美しい人 佐多稲子の昭和  佐久間文子  2025.4.20.

 2025.4.20. 美しい人 佐多稲子の昭和

 

著者 佐久間文子 1964年大阪生まれ。文芸ジャーナリスト。朝日新聞記者をへて('11年退社)、現在フリーランス。著書に『「文藝」戦後文学史』(河出書房新社)、『ツボちゃんの話』(新潮社)がある。

 

発行日           2024.11.20. 初版第1刷発行

発行所           芸術新聞社

 

本書は、芸術新聞社WEB連載『美しい人 佐多稲子の昭和(‘13年より、月2回、2年間)を加筆修正したもの

 

 

まえがき

佐多稲子の作家としての活動期間は長い

最初の作品は、窪川いね子名義の『キャラメル工場から』で、雑誌『プロレタリア芸術』に発表。192823歳の時。最後は随筆集『あとや先や』で199388歳で、戦争を挟んでコンスタントに発表してきた。若い頃の眉のあたりに煙るような憂いをたたえた美貌が、老年の眼鏡をかけて、きりっと口を引き結んだ凛とした美しさは、別人といっていいほどの隔たりがある。この変貌を遂げるまでに一体何があったのか

何度も躓き転んで、その都度立ち上がり、顔を上げて曲がりくねった道を歩き始める。転ぶたびに内省を深めて歩幅を確かめ、自分の傷を核にして作品を膨らませていった

作家になるに当たって、本郷のカフェの女給をしていた時に客として知り合った中野重治や堀辰雄、夫となる窪川鶴次郎ら雑誌「驢馬」の同人と偶然に出会ったことが大きい

長く第一線に立ち続けられたのはひとえに彼女自身の力、才能と運、たゆまぬ努力、逆境から立ち上がる強い精神力によるもの。自分で自分の顔を作り上げていった

 

第1章      彼女の東京地図

稲子が11歳の時、父親が三菱長崎造船を突然辞めて上京、三囲(みめぐり)神社近くの長屋に住む。同じ向島小学校に在籍していた同じ年生まれの堀辰雄は、中途退学した稲子のために、アテネ・フランセの入学手続きをして、定期券まで買ってくれ、月謝が払えなくなると自分でフランス語を教えた。稲子が鶴川と一緒になった後のこと

たちまち生活に困った田島家では、稲子が新聞広告で見つけた神田のキャラメル工場に働きに出る。その後は上野の料理屋に奉公に出る

佐多は実家の「佐田」から。父は養子に出て田島姓に。離婚後佐田に戻る

『私の東京地図』(1949)に、「なぜ大きな松屋などという百貨店が建ってしまったのだろう。庶民の街に高層建築が建つと、建物そのものが威圧を感じさせるし、それが民衆の消費を狙って、恥ずかし気もなく子供騙しの娯楽場を作ったり、街相応の安ものをびらびらさせたりしてあったので、場違いのものに強引に割り込まれた上で馬鹿にされているような、そんな気がしたものだ」と、稲子らしからぬ、嫌悪感がストレートに出た文章がある

稲子が勤めたのは、柳原河岸の堀越嘉太郎商店という美白液を作る準大手の化粧品会社の工場で、キャラメルも作っていた

敗戦の年の暮れ、プロレタリア文学の作家が「新日本文学会」を創立したとき、稲子は発起人から外された。戦地慰問などを戦争協力と批判したのが宮本百合子。自責で苦しみながら'46年から書かれた連作が『私の東京地図』だが、日々の暮らしの中で深く体に染み込ませた東京の姿を自分のうちに呼び戻し、感傷も悔悟にも流されずに淡々と描く

 

第2章      長崎の海の青さに

上京から四半世紀経った'40年、初めて長崎を再訪。壷井栄と共に朝鮮総督府鉄道局の招待旅行の帰りに立ち寄り、海の青さに感動して「乳色を帯びた蒼い海」と表現

稲子が生まれた時、父18歳母15歳。不義の子だったが、2人は産む選択をする。母は結核により22歳で早逝。夜逃げ同然で上京

 

第3章      キャラメル工場へ

1915年、堀越商店で働き始めるが、片道2時間の通勤は辛く、2カ月で辞める

 

第4章      浅草・上野界隈

浅草の口入屋(桂庵)から紹介された料理屋清凌亭で働き、1年後にはメリヤス工場へ行くが、生活は楽にならず、芸者への転身を決意

 

第5章      『素足の娘』(1940)の日々

1918年、娘の決意を聞いて、父は単身赴任していた播磨造船の企業城下町として栄えていた相生に呼び寄せ、家事をさせる

『素足の娘』は、初版1万部で、すぐ7万部まで版を重ねるベストセラーになり、'83年同地に文学碑設置。20年余りも前に住んだ街を舞台にした自伝的小説だが、街並みの描写は正確で、時間空間を把握し再現する能力に極めて優れた作家だということがよく分かる

新聞の身の上相談をヒントに挿入した父の同僚にレイプされる事件は、モデルと見做された男性を弾劾する手紙が来て驚き、事実無根だとの手紙を書くが、事実と受け取られていた

少女雑誌への投稿も始め、『少女の友』に投稿した和歌が掲載される

 

第6章      再び上野へ

5度目の結婚で落ち着いた父と別れて東京に戻り、清凌亭に住み込みで座敷女中となり、祖母と弟の面倒を見る。そこに小島政二郎が、新進作家として脚光を浴びていた芥川龍之介を連れて来る。小説を読む文学少女の座敷女中は珍しく、芥川の座敷に呼ばれる。『キャラメル工場から』を発表したあと文藝春秋から小説の原稿依頼が来たのも、そこで菊池寛とも会っていたから。プロレタリア文学の作家として活動する江口渙は『芥川龍之介とおいねさん』で当時のことに触れているが、芥川から自著を贈られたとの記述には、事実無根と抗議している

文学への志から、清凌亭は1年で辞め、日本橋丸善に応募。女店員雇用は初めてだった

 

第7章      女店員になる

1921年、丸善で働き始める。丸善は、福沢諭吉に学んだ早矢仕有的が1869年創業、洋書・文具などの輸入販売をしていたが、稲子は洋品部で香水や化粧品を担当。弟にローマ字の読み方を習い、同僚に本を貸してもらって手あたり次第読んでいく

詩人の生田春月主宰の「文芸通報」に詩を「夜思美」の名で投稿、やがてその準同人となる。生田は投稿少年に絶大な人気で、『文章倶楽部』の人気投票では漱石を抜いて1

単調な毎日に鬱屈した思いを発散させようと、マンドリンを習ったり、教会に通ったり、自殺まで考えたが、そこに関東大震災勃発。その時稲子は丸善にいたが、『私の東京地図』には、その瞬間が映像のように記録されている。住まいの長屋も半壊で、祖母・弟と空き地で一夜を過ごし、3日後父のいる相生へ向かう。丸善は倒壊こそしなかったが全焼。顧問だった内田魯庵蒐集の洋書も灰燼に。1カ月後には営業を再開、店員たちも呼び戻された

 

第8章      愛のない結婚

丸善の模範店員だった稲子に上司から見合の話が持ち込まれる。客の伝手で見込まれた資産家の当主の慶大生。同僚に同好の士で好きな人がいて、結婚に反対されたが、結核で早逝

翌月結婚して葉山に新婚旅行。相手は遺産相続をめぐって親族間に複雑な争いがあり、長兄は禁治産者、次兄は他家へ養子、さらに父親の遺した借金の返済で家計は厳しく、いきなり貧乏人は金さえ持てばすぐ使ってしまうと見下され、新生活への期待は吹っ飛ぶ

夫は、稲子を紹介してきた義兄と稲子の仲を疑って暴力を振るい、稲子は再び自殺を考える

妊娠した身で家出するが、連れ戻され、今度は心中を図り、同居していた叔母に発見され一命を取りとめる。資産家の若夫婦の心中事件として新聞記事になる

稲子が最初の結婚ついて書く文章からは、相手に対する本当の愛は感じられない。回復後は父の家に引き取られる

 

第9章      『驢馬』同人との出会い

‘24年長女葉子出産。娘の名は、有島武郎の『或る女』から浮かんだもので、幸せな人生を送ったとはいえないヒロインの名前を選ぶところに稲子の文学趣味がのぞく

夫は復縁を迫るが、変わらない夫を見て離婚を決意、その後の生活を考えて小説を書き始めたのがこの時期で、新聞の懸賞小説に投稿を始める。ドン底を経験して踏ん切りがついた

父共々東京に戻り、田端駅したのの駒込神明町の借家住まいとなり、近くの「カフェ紅緑」の女給となる。近くに室生犀星の家があり、出入りの文学青年たちが文学雑誌を出そうとしていた。同人は堀辰雄、中野重治、窪川鶴次郎ら6人で、1926年『驢馬』創刊

稲子も『驢馬』を見せられて感心。早くに両親を亡くした苦学生窪川に心を寄せる。家には浅草の「カフェ聚楽」に住み込みと偽って同棲を始め、9月、離婚成立を待って結婚。葉子は父の養女となる。稲子も同人の仲間に迎え入れられ、堀を除く5人が左翼運動に身を投じたこともあって、レーニンの著作などを読むようになる。堀は稲子にフランス語を学ばせる

同人の側にいた日々を稲子は、「私の大学」と呼ぶ。稲子も『驢馬』に詩を発表

芥川も田端の住人で、『驢馬』同人と親しく、寄稿もしていたが、足元もおぼつかない変わりように稲子は衝撃を受け、芥川の自宅に行ったとき自殺に何を飲んだのかと聞かれ、その3日後自殺。店の客だった林芙美子とも出会う。窪川は稲子の勧めで勤めを辞め、文学に専念

菊池寛が芥川との共同編集で始めた『小学生全集』に菊地の名で出た『曽我物語・忠臣蔵物語』は窪川が書き、評判も良く、金が入るようになったので、稲子は女給を辞める

稲子は、窪川の親友の詩人西沢隆二の勧めで芸術連盟本部まで演技の稽古に通うが、西沢の父親が最初の結婚の相手の後見人だと知って驚く。俳優の指導は新人会の佐野碩で、初期の日本共産党の指導者佐野学の甥に当り、後藤新平は祖父、鶴見和子・俊輔姉弟とは従弟同士

 

第10章     稲子、作家になる

『驢馬』同人で最初に左翼運動を始めたのは中野重治。在学中の’25年東大生による社会運動団体の新人会に入り、林房雄らと学内に社会文芸研究会を作る。『驢馬』は212冊で終刊

鶴川も'27年、中野らが作ったプロレタリア芸術連盟に参加。鶴川と中野は四高で同期

'28年、プロ芸の機関誌『プロレタリア芸術』に稲子が最初に投稿したのが『キャラメル工場から』。その経緯は中野の没後に彼との思い出を書いた『夏の栞』(1983)に詳しい。初めて経験する女工の生活を書いた随筆を小説にするよう勧めたのが中野で、彼自身もそれを誇っている。働く者の中から文学が生まれなければならないというプロレタリア文学の理論に励まされて書いた小説であり、待ち望まれていた小説でもあり、最も優れたものの1つとまで評価

'28年は、日本の左翼運動にとって激動の1年。初の男子普通選挙により無産派の代議士8人が誕生。共産党の一斉検挙(三・一五事件)。プロ芸に代って「無産者芸術連盟(ナップ)結成、中野・窪川夫妻らも参加。稲子は旺盛に作品を発表、商業誌からも原稿料が入るようになる

全国の警察網が完成、窪川がビラを貼って初めて検挙されたのもこの年。逮捕者の支援活動も始める。プロレタリア文学の興隆は、’28'34年頃まで。機関誌『戦旗』は1万部越え

稲子は『文藝春秋』に『レストラン洛陽』を発表、川端康成が文芸時評で激賞。川端の初恋の女性は「聚楽」時代の稲子の同僚で、稲子は知らずにモデルに書いたが、川端も気づかずに選評

窪川は肺結核で療養生活に

‘30年の新年号には5誌に小説を掲載、新進作家への期待の大きさを象徴。文壇の動きをまとめた『文藝年鑑』に稲子が登場するのも’30年版から

‘30年、長男出産。健造は中野が名付け親。直後には「日本プロレタリア作家叢書」の第8編として初めての女性作家で、『キャラメル工場から』を表題作とした短篇集が出版される

女優見習の時親しくなった原泉を中野に紹介して結婚させるが、直後にプロレタリア作家一斉検挙。中野も実刑。労働争議活発化と共に、女工たちを取材して、『強制帰国』など労働者の実態を暴いた5部作を発表。’30年末には初めて演壇に立ち、労働婦人と文化について講演

 

第11章     表と裏と

改造社からも『研究会挿話』を出版、文芸誌『新潮』は窪川いね子の小特集を組む

『婦人公論』で『隠された頁 私の情死未遂事件』を発表し、自殺未遂を公表。作家として地歩を固めた証し。日本プロレタリア文化連盟には、中條(後の宮本)百合子とともに参加、連盟の雑誌『働く婦人』の編集委員にもなり、署名入りの論説記事も書く

裏では、非合法の共産党員のもので、’32年入党。初の検挙も同年。1日で帰されたが、夫との面会で、月に7回は刑務所に通う。その間仕事を持つ夫婦のすれ違いが生まれ、互いに小説で発表。’33年地下潜行の小林多喜二が逮捕され、拷問死。自宅で百合子と共に迎える

弔問客が次々に検挙される中、稲子は小説『220日のあと』を発表、小林の虐殺を公にして問いたいという、裂帛の気合を込めた文章だった

犀星も、『驢馬』同人に資金的援助をしていたので、逮捕を覚悟したが、誰も彼の名を口にせず

 

第12章     不協和音

小林の惨殺から4カ月後、佐野学らの転向声明が獄中から出され、雪崩を打つ。窪川も転向を誓って保釈。稲子も1週間ほど留置された経験を『留置場の1日』と題して読売に寄稿

作家として飛躍の時期に、狭い家で物書きが2人、隣り合わせで執筆する息苦しさを稲子は感じ始め、運動の壊滅が、図らずも夫婦の在り方に2人の目を向けさせていく

'34年、プロレタリア文学運動の退潮は明らかとなり、関連文学作品のアンソロジーが刊行され、稲子が『文藝春秋』に発表した『押し流さる』も収録

'35年、再逮捕。『働く婦人』の編集が先鋭だという理由。38日間拘留。留置場で原稿を書く

2人で話し合って離婚を決めるが、間に窪川の友人で『東京日日新聞』に大宅壮一がいたことから、新聞雑誌で大きく取り上げられ、2人は『婦人公論』から別々に手記を依頼され、それぞれ『恐ろしき矛盾』と『生活と愛情』を書く。平塚らいてうが翌月号に『窪川稲子さんへ』と題して、自分も3歳下の夫との20数年の結婚生活で同じ矛盾に苦しんできたと書き、女性の社会進出と、仕事と家庭の両立の問題がクローズアップされた

中央公論社長の嶋中雄作に勧められて書いた『くれない』は、『婦人公論』に'361月から5カ月連載され、より率直に自分をさらけ出したものとなり、さらに加筆して単行本となる

 

第13章     運命の女

'36年、田村俊子(18841945)帰国。明治・大正の文壇で活躍した後、夫と別れて渡米。18年ぶりに帰国し、「女浦島」と呼ばれたが、稲子は20歳年上の先輩作家に初対面から好意を抱き、宮本百合子らと行動を共にしたが、俊子は窪川と恋愛関係になっていた

‘36年の判決は懲役2年執行猶予3年で、上訴せず確定

俊子は、窪川と付き合いで、現代日本の知識を吸収し、20年近くの不在を短時日で取り返そうとしたのだろうが、何作か発表した小説はかつてのような話題作にはならなかった

‘38年、俊子は中央公論の特派員として中国に長期出張、帰国することはなかったが、出発直前に発表した小説『山道』は窪川との関係を題材にしたもの。瀬戸内寂聴が伝記を書いている

 

第14章     万歳の声

‘37年、日中戦争勃発。12月には人民戦線事件加藤勘十、向坂逸郎ら学者や活動家が大量に検挙、被検挙者の著作の発行が全面的に禁止された

1月には、新協劇団の演出家杉本が、女優の岡田嘉子とソ連に亡命。稲子は杉本の妻と親しく、『灰色の午後』や『歯車』などに書いている。'66年稲子はモスクワで嘉子に会う

この時期の作品からは、稲子が働く女性たちに会い、彼女たちの実情を肌で感じて、声なき声を伝えたいというプロレタリア作家としての思いが伝わってくる。この時期のルポに『「綴方教室」の小学校』(『文藝』'3811月号)がある。小学生の豊田正子の作文集を追ったもの

夫への尊敬も愛情も見失い、退廃の淵に沈む稲子は、徐々に内向を深め過去に目を向ける。離婚を機に再出発し、当初の自分を辿り直す。敗北と認めざるを得ない経験をきっかけに、それまでの道筋を、一歩一歩確かめて書き綴る心の動きは、戦後になって『私の東京地図』を書く手法と重なる。’39年菊池寛賞創設と共に紅1点の選考委員となる。当初は、46歳以上のベテラン作家の顕彰が目的で、委員は45歳以下。初回受賞は徳田秋声の『仮装人物』

信頼関係は崩れていたが、窪川との結婚生活は続いていた

紀元2600年を境に、時代の空気は急速に変わる

窪川家では、夫と妻の思想的後退は、ほぼ同じ道筋を辿る。夫婦の間にも狎れ合いがあった

相生の父の下で過ごした1315歳を題材にした自伝的小説『素足の娘』が新潮社の「書下ろし長編小説」として刊行。自分の過剰な自意識も隠さず語り、率直な言葉に爽やかな魅力があり、7万部のベストセラーとなって、彼女の生涯で最も売れた本となり、人気作家として認知

戦争が稲子の身辺にも迫り、『皇軍慰問号』には稲子も寄稿。出征兵士の家族を激励したり、壷井栄と朝鮮総督府の招待で初めて外地行にも。この後次々、占領地や戦地を旅する

 

第15章     外地へ

壷井は稲子の5つ上で、小豆島の生まれ。ナップの活動で知り合い、革命運動犠牲者救済会(モップル)の活動を通して、宮本も含めた3人が親しくなる。栄が小説を書き始めたのは、稲子の勧めによるところ大。朝鮮への旅行も招待を受けた稲子が誘ったもの

'41年には満洲へ2度。満洲日日新聞社から『四季の車』連載の慰労と、2度目は朝日新聞社機「朝雲」での戦地慰問で、大佛次郎や林芙美子、横山隆一と同行

当時の情報局の資料では、特に重視されている女性作家群の中でも、「所謂、最前線にある人々」で、「指導的婦人の位置にあると見做される人々」の筆頭に、林芙美子、吉屋信子と共に挙げられている。鋭い洞察力による純・不純を鑑別する能力は他に類を見ないとの評価

 

第16章     太平洋戦争始まる

'41年、『女人芸術』や『輝ク』を主宰した長谷川時雨が結核で急逝。『女人芸術』は左傾化しているとして度々発禁になり休刊したが、『輝ク』は日中戦争と共に戦争支援に舵を切る。稲子は時雨の気風のよさに惚れて近づき、少なからぬ影響を受けている

11月から年末にかけて、30人ほどの作家が徴用、「白紙」といわれた召集で、井伏鱒二や海音寺潮五郎、大宅壮一、石坂洋次郎らが南方へ送られた。左翼系が多く、「懲用」といわれたが、尾崎士郎や火野葦平など軍部の覚え目出度い文士も含まれていた

『婦人朝日』の開戦翌年2月号には「宣戦布告をどこで知り、どんな感じと覚悟を抱かれたか」という質問に文士が答え、「感激した」とか「一死報国」とかが並ぶなか、稲子は当日朝の描写に徹し感情の動きな書かれていない。同様に声の調子が低いのは尾崎一雄や北川冬彦

長男健造が府立五中に合格したときも、時局とは無関係に、『入学試験』を書き、直後に行った台湾講演でも演題は、「婦人と読書」「婦人の立場より」と日常からさほど離れていない

'42年、陸軍報道部の要請による中国慰問には、新潮社の大衆雑誌『日の出』の特派員として参加したが、大陸奥地の戦闘の最前線に行き、塹壕の中での兵士たちとの面談を通じ、戦争に対する態度が劇的に変わる。戦地と内地を結ぶ役割を気負った言葉を書くようになった

帰りがけに上海で、窪川との恋愛関係が終わった俊子に出会う。わだかまりはないというが、心中は測りがたい。翌年のある寄稿でも上海での出会いの相手を俊子の中国名で書いているのは、夫の恋人であった俊子に対する屈託がこんな書き方を選ばせたのではないか

終戦直前の俊子からの手紙には、「望みはないだろうが、もう一度会って話したい」と切々とした想いが語られ、その2カ月後に客死。稲子は、複雑な思いを秘めたまま、「田村俊子会」に入り、俊子の墓や文学碑を建立し、田村俊子賞の選考委員も務める

 

第17章     南方へ

中国から戻った稲子は、戦地の兵隊の苦労を伝える文章をあちこちに発表。それを読んだ戦死者の遺族から、面談した兵士の幾人もが直後に戦死したことを知らされる

中国のあと、男性作家に続いて女性作家の南方派遣の「徴用」の話が来て、宇野千代・中里恒子らは断ったが、抵抗運動をしてきた稲子には「断れない徴用」だったのだろう。同行は林芙美子・水木洋子らで、病院船でシンガポールに行き、マレー半島やスマトラ島を半年間視察

 

第18章     敗戦まで

帰国後矢継ぎ早に南洋の印象記を発表。陸軍の期待した、南方での日本による統治の成功を謳うわけでもなく、焦点のぼやけた旅のスケッチに終始している印象

開戦後に結成された日本文学報国会の参事に

'43年、『驢馬』同人の仲人をやった時には夫婦関係はすでに破綻。翌年初には稲子に恋人ができ家出。師の犀星も自著で触れている。相手は、終生の友壷井栄も知っていたジャーナリストで、「行きずりの恋」で戦後まもなくまで続が、栄も冷ややかな視線を向けるし、執筆も急減

窪川は、上海の会社の東京支店に就職し再婚。東京大空襲の直後に正式離婚

 

第19章     戦後が始まる

短篇『あるひとりの妻』(1949)は、玉音放送を聞いた時の衝撃を、晴れ渡る空の青さではなく、「いい月夜」と綴ったもの

離婚により、弟を戸主とする「田島家」に戻るが、叔父の死で断絶していた「佐田」の戸籍を'45年末に再興し戸主となる。その直前、筆名も「佐多稲子」と改称。『素足の娘』の主人公と同姓

佐賀女学校を卒業した長女葉子と継母を呼び寄せ一緒に暮らす

終戦後は、反動のように次々新しい雑誌が生まれ、作家たちも旺盛に執筆を再開

戦前のプロレタリア文学仲間を中心に新しく組織される文学団体の「新日本文学会」の発起人の選に漏れる。推薦人だった中野から戦争中の行動が問題視されたと伝えられ、愕然とする

反対の急先鋒は宮本百合子。中野からは「作家には責任がある」の一言を告げられる

10年後に書かれた『自分について』では、「私の人間観には、戦後の時期、戦争責任の問題に打()つかって初めて、皮肉や意地悪や悲哀や傲慢などが加わった。美しく生きたい、という素朴な願いが私の中にある。こんな願いも傲慢かもしれないが、この願いは私にとっては最早、美しく生きたかった、という表現に変わってしまった。戦争責任について考えた時初めて、生まれ変わることができたらと切実に思った」と、なお生々しく血を流しているように書く

まっとうな問題意識を持ちながら、自分に対する文学会の対応にもっと素直に、自らの責任を提出し得る空気が作られねばならぬのではないか、今こそ大根(おおね)の戦争責任者に対して共同の力が結ばれるときなのではないか、少し間違っているという気がしたと述懐

 

第20章     私の東京地図

戦後起ち上る仲間の側で、稲子は苦悩と内省の只中にある。自身の誤りを認めつつ、文学者の批判の方向に疑問を持つが、その疑問を自分が表に出すことは許されない、複雑な苦しみの中で描いたのが代表作となる連作『私の東京地図』。戦前のサトウハチローのベストセラー『僕の東京地図』のもじりだが、故郷喪失者の自分が、ここも故郷だと思い定め、転々と移り住んだ東京の街への愛着を綴る。連作の書き出しは、文芸誌『人間』の'463月号で、同誌編集長の木村徳三に、同誌への寄稿と引き換えに小平町の自宅新築の無心をしている

 

第21章     婦人民主クラブ

GHQの基本方針である「婦人の解放」に沿って、’46年に出来たのが「婦人民主クラブ」で、稲子は戦後共産党に再入党し、衆院選への出馬の誘いもあったというが、党との関係はその都度複雑なものに変化したのに対し、「婦民」は一貫して稲子の拠り所となり、委員長も務めた

GHQから、後藤新平の娘婿の鶴見俊輔の姪の加藤シズエに声が掛かり、稲子や宮本に声を掛けてきたのは羽仁説子。機関紙『婦人民主新聞』に稲子が初回から連載したのが『ある女の戸籍』で、自らの来歴を辿ったものだが、同時に女が法的に無能力者という法律の矛盾も突く

 

第22章     わが家の場所

共産党の再建は、獄中で非転向を貫いた徳田や志賀がイニシアティブを取って進められ、稲子も再入党するが、2度除名。最初は’51年に、婦人民主クラブに対する党の干渉に応じなかったことが分派活動とされたためで、55年復党したのは、党大会で武装闘争方針から平和革命路線に切り替わる。2度目の除名は’64年の部分的核実験禁止条約がきっかけで、党が中国に同調して反対を決定し、賛成派を除名、それを批判した稲子らの文化人党員も除名される

2度の除名の経緯を『渓流』、『塑像』という2つの小説に書く。党を「わが家」と表現

‘49年の松川事件では、共産党の関与を予断として捜査が進み、裁判では無罪が確定、未解決のまま終わったが、捜査に疑問を抱いた作家の広津和郎に乞われて事件の対策協議会の副会長を引き受ける。共産党とは無関係の広津に支援の輪が広がり、無罪判決に繋がる

 

第23章     怒り

稲子の人生では、時折自分の怒りを噴出させる。意外だが、譲れないときは喧嘩も辞さない一面がある。'67年、壷井栄の通夜の席で、詩人の金子光晴から人前で、「君はこの頃芸者みたいだ」と言われたことに怒って、すぐに手紙を書いて抗議。金子も、「女優みたいだ」と言った積りだったがと素直に謝っている。「エロじいさん」と呼ばれるようになるのは少し後のこと

福田恆存が松川事件の被告を批判したときも激しく反論

丸岡秀子が『田村俊子とわたし』の中で俊子と窪川の恋愛を実名で書いた時も、自分で実名で書くのと、第三者が当事者の諒解もなく暴露するのは違うと書いている

高杉一郎のシベリア抑留体験記『極光のかげに』の中で、仲間が稲子のことを「女給」呼ばわりしたことに言及したため、稲子との間に激しいやり取りがあったが、真相は闇

 

第24章     友を送る

宮本百合子が急逝したのは‘51年、享年51。戦争中の稲子の行動に対し、同時代の作家として最も厳しい視線を向けた1人が百合子

同年、東大生だった長男健造が都知事選の応援中、朝鮮戦争への反戦アピールをしたとしてGHQの軍事裁判にかけられる。マッカーサーの離日もあって全員無罪となる

'53年、堀辰雄が肺結核で逝去。左翼運動には参加しなかったが、戦後中野が共産党から立候補した際は推薦人になっている

'58年、中野の妹鈴子逝去。詩や散文を発表した恋多き女。旧制四高の兄の世話をしている時に窪川と知り合い好きになるが、落第が続いて退学し東京に行った窪川を諦め、親の決めた結婚をするが、2度失敗。壷井繁治とも恋愛関係にあったことは稲子も書いている

'67年、壷井栄が喘息で逝去。励まし合い助け合ってきた親友。妻を亡くした徳永直に頼まれて栄は自分の妹を紹介したが、破談になり、それを徳永と栄が小説に書いた中に稲子も登場

‘74年、窪川が死去。稲子は葬儀に出なかったが、息子・娘は列席。吉村公三郎に師事し、後にテレビ映画の監督になった健造は父に対する感情は全くないと言い、コレオグラファーとして成功した娘達枝にとってはやさしい父親だった。稲子は『時に佇つ』(1976)で窪川の死を小説として描く。淡々とした書きぶりながら、胸に迫るものがあり、川端康成賞受賞

‘79年、中野重治逝去。友人代表で弔辞を読む。死の2カ月前には、中島健蔵の葬儀に稲子と2人で列席。2年後に『新潮』で『夏の栞 中野重治をおくる』の連載を始める。臨終の席で、「私が女でなかったら、男だったら、もっと違う付合いが・・・・」と悔しさを初めて口にした稲子だったが、好意を持ちつつ恋愛には踏み込まない、だからこそ終生、この関係性を保つことができたとも言える。友情という言葉では表現しきれない、万感の思いを込めた言葉を書きつけた。中野が自分を理解している、そのことを自分は知っている、そのことを自分はずっと頼みにしてきたが、中野もまた稲子をかけがえののない存在と思っていた

 

第25章     終りの日々

‘74年、『毎日新聞』に載った稲子のインタビュー記事の見出しは「厭世感は私の隠し子」。10代の時抱え込んだ厭世感を身体の深い所に沈めたまま生きて、昭和という時代を通して作品を書き続けた。戦争中の行動を批判する声も逃げずに受け止めて、風に洗われたような、飾り気のない、それでいて意志的な表情は、人生を通して獲得したもの

‘73年の日本芸術院賞・恩賜賞内示は辞退。皇室に結び付いた賞を受け取るわけにはいかないとの意思表示だろう

晩年の作家活動で触れておきたいのは、’85年『群像』に発表した「『たけくらべ』解釈への一つの疑問」。主人公が終盤活発さを失ったのは、初潮を迎えたからという通説に対し、稲子は初店(水揚げ)によるものと読み解く。「非情な母親を描いたところに一葉の作家としての視線の鋭さを感じ、このことによって一葉の文学は近代文学だと思う」との稲子の見方が、「たけくらべ論争」を巻き起こすが、「初潮の時風呂には入らない」とか「初潮が誹られることはあり得ない」など稲子の解釈は切れ味鋭く、説得力がある

‘85年、継母ヨツ逝去。父の脳梅毒を看病してから送り、葉子に女学校まで終えさせ、その後は稲子の家を生涯を通じてすべて支えた

寝たきり状態になり、’95年特養入居。最後の七夕の笹に代筆だ書かれた願いは「いい小説を書きたい」

 

 

 

 

芸術新聞社 ホームページ

美しい人 ー佐多稲子の昭和

佐久間文子・著

芸術新聞社Web連載 待望の書籍化!

佐多稲子 生誕120周年

生きることだけで精一杯だった100年前の日本に、

発言することを恐れず、

自分らしく生きることを諦めなかった

ひとりの女性作家がいました。

昭和の時代に数多くの傑作を生んだ

知られざる文豪・佐多稲子を今、紐解く。

 

佐多稲子とは……まるでドラマのような激動の人生を生き抜いた女性

長崎県で若い父母のもとに生まれ、親戚の奉公人の長女となる。5歳で実父母の戸籍へ入籍、7歳で母が死去。11歳の時に一家で上京、小学校を辞めて工場で働くことに。10代は職を転々とし、20歳で結婚、自殺未遂、離婚。24歳で作家デビュー、25歳で再婚。その後、文学と革命運動、逮捕、勾留、戦争責任、離婚、子供を連れて自立。辛酸をなめながら、必死に生き抜いた94年の生涯。

錚々たる作家陣との人脈を築く

10代の女中時代には芥川龍之介や菊池寛。20代には同人誌『驢馬』に集う中野重治や窪川鶴次郎(のちの夫)と出会う。作家活動後には、小林多喜二らと共に文化連盟の活動に奔走。その後、林芙美子らと戦地慰問や、社会運動で壷井栄に出会い、宮本百合子らと婦人民主クラブを創立など、多くの文学人との交流があった。

今もなお読み継がれる数々の名著を残す

プロレタリア文学の代表作であり、第一作『キャラメル工場から』にはじまり、『私の東京地図』『女の宿』女流文学賞、『樹影』野間文芸賞、『時に佇つ』川端康成文学賞、『夏の栞-中野重治を送る-』毎日芸術賞、『月の宴』読売文学賞、1983年朝日賞受賞など。

 

 

 

 

 

(書評)『美しい人 佐多稲子の昭和』 佐久間文子〈著〉

202531日 朝日新聞

 起伏の激しい人生を丹念に綴る

 1915(大正4)年11月30日の「東京朝日新聞」に、ある工場の求人広告が掲載されていることを本書で知った。早速、国会図書館に出向いて同紙を確認した。「女工募集」と題された小さな求人広告は、「至急申込まるべし」と急(せ)かすだけで賃金など労働条件も記されていない素っ気ないものだった。唯一、応募資格として「十二三歳より廿歳迄」としているところに、時代の風景が浮かび上がる。幼い顔をした「女工」さんたちの張りつめた表情を想像した。

 そのなかに、後の作家・佐多稲子がいた。稲子が工場に入ったのは前出の求人広告が掲載された直後。まだ応募資格に満たない11歳だった。

 過酷な労働があった。いじめにも遭った。だが、この時の経験が、のちに『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、彼女の出世作となる。

 労働現場から社会の矛盾を告発する。20年代に隆盛を極めたプロレタリア文学のスタイルだ。稲子はその一群にあって宮本百合子と並ぶ女性文士のひとりだった。

 起伏の激しい彼女の人生を著者は丹念に綴(つづ)る。工場以外にも料亭やカフェなど、様々な職場を渡り歩く。丸善の店員時代に資産家と知り合い結婚するも、夫婦仲は破綻(はたん)、心中未遂事件も起こす。困難ばかりの道のりを進んだが、けっして手放さなかったのが文学だ。ときに権力の弾圧を受け、女性にだらしのない男たちに翻弄(ほんろう)されながら、彼女はプロレタリアの旗を掲げて書き続ける。

 本書の白眉(はくび)は、仲間たちが創設した「新日本文学会」の発起人から稲子が除外されるエピソードだ。一時的な戦争協力が問題視されたものだが、それを伝えにきた中野重治に対し、稲子は「だって……」と短く抗弁する。それ以上の言葉は記録されていない。稲子の躊躇(ちゅうちょ)と戸惑いを想像することで、稲子が駆け抜けた「昭和」の鼓動が響いてくるのだ。

 評・安田浩一(ノンフィクションライター)

     *

 『美しい人 佐多稲子の昭和』 佐久間文子〈著〉 芸術新聞社 3300円

     *

 さくま・あやこ 64年生まれ。文芸ジャーナリスト。朝日新聞記者をへてフリーランス。著書に『「文藝」戦後文学史』など。

 

 

Wikipedia

佐多 稲子 - 窪川 稲子(さた いねこ - くぼかわ いねこ、1904明治37年)61 - 1998平成10年)1012)は、日本小説家である。職を転々としたのち、プロレタリア作家として出発し、日本共産党への入党と除名、窪川鶴次郎との離婚などを経て、戦後も長く活躍した。左翼運動や夫婦関係の中での苦悩を描く自伝的な作品が多い。

生涯

佐多稲子、吉屋信子宇野千代193511月撮影。 長男の窪川健造、次女の佐多達枝とともに(1936年)

1904年に長崎市に生まれる。出生当時、両親はいずれも学生で十代だったため、戸籍上は複雑な経過をたどっていた。母親を結核で亡くし、小学校修了前に一家で上京、稲子は神田キャラメル工場に勤務する。このときの経験がのちに『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、彼女の出世作となる。上野不忍池の料理屋「清凌亭」の女中になり、芥川龍之介菊池寛など著名な作家たちと知り合いになる。その後丸善の店員になり、資産家の当主で慶應大学の学生であった 小堀槐三との縁談があり結婚するが、若くして当主となり兄弟間の係争が絶えなかった夫は稲子にも病的な猜疑心を向けるようになり、夫婦ともに精神的に追い詰められた結果二人で自殺を図る。未遂で終わったがその後離婚し、小堀との子である長女葉子を生んで一人で育てる[1][ 1]

最初の結婚に失敗したあと、東京本郷のカフェーにつとめ、雑誌『驢馬』同人の、中野重治堀辰雄たちと知り合い、創作活動をはじめる。1926、『驢馬』同人の1人で貯金局に勤めていた窪川鶴次郎と結婚する。そのため、最初は窪川稲子の名で作品を発表した。1928、『キャラメル工場から』を発表し、プロレタリア文学の新しい作家として認められる。1929年にはカフェの女給経験を綴った『レストラン・洛陽』を発表し、川端康成に激賞された[2][3]。『レストラン・洛陽』の同僚女給「夏江」は伊藤初代がモデルだったが、川端はその奇遇を知らずに選評していた[2]。雑誌『働く婦人』の編集にも携わり、創作活動と文化普及の運動ともに貢献した。1932には非合法であった日本共産党に入党している[4]。同年、日本プロレタリア文化連盟(コップ)への弾圧により夫の窪川が逮捕、翌年保釈されたが、1935年にはコップ発行の『働く婦人』の編集発行人であった佐多が逮捕、留置所の中で小説を書き続けた[5]

プロレタリア文学運動が弾圧により停滞した時代には、夫・窪川の田村俊子との不倫もあって、夫婦関係のありかたを見つめた『くれなゐ』(1936年)を執筆し、長編作家としての力量を示した。しかし、戦争の激化とともに、権力との対抗の姿勢をつらぬくことが困難になり、時流に流されていくようになる。戦場への慰問にも加わり、時流に妥協した作品も執筆した。

戦後

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婦人民主クラブの中心メンバー(1946年撮影)。前列左から一人おいて、加藤シヅエ厚木たか宮本百合子、佐多稲子、櫛田ふき羽仁説子。後列左から一人おいて、関鑑子、藤川幸子、山室民子 佐多、長男の窪川健造、次女の佐多達枝。「北多摩文学」のメンバーとともに。1950年撮影。 1954年、土門拳撮影

19455月、窪川と離婚。秋頃から筆名を佐多稲子とする[6]。戦時中の行動が問われて新日本文学会の創立時に発起人にはならなかったが、当初より活躍した。

同年11月、佐多、羽仁説子加藤シヅエ宮本百合子山本杉赤松常子松岡洋子山室民子8人が呼びかけ人となり、婦人団体結成に向けた運動を開始。佐多は綱領を起草した[7]。準備会が重ねられ、1946316日、「婦人民主クラブ」の創立大会が神田共立講堂で行われた[7][8][9]。初代委員長には松岡が就いた[10]

戦後の民主化運動に貢献するも、戦後50年問題、日ソ共産党の関係悪化など日本共産党との関係には苦しみ、とりわけ部分的核実験禁止条約を巡っては、批准に反対していた同党に対し、野間宏らと批判を繰り返していたことから、最終的には除名されるにいたった。佐多の作品には、戦前の経験や活動を描いた『私の東京地図』(1946年)、『歯車』(1958年)があるが、『夜の記憶』(1955年)、『渓流』(1963年)、『塑像』(1966年)など、そうした戦後の共産党とのいきさつを体験に即して描いた作品も多い。

自身の体験に取材した作品以外にも、戦後の女性をめぐるさまざまな問題を作品として描いたものも多く、それらは婦人雑誌や週刊誌などに連載され、映画やテレビドラマになったものもある。

社会的な活動にも積極的に参加し、松川事件の被告の救援に活躍もした。19673月、日本社会党の関連団体の財団法人社会新報は翌月の東京都知事選挙に向けて『わが愛する東京革新都政に期待する』を出版。吉永小百合淡谷のり子ら著名人27人がそれぞれ都政に対する思いを綴る中で、佐多は明確に美濃部亮吉支持を表明した[11]

1970年、婦人民主クラブが主流派・反主流派に分裂。除名された反主流派は「婦人民主クラブ再建連絡会」を結成し、主流派は名前を変えずに活動を継続[9]。同年6月、佐多は主流派の婦人民主クラブ(現・ふぇみん婦人民主クラブ)の委員長に就任した[6]

1985年、樋口一葉の『たけくらべ』の結末で美登利が変貌するのを、初潮が来たからだとする従来の定説に対して、娼婦としての水揚げがあったのではないかと書き、「たけくらべ」論争を引き起こした。現在では一般的に両論併記となっている。なお、この説はすでに窪川鶴次郎も、『東京の散歩道』(1964年、現代教養文庫)で述べていた[要出典]

晩年は文学的社会的活動から身を退いて特養ホームで暮らし[5]1998年、敗血症のため死去[12]

家族

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父・田島正文 佐賀の県立中学在学中に18歳で稲子の父となる。三菱重工業長崎造船所で働いたが、1915年に夜逃げ同然で上京、定職がなく困窮し、1917年に兵庫県相生市に転居、翌年稲子を呼び寄せ、1919年再婚[13][14]

母・高柳ユキ 佐賀県立高等女学校在学中の15歳で稲子出産。二児を儲け1906年に正文と入籍するも1911年に肺結核で死去[13]

叔父・佐田秀実 正文の弟。25歳で早世。早稲田大学法科に学び、芸術座 (劇団)にも属した芸術肌の青年で、稲子に影響を与えた。佐多稲子の佐多はこの叔父の姓より取ったもの[13]

夫・小堀槐三 地主・小堀干の三男で嗣子。慶應義塾大学在学中の1924年に結婚。資産家だが借金もあり、自身の姉の夫と稲子との関係を疑い、稲子を虐待、1925年に夫婦で心中未遂し離婚。のち保阪潤治の娘と再婚。叔父の岳父に兵頭正懿[15][16][17]

夫・窪川鶴次郎

長女・湊葉子 小堀との子

長男・窪川健造  映画監督

二女・佐多達枝 戦後を代表する振付家の一人

姪・田島和子  女優。稲子の実弟・田島正人の娘[18]

他作家との交流

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芥川龍之介

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上野「清凌亭」に勤めていた十代のころ、客として現れた芥川を見て、女中仲間に「芥川龍之介だ」と言ったところ、その女中が芥川に「お客さんを知っている者がいる」と話し、個人的な知り合いかと勘違いした芥川が席に呼んだのがきっかけで、顔見知りとなった[1]。芥川は佐多を「お稲さん」と呼んで贔屓にしていた[19]。佐多は粋な縞銘仙に黒襟姿で立ち働くきゃしゃな娘で、仲間うちからは、芥川は佐多に好意を持っているようだと見られていた[20]、芥川が亡くなる4日前には芥川から連絡があって自殺者の心理を聞かれたという[1]

中野重治

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稲子は当初自発的に執筆活動を始めたのではなかったが、彼女が幼い頃の労働体験を書いた随筆を読んだ中野が小説に仕上げるよう夫の窪川を通じて求め完成した作品が『キャラメル工場から』である。中野は「『くれない』の作者に事よせて」において「一人の女窪川稲子を見つけたのは窪川鶴次郎であるが、そのなかにすぐれた小説家を見だしたのは私であった」と書いている。その後生涯を通じて中野は稲子の盟友であり続けた。中野の逝去後に稲子が執筆した回想録が『夏の栞』である[21]

壺井栄

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1929、雑誌『戦旗』での執筆が縁で、同誌に仕事を持っていた壺井繁治と、その妻の夫妻と親交を持つようになる。のちに栄は生活苦もあって雑誌社の懸賞に応募するようになっていくが、その折に彼女の作風を見た稲子は、その素質をプロレタリア文学ではなく娯楽小説、特に児童文学童話)に向いたものであると気付き、栄に坪田譲治作品を読む事を勧めて童話や一般小説を執筆するように説いた。これによって壺井栄が執筆したのが、彼女の後の商業デビュー作となる「大根の葉」であり、以降、栄は稲子の予見した通り児童文学作家として活躍し、のちに映画化もされた『二十四の瞳』を執筆する[22]

受賞歴

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1962年、『女の宿』により第2女流文学賞受賞

1972年、『樹影』により第25野間文芸賞受賞

1976年、『時に佇(た)つ(十一)』により第3川端康成文学賞受賞

1983年、『夏の栞』により第25毎日芸術賞受賞

1983年、長年の作家活動による現代文学への貢献により朝日賞受賞[23]

1986年、『月の宴』により第37読売文学賞(随筆・紀行賞)受賞

著書

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『くれなゐ』(中央公論社新潮文庫、角川文庫、1938年)窪川稲子名義

『女性の言葉』(高山書院、1940年)窪川稲子名義

『素足の娘』(新潮社角川文庫、新潮文庫、1940年)窪川稲子名義

『女三人』(時代社、1940年)窪川稲子名義

『美しい人たち』(金星堂、1940年)窪川稲子名義

『樹々新緑』(新潮社旺文社文庫、1940年)

『日々の伴侶』(時代社、1941年)

『季節の随筆』(万里閣、1941年)

『心通はむ』(学芸社、1941年)

『扉』(甲鳥書林、1941年)

『夢多き誇』(学芸社、1941年)

『香に匂ふ』(昭森社、1942年)

『女性と文学』(実業之日本社、1943年)

女流作家叢書『気づかざりき』(全国書房、1943年)

『若き妻たち』(葛城書店、1944年)

『牡丹のある家』(あづみ書房、1946年)

『キャラメル工場から』(新興出版社角川文庫、1946年)

『たたずまひ』(万里閣、1946年)

『旅情』(飛鳥書店、1947年)

『私の長崎地図』(五月書房講談社文芸文庫、1948年)

『四季の車』(労働文化社、1948年)

『私の東京地図』(新日本文学会講談社文庫、講談社文芸文庫、1949年)

『開かれた扉』(八雲書店、1949年)

『黄色い煙』(筑摩書房、1954年)

『燃ゆる限り』(筑摩書房、1955年)

『子供の眼』(角川小説新書角川文庫、1955年)

『夜の記憶』(河出新書、1955年)

『機械のなかの青春』(角川小説新書、1955年)

『みどりの並木路』(新評論社、1955年)

『燃ゆる限り』(筑摩書房、1955年)

『いとしい恋人たち』(文藝春秋新社角川文庫、1956年)

『智恵の輪』(現代社、1956年)

『舵をわが手に』(東方社、1956年)

『夜を背に昼をおもてに』(東方社、1956年)

『風と青春』(角川小説新書、1956年)

『心の棚』(現代社、1956年)

『ある女の戸籍』(東方社、1956年)

『女の一生』(酒井書店、1956年)

『樹々のさやぎ』(東方社、1957年)

『罪つくり』(現代社、1957年)

体の中を風が吹く』(大日本雄弁会講談社角川文庫、新潮文庫、1957年)

『人形と笛』(パトリア旺文社文庫、1957年)

『佐多稲子作品集』全15巻(筑摩書房、1958 - 1959年)

『愛とおそれと』(大日本雄弁会講談社講談社文庫、1958年)

『歯車』(筑摩書房角川文庫、旺文社文庫、1959年)

『ばあんばあん』(新創社、1959年)

『働く女性の生きかた』(知性社、1959年)

『灰色の午後』(講談社講談社文芸文庫、1960年)

『振りむいたあなた』(講談社角川文庫、1961年)

『一つ屋根の下』(中央公論社、1962年)

『夜と昼と』(角川書店、1962年)

『女の宿』(講談社旺文社文庫、講談社文芸文庫、1963年)

『あねといもうと』(東方社、1963年)

『女茶わん』(三月書房、1963年)

『渓流』(講談社講談社文庫、1964年)

『生きるということ』(文藝春秋新社、1965年)

『女たち』(講談社、1965年)

『女の道づれ』(講談社、1966年)

『塑像』(講談社、1966年)

『風になじんだ歌』(新潮社、1967年)

『あとに生きる者へ わが心の祈りをこめて』(青春出版社、1969年)

『ひとり歩き』(三月書房、1969年)

『哀れ』(新潮社、1969年)

『重き流れに』(講談社講談社文庫(2冊に分冊)、1970年)

『樹影』(講談社講談社文庫、講談社文芸文庫、1972年)

『ひとり旅ふたり旅』(北洋社、1973年)

『ふと聞えた言葉』(講談社、1974年)

『時に佇つ』(河出書房新社河出文庫、講談社文芸文庫、1976年)

『お水取り』(平凡社カラー新書、1977年)共著:清水公照

『佐多稲子全集』全18巻(講談社、1977 - 1979年)

『由縁の子』(新潮社、1978年)

『きのうの虹』(毎日新聞社、1978年)

『ひとり旅ふたり旅』(北洋社、1978年)

『遠く近く』(筑摩書房、1979年)

『時と人と私のこと』(講談社、1979年)

『年々の手応え』(講談社、1981年)

『夏の栞 中野重治をおくる』(新潮社新潮文庫、講談社文芸文庫、1983年)

『年譜の行間』(中央公論社中公文庫、1983年)

『出会った縁』(講談社、1984年)

『月の宴』(講談社講談社文芸文庫、1985年)

『小さい山と椿の花』(講談社、1987年)

『思うどち』(講談社、1989年)

『あとや先き』(中央公論社中公文庫、1993年)

『白と紫 佐多稲子自選短篇集』(学芸書林、1994年)

『キャラメル工場から佐多稲子傑作短篇集』(ちくま文庫、2024年) 佐久間文子

関連図書

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長谷川啓『佐多稲子論』(オリジン出版センター、1992年)ISBN 4-7564-0162-7

北川秋雄『佐多稲子研究』(双文社出版、1993年)ISBN 4-88164-348-7

小林裕子、長谷川啓編『佐多稲子と戦後日本』(七つ森書館、2005年)

杉山直樹『血をわたる』自由国民社、2011年発行、ISBN 978-4-426-10888-5

佐多稲子研究会 編『佐多稲子文学アルバム 凛として立つ』菁柿堂、2013823日。

脚注

注釈

^ (文学アルバム) 6 「『驢馬』同人との出会い」冒頭の「初婚から再婚まで」の章に詳しい。また、「別冊婦人公論」編集部の菱田順子とのインタビューをまとめるかたちでつくられた『年譜の行間』(1983年)の「四 結婚、心中未遂、破局」では夫の小堀が「長男が廃嫡、次男は他家へ養子に、そして三男のその人(夫)が当主にな」ったことで「俺は財産の番人にさせられた」と述べていたこと、心中未遂に至る経緯、その後父親のもとに連れられて戻り長女を出産したこと、小堀が迎えに来たが夫の態度が変わっていなかったため離婚を決意したことなどが語られている。

 

 

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