ヒロシマを暴いた男  Lesley M. M. Blume  2021.8.29.

 

2021.8.29.  ヒロシマを暴いた男 米国人ジャーナリスト、国家権力への挑戦

FALLOUT The Hiroshima Cover-up and the Reporter Who Revealed It to the World  2020

 

著者 Lesley M. M. Blume ロサンジェルスを中心に活動しているジャーナリスト、ノンフィクション作家、小説家。ジャーナリストの父とピアニストの母の間に生まれ、ウィリアムズ大とケンブリッジ卒後、報道の道に進む。ABCニュースではアメリカ同時多発テロやイラク戦争など重大事件の報道に関わり、『ヴォーグ』の過去数十年で影響力のあった女性100人に選ばれた。『ヴァニティ・フェア』『ニューヨーク・タイムズ』『ウォール・ストリート・ジャーナル』『パリ・レヴュ―』など各紙誌に寄稿。アーネスト・ヘミングウェイの『日はまた昇る』執筆の内情を描いたノンフィクション『Everybody Behaves Badly. The True Story Behind Hemmingway’s Masterpiece The Sun Also Rises』は、『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラーランキング入りを果たした

 

訳者 高山祥子 1960年生まれ。成城大文芸学部ヨーロッパ文化学科卒。翻訳家

 

発行日           2021.7.20. 第1刷発行

発行所           集英社

 

 

 

イントロダクション

ジョン・ハーシーは後に、暴露記事を書くつもりではなかったといったが、1946年の夏、彼は現代の最も有害で重大な政府による隠蔽の1つを暴いた。『ニューヨーカー』誌は1946831日号の全誌面を割いて、ハーシーの『ヒロシマ』を掲載。ここで彼は歴史上唯一の、核兵器による攻撃を生き延びた人類のうちの6人の証言を詳しく描写して、アメリカと世界に向けて、この街に見られた核戦争の恐ろしい現実を包み隠さずに報告

広島氏は当初、市民の死者を42千人以上と見積もったが、1年以内に10万に増え、45年末までの死者は推定では28万とも言われる

今でも市街地を60㎝も掘れば骨があるという

『ニューヨーカー』の記事まで、アメリカ政府は広島の深刻さを隠し、長期にわたる致命的な放射線の影響を隠蔽。最初、政府は新型爆弾について率直な態度をとり、リトルボーイには2万トン以上のTNTに相当する爆薬が詰められた最大規模の爆弾だと公表、報道関係者も広島と長崎の運命について適切な報道をしているようだったが、やがて世界が原子力時代に入ったことの意味を察知して、人類が「神のものを盗もうと」していたと書く

投下翌日の『ニューヨーク・タイムズ』には、「先を見通せない塵と煙の雲が、偵察機から目的の地域を隠している」と書かれているが、その雲はハーシーが翌年5月広島に入り、何週間も後にそこで見聞きした事柄を発表するまで晴れることはなかった

『ニューヨーク・タイムズ』は長崎の原爆投下の行程に記者を同行させ、日本の降伏後に東京に編集局を置き続けた唯一の刊行物だったが、同紙記者(のちの編集長)のアーサー・ゲルブは、「私達の大半は、最初爆弾によって引き起こされた壊滅状態の規模を知らなかった。ハーシーの耐え難いほど詳しい記述で・・・・・漸くアメリカ国民はこの出来事の重大さを実感した」と述べた

アメリカは、倫理的および軍事的勝利を勝ち取ったばかりで、「ヒトラーよりも非道い残虐行為をしたという評判」が立つのを望まず、関連情報を封じ込めようとした。日本の新聞はもとより、外国の記者にとっても広島と長崎は立ち入り禁止地域となる

米国内でも、強力な従来型爆弾だとされ、爆弾が引き起こす放射能障碍が事実だと認められると、今度はその恐怖を軽く扱おうとした

キノコ雲の下からの証言を伝える報告書は事実上存在しなかった

廃墟の風景写真は戦時中散々見てきたが、アメリカの人々が目にしなかったのは、爆撃を生き延びた者たちの死体に取り巻かれた広島と長崎の病院の写真だった

普通1枚の写真は1000語の言葉に相当すると言われるが、原爆の被害写真においては、アメリカの新しい巨大な兵器についての真実を暴き、人々を納得させるには、ハーシーの3万語の記事が必要で、それはアメリカ国民にも大きな衝撃を与えた

本書は、いかにしてハーシーが他のジャーナリストにはできなかった原爆の余波の全貌を掴んだのか、いかにしてハーシーの『ヒロシマ』がジャーナリズムによる最も重要な作品の1つになったのか、その経緯を描いたもの

もちろん、ハーシーの暴露によって原子力時代の諸問題を解決はしなかったが、核兵器による戦争行為の実態を暴き、原爆が人類にどう影響するのかを写実的に描き、第2次大戦後の核戦争回避に大きな役割を果たした

1946年、ハーシーの記事は、核兵器が文明社会の存続に与える脅威について、初めて発せられた有効な警告として国際的に注目を集めた

戦争で公表される死者数という非人間的な数字の裏にある陰惨な現実を読者に実感させるには、敵も同じ人類の仲間として見なすことであり、人間性を共有する感覚を取り戻させる記事でなければならない

真珠湾でアメリカ人のプライドが怒りとヒステリーに変化し、広島と長崎の市民は当然の報いを受けたとされたが、ハーシーは悪事を行う敵にさえもその人間性を認めなければならないと説いた

占領軍司令部SCAPによる厳しい監督下にあっても、多くの生存者へのインタビューを敢行。ハーシーの記事では、その中の6人がそれぞれの視点から爆撃の日を物語る

ハーシーは、広島に関する情報を抑制するというアメリカ政府の試みを滑稽だと感じ、さらには核を独占しようとすることもばかばかしく思えた

SCAPの厳しいメディア統制に、次第に外国メディアも広島の運命について報道する興味を失い、核問題に関する報道記事は国家安全保障の観点からアメリカ陸軍省に提出するよう求められた

そんな中で発表された『ヒロシマ』は世紀のスクープのようだった。原子爆弾の余波という現実は恒久的な問題となり、国際的な記録として政治的影響力を持つようになった

人類の存続への脅威は増大し続けているが、抑止しようとする障壁は弱まってきている

ハーシーは、自分が描いたヒロシマの運命の記録が、核の残酷な影響力を抑止する目的を果たし続けるよう願った。広島の教訓が無視されたり忘れられたりしたら、人類の存続はまずありえないと警告

 

第1章        この写真はすべてを物語ってはいない

1945.5.8. ヨーロッパ戦勝記念日には25万人がタイムズスクエアに流れ込んだ

ハーシーは、『タイム』の従軍記者としてヨーロッパや太平洋にも参加、ソロモン諸島に派遣された際には負傷者の救助に貢献したとして海軍長官の賞状ももらっていた。マッカーサーとその軍隊の歴史を書いた『Men on Bataan』や自らガダルカナルで経験した乱戦を書いた『Into the Valley』のあと44年に描いた小説はピュリッツァー賞を獲得、彼の文学的気運は上がっていたし、批評家たちも彼をヘミングウェイに譬えた。賞をとった小説は映画化され、ホワイトハウスにも招待される華麗な経歴にも拘らず、ハーシーは比較的目立たず、好感の持てる謙虚さを忘れなかった。中国で宣教師の家に生まれ、コネチカットの上流の寄宿学校(ホッチキス・スクール)からイエールではスカル・アンド・ボーンズの会員にも選出、『タイム』では39年以来ソ連に駐在し、44年にはモスクワの編集局を開設するが、共産主義を嫌って彼の記事を取り上げようともしなかった『タイム』の共同創立者で編集者だったヘンリー・ルースと対立、後継者と目されながら457月辞職

8月、トルーマンが原爆投下を発表。ハーシーは事前に20億ドルの核開発事業を聞いていたので当惑こそしなかったが、絶望感に圧倒された。罪悪感というより、世界全体の未来に対する恐怖にかられ、人類が恐ろしい新時代に足を踏み入れたことを理解しながらも、戦争終結を期待した安堵感もあったが、長崎のニュースには愕然とする。明らかな過剰攻撃で、何万もの不必要な死を招く犯罪的な行為だった

世界中の出版物がキノコ雲の写真を載せ始め、地上の様子を見聞きするのを待っていた

日本のメディアに取材が集中したが、メディアは攻撃を控え目に伝えるよう指示されていたので、朝日でも焼夷弾が落ちた程度と報道される中、東京のラジオ局の1つが「大量殺戮を企図した新型兵器の使用で、アメリカはその嗜虐的な性質を世界に見せつけた」と報道

終戦の玉音放送では天皇が、「新たな残虐なる爆弾のせいで降伏する」と告知し、さらに闘い続ければ「人類の文明をも破却」させる可能性があったと続けた

ニューヨークでの対日戦勝記念日VJデーでは200万人がタイムズスクエアに集まり大騒ぎしたが、戦争終結の手段についてハーシーと同じ不安や苦悩を感じる者はいなかった

8月末『ニューヨーク・タイムズ』が、初めて広島に入った西側ジャーナリストの記事を掲載。UP通信社の日系人ジャーナリストが母親を上がすために広島入りした目撃証言を転載したもので、自らの放射線障碍についても書かれていたが、その部分は削除。同時に「日本の報告書に疑惑」と題して、マンハッタン計画の責任者グルーヴス中将が「原爆による放射能の影響による死との報告は、純然たる宣伝活動だ」と明言、「戦争を終えた方法が気に入らないなら、誰が戦争を始めたのかを思い出せ」とまで言った

9月初旬、連合国公認の従軍記者たちが日本に入国、国内での移動を禁じられていたにも拘らず、広島に潜入し壊滅的な被害の様子が写真とともに報道された

『ニューヨーク・タイムズ』も最初は「最悪の損傷を受けた街」との見出しで、爆弾の不可解で恐ろしい長く続く影響力を示唆したが、1週間後には態度を豹変、「敵は同情を買おうとしている」との見出しになった。舞台裏で何があったのか

7月にペンタゴンがメディアを招集、新型爆弾を仄めかすとともに、米空軍機で世界の被災地を巡る贅沢な政府視察旅行に招待、ヨーロッパからアジアに向かう途上で広島の爆撃を知り、長崎の上空を見せられ、その第一印象をそれぞれの報道媒体に送るよう指示された。一行は数日後広島と長崎に入り目撃したものに震え上がるが、厳しい検閲が行われ、結果的に米政府による大々的な隠蔽行動に加担することとなる

視察団の被爆地入りを知ったマッカーサーは、参加者全員を軍法会議にかけると脅したと言われ、すぐに被爆地を立ち入り禁止とし、報道陣を横浜のゲットーに閉じ込めた

 

第2章        特ダネで世界を出し抜く

『ニューヨーカー』は、元々ユーモア雑誌として創刊、都会の教養人だけに向けたものだと公言。創設者で編集者のハロルド・ロスは、『タイム』社長とはお互い嫌いあっていた

ハーシーはまだ『タイム』に在籍中『ニューヨーク・タイムズ』に初めて寄稿、妻の元恋人だった海軍中尉のJFKがソロモン諸島で自ら艇長だった高速哨戒魚雷艇が日本の駆逐艦に撃沈され乗組員救出の陣頭指揮を執った体験談を、最初『タイム』傘下の『ライフ』に持ち込んだが断られ『ニューヨーカー』に拾われる。『ニューヨーカー』のロスとその右腕は辛辣で鋭敏、完璧な編集チームで、容赦なく完璧を求め、熱狂的なまでに正確さを追求

1945年ロスは、ケルンが崩壊し廃墟となった中でドイツ人によって捕虜に加えられた残虐行為の報告をスクープしながらも、多くの戦争における大事件が語られずに済まされていることに苛立っていた

ハーシーによるケネディの記事『生存Survival』が446月掲載されると、JFKの父親はもっと発行部数の多い雑誌『リーダーズ・ダイジェスト』に再掲載することを求め、46年息子がマサチューセッツ州下院議員に立候補すると大量に選挙区に配布され戦争の英雄としての信頼性を高め、35代大統領の政治的キャリアの始まりに大いに貢献

『ニューヨーカー』の編集者とハーシーは、原爆についての報道の大半が爆弾の威力と大きな損害にばかり焦点を当てており、人間への影響について報道されているものはなく、著名な『ライフ』の写真家アイゼンシュテットとアイアマンの今では発表されている犠牲者の傷ましい衝撃的な写真が国内版に掲載されることはなく、さらには、制限された取材さえ次第に少なくなっていくことに、アメリカ政府が防御態勢に入ったことを敏感に感じ取っていた

陸軍省から大統領の代理として、各メディアに対し、原爆に関する情報掲載を制限するよう要請が来て、その秋に終了する予定の戦時の検閲の拡大ではないが国家安全保障の観点から、核に関する記事は全て事前の陸軍省の審査が必要だとされた

アメリカ政府とマンハッタン計画の幹部たちは、実験的兵器の影響を前もって知っていたわけではなく、広島と長崎の実験で密かに調査をしようと期待したのは、被害者の治療を助けるためではなく、これらの街に占領軍が入る予定だったから

グローヴスはすぐに副官を広島に派遣し、調査させた結果を公表、予定通り空中で爆発し、町には最小限の放射能しかなく、潜りの記者が目撃した惨状は単なる爆弾と火災の犠牲者で大きな爆撃の後では普通のこととされ、生存者たちに起きている奇妙な病気について質されても、日本の宣伝活動に騙されているとして片付けられた。記者会見に参加した記者による『ニューヨーク・タイムズ』の記事の見出しも「広島の廃墟に放射能はない」だった

米政府の狙い通りに、国中の抗議や警告の声は手に負える範囲の囁き声程度に小さく抑えられ、原爆は国際的な兵器庫にあって当然のものとする考えが広まり、世間はますます無関心になっていく中、ハーシーと『ニューヨーカー』は人間に何が起きたのかを書くべきだと考えた。国家の民主主義とその品位の名において使用された爆弾の真実を知り暴くべきであり、負傷者たちに個人的な名前を付けその運命を明らかにすべき時が来たと考えた

大戦中ハーシーは、敵国人に対する非人間的な見方が戦争の最悪の行為を可能にする様子を目撃しており、敵という観念は嫌っても、その個人を嫌ってはいなかった。戦争によってハーシーは、人間の腐敗と、仲間である人類を貶めることが自分にもできるという事実を思い知らされ、文明に何か意味があるとしたら、悪の道に引き込まれた凶悪な敵にさえも、その人間性を認めなけらばならないと気づく

報道規制にはマッカーサ-の個人的な嫉妬も含まれていた。4年に亘って指揮してきた戦争なのに、自分の知らないところで開発され、無断で落とされた2発の爆弾によって勝ったという事実に対する嫉妬であり、民間人に対する放射線の影響という貴重な教訓を歴史から消すか少なくとも可能な限り曖昧になるように検閲を強化すると決意していた

厳重な監視体制の中でも、何人かの記者は例外的に被災地訪問を許可されており、ハーシーも戦時中の従順な愛国的記者との印象を与え、戦争の英雄としても称賛され、45年末には上海にわたって米海軍艦隊に潜り込むことに成功

 

第3章        マッカーサーの閉鎖的な王国

ハーシーも戦時中は日本に対して独自の偏見を抱き、自ら見た戦闘を取材した際の記事では「動物のような敵」とか「肉体的に発育不全」とか描いて、後にそれを恥じている

46年中国に戻ったハーシーは、上海を拠点に戦争直後の中国や、米中間に起きつつあった闘いについて『ニューヨーカー』に一連の記事を送る

3月には、米政府はマーシャル諸島ビキニ環礁での新たな原爆の実験計画を世界中のメディアに開放、多くの記者は実験の結果が予想していたほど残酷なものではなく、広島・長崎の原爆被害報道は誇張されていたのだと判断したが、事実上グローヴスの広報官として働いていた『ニューヨーク・タイムズ』の老練記者だけは実験の本当の意味を見抜いて、この兵器がさらに危険になっていることに気づき、許される範囲内で広島の2.5倍の威力のある爆弾を、地上で感じられた最大の爆発と報告、環礁に囲まれた礁湖には放射性の水が大量に渦巻き、爆風により放射能の飛沫が周囲の船にかかったと書いた

『ニューヨーカー』も招待者に名を連ねていたが、ハーシーには広島行きを命じる

共産党員と戦うために中国北部に向かう国民党軍を乗せた合衆国揚陸艦に同乗したハーシーは、船内でインフルエンザに罹患した際、船の図書館から持ち出して読んだワイルダーの『サン・ルイス・レイ橋』で遭難した5人のペルー人の人生を詳しく描いた手法こそ、広島を主題とするのに有効な方法だと気づき、広島では厄災の瞬間を共有するに至る少人数の犠牲者の足跡を辿ってみようと考えた。規模の大きさではなく、細かい点を強調することによって、要点を伝えられるのだと気づく

5月、SCAPから通信員としての入国許可を得たハーシーは、グアム経由米軍機で来日

米軍による爆撃の効果を記録するための映画班が、日本の20以上の街の記録を残したが、広島・長崎で受けた衝撃を何とか広めようとして、ハーシーにも広島で活動している司祭たちのグループなど、連絡先情報を提供

SCAPの厳しい管理が功を奏して広島・長崎のニュースは過去のものになりつつあり、SCAPの関心も冷戦を巡る論戦へとシフトしていたこともあって、ハーシーの広島行きは簡単に許可され、招待された。期間は14日間

 

第4章        6人の生存者

鉄道で広島に入り、最初に見た惨状に衝撃を受ける。1つの兵器によってこれほどの損害が与えられたことを把握できず、この任務の間中彼を苦しめた

爆心地から4.8㎞離れた宇品のアメリカ軍警察の寮を宿にして、まずはイエズス会士を訪ねることから取材を始める

ドイツ人のラッサール神父長は、1929年来日。ゼロ地点から1.2㎞離れた教会区会館の2階で罹災。会館だけが残り、その中では誰も死ななかったが、周囲の建物はすべて倒壊、被災者の救済に動いた。彼に連れられてきて紹介されたのがハーシーの最初の証言者となった罹災時一緒にいたドイツ人司祭のクラインゾルゲ神父で、39歳。骨髄に損傷を受け非道い後遺症に悩んでいた。会館の3階で罹災、迫る炎から逃げるため、川沿いの浅野泉邸に避難したが、凄惨な修羅場だった

クラインゾルゲ神父から紹介されたのが2人目の証言者となった広島県出身のメソジスト派の牧師・谷本清で、浅野泉邸から傷ついたカトリックの司祭たちの避難を手伝い、救いの天使と呼ばれた。36歳で、アメリカに留学経験があり、自分の教会の再建を決意していた。辛い後遺症に悩まされていたが、ハーシーに見たままの事実を伝えることを決意

被爆当日、あらかじめ襲撃に備えて教会の秘蔵品などを町の中心から3㎞程離れた場所に疎開させていたが、その日も家具を運んでいる最中に被爆。中心部の家に戻る途中で偶然夫人と乳飲み子に出会う。2人は被爆で気を失い瓦礫の下敷きになったが辛うじて抜け出してきたところだった

50人くらいの生存者とインタビューし、それぞれの動線が被爆の日に重なり合うような人々を探し、最終的にクラインゾルゲ神父と谷本牧師に加えて、2人の日本人医師、若い日本人の女性事務職員、3人の幼子を抱える日本人の寡婦の計6人を選ぶ

中村初代はイエズス会や谷本の隣人。夫は仕立て屋で徴兵され42年シンガポールで死去。被災当時3人の子供は10歳、8歳、5歳。子供たちは寝ていて命拾い

広島にいた300人の医師の270人、看護師1780人の1654人が死亡か重傷。残った医師も負傷をおして罹災者を治療、何が起こったかもわからず、医療品もすぐに絶えた

広島赤十字病院で唯一無傷で生き延びた佐々木輝文医師にもインタビュー。当時20代半ば、外科チームの一員で、爆発直後の爆弾による身体的損傷を目撃。彼の医療的観察はハーシーにとって重要なものとなる。院内で歩行中に閃光を見て、残っていた医療品で職員や患者の手当てを始める

同じく隣人の藤井正和医師は、医師が1人しかいない個人病院の院長。爆撃のわずか数日前司祭たちに救急箱を提供していた。爆撃後は郊外に新しい個人診療所を開設。川に面した病院のポーチから爆風によって川に放り出され、火災が収まるのを待って郊外の友人宅に避難、そこで回復

佐々木とし子は、郊外に両親と弟と一緒に住んで市内の東洋製缶に勤める20歳、爆撃で家族を亡くし、今も病院で治療中、クラインゾルゲ神父から慰めを得ていた。中国に徴兵されていた婚約者が生きて復員したが、婚約を破棄したがっているという。多くの生存者が厄災の後で欠陥があると見做され除け者扱いされていた。彼女は出勤直後に閃光を見て瓦礫に埋もれ足を骨折、救助されたが丸2日間放置、陸軍の救護所に運ばれたが適切な処置は受けられず、漸く佐々木輝文医師に救われるが、足は不具のまま残る。神の奇妙な采配に疑問を持ちながらクラインゾルゲ神父の説得に納得したのか1年後に改宗

ハーシーは2週間のインタビューを終えて、記事を書くためにアメリカに戻る

 

第5章        広島でのいくつかの出来事

とりあえず記事のタイトルを「広島でのいくつかの出来事」として書き始める

広島における彼の目的は、読者を登場人物の心の中に入らせ、その人物になりきらせ、ともに苦しませることで、読者がすぐに雑誌を手放さないようにさせるための仕掛けとして、6人の爆撃の日の物語を絡み合わせた記事を通して読者の興味を引き付けようと計画

意図して静かな口調を保ち、恐怖の抑圧が怒りを声高に叫ぶより遥かに心をかき乱す効果があると判断。事実を客観的に述べ、余計なものを剥ぎ落とす

原稿の第1部では、9人の生存者それぞれについて、爆弾投下に至るまでの朝の日常的な行動、そして爆弾が爆発した直後の出来事を詳しく描写。目も眩むような閃光が各人の記憶にあったところからタイトルを無音の閃光とし、瓦礫に埋まるところまでを描く

2部のタイトルはで、読者は爆弾によって作り出された恐怖に巻き込まれる

3部のタイトルは詳細は調査中で、何人かの動線が交錯した浅野泉邸のことを詳述

最終の第4部では、仮題を本当の影響とし、広島の爆弾の広範な余波について報告。密かに入手した爆撃後の日本の科学的研究によってSCAPと米政府によって隠蔽されていたことを明らかにしようとし、さらに、生存者たちを苦しめる原爆症を段階を追って詳しく暴き、この兵器が爆発の後も無期限に人間を殺し続けることを示そうとした

日本の調査を利用して、生存者の生殖機能が放射線の影響を受けたと報告して締め括る

皮肉なことに、ハーシーが帰国して間もなく、戦争全体での爆撃行動により日本に与えた損害を詳細に述べたアメリカ戦略爆撃調査団の報告書を発表。原爆の完全な報告とともに、原爆の影響に基づいて自らの国の防御体制構築への提言をまとめたもの

ハーシーはそれを読んで、まだ隠蔽している事実があると怒りを込めて記事に描き込む

『ニューヨーカー』は、3万語のハーシーの記事を分割掲載しようとしていたが、インパクトを考え一括掲載に切り替え、戦時中の同誌の方針転換であるユーモア雑誌から真剣に闘うジャーナリズムの発言の場に変えるという路線を引き継ぐ

発刊予定の原爆1周忌を過ぎても校正は続き、タイトルも『ヒロシマ』に変える

459月末、戦時の検閲局が廃止さたが、直後には国家安全保障のための核関連記事は陸軍省の審査が必要という政府の内密の命令が出され、さらに翌年8月には原子力法に大統領が署名、広範にわたる部外秘のデータの使用が禁じられ、場合によっては死刑とされた

ニューヨーカーは、数多くの関連記事に紛れ込ませるようにして『ヒロシマ』をグローヴスに直接提出、グローヴスのかつての敵の苦しみに関する無関心さを考え、さらには彼が先頭に立って創り出した兵器の有効性の宣伝と捉えられることを期待し、一縷の望みを賭けた。政府調査団の報告書からも、広島の犠牲者の研究を有用と見做すことが窺われ、グローヴスも核兵器に関するアメリカの優位を保持することについての国民の賛同を得るために『ヒロシマ』の内容が役立つと考えるかもしれないと期待。グローヴスは隠蔽に関連する記述の削除を求めただけで、大方の部分を承認。特に、アメリカが他国の一般大衆に対して人類史上先例のない規模の破壊行為を行って苦しめ、その新しい兵器に対する人類の代価を隠そうとした事実については完全に見逃していた

ハーシーとニューヨーカーが元々目指したものの本質である、犠牲者の目から見た爆弾についての反体制的で悲惨な記述は保持された

表紙を飾ったのは、原子力時代の危険を無視し、安易な慰めに逃避してぼんやりしている無関心なアメリカの姿を描いたもので、読者に不安な含意を感じさせる

ハーシーは、ニューヨーカーが他の出版物に再掲載することに同意、同時に再掲載による収入をアメリカ赤十字に寄付

 

第6章        爆発

1946.8.29.『ヒロシマ』だけを掲載した『ニューヨーカー』831日号発売

前日、記事の写しを9つの主要なニューヨークの新聞と3つの国際的通信社に送ると、すぐに各紙が競って偉業を称える記事を掲載

『ニューヨーク・タイムズ』も社説で、爆弾を落とすという決断そのものについて異議を唱え、広島・長崎の大参事は我々の仕業だといい、日本での爆弾投下を人道的で救命のためのものだと印象付けようとする作戦活動に対する公然とした非難であり、それまで戦時中を通じて頼りになる味方だった同紙は米政府と軍にとって悪夢となった

115セントがたちまち6ドルに跳ね上がった

勝利の瞬間にアメリカの価値を下げようとする、反愛国的共産主義の宣伝活動だと決めつける手紙も送られてきた

友好的なものと敵意あるものの双方の出版業者からインタビュー要請が殺到。戦争中政府から必須ではないとされ余り多い紙の割り当てを貰えなかった小さな独特のユーモア感覚のある出版物が、どうして戦争に関する圧倒的な記事を入手できたのか、その経緯に惹かれ面白がった

日が経つにつれ、『ヒロシマ』が起こした衝撃は増大し続ける。新聞・雑誌に加えてラジオ報道も拡散。4夜連続の朗読後、局の電話交換台はパンク状態に。番組は年間最高のスクープを放送したとしてピーボディ賞を受賞。多くの解説者が、広島を教訓として扱い、どこにいても誰も核兵器による戦争行為の恐怖から逃げられないと警告

原爆投下直後の広島と長崎に視察団を案内した軍広報官のマクナリー中佐は、今は退役して夫婦で朝のラジオ番組の共同司会をしていたが、密かに現地で見たものに苦しんでいて、ずっと彼を悩ませていたが、番組では政府の隠蔽に関して言及を避けていたものの、後に参加した記者たちが見たままを書くのを妨害したことを認めた

ハリウッドでも、戦争中は日本人を黄色い危険物として描いたが、『ヒロシマ』の成功に乗じようとハーシーに群がった。1946年の傑出した著名人10人に選ばれる

議会図書館が第1稿を入手しようと発表したのを受け、ハーシーは母校図書館に寄贈

書籍としてもいくつかの国で発刊、ハーシーの記事は世界現象になりつつあった

 

第7章        余波

広島と長崎のニュースを粉飾し抑制しようとする政府や軍の努力が全て徒労に終わる

グローヴスは、陸軍指導幕僚学校での講演で『ヒロシマ』を取り上げ、今後起こり得る核戦争への準備の必要性と、核攻撃を受けた場合の地上部隊の対応を学ぶために全員がこれを読むべきと説き、マッカーサーもSCAPの監視の目を盗んだ暴露記事だったにもかかわらず教育目的での利用を考えた

『ヒロシマ』に刺激された怒りに満ちた社説が次々に出た。重要な事実が1年以上にわたって隠蔽されていたことに対する怒りと同時に、前年夏にアメリカがパンドラの箱を開けてしまったという事実を指摘し、それに対処する必要があると説く

太平洋の第三艦隊司令官だった海軍元帥ウィリアム・ハルゼー・ジュニアも会見で爆弾を落としたのは無用の実験で軍の過ちだったと述べ。マンハッタン計画の技術者たちも自らの葛藤を表明

ハーシーの記事が世論を、原爆とその開発者に敵対する方向へ変えた。政府が国民からどれほどのことを隠していたかを暴き、この国の倫理的立場を蝕んだだけでなく、これは将来の核兵器構築に関する人々の支持を揺るがしかねなかった

ハーバード大学長のコナントは、マンハッタン計画の顧問でもあり、第1次大戦でも毒ガス製造の最前線に手を貸し、ルーズベルトからマンハッタン計画の指導を助ける主要科学者に選ばれたが、計画参加者がハーシーの記事に胸が羞恥心で一杯になったなどとする一連の懺悔を聞いてうんざりしていた

トルーマンも何等かの公式声明の必要性を認め、43年以来軍の原子力利用について大統領の上級顧問を務めていたスティムソン前陸軍長官に事実を纏めるよう依頼。スティムソンは降伏調印式直後に隠退、回顧録を書いているところで、新しい仕事を引き受けつつも、個人的には深い疑念を抱いていた。原爆投下決定直前には、事の重大性を考え、夜眠れなかったという。それより前の東京爆撃のことで悩み、ヒトラーに勝る残虐行為をしているという評判が立ってほしくなかったと認めた

スティムソンの声明文は事実を詳述することだけに拘る内容となり、『原子爆弾を使うという決意』と題して『ハーバーズ・マガジン』に掲載され、政府独自の表面的な事実の容認と告白とともに、新たに改善された理屈を提示するものだった。原爆は破壊的だったと認めつつ、対日戦終結に必要で、最も悪くない選択だったとされ、核兵器という選択が再び人道的なものとされた

スティムソンの記事は、原爆使用の裏にあった討議を初めて公式に発表したもので、大統領も記録を正したと評価したが、『ヒロシマ』の影響はその後も広がり続ける

戦時中は政府と軍の協力者として振舞ったメディアも、1年後には批判的となり、スティムソンの反撃が『ヒロシマ』による手厳しい暴露に対処できなかったことを明らかにした

『ヒロシマ』発刊の2か月後、ソ連の外相モロトフが国連でアメリを「帝国主義的な拡張主義政策」だと叱責、原爆の独占的所有の身勝手さを非難し、独占状態は長く続かないと警告

戦争中日本に大使館を保持していたソ連は、終戦直後にヒロシマを視察、報告書がスターリンに届けられた

ニューヨーカーは、『ヒロシマ』をロシア語に翻訳してソ連国内で配布する可能性をソ連の国連大使グロムイコに打診するが無視される。その直後に『プラウダ』の記者が訪日、帰国後発刊した本には『ヒロシマ』で報告されたような状況は非道い誇張で、放射線障碍もないと記載。『プラウダ』は直接的にハーシーを攻撃する記事も発表。別のソ連の出版物では、ハーシーはナチスの示威行為を想起させる侵略的な宣伝行為に加担するアメリカのスパイとされ、冷戦の手ごまとなった

冷戦が最高潮に達した1950年、FBIはハーシーを監視・調査。1941年彼の兄弟が共産主義の隠れ蓑とされた組織に関わっていたとの理由で、モスクワ駐在時にソ連に対して好意的な態度をとり、帰国後イエール大での講演では米ソの強力で持続的な友好関係を求めた点が興味を惹き、広島訪問についても聞かれたが、それだけで終わり告発はなかった

日本でも『ヒロシマ』の配布や翻訳は禁じられていた

ハーシーの6人の主人公は、誰かの手によって密かに『ヒロシマ』を見るまではその存在すら知らされず、インタビュー通り正確に書かれていることに驚嘆したという

主人公たちは「ハーシー・グループ」の名の下に定期的に集まるようになっていた

マッカーサーから日本での刊行許可が出るまで2年以上の歳月と、全米作家協会の介入が必要で、とうとう翻訳を許可するにあたり、元帥は、「ハーシーの本は少しも事実に基づいていない。悪意ある間違った宣伝活動から発生したものだ」と述べた

19498月に発表されるや否や、谷本牧師共訳の日本語版はすぐにベストセラーとなる

SCAPが懸念した「報復の念を喚起する」とか「公衆の平穏を乱す」ことはなく、「勝者と被征服者の立場を超越した人道主義の表われ」で、「平和を痛切に願いながら真剣に読むべきだ」とした

1947年春、ニューヨーカーはハーシーを広島に派遣して続編を書かせようとしたが、ハーシーは報道から創作へと興味を移し始めていたため断る

『ヒロシマ』を世に出したハーシーと2人の編集者ロスとショーンは、その後トルーマン大統領の人物紹介記事で共同作業をする。『ヒロシマ』が政府に損害を与えた後で、彼等が大統領に近づけたのは奇跡

1980年代、ハーシーは、「日本への原爆投下は世界への重要な警告で、新たな核戦争を避けるのに貢献したと思う」と語り、「1945年以来世界をあの爆弾から守ってきたのは、特定の兵器に対する恐怖心という抑止力ではなく、むしろ記憶だったと思う」と言った

あの地で起きたことを人々が鮮明に覚えている限り、人口密集地にもっと大きい爆弾が落とされたらどうなるかを想像し、将来の原爆の使用に反対できる

人間は自らを破滅させる途方もない道具を作ったにもかかわらず、私は、人間は望んでいる以上にこの汚い世界を愛していて、恐れたり弄んだりしながら、最後にはここに留まると信じている

 

エピローグ

1985年、ハーシーは『ヒロシマ その後』を発表

最初の『ヒロシマ』の後、ハーシーは世間の注目を避け続け、イエール大ピアソン・カレッジの学長を5年務める傍ら、2ダースを超える小説やノンフィクション作品を書く

谷本牧師は、国際的に知られる反核運動家となり、教会を再建、被爆者の支援に奔走、55年にはロスでNBCのインタビューで被爆体験を語らせられ、86年肝不全の合併症で死去

クラインゾルゲ神父は、被爆して帰化を決心、高倉神父となり、体調不良に悩まされながら1977年死去

藤井医師は医院の看板にハーシーの主人公であることを明記、ハーシーの名刺を自慢げに見せ、『ヒロシマ』に書かれたことを誇りに思っていたが、73年死去。占領中に原爆の余波研究のために日本で最初に設立されたアメリカ人が運営する原爆障碍調査委員会によって解剖され、肝臓にピンポン玉大の癌を発見

佐々木医師は、暫く赤十字に留まった後、生存者のケロイドの傷跡を除去することに専念したが、その後個人病院を開設。『ヒロシマ』のヒーローとして脚光を浴びて苦労、アメリカから山のように手紙が来たが、あの時のことを考えたくないと語り、ほとんど何も話さなかった。原爆投下の直後、身元不明の遺体を集団火葬に持ち出したが、結果として名のない魂が今でも放置され迷っているのではないかと後悔の念が消えない

佐々木とし子は47年に広島の孤児院で働き始めた。14か月間に足の大きな手術を3回受け普通に歩けるようになり、54年には洗礼。原爆の後遺症に悩まされ続け佐々木同様過去のことを話したがらなかった

中村初代は何年も病気に苦しむが貧しくて医師の診察を受けられないまま臨時仕事をして生き延び、やがて防虫剤の会社に長期雇用。3人の子供は学校卒業後結婚もしたが、少なくとも1人はPTSDに苦しんでいた

『ニューヨーカー』の編集長だったロスは51年死去、後を継いだショーンは、85年に雑誌が買収されて編集長の地位を追われ、92年心臓発作で死去

ハーシーも93年癌で死去

『ヒロシマ』が発表された直後の世論調査では、多数派はハーシーの記事はいい意味で人々に貢献したとみていた。『ヒロシマ』は本当に、人類全体の未来を案じて書かれたのであり、1つの国や民族や政党の利益のためではない

この記事はまた、国民が選出した政府の指導者たちが秘密に活動していることが多く、常に国民にとっての利益が最優先されるわけではないという事実を、読者に思い出させた

ハーシーと『ニューヨーカー』の編集者たちは、『ヒロシマ』を、ジャーナリストは権力者たちに説明責任を要求しなければならないという信念に基づいて作った。彼等は出版の自由を、民主主義の存続のために重要だと考えていた

1937年『タイム』誌の記者になる前、ハーシーは作家シンクレア・ルイスのアシスタントとして働いた。ルイスは、『It Can’t Happen Here(1935年刊)で、ヨーロッパで起きている悪意ある民族主義や専制的指導者の台頭はアメリカでも起こり得るとアメリカ人たちに警告を発した作家

21世紀最大の悲劇は、我々が20世紀最大の悲劇からほとんど学ばなかったことになるかもしれない。破滅の教訓は、それぞれの世代が直接体験する必要があるようだ

ハーシーやその同僚たちは事実を巡る闘いとアメリカにおける報道の自由への攻撃を、我々の時代の最も警戒すべき危険な挑戦だと見たのかもしれない。アメリカ人たちはこの国の言論界を誇りに思い、しっかりと守っていかなければならない。歴史の悲劇から学ぶ機会は、まだ消え去ってはいない

 

 

訳者あとがき

広島原爆投下75年を記念して、20208月に刊行

核戦争の脅威を再認識させ、ジャーナリズムの独立性の意義を訴える内容は好評を博し、『ニューヨーク・タイムズ』の年間ベスト102020年のお薦めの100冊に、また『ヴァニティ・フェア』『パブリッシャーズ・ウィークリー』の2020年のベスト作品にも選出

 

 

 

(書評)『ヒロシマを暴いた男』 レスリー・M・M・ブルーム〈著〉

202187日 朝日

 恐怖の実相伝えた報道の舞台裏

 ジョン・ハーシー著『ヒロシマ』(法政大学出版局)は、原爆投下後の広島を描いたルポとして読み継がれてきた。19468月、米誌「ニューヨーカー」に丸ごと一冊を使って掲載されると大反響を呼び、刊行後は各国でベストセラーになった。本書はこの作品を巡るジャーナリストと国との闘いを描いたノンフィクションだ。当時の証言や史料を丹念に追い、75年前の出来事とは思えない臨場感で読者を引っ張っていく。

 ハーシーより前に被爆地に入った海外の記者は何人もいた。だが彼は、米政府は放射線などの人的被害の報道を矮小化させているのではと疑念を持つ。そして他の記者より1年近く遅れて広島に入りながら、住民や医師の証言を集め、放射能被害の実態を暴くのだ。

 米国では原爆投下を肯定する世論が圧倒的な中で、日本の被害を描くのは相当の覚悟だった。実際、彼は米ソ両方から批判された。

 残る謎もある。編集部は掲載前、イチかバチかで記事を検閲に出す。提出先は原爆開発を担ったマンハッタン計画の責任者レズリー・グローヴス中将。ところが、彼はわずかな書き直しを命じただけだった。編集部はなぜあえてグローヴス中将を選び、彼は許可したのか。著者はいくつかの推論を提示している。

 本書と一緒に、ぜひ『ヒロシマ』を読んでほしい。この作品は、どこにでもあるのどかな夏の情景から始まる。登場する母親、医師、聖職者ら6人は、朝食をとり、職場へ向かう。読む人は「彼らは自分かもしれない」と思うだろう。そして次の瞬間、町は地獄絵図と化す。細部に及ぶ取材と計算された構成。世界中で読まれた理由が見えてくる。

 ハーシーは後年、こう語った。「1945年以来、世界を原子爆弾から安全に守ってきたのは広島で起きたことの記憶だった」

 被爆者がこの世を去りつつあるいま、著者はその記憶をよみがえらせる大切な役割を果たしている。

 評・宮地ゆう(本社社会部記者)

     *

 『ヒロシマを暴いた男 米国人ジャーナリスト、国家権力への挑戦』 レスリー・M・M・ブルーム〈著〉 高山祥子訳 集英社 1980

     *

 Lesley M.M. Blume 米国のジャーナリスト、ノンフィクション作家、小説家。米各紙誌に寄稿。

 

 

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