流木記  窪島誠一郎  2022.5.2.

 

2022.5.2. 流木記 ある美術館主の80

 

著者 窪島誠一郎 1941年東京生まれ。64年「キッド・アイラック・アート・ホール」設立。79年上田市に夭折画家の素描を展示する「信濃デッサン館」(KAITA EPITAPH残照館)開設。97年隣接地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」開設。05年「無言館」の活動により第53回菊池寛賞受賞。16年平和活動への貢献により第1回「澄和」フューチュアスト賞受賞

 

発行日           2022.3.5. 印刷       3.30. 発行

発行所           白水社

 

 

白水社ホームぺージ

戦没画学生の作品展示で知られる「無言館」開館25

満身創痍で傘寿を迎えた館主が振り返る、波乱に満ち溢れた自分探しの半世紀

 

 

Ø  喪失ふたつ

2018年、76歳でペニスを失う。長く「尋常性乾癬(かんせん)」に罹患、アトピーと並んで根治困難。陰茎癌に飛び火し手術に至り、陰茎を切除(断端)

同じ頃に40年弱にわたって収集してきた上田市郊外の私設美術館「信濃デッサン館」のコレクション403点を3年後にリニューアルオープンする長野県立美術館に寄贈、37点を寄贈、残りを190百万円で売却、美術館には著者の足跡紹介・顕彰の特別コーナーを設置

信濃デッサン館は、1979年に自力で建てた約100坪ほどの安普請の美術館、独鈷山の麓、800余年の歴史を持つ真言宗前山寺の参道脇にあり、地元ではまた1つ養豚場が出来たと言われていた。コレクションはマイナーな画家の絵ばかりで、県美が高く評価したのには満足していたが、手放した後の自分を想像できず、どう生きたらいいのかと逡巡

23年前に隣接地に立てた「無言館」は、著者自身が3年半がかりで全国を行脚して集めた第2次大戦中に戦死した画学生の遺作を展示するという変わった美術館。年3,4万の来館者で経営はなんとかいけたが、「信濃デッサン館」が負担に

寄贈の話は、6年前クモ膜下で倒れた時、著者が溺愛する大正時代の夭折画家村山槐多(代表作「尿(いばり)する裸像」にはバブル期5億の値が付いた)の展覧会を松涛美術館で開催した時の学芸員が県美に転職して持ってきたもの。コレクター冥利に尽きる話。次々に襲われた病にコレクションすること自体の気力・体力の限界を感じて決断、19年正式譲渡

 

Ø  出生

開戦直前、下層生活者が利用者の大半だった下谷産院で生まれ、柏木の6畳一間のアパートに、2歳で養子に行くまで生父母と共に暮らす。後年わかったことだが、そこは高校で通った海城学園にも近く、コレクションのために通うことになった落合から椎名町、東長崎辺りの「池袋モンパルナス/芸術家村」とよばれた売れない画家たちが多く住んでいたエリアにも近く、筆者の「コレクター人生」を決定づけた個性派画家たちとの出会いなど、人生の出発点には目に見えない大きな偶然の力が働いていた感じを拭えない

22歳で服地店を辞め、63年明大前の借家を改造してスナック「塔」を開業、郊外では珍しかった店が都内に4つのチェーン店を持つまでにバカ当たり、翌年にはその資金で5階建てのビルに建て替え、地下がブックカフェ「槐多」、それ以外の階は多目的の「キッド・アイラック・ホール」で、都内でも有数のライブ・ハウスかつギャラリーとして、坂本龍一や日野皓正、浅川マキ、演劇では寺山修司、つかこうへいなどが使い、新象作家協会は若手画家グループ展を開催。ホール入口には、世田谷区の許可をもらって、終戦当日の焼け野原の町の写真を特殊加工してプリントした――戦争という亡霊につきまとわれた人生を生きてきた気がする。さらに数年後には渋谷に小さな画廊を開業、夭折画家や異端画家の展覧会を開催、それが上田での美術館に発展していく

 

Ø  幼年

本名は「凌」。小さな出版社で武者小路実篤の担当編集者だった父が、直接実篤の命名だけに、2歳で養子に出す際名前だけはそのままといったが、養父母は自分の子として育てるためにも名前を変えると譲らなかったため、現在の真一郎になった

小学校時代は、見栄を張った嘘をよくつき、文房具の盗癖があった

早くに子を亡くした靴修理の貧乏職人夫婦の1人息子として大切に育てられたが、9歳で東京都主催の小・中学校図画コンクールで知事賞を授賞した時、家で真一郎にかかった費用を細々と記載したノートを見つけて居心地の悪さを感じ、さらに中学になって発症した皮膚病を診た医者が遺伝性の病気で寒冷地育ちの子によく出る症状だと言ったことが引っ掛かって、1人で医者に行ったときに血液型から養子かも知れないと言われる

 

Ø  少年、青年

中学の頃から出自や父母に対する疑心暗鬼が根深いものとなり、心身を侵蝕していく

成績は悪かったが、絵を描くことは得意。その才能を見込んだのか中学の担任が高校だけは行かせてほしいと養父母に懇願してくれたおかげで海城学園に通う

家業の跡取りを期待されたが、家業の先行きが危ぶまれる

真一郎の高校生活は、成績最低のクラスで授業にはほとんど出ず、仲間との演劇と同人誌に没頭。何とか卒業して在学中からアルバイトをしていた婦人服地店に就職、夜もアルバイトで家に稼ぎを入れる

バイト先でたまたま知り合った金貸しから50万借りて借家をスナックに改造したのが人生の転機。1年の営業で軌道に乗り、借金は半年で返済

敗戦の対価とでもいうべき経済成長の最終列車に辛うじて飛び乗ることができた幸運児

 

Ø  死生のほとりで

無言館の20周年式典の最中に倒れ、間質性肺炎が発覚。中度の急逝過敏性肺炎で収まる

高熱と乾癬からくる猛烈な痒みと闘いながら、来し方が頭の中をよぎり、同時に若くして戦没した画学生から戦後70年をどう生きてきたのかという声にどう応えるべきかを考え煩悶する

無言館は、以前から付き合いのあった洋画家の野見山曉治画伯が、出征後病で復員して出席したデッサン館での「槐多忌」で、「このまま戦死した画友たちの絵が霧散してしまうのが口惜しい」と言うのを聞いたことがきっかけで始まった 

無言館は、戦没画学生の遺族からの預かりもので、信濃デッサン館は自ら身銭を切って買い集めたコレクション

 

Ø  一冊の画集

「絵」に惹かれたきっかけは、「塔」に架けるべく買った二科会の織田廣喜の『パリジェンヌ』(3)の客の評判が良かったことと、真一郎が古書店で買った夭折画家・村山槐多の画集を客の高名な画家が見咎めて、真一郎の本物の絵を見抜く才能に感心してくれたこと

村山槐多については、1枚の絵に魅了されたというより、「一冊の画集」に紹介された画家の人生や生涯に魅了され、画家が生きた人生の軌跡を表すものを集めようとした

「評論の神様」といわれた小林秀雄も『ゴッホの手紙』の中で、初めてゴッホが短銃自殺を遂げる直前に描いたという〈カラスのいる麦畑〉を見て思わず床にしゃがみ込むほどの衝撃を受けたといっているが、本モノではなく上野の美術館の複製画だった

村山のほかには、村山と同じ1919年に2歳若い20歳で死んだ関根正二や、戦後まもなく死んだ松本竣介(36)や靉(あい)(石村日郎、38)に関心を持つ。短命な人生しか与えられなかった画家の絵には、いかにも「一枚の絵」の持つ儚さと頼りなさ、同時に画家がその絵に込めた命の重さのようなものが感じ取られて惹かれる

「塔」は、ほんの2,3年の間に4店に発展。最初の店のウェイトレスで採用した3歳上の森井紀子と結婚、彼女が店の繁盛に大いに貢献

5店目の藤沢出店の頃、鶴岡八幡宮境内にあった神奈川県近代美術館を頻繁に訪れ、日本近代美術研究の泰斗といわれた土方定一館長企画の展覧会を立て続けに観たことから絵好きが加速

明大前の多目的ホールがギャラリーに利用されたこともあって、次第に目が肥えてきたのも事実、さらには店の客たちから「絵のわかるマスター」「芸術を理解する主人」として見られる喜びが真一郎の心を満たした。美術以上に人間の芸術表現全てに憧れた

知識や学問は抜きにして、絵が自分に向かって語りかけてくる言葉を素直に聞くことこそが、絵を鑑賞することでありコレクションすることではないのか

1972年、「塔」の支店を閉鎖、銀座8丁目のビルの4階で「キッド・アイラック・コレクション・ギャルリィ」という名の小さな画廊を開業、自らのコレクションの一部を飾る

スナックで身につけた人間接触術のようなものが役立って、開店早々から近所の同業者仲間の支援もあり、業界に入り込んで大きな商売をし始めると、急速に人脈が全国に拡散

1974年、渋谷に移転した画廊で初の個展「松本竣介展」を開催。それをきっかけに古茂田守介、村山槐多、靉光、野田英夫と次々に展覧会を実現させる

同時に、夭折画家や異端画家のコレクターとして夙に知られ、エッセイなどの寄稿も依頼

 

Ø  道化と風船

キッド・アイラック・ホールでは著名な画家や評論家を招いて連続セミナーなども開催、コレクションも質量ともに充実させていく

収集に苦労したのが野田英夫。1908年加州生まれ、3歳で帰日、中卒後帰米、ニューヨークで活躍。日本で客死、享年30。真一郎は作品を求めて何度も渡米、ニューヨーク郊外の野田のアトリエを美術館として開館までさせている

(野田と松本の作品は桐生市の大川美術館にユニークなコレクションがある)

収集熱/画家愛の源泉は、芸術作品に対する評価や理解から来るものではなく、己の冗漫な日々に耐えきれず、その空っぽな青春を埋めてくれる夭折画家たちの、妥協せず生命を燃焼し尽くしたその生命に対して、憧れ求め惹かれ続けているところにある

何年か前に小樽市文学館で開催された「尾島真一郎展」のカタログの冒頭に『道化と風船』と題して自ら書いた文章では、「小学校での渾名が道化で、道化のまま生きてきた気がする。戦後の国民総参加のレースで、精一杯膨らませた風船を追いかけてきた」と語っている

生まれながらに備わっていた虚構への親和性についても語る

自分の絵のコレクションは、自分がどう生きたか、生きたいと願っていたかというアリバイづくりの行為だったとも言い、もう1人の隠された自分の存在を示す痕跡でもある

成功と併せて自分の出自が気になりだし、コレクションの傍ら親探しが始まる

 

Ø  かえりみて

私の落ち着きのない人生を支配していたのは「昭和」という時代で、私はあちこちの岸や岩にぶつかりながらようやく「昭和」という時代の河口に辿り着いた1本の流木のよう

時代の余勢をかっての船出だったが、「塔」やホール、ギャルリィなどいずれも自分の人生を決定する大きな指針となり出発点となったことは間違いない

1977年、生父母との再会を果たした後も、心奥に潜む積年の孤独感が消えなかった

自分と同じような「孤児」的境遇を持った夭折の絵描きたちを夢中になって追いかけていることに気付く――靉光も成人するまで出自を知らなかったし、小熊秀雄も出生届のないまま幼少の頃母と死別、成人してその事実を知ったし、野田英夫も短い人生を「自分の居場所」を見つけるために捧げた孤児的画家

 

Ø  再会狂騒曲

生父母の存在がわかったのは、養父母の過去を辿るところから始まり、名付け親に辿り着き、さらに生父母から真一郎を預かったという同じ柏木のアパートの住人に巡り合って生父が売れっ子の直木賞作家になっていた水上勉だと聞かされる

同じ境遇の靉光の未亡人に生父発覚を伝えると、朝日の編集委員だった娘婿がそれをスクープしたため、一気に全国に知れ渡る。娘婿の上司が、水上と同じアパートで真一郎の世話をしたこともあったという偶然もスクープに寄与

真一郎の毎日の生活に大きな変化はなかったが、半自叙伝の出版を進められて書いたのが『父への手紙』で、NHKの連ドラにまでなり、「物書き」の末席に連なる

何より、空白が嘘のように2人のウマが合って、話をしていると時の経つのを忘れた

女好きと放浪癖も酷似

軽井沢のグルメ通りの離山房の北隣のエルミタージュ・ド・タムラが水上の仕事場

再会後しばらくは、出自を誇らしく思ったが、次第に何かにつけて生父と結びつけて評価されることに腹立ちを覚え、生父の存在を疎ましくも思った

スクープを見て、1か月半後に生母が名乗り出てきた

 

Ø  生母の日記

名乗り出た生母が謝って泣き出すのを見て、生母への信じられないような拒否反応や、生父へののぼせ上がり方とは正反対の、ほとんど非人情といった仕打ちをする

同じ柏木のアパートにいた生父と生母が未入籍のままに産んだ子で、生母は水上と別れて3年後に再婚し幸せに暮らしていたところに、スクープが飛び込んできた

生母の懇請に根負けしてもう一度会ったがそれきり。生母は戦争中の日記と写真に、「デッサン館」開館のお祝いとして30万円を置いて帰っていった

日記には手をつけなかったが、聞きつけた編集者がそれをテーマに1冊書かないかと依頼してきて、逃げ切れなくなり、読んでみると手放した我が子への生母の慟哭が綴られていて、とても読み通すことはできなかったが、真一郎が最も動揺したのは、母の慟哭の言葉からほとんど何も感じない自分がいたこと

 

Ø  その人の自死

生母は、その後友人とデッサン館を訪ねてきたが、真一郎は不在。無言館の建設現場を見て感動して帰っていく

1999年、突然生母死去の報が届く。心臓発作。享年814年後に自殺だったと知る

既に他界していた養父母とも、いつの間にか日常会話を断ち、食卓も別にし、信州へ避難

生母は、出産当時近衛文麿によって国家総動員体制の計画を立案する目的で設立された東亜研究所の正社員として勤務。東亜研究所は、終戦で解散したが、その一部は現在の「東京大空襲・戦災資料センター」として存続する

 

Ø  残されし者は

信濃デッサン館のコレクションは、来年4月リニューアルオープン予定の県美に移譲され、23年春には同館内に新設の「信濃デッサン館」コーナーでお披露目展開催の予定(202313月、約100点展示の予定)

自分が死んでも作品は残る。その作品が生き続ける場所を見つけるのもコレクターの役目だと教えてくれたのは、県美学芸員の瀬尾氏。脳梗塞で辞職

無言館の作品は、コレクションではなく、遺族からの預かりもの。彼等の作品は「持ちたいもの」ではなく「持たなければならないもの」。彼等の絵に、戦後の歳月を物カネ追いかけ競争に費やしてきた私自身の人生が発見され、暴き出されたといった気分に襲われ、その絵を収集することが自分の人生をもう一度見つめ直す、「戦後処理」のチャンスだと思った

私にとっての戦後処理とは、生父母、養父母に抱いていた誤解や偏見を解くこと、その確執を解くことであり、あの戦争下に「新しい命」を生み、育てることがいかに困難で、同時に誇らしくかけがえのない人間の営みであったかということをしみじみ考える。そんな無限の愛情をもって生み育ててもらった自分の命が、生きたくても生きられなかった多くの戦死者の命の上に存在していることを、改めて想起させてくれるのが戦没画学生たちの絵

開戦の年に生まれながら、恥ずかしいくらい戦争について関心を持たない人間だった。空襲で焼け出された養父母の辛酸を間近に見ながら、貧しい職人であることを蔑み、自分の不幸な出自を疎んでも、戦争そのものへの憎しみは希薄。間違った戦争に突き進んでいった自国の歴史や、出征した兵士たちの悲惨な運命や、国民を虫ケラのように扱った当時の軍部への批判などみじんも考えていなかった。無知、蒙昧、愚か、浅はか…・恥ずかしながら、そんなあらゆる罵倒に甘んじなければならない「戦後日本人」の悪典型の1人だった

戦地から生還して戦後の画壇で活躍した絵描きさんの中には、「残されし者」の意識を強く持たれている画家がたくさんいる。野見山さん始め、浜田知明さん、堀文子さんなど、戦禍を潜り抜けて生還したものだけにある何とも言えない罪の意識、亡くなった仲間たちへの鎮魂の思いが込められていることに気付く。同胞を失い、近親者を失った画家たちにとって、「絵を描く」という行為は、「絵を描くことができなかった」同胞への贖罪を意味するものだったのだろう。佐藤忠良は、無言館開館に寄せてくれた葉書で、「開館を肯定否定半々で受け止めている。既に何十年も前から自分だけが作った彼等の美術館がある。その「幻の美術館」を現実のものとしたことに戸惑いを覚え、訪れる勇気はなかなか湧いてこないだろう」と書いて来た

自分自身も、周囲の知己が次々と逝くのを見て「残されし者」との感慨を新たにするとともに、多くの先人が果たせなかった夢や希望のバトンを、さらに次に生きる人々に手渡してゆかねばならない使命がある。無言館もそのために作った

 

Ø  絵の骨

戦没画学生の遺作の収集を開始したのは1994

最初の遺族宅は伊澤洋。1943年ニューギニアで戦死、享年26。出征の何か月か前に描いた家族団欒の絵。貧しい農家の一家が晴れ着を着て食卓を囲む、こうあってほしいという願いを込めた空想画。今では無言館の一番人気

最初は野見山画伯が同行、遺族も絵を描いていた画学生のナマの姿を知っていたが、徐々に直接画学生と会ったことのない人たちばかりになり、画伯も情熱を失いつつあって、真一郎の1人旅となる

作品はタダで預かるのだが、遺族からは大歓迎を受ける一方、お互い戦争を知らない者同士の話で、「戦争を知らない」コンプレックスから解放されたのはありがたかった

戦死した身体は粉々になって、遺族には身の回り品がほんの少し届いただけだが、真一郎が絵の骨を拾うことにより、彼等の仕事は永遠に生きていくことができる。絵描きにとって描き残した絵こそが自分の骨

 

Ø  「残照館」から

県美に移譲した後の残りの作品を展示するために作ったのが「KAITA EPITAPH 残照館」

2020年央のオープンで、KAITA EPITAPHは、槐多の墓碑名

立原道造(24)の記念室も併設――昭和初期、詩人・建築家・画家として活躍、24歳で早逝

「残照館」には真一郎が、「何も誇れるもののない自分を、画家が残した絵の魂のそばに置くことによって、一人前の人間になりたかった」と美術館再開の動機を語っている

無言館と残照館の繋がりは、「描きたいから描く」という人間の本能から生まれた絵ばかりが飾られているところにあり、「自由に描く歓び」、「描かれた絵を自由に鑑賞する歓び」がいかに大切なものかを伝えたくて、一卵性双生児に美術館を作った

鑑賞者が絵をみているとき、絵も鑑賞者をみている。そこではじめて絵=画家と鑑賞者との対話が成り立つ。絵が鑑賞者に発したがっている言葉に耳を澄ますことができる。それが絵との対話であり、絵と鑑賞者の間に生じる特別な関係なのだ

 

Ø  たまゆら(玉響)

尾島真一郎から水上凌への手紙という形で、養子に行って以降の70数年にわたる運命の日々を報告している

水上凌という、おぞましい自分の出生の根元にいる見知らぬ胎児が見つめる眼の光に脅え、震え、ひたすらその闇の中から放たれる眼光から逃避すべく、無我夢中で「絵」を追いかけてきた。幼い頃の闇から逃れるためだけだったら、対象は何でもよかったが、「絵」は無学な私にとってとても垣根の低い親しみやすい世界だった

私にとっての「絵」は、私という人間そのものの代替物、身代わりになってくれたもの

私は、夭折画家たちの人生を「わがもの」にして生きてきたコレクター

手負いのシシが、めくらめっぽう歩き回り走り回り、破壊と建設とが激しく交錯していた「昭和」だったからこそ、私たち野良犬は生きのびてこられたのではないか

 

 

付記

文中の尾島真一郎は筆者の仮名。「私」で書き始めたが、病もあり、仮の名にした方が、より真実に徹して書けると判断したからだが、結果「私小説」とも「半生記録」ともつかぬものになった。ただ、書いている途中、「嘘はつくな」「ありのままを書け」と自らに言い聞かせてきたことは本当

80の老境に入った今、私には失うもの繕うものなど何一つない。1人の男がこんなふうに生き、こんなふうに「人」に救われ「絵」に救われて辿ってきたという人生を、どうか嗤(わら)い、忖度し、少しでも真情にふれるところがあったら甘えさせてほしい

『父水上勉』『母ふたり』とともに3部作の1

 

 

 

 

流木記 窪島誠一郎著

無言館館長、未練の回想記

2022430 2:00 日本経済新聞

長野県上田市で、第2次世界大戦の戦没画学生の遺作を展示する美術館「無言館」の館長の回想記である。おそらく80歳を前にクモ膜下出血で倒れ、珍しい陰茎がんを患い、さらに本館ともいえる異端画家たちの作品を集めた「信濃デッサン館」を閉館したことがこれを書かせたのだろう。

著者の窪島さんは、幼い頃に生き別れた作家・水上勉の実子としても知られている。太平洋戦争開戦の年に生まれ、2歳で靴修理業の夫婦に引き取られたが、幼少時代は極貧生活を送った。それが高度経済成長下に水商売で成功し、30歳で銀座に画廊を開く。戦前に夭逝(ようせい)した画家の作品を狂気のような情熱で集めて「信濃デッサン館」を開設。さらに「無言館」もオープンさせ、「夭逝画家のコレクター」として全国に知られていった。その間に実父との再会も果すという、まさしく昭和という時代を駆け抜けた疾風怒涛(どとう)のような人生なのだが……

自叙伝なのに「私」ではなく、なぜ「尾島真一郎」という仮名を使ったのだろう。

経済的に成功し、高級住宅地に持ち家を建てても「それだけでは満たされない自分がいた」という。「ぬいぐるみ」のような存在、「身も心も空っぽ」の人生。そんな「空っぽな青春を夭逝画家が埋めてくれた」はずだったのに、人生の終盤を迎えて、これまでの生き様がすべて演技だったように思えてくる。自分の居場所はここではない、どこかにあるはずだと逍遥(しょうよう)する姿は、まるで激流に流される「流木」のようだ。溢(あふ)れる虚無感に、「これで自分の人生は良かったのか」「満足して死んでゆけるのか」と自らに問い続ける。

その答えを探すには、尾島真一郎という男に仮託して第三者的にとらえ直すしかなかったのだろう。人生の終盤にきても逡巡(しゅんじゅん)する尾島は、きっと「往生際の悪い」男なのだ。夭逝画家の作品に未練タラタラなように、自分の人生にも未練タラタラなのである。

著名な版画家から「絵の骨をひろってくださった」と感謝されたとき、遺骨を収集するように、戦地で斃(たお)れた彼らの「絵の骨」を収集してきたのだと、ようやく安堵を覚える。昭和を生きた男の遺書のような作品は、同じ昭和を生きた者の共感を誘う。

《評》ノンフィクション作家 奥野 修司

(白水社・2640円)

くぼしま・せいいちろう 41年東京生まれ。戦没画学生慰霊美術館「無言館」の活動で菊池寛賞受賞。著書に『母ふたり』など。

 

 

Wikipedia

窪島 誠一郎(くぼしま せいいちろう、19411120 - )は、日本の著作家美術評論家美術館館主。父親は小説家水上勉

l  略歴[編集]

無言館(長野県上田市)

東京生まれ。海城高等学校卒業後、深夜喫茶のボーイ、ホテル従業員、店員、珠算学校の手伝いなどをしながら金を貯め、21歳のとき、靴の修理業を営んでいた育ての両親の店でスナックを始めた。支店も出し、画廊を経営するかたわら、本店を小ホールと喫茶店に変え[1]1964(昭和39年)に小劇場キッド・アイラック・アート・ホールを設立。1979(昭和54年)に長野県上田市に信濃デッサン館(現・KAITA EPITAPH 残照館)を設立。1997に同地に無言館を設立した。1998年『「無言館」ものがたり』で第46サンケイ児童出版文化賞受賞。

太平洋戦争に出征した画学生や夭折した画家の生涯を追った著作や、父との再会や晩年を語る作品で知られる。小説も書いた。

著作[編集]

l  著書[編集]

『父への手紙』筑摩書房 1981 のち文庫

NHKドラマ人間模様でドラマ化された(全5回「父への手紙」1983410 - 58日)

『信濃デッサン館日記』平凡社 1983 のち講談社文庫

『詩人たちの絵』平凡社 1985 のちライブラリー

野田英夫スケッチブック アメリカでみつけた二十の小品にみる一日系画家の肖像』弥生書房 1985

『信濃デッサン館日記』(2-3)平凡社 1986-95

『母の日記』平凡社 1987

『漂泊・日系画家野田英夫の生涯』新潮社 1990

『わが愛する夭折画家たち』講談社現代新書 1992

田中恭吉ふあんたぢあ 「月映」に生きたある夭折版画家の生涯』弥生書房 1992

『額のない絵 三十一人の画家の肖像』形文社 1993

『美術館のある風景』弥生書房 1994

『ウッドストックの森から』西田書店 1995

『心にのこる名画美術館 4 愛とよろこびと悲しみ』金の星社 1995

『絵画放浪』小沢書店 1996

『無言館 - 戦没画学生「祈りの絵」』講談社 1997

『「無言館」への旅 戦没画学生巡礼記』小沢書店 1997 のち白水社

『無言館ものがたり』講談社 1998

『信濃デッサン館20 - 夭折画家を追って』平凡社 1999

槐多 - わが生命の焔信濃の天にとどけ』信濃毎日新聞社 1999

『無言館を訪ねて - 戦没画学生「祈りの絵」(第2集)』編 講談社 1999

『デッサンについて』形文社 2001

『無言館の詩 - 戦没画学生「祈りの絵」(第3集)』講談社 2001

『無言館ノオト - 戦没画学生へのレクイエム』集英社新書 2001

『信濃絵ごよみ 人ごよみ』信濃毎日新聞社 2002

『北国願望・わが愛する美神たち』北海道新聞社 2002

『石榴と銃 小説集』集英社 2002

『「無言館」の坂道』平凡社 2003

高間筆子幻景 - 大正を駆けぬけた夭折の画家』白水社 2003

『「明大前」物語』筑摩書房 2004

『雁と雁の子 - 父・水上勉との日々』平凡社 2005

『京の祈り絵・祈りびと 「信濃デッサン館」「無言館」日記抄』かもがわ出版 2005

『鬼火の里』集英社 2005

『うつくしむくらし - 窪島誠一郎ひとり語り』文屋 2006

『「無言館」にいらっしゃい』ちくまプリマー新書 2006

『絵をみるヒント』白水社 2006年、増補新版2014

『「信濃デッサン館」「無言館」遠景 - 赤ペンキとコスモス』清流出版 2007

『鼎、槐多への旅 私の信州上田紀行』矢幡正夫写真 信濃毎日新聞社 2007

『かいかい日記 「乾癬」と「無言館」と「私」』平凡社 2008

『傷ついた画布の物語 戦没画学生20の肖像』新日本出版社 2008

『戦没画家靉光の生涯 ドロでだって絵は描ける』新日本出版社 2008

『無言館の坂を下って 信濃デッサン館再開日記』白水社 2008

『私の「母子像」』清流出版 2008

『美術館 晴れたり曇ったり』一草舎出版 2009

『約束 「無言館」への坂をのぼって』かせりょう絵 アリス館 2010

『いのち(生命) わたし、画学生さんのぶんまで生きる』かせりょう絵 アリス館 2011年「約束」シリーズ

『わたしたちの「無言館」』アリス館 2012

『粗餐礼讃 私の「戦後」食卓日記』芸術新聞社 2012

『夭折画家ノオト 20世紀日本の若き芸術家たち』アーツアンドクラフツ、2012

『夜の歌 知られざる戦没作曲家・尾崎宗吉を追って』清流出版、2012

『父・水上勉』白水社、2013

『母ふたり』白水社、2013

『蒐集道楽 わが絵蒐めの道』アーツアンドクラフツ、2014

『「自傳」をあるく』白水社、2015

『明るき光の中へ 日系画家野田英夫の生涯』新日本出版社 2016

『くちづける 窪島誠一郎詩集』アーツアンドクラフツ 2016

『最期の絵 絶筆をめぐる旅』芸術新聞社 2016

『手をこまねいてはいられない クモ膜下出血と「安保法制」』新日本出版社 2016

l  編著・共著[編集]

『野田英夫画集』編 平凡社 1987

『夭折の画家たち デッサン集』編著 岩崎美術社 1989 双書美術の泉

『信州の美術館めぐり』岩淵順子,宮下常雄共著 新潮社・とんぼの本 1998

『信州の空・カリフォルニアの風 窪島誠一郎・野本一平往復書簡』小沢書店 1999

『戦争と芸術 「いのちの画室」から』安斎育郎共著 かもがわ出版 2005

『「無言館」の青春』編著 講談社 2006

『わが心の母のうた』編著 信濃毎日新聞社 2010

『無言館はなぜつくられたのか』野見山暁治共著 かもがわ出版 2010

『「戦争」が生んだ絵、奪った絵』野見山暁治,橋秀文共著 新潮社・とんぼの本 2010

『窪島誠一郎・松本猛ホンネ対談〈ふるさと〉って、なに?!』新日本出版社 2015

l  テレビ出演[編集]

日曜美術館 村山槐多-デカダンスの造型 増田洋,池上忠治,浜美枝,国井雅比古 19841125日 NHK教育 

日曜美術館 ミロ-記号が紡ぐ夢 横山正美,国井雅比古,利根山光人,岡田隆彦 1987726日 NHK教育

l  家族・親族[編集]

幼い頃、父・水上勉とは別離する(経済的事情などにより他家に預けたものが、空襲のため消息不明となった)。1977(昭和52年)に父と再会し、劇的な親子の再会としてマスコミを賑わせた。

なお、実母は窪島を手放したことを生涯悔悟し、1999年に自殺している[2]

三里塚闘争社会党オルグとして関わった加瀬勉は従兄弟[2]

l  脚注[編集]

1.    ^ 「水上勉の明大前を歩く」東京紅團

2.    a b 桑折勇一『ノーサイド 成田闘争』崙書房、20131220日、110頁、90-92175-172

 

 

 

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