調査報道の戦後史  高田昌幸  2026.2.27.

2026.2.27.  調査報道の戦後史 19452025

 

著者 高田昌幸 東京都市大学メディア情報学部教授
1960
年、高知県生まれ。法政大学卒業。1986年、北海道新聞入社。本社社会部、東京政治経済部、ロンドン特派員、本社報道本部次長などを歴任。1996年「北海道庁公費乱用」取材班の一員として新聞協会賞、日本ジャーナリスト会議(JCJ)奨励賞を受賞。2004年「北海道警察裏金問題」取材班の代表として新聞協会賞、JCJ大賞、菊池寛賞などを受賞。2012年に高知新聞入社、報道部副部長などを歴任。2017年より東京都市大学メディア情報学部教授。2019年、調査報道グループ「フロントラインプレス」を設立し、代表。著書・共著・編著は『真実 新聞が察に跪いた日』(角川文庫)、『権力vs.調査報道』『権力に迫る「調査報道」』『希望』『伝える技法』(いずれも旬報社)、『メディアの罠』(産学社)、シリーズ『地方紙で読む』(旬報社、早稲田大学出版部)ほか多数。分担執筆に『現代ジャーナリズム事典』(三省堂)、『メディア用語基本事典[第2版]』(世界思想社)、『エンサイクロペディア・現代ジャーナリズム』(早稲田大学出版部)など。

 

発行日            2025.12.15. 初版第1刷発行

発行所            旬報社

 

 

はじめに

'18年、読売新聞の朝刊1面に縦4段ぶち抜きで「東京医大女子受験者を一律減点」の記事が載る。記事は1182文字で、新聞のニュースが1000字を超えるのは稀

'10年の入試で女子の合格率が4割弱となり、前年比倍増となったため、女子の合格率を3割前後に抑えるために女子の一律減点が始まり、3割前後を達成

医学部のある大学を調査したところ、ほかにも9大学で女子や浪人生に対する差別扱いの事実があったことが判明

この記事は'21年、「調査報道大賞」の第1回大賞受賞

一連の報道は「ある取材先から驚きの証言」をきっかけに、地道な取材を積み重ねた結果だった。取材先で得た情報や記者自身が抱いた疑問、資料の読み込みなどによって、記者自身が社会のアンフェア構造や権力の不正・不作為などに気づき、丹念な裏取り取材を続けてゆく。裏取りに次ぐ裏取り。時間はかかる。取材者の人数や経費も必要。そして取材プロセスはすべて、記者自身、あるいは新聞社・テレビ局などの報道機関(メディア企業)が責任を持つ。当局者の「発表」や「お墨付き」に依拠しない。これが調査報道

ニュースの多くは当局者の発表によって始まり、当局者の発表内容をそのまま伝えることで終わっている。これらを「発表報道」と呼び、「広報」「宣伝」に究めて近い

「ジャーナリズムとは報じられたくないことを報じることで、それ以外は広報に過ぎない」と言ったのは、第2次大戦中BBCの対外宣伝に加わったジョージ・オーウェル(諸説あり)

新聞のニュース面における発表報道の面積割合は約7割、テレビも似たようなもの

ジャーナリストは「歴史の第1稿を記す者」と言われるが発表報道だけだったらどうなるか

調査報道という営みは、発表報道の欠点を補い、社会のアンフェア構造を可視化したり、権力・当局者の不正や不作為を明らかにしたりする点に特質がある。「ジャーナリズムの大きな役割は権力監視にある」のであり、それを実現させるのが調査報道

調査報道Investigative Journalismは、1970年代の米国で活発となり、その後日本にも伝わった。ベトナム戦争開戦を暴露した『ペンタゴン・ペーパーズ』事件や「ウォーターゲート事件」は、調査報道の金字塔。日本では「リクルート事件」が有名

本書の目的は、「調査報道という言葉なき時代の調査報道」も含めて戦後の日本を振り返り、調査報道の社会的役割と重要性を読者に再認識してもらうことに狙いがある

 

第1章 日本初の潜入型調査報道 敗戦直後の岡山で

l  浮浪者の更正施設「岡田更生館」

‘49年、毎日新聞に持ち込まれた内部通報をもとに、大森実記者が岡山県営の「岡田更生館」を「潜入取材」。更生とは名ばかりで、収容者は悲惨な状況に放置されていた

l  施設の脱走者が内部情報を提供

職を探している途中で誘われ入館した者が、非道い扱いの実態を訴えようと命がけで脱出し、毎日新聞に駆け込んだもの

l  「大本営発表」時代の報道と軍部 その異様な関係

敗戦で報道に自由がもたらされてきたとはいえ、新聞社内の大半は戦前と変わらず

戦争に協力した責任をとって経営陣や編集幹部が職を辞したケースや、現場記者でも朝日の武野武治のように自ら会社を去ったケースもあるが、極めて稀

戦前の発表報道は、権力と報道の歪んだ関係によって支えられてきたが、その関係は戦後も長く続き、2000年頃になってもまだ官庁職員と大臣の飲み会があった

l  戦中の悪弊が残る中での調査報道 米国から学ぶ

大森は、米国の雑誌から、潜入取材が当たり前のように行われているのを知る。さらに米記者による被曝者6人を聴取した記録『ヒロシマ』を読んで、現場に乗り込んで当事者に会い事実を掴むことの重要性を学ぶ

l  浮浪者に変装して施設の中へ そこで見た地獄

大森は変装して潜り込もうとし、応援の記者は施設周辺を聞き込みして裏取りすると、毎日何人もの収容者が死に、仲間によって焼かれているという事実を掴む

地検や地元警察に根回しして施設に潜り込み1週間取材して脱走しようとしたが発見され、リンチに遭うところで毎日新聞支局から応援が駆け付け脱出する

l  徹底した現場主義 調査報道で社会は動く

脱出後、新聞は社会面トップで「疑惑の更生館にメス」という暴露記事を掲載

優良施設を疑わない県知事は、「事実無根の中傷記事」と新聞を批判。それに対し、新聞は続けて大森らの潜入ルポと隠し撮りした写真を載せ、県側を追い込む。ようやく地元紙も特集記事を載せ、施設内での不法を明らかにしたほか、国・県との癒着を暴き、関係者を次々に逮捕・起訴。国会でも取り上げられ、議員が現地を視察、やがて浮浪者に関する政策全般、施設の改善を探る方向で動いていく。調査報道で社会は動く

大森は、その後国際的な調査報道記者として実績を重ね、ベトナム戦争の取材をまとめた『泥と炎のインドシナ』は徹底した現場主義を貫いた潜入取材型の調査報道となる

 

第2章 調査報道のゆりかご時代 1950年代の挑戦

l  菅生事件 権力監視型調査報道の草分け

'52年、菅生村(現大分県竹田市)の警察の駐在所が爆破さら、日共工作員5人が逮捕

「血のメーデー事件」など世情が騒然としていた時代、誰もが共産党の武力闘争を疑わず

l  多数の警察官が待ち構えるなか、犯人は交番爆破

地裁の公判が始まると不審な点が次々に明らかになる

毎日新聞の特ダネ扱いのような記事は、まるで事件発生を予知していたかのように、現場に待機する警官と報道のいびつな関係が透けて見えるような内容

l  消えた警察官「市木」を追え

大分地裁で被告は、共産党弾圧のためのでっち上げと無実を訴えたが有罪

高裁では、共産党に潜り込んだ警官の存在が浮上し、警察が否定するが、毎日が実在とスクープ

l  調査報道の競争が「権力の犯罪」を暴いた

警察によるでっち上げを国も認め、高裁では無罪。メディアが協力して「警察の犯罪」「権力の犯罪」を明るみに出し、一連の報道は'58年の第1回日本ジャーナリスト会議大賞に

協力した共同通信には、後にジャーナリズム界のご意見番となる原寿雄がいたが、特ダネになる3つの種類として、①発表を予定より早く抜くケース、②時代が進むにつれニュース価値観が変わるために生まれるもの、③記者が報道しなければ社会に表面化しない情報、を挙げ、警察情報に依存してきた事件報道について「根源的な疑問」が生まれたと書く

でっち上げの主犯の警察官は、一段落すると警察庁に復職し、ノンキャリの昇進可能な最高のポストの警視長にまで昇進し退職

l  「権力を匿名にしない」「匿名は裏取りができない記者の逃げ」

毎日新聞キャンペーン報道の迫力

高度成長の最中、社会の淀みを可視化させ、社会や組織の悪弊を断ち切ろうというキャンペーン型の調査報道も目立つ。’56年の毎日新聞の3つのキャンペーンを取り上げる

   「暴力新地図」――34回の連載で、日本各地に巣食う暴力の実態を解き明かす。組織の勢力図や組織図もすべて実名で報道し、暴力追放の先頭に立つ

l  権力を持つ相手を匿名にすると、取材があいまいになる

   「官僚にっぽん その名は公僕というが」――32回の連載で、官僚と官僚機構のやりたい放題の悪癖追放を狙う

   「税金にっぽん」――税金行政の歪みや不公正・不公平な実態を暴く

キャンペーン3部作は、’57年に始まった新聞協会賞の初の受賞作に

この3つのキャンペーンの拘りは「実名」。取材源の秘匿に気を遣いつつ、暴力組織や、官僚組織の悪を実名で報道。公務員による公務には公の責任が伴うとの信念

実名で書くために取材を尽くす。裏が取れないからといって「関係者」の表現で逃げない

l  たった数行の裏取りでも徹底して力を尽くせ

「実名」「事実」への拘りは、当時のほうが進んでいたように思える。新聞協会もキャンペーン型の調査報道を高く評価し、第1回の受賞作とした

l  アンフェア構造を可視化した朝日新聞の「神風タクシー」

「神風タクシー」キャンペーンは、急激な車社会の進行とともに、多くの人の目に入っているのに、その出来事のどこにどんな問題があるのか判然としない、そうした点を浮き彫りにして社会的な殺人を駆逐することに成功した先駆的な実例

l  東大サッカー部主将、はねられ死亡 ほとんど報道されず

‘58年事件発生当時は、毎日1紙だけのベタ記事。東大総長の発言を機に、朝日の社会部が自分たちの報道が盲点だらけだったと気づき踏み込んでキャンペーンに取り上げる

l  厳しいノルマ、低賃金 運転手の苦境にも耳を傾けて

運転手の取材は深夜が勝負で、勤務後の運転手から劣悪な労働環境を聞き出す

連載で交通戦争とタクシー業界の問題が広く可視化されると、国会でも議論が始まる

l  国会や関係省庁が動き、報道で社会は変わった しかし…

異例ともいえる65本の関連記事を通して、業界の改革が進み、タクシー事故は急減

報道は社会を動かす。報道で社会は変わる

足元のことは常に見続けていかないといけない、それが記者の役割

交通事故死は、'70年の1.6万人をピークに、'24年には2663人に減るが、また別に、高齢者や認知症ドライバーによる悲劇的な事故が繰り返され、新たな問題となっている

l  ラジオによるA級戦犯の肉声取材 戦争責任の検証報道

調査報道には、過去の歴史を検証していく役割もある。新たな史料の発掘や、その時表に出なかった当事者の発言など、新事実を積み重ねていく作業でもある。検証報道とも呼ぶ

‘56年、文化放送の「マイクの広場 A級戦犯」はその嚆矢。起訴されたA級戦犯の13人が釈放され社会に戻ったが、その肉声を伝えようとした。取材に答えたのは4

荒木貞夫(陸軍大将)――イチかバチか、戦争するのが普通の人。戦争中のことをいつまでもグズグズいうのは間違い。負けたと思わなけりゃ負けるもんじゃない

橋本欣五郎(陸軍大佐、大政翼賛会常任総務)――負けたのは国民に相済まんと思うが、外国に向かって済まないとは1つも思っていない

賀屋興宣(開戦時蔵相)――戦争は我々の責任じゃない。あらゆる責任は軍閥が主

鈴木貞一(陸軍中将、戦時中は内閣顧問)――国民の力が足りなあった。軍人を責めるのは無理。国民は不戦の意思を政治に反映させられず、政治家も誤りを直す力が足りなかった

被曝した女性の声(匿名)――顔全体が噴火口の塊。2度と戦争は起こさないでほしい。戦争を起こしてもいいと考える人があったら、この顔、体を見せてやりたい。

l  A級戦犯の肉声に大反響 外国でも番組を紹介

番組の狙いは、当時政治家たちの復古的傾向、民主主義を否定する空気に抗うところにあり、’53年「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が衆参両院で可決されたことに合わせて企画が動き出す

放送後、国内はもとより海外にまで大きな反響を呼び、戦時の国家指導者たちがどのような考えで戦争を遂行していたかを検証する役割を果たす

民間のラジオ局は、’50年代各地に設立され、報道番組やドキュメンタリーを手掛けていくが、'60年代に入るとテレビの登場で調査報道の分野でもテレビの影響力が拡大

 

第3章 高度成長期の矛盾 調査報道で明るみに出す

l  献血制度の設立につながった読売新聞「黄色い血の恐怖」

'62年、読売新聞の本田靖春は変装して山谷地区に入り、売血の実態を探る

経済成長の矛盾や発展から取り残された人々に焦点を当てた企画の一環

記者が自らの問題意識に基づき、自らの責任で取材するスタイルは、調査報道そのもの

l  「生きるために血を売る」その実態を山谷で追う

かつては院内輸血が主流だが、保存血液に移行、その供給源が売血

早稲田の学生が実態調査した記録を見せられて、自分の目で確かめて記事にする

l  1報は社会面トップ「夢の超特急の試乗会」を押しのけ

売血は1200㏄で1か月に1回とされていたが、月50回まで現れ、赤血球が少なくなって黄色く濁ってくる「黄色い血」が目立ってきた

l  「人道の問題ではなく、社会制度の問題だ」

読売の報道は2年後も続き、制度の改革こそが必要と訴える

輸血を受けた人の6人に1人が血清肝炎に侵されるなどの事実も出て、国会でも取り上げられ、売血から献血への動きが急速に進み、タイシャワー大使が暴漢に襲われて輸血したところ肝炎に感染した事件もあり、政府も動く。'70年代に輸血体制が確立

l  地方紙でも芽生えた調査報道

‘61年、中部日本新聞の「伊勢湾台風禍の護岸堤防工事における手抜き事件報道」

'63年、中国新聞の「暴力団追放キャンペーン」

11紙は戦前の新聞統制の名残だが、東京・大阪圏を除く各県では、有力地方紙が勢力を維持する状態が戦後も続く

l  「伊勢湾台風禍の護岸堤防工事の手抜き」 中日新聞が徹底追及

‘59年の伊勢湾台風の復旧工事での不正を取り上げ、災害対策のあり方に大きな警鐘を鳴らす。情報源は内部告発で、新聞記者の強い怒りを買う

l  死体の海で台風禍の取材。その記憶も生々しい時期に「手抜き」の告発

告発に基づき記者が現場を確認、すぐに県に報告、腰の重い県を現場に連れて行って杭が既定の半分の長さしかないことを確認

l  防いだのはたった1件、不正はほかにもある

官公庁の不正に関する調査報道は、不正を報じても当局者が否定し、報道側が続報を出せなければ、出来事は沙汰止みになる。そのため報道は、当局者の動きをフォローして、責任ある回答を引き出すまで続けなければ、不正は闇に潜ってしまう

l  映画《仁義なき戦い》のモデル「第2次広島抗争」と対峙した中国新聞

‘60年代の日本社会の大きな課題の1つである「暴力」を追ったのが中国新聞

発端は'63年の統一地方選の投票日の暴力団幹部の射殺事件。それをきっかけに呉と広島の暴力団抗争が激化、市民の巻き添えも多発し、市民を恐怖に陥れる

l  お礼参りを恐れて市民は沈黙

中国新聞が「暴力追放キャンペーン」開始。取材班の方針は、すべて記事にするというシンプルなものだが、そのために体を張るのは命がけ

l  「警察発表に沿った報道だけで良いのか?」

警察の捜査に沿って取材するだけではなく、記者自らがもっと暴力団の実相を独自に掴んで報道すべきとの意見が出て、全社一丸でのキャンペーン取り組みとなる

l  市民を立ち上がらせた「調査報道」

暴力団幹部の不正や不法行為を暴く中で、特に行政が暴力団の言いなりになっている事実には市民も相当怒り、市民が暴力団追放運動に立ち上がる

驚きの第1は警察と記者の距離の近さ。記者はパトカーに同乗して現場に向かい、取調室にも立ち会う

‘65年、中国新聞の報道は、「組織暴力根絶への着実、勇敢な報道」として菊池寛賞受賞。

l  テレビではドキュメンタリー番組が続々。知られざる社会を次々可視化

'53年のNHKを皮切りにテレビ放送が始まり、'60年代はテレビの時代。各局はドキュメンタリー番組の制作に乗り出し、日本社会の様相を切り取ろうとした

「社会のアンフェア構造を可視化する」「知られていない事実を掘り起こす」という調査報道の考え方に沿うものも多数含まれていた

l  日本テレビ「忘れられた皇軍」の衝撃

「忘れられた皇軍」は、第2次大戦で日本軍の軍人・軍属として戦傷を受けながら、戦後は満足な補償を得られなかった「元日本軍在日韓国人傷痍軍人会」の人々を追った作品。プロデューサーは日本ドキュメンタリー界の草分け牛山純一、制作は映画監督の大島渚を起用

舞台は’63年の東京。高度成長に沸く中、傷痍軍人の陳情姿を描く。加害者でありながら、その事実に無自覚な日本人。お島は日本人の被害者意識を生涯痛烈に批判し続けた

l  影響力大きいテレビ 「権力vs報道」の争い、本格化

'65年、日本テレビの「南ベトナム海兵大隊戦記・第1部」(ディレクターは牛山)は、ベトナム戦争の最前線を取材したもの。戦争の悲惨さ、むごたらしさを訴える意図で大反響を呼ぶが、官房長官の橋本登美三郎から放送中止の指示があり、日本テレビが応じたため、再放送どころか、第2部第3部も放送されず

橋本は、「あまりむごい場面は好ましくはないのでは」と個人の意見を言っただけで、放送自粛は局の判断だと逃げる。現代に通じる忖度の芽はすでに生まれていた

TBSの「ニュースコープ」の看板キャスター田英夫が西側放送局として初めて北ベトナム入りして現地の実態を報道したが、国会で「偏向番組」と指摘され、キャスター降板となる

政府与党の中枢や日米安保の根幹に関わるような問題に切り込むと、権力側の反発はそれだけ強くなる。それは'70年代以降の調査報道、特に「自民党とカネ」や「日米安保」「官公庁や公団・警察の裏金」など組織的な悪弊に調査報道が切り込んでいった際、一層顕著に

 

第4章 1970年代の調査報道 黄金時代へ

l  地方発 公害問題の掘り起こし

繁栄の矛盾の最たるものが「公害」。特に熊本や新潟の水俣病、』富山のイタイイタイ病、四日市の喘息は4大公害病と呼ばれ、大きな被害をもたらす

黒部市のカドミウム汚染を告発した北日本新聞の調査報道は、ジャーナリズムが大きな力を発揮した典型。'70年にカドミウムによる汚染の実態と県の隠蔽を告発

富山では、'55年に神岡鉱山から排出されるカドミウムによる神通川汚染が原因とされるイタイイタイ病が発見されたが、黒部はまた別の汚染源として注目

l  「カドミウムの汚染源はどこか」しらみつぶしに歩いて調査

製薬会社による水銀汚染が発覚した後、富山県産の米に粘りがなく、パサパサしていることからその原因を追及。県と市が健康診断や日本鉱業の工場付近の土壌や産米の分析を実施しながら結果の報告もないことに不審を抱いた記者が、カドミウム公害を疑い被害者の住民の声を拾い上げて報道。県は調査結果を公表せざるを得なくなった

l  住民こそが告発者

北日本新聞の公害取材班の摘発に基づき専門家が分析した結果、県の調査より遥かに高い汚染数値が確認され、行政の調査の杜撰さが浮き彫りとなり、県公害防止条例の全面改正や県内工場の公害総点検へと発展。取材班の目的は明確で、「企業ベッタリの当局の官僚制の追及と企業責任をはっきりさせる」「住民こそが公害の告発者」を公害防止の柱とした

告発により、イタイイタイ病のように大きな健康被害を出さずに済み、土壌汚染の復元事業も’91年から始まり、’15年には終了

l  熊本日日新聞 水俣病の発生を「発表報道」で済ませた悔い

公害問題を掘り起こしたが、深刻な健康被害をとらえることができず後年に悔いを残したのが熊本のケース。'56年に発生、翌年以降「水俣病」と呼ばれるが、最初に熊本日日が掲載したのは'54年で、猫が大量に急死して鼠の被害が増えたという記事。現地をよく見たら被害が人間にまで広がっていたのをいち早く突き止められたはずで、水俣病報道の原点ではあるが、報道の不作為の原点でもある

l  調査報道、黄金時代の幕開け

米国では調査報道が黄金時代を迎えるが、一方で古い体質も残されており、取材姿勢には根強い批判もあり、権力を取材する記者が権力者の言いなりになっているというもので、日本の記者クラブ制度と同様な忖度が横行

l  日本初の調査報道専門部署 毎日の「編集局遊軍」

‘77年、毎日に日本初の調査報道を専門とする本格的な取材部門誕生。記者は11

脱記者クラブを第1の目的とし、取材の縦割りを排除

l  空前のスキャンダル ミドリ十字の「人体実験」を暴く

遊軍は次々に成果を上げるが、特筆すべきは'82年の「ミドリ十字事件」。日本初の民間血液銀行が人体実験を繰り返していることを告発。最初は「採決ミス」による死亡とその隠蔽で、背後に「731部隊」の人脈が存在することを発見

l  調査報道は「現場百回」「足で書く」

調査報道の始まりは、複雑・多様化する社会の中で、特に巨大化する一方の公権力に対し新聞がこれまでと同じ取材・調査方法をとっていたのでは、国民の「知る権利」に応える真のニュースを提供できないという危機感にある。うわべだけの言葉に幻惑されずに現場に足を運んで事実を確認することが不可欠。視点と事実こそ調査報道の両輪

l  半世紀前の文春砲『田中角栄研究 その金脈と人脈』

'74年、『文藝春秋』11月号掲載の『田中政権を問い直す』と題した特集で、目玉は立花隆の『田中角栄研究―その金脈と人脈』。児玉隆也のルポ『寂しき越山会の女王』も同時掲載

発売と同時に60万部は完売。編集長の田中健吾が売り出し中の若手フリージャーナリストの立花に呼びかけたのが企画の始まりで、公開資料を徹底的に分析して金脈を追う

土地転がしによる膨大な資金集めの実態はすぐに判明

l  外国メディアによる攻勢、そして首相退陣

日本の報道機関の反応は鈍い。政治部記者を始め皆事実を知っていたが、「私事」ゆえに取り上げなかった。最初に反応したのは海外メディア。10日後の外国人記者クラブでの田中との昼食会では質問が殺到。これを機に永田町でも田中降ろしの動きが始まり、1か月半後には辞任

l  空前の調査報道も第2弾は圧力で中止

立花の研究は近く続編を出す予定だったが、角栄周辺の人物の一貫した圧力により断念

l  官僚機構の腐敗を追った「公費天国」

5年後、新聞でも権力監視型の本格的な調査報道が始まる。朝日の「公費天国」キャンペーンで、カラ出張、ヤミ給与、巨額の裏金作り、公文書改竄、隠蔽などを明るみに

'79年、朝日には大平内閣下での衆院解散記事と並んで、鉄建公団不正経理の見出しが載り、すぐに連載「公費天国―タカリとムダの構図」が始まる

金銭が絡んだ官公庁の組織的な不正は全省庁に及び、’90年代にあちこちで明らかになる

l  税金にたかり、食い尽くす官僚組織

取材の端緒は内部告発。内部資料を入手して会計検査院に持ち込み、検査員と協力し合う形で取材を進めると、次々に内部告発が寄せられ、新たな不正が発覚

連載が始まると、朝日に寄せられた投書だけで4000通を超えた

悪弊が自己増殖しないように、報道による監視が欠かせない

朝日のキャンペーンを牽引した山本博は、次のリクルート事件報道の取材も指揮する

 

第5章 調査報道の黄金期 権力中枢に迫る

l  調査報道の金字塔「リクルート事件報道」 神奈川県川崎市で始まる

バブル真っ盛りの'88年、朝日に「リクルート、用地払い下げで川崎市助役が同社株売却益1億円」の記事が載る。企業誘致を担当していた助役が川崎駅前の再開発の許認可と引き換えにリクルート子会社の未公開株を入手、店頭公開の際に巨額の売却益を得ていたというもの。朝日の取材陣が独自の調査により、限りなく贈収賄に近い事実を把握

l  警察が立件を断念 それなら自分たちで調査報道を

初動は神奈川県警で、その動きを知った朝日の記者が追いかけると、地検は未公開株が賄賂と認定された先例がないことから立件を断念。朝日のデスクだった山本博は「公費天国」の後も、「三越のニセ秘宝事件」(’82)、教授選で買収が発覚した「東京医科歯科大報道」(‘83)、政商小針歴二の報道(‘84)と次々調査報道の成果を上げていた

山本は、公権力監視が報道の使命・義務と強く認識し、その後も取材を継続

l  川崎市から一気に政界中枢へ

山本は、リクルートコスモス社の未公開株が正解中枢にも配布されていることを内定し、配布先リストも入手、元文相の森喜朗に直接インタビューを敢行するとあっさり認める

中曽根・安部・宮沢に続き、竹下首相までが秘書名義で保有し、公開直後に売却していたことが報道されると、国民の怒りは頂点に達し、最終的には90人以上に達する

l  調査報道の末、竹下政権が崩壊

東京地検も報道に押される形で強制捜査に乗り出し、藤波官房長官、文部・労働両省次官、NTT真藤会長が有罪になり、竹下内閣の支持率は急低下、翌年総辞職に

山本は、米国調査報道記者・編集者協会第14回総会で特別賞を受賞

l  読売新聞黒田軍団の迫力 「警察や検察が手出しできんもんをやるのが新聞や」

関西では、読売の社会部長黒田清のチームがスクープを連発

リクルート事件の7年前、黒田軍団は武器輸出に関するスクープを連発。武器輸出3原則の抜け駆け事件で、'80年の内部告発が端緒となり、砲身の図面が決定打となる

l  「君らがつかんだネタは報道以外には使わない」。しかし――

取材の成果は'80年初の1面トップ記事となり、大手企業や防衛庁技官の関与も明かされ、国会は大紛糾。政府は輸出時の検査体制の強化などの対策を講じることに

戦争中記者たちは、書こうとしても書けずに一生消えない負い目を追ったが、その負い目は新聞記者という職業に携わる者すべてが共に持ち続けるべきものだと、黒田は言う

l  庶民に寄り添った調査報道 「警察官ネコババ事件」

黒田軍団の調査報道をもう1つ。‘88年の「警察官ネコババ事件」報道。堺市で拾得物の現金を派出所に届けた後、落とし主と拾得者が警察に出向いたところ、届け出はないという

読売が記事にしようとすると、警察から圧力がかかったが、両者の食い違いを記事にした

警察は、拾得者の着服を疑い、逮捕しようとしたため、拾得者はノイローゼに

l  読売新聞、連載記事「おなかの赤ちゃんが助けてくれた」で追及

3か月後に警察は真相を公表し、当該警察官を懲戒免職に。読売は顛末を22回にわたって詳しく連載。拾得者は妊娠中の主婦で、後に「おなかの赤ちゃんが助けてくれた」と述懐

l  「そんなに簡単に社会悪に勝てるかい。それでもうやらないかんのだよ」

‘82年、子どもの投書がきっかけで始まったキャンペーン報道がある

’80年代前半、ゲーム店でトランプの5枚のカードを揃えると最大50万のキャッシュを手にできるというゲーム機があり、父親がそれにはまったため家にお金がないという投書

ゲーム機を使った賭博が横行、家庭悲劇を招いていたが、裏にはゲーム機取り締まり情報を漏洩する代わりに警察官が金品をもらっていた「警官汚職」が水面下で広がっていた

大阪府警による警官汚職の摘発と並行し、読売は関連の独自記事を次々に掲載

賭博ゲーム業者の協会組織の顧問に政治家が座り、ゲーム業界には警察OBが天下る。トカゲの尻尾切りで終わらせてはならないが、結果的には組織の末端を削っただけに終わる

 

第6章 社会の矛盾を映し出す数々の調査報道 繁栄の裏側で

l  バブルの象徴「東京都湯沢町」

‘88年末にスタートした新潟日報の連載「東京都湯沢町」は、都会のバブルマネーが新潟に辿り着いた実態に密着したルポ。定年後東京から移り住んだ老夫婦が追い立てられるように土地を買い取られたのを機に、8322000戸のミニ東京が出現するが、あっという間に崩壊を迎える

l  バブル崩壊、「東京都湯沢町」の無残

'03年、新潟日報はバブル崩壊後の町の模様を伝える。5814700戸に減少、価格は1/10になり、なお下げ止まりが見えない。固定資産税の滞納は2億に近い

l  ゴミが降る瀬戸内海の島 「とにかく今だ、早く撮っておけ!」

瀬戸内海の豊島(てしま)は、バブル期に東京からのゴミが集積する「ゴミの島」として注目

不法投棄が始まったのは'70年代後半からで、’90年には業者が摘発され不法投棄は止んだが、膨大な産廃は残されたまま。香川県も責任を回避。'00年全国で初めて公害調停が成立し、廃棄物の撤去が始まる。最終完了は'19年、総費用は808億円

この産業廃棄物投棄事件を全国に知らしめ、処理を促したのは岡山のRSK山陽放送の調査報道。産廃投棄の情報を小耳に挟んだ取材班が動き始める

l  「中央から地方」ではなく、「地方から中央、全国」へ

不法投棄は兵庫県警の強制捜査で転機を迎える哲也

山陽放送はTBSをキー局とするJNN系列の放送局。TBSNews23」の筑紫と面談の際、「東京からゴミが来ている嶌」の話をして全国ネットの放送につなげ、特集番組は15本を数えた

l  原発ジプシーとは何者か?

'70’80年代、原発の建設がピーク。現場の労働者の実態を伝えたのが『赤旗』の記者柴野徹夫による「原発のある風景」。原発ジプシーを冠した日雇い労働者の群れが、原発の定期点検に合わせて各地の原発から原発へと日本中を渡り歩くといい、彼らがいないと原発が成り立たないという

l  「ここん飯場にゃ、九州の男ば、200人ほど寄せちょっと」

放射能を恐れず働く男たちは、もともと炭鉱労働者で、筑豊炭田が稼ぎの場。昔のタコ部屋に近い状況に放射能汚染が広がると同時に、作業員が絡む事故も多発しているが、警察の発表もなく地元紙の報道もゼロ

l  このルポが広く伝わっていたら・・・・・?

ルポの延長線上で、敦賀の放射性廃液漏れ事故もスクープ

取材にはいつも電力会社や警察の尾行がつく

柴野レポートがもっと広く新聞やテレビにとりあげられていたら、その後の原発行政は変わっていたかも

l  企業管理会社を可視化した「日本の幸福」

‘80年代前半、全国の地方紙に共同通信の「日本の幸福」という長期連載のルポが掲載

追い詰められる企業人間たちの実像に迫るシリーズは、全国の読者の共感を呼ぶ

報道の対象にならなかった市井の人々や家庭に焦点を当て、現代社会の歪みがそこに集中的に押し寄せていることを可視化。人々の日常にこそ伝えるべきテーマがあることを気づかせた

l  無認可保育所「ベビーホテル」の実態に迫る

TBS取材チームが注目したのは東京の「ベビーホテル」

認可外保育施設が、高度成長期に都市部で乱立。事故急増に伴い、届出の義務化や自治体の介入権限付与などに向けて動いた調査報道を主導したのがTBSのキャンペーン

公立保育園に入れなかった保護者からの投書で気軽に社会現象を報道するつもりで動いたのが堂本暁子。現場を見て驚愕し、深堀して連載し、大きな反響を呼ぶ

l  キャンペーンから制度改革へ

初の「ベビーホテル」の実態調査となり、都内だけで208か所あり、利用目的の9割以上が仕事関係であることが判明。これをもとに制度改革などの必要性を訴え、1年後には議員立法による改正児童福祉法が国会で可決。無認可保育施設に対する規制が強化された

 

第7章 1990年代の調査報道 多様な展開の一方で「壁」も

l  首相経験者を直撃するど真ん中の調査報道

‘90年元旦、中曽根を直撃する調査報道が朝日に掲載。中曽根が現職総理の時、国際航業株買い占めを巡り巨額の売買差益を得ていたことを暴露

l  政治とカネにターゲット 「山本調査報道」の新骨頂

朝日の山本(5章参照)は、中曽根の政治団体の不審な会計処理に目をつけ、証拠と証言獲得に全力を挙げる

l  「裁判になるような記事は書くな」と朝日新聞上層部

中曽根は名誉棄損で提訴。1審は敗訴、2審で中曽根が要求を取り下げ和解成立

公判中に朝日社内の空気が大きく変わり、実質勝訴ではあっても、訴訟になるような記事は書くなという声が急速に広がり、強まったという。「事なかれ主義」の蔓延

l  子どもを守れ 毎日新聞のキャンペーン「殺さないで」

‘90年代、子どもに焦点を当てた調査報道が2件。いずれも毎日の「児童虐待取材班」

'99’04年、「殺さないで 児童虐待という犯罪」という410部にわたるキャンペーン

児童虐待の実態は現代にもつながる

l  「お仕置き」という名のリンチ

わが子をわざと虐待する親などいないという考えから、この問題を熱心に取材していないし、殺しても軽罪や執行猶予付きで、「児童虐待は犯罪」という発想も仕組みもなかった

l  ベタ記事の奥に隠れていた児童虐待の真実

報道されてもベタ記事でしかなかったが、多くの児童が死んでおり、11つの事実を取材し、家庭の問題を社会化する必要があるのではと記者たちは考えた

連載には凄まじい反響が寄せられる。個別の家庭の問題を、社会全体の問題として捉え直す作業は画期的であり、優れた調査報道だった

'00年、ようやく児童虐待防止法が国会で成立

l  8歳男児の交通事故死 これも最初はベタ記事だった

'97年の交通事故が日常茶飯事だったころ、8歳児童の交通事故死事件で検察が運転手を不起訴にする。直接現場を確認したのが1人しかおらず、もっと目撃者を探していた最中

l  子を失った両親の訴え 記者も泣いた

毎日新聞が記事にして、両親が「捜査不十分」として検察審査会に不起訴不当の申し立てをすること、交通事故の被疑者の処分は遺族に説明しないケースが大半で被害者対策に問題があることにも言及

l  キャンペーン企画「交通禍 隼君事故の問いかけ」始まる

毎日は取材班を立ち上げ、事故捜査全体の問題点や被害者対策の遅れなどを問いかける

地検も再捜査に乗り出し、新たな目撃者が名乗り出て起訴となる。嫌疑不十分で不起訴となったが、検察は操作不十分を両親に認める

l  報道も「事故の日常化」に慣れ、流されていた

「事故の日常化」が警察も報道も感覚を鈍くさせ、「慣れ」の怖さを教えられた

法務省は’99年、被害者等通知制度の実施を全国の検察に通達。警察庁も、各県警本部に原因究明が困難な交通死亡事故を取り扱う「事故捜査指導官」配置を決定

l  「脱・警察発表」の調査報道 桶川ストーカー殺人事件

調査報道は、週刊誌や個人のフリージャーナリストでも、確固たる意思と的確な取材手法があれば、かなりのことができる

‘99年の桶川での女子大生殺人事件は、『FOCUS』記者が警察情報に疑問を持ち、独自の地道な取材を進めた結果、事件究明のみならず、警察署の杜撰な対応まで暴いた事例

l  捜査の怠慢を隠す警察発表 それを覆す取材

交際を断った後のストーカー行為のエスカレートの実態を丹念に洗い、警察より先に犯人を特定。その後、県警の無気力捜査や告訴状取り下げを強要するなどの実態究明に走る

l  ストーカー規制法制定のきっかけに

警察の怠慢操作は国会でも取り上げられ、埼玉県警は大量処分

‘00年ストーカー規制法制定

l  情報公開制度が整い、調査報道はの新たな武器に

'90年代は、情報公開制度を使った調査報道が花開いた時代

最初に情報公開制度を制定したのは、山形県金山町で、’82年。国レベルでは’99

行政組織に巣食ってきた構造的な腐敗に対しては情報公開は有効

官官接待に最初に切り込んだのは市民オンブズマン組織

l  来る日も来る日も夜の街で大接待

全国紙、地方紙とも報道が過熱するなか、北海道新聞にいた筆者は、あまりの支出の膨大さに大半が虚偽ではないかと気づく

l  公金マネーロンダリングの隠れ蓑 書類上だけの官官接待

同庁の求めで実態がないのに領収書を発行したケースが続出。巨額の裏金がプールされた

さらに、カラ出張やカラ会議なども蔓延。'96年の暴露記事となって大きな反響を呼ぶ

l  公文書「黒塗りの下もウソの記載」という教訓

道庁の不正経理の内部調査に発展、総額74億に上る不正が発覚。公文書自体が偽造と判明。のちに北海道新聞が道警の裏金作りを暴いた調査報道へと引き継がれる

l  個人の力で在日米軍を調べる

NPO法人ピースデポの梅林宏道(工学博士、平和運動活動家)は、米国の情報自由法FOIAを使って情報公開請求を繰り返し、在日米軍の活動内容を赤裸々に示すことに成功

l  湾岸戦争 巡航ミサイルを撃ち込んだ米艦船は横須賀から

'91年、米国中心の多国籍軍による戦闘の皮切りは米艦隊からのトマホークの発射。288発中最も多くの58発を発射したのが横須賀基地を母港とする駆逐艦ファイフ

情報開示請求によってこの事実を始め、戦争に関わる部隊や兵器など多くの事柄が日本と深く関わっていたことを突き止める

l  米国の情報公開法を武器に在日米軍の全容を調べる

梅林の仕事の白眉は、在日米軍の部隊編成や施設の状況などを総ざらい的に示したこと

「請求者は請求文書を特定するのに必要な詳しさを以て請求内容を指定しなければならない」という軍機関の運用規則が壁になって立ち塞がり、なかなか狙った文書に辿り着かない

「軍事機密」の名のもとに、報道機関もジャーナリストも一般市民も、軍事情報を必要以上に神格化して、税金がどのように戦争に使われているかを知る努力を諦めているなか、梅林は独力で情報の山を繙いていった

 

第8章 それでも社会は変えられる 調査報道の挑戦は続く

調査報道には時間も人手もかかり、着地点も見通せないところから、組織に余程余力がないとなかなか地道に続けられないが、大手メディア企業の経営環境も厳しさを増す

全国の新聞は'97年の5376万部から’242661万部に半減。調査報道受難の時代へ

鍵を握るのは、社会事象への疑問と質問。これを忘れたら民主主義は簡単に終わる

l  日本はなぜ太平洋戦争を始めたのか? 本質に迫る「海軍反省会400時間の証言」

NHKは、'80年から11年間にわたる軍令部の構成員中心の秘密会合だった「海軍反省会」と会議録の存在を突き止め、'09年「日本海軍 400時間の証言」として放送

戦争回避を考えながら、組織人として主張できなくなっていく空気を生々しく伝える

l  130回超、225本の録音テープ

参加者の多くが戦争遂行の当事者で、自らの過ちを問い、責任に向き合う会議。語られた内容は「門外不出」とされ、発言者の存命中は封印されるはずだったもの

取材のきっかけは、昭和館の図書情報部長戸高一成との勉強会での会話

戸髙 一成(とだか かずしげ、1948 - )は、海軍史研究家。呉市海事歴史科学館館長

会議録には、「自存自衛」のための戦争が、陸軍への対抗などから、客観的な判断も乏しいままに進められていった実態が語られ、予算獲得のため徒にアメリカとの対立を深めていった事実と、組織拡大と目の前の仕事に汲々としていた状況が読み取れる。戦後も組織防衛が最優先され、GHQに積極的に協力し、A級戦犯の海軍上層部は全員極刑を免れる一方、現場の司令官は責任を追ってBC級戦犯として処刑。その結果、海軍関係の多くの事実は表に出ることはなく、闇に埋もれ、海軍善玉説が一般に流布されていく

l  自衛隊・日米安保の裏を衝く① 自衛隊の秘密情報部隊「別班」の実態を暴く

自衛隊の秘密組織「別班(べっぱん、DIT)」の存在を明らかにしたTBS連続ドラマ《VIVANT(‘23)の構想の元になったのは、'13年共同通信の調査報道『陸自、独断で海外情報活動/首相、防衛相に秘匿 冷戦時から/文民統制を逸脱 自衛官が身分偽装』

l  「秘密部隊の独走は民主主義国家の根幹を脅かす」

大本は’70年代に『赤旗』が追及したもので、共同通信の取材は現在でも存続するかをチェックしたもの。「国家のためには国民を欺く」という旧関東軍の謀略に繋がり兼ねない

l  「切るためにネタ元と付き合っている」

端緒から記事化まで実に6年を要した取材。30年間、防衛相・自衛隊の奥深くに取材協力者を作ってきたのはこのためで、市民に知らすべき情報があると判断すれば、どんなに親しいネタ元でも切り捨てる、その覚悟を持てるかどうかが調査報道の要諦

l  自衛隊・日米安保の裏を衝く② 琉球新報「日米地位協定の秘密文書をすっぱ抜く」

'04年、琉球新報は、「地位協定の考え方」と称される日本政府の機密文書を入手し報道

日本国内における米軍の「排他的使用権」を認め、治外法権を容認するのみならず、改定を求めず、米側の要求には尽く応じるとの内容で'73年に外務省の条約局が結んだもの

l  「琉球新報に漏らした犯人」を徹底的に探す外務省

外務省の犯人探しが始まると、琉球新報は全文公開で対抗、さらに半年間の連載を企画

調査報道で重要なのは情報源の秘匿

'04年新聞協会賞の最終選考に残ったが、委員だった全国紙の編集局長は、他紙がフォローしなかったことを取り上げ、その程度の話だったとして、結局選外になる

l  自衛隊・日米安保の裏を衝く③ 東京上空の米軍特権を可視化する

‘20年、毎日の調査報道キャンペーン「特権を問う」は、日米協定を首都・東京に絞って取り上げたことに大きな意味。協定締結60周年に因み、「米軍関係者が引き起こした事故・事件では身柄を勾留しないという密約がある」とのスクープに始まり、東京上空での米軍機の低空飛行常態化を取り上げ

l  なぜ、米軍の特権を「問う」のか

密約は’75年、’19年野党議員の追及で判明。不都合な事実を国民から隠蔽していた

取材記者は、「自国の主権より米軍の都合を優先する姿勢を改めぬまま突き進むことに強い懸念を感じる」ところから、問いかけを始める

l  内部告発に応え、不正をただす① 「返せなければ腎臓を売れ」ヤミ金被害を追う

‘00年代前半、多重債務者のヤミ金による被害が問題視。貸金業無登録で携帯を使って業務を行うところから「090金融」とも呼ばれた

取材のきっかけは、弁護士事務所への相談が後を絶たないとの一言

l  止まぬ反響、取材はヤミ金業者へ

記事を読んだ読者の反響は大きく、内部告発も含まれ、ヤミ金業者への取材では情け容赦のない取り立ての実態が明るみになり、社会も動き出す

‘02年、貸金業登録審査の強化と違法取り立ての規制強化を盛り込んだ「貸金業規制法と出資法の一部改正法」(ヤミ金融対策法)が成立

l  内部告発に応え、不正をただす② 月刊誌FACTAの「オリンパス事件」報道

'11年、FACTAがオリンパスの巨大含み損を暴く。総会直前に質問状を出したが、木で鼻をくくったような回答に、第2弾を出して追及。きっかけはあるジャーナリストが友人のオリンパス社員の漏らしたバブル時代のM&Aの巨額含み損の話。報道により、企業のガバナンスや会計情報開示の問題に発展

l  内部告発に応え、不正をただす③ 1000人の声が支えた「かんぽ生命不正」追及

日本郵政グループを揺るがした「かんぽ生命不正」を明るみに出したのは西日本新聞の調査報道。同紙の特命取材班は、読者からの投書をもとに記者が取材して記事で答える仕組みだが、郵便局員のノルマがきついという記事がきっかけとなってかんぽ保険の不正販売の告発に発展

l  苦しむ郵便局員、広がる救済を求める声

西日本新聞には郵便局の凄まじい内情を告発する情報も絶え間なく届く。記事は、Yahooニュースにも掲載されたことで、西日本新聞の配達エリアを超えて全国に広がる

l  内部告発に応え、不正をただす④ 視聴者とのネットワークが結実した「検証・C型肝炎」報道

'02年、フジTVのニュースJAPANがシリーズで放送した「検証・C型肝炎」は、放送界のピュリッツァー賞ともいわれるピーボディ賞を日本のテレビ局では初めて受賞

ウィルスに感染した血液製剤「フィブリノゲン」の存在を国がもみ消していた事案で、対象患者は約29万人。患者が集団訴訟を提起。C型肝炎関連の書籍に触発され、独自にテーマを決めて取材に及んだもの。第5福竜丸の乗組員も、後に他界した乗組員は放射線ではなく輸血によるC型肝炎が原因だった人がかなり多いという実態をリポート

l  「パンドラの箱」を開けた!

最初のシリーズで終える予定が、視聴者からの反響の凄さに連載が止められなくなった

l  視聴者とのネットワークが形成されていく

テレビや新聞などのマスメディアでは、情報は一方通行で伝わるが、C型肝炎に関する限り、双方向に進化していった

キャンペーンの白眉が「フィブリノゲン」を巡る調査報道。15年前に医療現場から回収された血液製剤の現物を取材班が地方の医院で探し出し、遺伝子検査をしたところ、大量のウィルスを検出。フジTVはシリーズ15回目で決定打「C型肝炎は薬害だ」を放送

l  フィブリノゲンによる感染恐れを無視し、隠していた国の責任を問う

アメリカではすでに’77年製造禁止になっていたが、日本では製薬会社に厚生省の担当職員が天下りしていた

l  将来の高齢化社会を可視化する NHK「無縁社会」の衝撃

'10NHKスペシャル「無縁社会~無縁死”32千人の衝撃~」

身元不明の遺体が増え続けていることを取り上げる

l  全国すべての1738自治体に直接取材

自治体は無縁仏の遺骨処理に追われているとの情報をもとに、実態調査に乗り出す

'08年に32,000人の無縁死があった。自宅の居間で亡くなっても「氏名不詳」とされる

l  無縁という言葉が無念に聞こえてならなかった」

取材班の作り上げた番組は調査報道そのもの

世の中の変化は本当に些細な、小さなところに現れている。そこに気づかないといけない

l  国策に翻弄された地方の現実① 米作りを禁じられた米作りの理想郷・大潟村

食糧難対策として八郎潟の干拓が始まったのは’57年。850億の予算をつぎ込んで'64年完成。全国から選抜された589人が大規模農業に従事

‘11年、秋田放送の「夢は刈られて~大潟村・モデル農村の40年~」は、入植者が農政に振り回され、人生を狂わされていく実態を描く。過去の国策を検証して問題点を可視化していくスタイルは調査報道そのもの

入植の2年後には国は減反政策に転じ、入植時の契約を盾に、力づくで畑作に転換させるが、干拓地は畑に適さず、多くの農家は失敗し借財を抱え込む

l  米国から小麦輸入の圧力 従った日本はコメ減反へ

減反は米国からの圧力。主食がコメから小麦に代わっていく

さらに、輸入しないという約束を反故にして、コメの輸入自由化、TPPなど、コメ市場の開放を続ける。減反してコメは余っているの、小麦の輸入を拡大し続ける

l  一点を見続けるからこそ見える全体像

ドキュメンタリー番組を作るうえで、重要なことの1つが「素材の温度」。取材する側にモノを伝える熱がないといけない

l  国策に翻弄された地方の現実② 「お産SOS」が見せた現実

河北新報が東北のお産の現場を記事にしたのは'07年。産科医が減り子どもを安心して産める環境が失われていく実態を掘り下げる

'01年、東北の公立病院で産婦人科医が過労死、’07年、東北の6大学医学部・医大で産婦人科医局の新人がたった8人、東北大、弘前大はゼロなどの現実を問題視

l  地吹雪の中、60キロ先の産科へ 出産間近の妊婦が自らハンドル

公立病院でも分娩不可が増え、必然的に遠方の病院へ通う

産科医激減の現実を前に、大きな問題の潜在を予感して取材が始まる

l  「ニュースが欲しい? 産科医の現場はニュースではなく日常です」

取材の端緒として、東北の総合病院すべてにアンケートを送る。この種のアンケートは通常12割の回答率だが、今回は7割を超え、日常がニュースになることを教えられた

全国でも、1700余りの市町村のうち出産施設が1つもない自治体が1041に上る

l  国策に翻弄された地方の現実③ 「平成の大合併」その後を愛媛で見る

‘99’10年の合併で自治体総数は3232から1727に半減。消えた自治体で何が起こっているのかを示すルポが愛媛新聞の「記者が歩く 見る聞く愛媛」。’10年からの連載で公共交通の空白区が一気に増えたことを伝えたのを皮切りに、地方の衰退する様を明るみに

l  歩き通してみた地域崩壊の兆し

地域の衰退は全国の衰退の先行例であり、ルポは未来を見通した警告のルポでもあった

記者自ら歩いて過疎地帯を回り、体験したことを書く。記者の取材スタイルを変えなければ見えない現実があると訴えたルポでもあった

l  無実の人を冤罪から救う① 「志布志事件」報道

'03年の鹿児島県会議員選挙での公職選挙法違反事件。全体で6世帯しかない村で高齢者ばかり15人が逮捕されるが、調査報道によって県警の違法捜査が暴かれ、全員無罪に

異常なのは勾留期間で、県議は395日、他の逮捕者も長期勾留。別の容疑による再逮捕や追起訴によって勾留期限を延長し続ける、いわゆる「人質司法」の典型

l  警察権力がでっち上げた「志布志事件」

違法捜査に当たる「踏み字」(肉親が書いた被疑者を諭す内容の紙を踏ませる)による自白強要、暴言、供述調書捏造などが発覚、裁判では買収行為そのものの不存在が判明

冤罪の可能性をスクープしたのは、'05年テレビ朝日の《ザ・スクープ》の鳥越俊太郎

l  調査報道で無実の人を救い出す

続いて朝日の鹿児島総局が動き、県警内部での取材協力者づくりを通して証拠集めを行いスクープを掲載、1年後の無罪判決につなげる

l  無実の人を冤罪から救う② 湖東記念病院事件(西山美香さん事件)

'03年、入院患者の呼吸器が外れていたことから、看護助手に殺人の嫌疑。本人が認めたこともあって各メディアは助手を非難したが、第2回公判から起訴事実否認に転じる。地裁は自白を重視し懲役12年に、最高裁で確定、服役

‘17年、2回の再審請求も含め、計7回の有罪判決があったにもかかわらず、中日新聞は冤罪を信じて大キャンペーンに乗り出す

l  裁判所は7回も「有罪」 それを調査報道で覆せるのか

きっかけは西山が獄中から両親宛に出した350通余りの手紙。支局からの話を耳にした「ニュースを問う」のデスクが冤罪を直感。法廷にはない独自の情報と判決とは違う視点から「真実」を伝えるのがメディアの役割だが、「自白」の壁は厚い。それを覆したのが「供述弱者」という概念

l  「供述弱者」という存在を可視化する

「供述弱者」とは、言語能力や表現力が乏しいために、自分自身を言葉で守れない人で、相手に迎合しやすい特性があり、主に知的障碍者や少年少女などが該当

取材班は、西山の書簡や周囲への取材から発達障碍を疑い、獄中で精神鑑定したところグレーゾーンが判明。グレーゾーンでは本人も周囲も気づかずに苦しむケースが多く、悲劇を繰り返さないためにもニュースで取り上げるべきと判断

キャンペーンから3年、中日新聞の執念が実る

 

第9章 「公文書の改ざん・廃棄、非開示」と調査報道

‘00年代に入ってからの調査報道の特徴の1つが「公文書」を巡るもの

‘90年代から情報公開制度が広がり、公文書の入手が調査報道の基本的ツールとして浸透

l  会計文書の記載はすべて虚偽 「北海道警察裏金問題」の本質

道警の裏金問題は、’03年テレビ朝日によって表面化し、その後北海道新聞が徹底追及

これを契機に全国でも同様な不正経理処理が発覚、少なくとも28道府県で裏金が表面化

筆者は、北海道新聞の警察担当の報道本部次長として最初から最後までかかわる

l  虚偽記載を隠蔽するための「捜査上の秘密」

裏金の温床の1つが「捜査費/捜査用報償費」で、捜査に協力してくれた人に支払うが、証拠書類も公文書である内部書類も偽造。協力者の氏名は「捜査上の秘密」として開示されない

公開された黒塗りの公文書にはウソが書いてあった

l  虚偽がバレぬよう公文書を組織的に改竄、そして誤って大量廃棄

大問題となったのは組織の指示による会計文書の改竄。道警の改竄発覚は’04

改竄の後には公文書の廃棄が起きる。その後の安倍政権では、不都合な事案についてはそもそも公文書を作成しないという姿勢も露になっていく

l  黒塗り、改竄・・・・そもそも公文書作成せず 公文書を巡る毎日新聞の追及

公文書を残していないことが暴かれた初期の代表例は、'15年の毎日新聞の調査報道による安倍政権の「解釈改憲」。閣議決定で集団的自衛権の行使を容認する際、内閣法制局は「意見なし」と回答しただけで、検討過程が全く記録に残っていないことを毎日の取材班が探知

内部協議の記録が残されないと、歴史の検証に耐えられなくなる

l  開示請求されたら隠す 自衛隊の「日報隠蔽」報道

知られたくない公文書を開示請求された場合、当局者はすぐ「隠す」。その1例が自衛隊の日報で、南スーダンのPKOに参加した際、政府答弁の「非戦闘地域」と矛盾する内容の日記を廃棄したとして、情報開示を拒否したもので、神奈川新聞がスクープ

l  富山市議14人のドミノ辞職 きっかけは「政務活動費の記録を1枚ずつめくる」作業

濃密な人間関係の中、地方メディアが地方権力と真正面から向き合うのはなかなか難しく、本件は異例の調査報道。県議1人最大月15万円が認められる政務活動費の不正を暴く

報じたのは地元チューリップテレビ。1人づつ順に報道。40人中14人を辞職に追い込む

前段になったのが、市長と市議の間で秘密裏に行われた議員歳費値上げ。10万円アップの月70万円は全国47の中核都市の最高額で、密室政治への批判が高まっていた

l  孤独な深夜の作業 4300枚の支出伝票を1枚づつチェック

取材記者は情報公開請求により政務活動費の支出伝票を入手してチェック

疑問に思ったことを、しつこく、諦めずに取材し続けることが調査報道の基本

監視役がいなければ、その瞬間から権力は間違いなく暴走する

l  政官の闇を照らした大スクープ 朝日新聞「森友文書 書き換えの疑い」

安部元首相を巡る数々の疑惑を掘り起こしたのは「文春砲」や新聞・テレビ。その中で近年最も大きなインパクトを与えた調査報道が朝日の「森友文書 書き換えの疑い」

'18年、国会に提出された文書の改竄を暴露

l  「私や妻が関係していたら首相も国会議員も辞める」

首相の発言後に起きた公文書改竄を、朝日の調査報道が追う。財務省担当佐川局長の答弁の不自然さに疑問を持ったのが発端

l  真実を明かす責任はだれに?

‘18年、改竄を強いられた近畿財務局の職員が自殺し、妻が開示請求や損害賠償を繰り返し漸く開示されたのが'25

朝日の報道に対し、「朝日に挙証責任がある」との主張が少なからずあったのは驚き。情報源の秘匿はジャーナリズムの根幹に関わること。根拠を公にしなければならないのならジャーナリズムは成り立たない

改竄の事実は分かったが、だれがどう改竄を指示したのか、動機は何かなどの詳細は依然として不明のまま。権力は真実を明らかにしない。事実を歪め、隠そうとする為政者。それに抗するためにも調査報道はある

 

おわりに

ジャーナリズムの凋落が言われて久しい。報道批判も留まるところを知らない。「報道は権力者・当局者に都合よく使われているのではないか」という市民の疑念は、簡単には取り戻せないほどに広がっている。そうしたなか、報道界では「調査報道こそがジャーナリズム再生のカギを握っている」「発表報道ではなく独自取材にもっと注力を」といわれるようになってきたものの、調査報道の実態は人によってとらえ方がまちまち

本書はそうした間隙を埋め、調査報道が果たしてきた役割を豊富な実例とともにわかりやすく提供する狙いがある。世の不条理を少しでも減らし、社会を少しでも良い方向へ変えたいという先人たちの思い、時を隔てて届くそれらの声は、今現場を走り回っているジャーナリストたちへの応援歌でもある

筆者は本書を著すことで、報道界と多くの市民に「ジャーナリズムには希望がある」というメッセージを届けたかった

 

 

 

旬報社 ホームページ

「黄色い血の恐怖」「田中角栄研究」「リクルート事件報道」・・・あの調査報道がなければ、私たちの社会は今とは全く違う姿になっていただろう。
戦後の混乱期から現代まで、世の中の不正や病理を射抜いた数々のスクープ、キャンペーンを年代とともに振り返る。
戦後調査報道の全軌跡がここに。

 

 

 

(ひと)高田昌幸さん 日本の「調査報道の戦後史」をまとめて出版した

202626日 朝日新聞

 北海道新聞の記者として北海道警の裏金問題を徹底追及し、調査報道記者として活躍した。「ただ疑惑を報じるだけでなく、最終的に道警に裏金作りを認めさせたことが大きかった」。道警が認めた裏金の総額は約11億円に上った。

 一方で、疑惑の解明の途中で新聞社の経営陣とも対立し、社を去った。現在は独自取材で社会の問題を掘り起こす調査報道集団「フロントラインプレス」の代表、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会の委員長代行を務める。

 東京都市大メディア情報学部の教授として、若手の育成にも尽力する。「ジャーナリズムには希望があることを次の世代に伝えたいのです」

 「田中角栄研究」やリクルート事件報道など、調査報道は首相をも辞任に追い込む力を持つ。その戦後史をまとめたのは、「報道は権力者に都合良く使われているのではないか」という批判が噴出する中で、「調査報道こそが再生のカギを握っている」と信じるからだ。

 調査報道は孤独な戦いだ。権力者と戦い、時に所属組織内でも戦わなければならない。最近、組織内で苦悩する記者の相談をよく受ける。

 「辞めるのは簡単だから、簡単には辞めるな。組織内に味方を作って、組織を変えて、正しい報道を実践しろ」

 最後まであきらめるな、とエールを送る。

 (文・写真 三浦英之)

     *

 たかだまさゆき(65歳)

 

 

 

NHK放送文化研究所

「調査報道」の社会史

~第1回 調査報道とは何か~

20092月「放送研究と調査」目次へ

本文1,729KB

「調査報道」は、一言で言えば、発表に頼らぬ自前の報道、つまり自社で調べて、自社の責任で報道する記事やニュースのことである。1960年代後半から70年代にかけて、アメリカでは「調査報道」が盛んに取り上げられた。ちょうど「ベトナム秘密報告」のすっぱ抜きや「ウォーターゲート事件」といった歴史に残る「調査報道」が紙面を埋めていた時期だった。しかし80年代以降、アメリカの「調査報道」は一気に下降線をたどり始める。21世紀に入って新聞社の買収が相次ぎ、利益優先、コスト削減のため経費のかかる「調査報道」は経営者にとって“金食い虫”としか映らない。

では日本の『調査報道』はどのようになっているのであろうか。紙面や画面で見る限り各社は常に「調査報道」でしのぎを削っているように見える。しかし活字離れ、テレビ離れがメディアを直撃している。インターネット時代を迎え、情報が氾濫する中、新聞読まない、放送見ない、雑誌買わない世代が急速に増えている。大学生たちのほとんどが、インターネット配信のニュースで事足りるとしているからだ。だがインターネット時代になればなるほど、新聞、テレビ各社の存在価値を際立たせるものとして「調査報道」があるのではないだろうか。いまこそ、「調査報道」とは何かを考える時期に来ている。

本稿は、数多のジャーナリストが思い描いている「調査報道」観に言及しながら、ジャーナリズムを担う者たちが、今世紀を生き延びる手だてとして「調査報道」が欠かせないものであることを明らかにしていきたい。

 


コメント

このブログの人気の投稿

本当は恐ろしい万葉集  小林惠子  2012.12.17.

近代数寄者の茶会記  谷晃  2021.5.1.

小津安二郎  平山周吉  2024.5.10.