、通信隊での勤務を経て、194412月初に練習巡洋艦「香椎」で日本に帰還。帰国後、体調が回復したため、19454月から慶應義塾大学日吉校舎に置かれていた海軍軍令部に勤務し、翻訳業務に従事。同年7月に結核性腹膜炎のため辞職し[ 18]熱海で療養中に敗戦を迎えた。

l  戦後[編集]

戦後、鶴見は軽井沢の別荘で結核の療養生活を続けながら、姉・和子の尽力で、和子と丸山眞男、都留重人、武谷三男武田清子渡辺慧とともに7人で「思想の科学研究会」を結成して雑誌『思想の科学』を創刊。同会では、米国留学の前後で日本の論壇全体の傾向が変わったとの自覚から着想して、『共同研究 転向』をまとめるなど思想史研究を行い、1962年に『共同研究 転向』全3巻を平凡社から刊行した。

194811月、桑原武夫の推薦により京都大学嘱託講師となり、19494月に京都大学人文科学研究所[要出典]助教授となる[ 19]

19515月にうつ病を再発、京大を1年間休職、精神病院に入院し、翌19521月に退院。「親父のもとに出入りしていたら、自分がだめになると思って」家を出る。

1954年、東京工業大学助教授[要出典]

1959年、加太こうじ森秀人佐藤忠男虫明亜呂無邑井操らと大衆芸術研究会を創設。

60年安保時には、政治学者高畠通敏とともに「声なき声の会」を組織して岸内閣による日米安全保障条約改定に反対[ 20][ 21]19605月、日米安保条約決議に抗議し、東工大助教授を辞職。同年秋、貞子夫人と結婚。うつ病を再発し、新婚の妻と別居。

1961年、同志社大学文学部社会学科教授。1962年から一時期、脳軟化症で自宅療養生活を続ける父・祐輔の介護のため、東京都練馬区関町にあった父の自宅で父と同居。

1965年には高畠らとともに「声なき声の会」を母体とし[要出典]、代表に作家の小田実を迎えて「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を結成。19666月にはベトナム北爆に抗議して在日アメリカ大使館前で座り込みを行った。1967年には横須賀に寄港した空母イントレピッドからの脱走兵2人を東京・練馬の父の家に匿い、のち京都の自宅に移し、スウェーデンに送る。1970年、大学紛争での警官隊導入に反対して同志社大学教授を退職。1984年発行『架橋-私にとっての朝鮮』飯沼二郎編著(麦秋社)で吉田清治について「あの、独力で韓国に強制連行の謝罪碑を建てた人でしょう。(中略)碑の前で土下座して韓国人に謝罪すると、やっぱり悪罵を浴びせられるということが出ていますね、当然だと思うけれども、そのために謝罪碑を建てたっていうのは偉いですね。」と発言した。

l  晩年[編集]

2000年以降、日本共産党支持の姿勢を明確にし、20046月には、大江健三郎小田実らと共に九条の会の呼びかけ人となる[ 22][ 23]

2015720、肺炎のため京都市左京区の病院で死去。享年93歳。

l  家族[編集]

妻は英文学者翻訳家横山貞子

息子は早稲田大学文学部教授の鶴見太郎

父は政治家・鶴見祐輔

姉は社会学者鶴見和子

妹の夫は法学者の内山尚三

父方の叔父は外交官鶴見憲

父方の従弟(鶴見憲の息子)に人類学者鶴見良行

母方の祖父は政治家・後藤新平、同曾祖父に政治家・安場保和

母方の叔父に佐野学[要出典]

母方の従兄に社会主義運動家の佐野碩佐野博[要出典]

母方の親戚(安場保和の孫娘の婿)に法学者平野義太郎[要出典]

l  エピソード[編集]

筑摩書房の編集者松田哲夫によると、鶴見は専門の哲学はもとより、「マンガやジャーナリズム、近代史について、とてつもない知識」を持っていたという。『ちくま日本文学全集』の編集作業の際、鶴見が5歳の時からの膨大な既読書の内容をすべて覚えており、「古典的名作だけにとどまらない、例えば赤川次郎作品すべて」にまで及んでいることが判明した。これには名だたる読書人揃いの他の編者たち(安野光雅森毅井上ひさし池内紀)も唖然としたという。

鶴見は、父である鶴見祐輔一高英法科の首席クラスの優等生であったにもかかわらず、倫理的によくない日中戦争や、負けるとわかっていた太平洋戦争の旗振り役となったことを「一番病」と呼び、一番病を攻撃することが自身の戦略であり、著作活動の動機の源泉になっていた、としている。他方で、2年半の米国留学時代には鶴見自身も一番病にかかっていたとし、この時代のことを書くことを無意識に避けていた、としている。なお「一番病」は、水木しげる手塚治虫をモデルに描いた短編漫画の題名でもある。

漫画の中では山上たつひこの『がきデカ』を高く評価し、「あの『がきデカ』というのがみんなに読まれているうちは、ああ、日本人にはこういう人がいるんだな、日本ってこんなんだなという自画像をもっているうちは、まだまだ安全だと思っているんですよ。「正義のために戦え」とか、「聖戦」とかいうふうにして戦争の態勢をつくるところまでにはまだ一歩あるなという感じがするのです」「こういうふうに金とセックスだけを追い求める人間が活躍するわけでしょう。ああ、日本人はこうなんだな、こういう人間がたくさんいるんだなと思って大人になることがいいんです。日本人は神の子で、万邦無比の国体なんだと思って海外に出ていったら困るんですよ。『がきデカ』を読んでいれば、ちがった人間になるんじゃないかという希望をもっています」と述べている。

テレビ番組ハケンの品格』がお気に入りで、軍属時代に翻訳新聞発行を一手に引き受けていた自分と、同番組で描かれていた派遣社員とが重なって見えると語っている。

敬虔なキリスト教徒であった母親への反撥、戦争推進を主張していた一部の僧侶や牧師への不信感から、宗教に反感を持っていたが、仏教徒の文化人との交流の中で仏教に理解を示すようになり、「かくれキリシタン」ならぬ「かくれ佛教徒」と自称するようになった。1975年に行われた松本清張との対談では「社会党の言うように、安保の全面廃棄、軍備の全面禁止というのは観念的か」という問いに「柳宗悦から習った言葉を使うと、一種の陀羅尼というか念仏で考えていくという方法をとっている」と答えている。

1986815日、安田武山田宗睦と「坊主の会」を結成、以後毎年同日に剃髪することを15年間続けた。鶴見はその後も毎年815日に断食を行っている。また、その山田が1965年に刊行した『危険な思想家』に「この本はあくまで今の時代に肉薄し、重大な警告を発している」という推薦文を寄せたが、竹内洋によると吉本隆明から山田や鶴見らは自分たちのネットワークを壊し孤立させようとしている学者を告発しているにすぎないと批判されている[ 24]

ヤマギシ会を評価しており、ベトナム戦争脱走兵をかくまうことに協力を得ている。

鶴見は、渡米前から自身は無政府主義者だったと言明しており、「クロポトキンを一生懸命読んで」おり、クロポトキンにはマルクスに対する偏見があったため、それが、マルクス主義者にならない、「一種の予防注射になった」としている。反戦運動を行う中で、戦時中に海軍軍属に志願した事に関して「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、ものすごく辛いんだよね。だから、英語がしゃべれるのも嫌になっちゃって。戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している。 

l  評価・批判[編集]

蓮實重彦上野昂志絓秀実らは座談で、鶴見が左翼系知識人にすりよりながら、いつも左翼にならないこと、また蓮實重彦は「動体視力」つまり映画や文学を語る時の視力が鶴見には決定的に欠けており、それゆえ、鶴見の文化評論がことごとく無内容なものになっていると批判している。また幸福会ヤマギシ会を支持し、ヤマギシ被害者から抗議を受けた。

伊藤隆は鶴見をいいだもも飯沼二郎と並んで「進歩派」と定義している。

l  著作物等[編集]

l  単著[編集]

『哲学の反省』先駆社 1946

『アメリカ哲学』世界評論社、1950 のち講談社学術文庫、「こぶし文庫 戦後日本思想の原点」こぶし書房 2008

『哲学論』創文社 1953

『大衆芸術』河出書房・河出新書 1954

『プラグマティズム』河出書房 1955

『アメリカ思想から何を学ぶか』中央公論文庫 1958

『誤解する権利 日本映画を見る』筑摩書房 1959

『折衷主義の立場』筑摩書房 1961

『日常的思想の可能性』筑摩書房 1967

限界芸術論』勁草書房1967 のち講談社学術文庫、ちくま学芸文庫

『不定形の思想』文藝春秋 1968

『北米体験再考』岩波新書 1971、復刊2015

『ひとが生まれる 五人の日本人の肖像』ちくま少年図書館 1972 のちちくま文庫

『漫画の戦後思想』文藝春秋 1973

『私の地平線の上に』潮出版社1975

高野長英朝日新聞社・朝日評伝選、1975 のち選書

『転向研究』筑摩叢書 1976

『いくつもの鏡 論壇時評1974-1975』朝日新聞社 1976

『グアダルーペの聖母 メキシコ・ノート』筑摩書房 1976

柳宗悦平凡社選書 1976 のち平凡社ライブラリー

『読書のすすめ』潮出版社 1979

『太夫才蔵伝 漫才をつらぬくもの』平凡社選書 1979 のち平凡社ライブラリー

『本と人と』西田書店 1979

『文章心得帖』潮出版社 1980

『戦後を生きる意味』筑摩書房 1981

『戦後思想三話』ミネルヴァ書房 1981

『戦時期日本の精神史 19311945年』[ 25]岩波書店 1982 のち同時代ライブラリー、岩波現代文庫

『家の中の広場』編集工房ノ 1982

『戦後日本の大衆文化史 19451980年』岩波書店、1984 のち同時代ライブラリー、岩波現代文庫

『絵葉書の余白に 文化のすきまを旅する』東京書籍 1984

『ことばを求めて』太郎次郎社 1984

『人類の知的遺産 60 デューイ講談社 1984

『読書日録』潮出版社、1985

『大衆文学論』六興出版社、1985

『テレビのある風景』マドラ出版 1985

『老いの生きかた』筑摩書房 1988 のち文庫

『思想の落とし穴』岩波書店1988

夢野久作-迷宮の住人-リブロポートシリーズ民間日本学者1989 のち双葉文庫

『らんだむ・りぃだぁ』潮出版社、1991

アメノウズメ-神話からのびてくる道』平凡社1991 のちライブラリー

『書評10年』潮出版社、1992

竹内好-ある方法の伝記-』リブロポート(シリーズ民間日本学者)1995 のち岩波現代文庫

『期待と回想』晶文社 上下、1997朝日文庫 1 2008。自伝

『隣人記』晶文社 1998

『教育再定義への試み』岩波書店 1999 のち岩波現代文庫

『夢野久作と埴谷雄高』深夜叢書社 2001

『回想の人びと』潮出版社、2002 のちちくま文庫

『風韻 日本人として』フィルムアート社 2005

埴谷雄高講談社2005講談社文芸文庫2016

『詩と自由 恋と革命』思潮社 2006

『たまたま、この世界に生まれて 半世紀後の『アメリカ哲学』講義編集グループSURE 2007

『評伝 高野長英 1804-50藤原書店 2007

『悼詩』編集グループSURE 2008

『言い残しておくこと』作品社 2009

『ちいさな理想』編集グループSURE 2010

『思い出袋』岩波新書 2010

『もうろく帖』編集グループSURE 2010

『かくれ佛教』ダイヤモンド社 2010

『象の消えた動物園 同時代批評』編集工房ノア 2011

『鶴見俊輔語録1 定義集 警句・読書・定義』皓星社 2011

『鶴見俊輔語録2 この九十年』皓星社 2011

『日本人は状況から何をまなぶか』編集グループSURE 2012

『流れに抗して』編集グループSURE 2013

『まなざし』藤原書店 2015

集成[編集]

『鶴見俊輔著作集』全5 筑摩書房 1975-76

『鶴見俊輔集』全12+補巻5巻、筑摩書房、1991-2001

『鶴見俊輔座談』全10巻、晶文社 1996 - 選集『昭和を語る 鶴見俊輔座談』同 2015

『鶴見俊輔書評集成』全3 みすず書房 2007

『鶴見俊輔コレクション』河出書房新社(全4巻、黒川創編)2012

『鶴見俊輔全漫画論』ちくま学芸文庫(全2巻、松田哲夫編)2018

共著[編集]

『現代日本の思想 その五つの渦』久野収 岩波新書 1956、度々復刊

『戦後日本の思想』久野収・藤田省三 中央公論社, 1959 のち勁草書房、講談社文庫、岩波同時代ライブラリー、岩波現代文庫

折伏 創価学会の思想と行動』産報 1963

『日本人の生き方』星野芳郎 講談社現代新書 1966

『平和を呼ぶ声』開高健,小田実 番町書房 1967

『二十世紀の思想』しまねきよし,田村紀雄,後藤宏行 青木書店,1967

『同時代 鶴見俊輔対話集』合同出版社 1971

『市民の暦』小田実,吉川勇一 朝日新聞社 1973

『日本人の世界地図』長田弘高畠通敏 潮出版社、1979 のち岩波同時代ライブラリー、

『歳時記考』長田弘、なだいなだ山田慶児 潮出版社、1980 のち岩波同時代ライブラリー

『アメリカ』亀井俊介 文藝春秋 1980

『戦争体験 戦後の意味するもの 鶴見俊輔対話集』ミネルヴァ書房 1980

『まげもののぞき眼鏡 大衆文学の世界』旺文社文庫 1981

忠臣蔵四谷怪談 日本人のコミュニケーション』安田武対談 朝日選書 1983

『思想の舞台』粉川哲夫 田畑書店 1985

『変貌する日本人』多田道太郎 三省堂 1986

『ふれあう回路』野村雅一 平凡社 1987

『現代風俗通信 19771986 学陽書房 1987

『祭りとイベントのつくり方』小林和夫 晶文社 1988

『ことばを豊かにする教育』森毅 明治図書出版1989

『思想の折り返し点で』久野収 岩波書店1990 のち朝日選書

『教育で想像力を殺すな』高橋幸子 明治図書出版, 1991

『時代を読む』河合隼雄 潮出版社、1991

『旅の話』長田弘 晶文社1993

『日本文化の現在』森毅 潮出版社、1993

『歴史の話』網野善彦 朝日新聞社1994 のち選書

『神話的時間』熊本子どもの本の研究会, 1995

『「むすびの家」物語 ワークキャンプに賭けた青春群像』木村聖哉 岩波書店 1997

『神話とのつながり』西成彦,神沢利子 熊本子どもの本の研究会, 1997

『丁丁発止梅棹忠夫・鶴見俊輔・河合隼雄』朝日新聞大阪本社 かもがわ出版, 1998

『二〇世紀から』加藤周一 潮出版社、2001

『転向再論』いいだもも鈴木正 平凡社、2001

『未来におきたいものは 鶴見俊輔対談集』晶文社、2002

『読んだ本はどこへいったのか』山中英之、潮出版社、2002

『グラウンド・ゼロからの出発-日本人にとってアメリカってな〜に』ダグラス・ラミス 光文社2002

『みんなで考えよう 鶴見俊輔と中学生たち』全3巻、晶文社 2002

No war! ザ・反戦メッセージ』瀬戸内寂聴いいだもも 社会批評社 2003

『戦争が遺したもの 鶴見俊輔に戦後世代が聞く』上野千鶴子小熊英二 新曜社2004

『同時代を生きて』瀬戸内寂聴ドナルド・キーン 岩波書店、2004

『まごころ-哲学者と随筆家の対話』岡部伊都子 藤原書店2004

『手放せない記憶-私が考える場所』小田実、編集グループSURE 2004

『千年の京から「憲法九条」-私たちの生きてきた時代』瀬戸内寂聴 かもがわ出版 2005

加藤典洋・黒川創と座談『日米交換船新潮社2006ISBN 4103018518

『脱走の話 ベトナム戦争といま』吉岡忍 編集グループSURE 2007

『セミナーシリーズ・鶴見俊輔と囲んで』(井波律子作田啓一那須耕介山田稔・加藤典洋、編集グループSURE)2006

『シリーズ《鶴見俊輔と考える》』全5巻 山田慶児柳瀬睦男中村桂子谷川道雄海老坂武 編集グループSURE 2008

『アジアが生みだす世界像──竹内好の残したもの』中島岳志/大澤真幸/山田慶児/井波律子/山田稔/黒川創編 (編集グループSURE 2009

『対論・異色昭和史』上坂冬子 PHP新書 2009

『不逞老人』黒川創 河出書房新社 2009

『人生に退屈しない知恵』森毅 編集グループSURE 2009

『ぼくはこう生きている 君はどうか』重松清 潮出版社 2010

『新しい風土記へ 鶴見俊輔座談』朝日新書 2010

『日本人は何を捨ててきたのか 思想家・鶴見俊輔の肉声』関川夏央 筑摩書房 2011、新編・ちくま学芸文庫 2015

『オリジンから考える』小田実、岩波書店 2011

編著[編集]

20世紀を動かした人々1 世界の知識人』久野収共編 講談社 1964

『現代日本思想大系12 ジャーナリズムの思想』筑摩書房,1965

『反戦の論理 全国縦断日米反戦講演記録』小田実,開高健共編 河出書房新社 1967

『反戦と変革』小田実共編 学芸書房 1968

『戦後日本思想大系4 平和の思想』筑摩書房,1968

『岩波講座哲学13 文化』生松敬三共編, 岩波書店, 1968

『思想の科学事典』久野収と共編 勁草書房 1969

『大衆の時代』平凡社 1969

『脱走兵の思想 国家と軍隊への反逆』小田実,鈴木道彦共編 太平出版 1969

『語りつぐ戦後史』全3 思想の科学社, 1969-1970

『現代日本記録全集14 生活の記録』筑摩書房 1970

『現代人の思想7 大衆の時代』平凡社 1970

『現代漫画』全27 佐藤忠男,北杜夫と共編 筑摩書房 1970-1971

『現代に生きる1 国際活動』東洋経済新報社 1971

『右であれ左であれ、わが祖国』ジョージ・オーウェル 平凡社 1971

『近代日本思想大系24 柳宗悦集』筑摩書房 1975

『日本の百年1 御一新の嵐』筑摩書房 1977、新版・ちくま学芸文庫

『日本の百年9 廃墟の中から』筑摩書房 1978

『日本の百年10 新しい開国』筑摩書房 1978

『叢書児童文学5 児童文学の周辺』世界思想社 1979

『抵抗と持続 世界思想ゼミナール』山本明と共編 世界思想社 1979

『講座日本映画 8巻』今村昌平/佐藤忠男/新藤兼人/鶴見俊輔/山田洋次編 岩波書店 1985

『老いの発見』全5 伊東光晴,河合隼雄,副田義也,日野原重明と共編 岩波書店 1986-1987

『老いの生きかた こころの本』筑摩書房 1988

『祭りとイベントのつくり方』小林和夫共編 晶文社 1988

『コミュニケーション事典』粉川哲夫共編 平凡社, 1988

『天皇百話』上下 中川六平と共編 ちくま文庫 1989

『ちくま哲学の森』全9 安野光雅,森毅共編 1989-1990

『ちくま日本文学全集42 武田泰淳』筑摩書房 1992

『帰ってきた脱走兵 ベトナムの戦場から25年』吉川勇一,吉岡忍共編 第三書館 1994

『新ちくま文学の森』全16 安野光雅,森毅,井上ひさし,池内紀共編 筑摩書房 1994-1996

『民間学事典 事項編、人名編』鹿野政直,中山茂共編 三省堂, 1997

『日本人のこころ 原風景をたずねて』岩波書店 1997

『現代日本文化論9 倫理と道徳』河合隼雄共編 岩波書店,1997

『本音を聴く力 中学生は何を考えているのか』福島美枝子共編 同朋舎 1999

日本の名随筆 別巻97 昭和1』作品社 1999

鶴見良行著作集1 出発』みすず書房 1999

『鶴見良行著作集5 マラッカ』みすず書房 2000

林達夫セレクション』全3 平凡社ライブラリー 2000

『人生のエッセイ』全10 日本図書センター, 2000

『日本人のこころ2 新しく芽ばえるものを期待して』岩波書店 2001

『ハンセン病文学全集』全10 大岡信,大谷藤郎,加賀乙彦編集委員 皓星社, 2002-2010

『本と私』岩波新書 2003

『源流から未来へ 『思想の科学』五十年』思想の科学社 2005

『歩く学問ナマコの思想(鶴見良行論)』池澤夏樹共編 コモンズ, 2005

『戦後史大事典 1945-2004佐々木毅,富永健一,中村政則,正村公宏,村上陽一郎と共編 三省堂 2005

『サザエさんの〈昭和〉』斎藤慎爾と共編 柏書房 2006

『無根のナショナリズムを超えて 竹内好を再考する』加々美光行と共編 日本評論社 2007

『アジアが生みだす世界像 竹内好の残したもの』編集グループSURE 2009

翻訳[編集]

社会契約論 ルソー 岩波文庫, 1954 (桑原武夫13人の共同訳者の一人)

『キューバの声』 ライト・ミルズ みすず書房, 1961

『フランクリン自伝』 ベンジャミン・フランクリン 旺文社, 1966 (土曜社, 2015)

『右であれ左であれ、わが祖国』 ジョージ・オーウェル 平凡社, 1971

『わたしは女王を見たのか』 ヴァジニア・ハミルトン 岩波書店, 1979

映像[編集]

DVD『鶴見俊輔みずからを語る』(テレビマンユニオン)(編集グループSURE

受賞歴[編集]

1982(昭和57年):『戦時期日本の精神史』で大佛次郎賞

1990(平成2年):『夢野久作』で日本推理作家協会賞

1994(平成6年)朝日賞

2007(平成19年):『鶴見俊輔書評集成』(全3巻)で毎日書評賞

関連文献[編集]

ローレンス・オルソン『アンビヴァレント・モダーンズ 江藤淳・竹内好・吉本隆明・鶴見俊輔』黒川創ほか訳、新宿書房、1997

原田達「鶴見俊輔、その苦悩と思想 : ある知的マゾヒズムの軌跡」200112月、大阪大学人間学博士論文。[118]

原田達『鶴見俊輔と希望の社会学』世界思想社、2001

木村倫幸『鶴見俊輔ノススメ プラグマティズムと民主主義』新泉社、2005

現代思想 総特集=鶴見俊輔』201510月臨時増刊号、青土社

村瀬学『鶴見俊輔』言視舎評伝選、2016

安酸敏眞『欧米留学の原風景 福沢諭吉から鶴見俊輔へ』知泉書館2016武田清子と鶴見俊輔」

l  脚注[編集]

l  注釈[編集]

1.    麻布桜田町の後藤新平邸の敷地内の「南荘」と呼ばれていた建屋で、地番は三軒家町53番地。

2.    石塚 (2010, p. 87)によると、命名者は、鶴見俊輔・長田弘『旅の話』によれば父、鶴見俊輔『私の地平線の上に』によれば母とされている。新藤 (1994, p. 12)は、命名者は父で、伊藤博文の幼名による、としている。

3.    同級生には後の文部大臣永井道雄、後の中央公論社社長の嶋中鵬二作家中井英夫など[要出典]がいた。

4.    母から「あなたは悪い子だ」と言われ続けた。

5.    石塚 (2010, pp. 181-182)では、鶴見『日常生活の思想』p.241からの引用として、大塚駅の売店からカルミンを盗んで村八分にされた、としている。

6.    府立高校尋常科で同期だった遠山一行は、鶴見と思しき同級生について「ある日突然と私には見えた中学の同級生が学校をやめてしまったことがあった。その男は頭がよく勉強もできたが、かなり変ったところがあって、たとえば試験の答案を、わざわざ40点とか50点とかに仕立て上げるために、正しい答えを消しゴムで消したりしておもしろがっていた。そして日ごろ反りの合わなかった教師をなぐって、学校をやめたのである。(中略)その男は戦後社会評論家として登場し、名をなした」と回想している。

7.    将来を心配した父から、「もういい。土地を買ってやるから女性と一緒にそこに住んで、蜜蜂を飼って暮らせ。14歳の結婚は法律に違反するけど、自分は目をつぶる」と言われた。

8.    母・愛子は、大正時代には天理教を信じていたが、俊輔の不良化が原因で1936年にキリスト教に入信した。

9.    留学中、下宿で隣の部屋同士だった本城(のち東郷)文彦と親しくなった。

10. 父・祐輔は、シュレシンジャー・シニア教授に身元引受人になってもらい、鶴見をハーバード大学に入学させることを委嘱していた。

11. 父の友人だった前田多門が館長をしていた。

12. 送致の前に審問(hearing)が行なわれ、シュレシンジャー・シニア教授が弁護人となって陪審員3人の票決を受けたが、21で抑留が決まった。

13. 学士論文のテーマは、ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムについて。

14. ミード要塞に抑留中に、交換船に乗船するか尋ねられて、鶴見自身が帰国を決めた。帰国を選んだ理由について鶴見は、日本は必ず負けるという確信を持っていたが、負けるときに負ける側にいたいというぼんやりとした考えからだった、としている。

15. 船中で乗り合わせた数学者角谷静夫と親しくなった。

16. 当時、胸に結核性カリエスの異常突起ができており、結核であることは医学的にはっきりしていたが、徴兵官の「親の金で敵国に行っていたやつなんて、叩き直して、日本国民にしなきゃいけないという情熱」によって合格になった、としている。

17. 慰安所の仕事を担当させられた、と述べている文献がある。

18. 鶴見, 加藤 & 黒川 (2006, pp. 473)では、同年5月まで勤務、としている。

19. この年、アメリカの教育視察団が来日し、京大に人文科学研究所があるのは贅沢であると声を上げた。これに対し桑原が人文研有用論を演説し、鶴見が通訳を行った。視察団は京大に関する限り批判点なし、として帰国した。演説のあった夜、鳥養利三郎総長から桑原に電話があり、自分は鶴見が助教授となることに反対したがこれを取り消すと告げた。

20. 日ソ協会(現・日本ユーラシア協会)によれば、「声なき声の会」のデモの指揮は日ソ協会が行っていた。

21. 鶴見は、のちの回想でも「確認しておこう、あのとき、国会の中にいたトップ、岸信介首相は、A級戦犯じゃないか」と語っている。

22. 同党を「全ての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動して歩く中で、創立以来、動かぬ一点を守り続けて来た。北斗七星のように、それを見ることによって、自分がどの程度時勢に流されたか、自分がどれほど駄目な人間になってしまったかを測ることの出来る尺度」と評価している[

23. 福島瑞穂から対談の申し入れがあった際には[いつ?]、福島が参院本会議で行った長時間の演説(牛タン戦術)を見ていたという経緯から、「国会でのフィリバスター(議事妨害)に感動したので、お会いしましょう」と快諾している。

24. 展望196510月号 吉本隆明「わたしたちが山田宗睦の著書や、この著書におおげさな推薦の辞をよせている市民民主主義者や進歩主義者の心情から理解できるのは、じぶんたちがゆるく結んでいる連帯の人的なつながりや党派的なつながりが崩壊するのではないか、孤立しつつあるのではないかという深い危機感をかれらが抱きはじめているということだけである。そして、かれらの党派を崩壊させるような言葉をマスコミのなかでふりまいているようにみえる文学者政治学者経済学者を告発しよういうわけだ。」

25. 谷沢永一はこの副題の表記を、「日本の年号なんかけっして使わないぞ、という姿勢がはっきりしている」と指摘しており、数多い反日的日本人の著作のうち、いちばん凝り固まった極端を行く代表作を挙げろと言われたら同書を選ぶと評している。なお鶴見は『日本の百年』(ちくま学芸文庫に収録)のうち、9巻(1945年から52年)と10巻(52年から60年)を担当しているが、ここでも全編にわたって「昭和」という元号を使用していない。松本清張との対談の中でも一回使ったきりである。

 

 

 

 

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