世界を変えた10人の女性科学者  Catherine Whitlock  2021.11.11.

 

2021.11.11. 世界を変えた10人の女性科学者 彼女たちは何を考え、信じ、実行したか

Ten Women Who Changed Science, and the World        2019

 

 

著者 

Catherine Whitlock ロンドン大バークベックカレッジでサイエンスコミュニケーションの学位取得。免疫学で博士号。現在はフリーランスのライター。英国勅許生物学者、英国免疫学会及び英国サイエンスライター協会会員。ケント州にて夫と3人の子供と暮らす

Rhodri Evans インペリアルカレッジ・ロンドンで物理学を学んだ後、カーディフ大で天体物理学の博士号取得。各国の大学で講義。ポピュラーサイエンスの記事も多数執筆。BBCで物理学と天文学関連の番組にも出演

 

訳者

伊藤伸子 翻訳者。北海道大農卒。同大学院理学研究科修士課程修了

大隅典子 東北大副学長。東北大大学院医学系研究科教授。1985年東京医科歯科大歯学部卒。89年同大学院歯学研究科博士課程修了(歯学博士)

 

発行日           2021.8.28. 第1刷発行

発行所           化学同人

 

l  刊行に寄せて 

ケンブリッジ大実験物理学 チャーチル・カレッジ学長 アテヌ・ドナルド

自然科学分野でマリー・キュリーが初めてノーベル賞を受賞した1903年から、かれこれ1世紀が過ぎたが、女性受賞者はわずかに22人。イギリスでは1人のみ。ドロシー・ホジキンが1964年に受賞した時、マスコミは男性と同じような取り上げ方をしただろうか

本書で紹介される、科学の世界に貢献した10人の女性の1人ホジキンに、自分がフェミニストかどうか考える時間はなかったと思う。心の底から興味をそそられた対象である生体分子の構造を研究したい一心で、「つましく暮らし、重要な問題に取り組む」ことだけを望んでいたそうだ。男性社会の中で働く女性として、できるだけたくさんの結果を出そうとひたすら研究に打ち込む。妊娠もたいした問題ではなく、何の妨げにもならず、結婚後も職場では旧姓のクローフットを名乗り、1938年の王立協会の会議では妊娠8カ月で重要な論文を発表。長年の共同研究者のマックス・ベルツは弔辞で「ドロシーは、誰よりも自然な佇まいで講演した。当時は間違いなく型破りな行為だったが、大それたことをしているという素振りも見せなかった」

本書で取り上げた10人は、出身国はバラバラ、育った文化も背景も異なる。そんな彼女たちの共通点に焦点を当て、それが現在成長の真っただ中にある若い女性たちにどのような意味を持つのか注目したい

トップレベルの科学、特に物理学では今でも女性が少ない。多様性なぞ依然として限られた話。10人はみな鬼籍に入り、今のロールモデルではないが、その隔たりゆえに視野が広がり、理解が深まると筆者らは考えているようだ

10人はみな新たな道を切り拓いた開拓者であり、もっと認められてよい

どの科学者の人生においても、認めるかどうかはさておき、運は重要な役割を果たす

エリオンが力を発揮したのも、父親の勧めで求人を問い合わせる電話を掛けたことが契機だし、呉健雄は自らの発明に運の入り込む余地を認めているが、ノーベル賞には運がなかった

ユネスコと共同で毎年優れた女性科学者にロレアル―ユネスコ女性化学賞を贈るロレアル社のキャッチフレーズ、「世界は科学を必要とし、科学は女性を必要としている」

 

 

はじめに

本書では研究人生に焦点を当てる

亡くなっている女性に絞ったのは、時間的距離があることで彼女たちの成し遂げた実績に集中できるから。彼女たちの生涯は、同時代を生きる人たちにはあまり知られていない

10人は、専門分野も国籍も、性格もまちまちだが、生まれたのは190618年が多い

研究の道に進むきっかけは様々。真っ先に家庭の影響が挙げられる。親の影響は大きく、家族からの支援には物心両面から助けられた

共通する特徴は、幼い頃からのあくなき知識欲、粘り強さ、正確な実験操作、知的なものに対する集中力、信念を曲げない気性、そして洞察力。こうした彼女たちならではの人となりは彼女たちが残した業績に間違いなく寄与

研究を進めていくうえで、特定の研究者との関わりも見逃せない

社会との関わりの中で科学を見る目は重要。このことを深く自覚したのはリーゼ・マイトナーで、自分の研究が原子爆弾の製造に利用されたと知ったリーゼは心を傷める。國を超え既存の壁を越えて研究を続けた彼女たちは、社会の営みの中で進行する科学に注意を払い、科学者は科学の進行を上手に導いているのかと思いを巡らせた

科学は、隔絶された世界での活動ではない。一般の人々を巻き込むことも極めて重要。一般の人々の科学に寄せる関心に気づき、科学の外にいる人たちに熱心に働きかけた女性科学者もいる。レイチェル・カーソンは、「科学とは、日々繰り広げられる実際の生活の一部であり、科学とは私たちの経験するあらゆることが、いったい何であり、どのようにしてそうなるのか、なぜそうなるのかを追求すること」だという

本書では10人の女性の科学における経験と、彼女たちが世界にもたらした変化を前面に押し出した。決断を下すにせよ、指揮を執るにせよ、関心を絞るにせよ、女性科学者が科学において何をなしうるか、本書がそれを思い起こす手がかりになればと願う

 

 

第1章     ヴァージニア・アプガーVirginia Apgar  

(小児科・麻酔科医師・医学者。19091974

「正しいことを、迷わずやる」人物と周りから評された。現代医学の道に進んだ女性の草分け。アメリカで医師になった1933年当時、女性医師の割合は5%。産科麻酔という新分野の発展に尽力。新生児の健康に向け関心は、新生児の健康状態を判断する5項目からなる簡便な評価の指数化によるアプガーテストの開発に繋がり、乳幼児死亡率を低下

ニュージャージーの生まれ。父親は保険外交員で、科学と発明に熱中。マサチュセッツのマウント・ホリヨーク・カレッジ(米最古の女子大)で動物学と化学を専攻。コロンビア大医学部に進学。69人中女子は3人。4番で卒業

麻酔医となり、麻酔分娩学という新分野を拓く

新生児のバイタルサインの検査という考え方がなかったため、出生から1分と5分後の2回、5項目のバイタルサインを確認し、指数化して、それぞれに対応する処置を施す

彼女の頭文字をとってAppearance外観(皮膚の色)Pulse心拍数(100以上)Grimaceしかめっ面(刺激に対する反射、体が動く)Activity活動性(筋緊張)Respiration呼吸(泣く)5項目で各2点、計10点満点で、7点以上なら正常

アプガーテストは1953年の学会で発表され、すぐに定着。63年アプガーテストと命名

次いで、先天性異常を持って生まれてくる新生児の多くが出生時のアプガー評価が低いことに気づき、緊急の処置やその後の長期的治療の改良に取り組む

母体・胎児医療を扱う周産期学という新分野にも手を広げ、薬剤やウィルス感染が胎児に及ぼす影響についても研究、早産の防止にも注力

1938年ポリオのための全米小児麻痺財団設立の際は全面的に協力、後に「マーチ・オブ・ダイムズ」の名で知られるようになる財団の資金集めに奔走

生涯独身で、母親を看取ってから僅か5年後、長いこと患っていた肝硬変で死去

1946年、麻酔学が医療分野として認知され、50年教授就任は、麻酔学初の教授であり、同時にマウント・ホリヨーク初の女性教授の誕生

1995年、全米女性の殿堂(1969年設立)入り

切手収集が趣味だったが、1994年には没後20年で葉書用の20セントの切手の肖像となる。女性医師で3人目

 

第2章     レイチェル・カーソンRachel Carson (生物学者・作家。19071964

ピッツバーグ近郊の生まれ。結婚で教師を諦めたが学ぶことの好きだった母と、父親が買った65エーカーの広大な田園で自然にいそしんで育つ

12歳で4編の小説を書き、10ドルの報酬を得て、作家になる運命が決まる

大学は地元のペンシルベニア女子大。英文学を専攻して創作法を学び、学生新聞などに投稿。次いで生物学専攻となり、物理と有機化学も受講。優等賞を取って卒業し、女性では珍しかったジョンズ・ホプキンズ大大学院の奨学金を獲得、動物学を専攻

ウッズホール海洋生物研究所で6週間研究に没頭した日々は、代表作『われらをめぐる海』に繋がる。爬虫類の終神経という変わった脳神経の研究が修士論文のテーマ

『ボルチモア・サン』に初の署名記事が載るが、男女差別があからさまだった時代を色濃く反映して名前はイニシャルだった

1935年、公務員試験を受け、メリーランド州漁業局の常勤の生物学者とな、以後17年の公務員生活が始まる。産業と汚染が環境に及ぼす破壊的な影響への関心が芽生える

1940年、第1作となる『潮風の下で』の出版が決まる。読む人が海の生物そのものになれるように書く方針に変え、20世紀屈指のネイチャーライターのデビューを飾る1冊は、環境と、それぞれの生き物が海の生活で果たす役割を称える内容となる

太平洋戦争開戦で2000部どまりの売上となったが、現在でも再版を重ねている

『リーダーズ・ダイジェスト』にも寄稿開始。話題も広がり、市場に出たばかりのジクロロジフェニルトリクロロエタンDDTも記事にする。デュポン社が開発、戦場で虱駆除などに有効とされたが、長期使用に関する科学的な裏付けはなく、強力なだけに環境に及ぼす影響を懸念、以後10年に渡り情報を集める

1951年、2冊目の『われらをめぐる海』刊行。海の成り立ち、動植物の生息、風や雨、潮汐が及ぼす影響を説明。全米図書賞ノンフィクション部門に選定、86週にわたって『ニューヨーク・タイムズ』紙のベストセラー・リストを飾る

著者が注目されるようになると性差別と向き合わなければならなくなり、私生活も度を越して侵害されるようになる

2冊目の刊行が成功したところで辞職するとともに、『ワシントン・ポスト』紙に共和党政権に対する抗議の投稿、「今世紀では類を見ないやり方で自然資源が襲われつつある。苦労してやっと手に入れたものが破壊されている。政治以外に目を向けない政権によって、開発と破壊の限りを尽くした暗黒時代に戻されている」

1955年、第3作『海辺』出版。北米大西洋岸の海辺に住む生物を解説する入門書。海を巡る3部作が完成し、「(海の)伝記作家」としての地位を確立

1950年代後半、DDTに戻る。人間の創り出した合成殺虫剤の第1号で昆虫が媒介する伝染病や作物に及ぼす害を防ぐ新しい方法として普及していたが、科学の目が入っていないことに疑問を覚え、ドミノ倒しの影響を懸念

徐々に他の昆虫や野鳥に対する被害が明らかとなり訴訟が起こったが、57年にはロングアイランドで散布中止が却下され、控訴も棄却

DDTは退社されにくいため人体への影響も懸念され、食物連鎖に及ぼす影響も現れ始める

50年代に頻繁に行われた核実験による放射能の影響も出始め、環境破壊への関心が高まる

自身のいくつもの病気と闘いながら、最後には乳がんの転移まで発覚、急速に体力が衰退

1962年、4作目で最後となる『沈黙の春』が『ニューヨーカー』に3回に分けて連載。化学殺虫剤の使用と、その強力で持続的な影響が野生生物や環境に及ぼす様子を6年にわたって調査した集大成

誹謗中傷も含め化学業界を中心とした関連業界からの相当な反発も招いたが、サリドマイドが追い風となり、ケネディ大統領も就任後18カ月で『沈黙の春』を公に認め、毒性調査に着手。翌年には調査結果が発表されレイチェルの主張に大筋で沿ったものだった

1964年、レイチェル死去。生涯未婚で、早世した姪の息子を養子としていた

1970年、「環境や生物圏に対する損害を防止、除去する努力、および人間の健康と幸福を促す努力」を掲げる国家環境政策法が発行、同年環境保護庁EPA設置。72DDT禁止

『沈黙の春』は20か国語に翻訳され世界中で読み継がれているが、世界は今なお殺虫剤の影響に晒されている

レイチェルが勧めているのは自然に抗うことなく、自然と一緒に営んでいく方法で、現在では生物学的防除法が広く普及

 

第3章     マリー・キュリーMarie Curie (物理学者・化学者。18671934

ロシア占領下のワルシャワで、高等教育を受けた両親のもとに生まれる

ワルシャワの大学は女子を認めなかったので、ソルボンヌに入り、鋼の磁性の研究を通じてピエールと知り合い結婚、子供も授かる

1895年、X線の発見が物理学を興奮の坩堝に陥れ、新たに発見されたベクレル線(ウラン線)がマリーの博士論文のテーマとなる

ビスマスと同種の分析特性を持つ新たな放射能の高い物質の存在を予測、マリーの祖国ポーランドに因んでポロニウムと名付ける

元素の分離を進め、1898年ウランの900倍の強度のある新たなスペクトル線(元素の指紋)を発見。新元素ラジウムとなる。同時に放射性物質のもたらす弊害に気づき始める

1903年、ラジウムの単離に成功、博士号授与、ベクレルと共に夫妻でノーベル物理学賞も受賞。受賞理由は「ベクレルの発見した放射現象に関する共同研究」であり、ラジウムの発見には触れず、将来の化学賞の可能性を残した。初の女性受賞であり、娘のイレーヌが35年に受賞するまでは科学分野で唯一の女性受賞者

ラジウムの単離が進み、綺麗に光る物質が万能薬扱いされるようになるが、誰も害に気づいていなかった。マリーは素手で扱っていたために骨の劣化が進むが、閉鎖空間で放射物を吸い込んだ実験動物が死ぬのを見て、「呼吸器系に取り込まれたラジウム放射物による毒性作用の実際を確かめた」と論文を書きながら、自らの健康状態の悪化と扱っている放射性物質とを誰も結び付けなかった

1906年、ピエールが不自由な体を馬車に轢かれて死亡。マリーはさらに研究に没頭。ソルボンヌから女性初の教授になり、11年にはフランス科学アカデミー初の女性会員に推薦されたが落選。夫の元生徒との不倫発覚で大スキャンダルに

1911年、「ラジウムの単離によるラジウムとポロニウムの発見及びラジウムの性質とラジウム化合物の研究」に対してノーベル化学賞授与。受賞式直後入院、重い腎臓病に罹患

1914年、仏政府がマリーの研究に特化したラジウム研究所(後のキュリー研究所)を開設、第1次大戦開戦と共に、仏政府はキュリー夫人の所有するラジウムを国家資産と指定、すべてのラジウムを鉛のケースに入れてボルドーの大学の金庫に格納

開戦と共に祖国ポーランドを救う方法も探り、資金的な援助のほかにも、前線に負傷兵士用のX線装置搭載の車を手配、女性放射線技師の養成学校まで開設

戦後は国際連盟の知的協力委員会に12年所属

1921年訪米、アインシュタインと同様熱狂的な歓迎を受け、ハーディング大統領からは1gのラジウムが贈られた

ラジウム研究所は、マリーが所長となって放射性元素に関する物理学と化学を研究する部門と、パスツール研究所が主体となって医学への王湯研究を行う部門があり、何れも男女同等のパートナーとして一緒に研究する稀な存在。39年マルグリット・ペレーが新元素フランシウムを発見、後に科学アカデミー初の女性会員に選出されるが、それはマリーが却下されてから51年後のこと

1925年、アメリカの工場でラジウムの健康被害が訴訟沙汰となり、放射線に原因があると断定され、28年までに同工場で15人が被爆により死亡

マリーは自分の症状を隠し続けるが1934年力尽きる。パンテオンに埋葬された初の女性

 

第4章     ガートルード・エリオンGertrude Elion (生化学者・薬理学者。19181999

製薬産業における科学者の草分けで、博士号を取得していない初のノーベル賞受賞者

ニューヨーク生まれ。父は代々続くラビの家系に生まれ、迫害を受け12歳でリトアニアから移住、歯科医として成功。母もポーランドからの移民

キュリー夫人とパスツールに憧れ、『微生物の狩人』を愛読書とし、祖父が癌で亡くなると、化学の道を志すようになる。授業料を無償化したニューヨーク市立大学のハンター校に通い、19で化学の学士号取得。科学分野の女性には看護師か教師しか進路のなかった時代に、癌の治療薬発見のための研究の道に進む。アルバイトをしながらニューヨーク大学の化学の修士課程に進み、修士号取得後、第2次大戦開戦による人手不足のお陰で食品化学者としてA&Pの子会社の研究室に入る

1944年、製薬会社バローズ・ウェルカム(後のグラクソ・スミスクライン)に就職。英国本社で、新薬の研究開発のため科学者を雇った最初の製薬会社

以後40年の研究人生を終わる頃には特許45、論文200報以上、名誉学位23を受ける

後にノーベル賞を一緒に受賞したボスのジョージ・ヒッチングスは、現在広く一般的に用いられている合理的薬物設計の考案者で、化合物の特性から治療薬を検出する

1950年代の急性リンパ性白血病治療薬6-メルカプトプリン、世界初の抗ウィルス剤アシクロビル、エイズの治療薬AZT、イムラン®は臓器移植に欠かせない薬

1988年のノーベル賞は、「薬物療法における重要な原理の発見」に対して与えられた

バローズ・ウェルカムは1985年グラクソと合併、翌年株式を公開。バローズの唯一の株主だったウェルカム・トラストは医学研究を支援する世界最大級の助成財団となっている

 

第5章     ドロシー・ホジキンDorothy Hodgkin (化学者・結晶学者。19101994

ペニシリンとビタミン12の構造を明らかにしたことにより、57歳でノーベル賞受賞

X線結晶学の分野の在り方を変え、そのおかげで生物学者はタンパク質の機能する仕組みを理解できるようになり、治療薬の開発にもつながる

父親の駐在先のカイロで生まれ、オックスフォードで化学を学ぶ。優等学位を取得してケンブリッジの研究室へ、さらにオックスフォードに戻ったところで古典の研究者と結婚

1920年代のイギリスにはマリッジ・バーがあって、結婚した女性の雇用を制限する制度をクリアしなければならなかったが、37年常勤の研究職に就く

30年代、医師や弁護士など高度専門職のうち女性は7.5%、既婚女性のうち家の外で仕事をしている人は12%だった

オックスフォードで有給の出産休暇を取った初めての女性。産前、産後の休暇に関する法律がイギリスで整備されるのは1975

1938年には関節リウマチの激痛が走り、X線装置のスイッチの操作が出来なくなる

1946年、王立協会の会員に選出。女性では3人目

1940年代初め、ペニシリンを研究。発酵による大量生産は時間がかかる上に、収率が良くない。純粋は合成品の製造は、構造が解明されるまでは無理。正確な化学式もわからず

1943年、硫黄を含むことが明らかにされ、炭素・水素・窒素・酸素・硫黄と元素のリストが揃う。光の回折を活用、初期仕様のコンピュータも利用。1945年にはドロシーが原子の立体配置を明確に証明したことにより、X線結晶学が生体分子の構造分析に決定的な手法となる ⇒ 1949年『ペニシリンの化学』発表

1945年、漸くオックスフォードで初めて化学結晶学の実験教授者という大学の職員として認められた

1950年代に入る頃、世界で第一線の結晶学者として認められ、研究はビタミン12を中心に進める。人体に必須のビタミンで、健常な赤血球の生成と中枢神経系の機能に重要な役割を果たす。世界初の自動データ処理システムだったホレリス作表機を活用、56年には全体像を明らかにする

50歳になって漸くウォルフソン王立協会研究教授職に就く

60年代初め、インスリンの構造を解明。777個の原子からなることが判明

国際平和への活動も活発で、1970年代国際結晶学連合の会長や英国科学振興協会評議会の会長に加え、アインシュタインとバートランド・ラッセルが世界の指導者に向けて核軍縮の推進と平和的方法による紛争解決を促して発した声明に基づき創設されたバグウォッシュ会議の議長にも1975年に選出

かつて化学を教えたサッチャーとも対ソ政策について話し合い、87年にはソ連からレーニン賞として報われた

フェミニストではないが、男女の平等を重視、みんなを名で呼んだ

大学の学生と職員に関わる福祉の問題も大きな関心事

197088年ブリストル大学でイギリスの大学として王室以外の女性初の名誉総長に就任

1964年、「X線技術を用いた重要な生体物質の構造決定」に対しノーベル化学賞。新聞は「物腰の柔らかな主婦」が「全く主婦らしからぬ才能:科学的な興味を大いにそそる結晶の構造」に対して受賞したと報道。翌年には女王のメリット勲章も受章

 

第6章     ヘンリエッタ・リービットHenrietta Leavitt (天文学者。18681921

写真乾板を利用して星の等級を決定する方法を発見、後に等級決定の標準的方法となる

マサチューセッツ生まれ。父は牧師。女子大最難関のラドクリフ大に進み、4年で天文学を選択したが、授業はハーバード大の天文台で行われた

ベガの等級を0とし、対数によって等級分け。肉眼で見える最も暗い恒星が約6等星、最も明るい恒星がシリウスで-1.46

1924年、「ヘンリードレーパー表」が完成、225,300個の星の位置と明るさとスペクトル分類の情報を集大成したものだが、この表作成を考えたのはハーバードの天文台長のエドワード・ピッカリングで、表作成のための大量の計算をこなすために女性を大量に雇用

大学内とチリの天文台からくる写真乾板から、変光星を探して明るさを測定

189395年、ヘンリエッタはピッカリングの下で数千個の変光星を発見したが、目をひどく患い、02年再開。05年には大小マゼラン雲に大量の新星を発見、単著の論文発表

明るさは距離によっても異なるが、天空の距離の測定は天文学者にとって大きな課題

1771年、金星が太陽面通過する際の視差から三角法によって太陽までの距離を

150,838,824kmと測定(現在でも誤差は1%以内)したが、それ以外の恒星については近い星の数十個を除きお手上げ

一定の周期で明るさが変化するセファイド変光星を基準にして、年周視差を組み合わせて近くのセファイド変光星までの距離を求めれば、天体の距離が測定可能であることを発見

変更周期と見かけの明るさを測定し、あらかじめ距離を算出しておいたセファイド変光星の明るさと比較すれば、遠くのセファイド変光星までの距離を測定できる

1914年、北極系列の96個の星の等級決定作業完了

1919年、エドワード死去、後任がハーロー・シャプレー。間もなくヘンリエッタに悪性の胃癌が見つかり急逝  

ヘンリエッタの周期光度の法則の真価は、1990年打ち上げのハッブル宇宙望遠鏡によっても裏付けられる

1926年のノーベル賞に推されたが、5年前に亡くなっていた

生前ほとんど正当な評価を受けなかったが、続く天文学者は彼女を「星の達人」と呼び、月のクレーターの名前リービットも、小惑星5383の名前リービットも、彼女に敬意を表して付けられた

 

第7章     リータ・レーヴィ=モンタルチーニRita Levi-Montalcini(神経学者。19092012

神経成長因子NGFを単離し、同定してから性質を明らかにした。その発見を機に、神経系の成長、発生の解明が進み、様々な成長因子の研究が後に続く。発生学の分野も根本から変わり、1個の細胞から複雑な器官が発生し成長する仕組みを、化学物質を介した一連のコミュニケーションによって説明できるようになったし、疼痛管理やアルツハイマー、癌の理解も深まる

トリノ生まれ。父は成功した電気技師。第2の母と慕った女性が癌で死んだのを見て医師を志す。神経細胞を取り囲む結合組織に関する研究が博士論文のテーマ

1938年、第2次大戦が迫る中で「人権憲章」が制定され、ユダヤ人が失職、リータも巻き込まれ、自宅を研究室に改造して神経系の分析を継続

終戦後、戦時中の論文がセントルイスのワシントン大学教授の目にとまり招聘され、以後30年近くを過ごすことに

神経細胞の複雑なネットワークが抹消組織を支配する仕組み、つまり脊髄から四肢までの神経の成長の詳細に興味を持ち、四肢に含まれる因子は新生神経細胞の生存を促していることを発見

1958年教授に

1986年、「成長因子の発見」でノーベル生理学・医学賞受賞

イタリアのローマ教皇庁科学アカデミーの女性初の会員

女性の直面する困難に思いを致し、慈善事業にも傾注

 

第8章     リーゼ・マイトナー Lise Meitner(物理学者。18781968

アインシュタインに、ドイツのマリー・キュリーと言わしめたウィーン生まれの核科学者

ウランの原子核が2つに分かれ、その分裂が膨大な量のエネルギーを放出する現象であることを亡命中に見抜き、核物理学を根本から変え、原子爆弾の開発へと繋がる。「原子爆弾の母」と呼ばれたが、原爆製造に手を貸した事実はない

1944年、リーズの発見に対しノーベル化学賞が与えられたが、共同研究者のオットー・ハーンだけが受賞者で、リーゼは何も関与していないものとされた

父はウィーンで最初に弁護士になったユダヤ人の1人、反ユダヤ主義に対抗して社会的・政治的に行動を起こした人。母はピアニスト

ウィーンでは女子教育は制約され、リーゼも14歳で学校生活は終わる

1901年、女子に対する規制緩和により、22歳で高校受験の資格を得、年末にはウィーン大学に入学、物理学を学び、固体の熱伝導に関する論文で06年博士号取得

マリ-・キュリーにも就職の手紙を書くが席がないと断られ教師になる

放射線に興味を持ち、ベクレルとキュリー夫妻による自然放射能の発見から、3つの放射線のうちアルファ粒子の性質を調べる実験から、いろいろな元素を繰り返し衝突させて、原子量の大きな元素ほど大きく拡散することを示し、数年後のアーネスト・ラザフォードによる原子核の発見へと繋げる

1907年、科学の世界の中心だったドイツに留学。特別の許可をもらってマックス・プランクの授業を聞くが、そこで放射性元素の化学を研究するオットー・ハーンに出会い共同研究を始める。ベータ線を取り上げ、ベータ崩壊で放出される粒子、即ち電子のエネルギーの大きさについて、多くの論文を発表したが、リーゼは無給、父の仕送りで生活

1912年、ベルリンにカイザー・ヴィルヘルム化学研究所が設立され、2人は職を得て、プロイセン初の女性研究助手となる

1次大戦では、X線技師として志願

1918年、2つの放射性元素を結ぶ新たな元素プロトアクチニウム(原子番号91)を発見

1922年、ヨーロッパの多くの国で教授職に就くために課された資格を取得

192134年、核物理学という新分野を開拓し、56報の論文を発表。ドイツでも第一線級の核科学者に。研究室を放射性元素による汚染から守ったことで、放射能の影響は免れた

放射能の発見により、原子は変化すること、その変化の過程で放射性原子はエネルギーを放出することが明らかにされた。1898年の放射能とラジウムの発見は現代物理学の扉を開く

カイザー研究所の所長に昇格したが、1938年のヒトラーによるオーストリア併合で所長を追われ、スウェーデンに亡命。その後もオットーと連絡を取り合いながら研究を続行

1939年、核分裂を発見するが、オットー・ハーンがナチス体制下で、リーゼの名前を外し、化学的な反応のみに着目した内容で論文を発表。リーゼと甥のオットー・フレッシュも「核分裂」という新しい言葉を提唱する論文を提出

1942年、イギルスの科学者グループからロスアラモスのマンハッタン計画に誘われたが辞退

戦後、リーゼの関心は核エネルギーの放出のコントロールに向く。核反応の研究を続け、スウェーデン初の原子炉の開発に大きく貢献

3338年ドイツに居続けた自分の道義的な落ち度を自覚しつつも、オットー・ハーンを厳しく批判

核分裂発見の数週間後、オットー・ハーンはノーベル化学賞に単独で推薦、彼は論文の中で物理学と化学の果たした役割をきっちり分けていた。後日公開された資料では、当時の組織は学際的な研究を適切に評価するような構造ではなく、1944年のノーベル化学賞受賞からリーゼが除外された背景には、異なる専門分野に対する偏見、政治的な力、理解不足、早急な決定などが絡み合っていたことが裏付けられる

1946年アメリカを訪問。「原子爆弾を財布に入れてドイツを後にした」人物として、脚光を浴び、翌年以降いくつもの受賞を受け、66年原子力委員会のエンリコ・フェルミ賞を非アメリカ人として初めて受賞。核分裂に対するリーゼの研究が遂に認められる

1982年に発見された超重元素の1つ、周期表の109番の元素には、リーゼに因んでマイトネリウムMtと名前が付けられた

 

第9章     エルシー・ウィドウソンElsie Widdowson (化学者・栄養学者。19062000

イギリスの栄養学の第一人者。栄養の科学の先駆け。第2次大戦中は配給食を開発、現在でも最も健康的な食事とされている。「現代のパンの生みの親」と呼ばれ、『食品の無機質含量表』は栄養学の分野で今なお大きな影響を与える

食べ物の化学組成と健康状態を結びつけ、妊娠中の母親と新生児の食事が子どものその後の健康に長期にわたって影響を及ぼすことを指摘。近年、「健康と病気の発生学的起源」という新しい説を提唱、医師の関心が集まる

ロンドン郊外の生まれ。1928年化学の学士号を取得し、食と栄養の世界に職を得る

リンゴの糖を単離し測定することで博士号取得した後、研究対象を動物と人間に移す

塩類の欠乏が体に及ぼす影響を調査。塩化物とは電解質であり、血液や体液に乗って電荷を運ぶ無機物である。負の電荷を持ち、カリウム、ナトリウムといった電解質と作用して、体の水分量や血液の酸度pH、筋肉の働きを始めとする重要な機能を調節する

人体が無機物を吸収、排泄する仕組みに焦点を当てた実験では自らを実験台にしている

研究が認められてケンブリッジ大医学部から上級講師の声が掛かり、医学研究審議会の助成もつく

男性・女性・子供それぞれにエネルギーの必要量と栄養摂取量に着目、36年に成果を発表

それを基に、第2次大戦勃発とともに配給食に関する実験開始

開戦時、イギリスの食料自給率は1/3未満だったため、ドイツは連合国の商船を攻撃。健康を保つために必要な最低限の栄養成分とその量を調べ、自らを実験台に健康状態をチェック

戦後は、ヨーロッパの一部で栄養失調に起因する問題が出始め、ビタミンBと鉄と炭酸カルシウムが添加されたエルシーの栄養強化パンに関心が寄せられる

49年からは体組成の研究へ。各成長段階での体脂肪などの体組成を調査。脳や骨格や筋肉の発達には十分な栄養が欠かせないことを明らかにする

早期栄養計画プロジェクトは、食事にまつわるどのような要因が長期の肥満リスクを増加させるのか、いくつもの方向から切り込んで解決を目指す大掛かりな研究

 

第10章 呉健雄Chien-Shiung Wu (物理学者。19121997

江蘇省出身、アメリカに移住。1956年パリティの法則の誤りを明らかにして、翌年ノーベル賞が与えられたが、受賞したのは予測した理論物理学者2人だけ

蘇州の師範学校の教員養成コースの難関を突破。南京の大学では数学に集中

1936年、米国に渡りUCバークレーで物理を学ぶ。後に反陽子の発見でノーベル賞を受賞するエミリオ・セグレの指導を受け、様々な元素の放射性崩壊を実証。40年博士号

CALTecにいた袁世凱の孫と結婚。スミスカレッジの教職に就く

1944年、マンハッタン計画の一端を担っていたコロンビアの面接を受け合格、公には「冶金研究所」という名の部署で働き、核分裂性のウラン235を増やす濃縮方法「ガス拡散法」の開発に携わり、高純度ウラン235の取り出しに成功。原子爆弾製造の鍵を握る部分で、健雄が貢献したコロンビアでの濃縮方法の確立なしでは、原子爆弾の開発も配備も出来なかった

戦後は、研究教授として研究に専念できる立場となり、ベータ崩壊の解明に取り組む

フェルミが核分裂連鎖反応の持続を初めて成功させたが、1933年にベータ崩壊に関する理論も導いていたので、その正当性を実証するための実験が必要だった

放射線や荷電粒子を様々なエネルギー範囲に分解して測定する分光器を使って、光なら振動数(または波長)ごとに、中性子なら運動エネルギー(=速度)ごとにわかるが、健雄は中性子分光器の精度を高め、放射性のカドミウム、イリジウム、銀の放出する中性子を測定し性質を明らかにする

自然界に存在する4種類の力のうちの核力の到達距離の測定を検討――4種類の力のうち最初に発見されたのは重力。1600年代後半にニュートンが万有引力の法則を導き出す。1800年代半ばにはジェームズ・クラーク・マクスウェルが電磁気力を説明。その後放射能や原子核の発見により、強い核力と弱い核力が加わる。弱い核力は放射性崩壊を引き起こし、強い核力は原子核を1つにまとめる。原子核は2種類の粒子、正の電荷をもつ陽子と電荷を持たない中性子でできている。原子核の中では強い核力が作用してすべての粒子が引きあっているので崩壊しないが、強い核力の到達距離は陽子の直径の数倍と極端に短い

健雄はこの距離を正確に3フェルミと計測。ベータ崩壊に関するフェルミの理論の証明にも成功、ノーベル賞ものと言われていたが、授賞対象が発見のみとされ、賞自体の政治的利用もあって健雄の成果が対象となることはなかった

共産党政権が出来た中国から国立中央大学のポストを提示されたが辞退、54年にはアメリカ国籍を取得、コロンビア大の准教授になって終身在職権を確保、コロンビア大で終身在職権を与えられた最初の女性科学者となり、58年教授に

偏光と並ぶ物理学の重要な概念としてパリティがあり、鏡で見られる現実の反転をパリティ変換(パリティ反転)といい、電磁気力が関与するすべての相互作用はパリティ対称性が保存される(鏡で見ても反転せずに全く同じに見える)とされていたが、健雄は対称性に破れがあることを実証。今度こそノーベル賞だったが、対象は理論研究の方で他の中国人2人に与えられた

もう1つの重要な業績が弱い核力に関する研究。自然界に存在する4種類の力は全て粒子の交換によって説明されることを証明

引退するまで生物物理学の実験にも注力し、赤血球に含まれるたんぱく質であるヘモグロビンを研究。赤血球で酸素を運ぶ鉄の電気的性質に着目、正常な赤血球でも病的な赤血球でも鉄に違いはないが、正常な赤血球は酸素との親和性が高いことを実証

 

訳者あとがき
用語解説
もっと読みたい人のために

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出版社HP

化学者,物理学者,生物学者,天文学者,医学者と,分野は違えど,現代科学の一端を支える業績を残した女性科学者たち10人を紹介する.女性だからという理由で待ち受けていた困難も少なくなかったが,粘り強く研究を続け,まったく新しい薬をつくったり,宇宙の秘密を明らかにした。10人にはキュリー夫人のようにノーベル賞受賞者もいるが,大半は賞とは無縁の人たち.女性の貢献が気にとめられなかった時代に生きて,困難をものともせず,世界をより良い場所に変えてきた彼女たちが生きた時代と生きざまを見よう。進路に悩む中学生・高校生から一般までお薦め.

 

 

「世界を変えた10人の女性科学者」書評 逆境をはねのけた才能と探究心

評者: 須藤靖 新聞掲載:20211023

「世界を変えた10人の女性科学者」 [著]キャサリン・ホイットロック、ロードリ・エバンス

 女性には男性と対等な権利を与えない。しかもそれが差別だとは認識されない時代が長く続いてきた。これは、倫理的な公平性の観点のみならず、功利的に考えたとしても、社会全体にとって大きな損失だ。
 本書では、科学の歴史に残る偉大な貢献をした10人の女性が紹介される。
 農薬の危険性を訴えた『沈黙の春』の著者レイチェル・カーソンと、放射性元素の研究でノーベル賞を2度受賞したマリー・キュリーはよく知られている。
 逆に、周期的に明るさが変化する変光星の研究によって天文学の基礎を確立したヘンリエッタ・リービットは、存命中ほとんど正当に評価されなかった。
 核分裂を発見したリーゼ・マイトナーと、空間反転に対して物理法則が必ずしも不変ではないことを実験的に証明した呉健雄(ウー・チェンシュー)の2人がノーベル賞を逃したことは、選考委員会の責任だとすら言ってよかろう。
 この10人に共通しているのは壮絶な体験の数々だ。高等教育を受ける機会の制限、経済的困窮、ユダヤ人への迫害や追放、実験室への立ち入り禁止、女性研究者に対する偏見や攻撃、不当な業績評価等々。女性蔑視・差別がむしろ当然とされた時代において、彼女らは並外れた才能と不屈の精神力・不断の努力によって科学に革命をもたらした。
 ユダヤ人のリータ・レーヴィ=モンタルチーニは、トリノ大学の研究職から追放されても、自宅の寝室の隠し部屋で実験を続けた。その後、フィレンツェへ逃れ偽名でカトリック教徒として怯えながら暮らした時期もあった。自宅での実験結果が認められ1946年にアメリカに招聘された彼女は、86年にノーベル医学生理学賞を受賞した。
 逆境をものともせず、未知の領域に対する純粋で前向きな探究心を持ち続けた彼女らには畏敬(いけい)の念を禁じえない。決して科学だけにとどまらず、世界を変革する女性を受け入れられる社会こそが求められている。
    
Catherine Whitloch
 ライター。免疫学で博士号Rhodri Evans 大学講師。天体物理学で博士号。

須藤靖(すとうやすし)東京大学教授(宇宙物理学)

1958年高知県安芸市生まれ。著書に『人生一般二相対論』『この空のかなた』『情けは宇宙のためならず』『不自然な宇宙』など。20204月から書評委員。

 

 

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